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永禄3年(1560年)、信長は[[桶狭間の戦い]]において駿河の戦国大名・[[今川義元]]を撃破した。そして、三河の領主・[[徳川家康]](松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8年(1565年)、[[犬山城]]の[[織田信清]]を破ることで尾張の統一を達成した。 |
永禄3年(1560年)、信長は[[桶狭間の戦い]]において駿河の戦国大名・[[今川義元]]を撃破した。そして、三河の領主・[[徳川家康]](松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8年(1565年)、[[犬山城]]の[[織田信清]]を破ることで尾張の統一を達成した。 |
2018年11月26日 (月) 23:58時点における版
時代 | 戦国時代(室町時代後期) - 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 |
天文3年5月12日(1534年6月23日) あるいは天文3年5月28日[注釈 2] |
死没 | 天正10年6月2日(1582年6月21日) |
改名 | 吉法師(幼名)、信長 |
別名 |
通称:三郎、上総守、上総介、右大将、右府 渾名:第六天魔王[注釈 3]、大うつけ |
神号 | 建勲 |
戒名 |
総見院殿贈大相国一品泰巌大居士 天徳院殿龍厳雲公大居士[注釈 4] 天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門[注釈 1] |
墓所 |
本能寺(京都市中京区) 大徳寺総見院(京都市北区) 妙心寺玉鳳院(京都市右京区) 阿弥陀寺(京都市上京区) 他 |
官位 |
従三位・権大納言、右近衛大将 正三位、内大臣、従二位、右大臣、正二位 贈従一位・太政大臣、贈正一位 |
主君 | 斯波義銀→足利義昭 |
氏族 | 織田氏 |
父母 | 父:織田信秀、母:土田御前 |
兄弟 | 信広、信長、信勝、信包、信治、信時、信与、秀孝、秀成、信照、長益、長利、お犬の方、お市の方 |
妻 |
正室:鷺山殿(濃姫)(斎藤道三の娘) 側室:生駒氏[1](生駒家宗の娘) 側室:坂氏の女 側室:於鍋の方(高畑源十郎の娘) 側室:養観院(不明) 他の側室は下記を参照。 |
子 |
信忠、信雄、信孝 他の子女は下記を参照。 |
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。
概要
織田信長は、織田弾正忠家の当主・織田信秀の子に生まれ、尾張(愛知県西部)の一地方領主としてその生涯を歩み始めた。信長は織田弾正忠家の家督を継いだ後、尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の織田信勝を排除し、尾張一国の支配を徐々に固めていった。
永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破した。そして、三河の領主・徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8年(1565年)、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成した。
一方で、室町幕府将軍足利義輝が殺害された(永禄の政変)後に、足利将軍家の足利義昭から室町幕府再興の呼びかけを受けており、信長も永禄9年(1566年)には上洛を図ろうとした。美濃国の戦国大名・斉藤氏(一色氏)との対立のためこれは実現しなかったが、永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用した。
翌年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす。信長は、室町幕府との二重政権(連合政権)を築いて、「天下」(五畿内)の静謐を実現することを目指した[注釈 5]。しかし、敵対勢力も多く、元亀元年(1570年)6月、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を姉川の戦いで破ることには成功したものの、三好三人衆や比叡山延暦寺、石山本願寺などに追い詰められる。同年末に、信長と義昭は一部の敵対勢力と講和を結び、ようやく窮地を脱した。
元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ちする。しかし、その後も苦しい情勢は続き、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた後、元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る。信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い)。
将軍不在のまま中央政権を維持しなければならなくなった信長は、天下人への道を進み始める。元亀から天正への改元を実現すると、天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼすことに成功した。天正3年(1575年)には、長篠の戦いでの武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。翌年には安土城の築城も開始している。しかし、天正5年(1577年)以降、松永久秀、別所長治、荒木村重らが次々と信長に叛いた。
天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示している。
天正10年(1582年)に、甲州征伐を行い武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた。同年には信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が持ち上がっている(三職推任)。そして、信長は四国攻めを決定し、自身も中国地方攻略に赴く準備を進めていた。しかし、6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって自害に追い込まれた(本能寺の変)。
一般に、信長の性格は、極めて残虐で、また、常人とは異なる感性を持ち、家臣に対して酷薄であったと言われている。一方、信長は世間の評判を非常に重視し、家臣たちの意見にも耳を傾けていたという異論も存在する。なお、信長は武芸の鍛錬に励み、趣味として鷹狩り・茶の湯・相撲などを愛好した。南蛮などの異国に興味を持っていたとも言われる[注釈 6]。
政策面では、信長は室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築いた[注釈 7]。天皇や朝廷に対しては協調的な姿勢を取っていたという見方が有力となっている[注釈 8]。
江戸時代には、新井白石らが信長の残虐性を強く非難したように、信長の評価は低かった。とはいえ、やがて信長は勤王家として称賛されるようになり、明治時代には神として祀られている[注釈 9]。第二次世界大戦後には、信長はその政策の新しさから、革新者として評価されるようになった。しかし、このような革新者としての信長像には疑義が呈されるようになり、2010年代の歴史学界では、信長の評価の見直しが進んでいる[注釈 10]。
生涯
尾張・美濃の平定
少年期
天文3年(1534年)5月[注釈 2]、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男[注釈 11]として誕生。生まれた場所については勝幡城、那古野城、および古渡城の3説に分かれるが[4]、勝幡城であるとする見解が有力である[4][5][6]。幼名は吉法師(きっぽうし)[3][4]。
信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡の守護代であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行という家柄であった[7]。当時、尾張国では、守護である斯波氏の力はすでに衰えており、守護代の織田氏も分裂していたのである[7]。こうした状況下で、信長の父である信秀は、守護代・織田達勝らの支援を得て、今川氏豊から那古野城を奪う[8]。そして、信秀は尾張国内において勢力を急拡大させていた[8]。
信長は、早くに信秀から那古野城を譲られ、城主となっている[注釈 12]。『信長公記』によれば、信長には奇天烈な行動が多く、周囲から大うつけと呼ばれたという[10]。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた[11]。なお、人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期の頃に知り合っていたとも言われるが、可能性としては否定できないものの、そのことを裏付ける史料はない[12]。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、三郎信長と称する[13][4]。天文16年(1547年)には今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった[14]。
天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた[注釈 13]。
斎藤道三の娘と結婚したことで、信長は織田弾正忠家の継承者となる可能性が高くなった[14]。そして、おそらく天文21年(1552年)[注釈 14]3月に父・信秀が没したため、家督を継ぐこととなる[13][14][注釈 15][注釈 16]。信長は、家督継承を機に「上総守信長」を称するようになる(のち「上総介信長」に変更)[21]。
家督継承
家督継承後の信長は、すぐに困難に直面する。信秀は尾張国内に大きな勢力を有していたが、まだ若い信長にその勢力を維持する力が十分にあるとは言えなかった[22]。そして、弾正忠家の外部には清須城の尾張守護代・織田大和守家という対立者を抱え、弾正忠家の内部には弟・信勝(信行)[注釈 17]などの競争者がいたのである[22]。
天文21年8月、清須の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を鮮明とした[22]。信長は清須方の武将と戦って勝利し、これ以後、清須方との戦いが続くこととなる[22]。
ところが、天文22年(1553年)、信長の宿老である平手政秀が自害している[23][24][注釈 18]。信長は嘆き悲しみ、沢彦を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った[23]。一方、おそらく同年4月に、信長は正徳寺で道三と会見した[25]。その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある[26]。天文23年(1554年)には、村木城の戦いで今川勢を破った[27]。
この年も、清須方との戦いは、信長に有利に展開していた[28]。同年7月12日[注釈 19]、尾張守護の斯波義統が、清須方の武将・坂井大膳らに殺害される事件が起きる[28]。これは、斯波義統が信長方についたと思われたためであり、義統の息子の斯波義銀は信長を頼りに落ち延びた[28]。
こうして、信長は、清須の守護代家を謀反人として糾弾する大義名分を手に入れた[28]。そして、数日後には、長槍を用いる信長方の軍勢が、清須方に圧勝した[28]。
天文23年[注釈 20]、衰弱した清須の守護代家は、信長とその叔父・織田信光の策略によって清須城を奪われ、守護代・織田彦五郎[注釈 21]も自害を余儀なくされた[29]。ここに尾張守護代織田大和家は滅亡することとなる[29]。
他方、守護代家打倒に力を貸した信長の叔父・信光も11月26日に死亡している[29]。この死は暗殺によるものであったと考えられる[29]。そして、信長が信光暗殺に関与していたという説もあるという[29]。
弟との戦い
しかし、弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いで敗死(長良川の戦い)[31]。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより信長自らが殿をしつつ退却した。
最も有力な味方である道三を失った信長に対し、林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは弟・信勝を擁立すべく挙兵する[32]。信勝は、父・信秀から末盛城や柴田勝家ら有力家臣を与えられるとともに、愛知郡内に一定の支配権を有するなど、弾正忠家において以前から強い力を有していた[33]。弘治元年には「弾正忠」を名乗るようにもなっており、弾正忠家の継承者候補として信長と争う立場にあった[34]。
同年8月に両者は稲生で激突するが、結果は信長の勝利に終わった(稲生の戦い)[35]。信長は、末盛城などに籠もった信勝派を包囲したが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した[32]。しかし、永禄元年(1558年)に信勝は再び謀反を企てる[32]。この時、柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した[32][注釈 22]。
さらに同年7月、信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・織田伊勢守家(岩倉織田家)の当主・織田信賢を浮野の戦いにおいて撃破した[32]。そして、翌年には、信賢の本拠地・岩倉城を陥落させた[32]。
永禄2年(1559年)2月2日、信長は約500名の軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した[36][注釈 23]。村岡幹生によれば、この上洛の目的は、新たな尾張の統治者として幕府に認めてもらうことにあったという[36]。しかし、この目的は達成されなかったと考えられる[36]。一方天野忠幸によれば、この上洛は尾張の問題だけによるものではなく、前年に足利義輝が正親町天皇を擁した三好長慶に対して不利な形で和睦をせざるを得なかったことによって諸大名が拠って立つ足利将軍家を頂点に立つ武家秩序が崩壊する危機感が高まり、その状況を信長自らが確認する意図もあったとされる[37][注釈 24]。
桶狭間の戦い
翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻[38]。駿河・遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、1万人とも4万5千人とも号する大軍であった[38][注釈 25]。織田軍はこれに対して防戦したがその兵力は数千人程度であった[39]。今川軍は、松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦に対する攻撃を行った[39]。
信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞『敦盛』を舞った後[注釈 26]、出陣した[40]。信長は今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った[41][注釈 27](桶狭間の戦い)。
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる[注釈 28]。これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる[44]。両者は同盟を結んで互いに背後を固めた[44](いわゆる清洲同盟)。永禄6年(1563年)、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す[注釈 29]。
永禄8年(1565年)[注釈 30]、信長は、犬山城の織田信清を下し、ついに尾張統一を達成した[46]。さらに、甲斐国の戦国大名・武田信玄と領国の境界を接することになったため、同盟を結ぶこととし、同年11月に信玄の四男・勝頼に対して信長の養女(龍勝寺殿)を娶らせた[47]。
-
織田信長 銅像
(愛知県清須市、清洲公園) -
善照寺砦跡
(名古屋市緑区)
美濃斉藤氏と足利義昭
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏(一色氏)との関係は険悪なものとなっていた[注釈 31]。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃国に出兵し勝利する(森部の戦い)。同じ頃[注釈 32]には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している[50]。その際[注釈 32]、信長は妹・お市を輿入れさせた[50]。
信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛と戦い屈服させて、伊勢北部の多数の北勢地域豪族で形成された当地の諸氏を(北勢四十八家の小規模城主の城を攻略した)を次々と降伏させている。
一方、中央では、永禄8年(1565年)5月、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の三好義継・三好三人衆・松永久通らが、対立を深めていた将軍・足利義輝を殺害した(永禄の変)[51][注釈 33]。義輝の弟の足利義昭(一乗院覚慶、足利義秋)は、松永久秀の保護を得ており、殺害を免れた[53]。義昭は奈良から脱出し、近江国の和田、後に同国の矢島を拠点として諸大名に上洛への協力を求めた[54]。
これを受けて、信長も同年12月には細川藤孝に書状を送り、義昭上洛に協力する旨を約束した[55][注釈 34]。同じ年には、至治の世に現れる霊獣「麒麟」を意味する「麟」字型の花押を使い始めている[57]。また、義昭は上洛の障害を排除するため、信長と美濃斉藤氏との停戦を実現させた[55]。こうして信長が義昭の供奉として上洛する作戦が永禄9年8月には実行される予定であった[55]。
ところが、永禄9年(1566年)8月、信長は領国秩序の維持を優先して美濃斉藤氏との戦闘を再開する[58]。結果、義昭は矢島から若狭国まで撤退を余儀なくされ、信長もまた、河野島の戦いで大敗を喫してしまう[58][注釈 35]。「天下之嘲弄」を受ける屈辱を味わった信長は、名誉回復のため、美濃斉藤氏の脅威を排除し、義昭の上洛を実現させることを目指さなければならなくなる[58]。
