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「ブルーインパルス」の版間の差分

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{{Otheruses|航空自衛隊の曲技飛行隊|[[グループ・サウンズ]]のバンド|ザ・ブルーインパルス}}
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{{画像提供依頼|展示飛行の課目の画像|cat=航空|date=2013年6月}}
{{複数の問題
{{ Infobox Military Unit
| 出典の明記 = 2013年3月
| 名称 = <small>'''[[第4航空団]]飛行群'''</small><br />'''第11飛行隊'''
| 参照方法 = 2013年3月
| 画像 =BlueImpulseMark.svg
| 画像サイズ= 220px
| 創設 = [[1960年]]4月16日<br />([[第1航空団]]第2飛行隊内「空中機動研究班」として)
| 廃止 =
| 国名 = {{JPN}}
| 軍種 = {{JASDF}}
| 上級部隊 =
| タイプ =
| 任務 = [[曲技飛行]]による航空自衛隊の広報活動
| 兵力 =
|equipment_label=使用機種 | 作戦機 = {{Indented plainlist|
*[[ノースアメリカン]]/[[三菱重工業]] [[F-86 (戦闘機)|F-86F]](1960年4月16日から[[1981年]]3月31日まで)
*[[三菱重工業]] [[T-2 (航空機・日本)|T-2]]([[1982年]]7月から[[1995年]]12月22日まで)
*[[川崎重工業]] [[T-4 (練習機)|T-4]](1995年12月22日以降)}}
| 基地 = {{Indented plainlist|
*[[浜松基地]](1960年4月16日から1981年3月31日まで)
*[[松島基地]](1982年7月以降)
}}
}}
| ニックネーム = '''ブルーインパルス'''
{{Infobox military unit
| モットー = 創造への挑戦(Challenge for the Creation.)<ref name="2010-b-153" />
|unit_name= '''ブルーインパルス''' <br /> '''第4航空団第11飛行隊'''
|battles_label=主なミッション| 主な戦歴 = {{Indented plainlist|
|image=[[画像:Blue Impulse(Japan Air Self-Defense Force).jpg|300px]]
*[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]における展示飛行([[1964年]])
|caption=展示飛行中のT-4
*[[日本万国博覧会]]における展示飛行([[1970年]])
|dates= 1960年4月12日
*[[ネリス空軍基地]]における展示飛行([[1997年]])
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*[[#コロナ・パンデミックにおける医療従事者等への応援|新型コロナウイルス対応にあたる医療従事者への応援]]([[2020年]])
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*[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]における展示飛行([[2021年]])
|branch= [[File:Japan Air Self-Defense Force roundel.svg|20px]] [[航空自衛隊]]
*[[2020年東京パラリンピック|東京パラリンピック]]における展示飛行(2021年)
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|role= 曲芸飛行
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}}
'''ブルーインパルス'''(Blue Impulse)は[[航空自衛隊]][[第4航空団]]第11飛行隊所属の[[曲技飛行隊]]の[[愛称]]である。愛称は初期の[[識別信号|コールサイン]]「インパルス・ブルー」<ref>浜松基地第1航空団第2飛行隊所属時代のコールサインは「インパルス」。さらに小規模の編隊にはカラーコードが付けられ、アクロ編隊には決まって「ブルー」が与えられていたため「インパルス・ブルー」と呼ばれていた。</ref><ref>訓練時は現在も「インパルス・ブルー」を使用する</ref>が由来である。


'''ブルーインパルス'''({{Lang-en-short|'''Blue Impulse'''}} <ref>{{Cite web|title=Blue Impulse |publisher=航空自衛隊(英語版HP)| url=https://www.mod.go.jp/asdf/English_page/events/ |accessdate=2021-10-10}}</ref>)とは、[[航空自衛隊]]に所属する[[曲技飛行隊]](アクロバット飛行チーム)<ref name="2003-m-71" />{{r|"kb知恵蔵"|"kb泉"|"kb平百"}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20210824-JN6KIKIBGVLHLAO3ER4UXHLXPM/?outputType=theme_tokyo2020|title=ブルーインパルスが飛行 パラシンボルカラー描く|publisher=産経ニュース|date=2021-08-24|accessdate=2021-08-24}}</ref>の[[愛称]]<ref name="2003-m-71" />。
== 概要 ==
[[1958年]]、航空自衛隊の戦闘機教官が独断で行った編隊飛行が上官の目に留まったこと、また1959年に行われた[[サンダーバーズ]](United States Air Force Air Demonstration Squadron、[[アメリカ空軍]]航空実演中隊)の日本公演を見た当時の[[航空幕僚長]]・[[源田実]]<!--曲技飛行の「源田サーカス」で有名-->が打ち出した構想をきっかけに[[1960年]]、[[浜松基地|浜松]]・第1航空団第2飛行隊内に空中機動研究班として発足した。


当初は[[部隊]]の中の1チームという位置づけで、[[1995年]](平成7年)に正式に一[[部隊]]として独立した。正式部隊名は'''[[第4航空団]]飛行群第11飛行隊'''で、広報活動を主な任務とし<ref name="2010-g-44" />、展示飛行<!--毎回アクロとは限らないからここはこの表現で-->を専門に行う部隊である<ref name="2003-g-64" />。世界の曲技飛行隊の中でも、スモークを使って空中に描画する、いわゆる「描きもの」を得意とするチームである<ref name="2010-b-152" />。少数機による密接した編隊での精密な演技を得意としている{{r|"kb平百"}}。現在の本拠地は[[宮城県]]の[[松島基地]]である。
その後公募したニックネーム「天竜」を用いたが、この「Tenryu」の「r」の発音に管制上支障が出たため「チェッカー・ブルー」後に「ブルーインパルス」<ref>当時編隊長だった稲田淳美3佐は、愛称をコールサインのまま「インパルス・ブルー」にするか「ブルーインパルス」にするか悩んでいた。その時、呉市出身で広島に投下された原爆を呉から山越しに見た奥さんから「もし衝撃的というのなら、その結果があまりにも悲惨ではあるけれど、原爆のあの青い閃光の衝撃ほど強烈なものはない」と言われ、この言葉が決め手になったという。(武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』100頁より)</ref>に変更。第4航空団第21飛行隊戦技研究班になるなど何度かの改編が行われた後、現在の正式名は[[宮城県]][[松島基地]]に所属する第4航空団第11飛行隊となった。


本項では、[[日本軍|旧日本陸海軍]]が行なっていた[[曲技飛行]](アクロバット飛行)の歴史を踏まえたうえで第11飛行隊の体制についても解説する。また、第11飛行隊では、ブルーインパルスがイベント等で行う飛行のことを「展示飛行」<ref name="2003-g-12" />、展示飛行の開催地に向かうことを「展開」と呼んでいる<ref name="2003-g-12" /> ため、本項の記述もこれに準ずる。
ブルーインパルスは日本各地で行われる[[航空ショー|航空祭]]や民間イベント等に出演し、毎年平均20回程の展示飛行を実施している。


なお、[[航空交通管制]]における編隊の[[識別信号|コールサイン]]は、愛称がそのまま用いられている<ref name="2003-m-71" />。
なお、同基地にはパイロット以外のスタッフで結成された[[ブルーインパルスジュニア]]も部活動として所属しており、各地の航空祭で展示'''走行'''を行っている。


=== 第11飛行隊 ===
== 沿革 ==
本項では、自衛隊以前での階級については当時の階級で記述する。使用機材の変遷については[[#歴代運用機|歴代運用機]]節を参照。
'''第11飛行隊'''(だい11ひこうたい、JASDF 11th Squadron)は、航空自衛隊航空教育集団第4航空団飛行群に所属する航空自衛隊の飛行隊である。


=== 前史 ===
[[コールサイン]]は「ブルーインパルス」(Blue Impulse―蒼い衝撃)。航空自衛隊の飛行隊の中で実質上、唯一飛行隊の愛称が公式に発表されている部隊でもある<ref>部隊マークの中に飛行隊の[[コールサイン]]が含まれるほか、[展示飛行の際の会場アナウンスや航空自衛隊のウェブサイトなどでブルーインパルスの正式名称が第11飛行隊であることがアナウンスされている。</ref>。
==== 源田サーカス ====
1994年10月1日、第4航空団に、当時の次期T-4ブルーインパルスとして臨時第11飛行隊を新編。翌年1995年の12月22日に「臨時」が取れ、第11飛行隊として編成された。
[[1916年]](大正5年)に開隊された[[大日本帝国海軍|旧海軍]]の[[横須賀海軍航空隊]]は、当初の任務は教育や飛行練成が主だった<ref name="2011-t-81" /> が、航空隊が各地に開隊される頃からは、戦技研究や[[航空機]]の実用試験を主な任務として行うようになっていた<ref name="2011-t-81" />。海軍では、一般からの[[国防献金|献金]]によって製造された[[戦闘機]]や[[爆撃機]]を「報国号」と称しており<ref name="2011-t-81" />、[[1932年]](昭和7年)ごろから献納式典の際に、民衆の前で曲技飛行を行うようになった<ref name="2011-t-81" />。これが日本におけるアクロバット飛行の始まりで<ref name="2011-t-81" />、当時は「編隊特殊飛行」と称していた<ref name="2003-g-93" />。この編隊特殊飛行を考えたのは、当時海軍の戦闘機分隊長だった小林淑人大尉で<ref name="2011-t-81" />、小林が率いる編隊特殊飛行チームは「三羽烏」「空中サーカス」と新聞で持てはやされた<ref name="2011-t-82" />。またこれに先駆ける[[1925年]](大正14年)、[[大日本帝国陸軍|旧陸軍]]の[[所沢陸軍飛行学校]]で行われた[[航空兵科]]独立記念祝典にて、数万の観衆のもと空中分列式と並んで各種飛行曲技の供覧が実施されている<ref>[[新藤常右衛門]] 『あ丶疾風戦闘隊 - 大空に生きた強者の半生記録』光人社、1971年、pp.53 - 54</ref>。


一方、[[1931年]](昭和6年)に発生した[[柳条湖事件]]を機として[[満州]](現在の[[中国東北部]])を制圧した[[関東軍]]に当時の日本社会は高揚し、「報国号」の献納数も増えることになった<ref name="2011-t-82" />。ちょうど[[1933年]](昭和8年)に[[源田実|源田實]]が戦闘機分隊に配属され、編隊特殊飛行チームを受け継いだ時期と重なったため、曲技飛行の機会も増加し、使用する戦闘機の数も9機にまで増加した<ref name="2011-t-82" />。これらの編隊特殊飛行は、専ら[[九〇式艦上戦闘機]]を使用して行なわれた<ref name="1997-g-213" />。課目には「3機編隊で急降下し、引き起こし中に1機だけ背面飛行となり、そのまま急上昇」というものもあり、列機はほとんど姿勢を崩さなかったという<ref name="2005-m-63" />。こうして、編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称が定着していった<ref name="2011-t-83" />。しかし、戦争の激化と共に編隊特殊飛行は行なわれなくなった。
ブルーインパルスはこの第11飛行隊としての独立・[[展示飛行]]専任部隊化とともに、部隊の1セクションという足かせが外されることとなった。他の部隊並みの人事権が与えられたほか、非常に制限された訓練空域<ref>訓練空域は現在、第11飛行隊に対しては太平洋上に金華山を中心とする扇型の空域が割り当てられているが、シーフォグが発生するなど必ずしも訓練に適した環境ではない。さらに2000年の事故以降はその対策として最低高度と曲技飛行自粛区域が設けられ、実質訓練空域が狭くなった。また対地感覚を養おうにもホームベースの松島基地上空は他の部隊の都合もあり、週に3回曲技を行えれば良い方である。そのため、砂漠の中心に専用のエリアを割り当てられ状況さえ許せば常にフィールドトレーニングを行える[[サンダーバーズ]]など、他国の曲技飛行チームと比べると訓練環境では劣る。
</ref>を除けば諸外国の曲技飛行チーム並みの設備が整備されることとなり、[[松島基地]]内のアラートハンガー跡地に隊舎、[[ハンガー (航空)|ハンガー]]、[[エプロン (飛行場)|エプロン]]が設置された。


==== 創造への挑戦 ====
==== 自衛隊設立後 ====
[[第二次世界大戦後|第二次世界大戦が終結した後]]しばらくは、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) の「301号訓令」によって、日本では航空機の製造や研究などが許されない時期が続いた<ref name="2011-t-41" />。これが解除されたのは[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]によって日本の[[主権]]が回復した[[1952年]](昭和27年)で<ref name="2011-t-41" />、同年10月には[[保安隊]]が発足し、翌[[1953年]](昭和28年)1月からは保安隊航空学校において操縦教育が開始された<ref name="2011-t-65" />。さらに、[[1954年]]には[[自衛隊法]]が成立し<ref name="2011-t-66" />、保安隊は自衛隊に改組されることになり、同年7月には航空自衛隊が発足した<ref name="2011-t-67" />。
部隊の標語は「創造への挑戦(Challenge for the Creation.)」。これはブルーインパルス史上最長のメンバー歴を誇る塩澤信行[[中佐|2等空佐]](2005年現在)が、T-4準備班長の時代に掲げた言葉であり、今も連綿と受け継がれている。


[[ファイル:F-84F Thunderbirds.jpg|thumb|1955年か1956年ごろのサンダーバーズ]]
またT-4ブルーインパルスの歴代飛行隊長は隊を去る際、言葉を残していく慣例がある。初代田中光信隊長「魅」、第2代阿部英彦隊長「爽」、第3代塩澤信行隊長「夢・感動」、第4代渡邉弘隊長は「風」、第5代西村弘文隊長は「墨」、第6代倉田裕隊長は「道」、そして第7代山口英章隊長は「心」である。
[[1955年]](昭和30年)には[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定|MSA協定]]によって、航空自衛隊はアメリカからジェット戦闘機の[[F-86 (戦闘機)|F-86Fセイバー]]の供与を受けることになった<ref name="2003-g-87" />。これに対応し、[[パイロット (航空)|パイロット]]の一部は教官課程に進むために[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[留学]]することになった<ref name="2003-g-98" />。この時に日本のパイロットが留学していたのが[[アメリカ空軍]]の[[ネリス空軍基地]]で、留学生のうちの1人のパイロットは、基地で見た[[サンダーバーズ]]のアクロバット飛行演技に深く感銘を受けた<ref name="2003-g-98" />。また、アクロバット飛行チームのメンバーになることが、戦闘機パイロットにとっては大変な栄誉であることも目の当たりにした<ref name="2011-t-74" />。


このパイロットは帰国後に[[浜松基地]]の第1航空団第1飛行隊の教官として着任し<ref name="2003-g-98" />、当時浜松基地に主任教官として在日アメリカ軍事援助顧問団 (MAAGJ) から赴任していた<ref name="2011-t-74" /> ジョー・ライリー大尉の助言を受け<ref name="2011-t-75" />、同僚を誘い、[[1958年]](昭和33年)ごろから飛行訓練の合間にアクロバット飛行の訓練を行うようになった<ref name="2010-b-145" />。
==== 歴代運用機 ====
''臨時第11飛行隊編成前の歴代運用機は[[#歴代使用機体|歴代使用機体]]の節を参照のこと。''
* T-4(1994年- )戦技研究仕様機のほかに支援用として通常型のT-4を運用している。


これは極秘裏に行なった訓練で、やがて飛行隊長の知るところとなった<ref name="2010-g-91" />。この飛行隊長は叱責するどころか訓練の趣旨に共感し、すぐに航空団の上層部にかけあって、正式に訓練できる環境を整えた<ref name="2010-g-91" />。そのうえ、1958年秋に行われる浜松基地開庁記念式典のアトラクションとして、アクロバット飛行の公開を行うことが認められた<ref name="2010-b-145" />。まもなく3番機が訓練に加わり<ref name="2010-g-91" />、3機編隊での本格的な訓練が開始された<ref name="2010-b-145" />。3人は教官として学生訓練を終えた後、午後4時ごろからアクロバット飛行の訓練を行なっており、1ヶ月で60時間ものフライトを行っていたという<ref name="2010-b-145" />。この時期の第1飛行隊のコールサインは「チェッカー」で<ref name="2003-g-99" />、編隊飛行の際にはこれに編隊名として色名をつけており<ref name="2003-g-99" />、アクロバット飛行チームでは「チェッカー・ブルー」というコールサインを使用していた<ref name="2010-g-91" />。
== 歴代使用機体 ==
=== F-86F 1960年 - 1981年 ===
[[File:JASDF Blue Impulse team at Yokota AB 1981.JPEG|thumb|300px|[[横田飛行場|横田基地]]でのブルーインパルス(1981年)]]
[[画像:F86Blue_Hamamatsu.jpg|thumb|300px|浜松広報館のブルーインパルスF-86F(02-7966)]]
初代機体[[F-86 (戦闘機)|F-86F]]は、航空自衛隊創設に当たり、アメリカから供与された当時の主力戦闘機である。[[東京オリンピック]]の開会式で五輪の輪、[[日本万国博覧会|大阪万博]]開会式で EXPO70 の文字を空に描いたことなどで知られる。22年間に545回の公式展示飛行を行った。


同1958年10月19日には、この3名によるチームにより、航空自衛隊によるアクロバット飛行が初めて一般に公開された<ref name="2010-b-145" />。使用機材は通常装備のF-86Fであり、スモークも特別塗装もなかった<ref name="2010-b-145" /> ものの、ジェット機のアクロバット飛行は映画の中でさえ珍しかった時代に、航空自衛隊関係者と観客に与えた衝撃はかなりのものだったといわれている<ref name="2003-g-99" />。この後に4番機が加わり<ref name="2003-g-99" />、翌[[1959年]](昭和34年)3月15日には[[愛知県]][[犬山市]]で行なわれた日本平和防衛博覧会の開会式<ref name="2010-g-91" />、同年3月20日の[[防衛大学校]]卒業式<ref name="2010-b-145" />、同年4月26日の[[名古屋空港]]祭において展示飛行が行われた<ref name="2003-g-99" />。
当時は訓練空域が今ほど飛行場から遠くはなく、錬度の維持が行いやすかった。そのため演技の精度は高く、さらに規制も緩やかだったために「草をぶっちぎる」といわれるほど高度が低かった。


ここでチームはいったん解散という形態をとることになる<ref name="2010-g-91" /> ものの、アクロバット飛行の訓練は継続された<ref name="2003-g-99" />。その後、同年8月にアクロバット飛行チームのリーダーは交代することになり<ref name="2003-g-99" />、リーダーの所属する第2飛行隊のコールサインが「インパルス」だったため、アクロバット飛行チームは「インパルス・ブルー」というコールサインを使用することになった<ref name="2010-g-92" />。
あまりの低空で後方の観客は演技が見られないうえ、エンジンの爆音が機体の後ろから必死に追いかけてくるほど速い亜音速での全力単独超低空飛行や、上方空中開花の直後、急降下した4機が前後左右から超低空で会場に進入し同時に至近距離で上下左右に交差する演技、パイロットの度胸を見せ付ける超低空での背面単独飛行など、今ではありえない連続技や度肝を抜く演技が多く、旧軍戦闘機パイロットの伝統を受け継ぐ凄まじい高錬度を観客に見せ付けた。観客から、自然に「最強(パイロット)!」との歓声が上がったのが、この時代のブルーインパルスの特徴であり、「これ以上はありえない」と多くの観客が思ったことが、F86ブルーインパルスが今や伝説の部隊となっている理由であろう。


同年12月にアメリカ空軍のサンダーバーズが来日し<ref name="2010-b-145" />、同月12日には埼玉県の[[入間基地|ジョンソン基地(当時)]]において超音速ジェット戦闘機の[[F-100 (戦闘機)|F-100Dスーパーセイバー]]を使用したアクロバット飛行を披露した<ref name="2010-b-145" />。この時、航空自衛隊のアクロバット飛行チームもフライトを見学し、パイロットや地上要員のパフォーマンスを観察した<ref name="2003-g-99" /> ほか、整備員はサンダーバーズのメンバーからスモーク発生方法に関する情報を得ることが出来た<ref name="2010-g-92" />。
主な改修点は機内燃料タンクの発煙油タンクへの転用、スモーク発生装置のエンジンノズル後方への設置。また一部の計器の配置変更や置き換えも行われている。使用しない[[機関銃]]の銃口はプラグで封鎖したが、機関銃自体は重心位置に変更が生じないようバラストとしてそのまま残された。


=== F-86F時代(1961年→1981年) ===
当初はG制限が緩やかになることから展示飛行やその訓練ではドロップタンクをはずしていたが、燃料タンクの容量不足が問題化し、後に展示飛行でもドロップタンクを装着することとなった。
==== 正式発足へ ====
この間にアクロバット飛行チームはいったん活動休止状態になったものの、水面下では航空自衛隊アクロバットチーム設立に向けた準備が進められていた<ref name="2003-g-99" />。とはいえ、自衛隊内部でも「基地上空での曲技飛行は規則違反」<ref name="2011-t-76" />「国家公務員が曲芸ショーなどやる必要はない」<ref name="2011-t-79" /> という反対意見も根強かった。


しかし、1959年(昭和34年)7月に[[航空幕僚長]]が交代すると、航空幕僚長自身がアクロバットチーム設立に対して直接介入するようになった<ref name="2011-t-79" />。この時の航空幕僚長は、戦前に「源田サーカス」と称してアクロバット飛行を披露していた経験がある[[源田実|源田實]]である<ref name="jw106-22" />。源田は過去の経験から、アクロバット飛行が一般人を引きつけることで、自衛隊が国民に親しまれる効果だけではなく、隊員の士気向上にも効果があることを知っていたと考えられている<ref name="2003-g-99" />。また、非公認のままでは、訓練中に事故死しても[[殉職]]扱いにならない可能性がある<ref name="2011-t-77" /> ため、源田は「万一の事故でも名誉ある措置が取れるように」と考えた<ref name="2011-t-77" />。
機体の塗装は、東宝映画『[[今日もわれ大空にあり]]』への撮影協力をきっかけに東宝デザイナーが担当することとなったものが良く知られる。それ以前には、一般機とほぼ同じ「無塗装」、部内公募された金属の地肌に青とピンクと白の斜ストライプ・編隊長機のみ金とピンクと白の「旧塗装」、新塗装の原案にあたる「試験塗装」があった。


こうして、アクロバット飛行チームの制式化は航空幕僚長である源田の内諾を得られ<ref name="2003-g-99" />、パイロットも7名に増員されて訓練が続けられた<ref name="2010-g-92" />。[[1960年]](昭和35年)3月4日には、[[浜松基地|浜松北基地]]で第1航空団司令と空幕防衛部長がアクロバット飛行の仕上がり具合をチェックすることになり<ref name="2003-g-99" />、16課目のアクロバット飛行を披露した<ref name="2010-g-92" />。なお、当初は展示飛行のことを「公開飛行」と称していた<ref name="2003-m-73" />。まだアクロバット飛行チームは制式化されていなかったものの、これがブルーインパルスの第1回目の公式展示飛行とされている<ref name="2010-g-92" />。この検閲の結果、第1航空団司令と空幕防衛部長は「合格」という判断を下した<ref name="2010-g-92" />。この報告を受けた源田は、同年4月12日の公式展示飛行を視察した上<ref name="2010-g-92" />、同年4月16日にアクロバット飛行チームの編成を下命した<ref name="2010-g-92" />。
F-86F時代の使用機体は全機改修にて取得されており、ブルーインパルス向けとして新造された機体は存在しない。原則として[[浜松基地]]に配備されていた機体の中から機銃の命中精度が悪い、オーバーGを経験しておらずアライメントの変化による変な癖を持っていない、などの条件がそろった機体を選び出し改修していた。


この下命を受けて、第2飛行隊内に「空中機動研究班」が制式発足した<ref name="2003-g-99" />。空中機動研究班の目的は「戦闘機パイロットには不可欠の要素である操縦技術・チームワーク・信頼心・責任感・克己心を研究訓練し、技術と精神力の限りない練磨と向上」<ref name="2003-m-72" />、展示飛行の目的も「チームの力を最大に発揮し、戦闘隊戦力の一端を多くの人に身近に観察する機会を与えるとともに、航空意欲の高揚を図る」と定められていた<ref name="2003-m-73" />。なお、空中機動研究班は1個の独立した部隊ではなく、第1航空団の教官から選抜されたパイロットによるチームであり<ref name="2003-g-99" />、教官としての職務の傍らでアクロバット飛行訓練と展示飛行を行っていた<ref name="2003-g-99" />。また、このときに考えられた課目は、ほぼすべてがサンダーバーズの課目構成に倣ったものだった<ref name="2003-g-99" />。
使用された計34機のうち、ブルーインパルス所属のまま事故で失われたのは4機。そのうちの一機はブルーインパルスとは関係のない学生訓練中に発生した空中接触事故で失われている。この34機の中には[[アメリカ軍|米軍]]からの供与機も含まれており、それらの機体は引退後米軍に返還されている。そして無人標的機QF-86Fに改造されてミサイル実験の標的となり、空に散った。


==== 愛称決定と特別塗装の導入 ====
現在02-7966号機と02-7960号機が[[浜松広報館]]に保存されている。また、ブルーインパルスに所属した履歴のある12-7995号機が[[浜松基地]]北門前にモニュメントとして保存されているが、記入されているシリアルナンバーは既にスクラップとなっている#929号機のものである。
同1960年(昭和35年)5月21日にはジョンソン基地において行われた「三軍統合記念日公開」において展示飛行が行われ<ref name="2010-g-92" />、このときに初めてスモークが使用された<ref name="2010-b-145" />。なお、機体にはまだ特別な塗装はされていなかった<ref name="2010-g-92" />。同年8月1日には部隊名が「空中機動研究班」から「特別飛行研究班」に変更された。また、これとは別に親しみやすい愛称を設定することになり、自衛隊の部内で公募を行なった結果、浜松基地の近くを流れる[[天竜川]]にちなんで<ref name="2003-g-99" />「天竜」という愛称が採用されることになった<ref name="2010-g-92" />。ところが、[[航空交通管制]]のコールサインとして使用すると、アメリカ軍の[[航空管制官]]にとっては発音が難しい上<ref name="2003-g-99" />、古臭いという意見もあった<ref name="2010-b-145" />。そこで、これまで使用していた「インパルス・ブルー」を逆にした「ブルーインパルス」(青い衝撃)としたところ<ref name="2010-g-92" />、語呂もよく一般にも分かりやすいという理由により、正式な愛称として決定した<ref name="2003-g-99" />。編隊長であった稲田淳美3佐が愛称の命名を担当しており、「インパルス・ブルー」とするか「ブルーインパルス」に変更するかで迷っていたという<ref name="2011-t-100" />。彼の妻が「衝撃という意味では、[[原子爆弾|原爆]]の青い閃光ほど衝撃的なものはない」と言ったことから「ブルーインパルス」に決まったという<ref name="2003-m-72" />。


こうして、制式化された「ブルーインパルス」は、1960年には13回の公式展示飛行を行った<ref name="2003-g-100" />。ところが、公式展示飛行が20回を超えた後の1961年7月4日、当時チームに所属していたパイロットが学生訓練中に接触事故を起こしてしまった。パイロットはパラシュートで脱出したものの首の骨を折り同時にチームを転出した。<ref group="注釈">墜落した機体は当時ブルーで使われていた02-7943号機だが、この事故はあくまで学生訓練中に発生した事故のため、ブルーインパルスとしての事故ではない。</ref>さらに1961年7月21日<ref name="2010-g-92" />、次期編隊長機として訓練を行なっていたF-86Fが[[伊良湖岬]]沖で墜落しパイロットは殉職<ref name="2003-g-100" />。ブルーインパルスでは初の犠牲者となってしまった<ref name="2003-g-100" />。このため、ブルーインパルスは約1ヶ月ほど飛行停止となり<ref name="2010-b-145" />、事故調査の結果を受けて安全対策が整えられた<ref name="2010-g-92" />。なお、この時期はブルーインパルスに限らず、各地の飛行隊で墜落事故が多発していた<ref name="2010-b-146" />。防空上からもパイロット育成が急がれたため、事故から飛行再開までは短期間であった<ref name="2010-b-146" />。
[[春日基地]]に保存されている#777号機(82-7777)は、カラーリングを「ブルーインパルス」風に塗装してあるだけで、ブルーインパルスに所属した事はない。


この事故を契機として、それまで第1飛行隊と第2飛行隊から選抜されていたパイロットの所属をすべて第2飛行隊とすることによって、パイロットのスケジュール調整を容易にした<ref name="2003-g-100" />。
河口湖自動車博物館にも個人収蔵のブルーインパルス塗装02-7960号機が展示されているが、前記の通り本物の02-7960号機は[[浜松広報館]]に館内展示されており、河口湖自動車博物館の機体の本来のシリアルナンバーは02-7962である<ref>JARG(日本航空機研究会)発行のシリアルリスト2001年版による。なお、#962号機はブルーインパルスに所属したことのある機体である。</ref>。


[[ファイル:Sabre-aero.jpg|thumb|特別塗装機とカラースモーク]]
=== T-2 1982年 - 1995年 ===
この時期まで、ブルーインパルスに使用されている機体はスモーク発生装置を装備していること以外は通常の塗装デザインであった<ref name="2003-g-100" />。しかし、編隊飛行でのポジション取りのための目印が少ないうえ<ref name="2003-g-100" />、派手さにも欠けていた<ref name="2010-b-146" />。このため、隊員から塗装デザイン案を募集したうえで、初代となるブルーインパルス塗装が採用されることになった<ref name="2003-g-100" />。これと並行して、カラースモークを発生させる研究も進められ<ref name="2003-g-100" />、[[1961年]](昭和36年)10月22日の展示飛行で初めて特別塗装機とカラースモークが披露された<ref name="2010-b-146" />。
[[画像:T2Blue_111.jpg|thumb|300px|ブルーインパルスT-2(#111)、トーチングでの離陸]]
2代目機体[[T-2 (航空機・日本)|T-2]]は、日本国産初の超音速高等練習機。運用機は'''戦技研究用機'''と呼ばれた。


[[1963年]](昭和38年)9月には、[[東宝]]の映画『[[今日もわれ大空にあり]]』の撮影に第1航空団とブルーインパルスのパイロットが協力することになった<ref name="2003-g-100" />。この撮影期間中に東宝からブルーインパルスの塗装デザイン案の提供の申し入れがあり<ref name="2003-g-100" />、プロのデザイナーが新塗装のアイデアを提供した<ref name="2010-b-146" />{{refnest|group="注釈"|name="東宝"|東宝のデザイナーが考案したといわれているが、実際にはチーム内で検討した塗装案を東宝のデザイナーが手直しして、正式デザインが決定された<ref name="2010-b-40" />。}}。これが正式に2代目となるブルーインパルス塗装として採用されることになった<ref name="2010-b-146" />。この新デザインを施した機体は、1963年10月5日に[[美保飛行場|美保基地]]で行われた[[航空ショー|航空祭]]において披露された<ref name="2010-g-93" />。
離陸時に[[アフターバーナー]]を使用してスモークオイルに点火する「トーチング」<ref>スモークオイルを噴出しないでアフターバーナーを使用するとスモーク発生装置のノズルが溶解してしまうために取られた措置であったが、トーチングが好評だったために装置の改修などは最後まで行われなかった(ノズルの位置を後方に移設する改修が行われているが、これは通常使用時のスモークの発煙性向上を狙ったものである)。</ref>や長い助走を使った力強い演技が売り。5番機による「単独機最大能力旋回」は、その音と動きが特にダイナミックだった。


==== 東京五輪で五輪を描く ====
T-2時代末期の1994年には[[三沢基地]]航空祭でアメリカ空軍の「[[サンダーバーズ]]」との競演も果たしている。事故による中断も挟み、14年間に175回の公式展示飛行を行った。
これより少し遡る1963年(昭和38年)1月、東京オリンピック組織委員会 (OOC) よりブルーインパルスに対して、[[1964年]](昭和39年)10月10日の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]](東京五輪)開会式における祝賀飛行の要請があった<ref name="2003-g-100" />。


ただし、当時航空幕僚長だった源田は1961年(昭和36年)から1962年(昭和37年)にかけて、[[自由民主党 (日本)|自民党]]議員団や財界人、さらにはアマチュアレスリング協会の会長も浜松基地に呼んで展示飛行を行わせていた<ref name="2011-t-18" />。また、東京五輪の準備に際しては防衛庁も「オリンピック準備委員会」を設けており、自衛隊も協力することになっていた<ref name="2011-t-17" />。陸上自衛隊は[[祝砲]]を放ち、海上自衛隊は[[オリンピックシンボル|五輪旗]]を掲げて[[行進]]を行うことになっていたが、航空自衛隊の協力できる部分がなかった<ref name="2010-b-58" />。源田は1962年の[[参議院]]選挙に出馬して政界入りしており<ref name="2011-t-16" />、その直前に「開会式の上空に五輪を描く」ことを発案し、航空幕僚長から退官する際に業務引継ぎ事項の中に加えた<ref name="2011-t-17" />。さらに、源田は政界入りした後も、オリンピック開催準備委員長でもあった参議院議員の[[津島壽一]]に対して、空に五輪を描くことを提案していた<ref name="2011-t-19" />。こうした事情から、このOOCからの要請は源田の根回しの結果であるといわれている<ref name="2011-t-20" />。
超音速機であり翼面荷重が大きく、またエンジン推力が比較的小さいため高機動を行うと速度低下が著しく、課目間のつなぎのための旋回(プロシージャーターン)がF-86F時代に比べてどうしても大きくなってしまうことにより、演技に間延びした感が出てしまうのは致し方ないことだった。この間延び対策のためにF-86F時代の標準だった5機編隊にソロを一機加えた6機編隊へと変更された。


この結果、当初は単なる航過飛行(フライバイ)の要請であった<ref name="2006-b-83" /> が、第1航空団の飛行群司令からブルーインパルスに対して「五輪を描け」というオーダーが入ることになった<ref name="2011-t-14" />。同年<!--※前段に年の表記が多すぎてどの年に係るのか閲覧者には甚だ不明瞭です。1964年ならそのように数字で示して下さい。-->5月23日にはOOCの事務局から数名のスタッフが浜松基地を訪れ<ref name="2011-t-15" />、ブルーインパルスのアクロバット飛行を見学した後、スモークで五輪を描く任務が具体化することになった<ref name="2011-t-15" />。
改修点は、アクロバット飛行用に胴体内の第7タンクをスモークオイル用に転用したスモーク発生装置、非力なためフルスロットルでなくともアフターバーナーを使用可能にするパート・スロットル・アフターバーナー(PTA)は右エンジンも使用するとスモークオイルが完全燃焼してしまうため左エンジンのみ使用可能とするスイッチを追加装備、[[コックピット]]への握り手の追加、一部計器の配置や仕様の変更、スモークオイル残量計の追加などである。また初期にはブルー仕様機は、後期型でも通常の前期型同様に機銃の代わりにバラストを搭載していたが、機体を学生教育に使用する際に支障が出たために、のちに機銃を搭載することとなった。


この準備に際して、まずブルーインパルス側である程度の案を作成し<ref name="2011-t-20" />、これを叩き台にしてOOCが開会式典の構成を策定した<ref name="2011-t-20" /> 結果、OOCから航空自衛隊への要望は「五輪マークを15時10分20秒から描き始め、位置は[[昭和天皇]]が座るロイヤルボックスの正面で、全景が見えること」という細かいものとなった<ref name="2010-g-93" />。それに合わせて高度や円の大きさなどの方針を固めていった<ref name="2011-t-20" />。しかし、何度訓練してもなかなか上手く描くことはできなかったという<ref name="2011-t-29" />。また、カラースモークも、1番機が青、2番機が黄、3番機が黒、4番機が緑、5番機が赤の5色で五輪を描くように準備した<ref name="2011-t-11"/>。しかし、黒の発色がうまくいかず、ようやく完成したのは開会式の10日前である<ref name="2010-g-93" />。
また後期には尾翼にポジションナンバーを書くようになり、T-2を母体として開発されたF-1支援戦闘機からのフィードバックとして[[バードストライク]]対策がなされた一体型風防も装備された。


開会式前日の東京は土砂降りの雨で、もし開会式当日の10月10日も雨の場合は開会式は中止されることになっていた<ref name="2011-t-32" />。このため、ブルーインパルスのパイロットらは「これは明日はない」と早合点し、深夜1時まで酒を多く飲んでそのまま[[新橋 (東京都港区)|新橋]]に宿泊してしまった<ref name="2010-b-58" /><ref name=":0">{{Cite book|author=夫馬信一|title=航空から見た戦後昭和史|date=|year=2017|accessdate=|publisher=原書房|pages=160-168|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。しかし、翌朝パイロットらが目を覚ますと東京の空は快晴であり、泡を食ったブルーインパルスのパイロットらは二日酔いのまま[[入間基地]]に駆け付け、本番に臨むことになった<ref name="2010-b-58" /><ref name=":0" /><ref name="2011-t-33" />。
T-2時代の使用機体は、新造機として取得された#172~177号機のほか、通常のT-2として納入されたものから改修された#111、112、128、163号機もあった。使用されたのは10機で、1981年に8機受領、のち2機補充。事故により#174、112、172号機の3機を失っている。


ブルーインパルスは出発に際し、[[入間基地]]の航空管制官から "Any altitude OK."、つまり「どの高度で飛んでもよろしい」という離陸許可を得た<ref name="2010-b-58" />。予定通り午後2時半に離陸したブルーインパルスは、神奈川県[[湘南海岸]]の上空で待機した<ref name=":0" />。入場行進の遅れから秒単位で指定されていた式の進行が乱れ、隊長の松下治英は機転を利かせて航空無線機器で[[NHKラジオ]]を受信しながら開会式の状況を確認してタイミングを見計らった<ref name=":0" /><ref name="2011-t-52" />。聖火ランナーが[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立競技場]]に入場すると同時に、ブルーインパルスは[[江の島]]上空を通過し国立競技場へ向かった<ref name="2010-b-58" />。会場で[[鳩]]が放たれ[[君が代]]斉唱が終わった直後、[[赤坂見附]]の上空にたどり着いたブルーインパルスは松下の号令でスモークで五輪を描き始め、30秒後には東京の空に東西6キロメートル以上にわたる五輪が描かれた<ref name="2011-t-11" /><ref name=":0" />。練習でも経験したことのない会心の出来栄えであり、「成功」の無線を受けたパイロットらはコクピット内で歓喜の声を上げたという<ref name=":0" />。展示飛行を終えたブルーインパルスは、[[銀座]]の上空を低空で通過したり<ref name="2003-g-100-101" />、[[上野]]・[[池袋]]・[[新宿]]・[[渋谷]]・[[品川 (東京都)|品川]]の上空をスモークを引きながら「凱旋飛行」し、入間基地に帰投したとされている<ref name="2010-b-58" />。当時は都内での飛行は厳しく制限されていなかった<ref name="2003-g-101" /> 上、前述の通り航空管制官からは「どの高度で飛んでもよい」という許可を受けていた<ref name="2010-b-58" />。
解散直後にそのまま退役した#111号機と[[飛行開発実験団]]で運用されることとなった#163号機を除き、戦技研究班解散後に入ったIRAN(定期修理)で通常のT-2とほぼ同じ仕様に改修され、単にブルーインパルス塗装のT-2となった。現在、全機退役し、[[浜松広報館]]に#111号機、[[石川県立航空プラザ]]に#163号機、[[かかみがはら航空宇宙科学博物館]]に#173号機、[[宮城県]][[東松島市]]([[矢本町|旧桃生郡矢本町]])JR[[仙石線]][[鹿妻駅]]前に#128号機、[[百里飛行場|百里基地]]に#175号機、[[青森県立三沢航空科学館]]に#177号機がそれぞれ展示されている。


これはオリンピック史上でも前例のないアトラクションであり<ref name="2010-b-70" /><ref name="2011-t-9" />、開会式が全世界に衛星生中継されていたこともあって、ブルーインパルスは日本国民のみならず、世界的にも大々的に知られることになった<ref name="2010-b-146" />。ブルーインパルスの隊員らはこの展示飛行の功績で防衛功労賞とOOCからの感謝状とトロフィーを10月20日に授与されている。なお、OOCからは開会式後に閉会式での実施も打診されたが、松下は「もう成功できるかどうか分からない」と辞退している<ref name=":0" />。
<gallery widths="180px" heights="150px">
File:Japan Air Self-Defense Force Blue Impulse T-2.jpg|離陸(浜松基地、1995年12月3日)
File:Japan Air Self-Defense Force Blue Impulse T-2 2.jpg|チェンジオーバー・ターン(浜松基地、1995年12月3日)
</gallery>


=== T-4 1996- ===
==== 1960代後半 ====
当初は訓練空域が今ほど飛行場から遠くはなく、錬度の維持が行いやすかった。そのため演技の精度は高く、さらに規制も緩やかだったために展示飛行での高度が低かった。その高度の低さは、課目「ハイスピード・ローパス」を例にすると高度35フィート(約11メートル)というもので<ref name="2010-b-24" />、「草をむしりとった」という逸話さえある<ref name="2010-b-24" />。なお、[[1965年]](昭和40年)から単独機のパイロットを務めた経験のある村田博生は「舞い上がった草の切れ端が翼についていただけ」としている<ref name="2010-b-24"/>。
[[画像:T-4フロント.jpg|thumb|300px|ブルーインパルス T-4(2004年 千歳基地航空祭)]]
3代目機体[[T-4 (練習機)|T-4]]は、「'''ドルフィン'''」の愛称で親しまれる日本国産中等練習機(そのため、T-4ブルーのパイロットは「'''ドルフィンライダー'''」とも呼ばれている)。現在運用している機体で、[[長野オリンピック]]の開会式に会場上空にて展示飛行をした。[[1997年]]にはアメリカ遠征も行い、[[サンダーバーズ]]と2度目の競演も果たしている。なお、後記の問題を解決するために、飛行隊の一部門から独立部隊への格上げが行われ、正式な組織名が『'''第4航空団 第11飛行隊'''』となっている。


1965年1月に[[築城基地]]から第33飛行隊が浜松基地に移転の上第1航空団所属となり<ref name="2003-g-101" />、さらに同年11月20日には第2飛行隊が解隊となった<ref name="2003-g-101" /> ため、ブルーインパルスのパイロットは全員が第1飛行隊所属となった<ref name="2010-b-147" />。また、チーム制式名も「特別飛行研究班」から「戦技研究班」に変更となった<ref name="2010-b-147" />。この年はパイロットのメンバー交代や補充もあり、各ポジションに2名ずつパイロットを配置することが可能となった<ref name="2003-g-101" />。なお、この時期に第1航空団戦技研究班のインシグニアが作成されているが、作成したのは当時ブルーインパルスのパイロットだった村田博生1尉である<ref name="2003-g-96" />。同年7月25日には[[松島基地]]の航空祭において、ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行が行われた。しかし、同年11月24日にはアクロバット飛行訓練中に1機が失速して墜落、パイロットが殉職するという、ブルーインパルスでは2度目の事故が発生した<ref name="2010-b-147" />。
翼面荷重が小さく、エンジン推力比も大きいため「360°ループ」のような高Gの連続課目や「バーティカルキューバンエイト」のような垂直系の高負荷課目が余裕を持って出来るようになった。
運用する機体は、'''戦技研究仕様機'''とよばれ、発煙装置とその関連装備、強化型風防をはじめとしたバードストライク対策、低高度警報装置などの他、新たにラダーリミッタの制御プログラムがアクロ専用として変更され、高速域での制限最大作動角を5度から10度に増大している。このためF-86FやT-2時代と違い原則として通常のT-4で訓練することがなくなった。また、通常のT-4も同様に緊急時は操縦桿のボタン操作により15度まで拡張可能である。


その後も活動は続けられ、[[1969年]](昭和44年)9月7日の[[札幌飛行場|丘珠]]航空祭において、通算200回の展示飛行を達成した<ref name="2003-g-101" />。この頃になると航空自衛隊の航空祭以外にも、[[1966年]](昭和41年)11月6日に入間基地で開催された「第1回航空宇宙ショー」において展示飛行を行う<ref name="2003-m-107" /> など、イベントにおいて展示飛行を要請されることが増え<ref name="2003-g-101" />、自衛隊のイメージアップという当初の目的は実を結びつつあった<ref name="2003-g-101" />。その一方、[[1967年]](昭和42年)頃からは浜松基地周辺における宅地化の進展に伴い、騒音問題が発生していたため、訓練空域を海上に移さざるをえなくなった<ref name="2010-b-147" />。
機体性能を生かした高機動課目と日本人らしい緻密さを持ち味にした課目が高い次元で融合し、オリジナル課目として5機で星(☆)の形を描く「スタークロス」がある。T-2以降、機体のカラーデザインは一般公募されており、T-2は([[松本零士]]らによって大胆な変更が加えられたものの)女子高生4人のグループによるデザイン、T-4は[[斎藤茂太]]の子でモデラーやF-4のファンとして知られる精神科医の[[斎藤章二]]によるものが採用されている。


==== 大阪万博で文字を描く ====
現在{{いつ|date=2013年03月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->までのところ、#720、725~731、745、804、805号機の運用しているT-4は全機新造機として取得されているが、機体の疲労度の再評価プログラムが行われており、今後他の部隊と同じ仕様へと改修を施した上で、機体の入れ替えが行われる可能性もある。
1969年(昭和44年)12月、日本万国博覧会協会からブルーインパルスに対して、[[日本万国博覧会]](大阪万博)の開会式上空における展示飛行の要請があった<ref name="2010-b-147" />。
<!--
[[芦屋基地]]に配属されている練習飛行隊の白地に赤いラインが入ったT-4は、カラーリングがブルーインパルスのT-4に似ていることから、レッドインパルスあるいはレッドドルフィンと呼ばれることがある。
-->


当初、展示飛行の内容についてはブルーインパルス側に任されていた<ref name="2010-g-93" />。この当時のブルーインパルスは飛行技術面や組織面でも安定した時期で<ref name="2010-b-147" />、実力のあるパイロットも揃っており<ref name="2010-b-147" />、自主的な研究によって "EXPO'70" という文字を描くことになった<ref name="2010-g-93" />。早速訓練を行ない、万博協会の関係者が浜松基地を訪れた際に訓練中の文字を見せた<ref name="2010-g-101" /> 結果、本格的にプロジェクトとして進められることになった<ref name="2010-g-101" />。これは五輪を描くよりも困難であった<ref name="2003-g-102"/> が、[[1970年]](昭和45年)1月12日には浜松基地上空で "EXPO'70" の文字を描くことに成功した<ref name="2010-b-147" />。
なお、[[2003年]]度の防衛予算案でブルーインパルス仕様として[[F-2 (航空機)|F-2A/B]]・計11機が計上されたが、"時期尚早"として却下されている。
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画像:T-4リア.jpg|T-4ブルーインパルス (2004年 千歳基地航空祭)
画像:Bule Impulse @Tuiki 2008築城基地航空祭 (3098433564).jpg|T-4ブルーインパルス (2008年 築城基地航空祭)
</gallery>


一方、万博の会場からわずか8マイルの地点に[[大阪国際空港]]があるため、[[地方航空局|大阪航空局]]からは「飛行の承認はできない」と通告を受けた<ref name="2010-g-101" />。これに対し、万博協会からも陳情を行なった結果、1970年2月中旬には飛行許可を得ることができた<ref name="2010-g-101" />。
== アクロバット飛行隊の問題と解決 ==
1960年に誕生した「ブルーインパルス」は発足当初、航空自衛隊のパイロットの絶対数が不足していたなどの事情によって、部隊としてではなく、飛行隊内における飛行戦闘技術の研究開発を行うセクションという現業的な名目で編成され、操縦課程訓練で若いパイロットを育成する教官が展示飛行要員として任務を兼任していた。この形態は1995年の第21飛行隊戦技研究班(T-2ブルーインパルス)解散まで約35年間続く。しかしパイロットの負担が大きく、在任期間が長期化する<ref>通常、部隊での任期は3年が標準だが、F-86/T-2時代は平均して5-6年、最も所属歴の長いパイロットは10年近く所属していた</ref>、など人事面での問題点が多かった。


開会式当日の1970年3月14日、浜松基地を出発したブルーインパルスは、万博の会場で4課目のアクロバット飛行を行なった後<ref name="2010-g-101" />、2分30秒かけて会場上空に "EXPO'70" の文字を描いた<ref name="2010-g-93" />。その後、同年6月29日の「ジャパンデー」にも同様に文字を描いている<ref name="2003-g-102" />。閉会式当日の同年9月13日に万博会場上空で、当初「サヨナラ」の文字も描く予定だったが当日は曇り空だったため「描けない」と判断し航過飛行のみを行う。なお、1970年12月には浜松基地の上空でサヨナラの文字に70を加えた「サヨナラ70」を描いた。<ref group="注釈">これは年末の飛行納めの際に行われた物である。</ref>
このためT-4に機種更新する過程において「展示飛行専門の飛行隊を立ち上げ、パイロットの任期を通常の3年に戻す。なおかつ3年間アクロ専任とすることでパイロットの負担を軽減する」措置がとられた。このローテーションは2000年に墜落事故の影響により一時的な変更があったものの、2002年までには元の体制に戻っている。


==== 1970年代 ====
任期の3年の内訳は簡潔に表すと、次のとおり。
[[ファイル:JASDF Blue Impulse team at Yokota AB 1981.JPEG|thumb|[[横田飛行場|横田基地]]でのブルーインパルス(1981年)]]
: 1年目 TR(訓練待機)として演技を修得する。展示飛行時にはナレーションを担当、もしくは後席に搭乗する。
[[1971年]](昭和46年)に入ってからも、ブルーインパルスは順調に展示飛行を重ねていた。しかし、同年7月30日に[[全日空機雫石衝突事故]]が発生したため、展示飛行を自粛する事態になった<ref name="2010-b-147" />。この事故の影響で、1973年までの展示飛行の回数が減少した。また、この事故を契機として航空路と訓練空域の見直しが行なわれ<ref name="2003-g-102" />、アクロバット飛行訓練にも大きな制約が加えられることとなった<ref name="2003-g-102" /> ため、ブルーインパルスのメンバー養成に要する期間が2倍になってしまった<ref name="2010-b-147" />。展示飛行が再開されたのは、同年11月3日に[[名古屋飛行場|名古屋空港(当時)]]で行なわれた「国際航空宇宙ショー」から<ref name="2010-b-147" /> で、この国際航空宇宙ショーには[[アメリカ海軍]]のアクロバット飛行チームである[[ブルーエンジェルス]]も参加していた<ref name="2010-b-147" />。
: 2年目 OR(任務待機)として展示飛行を行う。
: 3年目 ORとして展示飛行を行いつつ、担当ポジションの教官としてTRメンバーに演技を教育する。


