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土屋圭市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドリキンから転送)
土屋 圭市
土屋 圭市
生誕 (1956-01-30) 1956年1月30日(68歳)
日本の旗 日本 長野県小県郡東部町
職業 レーシングドライバー
実業家
テンプレートを表示
DRIFT KING TELEVISION
YouTube
チャンネル
活動期間 2009年9月1日 -
ジャンル 車、ドライブ
登録者数 23.4万人
総再生回数 24,988,855回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2024年3月7日時点。
テンプレートを表示

土屋 圭市(つちや けいいち、1956年1月30日 - )は、日本の元レーシングドライバー長野県小県郡東部町(現:東御市)出身。血液型B型。ドリフト走行を多用するそのドライビングスタイルから「ドリキン」(ドリフトキングの略)とも呼ばれる。レーサーとしての経験から、その類の作品に監修として業務することもある[1]

来歴

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デビュー

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長野県出身。埴生高等学校卒業。高橋国光日産・スカイライン2000GT-Rに憧れて2000GTを購入。碓氷峠などといった峠道での「走り屋」として腕を磨き、1977年富士フレッシュマンレースでレースデビュー。以降倉田自動車と坂東商会のサポートを受けながら日産・サニートヨタ・スターレットを乗り継ぎ、ツーリングカー(いわゆる「ハコ車」)でのレースを中心に活動する。

ヨコハマタイヤ専属ドライバーとして、1984年の富士フレッシュマンレースではADVANカラーのトヨタ・スプリンタートレノで開幕6連勝を果たしたことで、その名は一躍モータースポーツの世界に広まり、また当時、「ADVANには足を向けて寝られない」と言い残すほどであり、現役末期の2002年までヨコハマの開発ドライバーとして活動した。

グループA/JSS

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1993年の全日本ツーリングカー選手権参戦マシン

その後全日本ツーリングカー選手権(グループA)には初年度の1985年トヨタ・カローラレビン(AE86)でフル参戦。翌年からはトヨタ・カローラFXホンダ・シビックBMW・635CSi等でスポット的に出場した後、1989年からはBMW・M3フォード・シエラのようなトップグループのマシンで再びシーズン通して参戦するようになった。

そして、1991年日産・スカイラインGT-Rがプライベーターチームにも本格導入されるようになると、タイサンから高橋健二とのコンビで参戦。1992年からタイサンはチーム国光とのジョイントとなり、憧れのドライバーであった高橋国光との「ドリキンコンビ」を結成し、グループAラストイヤーとなった1993年に1勝を挙げた。この間、JSSにも並行して参戦。マツダのFC3S型RX-7を駆り、ドリフト走行を始めとするコーナリングで、現在以上の高速コースだった富士スピードウェイにて、ストレート性能に勝るHR31スカイラインに真っ向勝負を挑んだ。

フォーミュラ3

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1989年から1992年にはドライビングスキルの向上等を目指して全日本F3選手権に参戦。しかしツーリングカーほどマシンの荷重移動を活かせず、ましてやドリフトなど以ての外というフォーミュラカーではドライビングスタイルの違いに苦しんだこともあって目立った結果は残せず、最高位は1991年6月の筑波サーキットで記録した2位(参戦中唯一の表彰台)。1990年インターF3リーグでは、若き日のミハエル・シューマッハミカ・ハッキネンを見て、「どんなに努力してもフォーミュラではかなわない」と悟ったと言う。その一方でドリフト走行に近い状態で走れるレインコンディションには強さを発揮し、初年度の第4戦仙台ハイランドではポールポジションを獲得している(決勝レースは中止)。また、マカオグランプリインターナショナルF3リーグにも参戦した。

JGTC/JTCC

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その後、1994年から始まったJGTCJTCCに参戦、どちらもADVANワークスのドライバーとして、JGTCではポルシェ・964ポルシェ・993ダッジ・バイパートヨタ・スープラ、JTCCではホンダ・シビックフェリオトヨタ・チェイサーなど、様々なマシンを操りながら参戦した。そして2000年から引退する2003年までホンダ・NSXに乗車した。

