PL学園中学校・高等学校
PL学園中学校・高等学校 | |
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北緯34度31分23.7秒 東経135度35分49.1秒 / 北緯34.523250度 東経135.596972度座標: 北緯34度31分23.7秒 東経135度35分49.1秒 / 北緯34.523250度 東経135.596972度 | |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人PL学園 |
設立年月日 | 1955年 |
共学・別学 | 男女共学 |
中高一貫教育 | 併設型 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学科内専門コース |
国公立コース 理文選修コース |
学校コード |
C127310000354 中学校) D127310000405 (高等学校) | (
高校コード | 27568K |
所在地 | 〒584-8555 |
大阪府富田林市喜志2055 | |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
PL学園中学校・高等学校(ピーエルがくえんちゅうがっこう・こうとうがっこう、英: PL Gakuen Junior & Senior High School)は、大阪府富田林市にある男女共学の私立中高一貫校である。宗教団体・パーフェクト リバティー教団(PL教団)本部敷地内に立地しており、学校法人PL学園が運営する。
概要
中学校では英語科と数学科で習熟度別の授業を導入している。また高等学校では国公立コース・理文選修コースの2コースを設置し、希望進路に応じた学習を図っている。
中学校・高等学校ともに大半の生徒が寮生活を送っている。かつては全寮制であったが、現在は自宅通学も可能になっている。また、以前は高等学校に定時制課程・通信制課程も併設されていた。定時制課程は2000年度(平成12年度)に、通信制課程は2009年度(平成21年度)に休止となっている。
スポーツ関係の部活動の名門校としても知られており、卒業生の清原和博はグラウンドの大きさは高校随一だと述べている[1]。特に後述する硬式野球部は数々の成績を修め大勢のプロ野球選手を生み出してきた。しかし、インターネットが発達すると、部内の暴行やそれによる自殺など異常な実態が明らかとなり、新人部員が激減。硬式野球部は2015年春に部員募集を停止し[2]、2016年7月から休部となっている。一方、硬式野球部と同じユニフォームの軟式野球部はその後も活動を続け、2017年には全国高等学校軟式野球選手権大会に大阪代表として11回目の出場を果たした[3]。しかし、軟式野球部も部員が減少し、2022年の秋から他校との連合チームとなり、2024年の選手権を最後に休部することとなった[3]。
信者数の減少や受験者の受験意識の変化、名門硬式野球部の部員募集停止などにより入学希望者が減少し、2015年2月の高等学校受験では、外部受験枠75名に対して受験者は28名[4]、2021年度は、国公立コースが15人の募集に対し3人、理文選修コースは80人に対し7人[5]、2022年度は国公立コースが20人の募集に対し1人、理文選修コースは80人の募集に対し、専願・併願共に1人となるなど[5]、生徒数も年々減少し、学校自体の存続も危ぶまれている[4]。2024年度の生徒数は、高校が3学年合わせて42人、中学校が3学年合わせて39人となっている[6][7]。
入学に際しては、生徒本人と保護者に対してパーフェクト リバティー教団への入会と信仰が必須条件になる[8]。ただ、以前は入学と同時に名目的に入信し、教団のアミュレットを購入する程度でも問題がなかったものが、2016年度より大きく方針を転換し、一般的な仏教における仏壇に相当する「お神霊(みたま)」を自宅に持つ家庭の生徒以外の受験を認めない方針となった(なお、学校側では「入試制度に変更があったわけではありません」としている)[9]。古くからPL学園を取材するジャーナリストからは、入学希望者の急減の理由の一つにこの方針転換があると指摘されており、OBからは「教団は学園を布教師の育成学校にしようとしている」との声もある[10]。
校舎や寮の老朽化も問題となっており、2号館/4号館/図書館/剣道場/金剛寮/葛城寮の6施設が耐震性の基準を満たさないとして文部科学省及び大阪府から改善を求められ、学校側は「寮を除く4施設については2022年度をもって未使用化する」ことを決めている。ただ寮についてはフロアを限定しつつも使用を継続しており、建て替えの予定もない[11]。
沿革
- 1955年(昭和30年) - PL学園高等学校が創立。全日制課程を設置。
- 1957年(昭和32年) - 定時制課程を設置。
- 1959年(昭和34年) - PL学園中学校が創立。
- 1962年(昭和37年) - 校歌制定。
- 1973年(昭和48年) - 通信制課程を設置。
- 2000年(平成12年) - 定時制課程を廃止。
- 2009年(平成21年) - 通信制課程を休止。
部活動
母体であるパーフェクト リバティー教団(PL教団)は「人生は芸術である」という教義を掲げている。そのため自己表現を重視することが奨励され、野球を始めとしたスポーツにも力が入れられている。
後述のとおり硬式野球部が全国的に有名であったほか、軟式野球部、バトン部、剣道部などが全国大会レベルで活躍していた。
特にゴルフ部は、男子が1980年の第1回全国高等学校ゴルフ選手権大会と、翌1981年の第2回全国高等学校ゴルフ選手権大会で優勝を果たした[12]。同部からは高村博美(賞金女王1回)、中嶋千尋(ツアー通算4勝)、谷口徹(賞金王2回)ほか数多くのプロゴルファーを輩出した。しかし、2001年に廃部された。
硬式野球部
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沿革