そして、永禄9年(1566年)、信長は加治田城主・佐藤忠能と加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れた(堂洞合戦、関・加治田合戦、中濃攻略戦)。さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)[注釈 36]、斎藤龍興を伊勢国長島に敗走させ、美濃国平定を進めた(稲葉山城の戦い)[60]。このとき、井ノ口を岐阜と改称した(『信長公記』)[注釈 37]
同年11月には印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめている[62][63]。この印判の「天下」の意味は、日本全国を指すものではなく、五畿内を意味すると考えられており[64][65]、室町幕府再興の意志を込めたものであった[65](→#信長の政権構想)。11月9日には、正親町天皇が信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが[注釈 38]、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった[66]。
二重政権
織田信長の上洛戦
一方、すでに述べたとおり、三好氏による襲撃の危険が生じたことから、義昭は近江国を脱出して、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた[67]。しかし、本願寺との敵対という状況下では義景は上洛できず、永禄11年(1568年)7月には信長は義昭を上洛させるために、和田惟政に村井貞勝や不破光治・島田秀満らを付けて越前国に派遣している[68]。義昭は同月13日に一乗谷を出て美濃国に向かい、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と会見した[68]。
永禄11年(1568年)9月7日、信長は足利義昭を奉戴し、上洛を開始した[69]。すでに三好義継や松永久秀らは義昭の上洛に協力し、反義昭勢力の牽制に動いていた[70]。一方、義昭・信長に対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の攻撃を受け、12日に本拠地の観音寺城を放棄せざるを得なくなった[69](観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した[注釈 39]。
更に9月25日に大津まで信長が進軍すると、大和国に遠征していた三好三人衆の軍も崩壊する。29日に山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏し[71]、30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元・三好長逸が城を放棄、10月2日には篠原長房も摂津越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。
もっとも、京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという[72][73]。
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる[注釈 40]。
幕府再興
永禄12年(1569年)1月5日、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した[75](本圀寺の変)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた[75][注釈 41]。もっとも、細川藤賢や明智光秀らの奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた[75]。これを機に信長は義昭の為に二条に大規模な御所を築いた[77]。
1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹親興と和田惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長は堺に2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。
同年2月、堺が信長の使者である佐久間信盛らの要求を受ける形で矢銭に支払いに応じると、信長は以前より堺を構成する堺北荘・堺南荘にあった幕府御料所の代官を務めてきた堺の商人・今井宗久の代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始、翌元亀元年(1570年)4月頃には松井友閑を堺政所として派遣し、松井友閑ー今井宗久(後に津田宗及・千利休が加わる)を軸として堺の直轄地化を進めた[78]。
一方、1月14日、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。また、『殿中御掟』及び追加の条文は室町幕府の規範や先例に出典があり、「幕府再興」「天下静謐」を掲げる信長が幕府法や先例を吟味した上で制定したもので、これまでの室町将軍のあり方から外れるものではなかったとする研究もある[79]。
同年3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した[80]。
同年8月、木下秀吉に命じて但馬国を攻め、山名祐豊を破り、生野銀山などを制圧。祐豊は、今井宗久の仲介で信長に降伏した。
伊勢侵攻
同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢国は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野氏当主とした。
そして翌・永禄12年(1569年)8月20日に、岐阜を出陣し南伊勢に進攻し、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲[81]。篭城戦の末10月に和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ(大河内城の戦い)[81]。後に北畠具教は天正4年(1576年)に三瀬の変によって信長の命を受けた信雄により殺害される。こうして信長は、伊勢攻略を終える。
なお、近年の研究において、大河内城の戦いは信長側の包囲にも関わらず北畠側の抵抗によって城を落としきれず、信長が足利義昭を動かして和平に持ち込んだものの、その和平の条件について信長と義昭の意見に齟齬がみられ、これが両者の対立の発端であったとする説も出されている[82]。
第一次信長包囲網
元亀元年(1570年)4月、信長は自身に従わない朝倉義景を討伐するため、越前国へ進軍する[83]。織田軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、突如として浅井氏離反の報告を受ける[83]。挟撃される危機に陥った織田軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた[83](金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の兵と共に京に到着したという[注釈 42]。
6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙[85]。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した[85](姉川の戦い)。
8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、近隣での信長の軍事動員に脅威を感じた石山本願寺が信長に対して挙兵した[86](野田城・福島城の戦い)。しかも、浅井・朝倉連合軍3万が近江国坂本に侵攻する[86]。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。
9月になると、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還[87]。慌てた朝倉軍は比叡山に立て籠もって抵抗した[87]。信長はこれを受け、近江宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)[87]。しかし、その間に伊勢国の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信与(信興)を自害に追い込んだ[87]。
11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した[88]。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白・二条晴良に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功し[注釈 43]、窮地を脱した[注釈 44]。
第二次信長包囲網
元亀2年(1571年)2月、信長は浅井長政の配下の磯野員昌を味方に引き入れ、佐和山城を得た[91]。
5月、5万の兵を率いた信長は伊勢長島に向け出陣するも、攻めあぐねて兵を退いた。しかし撤退中に一揆勢に襲撃され、柴田勝家が負傷し、氏家直元が討死した[87]。
同年、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)[87]。
一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や相模国の後北条氏、越後国の上杉氏と敵対していたが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた。なお、近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている[92][93]。
元亀3年(1572年)3月、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に敵対した[94]。
7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた[95]。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた[95]。以後の戦況は織田軍有利に展開した。
11月14日、織田方であった岩村城が開城し、武田方に占拠された(岩村城の戦い)[96]。病死した岩村城主・遠山景任の後家(信長の叔母)は、秋山虎繁(信友)と婚姻し、武田方に転じた[96]。また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に敗退し、さらに遠江国の二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に敗退し、汎秀は討死した[96]。
同年の12月から翌年正月のあいだのいずれかの時点で、信長は足利義昭に対して17条からなる異見書を送ったと考えられ、詰問文により信長と義昭の関係は悪化している[97]。この異見書は、従来、『永禄以来年代記』の元亀三年九月条の記述から、元亀3年9月に発給されたものだと考えられてきた[97]。しかし、柴裕之によれば、他の複数の史料の記載や前後の事情から、異見書が元亀3年9月に発給されたとは考え難い[97][注釈 45]。柴は、同年12月の三方ヶ原の戦いの敗戦によって、義昭が従来の信長との協調路線に不安を覚えはじめたと述べる[97]。そして、そのことに対する牽制として、この異見書が出されたものであるとする[97]。
元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)[100]。
こうした武田方の進軍を見て、足利義昭が同月に信長との決別を選び、信長と敵対した[101]。信長は岐阜から京都に向かって進軍し、上京を焼打ちしつつ、義昭との和睦を図った[102]。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した[102]。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ撤退した。
なお、元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「西上作戦」と通称され、信玄は上洛を目指していたとされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている[注釈 46]。
室町幕府の「滅亡」
足利義昭の没落
武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もったが信長は義昭を破り追放した。
通説では、この時点をもって室町幕府が滅亡したとする。このことにより、室町将軍は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「天下」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている[104][105]。一方、義昭は、その後も将軍の地位に留まったまま各地を経て備後国鞆へ移る。そして、信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出しており、義昭が名実ともに将軍の地位を明け渡したのは信長没後のことでもある[106]。このことから、歴史学者の藤田達生は、依然として義昭の勢力は幕府としての実態を備えており(鞆幕府論)、義昭の「公儀」信長の「公儀」が並立する状態にあったと論じている[107][108]。この「鞆幕府」という名称が適切かはともかく、藤田の議論の観点は妥当なものであると評価されている[109]。この視点に立てば、これ以後の信長の戦争は、天下統一戦争というよりも、足利氏とそれを支持する他の戦国大名に対する戦いであると考えられる[109]。
幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの100名以上が義昭の鞆下向に同行している[110]。その一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた[110]。これらの旧幕臣は、明智光秀の与力となり、室町幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなった[110]。
同年7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた[注釈 47]。
天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。
朝倉・浅井氏の滅亡
8月8日、浅井家の武将・阿閉貞征が内応したので、急遽、信長は3万人の軍勢を率いて北近江へ出兵。山本山・月ガ瀬・焼尾の砦を降して、小谷城の包囲の環を縮めた。10日に越前から朝倉軍が救援に出陣してきたが、風雨で油断しているところを13日夜に信長自身が奇襲して撃破した。大将に先を越されたと焦った諸将は陳謝して敗走する朝倉軍を追撃し、敦賀(若狭国)を経由して越前国にまで侵攻した。諸城を捨てて一乗谷に逃げ込んだ朝倉軍は刀根坂の戦いでも敗れ、一乗谷城をも捨てて六坊に逃げたが、平泉寺の僧兵と一族の朝倉景鏡に裏切られ、朝倉義景は自刃した。景鏡は義景の首級を持って降参した。信長は丹羽長秀に命じて朝倉家の世子・愛王丸を探して殺害させ、義景の首は長谷川宗仁に命じて京で獄門(梟首)とされた。信長は26日に虎御前山に凱旋した。
翌8月27日に羽柴秀吉の攻撃によって小谷城の京極丸が陥落し、翌日に浅井久政が自刃した[113]。28日から9月1日の間に本丸も陥落して、浅井長政も自害した[113]。信長は久政・長政親子の首も京で獄門とし、長政の10歳の嫡男・万福丸を捜し出させ、関ヶ原で磔とした。なお、長政に嫁いでいた妹・お市とその子は藤掛永勝によって落城前に脱出しており、信長は妹の生還を喜んで、後に弟・織田信包に引き取らせた(当初は叔父の織田信次が預かったという)。
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島攻略のため、大湊に桑名への出船を命じたが従わず、10月25日に矢田城に滝川一益を入れて撤退する。しかし2年前と同様に撤退途中に一揆軍による奇襲を受け、激しい白兵戦で殿隊の林通政の討死の犠牲を出して大垣城へ戻る[114]。
11月に、足利義昭は、三好義継の居城・若江城を離れ、紀伊国へと退去した[115]。同月、佐久間信盛ら信長方の軍勢が、三好義継への攻撃を開始した[115]。義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害する[115]。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した[115]。
天正2年(1574年)の正月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱(越前一向一揆)が起こり、朝倉氏旧臣で信長によって守護代に任命されていた桂田長俊が一乗谷で殺された[116]。
さらに、同月中には、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる[116]。信長はこれを迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した[116]。
また、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承した[116][注釈 48]。
長島一向一揆の制圧
7月、信長・信忠は、織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を含む大軍を率い、伊勢長島の一向一揆を水陸から完全に包囲した[117]。抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、一揆方は劣勢となる[117]。9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は鉄砲の一斉射撃を浴びせ掛けた[117]。これは、信長の「不意討ち」[118]と表現される事があるが、これは一向宗側が先に騙し討ちを行った事への報復であるという説がある[119]。一方、この時の一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広ら織田方の有力武将が討ち取られた[117]。
これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた[117]。この戦によって長島を占領した[117][注釈 49]。
天正3年(1575年)3月、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万の大軍で出陣した(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長が降伏を申し出たため、これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城を破城とした。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。
長篠の戦い
天正2年から天正3年にかけて、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた[120]。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた[120]。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。
その間の5月12日に信長は岐阜から出陣し、途中で徳川軍と合流し、5月18日に三河国の設楽原に陣を布いた[121]。一方、勝頼も寒狭川を渡り、織田徳川連合軍に備えて布陣した[121]。織田徳川連合軍の兵力は3万人程度であり、対する武田方の兵力は1万5千人程度であったという[121]。
そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)[121]。信長は設楽原決戦においては佐々成政ら5人の武将に多くの火縄銃を用いた射撃を行わせた[122][注釈 50]。この戦いで織田軍は武田軍に圧勝した[125]。武田方は有力武将の多くを失う[125]。信長は細川藤孝に宛てた書状のなかで、「天下安全」の実現のために倒すべき敵は、本願寺のみとなったと述べている[125]。
6月27日、相国寺に上洛[注釈 51]した信長は天台宗と真言宗の争論のことを知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)。
7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た[127]。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、丹羽長秀に惟住といったように彼らに官位や姓を与えた[127]。
越前侵攻
この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。
信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した[128]。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された[注釈 52][注釈 53]。
越前国は再び織田家の支配するところとなる。信長は、越前八郡を柴田勝家に任せるとともに、府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)ら複数の家臣を越前国に配し、分割統治を行わせた[129]。また、信長は越前国掟九ヵ条を出して、越前の諸将にその遵守を求めた[129]。
右近衛大将就任
天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に任じられる[130]。さらに11月7日には右近衛大将を兼任する[130]。この権大納言・右大将就任は、源頼朝が同じ役職に任じられた先例にならったものであるとも考えられるという[130]。官位就任とともに、信長は公家や寺社に対する知行地の宛行を行い、天皇や朝廷の権威を利用しつつ、その存立基盤を維持することに努めた[130]。以後、信長はしばしば「上様」と称されるようになる[130]。
これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとされる[131]。また、この任官によって、信長は足利義昭の追放後もその子・義尋を擁する形で室町幕府体制(=公武統一政権)を維持しようとした政治路線を放棄して、この体制を否定する方向(=「倒幕」)へと転換したとする見方もある[132]。また、義昭の実父である足利義晴が息子の義輝に将軍職を譲った際に権大納言と右近衛大将を兼ねて「大御所」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長が「大御所」義晴の先例に倣おうとしたとする解釈もある[注釈 54][134]。ただし、伝統的な室町将軍の呼称であった「室町殿」「公方様」「御所様」「武家」を信長に対して用いた例は無く、朝廷では信長を従来の足利将軍とは別個の権力とみなしていた[135]。同日、嫡子の信忠は秋田城介に任官し[130]、次男の信雄は左近衛中将に任官している。
11月28日、信長は嫡男・信忠に、一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国を譲った[130]。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。
天正4年(1576年)1月、琵琶湖岸に安土城の築城を開始する[注釈 55]。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。
天下人として
第三次信長包囲網
天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。
4月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀・細川藤孝を指揮官とする軍勢を大坂に派遣し、本願寺を攻撃させた[137]。しかし、塙が本願寺勢方の反撃に遭って、塙を含む多数の兵が戦死した[137]。織田軍は窮して天王寺砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した[137]。5月5日、救援要請を受けた信長は動員令を出し、若江城に入ったが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった[137]。やむなく5月7日早朝には、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺勢に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった[137]。織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功し、本願寺勢を撃破し、これを追撃[137]。2,700人余りを討ち取った[137](天王寺砦の戦い)。
この頃、従来は信長と協力関係にあった関東管領の上杉謙信との関係が悪化する[138][注釈 56]。謙信は天正4年に石山本願寺と和睦して信長との対立を明らかにした。謙信や石山本願寺に続き、毛利輝元・波多野秀治・紀州雑賀衆などが反信長に同調し、結託した。
天王寺砦の戦いののち、佐久間信盛ら織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し[139]、物資を入れぬよう経済的に封鎖した。ところが、7月13日、本願寺の要請を受けて毛利輝元が派遣した毛利水軍など700~800隻程度が、石山本願寺の援軍に現れた[139]。この戦いで織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた[139](第一次木津川口の戦い)。
このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。この年の冬には、天皇の安土行幸が計画されており、それはその翌年の天正5年に実行されるはずだった[140]。これに先立って、正親町天皇が誠仁親王に譲位し、親王が新たな天皇として行幸する予定だったという[140]。しかし、このときは譲位も安土行幸も実現しなかった[140]。
織田右府
天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)し、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、紀伊国から撤兵した[141]。
天正5年(1577年)8月、松永久秀が信長に謀反を起こし、その本拠地の信貴山城に籠城した[142]。天正五年十月十一日付の下間頼廉の書状の内容から、この久秀の造反は、足利義昭・本願寺といった反信長勢力の動きに呼応したものだと考えられるという[142]。しかし、織田信忠率いる織田軍に攻撃され、10月に信貴山城は陥落し、久秀は自害に追い込まれた[142]。
久秀を討ったのと同じ月に、信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政(丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・籾井城・笹山城などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹のお犬の方を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。
11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻。このとき、織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した(手取川の戦い)というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。
11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。天正6年(1578年)1月にはさらに正二位に昇叙されている。
天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この好機を活かし信長は斎藤利治を総大将に、飛騨国から越中国に侵攻(月岡野の戦い)、上杉軍に勝利し優位に立った。またこの勝利を利用し全国の大名へ書状を送った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与えて統治させ、周辺の攻略に当たらせた。
尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた[143]。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。
上杉景勝に対しては柴田勝家・前田利家・佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配置した。
- 美濃・尾張・飛騨の抑え・織田信忠・斎藤利治・姉小路頼綱
- 対武田方面・滝川一益・織田信忠軍団(天正元年結成)
- 対本願寺方面・佐久間信盛軍団(天正4年結成 - 天正8年消滅)
- 北陸方面・柴田勝家軍団(天正4年昇格)
- 近畿方面・明智光秀軍団(天正8年昇格)
- 山陰・山陽方面・羽柴秀吉軍団(天正8年昇格)
- 関東方面・滝川一益軍団(天正10年結成)
- 四国方面・織田信孝・津田信澄・丹羽長秀・蜂屋頼隆軍団(天正10年結成)
- 東海道の抑え・徳川家康(形式的には同盟国であり織田軍団の一部ではない)
- 伊勢・伊賀方面の抑え・織田信雄・織田信包
- (紀伊方面の抑え・織田信張)
中国侵攻
天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる[144]。
4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞した[145]。このとき、信長は信忠に官職を譲ることを希望したものの、これは実現しなかった[145]。
7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により見捨てられた山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)[146]。10月には突如として摂津国の荒木村重が信長から離反し、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する[147]一方、同じく東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重に一時的に同調したものの[147]、まもなく信長に帰順した[148]。
11月6日、九鬼嘉隆率いる織田水軍が、毛利水軍に勝利し、本願寺への兵糧補給の阻止に成功した[149](第二次木津川口の戦い)。12月には、織田軍が、荒木村重の籠もる有岡城を包囲し、兵糧攻めを開始した(有岡城の戦い)[150]。
天正7年(1579年)6月、明智光秀による八上城包囲の結果、ついに波多野秀治が捕らえられ、処刑される[151]。光秀は同年中に丹波・丹後の平定を達成した[152]。
一方、援軍が得られる見込みが薄くなり、追い詰められた荒木村重は、同年9月、有岡城を出て包囲網を突破し、戦略上の要地である尼崎城に入った[153][注釈 57]。しかし、宇喜多直家の織田方への帰参により毛利氏からの援軍は得られなくなり、有岡城の一部城兵も離反し、有岡城はついに落城した[154]。そして、信長は、荒木氏の妻子や家臣数百人を虐殺した[153]。
翌年の天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城[155]。数カ月後には、播磨国一円を信長方は攻略した[155]。
天正7年の政治状況
天正7年(1579年)9月、前年に伊勢国の出城・丸山城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹していた信雄が独断で伊賀国に侵攻したが、信雄の家老・柘植保重が植田光次に討ち取られるなど敗退を喫した。信長は信雄を厳しく叱責し、謹慎を命じた(第一次天正伊賀の乱)。
11月、信長は織田家の京屋敷を二条新御所として、皇太子である誠仁親王に進上した[156][注釈 58]。
この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる[157]。これは信康の乱行、信康生母・築山殿の武田氏への内通などを理由としたものであったといわれ、家康は信長の意向に従い、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという[157]。しかし、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとも考えられている[158](松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。
大坂本願寺との講和
天正8年(1580年)3月10日、関東の北条氏政から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた。これにより信長の版図は東国にまで拡大した[159]。
同年4月には正親町天皇の勅命のもと、本願寺もついに抵抗を断念し、織田家と和睦した(いわゆる勅命講和)[160]。ただし、本願寺側では教如が大坂に踏みとどまり戦闘を継続しようとしている[160][161]。門徒間での和睦への抵抗感が大きかったためだが、やがて教如も籠城継続を諦めざるを得なくなり、8月に大坂を退去している[161]。「天下のため」を標榜して信長が遂行した大坂本願寺戦争は、10年の歳月をかけてようやく決着がついた[160]。
この本願寺打倒の成功は、織田政権の一つの画期とされる[162][163]。なおも各地の一向一揆の抗戦は続くとは言え、大坂本願寺の敗退により、組織的抵抗は下火となっていく[164]。この頃から、「天下」の意味が単なる畿内を超えて日本全土を指すようになり、信長が「天下一統」を目指すようになったという説もある[163]。
その一方で、同年8月、大坂本願寺戦争の司令官だった老臣の佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して、信長は折檻状を送り付けた[165]。そして、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放を命じている[165]。さらに、重臣の林秀貞をはじめ、安藤守就とその子・定治、丹羽氏勝らも追放の憂き目にあった[165][166]。
天下静謐
京都御馬揃えと左大臣推任
天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した[167]。この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった[168]。ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる[168]。信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による[168]。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった[168]。
2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えを行った(京都御馬揃え)[168]。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。
3月5日には再度、名馬500余騎をもって信長は馬揃えを挙行した[169]。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり[168]、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという[169]。
