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徳川吉宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
米将軍から転送)
 
徳川 吉宗
徳川吉宗像(徳川記念財団蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 貞享元年10月21日1684年11月27日[1][2]
死没 寛延4年6月20日1751年7月12日[3](66歳没)
改名 松平頼久→頼方→徳川吉宗
別名 幼名:源六
通称:新之助
渾名:米将軍、八十八将軍、八木将軍
戒名 有徳院殿贈正一位大相国(法号)
墓所 東叡山寛永寺円頓院
官位 従四位下右近衛権少将主税頭
従三位左近衛権中将
参議権中納言
正二位内大臣右近衛大将右大臣
正一位太政大臣
幕府 江戸幕府 8代征夷大将軍
享保元年(1716年8月13日 - 延享2年(1745年9月25日
越前葛野藩主→紀伊和歌山藩
氏族 紀州徳川家→葛野松平家→紀州徳川家→徳川将軍家
父母 父:徳川光貞
母:浄円院
養父:徳川頼職徳川家継
兄弟 綱教次郎吉頼職吉宗、栄姫(上杉綱憲正室)、光姫(一条冬経室)、育姫佐竹義苗正室)、綱姫
御簾中:真宮
側室:深徳院深心院本徳院覚樹院おさめお咲
家重、男子、宗武源三宗尹芳姫
養子宗直竹姫利根姫
猶子尊胤入道親王
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徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府の第8代将軍(在職:1716年 - 1745年)。江戸幕府の中興の祖とも呼ばれている。和歌山藩の第5代藩主。初代将軍家康の曾孫。4代将軍家綱、5代将軍綱吉はとこにあたる。

生涯

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※ 日付は、旧暦表示

出生

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貞享元年(1684年)10月21日[1][2]紀州藩徳川光貞の末男(四男)として城下の吹上邸において生まれる[注釈 1]。母は巨勢利清の娘・紋子和歌山城大奥の湯殿番であった紋子は、湯殿において光貞の手がついたという伝説がある。

幼年は家老加納政直の元で育てられた。当時、父親が「四十二の二つ子(四十一のときに生まれた子供)」では子供は元気に育たないという迷信があった。そのため、一旦和歌山城中の松の木のそばに捨て、それを政直が拾うという体裁を取った[注釈 2]。加納家でおむつという乳母を付けられ、5歳まで育てられた。次兄・次郎吉が病死した後は名を新之助と改め、江戸の紀州藩邸に移り住む。幼い頃は手に負えないほどの暴れん坊だった。

越前葛野藩主

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騎乗像(和歌山市)

元禄9年(1696年)末、13歳で従四位下右近衛権少将兼主税頭となり、松平頼久(よりひさ)と名乗る。同時に兄の頼職も従四位下左近衛権少将兼内蔵頭に任じられている。 翌元禄10年(1697年)4月、紀州藩邸を訪問した将軍徳川綱吉御目見し、越前国丹生郡内に3万石を賜り、葛野藩主となる。またこれを機に名を頼久から松平頼方(よりかた)と改めた。同時に兄の頼職も同じく越前国丹生郡内に3万石を賜り、高森藩主となっている。

父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄たちに対し、頼方は次の間に控えさせられていたが、老中大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が叶った、と伝わる。しかし兄の頼職とは叙任も新知も石高までもが並んでいるため、兄と差をつけられていたという話は疑わしい。なお、葛野藩は家臣を和歌山から派遣して統治するだけで、頼方は和歌山城下に留まっていた。同地では「紀伊領」と呼ばれていた。派遣された家臣も独立した葛野藩士という身分ではなく、紀州藩の藩士である。

紀州藩主

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宝永2年(1705年)に長兄である藩主・綱教が死去し、三兄・頼職が跡を継ぐ。この際、頼職が領していた高森藩は幕府に収公された。後に3万石の内、1万石分が加増編入されたため葛野藩は4万石となった。

しかし同年のうちに父光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州家を相続し藩主に就任する。藩主に就任する際、綱吉から偏諱を賜り、(徳川)吉宗と改名する。紀州藩相続時に葛野藩領は幕府に収公され、御料(幕府直轄領)となった。

宝永3年(1706年)に二品貞致親王の王女真宮(理子)を御簾中に迎えているが、宝永7年(1710年)に死別した。

宝永7年(1710年)4月にお国入りした吉宗は、藩政改革に着手する。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図る。自らも木綿の服を着て率先した。2人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害である1707年宝永地震・津波の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮する。また、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも努めている。

