コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「野村謙二郎」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Inoue0543 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
100行目: 100行目:
====2012年====
====2012年====
2011年にFA権を獲得した[[栗原健太]]、[[廣瀬純]]らが残留し、さらにセットアッパーとして[[キャム・ミコライオ]]、打線の中軸候補として[[ニック・スタビノア]]が加入し、ドラフトでは[[野村祐輔]]の獲得に成功するなど、前年より戦力の厚みを加えることに成功。[[落合博満]]ら、多くの解説者に「今年の広島は面白い」と期待される中で開幕を迎えた<ref>2012年3月25日放送 NHKサンデースポーツより。ただし、落合は「あとは監督次第」と発言していた。</ref>。シーズンでは阪神タイガースの失速も手伝って1997年以来、15年ぶりの前半戦Aクラス(3位)で折り返した。しかし、9月に8連敗を含む6勝17敗1分と失速し、15年連続のBクラスとなった。2013年も継続して指揮をとるが、3年連続の借金10以上で監督を継続するのは、球団創設時で事実上フロントも兼ねた[[白石勝巳]]以来、2人目となる。
2011年にFA権を獲得した[[栗原健太]]、[[廣瀬純]]らが残留し、さらにセットアッパーとして[[キャム・ミコライオ]]、打線の中軸候補として[[ニック・スタビノア]]が加入し、ドラフトでは[[野村祐輔]]の獲得に成功するなど、前年より戦力の厚みを加えることに成功。[[落合博満]]ら、多くの解説者に「今年の広島は面白い」と期待される中で開幕を迎えた<ref>2012年3月25日放送 NHKサンデースポーツより。ただし、落合は「あとは監督次第」と発言していた。</ref>。シーズンでは阪神タイガースの失速も手伝って1997年以来、15年ぶりの前半戦Aクラス(3位)で折り返した。しかし、9月に8連敗を含む6勝17敗1分と失速し、15年連続のBクラスとなった。2013年も継続して指揮をとるが、3年連続の借金10以上で監督を継続するのは、球団創設時で事実上フロントも兼ねた[[白石勝巳]]以来、2人目となる。

=== 公認野球規則の認識不足 ===
監督就任後、公認野球規則の認識不足において起こした事件が2度ある。

; {{by|2010年}}9月11日、対読売ジャイアンツ戦([[東京ドーム]])
7回裏一死満塁で[[大野豊 (野球)|大野豊]]がマウンド上の[[大島崇行]]の元へ行き、ベンチに戻って試合が再開された。しかし、この直後に野村がベンチを出て投手交代を告げようとして、審判員に制止された。これは「公認野球規則8.06」にある「プロフェッショナルリーグは、監督またはコーチが投手の元へ行くことに関して次の規則を適用しなければならない。」の(d)「注2」の規定「監督またはコーチが投手のもとへ行った後、ファウルラインを越えて引き上げたら、その投手は、そのときの打者がアウトになるか、走者になるか、または攻守交代になるまで投球した後でなければ退くことはできない。ただし、その打者に代打者が出た場合は、この限りではない。」に触れたためである。

野村の心中は定かではないが、大野は「私のミス」と監督を擁護した。この直後、大島は[[アレックス・ラミレス]]に勝ち越し打を許し、次打者の[[阿部慎之助]]に40号満塁本塁打を浴びて6-11で敗れた。

; {{by|2011年}}5月20日、対[[オリックス・バファローズ]]戦([[京セラドーム大阪]])
試合開始前、野村は投手の[[今村猛]]を7番・指名打者に起用。当初、[[偵察オーダー|偵察要員]]とするつもりでいたが、試合開始前のメンバー表交換時にオリックス監督の[[岡田彰布]]から指名打者は(先発投手が降板しない限り)最低1打席は立たなければならないことを指摘され、ここで初めて当該公認野球規則6.10指名打者(b)の(2)「試合開始前に交換された打順表に記載された指名打者は、相手チームの先発投手に対して、少なくとも一度は打撃を完了しなければ交代出来ない。ただし、その先発投手が交代したときはその必要はない。」を認識する失態を犯した。

今村は2回表、1死1塁の場面で打席に入り[[犠打|送りバント]]成功。その後、5回に回ってきた第2打席で代打を出された。


== プレースタイル ==
== プレースタイル ==
134行目: 121行目:


球場外でのトレーニングの時も他の選手に目を配り、若手だった東出輝裕や[[新井貴浩]]が不振に苦しんだ時期には励ましを送るなどした。新井は野村について「心から頼れて、120%信用できる」と語っている<ref name="base_20010507_43"/>。また[[金本知憲]]が[[トリプルスリー]]を達成した際には、経験者としてアドバイスを送り、落ち着きを取り戻させた<ref name="base_20010507_43"/>。
球場外でのトレーニングの時も他の選手に目を配り、若手だった東出輝裕や[[新井貴浩]]が不振に苦しんだ時期には励ましを送るなどした。新井は野村について「心から頼れて、120%信用できる」と語っている<ref name="base_20010507_43"/>。また[[金本知憲]]が[[トリプルスリー]]を達成した際には、経験者としてアドバイスを送り、落ち着きを取り戻させた<ref name="base_20010507_43"/>。

== 監督としての采配 ==
選手時代の経験を生かした広島伝統の「走る野球」を標榜し、[[赤松真人]]や[[天谷宗一郎]]や[[丸佳浩]]といった俊足の選手を積極的にスタメン上位に起用しチーム盗塁数を大幅に増加させた。また、[[堂林翔太]]の素質を見抜き打撃や守備のマンツーマン指導を行ったり調子の良し悪しにかかわらず全試合スタメン出場を行った。堂林は両リーグワーストの29失策・150三振という記録を残すものの、ホームラン数ではチームトップの14本塁打を記録し監督の期待に答え、翌年には野村の現役時代の背番号である「7」を堂林に継承させた。