硬式野球部は1956年(昭和31年)に創部され[13]、わずか7年目の1962年(昭和37年)に甲子園大会に初出場(春夏連続第34回選抜高等学校野球大会、第44回全国高等学校野球選手権大会)を果たした。
その後、1960年代から1970年代を通じて甲子園の大阪府代表の常連校7校(私学7強)のうちの1校となり、1977年(昭和52年)の3年生から2001年(平成13年)の3年生までは25学年連続でプロ野球選手を輩出した。
1978年夏(第60回)の全国高等学校野球選手権大会では、準決勝の中京戦、および決勝の高知商戦において、土壇場の9回裏から大逆転劇を見せ、「9回裏の奇跡」「逆転のPL」の異名をとることとなった。
また、1985年夏(第67回)では、全国大会では現在でも唯一の記録である毎回得点を達成した(詳細なスコアはこちらに掲載)。
同部は1990年代末から2000年以降にかけて数々の暴力事件が報告されて問題になった。特に2013年には部内暴力によって対外試合禁止処分を受け、監督が退任した。詳細は後述する。
甲子園大会への最後の出場は2009年夏(第91回)となっている。
2016年(平成28年)に最後の部員たちが夏の大会を終えたことで休部され[13]、2017(平成29年)年には部員が消滅して高等学校野球連盟からも脱退した[14]。以後、部員の募集は再開されていない時期があったが、2023年に1人の入部が許可され7年ぶりに活動を再開した。
特徴
「神に依る野球」「世界平和のための野球」を標語(公式HPより)に、甲子園全国大会では人文字での応援(カラーカード〈色画用紙〉やメガホン・ポンポン等を使用)が有名であった。 多くのプロ野球選手を輩出したことをはじめ、2023年時点で日本人のメジャーリーガー挑戦者が最多であることでも知られている[15]。
かつての同野球部は少数精鋭制をとり、完全外部スカウト制であった。中学校時代にリトルシニアやボーイズリーグで優秀な成績を修め、PL学園のスカウトマンに勧誘された者だけが入部を許された部活動であり、在校生からの一般入部は一切受け付けていなかった。 しかし、このスカウト制度は後述のいじめ問題発覚後、野球部専用寮と共に廃止された。以降は部員募集停止までの間、入学後に在校生が入部する一般的な部活になっていた。
いじめと監督後継問題
同野球部では数々の暴力事件が報告されており、1986年にはいじめによる死亡事故が起きている[16]。
インターネット社会が発達する前までは、外部には上記のようなシゴキの実態がほとんど知られていなかった。学校側や同野球部側が情報統制に細心の注意を払い、部内の暴力で怪我人が出れば教団の敷地内にあるPL病院で治療を受けさせることで隠蔽を図っていたためである。それでも部活見学の際の上級生と1年生の様子から異様な雰囲気を感じて同校への進学を見送った人もいる。元阪神タイガースの関本賢太郎はその内の一人であり、父親からPLへの進学を薦められたが、部活見学を行った際に上下関係の厳しさを感じ取り天理高等学校へ進学先を変更したことを語っている[17]。
1997年には、上級生が暴力を加えて重傷を負わせ、2001年には日常的に上級生が下級生をバットで殴るなどのいじめが原因とされる暴行事件で半年間にわたる活動停止処分を受けている。さらに、被害者の家族に訴えられて裁判沙汰になった[18][注 1]。その他の部内の規律として、漫画家のなきぼくろは、「女を見るのは禁止」という規律が存在していたと語っている[19][20]。2008年も暴力事件が起こり、藤原弘介監督(当時)が辞任。後任として河野有道が監督に復帰したが、2011年には部員の部内暴力と喫煙で1ヶ月の対外試合禁止になった。
2013年4月9日には、高野連・西岡宏堂審議委員長より2013年2月23日午後10時頃、2年生4人が、1年生1人を寮内にて殴る蹴るの暴行を加えたため救急車が出動し、病院送りにしたことが明らかにされた(学年は共に事件当時)。これにより日本学生野球協会審査室会議にて2013年2月24日から8月23日までの6ヶ月間の対外試合禁止処分が決まった[21][22]。河野は2001年の活動停止処分を受けた際の監督でもあったがその後退任し、4月16日付でPL教団職員に異動した。
かつての教団や教祖であり野球ファンだった御木徳近(1983年に死去)は名門野球部を広告塔として最大限に支援していたが、PL教団は度重なる不祥事や教団幹部の代替わりによる内部の運営体制の変化により次第にトラブル続きの野球部に対して厳しい態度で臨むようになり、野球部の体質改善を積極的に行った。まず、野球部専用の寮であった「研志寮」が2001年のいじめ問題発覚後に「閉鎖的な野球部寮に問題がある」という理由で2002年3月末限りで廃止され、同年4月以降は野球部員も一般生徒と同じ寮で生活している。また全寮制の廃止もあり、通学可能な地域に居住している部員は自宅から通学している。研志寮の建物はPL学園小学校の「小学SC寮」に転用され改装されたが、老朽化に伴い2019年に解体された。
また、社会情勢や教育環境の変化から教団の学校運営方針が「スポーツ選手の育成強化」から「在校生徒の学力向上重視」に主軸を置くようになったため、かつて行われてきた有能者を見つけるための外部スカウト制度やスカウトによる推薦入学や特待生の制度も寮の廃止と同時期に全て廃止され、一般入試で合格した在校生が入部する一般的な部活に変更された。毎年恒例となっていた夏季と冬季の合宿制度も全て廃止され、大きな問題となっていた上級生の「説教」制度も一切禁止された。練習時間も大幅に短縮され、それ以外の時間帯の練習は特別な事情や教団・学校の承認が無い限り一切禁止とした。さらに学力維持と向上のため、年間成績や定期テストなどで一定の成績に満たない部員は約1ヶ月間練習禁止処分にして補習を受けさせるようにした他、1週間に1回全員での教団講話の拝聴を義務付けた。部活関係者以外の野球部OBとの接触やOBの学校訪問も一切禁止とした。上級生と下級生が同部屋で生活し、下級生が上級生の雑用等をこなす野球部独自の「付き人制度」も教団や保護者、一般生徒などから生徒間の行き過ぎたプライバシー等の侵害や厳しすぎる上下関係による不祥事を問題視されるようになったため、2013年6月より部活の雑用(食事作り、掃除、洗濯、買い出しなど)は全て寮関係者や教団ボランティアのスタッフが行うように変更され、下級生の雑用を一切禁止とした。同年秋には「付き人制度」そのものが廃止され、全部員が一般生徒と同じ待遇となり野球部の伝統とされてきた厳しい上下関係や規律も大幅に改善され緩和された[23][注 2]。