紀州藩主時代、深徳院との間に長男・長福丸(後の徳川家重)、本徳院との間に二男・小次郎(後の田安宗武)が誕生した。

8代将軍就任

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享保元年(1716年)に将軍徳川家継が8歳で早世し、将軍家の本家血筋(徳川家康の三男秀忠の男系)が絶えた後を受け、御三家の中から家康との世代的な近さを理由に、御三家筆頭の尾張家を抑えて第8代征夷大将軍に就任した、と一般的には説明されている。

ただし、実際には館林藩主で家継の叔父に当たる松平清武とその子で従兄弟の松平清方と、この時点では徳川家光の男系子孫は存在していた[注釈 3]。しかし、館林藩では重税のため一揆が頻発して統治が安定していなかった上、清武は他家に養子に出た身であり、すでに高齢だったという事情により、選考対象から外れていた。清武自身も将軍職に対する野心はあまりなかったと言われている(詳しくは清武の項目を参照)。

御三家筆頭とされる尾張家では、当主の4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太が正徳3年(1713年)頃に相次いで死去した[注釈 4][注釈 5]。そのため吉通の異母弟継友が尾張藩6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛家熙の娘の安己君[注釈 6]と婚約し、間部詮房新井白石らによって引き立てられており[注釈 7]、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反新井の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。

吉宗は将軍就任にあたって、紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、綱吉の館林藩、家宣の甲府藩は、当主が将軍の継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩・絶家にされ、甲府家の家臣は幕臣となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君(家康)から拝領した聖地であるとして、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから加納久通有馬氏倫ら大禄でない者を40名余り選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。この40人余りは、吉宗のお気に入りを特に選抜したわけではなく、たまたまその日当番だった者をそのまま帯同したという[6]。こうした措置が、側近政治に反感を抱いていた譜代大名旗本から好感を持って迎えられた。

享保の改革

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将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人間部詮房新井白石を罷免したが、新たに御側御用取次という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。

吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之老中に任命して財政再建を始める。定免法上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟の迅速化のため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである享保の改革を行った。また、大奥の整備、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)といった改革も行う。またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励した。また、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させた。しかし、年貢を五公五民にする増税政策によって農民の生活は窮乏し、百姓一揆の頻発を招いた。また、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞した。

大御所

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延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態ではなかったため、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けた。なお、病弱な家重より聡明な二男・宗武や四男・宗尹を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。ただし家重は、言語障害はあったものの知能は正常であり、一説には将軍として政務を行える力量の持ち主であったとも言われる。あるいは、将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けるためには、才児として台頭している宗武や宗尹より愚鈍な家重の方が扱いやすかったとも考えられるが、定説ではない。

宗武・宗尹は養子に出さず、部屋住みの形で江戸城内に屋敷を与え、田安家一橋家(御両卿)が創設された(吉宗の死後に清水家が創設されて御三卿となった)。のち家重の嫡流は10代将軍家治で絶えるも、一橋家から11代将軍家斉が出るなどして、14代将軍家茂までは吉宗の血統が続くことになった。

翌延享3年(1746年)に中風を患い、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残った[7][8]。御側御用取次であった小笠原政登によると朝鮮通信使が来日時には、小笠原の進言で江戸城に「だらだらばし」というスロープ・横木付きのバリアフリーの階段を作って、通信使の芸当の一つである曲馬を楽しんだという[7]。また小笠原と共に吉宗もリハビリに励み、江戸城の西の丸から本丸まで歩ける程に回復した[7]

将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)6月20日に死去した[3]享年68[3](満66歳没)。死因は再発性脳卒中と言われている[8]

徳川吉宗 贈太政大臣の辞令(宣旨) 「兼胤公記」

故右大臣正二位源朝臣
正二位行權大納言藤原朝臣榮親宣
奉 勅件人宜令贈任太政大臣者
寛延四年後六月十日
大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充奉

(訓読文)

故右大臣正二位源朝臣(徳川吉宗)
正二位行權大納言藤原朝臣栄親(中山栄親)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまる)に、件人(くだんのひと)宜しく太政大臣に任じ贈らしむべし者(てへり)
寛延4年(1751年)後(閏)6月10日
大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充(押小路師充、従五位上)奉(うけたまは)る

