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長谷見昌弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長谷見 昌弘
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 同・東京都青梅市
生年月日 (1945-11-13) 1945年11月13日(79歳)
F1での経歴
活動時期 1976
所属チーム '76 コジマ
出走回数 1
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1976年F1世界選手権イン・ジャパン
最終戦 1976年F1世界選手権イン・ジャパン
テンプレートを表示
1989年の全日本ツーリングカー選手権チャンピオンマシン。

長谷見 昌弘(はせみ まさひろ、: Masahiro Hasemi 1945年11月13日 - )は、日本の元レーシングドライバーで、現・有限会社ハセミモータースポーツ代表。東京都青梅市出身。東京都立八王子工業高等学校卒業。

経歴

[編集]

15歳のときに全日本モトクロスレースへ参戦しレースデビューする。黒澤元治とともに城北ライダースにも加入した[1]

1964年四輪レーシングドライバーとなり日産大森ワークスに所属、デビュー戦を勝利で飾る。その後は日産を離れフリー(タキ・レーシング所属)になった事もあるが、後に日産・追浜ワークスに復帰しており、基本的には日産系ドライバーと見なされている。1970年代から1990年代にかけて、長く日本のトップドライバーとして活躍を続けた。

1976年のF1世界選手権・イン・ジャパンコジマからスポット参戦。予選1回目で4位となり、F1にレギュラー出場している海外トップチームを驚愕させた。2回目セッションでポールポジションを狙って乾坤一擲のアタックを試みるが、惜しくも最終コーナーでコースアウト、クラッシュを喫してしまう。原因はサスペンショントラブルだった。マシンはほぼ全損といっていい状況であったが、コジマのスタッフだけではなく他チームの関係者もボランティアでマシン修復を手伝い、決勝レースまでには走れる状態にまで再生された。しかし急ごしらえのマシンだけに細部のセッティングなどは事故前のコンディションに程遠く、10番グリッドからスタートしたレースでは25周目にファステストラップ(のち取消。後述)を記録し完走を果たすも、7周遅れの11位にとどまった。

1977年にはマカオグランプリに参戦を開始。1980年には当時日本人史上最高位となる2位表彰台を、1982年にはポールポジションを獲得するなど活躍。

1980年に国内レース史上初の4冠を達成[2]。1992年のデイトナ24時間レースにおいて、林義正水野和敏が率いる日産ワークスで、星野一義鈴木利男と共に日本人ドライバーによる日本車初優勝を成し遂げる。

サーキット以外では、エビスサーキットで15年ほど日産のラリー車両開発に関わった他、ダカール・ラリーラリー・モンゴリアにも参戦した[3]。ダカールは1997-1998年に日産車をドライブし、'97年は総合27位完走、'98年はリタイアに終わった[4]

長谷見のレーシングヘルメット(1992年仕様)

2000年5月23日、同年での全日本GT選手権ドライバーからの引退を表明[5]。その後はハセミモータースポーツの代表・監督として全日本GT選手権SUPER GTでチーム指揮を執った。

チームは2010年にSUPER GTのGT300クラスチャンピオンを獲得したが、2011年にハセミモータースポーツとしてのSUPER GT参戦を休止すると発表[6]。同年4月30日、NISMOが結成したNDDP RACINGの監督として、全日本F3選手権ナショナルクラスに参戦することになった[7]

2012年にはF3選手権の他SUPER GTのGT300クラスに同チームからFIA-GT3仕様のGT-Rで参戦。2018年はNDDP Racing with B-MAXがGT500クラスに昇格、引き続き長谷見を監督として起用することになった[8]。長谷見個人としては9年ぶりのGT500クラス復帰となった。2018年のシーズン終了後にNDDPの監督を退任、その後はNISMOの名誉顧問を務めている[9]

4輪レース引退後も、プライベートで2輪エンデューロやラリーへの参戦を続けている。1993年開催のレイドカムロでは、750人の参加者中60人しか完走できなかった厳しい条件の本格的2輪エンデューロレースで優勝を果たし、関係者の間で話題になった。

