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「大正天皇」の版間の差分

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崩御: 即日『昭和』に改元しているが、崩御した時点では確実に大正15年であるため、「昭和元年」表記は不用
 
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{{画像提供依頼|
#富山市の呉羽山山頂にある「登呉羽山」の碑
https://goodlucktoyama.com/article/scenery-of-toyama-article/201402-kurehayama-tenbodai
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{{基礎情報 天皇
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|御名 = 嘉仁(よしひと)
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|称号 = 明宮(はるのみや)
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'''大正天皇'''(たいしょうてんのう、[[1879年]]〈[[明治]]12年〉[[8月31日]] - [[1926年]]〈[[大正]]15年〉[[12月25日]])は、[[日本]]の第123代[[天皇]](在位:[[1912年]]〈明治45年/大正元年〉[[7月30日]] - 1926年〈大正15年[[昭和]]元年〉12月25日)。[[諱]]は'''嘉仁'''(よしひと)、[[御称号|称号]]は'''明宮'''(はるのみや)。[[お印]]は'''壽'''(じゅ)。
'''大正天皇'''(たいしょうてんのう、[[1879年]]〈[[明治]]12年〉[[8月31日]] - [[1926年]]〈[[大正]]15年〉[[12月25日]])は、[[日本]]の第123代[[天皇]](在位: [[1912年]]〈明治45年/大正元年〉[[7月30日]] - [[1926年]]〈大正15年[[12月25日]])。[[諱]]は'''嘉仁'''(よしひと)、[[御称号]]は'''明宮'''(はるのみや)。[[お印]]は'''壽'''(じゅ)<ref name="yumani">{{Cite web|和書|url=http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843350386 |title=大正天皇実録 補訂版 全六巻・別巻一 |publisher=ゆまに書房 |accessdate=2019-10-21 }}</ref>


[[1879年]](明治12年)[[8月31日]]誕生。[[明治天皇]]の唯一成人した皇男子(三男)である。
[[大日本帝国憲法]]及び[[旧皇室典範]]に基づき憲政史上初めて即位した。また、生涯を通じて[[関東地方|関東]]([[東京府]])で過ごした(ただし[[即位の礼]]などは[[京都]]出身である父・[[明治天皇]]と同様、[[京都御所]]で挙行している)。


[[今上天皇]]([[徳仁|第126代天皇・徳仁]])の曽祖父である。
__TOC__{{-}}

生誕時より病弱で幾度も大病に罹った。幼年期の個人授業の後、[[学習院初等科]]に途中入学するが、発達の遅れから中等科1年で中途退学。8歳で[[皇太子#継承の例|儲君]]、11歳で[[皇太子]]となる。皇太子妃選定における混乱([[大正天皇婚約解消事件]])を経て[[貞明皇后|九条節子]]と結婚し、後の[[昭和天皇]]をはじめ4人の皇子(皇男子)をもうけた。また、皇太子時代には[[沖縄県]]を除く各道府県を巡啓したほか、1907年(明治40年)には史上初の皇太子の海外渡航として[[大韓帝国]]を訪問した。[[1912年]](明治45年/大正元年)[[7月30日]]、父・明治天皇の[[崩御]]に伴い第123代天皇に即位。憲政史上及び[[大日本帝国憲法]]下で初めて[[皇位継承|皇位を継承]]した。生誕まもなく[[髄膜炎]]を患っており、その後健康を取り戻していたが、即位式の翌年頃から健康状態が悪化し、公務のみならず日常生活にも支障を来すようになる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87-18607 日本大百科全書(ニッポニカ)「大正天皇」(コトバンク)]</ref>。[[1920年]](大正9年)以降、病状が公表され世間に知られるところになり、[[1921年]](大正10年)、長男の皇太子裕仁親王が[[摂政]]に就任し、療養生活に入った。しかし、その後も体調は回復せず、[[1926年]](大正15年/昭和元年)の暮れの[[12月25日]]、[[肺炎]]に伴う[[心臓麻痺]]<ref>一部の書籍や人名事典など、文献によっては脳病による崩御と紹介しているものもある。</ref>のため、47歳で崩御。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 誕生 ===
=== 誕生 ===
[[1879年]]([[明治]]12年)[[8月31日]]午前8時20分、[[明治天皇]]の第三[[皇子]](皇男子)として[[東京]]の[[赤坂迎賓館|青山御所]](現在[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]、[[赤坂御用地]]敷地内[[赤坂迎賓館]]誕生した。生母は複数人いた[[側室]](日本独自であった[[一夫多妻制]])の一人である[[典侍]]・[[柳原愛子]]{{読み仮名|'''明宮嘉仁'''|はるのみやよしひと}}と命名された。生来健康に恵まれず、生まれてから年がけるまで重度な病気を患った。[[浅田宗伯]]([[漢方]]医)は御分娩あらせられた時に湿疹を認めた」(後に消失)とのちに記録してい
[[1879年]](明治12年)[[8月31日]]午前8時12分、[[東京]]の[[赤坂御用地|青山御所]]の御産所で、[[明治天皇]]の第三皇子(皇男子として誕生。生母は[[典侍|権典侍]]・[[柳原愛子]]{{sfn|原武史|2015|p=40}}{{sfn|古川隆久|2007|p=1}}。[[9月6日]]に'''明宮嘉仁親王'''はるのみやよしひとしんのう)と命名される<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|787959|『法令全書 治12年』「太政官布告」、9月6日177頁 |format=EXTERNAL}}</ref>。嘉仁の名は、[[詩経]]敬爾威儀無不柔嘉(爾の威儀を敬み、柔嘉なざることなか」(治者の心得して、自ら威儀を正して、柔和で善良でなさい、といった意)からとられた{{sfn|古川隆久|2007|p=6}}