卒業生の一人である清原は、この事件の後2013年にテレビ出演した時にPLの暴力は伝統であると語っている[25]。
後継監督候補には複数のOBが浮上しているが、学校・教団側はかねてから野球部OBの多くが卒業後には教団への信仰から距離を置いていることに不満を持っており、野球部OBが監督に就任する条件の1つとして教団への熱心な信仰を求めているが、学校・教団側の要望に該当する野球部OBがいないことから、2013年秋大会から常勤の監督が不在という状況が長期化していた。練習ではOBのコーチがいるものの、OBのコーチの指導はノッカーとしてのみ認められている(このOBは学校側から監督昇格は認められていない[26])。このため公式戦では野球未経験の正井一真校長が登録上の監督に就任し、ユニフォームを着てベンチ入りしているが、試合の中で決断を下せる大人が不在となっており、作戦や選手交代を選手同士で決めていた。2014年10月には監督不在により十分な指導ができないことを理由に、入学を希望する中学3年生の新入部員の受け入れ停止を決定した[27]。
2015年3月16日、同年4月1日付の人事異動で正井が校長職から校外の教団施設への転任が決定し、同時に野球部の監督を退任することが発表された。新たな校長に草野裕樹が就任し[28]、野球部の監督も兼任することとなった[29]。
清原和博が証言した1983年当時の寮生活
前述の暴力問題を裏付けるように、同野球部の出身者で、甲子園大会および日本プロ野球で活躍した清原和博は、その寮生活について非常に過酷なものだったと後の2021年(令和3年)に語っている。清原が同期の松山秀明と共に回想したという、後輩の片岡篤史との談話に基づく[30]。
なお、同校はかつて全寮制であり、野球部員以外も全員が寮に居住していた[31]。
- 1年生への禁止事項
清原が入学した1983年(昭和58年)当時、同野球部の1年生は生活において次のような規則を与えられたという[30]。
- 寮への入所から高校の入学式までは「お客様」として扱われ、キャッチボールをする程度で気楽に過ごす。
- 入学式後、「教育係」の上級生から1年生の作法と義務を徹底的に指導される。
- 1年生が上級生からの言葉に対して回答していい言葉は「はい」と「いいえ」のみ。ただし「いいえ」が許されることはなく、実質的に「はい」のみ。
- 上級生がわざと小さな声でぼそぼそと何かを告げることがある。1年生がそれを聞き取れずに「えっ?」などと聞き返すと、息が詰まるほどに胸を殴られる。
- 「付き人」制度があり、上級生が1年生を選んで自身の付き人とする。付き人は上級生に絶対服従で、毎日の洗濯や食事の世話、マッサージなどを行う。
- 将来有望な1年生が入学した場合は、比較的寛容な上級生の付き人とするといった配慮もあった。
- 1年生と上級生が相部屋で、その1年生は「部屋子」と呼ばれる。部屋子は室内では基本的に正座で過ごし続ける。
- 上級生から飲み物を取るなどを命令されて立ち上がろうとすると足がしびれて転ぶほどである。その際に上級生から「おい、楽にしていいぞ」などと許可を与えられると、初めて体育座りに崩すことを許される。
- 1年生は入浴時に湯船に浸かることは許されず、シャワーで済ませる。風呂場の椅子を使うことも禁止で、片膝をついて体を洗う。シャンプーは禁止で、石鹸で頭を洗う。バスタオルは禁止で、手ぬぐいで体を拭く。
- 1年生は菓子類の摂食を禁止。ケチャップ・マヨネーズの使用を禁止。テレビの視聴を禁止。新聞の閲覧を禁止。電話の利用を禁止。外部との連絡は手紙のみ。
- 1年生はニット生地のユニフォームを禁止で、綿のユニフォームを使う(寒く、硬い)。夏でも常に長袖の服を着なければならない。
- 1年生の日課
また、当時の1年生にとって毎日のスケジュールは以下のものだったという[30]。後輩である宮本慎也や坪井智哉も同様の証言を行っている[32][33]。
- 朝は6時半ごろに起床する。目覚まし時計を設定するが、同部屋の上級生を起こさないようにその鐘を鳴らしてはならず、鐘が鳴る寸前の「カチッ」という動作音で飛び起きて音を止めた。
- 宮本や坪井によれば、デジタル時計では設定した時間にすぐ鳴動してしまうために使えず、設定時間に鳴動する前の「カチッ」という動作音があるアナログ時計を使用していたとのこと。
- 起床後に掃除とPL教団へのお祈りを済ませたのち、1年生は自身が付き人とする担当上級生の食事の準備を行い、それを伝える。なお、清原が言うには「一年生もやられっぱなしではなく仕返しはちゃっかりやった」と言っており、その一つとして先輩に作る食事に何らかの異物を入れることがあったという[34]。
- 寮から高校へは2kmほど離れており、1年生全員で集団登校を行う。登校は3列か4列の縦隊を組み、連続歩調で行進する。
- 大声で「歩調、歩調、歩調、やめ!1、それ、2、それ、3、それ、4、それ、1、はい、2、はい、3、はい、4、はい、1234、1234……」などと叫びながら行進する。
- その途中も常に上級生たちが通りかかるたびに監視しており、もし足が揃っていなかったり声が小さかったりすると暴行を受ける。
- 野球部員は学校の授業は5時限で終わる。その5時限目の途中に1年生は靴を外履きへ履き替え、終業のチャイムが鳴った途端に全速力で寮まで2kmを走って帰る。
- なぜなら終業から練習までの間に1年生は上級生のために練習前の食事を準備しなければならないからである。そのコンロの数が限られているため、1年生同士で争奪戦になった。
- 練習は午後3時から午後6時半までと、強豪の野球部としては比較的短い。しかし、1年生にとっては練習後のほうが過酷な時間帯であった。