3月7日、天皇は信長を左大臣に推任[170]。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した[170]。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の何らかの意向が伝えられた[170]。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足している[170]。だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった[170]。
8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった[169]。
高野山包囲
天正9年(1581年)、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる[169]。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。一方、『高野春秋』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党との関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した[169]。このため天正9年(1581年)1月、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した[169]。
信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令[169]。1月30日には高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した[169]。10月2日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした[169]。10月5日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った[169]。
天正10年(1582年)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した[169]。信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した[169]。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了し、比叡山延暦寺と同様の焼き討ちにあう危機を免れた[171]。
甲州征伐
天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。7月には越中木舟城主の石黒成綱を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永へも切腹を命じた。3月23日には高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。
武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。
天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る[172]。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した[172]。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は2月2日に1万5,000人が諏訪上の原に進出する[172]。
武田軍では、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに南信濃の松尾城主・小笠原信嶺が2月14日に織田軍に投降する[172]。さらに織田長益、織田信次、稲葉貞通ら織田軍が深志城の馬場昌房軍と戦い、これを開城させる[172]。駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河国から富士川を遡って甲斐国に入国する[172]。このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは仁科盛信が籠もった信濃高遠城だけであるが、3月2日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、400余の首級が信長の許に送られた[172]。
この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る[172]。しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って勝沼城に入った[172]。織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した[172]。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた[173]。
信長は3月13日、岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検する[174]。3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐国の旧領を安堵した[174]。3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野国と信濃2郡を与え、関東管領[注釈 59]に任命して厩橋城に駐留させた[174]。3月29日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた[174]。南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている[174]。
4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた[174]。4月12日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける[174]。さらに江尻城、4月14日に田中城に入城し、4月16日に浜松城に入城した[174]。浜松からは船で吉田城に至り、4月19日に清洲城に入城[174]。4月21日に安土城へ帰城した[174]。
信長による武田氏討伐は奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。蘆名氏は5月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った[176]。また伊達輝宗の側近・遠藤基信が6月1日付けで佐竹義重に書状を遣わし、信長の「天下一統」のために奔走することを呼びかけるなど[177]、信長への恭順の姿勢を明らかにしている。
本能寺の変
天正10年(1582年)の元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の「御幸の間」を見せたという記載が『信長公記』にはある[178]。そして、正月7日、勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇に見せている(『晴豊公記』)[178]。このため、天正10年かそれ以降に、正親町天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる[178]。
4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた[179](三職推任問題)。このことは、晴豊が『天正十年夏記』に記載しているが、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」の文意が明確ではない[179]。そうした事情から、この推任が朝廷側の提案によるものなのか、あるいは村井貞勝の申し入れによるものなのか、研究者のあいだで解釈に争いがある[179]。いずれにせよ、5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた[179]。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが[注釈 60]、返答の内容は不明である。
この頃、北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。
こうしたなか、信長は四国の長宗我部元親攻略を決定し、三男の信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めた[181]。この際、信孝は名目上、阿波に勢力を有する三好康長の養子となる予定だったという[181]。そして、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えることを計画していた[181]。また、伊予国・土佐国に関しては、信長が淡路まで赴いて残り2カ国の仕置も決める予定であった[181]。そして、信孝の四国侵攻開始は6月2日に予定されていた[182]。
しかし、従来、長宗我部元親との取次役は明智光秀が担当してきたため、この四国政策の変更は光秀の立場を危うくするものであった[181][182]。
5月15日、駿河国加増の礼のため、徳川家康が安土城を訪れた[183]。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる[183]。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした[184]。信長の光秀に対する信頼は深かった[185]。一方で、この接待の際、事実かどうか定かではないものの、『フロイス日本史』は、信長が光秀に不満を持ち、彼を足蹴にしたと伝えている[186][注釈 61]。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた[184]。信長は光秀に秀吉への援軍に向かうよう命じた[184][注釈 62]。
5月29日、信長は未だ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国遠征の出兵準備のため、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて安土城から上洛し、本能寺に逗留していた[183][189]。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日未明に本能寺を襲撃する[190]。この際に光秀は侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが、『本城惣右衛門覚書』からわかる[191]。わずかな手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら弓や槍を手に奮闘した。しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた[190]。享年49[190](満48歳没)[注釈 63]。
信長の遺体は発見されなかったが、これは焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったためと考えられる[193][注釈 64]。
この本能寺の変については、光秀本人の動機や、「黒幕の存在」について、様々な説があり、後者には、足利義昭説、朝廷説などがあるという[195]。
年表
和暦 | 西暦[注釈 65] | 日付[注釈 66] | 内容 | 出典 | 年齢[注釈 67] |
---|---|---|---|---|---|
天文3年 | 1534年 | 5月12日 | 勝幡城で誕生。 | 1歳 | |
時期不明[注釈 12] | 那古野城主となる。 | ||||
天文15年 | 1546年 | 元服。三郎信長を名乗る。 | 12歳 | ||
天文18年 | 1549年 | 2月24日 | 濃姫と結婚。 | 16歳 | |
天文21年 | 1552年 | 父・信秀の死去により家督を相続。 | 19歳 | ||
天文23年 | 1554年 | 本拠を清洲城に移転。 | 21歳 | ||
永禄元年 | 1558年 | 11月2日 | 弟・信勝を暗殺。 | 25歳 | |
永禄2年 | 1559年 | 2月2日 | 初上洛、13代将軍足利義輝に謁見。 | 26歳 | |
永禄3年 | 1560年 | 5月19日 | 桶狭間の戦いで今川義元を討つ。 | 27歳 | |
永禄6年 | 1563年 | 本拠を小牧山城に移転。 | 30歳 | ||
永禄9年 | 1566年 | 尾張守を自称する。 | 33歳 | ||
永禄10年 | 1567年 | 8月15日 | 本拠を岐阜城に移転。 | 34歳 | |
永禄11年 | 1568年 | 10月18日 | 義輝の弟である足利義昭を奉じて上洛し将軍職就任を助ける。 | 35歳 | |
10月28日 | 従五位下弾正少忠[注釈 68] | 系図纂要 | |||
元亀元年 | 1570年 | 3月14日 | 正四位下弾正大弼[注釈 68] | 系図纂要 | 37歳 |
1571年 | 12月13日 | 勅命により浅井氏・朝倉氏・六角氏と和睦。 | |||
元亀4年 | 1573年 | 7月26日 | 義昭を畿内から追放、足利義昭は毛利家勢力範囲の備後へ遷る。 | 40歳 | |
天正2年 | 1574年 | 3月18日 | 正四位下参議[注釈 68] | 公卿補任。ただし『歴名土代』は従五位下・同日昇殿とする。 | 41歳 |
3月28日 | 勅許を奉じ、東大寺正倉院の蘭奢待を切り取る。 | ||||
天正3年 | 1575年 | 11月4日 | 権大納言 | 公卿補任 | 42歳 |
11月7日 | 嫡男織田信忠が秋田城介に就任(征夷大将軍を望むも義昭が辞職せず) | ||||
11月7日 | 兼右近衛大将(義昭の官位を越える) | 公卿補任 | |||
11月28日 | 岐阜城を本拠とする織田家の家督を、嫡男・信忠に譲る。 | ||||
天正4年 | 1576年 | 近江に新たな拠点となる安土城を築く。 | 43歳 | ||
11月13日 | 正三位 | 公卿補任 | |||
11月21日 | 内大臣。右近衛大将兼任。 | 公卿補任 | |||
天正5年 | 1577年 | 11月16日 | 従二位 | 公卿補任 | 44歳 |
11月20日 | 右大臣。右近衛大将兼任。 | 公卿補任 | |||
天正6年 | 1578年 | 1月6日 | 正二位 | 公卿補任 | 45歳 |
4月9日 | 右大臣・右近衛大将を辞す[注釈 69]。 | 公卿補任 | |||
天正8年 | 1580年 | 3月5日 | 勅命により石山本願寺と和睦。 | 47歳 | |
天正9年 | 1581年 | 2月28日 | 京都内裏東で京都御馬揃えを催す。 | 48歳 | |
天正10年 | 1582年 | 6月2日 | 本能寺の変にて自害。 | 49歳 | |
10月9日 | 従一位太政大臣を贈位贈官。 | 大徳寺文書[注釈 70] | |||
大正6年 | 1917年 | 11月17日 | 正一位を贈位。 | 官報(1590号) 大正6年11月19日付 |
人物
人物評
歴史学者の池上裕子は、同時代人による信長についての「もっとも的確でまとまった人物評」は、宣教師ルイス・フロイスのものであると述べている[197]。信長について「きわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名なカピタン(司令官)として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない 」[198]とも述べたフロイスによれば、信長は次のような人物であった。
彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体でルタール(相撲)をとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。 — 『フロイス日本史』より[199]
フロイスの描くこのような「絶対君主」的な信長像は、信長の実際の言動と矛盾しない適切な描写であると池上裕子は言う[197]。他方、歴史学者の神田千里によれば、こうした信長の人物像は日本の史料で確認できない部分も多く、以下で述べるとおり、このフロイスによる信長の評価を鵜呑みにすることは問題も多い[200]。
残虐性
池上裕子によれば、信長は自身に敵対する者を数多く殺害し、必要以上の残虐行為を行った[201]。そうすることで信長は「鬱憤を散じ」たのだと、自ら書状に記している[201]。そうした事例の一つが、長島一向一揆殲滅における男女2万人の焼殺であり、信長はこの行為によって気を晴らしたのである[202]。また、岩村城への対応などに見られるように、信長は、しばしば降伏を条件として敵方の城内の者の助命を約束しているものの、降伏後にはその約束を反故にして虐殺を実行している[203]。
もっとも、敵対勢力に対する虐殺行為は、当時の戦国大名の間で広く行われていたもので、信長だけが行ったわけではない[204][注釈 71]。また、信長の一向一揆殲滅については、江戸時代初期の島原の乱における大虐殺との類似性が指摘されている[205]。横田冬彦によれば、このような殺戮行為は近世成立期固有の事象であって、信長の残虐性という「専制者の個性」によって生じたと考えるのは妥当ではない[205]。
信長の残虐性を示す逸話としてしばしば触れられるのが、天正2年(1574年)正月の酒宴である[注釈 72]。『信長公記』によれば浅井久政・長政父子と朝倉義景の3人の首[注釈 73]を
奇行
『信長公記』に記されているように、少年時代の信長は奇行で知られ、「大うつけ」と呼ばれた[20]。異様な見た目の服装で街を歩き、栗や柿、瓜を食べながら歩いたという[20]。さらに父の葬儀の際には、位牌に向かって抹香を投げるという暴挙に出ている[20]。このような奇行はしばしば信長の天才性の象徴とされてきた[211]。
しかし、神田千里は、成人した信長については、このような奇行を行う人物ではなかったと述べる[211]。足利義昭に対する十七か条の異見書や佐久間信盛に対する折檻状などに見られるように、信長自身の残した文書からは、信長が世間の評判を非常に重視していたことが伺える[212]。そして、信長はその時代の常識に則った行動を取り、人々からの支持を得ようと努めていたという[211]。
家臣の扱い
明智光秀や細川藤孝のようなごく一部の例外を除けば、信長は尾張出身の譜代ばかりを重要な地位に登用した[注釈 75][213]。