[[1972年]](昭和47年)11月4日には入間基地を離陸した直後に3番機がエンジンの[[フレームアウト]]により墜落する事故が発生した<ref name="2010-b-147" /> が、この事故による活動への大きな影響はなかった<ref name="2010-b-147" />。なお、3番機のパイロットは[[射出座席|ベイルアウト]]によって無事で、地上への被害もなかった<ref name="2006-b-85" />。
ORとTRは各機毎に固定でいわば徒弟制が採られており、たとえ隊長である一番機パイロットであっても、新入隊員が一年のTRを経て務める事になる。
ここまでのブルーインパルスの展示飛行は5機体制であったが、[[1976年]](昭和51年)9月26日に行われた「第1航空団創立20周年記念式典」においては、6番機を加えた単独機2機による演技が公開され<ref name="2003-g-102" />、以降地元浜松基地での展示飛行など特別な場合に6機での演技が披露されるようになる。


しかし、実働部隊ではF-86Fどころか、その後継機であった[[F-104 (戦闘機)|F-104J]]にも後継機として[[F-4 (戦闘機)|F-4EJ]]が導入されるようになり<ref name="2006-b-85" />、高等練習機としても[[T-2 (航空機・日本)|T-2]]の導入が開始されていた<ref name="2006-b-85" />。先に述べたようにブルーインパルスのパイロットは教官が兼任しており、この時期のブルーインパルスは1年間に30回以上の展示飛行を行なっていた<ref name="2006-b-86" />。これは、F-86Fを使用した飛行教育が減少していたため、その分展示飛行の機会が増えていたということである<ref name="2006-b-86" />。こうした事情の中、[[1978年]](昭和53年)3月には、航空幕僚長から松島基地の第4航空団に対して、T-2によるアクロバット飛行について研究するように指示が出され<ref name="2003-g-102" />、同年からは松島基地でアクロバット飛行を行うT-2が目撃されるようになった<ref name="2006-b-86" />。既に航空自衛隊では[[1980年]]度(昭和55年度)中にF-86Fを全て[[退役|退役処分]]とする予定が決まっており<ref name="2003-g-102" />、F-86Fを使用したブルーインパルスの展示飛行も1980年度で終了することが正式に決定した<ref name="2003-g-102" />。
ブルーインパルスへの異動は「本人の希望による異動」と「命令による異動」があるが、たとえ本人の意思に反した異動の場合でも、次の異動が近づくと「もっとアクロバット飛行をやっていたい」と言い、戦闘飛行隊(TAC)復帰後も編隊飛行の技量が著しく向上しているなど操縦技術がさらに磨かれている場合が多いそうである。


なお、[[1979年]](昭和54年)1月にF-86Fのパイロット養成が終了したことに伴って第1飛行隊が解隊された<ref name="2010-b-148" />。そのため、ブルーインパルスは第35飛行隊所属の戦技研究班となった<ref name="2010-b-148" />。
== 沿革 ==

=== F-86F時代 ===
[[1981年]](昭和56年)2月8日に入間基地で実施された展示飛行が、F-86Fを使用したブルーインパルスとしては最後の展示飛行になった<ref name="2010-g-93" />。この最後の展示飛行では、松島基地から通常塗装のT-2が飛来してアクロバット飛行を披露した<ref name="2003-g-103" />。F-86Fを使用した展示飛行の実績は545回だった<ref name="2010-g-93" />。その後、浜松北基地で3月3日に行われた飛行訓練が最後の訓練となり<ref name="2010-g-93" />、同年3月31日限りで第35飛行隊の戦技研究班も解散となった<ref name="2010-g-93" />。
* [[1958年]](昭和33年)

** [[10月19日]] [[浜松基地]]開庁祭でF-86Fによる曲技飛行を行う。日本における初めてのジェット機による公開宙返り。
=== T-2時代(1982年→1995年) ===
==== 国産練習機の導入 ====
[[ファイル:Japan Air Self-Defense Force Blue Impulse T-2.jpg|thumb|T-2によるブルーインパルス]]
F-86Fの後継機については、日本で製造した「国産機」によってパフォーマンスを行うことが、自国の防衛力や航空産業のレベルを誇示する上で大きな意義があると考えられた<ref name="2010-g-94" />。このため、前述したように後継機としてT-2によるアクロバット飛行について研究の指示が出されていた<ref name="2003-g-102" />。

T-2は超音速機であることから、飛行速度の高速化に伴いターン(旋回)やループ(宙返り)の半径が大きくなり、会場上空へ戻るのに時間がかかるため、課目の間の時間が長くなる<ref name="2003-g-103" />。このため、「T-2では単独機を1機増加させた6機体制での展示飛行が効果的である」という研究報告がまとめられた<ref name="2010-g-94" />。これに伴い、1979年(昭和54年)にはブルーインパルス用として6機のT-2が予算として計上された<ref name="2010-g-94" />。つまり、編隊飛行による演技の間隙を単独機による演技で埋めるという工夫である<ref name="2003-g-103" />。

1980年(昭和55年)10月には次期ブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ<ref name="2010-g-94" />、2,055作品が集まった<ref name="2010-b-92" />。1981年(昭和56年)1月には、女子高校生4名による合作デザイン案が最優秀賞として採用された<ref name="2010-b-92" />。[[1982年]](昭和57年)1月12日には松島基地の第4航空団第21飛行隊内に戦技研究班が設置され<ref name="2010-b-148" />、同年3月10日までに新造された6機のT-2がすべて引き渡された<ref name="2010-b-148" />。機種の変更と同時に、パイロットと地上要員の制服についても新しいデザインとなり<ref name="2003-g-103" />、さらに地上でのパフォーマンスも変更された<ref name="2003-g-103" />。

==== 浜松基地航空祭での墜落事故 ====
こうして、F-86Fブルーインパルスの最終展示飛行から約1年半が経過した1982年(昭和57年)7月25日、松島基地航空祭において、T-2を使用したブルーインパルスでは初の展示飛行が実施された<ref name="2010-g-94" />。ただし、当日は天候不良のためアクロバット飛行は行われず、2機を使用した低空飛行(ローパス)と編隊飛行のみが披露された<ref name="2010-b-148" />。同年8月8日に行われた千歳基地の航空祭からは本格的なアクロバット飛行による展示飛行が開始された<ref name="2003-g-103" />。

ところが、同年11月14日に行われた浜松基地航空祭での展示飛行において「下向き空中開花」という演技を行っていた時、4番機の引き起こしが間に合わず<ref name="2003-g-104" />、会場近くの駐車場に墜落するという事故が発生した<ref name="2010-b-149" /><ref>[http://www.youtube.com/watch?v=oN2TqIG8kC8 T-2ブルーインパルス浜松基地航空祭(墜落事故)][[YouTube]]</ref>。これはブルーインパルス史上では初めてとなる展示飛行中の事故であり<ref name="2003-g-104" />、墜落機のパイロットは殉職、地上の民間人にも負傷者が出た<ref name="2010-b-149" /> 上、航空祭には報道のカメラも入っていたことから、事故の一部始終を録画した映像が夕方以降のニュースで繰り返し流される事態になった<ref name="2006-b-88" />。多くの報道では「危険な曲技飛行」として扱われ<ref name="2006-b-88" />、ブルーインパルスは発足以来最大の危機を迎えた<ref name="2003-g-104" />。

事故原因の究明が行なわれ、編隊長のブレイクコールは通常より約3秒遅れ、墜落か生還かの分岐点から0.9秒遅れだった<ref name="2011-t-167" />。この短い時間を過失に問えるかどうかが問題となった<ref name="2006-b-88" />。当初は事故調査に対してどのパイロットも非協力的だった<ref name="2011-t-169-170" /> が、[[静岡地方検察庁]]の杉本一重が「0.9秒の遅れがどのようなものかが分からないと公訴事案とするかの判断ができない」と考え<ref name="2011-t-170" />、実際にアクロバット飛行訓練に体験搭乗した後は、一転してブルーインパルスのパイロットは調査に協力的になったという<ref name="2011-t-175" />。

また、この事故より前に、やはり「下向き空中開花」の訓練中に隊長機のブレイクコールの遅れが発生しており<ref name="2011-t-175" />、この教訓からブルーインパルスのパイロットにおいては「リーダー機(編隊長機)の指示が遅れたと判断した場合、そのままリーダー機に追従するように」という申し合わせ事項が作成されていた<ref name="2011-t-175-176" /> が、事故機のパイロットはその申し合わせに「編隊長の命令である以上は従う」という理由で拒否しており<ref name="2011-t-177" />、申し合わせ事項を明文化した「思想統一事項」が作成された際にも最後まで署名をしなかったという<ref name="2011-t-178" />。ところが、[[事故調査]]報告書においては、最終的には編隊長のブレイクコールの遅れが原因と結論付けられた<ref name="2006-b-88" /> ものの、「危険を感じたのであればブレイクせずに編隊長についていくべきであった」として、事故機のパイロットの過失をも問うものになり<ref name="2011-t-167" />、「思想統一事項」の存在が、事故機のパイロットの責任をも問うことになった<ref name="2011-t-179" />。その一方、事故機のパイロットは本来の飛行予想ルートからは外れた場所に墜落しており<ref name="2011-t-201" />、本来のルートの延長線上には住宅地や[[東名高速道路]]があったことから<ref name="2011-t-204" />、事故機のパイロットは「墜落しても被害の少ない場所」を選んでいたのではないかと推測されている<ref name="2011-t-205" />。なお、事故機にはフライトデータレコーダーやボイスレコーダーは搭載されていなかった<ref name="2011-t-194" /> ため、真相は不明である。

この事故の後、ブルーインパルスは徹底的に活動を自粛していた<ref name="2006-b-88" />。松島基地のある周辺自治体でも「ブルーインパルスは出て行け」という雰囲気で、とても訓練が出来るような状況ではなかった<ref name="2010-b-149" />。しかし、航空自衛隊にとっても広報活動の大きな柱を失うわけにはいかなかった<ref name="2006-b-88" />。実機の飛行とシミュレーターによる徹底的な検証が行われ<ref name="2003-g-104" />、安全対策を検討した結果<ref name="2003-g-104" />、[[1983年]](昭和58年)10月25日の[[朝霞駐屯地]]における自衛隊[[中央観閲式|観閲式]]での展示飛行から活動を再開することになった<ref name="2003-g-104" />。しかし、この時点での活動は航過飛行のみで、アクロバット飛行についてはその後も慎重に検討された<ref name="2003-g-104" />。最終的に、展示飛行の際の飛行高度引上げ<ref name="2006-b-88" />、「下向き空中開花」の課目からの除外<ref name="2003-g-104" /> などを条件にして、[[1984年]](昭和59年)7月29日の松島基地航空祭からアクロバット飛行を含む展示飛行が再開された<ref name="2003-g-104" />。

==== 任期の問題 ====
展示飛行を再開した1984年(昭和59年)には8回<ref name="2006-b-88" />、翌1985年(昭和60年)には年間18回の展示飛行を行う<ref name="2006-b-88" /> など、事故後のブルーインパルスは順調に展示飛行を繰り返していた。[[1990年]](平成2年)4月1日には[[国際花と緑の博覧会]]の開会式上空で会場の上空に全長20kmにも及ぶ巨大な花のマークを保有する9機すべてを使って描き<ref name="2010-g-95" />、同年6月3日の[[岐阜基地]]航空祭ではT-2ブルーインパルスとしては100回目となる展示飛行を行い、表面的には順調だった<ref name="2003-g-104" />。

一方、ブルーインパルスは広報活動の一環ではあったが、この頃までは隊員と一般市民が接する機会があまりなかった<ref name="2010-b-149" />。これは「パイロットは映画スターでも何でもない」「いい気になっていたら事故を起こす」という考えがあったことによる<ref name="2010-b-150" />。しかし、[[1986年]](昭和61年)からは市民との交流に前向きな取り組みが開始され<ref name="2010-b-150" />、航空祭ではパイロットのサイン会も行なわれるようになった<ref name="2010-b-150" />。

しかし、こうしてブルーインパルスとしての活動が活発になるにつれて、問題が発生していた。

ブルーインパルスのパイロットは教官を兼務しており、これはF-86F時代と変わっていなかった<ref name="2010-b-150" />。このため、アクロバット飛行訓練の時間が十分に確保できず、結果的にブルーインパルスへの在籍期間が長くなった<ref name="2003-g-104" />。これは実働部隊([[戦闘機部隊 (航空自衛隊)|TAC部隊]])から長期間離脱するということになり、戦闘機パイロットにとっては好ましい状況ではなかった<ref name="2010-b-150" />。また、航空祭の時期ともなれば「木曜日か金曜日に展開のため他の基地に移動、土休日に航空祭の展示飛行をこなして松島基地に帰還」というスケジュールとなり<ref name="2003-g-104" />、残る月曜から水曜の3日間でアクロバット飛行の訓練ともに教官としての業務もこなさなければならなかった<ref name="2010-b-150" />。

さらに、T-2ブルーインパルスが活動を開始する少し前の1981年(昭和56年)12月17日には、より実戦的な空中戦教育を行うための組織として、築城基地で[[飛行教導隊]]が発足していた<ref name="2011-t-211" />。このような状況では、「戦技研究班」と称しつつアクロバット飛行専門であるブルーインパルスを希望するパイロットは少なくなっていた<ref name="2010-b-150" />。

その一方で、1980年代後半には、自衛隊を中途退職して民間航空会社へ転職するパイロットが増え<ref name="2011-t-310" />、あまりに退職者が多いために[[スクランブル]]待機の勤務間隔が短くなるなど<ref name="2011-t-311" />、実任務にも支障が出る状況になっていた<ref name="2011-t-311" />。ブルーインパルスでさえ、1990年3月にはパイロットの半数が転出や退職となり、9ヶ月ほどの間は6機体制での演技が不可能になっていた<ref name="2003-g-111" />。

==== 訓練中の事故 ====
こうした問題を背景として、[[1989年]](平成元年)ごろから現在のT-2によるブルーインパルスの後継チームの検討が始まっており<ref name="2006-b-89" />、防衛庁の[[1991年]]度(平成3年度)予算案では「戦技研究班向け」として6機のT-4が含まれていた<ref name="2010-b-151" />。

しかし、1991年7月4日、[[金華山 (宮城県)|金華山]]沖で訓練をしていた4機のうち2機が墜落するという事故が発生した<ref name="2010-b-150" />。原因は海霧の中で編隊長機が[[空間識失調]](バーディゴ)に陥り、編隊が左に傾いたのが原因とされた<ref name="2003-g-104" />。しかし、この当時の編隊長は曲技飛行チームの中で孤立した状態にあった<ref name="2011-t-306" /> こと、また編隊長は1979年(昭和54年)10月に第21飛行隊に異動となってから12年もの間異動がなかった<ref name="2011-t-310" /> こともあり、前述の任期の問題が顕在化した事故とも考えられた<ref name="2006-b-89" />。

ブルーインパルスは約1年間ほど飛行自粛となった<ref name="2003-g-104" />。訓練および運用規定の見直しを行なった上で<ref name="2003-g-104" />、[[1992年]](平成4年)8月23日の松島基地航空祭から展示飛行を再開した<ref name="2010-g-96" />。なお、この時点では4機での展示飛行であった<ref name="2010-g-96" />。

この時期には既にT-4による新しいブルーインパルスの導入は確定しており<ref name="2010-b-150" />、同年10月には第4航空団第21飛行隊内に「T-4準備班」が発足していた<ref name="2010-g-97" />。このため、航空自衛隊の中でも、ソロ要員の養成が間に合わず、機体の補充も難しいという理由から、6機体制へ戻すことについては消極的だった<ref name="2010-b-150" />。しかし、ブルーインパルスの関係者は「T-2によるブルーインパルスの最後は6機で飾りたい」と考え<ref name="2010-b-150" />、訓練時には通常仕様のT-2を使用するなどして6機体制での展示飛行を実施することがあった<ref name="2006-b-89" />。新規に要員の養成も行われ<ref name="2010-b-150" />、[[1994年]](平成6年)には通常通りの展示飛行が再開された<ref name="2003-g-104" />。同年8月10日には[[三沢飛行場|三沢基地]]航空祭においてサンダーバーズとの競演も実現した<ref name="2006-b-89" />。この時に作成したパッチで、ロゴの無断使用をサンダーバーズから諭されたというエピソードがある<ref name="2010-b-133" />。

一方、T-4による新しいブルーインパルスの準備も進められ、T-2によるブルーインパルスは[[1995年]](平成7年)で活動を終了することになった。最後の展示飛行となったのは同年12月3日に行われた浜松基地航空祭で<ref name="2003-g-104" />、T-2ブルーインパルスとしては通算175回目の展示飛行だった<ref name="2003-g-104" />。なお、1982年(昭和57年)の墜落事故以降、浜松基地航空祭では「浜松スペシャル」と題した「水平飛行系演技」のみとされており、この最終展示飛行も「水平飛行系演技」のみで締めくくられた<ref name="2006-b-83" />。訓練飛行は1995年12月8日が最後となり<ref name="2010-g-96" />、同年12月22日付で第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班は解散した<ref name="2010-g-96" />。

=== T-4時代(1995年以降) ===
==== 独立した飛行隊として発足 ====
1989年(平成元年)ごろから進められていた新しいブルーインパルスの準備にあたって、関係者は「展示飛行を専門とする独立した飛行隊」を設けることを考えた<ref name="2011-t-353" />。

T-2の時代まで、ブルーインパルスのパイロットは教官と兼務する形態で、パイロットの負担が大きかった<ref name="2010-g-97" />。独立した飛行隊とすることによって、航空祭などのイベントがある週末は忙しくなるものの、週明けには休暇が取得可能となる<ref name="2010-b-152" />。また、ブルーインパルスのパイロットになることによって戦闘機パイロットとしての生涯飛行時間を削ることになる<ref name="2006-b-89" /> という問題についても、任期を3年と約束し、任期終了後はもとの部隊に戻る体制とすることによって、ブルーインパルスの任務に対して士気が保たれる<ref name="2010-b-152" />。さらに、教官と兼務ではブルーインパルスのメンバー養成にも支障をきたすことがあり<ref name="2003-g-105" />、これを解決するためにも独立した飛行隊にすることが必要と考えられた<ref name="2003-g-105" />。

[[ファイル:Japan Air Self-Defense Force Blue Impulse F-86 T-2 T-4.jpg|thumb|1995年11月12日に百里基地で並んだ3世代のブルーインパルス。手前からT-2×7機、F-86F、T-4×7機]]
展示飛行専門の飛行隊を新規に創設することは容易ではなかった<ref name="2010-g-97" /> が、折りしも1990年代は災害派遣や国際貢献などで自衛隊が活動する機会が増加しており、自衛隊に対しても国民からの理解が深まっていた時期で<ref name="2010-b-152" />、自衛隊は広報活動に対して、より積極的になっていた<ref name="2010-b-152" />。

こうした背景から、前述の問題点を解決して安全で効率の良い運用を行うため、展示飛行専従の部隊として独立することが認められた<ref name="2003-g-105" />。[[1992年]](平成4年)11月6日にはブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ<ref name="2003-g-105" />、2,135作品が集まった<ref name="2003-g-105" />。その中から、精神科医で[[航空ファン|飛行機ファン]]でもある<ref name="2003-g-105" />[[斎藤章二]]のデザイン案が採用された<ref name="2010-b-126" />。また、展示飛行の課目についてもT-4の性能を生かした内容が検討された<ref name="2010-b-151" />。

[[1994年]](平成6年)10月1日には松島基地第4航空団に「臨時第11飛行隊」が編成された<ref name="2010-b-152" />。翌1995年(平成7年)7月30日には研究飛行と称するアクロバット飛行が松島基地航空祭において一般公開され、T-2のブルーインパルスと競演した<ref name="2010-b-152" />。同年11月12日には[[百里飛行場|百里基地]]で一般公開された航空訓練展示でもT-2のブルーインパルスと競演した<ref name="2010-b-152" />。この時はブルーインパルス塗装のF-86Fも展示された<ref name="2010-b-103" /> ため、3世代のブルーインパルスが同時に展示されることになった<ref name="2006-b-25" />。同年12月22日、第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班が解散すると同時に、「臨時」のない第11飛行隊が制式飛行隊として発足した<ref name="2003-g-105" />。

こうして、[[1996年]](平成8年)4月5日の防衛大学校入学式で航過飛行(フライバイ)による展示飛行<ref name="2003-g-106" />、同年5月5日に岩国基地で開催された「日米親善デー」ではアクロバット飛行による展示飛行<ref name="2003-g-106" /> を皮切りに、新しいブルーインパルスの活動が開始され、この年度は22回の公式展示飛行が行なわれた<ref name="2006-b-26" />。

==== 初の国外遠征 ====
第11飛行隊として発足した翌年の1996年(平成8年)、アメリカ空軍からブルーインパルスへ、アメリカ空軍創設50周年を記念して[[ネバダ州]]の[[ネリス空軍基地]]において行なわれる航空ショーである「ゴールデン・エア・タトゥー」 (GOLDEN AIR TATTOO) での展示飛行の招請があった<ref name="2003-g-106" />。これに対して検討を行なった結果、1億数千万円を投じて<ref name="afil95-61" />、ブルーインパルス史上初となる国外への展開が決定した<ref name="2003-g-106" />。

しかし、アメリカでは観客の方向に向かって飛ぶことは禁じられており<ref name="2010-b-153" />、高度制限もアメリカの方が厳しい<ref name="2010-b-153" /> など、日本とアメリカでは展示飛行の基準が異なっていた。[[連邦航空局|アメリカ連邦航空局 (FAA)]]の係官が来日し、松島基地でアクロバット飛行の内容をチェックし<ref name="2006-b-27" />、さまざまな懸案が指摘された<ref name="2010-b-153" />。これに伴い、課目についても進行方向を変えたりするなど、部分的な変更を迫られた<ref name="2010-b-153" />。

ブルーインパルスが運用するT-4には太平洋を横断するだけの飛行能力はなく<ref name="2011-t-350" />、輸送船に船積みした上で海上輸送することになり<ref name="2003-g-106" />、[[1997年]](平成9年)3月4日からアメリカ本土への移動が開始された<ref name="2010-g-99" />。まず陸上自衛隊の[[木更津駐屯地]]まで機体と機材を輸送し<ref name="2010-b-153" />、そこで輸送船にクレーンで船積みされ、同年3月10日に木更津港を出港した<ref name="2006-b-28" />。パイロットが渡米するまでは訓練に使用できる機材がない<ref name="2006-b-28" /> ため、第1航空団と第4航空団の教育集団から通常仕様のT-4をリースして訓練を行なった<ref name="2010-b-104" />。なお、通常仕様のT-4ではバードストライク対策のキャノピー強化が施されていないため、訓練は通常より高い高度で行なわれた<ref name="afil95-90" />。

機体は同1997年3月28日に[[カリフォルニア州]][[サンディエゴ]]のノースアイランド海軍航空基地に到着<ref name="2006-b-28" />。同年3月26日に成田を出発した整備員が受領し、整備が行われた<ref name="2010-b-104" />。パイロットは4月5日に松島基地を出発し、4月6日に成田から出発、現地で整備員と合流し、4月10日にネリス空軍基地へ向かった<ref name="afil95-93" />{{refnest|group="注釈"|name="callsign1997"|この時のコールサインは "Blue-1" であった<ref name="afil95-69" /><ref name="afil95-74" />。}}。ネリス空軍基地ではサンダーバーズが使用する空域を使用した訓練が行なわれた<ref name="2006-b-91" />。ネリス空軍基地は近隣に[[マッカラン国際空港|ラスベガス・マッカラン国際空港]]があるため、訓練には40マイル北にあるインディアンスプリングス飛行場も使用した<ref name="afil95-96" />。ネリス空軍基地は標高が高いことから気圧が低く<ref name="2006-b-91" />、空気密度が低いためエンジンのパワーが落ち、編隊を組むのも容易ではなかったという<ref name="2006-b-91" />。また、砂漠での訓練飛行は地上目標物が少なく苦労したという<ref name="2003-g-77" />。

「ゴールデン・エア・タトゥー」は同1997年4月25日・26日に開催された。アメリカ空軍のサンダーバーズのほか、[[カナダ空軍]]からは[[スノーバーズ]]、[[ブラジル空軍]]からは[[フマーサ飛行隊|エスカドリラ・ダ・フマサ]]、[[チリ空軍]]からは[[アルコネス]]、そして日本からブルーインパルスと、5カ国の[[曲技飛行隊|アクロバット飛行チーム]]が競演することになった<ref name="2003-g-76" />。アメリカ空軍ではこれ以外にも、イギリス・イタリア・ロシア・フランスのアクロバット飛行チームにも招待状を送っていた<ref name="afil95-78" /> が、渡米費の捻出ができずに参加を断念している<ref name="afil95-61" />。ただし、[[イギリス空軍]]と[[オーストラリア空軍]]は戦闘機の展示として参加した<ref name="afil95-27" />。

低騒音であることがアメリカ人には物足りなかったらしく<ref name="afil95-60" />、サンダーバーズのような迫力はなかった<ref name="2010-g-99" /> ものの、正確で緻密なパフォーマンス<ref name="2010-g-99" />、日本とは全く異なる環境であるにもかかわらずトラブルのなかったブルーインパルスの整備・支援体制は<ref name="2003-g-106" />、参加した軍関係者からも高い評価を得られた<ref name="2010-g-99" />。「チェンジ・オーバー・ターン」という課目を見たサンダーバーズのパイロットは正確な機動に賛辞を惜しまず<ref name="afil95-106" />、南米のチームのパイロットも "Precise!" (正確だ!)と驚嘆したという<ref name="afil95-106" />。この時に披露された課目のうち、ブルーインパルスのオリジナル課目である「スター&クロス」については、最初のうちは5機がバラバラの方向にスモークを引いているようにしか見えず、ほとんどの観客は意図が分からなかったという<ref name="2011-t-350" />。しかし、スモークが伸びるにつれ、会場にいた子供の「スター!」という声があちこちから聞こえだした<ref name="2011-t-350" />。アメリカ空軍のみならず、アメリカ合衆国そのものの象徴でもある星<ref name="2003-g-106" /> が空中に描かれると、観客からは絶賛されたという<ref name="2003-g-76" />。この「スター・クロス」は、アメリカ人の観客からはアメリカ空軍50周年を記念したスペシャル課目と思われていたと推測されている<ref name="afil95-74" />。

会期終了後、同1997年4月28日にネリス空軍基地からノースアイランド海軍航空基地へ移動し<ref name="afil95-103" /><ref group="注釈" name="callsign1997" />、そこで再度船積みを行なって同年5月6日に出港<ref name="afil95-103" />、松島基地には5月28日に帰還した<ref name="afil95-103" />。

このアメリカへの展開は3ヶ月に及んだため、この1997年の展示飛行回数は15回にとどまった<ref name="2010-b-105" />。なお、この年には松島基地に新しい隊舎が完成した<ref name="2006-b-28" />。

==== 1990年代後半 ====
[[1998年]](平成10年)には[[長野オリンピック]](長野五輪)の開会式上空における航過飛行(フライバイ)の要請を受けた<ref name="2003-g-106" />。東京五輪とは異なり「五輪を描く」ことはなかったものの、開会式の会場が冬期の山岳地域であり<ref name="2003-g-106" />、会場が冬期迷彩のように視認性に劣るため<ref name="2006-b-92" />、会場の脇には移動式[[戦術航法装置|TACAN]]が設置された<ref name="2003-g-106" />。また、開会式当日は第11飛行隊の飛行隊長が会場から無線で編隊に直接指示を送る体制をとった<ref name="2003-g-106" />。開会式当日、[[ベートーヴェン]]の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番第4楽章]]の演奏・合唱が終了すると同時に<ref name="2003-g-106" />、会場上空で5色のスモークを引きながらレベルオープナーを披露した<ref name="2006-b-92" />。

同年7月には松島基地にブルーインパルス専用の格納庫と「ブルーインパルス・ミュージアム」が完成<ref name="2003-g-106" />。同年7月27日の松島基地航空祭において「お披露目式典」が行なわれた<ref name="2003-g-106" />。

[[1999年]](平成11年)からはカラースモークは使用されなくなった<ref name="2006-b-33" />。一方、1982年( 昭和57年)の事故以来、水平系の課目しか行われていなかった<ref name="2006-b-92" /> 浜松基地の航空祭では、この年の11月14日に浜松基地で行われた「エアフェスタ浜松」にて、17年ぶりに垂直系の課目を含めた展示飛行が行われた<ref name="2006-b-92" />。

飛行隊として独立してから、部隊運用や管理はスムーズに行なわれており<ref name="2003-g-107" />、全国の航空自衛隊隊員にとって、ブルーインパルスは魅力的な部隊となった<ref name="2010-b-152" />。

==== 40周年目の事故 ====
ブルーインパルスが40周年、第11飛行隊も5周年となる[[2000年]](平成12年)は、[[岩国飛行場|岩国基地]]で行われたフレンドシップデーなどで、「2000」という文字を描くなど、ブルーインパルスが得意とする「描きもの」が展示飛行に採りいれられた<ref name="2006-b-107" />。

ところが、同年7月4日、金華山沖での訓練を終えて帰投する途中、5番機と6番機が[[宮城県]][[牡鹿郡]][[牡鹿町]](当時・2005年以降は[[石巻市]])の光山山頂付近に墜落<ref name="2010-b-153" />、3名が殉職するという事故が発生した<ref name="2010-b-153" />。この事故直後からブルーインパルスは活動を停止<ref name="2010-b-153" />、同年7月末に予定されていた松島基地航空祭も中止となった<ref name="2006-b-92" />。

事故原因は海霧の中で高度を下げすぎたのが原因とされた<ref name="2006-b-92" />。1991年(平成3年)の同じ7月4日にも墜落事故が発生しており<ref name="2010-b-153" />、その日がどんな日であるかはブルーインパルスのメンバー全員が分かっていたにもかかわらず発生してしまった事故だった<ref name="2010-g-99" />。しかも、この事故では墜落地点が[[女川原子力発電所]]に近い地域で<ref name="2006-b-92" />、女川原子力発電所の半径3.6kmに設定されていた飛行禁止区域をかすめて飛んでいたことが問題視され<ref name="2003-g-107" />、周辺自治体の一斉反発を招いてしまった<ref name="2003-g-107" />。

このため、航空自衛隊では、訓練空域や松島基地への進入経路を一部見直した上で飛行最低高度を設定するなどの安全対策を実施し<ref name="2010-b-153" />、自治体との話し合いを続けた結果<ref name="2003-g-107" />、[[2001年]](平成13年)2月9日から訓練飛行を再開した<ref name="2003-g-107" />。単独機である5番機と6番機の要員を失ったブルーインパルスの建て直しのため<ref name="2010-b-153" />、第11飛行隊発足当時のメンバーだったパイロットが一時的にブルーインパルスに教官として復帰し<ref name="2010-b-153-154" />、パイロット育成を実施した<ref name="2010-b-154" />。また、機体も2機が失われ、通常2機が川崎重工でIRAN(定期検査)に入っているため<ref name="2003-g-107" />、6機での展示飛行は出来なくなった<ref name="2003-g-107" />。

それでも、同年8月26日の松島基地航空祭から展示飛行が再開された<ref name="2010-b-154" />。同年9月9日の三沢基地航空祭ではアクロバット飛行を含む展示飛行も行われた<ref name="2003-g-107" /> が、同年9月11日に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件]]の発生により、その後の展示飛行はすべて中止となった<ref name="2006-b-92" />。

[[2002年]](平成14年)4月5日に行われた[[防衛大学校]]入校式から活動を再開した<ref name="2010-g-99" />。これがT-4ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行となった<ref name="2010-g-99" />。また、6月4日に行なわれた[[2002 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ]]会場の[[埼玉スタジアム2002]]上空でも航過飛行(フライバイ)を行なった<ref name="2006-b-92" />。同年中には2001年度予算案で2機の調達が認められた<ref name="2010-b-154" /> ことから、9月までに2機のT-4が引き渡され<ref name="2010-b-154" />、再び6機での展示飛行が可能となったのは同年12月1日の岐阜基地航空祭からである<ref name="2003-g-107" />。

この期間はパイロットのローテーションが変則的となり、3年という本来の任期を越えて在籍したパイロットもいた<ref name="2010-b-154" /> が、[[2003年]]にはほぼ以前と同様の状態に戻すことができた<ref name="2003-g-68" />。

==== 50周年、通算展示飛行1,000回を達成 ====
その後は新しい課目の研究や開発を行う余裕も生まれ<ref name="2010-b-154" />、[[2004年]](平成16年)には航空自衛隊発足50周年を記念した「サクラ」などの新課目も加わった<ref name="2010-b-154" />。

[[2006年]](平成18年)には第11飛行隊が創設されて10周年になることを記念し、同年2月17日・18日に記念行事も行われた<ref name="2010-b-154" />。この記念行事では、第11飛行隊で天候偵察用に使用されている通常仕様のT-4に対して特別塗装が施された<ref name="2006-b-17" /> ほか、2000年(平成12年)の事故で殉職したパイロットの慰霊行事も行なわれた<ref name="2006-b-16" />。翌[[2007年]](平成19年)5月27日の美保基地航空祭で、T-4によるブルーインパルスとしては通算200回目となる展示飛行を達成した<ref name="2010-b-154" />。[[2009年]](平成21年)10月18日には三沢基地航空祭においてサンダーバーズとの競演が実現した<ref name="2010-g-99" />。

[[2010年]](平成22年)はF-86Fでブルーインパルスが活動を開始してから50周年を迎え<ref name="2010-b-154" />、パッチや帽子のデザインが変更された<ref name="2010-g-99" /> ほか、同年8月21日には松島基地で50周年記念式典が行われ<ref name="2010-b-8" />、1982年(昭和57年)以降に事故で殉職したパイロットの慰霊祭が行なわれた<ref name="2010-b-10" />。また、[[2011年]](平成23年)1月23日に[[那覇空港|那覇基地]]で行なわれた「エアーフェスタ2010」では、F-86F・T-2時代を通算して1,000回目となる展示飛行が行われた<ref name="af700-2" />。

==== 東日本大震災における被害 ====
[[2011年]](平成23年)[[3月11日]]に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])では{{r|"af704-9"|"乗りもの_20210311"}}、ブルーインパルスの母基地である松島基地は[[震央|震源地]]に近かったため、[[巨大津波]]の直撃を受け、当時配属されていた航空機は、駐機中の28機すべてが水没するという甚大な被害を受けた{{r|"af704-9"|"乗りもの_20210311"}}。ブルーインパルスは、翌12日の[[九州新幹線]]全線開通を記念した展示飛行のため、10日に[[芦屋基地]]への展開を行なっており{{r|"af726-3"}}<ref name="乗りもの_20210311">{{Cite news |和書 |author=[[恵知仁]] |date=2021-03-11 |title=10年前のあの日 九州新幹線で難を逃れた空自「ブルーインパルス」|url=https://trafficnews.jp/post/105332 |publisher=株式会社[[メディア・ヴァーグ]] |newspaper=乗りものニュース |accessdate=2021-03-11 }}</ref>、留守にしていたブルーインパルスは無事であった(基地に残していた予備の1機は水没した{{r|"jw154-5"}}。また、12日の展示飛行は他の開通記念行事とともに自粛された{{r|"af704-9"|"乗りもの_20210311"}})。

松島基地の基地機能の復旧に時間がかかり、機体の基地への帰還の目途が立たなかったため{{r|"af704-9"}}、機体は九州に残したまま、14日に隊員たちは単独で、松島基地および周辺地域の復旧作業のために帰還した{{r|"af726-3"}}。その後も、基地機能の復旧や津波対策を行う関係から松島基地でのブルーインパルスの機体の受け入れ態勢が整わず<ref name="af707-21" />、その都度松島からクルーが芦屋基地へ出向く「移動訓練」という形態を余儀なくされた<ref name="af726-3" />。訓練飛行が再開されたのは同年5月23日であった<ref name="af704-9" />。展示飛行は同年8月7日に[[千歳基地]]で行なわれた航空祭から再開された<ref name="af706-2" />。仮の母基地となった芦屋基地では[[第13飛行教育団]]の隊舎内にある会議室に間借りする運びとなった<ref name="af726-5" />。芦屋基地では環境問題の関係からアクロバット飛行の訓練を行うことはできなかった<ref name="af707-24" /> ため、地元との調整の結果、同8月26日からは[[築城基地]]上空においてアクロバット飛行の訓練が再開された<ref name="af707-24" />。離陸課目の訓練で築城基地に離着陸することもあった<ref name="jw167-9" />。整備員が移動しなくて済むように、芦屋基地から築城基地上空まで飛来して訓練を行う「リモート訓練」形式となり<ref name="af707-25" />、地上統制要員は築城基地まで陸路を移動していた<ref name="jw167-9" />。このほか、日本海側にある[[見島分屯基地]]でも洋上訓練を行なっていた<ref name="af726-4" />。

なお、松島基地が所在する[[東松島市]]では同年8月に避難者の[[仮設住宅|応急仮設住宅]]入居が完了し、全[[収容避難場所|避難所]]が[[8月31日]]に閉鎖された<ref>{{PDFlink|[http://www.city.higashimatsushima.miyagi.jp/cnt/pdf/20110311shinsai-kirokushi/20110311shinsai-kirokushi33.pdf 震災から1年間の主なできごと]}}(東松島市)</ref>。ちょうどこの時期(8月20日)に東松島市で行なわれた「ありがとう!東松島元気フェスタ」で展示飛行が行なわれた<ref name="af707-21" />。この時は[[三沢基地]]からのリモートショー形式であった<ref name="af707-21" />。

震災による訓練中断と、その後の不安定な天候により、この時期のブルーインパルスでは要員練成にも遅れが生じ<ref name="jw167-11" />、半年ほど第11飛行隊からの転出が遅れる事態になった<ref name="jw167-11" />。このような事情から、要員練成をメインとして<ref name="jw167-11" />、2012年の展示飛行は通常の年の半分以下である12回に減らされた<ref name="jw167-9" />。

==== 松島基地への帰還 ====
[[ファイル:Blue Impulse T-4 returns to Matsushima Air Base.jpg|サムネイル|右|松島基地へ帰還したT-4]]
その後、松島基地の復旧と津波対策が進んだことにより<ref name="af726-3" />、ブルーインパルスは[[2012年]]度(平成24年度)内に松島基地へ帰還することになった<ref name="af726-3" />。[[2013年]](平成25年)3月15日には、移動訓練の記念として、築城基地に配置される[[第6飛行隊 (航空自衛隊)|第6飛行隊]]の[[F-2 (航空機)|F-2]]・[[第304飛行隊 (航空自衛隊)|第304飛行隊]]の[[F-15 (戦闘機)|F-15]]との編隊飛行訓練が行なわれた<ref name="af726-4" /> が、ブルーインパルスが[[戦闘機部隊 (航空自衛隊)|TAC部隊]]の戦闘機と編隊飛行を行なった事例はほとんど前例がないといわれている<ref name="af726-4" />。同年3月25日には芦屋基地において移動訓練終了を記念して「ブルーインパルスお別れフライト」と称した展示飛行と帰還記念式典が行なわれた<ref name="af726-6-7" /> が、展示飛行は平日の午前中であるにもかかわらず3,500人の観客が訪れたという<ref name="af726-6" />。この時の課目には、本来なら2011年(平成23年)3月12日に披露するはずであった「サクラ」も含まれていた<ref name="jw178-23" />。

ブルーインパルスは同2013年3月28日に芦屋基地を出発<ref name="af726-8" />、[[百里飛行場|百里基地]]を経由しながら3月30日に松島基地に帰還し<ref name="af726-10" />、3月31日には[[小野寺五典|小野寺]][[防衛大臣]]<ref name="af726-12" /> や地元の自治体関係者も集まって<ref name="af726-13" /> 帰還行事が行なわれた<ref name="af726-12" />。また、同年4月6日には東松島市商工会によって帰還イベントが開催され、悪天候のため訓練飛行は行なわれなかったものの、タキシングや[[ブルーインパルスジュニア]]の展示が行なわれた<ref name="af726-14" />。

帰還時点では、ブルーインパルスの格納庫はかさ上げ工事中のため、津波対策として新たに整備された退避用の格納庫とエプロンを使用する状態である<ref name="af726-11" /> が、同年4月4日からは再び金華山沖でアクロバット飛行の訓練が再開された<ref name="jw178-12" />。

同2013年[[6月1日]]、東日本大震災からの復興を後押しするために[[福島県]][[福島市]]で開催された「[[東北六魂祭]]」で、パレード会場の[[国道4号|国道4号線]]上をショーセンターとして、ブルーインパルスの編隊連携機動12課目が行われた<ref>{{Cite news|title=東北六魂祭で雄姿 航空自衛隊ブルーインパルス|newspaper=福島民報|date=2013-04-16|accessdate=2013-06-09|url=http://www.minpo.jp/news/detail/201304167877}}</ref><ref>{{Cite news|title=“美技”ブルーインパルス 東北六魂祭で「航空ショー」展開|newspaper=福島民友新聞|date=2013-06-02|accessdate=2013-06-09|url=https://web.archive.org/web/20130617114325/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130602-00010011-minyu-l07}}</ref>。

====エンジン不具合による飛行停止====
[[2019年]](平成31年)4月2日に三沢基地所属の通常仕様のT-4が訓練中のエンジンの不具合で緊急着陸した。

その後の原因調査の結果、エンジン内の振動でタービンブレードが破損していたことが判明し、エンジンの振動を抑える部品を改良したものに交換する必要が出てきたことから、部品交換のされていないT-4はそのまま飛行停止となった。同型機を使用するブルーインパルスも部品交換まで訓練ができず、4〜6月に予定されていた鹿児島、山口、静岡、鳥取の各県での展示飛行を中止した。

その後、5月下旬に訓練を再開し、2019年(令和元年)7月21日に宮城県松島町で行われたイベントで飛行を再開したが、部品交換の進度の関係上2機での再開となった。
また同年8月25日に開催された松島基地航空祭においては午前中に1番機・5番機・6番機の3機で飛行し、午後には1番機・2番機・3番機の3機で飛行した。

その後、ブルーインパルス所属機の部品交換が進み、9月5日には6機での飛行訓練を再開した。その直後に行われた三沢基地航空祭では訓練の進捗状況により、1番機・4番機・5番機・6番機の4機で展示飛行を行ったが、9月16日の小松基地航空祭から6機での展示飛行が再開されている。

==== カラースモークの試験と再開====
2019年(令和元年)8月29日には、使用を禁止していたカラースモークの実機試験を実施した。これは[[2020年]](令和2年)の東京五輪関連行事での展示飛行に向けたものであり、まず8月29〜31日に地上試験を行い、9月3、4日には空中での試験を実施した。この試験では、スモークの視認性や、空中で拡散するよう改良した染料の地上への影響を確認した。

[[2020年]]3月20日、松島基地で「聖火到着式」が開催された際、ブルーインパルスが「五輪」を描き、改良型のカラースモークが初使用された。

==== 史上初の2チーム・12機体制の構築====
2020年3月20日、松島基地での東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式典においてブルーインパルス史上初となる2チーム・12機体制の飛行{{refnest|group="注釈"|name="機体"|但し26-5692はIRAN中であった為、B編隊の1番機は通常仕様のT-4が使われた。}}が行われた。A(アルファ)編隊が「五輪」を描き、B(ブラボー)編隊がリーダーズ・ベネフィットを披露した。

==== コロナ・パンデミックにおける医療従事者等への応援 ====
[[2020年]]に入って[[新型コロナウイルス感染症の流行 (2019年-)|新型コロナウイルスのパンデミック]]が発生したことで、患者が爆発的に増え、医療従事者等に過大な負担が生じるようになった。世界各地の曲技飛行隊が医療従事者らに向けた展示飛行を実施したことから、ブルーインパルスも医療従事者をはじめとする全国の皆様へ敬意と感謝を示すため、2020年5月29日の12時40分から13時に掛けて東京都心の病院の上空を中心に巡回する展示飛行を実施した<ref>{{Cite web|title=YouTube|url=https://www.youtube.com/watch?v=tP6CFDQTrVs|website=www.youtube.com|accessdate=2020-06-16}}</ref>。人の集合を避けるため、飛行ルートは飛行開始の3時間前に公表された。

==== 2020年東京オリンピック・パラリンピック大会 ====
[[ファイル:Blue Impulse at Arrival Ceremony of Olympic Flame, Tokyo 2020.jpg|thumb|東京オリンピック聖火到着式にて]]
[[2020年東京オリンピック]]開幕に合わせ、[[2020年東京オリンピックの開会式|開幕式]]前日の7月23日、5色のカラースモークを出して東京上空に五輪マークを描いた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/general/news/202107240000322.html |title=ブルーインパルス、都心の上空に57年ぶり5色の五輪飛行 大役を果たす |type= |author= |work=日刊スポーツ |publisher=株式会社日刊スポーツNEWS |date=2021-07-23 |accessdate=2021-09-01}}</ref>。今回もトラブルに備えて2チーム・12機体制を構築し、通常仕様のT-4が1機、第11飛行隊に追加配備された。両チームとも2から6番機が戦技研究仕様機、1番機は通常仕様のT-4が用いられた。

同年8月24日の[[東京2020パラリンピック競技大会]][[2020年東京パラリンピックの開会式|開会式]]当日昼にも3色のカラースモークを用いてパラリンピックマークを東京上空に描いたが<ref>{{Cite web|和書|url=https://olympics.com/tokyo-2020/ja/paralympics/torch/news/news-20210824-01-ja |title=ブルーインパルス 東京の空にパラリンピックシンボルカラーを描く |publisher=公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 |date=2021-07-23 |accessdate=2021-09-01}}</ref>、予備機3機が[[入間基地]]に着陸する直前、適正高度以下でカラースモーク噴射を実施。基地周辺の300台程度の車に水・洗剤で洗い落とせない粒子が付着する被害を与えた([[#スモーク|後述]])。

==== 最近の活動 ====
2020年度は新型コロナウィルス感染症により、展示飛行はほとんど行われなかったが、2021年度は東京オリンピック・パラリンピックでの飛行も含めて複数回実施し、2022年度は4月時点で15箇所での展示飛行が予定されている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mod.go.jp/asdf/pr_report/blueimpulse/schedule/index.html |title= 2022年度 ブルーインパルス・イベントスケジュール|accessdate=2022-06-06}}</ref>。

== 体制 ==
[[ファイル:Tokyo2020,BlueImpulse demo flight 20210723.jpg|サムネイル|東京オリンピック開会式前日の展示飛行]]
前述の通り、ブルーインパルスは当初「飛行隊の中で曲技飛行(アクロバット飛行)を担当する1セクション」という扱いで発足している。このことを踏まえ、本節では第11飛行隊として設立された[[1995年]](平成7年)12月以降の体制について記述する。

=== 組織 ===
第11飛行隊の内部組織は、飛行隊長を頂点とし、その下に飛行班・整備小隊・総括班という3つの部署が設置されている<ref name="2010-g-40"/> が、これは他の航空自衛隊の飛行隊と同様である<ref name="2010-g-40"/>。

第11飛行隊特有の特徴として、パイロットと整備員については任期が3年と定められている<ref name="2010-g-40-41"/> ことが挙げられる。これは、実戦部隊を離れたがらないパイロットが多い事に配慮し<ref name="2003-g-68"/>、3年間という条件をつけることによって第11飛行隊への選出を行いやすくするためである<ref name="2003-g-68"/>。また、飛行班・整備小隊においては階級が「[[士 (自衛隊)|空士]]」の隊員は存在しない<ref name="2010-g-44"/>{{refnest|group="注釈"|name="階級"|階級については[[自衛隊の階級]]を参照。}}。これは、空士は2等空士・1等空士・空士長とも任用期間が3年(2任期目以降は2年)に限られており<ref>{{Cite web|和書|url=https://laws.e-gov.go.jp/law/329AC0000000165#305 |title= 自衛隊法(昭和29年法律第165号)第36条: 陸士長等、海士長等及び空士長等の任用期間等|date=2019-06-19|accessdate=2019-12-29|website=[[e-Gov法令検索]] |publisher=[[総務省行政管理局]] |quote=令和元年法律第三十八号改正、2019年9月18日施行分}}</ref>、第11飛行隊の3年という限られた任期の中では、他の部隊で行われているような新人養成や空曹への昇進試験などに時間を割く余裕がないための配慮<ref name="2010-g-44"/> である。

通常の制服のほかに『展示服』と呼ばれる、展示飛行の際に着用するための専用の制服や[[飛行服]]が用意されている{{refnest|group="注釈"|展示服は明るい青色であり、[[サンダーバーズ]](濃い紺色)より[[アメリカ海軍]]の[[ブルーエンジェルス]]に近い色合いである。}}ことや、整備員とパイロットの連帯感が強い<ref name="2010-g-60"/> ことも特徴である。相互の理解を深めるため、訓練時にパイロットが他のポジションの後席に同乗する機会を設けている<ref name="2006-b-99"/>。

==== 飛行班 ====
飛行班長以下、1機あたり1〜3人のパイロットが在籍する<ref name="2010-g-40"/>。パイロットは「ドルフィン・ライダー」と呼ばれており<ref name=riders>[https://www.mod.go.jp/asdf/pr_report/blueimpulse/pilot/ ブルーインパルスのパイロット紹介] - ページの上部に『Dolphin Riders』と書かれている。</ref>、パイロットスーツの左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN RIDER" と記されている<ref name="2003-g-42"/>。1番機については飛行隊長と飛行班長の両方が担当する期間もある<ref name="2003-g-68"/> が、2番機から6番機までは交代要員としてのパイロットは存在しない<ref name="2003-g-68"/>。第11飛行隊は展示飛行の任務しか行なわない<ref name="2003-g-64"/> ため、日常のミッションはアクロバット飛行やウォークダウン・ウォークバックの訓練となる<ref name="2003-g-64"/>。

自衛隊では珍しく所属するパイロットの個人名が紹介されている<ref name=riders />。

前述のように3年間という任期が定められており、任期の業務内訳は以下の通りである。
; 1年目:TR(訓練待機、Training Readiness)として演技を修得する<ref name="2010-g-40"/>。展示飛行の際にはナレーションを担当したり<ref name="2003-g-68"/>、訓練のため後席に搭乗することがある<ref name="2003-g-67"/>。
; 2年目:OR(任務待機、Operation Readiness)として展示飛行を行う<ref name="2010-g-40"/>。
; 3年目:ORとして展示飛行を行いつつ、担当ポジションの教官としてTRのパイロットに演技を教育する<ref name="2010-g-40"/>。

限られた期間内で訓練と展示飛行をこなす必要があるため、途中での担当ポジションの変更は一切なく<ref name="2003-g-68"/>、また第11飛行隊に選出されたパイロット自身が担当ポジションを希望することもできない<ref name="2003-g-68"/>。左胸のネームタグもポジションナンバー入りとなっている<ref name="2003-g-42"/>。