試合の序盤やビハインドの展開においてランナーがいるときには送りバントを指示する傾向が多い。これはチーム打率や得点の少ないチーム状態を考慮した野村の得策であり、時には4番打者に送りバントを命じることもある<ref>2013年5月6日の対横浜DeNA戦(マツダスタジアム)において、1点ビハインドで迎えた8回裏の無死1・2塁という場面で4番の[[廣瀬純]]にバントを命じたが結果は失敗に終った。</ref>。

その一方で[[左右病]]と揶揄されるほど相手投手の利き腕によって打順を大幅に変える采配が目立っている(この傾向は、予告先発制度が導入された2012年度以降で顕著である)。相手投手との相性や自軍の選手の状態にかかわらず積極的に行っているため打順が固定できないという批判が目立っている。また調子の悪い選手をすぐにスタメンから落とすことが出来ずにそのまま起用する傾向も強い。

2011年10月20日の対中日戦では7回まで15奪三振とセ・リーグ記録にあと1まで迫っていた[[前田健太]]に代打を送ってしまった。このようなこともあり、野村の采配が「迷采配」と揶揄されることもある。

=== 公認野球規則の認識不足 ===
監督就任後、公認野球規則の認識不足において起こした事件が2度ある。

; {{by|2010年}}9月11日、対読売ジャイアンツ戦([[東京ドーム]])
7回裏一死満塁で[[大野豊 (野球)|大野豊]]がマウンド上の[[大島崇行]]の元へ行き、ベンチに戻って試合が再開された。しかし、この直後に野村がベンチを出て投手交代を告げようとして、審判員に制止された。これは「公認野球規則8.06」にある「プロフェッショナルリーグは、監督またはコーチが投手の元へ行くことに関して次の規則を適用しなければならない。」の(d)「注2」の規定「監督またはコーチが投手のもとへ行った後、ファウルラインを越えて引き上げたら、その投手は、そのときの打者がアウトになるか、走者になるか、または攻守交代になるまで投球した後でなければ退くことはできない。ただし、その打者に代打者が出た場合は、この限りではない。」に触れたためである。

野村の心中は定かではないが、大野は「私のミス」と監督を擁護した。この直後、大島は[[アレックス・ラミレス]]に勝ち越し打を許し、次打者の[[阿部慎之助]]に40号満塁本塁打を浴びて6-11で敗れた。

; {{by|2011年}}5月20日、対[[オリックス・バファローズ]]戦([[京セラドーム大阪]])
試合開始前、野村は投手の[[今村猛]]を7番・指名打者に起用。当初、[[偵察オーダー|偵察要員]]とするつもりでいたが、試合開始前のメンバー表交換時にオリックス監督の[[岡田彰布]]から指名打者は(先発投手が降板しない限り)最低1打席は立たなければならないことを指摘され、ここで初めて当該公認野球規則6.10指名打者(b)の(2)「試合開始前に交換された打順表に記載された指名打者は、相手チームの先発投手に対して、少なくとも一度は打撃を完了しなければ交代出来ない。ただし、その先発投手が交代したときはその必要はない。」を認識する失態を犯した。

今村は2回表、1死1塁の場面で打席に入り[[犠打|送りバント]]成功。その後、5回に回ってきた第2打席で代打を出された。




== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==

2013年5月12日 (日) 03:56時点における版

野村 謙二郎
広島東洋カープ 監督 #77
2010年5月5日、横浜スタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県佐伯市
生年月日 (1966-09-19) 1966年9月19日(58歳)
身長
体重
176 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 内野手
プロ入り 1988年 ドラフト1位
初出場 1989年4月9日
最終出場 2005年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

  • 広島東洋カープ (2010 - )
オリンピック
男子 野球
1988 野球

野村 謙二郎(のむら けんじろう、1966年9月19日 - )は、大分県佐伯市出身の元プロ野球選手内野手)、2010年から広島東洋カープ監督。

1990年代の球界を代表する遊撃手であり、日本プロ野球において1990年代にもっとも安打を放った打者である。愛称は「ノムケン」。

経歴

プロ入り前

1966年に大分県佐伯市で精肉店を営む家庭に生まれた。父はかつて大分県立佐伯鶴城高等学校で野球部に所属し、母もかつて陸上長距離走をしていた元アスリートの両親と、姉・弟が一人ずついる五人家族だった。小学校1年生の時に鶴城スポーツ少年団へ入団して父からグラブを買ってもらい、俊足に注目されて遊撃手として野球を始めている[1]。また、野村からみて叔父にあたる八木孝がかつて広島東洋カープに在籍していた元プロ野球選手であったことから、小学生の頃から毎年広島のキャンプを見学していた[2]

両親からは「市や県の一番では満足するな」と言われていたため、野村は常に高い目標を持って練習していた[1]。少年団や鶴谷中学校では最高学年で主将を務めた。父と同じ大分県立佐伯鶴城高等学校へ進学すると、俊足を生かすために右打ちから左打ちへ転向し[3]、同級生の若林重喜と三遊間のコンビを組んで3年時には主将を務めた。第66回全国高等学校野球選手権大会では全国高等学校野球選手権大分大会の準決勝で敗れ[4]、高校時代は全国大会には出場できなかった。

駒澤大学硬式野球部に進学すると、当時監督だった太田誠に才能を見込まれた。野球部では鉄拳制裁も決して珍しくないほどの厳しい指導の一方で、1年時から東都大学野球連盟リーグ戦に起用されている[3]。2年生で迎えた1986年の春季リーグ戦からは遊撃手のレギュラーとなり、同年の秋季リーグで初めてベストナインに選出された[5]。3年時の春季リーグ戦では大石大二郎が記録した17盗塁を塗り替える18盗塁をのシーズン記録を達成し、2季連続でベストナインに選ばれる[6]。また、同年6月の日米大学野球選手権大会と同年8月の第14回アジア野球選手権大会で日本代表入りを果たし、同年頃からプロ入りを意識するようになったという[3]。秋季リーグ戦では二塁手としてベストナインに選ばれた[7]