これら譜代の人々で信長を裏切った者はいない一方で、松永久秀・荒木村重・明智光秀といった「外様」に当たる人々はやがて信長に反逆している[213]。池上裕子は、久秀や光秀らの造反の要因の一つとして、信長の譜代重用に対する反発を挙げている[213][注釈 76]。
また、松永久秀、別所長治、荒木村重らの反乱は、信長の苛烈ともされる性格に起因しているという説もある。己を恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者もいる[215][216]。前述のフロイスの人物評に見られるように、家臣たちは信長への絶対服従を求められ、異議を唱えることも許されなかったともされる[197]。
他方で、こうした見方には異論も存在する。神田千里によれば、信長は家臣の意見をある程度までは重んじ[217]、また家臣の取扱いにも慎重だった[218]。前者について神田はいくつかの例を挙げているが、例えば、中国攻略における羽柴秀吉の独断での決定を信長は追認しているし、また、佐久間信盛の異議に従って武将の三ヶ頼連を赦免している[217]。従来は家臣に絶対服従を求めたものだと理解されていた「越前国掟」という文書も、信長の意見が間違っていれば、憚ることなく指摘すべきだという文言がある[217]。そして、家臣の意が妥当なものなら、信長はそれを採用することを約束している[217]。当時の戦国大名は家臣たちの合議を重んじていたが、信長も例外ではなく、家中の合議を必要なものだと考えていたという[219]。
信長の家臣との関係については、しばしば譜代の重臣の佐久間信盛が追放されたことが注目される。この追放は、一般的には、信長は能力の足りない家臣を容赦なく追い出した事件だと評価されている[220]。例えば、池上裕子は「譜代・重臣であっても(中略)切り捨てる非情さ」の現れだと表現している[165]。しかし、神田によれば、追放前に信盛には名誉回復の機会が与られていることや、信盛が高野山で平穏に余生を送ったと考えられることなどからすると、信長の対応は冷酷とまでは言えないという[218]。そして、信長が家臣の扱いに気を配ったことは、信長が信盛追放の理由の一つとして信盛家中に対する過大な負担を挙げていることからも裏付けられるという[218]。
信仰
前述した『フロイス日本史』の記述(→#人物評)から、信長は無神論者であり、神仏を否定していたと一般には考えられている[221]。しかし、実際には、寺社にたびたび戦勝祈願を行っていたことが多数の一次史料から分かり、このフロイスの記述は信憑性が乏しいことが指摘されている[221]。
熱田神宮のいわゆる「信長塀」は、信長が桶狭間の戦いの戦勝の礼として奉納したという伝承がある[222]。この熱田神宮や、津島神社、織田剣神社といった織田氏と縁の深い神社に対しては、信長は熱心に支援を行っている[222]。
また、信長は、「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を用い、京都では法華宗寺院を宿所に選ぶなど、一定の範囲で法華宗も信仰していた形跡が伺えるという[223]。
このように、信長はごく普通に神仏に対して信仰心を持っていたものの[224]、迷信による弊害を嫌った[225]。このことを示すのが、無辺という旅僧にまつわる天正8年の出来事である[225](『信長公記』巻十三)。無辺は石馬寺の栄螺坊の宿坊に住み着き、不思議な力を持つと人々の間で評判となった[225]。信長は無辺を引見し、出身地などをいくつか質問するが、無辺はわざと不思議な答えをした[225]。信長が「どこの生まれでもない者ということは妖怪かもしれぬ。火であぶってみよう、火を用意せよ」と脅すと、無辺はやむを得ず今度は事実を正直に答えた[225]。無辺は不思議な霊験も示すことはできなかったので、信長は無辺の髪の毛をまばらにそぎ落とし、裸にして縄で縛って町中に放り出し追放した[225]。さらに、無辺が迷信を利用して女性に淫らな行いをしていたことが判明したため、信長は無辺を処刑させたという[225]。
武芸
前述のフロイスの人物評でも言及されているように、信長は武芸の鍛錬に熱心であった。若き日の信長は、馬術の訓練を欠かさず、冬以外の季節は水泳に励んでいたという[226]。さらに、平田三位などの専門家を師として、兵法や弓術、砲術といった事柄を修めた[226]。
信長の趣味として、後述する茶の湯、相撲とともに鷹狩が知られる。『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる[227]。
天下の政治を任されるようになってからも三河や、摂津での陣中、京都の東山などで鷹狩を行った[228]。天正7年(1579年)の2~3月には太田牛一が『信長公記』に「毎日のように」と記すほど頻繁に行い、翌天正8年(1580年)の春にもやはり「毎日」鷹狩りを行った。
前述したとおり、信長は馬術の鍛錬にも励んでいたようで、天正9年(1581年)には安土、岐阜の各城下に馬場を設けている[229]。
足利義昭を京都から追放し、自ら天下の政治を取り仕切るようになった天正年間になると、全国の大名・領主から信長のもとに馬や鷹が献上されるようになった[注釈 77]。
- 天正元年(1572年)冬、陸奥の伊達輝宗から鷹が献上され、信長は伊達氏の分国を「直風」にした[232]。他の奥羽の領主たちも鷹や馬を献上した[233]。
- 天正4年(1576年)4月には毛利氏家臣・小早川隆景が信長に太刀、馬、銀子1,000枚を献上し、信長は羽柴秀吉を介して謝意を伝えた[234]。
- 天正8年(1580年)3月9日、北条氏政は使者を上洛させ、信長に鷹13羽、馬5頭を献上し、北条分国を信長に進上した[235]。
- 天正8年(1560年)6月26日には長宗我部元親が鷹16羽を信長に献上した[236]。
このように天正年間には、多くの大名、領主から信長の許へ鷹や馬が献上された。信長はこれらの献上の対価として分国を安堵した。またこうした献上行為は信長の政策が全国の大名・領主に受け入れられた結果でもあった[237]。
趣味
信長は茶の湯に大きな関心を示した。信長がいつ茶の湯を嗜むようになったかは定かではないものの、上洛後の永禄12年(1569年)以降、名物茶道具を収集する「名物狩り」を行うようになった[238]。この名物狩りは、「東山御物」のような足利将軍家由縁のものを集めることで、自身の権威付けを目的としたものであったという[239]。
そして、こうして手に入れた茶道具は、家臣に恩賞として与えられ、政治的な目的でも利用された(いわゆる「御茶湯御政道」)[240]。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号[注釈 59]と上野一国の加増でがっかりしたという逸話もある[241]。
ただし、信長は単に茶の湯を政治的に利用したわけではなく、純粋に茶の湯を楽しんでいた面もあるようである[240]。
また、相撲見物も好んだ。当時、相撲の風習があったのは西国のみであり、信長も尾張時代には相撲に関心はなかったと考えられる[242]。しかし、上洛以後は、相撲見物が大の好物となり、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』に散見する[243][242]。
相撲大会では、成績の優秀な者は褒美を与えられ[243]、また青地与右衛門などのように織田家の家来として採用されることもあったという[244]。具体的な例として、天正6年(1578年)8月に行われた相撲大会においては、信長は優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ100石で召し抱え、彼らには家まで与えたという[244]。
幸若舞や小歌を愛好したことも知られる一方で、舞と比べると、能楽にはあまり興味を持たなかった[245]。その他、天正3年(1575年)3月に京都相国寺で今川氏真と会見し、氏真に蹴鞠を所望し、披露してもらったというエピソードがあり、また同年7月の誠仁親王主催の蹴鞠の会も見学するなど、蹴鞠にも関心を持っていた可能性がある[246]。
風流の精神
信長は新しいものに好奇心をもち、各種の行事の際には風変わりな趣向を凝らした[247]。脇田修はこれを信長の「風流の精神」であると位置付けている[247]。
例えば、正月に「左義長」として安土の町で爆竹を鳴らしながら大量の馬を走らせたり、お盆に安土城や明かりを灯して楽しむといったことをしている[247]。後者については『フロイス日本史』と『信長公記』の双方に記録があり、城下町には明かりをつけることを禁じる一方で、安土城の天守のみを提灯でライトアップし、さらに琵琶湖にも多くの船に松明を載せて輝かせ、とても鮮やかな様子だったという[248]。
信長はこの安土城を他人に見せることを非常に好み、他大名の使者など多くの人に黄金を蔵した安土城を見学させた[249]。特に、 天正10年(1582年)の正月には、安土城の内部に大勢の人々を招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客1人につき100文ずつ礼銭を取り立てたという[249]。
異国への関心
イエズス会の献上した地球儀・時計など、西洋の科学技術に関心を持った[250]。フロイスから目覚まし時計を献上された際は、興味を持ったものの、扱いや修理が難しかろうという理由で返したという[251]。信長が西洋科学に関心を持っていたことは信長自身の書状からもわかり、病気の松井友閑の治療のためにイエズス会の医師を派遣させている[250]。
信長は宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノに安土城を描いた屏風絵(狩野永徳作「安土城図」)を贈っており、この屏風絵は、信長死後の1585年(天正13年)にローマ教皇グレゴリウス13世に献上されている[252]。ただし、この屏風贈呈は、信長の個性に起因するものというより、中国の皇帝に対して行われていたような異国への屏風絵贈呈の伝統に基づくものであると考えられる[252]。また、ヴァリニャーノの使用人であったアフリカ(現・モザンビーク)出身の黒人に興味を示して譲り受け、「弥助」と名付けて側近にしたことも知られる。
南蛮とは別に、中国に対する強い憧れを有していたという説もある[253]。宮上茂隆は、安土城建築のあり方から信長の中国趣味が伺えると主張しているという[253]。信長の中国への強い関心のため、安土城天守閣の多くの部分では唐様建築が採用されたといい[254]、また、信長の建てた摠見寺は中国の山水画の画題・瀟湘八景のうち「遠時晩鐘」を現したものであるともいう[255]。ただし、谷口克広は、信長が中国への憧れを持っていたという説は根拠不十分であると述べている[253]。
女性観・男色
信長がその妻や側室たちとどのような関係にあったかを具体的に伝える史料は乏しい[256]。近年では、歴史学者の勝俣鎮夫が、明智光秀の妹が信長の側室であり、信長の「意思決定になんらかの影響を与える存在」であったのではないかという説を立てている[257]。
なお、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、ねねに対して励ましの手紙を送っていることが知られる[258][259][注釈 78]。
信長が男色を嗜んだかどうかについては、直接的証拠は無い。『利家夜話』には、若き日の前田利家が信長と同衾していたという男色を示唆する逸話がある[261][262][注釈 79]。
しかし、谷口克広は、この逸話を指摘しつつも、信長と利家・森蘭丸ら近習たちとのあいだに肉体関係があったことは、確実だとは言えないと述べる[262]。とはいえ、谷口によれば、当時の風習などを考えても、信長たちがいわゆる男色関係にあった可能性は非常に高い[262]。
肖像
信長の肖像は、現在肖像画23点、肖像彫刻5点が確認されている[263]。
代表的な作品として、狩野永徳の弟・宗秀が信長一周忌に描いたとされる、愛知県豊田市の長興寺所蔵のもの(重要文化財)、同じく一周忌に描かれた古渓宗陳讃をもつ衣冠束帯姿の神戸市立博物館本(重要文化財)[264]、狩野永徳筆の可能性が濃厚で信長三回忌に描かれた大徳寺の肖像[265]、近衛前久が信長七回忌に描かせ、追善のため六字名号を書き出しの一字に加えた和歌の賛がある京都市上京区報恩寺所蔵のもの[266]、および兵庫県氷上町が所蔵する坐像(「#第一次信長包囲網」参照)などが、信長の肖像画として伝えられている。
天童藩織田家の菩提寺であった三宝寺仰徳殿には細密な肖像画とされるものの写真が残っている。太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、たくわえられた髭(ひげ)などが特徴である。平成4年(1992年)に作家の遠藤周作が『対論 たかが信長 されど信長』という対論集で紹介して以来著名となった[267]。遠藤は同書において、信長の死後に宣教師ジョバンニ・ニコラオが描いた絵を、明治になってから複写したもので、宮内庁、織田宗家とともに分け持ったものであると解説している[267]。三宝寺に現存するものは「大武写真館」の印が押されていることから写真師・大武丈夫によって明治中期に撮影されたものとみられている[267]。
政策
信長の政権構想
信長は、尾張の一部を支配する領主権力として出発しており、東国の他の戦国大名と似たような方法で統治を行っていた[162]。しかし、永禄11年9月に上洛し、足利義昭を推戴したことで、信長は室町幕府の権力機構と並立する形で、その権限を強化していくこととなる[162]。そして、最終的には室町幕府とは異なる独自の中央政権を築くこととなる[162]。
上洛以前、信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であることから、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に理解されることが多いが、その真意は、軍事力ではなく、中国の史書からの引用で七徳の武[注釈 82]という為政者の徳を説く内容の「武」であったと解釈されている[269]。
従来、「天下布武」とは天下統一、全国制覇と同意であると解釈され[270]、信長は「天下布武」達成のために領土拡張戦争を行ったとされてきた。しかし、近年の歴史学では、戦国時代の「天下」とは、室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、地域を意味する場合は、京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えられている[271][272]。そして、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の統治を確立させることであり[273]、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階で達成された事、とされている。
そして、信長がその支配を正当化する論理として用いたのも、「天下」の語である[104][274]。信長は、室町将軍から「天下」を委任されたという立場を標榜した[104]。歴史学者の神田千里は、このことから、信長は戦国期幕府将軍の権限を継承したと論じている[104]。神田によれば、比叡山の焼き討ちは室町幕府第6代将軍・足利義教も行ったもので、寺社本所領に対する将軍権力の介入と位置づけられる[104]。また、諸大名に対する和睦命令や京都支配も従来将軍によって行われていたもので、信長は「天下」を委任されることで、これらの行為を行う権限を手にしたのである[104]。
幕府において、信長は朱印状を発給して政策を実行したが、この朱印状は、信長以前の戦国期室町幕府の守護遵行状・副状にあたるものであり、特殊な機能を持つものではないと考えられている[275][276]。信長はあくまで室町幕府の存在を前提とした権力を築いており、当初の織田政権は幕府との「連合政権(二重政権)」であったと言える[275][276]。
しかし、元亀4年(1573年)2月に足利義昭が信長を裏切ったため、やむを得ず、将軍不在のまま、信長は中央政権を維持しなければならなくなる[277][注釈 83]。とはいえ、義昭追放後も、義昭が放棄した「天下」を信長が代わって取り仕切るというスタンスをとり、「天下」を委任されたという信長の立場は変わらなかった[274]。そして、信長は、将軍に代わって「天下」を差配する「天下人」となった[278]。金子拓によれば、信長は、「天下」の平和と秩序が保たれた状態(「天下静謐」)を維持することを目標としていた[278]。この天下静謐の維持の障害となる敵対勢力の排除の結果として、信長は勢力を拡大したが、あくまで目的は天下静謐の維持であって、日本全国の征服といった構想はなかったという[278]。そして、信長は「天下」の下に各地の戦国大名や国衆の自治を認めつつ、彼らを織田政権に従属させることで日本国内の平和の実現を進めていった[279]。
領域支配
織田政権による領域支配においては信長が上級支配権を保持し、領国各地に配置された家臣は代官として一国・郡単位で守護権の系譜を引く地域支配権を与えられたとする一職支配論がある。
この点に関連して、天正3年9月の越前国掟が重要な史料として存在する[280]。この越前国掟は、信長から越前支配を任された柴田勝家に宛てられたものである[280]。
九ヶ条のこの国掟の内容は、次のようなものであった[129]。まず、前半では、領知や課役の差配の一部に信長が関与するなどの原則が定められ、後半では勝家らがその任務を疎かにすべきではないと説かれている[129]。そして、最後に信長への絶対服従を求め、越前国はあくまで信長から勝家らに預けられたものに過ぎないということが強調されている[129]。
このような越前国掟の記述から、信長こそが領域支配の全権力を掌握しており、勝家は一職支配権を握りつつも越前の代官的存在にとどまるとするのが、これまでの通説であった[280]。しかし、この点に関しては近年の研究者間では論争があり、平井上総は次のように整理している。
通説に対し、歴史学者の丸島和洋は、信長および勝家双方の発給文書群の考察から、国掟が置かれて以降、勝家が越前支配のほぼ全権を得ていたと論じた[280]。このような勝家による支配は、他の戦国大名の重臣(地域支配の全権を委ねられたいわゆる「支城領主」)による支配と、ほとんど変わるところがないという[280]。そして、明智光秀領や羽柴秀吉領を分析した別の研究者も同様の結論を得ている[280]。
こうした見解を批判する立場から、藤田達生は、より広い範囲の事項を検討することで、地域支配の最終決定権を信長が持っていることなどを指摘した[280]。そして、信長の権力は、従来の戦国大名権力とは異質なものであり、江戸幕府へとつながる革新的なものであったと改めて主張している[280]。この議論について、丸島和洋は、信長の革新性を所与のものとして構築されたものであると批判し、藤田の指摘は他の戦国大名にも当てはまるものであると論じる[280]。