パイロットの選出にあたっては、操縦技量が優れていること<ref name="2010-g-54"/> のほか、高度なチームワークが要求されるために協調性があることが求められている<ref name="2010-g-54"/>。また、広報活動が主な任務であり、航空自衛隊の代表として多くの観衆と接するため、社交性も要求される<ref name="2010-g-54"/>。なお、手当ては普通のパイロットと同様である<ref name="2003-g-68"/>。ブルーインパルスへの異動は「本人の希望による異動」と「命令による異動」があり、2003年(平成15年)時点ではどちらかといえば後者の方が多かった<ref name="2003-g-68"/> が、2010年(平成22年)時点では本人が希望することが多くなっている<ref name="2010-b-63"/>。

それまでの[[戦闘機部隊 (航空自衛隊)|TAC部隊]]では全くやったことのない操縦技術を習得せねばならず<ref name="2003-g-68"/>、最初はどのパイロットも戸惑いがあるという<ref name="2003-g-68"/>。また、TAC部隊で戦闘機を自在に操っていたパイロットにとっても、訓練内容は高度で厳しい内容であるといわれる<ref name="2010-g-54-55"/>。一方、訓練の中で編隊飛行の操縦技量等が著しく向上し、3年の任期を終了してTAC部隊に戻ると、空中集合の早さに同僚のパイロットから驚かれたり<ref name="2011-t-355"/>、「どうしてこんなに編隊が上手いの?」と質問されたりするという<ref name="2003-g-95"/>。これについて第11飛行隊の初代飛行隊長は「高度な操縦技術を3年間みっちり行なえば、一般の部隊に戻った後にフィードバックできることも多いはず」と述べている<ref name="2011-t-355"/>。

なお、展示飛行は日中にしか行われないが、技量維持のため1ヶ月に数回ほど夜間飛行訓練を行なっている<ref name="2006-b-25"/>。

基本的に過去の在籍者の再在籍は行われないが、事故による要員不足時に教官要員としての再在籍があったほか、それ以外でも、要員の都合上異動から数年後に担当ポジションを変えて再在籍した例がわずかながらある。また、2020年3月20日に行われた東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式典において、史上初の2チーム・12機体制とする為に、OBがTAC部隊から一時的に異動していた。その後、2021年の2020東京オリンピック・パラリンピック大会においても同様の措置が取られている。

==== 歴代飛行隊長 (T-4) ====
{| class="wikitable"
|-
! 代 !! 氏名 !! 出身校・期別 !! 在任期間 !! TACネーム !! 言葉 !! 備考
|-
| 初代 || 田中光信 || 航学24期 || 1994.10.1〜1996.3.21 || || 魅 ||T-2ブルーインパルス在籍経験有り。
|-
| 2代 || 阿部英彦 || 防大22期 || 1995.3.23〜1998.3.25 || BEAR || 爽 ||
|-
| 3代 || 塩澤信行 || 航学28期 || 1998.3.26〜2001.7.31 || SHAW || 夢 感動 || 1994〜1995年 T-4準備班長<br />T-2ブルーインパルス在籍経験有り。
|-
| 4代 || 渡邊 弘 || 航学32期 || 2000.3.25〜2004.3.25 || LUPPIN || 風 ||
|-
| 5代 || 西村弘文 || 防大29期 || 2003.3.25〜2006.3.22 || JOE || 墨 ||
|-
| 6代 || 倉田 裕 || 防大31期 || 2005.4.1〜2008.3.31 || DUNK || 道 ||
|-
| 7代 || 山口英章 || 一般79期(埼玉大学) || 2007.4.1〜2010.3. || SERVE || 心 ||
|-
| 8代 || 渡部琢也|| 防大35期 || 2009.4.1〜2012.8.27 || WATT || 絆 ||2023年12月22日より第4航空団司令兼ねて松島基地司令
|-
| 9代 || 田中公司 || 防大38期 || 2011.5.9〜2014.7.31 || JOE || 櫻 ||2022年1月31日 [[飛行教導群F-15墜落事故]]により殉職。航空戦術教導団飛行教導群司令を務めていた。
|-
| 10代 || 日髙大作 || 防大40期 || 2013.3.27〜2016.3.23|| ASH || 挑
|
|-
| 11代 || 稲留 仁 || 一般87期(日本体育大学) || 2015.4.1〜2018.3.25 || DOM || 仁||5代目2番機要員の実弟
2024年7月19日より第4航空団飛行群司令
|-
|12代
|福田哲雄
|一般91期(群馬大学)
|2017.4.1〜2020.6.10
|TETSU|| 和||
|-
|13代
|遠渡祐樹
|一般92期 (東京国際大学)
|2019.4.1〜2022.3.31
|CHERRY
|繋
|
|-
|14代
|名久井朋之
|防大49期
|2021.4.15〜2024.5.8
|KNUCKLE
|
|
|-
|15代
|江尻卓
|防大50期
|2023.7.25〜
|EDGE
|
|
|}

※T-4ブルーインパルスの歴代隊長は部隊を去る際に、飛行隊に込めた思いの言葉を残していく。

==== 歴代飛行班長 (T-4) ====
{| class="wikitable"
|+
!'''代'''
!氏名
!出身期別
!TACネーム
!備考
|-
|初代
|小倉貞男
|航学29期
|LARK
|T-4ブルー課目開発の中心的役割を担う
|-
|2代
|夛田晋
|航学31期
|TOUCH
|1998年長野五輪開会式航過飛行編隊長
|-
|3代
|五十嵐聖
|航学33期
|LASSIE
|
|-
|4代
|大津範夫
|航学34期
|MARCH
|
|-
|5代
|宮川範之
|航学35期
|ANDRE
|
|-
|6代
|吉田信也
|航学36期
|SHIN
|
|-
|7代
|村田将一
|航学40期
|GARI
|元4番機要員 (3代)
|-
|8代
|安田勉
|航学42期
|BEN
|
|-
|9代
|平岡勝
|航学44期
|GUY
|2016年4月6日 [[U-125御岳墜落事故]]により殉職。
|-
|10代
|友田要
|航学46期
|TOMY
|
|-
|11代
|春山維彦
|航学47期
|SUIT
|
|-
|12代
|越後英
|航学48期
|DANNA
|
|-
|13代
|海野勝彦
|航学51期
|GON
|
|-
|14代
|平川通
|航学54期
|JACKY
|
|-
|15代
|川島良介
|航学55期
|BENGAL
|
|}

==== 歴代2番機要員 (T-4) ====
{| class="wikitable"
|+
!代
!氏名
!出身校・期別
!TACネーム
!備考
|-
|初代
|陣内信広
|航学39期
|JIN
|
|-
|2代
|阿蘇晋一
|防大33期
|VIPER
|
|-
|3代
|植森治
|防大35期
|SAM
|
|-
|4代
|門間政仁
|防大36期
|MANMO
|
|-
|5代
|稲留智
|一般84期 (日本大学)
|DOME
|11代隊長の実兄
|-
|6代
|玉越晃
|一般86期 (日本文化大学)
|MARU
|
|-
|7代
|須藤和徳
|防大42期
|IPPEI
|
|-
|8代
|里見祥延
|防大44期
|DIVE
|
|-
|
|山本晋二
|一般92期 (東邦大学)
|SHARK
|OR資格未取得
|-
|9代
|日高明
|防大48期
|VARLE
|
|-
|10代
|吉田翔
|一般97期 (明治大学)
|KIKKAS
|
|-
|11代
|中條智仁
|防大53期
|GARP
|
|-
|12代
|住田竜大
|防大55期
|RYU
|
|-
|13代
|東島公祐
|防大57期
|GANG
|
|-
|14代
|松永大誠
|防大59期
|SPOCK
|
|}

==== 歴代3番機要員 (T-4) ====
{| class="wikitable"
|+
!代
!氏名
!出身期別
!TACネーム
!備考
|-
|初代
|黒井博文
|航学38期
|KURO
|
|-
|2代
|木原武幸
|航学41期
|CHEF
|
|-
|3代
|渡邊裕尚
|航学43期
|GOJO
|
|-
|4代
|村上勇人
|航学47期
|LUKE
|
|-
|5代
|安斎茂
|航学49期
|HAMMER
|
|-
|6代
|岡田晶夫
|航学50期
|VIPER
|
|-
|7代
|原田晶大
|航学53期
|KOOL
|
|-
|8代
|大越裕史
|航学55期
|ZIN
|
|-
|9代
|古賀健
|航学57期
|KUGA
|
|-
|10代
|平間広太朗
|航学59期
|MITTSU
|
|-
|11代
|上原広士
|航学61期
|MUSHA
|2020年3月 東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式の展示飛行にOBとして復帰し参加。B編隊3番機を務める。
|-
|12代
|久保祐介
|航学62期
|TOMMY
|2021年7月 東京オリンピック開会式当日の展示飛行にOBとして復帰し参加。B編隊3番機を務める。
|-
|13代
|鬼塚崇玄
|航学65期
|SAIJI
|
|-
|14代
|藏元文弥
|航学67期
|CORK
|
|-
|15代
|松浦翔矢
|航学69期
|JUSTIN
|
|}

==== 歴代4番機要員 (T-4) ====
{| class="wikitable"
|+
!代
!氏名
!出身期別
!TACネーム
!備考
|-
|初代
|野崎靖祐
|航学34期
|BOND
|
|-
|
|佐々木慶宣
|航学37期
|SAKI
|OR資格未取得
|-
|2代
|高橋喜代志
|航学37期
|KYONCEE
|
|-
|3代
|村田将一
|航学40期
|GARI
|後の飛行班長 (7代)
|-
|4代
|猪俣展泰
|航学42期
|AVI
|
|-
|5代
|水野匡昭
|航学46期
|JJ
|
|-
|6代
|鈴木康
|航学48期
|MAC
|
|-
|7代
|浅岡浩和
|航学50期
|INOKI
|
|-
|8代
|濱井祐一郎
|航学52期
|GALLANT
|
|-
|9代
|堀口忠義
|航学54期
|DENIRO
|
|-
|10代
|立山雄一
|航学56期
|CHAMBER
|
|-
|11代
|川村翔平
|航学58期
|RUM
|
|-
|12代
|村上綾
|航学60期
|MARS
|2021年7月 東京オリンピック開会式当日の展示飛行にOBとして復帰し参加。B編隊4番機を務める。
|-
|13代
|永岡皇太
|航学62期
|ASH
|
|-
|14代
|手島孝
|航学64期
|IKKI
|
|-
|15代
|佐藤裕介
|航学66期
|REACH
|
|}

==== 歴代5番機要員 (T-4) ====
{| class="wikitable"
|+
!代
!氏名
!出身期別
!TACネーム
!備考
|-
|初代
|柳岡善行
|航学32期
|JUMBO
|
|-
|
|山崎高徳
|航学35期
|JAMI
|OR資格未取得
|-
|2代
|澤井康二
|航学37期
|JUNK
|2000年に発生した[[ブルーインパルス牡鹿半島墜落事故]]で失われた要員の錬成の為、後に一時的に復帰。
|-
|3代
|阿部幹雄
|航学38期
|MAVE
|2000年7月4日 ブルーインパルス牡鹿半島墜落事故により殉職。
|-
|4代
|渡辺学
|航学40期
|RACCO
|
|-
|5代
|川口克己
|航学43期
|GUCCI
|
|-
|6代
|戸島潔
|航学45期
|RAMOS
|
|-
|7代
|井川広行
|航学47期
|SETTER
|
|-
|8代
|乃万剛一
|航学49期
|JEANE
|
|-
|9代
|澤村正人
|航学51期
|TUBE
|
|-
|10代
|園田健二
|航学53期
|EDEN
|
|-
|11代
|元廣哲
|航学55期
|GORO
|
|-
|12代
|河野守利
|航学57期
|GABAI
|
|-
|13代
|江口健
|航学59期
|GUCCI
|
|-
|14代
|藤井正和
|航学60期
|ZEEK
|
|-
|15代
|浦祐眞
|航学63期
|MICKEY
|
|}

==== 歴代6番機要員 (T-4) ====
{| class="wikitable"
|+
!代
!氏名
!出身期別
!TACネーム
!備考
|-
|初代
|伊藤昭
|航学33期
|KILLER
|2000年に発生したブルーインパルス牡鹿半島墜落事故で失われた要員の錬成の為、後に一時的に復帰。
|-
|2代
|安藤浩
|航学36期
|LEWIS
|
|-
|3代
|一嶋三樹
|航学39期
|MICKEY
|2000年7月4日 ブルーインパルス牡鹿半島墜落事故により殉職。
|-
|4代
|梅川智弘
|航学41期
|RANGER
|2000年7月4日 ブルーインパルス牡鹿半島墜落事故により殉職。
|-
|5代
|村田雄亮
|航学45期
|CHOJI
|
|-
|6代
|草薙樹一郎
|航学46期
|POPEYE
|
|-
|7代
|大島悟
|航学49期
|BAZZAR
|
|-
|8代
|槙野亮
|航学51期
|KITTY
|2021年7月 東京オリンピック開会式当日の展示飛行で、A編隊3番機後席に搭乗。同年8月 東京パラリンピック開会式当日の展示飛行で、B編隊3番機 (5・6番機予備機) を務める。
|-
|9代
|井上英昭
|航学53期
|CHEETAH
|
|-
|10代
|奥山敬仁
|航学55期
|CHAKRA
|
|-
|11代
|橋本健二
|航学57期
|ROVER
|
|-
|12代
|山崎雄太
|航学59期
|BLADE
|2020年3月 東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式の展示飛行にOBとして復帰し参加。B編隊6番機を務める。
|-
|13代
|佐藤貴宏
|航学61期
|RIAS
|2021年7月 東京オリンピック開会式当日の展示飛行にOBとして復帰し参加。B編隊6番機を務める。
|-
|14代
|眞鍋成孝
|航学63期
|LANCE
|
|-
|15代
|加藤拓也
|航学65期
|FALCON
|
|-
|16代
|浅香光司
|航学67期
|TAKA
|
|}

==== 整備小隊 ====
地上クルーのうち整備を担当するのが整備小隊で、整備小隊長以下20人前後が在籍<ref name="2010-g-41"/>。整備員は「ドルフィンキーパー」と呼ばれ<ref name=crew>[https://www.mod.go.jp/asdf/pr_report/blueimpulse/crew/index.html 整備小隊の紹介] - ページの上部に『Dolphin Keepers』と書かれている。</ref>、整備服の左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN KEEPER" と記される<ref name="2003-g-42"/>。1機につき3名の機付整備員が配置され<ref name="2003-g-70"/>、そのうち1名が機付長として受け持つ機体についての作業を任されている<ref name="2003-g-70"/>。他の部隊と異なり、機体を磨く作業が重要視されている<ref name="2010-g-59"/> のが業務内容の特徴である。航空祭などではエンジンスタートや地上誘導などを担当する<ref name="2010-g-41"/> だけではなく、展示飛行の際にはウォークダウン・ウオークバックを披露する<ref name="2010-g-59"/>。観客に背中を見せる機会が多いため、展示服の背中にはブルーインパルスのロゴも入っている<ref name="2003-g-42"/>。

パイロットと同様、任期は3年間を原則としており<ref name="2010-g-41"/>、通常は1月に着任して実務訓練を受ける<ref name="2010-g-59"/>。また所属隊員の個人名が紹介されている<ref name=crew />。

==== 総括班 ====
総括班長は2006年(平成18年)4月までは5番機のパイロットが兼務していた<ref name="jw106-12"/> が、2006年4月以降は展示飛行を行なわないパイロットが選任されている<ref name="2010-g-41"/>。パイロットであるため、ネームタグは飛行班と同じデザインで、7番機のポジションナンバーが入っている<ref name="jw178-17"/>。

総括班は、飛行スーツやヘルメット、酸素マスクなどの維持管理を行う「救命装備員」(LIFE SP)<ref name="2010-g-41"/>{{refnest|group="注釈"|「LIFE SP」は "Life Supporter" の略<ref name="2003-g-42"/>。}}、飛行計画(フライトプラン)を管理する「飛行管理員」(DISP)<ref name="2010-g-41"/>{{refnest|group="注釈"|「DISP」は "Dispatch" の略<ref name="2003-g-42"/>。}}、物品調達を行う「補給員」(SUPPLY)<ref name="2010-g-41"/>、その他の庶務を行う「総務員」(ADMIST)<ref name="2010-g-41"/>{{refnest|group="注釈"|「ADMIST」は "Administrator" の略<ref name="2003-g-42"/>。}}という業務内容で、航空祭の時にもパイロットや整備員と同行して展示飛行の準備を行う<ref name="2010-g-41"/> ため、展示服が用意されている<ref name="jw178-19"/>。

==== 歴代総括班長 (T-4) ====
{| class="wikitable"
|+
!代
!氏名
!出身期別
!TACネーム
!備考
|-
|初代
|鮏川健
|航学36期
|MARS
|
|-
|2代
|井上利幸
|航学37期
|TOPPO
|
|-
|3代
|藤澤寛
|航学38期
|SHAMO
|
|-
|4代
|曾田昭彦
|航学39期
|AKI
|
|-
|5代
|谷為博紀
|航学42期
|TAMER
|
|-
|6代
|原正宏
|航学47期
|TYLER
|
|-
|7代
|林幸一郎
|航学43期
|KOH
|
|-
|8代
|青木明徳
|航学50期
|BATTEN
|
|}

=== 支援設備 ===
格納庫(ハンガー)は1998年(平成10年)7月に建設された<ref name="2003-g-97"/>。緩やかなアーチ形状の屋根で<ref name="2010-g-42"/>、正面には "Home of The Blue Impulse" という文字が入れられており<ref name="2010-g-42"/>、ハンガー内部の床面中央には直径10mほどの大きさで<ref name="2003-m-219"/> ブルーインパルスのエンブレムが描かれている<ref name="2010-g-42"/>。

飛行隊舎は格納庫に隣接しており<ref name="2003-g-72"/>、1階には資料展示室がある<ref name="2003-g-73"/> ほか、屋上には訓練を見学するための観客席が設けられている<ref name="2003-g-73"/>。

なお、同隊舎と格納庫は2011年(平成23年)3月の[[東日本大震災]]による[[津波]]で水没し、損傷したが、駐機場と格納庫を約3.6メートルかさ上げし、格納庫には防水扉を設置。滑走路との間に長さ約200メートル、幅約23メートルの誘導路も新設した。

業務用車両として、現地クルーの移動支援用に[[トヨタ・ランドクルーザー]]と[[ホンダ・アクティ]]を導入していた<ref name="jw130-47"/> が、2010年(平成22年)に[[日産・エクストレイル]]を導入した<ref name="2010-b-117"/> 後、ランドクルーザーは使用されていない<ref name="2010-g-61"/>。いずれもブルーインパルスの機体と同じイメージの塗装が施されている<ref name="2010-g-61"/>。この他、ブルーインパルス専用の[[プッシュバック#用いられる特殊車両|トーイングカー]]と[[電源車]]を保有する<ref name="2010-g-61"/>。なお、給油車については飛行群ではなく整備補給群の所属である<ref name="2010-g-61"/> が、そのうち1台は「スモークオイル専用の給油車」で、松島基地にしか存在しない<ref name="jw106-14"/>。

=== 訓練空域 ===
ブルーインパルスの訓練は、以下の場所で行なわれる。
; 飛行場訓練(フィールドアクロ):実際の航空祭と同様の条件で基地上空で行う<ref name="jw106-13"/>。高い訓練効果が得られる<ref name="2010-g-60"/> が、訓練中は基地周辺の管制圏を30分以上占有する<ref name="2003-g-69"/> ため、その間は他の航空機の離着陸が出来なくなってしまう<ref name="2003-g-69"/>。このため、飛行場訓練が行なわれるのは1週間に3回程度である<ref name="2010-g-60"/>。
; 金華アクロ訓練:金華山沖の空域を使用する訓練である。ここはブルーインパルス専用の訓練空域で<ref name="2003-g-69"/>、同じ第4航空団に所属する第21飛行隊が使用することはない<ref name="jw106-13"/>。しかし、この空域では夏に海霧が発生しやすいため<ref name="2003-g-69"/>、2000年(平成12年)の事故以降、あらかじめ天候偵察用の機体を使用して気象状況などの安全を確認したうえで<ref name="2010-g-61"/>、訓練機を飛ばすようにしている<ref name="2010-g-61"/>。また、新課目の開発についてもこの空域が使用される<ref name="jw106-13"/>。

== 歴代運用機 ==
=== F-86F(1960年→1981年) ===
{{Main|F-86 (戦闘機)}}
[[ファイル:F86Blue_Hamamatsu.jpg|thumb|浜松広報館に保存されているF-86F(02-7966)]]
初代機体[[F-86 (戦闘機)|F-86F]]は、航空自衛隊創設に当たり、アメリカから供与された当時の主力戦闘機である<ref name="2003-g-87"/>。使用機体は全機改修にて取得されており、ブルーインパルス向けとして新造された機体は存在しない。原則として[[浜松基地]]に配備されていた機体の中から以下の条件がそろった機体を選び出し改修していた。
* 飛行特性が良い<ref name="2010-b-155"/>
* 大きな事故歴がない<ref name="2010-b-155"/>
* 故障率が低い<ref name="2010-b-155"/>
* オーバーG{{refnest|group="注釈"|航空機では重力加速度 (G) の制限値が定められており、これを超えた飛行を行った場合は機体の点検が必要となる<ref name="2003-m-127"/>。}}を経験していない<ref name="2010-b-155"/>
* 射撃精度が低い<ref name="2010-b-155"/>

主な改修点は、後部胴体にある燃料タンクのスモークオイル(発煙油)タンクへの転用<ref name="2010-b-21"/>、スモーク発生装置のエンジンノズル後方への設置で、一部の計器の配置変更や置き換えも行われている<ref group="注釈">なお、使用しない[[機関銃]]の銃口はプラグで封鎖したが、機関銃自体は重心位置に変更が生じないようバラストとしてそのまま残された。</ref>。スモークオイルのタンク容量は105ガロンで、約50分の連続発煙が可能であった<ref name="2010-b-21"/>。

しかし、この改造に伴い、本来は飛行に使用する燃料の搭載量が少なくなった。ドロップタンク(増槽)を装備しない場合のF-86F許容G(重力加速度)は7.0Gであるのに対し<ref name="2003-m-127"/>、ドロップタンクを装備した場合はドロップタンク内の燃料が空でも許容Gは5.5G<ref name="2003-m-127"/>、燃料満載時には許容Gは5.0Gで<ref name="2003-m-127"/>、演目によっては許容Gに余裕がなくなる。このため、当初はドロップタンクを外した「クリーン形態」で展示飛行や訓練を行なっていた<ref name="2010-g-92"/>。しかし、展示飛行の課目の増加に伴って燃料タンクの容量不足が問題化<ref name="2003-g-97"/>、1966年(昭和41年)頃からは安全上の見地からドロップタンクを常時装着することとなった<ref name="2003-m-127"/>。

機体の塗装は、当初は通常塗装(無塗装)機が使用されていた<ref name="2010-g-92"/> が、第1航空団の部内で募集されたデザイン案の中から、1961年(昭和36年)に金属の地肌に青とピンクとライトブルーの斜めストライプを配した専用デザインが施された<ref name="2010-b-18"/>{{refnest|group="注釈"|name="襷"|胴体に斜めの帯が入っていることから、部隊内部では「襷」とも称されていた<ref name="2010-b-18"/>。}}。なお、編隊長機のみ青の部分を金色としていた<ref name="2010-b-18"/><ref group="注釈" name="襷"/>。ピンクやライトブルーの部分は褪色が激しく、白色に近い状態となったため、後から追加改修された72-7757号機や92-7872号機はこの部分の色を濃くして対応した<ref name="2010-b-19"/>。その後、1963年(昭和38年)頃にチーム内で塗装案を検討し<ref name="2010-b-40"/>、東宝映画『[[今日もわれ大空にあり]]』への撮影協力をきっかけに、東宝デザイナーが協力することになった<ref name="2003-g-100"/>。1963年10月には92-7872号機が試験塗装を施され<ref name="2010-b-42"/>、これを手直しして1963年11月に正式に新塗装が決定した<ref name="2010-b-40"/><ref group="注釈" name="東宝"/>。

所属期間は機体によってまちまちで、1年程度しか使用されなかった機体もあれば、解散までのほぼ全期間を通じて使用された機体もある。使用された計34機の内、1981年(昭和56年)の最終飛行時まで在籍していたのは9機、ブルーインパルス所属のまま事故で失われたのは4機<ref name="2006-b-111"/>。後者の内1機はブルーインパルスとは関係のない学生訓練中に発生した空中接触事故で失われている<ref name="2006-b-111"/>。この34機の中には[[アメリカ軍|米軍]]からの供与機も含まれており、それらの機体は用途廃止後に米軍に返還されている<ref name="2006-b-111"/>。一部は[[無人航空機|無人標的機]]QF-86Fに改造され、空中標的として使用された<ref name="2010-b-68"/>。最後まで使用された機体の1機である02-7960号機は用途廃止後もしばらく動態保存状態に置かれ、1985年(昭和60年)11月16日の浜松基地航空祭にてタキシングを披露したが、半年後ブレーキ系統に不具合が生じたため地上展示専用となった<ref name="afil96-85"/>。

=== T-2(1982年→1995年) ===
{{Main|T-2 (航空機・日本)}}
[[ファイル:T2blue176 iruma94.jpg|thumb|T-2(29-5176)]]
[[ファイル:T2Blue_111.jpg|thumb|離陸時に炎を曳く「トーチング」]]
2代目機体[[T-2 (航空機・日本)|T-2]]は、国産初の超音速高等練習機である<ref name="2003-g-88"/>。パイロットからはF-4EJをブルーインパルス用として推す意見もあった<ref name="2003-g-103"/> が、大型過ぎることや燃料消費量が大きいことから実現に至っていない<ref name="2003-g-103"/>。最終的には国産機であることや、練習機であるため操縦性や安定性に優れているという理由でT-2導入が決定した<ref name="2003-g-103"/>。

しかし、T-2は翼面荷重が大きい超音速機であり、旋回半径も大きかった<ref name="2003-g-103"/>。エンジン推力が比較的小さいこともあり<ref name="2010-b-149"/>、高機動を行うと速度低下が著しかった<ref name="2010-b-149"/>。このため、課目間のつなぎのための旋回(プロシージャーターン)がF-86F時代に比べて大きくなり、演技に間延びした感が出てしまうことは避けられなかった<ref name="2010-b-149"/>。この間延び対策のために、F-86F時代の標準だった5機編隊にソロを一機加えた6機編隊に変更された<ref name="2010-b-149"/>。

ブルーインパルスで運用された機体は、後期型6機がブルーインパルス用として新造された<ref name="2003-g-103"/> ほか、前期型から2機がブルーインパルス仕様に改修されている<ref name="2003-g-103"/>。1983年(昭和58年)と1986年(昭和61年)に補充のために後期型から1機ずつがブルーインパルス仕様に改修された<ref name="2010-b-158"/>。

ブルーインパルス仕様の改修点は、アクロバット飛行用に胴体内の第7燃料タンクをスモークオイル用に転用したスモーク発生装置<ref name="2010-b-84"/> が主なものである<ref group="注釈">他の改修点は、非力なためフルスロットルでなくともアフターバーナーを使用可能にするパート・スロットル・アフターバーナー (PTA) は右エンジンも使用するとスモークオイルが完全燃焼してしまうため左エンジンのみ使用可能とするスイッチを追加装備、[[コックピット]]への握り手の追加、一部計器の配置や仕様の変更、スモークオイル残量計の追加などである。また初期にはブルー仕様機は、後期型でも通常の前期型同様に機銃の代わりにバラストを搭載していたが、機体を学生教育に使用する際に支障が出たために、のちに機銃を搭載することとなった。</ref>。離陸時にスモークオイルを噴出しないで[[アフターバーナー]]を使用するとスモーク発生装置のノズルが溶解してしまう<ref name="2010-b-77"/> ため、離陸推力とアフターバーナーの併用時にはスモークオイルを流すようにしていた<ref name="2010-b-77"/><ref group="注釈">ノズルの位置を後方に移設する改修が行われているが、これは通常使用時のスモークの発煙性向上を狙ったものである。</ref>。これによってスモークオイルが高温の排気によって燃焼し、長い炎を曳くことになった<ref name="2010-b-77"/> が、偶然の産物であった<ref name="2010-g-95"/> ものの観客には強い印象を与えることになった<ref name="2010-b-149"/>。これは「トーチング」と呼ばれ、世界のどのアクロバット飛行チームにもないT-2ブルーインパルスだけの特徴となった<ref name="2010-g-95"/>。

機体の塗装は、T-2では一般公募が行われた結果、2,055点の応募の中から、女子高生4人のグループによるデザインが最優秀賞となり<ref name="2010-g-92"/>、このデザインに機首部分と主翼下面を中心とした大幅な修正が行われた上で実機に塗装された<ref name="2010-g-92"/>。
1987年以降は尾翼にポジションナンバーを記すようになり<ref name="2010-g-93"/>、T-2を母体として開発されたF-1支援戦闘機からのフィードバックとして[[バードストライク]]対策がなされた一体型風防への交換も行われた<ref name="2010-g-93"/>。

戦技研究班解散後には学生教育にも使用されたが、前述のように燃料タンクの一部をスモークオイル用に転用しているために400リットルほど燃料搭載量が少ない<ref name="2010-b-84"/> ため、胴体下にはドロップタンク(増槽)が装備された<ref name="2010-g-95"/>。その後IRAN(定期修理)で通常のT-2とほぼ同じ仕様に改修され、単にブルーインパルス塗装のT-2となった。現在、全機退役。

=== T-4(1996年以降) ===
{{Main|T-4 (練習機)}}
{{Double image aside|right|T-4 of the Japanese Blue Impulse aerobatic display team (5251520789).jpg|195|T-4リア.jpg|160|T-4(46-5731/46-5728)}}
3代目機体[[T-4 (練習機)|T-4]]は、その機体形状から「'''ドルフィン'''」の愛称もある<ref name="2003-g-67"/> 国産の中等練習機である<ref name="2003-g-43"/>。翼面荷重が260キログラムと小さく<ref name="2010-b-61"/>、エンジン推力に対する重量比もF-86FやT-2と比較すると大きく<ref name="2010-b-61"/>、低空での性能は[[F-15 (戦闘機)|F-15]]をも凌ぐ<ref name="2010-b-99"/>。このため、「360°ループ」のような高Gの連続課目や「バーティカルキューバンエイト」のような垂直系の高負荷課目が余裕を持ってできるようになった。

ブルーインパルスが運用する機体は'''戦技研究仕様機'''と称し、以下の点が通常仕様と異なっている。
; 発煙装置:胴体後方の第3燃料タンクをスモークオイル専用のタンクに転用している<ref name="2003-g-43"/>。発煙油の搭載量は約320リットル(85ガロン)で<ref name="2010-g-50"/>、通常の展示飛行1回で使用する発煙油は200リットル程度である<ref name="2003-g-43"/>。背面飛行などで機体の姿勢に変化があっても供給が途切れないように、発煙油のポンプはタンク内の上下2箇所に設けている<ref name="2010-g-50"/>。また、これに関連して、操縦席には発煙油の残量計・発煙油ポンプのスイッチ・スモークのON/OFFのトリガーが増設されている<ref name="2003-g-43"/>。
; [[方向舵]](ラダー):通常仕様のT-4では、速度が240ノット以上になると垂直尾翼の過荷重防止策として、方向舵の作動角が5度に制限されるラダー・リミッターが装備されている<ref name="2003-g-44"/> が、戦技研究仕様機ではアクロバット飛行時の機動性を高めるため、作動角の制限を10度に拡大している<ref name="2003-g-43"/>。
; [[バードストライク]]対策:低い高度を高速で飛行する機会が多いため、通常仕様では風防(キャノピー)は厚さ11[[ミリメートル]]のストレッチアクリル製である<ref name="2010-g-51"/> が、戦技研究仕様機ではアクリルとポリカーボネートの4層構造として、厚さも25.4ミリメートルとなっている<ref name="2010-g-51"/>。これは、450ノットの速度で重量4[[ポンド (質量)|ポンド]](約1.8[[キログラム]])の鳥とぶつかった場合にも損傷を防げる強度である<ref name="2010-g-52"/>。また、[[ヘッドアップディスプレイ]] (HUD) の表示板をガラス製から樹脂製に変更し<ref name="2010-g-52"/>、破損時の危険性を低下させている<ref name="2003-g-44"/> ほか、操縦ケーブルが格納されている主翼前縁部にも防護構造を施している<ref name="2010-g-52"/>。
; 低高度警報装置:[[降着装置]]と[[高揚力装置#フラップ|フラップ]]が共に収納されている場合に、設定した高度以下になると警報を促す装置を装備している<ref name="2003-g-44"/>。
こうした変更により、通常仕様のT-4とは大きく仕様が異なる。このため、[[F-86]]FやT-2と違い、原則として通常のT-4で訓練することができなくなった<ref name="2003-g-44"/>{{refnest|group="注釈"|F-86FとT-2では、スモーク発生装置以外で操縦特性に関わる変更点はほとんどなかったため、通常仕様の機体でアクロバット飛行の訓練を行なうことが可能であった<ref name="2003-g-44"/>。}}。2010年までに導入されたT-4戦技研究仕様機は、11機全機が新造機として取得され<ref name="2010-b-158"/><ref group="注釈">機体の疲労度の再評価プログラムが行われており、今後他の部隊と同じ仕様へと改修を施したうえで、機体の入れ替えが行われる可能性もある。</ref>、のちに10機が東日本大震災で被災した26-5804と寿命を迎えた機体の置き換えとして既存の通常仕様機からの中途改修で配備された。製造当初から戦技研究仕様機であった機体は、2020年3月末頃の46-5731の用途廃止をもって全機が退役している。また、通常仕様のT-4も1機程度運用しており、洋上の訓練空域の天候偵察など戦技研究仕様機を必要としない任務で使用されている。

機体の塗装は、T-2と同様に一般公募が行われ、応募された2,135点の中から、[[斎藤茂太]]の息子でモデラーやF-4のファンとして知られる精神科医の[[斎藤章二]]によるものが採用された<ref name="2010-b-126"/>。

なお、T-4導入後の1995年(平成7年)8月には、T-4の後継機として[[F-2 (航空機)|F-2]]支援戦闘機の導入が俎上に上っており<ref name="2003-g-112"/>、[[1996年]]度(平成8年度)の防衛予算案でブルーインパルス仕様として9機のF-2が計上された<ref name="2003-g-112"/> が、認められなかった<ref name="2003-g-112"/>。

[[ファイル:JASDF Blue Impulse F86.JPG|thumb|02-7960号機|180px]]
[[ファイル:JASDF Blue Impulse T-2.JPG|thumb|59-5111号機|180px]]

=== 保存機 ===
; F-86F:02-7960号機と02-7966号機が[[浜松広報館]]に保存されている<ref name="2006-b-111"/>。また、ブルーインパルスに所属した履歴のある12-7995号機が[[浜松基地]]北門前にモニュメントとして保存されているが、記入されているシリアルナンバーは既にスクラップとなっている92-7929号機のものである<ref name="2006-b-111"/>。河口湖自動車博物館にも個人収蔵のブルーインパルス塗装02-7960号機が展示されているが、前記の通り本物の02-7960号機は[[浜松広報館]]に館内展示されており、河口湖自動車博物館の機体の本来のシリアルナンバーは02-7962である<ref group="注釈">JARG(日本航空機研究会)発行のシリアルリスト2001年版による。なお、02-7962号機はブルーインパルスに所属したことのある機体である。[[春日基地]]に保存されている82-7777号機は、カラーリングを「ブルーインパルス」風に塗装してあるだけで、ブルーインパルスに所属したことはない。</ref>。
; T-2:浜松広報館に59-5111号機<ref name="2010-b-158"/>、[[宮城県]][[東松島市]]([[矢本町|旧桃生郡矢本町]])JR[[仙石線]][[鹿妻駅]]前に69-5128号機<ref name="2010-b-158"/>、[[石川県立航空プラザ]]に99-5163号機<ref name="2010-b-158"/>、[[岐阜かかみがはら航空宇宙博物館]]に19-5173号機<ref name="2010-b-158"/>、[[百里飛行場|百里基地]]に29-5175号機<ref name="2010-b-158"/>、[[青森県立三沢航空科学館]]に29-5177号機がそれぞれ展示されている<ref name="2010-b-158"/> ほか、[[松島基地]]に29-5176号機が保存されている<ref name="2010-b-158"/>

; T-4:2023年2月時点で、川崎重工岐阜工場総合ビルの1階に46-5726号機、浜松広報館に66-5745号機、[[あいち航空ミュージアム]]に26-5805号機が展示されている。さらに、2024年度末には[[熊谷基地]]に46-5729号機が展示予定である。

== 展示飛行 ==
=== 開催場所 ===
[[ファイル:B t4.jpg|thumb|国立競技場のファイナルイベント、「SAYONARA国立競技場FINAL "FOR THE FUTURE"」での展示飛行(2014年5月31日)]]
展示飛行が行われるのは、各地の航空自衛隊の基地で行われる「航空祭」が主である<ref name="2003-g-71"/> が、国民的な行事への参加などもみられる<ref name="2010-g-56"/>。また、2010年(平成22年)ごろには、海上自衛隊や陸上自衛隊など、航空自衛隊の基地以外でのイベントへの参加もみられるようになっている<ref name="2010-g-56"/>。
[[ファイル:2013小松基地航空祭.jpg|thumb|2013小松基地航空祭前日予行]]
ただし、民間航空と滑走路を共用している基地の場合、ブルーインパルスが展示飛行を行なっている間は一切の離着陸ができなくなる<ref name="2003-g-71"/> ため、展示飛行がみられない<ref name="2003-g-71"/> こともある。こうした基地で展示飛行が行われる場合、開催日のかなり前から民間航空会社へ協力を要請しており<ref name="2005-ab-10"/>、[[ノータム]](NOTAM)と呼ばれる航空情報にもその旨運航関係部署に配信される<ref name="2005-ab-10"/>。開催当日、民間航空会社側では配信された情報によって、出発地の離陸時間を調整したり<ref name="2005-ab-17"/>、空港手前の旋回待機を行ったりしている<ref name="2005-ab-16"/>。

また、飛行場以外の場所や、滑走路が短くT-4の離着陸が出来ない基地での展示飛行では、別の基地に展開を行ない、そこを拠点にして展示会場まで飛ぶ方法がとられており<ref name="2010-g-56"/>、これを「リモートショー」<ref name="2010-g-56"/> や「リモート展示」<ref name="2010-g-88"/> と称している。

=== 気象条件 ===
ブルーインパルスの展示飛行内容は、気象状態や使用可能な空域などによって決められる<ref name="2010-g-68"/>。

アクロバット飛行の展示飛行は、[[視程]](目視できる距離)が8[[キロメートル]]以上で行なわれ<ref name="2010-g-68"/>、[[雲底]]の高さ(シーリング)によって以下のように区分されている<ref name="2010-g-68"/>。
; 第1区分:シーリングが10,000フィート以上
; 第2区分:シーリングが7,000フィート以上
; 第3区分:シーリングが5,000フィート以上
; 第4区分:シーリングが3,000フィート以上
この区分は、そのときの天候に応じた可能な限り高い区分での展示飛行を行なっている<ref name="2010-g-68"/> ため、展示飛行中であっても天候の変化によって変更されることがある<ref name="2010-g-68"/>。

空域に制限がある場合や飛行場以外の会場で行われる展示飛行では、視程が5キロメートル以上確保でき、シーリングが3000フィート以上ある場合に<ref name="2010-g-57"/>「編隊連携機動飛行」と呼ばれる展示飛行が実施される<ref name="2010-g-68"/>。バンク角が90度を超えないような水平系の演目や、航過飛行(フライバイ)などを組み合わせた内容となる<ref name="2010-g-56"/>。

また、視程が5キロメートル以上確保でき、シーリングが1500フィート以上ある場合は、航過飛行(フライバイ)が実施される<ref name="2010-g-68"/>。それ以下の気象条件では、ブルーインパルスの展示飛行は原則として行われない<ref name="2010-g-57"/>。

=== 各機の役割 ===
通常、展示飛行は予備機を含めた7機で展開を行う<ref name="2003-g-66"/>。予備機を除いた6機の役割は以下の通りである。
; 1番機(編隊長、Leader)<ref name="jw178-17"/>:編隊の先頭を飛行する編隊長機で、編隊の隊形の基準になるため、正確な操縦が要求される<ref name="2010-g-55"/> が、僚機の追従が難しいような操縦は出来ないため、慎重な飛行が求められる<ref name="2010-g-55"/>。すべてのメンバーを統率し<ref name="2010-g-55"/>、高度や安全の責任をすべて負う役割で<ref name="2010-g-55"/>、TAC部隊でも飛行班長クラスのベテランが担当する<ref name="2010-g-55"/>。
; 2番機(左翼機、Left Wing)<ref name="jw178-17"/>:隊形変換の際に移動の速さの基準となる役割を持つため、課目の見栄えを左右する<ref name="2010-g-55"/>。
; 3番機(右翼機、Right Wing)<ref name="jw178-17"/>:チーム内で最も若いパイロットが担当する<ref name="2010-g-55"/>。2番機の動作に合わせて隊形の対称性を確保する役割がある<ref name="2010-g-55"/>。
; 4番機(後尾機、Slot)<ref name="jw178-17"/>:後方から隊形をチェックする役割<ref name="2010-g-55"/>。1番機の後方に入り込むため、垂直尾翼に1番機のジェット排気が当たる状態となり<ref name="2003-g-95"/>、縦系統に動く課目ではうまく舵が合わないとキャノピーがジェット排気の中に入り込んでしまう<ref name="2003-m-74"/>{{refnest|group="注釈"|F-86Fを使用していた時期には、1番機のジェット排気が自機のエンジンの空気取り入れ口に入ってきてしまうこともあったという<ref name="2003-m-74"/>。}}ため、「地獄の後尾機」とも称される<ref name="2003-g-95"/>、編隊で最も過酷なポジション<ref name="2003-g-95"/>。
; 5番機(第1単独機、Lead Solo)<ref name="jw178-17"/>:1機のみで行う「ソロ課目」や、6番機とともに行う「デュアル・ソロ課目」を受け持つ<ref name="2010-g-55"/>。第2編隊長機としての役割もあり<ref name="2010-g-56"/>、1番機にトラブルが生じた場合は残りの機体を統率する<ref name="2010-g-56"/>。デルタ隊形の場合は4番機の左側に入る<ref name="2010-g-55"/>。
; 6番機(第2単独機、Opposing Solo)<ref name="jw178-17"/>:1機のみで行う「ソロ課目」や、5番機とともに行う「デュアル・ソロ課目」を受け持つ<ref name="2010-g-56"/> ほか、5機での課目では1番機が率いる編隊と合流する<ref name="2010-g-56"/>。デルタ隊形の場合は4番機の右側に入る<ref name="2010-g-56"/>。

=== スモーク ===
[[ファイル:Shizuhama AB Festival 静浜基地航空祭 (2544811951).jpg|thumb|スモーク]]
展示飛行で使用されるスモークは、スモークオイルをエンジン排気で加熱して気化させ、そのまま大気中で冷却することで凝結し白い煙のように見せている<ref name="2010-g-60"/>。スモークオイルは曲技飛行の分野で主流の[[切削油]]を使用している{{refnest|group="注釈"|近年では環境への影響を考慮し若干高価ではあるが、[[パラフィン]]を使用するスモークも開発され、[[レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ]]などで使われている。}}。

スモークオイルをエンジン排気口の後部に噴射するため機体後部に噴射装置を搭載し、スモークオイル用のタンクも確保されている。また操縦席にはスモーク用のスイッチも設置されている。

スモークは課目に応じて発生させるタイミングが決まっており<ref name="2010-g-60"/>、1番機や5番機からの指示によってスモークを発生させたり停止したりしている<ref name="2010-g-60"/>。ただし、1機のみで行う「ソロ課目」においては、パイロットの判断により使用する<ref name="2010-g-60"/>。

1998年まで使用されていたカラースモークは、切削油に専用の染料を混ぜることによって発生させていた<ref name="2003-g-65"/>。カラースモークを使用しなくなった理由としては、以下の理由が挙げられている。
* 染料を混合した切削油は十分に攪拌しておく必要がある{{refnest|group="注釈"|時間が経過すると切削油と染料が分離してしまうため}}ため、展示飛行直前の給油(実機への搭載)が前提となり、手間がかかる<ref name="2010-g-60"/>。
* 機体に染料の飛沫が付着した場合、除去作業の手間がかかる<ref name="2010-g-60"/>。
* 染料の沈殿を防ぐため、展示飛行ごとに切削油の抜き取り作業が必要になる<ref name="2006-b-91"/>。
* 染料そのものの購入コストがかかる<ref name="2010-g-60"/>。
* 1998年の防府市と千歳市での展示飛行で、「車に色がついた」との苦情が寄せられ、調査の結果カラースモークが原因と判明した<ref name="sankei20150908">[https://www.sankei.com/article/20150908-F453PDKR75JX5AGZUHDTTIG4V4/ 五輪の輪再び カラースモーク再開へ挑む] - [[MSN産経ニュース]]、[[2015年]][[9月8日]]、6時00分配信。</ref>
カラースモークの色はポジションによって決まっており、1番機と5番機が白(ホワイト)、2番機が青(ブルー)、3番機が赤(レッド)、4番機が黄(イエロー)、6番機が緑(グリーン)を使用していた<ref name="2003-g-60"/>。

同時期には各国の曲技飛行隊でも同様の問題を理由にカラースモークの使用が禁止されていったが、攪拌しやすく地上物への影響を抑えた染料の登場もあり、[[パトルイユ・ド・フランス]]、[[フレッチェ・トリコローリ]]、[[レッドアローズ]]などは都市上空でもカラースモークを使用するようになった。ブルーインパルスでも2020年の東京オリンピック開会式で再び五輪マークを描く構想が空自内で持ち上がったことでカラースモーク再開への気運が高まり、航空開発実験集団がフランスなど海外の展示飛行で使用している染料を取り寄せて、車や洗濯物などの地上物への影響や、機体との適合性など、日本で使えるかどうかの検証を行い<ref name="sankei20150908"/>、2019年中に実機試験を実施した上で翌年3月20日に松島基地で行われた東京オリンピック聖火到着式において、カラースモークを使用した展示を行った。

東京パラリンピックでは、2021年8月24日、展示飛行の予備機が入間基地への着陸直前の135&nbsp;mから30&nbsp;mの高度からスモークを使い切る目的で不適切な噴射を行い、近隣の自動車約1200台にカラースモークの粒子が付着する被害が発生した<ref name="mainichi20210830">{{Cite news |title=ブルーインパルス、カラースモーク不適正噴射 パラ開会日、車に粒子|newspaper=毎日新聞|date=2021-08-30|url=https://mainichi.jp/articles/20210830/k00/00m/050/294000c|accessdate=2021-08-31}}</ref><ref name="sankei20220921">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20220922-7QDNHJN74FNUPD3G7JNKHCB4XI/|title=スモーク塗料付着で2人懲戒 空自ブルーインパルス|newspaper=産経新聞|date=2022-09-21|accessdate=2022-09-21}}</ref>。塗料は水や洗剤では落とせないため再塗装が必要となり<ref name="mainichi20210830"/>、航空自衛隊では賠償の手続きを進めている<ref name="yomiuri20210831">{{Cite news |title=低空で噴射のブルーインパルスのスモーク染料、車数百台に付着か…パイロット「喜んでもらいたかった」|newspaper=読売新聞|date=2021-08-31|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20210830-OYT1T50309/|accessdate=2021-08-31}}</ref><ref name="sankei20220921" />。この件に関し、航空自衛隊は2022年2月に調査結果及び対策等について発表し、事案に至った経緯としてカラースモーク使用制限高度を1,000フィートとして五輪大会等に限定として使用するものとしていて高度1,000フィート以上での使用前提で規定化せず、更に大会1年延期により空自内の人事異動などで、使用基準の認識が希薄化し<ref>[https://flyteam.jp/news/article/135831 ブルーインパルスのカラースモーク使用を規定化、不適正使用の再発防止]</ref>、当日の予備機が入間基地に着陸する前にカラースモークを使い、住民らに楽しんでもらう計画を実行してしまったとし<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/national/20210909-OYT1T50113/2/ ブルーインパルスの染料付着、洗剤では落ちず…空自が被害車両300台に対応]</ref>、さらに、航空幕僚監部でカラースモークの所掌業務が不明確で、過去の同種事案の原因、教育、注意喚起も実施されていなかったとし、再発防止策の柱として、カラースモークの使用基準、白スモークを含むスモーク使用要領を規定し、航空幕僚監部内と航空幕僚監部、航空教育集団司令部及び隷下部隊間における業務フローを見直しとチェック機能を強化し、スモーク使用の意識醸成や教育による風化防止も実施するとした<ref>[https://www.mod.go.jp/asdf/news/houdou/R3/20220217-1.pdf ブルーインパルスのカラースモーク事案の調査結果及び対策等について]</ref>。同年9月に当時の部隊指揮官の1等空佐を減給15分の1(1カ月)、計画を立案した当時の編隊長の2等空佐を戒告とするなどの処分を発表した<ref name="sankei20220921" />。

=== 塗装デザイン ===
ブルーインパルス専用機には、特別[[塗装]]が施されており、F-86FからT-4まで、4度の変遷を経ている。
==== F-86F 初代塗装 ====
'''[[1960年|1960.]][[10月|10]]〜[[1963年|1963.]][[8月|8]]'''

チーム誕生当初は[[第1航空団]]の他の機体と同じ無塗装に[[黄色|黄]]と[[黒]]のチェッカーテールだけであったが、次第に曲技飛行の出番が増え、チームの目印がないということで、1960年(昭和35年)10月から部内でデザインアイデアを募集した<ref name="2000-4"/>。その結果、初代塗装デザインが決定した。それは[[ジュラルミン]]むき出しの無塗装に黄と黒のチェッカーテールは変わらなかったが、リーダー機の機首部分は[[金色|ゴールド]]と[[ピンク]]、[[主翼]]や機体後部にかけては[[金色|ゴールド]]と{{仮リンク|ライトブルー|en|Light blue}}に彩られ、ウイング機はリーダー機のゴールドの部分が[[青|ダークブルー]]となっていた。主翼の先端には[[蛍光]]オレンジのテープが貼りつけられた<ref name="2000-4"/>。しかし、このデザインでは上面と下面が分かりづらく、アクロバット飛行中の姿勢がすぐに判断できないということで、わずか22か月の使用に終わった<ref name="2000-4"/>。