2023年3月2日、日本プロスポーツ大賞スポーツ功労者顕彰を受賞した[10]

スカイラインとの関わり

[編集]

長谷見は、幻のマシンとなった日産・R383の開発要員としてタキ・レーシングから日産へ戻ったが、公害対策などの社会的要因で開発が中止されるとスカイラインGT-R(KPGC10型)によるレース活動に注力。数々のレースで活躍した。

日産がワークス活動を停止した時期も、プライベーターのハセミモータースポーツとして活動を続けていたが、「レースで走るスカイラインが見たい」との思いをプリンス自販(当時)の社員から聞いた長谷見は、プリンス自販の社員に一枚1000円程度の「日産プリンス・ディーラーズ・クラブ(NISSAN・PDC)」のステッカーを購入してもらうことでレース活動の資金を得て、追浜の研究所から当時PA10型バイオレットグループ5仕様車に搭載されていたLZ20B型エンジンをレンタルし、シャシー設計は東京R&Dに依頼してスカイラインのグループ5仕様を作る計画を立てたところ、追浜研究所の予想以上の支援が得られた結果、日産ワークスとして活動することになる。

ただし紆余曲折を経て、結局国内用のマシンは追浜ではなく大森ワークスが管轄することになり、同時に車両製作はノバエンジニアリング、デザインは由良拓也が行う形に体制も変更された。このとき「スカイラインだけじゃだめだ」との本社の意向で、同時にシルビア(S110型)、ブルーバード(910型)のグループ5仕様車も製作することが決まり、ここに「日産スーパーシルエット軍団」が形成された。ところがスカイラインは実戦投入が一番遅くなり、1982年5月に筑波サーキットでのレースでデビューしたものの初戦はリタイアに終わり、次戦の富士スピードウェイでのレースで初優勝を飾った。

この時の模様が長谷見は印象深かったようで、「スカイラインが最終コーナーを立ち上がると、お客さんが総立ちになっているんですよ。あれを見たら、ああスカイラインで走ってよかったなぁって思いましたね。」と語っている。以降もスカイラインがレース活動をする際は必ずステアリングを握ってきたことから、「スカイライン=長谷見昌弘」とイメージするファンも少なくない。

一方で追浜と東京R&Dでは海外遠征用のマシンを仕立てることになり、こちらはグループ5を経てグループCのマシンである日産・スカイラインターボCとなって結実した。これは後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)における日産ワークスの系譜の端緒を飾るマシンである。

ちなみに、長谷見が一番好きなスカイラインは「ハコスカのGT-R(KPGC10型)のレース仕様車」とのことで、「弱オーバーで乗りやすくて楽しいクルマでしたよ」と語る。

トミカ

[編集]
長谷見が乗車したスカイラインスーパーシルエット

玩具メーカーのタカラトミーは長年にわたる長谷見のスポンサーであり、彼の乗るマシンには同社が販売するミニカーブランド「トミカ」のロゴが必ずというほど貼られていた。「長谷見とトミカ」は、「星野一義とカルソニック」「中嶋悟EPSONPIAA」と同じく、長年のパートナーとして広く認識されている。2009年の自身のチームのマシンのカラーリングがかつてのフォーミュラシリーズを彷彿とさせるものとなったことも、長年スポンサーを務めてくれたトミカへの感謝の気持ちからであった。

元々はモータースポーツ好きのトミー社員が長谷見の走りに魅せられたことが始まりで、トミー側から持ちかけられたスポンサードであった。長谷見の現役引退後もハセミモータースポーツの主要スポンサーの1社として名を連ね、チームの活動休止までマシンにはロゴが貼られていた。また、これまで長谷見が乗ったマシンやハセミモータースポーツのマシンのほとんどをトミカで製品化しているのも大きな特徴である[11]

F1のファステストラップ

[編集]