外交
天正年間の信長は、他の戦国大名とは異なり、それらの上位権力の立場にあった[281]。例えば、信長は天正7年に島津氏・大友氏に停戦を命じており、島津氏は信長を「上様」であるとする返書を出している[281]。
しかし、これは明確な主従関係に裏打ちされたものではなく、あくまでも緩やかな連合関係にあるという程度であった[281]。ただし、以下で述べるよう徳川家康は信長に臣従していたと考えられる[281]。
通説的には、織田信長と徳川家康は、桶狭間の戦いから2年弱が過ぎた永禄5年正月、清須において会見を行ったとされる[282]。ここに、いわゆる「清洲同盟」を結び、両者は、二十年にわたり強固な盟友関係にあったという[282]。しかし、これは、江戸時代成立の比較的新しい史書に基づいた見方であるが、同時代史料に拠る限り、必ずしもこの見解は妥当なものとは言えない[282]。
実際には、信長と家康は桶狭間の戦いの直後には同盟関係を築いた可能性が高く、清須において両者が会見したという逸話も江戸時代の創作であると考えられる[282]。両者は、当初は将軍足利義昭のもと、対等な関係にあった[283]。しかし、義昭追放後になると、信長に命じられる形で家康は軍勢を動員し、また、書札礼でも信長が家康に優越する立場となっている[283]。そして、駿河国も知行として信長から家康に与えられている[283][281]。こうしたことから、家康は信長の同盟者としての立場を失い、信長の臣下となっていたと考えられるという[283][281][284]。
なお、『フロイス日本史』によれば、信長は日本を統一した後、対外出兵を行う構想があり、「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して明(中国)を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」を持っていたという(『フロイス日本史』第55章)。また堀杏庵の『朝鮮征伐記』では、豊臣秀吉が信長に明・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。しかし後者は俗説であり、信長の対外政策については、従来より根拠に乏しく(フロイスの)他に裏付けがないことが指摘される。歴史学者の中村栄孝は信長が海外貿易を考えていて秀吉の唐入り(文禄・慶長の役)は亡き主君の遺志を継いだものという説は、『朝鮮通交大紀』の誤読による人物取り違えであって信長に具体的な海外貿易・対外遠征の計画はなかったとしている[285]。ただし、堀新のように、織田政権の動向や後の豊臣政権による三国国割計画の存在といったことから、信長が大陸遠征構想を持っていたことはある程度まで事実だったのではないかと述べる論者もいる[286]。
朝廷政策
上洛を果たした後、信長は、御料所の回復をはじめとする朝廷の財政再建を実行し、その存立基盤の維持に務めた[287]。とはいえ、信長が皇室を尊崇していたための行動というわけではなく、天皇の権威を利用しようとしたものだと考えられている[287]。なお、天正3年の権大納言・右近衛大将任官以後、信長は公家に対して一斉に所領を宛行っており、それ以後、信長は公家から参礼を受ける立場となった[288]。
信長と朝廷との関係の実態については、対立関係にあったとする説(対立・克服説)と融和的・協調的な関係にあったとする説(融和・協調説)がある[289]。両者の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた[290]。1990年代に今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇 中世的な権威に挑む覇王』[注釈 84]を上梓し、多大な影響を与えたが、その後の実証的な研究により、この今谷の主張はほぼ否定された[290]。2017年現在は、信長は天皇や朝廷と協力的な関係にあったとする見方が有力となっている[289]。
平井上総および谷口克広の分類によれば、それぞれの説に立つ論者は以下のとおりである[291][289]。
対立・克服説 | 融和・協調説 |
---|---|
奥野高廣 | 脇田修 |
朝尾直弘 | 橋本政宣 |
藤木久志 | 三鬼清一郎 |
秋田裕毅 | 池享[注釈 85] |
今谷明 | 堀新 |
立花京子 | 谷口克広 |
藤井譲治[注釈 86] | 池上裕子 |
藤田達生 | 神田千里 |
桐野作人 | |
山本博文 | |
金子拓 |
信長が天皇を超越しようとしたかどうかについては、宣教師に対する信長の発言がしばしば注目される[289]。ルイス・フロイスの書簡によれば、宣教師が天皇への謁見を求めた際、信長は「汝等は他人の寵を得る必要がない。何故なら予が国王であり、内裏である」と発言したとされる[292]。松田毅一が翻訳した『日本巡察記』(ヴァリニャーノ著)では、「予が国王であり~」となっているが、松本和也はこれは誤訳であると指摘している。なぜなら原文の当該部分には、ポルトガル語で国王を意味する「rei」ではなく、宣教師たちが天皇の意味で用いていた「Vo(オー)」が使われているからである。ちなみに原文は「elle era o mesmo Vo & Dairi」であり、直訳すると「彼が正にオーでありダイリなのだ」となる[293]。
この発言は天正9年京都馬揃えの直前になされた[294]。このように、信長が自身を天皇・内裏であると述べたことについて、信長が天皇を超越しようとした証拠であるとして重視する者もいる[289]。しかし、この説について平井上総は疑義を呈しており[289]、堀新も信長の皇位簒奪の意図を示すものではなく、融和説(「公武結合王権論」)の立場から、正親町天皇と信長の一体化を意味した発言だと述べる[294]。
信長と朝廷の関係を考える際の具体的な手がかりとしては、いわゆる三職推任問題をはじめ、正親町天皇の譲位問題、蘭奢待の切り取り、京都馬揃え、勅命講和など多様な論点があり、研究者間で解釈が別れている[289][295][296]。以下、代表的なものに絞って時系列順で見ていく。
足利義昭追放後の天正元年(1573年)12月、信長は正親町天皇に譲位の申し入れを行い、天皇もこれを了承した[297]。が、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった[297]。これについて、対立説の解釈では、信長は自身の言いなりとなる誠仁親王を即位させようとし、この動きに正親町天皇が抵抗したことで譲位が遅延したと考える[297]。一方、融和説では、天皇が譲位を望みながら、信長の意向により実現しなかったとみている[297]。[注釈 87]。
信長が天正9年(1581年)に行った京都御馬揃えについて、対立説では、朝廷への軍事的圧力・示威行動であったと見る[298]。これを批判する立場から、融和説では、朝廷側の希望によって行われたものだと解釈する[298]。2017年現在では、朝廷に対する圧力というより、一種の娯楽行事であったとする見解が有力となっている[299]。
天正10年(1582年)4月25日、武家伝奏・勧修寺晴豊と京都所司代・村井貞勝の間で信長の任官について話し合いが持たれた[300]。この際、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された[300]。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって論争がある(三職推任問題)[300]。信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長がどのような構想を持っていたか、正確なところは不明である。
宗教政策
織田政権は一向一揆と激しく争い[301][注釈 88]、また、比叡山を焼き討ちした[302]。こうした背景のため、一般には、信長は仏教勢力と激しく対立してその殲滅を図り、逆にキリスト教を庇護しようとしたと思われてきた[303]。例えば、仏教史研究者の末木文美士は、その著書『日本仏教史』において、信長が「暴力的手段に訴えて一気に仏教勢力の壊滅を図った」と表現している[304]。
しかし、実際には、信長はすべての仏教勢力と敵対関係にあったわけではなく、自らと敵対しない宗派についてはその保護を図っていた[303]。また、キリスト教を特別に厚遇したわけでもない[303]。自身に従う宗派には存続を認めつつ、宗教権力に対する世俗権力の優位を実現するという方針が、織田政権の宗教政策の基調にあったと考えられる[302]。
信長の宗教政策上、天正7年の「安土宗論」が注目されてきた[302][305]。この安土宗論は、信長の関与のもと、浄土宗と日蓮宗のあいだで宗論が行われたというものである[302]。日蓮宗は宗論において敗北を認めさせられ、今後、他の宗派に論争を仕掛けないことを強いられた[302]。一般的には、安土宗論は信長による日蓮宗に対する弾圧だと捉えられてきた。例えば、三鬼清一郎は、日蓮宗が「宗論の敗訴という形で、宗旨そのものに致命的打撃を与えることによって屈服させられた」と表現し、天文法華の乱のような都市民と日蓮宗の連携の危険を排除したと述べている[306]。しかし、安土宗論の実際の目的は、日蓮宗弾圧というよりも、宗論を抑制することで宗教的秩序の維持を企図する点にあったと考えられるという議論もある[302][305]。
天台宗と真言宗の僧侶あいだで絹衣の着用の是非が争われた絹衣相論では、信長の関与のもと、天台宗のみに絹衣着用を認める綸旨が出されている[307]。そして、この綸旨に反して絹衣を着用した真言宗の僧侶は処刑された[307]。一向一揆や比叡山に対する措置と同様に、信長は自身の意向に反する宗教者には厳しい対応をとったのである[307]。
神社との関係では、石清水八幡宮の社殿の修造を実行するとともに、伊勢神宮の式年遷宮の復興を計画した[308]。特に後者の計画は、伊勢信仰を自身の権威付けに利用しようとしたものだと考えられ、豊臣政権に引き継がれている[308]。
なお、同時代の宣教師ルイス・フロイスは、信長が自らを神格化しようとしたと述べている[309]。しかし、この自己神格化について、日本側の史料で記述したものは、まったく存在しない[309]。そのため、フロイスの記述を信用するかどうかについては研究者間で争いがある[309]。肯定する論者には、例えば、朝尾直弘や今谷明などがいる[310]。朝尾は、一向一揆との対決という背景のもと、後の幕藩制国家につながる「将軍権力」の創出過程の一環として、信長の自己神格化を位置づける[311]。一方、神格化を否定する立場は、フロイスの記述はあくまでキリスト教側からの偏った観点によるものであり、信ずるに足るものではないとする脇田修や三鬼清一郎らの見解がある[312]。
経済・都市政策
いわゆる「楽市・楽座令」は、信長が最初に行った施策と言われることが多いが、現在確認されている限りでは、近江南部の戦国大名であった六角氏が最初に行った施策である[313]。この「楽市・楽座令」については評価が別れている[314]。かつて豊田武は、特権的な商工業者の団体である座を解体し、流通を促進する革新的政策であると位置づけた[314]。一方で、信長は実際には多くの座の特権を保障しており、脇田修らは信長が座の否定を意図していなかったと論じている[314]。
また、不必要な関所を撤廃して流通を活性化させ、都市の振興と経済の発展を図った[315]。これについては他の戦国大名の行ったことのない革新的な政策であると考えられる[315]。
関所撤廃とあわせて、天正2年(1574年)末から、信長は坂井利貞ら4人の奉行に道路整備を命じている[316]。この工事は翌年にも続き、織田家の領国中に広く実施された[316][注釈 89]。この道路整備によって、人々や牛馬の通行が容易となった[316]。
当時全国でばらばらであった枡の統一規格として、織田領国では京枡を統一採用したともされる。この枡は豊臣政権 - 徳川幕府にまで受け継がれた。この事により、年貢や物流の管理が正確に、かつし易くなった
そして、質の悪い貨幣と良い貨幣の価値比率を定めた撰銭令を発令した。他大名や室町幕府の出した撰銭令と比べ、信長の撰銭令の特徴は「全ての銭に価値比率を定めている」点である[317]。また、金銀の貨幣価値を定める規定[注釈 90]は革新的なものであり、江戸時代の三貨制度に続くものであると高く評価されている[318]。ただし、この 撰銭令は、かえって貨幣取引を減少させ、米を用いた取引を増加させるという結果をもたらし、期待した効果を発揮できなかったと考えられている[319]。
さらに信長は石山本願寺と和睦したのち、大坂の地に城を築かせた。本能寺の変の時点では「千貫矢倉」が津田信澄に預けられていたという(『細川忠興軍功記』)。これは『フロイス日本史』の「本能寺の変の折、津田信澄は大坂城の塔(torre)を見張っていた」という記述と符合する。『信長公記』によると立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったという[320]。
軍事
信長は、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉 明智光秀などの有力部将に地域ごとに軍団を率いさせるとともに、自身の直属部隊として馬廻などを組織していた[321]。この馬廻は稲生、桶狭間、田部山で活躍している[322]。信長軍は機動力に優れており、本圀寺の変では、本来なら3日はかかる距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し[323]、摂津国に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。部下の秀吉も、いわゆる「中国大返し」や賤ヶ岳の戦いなどで高い機動力を見せており、特に中国大返しは信長の戦術の一面を超えたと言う指摘もある[324]。
また、信長は火器を重視した[325]。長篠の戦いにおける三段撃ちは架空のものであるとする見解が有力となっているとはいえ、信長が多数の鉄砲を運用していたことは確かである[326]。特に、諸武将から鉄砲を徴発することで直属の旗本衆の鉄砲部隊を強化しており、一ヵ所の戦場に集中して鉄砲を運用することを可能にした点は信長の鉄砲運夜の特徴である[326]。
大砲もすでに元亀年間から使用していた形跡があり、第二次木津川口の戦いなどで船に搭載した他、神吉城攻め以降は攻城戦においても本格的に運用していた[327]。いわゆる鉄甲船を作ったとも言われるが、根拠となる史料が『多聞院日記』天正六年七月八日条のみなので、その実在性については賛否両論がある[328]。
なお、織田家では、明文化された軍役規定は、明智光秀の家中軍法以外に見つかっていない。これを「これ以外には存在しなかった」[注釈 91]とみるか、「他にもこれと同じようなものが存在していた」[330]とみるかは、研究者の間でも見解の分かれるところである。
後世の評価
「凶逆の人」から勤王家へ
江戸時代にあっては、江戸幕府の創始者として「神君」扱いされた徳川家康や『絵本太功記』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉らとは異なり、一般的に信長の評価は低かった[331]。儒学者の小瀬甫庵、新井白石、 太田錦城らは、いずれも信長の残虐性を強調し、極めて低く評価した[331]。例えば、新井白石の信長評は、親族を道具のように扱い、主君である足利義昭を裏切り、大功のあった老臣佐久間信盛らを追放し、言いがかりをつけて他の大名を滅ぼした「凶逆の人」であるというものであった[332]。そして、白石は「すべて此人(信長)天性残忍にして詐力を以て志を得られき。されば、其終を善せられざりしこと、みづから取れる所なり。不幸にあらず」と述べ、信長の死を、残虐性ゆえの自業自得だと位置付けた[332]。民衆のあいだでも信長は不人気であり、歌舞伎や浄瑠璃などにおいても、信長は悪役・引き立て役に留まっている[331]。
このように信長に対する酷評が広まった状況にあって、信長を再評価したのが、頼山陽である[331]。江戸時代後期の尊王運動に多大な影響力を有したことで知られる[333]頼山陽の『日本外史』は、信長を「超世の才」として高く評価した[334]。『日本外史』は、信長の勤王家としての面を強調する[334]。そして、中国後周の名君・世宗の偉業が趙匡胤の北宋樹立に続いたのと同じように、信長の覇業こそが、豊臣・徳川の平和に続く道を作ったのだと述べる[334]
幕末の志士たちも、御料所回復等を行っていたことなどを評価して、信長を勤王家として尊敬した[335]。明治2年(1869年)になると、明治政府が織田信長を祀る神社の建立を指示した[336]。明治3年(1870年)、信長の次男・信雄の末裔である天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が、東京の自邸内と藩内にある舞鶴山に信長を祀る社を建立した[336]。信長には明治天皇から建勲の神号が、社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された[336]。その後、明治年間には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている[336]。大正6年(1917年)には正一位を追贈された[注釈 93]。
こうした傾向は歴史学の分野でも同様であり、当時は信長の勤王的側面を重視する研究が行われた[99]。
革新者か否か
第二次世界大戦の後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。歴史小説においては、すでに戦中の1944年に坂口安吾が短編小説「鉄砲」を発表し、近代的な合理主義者としての信長像を明確に打ち出した[337]。合理主義者としての信長のイメージは、高度成長期に発表された司馬遼太郎『国盗り物語』、バブル期の津本陽『下天は夢か』といったベストセラー小説を通して広く浸透することとなった[337]。
学術的には、1963年刊行の『岩波講座日本歴史』において、今井林太郎が信長を次のように評価している。信長は、中世の複雑な土地所有構造を清算し「純粋封建制確立への途を切り開いた」[338]人物である。そして今井は、「信長の前には中世以来の宗教的な権威はまったく通用しなかった」[339]と述べ、信長の本質を中世的権威の否定にあると規定した。この頃には信長が天皇制を打倒しようとしていたという説も現れ、革新者としての信長像が定着することとなる[340]。信長は、その「革新的」な諸政策から、日本史上、極めて重要な人物であり、「不世出の英雄の一人」[341]と評価されてきた。