ル・マン

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1995年のル・マン参戦マシン

1994年からル・マン24時間レースに参戦して、1994年〜1996年は高橋国光率いるチーム国光から飯田章と共にHONDA NSX GT2で参戦し、1995年にはGT2クラス優勝を果たした。1998年には片山右京鈴木利男らと共にトヨタ・GT-One TS020で総合9位、翌年の1999年にも同チームとして参加し総合2位(クラス優勝)の成績を残した。このレースでナイトセッションのトップタイムを出し、夜やレインコンディションに強い峠の走り屋の片鱗を示した。

また、GT-Oneは電気系のトラブルで突然ヘッドライトが消えるというトラブルを抱えていたためほとんどのスティントを担当した。その後、2000年チーム郷テレビ朝日のジョイントでパノス・ロードスターを駆って参戦した際には、決勝レース中にコース紹介も務めたが、この年を以てル・マンから退いた。

NASCAR

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1996年から1999年まで日本開催されたNASCARにも全て参戦[2]川井一仁がエンジニアを務めたり、7度のNASCARカップ戦チャンピオンであるデイル・アーンハートとバトルを繰り広げるなど見所は多かったが、トップ10フィニッシュには至らなかった(1997年の11位が最高位)。

引退

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2000年にJGTCではARTAへと移籍。2003年からはブリヂストンの開発ドライバーにも抜擢。「BS(ブリヂストン)を履いて戦うということは、表彰台が約束されているということに他ならない」という言葉を残し、早速この年1勝、翌2001年はオーナードライバーだった鈴木亜久里の引退に伴い金石勝智にパートナーが代わるも、この年も1勝を挙げ、ランキング2位を獲得した。

しかしその後の成績低迷や、それまでの「ハコ」からフォーミュラカー仕様のパーツ構成へと変化するなど、高速化を続けるマシンに自らの体の限界を感じていたこともあり、2003年を以て引退した[3]。その後2017年スーパー耐久ホンダ・シビック TCRで2戦した。

引退後

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現役を退いた翌2004年よりARTAのチーム運営に携わり、2004年は全日本GT選手権(現・SUPER GT)GT500、GT300両クラスのチーム監督、2005年はGT300クラスのチーム監督を務めた。2006年は当初監督から外れ、J SPORTSのSUPER GT中継に解説者として登場していたが、セパン・インターナショナル・サーキットで行われた第4戦以降、再びARTAの監督代行を務めた。2007年以降はARTAのエグゼクティブ・アドバイザー職に就き、チーム運営やGT300の監督としての業務を担当している。

またARTAやホットバージョンなどでホンダとの関係を深めたこともあり、現在はModuloの開発ドライバーを務めており、同ブランドのエアロパーツのテスターとしても活躍中。

  • D1グランプリ
    • また自身が峠の走り屋出身であった経緯から全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)を設立し、現役時代からD1の審査委員長として活躍し、自らを「D1グランプリのバーニー・エクレストン」と称していた。しかしJAF公認競技化を推進しようとする彼に対して、興行面を重視しようとする運営体制との間に深い溝ができ、2010年12月9日、D1グランプリ運営会社であるD1コーポレーション取締役会にて稲田大二郎と共に取締役を辞任すると表明。併せて2011年度のD1グランプリ審査員を辞退した[4]
  • ドリフトマッスル/ドリフトキングダム
    • その後2011年2月には新たなドリフトイベントの運営母体として「株式会社ドリフトエンタープライズ」を設立したことを発表[5]、「ホットバージョン」との連携により新イベントの展開を進める方針を明らかにし、D1グランプリの対抗カテゴリーとなる新シリーズ『ドリフトマッスル』(2018年からは『ドリフトキングダム』に改称)を立ち上げたが、2019年シーズン終了後にドリフトキングダムとD1GPのシリーズ統合が発表され、ドリフトキングダムは消滅した。

レース以外の活動

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レーシングドライバーの他にも、1987年に創刊されたビデオマガジンベストモータリング』のキャスターを務めた後、自身のバックボーンである走り屋向けコンテンツを扱って1991年に派生した『ホットバージョン』のメインキャスターとして活動しており、引退後も現在まで続くライフワークとなっている。また現役当時からラジオパーソナリティとしての活動も行うなど活躍の場は広く、タレント活動をするレーシングドライバーの元祖とも言われている。