1976年のF1世界選手権・イン・ジャパンで長谷見は25周目にファステストラップ1分18秒23を記録したと発表されたが、数日後に計測ミスであることが判明した[12]。ウェットコンディションの中、長谷見は24周目終わりにピットインし、別のウェットタイヤに交換して25周目に向かっており、ピットインのロスタイムを含めて1分18秒台で走行できる状況ではなかった。国内メディア関係者へは訂正のリリースが配布され、ファステストラップはジャック・ラフィットが70周目にドライタイヤで記録した1分19秒97であるとされた。F1の公式記録を管理するFormula One Administration Ltdのサイトでは、長らく長谷見の1分18秒230であるとしていたが、1980年代終盤にラフィットへと変更されている[13]

レース戦績

[編集]

全日本F2000選手権/全日本F2選手権/全日本F3000選手権

[編集]
所属チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1974年 コジマエンジニアリング SUZ SUZ
1
SUZ
3
SUZ
9
2位 20
1975年 酒井レーシングチーム FSW
1
SUZ
1
FSW SUZ
Ret
3位 45
コジマエンジニアリング SUZ
5
1976年 FSW
5
SUZ FSW
2
SUZ
2
SUZ
4
2位 52
1977年 SUZ SUZ NIS SUZ
1
FSW
3
4位 46
プライベートハセミ FSW
9
SUZ
4
SUZ
9
1978年 トミカレーシング SUZ
2
FSW
3
SUZ
4
SUZ
Ret
SUZ
3
NIS
1
SUZ
4
2位 72(82)
1979年 SUZ
3
NIS
4
SUZ
7
FSW
6
SUZ
1
SUZ
9
SUZ
Ret
5位 55(58)
1980年 SUZ
2
NIS
1
SUZ
2
SUZ
1
C SUZ
5
SUZ
3
1位 71(79)
1981年 SUZ
7
SUZ
Ret
SUZ
7
SUZ
4
SUZ
7
9位 22
1984年 スピードスターレーシング SUZ
12
FSW
5
NIS
5
SUZ
15
SUZ
3
FSW
12
SUZ
5
SUZ
8
6位 39
1985年 SUZ
8
FSW
Ret
NIS
4
SUZ
2
SUZ
7
FSW
8
SUZ
11
SUZ
9
8位 37
1986年 SUZ
7
FSW
7
NIS
5
SUZ
11
SUZ
7
FSW
7
SUZ
7
SUZ
9
9位 28 (30)
1987年 SUZ
Ret
FSW
4
NIS
6
SUZ
12
SUZ
12
SUG
4
FSW
3
SUZ
Ret
SUZ
Ret
7位 38
1988年 SUZ
Ret
FSW
Ret
NIS
8
SUZ
13
SUG
8
FSW
7
SUZ
Ret
SUZ
3
9位 4
1989年 SUZ
6
FSW
4
NIS
5
SUZ
3
SUG
Ret
FSW
8
SUZ
5
SUZ
1
4位 22
1990年 SUZ
4
FSW
6
NIS
Ret
SUZ
6
SUG
13
FSW
8
FSW
Ret
SUZ
11
FSW
12
SUZ
8
12位 5
1991年 SUZ
9
AUT
DNQ
FSW
14
MIN
DNQ
SUZ
Ret
SUG
Ret
FSW
19
SUZ
15
FSW
C
SUZ
14
FSW
5
21位 2

全日本フォーミュラ・パシフィック選手権

[編集]
所属チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1978年 TSU
1
FSW
1
TSU
Ret
TSU
1
SUZ
1
1位
1979年 TSU
1
TSU
1
FSW
Ret
TSU
2
TSU
6
SUZ
NC
1980年 SUZ
1
TSU
1
FSW
2
TSU
1
TSU
1
TSU
2
SUG
1
SUZ
1
1位  
1981年 TSU
Ret
NIS
1
FSW
2
TSU TSU
3
TSU
4
SUZ
DNS
SUG
3
SUZ
1
1982年 ハセミモータースポーツ TSU
4
NIS
4
SUG
2
TSU
Ret
TSU
Ret
TSU
2
FSW
Ret2
SUZ
4
SUG
2
NIS
2
SUZ

