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曹洞宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曹洞禅宗から転送)
洞山良价(悟本大師)
曹洞宗
中国語 曹洞宗
発音記号
標準中国語
漢語拼音Cáodòng zōng
ウェード式Ts'ao-tung-tsung
英語
英語Caodong school

曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国禅宗五家(曹洞、臨済潙仰雲門法眼)の1つで、中国禅宗の祖である達磨(5世紀後半 - 6世紀前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700年 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745年 - 828年)、雲巌曇晟(782年 - 841年)と4代下った洞山良价(807年 - 869年)によって創宗された。

日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗臨済宗黄檗宗普化宗)の1つであり、始まりは鎌倉仏教の1つとしてでもあった。本山は永平寺福井県)・總持寺横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とし、仏陀・悟りを開いた人・目覚めた人の教えであり、出家在家に拘らず求道者各自が悟りを開くことを標榜する。現代の曹洞宗は、単一宗教宗派の寺院数としては最大で14,000超を有する[1]

歴史

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中国曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂(840年 - 901年)を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっている[2][注 1]。また、道元(1200 - 1253年)をはじめ日本の禅宗では、洞曹宗の「曹」は曹山本寂ではなく、曹渓慧能(大鑒慧能、638 - 713年)から採られている、という解釈もなされている[2](道元がこのような解釈をした理由は、曹山本寂の系統分派は途絶えていて、道元が学んだのが雲居道膺(? - 902年)につながる系統であったためである)。

道元らが提唱した系譜は、前述した南方禅の慧能にさかのぼり、その弟子青原行思石頭希遷-薬山惟儼-雲巌曇晟-洞山良价-‥‥と継がれている法脈である。曹山本寂の系譜は四代伝承した後に絶伝した一方で、洞山良价の一系譜のみが現在まで途絶えずに伝わっている。洞山良价の禅学思想に基づき、曹洞宗の禅風は「万物皆虚幻、万法本源為佛性」となっている。

中国における曹洞宗

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石頭希遷

洞山良价から5代下った大陽警玄(943年 - 1027年)には弟子がいなかったため、師資の面授を経ずに付法相承する「代付」によって投子義青(1032年 - 1083年)へと嗣法がなされることで、北宋末における再興が成された[3]

次代の芙蓉道楷(1043年 - 1118年)の弟子の代になると、宋の南遷による南宋の成立に伴い、河北に留まる鹿門自覚(? - 1117年)の系統と、江南に下る丹霞子淳(? - 1119年)の系統に分かれた。

丹霞子淳の門下には、宏智正覚(1091 - 1157年)と真歇清了(1089年 - 1151年)がおり、宏智正覚は「黙照禅」を提唱し、「看話禅」を提唱する臨済宗大慧宗杲(1089年 - 1163年)と対立したことや、多くの弟子を持ち「宏智派」を形成したことで知られ、他方の真歇清了の門下では3代下った天童如浄(1163年 - 1228年)から道元が日本へと曹洞宗を伝えた。宏智正覚の高弟であった自得慧暉(1097 - 1183年)の系統が、「宏智派」ではその後唯一、初に至るまで、中国曹洞宗の法脈を保ち支えていくことになった。この「宏智派」の宗風は、東明慧日(1272 - 1340年)や東陵永璵(1285 - 1365年)によって日本にも伝えられ、鎌倉京都五山禅林にも大きな影響を与えた[3]

他方、河北に留まった鹿門自覚の系統は、普照一辨(青州希辨、1081年 - 1149年?)、大明僧宝(1114年 - 1173年)、王山覚体(1121年 - 1174年)、雪巌慧満(1136年 - 1206年)を経て、代に万松行秀(1167年 - 1246年)が登場することで隆盛した。彼の弟子には、雪庭福裕(? - 1274年)、耶律楚材(1190年 - 1244年)、林泉従倫(? - ?年)などがいる。雪庭福裕代に皇帝クビライ(1215年 - 1294年)に認められ、「国師」に指名されると共に嵩山少林寺を任され中興の祖となった。現在の中国でも、嵩山少林寺(曹洞正宗)が華北地方の拠点とされている。

以上の主な法嗣は、以下のようになる。

日本における曹洞宗

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道元

日本仏教における曹洞宗鎌倉時代に始まる。道元は、臨済宗黄龍派明全に随身した後、共にに渡り、天童山で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事して開悟(身心脱落)して修行が終わり、1227年に帰国した。

宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は、

  • 洞山良价 - 雲居道膺 - 同安道丕 - 同安観志 - 梁山縁観 - 大陽警玄 - 投子義青 - 芙蓉道楷 - 丹霞子淳 - 真歇清了 - 天童宗玨 - 雪竇智鑑 - 天童如浄 - 道元

となる。

道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」として、セクショナリズム的な宗派を否定したため、弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じていた(禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示していた)。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。

後に奈良仏教興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死没)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾(1268年-1325年)とその後席峨山韶碩(1275年-1366年)の頃からである。

日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。

「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。第四祖瑩山の時代に男女平等・女人救済の思想を教義としたため武家の女性が曹洞宗の信者となった[4]。曹洞宗の宗紋は久我竜胆車紋と五七桐紋である。

教義

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「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦本尊と仰ぐが、各人が坐禅により万法に証せられる(悟る)ことを肝要とする。曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と同じく「只管打坐(しかんたざ)」(非思量の坐禅をすること)をもっぱらとしている(ただし、臨済宗のように公案禅をとる流派も一部にある。江戸時代のように多くの曹洞宗僧侶が、公案禅に参じた時もあった)。

『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』は、道元が帰国後、坐禅の仕方について著した指南書。四六駢儷体による表現がなされている。また、道元の著書である『正法眼蔵』は、道元の自らの悟り体験に基づき仏教全般について表現している。決して思惟による哲学ではない。

主な経典

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主によまれる経典

基本となる祖録

  • 正法眼蔵』 - 道元が著述(未完。後に弟子が編集)
  • 『普勧坐禅儀』 - 道元の坐禅についての著述
  • 伝光録』 - 瑩山の提唱を側近がまとめたもの 歴代の祖師の行履と悟りの契機を記述している
  • 修証義』 - 明治時代に『正法眼蔵』から文言を抽出して信者用に再編

ご詠歌和讃

  • 梅花流詠讃歌
  • まごころに生きる(南こうせつ作詞・作曲の曹洞宗詠歌)

歴史

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正治2年(1200年)、京都久我家で生まれた道元は建保2年(1214年)出家し、園城寺建仁寺で学ぶ。貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。天福元年(1233年)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、宝治2-3年(1248年-1249年)、執権北条時頼波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。建長5年(1253年) 病により永平寺の貫首を弟子孤雲懐奘に譲り、京都で没する。

永平寺2世孤雲は道元が日ごろ大衆に語った法語をまとめた『正法眼蔵随聞記』を著し、道元の教えを記録し広めることにつとめた。道元の死後、遺風を守ろうとする保守派と、衆生教化のため法式も取り入れようとする開放派の対立が表面化する。文永4年(1267年)徹通義介に住職を譲るが、両派の対立が激化(三代相論)したため文永9年(1272年)孤雲が再任する。弘安3年(1280年)孤雲が没し徹通が再任するが内部対立を収拾できず、永仁元年(1293年)永平寺を出て大乗寺を開山する。

永平寺は4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。徹通の弟子瑩山紹瑾1321年能登に總持寺を開山し、南朝後醍醐天皇より「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を得る。応安5年(1372年)、永平寺も北朝後円融天皇から「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。總持寺開山瑩山紹瑾は弟子に恵まれ四哲と呼ばれた逸材を輩出した。

四哲の一人峨山韶碩も優れた弟子に恵まれた。太源宗真の門流は梅山聞本如仲天誾などを輩出し、北陸東海に教線を拡大した。通幻寂霊通幻十哲と呼ばれる優れた禅僧を輩出、了庵慧明最乗寺を開き東国に、石屋真梁大寧寺を開き中国地方に教線を拡大した。無底良韶貞和4年(1348年)、東北地方初の曹洞宗寺院として正法寺を開き、弟弟子の月泉良印がそれを継いだ。

後花園天皇の頃には、ほとんど全国に普及するまでに成長した曹洞宗だが、応仁の乱以降は衰退していき、僧侶の俗化が進んだ[5]。師僧選びは学徳より、地位や富が基準となり、法統の継承は寺院相続のための方便と化しつつあった。江戸時代に入ると、幕府や大名の支援で寺院そのものの復興が進むが、僧侶の頽廃は改まるどころか、ひどくなっていった。こうした中、月舟宗胡卍山道白面山瑞方らが立て直しに取り組む。特に卍山道白は、当時広まっていた、寺院の住職を継ぐことによって伝えられる法統(伽藍法)ではなく、道元が尊重した師僧から弟子へと伝えられる法統(人法)を重視する「宗統復古運動」を展開したことで知られる。また、「正法眼蔵」など宗典の研究、校訂、出版なども盛んに行われた[6]。なお、元和元年(1615年)、江戸幕府より法度が出され永平寺總持寺は大本山となり、奥州正法寺と九州大慈寺は本山から外れた。