このような状態ではあったが、明治天皇と[[昭憲皇太后|皇后美子]]との間には皇子女がおらず、また、[[側室]]出生の[[親王]]・[[内親王]]ら4人も、第三皇子である明宮(嘉仁親王)の出生以前に相次いで[[崩御#薨去|薨去]]していたこともあり、嘉仁親王が[[皇太子]]となった。
{{Gallery
{{Gallery
|画像:Meiji_emperor_color.jpg|父帝・[[明治天皇]]
|画像:Black and white portrait of emperor Meiji of Japan.jpg|明治天皇
|画像:Naruko Yanagiwara.png|生母の[[柳原愛子]]
|画像:Naruko Yanagiwara.png|柳原愛子
}}
}}

出産時に体調が悪かった柳原愛子は[[ヒステリー]]を起こし、かつ難産となり、嘉仁親王は全身に発疹がある虚弱状態で生まれた{{sfn|古川隆久|2007|p=5}}。明治天皇の外祖父の[[中山忠能]]が皇子御世話に任命され、漢方医の[[浅田宗伯]]、今村了庵、岡桐蔭が治療にあたった{{sfn|古川隆久|2005|p=7}}。しかし9月から11月にかけて断続的な嘔吐や痙攣(けいれん)などに襲われ、かなり危険な状態に陥った{{sfn|原武史|2015|pp=43-44}}。


=== 少年時代 ===
=== 少年時代 ===
[[画像:Crown Prince Yoshihito 1892.png|thumb|left|180px|1892年(明治25年)、13歳当時の皇太子・嘉仁親王]]
[[画像:Crown Prince Yoshihito 1892.jpg|thumb|left|180px|1892年(明治25年)、13歳当時の皇太子・嘉仁親王]]
[[File:Gôda Kiyoshi Taishô Tennô.jpg|thumb|200px|[[合田清]]作[[銅版画]] 「大正天皇」1900年]]
伝統に従い里子として12月に中山忠能邸に移る。しかし、忠能とその妻・[[中山愛子|愛子]]は嘉仁親王の養育に全く役に立たず、実の祖母であり、当時中山邸に住んでいた[[中山慶子]]を中心に親王の養育が行われた。慶子は「第二の御奉公」として親王の世話に没頭したが、親王の健康はなかなか良くならなかった。主治医となった浅田宗伯と慶子が相談し、強い漢方薬を頭に貼る荒療治を行った結果、体調が改善し、3歳になりようやく歩けるようになった{{sfn|浅見雅男|2019|pp=14-16}}。

1883年(明治16年)から[[勘解由小路資生]]を宮内省御用掛として『[[幼学綱要]]』などの講読や習字を開始する{{sfn|古川隆久|2007|pp=9-10}}。1885年(明治18年)3月、中山邸から青山御所赤坂仮皇居内の新御殿に移った{{sfn|古川隆久|2007|p=11}}。小学校入学の年齢になっても病気がちのため、青山御所内に御学問所を作り個人授業を行うこととなり、[[湯本武比古]]が傅育官(教育係)に任命された{{sfn|原武史|2015|p=49}}。しかし規則に縛られることを嫌う性格から、授業の内容が気に入らないと授業そのものを投げ出してしまうことがあった{{sfn|原武史|2015|pp=49-52}}。

[[1887年]](明治20年)8月31日、満8歳になったのを機に[[皇太子#継承の例|儲君]]かつ、[[昭憲皇太后|美子皇后]]の実子と定められる{{sfn|古川隆久|2007|p=15}}。同年9月から[[学習院]]予備科(のちの初等科)に通い始めた{{sfn|古川隆久|2007|p=17}}{{efn|嘉仁親王が軍隊用の[[背嚢]]に学用品を入れて通学したことが[[ランドセル]]の始まりとされている{{sfn|古川隆久|2007|pp=17-18}}。}}が、[[1888年]](明治21年)は病気がちで、4月から[[百日咳]]にかかり学校を3か月休み留年した。この頃の学業成績は、[[修身]]・[[読書]]・[[作文]]・実物([[理科]])・[[習字]]・遊戯([[体育]])が概ね良好だった一方、唱歌は平均的で、[[数学]]は良くなかった{{sfn|古川隆久|2007|pp=19-20}}。