マカオグランプリ

[編集]
チーム シャーシー/エンジン 予選 レース1 レース2 総合順位
1979年 香港の旗 三陽機器 Honest Datsun シェブロン・B40 日産・LZ14 8位 Ret
1980年 香港の旗 Honest Datsun マーチ・782 日産・LZ14 2位 2位
1981年 香港の旗 Dah Chong Hong マーチ・81A 日産・LZ14 5位 Ret
1982年 不明の旗 ラルト・RT4 日産・LZ14 1位 13位

F1

[編集]
所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1976年 コジマ KE007 BRA RSA USW ESP BEL MON SWE FRA GBR GER AUT NED ITA CAN USA JPN
11
NC
(34位)
0

太字ポールポジション斜字ファステストラップ。(key)

全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権

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所属チーム コ.ドライバー 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
1983年 ハセミモータースポーツ 日本の旗 都平健二 日産・スカイラインターボC C1 SUZ SUZ
Ret
FSW
Ret
NC 0
1984年 日本の旗 都平健二 スカイラインターボC
(ルマン・LM04C)
C1 SUZ TSU SUZ
Ret
FSW
17
NC 0
1985年 日本の旗 和田孝夫 C1 SUZ
Ret
FSW
Ret
25位 9
日本の旗 和田孝夫 スカイラインターボC
(マーチ・85G)
C1 FSW
13
SUZ
7
FSW
5
FSW
Ret
1986年 日本の旗 和田孝夫 日産・R85V C1 SUZ
Ret
FSW
3
24位 15
日本の旗 和田孝夫 日産・R86V C1 FSW
Ret
SUZ
15
FSW
Ret
FSW
Ret
1987年 日本の旗 鈴木亜久里 C1 SUZ
8
41位 6
日本の旗 鈴木亜久里 日産・R87E C1 FSW
Ret
FSW
Ret
SUZ
22
FSW
Ret
FSW
8
1988年 NISMO 日本の旗 鈴木亜久里
イギリスの旗 ウィン・パーシー
日産・R88C C1 FSW
Ret
SUZ
9
FSW
8
FSW
3
SUZ
3
FSW
12
11位 30
1989年 スウェーデンの旗 アンデルス・オロフソン C1 FSW
8
FSW
3
13位 24
スウェーデンの旗 アンデルス・オロフソン 日産・R89C C1 FSW
Ret
SUZ
10
FSW
8
1990年 スウェーデンの旗 アンデルス・オロフソン 日産・R90CP C1 FSW
2
FSW
C
FSW
1
SUZ
7
SUG
1
FSW
5
1位 67
1991年 スウェーデンの旗 アンデルス・オロフソン 日産・R91CP C1 FSW
9
FSW
2
FSW
Ret
SUZ
3
SUG
3
FSW
Ret
SUG
4
6位 51
1992年 アメリカ合衆国の旗 ジェフ・クロスノフ
日本の旗 影山正彦
日産・R92CP C1 SUZ
1
FSW
4
FSW
5
SUG
4
FSW
4
MIN
4
5位 68

世界耐久選手権/世界スポーツプロトタイプカー選手権

[編集]
所属チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1983年 ハセミモータースポーツ 日産・スカイラインターボC C MNZ SIL NÜR LMN SPA FSW
Ret
KYA NC 0
1984年 LM・04C/日産 C1 MNZ SIL LMN NÜR BRH MOS SPA IMO FSW
17
KYA SUN NC 0
1985年 マーチ・85G/日産 C1 MUG MNZ SIL LMN HOC MOS SPA BRH FSW
5
SHA 4
1986年 NISMO 日産・R85V C1 MNZ SIL LMN
16
NC 0
日産・R86V C1 NOR BRH JER NÜR SPA FSW
11
1987年 日産・R87E C1 JAR JER MNZ SIL LMN
Ret
NOR BRH NÜR SPA FSW
Ret
NC 0
1988年 日産・R88C C1 JER JAR MNZ SIL LMN BRN BRH NÜR SPA FSW
12
SUN NC 0
1989年 C1 SUZ
11
DIJ JAR BRH NÜR DON SPA MEX NC 0
1990年 日産・R90CP Cat.2 SUZ
3
MNZ SIL SPA DIJ NÜR DON MTL MEX 20位 4