==== F-86F 新塗装 ====
'''[[1963年|1963.]][[11月|11]]〜[[1981年|1981.]][[2月|2]]'''

部内で塗装デザイン変更の機運が高まりつつあった頃、ブルーインパルスと第1航空団は映画「[[今日もわれ大空にあり]]」の撮影に協力することとなった
<ref name="2000-4"/> 。[[TOHOスタジオ|東宝映画]]のデザイナーの協力のもと、白を基調にした機体にブルーの[[ストライプ]]を入れ、下面は[[朱色|ヴァーミリオン]]のラインが特徴的なデザインとなった。また主翼も上面はブルーを、下面は無塗装にヴァーミリオンと対照的なデザインであった<ref name="2000-4"/>。なお、92-7872号機は試案機として試案デザインが塗られた。この機体はその後もソロ機として展示飛行を行ったが、新塗装に塗り替えられた<ref name="2000-4"/>。ドロップタンクはオレンジ色に塗装され、翼端側の前方寄りに白色の筆記体で『Blue Impulse』の文字が入っていた。この塗装デザインはF-86Fブルーインパルスが引退する1981年2月までの18年間使用された。

==== T-2 塗装 ====
'''[[1982年|1982.]][[7月|7]]〜[[1995年|1995.12]]'''

F-86FからT-2へ機種変更することになったブルーインパルスは新たな塗装デザインを一般公募することとなった。これは世界的に見てもあまりなく、前代のデザインを踏襲するのが一般的である(例えば、アメリカの[[サンダーバーズ]]は機種変更の際デザインを踏襲している)。そして、選ばれたのは意外にも4人の[[女子高生]]のデザイン案であった。それはF-86F時代の面影を全く感じさせないもので<ref name="2000-4"/>、フタロシニアンブルー(ダークブルー)を基調にした機体にライトブルーと白のラインが配されたものとなった。この塗装をブルーインパルスのT-2全機に施し、1982年7月25日の松島基地航空祭にて一般公開された。ドロップタンクは演技時に下ろしているが、オレンジ色に塗装され翼端側の中央寄りに白色の筆記体で『Blue Impulse』の文字が入る専用塗装のものが用意されており、[[回送|フェリー]]時に使用していた。このデザインはF-86F時代のファンには不評だったようであったが、女子高生の案が採用されたことでファンの層が広いことを示す出来事であった<ref name="2000-4"/>。ただし、デザインした女子高生たちの名誉のために補筆すると、実際に施された塗装は女子高生たちのオリジナルデザインとは機首周りの色のバランスがまったく異なっていて、専門家の助言を得て変更されたものであった。変更したのが誰で何の専門であったのか不詳であるが、オリジナルの良さは失われてしまっている。この塗装は1996年(平成8年)12月に引退するまでの14年あまり使用された。

==== T-4 塗装 ====
[[ファイル:JASDF Blue Impulse (19).jpg|thumb|250px|富士山上空のブルーインパルス]]
'''[[1995年|1995.12]]〜'''

[[1992年]](平成4年)[[11月]]、T-4ブルーインパルスの塗装デザイン案がT-2の時と同様に一般公募された。選ばれたのは精神科医でもあり、ブルーインパルスの熱狂的なファンでもあった斉藤章二氏のデザイン案であった。幼少のころに強い印象に残ったF-86Fブルーインパルスのデザインを意識した作品であるという<ref name="2000-4"/>。そのデザインは、上面はF-86F同様白でまとめられているが、下面はヴァーミリオンではなくブルーになっている。主翼や[[水平尾翼]]も上面は白、下面はブルーで統一されている。[[尾翼]]は全面ブルー、そこにポジションの数字が入れられている。ドロップタンクの塗装は機体と同じく上面が白、下面がブルーの2色となった。この塗装デザインは2021年現在も使用されている。

=== 課目 ===
{{See2|文中に出てくる飛行機動については、[[マニューバ]]、[[空中戦闘機動]]および[[曲技飛行]]も}}

==== F-86時代の主な課目 ====
; フォーメーション・テイクオフ:1番機から4番機までがフィンガーチップ隊形で離陸<ref name="2003-m-82"/>、離陸直後に4番機は1番機の後に移動<ref name="2003-m-83"/>。5秒後に5番機が離陸<ref name="2003-m-83"/>。滑走路の幅が広い浜松基地では1番機から5番機までがデルタ隊形で離陸することがあった<ref name="2003-m-82"/>。また、初期の頃は、5機がデルタ体型で離陸した後に5番機が急上昇し低速横転することもあったが1965年の墜落事故以降は行われなくなった。
; ハイスピード・ローパス:5番機が速度500[[ノット]]、高度35[[フィート]]で観客席の上空を通過<ref name="2003-m-83"/>。その後誘導路や滑走路の上空通過に変更された<ref name="2010-b-24"/>。
; クローバーリーフ・ターン:1番機から4番機がダイヤモンド隊形で会場右側から進入<ref name="2003-m-84"/>。クローバーの葉を描くように旋回して正面から後方に離脱<ref name="2003-m-85"/>。
; バーティカル・ロール:会場左側から高度50フィートで5番機が進入<ref name="2003-m-85"/>。会場正面で垂直になるように引き起こし<ref name="2003-m-85"/>、そのまま[[ローリング|ロール]]しながら13,000フィートまで急上昇<ref name="2003-m-85"/>。
; 垂直360度ターン:1番機から4番機がダイヤモンド隊形で会場右側から進入<ref name="2003-m-85"/>、360度旋回を行う。
; インバーテッド・フライト:5番機が会場右側から進入し、背面飛行で会場の前を通過する<ref name="2003-m-86"/>。
; ダイヤモンド・ロール:1番機から4番機がダイヤモンド隊形で会場左側から進入<ref name="2003-m-87"/>、隊形を維持したまま右ロール<ref name="2003-m-87"/>。
; 4ポイント・ロール:5番機が会場左側から進入し<ref name="2003-m-88"/>、90度ずつ4回ロールを行う<ref name="2003-m-88-89"/>。
; トレイル・トゥ・ダイヤモンド・ロール:1番機から4番機がトレール隊形で会場正面から進入<ref name="2003-m-90"/>、右ロールをしながらダイヤモンド隊形に移行する<ref name="2003-m-91"/>。
; キューバン・エイト:5番機が会場右側から進入し、会場正面を通過した後に[[空中戦闘機動#基本|ループ(宙返り)]]を行ない<ref name="2003-m-92"/>、225度ループした後2.5回転の右ロール<ref name="2003-m-92"/>。同じことをもう一度繰り返し、スモークが8の字になる<ref name="2003-m-92"/>。
; バーティカル・エイト:「キューバン・エイト」の代わりに行なわれる課目で<ref name="2003-m-126"/>、気象状況が良くないと実施されなかった<ref name="2003-m-126"/>。速度500ノットで進入、会場正面で引き起こしてループの頂点で半回転ロール<ref name="2003-m-126"/>。さらに引き起こしてより小さい半径でループで1回転<ref name="2003-m-126"/>、半回転ロールして最初に引き落とした場所に戻る<ref name="2003-m-126"/>。
; ダブル・マニューバー:1番機から4番機がトレール隊形で会場左前方から進入<ref name="2003-m-93"/>。1回目のループの間にダイヤモンド隊形に移行<ref name="2003-m-94"/>、2回目のループの途中で機体が真下向きに近くなったらに半回転ロール<ref name="2003-m-94"/>、飛行方向が変わって左側に抜ける<ref name="2003-m-94"/>。
; ファイブ・シップ・ループ:1番機から5番機がデルタ隊形で会場正面から進入<ref name="2003-m-94"/>、隊形を維持したままループ<ref name="2003-m-94"/>。
; コンティニュアス・ロール:5番機がバレルロールを連続する<ref name="2003-m-96"/>。初期に行なわれていた課目。
; インバーデッド・フライト:「コンティニュアス・ロール」から変更された課目で、5番機が会場右側から進入し、背面飛行で会場の前を通過する<ref name="2003-m-97"/>。
; 8ポイント・ロール:5番機が会場後方から進入し、45度ずつ8回ロールを行なう。
; 上向き空中開花:1番機から4番機がダイヤモンド隊形で進入し、その後に5番機が続く<ref name="2003-m-99"/>。会場正面で急上昇。上昇中に2番機が右に90度、3番機が左に90度、4番機が180度のロールを行い<ref name="2003-m-99"/>、約5,000フィートの高さで4機が4方向に分かれる<ref name="2003-m-99"/>。後に続く5番機はスモークの中から4機が分かれたところをさらに上昇し、垂直な姿勢のままで連続ロールを行う<ref name="2003-m-99"/>。一方、1番機から4番機までは[[スプリットS]]と呼ばれる機動で降下し、会場正面の1点で4機が交差する<ref name="2003-m-99"/>。
; クローバーリーフ:5番機が会場右側から進入<ref name="2003-m-100"/>、右上に旋回しながら上昇し、その後降下旋回でクローバーの葉を描く<ref name="2003-m-100"/>。これを4回繰り返して、立体的に四つ葉のクローバーを描く<ref name="2003-m-100"/>。
; 下向き空中開花:1番機から4番機がダイヤモンド隊形で正面から進入し<ref name="2003-m-101"/>、ループを開始。ループの頂点でスモークを使用開始<ref name="2003-m-102"/>、ループの途中で下向き垂直の姿勢になったところで4方向に分かれる<ref name="2003-m-102"/>。
; ローリング・コンバット・ピッチ:1番機から5番機までが空中集合し、エシュロン隊形で緩降下<ref name="2003-m-102"/>。1番機から順にロールに入るが、2番機以降は前方機を追うようにロール<ref name="2003-m-103"/>。そのままトレール隊形に移行<ref name="2003-m-103"/>、1機ずつ着陸<ref name="2003-m-104"/>。

==== T-2時代の主な課目 ====
[[ファイル:Japan Air Self-Defense Force Blue Impulse T-2 2.jpg|thumb|チェンジ・オーバー・ターン]]
[[ファイル:T2Blue RollingComatPitch.jpg|thumb|ローリング・コンバット・ピッチ]]
; ハイアングル・テイクオフ:1番機から3番機までがピッチ角25度で編隊離陸<ref name="2010-b-86"/>。
; ノーマル・テイクオフ:残る3機がピッチ角8度で離陸<ref name="2010-b-86"/>。
; 5シップ・テイクオフ:1番機から4番機と6番機がデルタ隊形でピッチ角25度で編隊離陸。T-2時代初期の課目、1982年11月の事故以降は滑走路幅の広い浜松基地のみ行なわれていた。
; ロールオン・テイクオフ:5番機は離陸直後に降着装置とフラップを上げたあとにピッチ角が30度になったところで右に360度ロール。T-2時代初期の課目、1982年11月の事故以降安全に配慮し行なわれなくなった。
; スモークオン・テイクオフ:5番機がスモークを出しながら離陸。
; デルタ・ロール:6機がデルタ隊形で大きくロール<ref name="2010-b-87"/>。
; チェンジ・オーバー・ターン:6機がトレール隊形で会場右側から進入し、会場上空で360度旋回しながらデルタ隊形になり、さらに密集隊形に移行<ref name="2010-b-87"/>。T-2時代初期は、F-86時代の「垂直360度ターン(ダイヤモンド・ターン)」を継承していたがその曲技を発展させた、できた最初の頃は「トレール・トゥ・デルタ・ターン」というの曲技名であった。
; パラレル・インバーテッド:5番機と6番機が背面飛行を行う<ref name="2010-b-87"/>。
; トレイル・トゥ・ダイヤモンド・ロール:1番機から4番機までがトレール隊形で進入し、ロールしながらダイヤモンド隊形に移行<ref name="2010-b-87"/>。
; オポジング・インバーテッド:5番機と6番機が左右から進入、背面飛行ですれ違う<ref name="2010-b-87"/>。
; レベル・オープナー:「水平空中開花」とも呼ばれる<ref name="2010-b-88"/>。ダイヤモンド隊形後方に5番機をつけて来る形で会場正面より進入<ref name="2010-b-88"/>、まず2番機と3番機が左右に分かれ、次に1番機と4番機が左右に別れ、5番機が直進<ref name="2010-b-88"/>。
; オポジング・バーティカル・クライム・ロール:5番機と6番機が左右から進入、すれ違った後に急上昇しながらロール<ref name="2010-b-88"/>。
; ダブル・クローバーリーフ・ターン:1番機から4番機までがトレール隊形で進入し<ref name="2010-b-88"/>、270度旋回しながらダイヤモンド隊形に移行<ref name="2010-b-88"/>、さらに270度旋回しながらアローヘッド隊形に移行<ref name="2010-b-88"/>。四つ葉のクローバーの葉のうち2枚をスモークで描くことからこう呼ばれる<ref name="2010-b-88"/>。
; オポジング・コンティニュアス・ロール:5番機と6番機が左右から進入、すれ違いながらロールを繰り返す<ref name="2010-b-88"/>。
; チェンジオーバー・ループ:1番機から4番機までがトレール隊形で右側から進入し<ref name="2010-b-88"/>、ループしながらダイヤモンド隊形に移行<ref name="2010-b-88"/>。T-2時代初期は1番機から4番機がトレール隊形で会場正面から進入、ループの間にダイヤモンド隊形に移行、ループの後半で90度右ロールしながら会場左側に抜ける。
; ビッグ・ハート:5番機と6番機が正面から進入、スモークでハートを描く<ref name="2010-b-89"/>。
; ラインアブレスト・ループ:1番機から4番機までが[[アブレスト]]隊形で進入し<ref name="2010-b-89"/>、隊形維持したままロールを行う<ref name="2010-b-89"/>。
; パラレル4ポイント・ロール:5番機と6番機が左側から進入し、90度ずつ4回ロールを行う<ref name="2010-b-89"/>。
; デルタ・ループ:6機がデルタ隊形で進入し、大きくループを行う<ref name="2010-b-89"/>。
; キューバン・エイト:5番機が横向きの8の字をスモークで描く<ref name="2010-b-89"/>。
; 上向き空中開花:4機がダイヤモンド隊形で急上昇、上空で4機が四方に開いた後に<ref name="2010-b-90"/>、6番機がロールしながら急上昇し、開いたスモークの軌跡の中央を抜ける<ref name="2010-b-90"/>。その後1番機から4番機は会場正面で1点交差を行う<ref name="2010-b-90"/>。
; 下向き空中開花:この課目は1982年11月の事故により行なわれなくなった<ref name="2003-g-104"/>。
; カリプソ・ブレイク:5番機が背面飛行、6番機がその下に入り、背中合わせで通過する<ref name="2010-b-90"/>。
; ローリング・コンバット・ピッチ:1番機から4番機までがエシュロン隊形で進入し、1番機から順にロールしながらトレール隊形に移行し着陸<ref name="2010-b-90"/>。

==== T-4時代の課目 ====
{| class="wikitable" style="text-align:left"
|+
!colspan="2"| 課目名 !! 解説 !! style="text-orientation: upright;"|{{縦書き|第1区分}} !! style="text-orientation: upright;"|{{縦書き|第2区分}} !! style="text-orientation: upright;"|{{縦書き|第3区分}} !! style="text-orientation: upright;"|{{縦書き|第4区分}} !! {{縦書き|機動飛行}} !! {{縦書き|航過飛行}}
|-
| ダイヤモンドテイクオフ&ダーティーターン<br>''Diamond Take Off & Dirty Turn''||[[ファイル:Bule Impulse @Tuiki 2008築城基地航空祭 (3097597313).jpg|180px]]||1番機から4番機までがフィンガーチップ隊形で離陸<ref name="2006-b-61"/>。離陸後4番機は直ちに1番機の後方に移動し、ダイヤモンド隊形となる<ref name="2006-b-61"/>。[[降着装置]](ランディングギア)と[[高揚力装置]](フラップ)は出した状態(ダーティー形態)で<ref name="2006-b-61"/>、着陸灯も点灯させたまま<ref name="2003-g-47"/>、270度旋回して会場正面から進入する<ref name="2006-b-61"/>。会場から着陸灯が輝いて見えるように、毎分500フィート程度の緩降下を行う<ref name="2006-b-95"/>。なお、横風が10[[ノット]]以上で吹いている場合は、5秒間隔で1番機から順に1機ずつ離陸する<ref name="2006-b-61"/>。使用する滑走路によって演技の向きは異なる<ref name="2003-g-66"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
|-
| ローアングル・キューバン<br>''Low Angle Cuban''||[[ファイル:JASDF Blue Impulse T4.JPG.JPG|180px]]||5番機は離陸直後に[[ピッチング|ピッチ角]]を低く抑え<ref name="2006-b-62"/>、降着装置とフラップを上げたあとに240ノットまで加速<ref name="2006-b-62"/>。滑走路上10数[[フィート]]の高さを低空飛行し<ref name="2006-b-62"/>、滑走路端で急上昇後に[[空中戦闘機動#基本|ループ(宙返り)]]し1回転半のロールを行い<ref name="2006-b-62"/>、滑走路上300フィートの高さで水平飛行に移行<ref name="2006-b-62"/>。後述の「ロールオン・テイクオフ」と同時に行うことがある<ref name="2010-g-69"/>。使用する滑走路によって演技の向きは異なる<ref name="2003-g-66"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
|-
| ロールオン・テイクオフ<br>''Roll On Take Off''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJSM Low Angle Cuban and Roll On Take Off.jpg|180px]]||6番機は離陸時170ノットになったところでダーティー形態のままピッチ角を高くし<ref name="2010-b-118"/>、ピッチ角が30度になったところで右に360度[[ローリング|ロール]]<ref name="2010-b-118"/>。前述の「ローアングル・キューバン」と同時に行うことがある<ref name="2010-g-69"/>。使用する滑走路によって演技の向きは異なる<ref name="2003-g-66"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
|-
| ファン・ブレイク<br>''Fan Break''||[[ファイル:Blue Impulse @ Tsuiki 2008築城基地航空祭 (3098433564).jpg|180px]]||1番機から4番機までのダイヤモンド隊形で、会場の左側から右側に、60度から70度程度のバンク角で抜けていく<ref name="2010-g-70"/>。機体同士の最短間隔は約1[[メートル]]で<ref name="2010-g-70"/>、これは全課目の中でももっとも密集した隊形である<ref name="2006-b-62"/>。この課目ではスモークは使用しない<ref name="2003-g-49"/>。||○||○||○||○||○||&nbsp;
|-
| フォー・ポイント・ロール<br>''4 Point Roll''||[[ファイル:Four Point Roll performance of Blue Impulse, JASDF.jpg|180px]]||会場の左側から5番機が進入し<ref name="2003-g-49"/>、右ロールを90度ずつ4回に区切って繰り返して元に戻る<ref name="2003-g-49"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
|-
| チェンジ・オーバー・ターン<br>''Change Over Turn''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJNK Change Over Turn.JPG|180px]]||1番機から4番機と6番機が会場の右からトレール隊形で進入し<ref name="2003-g-50"/>、1番機の合図により右旋回する<ref name="2010-g-71"/> と同時にデルタ隊形に移行する<ref name="2010-g-71"/>。180度旋回したところでは1[[辺]]が110メートル程度のデルタである<ref name="2003-g-50"/> が、その後徐々に間隔を詰めて<ref name="2006-b-63"/>、360度旋回することにはデルタの1辺は40メートルほどになっている<ref name="2006-b-63"/>。||○||○||○||○||○||&nbsp;
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| インバーテッド&コンテュニアス・ロール<br>''Inverted & Continuous Roll''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJNK Inverted & Continuous Roll.JPG|180px]]||5番機が会場の左から進入し、右に180度ロールして背面飛行で滑走路の上空を通過<ref name="2003-g-51"/>。滑走路の端で左180度ロールで姿勢を戻し<ref name="2010-g-71"/>、上昇してから右にロールして背面飛行となり<ref name="2010-g-71"/>、ループした後に会場の右から滑走路に進入して左に3回転のロールを行う<ref name="2006-b-64"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| レイン・フォール<br>''Rain Fall''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJNK Rain Fall.JPG|180px]]||T-2時代の「下向き空中開花」の代わりに採用された課目<ref name="2010-b-151"/>。1番機から4番機と6番機が会場の右からデルタ隊形で進入、ループを開始<ref name="2003-g-51"/>。ループの頂点からスモークを使用開始し<ref name="2006-b-64"/>、真下を向いたところで2番機と3番機が20度<ref name="2003-g-51"/>、4番機と6番機が45度外側にブレイク<ref name="2003-g-51"/>。||○||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| サンライズ<br>''Sunrise''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJST Sunrise.JPG|180px]]||ブルーインパルス創設50周年を記念して2010年(平成22年)に追加された課目<ref name="2010-g-72"/>。1番機から4番機と6番機が会場正面からデルタ隊形で進入し<ref name="2010-g-72"/>、そのままループに入る<ref name="2010-g-72"/>。ループの頂点(高度6,000フィート付近)でスモークを使用開始<ref name="2010-b-120"/>、そのままループで高度500フィートまで降下<ref name="2010-b-120"/>。その後、まず4番機と6番機が左右に60度方向に[[ブレイク (マニューバ)|ブレイク]]<ref name="2010-g-72"/>、その後2番機と3番機が左右30度方向・ピッチ角15度でブレイク<ref name="2010-g-72"/>、1番機はピッチ角20度でブレイク<ref name="2010-g-72"/>。なお、第3区分と第4区分ではループは行なわずにブレイクする<ref name="2010-b-120"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| バーティカル・クライム・ロール<br>''Vertical Climb Roll''||[[ファイル:Vertical Climb Roll performance of Blue Impulse, JASDF.jpg|180px]]||5番機が会場の左から進入し<ref name="2003-g-51"/>、滑走路上空で垂直に急上昇しながら右ロールで4.25回転<ref name="2003-g-51"/>。5番機の速度は進入した時点では400ノットである<ref name="2006-b-65"/> が、最大高度の9,000フィートまで上がる頃には、速度が失速寸前の100ノット程度にまで低下している<ref name="2006-b-65"/>。||○||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| インバーテッド・ロール<br>''Inverted Roll''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||5番機が会場の左から背面飛行で進入<ref name="2010-g-86"/>、会場正面で右ロールで2回転し<ref name="2010-g-86"/>、背面飛行のまま右へ抜ける<ref name="2010-g-86"/>。||&nbsp;||&nbsp;||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| スロー・ロール<br>''Slow Roll''||[[ファイル:スロー・ロール.jpg|180x180ピクセル]]||6番機が会場の左から進入し<ref name="2003-g-51"/>、約10秒をかけてゆっくりと右ロールで1回転する<ref name="2003-g-51"/>。一見容易だが、エレベーター・エルロン・ラダーの調和が試される<ref name="2006-b-65"/>、難易度の高い課目とされている<ref name="2006-b-65"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| チェンジ・オーバー・ループ<br>''Change Over Loop''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJNK Change Over Loop.JPG|180px]]||会場後方から1番機から4番機がトレール隊形で進入<ref name="2006-b-66"/>、滑走路を通過した後にループを行ないながらダイヤモンド隊形に移行する<ref name="2006-b-66"/>。ループの後半で90度ロールしながら会場右側に抜ける<ref name="2003-g-53"/>。||○||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| ハーフ・スロー・ロール<br>''Half Slow Roll''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||会場右側から5番機と6番機がアブレスト隊形で進入<ref name="2003-g-54"/>。隊形を維持したままで右に180度ロールし背面飛行となり<ref name="2006-b-66"/>、会場正面で左ロールしながら左後方に抜ける<ref name="2003-g-54"/>。||○||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| レター・エイト<br>''Letter 8''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJST Letter 8.JPG|180px]]||会場後方から1番機から4番機がダイヤモンド隊形で進入<ref name="2010-b-121"/>。会場正面で1番機から3番機は右旋回<ref name="2010-b-120"/>、4番機のみ最大性能で小さめに左旋回<ref name="2003-g-54"/>。4番機は360度の旋回後に、1番機から3番機が描いた輪の中をショートカットしてダイヤモンド隊形に戻り<ref name="2010-b-121"/>、会場から離脱<ref name="2010-b-121"/>。課目名の由来はスモークの軌跡が8の字に見えることから<ref name="2003-g-54"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| カリプソ<br>''Calypso''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJST Calypso.JPG|180px]]||F-86F時代の末期から継続されている課目<ref name="2010-g-75"/>。会場右手から5番機と6番機が進入。5番機が180度ロールし背面飛行となり、6番機が移動して2機が背中合わせになる<ref name="2010-b-121"/>。第1区分・第2区分でも「ハーフ・スロー・ロール」の代わりに行なわれることがある<ref name="2010-b-121"/>。||&nbsp;||&nbsp;||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| バック・トゥ・バック<br>''Back to Back''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJNK Back to Back.JPG|180px]]||2010年にブルーインパルス創設50周年を記念して追加された課目<ref name="2010-g-75"/>。会場右手から5番機と6番機が進入。5番機が180度ロールし背面飛行となり、6番機が移動して2機が下面合わせになる<ref name="2010-b-121"/>。第1区分・第2区分でも「ハーフ・スロー・ロール」の代わりに行なわれることがある<ref name="2010-b-121"/>。||&nbsp;||&nbsp;||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| トレール・トゥ・ダイヤモンド・ロール<br>''Trail to Diamond Roll''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJST Trail to Diamond Roll.JPG|180px]]||会場左方から1番機から4番機がトレール隊形で進入<ref name="2010-g-86"/>。右バレルロールを行ないながらダイヤモンド隊形に移行して会場右側に抜ける<ref name="2010-g-86"/>。||&nbsp;||&nbsp;||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| オポジット・コンティニュアス・ロール<br>''Opposite Continuous Roll''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||会場右側から5番機、会場左側から6番機が進入<ref name="2010-b-121"/>。どちらも3回の右ロールを行いながら<ref name="2010-b-121"/>、会場正面ですれ違う<ref name="2003-g-54"/>。2機の間隔は約50メートル<ref name="2010-g-76"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| フォー・シップ・インバート<br>''4 Ship Invert''||[[ファイル:Shizuhama AB Festival 静浜基地航空祭 (2551601582).jpg|180px]]||会場右手から1番機から4番機がダイヤモンド隊形で進入<ref name="2010-b-122"/>。滑走路端でまず1番機と4番機が<ref name="2003-g-55"/>、その後に2番機と3番機が背面飛行に移行<ref name="2003-g-55"/>、そのまま密集したダイヤモンド隊形で通過し、会場左側で180度ロールして離脱<ref name="2003-g-55"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| スリー・シップ・インバート<br>''3 Ship Invert''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||「フォー・シップ・インバート」の代わりに行なわれることがあり<ref name="2010-g-76"/>、1番機以外の3機が背面飛行となるもの<ref name="2010-g-76"/>。アメリカ空軍主催の「ゴールデン・エア・タトゥー」においては「ニンジャ・パス」 (Ninja Pass) という名で紹介された<ref name="2010-b-105"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| ダブル・ファーベル<br>''Double Farbel''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||「フォー・シップ・インバート」の代わりに行なわれることがあり<ref name="2010-g-76"/>、1番機と4番機だけが背面飛行となるもの<ref name="2010-g-76"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| キューピッド<br>(バーティカル・キューピッド)<br>''Cupid''<br>''(Vertical Cupid)''||[[ファイル:BI vertical cupid.jpg|180px]]||T-2時代に行なわれていた「ビッグ・ハート」を発展させた課目<ref name="2006-b-13"/>。5番機と6番機がアブレスト隊形で会場正面から進入し急上昇<ref name="2010-b-122"/>。ピッチ角が85度になった時点で左右に分かれ<ref name="2010-b-122"/>、ループしながらハートを描いて左右に離脱<ref name="2003-g-56"/>。会場左側から4番機が30度ピッチでスモークを描きながら進入<ref name="2010-b-122"/>。ハートを矢が貫いているように見せるために一度スモークを切っている<ref name="2010-b-122"/>。||○||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| スラント・キューピッド<br>''Slant Cupid''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||前述の「キューピッド」で、ハートを描く際に斜め旋回するもの<ref name="2010-g-86"/>。||&nbsp;||&nbsp;||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| オリジナル・レベル・キューピッド<br>''Original Level Cupid''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJST Original Level Cupid.JPG|180px]]||前述の「キューピッド」で、ハートを描く際に水平旋回するもの<ref name="2010-g-86"/>。この課目では4番機は加わらない<ref name="2010-g-86"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||&nbsp;||&nbsp;
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| ライン・アブレスト・ロール<br>''Line Abreast Roll''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||会場右手前方から1番機から3番機がアブレスト隊形で進入<ref name="2010-b-122"/>。そのままの隊形を維持しながら大きくバレルロールを行う<ref name="2010-b-122"/>。アブレスト隊形は水平飛行でも隊形維持が難しく<ref name="2003-g-57"/>、極めて難易度の高い課目とされている<ref name="2003-g-57"/>。||○||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| シングル・クローバーリーフ・ターン<br>''Single Cloverleaf Turn''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJST Single Cloverleaf Turn.jpg|180px]]||会場左手から1番機から4番機がトレール隊形で進入<ref name="2010-g-85"/>。上昇旋回しながらダイヤモンド隊形に移行<ref name="2010-g-85"/>。会場正面からはさらにアローヘッド隊形に移行し<ref name="2010-g-85"/>、会場右側へ抜ける<ref name="2010-g-85"/>。||&nbsp;||&nbsp;||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| スリー・シックスティー&ループ<br>''360°& Loop''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||5番機が会場右側から進入<ref name="2003-g-57"/>。会場正面で360度の左旋回を行った後、360度ループを行う<ref name="2010-g-78"/>。||○||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| オポジット・トライアングル<br>''Opposite Triangle''||[[File:Blue Impulse @Gifu 2008岐阜基地航空祭 (3104787273).jpg|180px]]||6機がデルタ隊形で会場右側から進入<ref name="2010-g-86"/>、滑走路端で2番機から4番機までが右ロールして背面飛行となり<ref name="2010-g-86"/>、会場正面までに密集したデルタ隊形となる<ref name="2010-g-86"/>。||&nbsp;||&nbsp;||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| ワイド・トゥ・デルタ・ループ<br>''Wide to Delta Loop''||[[ファイル:BlueImpulseMiyazakiNewtabaru.jpg|180px]]||1番機から4番機と6番機が会場の右からデルタ隊形で進入、そのままループに入る<ref name="2003-g-58"/>。上昇中にデルタの間隔を縮めてゆき<ref name="2006-b-70"/>、進入時に1辺が230m程度だったデルタの1辺が<ref name="2003-g-58"/>、ループの頂点では40mにまで縮まっている<ref name="2006-b-70"/>。||○||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| ダブル・ロールバック<br>''Double Rollback''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||ブルーインパルス創設50周年を記念して2010年に追加された課目<ref name="2010-g-85"/>。6機がデルタ隊形で会場右側から進入<ref name="2010-g-85"/>、5番機と6番機が同時に上昇しながら外側にロール<ref name="2010-g-85"/>、5番機と6番機が編隊に集合する直前に2番機と3番機が同時に上昇しながら外側にロール<ref name="2010-g-85"/>、スワン隊形となって左後方に離脱<ref name="2010-g-85"/>。||&nbsp;||&nbsp;||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| デルタ・ロール<br>''Delta Roll''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||6機が密集したデルタ隊形で会場正面から進入<ref name="2003-g-59"/>、隊形を維持したまま大きくバレルロールを行い<ref name="2010-b-123"/>、右後方に抜ける。||○||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| デルタ・ループ<br>''Delta Loop''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||6機が密集したデルタ隊形で会場右側から進入<ref name="2010-b-123"/>、隊形を維持したまま大きくループを行う<ref name="2003-g-59"/>。||○||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| ボントン・ロール<br>''Bon ton Roll''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJAH Bon ton Roll.JPG|180px]]||6機がデルタ隊形で会場左側から進入<ref name="2003-g-60"/>、6機が一斉に右ロールで1回転する<ref name="2010-b-123"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| サクラ<br>''SAKURA''||[[ファイル:BlueImpulse sakura01.jpg|180px]]||2004年(平成16年)に航空自衛隊創設50周年を記念して追加された課目<ref name="2010-g-85"/>。6機が大きなポイントスター隊形で会場右側から進入<ref name="2010-g-85"/>、リーダーのコールにより一斉に左へ360度旋回する<ref name="2010-g-85"/>。旋回時には、2番機は200フィート下<ref name="2010-g-85"/>、3番機は200フィート上<ref name="2010-g-85"/>、5番機は300フィート下の高度で旋回する<ref name="2010-g-85"/>。||&nbsp;||&nbsp;||○||○||○||&nbsp;
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| バーティカル・キューバン・エイト<br>''Vertical Cuban 8''||[[ファイル:Vertical Cuban 8 performance of Blue Impulse, JASDF.jpg|180px]]||会場右側から5番機が進入<ref name="2003-g-60"/>。会場正面を過ぎたあたりで[[インメルマンターン]]を2回繰り返して上昇<ref name="2003-g-60"/>。頂点からは[[スプリットS]]を2回繰り返して降下<ref name="2003-g-60"/>、スモークで「8」の文字を描く<ref name="2006-b-71"/>。||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| キューバン・エイト<br>''Cuban 8''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||会場右側から5番機が進入<ref name="2003-g-60"/>。会場正面を過ぎたあたりで引き起こしてループに入り、225度のループのあたりで1回転半のロールを行い<ref name="2010-g-86"/>、進入時の角度になったら同じことをもう一度繰り返す<ref name="2010-g-86"/>。||&nbsp;||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| スター&クロス<br>''Star & Cross''||[[ファイル:Star under the sky (2097057891).jpg|180px]]||アメリカ空軍主催の「ゴールデン・エア・タトゥー」において、アメリカ人の観客から絶賛された課目<ref name="2003-g-76"/>。1番機から4番機と6番機が会場後方からデルタ隊形で進入<ref name="2010-g-81"/>、そのまま上昇。ピッチ角85度に達したところで1番機が後方に<ref name="2006-b-72"/>、2番機と3番機は左右に70度ずつ<ref name="2006-b-72"/>、4番機と6番機は左右に145度ずつの角度で5方向に分かれる<ref name="2006-b-72"/>。各機ともスプリットSの機動で降下し、高度5,000フィート付近で会場に再び進入し<ref name="2003-g-61"/>、編隊長の合図で右に15度ずつ旋回してスモークを使用開始<ref name="2010-g-81"/>、各機のスモーク開始点に向けて飛行する<ref name="2010-b-124"/> ことで、大きな星がスモークで描かれる<ref name="2010-b-124"/>。||○||○|| &nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| タック・クロスI<br>''Tac Cross I''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJST Tac Cross I.JPG|180px]]||会場正面から5番機と6番機が進入、会場から見て右側が5番機、左側が6番機<ref name="2006-b-72"/>。2機が同時に背面飛行になった<ref name="2003-g-61"/> あと、5番機が右ロール、6番機が左ロールした後に互いに交差<ref name="2006-b-72"/>。5番機が左側へ、6番機が右側へそれぞれ上昇しながら2回転半ロールした後にスプリットSの機動で降下<ref name="2003-g-61"/>。滑走路上で背面飛行となり、そのまま2機がすれ違う<ref name="2010-g-82"/>。||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;
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| タック・クロスII<br>''Tac Cross II''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||前述の「タック・クロスI」で、5番機と6番機が交差した後に上昇せずに斜め旋回するもの<ref name="2010-b-124"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||&nbsp;||&nbsp;
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| ローリング・コンバット・ピッチ<br>''Rolling Combat Pitch''||[[ファイル:Blue Impulse @ Tsuiki 2008築城基地航空祭 (3098432044).jpg|180px]]||F-86F・T-2時代から継続されている課目<ref name="2006-b-7"/>。1番機から4番機までが会場左側からエシュロン隊形で進入<ref name="2006-b-73"/>、緩やかに上昇した後に、1番機から順に250度の右ロールを行う<ref name="2010-b-124"/>。ここで編隊は解散となり、各機は180度左旋回<ref name="2003-g-62"/>、その後着陸態勢に入るためにトレール隊形へ移行する<ref name="2010-g-82"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| コーク・スクリュー<br>''Cork Screw''||[[ファイル:Spiral Nyuutabaru 2007 (2151692902).jpg|180px]]||5番機と6番機が正面右方向からアブレスト隊形で進入<ref name="2003-g-62"/>。5番機が背面飛行になった後、6番機が5番機を中心として3回のバレルロールを行い<ref name="2006-b-73"/>、スモークでコルクの栓抜き (Cork Screw) のような軌跡が描かれる<ref name="2010-g-83"/>。その後着陸態勢に入る<ref name="2010-b-124"/>。||○||○||○||○||&nbsp;||&nbsp;
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| ナイフ・エッジ<br>''Knife Edge''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||会場左手から5番機が進入、右に90度のバンク角をとったままで右側に抜ける<ref name="2010-g-87"/>。この間は胴体の揚力のみで飛行している<ref name="2010-g-87"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||&nbsp;
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| デルタ・スリー・シックスティ・ターン<br>''Delta 360°Turn''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||編隊機動連携飛行でのみ実施<ref name="2010-g-84"/>。1番機から4番機と6番機が会場右側からデルタ隊形で進入し<ref name="2010-g-87"/>、隊形を維持したまま360度旋回を行う<ref name="2010-g-87"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||&nbsp;
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| セブン・トゥエンティ・ターン<br>''720°Turn''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||編隊機動連携飛行でのみ実施<ref name="2010-g-84"/>。会場正面から進入した5番機が、まず右に360度旋回<ref name="2010-g-87"/>、その後左に360度旋回する<ref name="2010-g-87"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||&nbsp;
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| レベル・オープナー<br>''Level Opener''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||編隊機動連携飛行でのみ実施<ref name="2010-g-84"/>。1番機から4番機と6番機が会場正面からデルタ隊形で進入し<ref name="2010-g-87"/>、4番機と6番機が外側に60度、2番機と3番機が45度で4秒間旋回してブレイク<ref name="2010-g-87"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||&nbsp;
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| デルタ・ダーティー・ローパス<br>''Delta Dirty Low-pass''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||デルタ隊形で会場上空を通過。編隊機動連携飛行と航過飛行(フライバイ)でのみ実施<ref name="2010-g-84"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||○
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| リーダーズ・ベネフィット・ローパス<br>''Leader's benefit Low-pass''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJAH Leader's benefit Low-pass.JPG|180px]]||リーダーズ・ベネフィット隊形で会場上空を通過。編隊機動連携飛行と航過飛行(フライバイ)でのみ実施<ref name="2010-g-84"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||○
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| ポイント・スター・ローパス<br>''Point star Low-pass''||[[ファイル:Blue Impulse (Japan Air Self-Defense Force).jpg|180px]]||ポイント・スター隊形で会場上空を通過。編隊機動連携飛行と航過飛行(フライバイ)でのみ実施<ref name="2010-g-84"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||○
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| スワン・ローパス<br>''Swan Low-pass''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJAH Swan Low-pass.JPG|180px]]||スワン隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)でのみ実施<ref name="2010-g-84"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○
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| グランドクロス・ローパス<br>''Grand Cross Low-pass''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||グランドクロス隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)でのみ実施<ref name="2010-g-84"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○
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| エシュロン・ローパス<br>''Echelon Low-pass''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||エシュロン隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)でのみ実施<ref name="2010-g-84"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○
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| ピラミッド・ローパス<br>''Pyramid Low-pass''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||ピラミッド隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)でのみ実施<ref name="2010-g-84"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○
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| ツリー・ローパス<br>''Tree Low-pass''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||ツリー隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)でのみ実施<ref name="2010-g-84"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○
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| トレール・ローパス<br>''Trail Low-pass''||[[ファイル:No-image.svg|180px]]||トレール隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)でのみ実施<ref name="2010-g-84"/>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○
|-
| クリスマスツリー・ローパス<br>''Christmas tree Low-pass''||[[ファイル:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse RJAH Christmas tree.jpg|180px]]||クリスマスツリー隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)で実施するほか、期間限定で正規科目終了後、着陸前に実施<ref group="注釈">11月下旬や12月に航空祭を行う基地([[築城基地]]や[[新田原基地]]、[[那覇空港|那覇基地]]など)で見ることができる。</ref>。||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○
|}

== データ ==
=== 年表 ===
==== F-86F時代 ====
* [[1958年]]([[昭和]]33年)
** [[10月19日]] - [[浜松基地]]開庁祭でF-86Fによる曲技飛行を行う<ref name="2010-b-145"/>。日本における初めてのジェット機による公開宙返り。
* [[1960年]](昭和35年)
* [[1960年]](昭和35年)
** [[3月4日]] 浜松北基地で第一回の初公式展示。空幕幹部に向けた部内飛行で、正式発足前だったものの第回としてカウントされ、16科目におよぶ展示飛行を実施。
** [[3月4日]] - 浜松北基地で第一回の初公式展示<ref name="2010-g-92"/>。空幕幹部に向けた部内飛行で、正式発足前だったものの第1展示飛行としてカウントされ<ref name="2010-g-92"/>、16科目におよぶ展示飛行を実施<ref name="2010-g-92"/>
** [[4月12日]] [[浜松基地|浜松]]第1航空団[[第2飛行隊 (航空自衛隊)|第2飛行隊]]内に「空中機動研究班」としてアクロチームが誕生。
** [[4月16日]] - [[浜松基地|浜松]]第1航空団[[第2飛行隊 (航空自衛隊)|第2飛行隊]]内に「空中機動研究班」としてアクロチームが誕生<ref name="2003-g-99"/>
** [[5月21日]] 5回目の展示飛行。ジョンソン基地(現在の入間基地)にて行われた3軍記念日において初めてスモークを使用した展示飛行を実施。
** [[5月21日]] - 5回目の展示飛行。ジョンソン基地(現在の入間基地)にて行われた3軍記念日において初めてスモークを使用した展示飛行を実施<ref name="2010-b-145"/>
** [[8月1日]]「特別飛行研究班」に改称。
** [[8月1日]] - 「特別飛行研究班」に改称<ref name="2003-g-99"/>
* [[1961年]](昭和36年)
* [[1961年]](昭和36年)
** [[7月21日]] 伊良湖畔沖における訓練中に初めてのアクシデント。
** [[7月21日]] - 伊良湖畔沖における訓練中に初めてのアクシデント<ref name="2003-g-100"/>
** [[10月22日]] カラースモークを初めて使用。
** [[10月22日]] - カラースモークを初めて使用<ref name="2010-b-146"/>
* [[1963年]](昭和38年)
* [[1963年]](昭和38年)
** [[10月5日]] 美保基地での展示飛行において、新塗装機の初披露。
** [[10月5日]] - 美保基地での展示飛行において、新塗装機の初披露<ref name="2010-g-93"/>
* [[1964年]](昭和39年)
* [[1964年]](昭和39年)
** [[10月10日]] [[東京オリンピック]]開会式で会場上空に「五輪」を描く<ref>「五輪」カラーの中で黒色の[[スモーク]]だけがうまく出来ず、完成したのが開会式10日前の[[10月1日]]だった。</ref>。
** [[10月10日]] - [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]開会式で会場上空に「五輪」を描く<ref name="2011-t-12"/>。
* [[1965年]](昭和40年)
* [[1965年]](昭和40年)
** [[11月20日]] 第2飛行隊の解散に伴い第1航空団[[第1飛行隊 (航空自衛隊)|第1飛行隊]]の指揮下に入り「戦技研究班」と改称。
** [[11月20日]] - 第2飛行隊の解散に伴い第1航空団[[第1飛行隊 (航空自衛隊)|第1飛行隊]]の指揮下に入り「戦技研究班」と改称<ref name="2010-b-147"/>
** [[11月24日]] テイクオフ・ロール事故を起こす。
** [[11月24日]] - テイクオフ・ロール事故を起こす<ref name="2010-b-147"/>
* [[1966年]](昭和41年)
** [[4月16日]] - [[姫路大博覧会]]で飛行<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201405/0006974078.shtml 姫路城にブルーインパルス 「平成の大修理」完成記念]</ref><ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_30718/_31609/_31892.html ブルーインパルスの祝賀飛行の決定について]</ref><ref>[http://mainichi.jp/area/hyogo/news/m20140520ddlk28040491000c.html 姫路城:お祝い、49年ぶりブルーインパルス飛行 来年3月「大修理」完成式典 /兵庫]</ref>。
* [[1970年]](昭和45年)
* [[1970年]](昭和45年)
** [[3月14日]] [[日本万国博覧会|大阪万博]]開会式で会場上空に6機を使いEXPO'70の文字を描く。
** [[3月14日]] - [[日本万国博覧会]](大阪万博開会式で会場上空に6機を使い "EXPO'70" の文字を描く<ref name="2010-g-93"/>
* [[1979年]](昭和54年)
* [[1979年]](昭和54年)
** [[4月1日]]F-86Fによるパイロット教育終了に伴い第1飛行隊解散。それに伴い戦技研究班は第1航空団[[第35飛行隊 (航空自衛隊)|第35飛行隊]]の指揮下に入る。
** [[4月1日]] - F-86Fによるパイロット教育終了に伴い第1飛行隊解散<ref name="2010-b-148"/>。それに伴い戦技研究班は第1航空団[[第35飛行隊 (航空自衛隊)|第35飛行隊]]の指揮下に入る<ref name="2010-b-148"/>
* [[1981年]](昭和56年)
* [[1981年]](昭和56年)
** [[2月8日]] - [[入間基地]]で「F-86Fブルーインパルス最終展示飛行」を行う<ref name="2010-g-93"/>。
** [[2月8日]] [[入間基地]]で『F-86Fブルーインパルス最終飛行展示』を行う<ref>通算総展示飛行回数は午前544回、午後545回。午前は浜松でしか見られなかった6機編隊を、午後は浜松以外の基地で飛行する5機編隊で披露した。同日午後のF86Fブルーインパルス最終展示飛行前にはT-2ブルーがノーマル仕様機で[[百里飛行場|百里基地]]より展示飛行を披露。</ref>。
** [[3月3日]] 浜松基地上空で「F-86Fブルーインパルス」最後の訓練飛行(最終アクロ訓練)を行う。
** [[3月3日]] - 浜松基地上空で「F-86Fブルーインパルス」最後の訓練飛行(最終アクロ訓練)を行う<ref name="2010-g-93"/>
** [[3月31日]] 第35飛行隊・戦技研究班(F-86Fブルーインパルス)解散<!-- 別書籍によると「1981年12月27日にF-86(ブルーインパルス)戦技研究班解散」の記載もあり。 -->。
** [[3月31日]] - 第35飛行隊・戦技研究班(F-86Fブルーインパルス)解散<ref name="2010-g-93"/>。


