コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

松平宗発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本庄宗発から転送)
 
松平宗発
時代 江戸時代後期
生誕 天明2年7月2日1782年8月10日
死没 天保11年8月25日1840年9月20日
官位 従四位下伯耆守侍従
幕府 江戸幕府 奏者番寺社奉行大坂城代京都所司代老中
主君 徳川家斉家慶
丹後宮津藩
氏族 本庄松平家
父母 松平資承松平宗允
兄弟 資統宗允宗発資恭安藤直馨
資克資譲富田知良正室、
堀田一知正室、歌子、朽木綱方正室、
水野忠啓正室
牧野康儔
宗篤那須資懐村上常要戸川安行
西尾忠固正室、洵子、青山幸礼正室、
松平信宝継室、安藤信正正室、
安部信任正室、久野純固室、中西元良室、宗秀
テンプレートを表示

松平 宗発(まつだいら むねあきら)は、江戸時代後期の大名老中丹後国宮津藩5代藩主。本庄松平家8代。

第3代藩主・松平資承の三男。第4代藩主・松平宗允の弟。正室は牧野康儔の娘。

生涯

[編集]

奏者番寺社奉行大坂城代京都所司代を経て、老中に就任した。藩の財政回復のために万人講という政策を行った。万人講は、領民に1日3の貯蓄をさせ、毎月庄屋がそれを集めて上納させる政策であったが、各地で反対する打ち壊しが発生し、文政2年(1822年)に廃止された。宗発死後、家督は養子の宗秀(宗允の三男)が継いだ。

略歴

[編集]

系譜

[編集]