全日本ツーリングカー選手権(JTC) 

[編集]
チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1985年 NISMO 日産・スカイラインRSターボ DIV-3 SUG TSU NIS SUZ FSW
7
1986年 ハセミモータースポーツ DIV-3 NIS
3
SUG
11
TSU
4
SEN
1
FSW
3
SUZ
Ret
1987年 DIV-3 NIS
Ret
SEN
9
TSU
Ret
SUG
Ret
FSW
Ret
SUZ
2
1988年 日産・スカイラインGTS-R JTC-1 SUZ
5
NIS
Ret
SEN
Ret
TSU
8
SUG
5
FSW
Ret
1989年 JTC-1 NIS
4
SEN
2
TSU
1
SUG
1
SUZ
1
FSW
Ret
1位 161
1990年 日産・スカイラインGT-R JTC-1 SUG
2
SUZ
2
TSU
1
SEN
Ret
AUT
2
FSW
2
3位 160
1991年 JTC-1 SUG
2
SUZ
1
TSU
1
SEN
2
AUT
1
FSW
4
1位 200
1992年 JTC-1 TAI
1
AUT
7
SUG
5
SUZ
2
MIN
1
TSU
4
SEN
3
FSW
2
1位 110
1993年 JTC-1 MIN
2
AUT
4
SUG
4
SUZ
1
TAI
4
TSU
5
TOK
5
SEN
Ret
FSW
5
7位 89

全日本ツーリングカー選手権(JTCC)

[編集]
所属チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位 ポイント
1994年 NISMO 日産・プリメーラ OAR1
4
OAR2
2
SUG1
4
SUG2
2
TOK1
9
TOK2
8
SUZ1
6
SUZ2
8
MIN1
5
MIN2
Ret
TAI1
5
TAI2
Ret
TSU1
Ret
TSU2
DNS
SEN1 SEN2 FSW1
4
FSW2
5
6位 76
1995年 ハセミモータースポーツ FSW1
14
FSW2
13
SUG1
7
SUG2
11
TOK1
17
TOK2
11
SUZ1
13
SUZ2
Ret
MIN1
13
MIN2
15
TAI1
11
TAI2
8
SEN1
15
SEN2
13
FSW1
3
FSW2
8
16位 19
1996年 HKSオペルチームジャパン オペル・ベクトラ FSW1
8
FSW2
12
SUG1
Ret
SUG2
8
SUZ1
10
SUZ2
9
MIN1
12
MIN2
15
SEN1
Ret
SEN2
8
TOK1
8
TOK2
10
FSW1
8
FSW2
6
14位 24

全日本GT選手権 (JGTC)

[編集]
所属チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
1994年 ハセミモータースポーツ 日産・スカイラインGT-R GT1 FSW
6
SEN
1
FSW
4
SUG
3
MIN
5
2位 56
1995年 GT1 SUZ
4
FSW
2
SEN
14
FSW
1
SUG
4
MIN
6
2位 61
1996年 GT500 SUZ
3
FSW
6
SEN
2
FSW
14
SUG
6
MIN
5
5位 47
1997年 GT500 SUZ
4
FSW
2
SEN
9
FSW
6
MIN
7
SUG
Ret
7位 37
1998年 GT500 SUZ
5
FSW
C
SEN
Ret
FSW
2
TRM
8
MIN
8
SUG
5
5位 37
1999年 GT500 SUZ
6
FSW
7
SUG
7
MIN
4
FSW
11
TAI
12
TRM
8
17位 27
2000年 GT500 TRM
5
FSW
9
SUG
Ret
FSW
11
TAI
15
MIN
11
SUZ
8
16位 13