=== T-2時代 ===
==== T-2時代 ====
* [[1982年]](昭和57年)
* [[1982年]](昭和57年)
** [[1月12日]] [[松島基地]]第4航空団[[第21飛行隊 (航空自衛隊)|第21飛行隊]]内に「戦技研究班(T-2ブルーインパルス)」新編。
** [[1月12日]] - [[松島基地]]第4航空団[[第21飛行隊 (航空自衛隊)|第21飛行隊]]内に「戦技研究班(T-2ブルーインパルス)」新編<ref name="2010-b-148"/>
** [[7月25日]] 松島基地航空祭で「T-2ブルーインパルス」最初の公式飛行展示を行う。悪天候のため「航過飛行」のみ。
** [[7月25日]] - 松島基地航空祭で「T-2ブルーインパルス」最初の公式展示飛行を行う<ref name="2010-g-94"/>。悪天候のため「航過飛行」のみ<ref name="2010-b-148"/>
** [[8月8日]] [[千歳基地]]航空祭で「T-2ブルーインパルス」最初の第1区分公式飛行展示(フル演技)を行う。
** [[8月8日]] - [[千歳基地]]航空祭で「T-2ブルーインパルス」最初の第1区分公式展示飛行(フル演技)を行う<ref name="2003-g-103"/>
** [[11月14日]] - 浜松基地航空祭で「下向き空中開花」を演技中に4番機が[[ホンダ・エクスプレス]](現・[[ホンダロジスティクス]])敷地内のモータープール(完成車両の出荷前集積場)に墜落。パイロット1名が殉職、周辺住民12名の負傷者を出す大事故を起こす<ref name="2010-b-149"/>。
** [[11月14日]] 浜松基地航空祭で「下向き空中開花」を演技中に4番機が[[ホンダ・エクスプレス]](現:[[ホンダロジスティクス]])敷地内のモータープール(完成車両の出荷前集積場)に墜落。パイロット1名が殉職、周辺住民12名の負傷者を出す大事故を起こす<ref>事故を報じるニュース(外部)[http://www.youtube.com/watch?v=GF1ZNo4_NDE&feature=related]</ref><ref>この年の展示飛行は中止され、以後演目から「下向き空中開花」が削除された。現在のT-4ブルーにおいて採用されている「レインフォール」はこの演技をモチーフにしたのみで、180度ロールがないなど全く別物の演技である。</ref><ref>この演技は4番機のみ引き起こしの直前に180度ロールを加えるもので、当日はループの頂点がいつもより低くなってしまったこと、またリーダー機の指示が約3秒遅れたことにより作業の多い4番機の引き起こしが間に合わなくなったことによる事故であった。それらの手順実施に伴う高度損失の可能性は前年の練習時から発覚しており、リーダーの指示が遅れた場合は4番機は自己判断で180度ロールを省略してリーダー機に追従して良いことになっていたが、このパイロットは事前より頑なにそれを拒み、機長の指示の遵守を宣言、渋々合意書へのサインが全パイロット中最後であったという(武田頼政著「ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち」より)。結果、この時4番機は機体を引き起こしたものの、上昇までに至らず墜落した(事故調査の結果、墜落せず上昇するためには約0.7秒遅かった)。</ref><ref>4番機の本来のルートの延長線上には住宅地や行楽シーズンで混雑する[[東名高速道路]]が横切るなど、実際の墜落現場に落ちなければ被害がより甚大になっていたことからパイロットはとっさの判断で墜落場所を選んだのではとも言われているが、[[フライトデータレコーダー]]が搭載されていなかったこの機体の墜落に至るまでの状態は分析不可能であり、事故当時、機体がどのような状態で、それに対しどのような判断・操作をしたのかは操縦していた本人にしか分かり得ないのが実状である。</ref><ref>この事故で損傷した車両は、後に防衛庁が全て買い取ったと言われている。</ref>。
* [[1983年]](昭和58年)
* [[1983年]](昭和58年)
** [[2月]] 飛行訓練を再開。
** 2月 - 飛行訓練を再開<ref name="2010-g-95"/>
** [[10月30日]] [[陸上自衛隊]][[朝霞駐屯地]]で開催された「[[観閲式]]」にて行った観閲飛行で飛行再開。
** [[10月30日]] - [[陸上自衛隊]][[朝霞駐屯地]]で開催された「[[観閲式]]」にて行った観閲飛行で飛行再開<ref name="2003-g-104"/>
** [[11月3日]]・[[11月5日|5日]]・[[11月6日|6日]] [[岐阜基地]]で開催された「国際航空宇宙ショー」にて、シンボルマークを描き、フライバイ飛行を実施する。
** [[11月3日]]・[[11月5日|5日]]・[[11月6日|6日]] - [[岐阜基地]]で開催された「国際航空宇宙ショー」にて、シンボルマークを描き、フライバイ飛行を実施する<ref name="2010-g-95"/>
* [[1984年]](昭和59年)
* [[1984年]](昭和59年)
** [[7月29日]] 松島基地航空祭で曲技飛行を含む展示飛行を5機で再開する。
** [[7月29日]] - 松島基地航空祭で曲技飛行を含む展示飛行を5機で再開する<ref name="2003-g-104"/>
* [[1990年]](平成2年)
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** [[4月1日]] 大阪・[[国際花と緑の博覧会|花と緑の博覧会]]で博覧会シンボルマーク(巨大チューリップ)を描く<ref>展開基地は[[小牧基地]]で9機を使い描いた。</ref>。
** [[4月1日]] - 大阪・[[国際花と緑の博覧会|花と緑の博覧会]]で博覧会シンボルマーク(巨大チューリップ)を描く<ref name="2010-g-95"/>。
* [[1991年]](平成3年)
* [[1991年]](平成3年)
** [[6月]] 次期(三代目)ブルーインパルス使用機材にT-4を選定。
** 6月 - 次期(三代目)ブルーインパルス使用機材にT-4を選定<ref name="2010-b-151"/>
** [[7月4日]] 金華山沖での飛行訓練中に2機が墜落、パイロット2名が殉職。この年の展示飛行を中止する。
** [[7月4日]] - 金華山沖での飛行訓練中に2機が墜落、パイロット2名が殉職<ref name="2010-b-150"/>。この年の展示飛行を中止する<ref name="2003-g-104"/>
* [[1992年]](平成4年)
* [[1992年]](平成4年)
** [[8月23日]] 松島基地航空祭で水平区分系のみで展示飛行を4機で再開する。
** [[8月23日]] - 松島基地航空祭で水平区分系のみで展示飛行を4機で再開する<ref name="2010-g-96"/>
** [[10月]] 第21飛行隊内に「T-4準備班」発足。
** 10月 - 第21飛行隊内に「T-4準備班」発足<ref name="2010-g-97"/>
* [[1993年]](平成5年)
* [[1993年]](平成5年)
** [[8月]] 展示飛行にソロ1機を追加、5機体制で展示飛行を行う。
** 8月 - 展示飛行にソロ1機を追加、5機体制で展示飛行を行う<ref name="2010-g-96"/>
* [[1994年]](平成6年)
* [[1994年]](平成6年)
** [[8月7日]] [[千歳基地]]航空祭より6機体制になる。
** [[8月7日]] - [[千歳基地]]航空祭より6機体制になる<ref name="2010-g-96"/>
** [[8月10日]] - 米空軍アクロバットチーム「[[サンダーバーズ]]」と[[三沢基地]]航空祭で競演<ref name="2006-b-89"/>。
** [[8月10日]] 米空軍アクロバットチーム[[サンダーバーズ]]と[[三沢基地]]航空祭で競演<ref>この年の[[三沢基地]]航空祭は当初[[9月15日]](祝)に開催の予定だったが『[[サンダーバーズ]]』の「パシィフィック・ツアー」に合わせて約1ヶ月早められた。ブルーインパルスは千歳基地航空祭終了後、松島基地へ帰らずに直接千歳から三沢へ移動、8月10日航空祭終了後に松島へ帰投した。当日は平日だったにも関わらず約4万人の観客が訪れた。</ref><ref>この時、T-2ブルーのメンバーが左肩にしていた「共演記念[[パッチ]]([[ワッペン]])」は、サンダーバーズ側の許可を得ないで製作してしまった逸話がある。</ref>。
** [[8月11日]] 第4航空団にT-4アクロ(T-4ブルーインパルス)仕様1号機(46-5720)納入。
** [[8月11日]] - 第4航空団にT-4アクロ(T-4ブルーインパルス)仕様1号機(46-5720)納入<ref name="2010-g-97"/>
** [[8月21日]] 松島基地航空祭で「T-4ブルーインパルス」機、一般に初披露される<ref>この時、T-4ブルー原案イラストをデザインした[[斎藤章二]]がT-4ブルー機披露式典に招待され、同機で体験搭乗をした。</ref>。
** [[8月21日]] - 松島基地航空祭で「T-4ブルーインパルス」機、一般に初披露される<ref name="2010-g-98"/>。
** [[10月1日]] 第4航空団第21飛行隊内「T-4準備班」を昇格させる形で「[[第11飛行隊 (航空自衛隊)|臨時第11飛行隊]]」に新編。
** [[10月1日]] - 第4航空団第21飛行隊内「T-4準備班」を昇格させる形で「臨時第11飛行隊」に新編<ref name="2010-b-152"/>
** 同日10月1日 [[百里飛行場#航空自衛隊百里基地|百里基地]]で『航空自衛隊創設40周年記念行事』を兼ねた「1994年航空訓練展示」でT-4ブルー機展示、1機(726号機)地上展示、2機(720号機・725号機)が、飛行展示を行う<ref>T-4ブルー機は「研究飛行」との名目で航過系、水平系演技を実施。</ref>。
** 10月1日 - [[百里飛行場#航空自衛隊百里基地|百里基地]]で『航空自衛隊創設40周年記念行事』を兼ねた「1994年航空訓練展示」でT-4ブルー機展示、1機(726号機)地上展示、2機(720号機・725号機)が、展示飛行を行う<ref name="2010-b-152"/>。
[[File:Japan Air Self-Defense Force Blue Impulse F-86 T-2 T-4.jpg|thumb|250px|T-4・F-86F・T-2ブルーインパルス(百里基地、1995年11月12日)]]

* [[1995年]](平成7年)
* [[1995年]](平成7年)
** [[7月30日]] 松島基地で開催された「航空祭」で「T-4ブルーインパルス」がお披露目され、T-2・T-4両ブルーインパルスの共演が行われる<ref>「T-4ブルーインパルス」は当時臨時第11飛行隊として白スモークを使い「研究飛行」との名目で水平飛行系を中心に編隊連携機動飛行展示を実施、「[[ブルーインパルスジュニア]]」も公開された。</ref>。
** [[7月30日]] - 松島基地で開催された「航空祭」で「T-4ブルーインパルス」がお披露目され、T-2・T-4両ブルーインパルスの共演が行われる<ref name="2010-b-152"/>。
** [[11月12日]] 百里基地で開催された「1995年航空訓練展示」でも「T-4ブルーインパルス」がお披露目され、再びT-2・T-4両ブルーインパルスの共演が行われる<ref>[[浜松基地]]から「F-86Fブルーインパルス」使用機の02-7960号機をトラックによる陸送で運び、T-2ブルー機とT-4ブルー機の間に展示した。</ref>。
** [[11月12日]] - 百里基地で開催された「1995年航空訓練展示」でも「T-4ブルーインパルス」がお披露目され、再びT-2・T-4両ブルーインパルスの共演が行われる<ref name="2010-b-152"/>。
** [[11月26日]] 宮崎県[[新田原基地]]航空祭で「T-2ブルーインパルス」最後の第1区分公式飛行展示(フル演技)を行う。
** [[11月26日]] - 宮崎県[[新田原基地]]航空祭で「T-2ブルーインパルス」最後の第1区分公式展示飛行(フル演技)を行う。
** [[12月3日]] - 浜松基地で『T-2ブルーインパルス最終展示飛行』を行う<ref name="2010-b-83"/>。
** [[12月3日]] 浜松基地で『T-2ブルーインパルス最終飛行展示』を行う<ref>通算総展示飛行回数175回。なお、[[1982年]][[11月14日]]の墜落事故後の浜松基地航空祭では「宙返り飛行系演技」と「背面飛行系演技」が全面禁止され、「浜松スペシャル」と題した「水平飛行系演技」のみとされており、この最終飛行展示も例外扱いはされず、「水平飛行系演技」のみで締めくくられた。「宙返り飛行系演技」・「背面飛行系演技」が全面解禁されたのは[[1999年]]11月14日の浜松基地航空祭から。</ref><ref>当初は翌週[[12月10日]]に開催される[[那覇基地]][[航空祭]]で『T-2ブルーインパルス最終飛行展示』で締めくくる予定だったが、米軍兵による少女暴行事件で沖縄県民感情が悪化したためキャンセルされた。</ref>。
** [[12月8日]] 松島基地上空で「T-2ブルーインパルス」最後の訓練飛行(最終アクロ訓練)を行う<ref>[[松島基地]]外柵のポイントに居たギャラリーを基地内に招き入れ、「T-4ブルーインパルス」が[[前説|前座]]で飛行展示(研究飛行)を行い、非公式ながら小規模の航空祭が行われた。最終訓練終了後、「T-2ブルーインパルス」最終メンバーに第三賞状が贈られた。</ref>
** [[12月8日]] - 松島基地上空で「T-2ブルーインパルス」最後の訓練飛行(最終アクロ訓練)を行う。
** [[12月22日]] - 第21飛行隊戦技研究班(T-2ブルーインパルス)解散、第11飛行隊(T-4ブルーインパルス)新編<ref name="2003-g-104"/>。
** [[12月22日]] 第21飛行隊戦技研究班(T-2ブルーインパルス)解散、第11飛行隊(T-4ブルーインパルス)新編<ref>この年は「T-2ブルーインパルス」最後の年だった事から、最後の花道として[[滋賀県]][[彦根市]]の[[琵琶湖]]で行われる「[[鳥人間コンテスト選手権大会]]」や[[三重県]]「[[鈴鹿サーキット]]」で開催される「[[フォーミュラ1|F1]][[日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]」でのフライバイ要請があったが、スケジュールの都合により断念した。また「T-2ブルーインパルス」も『F-86Fブルーインパルス最終飛行展示』のように[[入間基地]]で盛大に行う事も検討されたが結局実現には至らなかった。</ref>。


=== T-4時代 ===
==== T-4時代 ====
* [[1996年]](平成8年)
* [[1996年]](平成8年)
** [[4月]] [[防衛大学校]]入校式で、「T-4ブルーインパルス」最初の公式飛行展示(編隊課目のみ)を行う。
** 4月 - [[防衛大学校]]入校式で、「T-4ブルーインパルス」最初の公式展示飛行(編隊課目のみ)を行う<ref name="2003-g-106"/>
** [[5月5日]] [[岩国航空基地]]「フレンドシップデー」で、「T-4ブルーインパルス」最初の第1区分公式飛行展示(フル演技)を行う。
** [[5月5日]] - [[岩国航空基地]]「日米親善デー」で、「T-4ブルーインパルス」最初の第1区分公式展示飛行(フル演技)を行う<ref name="2003-g-106"/>
* [[1997年]](平成9年)
* [[1997年]](平成9年)
** [[4月]] アメリカ合衆国[[ネバダ州]]・[[ネリス空軍基地]]にて開催の『アメリカ空軍創設50周年記念エアショー(「ゴールデン・エア・タトゥー」)』にて初めて海外での飛行展示を実施。
** 4月 - アメリカ合衆国[[ネバダ州]]・[[ネリス空軍基地]]にて開催の『アメリカ空軍創設50周年記念エアショー(「ゴールデン・エア・タトゥー」)』にて初めて海外での展示飛行を実施<ref name="2010-g-99"/>
* [[1998年]](平成10年)
* [[1998年]](平成10年)
** [[2月]] [[長野オリンピック]]開会式で展示飛行。
** 2月 - [[長野オリンピック]]開会式で展示飛行<ref name="2006-b-92"/>
* [[1999年]](平成11年)
* [[1999年]](平成11年)
** この年から環境などへの配慮から、カラースモークの使用を止。
** この年からカラースモークの使用を<ref name="2006-b-33"/>
** [[11月14日]] 浜松基地航空祭で18年ぶりとなる第区分の展示飛行を実施。
** [[11月14日]] - 浜松基地航空祭で18年ぶりとなる第1区分の展示飛行を実施<ref name="2006-b-92"/>
* [[2000年]](平成12年)
* [[2000年]](平成12年)
** [[7月4日]] - 飛行訓練後の帰投中に2機が墜落し、パイロット3名が殉職<ref name="2010-b-153"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.miyagi.jp/gentai/pdf/Genshi_75/Genshi_75.pdf |title= 原子力だより みやぎ Vol.75(平成12年10月号)|author= 宮城県環境生活部原子力安全対策室|date= |work= |publisher= |accessdate=2013-04-13 }}</ref>。事故以降、その年の展示飛行を全て中止する<ref name="2006-b-92"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.miyagi.jp/gentai/pdf/Genshi_77/Genshi_77.pdf |title= 原子力だより みやぎ Vol.77(平成13年4月号)|author= 宮城県環境生活部原子力安全対策室|date= |work= |publisher= |accessdate=2013-04-13 }}</ref>。
** [[淡路島]]で開催のジャパンフローラ2000で展示飛行。
** [[7月4日]] 飛行訓練後の帰投中に2機が墜落し、パイロット3名が殉職<ref>{{Cite web|url=http://www.pref.miyagi.jp/gentai/pdf/Genshi_75/Genshi_75.pdf |title= 原子力だより みやぎ Vol.75(平成12年10月号)|author= 宮城県環境生活部原子力安全対策室|date= |work= |publisher= |accessdate=2013-04-13 }}</ref>。事故以降、その年の展示飛行を全て中止する<ref>{{Cite web|url=http://www.pref.miyagi.jp/gentai/pdf/Genshi_77/Genshi_77.pdf |title= 原子力だより みやぎ Vol.77(平成13年4月号)|author= 宮城県環境生活部原子力安全対策室|date= |work= |publisher= |accessdate=2013-04-13 }}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)
* [[2001年]](平成13年)
** [[2月]] 飛行訓練を再開。
** 2月 - 飛行訓練を再開<ref name="2003-g-107"/>
** [[8月26日]] 松島基地航空祭より4機による展示飛行を再開する。
** [[8月26日]] - 松島基地航空祭より4機による展示飛行を再開する<ref name="2010-b-154"/>
** [[9月11日]] [[アメリカ同時多発テロ事件]]発生により、これ以降、当年度の全ての航空祭が中止に。
** [[9月11日]] - [[アメリカ同時多発テロ事件]]発生により、これ以降、当年度の全ての航空祭が中止に<ref name="2006-b-92"/>
* [[2002年]](平成14年)
* [[2002年]](平成14年)
** [[5月26日]] 静浜基地航空祭より航空祭における展示飛行を再開。<!--航空学生卒業式・矢本滝山公園桜祭・防大入学式などの展示・編隊飛行は行っている-->
** [[5月26日]] - 静浜基地航空祭より航空祭における展示飛行を再開。<!--航空学生卒業式・矢本滝山公園桜祭・防大入学式などの展示・編隊飛行は行っている-->
** [[6月4日]] [[2002 FIFAワールドカップ]]にて[[埼玉スタジアム2002]]上空で展示飛行。
** [[6月4日]] - [[2002 FIFAワールドカップ]]にて[[埼玉スタジアム2002]]上空で展示飛行<ref name="2006-b-92"/>
** 8月 墜落事故で失われた機体の補充として新たに2機の新造T-4アクロバット仕様機を受領。
** 8月 - 墜落事故で失われた機体の補充として新たに2機の新造T-4アクロバット仕様機を受領<ref name="2010-b-154"/>
** 12月の[[岐阜基地]]航空祭から6機体制に戻る。
** 12月の[[岐阜基地]]航空祭から6機体制に戻る<ref name="2003-g-107"/>
* [[2004年]](平成16年)
* [[2004年]](平成16年)
** 9月・10月「パシフィックツアー」中の[[サンダーバーズ]]と百里、浜松で競演するも天候不順で展示飛行は全て中止。
** 9月・10月 - 「パシフィックツアー」中の[[サンダーバーズ]]と百里、浜松で競演するも天候不順で展示飛行は全て中止。
* [[2005年]](平成17年)
* [[2005年]](平成17年)
** 12月開催の[[那覇基地]]航空祭にてT-4ブルーインパルス化初の展示飛行(編隊課目のみ)を実施。<!--F-86F時代は数回展示飛行を実施、T-2時代は展示飛行はなし、一度だけ[[那覇基地]]まで行ったものの、当時の住民感情は逆上してしまい、[[那覇基地]]航空祭当日朝になり展示飛行中止に追い込まれた事もある。-->
** 12月開催の[[那覇基地]]航空祭にてT-4ブルーインパルス化初の展示飛行(編隊課目のみ)を実施。<!--F-86F時代は数回展示飛行を実施、T-2時代は展示飛行はなし、一度だけ[[那覇基地]]まで行ったものの、当時の住民感情は逆上してしまい、[[那覇基地]]航空祭当日朝になり展示飛行中止に追い込まれた事もある。-->
* [[2007年]](平成19年)
* [[2007年]](平成19年)
** [[4月28日]] - [[熊本城]]の[[熊本城築城400年祭|築城400年祭]]の一環として、[[熊本市]]上空にて展示飛行(航過飛行)を実施、熊本県出身の村田将一3等空佐が1番機を操縦した。
** [[4月28日]] [[熊本城]]の[[熊本城築城400年祭|築城400年祭]]の一環として、[[熊本市]]上空にて祝賀飛行を実施、熊本県出身の村田将一3等空佐が1番機を操縦した<ref>なお、前日に慣熟飛行を行った際、飛行音に市民が驚き、市に苦情が舞い込むという珍事が起きた。慣熟飛行当日は熊本県内に[[光化学スモッグ]]が発生しており、機体が見えにくかったことも原因とされる。</ref>。<!-- 49件のクレームを殺到と書くのはいささか行き過ぎではないかと --><!-- ←あくまでニュース記事の文章に忠実に書いただけだが? それと、あの爆音の構成はエンジン音だけではないと思うが? --><!-- ←ニュースソースに依存した記述であるのならば検証可能性を担保するため{{出典の明記}}をお願いいたします --><!-- ← http://www.asahi.com/national/update/0427/SEB200704270011.html のニュース記事を参照した。たしかに49件をもって殺到と表現するのは無理があるとは思ったのだが・・・。また、その苦情の電話も地元住民によるものばかりではなく、自衛隊の存在自体に批判的な市民活動団体によるものも相当数含まれるのではないかという指摘もある。 -->
** [[9月30日]] [[フォーミュラ1|F1]] [[日本GP]]決勝が開催される「[[富士スピードウェイ]]」上空で祝賀飛行を実施予定だったが、悪天候により飛行中止。
** [[9月30日]] - [[フォーミュラ1|F1]] [[日本GP]]決勝が開催される「[[富士スピードウェイ]]」上空で展示飛行(航過飛行を実施予定だったが、悪天候により飛行中止。
* [[2008年]](平成20年)
* [[2008年]](平成20年)
** [[4月12日]]-[[4月13日|13日]] [[瀬戸大橋]]開通20周年事業で[[サンポート高松]]上空と[[瀬戸大橋]]上空で編隊航過飛行を実施。
** [[4月12日]][[4月13日|13日]] - [[瀬戸大橋]]開通20周年事業で[[サンポート高松]]上空と[[瀬戸大橋]]上空で展示飛行(航過飛行を実施。
* [[2009年]](平成21年)
* [[2009年]](平成21年)
** 6月1日-6月2日 横浜開港150周年を記念して、第28回[[横浜開港祭]]において、横浜市西区臨港パーク上空で編隊航過飛行を実施。
** 6月1日2日 - 横浜開港150周年を記念して、第28回[[横浜開港祭]]において、横浜市西区臨港パーク上空で展示飛行(航過飛行を実施。
** 10月18日 米空軍アクロバットチーム[[サンダーバーズ]]と[[三沢基地]]航空祭で競演<ref>この時の展示飛行中に6番機に[[バードストライク]]が発生して緊急着陸。不完全燃焼の展示飛行となってしまった。</ref>。
** 10月18日 - 米空軍アクロバットチーム[[サンダーバーズ]]と[[三沢基地]]航空祭で競演<ref name="2010-g-99"/>。
* [[2010年]](平成22年)
* [[2010年]](平成22年)
** [[3月27日]] [[プロ野球]]チーム[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]のホーム開幕戦のオープニングにて、[[宮城球場|クリネックススタジアム宮城]]上空で編隊航過飛行を実施。
** [[3月27日]] - [[プロ野球]]チーム[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]のホーム開幕戦のオープニングにて、[[宮城球場|クリネックススタジアム宮城]]上空で展示飛行(航過飛行を実施。
** [[8月22日]] 第56回[[松島基地]]航空祭にてブルーインパルス創設50周年記念として[[航空中央音楽隊]]が「The Simmer of the Air」等を生演奏する中、飛行展示を実施。
** [[8月22日]] - 第56回[[松島基地]]航空祭にてブルーインパルス創設50周年記念として[[航空中央音楽隊]]が「The Simmer of the Air」等を生演奏する中、展示飛行を実施。
** [[9月25日]] 第65回国民体育大会[[第65回国民体育大会|ゆめ半島千葉国体]]の開会式において、[[千葉マリンスタジアム]]上空でデルタ隊形による編隊航過飛行を実施<ref>{{Cite news|title=ゆめ半島千葉国体9月26日~37年ぶり祭典開幕 開会式に3万3000人熱戦11日間 : 千葉>企画・連載 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)|newspaper=読売新聞|date=2010-09-26|accessdate=2012-11-12|url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/chiba/feature/chiba1283956566203_02/news/20100925-OYT8T01077.htm}}森田知事は閉式後の記者会見で、「天皇陛下は(開会式について)『(航空自衛隊のアクロバット飛行を行った)ブルーインパルスは青空に映えてきれいでしたね。一斉行進もきれいで、コンパクトないい開会式でしたね』と話されたようだ」と語った。</ref>。
** [[9月25日]] - 第65回国民体育大会[[第65回国民体育大会|ゆめ半島千葉国体]]の開会式において、[[千葉マリンスタジアム]]上空でデルタ隊形による編隊航過飛行を実施<ref>{{Cite news|title=ゆめ半島千葉国体9月26日〜37年ぶり祭典開幕 開会式に3万3000人熱戦11日間 : 千葉>企画・連載 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)|newspaper=読売新聞|date=2010-09-26|accessdate=2012-11-12|url=https://web.archive.org/web/20110111004411/http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/chiba/feature/chiba1283956566203_02/news/20100925-OYT8T01077.htm}}</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月11日]] [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])による[[津波]]被害のため[[松島基地]]所属の航空機は壊滅的被害を受けたが、ブルーインパルスは保有する9機のうち、6機が翌日の[[九州新幹線 (鹿児島ルート)|九州新幹線]]全通を祝う編隊通過飛行のため[[芦屋基地]]に移動、2機がメーカーでの整備に出されていたため、被害を受けたのは1機のみであった。しばらくは芦屋基地を拠点とし飛行訓練を行った<ref>{{Cite news|title=F2支援戦闘機など全滅…空自松島基地|newspaper=読売新聞|date=2011-03-17|accessdate=2011-03-17|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110317-OYT1T00229.htm}}</ref>。
** [[3月11日]] - [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])による[[津波]]被害のため[[松島基地]]所属の航空機は壊滅的被害を受けたが、第11飛行隊の保有する10機のうち、7(天候調査などに使用される通常仕様の1機を含む)が翌日の[[九州新幹線]]全通を祝う編隊通過飛行のため[[芦屋基地]]に展開<ref name="af702-8"/>、2機がIRAN(メーカーでの整備に出されていたため<ref name="af702-8"/>第11飛行隊の航空機で被害を受けたのはブルーインパルス仕様T-4の1機のみであった。しばらくは芦屋基地を拠点とし飛行訓練を行った<ref name="af704-9"/>。
** [[8月7日]] [[千歳基地]]航空祭において、シーズン初の展示飛行(編隊連携機動飛行)を実施<ref>{{Cite web|title=航空自衛隊 千歳基地 航空祭2010|publisher=ブックスフジ|date=2010|accessdate=2011-11-12|url=http://booksfuji.cart.fc2.com/ca14/101/p-r4-s/}}</ref>。
** [[8月7日]] [[千歳基地]]航空祭において、シーズン初の展示飛行(編隊連携機動飛行)を実施<ref name="af706-2"/>。
** [[8月20日]] [[宮城県]][[東松島市]]で、震災後初めて地元での編隊飛行を披露。最寄りの松島基地は未だ使用できないため、この日は[[青森県]]の[[三沢基地]]から離陸。6機による約10分間のショーを行った<ref>{{Cite news|title=ブルーインパルス、松島の空に戻る : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)|newspaper=読売新聞|date=2011-08-20|accessdate=2011-08-20|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110820-OYT1T00628.htm}}</ref>。
** [[8月20日]] [[宮城県]][[東松島市]]で、震災後初めて地元での編隊飛行を披露<ref name="af707-21"/>。最寄りの松島基地は未だ使用できないため、この日は[[青森県]]の[[三沢基地]]から離陸<ref name="af707-21"/>。
* [[2012年]](平成24年)
* [[2012年]](平成24年)
** [[11月3日]] 入間航空祭にて、展示飛行中の2機に[[バードストライク]]が発生し緊急着陸。その後の展示飛行は中止となってしまった<ref>{{Cite news|title=ブルーインパルス、大空にアート描く 入間基地航空祭|newspaper=産経ニュース|date=2012-11-04|accessdate=2012-12-06|url=http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2012/11/1103iruma/}}</ref>。
** [[11月3日]] - 入間航空祭にて、展示飛行中の2機に[[バードストライク]]が発生し緊急着陸。その後の展示飛行は中止となってしまった<ref>{{Cite news|title=ブルーインパルス、大空にアート描く 入間基地航空祭|newspaper=産経ニュース|date=2012-11-04|accessdate=2012-12-06|url=http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2012/11/1103iruma/}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)
* [[2013年]](平成25年)
** 2013年3月25日、松島基地に戻るのを前に、芦屋基地を一般開放して、周辺住民に感謝の気持を込めて、芦屋基地で最後のデモ飛行を行った<ref>{{cite news |title=惜別曲技飛行に3500人拍手 ブルーインパルス 宮城へ |newspaper=[[西日本新聞]] |date=2013-3-25 |url=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/354900 |accessdate=2013-4-1}}</ref>。
** [[3月25日]]- 松島基地に戻るのを前に、芦屋基地を一般開放して、周辺住民に感謝の気持を込めて、芦屋基地で最後の展示飛行を行った<ref name="af726-6-7"/>。
** 2013年3月31日松島基地でブルーインパルスの帰還式が開かれた。ブルーインパルスは震災以来、拠点としていた芦屋基地を離れ、2年ぶりに松島基地へと戻った<ref>{{cite news |title=大震災後2年ぶり 空自松島基地に帰還 |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2013-3-31 |url=http://mainichi.jp/feature/news/20130401k0000m040023000c.html |accessdate=2013-3-31}}</ref>。
** [[3月31日]] - 松島基地でブルーインパルスの帰還式が開かれた。ブルーインパルスは震災以来、拠点としていた芦屋基地を離れ、2年ぶりに松島基地へと帰還した<ref name="af726-12"/>。


[[ファイル:Blue Impulse 190920d.jpg|thumb|160px|ラグビーワールドカップ2019 日本vsロシア(2019年9月20日撮影)]]
== 展示飛行課目(T-4、2008年現在) ==
[[ファイル:Blue Impulse,Tokyo2020.jpg|thumb|160px|[[新型コロナウィルス]]への対応で医師や看護師ら医療関係者に感謝の気持ちを示すため、白いスモークを出しながら東京都心を飛行(2020年5月29日撮影)]]
ブルーインパルスの展示飛行は通常6機で約30分間行われる。1番機から4番機までは基本的に編隊を組んで(集団で)飛行し、5番機・6番機がソロを担当する。もちろん6機揃った演技も多数ある。


* [[2014年]](平成26年)
課目は、第1区分から第4区分まで4パターンあり、天候や地形の条件によりその都度選択され、展示飛行中の気象の変化や残燃料等により、随時変更がなされることがある。基本的に飛行場のある空自基地上空(鹿屋、岩国等一部の米軍、海自基地飛行場も含む)ではアクロバット飛行を行うが、民間飛行場やイベント会場、陸自駐屯地等それ以外の場所での展示飛行は近隣の空自基地から飛来するリモート形式となり、水平系の機動課目を組み入れた編隊連携機動飛行かフライバイ中心の編隊航過飛行を行う。
** [[1月29日]] - 松島基地から南東に約45&nbsp;kmの太平洋上で1番機の機首部と2番機の左後方が接触し同基地へ緊急着陸。ブルーインパルス同士の接触事故は発足以来初。
** [[5月31日]] - 国立競技場のファイナルイベント「SAYONARA国立競技場FINAL "FOR THE FUTURE"」にて、競技場上空で展示飛行(航過飛行)を実施。
* [[2016年]](平成28年)
** [[3月26日]] - [[北海道新幹線]]の開業祝賀飛行を[[函館市]]-[[北斗市]]-[[木古内町]]間で実施<ref>[https://hakodate-event.com/2016/03/post-8627/ 函館イベント情報局 【2016/3/26】北海道新幹線開業記念 ブルーインパルス祝賀飛行](2023年9月12日閲覧)</ref>。
** [[8月28日]] - 一般公募9,000人と特別招待1,000人の合計10,000人限定で公開された「松島基地復興感謝イベント」にて展示飛行を実施。基地上空で展示飛行を披露するのは6年ぶりとなる。
* [[2017年]](平成29年)
** [[8月26日]] - 「東松島夏まつり」にて展示飛行を実施。
** [[8月27日]] - 「[[松島基地#航空祭|松島基地航空祭]]」(完全一般公開)にて午前・午後の2回に渡り展示飛行を実施。同基地完全一般公開での展示飛行は2010年以来7年ぶりとなる。
* [[2019年]]([[令和]]元年)
** [[9月2日]] - [[ラグビーワールドカップ2019]](日本大会)の組織委員会が、9月20日の日本vsロシア([[東京スタジアム (多目的スタジアム)|東京スタジアム]]〈東京都[[調布市]]〉)の開幕戦に先立って行われる式典と、25日の[[釜石鵜住居復興スタジアム]](岩手県[[釜石市]])でのフィジーvsウルグアイ戦前に、展示飛行が行われると発表<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S14162549.html 開会式にブルーインパルス ラグビーW杯](2019年9月3日)朝日新聞</ref>。
* [[2020年]](令和2年)
** [[3月20日]] - [[松島基地]]に、[[2020年東京オリンピック]]および[[2020年東京パラリンピック]]の[[聖火]]をギリシャのアテネより輸送してきた聖火輸送機「TOKYO2020号」日本航空の[[ボーイング787#派生型|ボーイング787-8型機]](登録記号JA837J)が到着、「聖火到着式」が開催された。その際、ブルーインパルスが「五輪」を描いた。また、リーダーズ・ベネフィットも実施した。当日は強風<ref group="注釈">早朝から強風が吹いており、聖火輸送機も予定より約1時間早い午前10時に到着した。到着地を羽田へ変更する可能性もあったが、到着を早めることで回避した。</ref> のため円は短い時間で消えてしまったが、「五輪」を描くのは[[1964年東京オリンピック]]開会式以来であり、1998年を最後に自粛していたカラースモークも使用された<ref>[https://tokyo2020.org/ja/torch/about/otr-about-fac 聖火到着式 東京2020オリンピック・パラリンピック公式サイト]</ref>。この式典の為にブルーインパルスは12機体制とされ、史上初の2チーム体制(A編隊が五輪、B編隊がリーダーズ・ベネフィットを担当)となった。
** [[5月29日]] - [[新型コロナウイルス感染症の流行 (2019年-)|新型コロナウイルス疫禍]]に対応する[[医療]]従事者らへの敬意と感謝を示すため、東京都心上空を飛行する<ref name=NHK_20200529>{{Cite news |和書 |date=2020-05-29 |title=ブルーインパルスが都心上空を飛行 医療従事者などに感謝の意 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200529/k10012450181000.html |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |newspaper=NHK NEWS WEB |accessdate=2020-05-31 }}※映像(34秒)あり。</ref><ref name="毎日_20200529">{{Cite news |和書 |author= |date=2020-05-29 |title=ブルーインパルス飛行 医療従事者に感謝 |url=https://mainichi.jp/graphs/20200529/hpj/00m/040/005000g/5 |publisher=[[毎日新聞社]] |newspaper=[[毎日新聞]] |accessdate=2020-05-31 }}※画像15点あり。</ref><ref group="注釈">{{YouTube|j-lcz_z4Sv4|ブルーインパルスが“感謝飛行” 10台超のカメラで生中継 #医療従事者にエールを}} - [[ANNニュース]]公式チャンネル、2020年5月29日、9分15秒。</ref><ref group="注釈">{{YouTube|1XSymMMRyns|【ノーカット版】ブルーインパルスの“感謝飛行”を空から見た #医療従事者にエールを}} - ANNニュース公式チャンネル、2020年5月29日、22分39秒。</ref>。
** [[12月24日]] - [[宮城県]][[東松島市]]に「ブルーインパルス通り」が誕生 / 同市は、[[市制]]施行15周年記念事業の一環として、[[東日本旅客鉄道|JR]][[仙石線]][[矢本駅]]から「ブルーインパルス」の母基地である航空自衛隊[[松島基地]]の若松門までを結ぶ区間の道路(総延長距離 589&nbsp;m<ref name="東松島市_20201001">{{Cite web|和書|author=東松島市 建設部 建設課 |date=2020-10-01 |title=東松島市道路愛称の募集について(前回発表)< 定例記者会見資料 |url=http://www.city.higashimatsushima.miyagi.jp/index.cfm/16,24501,c,html/24501/20201006-150252.pdf |publisher=東松島市 |format=PDF |accessdate=2021-03-11 }}</ref>)に、[[公募]]に基づいて<ref name="東松島市_20200915">{{Cite web|和書|author=東松島市 建設部 建設課 |date=2020-09-15 |title=「道路愛称」を募集します < 市報ひがしまつしま 2020年9月15日号 |url=https://mykoho.jp/article/宮城県東松島市/市報ひがしまつしま-2020年9月15日号/「道路愛称」を募集します/ |publisher=東松島市 |work=マイ広報紙 |accessdate=2021-03-11 }}</ref>{{r|"東松島市_20201001"}}選定した[[道路愛称]]「ブルーインパルス通り」を採用した<ref name="東松島市_20210115ed">{{Cite web|和書|author=東松島市 建設部 建設課 |date=2018年4月26日作成、2021年1月15日更新 |title=道路愛称について |url=https://www.city.higashimatsushima.miyagi.jp/index.cfm/26,26416,83,145,html |publisher=東松島市 |accessdate=2021-03-11 }}</ref><ref name="乗りもの_20210125">{{Cite news |和書 |date=2021-01-25 |title=「ブルーインパルス通り」誕生 なぜ通りの名前にまで? 「らしさ」溢れる現地 |url=https://trafficnews.jp/post/103985 |publisher=株式会社[[メディア・ヴァーグ]] |newspaper=乗りものニュース |accessdate=2021-03-11 }}</ref>。[[宮城県道205号矢本停車場線]]・東松島市道矢本駅前線・東松島市道新沼54号線の3路線からなるこの道路は、市の中心部を南北に貫き、[[松島基地#航空祭|松島基地航空祭]]や東松島夏まつりなどの地域イベントではメインの動線となっている{{r|"東松島市_20210115ed"}}。
* [[2021年]](令和3年)
** [[3月11日]] - [[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]の[[音楽の日]]にて、[[MISIA]]が[[さよならも言わないままで]]と[[明日へ]]を[[松島基地]]に所属する隊員の前で披露。曲の前後にはブルーインパルスの曲技飛行が行われた。
** [[7月23日]]- [[2020年東京オリンピックの開会式|2020年東京オリンピック]]開会式の聖火到着式の際に、ブルーインパルスが、カラースモークで「五輪」を描いた。この日もトラブルに備えて、A編隊とB編隊の12機体制となった。当日は、雲で一部が隠れ、完全な形では見えなかったものの、東京都心の上空で「五輪」を描くのは[[1964年東京オリンピック]]開会式以来である。
** [[8月24日]]- [[2020年東京パラリンピック]]開会式の際に、ブルーインパルスが、赤、青、緑の3色のスモークで「スリーアギスト」を描いた。しかし、入間基地に着陸直前に予備機3機が、カラースモークを噴射し、近隣の自動車約300台にカラースモークの粒子が付着する被害が発生した。


=== 使用機の一覧 ===
かつては、飛行展示の前に斎藤高順・作曲の行進曲「ブルーインパルス」がBGMで流されていた。
使用機のうちF-86Fはすべての機体が用途廃止までブルーインパルスで使用されていたわけではない。


なお、F-86F・T-2時代は通常の機体からの改修点が少なかったことから、訓練飛行時に本番に向けた整備やローテーションの関係で機数が不足した場合は通常の機体を借用していたことがあった<ref name="afil96-81"/>。
<gallery widths="180px" heights="150px" caption="展示飛行課目" perrow="5">
ファイル:BI vertical cupid.jpg|バーティカルキューピッド<br/>(2005年 岩国基地)
ファイル:T2Blue_RollingComatPitch.jpg|T-2時代のローリング・コンバット・ピッチ(1985年 入間基地)
ファイル:StarCross.jpg|スタークロス<br/>(2008年 千歳基地)
ファイル:BlueImpulse sakura01.jpg|サクラ<br/>(2009年 横浜市みなとみらい地区)
ファイル:Delta formation Nyuutabaru 2007 (2150903847).jpg|ファン・ブレイク<br/>(2007年 新田原基地)
File:Japan air self defense force Kawasaki T-4 Blue Impulse 2.jpg|コーク・スクリュー<br/>(2010年 松島基地)
</gallery>
{{-}}
第1区分(第2区分)
# ダイヤモンド・テイクオフ・ダーティーターン
# ローアングル・キューバン・テイクオフ
# ロールオン・テイクオフ
# ファン・ブレイク
# 4ポイント・ロール
# チェンジ・オーバー・ターン
# インバーテッド&コンティニュアス・ロール
# レイン・フォール
# バーティカル・クライム・ロール
# スロー・ロール
# チェンジ・オーバー・ループ
# ハーフ・スロー・ロール
# レター・8
# オポジット・コンティニュアス・ロール
# 4(3)・シップ・インバート
# キューピッド
# ラインアブレスト・ロール
# 360°&ループ
# ワイド・トゥー・デルタ・ループ
# デルタ・ロール
# デルタ・ループ
# ボントン・ロール
# バーティカル・キューバン8(キューバン8)
# スター&クロス
# タッククロスI
# ローリング・コンバット・ピッチ
# コーク・スクリュー


T-4は経年老朽化の為、2012年(平成24年)度より「戦技研究仕様機化改修」をスタートさせ、2020年までに10機が改修され、うち9機は小牧基地でモスボール保管されていた機体を改修し、1機は[[第303飛行隊 (航空自衛隊)|第303飛行隊]]に配備されていた機体を改修した。これにより第11飛行隊発足以降、戦技研究仕様機として製造された機体は全て退役した。
第3区分(第4区分)
# ダイヤモンド・テイクオフ・ダーティーターン
# ローアングル・キューバン・テイクオフ
# ロールオン・テイクオフ
# ファン・ブレイク
# 4ポイント・ロール
# チェンジ・オーバー・ターン
# インバーテッド&コンティニュアス・ロール
# レベル・オープナー(2010年度はサンライズを実施)
# インバーテッド・ロール
# スター・ロール
# レター8
# ハーフ・スロー・ロール
# トレール・トゥー・ダイアモンド・ロール
# オポジット・コンティニュアス・ロール
# 4(3)シップ・インパート
# キューピッド
# ロール・バック・トゥー・アローヘッド
# オポジット・トライアングル
# デルタ360°ターン
# ボントン・ロール
# サクラ
# タック・クロスI(II)
# ローリング・コンバット・ピッチ
# コーク・スクリュー


{| class="wikitable"
ローリング・コンバット・ピッチはF-86Fブルーインパルス以来引き継がれ、またT-4では戦技研究の段階でこれだけは行うことが決まっていた、という伝統的な課目だが、ローリングの仕方等微妙な違いがある。
|+ F-86F
!シリアル番号<ref name="2006-b-111"/>!!通常塗装<ref name="2006-b-111"/>!!旧塗装<ref name="2006-b-111"/>!!試験塗装!!新塗装<ref name="2006-b-111"/>!!用途廃止年月<ref name="2010-b-158"/>!!備考
|-
!62-7493
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1978年10月||用途廃止後に[[アメリカ軍|米軍]]に返却<ref name="2006-b-111"/>
|-
!62-7501
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1981年4月||最後にブルーインパルス仕様に改修された機体<ref name="2006-b-111"/>
|-
!62-7512
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1979年8月||1964年東京オリンピック開会式でも飛行した
|-
!72-7709
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1981年3月||&nbsp;
|-
!72-7711
|&nbsp;||○||&nbsp;||&nbsp;||1979年10月||&nbsp;
|-
!72-7757
|&nbsp;○||○||&nbsp;||○||1969年5月11日||第6飛行隊で運用中に墜落<ref name="2006-b-111"/>
|-
!72-7772
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1977年6月||1964年東京オリンピック開会式、1970年大阪万博でも飛行した
|-
!72-7773
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1972年11月4日||入間基地から離陸後墜落<ref name="2006-b-111"/> 1970年大阪万博でも飛行した
|-
!82-7809
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1980年3月||&nbsp;
|-
!82-7812
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1980年1月||用途廃止後に[[アメリカ軍|米軍]]に返却<ref name="2006-b-111"/>
|-
!82-7821
|○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||1980年10月||スモーク発生装置初搭載機<ref name="afil96-132"/>
|-
!82-7832
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1979年11月||1970年大阪万博でも飛行した
|-
!82-7834
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1980年2月||&nbsp;
|-
!82-7847
|○||○||&nbsp;||○||1981年3月||一時期を除いて全期間ブルーインパルスで使用<ref name="2010-b-158"/> 1964年東京オリンピック開会式、1970年大阪万博でも飛行した
|-
!92-7872
|&nbsp;||○||○<ref name="2010-b-40"/>||○||1980年8月||1964年東京オリンピック開会式でも飛行した
|-
!92-7873
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1981年4月||&nbsp;
|-
!92-7894
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1981年12月||&nbsp;
|-
!92-7901
|&nbsp;○||&nbsp;||&nbsp;||○||1976年3月25日||第10飛行隊で運用中に墜落<ref name="2006-b-111"/> 1964年東京オリンピック開会式で飛行した可能性がある
|-
!92-7913
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1976年12月||&nbsp;
|-
!92-7915
|○||○||&nbsp;||&nbsp;||1977年6月||&nbsp;
|-
!92-7927
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1981年3月||1970年大阪万博でも飛行した
|-
!92-7929
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1977年10月||1970年大阪万博でも飛行した
|-
!92-7931
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1981年3月||1970年大阪万博でも飛行した
|-
!92-7937
|○||○||&nbsp;||○||1978年2月16日||旧塗装は隊長機<ref name="2006-b-111"/>・第1飛行隊で運用中に墜落<ref name="2006-b-111"/>
|-
!92-7939
| ||○||&nbsp;|| ||1976年6月||&nbsp;
|-
!02-7943
|○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||1961年7月4日||学生訓練中に墜落<ref name="2006-b-111"/>
|-
!02-7948
|○||○||&nbsp;||○||1978年3月||&nbsp;
|-
!02-7960
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1981年6月||[[浜松広報館]]に展示<ref name="2006-b-111"/> 1970年大阪万博でも飛行した
|-
!02-7962
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1980年8月||02-7960の塗装で河口湖自動車博物館に展示 
1970年大阪万博でも飛行した
|-
!02-7966
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1981年6月||浜松広報館に展示<ref name="2006-b-111"/>
|-
!02-7975
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1965年11月24日||アクロバット飛行訓練中に墜落<ref name="2006-b-111"/> 1964年東京オリンピック開会式でも飛行した
|-
!02-7976
|○||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||1961年7月21日||アクロバット飛行訓練中に墜落<ref name="2006-b-111"/>
|-
!12-7993
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1980年3月||&nbsp;
|-
!12-7995
|&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||○||1980年8月||92-7929の塗装で浜松基地に保存<ref name="2006-b-111"/>
|}


{| class="wikitable"
またブルーのオリジナル課目であるスタークロスは97年アメリカ空軍[[ネリス空軍基地|ネリス基地]]で行われた「ゴールデン・エアタトゥー」で披露された際に[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]、[[ブラジル]]、[[チリ]]の他4ヶ国のアクロチームから好評を受け、その後[[チリ空軍]]のチームであるアルコネスに採用されたというエピソードもある。
|+ T-2
!シリアル番号<ref name="2010-b-158"/>!!区分<ref name="2010-b-158"/>!!新造/改修<ref name="2010-b-158"/>!!備考
|-
!59-5111
|前期型||改修||退役後は浜松広報館に保存<ref name="2010-b-158"/>
|-
!59-5112
|前期型||改修||1991年7月4日、訓練中に墜落<ref name="2006-b-111"/>
|-
!69-5128
|後期型||改修(補充用)||退役後は[[仙石線]][[鹿妻駅]]前に保存<ref name="2010-b-158"/>
|-
!99-5163
|後期型||改修(補充用)||退役後は[[石川県立航空プラザ]]に保存<ref name="2010-b-158"/>
|-
!19-5172
|後期型||新造||1991年7月4日、訓練中に墜落<ref name="2006-b-111"/>
|-
!19-5173
|後期型||新造||退役後は[[岐阜かかみがはら航空宇宙博物館]]に保存<ref name="2010-b-158"/>
|-
!19-5174
|後期型||新造||1982年11月14日、展示飛行中に墜落<ref name="2006-b-111"/>
|-
!29-5175
|後期型||新造||退役後は[[百里飛行場|百里基地]]に保存<ref name="2010-b-158"/>
|-
!29-5176
|後期型||新造||退役後は[[松島基地]]に保存<ref name="2010-b-158"/>
|-
!29-5177
|後期型||新造||退役後は[[青森県立三沢航空科学館]]に保存<ref name="2010-b-158"/>
|}
{| class="wikitable"
|+ T-4
!シリアル番号<ref name="2010-b-158"/><ref name="2017-725">{{Cite news|title=「ブルーインパルス」725号機の20年 震災乗り越え退役 更新機体は同機種、その次は?|newspaper=乗りものニュース|date=2017-1-04|accessdate=2017-3-31|url=https://trafficnews.jp/post/62506/}}</ref>!!導入年!!新造/改修<ref name="2010-b-158"/><ref name="2017-725"/>!!備考
|-
!46-5720
|1994年度<ref name="2010-b-151"/>||新造||2000年7月4日、訓練中に墜落<ref name="2010-b-158"/>
|-
!46-5725
|1994年度<ref name="2010-b-151"/>||新造||2016年12月7日に退役<ref name="2017-725"/>
|-
!46-5726
|1994年度<ref name="2010-b-151"/>||新造||2017年退役
川崎重工岐阜工場総合ビル1階にて展示
|-
!46-5727
|1994年度<ref name="2010-b-151"/>||新造||2000年7月4日、訓練中に墜落<ref name="2010-b-158"/>
|-
!46-5728
|1994年度<ref name="2010-b-151"/>||新造||2017年9月退役
|-
!46-5729
|1994年度<ref name="2010-b-151"/>||新造||2018年3月退役
2024年度末、航空自衛隊[[熊谷基地]]に展示予定
|-
!46-5730
|1994年度<ref name="2010-b-151"/>||新造||2018年退役
|-
!46-5731
|1994年度<ref name="2010-b-151"/>||新造||2020年3月退役
|-
!66-5745
|1996年<ref name="2010-b-151"/>||新造(追加)||2020年3月退役
航空自衛隊浜松広報館にて展示
|-
!26-5804
|2002年<ref name="2010-b-154" />||新造(補充用)||2011年3月11日、[[東日本大震災]]の津波により水没<ref name="jw155-17" />
|-
!26-5805
|2002年<ref name="2010-b-154" />||新造(補充用)||2019年3月退役
あいち航空ミュージアムにて展示
|-
!16-5663
|2020年
|改修(補充用)
|戦技研究仕様機化改修 10号機
他の改修機と異なり,改修される直前まで部隊で稼働していた機体
|-
!16-5666
|2017年
|改修(補充用)
|戦技研究仕様機化改修 4号機
|-
!26-5686
|2018年
|改修(補充用)
|戦技研究仕様機化改修 6号機
|-
!26-5690
|2018年
|改修(補充用)
|戦技研究仕様機化改修 5号機
|-
!26-5692
|2017年
|改修(補充用)
|戦技研究仕様機化改修 3号機
|-
!36-5693
|2020年
|改修(補充用)
|戦技研究仕様機化改修 9号機
|-
!36-5694
|2019年
|改修(補充用)
|戦技研究仕様機化改修 8号機
|-
!36-5697
|2019年
|改修(補充用)
|戦技研究仕様機化改修 7号機
|-
!06-5787
|2016年||改修(補充用)||戦技研究仕様機化改修 1号機
|-
!06-5790
|2016年||改修(補充用)||戦技研究仕様機化改修 2号機
|-
|}


=== 基本的な隊形 ===
デルタ・ロール&ボントン・ロールは、2004年に初めて公開された新課目である。なお同時に披露された新課目サクラ、オポジット・トライアングルは、現在第3(4)区分に含まれている。
<gallery>
Delta fomationof blue impulse.jpg|デルタ (Delta)
Diamond fomationof blue impulse.jpg|ダイヤモンド (Diamond)
Trail fomationof blue impulse.jpg|トレール (Trail)
Abrest fomationof blue impulse.jpg|アブレスト (Abrest)
Echelon fomationof blue impulse.jpg|エシュロン (Echelon)
Fingertip fomationof blue impulse.jpg|フィンガーチップ (Fingertip)
Leader's benefit fomationof blue impulse.jpg|リーダーズ・ベネフィット (Leader's benefit)
Grand cross fomationof blue impulse.jpg|グランド・クロス (Grand Cross)
Pyramid fomationof blue impulse.jpg|ピラミッド (Pyramid)
Point star fomationof blue impulse.jpg|ポイント・スター (Point Star)
Swan fomationof blue impulse.jpg|スワン (Swan)
Allow-head fomationof blue impulse.jpg|アローヘッド (Arrow-Head)
Double line fomationof blue impulse.jpg|ダブルライン (Double Line)
Tree fomationof blue impulse.jpg|ツリー (Tree)
Five card fomationof blue impulse.jpg|ファイブカード (Five Card)
Cassiopeia fomationof blue impulse.jpg|カシオペア (Cassiopeia)
</gallery>