寛永寺東京都台東区上野桜木一丁目)に葬られている。

趣味・嗜好

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広南従四位白象
  • 享保13年(1728年)6月、自ら注文してベトナムからを輸入し、長崎から江戸まで陸路で運ばせた。この事により、江戸に象ブームが巻き起こった[9][10]
  • 養生生活の基本は、心身の鍛錬と衣食の節制にあり、関口柔心の流れを組む「新心流」の拳法柔術)で体を鍛え、 鷹狩で運動不足を解消していた[11]
  • 松平明矩が重病になった時に、音楽による気分転換を勧めているが、自らも公務の余暇に「古画」(絵画)の鑑賞や、それの模写に没頭することを慰みとし、『延喜式』に見える古代の染色法の研究に楽しみを求めて鬱を散じていた[11]
  • 狩野常信に師事し、常信の孫・狩野古信に絵の手ほどきをしている。絵画の作品も何点か残されている(野馬図など)。また淡墨を使って描く「にじみ鷹」の技法を編み出している。
  • 室町時代から伝統的に武家に好まれた時代の中国画を愛好していた。享保13年(1728年)には、各大名家に秘蔵されていた南宋時代の画僧牧谿筆の瀟湘八景図を借り集め鑑賞している。さらに中国から宋元画を取り寄せようとしたが、これらは既に中国でも入手困難だったため叶わなかった。代わりに中国画人・沈南蘋が来日し、その画風は後の近世絵画に影響を与えた。
  • 好奇心の強い性格で、キリスト教関連以外の書物に限り洋書の輸入を解禁とした。これにより、長崎を中心に蘭学ブームが起こった。

政策・信条

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方針

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  • 吉宗は将軍就任後、新井白石らの手による「正徳の治」で行われた法令を多く廃止した。これは白石の方針が間違っているとの考えによるものであるが、正しいと考えた方針には理解を示し、廃止しなかった。そのため、吉宗は単純に白石が嫌いであると思っていた幕臣たちは驚き、吉宗の考えが理解できなかったという。なお、一説には吉宗は白石の著書を廃棄して学問的な弾圧をも加えたとも言われている。
  • 一方で、幕府創設者である徳川家康と並んで幕政改革に熱心であった第5代将軍・綱吉を尊敬し、綱吉が定めた「生類憐れみの令」を即日廃止した第6代将軍・家宣を批判したと言われる。ただし、綱吉の代に禁止されていた犬追物鷹狩の復活も行なっており、必ずしも綱吉の政策に盲従していたわけではない。
  • 江戸幕府の基本政策である治水や埋め立て、町場の整備の一環として飛鳥山隅田川堤などへ桜の植樹をしたことでも知られる。

倹約

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  • 肌着は木綿と決めて、それ以外のものは着用せず、鷹狩の際の羽織や袴も木綿と定めていた。平日の食事は一汁一菜と決め、その回数も一日に朝夕の二食を原則としていた[12]
  • 吉宗を将軍に指名した天英院に対しては、年間1万2千両という格別な報酬を与え、さらに家継の生母・月光院にも居所として吹上御殿を建設し、年間1万両にも及ぶ報酬を与えるなどしており、天英院の影響下にある大奥の上層部の経費削減には手を付けることはなかった。

経済

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  • 江戸時代の税制の基本であった米価の調節に努め、上米の制定免法新田開発などの米政策を実行したことによって吉宗は「米将軍」、また「米」の字を分解して「八十八将軍」または「八木将軍」とも呼ばれた。
    • 吉宗の死後、傍らに置いていた箱の中から数百枚の反故紙が見つかった。そこには細かい文字で、浅草の米相場価格がびっしりと書かれていた、と伝わる。
  • 商品作物酪農などの新しい農業を推奨した。それまで清国からの輸入に頼るしかなかった貴重品の砂糖を日本でも生産できないかと考えてサトウキビの栽培を試みた結果、後に日本初の国産の砂糖として商品化に成功したのが和三盆である。その他、飢饉の際に役立つ救荒作物としてサツマイモの栽培を全国に奨励した。
  • 御三家筆頭尾張家徳川宗春は吉宗と異なった経済政策を取り、積極政策による自由経済の発展を図ったが、吉宗の施政に反する独自政策や宗春の行動が幕府に快く思われず、尾張藩と幕府との関係が悪化した[注釈 8][注釈 9]。尾張藩家老竹腰正武らは宗春の失脚を企て、宗春は隠居謹慎の上、閉門を命じられ、その処分は宗春の死後も解かれることがなかった[注釈 10][注釈 11]。また、高尾太夫を落籍し、華美な遊興で知られた榊原政岑も処罰するなど[注釈 12]、自らの方針に反対する者は親藩であろうと譜代の重鎮であろうとも容赦はしないことで、幕府の権威を強力に見せつけた。
  • 吉宗は将軍に就任するなり新井白石を罷免したが、白石が着手し、元禄・宝永金銀と混在流通の状態に陥っていた正徳金の通用については一段と強力な措置を講じた[15]。享保3年(1718年)には通用銀を宝永銀から正徳銀へ変更し、享保7年末(1723年)限りで元禄金宝永銀を通用停止とした。しかし米価の下落から困窮していた武士や農民の救済のため金銀の品位を下げ流通量を増やすべきとする大岡忠相の強い進言に折れ政策を転換した[16][17]元文元年(1736年)に行われた元文の改鋳は、日本経済に好影響をもたらした数少ない貨幣改鋳であるとして、積極的に評価されている[18]。吉宗は以前の改鋳が庶民を苦しめたこともあり、この改鋳に当初は否定的であったが、貨幣の材質を落とすことで製造上の差益を得る目的であった過去の改鋳と違い、元文の改鋳は純粋に通貨供給量を増やすものであった。元文の通貨は以後80年間安定を続けた。
  • 吉宗の行なった享保の改革は一応成功し、幕府財政もある程度は再建された。そのため、この改革はのちの寛政の改革天保の改革などの基本となった。ただし、財政再建の一番の要因は上米令と増税によるものであったが、上米令は将軍権威の失墜を招きかねないため一時的なものにならざるを得ず、増税は百姓一揆の頻発を招いた。そのため、寛政・天保の両改革ではこれらの政策を継承できず、結局失敗に終わった。