4年時には主将に就き、春のリーグ戦では22年振りにリーグ通算記録を更新する52個目の盗塁を決めるなど完全優勝の原動力となり、満票で最高殊勲選手とベストナインに選出された[8]。同年も日米大学野球で代表入りし、さらに9月のソウルオリンピック野球日本代表にも大森剛笘篠賢治と共に3人だけの大学生選手として選ばれた[9]。同五輪では西正文が遊撃手のレギュラーだったため代打で起用され、決勝を含む3試合で9打数2安打の成績を残す[10]。決勝の対野球アメリカ合衆国代表戦では途中出場で1安打を放つも、一打逆転の場面でジム・アボットに抑えられた[10]

東都での通算成績は、89試合出場で325打数103安打、打率.317・10本塁打・48打点、ベストナイン4回、52盗塁。なお全日本大学野球選手権大会には2度出場し、3年時には松永幸男九州東海大学)と対戦した。大学No.1野手の評価を得て[11]石毛2世とも呼ばれ[12]1988年のドラフト会議では重複指名が予想されていた[12]が、結果として広島東洋カープに単独1巡目で指名され、入団。広島は川崎憲次郎も1位候補として検討していたものの、スカウトの強い推薦もあって野村を指名した[11]。担当スカウトは渡辺秀武で、契約金6000万円・年俸600万円で入団契約を結んだ[13]。背番号は7

現役時代

1989年4月9日の対阪神タイガース戦(広島市民球場)に代走として出場し、同年5月4日の対ヤクルトスワローズ戦(広島市民球場)では遊撃手として初の先発出場を果たした。当時は遊撃手のレギュラーに高橋慶彦がいたため、野村はほとんど経験したことがなかった左翼手での出場が多かった。しかし、同年オフに高橋が千葉ロッテマリーンズへトレードされると、1990年には1番・遊撃手のレギュラーとなった。オープン戦では失策が多く[14]、公称70kg(当時)より細い外見から来るパワー面の不安[15]なども懸念されていたが、シーズンに入ると攻守に活躍してオールスターゲームに初めて選ばれ、第2戦では2番・遊撃手として先発出場した[16]。シーズン通算で33盗塁を記録し、自身初のタイトルとなる盗塁王を獲得した。

1991年には全試合出場を果たし、31盗塁で2年連続となる盗塁王を獲得。主に3番打者として170安打を放ち最多安打を獲得。打率もリーグ4位の打率.324を記録した。また、自身初となるベストナインに選出されるなど、チームのリーグ優勝の大きな原動力となった。同年9月10日の対中日ドラゴンズ戦では同点適時打を放った上に好守備も見せ、勝利したチームは首位に立ってそのまま優勝へ進んだ。この試合は終了後の幸福感も含めて現役時代で最も印象に残っているという[17]日本シリーズ(対西武ライオンズ戦)では第7戦最終打者となった(工藤公康に三振)ものの、チームトップの打率.333を残してシリーズ優秀選手に選ばれている[18]。オフには年俸が5300万円(推定)となるなど球団から高い評価を受け[19]、12月7日には2年間交際していた女性と結婚式を挙げた[20]

1992年には日米野球の日本代表に選ばれた[21]1993年には14試合連続安打を記録して4月に月間MVPに初めて選ばれ[22]オールスターゲームでは第2戦で優秀選手賞を受賞する[23]。その一方で、シーズンは打率が.266と低迷した。同年は6月3日まで3番打者を務め、4日以降は1番打者に戻っている。

1994年は、チームリーダーとして期待され首位打者宣言をして臨んだ[24]。シーズン当初は2番打者だった打順も6月9日には1番打者に戻り、2度目の最多安打(タイトル制定はこの年から)と3度目の盗塁王を獲得した。年俸は同僚の前田智徳には及ばないものの4,500万円の大幅増の1億800万円となり、初めて1億円の大台を突破した[25][18]。オフには秋季キャンプへの参加を免除されて奥歯の虫歯を集中的に治療し、かみ合わせが改善してインパクト時に力を集中できるようになった[26]。また、内角球への対応を改善するためにグリップ位置を上げて強く振り切るなど打撃フォームを改造している[26]

1995年4月18日に長男が誕生してヘルメットに名前を書き込むなどこれを励みとし[27]、5月には自身2度目となる月間MVPを受賞した。6月3日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)では、初登板の河原純一から初回先頭打者本塁打を放った[28]9月1日まで全試合1番でスタメン出場を続け、9月2日以降は3番打者に定着。同年9月22日には当時歴代5位のスピード記録となる857試合目で1000本安打を達成した。シーズン後半は腰や背中に痛みを抱えて帰塁ができず、盗塁が減った[29]が、10月6日の対ヤクルトスワローズ戦で30盗塁に到達。最終的に史上6人目となるトリプルスリー(打率:.315、本塁打:32、盗塁:30)を記録した。打率.3145はロバート・ローズの.3150と5毛差でリーグ3位、32本塁打は同僚の江藤智に次ぐリーグ2位だった。また守備面の評価も高く、自身初のゴールデングラブ賞を受賞。同年オフには史上最高(当時)となる1億7000万円で契約を更改し、5年後に金本知憲が抜くまで野村をチーム最高年俸とする不文律が生まれた[30]。同年の契約更改では、チームリーダーとしての働きや高津臣吾西山一宇など他球団の中継ぎ投手からサヨナラ打を放った事から、球団からはチーム一番の貢献度だったと評価されている[31]

1996年は開幕から7試合1番打者として起用されるが、前年に盗塁王を獲得した緒方孝市の存在もあり、4月中旬からは主に3番打者を務めた。7月6日の対ヤクルトスワローズ戦で8回に二盗を試みた際に左足首を負傷し、担架で運ばれて退場、翌日から3試合を欠場[32]。歩行にも支障を来すほどで骨折が疑われたが、球団からは捻挫と発表されて痛み止めを飲みながら出場を続けた[32][33]三村敏之は休養を考えたが、控えに有力な遊撃手がいないことと、本人が出場を直訴したという[32]。しかし左足首を庇ったことで負担がかかり、両足の太腿やふくらはぎにも痛みが広がり、9月に入ると全力疾走できないほど状態が悪化した[33]。チーム成績も負傷前の45勝24敗からその後は26勝35敗と急激に悪化し、この負傷が巨人にメークドラマを許す一因になったとも言われている[32]。負傷のため個人成績は芳しくなかったが、オフにはチームを引っ張る働きを評価されて2000万円増の年俸1億9000万円で契約を更改し、選手会長に就任した[34]

