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「倉成正」の版間の差分

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== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
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[[経済企画政務次官]]、[[大蔵政務次官]]、衆議院社会労働委員長などを経験し、[[1974年]]11月に[[第2次田中角榮内閣第2次改造内閣|第2次田中第2次改造内閣]]の[[経済企画庁]]長官として初入閣を果たす。ところが、改造直後に[[田中角栄]]首相は退陣に追い込まれ、田中内閣は総辞職。倉成もわずか在任29日で長官を辞する。[[1976年]]12月には[[福田赳夫内閣]]で再び経済企画庁長官に任命され、[[1977年]]11月まで務める。

2023年1月9日 (月) 23:23時点における版

倉成 正
くらなり ただし
生年月日 1918年8月31日
出生地 日本の旗 長崎県長崎市
没年月日 (1996-07-03) 1996年7月3日(77歳没)
出身校 東京帝国大学法学部政治学科
前職 地方公務員長崎県庁
所属政党 自由民主党
称号 勲一等旭日大綬章
親族 倉成庄八郎(父)
倉成正和(長男)
西岡竹次郎(伯父)
西岡武夫(従弟)

日本の旗 第109代 外務大臣
内閣 第3次中曽根内閣
在任期間 1986年7月22日 - 1987年11月6日

日本の旗 第25・28代 経済企画庁長官
内閣 第2次田中角栄第2次改造内閣
福田赳夫内閣
在任期間 1974年11月11日 - 1974年12月9日
1976年12月24日 - 1977年11月28日

選挙区 旧長崎1区
当選回数 12回
在任期間 1958年5月23日 - 1993年6月18日
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倉成 正(くらなり ただし、1918年8月31日 - 1996年7月3日)は、日本政治家自由民主党所属の元衆議院議員(12期)。外務大臣(第109代)、経済企画庁長官(第25・28代)を歴任。長男は元衆議院議員の倉成正和

来歴・人物

長崎県長崎市出身。父は衆議院議員を務めた倉成庄八郎1941年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東洋高圧、長崎県農地農林部長などを経て、1958年第28回衆議院議員総選挙に自民党公認で長崎1区より立候補し当選する。以後、当選回数12回。自民党では、河野派から中曽根派に所属する。

経済企画政務次官大蔵政務次官、衆議院社会労働委員長などを経験し、1974年11月に第2次田中第2次改造内閣経済企画庁長官として初入閣を果たす。ところが、改造直後に田中角栄首相は退陣に追い込まれ、田中内閣は総辞職。倉成もわずか在任29日で長官を辞する。1976年12月には福田赳夫内閣で再び経済企画庁長官に任命され、1977年11月まで務める。

1986年7月、第3次中曽根内閣の外務大臣として入閣し、1987年11月まで務める。

中曽根派が渡辺派に衣替えすると、同派の会長代行に就任した。1993年第40回衆議院議員総選挙には立候補せず、引退した。同年勲一等旭日大綬章を受章する。引退後は日韓トンネル研究会顧問などを務めた。

倉成氏一族の墓所

1996年7月3日死去。77歳没。参議院議長文部大臣衆議院議員を歴任した西岡武夫は従弟。西岡の衆議院時代は同じ選挙区で骨肉の争いを演じた。

当選同期

竹下登安倍晋太郎金丸信斎藤邦吉など。

著書

  • 『情報社会の戦略 ニューメディア時代を創造する政治家の夢と政策』原書房 1985
  • 『"危うさ"の中の日本外交 「心の外交」をめざして』小学館 1988 


議会
先代
久野忠治
日本の旗 衆議院予算委員長
1983年 - 1984年
次代
天野光晴
先代
森田重次郎
日本の旗 衆議院社会労働委員長
1970年 - 1971年
次代
森山欽司
公職
先代
安倍晋太郎
日本の旗 外務大臣
第109代:1986年 - 1987年
次代
宇野宗佑
先代
野田卯一
内田常雄
日本の旗 経済企画庁長官
第28代:1976年 - 1977年
第25代:1974年
次代
宮澤喜一
福田赳夫
党職
先代
金子一平
自由民主党税制調査会長
1978年 - 1979年
次代
山中貞則