丸茂藤平
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丸茂 藤平(まるも とうへい、1882年(明治15年)3月25日[1] - 1956年(昭和31年)[2])は、日本の内務官僚、官選岩手県知事。旧姓・両角[3]。
経歴
[編集]長野県諏訪郡玉川村[1][2](現:茅野市)出身。両角彦五郎の二男として生まれ、丸茂米作の養子となり、のち養父の長女「まつよ」と結婚した[3]。
諏訪郡立実科中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て[4]、[要出典]第一高等学校を卒業[5]。1908年7月、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業[1][3]。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格[5]。1909年1月、内務省に入省し、拓殖制度取調事務嘱託となり大臣官房台湾課及び地方局拓殖事務取扱を嘱託。同年5月、内務属となり鹿児島県揖宿郡長に就任[1]。
以後、鹿児島県事務官・警察部長、愛知県警察部長、京都府警察部長、千葉県内務部長、内務省事務官兼内務監察官、復興局部長などを歴任[1][3]。
1922年9月16日、岐阜市長に就任し[6]、1924年4月11日に辞任[7]。1928年1月10日、岩手県知事に就任。同年10月の陸軍特別大演習や昭和天皇行幸の準備と実施に忙殺された[8]。同年12月26日、台湾総督府交通局総長に転じ、1929年9月13日に依願免本官となり退官した[9]。
1930年、豊橋市長に就任。隣接町村との合併、下水道整備、私立豊橋病院や公設消防の設置などに尽力し、1934年に辞任[2]。その後、1935年11月から1939年4月まで関東州大連市長を務めた[3][8]。大連市長退任後は天津特別市顧問に就いた[10]。
栄典
[編集]- 外国勲章佩用允許
脚注
[編集]- ^ a b c d e 「丸茂藤平岐阜県岐阜市長就任ノ件」
- ^ a b c 『愛知県姓氏歴史人物大辞典』556頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録』第12版 下、マ148頁。
- ^ 宮坂広作「胸張りて行け 面あげよ--折井一の教育実践と教育観」『松本短期大学研究紀要』第9号、松本短期大学 紀要委員会、2000年3月、1-17頁、ISSN 09107746、NAID 120006494739。
- ^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』191頁。
- ^ 『官報』第3041号、大正11年9月19日。
- ^ 「松尾国松岐阜県岐阜市長就任ノ件」
- ^ a b 『新編日本の歴代知事』126頁。
- ^ 『官報』第815号、昭和4年9月14日。
- ^ 『人事興信録』第14版 下、マ134頁。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 「丸山藤平外十二名外国勲章受領及佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113538300
参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、東京大学出版会、2007年。
- 愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会『愛知県姓氏歴史人物大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典23、角川書店、1991年。
- 人事興信所編『人事興信録』第12版 下、1939年。
- 人事興信所編『人事興信録』第14版 下、1943年。
- 内閣「丸茂藤平岐阜県岐阜市長就任ノ件」大正11年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-019-00・任B01062100
- 内閣「松尾国松岐阜県岐阜市長就任ノ件」大正14年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-019-00・任B01232100
公職 | ||
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先代 堀千尋 |
岐阜市長 1922 - 1924 |
次代 松尾国松 |
先代 河原田稼吉 |
台湾総督府交通局総長 第5代:1928 - 1929 |
次代 白勢黎吉 |
先代 小川順之助 |
大連市長 1935 - 1939 |
次代 別宮秀夫 |