1997年オフにはフリーエージェントの権利を獲得し、長嶋茂雄川相昌弘の後継者として獲得を強く望んだとされる[35]。またアリゾナ・ダイヤモンドバックスタンパベイ・デビルレイズからオファーがあった[36]が、駒沢大の大田監督の「カープと日本球界のために生きるのも人生」という助言もあり[37]、カープ残留を決め、日本人では13人目の2億円プレーヤーとなった。

1998年シーズンは前年から引き続き主に1番打者を務め、チームで唯一の全試合出場を果たしたが、年俸は現状維持[38]1999年5月19日には、当時歴代4位のスピード記録となる1289試合目で1500本安打を達成した。また9月にはシドニーオリンピックにおける野球競技・アジア最終予選たる第20回アジア野球選手権大会に出場したが、この年は股関節を痛めたことが原因で5月の下旬から欠場が多くなり、シーズン中盤には三塁手や一塁手としてのスタメン出場が増えた。8月の下旬からは遊撃手に戻ったものの、これ以降度重なる怪我に悩まされることとなる。

江藤智が移籍した2000年の春季キャンプからは三塁手に取り組んだが、同年4月8日の対阪神タイガース戦では一塁まで走った際に左足ヒザ裏の肉離れを起こし、全治3週間と診断された[39]5月3日には一軍復帰したものの症状が酷く、7月24日の精密検査で左足の筋力が右足の41%まで落ちていることが分かり、自身初の出場登録抹消を受けて後半戦は欠場した[39]。8月には同じく故障した前田智徳や緒方孝市と共にピッツバーグに移ってリハビリに専念し、同年はプロ入り後最低の打率.240・2本塁打・1盗塁に終わっている。

欠場中に遊撃手は東出輝裕、三塁手は新井貴浩がそれぞれレギュラーの座につき、2001年二塁手のポジションを木村拓也と争うことになった。キャンプ中の2月8日に守備練習で左太ももを痛めてオープン戦は2試合の出場にとどまり、開幕戦は初めて不出場となった。同じ二塁手のエディ・ディアスが打撃好調だった一方、緒方の故障で新井が外野に回り、5月9日以降は再び三塁手のレギュラーの座をつかんでいる。2002年は4月末に右太ももを痛めて約1ヶ月間の二軍生活が続き、後半戦は代打や守備固めで主に起用されて出場試合数が100試合を切ると共に打率も.211と低迷した[40]が、遊撃手のライバルである東出にも守備面などで積極的にアドバイスを送っていた[41]

2003年3月29日の対ヤクルトスワローズ戦において守備の際に左内腹斜筋に全治3週間の挫傷を負い、4月2日に出場選手登録を外れた[42]。シーズン終盤には右太腿痛もあって戦線離脱が長期にわたり、オフには野球協約の上限を超える33%(5000万円)減の1億円で契約を更改した[1]。なお、同年7月に山本浩二の続投が決まった際には、オーナーの松田元が次期監督候補が野村であることを明言している。

打撃練習をする野村謙二郎(2004年春季キャンプ)

2004年1月に黒田博樹と共にアリゾナで自主トレを行ない、ケガ防止のためのインナーマッスル強化や股関節の柔軟性向上などに取り組んだ[43]が、6月19日の対ヤクルトスワローズ戦で三塁ゴロを処理した際に右膝を痛めて抹消されるなど、同年も故障との戦いが続いた。オフには現状維持で契約を更改している[44]

2000本安打まで残り55本で迎えた2005年は守備の負担軽減のため一塁手に転向され、年初から記録達成に向けて周囲の期待が高まっていた。5月には故郷の佐伯市内6ヶ所[45]そごう広島店にカウントダウンボードが設置され[46]、6月に入ると広島ガスのインフォメーションプラザで入団からの軌跡を辿る写真展が開催された[46]。残り4本で迎えた6月21日からの地元6連戦では、佐伯市の大手前公園で250インチの野外スクリーンによりパブリックビューイングが行なわれている[47]。そして同年6月23日の対ヤクルトスワローズ戦(広島市民球場)において、4回裏に左翼前へ安打を放って通算2000本安打を達成した。これを記念して広島県から県民栄誉賞が贈られた[48]他、広島電鉄が記念のパセオカードを発行している[49]

以後は代打としての出場が多くなり、9月16日に同年限りでの現役引退を発表した。シーズン最終戦である10月12日の対横浜ベイスターズ戦(広島市民球場)が引退試合となり、満員の観客に背番号の「7」が入ったポスターが配布され、1番・遊撃手として先発出場した[50]。なお、球団からはこの背番号を永久欠番とすることを打診されたが本人が断り、ふさわしい選手が現れるまでの永久預かりになっていた[51](2013年より、堂林翔太が背番号7を引き継ぐ事になった)。また、球団幹部は2009年新球場オープンに合わせて監督として招聘する方針をこの時点で打ち出していた[51]

引退後

引退後は2006年から2009年まで広島テレビ放送日本テレビ放送網スポーツニッポンで野球解説者を務める一方、2007年の春季キャンプでは広島の臨時コーチとして守備・走塁を指導した[52]

2008年にはカンザスシティ・ロイヤルズの春季キャンプに臨時コーチとして、白井一幸とともに招待されている[53]。同年の北京オリンピックにおける野球競技では解説者としてジャパンコンソーシアムの中継に参加し、10月には第2回WBCの日本代表監督選定会議に若い世代の代表として出席した。初回の会議の後には、現役監督・コーチ以外からの選出になるのでは、との見通しを語っていた[54]が、次回会議の結果を受けて巨人監督の原辰徳が代表監督に選ばれている[55]

