力石雄一郎
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力石 雄一郎(ちからいし ゆういちろう、1876年(明治9年)6月30日[1] - 1933年(昭和8年)3月17日)は、日本の内務官僚。政友会系官選府県知事。族籍は愛媛県士族[1]。
経歴
[編集]愛媛県喜多郡大洲町(現:大洲市)で、旧大洲藩士・力石八十綱の長男として生まれる。東京に移り、府立一中、第一高等学校を経て、1900年7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年、文官高等試験に合格。内務省に入省。
以後、徳島県参事官、岩手県警部長、岩手県事務官・第四部長、石川県事務官・警察部長、関東都督府大連民政署長、長野県・岐阜県の各内務部長などを歴任。
1914年4月、第2次大隈内閣が成立し長野県知事に発令された。以後、大分県・茨城県・宮城県・秋田県・新潟県の各知事を経て、1928年5月、大阪府知事に就任。1929年7月に辞任し退官した。
人物
[編集]『実業の世界』からの「あなたは25歳の頃に何をしていたか。その当時の収入及び生活状態はどうだったか」という問いに力石は「東大法科卒業はじめて内務省の腰弁となりました。月給40円を戴き、不相変親の脛かじりでありました」と回答している[3]。
栄典
[編集]家族・親族
[編集]- 力石家