=== 皇太子時代 ===
[[画像:Emperor Meiji Empress Shoken Prince Yoshihito Asukayama Park Sightseeing by Toyohara Chikanobu.png|thumb|right|300px|1890年、皇太子嘉仁親王、[[飛鳥山公園]]]]
[[1889年]](明治22年)2月、青山御所から[[赤坂御用地|赤坂離宮]]内の東宮御所(「花御殿」と呼ばれた)に移る。同年11月3日に[[立太子礼]]が行われ皇太子になるとともに、陸軍歩兵少尉に任官{{sfn|原武史|2015|p=55}}、[[大勲位菊花大綬章]]を与えられた<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2945154|『官報』号外、1889年11月3日 |format=EXTERNAL}}</ref>。立太子後、皇太子の教育体制は軍事色が強まり、[[1891年]](明治24年)には[[東宮武官長]]が設置され[[奥保鞏]]陸軍少将が就任し、奥は翌年1月に東宮大夫も兼務。身の回りの世話から[[女官]]が排除されたが、軍人に囲まれる生活で皇太子は次第に精神的・肉体的に不安定となっていった{{sfn|古川隆久|2007|pp=31,34}}。

1891年11月、軍事教育が遅れていることから中尉への昇進が翌年11月へ延期となる。なおその後は規定年限に沿って昇進した{{sfn|古川隆久|2007|p=32}}。[[1893年]](明治26年)学習院初等科を卒業し、中等科へ進学{{sfn|古川隆久|2007|p=32}}。しかし[[1894年]](明治27年)8月、病弱で勉学が遅れている皇太子をそのまま進学させると劣等感が強まり、君主にふさわしい性格を育成できなくなると判断され{{sfn|古川隆久|2007|p=32}}、中等科1年修了をもって学習院を退学した{{efn|表向きの理由は同年6月の地震で校舎が破損し授業に支障を来したこととされた{{sfn|原武史|2015|p=58}}。}}{{sfn|原武史|2015|p=58}}。


明治20年代後半から皇太子の静養を目的に各地に御用邸([[沼津御用邸]](1893年築)、[[葉山御用邸]](1894年築)、[[日光田母沢御用邸記念公園|日光田母沢御用邸]](1899年築)、[[塩原御用邸]](1904年築))が建てられ、以後、これらの御用邸に長期滞在するようになる{{sfn|原武史|2015|p=56}}{{sfn|古川隆久|2007|pp=54-55}}。
[[画像:Yōshū_Chikanobu_Asukayama_Park.jpg|thumb|right|300px|1890年(明治23年)、皇太子嘉仁親王、[[飛鳥山公園]]]]


1895年5月には、[[風邪]]、[[腸チフス]]に罹り、さらに軽い[[肺結核]]で重体になり、11月まで寝込む{{sfn|古川隆久|2007|p=34}}。この頃、柳原愛子を乳母だと思っていた皇太子は彼女に厳しくあたり、実母であると明かされても、なかなか信じようとはしなかった{{sfn|古川隆久|2007|p=34-35}}。
誕生の翌年、[[中山忠能]]の屋敷に里子に出された{{efn|この間、父帝・明治天皇は養育にほとんど干渉しなかった。}}。[[1885年]](明治18年)3月、嘉仁親王は青山御所に帰宅したが、明治天皇と複数の側室との間に誕生した弟宮の全員と妹宮のほとんどが薨去しており、年の近い兄弟姉妹が少なかった。そのため、嘉仁親王は家族と接する機会があまりなかった。


皇太子の勉強の遅れを取り返すため、1895年以降、国学([[和歌]]・[[作文]]・[[歴史]]・[[地理学|地理]])を担当する[[本居豊穎]]、漢学(漢詩・漢文)を担当する[[三島中洲]]が東宮職御用掛、次いで東宮侍講となった{{sfn|原武史|2015|pp=60-61}}。このほかフランス人フランソワ・サラザン、三田守真が[[フランス語]]を講義した{{sfn|原武史|2015|p=62}}。ほぼ休みなく詰め込み教育が行われたが、それが皇太子の健康を悪化させるという悪循環が繰り返された{{sfn|原武史|2015|p=65}}。
[[1887年]](明治20年)8月31日、嘉仁親王は8歳の誕生日の時に[[皇太子#江戸時代以前|儲君]]となり、同時に[[皇后]]・一条美子の養子となる(儲君は皇后の実子とされる慣例があったので)。[[東宮侍従]]の[[小笠原長育]]より礼法教育を受ける。「母は皇后・一条美子である」と聞かされて育ったため、成人後に「生母が柳原愛子(幼少時からお側でお使えしていた)」と言われてもなかなかそれを信じなかった{{Sfn|古川|2007|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019-05-16}}。