監督就任

2010年より「チーム再建の切り札」として、11年連続Bクラスに低迷する広島の監督に就任した。監督・コーチ歴は皆無だったが、NPBの監督としては格安とされた[56]前任のマーティ・ブラウンの年俸(40万ドル)[57]を大きく上回った。就任会見では「優勝を目指す!選手にもそういう気持ちで、Aクラスを目指すというのはやめてもらいます」[58]、広島市の原田病院で行われた講演会では「優勝したら『普通のことをやったまでです』と言うつもりです」[59]と宣言した。

2010年

前年まで成績が奮わなかった梵英心廣瀬純と、オープン戦で活躍した天谷宗一郎、自身がアメリカでのコーチ研修中に惚れ込み、駐米スカウトが反対したにも関わらず獲得したジャスティン・ヒューバーを開幕からスタメンに固定した。結果、梵と廣瀬は自己最高の成績を残した。一方で天谷は不振に陥るが、中堅手として起用し続けた。そのため、シーズン途中に故障から復帰した赤松真人は出塁率を除く全ての成績で天谷を上回ったものの、出場機会は下回った[60][61]。さらに長打力を期待されたヒューバーは全く結果を残すことが出来なかった[62]。この年のスターティングメンバーのパターンは95通りにも上り、シーズンを通じて打線を固定できなかった。さらに栗原健太の故障もあって長打力に欠けた。その反面、チーム犠打数は球団史上最多の140個、チーム盗塁数も過去15年間で最多の119個と機動力が改善し、1試合平均得点は5年ぶりに3点台を脱却して4.1点になった。守備面でも前年リーグ最下位の100個だったチーム失策数が同3位の82に改善した[63]

投手陣ではコルビー・ルイスの退団が前年12月に急遽決まった。キャンプからシーズン序盤にかけて大竹寛横山竜士マイク・シュルツ永川勝浩といった主力の故障が相次いだ。特に大竹については、故障直後は慎重な調整を行っていたにも関わらず、復帰を急がせて再故障させるなど選手の体調管理面で多くの課題を残した[64]。自己流の調整を貫いた前田健太[65]が球団史上初の投手成績で三冠を達成したものの、飛躍を期待された齊藤悠葵、実績のある梅津智弘などの多くの投手が不振に陥った。また中継ぎ投手の起用法にも疑問が投げかけられた[66]。チーム防御率は前年の3.59から5年ぶりに4点台後半(4.80)へ、更に前田健を除くチーム防御率は5.33となり、過去最大の悪化幅(1.21)を記録した。同様に失点が162増の737、四死球は137増えて524個、被本塁打も54多い171本と、いずれも最大幅の増加を記録し、「球団史上最悪の『投手後退』」と評された[67]

最終的な成績は球団史上ワースト2位タイとなる84敗(58勝)を喫し、「優勝を狙う」宣言とは裏腹に2年連続でセ・リーグ5位に終わった。しかし、今季不調の投手陣に秋季キャンプでは過酷な練習を課すことを予告するなど、来季に向けて意欲を見せた[68]。12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された[69]

2011年

2010年までは三塁コーチャーズボックスに立っていた高信二を、「采配を補助するベンチ担当コーチ」[要出典]として配置し、さらにスコアラーの畝龍実を常時ベンチに付かせるなど、ベンチワークの充実を進めた。また阪神から、町田公二郎が、新たに打撃コーチとして招聘された。町田の進言によりスタメン起用が増えた丸佳浩、セットアッパーに定着した今村猛、駐米スカウト推薦により獲得したデニス・サファテブライアン・バリントンらの活躍により、9月上旬までAクラスを争っていたものの、そこから一気に失速し、順位は前年と同じ5位に終わった。

6月26日の対中日ドラゴンズ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)では、3回裏に中村恭平のゴロの判定を巡って、審判員への暴力行為で退場処分を受けた。翌日、加藤良三より2試合の出場停止処分を受ける(代理監督は高信二)。

2012年

2011年にFA権を獲得した栗原健太廣瀬純らが残留し、さらにセットアッパーとしてキャム・ミコライオ、打線の中軸候補としてニック・スタビノアが加入し、ドラフトでは野村祐輔の獲得に成功するなど、前年より戦力の厚みを加えることに成功。落合博満ら、多くの解説者に「今年の広島は面白い」と期待される中で開幕を迎えた[70]。シーズンでは阪神タイガースの失速も手伝って1997年以来、15年ぶりの前半戦Aクラス(3位)で折り返した。しかし、9月に8連敗を含む6勝17敗1分と失速し、15年連続のBクラスとなった。2013年も継続して指揮をとるが、3年連続の借金10以上で監督を継続するのは、球団創設時で事実上フロントも兼ねた白石勝巳以来、2人目となる。

プレースタイル

打撃

最多安打3回、最多得点2回、そしてトリプルスリーや通算2000本安打を達成するなど、特に現役時代前半はカープのリードオフマンとして大いに活躍した。177cm・75kgと体格に恵まれていたわけではなく、それまで主にパワーヒッタータイプの選手が達成していたトリプルスリーを成し遂げた時には、地道なトレーニングによる筋力強化を高く評価されている[26]。実働10年間だった遊撃手での通算打率.293は1000打席以上ではセ・リーグ最高記録(2004年当時)であり、史上屈指の強打の遊撃手だった[37]。1995年に記録したシーズンOPS.940は、2002年松井稼頭央に次いで遊撃手歴代2位、セ・リーグ遊撃手最高記録である。思い切りの良いバッテイングを持ち味とし、賛否両論はあったものの初球から積極的にストライクを打ちに行った[71]

深夜のメジャーリーグのテレビ中継を欠かさず見るほどのメジャーフリークだった事もあり、ダイナミックなプレーを意識し、三塁打のクロスプレーにはこだわりがあった[71]。なお、俊足を活かすため高校入学とともに左打ちに転向したが、当時の目標だったスイッチヒッターにはならなかった[3]バットミズノテクニクス名和民夫の作品を使用していた[72]