宗政

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宗教法人 曹洞宗
英語: Religious Corporation "Sotoshu"
曹洞宗宗務庁
(及び経営している東京グランドホテル[7]
種類 宗教法人
法人番号 9010405001419
本部 105-8544 東京都港区芝2丁目5-2 2階 [8]Tel.03-3454-5411(代表)
会長 石附周行管長總持寺貫首2022年1月22日就任)
主要機関 曹洞宗宗務庁
関連組織 大本山永平寺, 大本山總持寺
ウェブサイト www.sotozen-net.or.jp
www.sotozen.com
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21世紀初頭である現在、全国の曹洞宗寺院は「宗教法人曹洞宗」により包括されており、その本部事務所を「曹洞宗宗務庁」という[8]。曹洞宗に所属する約15,000ヵ所寺は、永平寺派の「有道会」と總持寺派の「總和会」に所属が二分されている。

曹洞宗としての宗派の長を「管長」といい、大本山永平寺および大本山總持寺の貫首(住職)がそれぞれ2年毎交互に就任する(西暦の偶数年の1月20日付けで任期満了となり、翌1月21日付で交代となる。なお、管長が任期中に示寂の場合は、後任の貫首が残任期間まで管長を務める慣例となっている)。閣僚にあたる内局の部長7名も両派でほぼ半数ずつ、宗議会議員(定数72名)も36選挙区ごとに両派から1名ずつ選ばれる。教団運営は管長の元で、宗務と事務が庁議(責任役員会)の決定に基づき執行される。また、内局(宗務執行機関)、宗議会(議決機関)、審事院(監正機関)の三機関が置かれている。「宗教法人曹洞宗」の代表役員は宗務総長といい、宗務執行機関としての法人を代表し、その事務その他の宗務を総理する。

著名な寺院

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大本山(根本道場)

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両大本山の住職を貫首といい、2人の貫首が2年交代で管長(宗門代表)となる。管長は、有資格者で立候補者から選挙によって選出される宗門最高の位階。

本山と、所属する寺院数 [1]
本山 江戸時代
(1750年代)
現代
(1980年代)

永平寺
148 1,300

總持寺
16,200 13,850
総数 17,500 14,000

尊称として住んでいる場所にちなみ、永平寺貫首を不老閣猊下(ふろうかくげいか)、総持寺貫首を紫雲台猊下(しうんたいげいか)とも呼ぶ。

歴史的には正法寺岩手県奥州市)が奥羽二州の本山、大慈寺熊本県熊本市南区)が九州本山であった期間があるが、元和元年(1615年)の寺院法度により永平寺、總持寺のみが大本山となる。また、江戸時代に来日した明僧、東皐心越によって開かれた曹洞宗寿昌派は祇園寺茨城県水戸市)を本山とした。心越の法系は道元と別系であったが明治維新後、合同した。

その他著名寺院

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僧堂

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大本山僧堂

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専門僧堂

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専門尼僧堂

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その他

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日本国外への布教

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明治大正時代の日本人の海外移住と共に、ハワイブラジルなどに開教された。ペルー慈恩寺は南米大陸最古の仏教寺院である。ヨーロッパでは弟子丸泰仙が教線の拡大に貢献し、2005年現在、それらの弟子たちが世界各地で布教活動を継続している。