== 脚注 ==
そして2010年はブルーインパルス創設50年を記念して、新たにサンライズ、カリプソ、バックトゥバック、ダブルロールバックの4課目が行われた。
{{脚注ヘルプ}}


=== 注釈 ===
==展示飛行使用曲 ==
{{Reflist|group="注釈"}}
*フロンティア・ファンタジー [[MALTA]]作曲
*The Simmer of the Air [[矢部政男]]作曲、ウォークダウン時に使用
*Dolphin in the Sky [[矢部政男]]作曲、離陸時に使用
*Speed Of Light [[Joe Satriani]]
*[[OMENS OF LOVE]] [[T-Square]] デルタロール・デルタループに使用
*The Right Stuff [[ライトスタッフ]] ローリング・コンバットピッチ・コークスクリュー・着陸時に使用


== 脚注 ==
=== 出典 ===
{{Reflist|30em|refs=
{{脚注ヘルプ}}{{reflist|2}}
<ref name="kb知恵蔵">{{Cite web|和書|date=2014 |title=ブルーインパルス |url=https://kotobank.jp/word/ブルーインパルス-189783 |author=金谷俊秀、[[朝日新聞出版]]『[[知恵蔵]]』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-31 }}</ref>
<ref name="kb泉">{{Cite web|和書|title=ブルーインパルス |url=https://kotobank.jp/word/ブルーインパルス-189783 |author=[[小学館]]『デジタル[[大辞泉]]』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-31 }}</ref>
<ref name="kb平百">{{Cite web|和書|title=ブルーインパルス |url=https://kotobank.jp/word/ブルーインパルス-189783 |author=[[日立デジタル平凡社]]『[[世界大百科事典]]』第2版 |publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-31 }}</ref>
<ref name="1997-g-213">[[#源田1997|源田実『海軍航空隊、発進』 (1997) p.213]]</ref>
<ref name="2003-m-71">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.71]]</ref>
<ref name="2003-m-72">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.72]]</ref>
<ref name="2003-m-73">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.73]]</ref>
<ref name="2003-m-74">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.74]]</ref>
<ref name="2003-m-82">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.82]]</ref>
<ref name="2003-m-83">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.83]]</ref>
<ref name="2003-m-84">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.84]]</ref>
<ref name="2003-m-85">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.85]]</ref>
<ref name="2003-m-86">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.86]]</ref>
<ref name="2003-m-87">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.87]]</ref>
<ref name="2003-m-88">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.88]]</ref>
<ref name="2003-m-88-89">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) pp.88-89]]</ref>
<ref name="2003-m-90">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.90]]</ref>
<ref name="2003-m-91">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.91]]</ref>
<ref name="2003-m-92">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.92]]</ref>
<ref name="2003-m-93">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.93]]</ref>
<ref name="2003-m-94">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.94]]</ref>
<ref name="2003-m-96">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.96]]</ref>
<ref name="2003-m-97">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.97]]</ref>
<ref name="2003-m-99">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.99]]</ref>
<ref name="2003-m-100">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.100]]</ref>
<ref name="2003-m-101">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.101]]</ref>
<ref name="2003-m-102">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.102]]</ref>
<ref name="2003-m-103">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.103]]</ref>
<ref name="2003-m-104">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.104]]</ref>
<ref name="2003-m-107">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.107]]</ref>
<ref name="2003-m-126">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.126]]</ref>
<ref name="2003-m-127">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.127]]</ref>
<ref name="2003-m-219">[[#村田2003|村田博生『ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡』 (2003) p.219]]</ref>
<ref name="2005-m-63">[[#森2005|森史朗『零戦の誕生』 (2005) p.63]]</ref>
<ref name="2011-t-9">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.9]]</ref>
<ref name="2011-t-11">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.11]]</ref>
<ref name="2011-t-12">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.12]]</ref>
<ref name="2011-t-14">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.14]]</ref>
<ref name="2011-t-15">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.15]]</ref>
<ref name="2011-t-16">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.16]]</ref>
<ref name="2011-t-17">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.17]]</ref>
<ref name="2011-t-18">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.18]]</ref>
<ref name="2011-t-19">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.19]]</ref>
<ref name="2011-t-20">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.20]]</ref>
<ref name="2011-t-29">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.29]]</ref>
<ref name="2011-t-32">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.32]]</ref>
<ref name="2011-t-33">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.33]]</ref>
<ref name="2011-t-41">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.41]]</ref>
<ref name="2011-t-52">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.52]]</ref>
<ref name="2011-t-65">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.65]]</ref>
<ref name="2011-t-66">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.66]]</ref>
<ref name="2011-t-67">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.67]]</ref>
<ref name="2011-t-74">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.74]]</ref>
<ref name="2011-t-75">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.75]]</ref>
<ref name="2011-t-76">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.76]]</ref>
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<ref name="2011-t-100">[[#武田2011|武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』 (2011) p.100]]</ref>
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}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
* 『[[航空ファン (雑誌)|航空ファン イラストレイテッド]]』96-2 No86 「BLUE IMPULSE F-86, T-2, T-4【青い衝撃の歴史】」文林堂
<!--著者名順。著者名がないものは年順-->
*武田賴政『ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち』文藝春秋、2011年
* {{Cite journal|和書|title=|author=|journal=ブルーインパルス 青い衝撃の歴史|year=1996|month=02|pages=|publisher=文林堂|ref = afil96}}
* {{Cite book|和書|author= 源田実|authorlink=源田実|coauthors = |year = 1997|origyear = 1961|title = 海軍航空隊、発進 |publisher = [[文藝春秋]]|ref = 源田1997|id = |isbn = 416731004X}}
* {{Cite book|和書|author= 武田賴政|authorlink=武田頼政|coauthors = |year = 2011|title = ブルーインパルス 大空を駆けるサムライたち |publisher = 文藝春秋|ref = 武田2011|id = |isbn = 978-4163740904}}
* {{Cite book|和書|author = 村田博生|authorlink = |coauthors = |year = 2003|title = ファイターパイロットの世界 ターボと呼ばれた男の軌跡 |publisher = [[グランプリ出版]]|ref = 村田2003|id = |isbn = 4876872457}}
* {{Cite book|和書|author = 森史朗|authorlink = |coauthors = |year = 2005|origyear = 2003|title = 零戦の誕生 |publisher = 文藝春秋|ref = 森2005|id = |isbn = 978-4167679576}}
* {{Cite journal|和書|title=|author=|journal=ブルーインパルス パーフェクト・ガイド|year=2003|month=07|pages=|publisher=[[イカロス出版]]|ref =4-11-2003i|isbn = 4871494861}}
* {{Cite journal|和書|title=|author=|journal=航空無線ハンドブック2005年版|year=2004|month=12|pages=|publisher=イカロス出版|ref =abh2005|isbn = 4871496066}}
* {{Cite journal|和書|title=|author=|journal=ブルーインパルス 第11飛行隊の軌跡|year=2006|month=03|pages=|publisher=[[文林堂]]|ref =4-11-2006b|isbn = 4893191357}}
* {{Cite journal|和書|title=|author=|journal=ブルーインパルス パーフェクトガイド|year=2010|month=06|pages=|publisher=イカロス出版|ref =4-11-2010i|isbn = 978-4863203334}}
* {{Cite journal|和書|title=|author=|journal=ブルーインパルス50年の軌跡|year=2010|month=09|pages=|publisher=文林堂|ref =4-11-2010b|isbn = 978-4893191915}}


== 関連音楽 ==
=== 雑誌 ===
<!--著者名順。著者名がないものは年順-->
*The Simmer of the Air :[[矢部政男]]作曲、ウォークダウン時に使用
* {{Cite journal|和書|title=ブルーインパルス2000|author=|journal=Jウイング |year=2000|month=4|issue=20|pages=28-31|publisher=イカロス出版|ref =黒澤20}}
*Dolphin in the Sky :[[矢部政男]]作曲、離陸時に使用
* {{Cite journal|和書|title=もっと知りたい、ブルーインパルス!|author=黒澤英介|journal=Jウイング|year=2007|month=06|issue=106|pages=8-20|publisher=イカロス出版|ref =黒澤106}}
*ブルー・インパルス(青い衝撃):[[斉藤高順]]作曲、T-2時代のテーマ曲
* {{Cite journal|和書|title=がんばれ!松島基地|author=黒澤英介|journal=Jウイング|year=2011|month=06|issue=154|pages=4-8|publisher=イカロス出版|ref =黒澤154}}
*航空自衛隊行進曲「空の精鋭」:[[矢部政男]]作曲
* {{Cite journal|和書|title=待望の空自航空祭&ブルー復活 千歳航空際のブルー密着レポート|author=黒澤英介|coauthor=河合広雄|journal=[[航空ファン (雑誌)|航空ファン]]|year=2011|month=11|issue=707|pages=1-7|publisher=文林堂|ref =af707}}
*BLUE(ブルー):[[吉永光里]]、T-2ブルーインパルス イメージソング
* {{Cite journal|和書|title=“新しいブルー”始まる!ブルーインパルス2013|author=黒澤英介|journal=Jウイング|year=2013|month=06|issue=178|pages=10-21|publisher=イカロス出版|ref =黒澤178}}
*STAY(ステイ):[[吉永光里]]、T-2ブルーインパルス イメージソング
* {{Cite journal|和書|title=Welcome Home, Blue Inpulse ブルーインパルス松島帰還|author=黒澤英介|journal=航空ファン|year=2013|month=06|issue=726|pages=1-14|publisher=文林堂|ref =af726}}
*PARADISE(パラダイス):[[吉永光里]]、T-4ブルーインパルス イメージソング
* {{Cite journal|和書|title=那覇基地エアーフェスタと50周年シーズンファイナル、松島でのTR練成|author=神野幸久|journal=航空ファン|year=2011|month=04|issue=700|pages=1-9|publisher=文林堂|ref =af700}}
*白いMY LOVE:[[吉永光里]]、T-4ブルーインパルス イメージソング
* {{Cite journal|和書|title=ブルーインパルス震災からの復活-序章|author=神野幸久|journal=航空ファン|year=2011|month=08|issue=704|pages=8-13|publisher=文林堂|ref =af704}}
*ブルーインパルス賛歌:[[矢部政男]]作曲、ブルーインパルス創立50周年記念ソング
* {{Cite journal|和書|title=松島基地 復旧進む!!|author=鈴崎利治|journal=Jウイング|year=2011|month=07|issue=155|pages=16-20|publisher=イカロス出版|ref =鈴崎155}}
* {{Cite journal|和書|title=5ヶ月半ぶりに松島上空『ありがとう!東松島元気フェスタ』を飛んだブルーインパルス|author=田中克宗|journal=航空ファン|year=2011|month=10|issue=706|pages=20-23|publisher=文林堂|ref =af706-1}}
* {{Cite journal|和書|title=ブルーインパルスの2012シーズン|author=田中克宗|coauthor=黒澤英介|journal=Jウイング|year=2012|month=07|issue=167|pages=6-11|publisher=イカロス出版|ref =田中167}}
* {{Cite journal|和書|title=ブルーインパルス、築地基地でフィールドアクロ訓練を再開|author=田中雅之|journal=航空ファン|year=2011|month=10|issue=706|pages=24-25|publisher=文林堂|ref =af706-2}}
* {{Cite journal|和書|title=ブルーインパルス、松島への帰還|author=中井俊治|journal=Jウイング|year=2013|month=06|issue=178|pages=22-23|publisher=イカロス出版|ref =中井178}}
* {{Cite journal|和書|title=あらためて考える『ブルーインパルス』という存在|author=松崎豊一|journal=Jウイング|year=2007|month=06|issue=106|pages=21-23|publisher=イカロス出版|ref =松崎106}}
* {{Cite journal|和書|title=ターボのネリス日記|author=村田博生|journal=航空ファンイラストレイテッド|year=1997|month=08|issue=95|pages=68-75|publisher=文林堂|ref =afil95c}}
* {{Cite journal|和書|title=米空軍創設50周年航空ショー|author=|journal=航空ファンイラストレイテッド|year=1997|month=08|issue=95|pages=22-67|publisher=文林堂|ref =afil95b}}
* {{Cite journal|和書|title=ブルーインパルス 派米までの軌跡|author=|journal=航空ファンイラストレイテッド|year=1997|month=08|issue=95|pages=76-103|publisher=文林堂|ref =afil95d}}
* {{Cite journal|和書|title=ブルーインパルス2009|author=|journal=Jウイング|year=2009|month=06|issue=130|pages=22-49|publisher=イカロス出版|ref =jw130}}
* {{Cite journal|和書|title=津波の直撃を受けた松島も復興中!|author=|coauthor=|journal=航空ファン|year=2011|month=6|issue=702|pages=8-9|publisher=文林堂|ref =af702}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[ブルーインパルスジュニア]] - 松島基地の整備員有志によるクラブ活動。
* [[ブランエール]](海上自衛隊のアクロバットチーム)
* [[ホワイトアローズ]] - 飛行教官により編成される海上自衛隊公式の曲技飛行隊。自衛隊で唯一固定翼のプロペラ機を使用する。
* [[ブルーインパルスジュニア]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commonscat|Blue Impulse}}
{{commonscat|Blue Impulse}}
* [http://www.mod.go.jp/asdf/ 航空自衛隊] - [http://www.mod.go.jp/asdf/blueimpulse/ ブルーインパルス]
* [https://www.mod.go.jp/asdf/pr_report/blueimpulse/ ブルーインパルス] - 航空自衛隊
** [http://www.mod.go.jp/asdf/equipment/08_t4blue.html T-4 ブルーインパルス(紹介)] - [http://www.mod.go.jp/asdf/equipment/gallery/wallpaper/08_t4blue.html T-4 ブルーインパルス(写真)]
* [https://www.mod.go.jp/asdf/matsushima/hiko/acro/ ブルーインパルス基地上空訓練] - 航空自衛隊
** [http://www.mod.go.jp/asdf/pr_report/blueimpulse/ ホーム > 広報 > ブルーインパルス]
* [https://www.mod.go.jp/asdf/matsushima/ 松島基地]
* {{Twitter|matsushimabase|航空自衛隊 松島基地}}
* [http://www.blue-impulse.jp/ ブルーインパルス博物館] : ブルーインパルスグッズ、写真が掲載。
* {{YouTube|OGnuOMZmvao|ブルーインパルス曲技披露 三沢基地航空祭 青森}}(朝日新聞社提供、2014年9月7日公開)
* {{Kotobank}}


{{航空自衛隊2}}
{{航空自衛隊2}}
{{各国の曲技飛行隊}}
{{各国の曲技飛行隊}}

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2024年12月19日 (木) 23:04時点における最新版

第4航空団飛行群
第11飛行隊
創設 1960年4月16日
第1航空団第2飛行隊内「空中機動研究班」として)
国籍 日本の旗 日本
軍種 航空自衛隊
任務 曲技飛行による航空自衛隊の広報活動
基地
渾名 ブルーインパルス
モットー 創造への挑戦(Challenge for the Creation.)[1]
使用機種
主なミッション
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ブルーインパルス: Blue Impulse [2])とは、航空自衛隊に所属する曲技飛行隊(アクロバット飛行チーム)[3][4][5][6][7]愛称[3]

当初は部隊の中の1チームという位置づけで、1995年(平成7年)に正式に一部隊として独立した。正式部隊名は第4航空団飛行群第11飛行隊で、広報活動を主な任務とし[8]、展示飛行を専門に行う部隊である[9]。世界の曲技飛行隊の中でも、スモークを使って空中に描画する、いわゆる「描きもの」を得意とするチームである[10]。少数機による密接した編隊での精密な演技を得意としている[6]。現在の本拠地は宮城県松島基地である。

本項では、旧日本陸海軍が行なっていた曲技飛行(アクロバット飛行)の歴史を踏まえたうえで第11飛行隊の体制についても解説する。また、第11飛行隊では、ブルーインパルスがイベント等で行う飛行のことを「展示飛行」[11]、展示飛行の開催地に向かうことを「展開」と呼んでいる[11] ため、本項の記述もこれに準ずる。

なお、航空交通管制における編隊のコールサインは、愛称がそのまま用いられている[3]

沿革

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本項では、自衛隊以前での階級については当時の階級で記述する。使用機材の変遷については歴代運用機節を参照。

前史

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源田サーカス

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1916年(大正5年)に開隊された旧海軍横須賀海軍航空隊は、当初の任務は教育や飛行練成が主だった[12] が、航空隊が各地に開隊される頃からは、戦技研究や航空機の実用試験を主な任務として行うようになっていた[12]。海軍では、一般からの献金によって製造された戦闘機爆撃機を「報国号」と称しており[12]1932年(昭和7年)ごろから献納式典の際に、民衆の前で曲技飛行を行うようになった[12]。これが日本におけるアクロバット飛行の始まりで[12]、当時は「編隊特殊飛行」と称していた[13]。この編隊特殊飛行を考えたのは、当時海軍の戦闘機分隊長だった小林淑人大尉で[12]、小林が率いる編隊特殊飛行チームは「三羽烏」「空中サーカス」と新聞で持てはやされた[14]。またこれに先駆ける1925年(大正14年)、旧陸軍所沢陸軍飛行学校で行われた航空兵科独立記念祝典にて、数万の観衆のもと空中分列式と並んで各種飛行曲技の供覧が実施されている[15]

一方、1931年(昭和6年)に発生した柳条湖事件を機として満州(現在の中国東北部)を制圧した関東軍に当時の日本社会は高揚し、「報国号」の献納数も増えることになった[14]。ちょうど1933年(昭和8年)に源田實が戦闘機分隊に配属され、編隊特殊飛行チームを受け継いだ時期と重なったため、曲技飛行の機会も増加し、使用する戦闘機の数も9機にまで増加した[14]。これらの編隊特殊飛行は、専ら九〇式艦上戦闘機を使用して行なわれた[16]。課目には「3機編隊で急降下し、引き起こし中に1機だけ背面飛行となり、そのまま急上昇」というものもあり、列機はほとんど姿勢を崩さなかったという[17]。こうして、編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称が定着していった[18]。しかし、戦争の激化と共に編隊特殊飛行は行なわれなくなった。

自衛隊設立後

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第二次世界大戦が終結した後しばらくは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の「301号訓令」によって、日本では航空機の製造や研究などが許されない時期が続いた[19]。これが解除されたのはサンフランシスコ講和条約によって日本の主権が回復した1952年(昭和27年)で[19]、同年10月には保安隊が発足し、翌1953年(昭和28年)1月からは保安隊航空学校において操縦教育が開始された[20]。さらに、1954年には自衛隊法が成立し[21]、保安隊は自衛隊に改組されることになり、同年7月には航空自衛隊が発足した[22]

1955年か1956年ごろのサンダーバーズ

1955年(昭和30年)にはMSA協定によって、航空自衛隊はアメリカからジェット戦闘機のF-86Fセイバーの供与を受けることになった[23]。これに対応し、パイロットの一部は教官課程に進むためにアメリカ留学することになった[24]。この時に日本のパイロットが留学していたのがアメリカ空軍ネリス空軍基地で、留学生のうちの1人のパイロットは、基地で見たサンダーバーズのアクロバット飛行演技に深く感銘を受けた[24]。また、アクロバット飛行チームのメンバーになることが、戦闘機パイロットにとっては大変な栄誉であることも目の当たりにした[25]

このパイロットは帰国後に浜松基地の第1航空団第1飛行隊の教官として着任し[24]、当時浜松基地に主任教官として在日アメリカ軍事援助顧問団 (MAAGJ) から赴任していた[25] ジョー・ライリー大尉の助言を受け[26]、同僚を誘い、1958年(昭和33年)ごろから飛行訓練の合間にアクロバット飛行の訓練を行うようになった[27]

これは極秘裏に行なった訓練で、やがて飛行隊長の知るところとなった[28]。この飛行隊長は叱責するどころか訓練の趣旨に共感し、すぐに航空団の上層部にかけあって、正式に訓練できる環境を整えた[28]。そのうえ、1958年秋に行われる浜松基地開庁記念式典のアトラクションとして、アクロバット飛行の公開を行うことが認められた[27]。まもなく3番機が訓練に加わり[28]、3機編隊での本格的な訓練が開始された[27]。3人は教官として学生訓練を終えた後、午後4時ごろからアクロバット飛行の訓練を行なっており、1ヶ月で60時間ものフライトを行っていたという[27]。この時期の第1飛行隊のコールサインは「チェッカー」で[29]、編隊飛行の際にはこれに編隊名として色名をつけており[29]、アクロバット飛行チームでは「チェッカー・ブルー」というコールサインを使用していた[28]

同1958年10月19日には、この3名によるチームにより、航空自衛隊によるアクロバット飛行が初めて一般に公開された[27]。使用機材は通常装備のF-86Fであり、スモークも特別塗装もなかった[27] ものの、ジェット機のアクロバット飛行は映画の中でさえ珍しかった時代に、航空自衛隊関係者と観客に与えた衝撃はかなりのものだったといわれている[29]。この後に4番機が加わり[29]、翌1959年(昭和34年)3月15日には愛知県犬山市で行なわれた日本平和防衛博覧会の開会式[28]、同年3月20日の防衛大学校卒業式[27]、同年4月26日の名古屋空港祭において展示飛行が行われた[29]

ここでチームはいったん解散という形態をとることになる[28] ものの、アクロバット飛行の訓練は継続された[29]。その後、同年8月にアクロバット飛行チームのリーダーは交代することになり[29]、リーダーの所属する第2飛行隊のコールサインが「インパルス」だったため、アクロバット飛行チームは「インパルス・ブルー」というコールサインを使用することになった[30]

同年12月にアメリカ空軍のサンダーバーズが来日し[27]、同月12日には埼玉県のジョンソン基地(当時)において超音速ジェット戦闘機のF-100Dスーパーセイバーを使用したアクロバット飛行を披露した[27]。この時、航空自衛隊のアクロバット飛行チームもフライトを見学し、パイロットや地上要員のパフォーマンスを観察した[29] ほか、整備員はサンダーバーズのメンバーからスモーク発生方法に関する情報を得ることが出来た[30]

F-86F時代(1961年→1981年)

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正式発足へ

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この間にアクロバット飛行チームはいったん活動休止状態になったものの、水面下では航空自衛隊アクロバットチーム設立に向けた準備が進められていた[29]。とはいえ、自衛隊内部でも「基地上空での曲技飛行は規則違反」[31]「国家公務員が曲芸ショーなどやる必要はない」[32] という反対意見も根強かった。

しかし、1959年(昭和34年)7月に航空幕僚長が交代すると、航空幕僚長自身がアクロバットチーム設立に対して直接介入するようになった[32]。この時の航空幕僚長は、戦前に「源田サーカス」と称してアクロバット飛行を披露していた経験がある源田實である[33]。源田は過去の経験から、アクロバット飛行が一般人を引きつけることで、自衛隊が国民に親しまれる効果だけではなく、隊員の士気向上にも効果があることを知っていたと考えられている[29]。また、非公認のままでは、訓練中に事故死しても殉職扱いにならない可能性がある[34] ため、源田は「万一の事故でも名誉ある措置が取れるように」と考えた[34]

こうして、アクロバット飛行チームの制式化は航空幕僚長である源田の内諾を得られ[29]、パイロットも7名に増員されて訓練が続けられた[30]1960年(昭和35年)3月4日には、浜松北基地で第1航空団司令と空幕防衛部長がアクロバット飛行の仕上がり具合をチェックすることになり[29]、16課目のアクロバット飛行を披露した[30]。なお、当初は展示飛行のことを「公開飛行」と称していた[35]。まだアクロバット飛行チームは制式化されていなかったものの、これがブルーインパルスの第1回目の公式展示飛行とされている[30]。この検閲の結果、第1航空団司令と空幕防衛部長は「合格」という判断を下した[30]。この報告を受けた源田は、同年4月12日の公式展示飛行を視察した上[30]、同年4月16日にアクロバット飛行チームの編成を下命した[30]

この下命を受けて、第2飛行隊内に「空中機動研究班」が制式発足した[29]。空中機動研究班の目的は「戦闘機パイロットには不可欠の要素である操縦技術・チームワーク・信頼心・責任感・克己心を研究訓練し、技術と精神力の限りない練磨と向上」[36]、展示飛行の目的も「チームの力を最大に発揮し、戦闘隊戦力の一端を多くの人に身近に観察する機会を与えるとともに、航空意欲の高揚を図る」と定められていた[35]。なお、空中機動研究班は1個の独立した部隊ではなく、第1航空団の教官から選抜されたパイロットによるチームであり[29]、教官としての職務の傍らでアクロバット飛行訓練と展示飛行を行っていた[29]。また、このときに考えられた課目は、ほぼすべてがサンダーバーズの課目構成に倣ったものだった[29]

愛称決定と特別塗装の導入

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同1960年(昭和35年)5月21日にはジョンソン基地において行われた「三軍統合記念日公開」において展示飛行が行われ[30]、このときに初めてスモークが使用された[27]。なお、機体にはまだ特別な塗装はされていなかった[30]。同年8月1日には部隊名が「空中機動研究班」から「特別飛行研究班」に変更された。また、これとは別に親しみやすい愛称を設定することになり、自衛隊の部内で公募を行なった結果、浜松基地の近くを流れる天竜川にちなんで[29]「天竜」という愛称が採用されることになった[30]。ところが、航空交通管制のコールサインとして使用すると、アメリカ軍の航空管制官にとっては発音が難しい上[29]、古臭いという意見もあった[27]。そこで、これまで使用していた「インパルス・ブルー」を逆にした「ブルーインパルス」(青い衝撃)としたところ[30]、語呂もよく一般にも分かりやすいという理由により、正式な愛称として決定した[29]。編隊長であった稲田淳美3佐が愛称の命名を担当しており、「インパルス・ブルー」とするか「ブルーインパルス」に変更するかで迷っていたという[37]。彼の妻が「衝撃という意味では、原爆の青い閃光ほど衝撃的なものはない」と言ったことから「ブルーインパルス」に決まったという[36]

こうして、制式化された「ブルーインパルス」は、1960年には13回の公式展示飛行を行った[38]。ところが、公式展示飛行が20回を超えた後の1961年7月4日、当時チームに所属していたパイロットが学生訓練中に接触事故を起こしてしまった。パイロットはパラシュートで脱出したものの首の骨を折り同時にチームを転出した。[注釈 1]さらに1961年7月21日[30]、次期編隊長機として訓練を行なっていたF-86Fが伊良湖岬沖で墜落しパイロットは殉職[38]。ブルーインパルスでは初の犠牲者となってしまった[38]。このため、ブルーインパルスは約1ヶ月ほど飛行停止となり[27]、事故調査の結果を受けて安全対策が整えられた[30]。なお、この時期はブルーインパルスに限らず、各地の飛行隊で墜落事故が多発していた[39]。防空上からもパイロット育成が急がれたため、事故から飛行再開までは短期間であった[39]

この事故を契機として、それまで第1飛行隊と第2飛行隊から選抜されていたパイロットの所属をすべて第2飛行隊とすることによって、パイロットのスケジュール調整を容易にした[38]

特別塗装機とカラースモーク

この時期まで、ブルーインパルスに使用されている機体はスモーク発生装置を装備していること以外は通常の塗装デザインであった[38]。しかし、編隊飛行でのポジション取りのための目印が少ないうえ[38]、派手さにも欠けていた[39]。このため、隊員から塗装デザイン案を募集したうえで、初代となるブルーインパルス塗装が採用されることになった[38]。これと並行して、カラースモークを発生させる研究も進められ[38]1961年(昭和36年)10月22日の展示飛行で初めて特別塗装機とカラースモークが披露された[39]

1963年(昭和38年)9月には、東宝の映画『今日もわれ大空にあり』の撮影に第1航空団とブルーインパルスのパイロットが協力することになった[38]。この撮影期間中に東宝からブルーインパルスの塗装デザイン案の提供の申し入れがあり[38]、プロのデザイナーが新塗装のアイデアを提供した[39][注釈 2]。これが正式に2代目となるブルーインパルス塗装として採用されることになった[39]。この新デザインを施した機体は、1963年10月5日に美保基地で行われた航空祭において披露された[41]

東京五輪で五輪を描く

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これより少し遡る1963年(昭和38年)1月、東京オリンピック組織委員会 (OOC) よりブルーインパルスに対して、1964年(昭和39年)10月10日の東京オリンピック(東京五輪)開会式における祝賀飛行の要請があった[38]

ただし、当時航空幕僚長だった源田は1961年(昭和36年)から1962年(昭和37年)にかけて、自民党議員団や財界人、さらにはアマチュアレスリング協会の会長も浜松基地に呼んで展示飛行を行わせていた[42]。また、東京五輪の準備に際しては防衛庁も「オリンピック準備委員会」を設けており、自衛隊も協力することになっていた[43]。陸上自衛隊は祝砲を放ち、海上自衛隊は五輪旗を掲げて行進を行うことになっていたが、航空自衛隊の協力できる部分がなかった[44]。源田は1962年の参議院選挙に出馬して政界入りしており[45]、その直前に「開会式の上空に五輪を描く」ことを発案し、航空幕僚長から退官する際に業務引継ぎ事項の中に加えた[43]。さらに、源田は政界入りした後も、オリンピック開催準備委員長でもあった参議院議員の津島壽一に対して、空に五輪を描くことを提案していた[46]。こうした事情から、このOOCからの要請は源田の根回しの結果であるといわれている[47]

この結果、当初は単なる航過飛行(フライバイ)の要請であった[48] が、第1航空団の飛行群司令からブルーインパルスに対して「五輪を描け」というオーダーが入ることになった[49]。同年5月23日にはOOCの事務局から数名のスタッフが浜松基地を訪れ[50]、ブルーインパルスのアクロバット飛行を見学した後、スモークで五輪を描く任務が具体化することになった[50]

この準備に際して、まずブルーインパルス側である程度の案を作成し[47]、これを叩き台にしてOOCが開会式典の構成を策定した[47] 結果、OOCから航空自衛隊への要望は「五輪マークを15時10分20秒から描き始め、位置は昭和天皇が座るロイヤルボックスの正面で、全景が見えること」という細かいものとなった[41]。それに合わせて高度や円の大きさなどの方針を固めていった[47]。しかし、何度訓練してもなかなか上手く描くことはできなかったという[51]。また、カラースモークも、1番機が青、2番機が黄、3番機が黒、4番機が緑、5番機が赤の5色で五輪を描くように準備した[52]。しかし、黒の発色がうまくいかず、ようやく完成したのは開会式の10日前である[41]

開会式前日の東京は土砂降りの雨で、もし開会式当日の10月10日も雨の場合は開会式は中止されることになっていた[53]。このため、ブルーインパルスのパイロットらは「これは明日はない」と早合点し、深夜1時まで酒を多く飲んでそのまま新橋に宿泊してしまった[44][54]。しかし、翌朝パイロットらが目を覚ますと東京の空は快晴であり、泡を食ったブルーインパルスのパイロットらは二日酔いのまま入間基地に駆け付け、本番に臨むことになった[44][54][55]

ブルーインパルスは出発に際し、入間基地の航空管制官から "Any altitude OK."、つまり「どの高度で飛んでもよろしい」という離陸許可を得た[44]。予定通り午後2時半に離陸したブルーインパルスは、神奈川県湘南海岸の上空で待機した[54]。入場行進の遅れから秒単位で指定されていた式の進行が乱れ、隊長の松下治英は機転を利かせて航空無線機器でNHKラジオを受信しながら開会式の状況を確認してタイミングを見計らった[54][56]。聖火ランナーが国立競技場に入場すると同時に、ブルーインパルスは江の島上空を通過し国立競技場へ向かった[44]。会場でが放たれ君が代斉唱が終わった直後、赤坂見附の上空にたどり着いたブルーインパルスは松下の号令でスモークで五輪を描き始め、30秒後には東京の空に東西6キロメートル以上にわたる五輪が描かれた[52][54]。練習でも経験したことのない会心の出来栄えであり、「成功」の無線を受けたパイロットらはコクピット内で歓喜の声を上げたという[54]。展示飛行を終えたブルーインパルスは、銀座の上空を低空で通過したり[57]上野池袋新宿渋谷品川の上空をスモークを引きながら「凱旋飛行」し、入間基地に帰投したとされている[44]。当時は都内での飛行は厳しく制限されていなかった[58] 上、前述の通り航空管制官からは「どの高度で飛んでもよい」という許可を受けていた[44]

これはオリンピック史上でも前例のないアトラクションであり[59][60]、開会式が全世界に衛星生中継されていたこともあって、ブルーインパルスは日本国民のみならず、世界的にも大々的に知られることになった[39]。ブルーインパルスの隊員らはこの展示飛行の功績で防衛功労賞とOOCからの感謝状とトロフィーを10月20日に授与されている。なお、OOCからは開会式後に閉会式での実施も打診されたが、松下は「もう成功できるかどうか分からない」と辞退している[54]

1960年代後半

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当初は訓練空域が今ほど飛行場から遠くはなく、錬度の維持が行いやすかった。そのため演技の精度は高く、さらに規制も緩やかだったために展示飛行での高度が低かった。その高度の低さは、課目「ハイスピード・ローパス」を例にすると高度35フィート(約11メートル)というもので[61]、「草をむしりとった」という逸話さえある[61]。なお、1965年(昭和40年)から単独機のパイロットを務めた経験のある村田博生は「舞い上がった草の切れ端が翼についていただけ」としている[61]

1965年1月に築城基地から第33飛行隊が浜松基地に移転の上第1航空団所属となり[58]、さらに同年11月20日には第2飛行隊が解隊となった[58] ため、ブルーインパルスのパイロットは全員が第1飛行隊所属となった[62]。また、チーム制式名も「特別飛行研究班」から「戦技研究班」に変更となった[62]。この年はパイロットのメンバー交代や補充もあり、各ポジションに2名ずつパイロットを配置することが可能となった[58]。なお、この時期に第1航空団戦技研究班のインシグニアが作成されているが、作成したのは当時ブルーインパルスのパイロットだった村田博生1尉である[63]。同年7月25日には松島基地の航空祭において、ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行が行われた。しかし、同年11月24日にはアクロバット飛行訓練中に1機が失速して墜落、パイロットが殉職するという、ブルーインパルスでは2度目の事故が発生した[62]

その後も活動は続けられ、1969年(昭和44年)9月7日の丘珠航空祭において、通算200回の展示飛行を達成した[58]。この頃になると航空自衛隊の航空祭以外にも、1966年(昭和41年)11月6日に入間基地で開催された「第1回航空宇宙ショー」において展示飛行を行う[64] など、イベントにおいて展示飛行を要請されることが増え[58]、自衛隊のイメージアップという当初の目的は実を結びつつあった[58]。その一方、1967年(昭和42年)頃からは浜松基地周辺における宅地化の進展に伴い、騒音問題が発生していたため、訓練空域を海上に移さざるをえなくなった[62]

大阪万博で文字を描く

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1969年(昭和44年)12月、日本万国博覧会協会からブルーインパルスに対して、日本万国博覧会(大阪万博)の開会式上空における展示飛行の要請があった[62]

当初、展示飛行の内容についてはブルーインパルス側に任されていた[41]。この当時のブルーインパルスは飛行技術面や組織面でも安定した時期で[62]、実力のあるパイロットも揃っており[62]、自主的な研究によって "EXPO'70" という文字を描くことになった[41]。早速訓練を行ない、万博協会の関係者が浜松基地を訪れた際に訓練中の文字を見せた[65] 結果、本格的にプロジェクトとして進められることになった[65]。これは五輪を描くよりも困難であった[66] が、1970年(昭和45年)1月12日には浜松基地上空で "EXPO'70" の文字を描くことに成功した[62]

一方、万博の会場からわずか8マイルの地点に大阪国際空港があるため、大阪航空局からは「飛行の承認はできない」と通告を受けた[65]。これに対し、万博協会からも陳情を行なった結果、1970年2月中旬には飛行許可を得ることができた[65]

開会式当日の1970年3月14日、浜松基地を出発したブルーインパルスは、万博の会場で4課目のアクロバット飛行を行なった後[65]、2分30秒かけて会場上空に "EXPO'70" の文字を描いた[41]。その後、同年6月29日の「ジャパンデー」にも同様に文字を描いている[66]。閉会式当日の同年9月13日に万博会場上空で、当初「サヨナラ」の文字も描く予定だったが当日は曇り空だったため「描けない」と判断し航過飛行のみを行う。なお、1970年12月には浜松基地の上空でサヨナラの文字に70を加えた「サヨナラ70」を描いた。[注釈 3]

1970年代

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横田基地でのブルーインパルス(1981年)

1971年(昭和46年)に入ってからも、ブルーインパルスは順調に展示飛行を重ねていた。しかし、同年7月30日に全日空機雫石衝突事故が発生したため、展示飛行を自粛する事態になった[62]。この事故の影響で、1973年までの展示飛行の回数が減少した。また、この事故を契機として航空路と訓練空域の見直しが行なわれ[66]、アクロバット飛行訓練にも大きな制約が加えられることとなった[66] ため、ブルーインパルスのメンバー養成に要する期間が2倍になってしまった[62]。展示飛行が再開されたのは、同年11月3日に名古屋空港(当時)で行なわれた「国際航空宇宙ショー」から[62] で、この国際航空宇宙ショーにはアメリカ海軍のアクロバット飛行チームであるブルーエンジェルスも参加していた[62]

1972年(昭和47年)11月4日には入間基地を離陸した直後に3番機がエンジンのフレームアウトにより墜落する事故が発生した[62] が、この事故による活動への大きな影響はなかった[62]。なお、3番機のパイロットはベイルアウトによって無事で、地上への被害もなかった[67]。 ここまでのブルーインパルスの展示飛行は5機体制であったが、1976年(昭和51年)9月26日に行われた「第1航空団創立20周年記念式典」においては、6番機を加えた単独機2機による演技が公開され[66]、以降地元浜松基地での展示飛行など特別な場合に6機での演技が披露されるようになる。

しかし、実働部隊ではF-86Fどころか、その後継機であったF-104Jにも後継機としてF-4EJが導入されるようになり[67]、高等練習機としてもT-2の導入が開始されていた[67]。先に述べたようにブルーインパルスのパイロットは教官が兼任しており、この時期のブルーインパルスは1年間に30回以上の展示飛行を行なっていた[68]。これは、F-86Fを使用した飛行教育が減少していたため、その分展示飛行の機会が増えていたということである[68]。こうした事情の中、1978年(昭和53年)3月には、航空幕僚長から松島基地の第4航空団に対して、T-2によるアクロバット飛行について研究するように指示が出され[66]、同年からは松島基地でアクロバット飛行を行うT-2が目撃されるようになった[68]。既に航空自衛隊では1980年度(昭和55年度)中にF-86Fを全て退役処分とする予定が決まっており[66]、F-86Fを使用したブルーインパルスの展示飛行も1980年度で終了することが正式に決定した[66]

なお、1979年(昭和54年)1月にF-86Fのパイロット養成が終了したことに伴って第1飛行隊が解隊された[69]。そのため、ブルーインパルスは第35飛行隊所属の戦技研究班となった[69]

1981年(昭和56年)2月8日に入間基地で実施された展示飛行が、F-86Fを使用したブルーインパルスとしては最後の展示飛行になった[41]。この最後の展示飛行では、松島基地から通常塗装のT-2が飛来してアクロバット飛行を披露した[70]。F-86Fを使用した展示飛行の実績は545回だった[41]。その後、浜松北基地で3月3日に行われた飛行訓練が最後の訓練となり[41]、同年3月31日限りで第35飛行隊の戦技研究班も解散となった[41]

T-2時代(1982年→1995年)

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国産練習機の導入

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T-2によるブルーインパルス

F-86Fの後継機については、日本で製造した「国産機」によってパフォーマンスを行うことが、自国の防衛力や航空産業のレベルを誇示する上で大きな意義があると考えられた[71]。このため、前述したように後継機としてT-2によるアクロバット飛行について研究の指示が出されていた[66]

T-2は超音速機であることから、飛行速度の高速化に伴いターン(旋回)やループ(宙返り)の半径が大きくなり、会場上空へ戻るのに時間がかかるため、課目の間の時間が長くなる[70]。このため、「T-2では単独機を1機増加させた6機体制での展示飛行が効果的である」という研究報告がまとめられた[71]。これに伴い、1979年(昭和54年)にはブルーインパルス用として6機のT-2が予算として計上された[71]。つまり、編隊飛行による演技の間隙を単独機による演技で埋めるという工夫である[70]

1980年(昭和55年)10月には次期ブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ[71]、2,055作品が集まった[72]。1981年(昭和56年)1月には、女子高校生4名による合作デザイン案が最優秀賞として採用された[72]1982年(昭和57年)1月12日には松島基地の第4航空団第21飛行隊内に戦技研究班が設置され[69]、同年3月10日までに新造された6機のT-2がすべて引き渡された[69]。機種の変更と同時に、パイロットと地上要員の制服についても新しいデザインとなり[70]、さらに地上でのパフォーマンスも変更された[70]

浜松基地航空祭での墜落事故

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こうして、F-86Fブルーインパルスの最終展示飛行から約1年半が経過した1982年(昭和57年)7月25日、松島基地航空祭において、T-2を使用したブルーインパルスでは初の展示飛行が実施された[71]。ただし、当日は天候不良のためアクロバット飛行は行われず、2機を使用した低空飛行(ローパス)と編隊飛行のみが披露された[69]。同年8月8日に行われた千歳基地の航空祭からは本格的なアクロバット飛行による展示飛行が開始された[70]

ところが、同年11月14日に行われた浜松基地航空祭での展示飛行において「下向き空中開花」という演技を行っていた時、4番機の引き起こしが間に合わず[73]、会場近くの駐車場に墜落するという事故が発生した[74][75]。これはブルーインパルス史上では初めてとなる展示飛行中の事故であり[73]、墜落機のパイロットは殉職、地上の民間人にも負傷者が出た[74] 上、航空祭には報道のカメラも入っていたことから、事故の一部始終を録画した映像が夕方以降のニュースで繰り返し流される事態になった[76]。多くの報道では「危険な曲技飛行」として扱われ[76]、ブルーインパルスは発足以来最大の危機を迎えた[73]

事故原因の究明が行なわれ、編隊長のブレイクコールは通常より約3秒遅れ、墜落か生還かの分岐点から0.9秒遅れだった[77]。この短い時間を過失に問えるかどうかが問題となった[76]。当初は事故調査に対してどのパイロットも非協力的だった[78] が、静岡地方検察庁の杉本一重が「0.9秒の遅れがどのようなものかが分からないと公訴事案とするかの判断ができない」と考え[79]、実際にアクロバット飛行訓練に体験搭乗した後は、一転してブルーインパルスのパイロットは調査に協力的になったという[80]

また、この事故より前に、やはり「下向き空中開花」の訓練中に隊長機のブレイクコールの遅れが発生しており[80]、この教訓からブルーインパルスのパイロットにおいては「リーダー機(編隊長機)の指示が遅れたと判断した場合、そのままリーダー機に追従するように」という申し合わせ事項が作成されていた[81] が、事故機のパイロットはその申し合わせに「編隊長の命令である以上は従う」という理由で拒否しており[82]、申し合わせ事項を明文化した「思想統一事項」が作成された際にも最後まで署名をしなかったという[83]。ところが、事故調査報告書においては、最終的には編隊長のブレイクコールの遅れが原因と結論付けられた[76] ものの、「危険を感じたのであればブレイクせずに編隊長についていくべきであった」として、事故機のパイロットの過失をも問うものになり[77]、「思想統一事項」の存在が、事故機のパイロットの責任をも問うことになった[84]。その一方、事故機のパイロットは本来の飛行予想ルートからは外れた場所に墜落しており[85]、本来のルートの延長線上には住宅地や東名高速道路があったことから[86]、事故機のパイロットは「墜落しても被害の少ない場所」を選んでいたのではないかと推測されている[87]。なお、事故機にはフライトデータレコーダーやボイスレコーダーは搭載されていなかった[88] ため、真相は不明である。

この事故の後、ブルーインパルスは徹底的に活動を自粛していた[76]。松島基地のある周辺自治体でも「ブルーインパルスは出て行け」という雰囲気で、とても訓練が出来るような状況ではなかった[74]。しかし、航空自衛隊にとっても広報活動の大きな柱を失うわけにはいかなかった[76]。実機の飛行とシミュレーターによる徹底的な検証が行われ[73]、安全対策を検討した結果[73]1983年(昭和58年)10月25日の朝霞駐屯地における自衛隊観閲式での展示飛行から活動を再開することになった[73]。しかし、この時点での活動は航過飛行のみで、アクロバット飛行についてはその後も慎重に検討された[73]。最終的に、展示飛行の際の飛行高度引上げ[76]、「下向き空中開花」の課目からの除外[73] などを条件にして、1984年(昭和59年)7月29日の松島基地航空祭からアクロバット飛行を含む展示飛行が再開された[73]

任期の問題

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展示飛行を再開した1984年(昭和59年)には8回[76]、翌1985年(昭和60年)には年間18回の展示飛行を行う[76] など、事故後のブルーインパルスは順調に展示飛行を繰り返していた。1990年(平成2年)4月1日には国際花と緑の博覧会の開会式上空で会場の上空に全長20kmにも及ぶ巨大な花のマークを保有する9機すべてを使って描き[89]、同年6月3日の岐阜基地航空祭ではT-2ブルーインパルスとしては100回目となる展示飛行を行い、表面的には順調だった[73]

一方、ブルーインパルスは広報活動の一環ではあったが、この頃までは隊員と一般市民が接する機会があまりなかった[74]。これは「パイロットは映画スターでも何でもない」「いい気になっていたら事故を起こす」という考えがあったことによる[90]。しかし、1986年(昭和61年)からは市民との交流に前向きな取り組みが開始され[90]、航空祭ではパイロットのサイン会も行なわれるようになった[90]

しかし、こうしてブルーインパルスとしての活動が活発になるにつれて、問題が発生していた。

ブルーインパルスのパイロットは教官を兼務しており、これはF-86F時代と変わっていなかった[90]。このため、アクロバット飛行訓練の時間が十分に確保できず、結果的にブルーインパルスへの在籍期間が長くなった[73]。これは実働部隊(TAC部隊)から長期間離脱するということになり、戦闘機パイロットにとっては好ましい状況ではなかった[90]。また、航空祭の時期ともなれば「木曜日か金曜日に展開のため他の基地に移動、土休日に航空祭の展示飛行をこなして松島基地に帰還」というスケジュールとなり[73]、残る月曜から水曜の3日間でアクロバット飛行の訓練ともに教官としての業務もこなさなければならなかった[90]

さらに、T-2ブルーインパルスが活動を開始する少し前の1981年(昭和56年)12月17日には、より実戦的な空中戦教育を行うための組織として、築城基地で飛行教導隊が発足していた[91]。このような状況では、「戦技研究班」と称しつつアクロバット飛行専門であるブルーインパルスを希望するパイロットは少なくなっていた[90]

その一方で、1980年代後半には、自衛隊を中途退職して民間航空会社へ転職するパイロットが増え[92]、あまりに退職者が多いためにスクランブル待機の勤務間隔が短くなるなど[93]、実任務にも支障が出る状況になっていた[93]。ブルーインパルスでさえ、1990年3月にはパイロットの半数が転出や退職となり、9ヶ月ほどの間は6機体制での演技が不可能になっていた[94]

訓練中の事故

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こうした問題を背景として、1989年(平成元年)ごろから現在のT-2によるブルーインパルスの後継チームの検討が始まっており[95]、防衛庁の1991年度(平成3年度)予算案では「戦技研究班向け」として6機のT-4が含まれていた[96]

しかし、1991年7月4日、金華山沖で訓練をしていた4機のうち2機が墜落するという事故が発生した[90]。原因は海霧の中で編隊長機が空間識失調(バーディゴ)に陥り、編隊が左に傾いたのが原因とされた[73]。しかし、この当時の編隊長は曲技飛行チームの中で孤立した状態にあった[97] こと、また編隊長は1979年(昭和54年)10月に第21飛行隊に異動となってから12年もの間異動がなかった[92] こともあり、前述の任期の問題が顕在化した事故とも考えられた[95]

ブルーインパルスは約1年間ほど飛行自粛となった[73]。訓練および運用規定の見直しを行なった上で[73]1992年(平成4年)8月23日の松島基地航空祭から展示飛行を再開した[98]。なお、この時点では4機での展示飛行であった[98]

この時期には既にT-4による新しいブルーインパルスの導入は確定しており[90]、同年10月には第4航空団第21飛行隊内に「T-4準備班」が発足していた[99]。このため、航空自衛隊の中でも、ソロ要員の養成が間に合わず、機体の補充も難しいという理由から、6機体制へ戻すことについては消極的だった[90]。しかし、ブルーインパルスの関係者は「T-2によるブルーインパルスの最後は6機で飾りたい」と考え[90]、訓練時には通常仕様のT-2を使用するなどして6機体制での展示飛行を実施することがあった[95]。新規に要員の養成も行われ[90]1994年(平成6年)には通常通りの展示飛行が再開された[73]。同年8月10日には三沢基地航空祭においてサンダーバーズとの競演も実現した[95]。この時に作成したパッチで、ロゴの無断使用をサンダーバーズから諭されたというエピソードがある[100]

一方、T-4による新しいブルーインパルスの準備も進められ、T-2によるブルーインパルスは1995年(平成7年)で活動を終了することになった。最後の展示飛行となったのは同年12月3日に行われた浜松基地航空祭で[73]、T-2ブルーインパルスとしては通算175回目の展示飛行だった[73]。なお、1982年(昭和57年)の墜落事故以降、浜松基地航空祭では「浜松スペシャル」と題した「水平飛行系演技」のみとされており、この最終展示飛行も「水平飛行系演技」のみで締めくくられた[48]。訓練飛行は1995年12月8日が最後となり[98]、同年12月22日付で第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班は解散した[98]

T-4時代(1995年以降)

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独立した飛行隊として発足

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1989年(平成元年)ごろから進められていた新しいブルーインパルスの準備にあたって、関係者は「展示飛行を専門とする独立した飛行隊」を設けることを考えた[101]

T-2の時代まで、ブルーインパルスのパイロットは教官と兼務する形態で、パイロットの負担が大きかった[99]。独立した飛行隊とすることによって、航空祭などのイベントがある週末は忙しくなるものの、週明けには休暇が取得可能となる[10]。また、ブルーインパルスのパイロットになることによって戦闘機パイロットとしての生涯飛行時間を削ることになる[95] という問題についても、任期を3年と約束し、任期終了後はもとの部隊に戻る体制とすることによって、ブルーインパルスの任務に対して士気が保たれる[10]。さらに、教官と兼務ではブルーインパルスのメンバー養成にも支障をきたすことがあり[102]、これを解決するためにも独立した飛行隊にすることが必要と考えられた[102]