ル・マン24時間レース

[編集]
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1986年 日本の旗 NISMO イギリスの旗 ジェームス・ウィーバー
日本の旗 和田孝夫
日産・R85V C1 285 16位 10位
1987年 日本の旗 和田孝夫
日本の旗 鈴木亜久里
日産・R87E C1 117 DNF DNF
1989年 日本の旗 星野一義
日本の旗 鈴木利男
日産・R89C C1 167 DNF DNF
1990年 日本の旗 星野一義
日本の旗 鈴木利男
日産・R90CP C1 348 5位 5位
1996年 日本の旗 星野一義
日本の旗 鈴木利男
日産 NISMO・GT-R LM GT1 307 15位 10位

デイトナ24時間レース

[編集]
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1992年 日本の旗 NISMO 日本の旗 星野一義
日本の旗 鈴木利男
スウェーデンの旗 アンデルス・オロフソン
日産・R91CP LM 762 1位 1位

スパ・フランコルシャン24時間レース

[編集]
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1992年 日本の旗 NISMO スウェーデンの旗 アンデルス・オロフソン
オーストラリアの旗 デビッド・ブラバム
日産・スカイラインGT-R A/DV.3 102 DNF DNF

バサースト1000

[編集]
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1981年 オーストラリアの旗日産自動車 日本の旗星野一義 日産・910ブルーバード ターボ 4 Cylinder 66 DNF DNF
1982年 B 153 8位 1位

全日本GT選手権ドライバー引退の理由

[編集]

引退の理由は「日産が新型のレーシングカーを供給してくれなくなったから[14]」だという。トップを狙えないマシンでの2年連続参戦がドライバーとしての挑戦意欲を失ったことによって、長谷見に自らの引き際を決意させた。実際、四輪転向から引退まで(フォーミュラカー路線を除けば)基本的に日産一筋であった星野と比べると、長谷見は1996年の全日本ツーリングカー選手権(JTCC)にエッチ・ケー・エスからオペル・ベクトラを駆って参戦するなど、日産ワークスを離れての活動も目立っていた。このことから、当時の日産の中で長谷見は星野よりも優先度が低い扱いだったという見方をされる場合もある。

一方、「同じ車を同じ条件で乗って、相手よりコンマ5秒遅かったら辞める」という考えを持っており、同様の理由でフォーミュラ引退を決意した経緯がある。その際の理由の半分はマウロ・マルティニの存在であり[15]、もう半分は供給タイヤメーカーであったダンロップと、ブリヂストンの性能差であった[5]

人物

[編集]
  • 長谷見の全日本モトクロスのデビュー時期に同じく2輪レース活動を行っていた生沢徹(当時大学生)は、「高校生のガキ(長谷見)」にあっさり抜かれたことでショックを受け、2輪に見切りを付けて4輪に転向したという話がある[16]
  • マツダワークスの総大将である片山義美は、1970年代初頭の日産・追浜ワークスのドライバー(高橋国光北野元黒澤元治都平健二、長谷見)について、「マツダのチーフドライバーは僕(片山)。それに対し日産のチーフは明確に決まってない。もし日産の実質的なチーフを挙げるとしたら多分、長谷見君でしょう」と語ったという[17]
  • 長谷見は数時間に渡ってアクセルを全開にし続けられるダカール・ラリーをいたく気に入っており、15日の日程で残り3日になっても「あともう一週間走れないかなぁ」という気持ちになったと述懐している[3]
  • 鈴木亜久里は長谷見の印象を「怖かった」と語っていた。チームメイトとして初顔合わせした時「キミとは会社が言うから組むけど、本当は嫌なんだよ」と言われたとの事。だが、一緒に戦うに連れて「亜久里君、予選アタック行って?キミの方がちょっと"乗れてる"みたいだから」と言われるようになり「偉大な先輩が認めてくれて凄く嬉しかった」と回顧している[18]
  • 「レースカーはFRじゃなければならない」が信念である。市販車でも、「峠に行った時にリアが滑ってヒャッとするようじゃないとドライブしている気になれない」と語っている[19]。ミッドシップも好むが、その裏返しでアンダーステア傾向の駆動形式が嫌いである。「FFが世界で一番嫌いな男」と公言して憚らず、同じ理由で四輪駆動も好まない[3]。その為、グループAで駆ったスカイラインGT-Rは四駆であった故に、GT-Rで2度シリーズチャンピオン獲得とマカオグランプリ制覇しているにも関わらず「我慢だけの競争で面白くなかった」と回顧した[20]。また、グループA終了後に全日本GT選手権へ移行し、FRへと改めたGT-Rについては「すっきりした」とも語っている[21]