走塁

東都大学野球での最多盗塁記録を残し、4年春にはパーフェクトスチールを達成する[73]など、アマチュア時代から走塁技術は高かった。4年生の時にはベース一周13秒8の好タイムを残している[73]。プロ入り後も1年目の4月12日に初盗塁を記録し、5月末までに盗塁企図10に対して成功8と早くから技術が通用している[74]。プロでも通算3度の盗塁王を獲得し、通算250盗塁は歴代39位(2010年現在)にあたる。しかし現役時代後半は故障のため、代走を送られるケースが増えた。

守備

小学校1年生の時から遊撃手として20年以上プレーし、遊撃への愛着は強かった。投手への声掛けや二塁手への送球などでの思いやりを重視し、特にカープ入団1・2年目は二塁手正田耕三との連携プレーを徹底的に練習した[15]。打球が飛んでくる回数や併殺、中継に絡む機会が多いため、バッターが打つ瞬間以外は常に360度全方向に注意していた[75]

ホームの広島市民球場は土のグラウンドだったためイレギュラーバウンドが多く、平常心を保ち、腰を落としてしっかり捕球することを心がけた[75]。また、自分の肩が強くないと考えてスローイングを課題に挙げ、ダッシュなどでカバーする事を意識していたという[15]。必ずしも守備の名手という印象を持たれていない[76]が、1990年代前半にはレンジファクターでリーグトップの数値を複数年にわたって記録するなど、打球をアウトにする能力は高かった[76]

グラブについては入団2年目から同じものを7年間使うなど強いこだわりを持ち、同タイプのグラブを使った後輩には井生崇光甲斐雅人石橋尚登らがいる[30]。また野村のグラブをベースにしたグラブを江藤智東出輝裕は使用し、木村拓也も野村のグラブを参考にしていた[30]

リーダーシップ

小・中・高・大・プロの全てで主将を務め、常にチーム全体や他の選手を気にかけていた[30]。プロでは入団2・3年目の早い時期からチームリーダーとしての素質を認められ[18]、FA権取得時には球団も指導者としての期待をかけて残留を望んだ[30]

球場外でのトレーニングの時も他の選手に目を配り、若手だった東出輝裕や新井貴浩が不振に苦しんだ時期には励ましを送るなどした。新井は野村について「心から頼れて、120%信用できる」と語っている[30]。また金本知憲トリプルスリーを達成した際には、経験者としてアドバイスを送り、落ち着きを取り戻させた[30]

監督としての采配

選手時代の経験を生かした広島伝統の「走る野球」を標榜し、赤松真人天谷宗一郎丸佳浩といった俊足の選手を積極的にスタメン上位に起用しチーム盗塁数を大幅に増加させた。また、堂林翔太の素質を見抜き打撃や守備のマンツーマン指導を行ったり調子の良し悪しにかかわらず全試合スタメン出場を行った。堂林は両リーグワーストの29失策・150三振という記録を残すものの、ホームラン数ではチームトップの14本塁打を記録し監督の期待に答え、翌年には野村の現役時代の背番号である「7」を堂林に継承させた。

試合の序盤やビハインドの展開においてランナーがいるときには送りバントを指示する傾向が多い。これはチーム打率や得点の少ないチーム状態を考慮した野村の得策であり、時には4番打者に送りバントを命じることもある[77]

その一方で左右病と揶揄されるほど相手投手の利き腕によって打順を大幅に変える采配が目立っている(この傾向は、予告先発制度が導入された2012年度以降で顕著である)。相手投手との相性や自軍の選手の状態にかかわらず積極的に行っているため打順が固定できないという批判が目立っている。また調子の悪い選手をすぐにスタメンから落とすことが出来ずにそのまま起用する傾向も強い。

2011年10月20日の対中日戦では7回まで15奪三振とセ・リーグ記録にあと1まで迫っていた前田健太に代打を送ってしまった。このようなこともあり、野村の采配が「迷采配」と揶揄されることもある。

公認野球規則の認識不足

監督就任後、公認野球規則の認識不足において起こした事件が2度ある。

2010年9月11日、対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム

7回裏一死満塁で大野豊がマウンド上の大島崇行の元へ行き、ベンチに戻って試合が再開された。しかし、この直後に野村がベンチを出て投手交代を告げようとして、審判員に制止された。これは「公認野球規則8.06」にある「プロフェッショナルリーグは、監督またはコーチが投手の元へ行くことに関して次の規則を適用しなければならない。」の(d)「注2」の規定「監督またはコーチが投手のもとへ行った後、ファウルラインを越えて引き上げたら、その投手は、そのときの打者がアウトになるか、走者になるか、または攻守交代になるまで投球した後でなければ退くことはできない。ただし、その打者に代打者が出た場合は、この限りではない。」に触れたためである。

野村の心中は定かではないが、大野は「私のミス」と監督を擁護した。この直後、大島はアレックス・ラミレスに勝ち越し打を許し、次打者の阿部慎之助に40号満塁本塁打を浴びて6-11で敗れた。

2011年5月20日、対オリックス・バファローズ戦(京セラドーム大阪

試合開始前、野村は投手の今村猛を7番・指名打者に起用。当初、偵察要員とするつもりでいたが、試合開始前のメンバー表交換時にオリックス監督の岡田彰布から指名打者は(先発投手が降板しない限り)最低1打席は立たなければならないことを指摘され、ここで初めて当該公認野球規則6.10指名打者(b)の(2)「試合開始前に交換された打順表に記載された指名打者は、相手チームの先発投手に対して、少なくとも一度は打撃を完了しなければ交代出来ない。ただし、その先発投手が交代したときはその必要はない。」を認識する失態を犯した。