派生した教団

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  • 如来宗(如来教) - 享和2年(1802年)に『一尊如来きの』によって名古屋に開かれた。明治17年(1884年)以降、昭和26年(1951年)に宗教法人法の施行によって独立するまで曹洞宗の教会として活動。同宗の教義は金毘羅信仰や浄土信仰などの混生であり、曹洞宗本来の教えとは関連が薄い。
    • 一尊教団 - 上記教団の分派。石川県金沢市を中心に活動。
  • 救世教 - 明治19年(1886年)、新潟の大道長安が曹洞宗から離脱して結成。大慈大悲の事実上の如来である観音菩薩を本尊として、自力他力を超えた観音妙力による現世救済を主張した。社会福祉に力を注ぎ全国に教線を拡大したが、明治41年(1908年)に大道長安が入寂すると後継者がいないこともあって急速に衰退。
  • 法王教 - 明治後期から大正期にかけて高田道見が推進した“通俗的”布教運動。道見は青松寺を拠点として参禅会や訪問法話会などの教化活動を続けていたが、大正期に入ってからは曹洞宗の教義にこだわらず、月刊誌などの出版物、講演会を通した在家仏教の振興に力を注ぎ、自らの活動に「法王大聖釈迦牟尼仏の本旨に基づく仏教」という意味で「法王教」の名を冠した。大正12年(1923年)、道見が入寂すると独自の教派名を冠した運動は終息した。なお、道見は最後まで曹洞宗の僧籍を保持していたため、「法王教」を独立した教団ではなく曹洞宗内の一運動であったとする見方が一般的である。高田道見(1858~1923)は、広島県比婆郡敷島村(現・庄原市)に生まれ、12歳で得度、曹洞宗専門本校進学を望んだが二度にわたり師の賛同が得られず断念、青松寺の雲水として僧俗一体の仏教青年会を組織、在家信者宅への出張講義や文筆活動などでの仏教伝道に励み、54歳で法王教を提唱した[9]
  • 三宝教団 - 昭和29年(1954年)、安谷白雲が曹洞宗から離脱して神奈川県鎌倉市に結成。同教団は道元の教えを中核に置きながら、公案を取り入れるなど独自の修行法を構築。現在は一般在家者への坐禅指導を中心とし、海外にも参禅拠点がある。

この他、曹洞宗系の単立寺院が少数存在する。

訴訟

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多々良学園(2006年9月、設置者変更により高川学園高等学校・中学校となる)の破綻問題に関し、山口信用金庫防府信用金庫から12億円の賠償を求める訴訟を2006年8月に起こされている[10]。10月、山口地方裁判所から宗務庁ビルの仮差押命令が下った(仮差押自体は事実認定とは無関係に原告請求のみで可能で、被告の反論を要しない)。

宗議会選挙での買収

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2010年9月に行われた宗議会議員選挙で、岩手県選挙区で当選した住職が選挙前に有権者に相当する県内の住職に対して「献香」と称して現金を配っていたことが報道された。対立候補であった当時現職の住職も3000円相当の線香を配っていたという[11]。ただし、曹洞宗の規則では選挙時の買収の禁止という項目は存在しない。また、公職ではないので公職選挙法の適用範囲でもない。一連の流れが表面化されたのは、宗議会議員候補者の勢力争いの一環。

曹洞宗寺院出身の著名人

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越南(ベトナム)における曹洞宗

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曹洞宗(ヴェトナム語版)は越南(ベトナム)など他の漢字文化圏の国にも伝わっている。

脚注

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注釈

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  1. ^ ただし、『洞山語録』によれば「洞山の玄風(=老子の教え。道教)が広まる世に、諸方の宗匠を尊ぶ曹(仲間・同門)どおしをさして洞曹宗という」と意釈もされている。原文の和訳は「洞上の玄風、天下にしく、故に諸方の宗匠、ともにこれを推尊して洞曹宗という」。

出典

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  1. ^ a b Bodiford, William M. (2006). “Remembering Dōgen: Eiheiji and Dōgen Hagiography”. Society for Japanese Studies 32 (1): 1–21. doi:10.1353/jjs.2006.0003. ISSN 1549-4721. http://www.thezensite.com/ZenEssays/DogenStudies/Remembering_Dogen.html . 
  2. ^ a b 増永霊鳳「曹洞宗」『世界大百科事典』第13巻、平凡社、722頁、1969年(原著1968年)。 
  3. ^ a b 佐藤秀孝、「自得慧暉とその禅風」『駒沢大学大学院仏教学研究会年報』 1980年 14巻 p.94, NCID AN00093698, 駒澤大学大学院仏教学研究会
  4. ^ 『今日から役立つ仏教』95頁正木晃執筆
  5. ^ 村上専精 『日本佛教史綱』(下巻) 創元社、1939年
  6. ^ [1][リンク切れ]
  7. ^ 会社概要 東京グランドホテル
  8. ^ a b 機構 - 曹洞宗「曹洞禅ネット」公式ページ
  9. ^ 深瀬俊路, 「明治期曹洞宗における宗教運動」『印度學佛教學研究』 1990-1991年 39巻 2号 p.770-773, 日本印度学仏教学会, doi:10.4259/ibk.39.770, NAID 110002661610
  10. ^ 曹洞宗に賠償請求 多々良学園破たんで共同通信2006年8月16日
  11. ^ “曹洞宗選挙で買収 一関の住職、「有権者」に最大10万円”. 河北新報. (2011年1月30日). オリジナルの2011年2月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110202155407/http://www.kahoku.co.jp/news/2011/01/20110130t33013.htm 2011年1月30日閲覧。 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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