[[1898年]](明治31年)、[[第3次伊藤内閣|第3次内閣]]を組閣した[[伊藤博文]]は、皇太子に関し、健康増進を最優先としながらも政治や軍事などの見識を持たせるため、適当な人物を監督役や側近とするよう明治天皇に進言した。これを受け[[大山巌]]が東宮職監督に、明治天皇の信任が厚かった[[有栖川宮威仁親王]]が東宮賓友に任じられた{{sfn|古川隆久|2007|pp=39-42}}{{sfn|原武史|2015|pp=67-69}}。さらに翌1899年(明治32年)5月、威仁親王は東宮輔導となり皇太子養育の全権を与えられると、それまでの詰め込み教育を改め健康第一へと転換させた{{sfn|原武史|2015|p=70}}。
同年9月[[学習院]]に入学{{efn|学習院時代には[[侍従]]にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校した。この「軍隊の背嚢」が[[ランドセル]]の原型となったという逸話が残されている。}}。しかし、健康に優れず、学習院の厳格な規則に馴染めなかったことから、学業に集中できず[[留年]]することもあった。[[1889年]](明治22年)からは[[熱海温泉|熱海]]への保養が毎年の恒例になった{{efn|オットマール・フォン・モール『ドイツ貴族の明治宮廷記』に詳しい。著書はドイツの外交官、1887年 - 1889年に日本政府により[[お雇い外国人]]として、[[宮内省]]顧問の形で招聘、宮中儀礼や諸制度の改革案に携わった<ref>金森誠也訳、[[講談社学術文庫]]、2012年/初版・新人物往来社、1988年。{{要ページ番号 |date=2019-05-16 |title=講談社学術文庫版と新人物往来社版の2つがここに記載されていますが、どちらの何ページが出典なのか不明です。また、出典として使用していないほうは記載不要です。}}</ref>。}}。


=== 結婚 ===
1889年(明治22年)11月3日、[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]の制定により嘉仁親王は皇太子となり、[[立太子の礼]]を挙行し、同時に[[大日本帝国陸軍]]歩兵少尉に任じられて[[大勲位菊花大綬章]]に叙された<ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|2945154|官報(號外). 明治22年11月3日}}</ref>。
{{see also|貞明皇后}}
[[File:Hyokeikan - Tokyo National Museum.jpg|thumb|right|200px|東京国立博物館表慶館]]
皇太子妃選びには明治天皇の側近であり、[[恒久王妃昌子内親王|昌子内親王]]、[[成久王妃房子内親王|房子内親王]]の養育主任であった{{sfn|小田部雄次|2012|p=28}}[[佐佐木高行]]が大きくかかわっていた。
1891年頃から皇太子妃選びが始まり、妃候補となる[[皇族]]や[[公爵]]の娘が昌子内親王、房子内親王の遊び相手として赤坂離宮に招かれた{{efn|1891年4月3日に招かれたのは、 [[山内禎子|伏見宮禎子女王]]、北白川宮満子女王([[北白川宮能久親王]]娘)、北白川宮貞子女王(同前)、[[大谷籌子|九条籌子]](かずこ。[[九条道孝]]娘)、[[貞明皇后|九条節子]](同前)、徳川国子([[徳川慶喜]]娘)、[[博恭王妃経子|徳川経子]](同前)、徳川絲子(同前)、毛利万子(かずこ。[[毛利元徳]]娘)、岩倉米子([[岩倉具定]]娘)の10名。その他、[[織田純子|久邇宮純子女王]]([[久邇宮朝彦親王]]娘)、一条経子([[一条実輝]]娘)、鷹司房子([[鷹司煕通]]娘)の三人も候補とされた{{sfn|浅見雅男|2019|pp=43-45}}。}}{{sfn|浅見雅男|2019|pp=41-44}}。明治天皇は皇太子妃をできれば皇族から選びたいと考えていた{{sfn|浅見雅男|2019|p=45}}。


まもなく、伏見宮家の[[山内禎子|禎子女王]]が有力候補となり{{sfn|浅見雅男|2019|p=52}}、1893年春、佐佐木は禎子女王が皇太子妃に相応しいと[[土方久元]]宮内大臣に伝え、[[華族女学校]]学監の[[下田歌子]]も推薦。これを受け、明治天皇は同年5月に禎子女王を皇太子妃に内定した{{sfn|浅見雅男|2019|pp=64-65}}。
他方、学習院での学習は一向に進まず、[[乗馬]]などに進歩があったが、抽象的な思考を要する理数系の教科を苦手とした。[[1894年]](明治27年)には、健康状態から学業を続けることが困難であるとして学習院を中退し、その後は[[赤坂離宮]]で個人指導を受けた。この時に[[帝王学]]の一環として重視された教科は、[[フランス語]]、[[国学]]、[[漢文]]であり、特に漢文を教授した[[川田甕江]]からは大きな影響を受け、[[漢詩]]作成を趣味としたという。