今村は2回表、1死1塁の場面で打席に入り送りバント成功。その後、5回に回ってきた第2打席で代打を出された。


詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1989 広島 88 164 151 29 39 4 5 0 53 12 21 5 2 1 7 0 3 21 1 .258 .299 .351 .650
1990 125 576 519 84 149 28 8 16 241 44 33 23 2 1 45 3 9 83 1 .287 .352 .464 .817
1991 132 573 524 75 170 22 7 10 236 66 31 5 5 6 29 0 9 62 7 .324 .363 .450 .813
1992 130 611 545 89 157 22 5 14 231 63 21 6 2 3 56 5 5 73 5 .288 .357 .424 .781
1993 130 602 556 67 148 21 1 14 213 48 12 9 1 1 39 4 5 83 6 .266 .319 .383 .702
1994 130 614 558 77 169 20 4 10 227 61 37 14 4 3 45 5 4 75 7 .303 .355 .407 .762
1995 131 611 550 109 173 29 5 32 308 75 30 8 0 2 53 7 6 60 4 .315 .380 .560 .940
1996 124 562 514 77 150 30 3 12 222 68 8 7 0 5 38 1 5 63 5 .292 .343 .432 .775
1997 131 601 540 81 151 25 0 13 215 52 26 5 0 2 54 3 5 68 10 .280 .349 .398 .748
1998 135 607 561 75 158 26 4 14 234 49 15 9 0 2 41 6 3 63 8 .282 .333 .417 .750
1999 101 387 350 37 102 20 1 6 142 42 2 4 1 1 33 3 2 34 11 .291 .354 .406 .760
2000 61 228 208 15 50 4 1 2 62 17 1 1 0 2 13 1 5 22 6 .240 .298 .298 .596
2001 117 435 403 35 110 18 1 9 157 53 7 4 0 1 31 2 0 59 13 .273 .324 .390 .714
2002 85 187 175 14 37 4 0 3 50 11 1 1 2 1 9 0 0 33 5 .211 .246 .286 .532
2003 94 340 310 25 85 8 0 5 108 32 3 1 1 1 27 1 1 49 10 .274 .332 .348 .681
2004 107 392 359 27 97 18 2 5 134 43 1 2 3 3 24 5 3 48 8 .270 .316 .373 .690
2005 106 297 272 19 75 14 0 4 101 29 1 0 4 2 18 2 1 42 7 .276 .316 .371 .688
通算:17年 1927 7787 7095 935 2020 313 47 169 2934 765 250 104 27 37 562 48 66 938 114 .285 .340 .414 .754
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2010年 広島 5位 144 58 84 2 .408 21.5 104 .263 4.80 44歳
2011年 5位 144 60 76 8 .441 16.0 52 .245 3.22 45歳
2012年 4位 144 61 71 12 .462 26.5 76 .233 2.72 46歳
通算:3年 430 178 230 22 .436 Bクラス3回
  • 2011年、出場停止2試合(6月28日・29日の対阪神タイガース戦、1勝1敗)は通算成績に含まず(代理監督は高信二)。

タイトル

  • 最多安打:2回 (1994年、1995年)※正式タイトル制定前の1991年も記録(正式タイトル制定は1994年)。
  • 盗塁王:3回 (1990年、1991年、1994年)

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000本安打:1995年9月22日、対横浜ベイスターズ23回戦(横浜スタジアム)、5回表にデニー友利から2ラン ※史上181人目(857試合での達成は歴代9位)
  • 100本塁打:1996年5月28日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤ球場)、8回表に山本昌から右越ソロ ※史上187人目
  • 1000試合出場:1997年4月16日、対読売ジャイアンツ2回戦(広島市民球場)、1番・遊撃手として先発出場 ※史上340人目
  • 1500本安打:1999年5月19日、対阪神タイガース8回戦(米子市民球場)、5回裏に井川慶から左前安打 ※史上77人目(1289試合での達成は歴代5位)
  • 1500試合出場:2001年8月26日、対阪神タイガース24回戦(阪神甲子園球場)、6番・三塁手として先発出場 ※史上133人目
  • 150本塁打:2001年10月6日、対中日ドラゴンズ28回戦(広島市民球場)、4回裏に小笠原孝から中越ソロ ※史上119人目
  • 300二塁打:2005年4月1日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、9回表に佐藤宏志から右中間へ二塁打 ※史上42人目
  • 2000本安打:2005年6月23日、対ヤクルトスワローズ8回戦(広島市民球場)、4回裏に川島亮から左前安打 ※史上33人目
  • 250盗塁:2005年7月1日、対読売ジャイアンツ7回戦(東京ドーム)、8回表に二盗(投手:高橋尚成、捕手:阿部慎之助) ※史上37人目
その他の記録
  • トリプルスリー:1回 (1995年)
  • シーズン150安打以上:7回 (1991年、1992年、1994年 - 1998年)※歴代4位タイ。
  • 5年連続シーズン150安打以上(1994年 - 1998年)※歴代5位タイ。
  • 4年連続リーグ最多内野安打(1991年 - 1994年)
  • 通算初回先頭打者本塁打:21本(表6本、裏15本)※歴代9位。
  • 通算初回先頭打者初球本塁打:7本(表3本、裏4本)※歴代1位。
  • シーズン初回先頭打者初球本塁打:3本 (1990年:表2本、裏1本)※歴代2位。
  • 2試合連続初回先頭打者本塁打(1997年8月21日 - 8月22日)
  • 1試合3犠飛(1996年6月30日)※日本タイ記録。
  • 3試合連続三塁打(1990年4月8日 - 4月11日)
  • 20試合連続安打(1994年8月3日 - 8月25日)
  • 10試合連続得点(1995年5月13日 - 5月26日)
  • オールスターゲーム出場:8回 (1990年、1991年、1993年 - 1998年)

背番号

  • 7 (1989年 - 2005年)
  • 77 (2010年 - )