- 練習後に1年生が夕食の準備を行い、午後7時から9時ごろにかけて上級生たちが食事に訪れるまで食堂で待機する。
- 上級生の食事中、1年生はテーブルの前で直立不動を続ける。先輩が「おかわりを注げ」と伝える合図は茶碗で机を「コン」とごく軽く叩くことであるが、1年生は疲労からそれに気づかないこともあり、反応が遅いと茶碗を顔へ投げつけられる。避けるとひどく暴行を受けるので、わざと当たりに行く。
- 清原は、「この経験によって、のちにプロ野球で死球を避けずに当たりに行く勇気を培われたのかもしれない」と冗談半分に語っている。
- 食事後、上級生たちの残飯を1年生が集めて捨てに行くが、その際に全身に残飯の汁をかぶる。1年生は自分の衣服を洗濯する時間的余裕がなく、衣服から常に生ゴミの匂いがした。
- 食事後、その日の練習で使われたボールをきれいに磨く。1個でも数が合わないと暴行を受ける。
- 守備練習では、1年生がエラーをするたびに、上級生である2年生部員が3年生部員より臀部をバットで殴られる制裁を受けた。その報復として2年生は1年生を殴るという制裁があった。その制裁のための時間帯が決められており、基本的に「連帯責任」として全員が暴行を受ける。寮内放送で「1年生、娯楽室へ集合」と告知され、「娯楽室」で暴行されることが通例であった。
- 顔を殴ると傷跡が目立ち問題視されるため、体幹部を殴られたり蹴られたりした。ほか、理不尽な筋力トレーニングを強要されることもあった。
- その後、1年生が上級生へマッサージを行う。上級生が就寝すると終わりだが、寝たふりをする上級生もおり、1年生が「寝た」と判断して手を止めると即座に殴られる。
- 深夜に1年生が上級生の衣服を洗濯する。業務用洗剤を使って素手で洗うため、手が常に荒れる。また、洗濯機も1年生同士で争奪戦となるため、確保できないと就寝時間もその分少なくなる。
- 1年生にとって寮生活における娯楽は存在しない。
- 先輩である小早川毅彦はYouTube内で、3年先輩で当時キャプテンだった松下和統がラジオで語った話として、帰省時に寮生活のことを父親に話したら「俺の知っている軍隊よりも、本当の戦争の時の軍隊よりも厳しいな」という感想が返ってきたという逸話を紹介している[36]。
休部
2015年春及び2016年春は新入部員を募集しない方針をとり、2016年2月の時点で2年生部員12人のみが所属していた[37]。
2016年2月、野球部長を兼任する草野校長が同年春に定年退職となるため、同校事務職員の川上祐一が野球部長に就任した[37]。野球部員の募集再開時期は未定となっており、2016年夏の全国高等学校野球選手権大会での現役部員の引退をもってひとまず休部することが決定[37]。
2016年7月15日、第98回全国高校野球選手権大阪大会でPL学園は3年生部員のみの12人(記録員を含む)で臨み東大阪大学柏原高等学校に6対7で敗れ、この試合をもって野球部はいったん休部となった[13]。
2016年休部時点での最後の甲子園出場は2009年の夏であり、創部からの通算成績は、春のセンバツには20回出場して優勝3回(81年、82年、87年)、夏の選手権大会には17回出場して優勝4回(78年、83年、85年、87年)、春夏通算96勝となっている[13]。1982年には史上2校目の春連覇、1987年には史上4校目の春夏連覇を達成した。
2017年3月29日、PL学園側から大阪府高等学校野球連盟に対して脱退届が提出され、大阪府連盟は同日これを受理した。PL学園側では今回の脱退について「平成29年度より本校の部員募集再開が決定するまでの間、大阪府高等学校野球連盟に非加盟とする形である」と説明している[14]。
休部後は、かつての硬式野球部専用グラウンドを、活動継続中の軟式野球部が使用している。
2023年8月、1年生一人が硬式野球部入部を許可され練習を始めていることが報道された[38]。但し高野連を脱退しているため合同チームで出場するにも連盟への再加盟が必要になるという。
校歌
作詞:湯浅竜起、作曲:東信太郎
出身者
政治
警察
プロ野球選手
期生 | 名前 | 出身地 | 卒年度 | Pos | 大学 | 社会人 | ドラフト | 順位 | 球団 | 経歴 | 引退後 | 備考 |
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4期 | 野田征稔 | 長崎県 | 1959 | 内野手、外野手 | - | PL教団 | 制度導入前 | 阪神タイガース | 阪神、タイ代表コーチ、BC福井監督 | |||
8期 | 坪井新三郎 | 大阪府 | 1963 | 内野手 | - | PL教団 | 1969 | ドラフト外 | 中日ドラゴンズ | 太平洋 | 浪商高から編入、野球部に所属せず | |
8期 | 戸田善紀 | 大阪府 | 1963 | 投手 | - | - | 制度導入前 | 阪急ブレーブス | 中日 | |||
8期 | 愛甲徹 | - | 1963 | 投手 | 日本大中退 | - | 制度導入前 | 東京オリオンズ | ||||
8期 | 中塚政幸 | 香川県 | 1963 | 一塁手、外野手 | 中央大 | - | 1967 | 2位 | 大洋ホエールズ | 大洋、BC群馬コーチ等 | ||
10期 | 得津高宏 | 和歌山県 | 1965 | 外野手 | - | クラレ岡山 | 1966 | 6位 | 東京オリオンズ | ロッテコーチ | 1965年近鉄8位拒否 | |
10期 | 長井繁夫 | 群馬県 | 1965 | 内野手 | 中央大 | - | 1969 | 3位 | ヤクルトアトムズ | 1965年近鉄3位拒否 | ||
10期 | 福嶋久晃 | 和歌山県 | 1965 | 捕手 | - | 大昭和製紙 | 1966 | ドラフト外 | 大洋ホエールズ | 広島 | 広島・大洋・関西高コーチ | 1965年広島8位拒否 |
11期 | 加藤英治 | 愛知県 | 1966 | 投手 | - | - | 1966 | 1位 | 近鉄バファローズ | |||