1995年11月12日に百里基地で並んだ3世代のブルーインパルス。手前からT-2×7機、F-86F、T-4×7機

展示飛行専門の飛行隊を新規に創設することは容易ではなかった[99] が、折りしも1990年代は災害派遣や国際貢献などで自衛隊が活動する機会が増加しており、自衛隊に対しても国民からの理解が深まっていた時期で[10]、自衛隊は広報活動に対して、より積極的になっていた[10]

こうした背景から、前述の問題点を解決して安全で効率の良い運用を行うため、展示飛行専従の部隊として独立することが認められた[102]1992年(平成4年)11月6日にはブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ[102]、2,135作品が集まった[102]。その中から、精神科医で飛行機ファンでもある[102]斎藤章二のデザイン案が採用された[103]。また、展示飛行の課目についてもT-4の性能を生かした内容が検討された[96]

1994年(平成6年)10月1日には松島基地第4航空団に「臨時第11飛行隊」が編成された[10]。翌1995年(平成7年)7月30日には研究飛行と称するアクロバット飛行が松島基地航空祭において一般公開され、T-2のブルーインパルスと競演した[10]。同年11月12日には百里基地で一般公開された航空訓練展示でもT-2のブルーインパルスと競演した[10]。この時はブルーインパルス塗装のF-86Fも展示された[104] ため、3世代のブルーインパルスが同時に展示されることになった[105]。同年12月22日、第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班が解散すると同時に、「臨時」のない第11飛行隊が制式飛行隊として発足した[102]

こうして、1996年(平成8年)4月5日の防衛大学校入学式で航過飛行(フライバイ)による展示飛行[106]、同年5月5日に岩国基地で開催された「日米親善デー」ではアクロバット飛行による展示飛行[106] を皮切りに、新しいブルーインパルスの活動が開始され、この年度は22回の公式展示飛行が行なわれた[107]

初の国外遠征

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第11飛行隊として発足した翌年の1996年(平成8年)、アメリカ空軍からブルーインパルスへ、アメリカ空軍創設50周年を記念してネバダ州ネリス空軍基地において行なわれる航空ショーである「ゴールデン・エア・タトゥー」 (GOLDEN AIR TATTOO) での展示飛行の招請があった[106]。これに対して検討を行なった結果、1億数千万円を投じて[108]、ブルーインパルス史上初となる国外への展開が決定した[106]

しかし、アメリカでは観客の方向に向かって飛ぶことは禁じられており[1]、高度制限もアメリカの方が厳しい[1] など、日本とアメリカでは展示飛行の基準が異なっていた。アメリカ連邦航空局 (FAA)の係官が来日し、松島基地でアクロバット飛行の内容をチェックし[109]、さまざまな懸案が指摘された[1]。これに伴い、課目についても進行方向を変えたりするなど、部分的な変更を迫られた[1]

ブルーインパルスが運用するT-4には太平洋を横断するだけの飛行能力はなく[110]、輸送船に船積みした上で海上輸送することになり[106]1997年(平成9年)3月4日からアメリカ本土への移動が開始された[111]。まず陸上自衛隊の木更津駐屯地まで機体と機材を輸送し[1]、そこで輸送船にクレーンで船積みされ、同年3月10日に木更津港を出港した[112]。パイロットが渡米するまでは訓練に使用できる機材がない[112] ため、第1航空団と第4航空団の教育集団から通常仕様のT-4をリースして訓練を行なった[113]。なお、通常仕様のT-4ではバードストライク対策のキャノピー強化が施されていないため、訓練は通常より高い高度で行なわれた[114]

機体は同1997年3月28日にカリフォルニア州サンディエゴのノースアイランド海軍航空基地に到着[112]。同年3月26日に成田を出発した整備員が受領し、整備が行われた[113]。パイロットは4月5日に松島基地を出発し、4月6日に成田から出発、現地で整備員と合流し、4月10日にネリス空軍基地へ向かった[115][注釈 4]。ネリス空軍基地ではサンダーバーズが使用する空域を使用した訓練が行なわれた[118]。ネリス空軍基地は近隣にラスベガス・マッカラン国際空港があるため、訓練には40マイル北にあるインディアンスプリングス飛行場も使用した[119]。ネリス空軍基地は標高が高いことから気圧が低く[118]、空気密度が低いためエンジンのパワーが落ち、編隊を組むのも容易ではなかったという[118]。また、砂漠での訓練飛行は地上目標物が少なく苦労したという[120]

「ゴールデン・エア・タトゥー」は同1997年4月25日・26日に開催された。アメリカ空軍のサンダーバーズのほか、カナダ空軍からはスノーバーズブラジル空軍からはエスカドリラ・ダ・フマサチリ空軍からはアルコネス、そして日本からブルーインパルスと、5カ国のアクロバット飛行チームが競演することになった[121]。アメリカ空軍ではこれ以外にも、イギリス・イタリア・ロシア・フランスのアクロバット飛行チームにも招待状を送っていた[122] が、渡米費の捻出ができずに参加を断念している[108]。ただし、イギリス空軍オーストラリア空軍は戦闘機の展示として参加した[123]

低騒音であることがアメリカ人には物足りなかったらしく[124]、サンダーバーズのような迫力はなかった[111] ものの、正確で緻密なパフォーマンス[111]、日本とは全く異なる環境であるにもかかわらずトラブルのなかったブルーインパルスの整備・支援体制は[106]、参加した軍関係者からも高い評価を得られた[111]。「チェンジ・オーバー・ターン」という課目を見たサンダーバーズのパイロットは正確な機動に賛辞を惜しまず[125]、南米のチームのパイロットも "Precise!" (正確だ!)と驚嘆したという[125]。この時に披露された課目のうち、ブルーインパルスのオリジナル課目である「スター&クロス」については、最初のうちは5機がバラバラの方向にスモークを引いているようにしか見えず、ほとんどの観客は意図が分からなかったという[110]。しかし、スモークが伸びるにつれ、会場にいた子供の「スター!」という声があちこちから聞こえだした[110]。アメリカ空軍のみならず、アメリカ合衆国そのものの象徴でもある星[106] が空中に描かれると、観客からは絶賛されたという[121]。この「スター・クロス」は、アメリカ人の観客からはアメリカ空軍50周年を記念したスペシャル課目と思われていたと推測されている[117]

会期終了後、同1997年4月28日にネリス空軍基地からノースアイランド海軍航空基地へ移動し[126][注釈 4]、そこで再度船積みを行なって同年5月6日に出港[126]、松島基地には5月28日に帰還した[126]

このアメリカへの展開は3ヶ月に及んだため、この1997年の展示飛行回数は15回にとどまった[127]。なお、この年には松島基地に新しい隊舎が完成した[112]

1990年代後半

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1998年(平成10年)には長野オリンピック(長野五輪)の開会式上空における航過飛行(フライバイ)の要請を受けた[106]。東京五輪とは異なり「五輪を描く」ことはなかったものの、開会式の会場が冬期の山岳地域であり[106]、会場が冬期迷彩のように視認性に劣るため[128]、会場の脇には移動式TACANが設置された[106]。また、開会式当日は第11飛行隊の飛行隊長が会場から無線で編隊に直接指示を送る体制をとった[106]。開会式当日、ベートーヴェン交響曲第9番第4楽章の演奏・合唱が終了すると同時に[106]、会場上空で5色のスモークを引きながらレベルオープナーを披露した[128]

同年7月には松島基地にブルーインパルス専用の格納庫と「ブルーインパルス・ミュージアム」が完成[106]。同年7月27日の松島基地航空祭において「お披露目式典」が行なわれた[106]

1999年(平成11年)からはカラースモークは使用されなくなった[129]。一方、1982年( 昭和57年)の事故以来、水平系の課目しか行われていなかった[128] 浜松基地の航空祭では、この年の11月14日に浜松基地で行われた「エアフェスタ浜松」にて、17年ぶりに垂直系の課目を含めた展示飛行が行われた[128]

飛行隊として独立してから、部隊運用や管理はスムーズに行なわれており[130]、全国の航空自衛隊隊員にとって、ブルーインパルスは魅力的な部隊となった[10]

40周年目の事故

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ブルーインパルスが40周年、第11飛行隊も5周年となる2000年(平成12年)は、岩国基地で行われたフレンドシップデーなどで、「2000」という文字を描くなど、ブルーインパルスが得意とする「描きもの」が展示飛行に採りいれられた[131]

ところが、同年7月4日、金華山沖での訓練を終えて帰投する途中、5番機と6番機が宮城県牡鹿郡牡鹿町(当時・2005年以降は石巻市)の光山山頂付近に墜落[1]、3名が殉職するという事故が発生した[1]。この事故直後からブルーインパルスは活動を停止[1]、同年7月末に予定されていた松島基地航空祭も中止となった[128]

事故原因は海霧の中で高度を下げすぎたのが原因とされた[128]。1991年(平成3年)の同じ7月4日にも墜落事故が発生しており[1]、その日がどんな日であるかはブルーインパルスのメンバー全員が分かっていたにもかかわらず発生してしまった事故だった[111]。しかも、この事故では墜落地点が女川原子力発電所に近い地域で[128]、女川原子力発電所の半径3.6kmに設定されていた飛行禁止区域をかすめて飛んでいたことが問題視され[130]、周辺自治体の一斉反発を招いてしまった[130]

このため、航空自衛隊では、訓練空域や松島基地への進入経路を一部見直した上で飛行最低高度を設定するなどの安全対策を実施し[1]、自治体との話し合いを続けた結果[130]2001年(平成13年)2月9日から訓練飛行を再開した[130]。単独機である5番機と6番機の要員を失ったブルーインパルスの建て直しのため[1]、第11飛行隊発足当時のメンバーだったパイロットが一時的にブルーインパルスに教官として復帰し[132]、パイロット育成を実施した[133]。また、機体も2機が失われ、通常2機が川崎重工でIRAN(定期検査)に入っているため[130]、6機での展示飛行は出来なくなった[130]

それでも、同年8月26日の松島基地航空祭から展示飛行が再開された[133]。同年9月9日の三沢基地航空祭ではアクロバット飛行を含む展示飛行も行われた[130] が、同年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の発生により、その後の展示飛行はすべて中止となった[128]

2002年(平成14年)4月5日に行われた防衛大学校入校式から活動を再開した[111]。これがT-4ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行となった[111]。また、6月4日に行なわれたFIFAワールドカップ会場の埼玉スタジアム2002上空でも航過飛行(フライバイ)を行なった[128]。同年中には2001年度予算案で2機の調達が認められた[133] ことから、9月までに2機のT-4が引き渡され[133]、再び6機での展示飛行が可能となったのは同年12月1日の岐阜基地航空祭からである[130]

この期間はパイロットのローテーションが変則的となり、3年という本来の任期を越えて在籍したパイロットもいた[133] が、2003年にはほぼ以前と同様の状態に戻すことができた[134]

50周年、通算展示飛行1,000回を達成

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その後は新しい課目の研究や開発を行う余裕も生まれ[133]2004年(平成16年)には航空自衛隊発足50周年を記念した「サクラ」などの新課目も加わった[133]

2006年(平成18年)には第11飛行隊が創設されて10周年になることを記念し、同年2月17日・18日に記念行事も行われた[133]。この記念行事では、第11飛行隊で天候偵察用に使用されている通常仕様のT-4に対して特別塗装が施された[135] ほか、2000年(平成12年)の事故で殉職したパイロットの慰霊行事も行なわれた[136]。翌2007年(平成19年)5月27日の美保基地航空祭で、T-4によるブルーインパルスとしては通算200回目となる展示飛行を達成した[133]2009年(平成21年)10月18日には三沢基地航空祭においてサンダーバーズとの競演が実現した[111]

2010年(平成22年)はF-86Fでブルーインパルスが活動を開始してから50周年を迎え[133]、パッチや帽子のデザインが変更された[111] ほか、同年8月21日には松島基地で50周年記念式典が行われ[137]、1982年(昭和57年)以降に事故で殉職したパイロットの慰霊祭が行なわれた[138]。また、2011年(平成23年)1月23日に那覇基地で行なわれた「エアーフェスタ2010」では、F-86F・T-2時代を通算して1,000回目となる展示飛行が行われた[139]

東日本大震災における被害

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2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)では[140][141]、ブルーインパルスの母基地である松島基地は震源地に近かったため、巨大津波の直撃を受け、当時配属されていた航空機は、駐機中の28機すべてが水没するという甚大な被害を受けた[140][141]。ブルーインパルスは、翌12日の九州新幹線全線開通を記念した展示飛行のため、10日に芦屋基地への展開を行なっており[142][141]、留守にしていたブルーインパルスは無事であった(基地に残していた予備の1機は水没した[143]。また、12日の展示飛行は他の開通記念行事とともに自粛された[140][141])。

松島基地の基地機能の復旧に時間がかかり、機体の基地への帰還の目途が立たなかったため[140]、機体は九州に残したまま、14日に隊員たちは単独で、松島基地および周辺地域の復旧作業のために帰還した[142]。その後も、基地機能の復旧や津波対策を行う関係から松島基地でのブルーインパルスの機体の受け入れ態勢が整わず[144]、その都度松島からクルーが芦屋基地へ出向く「移動訓練」という形態を余儀なくされた[142]。訓練飛行が再開されたのは同年5月23日であった[140]。展示飛行は同年8月7日に千歳基地で行なわれた航空祭から再開された[145]。仮の母基地となった芦屋基地では第13飛行教育団の隊舎内にある会議室に間借りする運びとなった[146]。芦屋基地では環境問題の関係からアクロバット飛行の訓練を行うことはできなかった[147] ため、地元との調整の結果、同8月26日からは築城基地上空においてアクロバット飛行の訓練が再開された[147]。離陸課目の訓練で築城基地に離着陸することもあった[148]。整備員が移動しなくて済むように、芦屋基地から築城基地上空まで飛来して訓練を行う「リモート訓練」形式となり[149]、地上統制要員は築城基地まで陸路を移動していた[148]。このほか、日本海側にある見島分屯基地でも洋上訓練を行なっていた[150]

なお、松島基地が所在する東松島市では同年8月に避難者の応急仮設住宅入居が完了し、全避難所8月31日に閉鎖された[151]。ちょうどこの時期(8月20日)に東松島市で行なわれた「ありがとう!東松島元気フェスタ」で展示飛行が行なわれた[144]。この時は三沢基地からのリモートショー形式であった[144]

震災による訓練中断と、その後の不安定な天候により、この時期のブルーインパルスでは要員練成にも遅れが生じ[152]、半年ほど第11飛行隊からの転出が遅れる事態になった[152]。このような事情から、要員練成をメインとして[152]、2012年の展示飛行は通常の年の半分以下である12回に減らされた[148]

松島基地への帰還

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松島基地へ帰還したT-4

その後、松島基地の復旧と津波対策が進んだことにより[142]、ブルーインパルスは2012年度(平成24年度)内に松島基地へ帰還することになった[142]2013年(平成25年)3月15日には、移動訓練の記念として、築城基地に配置される第6飛行隊F-2第304飛行隊F-15との編隊飛行訓練が行なわれた[150] が、ブルーインパルスがTAC部隊の戦闘機と編隊飛行を行なった事例はほとんど前例がないといわれている[150]。同年3月25日には芦屋基地において移動訓練終了を記念して「ブルーインパルスお別れフライト」と称した展示飛行と帰還記念式典が行なわれた[153] が、展示飛行は平日の午前中であるにもかかわらず3,500人の観客が訪れたという[154]。この時の課目には、本来なら2011年(平成23年)3月12日に披露するはずであった「サクラ」も含まれていた[155]

ブルーインパルスは同2013年3月28日に芦屋基地を出発[156]百里基地を経由しながら3月30日に松島基地に帰還し[157]、3月31日には小野寺防衛大臣[158] や地元の自治体関係者も集まって[159] 帰還行事が行なわれた[158]。また、同年4月6日には東松島市商工会によって帰還イベントが開催され、悪天候のため訓練飛行は行なわれなかったものの、タキシングやブルーインパルスジュニアの展示が行なわれた[160]

帰還時点では、ブルーインパルスの格納庫はかさ上げ工事中のため、津波対策として新たに整備された退避用の格納庫とエプロンを使用する状態である[161] が、同年4月4日からは再び金華山沖でアクロバット飛行の訓練が再開された[162]

同2013年6月1日、東日本大震災からの復興を後押しするために福島県福島市で開催された「東北六魂祭」で、パレード会場の国道4号線上をショーセンターとして、ブルーインパルスの編隊連携機動12課目が行われた[163][164]

エンジン不具合による飛行停止

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2019年(平成31年)4月2日に三沢基地所属の通常仕様のT-4が訓練中のエンジンの不具合で緊急着陸した。

その後の原因調査の結果、エンジン内の振動でタービンブレードが破損していたことが判明し、エンジンの振動を抑える部品を改良したものに交換する必要が出てきたことから、部品交換のされていないT-4はそのまま飛行停止となった。同型機を使用するブルーインパルスも部品交換まで訓練ができず、4〜6月に予定されていた鹿児島、山口、静岡、鳥取の各県での展示飛行を中止した。

その後、5月下旬に訓練を再開し、2019年(令和元年)7月21日に宮城県松島町で行われたイベントで飛行を再開したが、部品交換の進度の関係上2機での再開となった。 また同年8月25日に開催された松島基地航空祭においては午前中に1番機・5番機・6番機の3機で飛行し、午後には1番機・2番機・3番機の3機で飛行した。

その後、ブルーインパルス所属機の部品交換が進み、9月5日には6機での飛行訓練を再開した。その直後に行われた三沢基地航空祭では訓練の進捗状況により、1番機・4番機・5番機・6番機の4機で展示飛行を行ったが、9月16日の小松基地航空祭から6機での展示飛行が再開されている。

カラースモークの試験と再開

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2019年(令和元年)8月29日には、使用を禁止していたカラースモークの実機試験を実施した。これは2020年(令和2年)の東京五輪関連行事での展示飛行に向けたものであり、まず8月29〜31日に地上試験を行い、9月3、4日には空中での試験を実施した。この試験では、スモークの視認性や、空中で拡散するよう改良した染料の地上への影響を確認した。

2020年3月20日、松島基地で「聖火到着式」が開催された際、ブルーインパルスが「五輪」を描き、改良型のカラースモークが初使用された。

史上初の2チーム・12機体制の構築

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2020年3月20日、松島基地での東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式典においてブルーインパルス史上初となる2チーム・12機体制の飛行[注釈 5]が行われた。A(アルファ)編隊が「五輪」を描き、B(ブラボー)編隊がリーダーズ・ベネフィットを披露した。

コロナ・パンデミックにおける医療従事者等への応援

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2020年に入って新型コロナウイルスのパンデミックが発生したことで、患者が爆発的に増え、医療従事者等に過大な負担が生じるようになった。世界各地の曲技飛行隊が医療従事者らに向けた展示飛行を実施したことから、ブルーインパルスも医療従事者をはじめとする全国の皆様へ敬意と感謝を示すため、2020年5月29日の12時40分から13時に掛けて東京都心の病院の上空を中心に巡回する展示飛行を実施した[165]。人の集合を避けるため、飛行ルートは飛行開始の3時間前に公表された。

2020年東京オリンピック・パラリンピック大会

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東京オリンピック聖火到着式にて

2020年東京オリンピック開幕に合わせ、開幕式前日の7月23日、5色のカラースモークを出して東京上空に五輪マークを描いた[166]。今回もトラブルに備えて2チーム・12機体制を構築し、通常仕様のT-4が1機、第11飛行隊に追加配備された。両チームとも2から6番機が戦技研究仕様機、1番機は通常仕様のT-4が用いられた。

同年8月24日の東京2020パラリンピック競技大会開会式当日昼にも3色のカラースモークを用いてパラリンピックマークを東京上空に描いたが[167]、予備機3機が入間基地に着陸する直前、適正高度以下でカラースモーク噴射を実施。基地周辺の300台程度の車に水・洗剤で洗い落とせない粒子が付着する被害を与えた(後述)。

最近の活動

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2020年度は新型コロナウィルス感染症により、展示飛行はほとんど行われなかったが、2021年度は東京オリンピック・パラリンピックでの飛行も含めて複数回実施し、2022年度は4月時点で15箇所での展示飛行が予定されている[168]

体制

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東京オリンピック開会式前日の展示飛行

前述の通り、ブルーインパルスは当初「飛行隊の中で曲技飛行(アクロバット飛行)を担当する1セクション」という扱いで発足している。このことを踏まえ、本節では第11飛行隊として設立された1995年(平成7年)12月以降の体制について記述する。

組織

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第11飛行隊の内部組織は、飛行隊長を頂点とし、その下に飛行班・整備小隊・総括班という3つの部署が設置されている[169] が、これは他の航空自衛隊の飛行隊と同様である[169]

第11飛行隊特有の特徴として、パイロットと整備員については任期が3年と定められている[170] ことが挙げられる。これは、実戦部隊を離れたがらないパイロットが多い事に配慮し[134]、3年間という条件をつけることによって第11飛行隊への選出を行いやすくするためである[134]。また、飛行班・整備小隊においては階級が「空士」の隊員は存在しない[8][注釈 6]。これは、空士は2等空士・1等空士・空士長とも任用期間が3年(2任期目以降は2年)に限られており[171]、第11飛行隊の3年という限られた任期の中では、他の部隊で行われているような新人養成や空曹への昇進試験などに時間を割く余裕がないための配慮[8] である。

通常の制服のほかに『展示服』と呼ばれる、展示飛行の際に着用するための専用の制服や飛行服が用意されている[注釈 7]ことや、整備員とパイロットの連帯感が強い[172] ことも特徴である。相互の理解を深めるため、訓練時にパイロットが他のポジションの後席に同乗する機会を設けている[173]

飛行班

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飛行班長以下、1機あたり1〜3人のパイロットが在籍する[169]。パイロットは「ドルフィン・ライダー」と呼ばれており[174]、パイロットスーツの左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN RIDER" と記されている[175]。1番機については飛行隊長と飛行班長の両方が担当する期間もある[134] が、2番機から6番機までは交代要員としてのパイロットは存在しない[134]。第11飛行隊は展示飛行の任務しか行なわない[9] ため、日常のミッションはアクロバット飛行やウォークダウン・ウォークバックの訓練となる[9]

自衛隊では珍しく所属するパイロットの個人名が紹介されている[174]

前述のように3年間という任期が定められており、任期の業務内訳は以下の通りである。

1年目
TR(訓練待機、Training Readiness)として演技を修得する[169]。展示飛行の際にはナレーションを担当したり[134]、訓練のため後席に搭乗することがある[176]
2年目
OR(任務待機、Operation Readiness)として展示飛行を行う[169]
3年目
ORとして展示飛行を行いつつ、担当ポジションの教官としてTRのパイロットに演技を教育する[169]

限られた期間内で訓練と展示飛行をこなす必要があるため、途中での担当ポジションの変更は一切なく[134]、また第11飛行隊に選出されたパイロット自身が担当ポジションを希望することもできない[134]。左胸のネームタグもポジションナンバー入りとなっている[175]

パイロットの選出にあたっては、操縦技量が優れていること[177] のほか、高度なチームワークが要求されるために協調性があることが求められている[177]。また、広報活動が主な任務であり、航空自衛隊の代表として多くの観衆と接するため、社交性も要求される[177]。なお、手当ては普通のパイロットと同様である[134]。ブルーインパルスへの異動は「本人の希望による異動」と「命令による異動」があり、2003年(平成15年)時点ではどちらかといえば後者の方が多かった[134] が、2010年(平成22年)時点では本人が希望することが多くなっている[178]

それまでのTAC部隊では全くやったことのない操縦技術を習得せねばならず[134]、最初はどのパイロットも戸惑いがあるという[134]。また、TAC部隊で戦闘機を自在に操っていたパイロットにとっても、訓練内容は高度で厳しい内容であるといわれる[179]。一方、訓練の中で編隊飛行の操縦技量等が著しく向上し、3年の任期を終了してTAC部隊に戻ると、空中集合の早さに同僚のパイロットから驚かれたり[180]、「どうしてこんなに編隊が上手いの?」と質問されたりするという[181]。これについて第11飛行隊の初代飛行隊長は「高度な操縦技術を3年間みっちり行なえば、一般の部隊に戻った後にフィードバックできることも多いはず」と述べている[180]

なお、展示飛行は日中にしか行われないが、技量維持のため1ヶ月に数回ほど夜間飛行訓練を行なっている[105]

基本的に過去の在籍者の再在籍は行われないが、事故による要員不足時に教官要員としての再在籍があったほか、それ以外でも、要員の都合上異動から数年後に担当ポジションを変えて再在籍した例がわずかながらある。また、2020年3月20日に行われた東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式典において、史上初の2チーム・12機体制とする為に、OBがTAC部隊から一時的に異動していた。その後、2021年の2020東京オリンピック・パラリンピック大会においても同様の措置が取られている。

歴代飛行隊長 (T-4)

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氏名 出身校・期別 在任期間 TACネーム 言葉 備考
初代 田中光信 航学24期 1994.10.1〜1996.3.21 T-2ブルーインパルス在籍経験有り。
2代 阿部英彦 防大22期 1995.3.23〜1998.3.25 BEAR
3代 塩澤信行 航学28期 1998.3.26〜2001.7.31 SHAW 夢 感動 1994〜1995年 T-4準備班長
T-2ブルーインパルス在籍経験有り。
4代 渡邊 弘 航学32期 2000.3.25〜2004.3.25 LUPPIN
5代 西村弘文 防大29期 2003.3.25〜2006.3.22 JOE
6代 倉田 裕 防大31期 2005.4.1〜2008.3.31 DUNK
7代 山口英章 一般79期(埼玉大学) 2007.4.1〜2010.3. SERVE
8代 渡部琢也 防大35期 2009.4.1〜2012.8.27 WATT 2023年12月22日より第4航空団司令兼ねて松島基地司令
9代 田中公司 防大38期 2011.5.9〜2014.7.31 JOE 2022年1月31日 飛行教導群F-15墜落事故により殉職。航空戦術教導団飛行教導群司令を務めていた。
10代 日髙大作 防大40期 2013.3.27〜2016.3.23 ASH
11代 稲留 仁 一般87期(日本体育大学) 2015.4.1〜2018.3.25 DOM 5代目2番機要員の実弟

2024年7月19日より第4航空団飛行群司令

12代 福田哲雄 一般91期(群馬大学) 2017.4.1〜2020.6.10 TETSU
13代 遠渡祐樹 一般92期 (東京国際大学) 2019.4.1〜2022.3.31 CHERRY
14代 名久井朋之 防大49期 2021.4.15〜2024.5.8 KNUCKLE
15代 江尻卓 防大50期 2023.7.25〜 EDGE

※T-4ブルーインパルスの歴代隊長は部隊を去る際に、飛行隊に込めた思いの言葉を残していく。

歴代飛行班長 (T-4)

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氏名 出身期別 TACネーム 備考
初代 小倉貞男 航学29期 LARK T-4ブルー課目開発の中心的役割を担う
2代 夛田晋 航学31期 TOUCH 1998年長野五輪開会式航過飛行編隊長
3代 五十嵐聖 航学33期 LASSIE
4代 大津範夫 航学34期 MARCH
5代 宮川範之 航学35期 ANDRE
6代 吉田信也 航学36期 SHIN
7代 村田将一 航学40期 GARI 元4番機要員 (3代)
8代 安田勉 航学42期 BEN
9代 平岡勝 航学44期 GUY 2016年4月6日 U-125御岳墜落事故により殉職。
10代 友田要 航学46期 TOMY
11代 春山維彦 航学47期 SUIT
12代 越後英 航学48期 DANNA
13代 海野勝彦 航学51期 GON
14代 平川通 航学54期 JACKY
15代 川島良介 航学55期 BENGAL

歴代2番機要員 (T-4)

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氏名 出身校・期別 TACネーム 備考
初代 陣内信広 航学39期 JIN
2代 阿蘇晋一 防大33期 VIPER
3代 植森治 防大35期 SAM
4代 門間政仁 防大36期 MANMO
5代 稲留智 一般84期 (日本大学) DOME 11代隊長の実兄
6代 玉越晃 一般86期 (日本文化大学) MARU
7代 須藤和徳 防大42期 IPPEI
8代 里見祥延 防大44期 DIVE
山本晋二 一般92期 (東邦大学) SHARK OR資格未取得
9代 日高明 防大48期 VARLE
10代 吉田翔 一般97期 (明治大学) KIKKAS
11代 中條智仁 防大53期 GARP
12代 住田竜大 防大55期 RYU
13代 東島公祐 防大57期 GANG
14代 松永大誠 防大59期 SPOCK

歴代3番機要員 (T-4)

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氏名 出身期別 TACネーム 備考
初代 黒井博文 航学38期 KURO
2代 木原武幸 航学41期 CHEF
3代 渡邊裕尚 航学43期 GOJO
4代 村上勇人 航学47期 LUKE
5代 安斎茂 航学49期 HAMMER
6代 岡田晶夫 航学50期 VIPER
7代 原田晶大 航学53期 KOOL
8代 大越裕史 航学55期 ZIN
9代 古賀健 航学57期 KUGA
10代 平間広太朗 航学59期 MITTSU
11代 上原広士 航学61期 MUSHA 2020年3月 東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式の展示飛行にOBとして復帰し参加。B編隊3番機を務める。
12代 久保祐介 航学62期 TOMMY 2021年7月 東京オリンピック開会式当日の展示飛行にOBとして復帰し参加。B編隊3番機を務める。
13代 鬼塚崇玄 航学65期 SAIJI
14代 藏元文弥 航学67期 CORK
15代 松浦翔矢 航学69期 JUSTIN

歴代4番機要員 (T-4)

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氏名 出身期別 TACネーム 備考
初代 野崎靖祐 航学34期 BOND
佐々木慶宣 航学37期 SAKI OR資格未取得
2代 高橋喜代志 航学37期 KYONCEE
3代 村田将一 航学40期 GARI 後の飛行班長 (7代)
4代 猪俣展泰 航学42期 AVI
5代 水野匡昭 航学46期 JJ
6代 鈴木康 航学48期 MAC
7代 浅岡浩和 航学50期 INOKI
8代 濱井祐一郎 航学52期 GALLANT
9代 堀口忠義 航学54期 DENIRO
10代 立山雄一 航学56期 CHAMBER
11代 川村翔平 航学58期 RUM
12代 村上綾 航学60期 MARS 2021年7月 東京オリンピック開会式当日の展示飛行にOBとして復帰し参加。B編隊4番機を務める。
13代 永岡皇太 航学62期 ASH
14代 手島孝 航学64期 IKKI
15代 佐藤裕介 航学66期 REACH

歴代5番機要員 (T-4)

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氏名 出身期別 TACネーム 備考
初代 柳岡善行 航学32期 JUMBO
山崎高徳 航学35期 JAMI OR資格未取得
2代 澤井康二 航学37期 JUNK 2000年に発生したブルーインパルス牡鹿半島墜落事故で失われた要員の錬成の為、後に一時的に復帰。
3代 阿部幹雄 航学38期 MAVE 2000年7月4日 ブルーインパルス牡鹿半島墜落事故により殉職。
4代 渡辺学 航学40期 RACCO
5代 川口克己 航学43期 GUCCI
6代 戸島潔 航学45期 RAMOS
7代 井川広行 航学47期 SETTER
8代 乃万剛一 航学49期 JEANE
9代 澤村正人 航学51期 TUBE
10代 園田健二 航学53期 EDEN
11代 元廣哲 航学55期 GORO
12代 河野守利 航学57期 GABAI
13代 江口健 航学59期 GUCCI
14代 藤井正和 航学60期 ZEEK
15代 浦祐眞 航学63期 MICKEY

歴代6番機要員 (T-4)

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氏名 出身期別 TACネーム 備考
初代 伊藤昭 航学33期 KILLER 2000年に発生したブルーインパルス牡鹿半島墜落事故で失われた要員の錬成の為、後に一時的に復帰。
2代 安藤浩 航学36期 LEWIS
3代 一嶋三樹 航学39期 MICKEY 2000年7月4日 ブルーインパルス牡鹿半島墜落事故により殉職。
4代 梅川智弘 航学41期 RANGER 2000年7月4日 ブルーインパルス牡鹿半島墜落事故により殉職。
5代 村田雄亮 航学45期 CHOJI
6代 草薙樹一郎 航学46期 POPEYE
7代 大島悟 航学49期 BAZZAR
8代 槙野亮 航学51期 KITTY 2021年7月 東京オリンピック開会式当日の展示飛行で、A編隊3番機後席に搭乗。同年8月 東京パラリンピック開会式当日の展示飛行で、B編隊3番機 (5・6番機予備機) を務める。
9代 井上英昭 航学53期 CHEETAH
10代 奥山敬仁 航学55期 CHAKRA
11代 橋本健二 航学57期 ROVER
12代 山崎雄太 航学59期 BLADE 2020年3月 東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式の展示飛行にOBとして復帰し参加。B編隊6番機を務める。
13代 佐藤貴宏 航学61期 RIAS 2021年7月 東京オリンピック開会式当日の展示飛行にOBとして復帰し参加。B編隊6番機を務める。
14代 眞鍋成孝 航学63期 LANCE
15代 加藤拓也 航学65期 FALCON
16代 浅香光司 航学67期 TAKA

整備小隊

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地上クルーのうち整備を担当するのが整備小隊で、整備小隊長以下20人前後が在籍[182]。整備員は「ドルフィンキーパー」と呼ばれ[183]、整備服の左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN KEEPER" と記される[175]。1機につき3名の機付整備員が配置され[184]、そのうち1名が機付長として受け持つ機体についての作業を任されている[184]。他の部隊と異なり、機体を磨く作業が重要視されている[185] のが業務内容の特徴である。航空祭などではエンジンスタートや地上誘導などを担当する[182] だけではなく、展示飛行の際にはウォークダウン・ウオークバックを披露する[185]。観客に背中を見せる機会が多いため、展示服の背中にはブルーインパルスのロゴも入っている[175]

パイロットと同様、任期は3年間を原則としており[182]、通常は1月に着任して実務訓練を受ける[185]。また所属隊員の個人名が紹介されている[183]

総括班

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総括班長は2006年(平成18年)4月までは5番機のパイロットが兼務していた[186] が、2006年4月以降は展示飛行を行なわないパイロットが選任されている[182]。パイロットであるため、ネームタグは飛行班と同じデザインで、7番機のポジションナンバーが入っている[187]

総括班は、飛行スーツやヘルメット、酸素マスクなどの維持管理を行う「救命装備員」(LIFE SP)[182][注釈 8]、飛行計画(フライトプラン)を管理する「飛行管理員」(DISP)[182][注釈 9]、物品調達を行う「補給員」(SUPPLY)[182]、その他の庶務を行う「総務員」(ADMIST)[182][注釈 10]という業務内容で、航空祭の時にもパイロットや整備員と同行して展示飛行の準備を行う[182] ため、展示服が用意されている[188]

歴代総括班長 (T-4)

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氏名 出身期別 TACネーム 備考
初代 鮏川健 航学36期 MARS
2代 井上利幸 航学37期 TOPPO
3代 藤澤寛 航学38期 SHAMO
4代 曾田昭彦 航学39期 AKI
5代 谷為博紀 航学42期 TAMER
6代 原正宏 航学47期 TYLER
7代 林幸一郎 航学43期 KOH
8代 青木明徳 航学50期 BATTEN

支援設備

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格納庫(ハンガー)は1998年(平成10年)7月に建設された[189]。緩やかなアーチ形状の屋根で[190]、正面には "Home of The Blue Impulse" という文字が入れられており[190]、ハンガー内部の床面中央には直径10mほどの大きさで[191] ブルーインパルスのエンブレムが描かれている[190]

飛行隊舎は格納庫に隣接しており[192]、1階には資料展示室がある[193] ほか、屋上には訓練を見学するための観客席が設けられている[193]

なお、同隊舎と格納庫は2011年(平成23年)3月の東日本大震災による津波で水没し、損傷したが、駐機場と格納庫を約3.6メートルかさ上げし、格納庫には防水扉を設置。滑走路との間に長さ約200メートル、幅約23メートルの誘導路も新設した。

業務用車両として、現地クルーの移動支援用にトヨタ・ランドクルーザーホンダ・アクティを導入していた[194] が、2010年(平成22年)に日産・エクストレイルを導入した[195] 後、ランドクルーザーは使用されていない[196]。いずれもブルーインパルスの機体と同じイメージの塗装が施されている[196]。この他、ブルーインパルス専用のトーイングカー電源車を保有する[196]。なお、給油車については飛行群ではなく整備補給群の所属である[196] が、そのうち1台は「スモークオイル専用の給油車」で、松島基地にしか存在しない[197]

訓練空域

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ブルーインパルスの訓練は、以下の場所で行なわれる。

飛行場訓練(フィールドアクロ)
実際の航空祭と同様の条件で基地上空で行う[198]。高い訓練効果が得られる[172] が、訓練中は基地周辺の管制圏を30分以上占有する[199] ため、その間は他の航空機の離着陸が出来なくなってしまう[199]。このため、飛行場訓練が行なわれるのは1週間に3回程度である[172]
金華アクロ訓練
金華山沖の空域を使用する訓練である。ここはブルーインパルス専用の訓練空域で[199]、同じ第4航空団に所属する第21飛行隊が使用することはない[198]。しかし、この空域では夏に海霧が発生しやすいため[199]、2000年(平成12年)の事故以降、あらかじめ天候偵察用の機体を使用して気象状況などの安全を確認したうえで[196]、訓練機を飛ばすようにしている[196]。また、新課目の開発についてもこの空域が使用される[198]

歴代運用機

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F-86F(1960年→1981年)

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浜松広報館に保存されているF-86F(02-7966)

初代機体F-86Fは、航空自衛隊創設に当たり、アメリカから供与された当時の主力戦闘機である[23]。使用機体は全機改修にて取得されており、ブルーインパルス向けとして新造された機体は存在しない。原則として浜松基地に配備されていた機体の中から以下の条件がそろった機体を選び出し改修していた。

主な改修点は、後部胴体にある燃料タンクのスモークオイル(発煙油)タンクへの転用[202]、スモーク発生装置のエンジンノズル後方への設置で、一部の計器の配置変更や置き換えも行われている[注釈 12]。スモークオイルのタンク容量は105ガロンで、約50分の連続発煙が可能であった[202]

しかし、この改造に伴い、本来は飛行に使用する燃料の搭載量が少なくなった。ドロップタンク(増槽)を装備しない場合のF-86F許容G(重力加速度)は7.0Gであるのに対し[201]、ドロップタンクを装備した場合はドロップタンク内の燃料が空でも許容Gは5.5G[201]、燃料満載時には許容Gは5.0Gで[201]、演目によっては許容Gに余裕がなくなる。このため、当初はドロップタンクを外した「クリーン形態」で展示飛行や訓練を行なっていた[30]。しかし、展示飛行の課目の増加に伴って燃料タンクの容量不足が問題化[189]、1966年(昭和41年)頃からは安全上の見地からドロップタンクを常時装着することとなった[201]

機体の塗装は、当初は通常塗装(無塗装)機が使用されていた[30] が、第1航空団の部内で募集されたデザイン案の中から、1961年(昭和36年)に金属の地肌に青とピンクとライトブルーの斜めストライプを配した専用デザインが施された[203][注釈 13]。なお、編隊長機のみ青の部分を金色としていた[203][注釈 13]。ピンクやライトブルーの部分は褪色が激しく、白色に近い状態となったため、後から追加改修された72-7757号機や92-7872号機はこの部分の色を濃くして対応した[204]。その後、1963年(昭和38年)頃にチーム内で塗装案を検討し[40]、東宝映画『今日もわれ大空にあり』への撮影協力をきっかけに、東宝デザイナーが協力することになった[38]。1963年10月には92-7872号機が試験塗装を施され[205]、これを手直しして1963年11月に正式に新塗装が決定した[40][注釈 2]

所属期間は機体によってまちまちで、1年程度しか使用されなかった機体もあれば、解散までのほぼ全期間を通じて使用された機体もある。使用された計34機の内、1981年(昭和56年)の最終飛行時まで在籍していたのは9機、ブルーインパルス所属のまま事故で失われたのは4機[206]。後者の内1機はブルーインパルスとは関係のない学生訓練中に発生した空中接触事故で失われている[206]。この34機の中には米軍からの供与機も含まれており、それらの機体は用途廃止後に米軍に返還されている[206]。一部は無人標的機QF-86Fに改造され、空中標的として使用された[207]。最後まで使用された機体の1機である02-7960号機は用途廃止後もしばらく動態保存状態に置かれ、1985年(昭和60年)11月16日の浜松基地航空祭にてタキシングを披露したが、半年後ブレーキ系統に不具合が生じたため地上展示専用となった[208]

T-2(1982年→1995年)

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T-2(29-5176)
離陸時に炎を曳く「トーチング」

2代目機体T-2は、国産初の超音速高等練習機である[209]。パイロットからはF-4EJをブルーインパルス用として推す意見もあった[70] が、大型過ぎることや燃料消費量が大きいことから実現に至っていない[70]。最終的には国産機であることや、練習機であるため操縦性や安定性に優れているという理由でT-2導入が決定した[70]

しかし、T-2は翼面荷重が大きい超音速機であり、旋回半径も大きかった[70]。エンジン推力が比較的小さいこともあり[74]、高機動を行うと速度低下が著しかった[74]。このため、課目間のつなぎのための旋回(プロシージャーターン)がF-86F時代に比べて大きくなり、演技に間延びした感が出てしまうことは避けられなかった[74]。この間延び対策のために、F-86F時代の標準だった5機編隊にソロを一機加えた6機編隊に変更された[74]

ブルーインパルスで運用された機体は、後期型6機がブルーインパルス用として新造された[70] ほか、前期型から2機がブルーインパルス仕様に改修されている[70]。1983年(昭和58年)と1986年(昭和61年)に補充のために後期型から1機ずつがブルーインパルス仕様に改修された[210]

ブルーインパルス仕様の改修点は、アクロバット飛行用に胴体内の第7燃料タンクをスモークオイル用に転用したスモーク発生装置[211] が主なものである[注釈 14]。離陸時にスモークオイルを噴出しないでアフターバーナーを使用するとスモーク発生装置のノズルが溶解してしまう[212] ため、離陸推力とアフターバーナーの併用時にはスモークオイルを流すようにしていた[212][注釈 15]。これによってスモークオイルが高温の排気によって燃焼し、長い炎を曳くことになった[212] が、偶然の産物であった[89] ものの観客には強い印象を与えることになった[74]。これは「トーチング」と呼ばれ、世界のどのアクロバット飛行チームにもないT-2ブルーインパルスだけの特徴となった[89]

機体の塗装は、T-2では一般公募が行われた結果、2,055点の応募の中から、女子高生4人のグループによるデザインが最優秀賞となり[30]、このデザインに機首部分と主翼下面を中心とした大幅な修正が行われた上で実機に塗装された[30]。 1987年以降は尾翼にポジションナンバーを記すようになり[41]、T-2を母体として開発されたF-1支援戦闘機からのフィードバックとしてバードストライク対策がなされた一体型風防への交換も行われた[41]

戦技研究班解散後には学生教育にも使用されたが、前述のように燃料タンクの一部をスモークオイル用に転用しているために400リットルほど燃料搭載量が少ない[211] ため、胴体下にはドロップタンク(増槽)が装備された[89]。その後IRAN(定期修理)で通常のT-2とほぼ同じ仕様に改修され、単にブルーインパルス塗装のT-2となった。現在、全機退役。

T-4(1996年以降)

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T-4(46-5731/46-5728) T-4(46-5731/46-5728)
T-4(46-5731/46-5728)

3代目機体T-4は、その機体形状から「ドルフィン」の愛称もある[176] 国産の中等練習機である[213]。翼面荷重が260キログラムと小さく[214]、エンジン推力に対する重量比もF-86FやT-2と比較すると大きく[214]、低空での性能はF-15をも凌ぐ[215]。このため、「360°ループ」のような高Gの連続課目や「バーティカルキューバンエイト」のような垂直系の高負荷課目が余裕を持ってできるようになった。

ブルーインパルスが運用する機体は戦技研究仕様機と称し、以下の点が通常仕様と異なっている。

発煙装置
胴体後方の第3燃料タンクをスモークオイル専用のタンクに転用している[213]。発煙油の搭載量は約320リットル(85ガロン)で[216]、通常の展示飛行1回で使用する発煙油は200リットル程度である[213]。背面飛行などで機体の姿勢に変化があっても供給が途切れないように、発煙油のポンプはタンク内の上下2箇所に設けている[216]。また、これに関連して、操縦席には発煙油の残量計・発煙油ポンプのスイッチ・スモークのON/OFFのトリガーが増設されている[213]
方向舵(ラダー)
通常仕様のT-4では、速度が240ノット以上になると垂直尾翼の過荷重防止策として、方向舵の作動角が5度に制限されるラダー・リミッターが装備されている[217] が、戦技研究仕様機ではアクロバット飛行時の機動性を高めるため、作動角の制限を10度に拡大している[213]
バードストライク対策
低い高度を高速で飛行する機会が多いため、通常仕様では風防(キャノピー)は厚さ11ミリメートルのストレッチアクリル製である[218] が、戦技研究仕様機ではアクリルとポリカーボネートの4層構造として、厚さも25.4ミリメートルとなっている[218]。これは、450ノットの速度で重量4ポンド(約1.8キログラム)の鳥とぶつかった場合にも損傷を防げる強度である[219]。また、ヘッドアップディスプレイ (HUD) の表示板をガラス製から樹脂製に変更し[219]、破損時の危険性を低下させている[217] ほか、操縦ケーブルが格納されている主翼前縁部にも防護構造を施している[219]
低高度警報装置
降着装置フラップが共に収納されている場合に、設定した高度以下になると警報を促す装置を装備している[217]

こうした変更により、通常仕様のT-4とは大きく仕様が異なる。このため、F-86FやT-2と違い、原則として通常のT-4で訓練することができなくなった[217][注釈 16]。2010年までに導入されたT-4戦技研究仕様機は、11機全機が新造機として取得され[210][注釈 17]、のちに10機が東日本大震災で被災した26-5804と寿命を迎えた機体の置き換えとして既存の通常仕様機からの中途改修で配備された。製造当初から戦技研究仕様機であった機体は、2020年3月末頃の46-5731の用途廃止をもって全機が退役している。また、通常仕様のT-4も1機程度運用しており、洋上の訓練空域の天候偵察など戦技研究仕様機を必要としない任務で使用されている。

機体の塗装は、T-2と同様に一般公募が行われ、応募された2,135点の中から、斎藤茂太の息子でモデラーやF-4のファンとして知られる精神科医の斎藤章二によるものが採用された[103]

なお、T-4導入後の1995年(平成7年)8月には、T-4の後継機としてF-2支援戦闘機の導入が俎上に上っており[220]1996年度(平成8年度)の防衛予算案でブルーインパルス仕様として9機のF-2が計上された[220] が、認められなかった[220]

02-7960号機
59-5111号機

保存機

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F-86F
02-7960号機と02-7966号機が浜松広報館に保存されている[206]。また、ブルーインパルスに所属した履歴のある12-7995号機が浜松基地北門前にモニュメントとして保存されているが、記入されているシリアルナンバーは既にスクラップとなっている92-7929号機のものである[206]。河口湖自動車博物館にも個人収蔵のブルーインパルス塗装02-7960号機が展示されているが、前記の通り本物の02-7960号機は浜松広報館に館内展示されており、河口湖自動車博物館の機体の本来のシリアルナンバーは02-7962である[注釈 18]
T-2
浜松広報館に59-5111号機[210]宮城県東松島市旧桃生郡矢本町)JR仙石線鹿妻駅前に69-5128号機[210]石川県立航空プラザに99-5163号機[210]岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に19-5173号機[210]百里基地に29-5175号機[210]青森県立三沢航空科学館に29-5177号機がそれぞれ展示されている[210] ほか、松島基地に29-5176号機が保存されている[210]
T-4
2023年2月時点で、川崎重工岐阜工場総合ビルの1階に46-5726号機、浜松広報館に66-5745号機、あいち航空ミュージアムに26-5805号機が展示されている。さらに、2024年度末には熊谷基地に46-5729号機が展示予定である。

展示飛行

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開催場所

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国立競技場のファイナルイベント、「SAYONARA国立競技場FINAL "FOR THE FUTURE"」での展示飛行(2014年5月31日)

展示飛行が行われるのは、各地の航空自衛隊の基地で行われる「航空祭」が主である[221] が、国民的な行事への参加などもみられる[222]。また、2010年(平成22年)ごろには、海上自衛隊や陸上自衛隊など、航空自衛隊の基地以外でのイベントへの参加もみられるようになっている[222]

2013小松基地航空祭前日予行

ただし、民間航空と滑走路を共用している基地の場合、ブルーインパルスが展示飛行を行なっている間は一切の離着陸ができなくなる[221] ため、展示飛行がみられない[221] こともある。こうした基地で展示飛行が行われる場合、開催日のかなり前から民間航空会社へ協力を要請しており[223]ノータム(NOTAM)と呼ばれる航空情報にもその旨運航関係部署に配信される[223]。開催当日、民間航空会社側では配信された情報によって、出発地の離陸時間を調整したり[224]、空港手前の旋回待機を行ったりしている[225]

また、飛行場以外の場所や、滑走路が短くT-4の離着陸が出来ない基地での展示飛行では、別の基地に展開を行ない、そこを拠点にして展示会場まで飛ぶ方法がとられており[222]、これを「リモートショー」[222] や「リモート展示」[226] と称している。

気象条件

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ブルーインパルスの展示飛行内容は、気象状態や使用可能な空域などによって決められる[227]

アクロバット飛行の展示飛行は、視程(目視できる距離)が8キロメートル以上で行なわれ[227]雲底の高さ(シーリング)によって以下のように区分されている[227]

第1区分
シーリングが10,000フィート以上
第2区分
シーリングが7,000フィート以上
第3区分
シーリングが5,000フィート以上
第4区分
シーリングが3,000フィート以上

この区分は、そのときの天候に応じた可能な限り高い区分での展示飛行を行なっている[227] ため、展示飛行中であっても天候の変化によって変更されることがある[227]

空域に制限がある場合や飛行場以外の会場で行われる展示飛行では、視程が5キロメートル以上確保でき、シーリングが3000フィート以上ある場合に[228]「編隊連携機動飛行」と呼ばれる展示飛行が実施される[227]。バンク角が90度を超えないような水平系の演目や、航過飛行(フライバイ)などを組み合わせた内容となる[222]

