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エグバル・ハミディ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エグバル・ハミディ

Eghbal Hamidy
生誕 (1960-08-01) 1960年8月1日(64歳)
イランの旗 イラン
シーラーズ
国籍 イランの旗 イラン
教育 インペリアル・カレッジ・ロンドン
業績
専門分野 空力エンジニア
エアロダイナミクス
雇用者 ウィリアムズ(1989 - 1997)
スチュワート(1997 - 1999)
アロウズ(1999 - 2000)
ジョーダン(2001 - 2002)
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エグバル・ハミディ(Eghbal Hamidy, 1960年8月1日 - )[1]は、イラン空力エンジニア。

1989年から2002年の初頭にかけて、4つのF1チームでチーフ・エアロダイナミシストを務めた。

キャリア

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ハミディはF1で働く数少ないイラン人のエンジニアのうちのひとり。

イランのシーラーズで生まれ、英国で育ったハミディは、アメリカ航空宇宙局(NASA)のアポロ計画に憧れ、エンジニアリングへの関心を高め、航空エンジニアになることを志し、インペリアル・カレッジ・ロンドンで航空工学の理学士号と修士号を取得し、航空業界での就職を探るも叶わず、さらに、車両動力学を専攻し、1988年に博士課程を修了し博士[2]

在学中の1980年代後半にハミディは、1980年代初頭にウィリアムズロータスによって使用されていた、ホンダが後援するインペリアルの40%ローリングロードウィンドトンネルで働いていた。

ウィリアムズ

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フランク・ダーニーウィリアムズを去り、風洞経験を持つエンジニアの公募がなされた1989年、エアロダイナミシストとしてウィリアムズチームでキャリアをスタートさせ、1995年の終わりまでチームにとどまる。

パトリック・ヘッドエンリケ・スカラブローニとともに働くが、1990年夏にレイトンハウスマーチ)を解雇されたエイドリアン・ニューウェイが合流し、チーフ・デザイナーの席に就く。

以降5年半、2人は行動を共にし多くのチャンピオンカーを送り出すことになる。

スチュワート

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1996年からに1998年にかけて、スチュワート・グランプリの設計チームに加わり、3シーズン分の車両設計で、チーフエアロダイナミシストを務める。

初年度のSF-1は、ルーベンス・バリチェロがモナコで2位となった。

最終年のSF-3は、新設計のフォード・コスワース CR-1との相性が良く、テクニカルディレクターのゲイリー・アンダーソンとのR&Dで好成績を残した。

ジョニー・ハーバート1999年ヨーロッパグランプリニュルブルクリンク)での優勝を含め4つの表彰台を手にし、ルーベンス・バリチェロは1999年フランスグランプリポールポジションを記録した。

TWRアロウズ

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1998年からに1999年にかけて、トム・ウォーキンショーが率いるTWRアロウズの設計チームに加わり、2シーズン分の車両設計で、チーフデザイナーを務めた。

投入 設計 型式 Tech Director Eng Director チーフデザイナー 空力 Head
1996 1995 FA17 アラン・ジェンキンス デイブ・エイミー
1997 1996 A18 フランク・ダーニー ポール・ボーウェン サイモン・ジェニングス
1998 1997 A19 ジョン・バーナード マイク・コフラン
1999 1998 A20 マイク・コフラン
(バーナードの代理)
エグバル・ハミディ
2000 1999 21
2001 2000 A22 ロバート・テイラー ニコロ・ペトルッチ
2002 2001 A23 セルジオ・リンランド
ジョン・バーナードが設計したアロウズ・A19

これは1998年に納車された、ジョン・バーナードの手によるA19のR&Dで、ハミディはVキールソリューションカーの理解と熟成を担当した。

この、ノーズ下方域のフロー処理に関わる課題は、サスペンション設計との関連から、モノコックの下側に遥かに外れた位置におけるロアアーム支持ポイントを必要とするものであったが、TWRアロウズ内部でR&Dされた上で、セルジオ・リンランドが雇用され、2002年車のA23のツインキール設計として結実する。

アロウズ・A21(2000年)
アロウズ・A22(2001年)
A23 (ツインキール)
スーパーアグリ・SA05

ジョーダン

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ジョーダン・EJ11(2001年)

2000年からジョーダンで2期、テクニカルディレクターを務めた。

2000年はマイク・ガスコインと、2人テクニカルディレクター体制で、空力ヘッドのジョン・アイリーで、2001年車のジョーダン・EJ11の設計が行われた。

ジョーダン・EJ12のツインキール

2001年は、ハミディの最後の年となる。スポーティングディレクターのゲイリー・アンダーソン、チーフデサイナーのジョン・マクキリアムとの組み合わせで2002年車のジョーダン・EJ12の設計を終え、2002年の初めに業界からその姿を消したという[3] [4]

ジョーダン離脱後の2004年11月、個人オフィスとして「EHE Ltd.」を設立しているが[5]、以後の目立った活動はない。

参考文献

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  1. ^ Eghbal Hamidy”. OldRacingCars.com. 31 December 2021閲覧。
  2. ^ The Imperial”. grandprix.com. 2022年8月18日閲覧。
  3. ^ Jordan 11 Launch: Hamidy confirmed”. Autosport.com. 31 December 2021閲覧。
  4. ^ Hamidy and Jordan part company”. Motorsport.com. 31 December 2021閲覧。
  5. ^ Eghbal Hamidy - Linkedin

外部リンク

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