しかし[[1898年]](明治31年)になると、天皇の侍医である[[橋本綱常]]や[[池田謙斎]]が「禎子女王に肺病の疑いがある」と発言し出し、[[岡玄卿]]侍医局長も結婚中止を具申{{sfn|浅見雅男|2019|pp=85-86}}。これを受けて、1899年(明治32年)1月から2月に宮中首脳が協議を行い「皇統継続」を考えれば禎子女王を皇太子妃にすることは問題であると結論付け{{sfn|浅見雅男|2019|pp=94-96}}、3月22日に婚約内定が取り消された([[大正天皇婚約解消事件]]){{sfn|浅見雅男|2019|p=103}}。その後、他の妃候補の検討が進められたが、体が丈夫で性格も悪くないという理由で消去法により旧[[摂関家]]出身の九条節子が妃候補に浮上{{sfn|浅見雅男|2019|pp=117-118}}。1899年8月、九条節子が皇太子妃に内定した{{sfn|浅見雅男|2019|p=139}}。
父帝・明治天皇は[[伊藤博文]]の奏上を受けて、これまで[[東宮職]]の役人に委任しきりであった皇太子嘉仁親王の養育を教育から健康まで総合的に施すため、新たに東宮輔導の職を設け、皇族の[[有栖川宮威仁親王]]を親任した。これ以降、嘉仁親王は威仁親王を兄のごとく慕い、のちに威仁親王が継嗣のないまま危篤に陥った時には、自身の第三皇子(第3子)である[[高松宮宣仁親王|宣仁親王]]に[[高松宮]]の称号を授与することで、[[有栖川宮]]の祭祀を継承させている。


[[1900年]](明治33年)2月11日に皇太子嘉仁親王と九条節子の婚約が正式決定し発表された<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2948272|『官報』号外「告示」、1900年2月11日 |format=EXTERNAL}}</ref>が、皇太子の健康に不安を持つ声があったため、この時点では婚礼の日程は未定であった。しかし3月に侍医や伊藤博文らによる会議で、皇太子が結婚前に他の女性に手を付けられないようにし{{efn|[[飛鳥井雅道]]は皇室典範で皇位継承を嫡出子優先としたこと、国が一夫一妻制を奨励していたことが理由と指摘している{{sfn|古川隆久|2007|p=62}}。}}、これ以上婚礼を延ばすことができないとして、婚礼を5月とすることが内定した。そして4月27日になって5月10日に婚礼を行うことが発表された{{sfn|古川隆久|2007|p=62}}。
=== 成婚・巡啓の日々 ===
[[1897年]](明治30年)8月31日、皇太子嘉仁親王は満18歳となり、[[貴族院 (日本)|貴族院]]の[[皇族議員]]となった。祖母・[[英照皇太后]]の喪中のため、成年式は翌年の[[1898年]](明治31年)に延期された。


挙式は[[皇居]]の[[賢所]]で神式により行われた{{sfn|古川隆久|2007|pp=63-64}}{{efn|この結婚式を模倣して[[結婚式#神前式(しんぜんしき)|神前結婚式]]が誕生し、日本全国に広まっていった{{sfn|古川隆久|2007|pp=70-71}}。}}。皇居から青山御所への帰路は大勢の市民で埋め尽くされ、皇太子夫妻が乗った馬車の列が皇居正門で十数分間停止を余儀なくされる有様だった{{sfn|古川隆久|2007|p=65}}。結婚を祝して各地から多くの品々が献納され、その中には、[[東京市]]内の政治家・財界人を発起人とした東宮殿下慶事奉祝会による募金で建設された「[[東京国立博物館]]表慶館」や[[サンフランシスコ]]の日本人移民から贈られたアメリカ製の[[電気自動車]]もあった{{sfn|古川隆久|2007|pp=68-70}}。
[[1900年]](明治33年)[[5月10日]]、嘉仁親王は[[貞明皇后|九条節子]](くじょう さだこ)と成婚した。このとき妻の節子は15歳であった。この早い成婚については、「病弱の皇太子に早めの成婚を」との意図があった旨を『[[明治天皇紀]]』では記述しているが、両親から引き離されて寂しい幼少時代を過ごした親王にとって、成婚は非常に嬉しい出来事だったようである。成婚後は父の明治天皇とは対照的に[[側室]]を置かず一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという(大正天皇と節子は幸いなことに4人の男子に恵まれたため側室は必要なかったという事情もある)。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であったが、側室制度自体を事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。
{{Gallery
{{Gallery
|width=180
|画像:Emperor Taisho of Japan.jpg|明治33年(1900年)、結婚の儀に親臨する皇太子嘉仁親王
|画像:Sadako Kujo wedding.jpg|明治33年(1900年)、結婚の儀にする九条節
|File:Emperor Taisho of Japan.jpg|明治33年(1900年)、結婚の儀に臨む皇太嘉仁親王
|File:Sadako Kujo wedding.jpg|明治33年(1900年)、結婚の儀に臨む九条節子
}}
}}


皇太子夫妻は5月23日から6月7日にかけ、三重県、奈良県、京都府の各府県を巡啓し、[[伊勢神宮]]や[[神武天皇]]陵、[[泉涌寺]]などを結婚報告のため参拝した。この間、皇太子は[[嵐山]]、[[桂離宮]]、[[京都帝国大学]]などを訪問し、京都帝大附属病院では患者に直接語り掛けている{{sfn|原武史|2015|p=78}}{{sfn|古川隆久|2007|p=71}}。
健康が回復してからの嘉仁親王は日本各地を[[行啓]]し、その範囲は[[沖縄県]]を除く全土であった。嘉仁親王は、巡啓中、興に乗れば[[漢詩]]を創作している。明治天皇や昭和天皇が[[和歌]]を好み多く詠んだのとは対照的である([[#人物像]]の節に詳述)。