11期 | 加藤秀司[39] | 静岡県 | 1966 | 内野手 | - | 松下電器 | 1968 | 2位 | 阪急ブレーブス | 広島-近鉄-巨人-南海 | サーパス神戸監督等 | 1966年東映4位拒否 |
11期 | 野口善男 | 熊本県 | 1966 | 内野手 | 法政大 | - | 1970 | 1位 | 大洋ホエールズ | 横浜球団取締役 | ||
12期 | 大和田正海 | 大阪府 | 1967 | 捕手 | - | 出原商店 | 1971 | ドラフト外 | 阪急ブレーブス | 阪神 | ||
13期 | 川口孝秀 | 大阪府 | 1968 | 投手 | - | - | 1968 | ドラフト外 | 中日ドラゴンズ | 近鉄 | ||
15期 | 新井宏昌 | 大阪府 | 1970 | 外野手 | 法政大 | - | 1974 | 2位 | 南海ホークス | 近鉄 | オリックス・ソフトバンク・広島コーチ等 | 1970年近鉄9位放棄 |
15期 | 新美敏 | 熊本県 | 1970 | 投手 | - | 日本楽器 | 1972 | 1位 | 日拓ホームフライヤーズ | 広島 | 広島・日本ハムコーチ等 | |
16期 | 行澤久隆 | 大阪府 | 1971 | 内野手 | 中央大 | - | 1975 | 2位 | 日本ハムファイターズ | 西武 | 西武コーチ、日本経済大監督等 | |
18期 | 立野政治 | 香川県 | 1973 | 投手 | - | 日本楽器 | 1980 | ドラフト外 | ヤクルトスワローズ | 1976年広島4位拒否 | ||
18期 | 平山正人 | 大阪府 | 1973 | 投手 | - | 新日本製鐵堺 | 1976 | 4位 | 阪急ブレーブス | 1973年南海4位拒否 | ||
19期 | 金森栄治 | 石川県 | 1974 | 外野手、捕手 | 早稲田大 | プリンスホテル | 1981 | 2位 | 西武ライオンズ | 阪神-ヤクルト | ヤクルト・西武・阪神・ソフトバンク・ロッテ・楽天コーチ、早大助監督等 | |
20期 | 尾花髙夫 | 和歌山県 | 1975 | 投手 | - | 新日本製鐵堺 | 1977 | 4位 | ヤクルトスワローズ | ロッテ・ヤクルト・ダイエー・巨人コーチ、横浜一軍監督等 | 横浜監督時の成績は6位2回 | |
22期 | 米村明 | 熊本県 | 1977 | 投手 | 中央大 | 河合楽器 | 1984 | 5位 | 中日ドラゴンズ | 中日スカウト | ||
23期 | 金石昭人 | 岐阜県 | 1978 | 投手 | - | - | 1978 | ドラフト外 | 広島東洋カープ | 日本ハム-巨人 | ||
23期 | 木戸克彦 | 大阪府 | 1978 | 捕手 | 法政大 | - | 1982 | 1位 | 阪神タイガース | 阪神・女子野球日本代表コーチ | ||
23期 | 谷松浩之 | 熊本県 | 1978 | 外野手 | - | - | 1978 | 4位 | ヤクルトスワローズ | |||
23期 | 西田真二 | 和歌山県 | 1978 | 外野手 | 法政大 | - | 1982 | 1位 | 広島東洋カープ | セガサミー監督 | ||
25期 | 阿部慶二 | 大阪府 | 1979 | 内野手 | 亜細亜大中退 | ヤマハ発動機 | 1983 | 6位 | 広島東洋カープ | 広島コーチ等 | ||
25期 | 小早川毅彦 | 広島県 | 1979 | 内野手 | 法政大 | - | 1983 | 2位 | 広島東洋カープ | ヤクルト | 広島コーチ | |
25期 | 山崎剛 | 大阪府 | 1979 | 投手 | - | - | 1979 | ドラフト外 | 阪急ブレーブス | 阪神 | ||
25期 | 山中潔 | 大阪府 | 1979 | 捕手 | - | - | 1979 | 4位 | 広島東洋カープ | ダイエー-中日-日本ハム-ロッテ | 日本ハム二軍バッテリーコーチ | |
26期 | 岡部明一 | 大阪府 | 1980 | 外野手 | 中央大 | - | 1984 | 3位 | ロッテオリオンズ | 元ロッテスカウト | ||
27期 | 西川佳明 | 大阪府 | 1981 | 投手 | 法政大 | - | 1985 | 1位 | 南海ホークス | 阪神 | ||
27期 | 吉村禎章 | 奈良県 | 1981 | 外野手 | - | - | 1981 | 3位 | 読売ジャイアンツ | 巨人球団編成副本部長、野球日本代表コーチ | ||
27期 | 若井基安 | 奈良県 | 1981 | 内野手、外野手 | 法政大 | 日本石油 | 1987 | 2位 | 南海ホークス | ソフトバンクコーチ等 | ||
28期 | 榎田健一郎 | 大阪府 | 1982 | 投手 | 1982 | 1位 | 阪急ブレーブス | |||||
28期 | 森浩之 | 大阪府 | 1982 | 捕手 | 東洋大 | 1986 | 2位 | 南海ホークス | ソフトバンクコーチ | |||
29期 | 加藤正樹 | 大阪府 | 1983 | 外野手 | 早稲田大 | - | 1987 | ドラフト外 | 近鉄バファローズ | 追手門学院大学監督 | ||
29期 | 山中勝己 | 奈良県 | 1983 | 内野手 | 明治大 | - | 1987 | ドラフト外 | 中日ドラゴンズ | |||
30期 | 岩田徹 | 和歌山県 | 1984 | 捕手 | - | 三菱自動車水島 | 1988 | 4位 | 阪神タイガース | 大阪偕星学園高校野球部監督 | ||
31期 | 今久留主成幸 | 大阪府 | 1985 | 捕手 | 明治大 | - | 1989 | 4位 | 横浜大洋ホエールズ | 西武 | 信濃グランセローズ監督等 | |
31期 | 清原和博 | 大阪府 | 1985 | 内野手 | - | - | 1985 | 1位 | 西武ライオンズ | 巨人-オリックス | ||
