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服部道子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
服部 道子
Michiko HATTORI
基本情報
名前 服部 道子
生年月日 (1968-09-08) 1968年9月8日(56歳)
出身地 愛知県の旗 愛知県愛知郡 日進町(現・日進市
プロ転向 1991年
優勝数
日本LPGA 18勝
2018年6月18日現在
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服部 道子(はっとり みちこ、1968年9月8日 - )は、愛知県日進市出身の元女子プロゴルファー。身長168cm、体重59kg。血液型B型。

経歴

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小学校4年の時に祖父の勧めでゴルフを始める[1]。道子の母は1962年度の日本女子アマチュアゴルフ選手権競技の優勝者であった[1]

愛知淑徳高校1年だった1984年、当時史上最年少の15歳9ヶ月で日本女子アマ優勝(1985年1988年にも日本女子アマ優勝)。さらに1985年全米女子アマで当時史上最年少、日本人としては初の優勝。これがきっかけで同年の『第36回NHK紅白歌合戦』(NHK総合ラジオ第1)に中部地方代表の地方審査員で出演[2]。高校卒業後はアメリカテキサス大学オースティン校に留学し、国際経営学を学ぶ[1]

1991年にテキサス大学を卒業して帰国。道子本人は「プロになるつもりはなくて、帰国後の就職をどうしようかと思っていた」が、母が「(JLPGAの)プロテストに申請したから受けてみなさい」と勧めたために同年の日本女子プロゴルフ協会プロテストを受験し、トップで合格[1]

1993年ミズノオープンレディスゴルフトーナメントでツアー初優勝。

1998年には年間5勝を挙げて賞金女王に輝く。同年の『第49回NHK紅白歌合戦』(NHK総合・ラジオ第1)では特別審査員を務めた。特別審査員を2回以上務めたケースはこれまでもあったが地方審査員と特別審査員の両方を務めたのは初めてのケースだった。

2009年6月、大学病院に勤務する3歳年下の医師と結婚。同年11月、1993年から17年連続で獲得してきた賞金シードからの陥落が確定。最後の望みを賭けたファイナルQTも53位と振るわず、2010年はチャレンジツアーからの出直しとなってしまった。

2013年、44歳の高齢出産により長男が誕生した[3]

現在はツアー大会への出場は少なくなったが、解説者としてメディアへの登場が多くなっている。

2019年6月、2020年東京オリンピックのゴルフ日本代表女子コーチに就任。当初、日本ゴルフ協会は宮里藍に打診したが、経験不足を理由に辞退。小林浩美強化副委員長が中心となって人選を進め、海外経験が豊富で米女子ツアーの解説者を務めるなど世界の女子ゴルフを熟知していることから選ばれた[4]

2021年、初の著書『好転力』(世界文化社)を出版。ゴルフから学んだ人生哲学を綴る。

人物

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父は医者[5]

優勝歴

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ツアー通算18勝を挙げている。

著書

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脚注

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  1. ^ a b c d “あの頃ワタシは若かった 昭和の履歴書 女子プロ編 vol.11 -服部道子-”. パーゴルフ+Plus. グローバルゴルフメディアグループ株式会社: p. 1-5. (2018年3月17日). http://www.pargolf.co.jp/special/118070/page/2/app/photo 2018年6月18日閲覧。 
  2. ^ 現役のアスリートが地方審査員を務めたケースは第22回(1971年)に同年の日本オープンゴルフ選手権競技でローアマとなった当時アマチュアだったプロゴルファーの高橋信雄関東甲信越地方の地方審査員に、同じく同年のバドミントン全英オープンで優勝した中山紀子中部地方の地方審査員に(第22回は著名人で構成される特別審査員と視聴者代表審査員との括りを廃して地方代表審査員に一本化したが第23回以降は再び特別審査員と視聴者代表審査員に戻した)、第39回(1988年)に1988年ソウルオリンピックスポーツピストル銀メダリストの長谷川智子(現:福島實智子)が近畿地方の地方審査員になった例がある。
  3. ^ 片山哲郎 (17 December 2014). "日本ゴルフジャーナリスト協会「2015年新年会」開催のご案内" (HTML). 日本ゴルフジャーナリスト協会. 2018年6月18日閲覧
  4. ^ 服部道子氏「身引き締まる思い」五輪女子コーチ発表
  5. ^ 道子が年下医師と結婚、亡き父と同じ職業”. 日刊スポーツ (2009年6月5日). 2024年3月1日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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