新しい時代への道を切り拓いた人物としての信長像は広く受け入れられた一方で、信長の時代はいまだ中世的要素が強く、豊臣秀吉の行った太閤検地こそが近世への転換点だという学説も有力であった[342]。朝尾直弘と脇田修は、それぞれ20世紀後半の代表的な中近世移行期研究者であるが、両者の信長に対する歴史的評価は正反対である[343]。朝尾が信長を近世の創始者であると理解したのに対し、脇田は信長を中世最後の覇者[注釈 94]であると捉えていた[343]。
その後、21世紀の歴史学界では、より実態に即した信長の研究が進み、その評価の見直しが行われている[344][345]。例えば、室町幕府と織田政権の連続性が強調され[276]、信長は天皇とも協調関係にあったと考えられるようになった[289]。「楽市・楽座令」を信長独自の革新的政策とする見方にも否定的な研究が多くなった[346]。また、信長の宗教観も他の戦国大名と比較して特異なものとは言えないという指摘もある[221]。この他、様々な面から特別な存在としての信長像に疑義が呈され、信長に画期性を認めることに慎重な意見の研究者が多くなってきている[345][344]。
系譜
織田氏の発祥の地は越前国織田荘であり、その荘官の立場にあったという[347]。織田氏と思われる人物の史料上の初見は、劔神社に残された明徳4年(1393年)六月十七日付藤原信昌・兵庫助将広置文であるとされる[347]。応永8年(1401年)には、織田名字を使用する「織田与三」なる人物が初めて現れ、彼は管領斯波氏の家臣として重要な役割を果たしていた[348]。その翌年には織田常松が尾張守護代に任じられている[348]。
尾張に勢力を移した織田家では、岩倉を本拠とする伊勢守家と清洲を本拠とする大和守家に分裂し、各々が守護代として尾張半国を治めた[7]。そして、後者の大和守家の分家で、清洲三奉行家の一つである弾正忠家こそが、信長の家系である[7]。
信長の子孫としては、信忠の子である三法師(織田秀信)が、形式上、織田家の家督を継いだ[349]。秀信は豊臣政権下で岐阜で13万石程度の領地を持ったが、関ヶ原合戦の結果、所領を没収されてしまう[349]。秀信は数年後に病を得て世を去り、ここに嫡流は絶えることとなる[349]。
一方、次男の織田信雄は豊臣政権下で所領を失ったものの、大阪の陣後、大和宇陀郡などに五万石を与えられた[349]。信雄の子孫が、柏原藩、高畠藩、天童藩といった小規模な藩の藩主となり、江戸時代を通じて大名として続いている[349]。
先祖
兄弟
兄弟のうち、秀俊(信時)および秀孝の出生順については議論がある。江戸時代の諸系図類では秀俊は、信秀の六男となっており、信長の弟とされる[350]。しかし、谷口克広によれば、『信長公記』の記述に基づく限り、秀俊は信秀の次男、すなわち信長の兄である[350]。同様に諸系図類では秀孝を信包の弟であるとするが、秀孝は信包の兄であるとも考えられる[351]。
姉妹
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妻
- 正室:鷺山殿(別称:於濃の方、濃姫、帰蝶)(斎藤道三の娘)
- 側室
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息子
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娘
信長の娘については、事跡の詳細が不明な者がほとんどである[352]。その上、『寛永諸家系図伝』では娘が6人となっているのに対して、より後年の『寛政重修諸家譜』では12人となっていたりと、系図によって娘の人数も一定しない[353]。渡辺江美子によれば、『寛永諸家系図伝』はおおよそ正しく長幼の順に娘を挙げているものの、法華寺本・坪内本の『織田系図』にある通り、長女は松平信康室ではなく蒲生氏郷室を長女とするのが正しいと推定される[354][355]。また、『寛永諸家系図伝』に載らない娘について、水野忠胤室は夫の不祥事のために意図的に省かれたと思われ、万里小路充房室・徳大寺実久室の2人は、公家と婚姻したためか織田信孝扶養であったためかのいずれかの理由で見落とされたと考えられる[355]。
- 相応院 - 長女[354][355]、蒲生氏郷室[354]。
- 徳姫(五徳)(見星院) - 二女[355]、松平信康室)[356]。
- 秀子、または藤、のちに上野御方(日栄) - 筒井定次室[357]。鶴姫(鷺の方)(中川秀政室)と同一人物であるとも考えられる[357][358]。
- 玉泉院 – 前田利長室[359]。名前や母は明らかでない[359]。
- 報恩院 - 丹羽長重室 [360]。
- 振 - 水野忠胤室、佐治一成継室[361]。母は小倉鍋 [361]。
- 某 – 万里小路充房室[361]。
- 三の丸殿 - 豊臣秀吉側室[360]。信忠生母を母とすると言われるが、もとは赤松氏の娘である信長養女の二条昭実室と法名が一致しており、詳細は不明な点が多い[360]。
- 月明院 - 徳大寺実久室[362]。信長の末娘であると考えられる[362]。
- 足利夫人 - 足利義昭側室[注釈 96]
養女
猶子
一門衆
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墓所・霊廟・寺社
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本能寺 信長公廟
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安土城址 織田信長公本廟
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静岡県富士宮市の西山本門寺の信長公首塚(写真左側)
- 「信長公廟」:京都市中京区の本能寺[注釈 97]にある石造宝篋印塔と入母屋造の廟屋。
- 「織田信長公本廟」:京都市上京区寺町の蓮台山阿弥陀寺にある石碑。当時の住職・清玉が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇しその遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝える。秀吉に遺骨の差し出しを求められたという。信長の命日に当る毎年6月2日のみ公開されている。
- 「織田信長墓所」:高野山奥の院の五輪塔。明治以後忘れ去られていたが、昭和45年(1970年)に再発見。
- 京都市北区の大徳寺塔頭の総見院の五輪塔。一周忌に秀吉が建立した寺院といい、遺骸が見つからなかったため、木像を2体造り、1体を火葬して1体を総見院に安置したという。名称は信長の戒名「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」による。特別公開時期以外は非公開[366]。
- 「織田信長公本廟」:安土城二の丸跡
- 「織田信長公御分骨廟」:富山県高岡市の高岡山瑞龍寺にある石造宝篋印塔。
- 「織田信長父子廟所」:岐阜県岐阜市の神護山崇福寺の石碑。市指定史跡。信長の側室お鍋の方が遺品を贈り、位牌を安置したという。
- 「信長公廟」:愛知県名古屋市中区の景陽山総見寺の石造宝篋印塔。織田信雄が清洲城下に菩提を弔うために立てた寺院。清洲越しにより名古屋に移る。
- 「織田信長供養塔」:愛知県清須市の興聖山総見院。清洲越しで名古屋に移った34年後、総見寺跡に再建立された寺院。
- 「織田信長信忠公供養塔」:大阪府堺市の南宗寺本源院
- 初代加賀藩主・前田利長は泉野菅原神社を造営し、ひそかに信長を神として祀っており[367]、熊本藩の細川忠興(三斎)なども信長の菩提を弔うため、その法号「総見院殿泰巌信齢大居士」にちなんで泰巌寺を建立した[368]。
- 明治時代には、信長を主宰神とする建勲神社が東京と天童に創建された。→詳細は「建勲神社」を参照
- 「越前二の宮 剣神社」:福井県越前町(旧・織田町):信長は織田家発祥の地として氏神の社と崇め、神社を保護した[369]。毎年10月19日の大祭には織田家当主が参列している[366]。
- 岐阜市若宮町の橿森神社では、信長が美園で開いた楽市楽座の市神が橿森神社の御神木に祀られたという伝えがある。
- 愛知県清須市清洲古城跡に信長を祀る神明造の小祠がある。
- 「南蛮寺の鐘」:京都市右京区にある臨済宗大本山妙心寺の塔頭寺院、春光院所蔵。(南蛮寺は信長が京都に建てたキリスト教会堂。)
- 天正寺:山崎の戦い後、秀吉は信長を弔うため、京都船岡山に寺建立を計画、天正寺という寺号を朝廷から賜るが、天正16年(1588年)、建立責任者の蒲庵古渓が秀吉の怒りを買って追放、建立には至らなかった。のちに建勳社の社地として船岡山が選定された。
- 「織田信長の首塚」:静岡県富士宮市の西山本門寺。西山本門寺18世・日順の父、原宗安(原志摩守)は、本因坊日海(本因坊算砂)の指示により、織田信長の首を西山本門寺まで持ち帰り、柊を植え首塚に葬ったという。
関連事項
史料
織豊期の史料は相対的に豊富とは言えず、また、代表的な史料すら、それぞれの信頼性がどの程度かという評価も固まっているとは言えない[370]。
一般に、信長研究において最も重要な基本史料とされるのは、奥野高廣が集成した信長発給文書(『織田信長文書の研究』)および、同じく奥野高廣ら校注の角川文庫版『信長公記』である[370][371]。
ただし、堀新によれば、後者の『信長公記』については、角川文庫版が自筆本の翻刻ではなく、また、『信長公記』の写本間の異同・系統研究もいまだ十分ではないという課題があるという[370]。文書についても、信長発給文書だけでなく、家臣団発給文書の収集・分析が必要であるという課題を指摘している[370]。
行事、祭礼
織田信長を題材とした作品
小説
- 『信長』坂口安吾、筑摩書房、1953年。宝島社〈宝島社文庫〉、2008年。
- 「桶狭間」(『異域の人』収録)井上靖、講談社、1954年。
- 『織田信長』山岡荘八、講談社〈山岡荘八歴史文庫〉、1961年。
- 『炎の柱 織田信長<上・下>』大仏次郎、徳間書店〈徳間文庫〉、1962年。学陽書房、2006年。
- 『国盗り物語』司馬遼太郎、1967年。
- 『寸法武者 八切意外史5』八切止夫、講談社、1967年。作品社、2002年。
- 『安土往還記』辻邦生、筑摩書房1968年。新潮社〈新潮文庫〉、2005年。
- 『天目山の雲』井上靖、角川書店〈角川文庫〉1975年。
- 『下天は夢か』津本陽、1989年。
- 『決戦の時』遠藤周作、講談社、〈講談社文庫〉、1991年。
- 『織田信長<全六巻>』鷲尾雨工、富士見書房〈時代小説文庫〉、1991年。
- 『鬼と人と<上・下>』堺屋太一、PHP研究所〈PHP文庫〉、1993年。
- 『炎の人 信長<1 - 6>』桑原譲太郎、徳間書店、1995年、1996年。電子書籍館 桑原譲太郎の世界、2009年。
- 「峻烈」(『忠直卿御座船』収録)安部龍太郎、講談社〈講談社文庫〉、2001年。
- 『信長燃ゆ<上・下>』安部龍太郎、新潮社〈新潮文庫〉、2004年。
- 『信長の棺』加藤廣、2005年。
映画
- 『織田信長』(1940年 日活 監督:マキノ正博 演:片岡千恵蔵)
- 『紅顔の若武者 織田信長』(1955年 東映 監督:河野寿一 演:中村錦之助)
- 『風雲児 織田信長』(1959年 東映 監督:河野寿一 同演)
- 『若き日の信長』(1959年 大映 監督:森一生 演:市川雷蔵)
テレビドラマ
1963年から2009年までのNHK大河ドラマ48作中、信長の登場作品は18作に及ぶが、この数字は豊臣秀吉と並び、他の歴史上の人物よりも遥かに多い[372]。
- 『若き日の信長』(1961年・NET 演:九代目 市川海老蔵)
- 『織田信長』(1962年・朝日放送 演:林真一郎)
- 『若き日の信長』(1964年・フジテレビ 演:市川猿之助)
- 『国盗り物語』
- 『織田信長』(1989年・TBS 演:渡辺謙)
- 『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年・NHK 演:緒形直人)
- 『織田信長』(1994年・テレビ東京新春ワイド時代劇 演:高橋英樹)
- 『織田信長 天下を取ったバカ』(1998年・TBS 演:木村拓哉)
- 『女信長』(2013年・フジテレビ 演:天海祐希)
漫画
- 横山光輝『織田信長』(1985年、講談社、原作 山岡荘八)
ゲーム
脚注
注釈
- ^ a b 余語正勝が天正11年6月2日(1583年7月20日)に寄進したもので、戒名は通常「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには総見院以前のものと思われる「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。余語正勝については不明だが、兄弟の余語勝久(勝直)が信長に仕えていたことから、正勝も信長の家臣だったと考えられる。
- ^ a b 信長の誕生日は、ルイス・フロイスの言に基づき5月11日ないし12日であるとする説と、天野信景『塩尻』等に準拠して5月28日であるとする二つの説がある[2]。
- ^ 『日本耶蘇会年報』より、ルイス・フロイスが1573年4月20日(=天正元年3月19日)付けでイエズス会に送った書簡から。武田信玄が西上作戦にあたって信長へ送った書状に「天台座主沙門信玄」と記してあったため、信長は返書に「第六天魔王」と署名したというもの。この時期、信玄は比叡山焼き討ち後に逃れた天台座主覚恕法親王を甲斐に保護していた。これらの自称について他の史料はない。また、信玄はこの書簡の後にほどなく没している。
- ^ 天正10年9月11日柴田勝家、市夫妻が妙心寺で百ケ日法要を挙行したときの戒名。阿弥陀寺清玉上人命名の流れをくむもの。
- ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
- ^ 詳細は#人物を参照。
- ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
- ^ 詳細は#朝廷政策を参照。
- ^ 詳細は#「凶逆の人」から勤王家へを参照。
- ^ 詳細は#革新者か否かを参照。
- ^ 異母兄として織田信広がおり[3]、信広の同母弟・秀俊は系図上は信長より後に生まれたこととなっているものの、信長より先に生まれた可能性も否定しがたい[3]。これらは庶流の扱いとなる。→「§ 兄弟」も参照
- ^ a b 那古野城譲渡の時期は、通説では天文4年とされているものの、実際にはかなり遅く、天文13年頃の可能性もある[9]。
- ^ 井原今朝男の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家である甘露寺親長の妻(南向)を輩出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の口入(仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され[15]、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される[16]。
- ^ この信秀の死没については、その時期にいくつかの説があったものの、2011年現在は天文21年とするのが定説となっている[17][18]。
- ^ 織田信秀の発給文書の終見は天正19年(1550年)11月朔日付の祖父江金法師(津島郷士)宛の跡職安堵状で、12月になると代わって信長が安堵状を出すようになるため(同年12月23日付笠寺如法院座主宛別当職安堵状)、天文19年末の段階で信秀が病床にあって信長への事実上の代替わりが行われていたとみられる[19]。
- ^ 『信長公記』には、信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたという逸話が記録されている[20]。
- ^ 一般に「信行」として知られているが、同時代史料で確認できる名前は、「信勝」あるいは「達成」・「信成」である[22]。以降、本文では「信勝」で統一。
- ^ これは諌死であったとも、平手氏と信長の確執のためともされる。
- ^ 通説では天文23年7月12日に斯波義統殺害が行われたとされてきたが、『定光寺年代記』の記述によれば、天文22年の7月12日が正しいと考えられるという[28]。
- ^ かつての通説では弘治元年の出来事とされてきたが、天文23年が正しいと考えられる[29]。
- ^ このとき自害した守護代・織田彦五郎については史料から実名を確定できない[30]。下村信博は、この守護代について単に「織田彦五郎」、あるいは「織田彦五郎信友」と記載している[29]。一方、柴裕之は、彦五郎について、文書に残る「大和守勝秀」と同一人物だと比定している[30]。
- ^ 『信長公記』では河尻と青貝という2人の家臣が、『フロイス日本史』では信長が直接殺したことになっている。
- ^ 『信長公記』によれば斎藤義龍がこの時、信長を謀殺せんと京へ刺客を放つも、織田方の丹羽兵蔵がこれを看破したという事件があったという。
- ^ 天野は同年に斎藤義龍と長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛しているのも同様の趣旨とみている)[37]。
- ^ 池上裕子は、このときに今川氏が3万人以上の軍勢を動員できたとは考え難く、多く見積もっても2万5千人程度しか動員していないであろうと述べる[38]。
- ^ 幸若舞の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは謡曲の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている(詳細は敦盛 (幸若舞)を参照)。
- ^ この戦いにおける信長の勝因は、1980年頃までは奇襲作戦の成功にあるとされていた[42]。その後、『信長公記』の記述をもとに、信長は奇襲ではなく、正面攻撃を行ったとする藤本正行の説が広く知られるようになった[42]。しかし、2006年には『甲陽軍鑑』の記述をもとに黒田日出男が奇襲説を再評価し、藤本正行とのあいだで論争が行われている[42]。
- ^ 松平氏の離反の時期については、桶狭間の戦いからしばらくは松平氏と信長の戦いが継続していたとするのが通説であった[43]。しかし、研究の進展によって、桶狭間の戦い直後に松平氏は今川氏を裏切ったとする見解も有力となっている[43]。