関連情報

過去の出演番組

日本テレビ・広島テレビ
広島テレビ
アール・エフ・ラジオ日本

参考文献

  1. ^ a b c 週刊ベースボール、2004年4月26日号、P.34
  2. ^ 読売新聞、1988年11月25日付朝刊、P.19
  3. ^ a b c d 週刊ベースボール、2004年4月26日号、P.35
  4. ^ 朝日新聞、1984年7月25日付朝刊、P.19
  5. ^ 読売新聞、1986年11月5日付朝刊、P.17
  6. ^ 読売新聞、1987年5月30日付朝刊、P.14
  7. ^ 読売新聞、1987年10月30日付朝刊、P.16
  8. ^ 読売新聞、1988年5月28日付朝刊、P.18
  9. ^ 別冊宝島、1545号、2008年、P.67
  10. ^ a b 別冊宝島、1545号、2008年、P.70
  11. ^ a b 週刊ベースボール、2001年5月7日号、P.41
  12. ^ a b 読売新聞、1988年11月18日付朝刊、P.19
  13. ^ 読売新聞、1988年12月2日付朝刊、P.19
  14. ^ 週刊ベースボール、1990年5月28日号、P.36
  15. ^ a b c 週刊ベースボール、1989年12月18日号、P.138
  16. ^ 1990年NPBオールスターゲーム 公式記録
  17. ^ 週刊ベースボール、2006年1月2日号、P.102
  18. ^ a b c 週刊ベースボール、2001年5月7日号、P.42
  19. ^ 読売新聞、1991年12月6日付朝刊、P.19
  20. ^ 朝日新聞、1991年12月11日付夕刊、P.2
  21. ^ 読売新聞、1992年9月22付朝刊、P.20
  22. ^ 読売新聞、1993年5月8日付朝刊、P.19
  23. ^ 読売新聞、1993年7月22日付朝刊、P.21
  24. ^ 朝日新聞、1994年4月17日付朝刊、P.25
  25. ^ 朝日新聞、1994年12月20日付朝刊、広島地方面
  26. ^ a b c 読売新聞、1995年9月25日付夕刊、P.3
  27. ^ 読売新聞、1995年7月18日付朝刊、P.21
  28. ^ 読売新聞、1995年6月7日付朝刊、P.15
  29. ^ 朝日新聞、1995年10月7日付朝刊、P.28
  30. ^ a b c d e f g 週刊ベースボール、2001年5月7日号、P.43
  31. ^ 読売新聞、1996年2月6日付朝刊、P.19
  32. ^ a b c d 朝日新聞、1996年10月12日付夕刊、P.3
  33. ^ a b 朝日新聞、1996年09月27日付朝刊、広島地方面
  34. ^ 朝日新聞、1996年12月20日付朝刊、P.23
  35. ^ 週刊ベースボール、1997年3月24日号、P.41
  36. ^ スポニチ 日めくりプロ野球09年6月
  37. ^ a b 週刊ベースボール、2004年4月26日号、P.37
  38. ^ 朝日新聞、1998年12月11日付朝刊、P.25
  39. ^ a b 週刊ベースボール、2001年5月7日号、P.40
  40. ^ 読売新聞、2002年10月4日付夕刊、P.2
  41. ^ 読売新聞、2002年9月23日付朝刊、P.24
  42. ^ 中日新聞、2003年4月2日付朝刊、P.25
  43. ^ 毎日新聞、2004年2月27日付朝刊、P.5
  44. ^ 産経新聞、2004年12月11日付朝刊、P.25
  45. ^ 読売新聞、2005年5月12日付朝刊、大分地方面
  46. ^ a b 読売新聞、2005年6月21日付朝刊、広島地方面
  47. ^ 毎日新聞、2005年6月21日付朝刊、大分地方面
  48. ^ 読売新聞、2005年7月10日付朝刊、P.32
  49. ^ 朝日新聞、2005年7月22日付朝刊、広島地方面
  50. ^ 朝日新聞、2005年10月13日付朝刊、P.30
  51. ^ a b 中日新聞、2005年9月17日付朝刊、P.23
  52. ^ 毎日新聞、2007年2月15日付朝刊、P.23
  53. ^ 読売新聞、2008年5月3日付朝刊、P.20
  54. ^ 朝日新聞、2008年10月16日付朝刊、P.18
  55. ^ 朝日新聞、2008年10月28日付朝刊、P.34
  56. ^ Number Web スポーツ・インテリジェンス原論より
  57. ^ ブラウン監督契約合意 年俸、出来高を倍増 中国新聞 2008年10月26日記事
  58. ^ 野村謙二郎 新監督 就任記者会見-広島東洋カープ公式サイトより
  59. ^ 『野村監督「優勝を目指す」原田病院の講演会で熱く』-週刊西広島タイムス 2010年1月8日記事より
  60. ^ 赤松真人 個人成績
  61. ^ 天谷宗一郎 個人成績
  62. ^ 中国新聞 2010年9月22日記事
  63. ^ 【検証】野村カープ元年<下>野手陣の光と影 中国新聞 2010年10月15日記事
  64. ^ 【検証】野村カープ元年<中>長期離脱 中国新聞 2010年10月14日記事
  65. ^ [1]-『前田健太に真のプロ根性を見た』二宮清純・スポーツコミュニケーションズ 2010年9月28日記事
  66. ^ 状態重視し柔軟起用を 中国新聞 2010年7月6日記事
  67. ^ 【検証】野村カープ元年<上>歴史的な投壊 中国新聞 2010年10月13日記事
  68. ^ 「素晴らしい投手、野手は、1回は死ぬ思いをしてきている」 スポーツニッポン 2010年10月16日記事
  69. ^ 「平成23年 第51回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト
  70. ^ 2012年3月25日放送 NHKサンデースポーツより。ただし、落合は「あとは監督次第」と発言していた。
  71. ^ a b Number、1993年1月20日号、P.40
  72. ^ 読売新聞、2006年8月29日付朝刊、P.3
  73. ^ a b 読売新聞、1988年5月27日付朝刊、P.18
  74. ^ 週刊ベースボール、1989年6月12日号、P.34
  75. ^ a b 週刊ベースボール、2009年8月3日号、P.24
  76. ^ a b Number Web “守備の華”遊撃手で最高の選手は?
  77. ^ 2013年5月6日の対横浜DeNA戦(マツダスタジアム)において、1点ビハインドで迎えた8回裏の無死1・2塁という場面で4番の廣瀬純にバントを命じたが結果は失敗に終った。

関連項目

外部リンク

');