=== 国内各地を行啓 ===
[[画像:Yoshihito in korea 1907.jpg|thumb|250px|1907年(明治40年)、訪韓時の皇太子嘉仁親王一行。前列右より 韓国皇太子・英親王([[李垠]])、皇太子嘉仁親王、韓国皇帝・[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]、有栖川宮威仁親王、後列最左は伊藤博文]]
[[画像:Crown Prince Yoshihito and sons 1904.jpg|thumb|250px|1904年(明治37年)、迪宮と淳宮を可愛がる皇太子嘉仁親王。左端は侍従]]
[[画像:Crown Prince Yoshihito and sons 1904.jpg|thumb|230x230px|1904年(明治37年)、迪宮と淳宮を可愛がる皇太子嘉仁親王。左端は侍従]]
東宮補導の有栖川宮威仁親王は、皇太子の健康な身体や精神を育成するため、名目上は授業で学んだ地理歴史を実際に見学するため、長期的な地方行啓を発案した{{sfn|原武史|2015|pp=80-82}}。
1907年(明治40年)、嘉仁親王は[[大韓帝国]]を訪れ、皇帝・[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]や皇太子・[[李垠]]と会っている。このときの大韓帝国は、被保護国とはいえまだ併合前の「外国」であったため、史上初めての皇太子の[[外遊]]ということになった。このとき、嘉仁親王は李垠をたいそう気に入り、その後[[朝鮮語]]を学び始めたという。


第一回目は1900年10月から12月にかけて行われ、[[福岡県|福岡]]・[[佐賀県|佐賀]]・[[長崎県|長崎]]・[[熊本県|熊本]]各県と[[下関市|下関]]を行啓した。その後、[[岡山県|岡山]]・[[愛媛県|愛媛]]・[[香川県]]を訪問する予定であったが、皇太子は途中滞在した[[兵庫県]][[舞子 (神戸市)|舞子]]で体調を崩し、静養の後に帰京した{{sfn|原武史|2015|pp=90-94}}。続いて1902年5月から6月に、[[東北地方]]の見学として、[[群馬県|群馬]]・[[長野県|長野]]・[[新潟県|新潟]]・[[茨城県|茨城]]各県を行啓。当初はさらに東北6県と[[栃木県]]も訪れる予定であったが、皇太子が体調を崩したため中止となった{{sfn|原武史|2015|pp=106-112}}。
また、嘉仁親王は欧米への外遊を希望する詩作を行っており{{Sfn|古川|2007|p=101}}、民間でも新聞社説で嘉仁親王の洋行を歓迎する報道がなされたが、父・[[明治天皇]]の反対により洋行は実現されなかったという<ref>伊藤之雄『昭和天皇伝』、p.99{{Full citation needed |date=2019-05-16 |title=この書籍には単行本版と文庫版の2つがありますが、どちらを指しているのか不明です。}}</ref>。次代の第1皇男子・皇太子裕仁親王([[摂政|摂政宮]]、後の[[昭和天皇]])は[[1921年]](大正10年)に[[皇太子裕仁親王の欧州訪問|ヨーロッパ訪問]]を行っている。


威仁親王の目論見通り、これらの地方巡啓により皇太子の健康が回復し、学習の効率も上がった。しかし皇太子の自由に任せた結果、生来の気まぐれな性格が助長され{{efn|高崎行啓時に予定の道筋を取らず好き勝手に[[人力車]]を走らせたり、新潟では当日になって訪問先を変更させ、周囲を狼狽させたりした{{sfn|原武史|2015|pp=113-117}}。}}、また有栖川宮への依存心が高まる結果となった。そこで威仁親王は自分の役割は終わったとして、[[1903年]](明治36年)2月、明治天皇に東宮輔導廃止を進言した。明治天皇は即答を避けたが、威仁親王の体調が悪化したこともあり、同年6月に東宮輔導を免じられた{{sfn|原武史|2015|pp=122-124}}。その後も地方巡啓は続けられ、1903年10月には、[[和歌山県|和歌山]]・香川・愛媛・広島・岡山各県を訪問した{{sfn|原武史|2015|p=124-128}}。なお、これらの巡啓時に皇太子と皇太子一家の写真を下賜したり、地元新聞社が写真を発売したことはこれまでなかったことであり、皇室を国民に身近な存在とすることに大きな効果があった{{sfn|片野真佐子|2003|p=91}}。
明治の末期頃には、嘉仁親王はまだ病状が残るものの、健康を回復させつつあった。皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった[[原敬]]は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」人物像を『原敬日記』に記している{{Sfn|原|2000|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019-05-16}}。また、[[エルヴィン・フォン・ベルツ]]は、欧米風の自由な生活を送る皇太子を好感を持って記している<ref>『ベルツの日記』 菅沼竜太郎訳、岩波文庫(上下)。</ref>。