2006年9月に日本でロードショーされた映画『ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT』では、同映画が自身が主宰するD1人気によるドリフトを題材にした映画の為、ドライバーおよびスーパーバイザーとして撮影に参加。監督の指示に従ってわざと下手なドリフトをやってのけるなどして、ドリフトシーンの迫力UPに大きく貢献した。劇中では、埠頭でのドリフト練習の音だけで、主人公の上達ぶりとハンドリングの是非をスキール音のみで聞き分ける「ドリフト仙人」的な釣り人役でカメオ出演もしている。

エピソード

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  • レーシングスーツのカラーは緑。そのため、雑誌Optionビデオオプションでは「(緑の)おじさん」と呼ばれることも多い。
  • 当初は歌手を目指していたといわれ、業界ではなかなかの歌い手とされる。あみん等を輩出したヤマハ主催のヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)で自身のバンドでエントリーしたものの、他の出演者のレベルのあまりの高さに音楽の道を断念したという。
  • 学生時代はサッカー部に所属。
  • 青年時代は家業の金型工場やサラリーマン生活、夜は風俗店等などで働き、金型の配達でドライビングの基礎とも言える荷重移動を覚えた逸話がある。また、青年時代は碓氷峠に通いつめていた走り屋だった。
  • 当時はハコスカの4ドアGTで峠を攻めていたが、「60km/h以上では曲がれない」と言われていたカーブを100km/hで曲がろうとしてガードレールを突き破り、車ごと谷に転落する事故で廃車にした。この事故を境に「モータースポーツにはルールと安全性が必要」と感じるようになり本格的にレーサーを目指すことになったと著書の中で語っている(参考文献参照)。
  • 過去に峠アタックのビデオ(「ザ・峠」)を発売したが、後に暴走行為を煽るなどと問題になりビデオは発売禁止処分となり、JAFよりライセンスを剥奪される寸前の状態まで追い込まれた。しかし、稲田大二郎など、当時、彼を起用していたメディア関係者の取り成しによってライセンス剥奪は取り下げられている。この事を今も尚「稲田さんは恩人」として感謝している。
  • 自著「PRiDE」にては、自身の暴走族時代のことや、峠での危険運転についてもつづっている。
  • 自著「PRiDE」によれば、ル・マン24時間レースに出場した際、夜のレースで雨のコンディショニングで全く前方が見えずにアクセルを踏めなかった時、すでに亡くなっていた母親に「助けて」とすがったという。すると不思議と視界が開けてきたという。
  • 「はえー!」や「(アクセルを)踏め!」が口癖である。またカーインプレッションの際にはまず足回りについてコメントした後にエンジン特性に対してコメントをする。また、初期のホットバージョンでは度々、読者のマイカーやショップのデモカーであるチューニングカーに対してピークパワーのみを追求することを良しとしない旨の発言を繰り返している。「エンジンに手を入れるとそれが壊れた時にチューニングショップがその修理にさらに金を要求する」ことへの嫌悪感が根底にあるとしている。
  • 自身のテンションが上がった時は常に「ウッハッハッハッハ!!」と高笑いをする。
  • 好物はカレーうどん
  • 2000年のル・マン24時間では、決勝でドライブしながらチームラジオで生解説するという離れ業をやってのけた。