保安

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  • 紀州藩の基幹産業の一つである捕鯨との関わりも深く、熊野の鯨組に軍事訓練を兼ねた大規模捕鯨を1702年(元禄15年)と1710年(宝永7年)に紀伊熊野の瀬戸と湯崎(和歌山県白浜町)の2度実施させており、その際は自ら観覧している。また、熊野灘の鯨山見(高台にある鯨の探索や捕鯨の司令塔)から和歌山城まで狼煙を使った海上保安の連絡網を設けていた。
  • 将軍就任後、河川氾濫による被災者の救出や、江戸湾へ流出した河川荷役、塵芥の回収に、鯨舟(古式捕鯨の和船)を使い、「鯨船鞘廻御用」という役職を設けて海上保安に努めた。
  • 海防政策としては大船建造の禁を踏襲しつつも下田より浦賀を重視し、奉行所の移転や船改めを行い警戒に当たった。
  • 将軍として初めて「御庭番」を創設し、諸藩や反逆者を取り締まらせた[注釈 13]

年表

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年月日(月日は旧暦 事柄 出典
貞享元年(1684年)10月21日 和歌山藩主徳川光貞の四男として生まれる。
元禄9年(1697年)12月11日 従四位下に叙し、右近衛権少将兼主税頭に任ず。松平頼久と名乗る。続いて、頼方と改める。
元禄10年(1697年)4月11日 五代将軍綱吉が和歌山藩邸を訪れ、その際に越前葛野藩3万石藩主となる(後に1万石加増)。
宝永2年(1705年)10月6日 紀伊徳川家5代藩主就任
同年12月1日 従三位左近衛権中将に昇進。将軍綱吉の偏諱を賜り「吉宗」と改名。
宝永3年(1706年)11月26日 参議に任ず。左近衛権中将元の如し。
宝永4年(1708年)12月18日 権中納言に昇進。
正徳6年(1716年)4月30日 将軍後見役就任
享保元年(1716年)7月13日 正二位権大納言に昇進。
享保元年(1716年)7月18日 征夷大将軍源氏長者宣下。内大臣・右近衛大将に昇進。
寛保元年(1742年)8月7日 右大臣に昇進。右近衛大将元の如し。
延享2年(1745年)9月25日 征夷大将軍辞職
寛延4年(1751年)6月20日 死去
同年閏6月10日 正一位太政大臣

系譜

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徳川吉宗の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 松平広忠
 
 
 
 
 
 
 
8. 徳川家康
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 水野大子
 
 
 
 
 
 
 
4. 徳川頼宣
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9. 於万
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 徳川光貞
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10. 中川重高
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 理真院
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 江戸幕府8代将軍
徳川吉宗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 中井利次
 
 
 
 
 
 
 
12. 中井利盛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 巨勢利清
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 巨勢紋子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14. 壺井義高
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. 冷香院
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

偏諱を受けた人物

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吉宗時代(将軍在職時/「宗」の字)

関連作品

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小説
映画
テレビドラマ
パチスロ
アニメ
落語
漫画
舞台