[[日露戦争]]時には皇太子は[[大本営]]付の大佐であったが、[[1904年]](明治37年)11月頃、[[児玉源太郎]]参謀次長を中心に皇太子を大総督とする陸軍大総督府を大陸に設ける案が立てられた。皇太子も大陸への出征に積極的であったが、皇太子が出征することはかつての日本で始めてのことであり、なれない現場の指揮が混乱するとの[[桂太郎]]首相や[[寺内正毅]]陸軍大臣の反対を受けて実現せずに終わった<ref>{{cite book|和書|title=皇族と帝国陸海軍|author=浅見雅男|publisher=文藝春秋 <文春新書>|date=2010 |pages=188-190|isbn=978-4-16-660772-3}}</ref>。
=== 践祚・即位 ===
[[File:Teimei.jpg|サムネイル|右|[[貞明皇后]](旧名:九条節子)]]
[[1912年]]([[明治]]45年/[[大正]]元年)[[7月30日]]、父である[[明治天皇]]の[[崩御]]を受けて[[皇位継承]]、第123代天皇に[[践祚]]し「明治」から「'''[[大正]]'''(たいしょう)」へと改元した。践祚直後に起こった[[大正政変]]では、天皇の[[詔勅]]を利用して反対勢力を押さえ込もうとする[[桂太郎]](大日本帝国憲法下で最長期政権を記録した内閣総理大臣、歴代首相で通算在職日数は[[日本国憲法]]下も含めると[[安倍晋三]]に次ぐ第2位)の言われるがままに詔勅を次々と渙発し、[[立憲君主制]]とはいえ、「父の明治天皇と異なり、政治的な判断が不得手である」ということが国民の目からも明らかとなった。


=== 韓国訪問 ===
践祚後は、全く自由の許されない超過密スケジュールで、極度に多忙な日々を送ることとなる。しかし、[[1913年]](大正2年)5月には肺炎で一時重体に陥り、全快まで約1ヶ月を要した。その後は葉山御用邸および[[日光田母沢御用邸記念公園|日光田母沢御用邸]]で静養に務めた。葉山に滞在中はヨット「初加勢」で[[城ケ島]]へクルーズし、随員が船酔いにかかる中で天皇だけが壮健な様子を示し、周囲を感激させている。この夏を境に、定期的に[[御用邸]]での静養が取り入れられた<ref>宮代栄一「閲覧が始まった『大正天皇実録』 日々の記録に素顔見えた」 朝日新聞朝刊24面. 2012年3月31日付</ref>。
[[画像:Yoshihito in korea 1907.jpg|thumb|230x230px|1907年(明治40年)、訪韓時の皇太子・嘉仁親王一行。前列右より 韓国皇太子・英親王([[李垠]])、皇太子・嘉仁親王、韓国皇帝・[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]、有栖川宮威仁親王]]
{{Quote frame|『遠州洋上作』<br>夜駕艨艟過遠州<br>満天明月思悠悠<br>何時能遂平生志<br>一躍雄飛五大洲{{sfn|石川忠久|2009|pp=59-60}}|align=center}}
皇太子は少なくとも1899年(明治32年)には外遊を希望しており、同年作の『夢遊欧州』と題する漢詩で[[ロンドン]]や[[ベルリン]]を訪問する夢を謳ったり、『遠州洋上作』では「一躍雄飛五大洲」と書いていた。また『[[s:世界一週唱歌|世界一周唱歌]]』が愛唱歌であった。しかし、皇太子の洋行は日本の歴史上かつてなかったことであり、明治天皇は西洋一辺倒になる懸念があるとして皇太子の洋行を認めない姿勢にあった{{sfn|古川隆久|2007|pp=101-102}}。


[[1907年]](明治40年)9月、伊藤博文[[統監府|韓国統監]]は、[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]の即位を機に日韓親善を名目として、英親王[[李垠]]が日本に留学し、代わりに皇太子が[[大韓帝国]]を訪問することを提言。明治天皇は韓国の治安が[[義兵運動]]で悪化していたことから難色を示したものの、伊藤が説得して韓国訪問が決定した{{sfn|原武史|2015|pp=154-156}}。
旧皇室典範および[[登極令]]に基づく[[即位の礼]]や[[大嘗祭]]など一連の儀式は[[1914年]](大正3年)に行われる予定であったが、昭憲皇太后の崩御に伴う服喪のため1年延期となり、[[1915年]](大正4年)11月に[[京都御所]]で即位の礼が、[[仙洞御所]]内に造営された大嘗宮で大嘗祭が、[[大饗]]が二条離宮([[二条城]])でそれぞれ執り行われた。なお、皇后節子は第4子(四男:[[澄宮崇仁親王]])懐妊中のため、皇太子裕仁親王は未成年のため、いずれもこれらの儀式に参加していない。
{{Gallery
|画像:Enthronement of Emperor Taisho 1.JPG|即位の礼当日の[[京都御所]]
|画像:Enthronement of Emperor Taisho 2.JPG|当日の東京市街
}}