人間関係

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  • 少年時代に当時トップドライバーだった高橋国光のレースを見て以来(ホンダ・ダックスで当時住んでいた長野県から富士スピードウェイのある静岡県まで自走していったと自伝「ドリキン伝説」に記述がある)、高橋を師と仰ぎ、息子の名前に「国光」と名づけるほど尊敬していると言われる。ドライバーになってからは全日本GT選手権では1994年から1996年までチーム国光に所属していたり、1995年のル・マン24時間レースのGT2では優勝をしている。自身の引退セレモニーでは、高橋から「本当はまだまだ走ってもらいたいという気持ちはある」「全国にファンを作って、そして、日本のGTレース、あるいは、モータースポーツファンを、こんなに増やしてくれたのは圭ちゃんだったと言っても言い過ぎではないと思います」という言葉を送られ、こらえきれず涙を流した。
  • 28歳年下の妻がいる。バツ1で二度目の結婚となる[6]
  • もうひとりの師匠とも言える稲田大二郎も尊敬しており、レース活動を引退するとき「俺には帰る場所があった。稲田大二郎っていう場所がね」とコメントを残している。稲田は引退セレモニーの最後に「お帰りなさい、土屋圭市」の幕を渡している。その他にも、青年時代に東京に来たとき、寝る場所もなかったが、稲田の計らいで雑誌Optionの編集部で寝泊りさせてもらったりとかなりの世話になっている。
  • 2003年10月、鈴鹿サーキットでJGTCの最終戦後にレーシングドライバーとしての引退式が行われた。当人はひっそりと引退をするつもりだったのだが、チーム監督だった鈴木亜久里によるサプライズとして一大セレモニーが開かれた。挨拶の後にパレードランが行われた際、高橋国光の運転によるパレードカー(ホンダ・S2000)へ脇阪寿一本山哲飯田章など後輩ドライバーが殺到して乗り込み、S2000は定員大オーバーとなり、さらに乗り込めなかったドライバーが原付で追ってきたと言う[7]。しかしS2000は足まわりが曲がってしまい、後にホンダから大目玉を食う羽目になったことを、出演していたBRIDGESTONE AUTOMOBILE RADIOにて明かしている。
  • 自身が幅広いレース活動を行なっていたため、弟子筋も走り屋出身の織戸学谷口信輝から生粋のフォーミュラカー育ちである伊藤大輔伊沢拓也と幅広い。また歌手の河村隆一もレーシングドライバーとしては師弟関係で、現役時代に着用していたレーシングスーツ姿で河村が雑誌などの媒体にしばしば登場している。
  • 木下みつひろ碓氷峠の走り屋の弟分だったが、木下が富士フレッシュマンレースにエントリーする際エントリー方法の仕方などを手伝ったが、土屋が名前が分からずひらがな表記で書類を提出したためとOption誌が言及していたことがある。
  • レース業界以外での活動も積極的に行なっているため、交友関係も清原和博、タレントのヒロミ、声優の三木眞一郎B'z松本孝弘など幅広い。
  • 同じレーサーの土屋武士とは名字が同じだが、特に血縁関係はない。しかし仲はよく、1998年にはJTCCでコンビを組んでいた時期もある。

レース関係

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  • パーソナルカラーはグリーン。1991年にヘルメットのカラーを周囲の人の勧めでグリーン(それ以前は水色<全日本F3選手権の項を見れば分かるように、当時メインスポンサーであり、立ち上げに関わったったエンドレスのカラー>、その前は紺、白、赤の3色)とシルバーのカラーパターンに変更して以来、同デザインのArai製ヘルメットを被り続けている。グリーンへのこだわりは強く、ビデオマガジン出演時に着用する私用のレーシングスーツ(ARD/5ZIGEN)、自身が経営していたチューニングショップ「圭オフィス」や「KT」ブランドとして発売されていたアパレル、果ては愛車・AE86カーボン製ボンネットフードのペイント色としてあしらわれるほどである。また、レーシンググローブやシューズにもこだわりを持っており、グローブはグリーンとレッドの2タイプを自身で開発し後に圭オフィスから市販されたほか、シューズはアシックス製のローカットタイプを使用している。[8]
  • 雨の富士フレッシュマンズレースでAE86でスカイライン(R30型スカイラインRSターボ)と対等に渡り合った際、NISMOから「速すぎる、インチキがある」とクレームが付き、エンジン・ミッション・含めてマシンをバラバラに分解されたが、何も違反は無かったためお咎め無しだった。また、あまりにも速かったことから最終戦で「(土屋が出ると)他のドライバーのモチベーションが下がるから出ないでくれ」と富士スピードウェイからクレームが付き欠場したとも語っている[9]
  • アドバンのワークスであるAE86を駆ってグループAに参戦したものの、当時監督を務めていた土屋春雄から通達された「ドリフト禁止」に反発。チームメイトの鈴木恵一の取りなしにも耳を貸さず、1年限りでアドバンワークスから脱退[10]した(なおパーソナルスポンサー契約は維持されたため、プライベーターとして参戦し結果を残すこととなる)。そこから1997年の全日本ツーリングカー選手権でアドバンチェイサーを、奇しくも脱退の契機となった春雄率いる土屋エンジニアリングから走らせるまで、アドバンワークスとは断絶状態にあった。この当時を「若さゆえに尖っていた」と振り返っている。[11]
  • トークスキルを買われる形で、JTCCやル・マン参戦時には、レース中にコメンタリーブースとマシンを無線で繋ぎ、コース紹介や戦況のレポートなどを視聴者に伝える役割を担っていた。自らのマシンの不調や欠点も包み隠さず伝えていた。
  • 若い頃の事故で片目の視力を落としていたが、レース中は眼鏡を掛けず「勘で走っていた」という。一方で、海外テスト時やダートなど初走行のコースでのテストやメディア登場時には眼鏡姿を度々見せていた。だが年齢と共に戦績が落ちてきたことから2000年頃にレーシック手術を受ける。この時の視力の回復ぶりを「レーサー生命が10年延びた」と比喩した。以後は引退後の公の場ではファッションとしてサングラスを着用する以外は基本的に裸眼となっている。