- ^ このときは、はじめ、信長は突然、居城と家臣の屋敷を二宮山に移すと宣言していたという。唐突な命令で、しかも山深い山間部への移転であったため、大半の家臣は不満を抱いたが、信長は家臣の屋敷割も次々と決めていってしまった。だがそれから数日後、信長は家臣に改めて居城を小牧山に移すと宣言した。小牧山なら二宮山ほど遠くなく、麓に川が流れていて物も運びやすかったため、家臣団は大喜びして賛意を示したという。そもそも当時は犬山城の織田信清と対立していたため、犬山に近い小牧山にも戦略上の反対意見があったが、信長は二段階の発布を行うことで、「二宮山よりはマシ」と家中の小牧山反対派の意見を巧みに封じたと伝えられる(『信長公記』首巻)。
- ^ 犬山落城の時期は永禄7年とするのが通説であったが、横山住英が新出史料をもとに永禄8年のことであると論じており[45]、柴裕之もこれを支持している[46]。
- ^ なお、信長は、道三の近親の斎藤利治を取り立て、佐藤忠能の養子として加治田城主に命じ、領地と家臣団(加治田衆)を与え、道三亡き後の斎藤家跡取りとしたとの考察がある[48]。この人物は、正式な美濃斎藤家として織田家内でも親族として重きをなす。正室の姉である濃姫が養母となり二代目後継者織田信忠付き側近(重臣)ともなっている[49]。
- ^ a b 浅井長政とお市の婚儀がいつ行われたかは正確には不明であり決定し難いが、2017年時点では永禄4年前後であるとする見解が有力である[50]。
- ^ この際、義継らは足利義栄の擁立を図ったとも言われるが、実際には、義継らにその意図はなかったと考えられる[51]。義栄擁立を計画したのは、阿波三好家の篠原長房らであった[52]。
- ^ 浅井長政とお市の婚姻も六角氏や幕臣の和田惟政らによる構想とする説もある[56]。
- ^ 信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退したという内容の文書が室町幕府の幕臣であった米田求政の子孫の家から発見されている(村井祐樹「幻の信長上洛作戦」『古文書研究』第78号、2014年)。
- ^ 稲葉山城陥落は永禄10年のことであるとする説が有力だが、永禄7年のことであるとする見解もあり、研究者のあいだで議論となっているという[59]。
- ^ 全くの新地名の考案ではなく、木曾川の北(陽)にあることからの美称として岐陽などと並んで以前から一部の学僧・禅僧の間では使われていた。それを信長が一般化させたものである[61]。
- ^ これらは綸旨、女房奉書およびその添状である万里小路惟任によって伝えられた[66]。
- ^ ただし、六角氏嫡流は別にあり、嫡流の六角義秀・六角義郷は信長に庇護されたとする異説もある。
- ^ のちに、義昭は毛利輝元にも足利家の桐紋を与えている[74]。
- ^ 『信長公記』によれば、当時、岐阜から京都までは3日はかかったという。また、出発前において、馬借が荷物の重さで言い争っているのを見て、馬から下りて自分で荷物の重さをチェックしたという逸話がある(『信長公記』巻二[76])。
- ^ このころ、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わったという。この善住坊は、天正元年(1573年)に捕らえられた。信長は善住坊の身体を土に埋め、切れ味の悪い竹製の鋸で首を挽かせ、長期間激痛を与え続け処刑した(巻六)[84])。
- ^ 大久保忠教の記した『三河物語』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。
- ^ ただし、堀新は実際に講和を申し出たのは朝倉側であるとし[89]、片山正彦は信長が有利な状況で義景との和睦の合意が成立しかけていたが、延暦寺が和睦に反対し続けたために勅命が必要になったとする[90]。
- ^ 久野雅司もこの柴の説を支持しており、さらに具体的に元亀3年12月に異見書が発給されたと推定している[98]。平井上総も柴の説を肯定的に取り上げている[99]。
- ^ 例えば、鴨川達夫『武田信玄と勝頼』[103]、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009 など。
- ^ ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている[111]。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある[112]。
- ^ これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が朝廷からも認められていることを知った諸大名、特に陸奥国からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。
- ^ ちなみに『フロイス日本史』では、降伏すると見せかけて伏兵を潜ませていた門徒衆が織田兵と一門衆を襲撃、多数を死亡させたので、信長は残存の門徒衆を全員焼き殺したと記述している。
- ^ この際の火縄銃の数については従来、3,000挺であるとされてきたが、藤本正行が『信長公記』の自筆本の検討をもとに、1,000挺程度が正しいとする説を提唱したことにより、通説には疑問が持たれるようになった[123]。しかし、平山優が『信長公記』の系統研究を通してやはり3,000挺が正しいと主張しており、論争となっている[123]。この鉄砲部隊がいわゆる「三段撃ち」(部隊を3隊に分け、輪番で射撃させることで、火縄銃を連射可能とする手法)についても、実在を否定する見解が有力であったが、この点についても連続射撃を行う試みはあったとする説が提唱され、論争となっている[123]。長屋隆幸によれば、こうした論争の原因は、信頼できる一次史料が不足していることにあり、長篠の戦いの明確な実態は把握し難い[124]。
- ^ 美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ケ原町山中)では、「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれをたびたび見て哀れに思っていた。天正3年6月の上洛の途上、信長は山中の人々を呼び集め、木綿20反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請した。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したという(『信長公記』巻八[126])。
- ^ このとき、信長は村井貞勝に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。
- ^ このとき従軍した前田利家の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。
- ^ 歴代の足利将軍は在任中に権大納言と右大将を兼ねて内大臣に進む慣例があったが、足利義晴(当時、権大納言のみ)将軍職を義輝に譲って引退しようとしたため、後奈良天皇や近衛稙家(義晴の義兄)の説得で右大将に任官した上で引き続き後見として幕政に関与した[133]。
- ^ 「安土」という地名は信長が命名したとも[136]、元々あった地名だとも言われる。
- ^ 信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、元亀3年(1572年)10月に信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏に共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。
- ^ 従来は、『信長公記』の記述を根拠に、村重が妻子を見捨ててひそかに有岡城から逃げ出したものだと考えられてきた[153]。しかし、天野忠幸によれば、乃美宗勝宛の村重の書状から、村重の尼崎城移動には馬廻を伴っており、反撃を期したものであったと考えられるという[153]。
- ^ なお、多聞院日記によると、信長が御所を進上した当初の相手は誠仁親王ではなく、信長の猶子の邦慶親王の方だったようである[156]。
- ^ a b 滝川一益の任を“関東管領”とするのは『甫庵太閤記』『武家事紀』による。『信長公記』では「関八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」と呼んでいる[175]。
- ^ 「いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候」(『天正十年夏記』5月4日条)[180]
- ^ この時の本膳料理の献立は「天正十年安土御献立」『続群書類従』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される[187]。
- ^ 一般に信長は光秀の接待役の任を解いたと言われる[188]。しかし、金子拓によれば史料の誤読によるもので、実際には当初の予定通り、光秀は家康の接待を続けていたと考えられる[188]。
- ^ 本能寺の変の後には、吉田兼見などの公家は、信長の死について日記に冷淡にしか書き残していない[192]。そして、かえって即座に光秀の意を汲んだ行動をとろうともしており、信長の死を悲しんだ様子はほとんどないという[192]。
- ^ 平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された[194]。
- ^ ユリウス暦(但し最下段のみグレゴリオ暦)。
- ^ 宣明暦長暦(但し最下段のみグレゴリオ暦)。
- ^ 数え年。
- ^ a b c 実際には、信長は天正3年11月まで無位無官だったと考えられる[196]。天正2年に正四位下参議になったとされているのは、大納言任官の際に、いきなり高位高官に任じるというのは形式上問題があるため、さかのぼって任官されていたことにしたものである[196]。
- ^ このとき織田家の家督・信忠は従三位左近衛中将。
- ^
(訓読文)天皇我詔旨良万止、故右大臣正二位平朝臣信長爾、詔倍止勅命乎衆聞食止宣、策一人扶翼之功、敷萬邦鎭撫之德須、允惟朝乃重臣、中興乃良士奈利止、慮志爾不量爾天運相極氐、性命空逝奴、昨者旌旗乎輝東海志、今者晏駕乎馳西雲須、爰贈崇號氐、照冥路古止者、先王之令典、歷代之恆規多利、故是以重而太政大臣從一位爾、上給比賜布天皇我勅命乎、遠聞食止宣 — 天正十年十月九日、織田信長贈太政大臣従一位宣命「総見院文書」
天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと、故右大臣正二位平朝臣信長に詔(の)りたまへと勅命(のりたまふおほみこと)を衆(もろもろ)聞食(きこしめ)さへと宣(の)る、一人(ひとり)扶翼(ふよく)の功を策(はか)り、万邦鎮撫の徳を敷かす、允(まこと)に惟(これ)朝(みかど)の重臣、中興の良士なりと慮(おもほ)ししに、量(はか)らずに、天運相極(あひきはま)りて、性命(いのち)空しく逝(ゆ)きぬ、昨(むかし)は旌旗(はた)を東海に輝かし、今は晏駕(あんが)を西雲に馳(は)す、爰(ここ)に崇号を贈りて、冥路(めいろ)を照らすことは、先王の令典(れいてん)、歴代の恒規(こうき)たり、故是(かれここ)を以(も)て重ねて太政大臣従一位に上(のぼ)し給ひ賜ふ天皇が勅命(おほみこと)を遠(はろか)に聞食さへと宣る、天正10年(1582年)10月9日 - ^ 例えば、北条早雲は、敵対する関戸吉信方を女性・子供も含めて虐殺した[204]。伊達政宗も同様の行為をしている[204]。
- ^ なお、信長の残虐性については次の逸話も著名である。天正9年(1581年)4月10日、信長は琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは、桑実寺に参詣に行くなどと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、すべて成敗した。また侍女たちに対する慈悲を願った桑実寺の長老も、やはり成敗されたという(『信長公記』巻十四[206])。フロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある[207]。
- ^ 『信長公記』では単に「首」とあるだけで頭蓋骨であったとは書かれていない。尾ひれがついて髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話もあるが、俗書にしか伝わらない。
- ^ 漆でかためて金泥などを塗ったもの。
- ^ 滝川一益は近江出身とはいえ、天文年間という早い時期から信長に従っているため譜代と同一視できる[213]。
- ^ その一例として、荒木村重は、毛利攻めの司令官の地位を羽柴秀吉に奪われたことに強い不満を持ち、そのため、信長との敵対に踏み切ることとなった[213][214]。
- ^ 中世における馬、鷹の献上行為には政治的な意味合いが込められていた。室町期の馬、鷹の献上行為は武家領主が足利将軍から守護、探題職など支配権を公認された際の答礼として慣例化していた。戦国期には上級領主権力と結びつき、領国支配の公認を得るための狙いを持った、極めて政治的色彩を帯びた行為であった[230]。特に鷹は英雄、武威、権力の表徴と認識されていた[231]。
- ^ なお、この古文書は昭和初期までは信長の直筆と思われてきたが、右筆の楠長諳の筆によるものである[260]
- ^ なお、後の史料である加賀藩編纂『亜相公御夜話』には、前田利家との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている
- ^ なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。
- ^ 信長がその生涯をかけて築いた政治権力は、研究上、一般に「織田政権」という用語で表される[268]。この「政権」という用語が使われる背景には、信長の権力が従来の戦国大名権力とは異質な面をもち、近世の統一権力の先駆けとなったという考え方がある[268]。歴史学者の朝尾直弘は戦国大名権力との相違点を強調して「信長政権」という用語を使用しており、脇田修も一定の限界を指摘しつつも統一政権の先駆けとなった面を評価して「織田政権」という用語を使用している[268]。他方で、2000年には立花京子が、信長の個性を重視するとともに、勝者の立場を前提とする「統一政権」という言葉を避けるべきという観点から、「織田政権」ではなく「信長権力」と表現している[268]。2010年の戦国史研究会開催のシンポジウムでは、「織田権力」という呼称が使われたが、これは信長の権力と従来の戦国大名権力との共通点を強調するという意味で用いられている[268]。そのほか、藤田達生は、信長の権力の在り方について、信長の実質的な将軍就任があったと見て、「安土幕府」と位置づけている[268]。このように、信長の権力の捉え方の多様化にともない、様々な呼称が使用されている[268]。平井上総によれば、これらは観点の違いによるものであり、いずれかの呼称が適切だというものではない[268]。以降、便宜上、「織田政権」という呼称を使用することとする。
- ^ 武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現するもの。
- ^ 従来、元亀年間の信長と反信長勢力の争い(いわゆる元亀争乱)においては、将軍足利義昭こそが反信長勢力の盟主だと考えられてきた[277]。しかし、実際には三方ヶ原の戦いまでは、義昭は信長を支持していたということを柴裕之が明らかにしている[277]。そのため、信長が「天下人」となったのは、当初からの信長の政権構想によるものではなく、元亀争乱の結果による成り行きであったと考えられる[277]。
- ^ 今谷明『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社〈講談社現代新書〉、1992年。ISBN 978-4061490963。のち講談社学術文庫に再録、2002年 ISBN 978-4061595613。
- ^ 平井上総は協調説に、谷口克広は対立説に分類している。
- ^ 厳密には、朝廷側は信長との協調を図ったが、信長が朝廷との協調を否定したという説として、藤井の説は分類されている[289]。
- ^ 後土御門天皇以降、正親町天皇まで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった。後花園天皇までの中世の歴代天皇は譲位して上皇ないしは法皇となり、治天の君として院政を敷くのが基本であった。しかし天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった(羽柴秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として関白に昇っている)。このため戦国時代になると朝廷も室町幕府も財政難に陥ったために譲位に必要な費用を工面できなかったため、たまたま後土御門天皇以降の天皇は三代続けて天皇在位のまま崩御したのであって、譲位はむしろ旧来の朝廷の慣行に復すると考えられていた。
- ^ 研究上、かつては一向一揆との対決こそが近世統一権力を生み出した原動力であるとする説が有力であったが、現在では一向一揆との対立にそれほどの重要性はないとする見解が主流となっている[301]。
- ^ 1575年5月4日付けのフロイスの未刊書簡には、これらの道普請が尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江の8ヵ国で行われたことが書かれている(『完訳フロイス日本史 織田信長篇I 第34章』)。このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。(『完訳フロイス日本史 織田信長篇II』第55章
- ^ 「永禄十二年付上京宛て精銭追加条々」『増訂 織田信長文書の研究』所収。
- ^ 池上裕子[329]など。
- ^ 信長のこと。
- ^ 正一位を贈られたのは現時点では信長が最後となっている
- ^ 脇田修、1987、『織田信長 中世最後の覇者』、中央公論社〈中公新書〉 ISBN 9784121008435。
- ^ 庶長子とされる信正は存在を疑問視されることも多い。
- ^ 詳細不明。娘ではないともされる。
- ^ 本能寺の変で焼失後、場所を移して再建。
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- 頼山陽、1938、 池辺義象(編)『邦文日本外史 中巻』、大洋社出版部。初出:1827年。
- ルイス・フロイス著/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』全12巻、中公文庫、2000年。
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- 渡辺武ほか(編)、1983、『大阪城ガイド』、保育社。