31期 | 桑田真澄 | 大阪府 | 1985 | 投手 | - | - | 1985 | 1位 | 読売ジャイアンツ | パイレーツ | 巨人ファーム総監督 | |
31期 | 内匠政博 | 大阪府 | 1985 | 外野手 | 近畿大 | 日本生命 | 1992 | 3位 | 近鉄バファローズ | オリックススカウト | ||
31期 | 松山秀明 | 和歌山県 | 1985 | 内野手 | 青山学院大 | - | 1989 | 5位 | オリックス・ブレーブス | ソフトバンク内野守備走塁コーチ | ||
32期 | 霜村英昭 | - | 1986 | 内野手 | - | - | 1986 | ドラフト外 | ヤクルトスワローズ | |||
33期 | 片岡篤史 | 京都府 | 1987 | 内野手 | 同志社大 | - | 1991 | 2位 | 日本ハムファイターズ | 阪神 | YouTuber、阪神コーチ、中日二軍監督・ヘッドコーチ | |
33期 | 立浪和義 | 大阪府 | 1987 | 内野手 | - | - | 1987 | 1位 | 中日ドラゴンズ | 野球殿堂、中日一軍監督 | 中日監督時の成績は6位3回 | |
33期 | 野村弘樹 | 広島県 | 1987 | 投手 | - | - | 1987 | 3位 | 横浜大洋ホエールズ | 横浜コーチ | ||
33期 | 橋本清 | 大阪府 | 1987 | 投手 | - | - | 1987 | 1位 | 読売ジャイアンツ | ダイエー | ||
34期 | 宮本慎也 | 大阪府 | 1988 | 内野手 | 同志社大 | プリンスホテル | 1994 | 2位 (逆指名) |
ヤクルトスワローズ | ヤクルトコーチ | ||
35期 | 野々垣武志 | 奈良県 | 1989 | 内野手 | - | - | 1989 | ドラフト外 | 西武ライオンズ | 広島-ダイエー-誠泰太陽 | 西武・レディースコーチ | |
36期 | 入来祐作 | 宮崎県 | 1990 | 投手 | 亜細亜大 | 本田技研 | 1996 | 1位 (逆指名) |
読売ジャイアンツ | 日本ハム~横浜 | オリックス投手コーチ | |
37期 | 坪井智哉 | 東京都 | 1991 | 外野手 | 青山学院大 | 東芝 | 1997 | 4位 | 阪神タイガース | 日本ハム-オリックス等 | 石狩レッドフェニックス監督 | |
38期 | 今岡真訪 | 兵庫県 | 1992 | 内野手 | 東洋大 | - | 1996 | 1位 (逆指名) |
阪神タイガース | ロッテ | 阪神打撃コーチ | |
39期 | 松井稼頭央 | 大阪府 | 1993 | 内野手 | - | - | 1993 | 3位 | 西武ライオンズ | メッツ-ロッキーズ-アストロズ-楽天-西武 | 西武二軍監督・ヘッドコーチ・一軍監督 | 西武監督時の成績は5位1回、2年目の途中で休養に入る(最終成績は6位) |
40期 | 宇高伸次 | 大阪府 | 1994 | 投手 | 近畿大 | - | 1998 | 1位 (逆指名) |
近鉄バファローズ | 横浜 | ||
40期 | サブロー | 岡山県 | 1994 | 外野手 | - | - | 1994 | 1位 | 千葉ロッテマリーンズ | 巨人-ロッテ | ロッテ二軍監督 | |
41期 | 辻田摂 | 奈良県 | 1995 | 内野手 | 東洋大中退 | - | 2000 | 8位 | 中日ドラゴンズ | |||
41期 | 福留孝介 | 鹿児島県 | 1995 | 外野手 | - | 日本生命 | 1998 | 1位 (逆指名) |
中日ドラゴンズ | カブス-インディアンス-ホワイトソックス-阪神-中日 | 1995年近鉄1位拒否 | |
41期 | 前田忠節 | 和歌山県 | 1995 | 内野手 | 東洋大 | - | 1999 | 3位 | 大阪近鉄バファローズ | 楽天-阪神 | 阪神スカウト | |
42期 | 荒金久雄 | 大分県 | 1996 | 外野手 | 青山学院大 | - | 2000 | 5位 | 福岡ダイエーホークス | オリックス | ソフトバンクスタッフ | |
42期 | 前川勝彦 | 大阪府 | 1996 | 投手 | - | - | 1996 | 1位 | 近鉄バファローズ | 阪神-オリックス等 | ||
43期 | 小林亮寛 | 福岡県 | 1997 | 投手 | - | - | 1997 | 6位 | 千葉ロッテマリーンズ | |||
43期 | 前田新悟 | 大阪府 | 1997 | 内野手 | 明治大 | - | 2001 | 5位 | 中日ドラゴンズ | |||
44期 | 大西宏明 | 兵庫県 | 1998 | 外野手 | 近畿大 | - | 2002 | 7位 | 大阪近鉄バファローズ | オリックス-横浜-ソフトバンク | 堺シュライクス監督 | |
44期 | 平石洋介 | 大分県 | 1998 | 外野手 | 同志社大 | トヨタ自動車 | 2004 | 7位 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 楽天コーチ・一軍監督代行・一軍監督、ソフトバンクコーチ、西武ヘッドコーチ | 楽天監督代行時の成績は6位1回、監督時の成績は3位1回 | |
45期 | 覚前昌也 | 京都府 | 1999 | 外野手 | - | - | 1999 | 7位 | 大阪近鉄バファローズ | |||
45期 | 七野智秀 | 兵庫県 | 1999 | 内野手 | - | - | 1999 | 6位 | 横浜ベイスターズ | |||
45期 | 田中一徳 | 兵庫県 | 1999 | 外野手 | - | - | 1999 | 1位 | 横浜ベイスターズ | 日本経済大コーチ | ||
45期 | 田中雅彦 | 大阪府 | 1999 | 内野手 | 近畿大 | - | 2003 | 4位 | 千葉ロッテマリーンズ | ヤクルト | 楽天二軍バッテリーコーチ | |
