広島藩
広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩(国主)。現在の広島県の大半を占める[注 1]。藩庁は安芸国安芸郡[1]広島(現在の広島県広島市中区基町)の広島城に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。
先史(桃山・戦国以前)
鎌倉時代末期に、越後国刈羽郡(旧称:三島郡)佐橋荘(さはしのしょう)を領した毛利経光は、四男の時親に安芸国高田郡吉田荘(よしだのしょう – 高田郡吉田村吉田、現・広島県安芸高田市吉田町吉田)を分与し分家を立てた。時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが[2]、南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)において領地を直接統治[3]するようになる。吉田荘に移った毛利氏は、室町時代に安芸国の有力な国人領主として成長した。
毛利氏は戦国時代、安芸武田氏を討って安芸を平定すると、大内義長を滅ぼし、尼子義久を降伏させて中国地方の大半(一時は九州の一部にも及ぶ)を領する大大名となる。天正19年(1591年)には広島城が築城されて毛利氏の居城となり、広島は政治・経済の中心地となった。しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として参戦し敗戦した毛利輝元は、戦後、山陰山陽の112万石から防長2国(長州藩・現在の山口県)29万石に減封された[4]。
藩史
福島家の時代
毛利家のあとは安芸・備後2か国40万2千150石[5]の太守として、尾張国清洲より福島正則が入封した。正則は慶長6年(1601年)から再検地を実施し、高直しで49万8000石の朱印高を得た[6]。毛利家時代に不徹底に終わった兵農分離・石高制の移行を行なった。しかし安芸は土豪の勢力が根強かったことから、一部に妥協して郷士制も残している。また、城下町の建設や国内産業の発展なども正則の時代に行なわれ、広島藩の藩政が確立した。
慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)、一国一城令により、安芸国は広島城、備後国は神辺城(村尾城)を残し破却した(神辺城は、のちに福山城を築いて移った水野家により破却される)。備後国の三原要害(三原城)は、一城令より前に福島正之が追放されてから廃城となっていたが、発令後に福島氏は破却した鞆城の櫓を密かに移築したとも言われる。
しかし正則は大坂の陣が終わった後の元和5年(1619年)6月、洪水で損壊した広島城を無断改修した武家諸法度違反の咎により、大幅減封の上信濃国高井野藩(通称川中島藩)に転封された。実際は豊臣家恩顧の有力大名であり、大坂の陣によって江戸幕府が豊臣家を滅亡させたことに異を唱えたことによるものであったと思われる。
浅野家の時代
代わって紀州藩より、豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の次男・浅野長晟が安芸1国・備後8郡の国主大名として入封した。芸備二国の福島領より狭少だが、42万6000石の検知高を得て幕府から承認された。広島は大坂との瀬戸内海航路の海運に恵まれ、藩成立の早期より木材・鉄・紙などの専売を敷いた。また、米相場を巧みに利用し、自藩の米のみならず他藩の米を安く仕入れ、相場を見極めて売りさばき巨利を得て、「芸侯の商売上手」と江戸時代中期の学者・海保青陵(儒学・経済学)より評された。
長晟は福島家時代の政策を踏襲するが、その一方で土豪に対しては厳しい態度で臨み[7]、統治機構の近代化を目指した。
第2代藩主・光晟(長晟の次男)は徳川家康の外孫であったため、幕府の許しを得て光晟の庶兄・浅野長治に5万石を分与した。これが支藩である三次藩の立藩であり三次陣屋が置かれた。光晟は街道整備に尽力し、また松平姓を名乗ることも許された。
第3代藩主・綱晟(光晟の長男)は正室、継室にいずれも九条道房の娘を迎えている。道房の母は豊臣秀勝の娘である豊臣完子であり、以降の浅野宗家は豊臣家の血を女系で受け継ぐことになる。
第4代藩主・綱長(綱晟の長男)時代の元禄14年(1701年)、分家の赤穂藩主・浅野長矩が刃傷事件を起こすに至ったが、この事件を受けて広島藩は、事が大きくなって浅野本家に一族連座するのを避けるため、進藤俊重、小山良速など赤穂藩重臣たちの親族の藩士を次々と赤穂藩へ派遣して開城圧力をかけたり、その後の大石良雄の盟約にも切り崩しをはかり、進藤俊式や小山良師ら大石側近を説得して脱盟させている。もっとも、討ち入りそのものの阻止は出来なかった。しかし数年後、態度を一変させて大石良雄の三男・良恭や小山氏・萱野氏など赤穂藩の旧臣を召抱えるようになった。藩では浅野家との婚姻により、大石家を一門化しようとしたがことごとく失敗し[8]、大石家は減封・絶家・再興・除籍・他家からの養子入りが繰り返された。