車関係

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この件に関しては「広報チューン」「ベストモータリング」それぞれの項も参照

  • 2002年フェアレディZが登場した際、雑誌などではフェアレディZを絶賛していたが、日本カー・オブ・ザ・イヤー(COTY)では、当時所属していたレースチームを支援していたホンダが発売したアコードに満点を投じた。投票理由に「運転支援システムという発想の素晴らしさ」を挙げていたが、その前年には同様のシステムを提案した日産・シーマに対し「運転の楽しさを奪い取る」として酷評していた。この件について、Optionで連載しているコラムでは「シーマは1000Rまでしか対応していないが、アコードは260Rまで対応し、高速道路をどこでも走れるようになった」とその技術を褒める一方、フェアレディZに対しては「確かにすごいけど、技術は何も無い。以前の車の延長線上」との発言を残している(この年、土屋はフェアレディZを購入したが、アコードは購入していない)。この時はオフィシャルサイトの掲示板が大炎上し、「男芸者」「ホンダの飼い犬」などと、手厳しい書込みが殺到した。なお、同年を最後にCOTY選考委員を退き、2005年までベストモータリングの出演を控えた。

『頭文字D』との関わり

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1995年に連載が始まった漫画「頭文字D」を、自らのラジオ番組で絶賛したことから、1997年に雑誌の対談を経て作者のしげの秀一との親交が始まり、翌1998年から始まったアニメ版「頭文字D」では、バトルシーンにおける監修を務め、登場する車の走行音を自ら運転して収録するなど、製作で深く関わっている。

土屋自身も第23話で本人役の声優として特別出演した(電話を通しての声のみ)ほか、同作のドラマCD『ドリキン青春グラフティー』でも、半ばノンフィクションなストーリーで主人公として出演(若き日の土屋役は上田祐司(現・うえだゆうじ))し、アニマックスで放送の特別編やDVDの特典映像にも司会者兼解説者として出演している。

出演声優との交流では、藤原拓海役の三木眞一郎や武内樹役の岩田光央、高橋涼介役の子安武人らを同乗させて走行したことがあり、もともと車酔いを起こしやすい体質の子安は運転のすごさに悶絶したとされる。また、藤原文太役の石塚運昇と「圭市&文太」としてユニットを組み、「86」という題名の先述のドラマCDのイメージソングを歌っている。

出演

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テレビ番組

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ラジオ番組

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映画

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ビデオ

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CM

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ミュージック・ビデオ

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著書

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  • 土屋圭市FR・MR最強テクニック(講談社 2000年10月) ISBN 4061797247
  • 「PRIDE」
  • 「ドリキン流 基本のクルマBEST40」
  • 「うまくやっている人のクルマの秘密術」

レース戦績

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全日本F3選手権

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チーム エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1989年 エンドレスプロジェクト トヨタ SUZ FSW
Ret
SUZ
4
SEN
C
TSU
15
SUG
4
TSU
DNS
SUZ NIS SUZ SUZ
Ret
9位 6
1990年 無限 SUZ FSW
22
SUZ
23
TSU
NC
SEN
10
SUG
Ret
TSU
10
SUZ
DNQ
NIS
17
SUZ
Ret
NC 0
1991年 Abict with 5ZIGEN SUZ
Ret
FSW
C
FSW
4
SUZ
9
TSU
2
SUG
Ret
MIN
9
TSU
5
SUG
DNQ
SUZ
18
SUZ
25
10位 11
1992年 TEAM 5ZIGEN SUZ
15
TSU
7
FSW
DNQ
SUZ
Ret
SEN
Ret
TAI
Ret
MIN
Ret
SUG
10
SUZ
14
SUZ
13
NC 0