46期 | 加藤領健 | 愛知県 | 2000 | 捕手 | 青山学院大 | - | 2004 | 6位 | 福岡ソフトバンクホークス | ソフトバンク三軍バッテリーコーチ | ||
46期 | 中尾敏浩 | 福岡県 | 2000 | 外野手 | 青山学院大 | JR東日本 | 2007 | 大・社5位 | 東京ヤクルトスワローズ | |||
47期 | 朝井秀樹 | 大阪府 | 2001 | 投手 | - | - | 2001 | 1位 | 大阪近鉄バファローズ | 楽天-巨人 | 巨人球団職員 | |
47期 | 今江敏晃 | 京都府 | 2001 | 内野手 | - | - | 2001 | 3位 | 千葉ロッテマリーンズ | 楽天 | 楽天コーチ・一軍監督 | 楽天監督時の成績は4位1回 |
47期 | 小斉祐輔 | 大阪府 | 2001 | 外野手 | 東農大生産学部 | 2005 | 育成1位 | 福岡ソフトバンクホークス | 楽天 | |||
47期 | 桜井広大 | 滋賀県 | 2001 | 外野手 | - | - | 2001 | 4位 | 阪神タイガース | 06BULLS監督 | ||
49期 | 小窪哲也 | 奈良県 | 2003 | 内野手 | 青山学院大 | - | 2007 | 大・社3位 | 広島東洋カープ | 広島内野守備・走塁コーチ | ||
52期 | 冨田康祐 | 愛知県 | 2006 | 投手 | 青山学院大 | 香川オリーブガイナーズ | 2011 | 育成1位 | 横浜ベイスターズ | |||
52期 | 前田健太 | 大阪府 | 2006 | 投手 | - | - | 2006 | 高1位 | 広島東洋カープ | ドジャース-ツインズ | ||
54期 | 緒方凌介 | 大阪府 | 2008 | 外野手 | 東洋大 | - | 2012 | 6位 | 阪神タイガース | 阪神球団職員 | ||
56期 | 勧野甲輝 | 大阪府 | 2010 | 内野手 | - | - | 2010 | 5位 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | ソフトバンク | ||
56期 | 吉川大幾 | 大阪府 | 2010 | 内野手 | - | - | 2010 | 2位 | 中日ドラゴンズ | 巨人 | 巨人球団職員 | |
60期 | 中川圭太 | 大阪府 | 2014 | 内野手 | 東洋大 | - | 2018 | 7位 | オリックスバファローズ |
その他野球関連
- 中村順司 - 1964年度卒。名古屋商科大を経て、PL学園高校監督を務めた。
- 森永悦弘 - 1964年度卒。亜細亜大を経て、日本楽器に所属した。
- 野村茂 - 1970年度卒。日本生命に所属し、のち同部監督
- 斎藤茂樹 - 1970年度卒。明治大から日本鋼管を経て、同大学監督を務めた。
- 小野忠史 - 1979年度卒。東洋大から松下電器を経て、ガンバ大阪代表取締役社長。
- 竹田宏 - 1982年第54回選抜高等学校野球大会優勝時の部員。大阪学院大を経て、中学硬式野球部『池田リトルシニア野球協会』設立に関わり監督兼副会長。
- 鈴木英之 - 1984年度卒。駒澤大から神戸製鋼を経て、関西国際大監督。
- 北口正光 - 1984年度卒。亜細亜大から松下電器を経て、東京農業大監督。
- 清水哲 - 1984年度卒。同志社大1年時の秋季リーグ戦で頚髄負傷。現在は野球関連の講演活動や著述家。
- 松田訓 - 1986年度卒。同志社大から熊谷組、日本通運を経て、流経大柏高校監督を務めた。
- 清原幸治 - 1989年度卒。清原和博の実弟。青山学院大から松下電器に所属した。
- 植山幸亮 - 1999年度卒。法政大から三菱ふそう、東京ガスに所属した。
- 松本晃 - 2003年度卒。横浜商科大からJR東日本に所属した。
- グルラジャニ・ネイサン - 2015年度卒。亜細亜大中退後、東京国際大に再入学。2020年にBCリーグ新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ入団。
- 樋口一紀 - 福岡県出身。PL学園中学校卒業後、柳川高校に進学。住友金属を経て1991年ドラフトで千葉ロッテマリーンズから5位指名を受け入団。
その他のスポーツ
- 竹中健太郎 - 剣道家、鹿屋体育大監督
- 高村博美 - プロゴルファー
- 谷口徹 - プロゴルファー
- 中嶋千尋 - プロゴルファー
- 桑田泉 - ティーチングプロゴルファー、元青山学院大野球部野手。桑田真澄の弟。
- 稲垣正司 - バトントワリング選手。シルク・ドゥ・ソレイユ常設ショー『ZED』の唯一の日本人出演者。
- 木村朱美 - 元バトントワリング選手
- 中尾葉 - バトントワリング選手、ダンサー、モデル
- 吉田有希 - バトントワリング元日本代表
- 簾田武志 - バトントワリング選手
- 阪口晴南 - レーシングドライバー
芸能
その他
脚注
注釈
出典
- ^ 清原和博『男道』幻冬舎、2010年、70頁。ISBN 978-4344414457。
- ^ 山中由睦. “名門PL野球部、特別な夏 監督は校長、部員募集停止”. 朝日新聞. 2016年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月3日閲覧。
- ^ a b "PL学園、軟式野球部も休部へ 全国制覇の強豪、部員3人に減り". 毎日新聞. 毎日新聞社. 23 July 2024. 2024年8月7日閲覧。
- ^ a b “野球部「廃部」のPL学園 受験生が「28人」しか来なかった”. NEWSポストセブン. 2015年2月16日閲覧。
- ^ a b “PL学園「入試倍率0.02倍」 野球部復活はおろか生徒激減の窮状”. NEWSポストセブン. 2022年9月3日閲覧。
- ^ “令和6年度生徒数(高等学校・全日制)”. 大阪府. 2024年8月7日閲覧。
- ^ “令和6年度生徒数(中学校)”. 大阪府. 2024年8月7日閲覧。