また、赤穂藩の藩札回収に広島本家と三次藩からの多額の援助が行なわれ、赤穂藩の断絶後に鴻池家からの借財が桁違いに増加している[9]。 延宝8年の赤穂藩藩札が広島藩(現在は広島市)に残っており[10]、浅野本家からの援助があった裏付けとなっている[11]。 このような事情もあり、綱長時代の藩政は商品経済の発達による藩財政の行き詰まりが顕著になったため、家臣団の知行削減や藩札の大量発行が行なわれている。
こうして江戸時代中期になると、財政は悪化に転じた。第5代藩主・浅野吉長(綱長の長男)は家老から実権を奪い返して親政を試み、有能な人材登用、「郡方新格」による郡村支配の強化を目指して藩政改革を試みたが、郡村支配の強化は反発を招いて享保3年(1718年)3月に大規模な一揆にあい、失敗に終わった。なお、享保5年(1720年)5月に三次藩が断絶したため、享保15年(1730年)3月に吉長は弟の長賢に蔵米3万石を分与して、新田分知(広島新田藩)を立藩し、本家の継嗣が断絶した際に備えた。また享保10年(1725年)、広島藩の藩校として、白島稽古屋敷の一部を割いて「講学所」(現在の修道中学校・修道高等学校)を創始した。
第6代藩主・宗恒(吉長の長男)は宝暦の改革と言われる藩政改革に着手して成功を収め、財政が好転する。第7代藩主・重晟(宗恒の長男)は緊縮財政政策を採用し、徹底した諸制度の簡素化や綱紀の粛正を図り、これも成功したが、天明期に相次ぐ洪水や旱魃、冷害、虫害などによる凶作・飢餓に悩まされ、結局のところ、財政は悪化した。しかも天明6年(1786年)には打ちこわしも起こっている。第8代藩主・斉賢は、重晟の長男である。
第9代藩主・斉粛(斉賢の長男)は、第11代将軍・徳川家斉の娘・末姫との婚儀、饒津神社の造営、幕府の手伝い普請、凶作が相次ぎ、幕末になると藩財政は窮乏の一途をたどった。このため斉粛は殖産興業の実施・藩内産物の専売制の強化を行なった。しかし藩札の濫発による物価騰貴、専売制の反対一揆などが相次ぎ、さらに藩政改革の手法をめぐって家臣団で対立まで起こり、改革は事実上頓挫した。第10代藩主・慶熾は、斉粛の長男である。
第11代藩主・長訓(重晟の孫)は先代からの藩政改革を受け継ぎ、文久2年(1862年)、辻将曹を家老に抜擢し文久の改革を行なった。藩政機構・支配体系の中央集権化を図り、財政を強化し軍備を近代化し、成功をみた。長州征討で広島は最前線基地となり、戦争景気に湧いた。しかし長州征伐そのものには否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で、幕府が命じた長征の先鋒役を辞退している。
慶応2年(1866年)に第14代将軍・徳川家茂が死去し、第2次長征が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年(1867年)には長州藩・薩摩藩と同盟を結び、倒幕に踏み切った。一方で、第15代将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白を行うなどしたため、日和見藩として不信を招き、明治維新の主流からは外された形となった[12]。しかし戊辰戦争では官軍に参加して戦った。
明治2年(1869年)6月、第12代藩主・長勲(重晟の曾孫)は版籍奉還により広島藩知事に任じられる。同年同月に明治政府に報告した藩の負債総額は374万2千290両であった[13]。
明治4年(1871年)、廃藩置県により広島県となった。廃藩置県後の報告では藩札の未回収残が83万両余(銀札では17万9千482貫余)残っており、これらは明治政府により交換されることとなった。さらに広島藩(のち広島県)における重臣(勘定奉行ほか)による贋金作りが露見し、浅野長勲は二分金や金札が三原要害・東山屋敷・浅野忠英邸などにおいて製造されていたとの内容の報告書を提出し、関係者が処罰されている(長勲は不定期の謹慎)[14]。
明治17年(1884年)、藩主・浅野家は侯爵となり華族に列し、家老三家は男爵となった。なお長勲は昭和12年(1937年)に96歳で死去するまで長寿を保ち、当時の報道媒体からは「最後の殿様」ともてはやされたという。
なお、支藩(分家)として三次藩、広島新田藩があった。また赤穂藩(元の常陸真壁藩、同笠間藩)も分家といわれる場合もあるが、正確には別家である[15]。
歴代藩主
福島家
外様 49万8000石 (1600年 - 1619年)
浅野家
外様 42万6000石 (1619年 - 1871年)
支藩
真岡藩・真壁藩・笠間藩・赤穂藩
- 下野国真岡藩2万石(1601 - 1611年)
- 常陸国真壁藩5万石(1611 - 1622年)