また、視程が5キロメートル以上確保でき、シーリングが1500フィート以上ある場合は、航過飛行(フライバイ)が実施される[227]。それ以下の気象条件では、ブルーインパルスの展示飛行は原則として行われない[228]

各機の役割

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通常、展示飛行は予備機を含めた7機で展開を行う[229]。予備機を除いた6機の役割は以下の通りである。

1番機(編隊長、Leader)[187]
編隊の先頭を飛行する編隊長機で、編隊の隊形の基準になるため、正確な操縦が要求される[230] が、僚機の追従が難しいような操縦は出来ないため、慎重な飛行が求められる[230]。すべてのメンバーを統率し[230]、高度や安全の責任をすべて負う役割で[230]、TAC部隊でも飛行班長クラスのベテランが担当する[230]
2番機(左翼機、Left Wing)[187]
隊形変換の際に移動の速さの基準となる役割を持つため、課目の見栄えを左右する[230]
3番機(右翼機、Right Wing)[187]
チーム内で最も若いパイロットが担当する[230]。2番機の動作に合わせて隊形の対称性を確保する役割がある[230]
4番機(後尾機、Slot)[187]
後方から隊形をチェックする役割[230]。1番機の後方に入り込むため、垂直尾翼に1番機のジェット排気が当たる状態となり[181]、縦系統に動く課目ではうまく舵が合わないとキャノピーがジェット排気の中に入り込んでしまう[231][注釈 19]ため、「地獄の後尾機」とも称される[181]、編隊で最も過酷なポジション[181]
5番機(第1単独機、Lead Solo)[187]
1機のみで行う「ソロ課目」や、6番機とともに行う「デュアル・ソロ課目」を受け持つ[230]。第2編隊長機としての役割もあり[222]、1番機にトラブルが生じた場合は残りの機体を統率する[222]。デルタ隊形の場合は4番機の左側に入る[230]
6番機(第2単独機、Opposing Solo)[187]
1機のみで行う「ソロ課目」や、5番機とともに行う「デュアル・ソロ課目」を受け持つ[222] ほか、5機での課目では1番機が率いる編隊と合流する[222]。デルタ隊形の場合は4番機の右側に入る[222]

スモーク

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スモーク

展示飛行で使用されるスモークは、スモークオイルをエンジン排気で加熱して気化させ、そのまま大気中で冷却することで凝結し白い煙のように見せている[172]。スモークオイルは曲技飛行の分野で主流の切削油を使用している[注釈 20]

スモークオイルをエンジン排気口の後部に噴射するため機体後部に噴射装置を搭載し、スモークオイル用のタンクも確保されている。また操縦席にはスモーク用のスイッチも設置されている。

スモークは課目に応じて発生させるタイミングが決まっており[172]、1番機や5番機からの指示によってスモークを発生させたり停止したりしている[172]。ただし、1機のみで行う「ソロ課目」においては、パイロットの判断により使用する[172]

1998年まで使用されていたカラースモークは、切削油に専用の染料を混ぜることによって発生させていた[232]。カラースモークを使用しなくなった理由としては、以下の理由が挙げられている。

  • 染料を混合した切削油は十分に攪拌しておく必要がある[注釈 21]ため、展示飛行直前の給油(実機への搭載)が前提となり、手間がかかる[172]
  • 機体に染料の飛沫が付着した場合、除去作業の手間がかかる[172]
  • 染料の沈殿を防ぐため、展示飛行ごとに切削油の抜き取り作業が必要になる[118]
  • 染料そのものの購入コストがかかる[172]
  • 1998年の防府市と千歳市での展示飛行で、「車に色がついた」との苦情が寄せられ、調査の結果カラースモークが原因と判明した[233]

カラースモークの色はポジションによって決まっており、1番機と5番機が白(ホワイト)、2番機が青(ブルー)、3番機が赤(レッド)、4番機が黄(イエロー)、6番機が緑(グリーン)を使用していた[234]

同時期には各国の曲技飛行隊でも同様の問題を理由にカラースモークの使用が禁止されていったが、攪拌しやすく地上物への影響を抑えた染料の登場もあり、パトルイユ・ド・フランスフレッチェ・トリコローリレッドアローズなどは都市上空でもカラースモークを使用するようになった。ブルーインパルスでも2020年の東京オリンピック開会式で再び五輪マークを描く構想が空自内で持ち上がったことでカラースモーク再開への気運が高まり、航空開発実験集団がフランスなど海外の展示飛行で使用している染料を取り寄せて、車や洗濯物などの地上物への影響や、機体との適合性など、日本で使えるかどうかの検証を行い[233]、2019年中に実機試験を実施した上で翌年3月20日に松島基地で行われた東京オリンピック聖火到着式において、カラースモークを使用した展示を行った。

東京パラリンピックでは、2021年8月24日、展示飛行の予備機が入間基地への着陸直前の135 mから30 mの高度からスモークを使い切る目的で不適切な噴射を行い、近隣の自動車約1200台にカラースモークの粒子が付着する被害が発生した[235][236]。塗料は水や洗剤では落とせないため再塗装が必要となり[235]、航空自衛隊では賠償の手続きを進めている[237][236]。この件に関し、航空自衛隊は2022年2月に調査結果及び対策等について発表し、事案に至った経緯としてカラースモーク使用制限高度を1,000フィートとして五輪大会等に限定として使用するものとしていて高度1,000フィート以上での使用前提で規定化せず、更に大会1年延期により空自内の人事異動などで、使用基準の認識が希薄化し[238]、当日の予備機が入間基地に着陸する前にカラースモークを使い、住民らに楽しんでもらう計画を実行してしまったとし[239]、さらに、航空幕僚監部でカラースモークの所掌業務が不明確で、過去の同種事案の原因、教育、注意喚起も実施されていなかったとし、再発防止策の柱として、カラースモークの使用基準、白スモークを含むスモーク使用要領を規定し、航空幕僚監部内と航空幕僚監部、航空教育集団司令部及び隷下部隊間における業務フローを見直しとチェック機能を強化し、スモーク使用の意識醸成や教育による風化防止も実施するとした[240]。同年9月に当時の部隊指揮官の1等空佐を減給15分の1(1カ月)、計画を立案した当時の編隊長の2等空佐を戒告とするなどの処分を発表した[236]

塗装デザイン

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ブルーインパルス専用機には、特別塗装が施されており、F-86FからT-4まで、4度の変遷を経ている。

F-86F 初代塗装

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1960.101963.8

チーム誕生当初は第1航空団の他の機体と同じ無塗装にのチェッカーテールだけであったが、次第に曲技飛行の出番が増え、チームの目印がないということで、1960年(昭和35年)10月から部内でデザインアイデアを募集した[241]。その結果、初代塗装デザインが決定した。それはジュラルミンむき出しの無塗装に黄と黒のチェッカーテールは変わらなかったが、リーダー機の機首部分はゴールドピンク主翼や機体後部にかけてはゴールドライトブルー英語版に彩られ、ウイング機はリーダー機のゴールドの部分がダークブルーとなっていた。主翼の先端には蛍光オレンジのテープが貼りつけられた[241]。しかし、このデザインでは上面と下面が分かりづらく、アクロバット飛行中の姿勢がすぐに判断できないということで、わずか22か月の使用に終わった[241]

F-86F 新塗装

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1963.111981.2

部内で塗装デザイン変更の機運が高まりつつあった頃、ブルーインパルスと第1航空団は映画「今日もわれ大空にあり」の撮影に協力することとなった [241]東宝映画のデザイナーの協力のもと、白を基調にした機体にブルーのストライプを入れ、下面はヴァーミリオンのラインが特徴的なデザインとなった。また主翼も上面はブルーを、下面は無塗装にヴァーミリオンと対照的なデザインであった[241]。なお、92-7872号機は試案機として試案デザインが塗られた。この機体はその後もソロ機として展示飛行を行ったが、新塗装に塗り替えられた[241]。ドロップタンクはオレンジ色に塗装され、翼端側の前方寄りに白色の筆記体で『Blue Impulse』の文字が入っていた。この塗装デザインはF-86Fブルーインパルスが引退する1981年2月までの18年間使用された。

T-2 塗装

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1982.71995.12

F-86FからT-2へ機種変更することになったブルーインパルスは新たな塗装デザインを一般公募することとなった。これは世界的に見てもあまりなく、前代のデザインを踏襲するのが一般的である(例えば、アメリカのサンダーバーズは機種変更の際デザインを踏襲している)。そして、選ばれたのは意外にも4人の女子高生のデザイン案であった。それはF-86F時代の面影を全く感じさせないもので[241]、フタロシニアンブルー(ダークブルー)を基調にした機体にライトブルーと白のラインが配されたものとなった。この塗装をブルーインパルスのT-2全機に施し、1982年7月25日の松島基地航空祭にて一般公開された。ドロップタンクは演技時に下ろしているが、オレンジ色に塗装され翼端側の中央寄りに白色の筆記体で『Blue Impulse』の文字が入る専用塗装のものが用意されており、フェリー時に使用していた。このデザインはF-86F時代のファンには不評だったようであったが、女子高生の案が採用されたことでファンの層が広いことを示す出来事であった[241]。ただし、デザインした女子高生たちの名誉のために補筆すると、実際に施された塗装は女子高生たちのオリジナルデザインとは機首周りの色のバランスがまったく異なっていて、専門家の助言を得て変更されたものであった。変更したのが誰で何の専門であったのか不詳であるが、オリジナルの良さは失われてしまっている。この塗装は1996年(平成8年)12月に引退するまでの14年あまり使用された。

T-4 塗装

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富士山上空のブルーインパルス

1995.12

1992年(平成4年)11月、T-4ブルーインパルスの塗装デザイン案がT-2の時と同様に一般公募された。選ばれたのは精神科医でもあり、ブルーインパルスの熱狂的なファンでもあった斉藤章二氏のデザイン案であった。幼少のころに強い印象に残ったF-86Fブルーインパルスのデザインを意識した作品であるという[241]。そのデザインは、上面はF-86F同様白でまとめられているが、下面はヴァーミリオンではなくブルーになっている。主翼や水平尾翼も上面は白、下面はブルーで統一されている。尾翼は全面ブルー、そこにポジションの数字が入れられている。ドロップタンクの塗装は機体と同じく上面が白、下面がブルーの2色となった。この塗装デザインは2021年現在も使用されている。

課目

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F-86時代の主な課目

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フォーメーション・テイクオフ
1番機から4番機までがフィンガーチップ隊形で離陸[242]、離陸直後に4番機は1番機の後に移動[243]。5秒後に5番機が離陸[243]。滑走路の幅が広い浜松基地では1番機から5番機までがデルタ隊形で離陸することがあった[242]。また、初期の頃は、5機がデルタ体型で離陸した後に5番機が急上昇し低速横転することもあったが1965年の墜落事故以降は行われなくなった。
ハイスピード・ローパス
5番機が速度500ノット、高度35フィートで観客席の上空を通過[243]。その後誘導路や滑走路の上空通過に変更された[61]
クローバーリーフ・ターン
1番機から4番機がダイヤモンド隊形で会場右側から進入[244]。クローバーの葉を描くように旋回して正面から後方に離脱[245]
バーティカル・ロール
会場左側から高度50フィートで5番機が進入[245]。会場正面で垂直になるように引き起こし[245]、そのままロールしながら13,000フィートまで急上昇[245]
垂直360度ターン
1番機から4番機がダイヤモンド隊形で会場右側から進入[245]、360度旋回を行う。
インバーテッド・フライト
5番機が会場右側から進入し、背面飛行で会場の前を通過する[246]
ダイヤモンド・ロール
1番機から4番機がダイヤモンド隊形で会場左側から進入[247]、隊形を維持したまま右ロール[247]
4ポイント・ロール
5番機が会場左側から進入し[248]、90度ずつ4回ロールを行う[249]
トレイル・トゥ・ダイヤモンド・ロール
1番機から4番機がトレール隊形で会場正面から進入[250]、右ロールをしながらダイヤモンド隊形に移行する[251]
キューバン・エイト
5番機が会場右側から進入し、会場正面を通過した後にループ(宙返り)を行ない[252]、225度ループした後2.5回転の右ロール[252]。同じことをもう一度繰り返し、スモークが8の字になる[252]
バーティカル・エイト
「キューバン・エイト」の代わりに行なわれる課目で[253]、気象状況が良くないと実施されなかった[253]。速度500ノットで進入、会場正面で引き起こしてループの頂点で半回転ロール[253]。さらに引き起こしてより小さい半径でループで1回転[253]、半回転ロールして最初に引き落とした場所に戻る[253]
ダブル・マニューバー
1番機から4番機がトレール隊形で会場左前方から進入[254]。1回目のループの間にダイヤモンド隊形に移行[255]、2回目のループの途中で機体が真下向きに近くなったらに半回転ロール[255]、飛行方向が変わって左側に抜ける[255]
ファイブ・シップ・ループ
1番機から5番機がデルタ隊形で会場正面から進入[255]、隊形を維持したままループ[255]
コンティニュアス・ロール
5番機がバレルロールを連続する[256]。初期に行なわれていた課目。
インバーデッド・フライト
「コンティニュアス・ロール」から変更された課目で、5番機が会場右側から進入し、背面飛行で会場の前を通過する[257]
8ポイント・ロール
5番機が会場後方から進入し、45度ずつ8回ロールを行なう。
上向き空中開花
1番機から4番機がダイヤモンド隊形で進入し、その後に5番機が続く[258]。会場正面で急上昇。上昇中に2番機が右に90度、3番機が左に90度、4番機が180度のロールを行い[258]、約5,000フィートの高さで4機が4方向に分かれる[258]。後に続く5番機はスモークの中から4機が分かれたところをさらに上昇し、垂直な姿勢のままで連続ロールを行う[258]。一方、1番機から4番機まではスプリットSと呼ばれる機動で降下し、会場正面の1点で4機が交差する[258]
クローバーリーフ
5番機が会場右側から進入[259]、右上に旋回しながら上昇し、その後降下旋回でクローバーの葉を描く[259]。これを4回繰り返して、立体的に四つ葉のクローバーを描く[259]
下向き空中開花
1番機から4番機がダイヤモンド隊形で正面から進入し[260]、ループを開始。ループの頂点でスモークを使用開始[261]、ループの途中で下向き垂直の姿勢になったところで4方向に分かれる[261]
ローリング・コンバット・ピッチ
1番機から5番機までが空中集合し、エシュロン隊形で緩降下[261]。1番機から順にロールに入るが、2番機以降は前方機を追うようにロール[262]。そのままトレール隊形に移行[262]、1機ずつ着陸[263]

T-2時代の主な課目

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チェンジ・オーバー・ターン
ローリング・コンバット・ピッチ
ハイアングル・テイクオフ
1番機から3番機までがピッチ角25度で編隊離陸[264]
ノーマル・テイクオフ
残る3機がピッチ角8度で離陸[264]
5シップ・テイクオフ
1番機から4番機と6番機がデルタ隊形でピッチ角25度で編隊離陸。T-2時代初期の課目、1982年11月の事故以降は滑走路幅の広い浜松基地のみ行なわれていた。
ロールオン・テイクオフ
5番機は離陸直後に降着装置とフラップを上げたあとにピッチ角が30度になったところで右に360度ロール。T-2時代初期の課目、1982年11月の事故以降安全に配慮し行なわれなくなった。
スモークオン・テイクオフ
5番機がスモークを出しながら離陸。
デルタ・ロール
6機がデルタ隊形で大きくロール[265]
チェンジ・オーバー・ターン
6機がトレール隊形で会場右側から進入し、会場上空で360度旋回しながらデルタ隊形になり、さらに密集隊形に移行[265]。T-2時代初期は、F-86時代の「垂直360度ターン(ダイヤモンド・ターン)」を継承していたがその曲技を発展させた、できた最初の頃は「トレール・トゥ・デルタ・ターン」というの曲技名であった。
パラレル・インバーテッド
5番機と6番機が背面飛行を行う[265]
トレイル・トゥ・ダイヤモンド・ロール
1番機から4番機までがトレール隊形で進入し、ロールしながらダイヤモンド隊形に移行[265]
オポジング・インバーテッド
5番機と6番機が左右から進入、背面飛行ですれ違う[265]
レベル・オープナー
「水平空中開花」とも呼ばれる[266]。ダイヤモンド隊形後方に5番機をつけて来る形で会場正面より進入[266]、まず2番機と3番機が左右に分かれ、次に1番機と4番機が左右に別れ、5番機が直進[266]
オポジング・バーティカル・クライム・ロール
5番機と6番機が左右から進入、すれ違った後に急上昇しながらロール[266]
ダブル・クローバーリーフ・ターン
1番機から4番機までがトレール隊形で進入し[266]、270度旋回しながらダイヤモンド隊形に移行[266]、さらに270度旋回しながらアローヘッド隊形に移行[266]。四つ葉のクローバーの葉のうち2枚をスモークで描くことからこう呼ばれる[266]
オポジング・コンティニュアス・ロール
5番機と6番機が左右から進入、すれ違いながらロールを繰り返す[266]
チェンジオーバー・ループ
1番機から4番機までがトレール隊形で右側から進入し[266]、ループしながらダイヤモンド隊形に移行[266]。T-2時代初期は1番機から4番機がトレール隊形で会場正面から進入、ループの間にダイヤモンド隊形に移行、ループの後半で90度右ロールしながら会場左側に抜ける。
ビッグ・ハート
5番機と6番機が正面から進入、スモークでハートを描く[267]
ラインアブレスト・ループ
1番機から4番機までがアブレスト隊形で進入し[267]、隊形維持したままロールを行う[267]
パラレル4ポイント・ロール
5番機と6番機が左側から進入し、90度ずつ4回ロールを行う[267]
デルタ・ループ
6機がデルタ隊形で進入し、大きくループを行う[267]
キューバン・エイト
5番機が横向きの8の字をスモークで描く[267]
上向き空中開花
4機がダイヤモンド隊形で急上昇、上空で4機が四方に開いた後に[268]、6番機がロールしながら急上昇し、開いたスモークの軌跡の中央を抜ける[268]。その後1番機から4番機は会場正面で1点交差を行う[268]
下向き空中開花
この課目は1982年11月の事故により行なわれなくなった[73]
カリプソ・ブレイク
5番機が背面飛行、6番機がその下に入り、背中合わせで通過する[268]
ローリング・コンバット・ピッチ
1番機から4番機までがエシュロン隊形で進入し、1番機から順にロールしながらトレール隊形に移行し着陸[268]

T-4時代の課目

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課目名 解説 第1区分 第2区分 第3区分 第4区分 機動飛行 航過飛行
ダイヤモンドテイクオフ&ダーティーターン
Diamond Take Off & Dirty Turn
1番機から4番機までがフィンガーチップ隊形で離陸[269]。離陸後4番機は直ちに1番機の後方に移動し、ダイヤモンド隊形となる[269]降着装置(ランディングギア)と高揚力装置(フラップ)は出した状態(ダーティー形態)で[269]、着陸灯も点灯させたまま[270]、270度旋回して会場正面から進入する[269]。会場から着陸灯が輝いて見えるように、毎分500フィート程度の緩降下を行う[271]。なお、横風が10ノット以上で吹いている場合は、5秒間隔で1番機から順に1機ずつ離陸する[269]。使用する滑走路によって演技の向きは異なる[229]    
ローアングル・キューバン
Low Angle Cuban
5番機は離陸直後にピッチ角を低く抑え[272]、降着装置とフラップを上げたあとに240ノットまで加速[272]。滑走路上10数フィートの高さを低空飛行し[272]、滑走路端で急上昇後にループ(宙返り)し1回転半のロールを行い[272]、滑走路上300フィートの高さで水平飛行に移行[272]。後述の「ロールオン・テイクオフ」と同時に行うことがある[273]。使用する滑走路によって演技の向きは異なる[229]    
ロールオン・テイクオフ
Roll On Take Off
6番機は離陸時170ノットになったところでダーティー形態のままピッチ角を高くし[274]、ピッチ角が30度になったところで右に360度ロール[274]。前述の「ローアングル・キューバン」と同時に行うことがある[273]。使用する滑走路によって演技の向きは異なる[229]    
ファン・ブレイク
Fan Break
1番機から4番機までのダイヤモンド隊形で、会場の左側から右側に、60度から70度程度のバンク角で抜けていく[275]。機体同士の最短間隔は約1メートル[275]、これは全課目の中でももっとも密集した隊形である[272]。この課目ではスモークは使用しない[276]  
フォー・ポイント・ロール
4 Point Roll
会場の左側から5番機が進入し[276]、右ロールを90度ずつ4回に区切って繰り返して元に戻る[276]    
チェンジ・オーバー・ターン
Change Over Turn
1番機から4番機と6番機が会場の右からトレール隊形で進入し[277]、1番機の合図により右旋回する[278] と同時にデルタ隊形に移行する[278]。180度旋回したところでは1が110メートル程度のデルタである[277] が、その後徐々に間隔を詰めて[279]、360度旋回することにはデルタの1辺は40メートルほどになっている[279]  
インバーテッド&コンテュニアス・ロール
Inverted & Continuous Roll
5番機が会場の左から進入し、右に180度ロールして背面飛行で滑走路の上空を通過[280]。滑走路の端で左180度ロールで姿勢を戻し[278]、上昇してから右にロールして背面飛行となり[278]、ループした後に会場の右から滑走路に進入して左に3回転のロールを行う[281]    
レイン・フォール
Rain Fall
T-2時代の「下向き空中開花」の代わりに採用された課目[96]。1番機から4番機と6番機が会場の右からデルタ隊形で進入、ループを開始[280]。ループの頂点からスモークを使用開始し[281]、真下を向いたところで2番機と3番機が20度[280]、4番機と6番機が45度外側にブレイク[280]        
サンライズ
Sunrise
ブルーインパルス創設50周年を記念して2010年(平成22年)に追加された課目[282]。1番機から4番機と6番機が会場正面からデルタ隊形で進入し[282]、そのままループに入る[282]。ループの頂点(高度6,000フィート付近)でスモークを使用開始[283]、そのままループで高度500フィートまで降下[283]。その後、まず4番機と6番機が左右に60度方向にブレイク[282]、その後2番機と3番機が左右30度方向・ピッチ角15度でブレイク[282]、1番機はピッチ角20度でブレイク[282]。なお、第3区分と第4区分ではループは行なわずにブレイクする[283]    
バーティカル・クライム・ロール
Vertical Climb Roll
5番機が会場の左から進入し[280]、滑走路上空で垂直に急上昇しながら右ロールで4.25回転[280]。5番機の速度は進入した時点では400ノットである[284] が、最大高度の9,000フィートまで上がる頃には、速度が失速寸前の100ノット程度にまで低下している[284]        
インバーテッド・ロール
Inverted Roll
5番機が会場の左から背面飛行で進入[285]、会場正面で右ロールで2回転し[285]、背面飛行のまま右へ抜ける[285]        
スロー・ロール
Slow Roll
6番機が会場の左から進入し[280]、約10秒をかけてゆっくりと右ロールで1回転する[280]。一見容易だが、エレベーター・エルロン・ラダーの調和が試される[284]、難易度の高い課目とされている[284]    
チェンジ・オーバー・ループ
Change Over Loop
会場後方から1番機から4番機がトレール隊形で進入[286]、滑走路を通過した後にループを行ないながらダイヤモンド隊形に移行する[286]。ループの後半で90度ロールしながら会場右側に抜ける[287]        
ハーフ・スロー・ロール
Half Slow Roll
会場右側から5番機と6番機がアブレスト隊形で進入[288]。隊形を維持したままで右に180度ロールし背面飛行となり[286]、会場正面で左ロールしながら左後方に抜ける[288]        
レター・エイト
Letter 8
会場後方から1番機から4番機がダイヤモンド隊形で進入[289]。会場正面で1番機から3番機は右旋回[283]、4番機のみ最大性能で小さめに左旋回[288]。4番機は360度の旋回後に、1番機から3番機が描いた輪の中をショートカットしてダイヤモンド隊形に戻り[289]、会場から離脱[289]。課目名の由来はスモークの軌跡が8の字に見えることから[288]    
カリプソ
Calypso
F-86F時代の末期から継続されている課目[290]。会場右手から5番機と6番機が進入。5番機が180度ロールし背面飛行となり、6番機が移動して2機が背中合わせになる[289]。第1区分・第2区分でも「ハーフ・スロー・ロール」の代わりに行なわれることがある[289]        
バック・トゥ・バック
Back to Back
2010年にブルーインパルス創設50周年を記念して追加された課目[290]。会場右手から5番機と6番機が進入。5番機が180度ロールし背面飛行となり、6番機が移動して2機が下面合わせになる[289]。第1区分・第2区分でも「ハーフ・スロー・ロール」の代わりに行なわれることがある[289]        
トレール・トゥ・ダイヤモンド・ロール
Trail to Diamond Roll
会場左方から1番機から4番機がトレール隊形で進入[285]。右バレルロールを行ないながらダイヤモンド隊形に移行して会場右側に抜ける[285]        
オポジット・コンティニュアス・ロール
Opposite Continuous Roll
会場右側から5番機、会場左側から6番機が進入[289]。どちらも3回の右ロールを行いながら[289]、会場正面ですれ違う[288]。2機の間隔は約50メートル[291]    
フォー・シップ・インバート
4 Ship Invert
会場右手から1番機から4番機がダイヤモンド隊形で進入[292]。滑走路端でまず1番機と4番機が[293]、その後に2番機と3番機が背面飛行に移行[293]、そのまま密集したダイヤモンド隊形で通過し、会場左側で180度ロールして離脱[293]    
スリー・シップ・インバート
3 Ship Invert
「フォー・シップ・インバート」の代わりに行なわれることがあり[291]、1番機以外の3機が背面飛行となるもの[291]。アメリカ空軍主催の「ゴールデン・エア・タトゥー」においては「ニンジャ・パス」 (Ninja Pass) という名で紹介された[127]    
ダブル・ファーベル
Double Farbel
「フォー・シップ・インバート」の代わりに行なわれることがあり[291]、1番機と4番機だけが背面飛行となるもの[291]    
キューピッド
(バーティカル・キューピッド)
Cupid
(Vertical Cupid)
T-2時代に行なわれていた「ビッグ・ハート」を発展させた課目[294]。5番機と6番機がアブレスト隊形で会場正面から進入し急上昇[292]。ピッチ角が85度になった時点で左右に分かれ[292]、ループしながらハートを描いて左右に離脱[295]。会場左側から4番機が30度ピッチでスモークを描きながら進入[292]。ハートを矢が貫いているように見せるために一度スモークを切っている[292]        
スラント・キューピッド
Slant Cupid
前述の「キューピッド」で、ハートを描く際に斜め旋回するもの[285]          
オリジナル・レベル・キューピッド
Original Level Cupid
前述の「キューピッド」で、ハートを描く際に水平旋回するもの[285]。この課目では4番機は加わらない[285]          
ライン・アブレスト・ロール
Line Abreast Roll
会場右手前方から1番機から3番機がアブレスト隊形で進入[292]。そのままの隊形を維持しながら大きくバレルロールを行う[292]。アブレスト隊形は水平飛行でも隊形維持が難しく[296]、極めて難易度の高い課目とされている[296]        
シングル・クローバーリーフ・ターン
Single Cloverleaf Turn
会場左手から1番機から4番機がトレール隊形で進入[297]。上昇旋回しながらダイヤモンド隊形に移行[297]。会場正面からはさらにアローヘッド隊形に移行し[297]、会場右側へ抜ける[297]        
スリー・シックスティー&ループ
360°& Loop
5番機が会場右側から進入[296]。会場正面で360度の左旋回を行った後、360度ループを行う[298]        
オポジット・トライアングル
Opposite Triangle
6機がデルタ隊形で会場右側から進入[285]、滑走路端で2番機から4番機までが右ロールして背面飛行となり[285]、会場正面までに密集したデルタ隊形となる[285]        
ワイド・トゥ・デルタ・ループ
Wide to Delta Loop
1番機から4番機と6番機が会場の右からデルタ隊形で進入、そのままループに入る[299]。上昇中にデルタの間隔を縮めてゆき[300]、進入時に1辺が230m程度だったデルタの1辺が[299]、ループの頂点では40mにまで縮まっている[300]        
ダブル・ロールバック
Double Rollback
ブルーインパルス創設50周年を記念して2010年に追加された課目[297]。6機がデルタ隊形で会場右側から進入[297]、5番機と6番機が同時に上昇しながら外側にロール[297]、5番機と6番機が編隊に集合する直前に2番機と3番機が同時に上昇しながら外側にロール[297]、スワン隊形となって左後方に離脱[297]        
デルタ・ロール
Delta Roll
6機が密集したデルタ隊形で会場正面から進入[301]、隊形を維持したまま大きくバレルロールを行い[302]、右後方に抜ける。        
デルタ・ループ
Delta Loop
6機が密集したデルタ隊形で会場右側から進入[302]、隊形を維持したまま大きくループを行う[301]        
ボントン・ロール
Bon ton Roll
6機がデルタ隊形で会場左側から進入[234]、6機が一斉に右ロールで1回転する[302]    
サクラ
SAKURA
2004年(平成16年)に航空自衛隊創設50周年を記念して追加された課目[297]。6機が大きなポイントスター隊形で会場右側から進入[297]、リーダーのコールにより一斉に左へ360度旋回する[297]。旋回時には、2番機は200フィート下[297]、3番機は200フィート上[297]、5番機は300フィート下の高度で旋回する[297]      
バーティカル・キューバン・エイト
Vertical Cuban 8
会場右側から5番機が進入[234]。会場正面を過ぎたあたりでインメルマンターンを2回繰り返して上昇[234]。頂点からはスプリットSを2回繰り返して降下[234]、スモークで「8」の文字を描く[303]          
キューバン・エイト
Cuban 8
会場右側から5番機が進入[234]。会場正面を過ぎたあたりで引き起こしてループに入り、225度のループのあたりで1回転半のロールを行い[285]、進入時の角度になったら同じことをもう一度繰り返す[285]          
スター&クロス
Star & Cross
アメリカ空軍主催の「ゴールデン・エア・タトゥー」において、アメリカ人の観客から絶賛された課目[121]。1番機から4番機と6番機が会場後方からデルタ隊形で進入[304]、そのまま上昇。ピッチ角85度に達したところで1番機が後方に[305]、2番機と3番機は左右に70度ずつ[305]、4番機と6番機は左右に145度ずつの角度で5方向に分かれる[305]。各機ともスプリットSの機動で降下し、高度5,000フィート付近で会場に再び進入し[306]、編隊長の合図で右に15度ずつ旋回してスモークを使用開始[304]、各機のスモーク開始点に向けて飛行する[307] ことで、大きな星がスモークで描かれる[307]        
タック・クロスI
Tac Cross I
会場正面から5番機と6番機が進入、会場から見て右側が5番機、左側が6番機[305]。2機が同時に背面飛行になった[306] あと、5番機が右ロール、6番機が左ロールした後に互いに交差[305]。5番機が左側へ、6番機が右側へそれぞれ上昇しながら2回転半ロールした後にスプリットSの機動で降下[306]。滑走路上で背面飛行となり、そのまま2機がすれ違う[308]      
タック・クロスII
Tac Cross II
前述の「タック・クロスI」で、5番機と6番機が交差した後に上昇せずに斜め旋回するもの[307]          
ローリング・コンバット・ピッチ
Rolling Combat Pitch
F-86F・T-2時代から継続されている課目[309]。1番機から4番機までが会場左側からエシュロン隊形で進入[310]、緩やかに上昇した後に、1番機から順に250度の右ロールを行う[307]。ここで編隊は解散となり、各機は180度左旋回[311]、その後着陸態勢に入るためにトレール隊形へ移行する[308]    
コーク・スクリュー
Cork Screw
5番機と6番機が正面右方向からアブレスト隊形で進入[311]。5番機が背面飛行になった後、6番機が5番機を中心として3回のバレルロールを行い[310]、スモークでコルクの栓抜き (Cork Screw) のような軌跡が描かれる[312]。その後着陸態勢に入る[307]    
ナイフ・エッジ
Knife Edge
会場左手から5番機が進入、右に90度のバンク角をとったままで右側に抜ける[313]。この間は胴体の揚力のみで飛行している[313]          
デルタ・スリー・シックスティ・ターン
Delta 360°Turn
編隊機動連携飛行でのみ実施[314]。1番機から4番機と6番機が会場右側からデルタ隊形で進入し[313]、隊形を維持したまま360度旋回を行う[313]          
セブン・トゥエンティ・ターン
720°Turn
編隊機動連携飛行でのみ実施[314]。会場正面から進入した5番機が、まず右に360度旋回[313]、その後左に360度旋回する[313]          
レベル・オープナー
Level Opener
編隊機動連携飛行でのみ実施[314]。1番機から4番機と6番機が会場正面からデルタ隊形で進入し[313]、4番機と6番機が外側に60度、2番機と3番機が45度で4秒間旋回してブレイク[313]          
デルタ・ダーティー・ローパス
Delta Dirty Low-pass
デルタ隊形で会場上空を通過。編隊機動連携飛行と航過飛行(フライバイ)でのみ実施[314]        
リーダーズ・ベネフィット・ローパス
Leader's benefit Low-pass
リーダーズ・ベネフィット隊形で会場上空を通過。編隊機動連携飛行と航過飛行(フライバイ)でのみ実施[314]        
ポイント・スター・ローパス
Point star Low-pass
ポイント・スター隊形で会場上空を通過。編隊機動連携飛行と航過飛行(フライバイ)でのみ実施[314]        
スワン・ローパス
Swan Low-pass
スワン隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)でのみ実施[314]          
グランドクロス・ローパス
Grand Cross Low-pass
グランドクロス隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)でのみ実施[314]          
エシュロン・ローパス
Echelon Low-pass
エシュロン隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)でのみ実施[314]          
ピラミッド・ローパス
Pyramid Low-pass
ピラミッド隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)でのみ実施[314]          
ツリー・ローパス
Tree Low-pass
ツリー隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)でのみ実施[314]          
トレール・ローパス
Trail Low-pass
トレール隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)でのみ実施[314]          
クリスマスツリー・ローパス
Christmas tree Low-pass
クリスマスツリー隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)で実施するほか、期間限定で正規科目終了後、着陸前に実施[注釈 22]          

データ

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年表

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F-86F時代

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T-2時代

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  • 1982年(昭和57年)
  • 1983年(昭和58年)
  • 1984年(昭和59年)
    • 7月29日 - 松島基地航空祭で曲技飛行を含む展示飛行を5機で再開する[73]
  • 1990年平成2年)
  • 1991年(平成3年)
    • 6月 - 次期(三代目)ブルーインパルス使用機材にT-4を選定[96]
    • 7月4日 - 金華山沖での飛行訓練中に2機が墜落、パイロット2名が殉職[90]。この年の展示飛行を中止する[73]
  • 1992年(平成4年)
    • 8月23日 - 松島基地航空祭で水平区分系のみで展示飛行を4機で再開する[98]
    • 10月 - 第21飛行隊内に「T-4準備班」発足[99]
  • 1993年(平成5年)
    • 8月 - 展示飛行にソロ1機を追加、5機体制で展示飛行を行う[98]
  • 1994年(平成6年)
    • 8月7日 - 千歳基地航空祭より6機体制になる[98]
    • 8月10日 - 米空軍アクロバットチーム「サンダーバーズ」と三沢基地航空祭で競演[95]
    • 8月11日 - 第4航空団にT-4アクロ(T-4ブルーインパルス)仕様1号機(46-5720)納入[99]
    • 8月21日 - 松島基地航空祭で「T-4ブルーインパルス」機、一般に初披露される[319]
    • 10月1日 - 第4航空団第21飛行隊内「T-4準備班」を昇格させる形で「臨時第11飛行隊」に新編[10]
    • 10月1日 - 百里基地で『航空自衛隊創設40周年記念行事』を兼ねた「1994年航空訓練展示」でT-4ブルー機展示、1機(726号機)地上展示、2機(720号機・725号機)が、展示飛行を行う[10]
  • 1995年(平成7年)
    • 7月30日 - 松島基地で開催された「航空祭」で「T-4ブルーインパルス」がお披露目され、T-2・T-4両ブルーインパルスの共演が行われる[10]
    • 11月12日 - 百里基地で開催された「1995年航空訓練展示」でも「T-4ブルーインパルス」がお披露目され、再びT-2・T-4両ブルーインパルスの共演が行われる[10]
    • 11月26日 - 宮崎県新田原基地航空祭で「T-2ブルーインパルス」最後の第1区分公式展示飛行(フル演技)を行う。
    • 12月3日 - 浜松基地で『T-2ブルーインパルス最終展示飛行』を行う[320]
    • 12月8日 - 松島基地上空で「T-2ブルーインパルス」最後の訓練飛行(最終アクロ訓練)を行う。
    • 12月22日 - 第21飛行隊戦技研究班(T-2ブルーインパルス)解散、第11飛行隊(T-4ブルーインパルス)新編[73]

T-4時代

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ラグビーワールドカップ2019 日本vsロシア(2019年9月20日撮影)
新型コロナウィルスへの対応で医師や看護師ら医療関係者に感謝の気持ちを示すため、白いスモークを出しながら東京都心を飛行(2020年5月29日撮影)

使用機の一覧

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使用機のうちF-86Fはすべての機体が用途廃止までブルーインパルスで使用されていたわけではない。

なお、F-86F・T-2時代は通常の機体からの改修点が少なかったことから、訓練飛行時に本番に向けた整備やローテーションの関係で機数が不足した場合は通常の機体を借用していたことがあった[335]

T-4は経年老朽化の為、2012年(平成24年)度より「戦技研究仕様機化改修」をスタートさせ、2020年までに10機が改修され、うち9機は小牧基地でモスボール保管されていた機体を改修し、1機は第303飛行隊に配備されていた機体を改修した。これにより第11飛行隊発足以降、戦技研究仕様機として製造された機体は全て退役した。

F-86F
シリアル番号[206] 通常塗装[206] 旧塗装[206] 試験塗装 新塗装[206] 用途廃止年月[210] 備考
62-7493       1978年10月 用途廃止後に米軍に返却[206]
62-7501       1981年4月 最後にブルーインパルス仕様に改修された機体[206]
62-7512       1979年8月 1964年東京オリンピック開会式でも飛行した
72-7709       1981年3月  
72-7711       1979年10月  
72-7757  ○   1969年5月11日 第6飛行隊で運用中に墜落[206]
72-7772       1977年6月 1964年東京オリンピック開会式、1970年大阪万博でも飛行した
72-7773       1972年11月4日 入間基地から離陸後墜落[206] 1970年大阪万博でも飛行した
82-7809       1980年3月  
82-7812       1980年1月 用途廃止後に米軍に返却[206]
82-7821       1980年10月 スモーク発生装置初搭載機[336]
82-7832       1979年11月 1970年大阪万博でも飛行した
82-7834       1980年2月  
82-7847   1981年3月 一時期を除いて全期間ブルーインパルスで使用[210] 1964年東京オリンピック開会式、1970年大阪万博でも飛行した
92-7872   [40] 1980年8月 1964年東京オリンピック開会式でも飛行した
92-7873       1981年4月  
92-7894       1981年12月  
92-7901  ○     1976年3月25日 第10飛行隊で運用中に墜落[206] 1964年東京オリンピック開会式で飛行した可能性がある
92-7913       1976年12月  
92-7915     1977年6月  
92-7927       1981年3月 1970年大阪万博でも飛行した
92-7929       1977年10月 1970年大阪万博でも飛行した
92-7931       1981年3月 1970年大阪万博でも飛行した
92-7937   1978年2月16日 旧塗装は隊長機[206]・第1飛行隊で運用中に墜落[206]
92-7939   1976年6月  
02-7943       1961年7月4日 学生訓練中に墜落[206]
02-7948   1978年3月  
02-7960       1981年6月 浜松広報館に展示[206] 1970年大阪万博でも飛行した
02-7962       1980年8月 02-7960の塗装で河口湖自動車博物館に展示 

1970年大阪万博でも飛行した

02-7966       1981年6月 浜松広報館に展示[206]
02-7975       1965年11月24日 アクロバット飛行訓練中に墜落[206] 1964年東京オリンピック開会式でも飛行した
02-7976       1961年7月21日 アクロバット飛行訓練中に墜落[206]
12-7993       1980年3月  
12-7995       1980年8月 92-7929の塗装で浜松基地に保存[206]
T-2
シリアル番号[210] 区分[210] 新造/改修[210] 備考
59-5111 前期型 改修 退役後は浜松広報館に保存[210]
59-5112 前期型 改修 1991年7月4日、訓練中に墜落[206]
69-5128 後期型 改修(補充用) 退役後は仙石線鹿妻駅前に保存[210]
99-5163 後期型 改修(補充用) 退役後は石川県立航空プラザに保存[210]
19-5172 後期型 新造 1991年7月4日、訓練中に墜落[206]
19-5173 後期型 新造 退役後は岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に保存[210]
19-5174 後期型 新造 1982年11月14日、展示飛行中に墜落[206]
29-5175 後期型 新造 退役後は百里基地に保存[210]
29-5176 後期型 新造 退役後は松島基地に保存[210]
29-5177 後期型 新造 退役後は青森県立三沢航空科学館に保存[210]
T-4
シリアル番号[210][337] 導入年 新造/改修[210][337] 備考
46-5720 1994年度[96] 新造 2000年7月4日、訓練中に墜落[210]
46-5725 1994年度[96] 新造 2016年12月7日に退役[337]
46-5726 1994年度[96] 新造 2017年退役

川崎重工岐阜工場総合ビル1階にて展示

46-5727 1994年度[96] 新造 2000年7月4日、訓練中に墜落[210]
46-5728 1994年度[96] 新造 2017年9月退役
46-5729 1994年度[96] 新造 2018年3月退役

2024年度末、航空自衛隊熊谷基地に展示予定

46-5730 1994年度[96] 新造 2018年退役
46-5731 1994年度[96] 新造 2020年3月退役
66-5745 1996年[96] 新造(追加) 2020年3月退役

航空自衛隊浜松広報館にて展示

26-5804 2002年[133] 新造(補充用) 2011年3月11日、東日本大震災の津波により水没[338]
26-5805 2002年[133] 新造(補充用) 2019年3月退役

あいち航空ミュージアムにて展示

16-5663 2020年 改修(補充用) 戦技研究仕様機化改修 10号機

他の改修機と異なり,改修される直前まで部隊で稼働していた機体

16-5666 2017年 改修(補充用) 戦技研究仕様機化改修 4号機
26-5686 2018年 改修(補充用) 戦技研究仕様機化改修 6号機
26-5690 2018年 改修(補充用) 戦技研究仕様機化改修 5号機
26-5692 2017年 改修(補充用) 戦技研究仕様機化改修 3号機
36-5693 2020年 改修(補充用) 戦技研究仕様機化改修 9号機
36-5694 2019年 改修(補充用) 戦技研究仕様機化改修 8号機
36-5697 2019年 改修(補充用) 戦技研究仕様機化改修 7号機
06-5787 2016年 改修(補充用) 戦技研究仕様機化改修 1号機
06-5790 2016年 改修(補充用) 戦技研究仕様機化改修 2号機

基本的な隊形

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脚注

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注釈

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  1. ^ 墜落した機体は当時ブルーで使われていた02-7943号機だが、この事故はあくまで学生訓練中に発生した事故のため、ブルーインパルスとしての事故ではない。
  2. ^ a b 東宝のデザイナーが考案したといわれているが、実際にはチーム内で検討した塗装案を東宝のデザイナーが手直しして、正式デザインが決定された[40]
  3. ^ これは年末の飛行納めの際に行われた物である。
  4. ^ a b この時のコールサインは "Blue-1" であった[116][117]
  5. ^ 但し26-5692はIRAN中であった為、B編隊の1番機は通常仕様のT-4が使われた。
  6. ^ 階級については自衛隊の階級を参照。
  7. ^ 展示服は明るい青色であり、サンダーバーズ(濃い紺色)よりアメリカ海軍ブルーエンジェルスに近い色合いである。
  8. ^ 「LIFE SP」は "Life Supporter" の略[175]
  9. ^ 「DISP」は "Dispatch" の略[175]
  10. ^ 「ADMIST」は "Administrator" の略[175]
  11. ^ 航空機では重力加速度 (G) の制限値が定められており、これを超えた飛行を行った場合は機体の点検が必要となる[201]
  12. ^ なお、使用しない機関銃の銃口はプラグで封鎖したが、機関銃自体は重心位置に変更が生じないようバラストとしてそのまま残された。
  13. ^ a b 胴体に斜めの帯が入っていることから、部隊内部では「襷」とも称されていた[203]
  14. ^ 他の改修点は、非力なためフルスロットルでなくともアフターバーナーを使用可能にするパート・スロットル・アフターバーナー (PTA) は右エンジンも使用するとスモークオイルが完全燃焼してしまうため左エンジンのみ使用可能とするスイッチを追加装備、コックピットへの握り手の追加、一部計器の配置や仕様の変更、スモークオイル残量計の追加などである。また初期にはブルー仕様機は、後期型でも通常の前期型同様に機銃の代わりにバラストを搭載していたが、機体を学生教育に使用する際に支障が出たために、のちに機銃を搭載することとなった。
  15. ^ ノズルの位置を後方に移設する改修が行われているが、これは通常使用時のスモークの発煙性向上を狙ったものである。
  16. ^ F-86FとT-2では、スモーク発生装置以外で操縦特性に関わる変更点はほとんどなかったため、通常仕様の機体でアクロバット飛行の訓練を行なうことが可能であった[217]
  17. ^ 機体の疲労度の再評価プログラムが行われており、今後他の部隊と同じ仕様へと改修を施したうえで、機体の入れ替えが行われる可能性もある。
  18. ^ JARG(日本航空機研究会)発行のシリアルリスト2001年版による。なお、02-7962号機はブルーインパルスに所属したことのある機体である。春日基地に保存されている82-7777号機は、カラーリングを「ブルーインパルス」風に塗装してあるだけで、ブルーインパルスに所属したことはない。
  19. ^ F-86Fを使用していた時期には、1番機のジェット排気が自機のエンジンの空気取り入れ口に入ってきてしまうこともあったという[231]
  20. ^ 近年では環境への影響を考慮し若干高価ではあるが、パラフィンを使用するスモークも開発され、レッドブル・エアレース・ワールドシリーズなどで使われている。
  21. ^ 時間が経過すると切削油と染料が分離してしまうため
  22. ^ 11月下旬や12月に航空祭を行う基地(築城基地新田原基地那覇基地など)で見ることができる。
  23. ^ 早朝から強風が吹いており、聖火輸送機も予定より約1時間早い午前10時に到着した。到着地を羽田へ変更する可能性もあったが、到着を早めることで回避した。
  24. ^ ブルーインパルスが“感謝飛行” 10台超のカメラで生中継 #医療従事者にエールを - YouTube - ANNニュース公式チャンネル、2020年5月29日、9分15秒。
  25. ^ 【ノーカット版】ブルーインパルスの“感謝飛行”を空から見た #医療従事者にエールを - YouTube - ANNニュース公式チャンネル、2020年5月29日、22分39秒。

出典

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  • 森史朗『零戦の誕生』文藝春秋、2005年(原著2003年)。ISBN 978-4167679576 
  • 『ブルーインパルス パーフェクト・ガイド』、イカロス出版、2003年7月、ISBN 4871494861 
  • 『航空無線ハンドブック2005年版』、イカロス出版、2004年12月、ISBN 4871496066 
  • 『ブルーインパルス 第11飛行隊の軌跡』、文林堂、2006年3月、ISBN 4893191357 
  • 『ブルーインパルス パーフェクトガイド』、イカロス出版、2010年6月、ISBN 978-4863203334 
  • 『ブルーインパルス50年の軌跡』、文林堂、2010年9月、ISBN 978-4893191915 

雑誌

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  • 「ブルーインパルス2000」『Jウイング』第20号、イカロス出版、2000年4月、28-31頁。 
  • 黒澤英介「もっと知りたい、ブルーインパルス!」『Jウイング』第106号、イカロス出版、2007年6月、8-20頁。 
  • 黒澤英介「がんばれ!松島基地」『Jウイング』第154号、イカロス出版、2011年6月、4-8頁。 
  • 黒澤英介、河合広雄「待望の空自航空祭&ブルー復活 千歳航空際のブルー密着レポート」『航空ファン』第707号、文林堂、2011年11月、1-7頁。 
  • 黒澤英介「“新しいブルー”始まる!ブルーインパルス2013」『Jウイング』第178号、イカロス出版、2013年6月、10-21頁。 
  • 黒澤英介「Welcome Home, Blue Inpulse ブルーインパルス松島帰還」『航空ファン』第726号、文林堂、2013年6月、1-14頁。 
  • 神野幸久「那覇基地エアーフェスタと50周年シーズンファイナル、松島でのTR練成」『航空ファン』第700号、文林堂、2011年4月、1-9頁。 
  • 神野幸久「ブルーインパルス震災からの復活-序章」『航空ファン』第704号、文林堂、2011年8月、8-13頁。 
  • 鈴崎利治「松島基地 復旧進む!!」『Jウイング』第155号、イカロス出版、2011年7月、16-20頁。 
  • 田中克宗「5ヶ月半ぶりに松島上空『ありがとう!東松島元気フェスタ』を飛んだブルーインパルス」『航空ファン』第706号、文林堂、2011年10月、20-23頁。 
  • 田中克宗、黒澤英介「ブルーインパルスの2012シーズン」『Jウイング』第167号、イカロス出版、2012年7月、6-11頁。 
  • 田中雅之「ブルーインパルス、築地基地でフィールドアクロ訓練を再開」『航空ファン』第706号、文林堂、2011年10月、24-25頁。 
  • 中井俊治「ブルーインパルス、松島への帰還」『Jウイング』第178号、イカロス出版、2013年6月、22-23頁。 
  • 松崎豊一「あらためて考える『ブルーインパルス』という存在」『Jウイング』第106号、イカロス出版、2007年6月、21-23頁。 
  • 村田博生「ターボのネリス日記」『航空ファンイラストレイテッド』第95号、文林堂、1997年8月、68-75頁。 
  • 「米空軍創設50周年航空ショー」『航空ファンイラストレイテッド』第95号、文林堂、1997年8月、22-67頁。 
  • 「ブルーインパルス 派米までの軌跡」『航空ファンイラストレイテッド』第95号、文林堂、1997年8月、76-103頁。 
  • 「ブルーインパルス2009」『Jウイング』第130号、イカロス出版、2009年6月、22-49頁。 
  • 「津波の直撃を受けた松島も復興中!」『航空ファン』第702号、文林堂、2011年6月、8-9頁。 

関連項目

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外部リンク

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