全日本ツーリングカー選手権(JTC)

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チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1985年 土屋エンジニアリング トヨタ・カローラレビン DIV.1 SUG
Ret
TSU
Ret
NIS
Ret
SUZ
8
FSW
1
1986年 トヨタ・カローラFX DIV.1 NIS SUG TSU SEN FSW
Ret
SUZ
1987年 BMW・635CSi DlV.3 NIS SEN
8
ジーベックモータースポーツ ホンダ・シビック DlV.1 TSU SUG
Ret
FSW
Ret
SUZ
10
1988年 BMW・M3 JTC-2 SUZ NIS
3
SEN
5
TSU
3
SUG
3
FSW
5
1989年 Cosmo Oil フォード・シエラRS500 JTC-1 NIS
5
SEN
3
TSU
6
SUG
Ret
SUZ
5
FSW
3
7位 84
1990年 エンドレスプロジェクト JTC-1 NIS
Ret
SUG
6
SUZ
6
TSU
Ret
SEN
4
FSW
Ret
12位 44
1991年 チーム・タイサン 日産・スカイラインGT-R JTC-1 SUG
Ret
SUZ
2
TSU
2
SEN
3
AUT
4
FSW
3
5位 128
1992年 チーム国光 JTC-1 TAI
4
AUT
Ret
SUG
3
SUZ
3
MIN
3
TSU
2
SEN
4
FSW
8
9位 74
1993年 JTC-1 MIN
Ret
AUT
1
SUG
Ret
SUZ
2
TAI
5
TSU
4
TOK
6
SEN
Ret
FSW
Ret
12位 59

全日本ツーリングカー選手権(JTCC)

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チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位 ポイント
1994年 チーム国光 ホンダ・シビックフェリオ OAR1 OAR2 SUG1
8
SUG2
4
TOK1 TOK2 SUZ1
17
SUZ2
16
MIN1
Ret
MIN2
Ret
TAI1
16
TAI2
11
TSU1
8
TSU2
4
SEN1
13
SEN2
11
FSW1
13
FSW2
Ret
16位 20
1995年 FSW1 FSW2 SUG1
21
SUG2
Ret
TOK1
23
TOK2
Ret
SUZ1
Ret
SUZ2
12
MIN1
23
MIN2
9
TAI1
13
TAI2
Ret
SEN1
22
SEN2
Ret
FSW1
6
FSW2
21
21位 7
1997年 土屋エンジニアリング トヨタ・チェイサー FSW1 FSW2 TAI1 TAI2 SUG1 SUG2 SUZ1 SUZ2 MIN1 MIN2 SEN1 SEN2 TOK1 TOK2 FSW1
14
FSW2
10
23位 1
1998年 FSW1
3
FSW2
8
TRM
7
SUG1
5
SUG2
6
SUZ1
Ret
SUZ2
4
MIN1
8
MIN2
5
TAI
4
FSW
3
7位 63

全日本GT選手権

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チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
1994年 チーム国光 ポルシェ911 RSR-T GT1 FSW SEN FSW
Ret
SUG
1
MIN
2
7位 35
1995年 GT1 SUZ
14
FSW
3
SEN
4
FSW
8
SUG
8
MIN
Ret
10位 28
1996年 ホンダ・NSX GT500 SUZ
Ret
FSW
8
SEN
12
MIN
7
SUG
10
MIN
11
17位 8
1997年 TEAM TAISAN with ADVAN ポルシェ・911 GT2 GT500 SUZ FSW SEN
10
FSW
Ret
25位 4
ダッジ・バイパー GTS-R MIN
14
SUG
8
1998年 TOYOTA TEAM SARD トヨタ・スープラ GT500 SUZ
3
FSW
C
SEN
4
FSW
9
TRM
Ret
MIN
3
SUG
Ret
6位 36
1999年 GT500 SUZ
16
FSW
15
SUG
Ret
MIN
7
FSW
10
TAI
13
TRM
Ret
22位 5
2000年 Autobacs Racing Team Aguri ホンダ・NSX GT500 TRM
7
FSW
Ret
SUG
15
FSW
1
TAI
Ret
MIN
Ret
SUZ
DSQ
13位 24
2001年 GT500 TAI
2
FSW
6
SUG
2
FSW
12
TRM
11
SUZ
1
MIN
Ret
2位 56
2002年 GT500 TAI
7
FSW
4
SUG
13
SEP
6
FSW
9
TRM
8
MIN
8
SUZ
2
10位 46
2003年 GT500 TAI
11
FSW
Ret
SUG
11
FSW
11
FSW
12
TRM
8
AUT
Ret
SUZ
6
19位 9