- 常陸国笠間藩5万3500石(1622 - 1645年)
- 播磨国赤穂藩5万3500石(1645 - 1701年)、1671年に分家を2戸創設のため分地により5万石に変更
家臣団
広島藩は外様の大藩に多い地方知行制を採用し、家臣の知行高は42万石余のうち、知行総高29万3千石を占めた[16][17]。
家老
- 三原浅野家(備後三原領3万石(現在の三原市)・藩主一門・三原要害[18])・筆頭家老、維新後男爵
- 東城浅野家(備後東城領1万石(現在の庄原市東城町)・藩主一門) 維新後男爵
- 上田家(安芸小方領2万石・家臣) 維新後男爵
- 上田重安-重政-重次-重羽-義行-義従-義敷=義珍-安虎-安世=安節=重美=亀次郎
居城
藩邸
- 浅野家の江戸藩邸(上屋敷)は桜田門近くにあり[20](現在の総務省付近)、 『江戸図屏風』では、毛利家(長州藩)、上杉家(米沢藩)の西隣、井伊家(彦根藩)の東隣に並び、保科正之、酒井忠次と日比谷御門外の大名小路を挟んで対角線上の反対側に描かれている。
- 赤坂に中屋敷、青山に下屋敷があった。
5ヵ寺
幕末の領地
1869年(明治2年)に編入した広島新田藩領も含む。
上記のほか、明治維新後に北見国常呂郡、釧路国網尻郡を管轄した。
脚注
注釈
出典
- ^ 律令制下に置かれた郡であるが、平安時代に分割、高宮郡を分離。「角川日本地名大辞典 34 広島県」
- ^ 毛利貞親・親衡は越後の毛利領を拠点に南朝に味方し活動。
- ^ 吉田郡山城の築城者といわれる時親が曾孫の元春を後見した。
- ^ 慶長12年(1607年)、再検地で36万9千石に高直しされ、これが長州藩の表高となる。
- ^ 安芸一国21万2千950石並びに備後一国18万9千200石(『広嶋御時代分限帳』より「兼重蔵田検知高」)
- ^ 徳川秀忠『福島正則宛領地判物』元和3年(1617年)九月五日付
- ^ 光永氏や木戸氏ら、越後以来の譜代は毛利家と共に萩に移り、長州藩の上士となったが、元就からの家臣である芸備の土豪は、所領や俸禄の削減や年貢の増加が予想できること(実際に長州藩では検地に反対する一揆が起きた)、主筋だった大内領への移住よりは父祖代々の土地に残りたいこと、福島家は加増による入部のため人材の登用が期待できることなどで安芸・備後の両国に残るものが少なからずいた。
- ^ 大石大三郎は大身の浅野一門を2度も離縁した。大石るりも浅野一門を迎えるが、藩主に連なる血脈を残せなかった。
- ^ 浅野家文書「広島藩御覚書帳」
- ^ 五匁札・一匁札・三分札・二分札の銀札があり、額面上部に大黒天と銀分銅の絵柄が確認できる。
- ^ 「写真スライド・延宝赤穂藩札」広島市立中央図書館「おカネでみる広島藩」高木久史(2019年)
- ^ 藩名・旧国名がわかる事典 広島藩(コトバンク)
- ^ 「広島県の歴史」より『芸備志』巻九十四
- ^ 同『芸備志』巻九十五
- ^ 宇和島伊達や鳥取池田と同様、本家が既に持っていた自領を割いて立藩した大名ではない。
- ^ 「知行割判物発給禄」ほか
- ^ それでも三支藩・竜造寺一門四家などを抱える佐賀藩や、度々独立を企てる吉川領や分家の多い隣国の長州藩などの西国大名に比べると多いほうであり、直轄領は十万石を超えている。
- ^ 大名である無城の支藩と幕府を憚り、小早川時代の呼称「要害」と称す
- ^ 「一国一城令」慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)
- ^ 『慶長江戸図』・『寛政二十年江戸全図』(国会図書館)
- ^ 「浅野家文書」では事実の記載のみで理由は不明(真田信繁の大坂入城との関連も見当たらない)
参考文献
- 『藩史総覧』 児玉幸多・北島正元/監修 新人物往来社、1977年
- 『幕藩制国家の展開―広島藩・福山藩を中心として』 土井作治/著 渓水社、1985年
- 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』新人物往来社、1997年 ISBN 978-4404025241
- 『広島藩 地方書の研究』 勝矢倫生/著 宮帯出版社、1999年
- 中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書、2003年 ISBN 978-4166603527
- 八幡和郎『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』光文社新書、2004年 ISBN 978-4334032715
関連項目
- 広島藩の庭園
- 修道中学校・修道高等学校 - 広島藩の藩校の後裔である「私立浅野学校」を起源とする。
- 神機隊 - 江戸時代末に結成された藩兵。
外部リンク
先代 (安芸国・備後国) |
行政区の変遷 1600年 - 1871年 (広島藩→広島県) |
次代 広島県 |