- ^ “PL学園中学校 – 中学受験eye”. 朝日小学生新聞 朝日学生新聞社. 2021年2月17日閲覧。
- ^ PL学園国公立コース「受験者ゼロ」で教頭と一問一答 「野球部を復活したい」の言葉も - NEWSポストセブン・2023年2月12日
- ^ 高校野球の名門・PL学園、国公立コース「受験者ゼロ」に さらなる窮地へ - NEWSポストセブン・2023年2月12日
- ^ PL学園の難局「受験者ゼロ」だけでなく「校舎・寮の耐震性に問題あり」と大阪府担当者 - NEWSポストセブン・2023年2月23日
- ^ “全国高校ゴルフ選手権 歴代優勝校”. nikkansports.com. 2014年6月20日閲覧。
- ^ a b c d “PL学園、「最後の夏」終わる=初戦で惜敗、休部へ-高校野球”. 時事通信 (2016年7月15日). 2016年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月10日閲覧。
- ^ a b “PL学園、大阪府高野連に「脱退届」受理される…名門の歴史に幕”. スポーツ報知. 報知新聞社. (2017年3月29日). オリジナルの2017年3月29日時点におけるアーカイブ。 2021年9月10日閲覧。
- ^ “最もメジャーリーガーを輩出している高校は活動停止中 消滅球団はドラフトで逸材を多数指名”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2023年1月18日) 2023年2月15日閲覧。
- ^ “桑田真澄実父が暴露“PL学園野球部員いじめ水死”隠蔽(2)スリッパを池に放り投げた”. アサ芸プラス. 徳間書店 (2013年3月28日). 2015年1月24日閲覧。
- ^ (日本語) 【PL学園と天理】名門校、地獄の寮生活…今では考えられない壮絶な野球生活 2023年1月21日閲覧。
- ^ “桑田真澄実父が暴露“PL学園野球部員いじめ水死”隠蔽(1)”. アサ芸プラス. 徳間書店 (2013年3月27日). 2015年1月24日閲覧。
- ^ “元PL球児の漫画家、なきぼくろさん『バトルスタディーズ』母校への思い…強さの内側にあるもの”. 産経新聞 (2015年7月21日). 2015年7月27日閲覧。
- ^ “第331回 バトルスタディーズ第3巻発売記念!上重 聡さん(日本テレビ)×なきぼくろ先生【PL学園OB対談 第3回】”. 高校野球ドットコム (2015年11月5日). 2015年11月7日閲覧。
- ^ “PL学園夏絶望、6カ月対外試合禁止処分”. 日刊スポーツ. (2013年4月10日) 2015年7月10日閲覧。
- ^ “PL学園、部員の部内暴力で夏アウト…被害の1年生部員救急車で搬送”. デイリースポーツ. (2013年4月9日). オリジナルの2013年4月9日時点におけるアーカイブ。 2015年7月10日閲覧。
- ^ “PL学園、上下関係「付き人制度」「後輩が洗濯」禁止で「試合中けなさない」「ミスもほめる」…“監督不在”でも近畿大会出場”. msn産経ニュース. 2014年10月15日閲覧。
- ^ 柳川悠二 (2017年4月5日). “PL野球部打倒に執念を燃やした男たちのため息:「名門の灯」は本当に消えたのか”. 現代ビジネス. 2022年3月19日閲覧。
- ^ “PL学園野球部「暴力は伝統」だった 番長・清原「1年生のときからアザだらけ」”. J-CASTニュース. (2013年3月4日) 2021年6月11日閲覧。
- ^ “校長監督“続投”の怪 これがPL野球部内紛の全容”. 東京スポーツ. (2014年8月1日) 2015年7月10日閲覧。
- ^ “PL学園 新入部員の受け入れ停止、監督不在で…部存続の危機も”. スポーツニッポン. 2014年10月15日閲覧。
- ^ “PL学園校長、転任で野球部監督も退任へ”. 日刊スポーツ (2015年3月17日). 2015年7月10日閲覧。
- ^ “PL学園監督が急転、2代連続校長に”. 日刊スポーツ. (2015年4月1日) 2015年7月10日閲覧。
- ^ a b c “清原だけが知っているコレが本当のPL学園!!”. 清ちゃんスポーツ. YouTube (2021年3月20日). 2021年9月10日閲覧。
- ^ “寮生活”. PL学園中学校・高等学校. 学校法人 PL学園. 2021年9月9日閲覧。
- ^ (日本語) 宮本慎也さんすべらない話、高校野球「PL学園野球部の理不尽!」5年前に大谷翔平選手の本塁打王を予言! 2023年1月22日閲覧。
- ^ (日本語) 【PL学園と天理】名門校、地獄の寮生活…今では考えられない壮絶な野球生活 2023年1月22日閲覧。
- ^ “清原和博氏 PL学園の1年生付き人は「もう一回やれと言われてもみんな1億円もらっても断る」”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2022年12月21日) 2022年12月21日閲覧。
- ^ 立浪和義『負けん気』(文芸社、2010年2月、ISBN 978-4286088532/増補版、文芸社文庫、2014年2月、ISBN 978-4286148939)
- ^ (日本語) 続編【風呂帰りもダッシュで汗だく】小早川毅彦が明かす、当時のPL学園野球部。軍隊よりも厳しかった。 2023年2月19日閲覧。
- ^ a b c “PL野球部新監督に学校事務職員 野球経験なし”. 朝日新聞 (2016年2月17日). 2016年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月6日閲覧。
- ^ “PL野球部復活へ光! 1年生1人に入部許可 今春から活動中と判明 カギは大阪府高野連への再加盟”. スポーツニッポン (2023年8月6日). 2023年8月6日閲覧。
- ^ 福本豊『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』ベースボール・マガジン社、2014年、p.43