ル・マン24時間レース

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チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1994年 ドイツの旗 クレマー・ホンダ・レーシング
日本の旗 チーム国光
日本の旗 高橋国光
日本の旗 飯田章
ホンダ・NSX GT2 GT2 222 18位 9位
1995年 日本の旗 チーム国光 日本の旗 高橋国光
日本の旗 飯田章
GT2 275 8位 1位
1996年 日本の旗 高橋国光
日本の旗 飯田章
GT2 305 16位 3位
1997年 日本の旗 チーム・ラーク・マクラーレン
イギリスの旗 パラボリカ・モータースポーツ
日本の旗 中谷明彦
イギリスの旗 ゲイリー・アイルズ
マクラーレン・F1 GTR GT1 88 DNF DNF
1998年 日本の旗 トヨタ・モータースポーツ 日本の旗 片山右京
日本の旗 鈴木利男
トヨタ・GT-One TS020 GT1 326 9位 8位
1999年 日本の旗 片山右京
日本の旗 鈴木利男
LMGTP 364 2位 1位
2000年 日本の旗 テレビ朝日 チーム・ドラゴン 日本の旗 飯田章
日本の旗 近藤真彦
パノス・LMP-1 ロードスターS LMP900 340 8位 7位

脚注

[編集]

注釈

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  1. ^ この事件の後、セダン車対決の企画(96年6月号)でR33型スカイライン(4ドア)に対して「ローレル」と呼ぶ(自身はJZX90型マークIIに搭乗していた)、初代インプレッサタイプR登場時のバトル企画(97年6月号)でBCNR33に対してインプレッサで抜き去る際に「GT-R敵じゃないよ君は」と発言するなど、R33系に対するネガティブな発言が散見される。

出典

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  1. ^ 野村周平「100点満点。うそ1つない、ド迫力の映画」ドリフトシーン納得”. 日刊スポーツ (2022年1月14日). 2022年1月14日閲覧。
  2. ^ KEICHI TSUCHIYA PLANNING
  3. ^ ホットバージョン vol.66
  4. ^ 稲田大二郎/土屋圭市両氏のD1コーポレーション辞任について - D1グランプリオフィシャルサイトニュース 2011年12月22日付
  5. ^ 新しいドリフトイベントについて - 土屋圭市オフィシャルサイト・2011年2月1日
  6. ^ レーシングドライバー 土屋圭市の「今一番会ってみたい人」は、羽田空港の掃除“職人”(カーセンサー) | 自動車情報サイト【新車・中古車】 - carview!”. 日本最大級のクルマ総合情報サイト、カービュー!. 2019年11月22日閲覧。
  7. ^ [1] webCARTOP―土屋圭市ドリキン伝説「土屋圭市が「引退」を決めた盟友の涙のひとこと」
  8. ^ ホットバージョン vol.50
  9. ^ 大衆車ではないカローラ オレがAE86に乗り続けるワケ
  10. ^ ベストモータリング ビデオスペシャル vol.46
  11. ^ https://www.webcartop.jp/2015/11/23114 webCARTOP「土屋圭市ドリキン伝説」
  12. ^ 『土屋圭市レーシングヒストリーVol.2』三栄書房。 
  13. ^ おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE! #58 #59
  14. ^ ホットバージョン vol.23
  15. ^ テリー伊藤、車の“アレコレ”を伝える ドリフトキングと共演「画期的な番組です」”. ENCOUNT. 2021年10月30日閲覧。
  16. ^ "野村周平 日本発祥の"ドリフト"描く映画で主演「土屋圭市さんの車で練習した」". TOKYO HEADLINE. 株式会社ヘッドライン. 14 January 2022. 2022年1月15日閲覧

関連項目

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外部リンク

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