関連項目

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脚注

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  1. ^ SP忠男の鈴木忠男氏と長谷見昌弘氏の接点…黒沢元治氏も出席した「城北ライダーズ」60周年パーティ
  2. ^ 富士GC全日本F2鈴鹿F2、フォーミュラ・パシフィック
  3. ^ a b c 「ミスタースカイラインの素顔」天才ドライバー『長谷見昌弘』の生き様
  4. ^ 歴代の日本人出場者
  5. ^ a b オートスポーツNO.798 2000年6/15号6頁「長谷見昌弘、JGTC引退」より
  6. ^ 2011SUPER GT参戦休止のお知らせ ハセミモータースポーツ
  7. ^ NDDP RACINGがF3に参戦 NISMO NEWS RELEASE
  8. ^ 日産/ニスモ、2018年のモータースポーツ活動を発表 - 日産自動車ニュースルーム・2018年2月12日
  9. ^ □■長谷見昌弘よりご挨拶□■ - ハセミモータースポーツ・2019年3月19日
  10. ^ 野尻智紀が日本プロスポーツ大賞の敢闘賞を受ける。スポーツ功労者顕彰の長谷見昌弘氏、星野一義氏も登壇”. auto sport web. 2023年3月3日閲覧。
  11. ^ なお、トミカのモータースポーツスポンサーは2016年から86/BRZレースに参戦しているネッツトヨタ兵庫レーシングチームで復活している。
  12. ^ 『日本の名レース100選 Vol.001 '76 F1イン・ジャパン-日本初のF1GP開催』 イデア〈AUTO SPORT Archives〉、2006年、77頁。
  13. ^ 1976 Japanese Grand Prix - FASTEST LAPS”. Formula One World Championship Limited. 2017年1月23日閲覧。
  14. ^ 2001年シーズンの全日本GT選手権において、同じ日産系チームである星野のホシノインパルはスカイラインGT-Rの供給を受けGT500クラスに継続参戦できたのに対し、ハセミモータースポーツはGT-Rの供給を受けられず、GT300クラスへのステップダウンを余儀なくされた。
  15. ^ Racing On」No.137、p.141、ニューズ出版、1993年。
  16. ^ 山海堂 (出版社)オートテクニック」連載「なぜ俺だけしか」(生沢徹筆)
  17. ^ 八重洲出版オールドタイマー」2019年6月号
  18. ^ 『Racing On No.511 [特集]鈴木亜久里』株式会社三栄、2021年3月17日、18頁。 
  19. ^ 交通タイムス社「GT-R owwers COLLECTIONⅡ」16〜19頁より
  20. ^ 『日本の名レース100選 Vol.024 '91 JTCオートポリス』株式会社三栄、2007年4月23日、24頁。 
  21. ^ 『MS-models Vol.02 GT-R & SKYLINE』株式会社三栄、2009年4月25日、74頁。 

参考資料

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  • Racing On』(ニューズ出版)2007年12月号・特集「スーパーシルエット」
  • 『Racing On』(ニューズ出版)2008年3月号・特集「長谷見昌弘」

外部リンク

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タイトル
先代
松本恵二
全日本F2チャンピオン
1980年
次代
中嶋悟