その他

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関連項目

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参考文献

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脚注

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注釈

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  1. ^ 血液型は、徳川家綱と同じO型だったとされている[4]
  2. ^ 豊臣秀頼などもこの体裁を取っている。
  3. ^ 他に秀忠の男系子孫には保科正之に始まる会津松平家があり、秀忠の家系を伝えていた。だが保科家は御連枝や親藩ですらない譜代大名である。
  4. ^ 両者に関しては紀州藩による陰謀・暗殺とする説もある。
  5. ^ 吉宗が紀州藩主や将軍になるにあたり、次々と関係者が死去していることから、小説ドラマなど創作物では吉宗の暗殺とまでされている場合がある。
  6. ^ 徳川家宣の御台所天英院の姪であり、2代将軍徳川秀忠の娘和子の玄孫でもある。また姉の尚子は後に中御門天皇の女御として桜町天皇を産んでいる。
  7. ^ 御連枝としていまだ独立もしていないのに従四位下左近衛権少将に昇進している[5]。ただし、任じられたのはようやく21歳になってからのこと。弟の松平通温も部屋住みであったが正徳2年(1712年)には15歳で従四位下侍従兼安房守、同4年(1714年)には左近衛権少将に任官されている。継友が権少将に任官した正徳2年12月当時の藩主の吉通は24歳、五郎太は1歳であり、継友ら兄弟は、当主の吉通らが病没するなどの非常時のための後継候補要員として官位などが用意されていた、とも考えられる。さらに紀州藩の場合、部屋住みのまま頼職は15歳で従四位下左近衛権少将兼内蔵頭、頼久(のちの吉宗)も12歳で従四位下・右近衛権少将兼主税頭に任じられている上に、気前のい綱吉とはいえ、翌年には兄弟に新規所領が与えられている。
  8. ^ 御三家筆頭の名古屋藩と、二番手である紀州藩出身の吉宗、および将軍家との格式の張り合い、また8代将軍選定時の尾張藩(先代の継友)と吉宗との遺恨、朝廷派の尾張藩と幕府の対立なども含まれるとされる。
  9. ^ ただし、宗春が吉宗を直接批判した文章は残っていない。吉宗は宗春にたいへん目をかけていた記録も散見される[13]。宗春が江戸でも尾張藩内と同じように派手な言動をとった記録は、市谷尾張藩邸の新築時に江戸庶民に開放した享保17年5月の端午の節句以外の直接的な資料はいまだ見つかっていない。
  10. ^ 1764年に赦免されるまで、墓石には罪人を示す金網が被せられていたとされているが、金網が被せられていたことを裏付ける史料は見つかっていない。
  11. ^ 吉宗は謹慎中の宗春に対し、生活を気遣う使者を送っている[14]
  12. ^ 前述の宗春も芸者を落籍して側室としている。
  13. ^ 誇大に語られる御庭番だが、実態としては大目付目付を補う、小回りの利く将軍直属の監察官秘書官に近い。

出典

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  1. ^ a b 辻 1985, p. 1.
  2. ^ a b 小山 1995, p. 26.
  3. ^ a b c 辻 1985, p. 208.
  4. ^ 得能審二『江戸時代を観る』リバティ書房、1994年、122-138頁
  5. ^ 『尾藩世記』『尾張徳川家系譜』『徳川実紀』より。
  6. ^ 福留真紀 『将軍と側近 室鳩巣の手紙を読む』( 新潮社、2014年12月20日、pp.140-141)
  7. ^ a b c 小笠原政登著・『吉宗公 御一代記』
  8. ^ a b 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書2005年5月ISBN 978-4106101199
  9. ^ 『像志』(1729年)
  10. ^ 石坂昌三『象の旅長崎から江戸へ』(1992年)
  11. ^ a b 宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243頁)
  12. ^ 宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243-244頁)
  13. ^ 徳川実紀
  14. ^ 『尾公口授』江戸時代写本
  15. ^ 瀧澤・西脇『日本史小百科「貨幣」』270-271頁
  16. ^ 三上隆三『江戸の貨幣物語』189-191頁
  17. ^ 河合敦『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』128-133頁
  18. ^ 日本銀行金融研究所貨幣博物館:貨幣の散歩道 Archived 1999年2月9日, at the Wayback Machine.
  19. ^ 徳川綱吉側室の寿光院の兄。
  20. ^ 将軍の肖像画、下絵はリアル 徳川宗家に伝来、研究進む:朝日新聞2012年8月8日
  21. ^ 鶴は千年、亀は萬年。 2012年8月8日付[リンク切れ]

外部リンク

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