皇太子には威仁親王のほか、[[東郷平八郎]]、[[桂太郎]]前首相、[[花房義質]][[宮内次官]]らが随行。10月10日に東京を鉄道で出発し、[[広島港|宇品港]]から[[戦艦]][[香取 (戦艦)|香取]]に乗船、10月16日に[[仁川広域市|仁川]]に上陸して、純宗や李垠の出迎えを受けた。10月17日から19日まで[[ソウル特別市|漢城]]に滞在し、[[朝鮮軍 (日本軍)|韓国駐箚軍]]司令部、倭城台公園(現・[[南山|南山公園]])、[[昌徳宮]]、[[景福宮]]などを巡ったほか、統監官邸で[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]と面会した。10月20日に漢城を出発、[[鎮海区 (昌原市)|鎮海]]の視察を経て帰国{{sfn|原武史|2015|pp=157-158}}。このとき皇太子は李垠を気に入り、日本に留学した後に[[朝鮮語]]の学習に熱意を見せるようになった。この朝鮮語学習は天皇即位後も続き、侍従に時々朝鮮語を話していた{{sfn|原武史|2015|pp=162-164}}。
またこの間の[[1914年]](大正3年)[[8月23日]]に、[[イギリス帝国]]との[[日英同盟]]を締結していた日本は[[ドイツ帝国]]に宣戦布告を行い([[大隈重信]]首相、[[第2次大隈内閣]])、[[第一次世界大戦]]に参戦した(→[[第一次世界大戦下の日本]])。従って、即位の礼等の儀式に[[中央同盟国]]の外交使節団は参加していない。


1908年9月から10月にかけては東北6県を行啓した{{sfn|原武史|2015|pp=182-186}}。その後、まだ行啓していない地域からの請願を受けて、1909年9月から10月に岐阜および北陸3県{{sfn|原武史|2015|pp=196-200}}<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780617/ 鶴駕巡啓記](石川県立金沢第一中学校校友会, 1909) </ref>、1911年8月から9月に[[北海道]]{{sfn|原武史|2015|pp=212-215}}、1912年に[[山梨県]]を訪れ、これで[[沖縄県]]を除く全国を訪問したことになった{{sfn|原武史|2015|p=222}}。


[[1909年]](明治42年)11月、陸海軍中将に昇進するとともに[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]付となり、[[1910年]](明治43年)5月からは週2回参謀本部に出勤した。また、御用掛の[[福島安正]]、[[松石安治]]から戦略・戦術を学んだが、教えられたことを何も理解していないと東宮武官に嘆かれている{{sfn|原武史|2015|pp=194-195}}。
[[御用邸]]での休暇時には、[[ヨット]]、乗馬や漢詩作りに癒しを求めていく。だが、[[第一次世界大戦]]による国際情勢と[[第一次世界大戦下の日本|その中における日本]]の立場の大きな変化は、ただでさえ僅かばかりである天皇の自由をさらに奪われていくことになった。


=== 天皇即位 ===
また実力者である[[元老]]との関係もしっくりいっていなかった。[[山本権兵衛]]首相の後任選びが難航していた1914年(大正3年)4月9日、大正天皇は元老[[山縣有朋]]に自ら組閣するよう求めている。これは首相の奏薦は元老会議によるという慣例を破ったものであった。山縣は拒否し、元老以外から首相選定の意見を聞かないよう釘を差している{{Sfn|伊藤之雄|2009|p=397}}。
[[File:Emperor Taisho Vintage Portrait 1912.png|thumb|大正天皇の肖像、1912年]]
[[File:Enthronement of Emperor Taisho 1.JPG|thumb|left|200px|即位礼当日の京都御所]]
[[File:二条城における大正天皇の饗宴.jpg|thumb|大正4年の石版画「御大礼記念 二条城内豊楽殿大饗宴之御盛儀」(尚美堂・田中良三)]]


1912年7月29日夜、明治天皇が崩御{{efn|実際には明治天皇は7月29日午後10時43分に没したが、践祚までの準備時間が足りないため公式には7月30日午前0時43分死去とされた{{Sfn|古川隆久|2007|p=109}}。}}。皇太子は7月30日午前1時に践祚、'''[[大正]]'''(たいしょう)と改元した{{Sfn|古川隆久|2007|pp=109-110}}。8月1日に朝見式が行われたが、出席した[[財部彪]]海軍次官によれば、大正天皇は勅語朗読中に言葉に詰まり、これを見て情けないと涙を流す侍従([[米田虎雄]])もいたという{{sfn|古川隆久|2007|p=117-118}}。
=== 皇太子裕仁親王への摂政任命 ===
[[ファイル:Emperor Taisho's sons 1921.jpg|240px|サムネイル|右|大正天皇の4人の皇子<br>左から迪宮裕仁親王、澄宮崇仁親王、淳宮雍仁親王、光宮宣仁親王。<br>1921年(大正10年)撮影]]
[[1917年]](大正6年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を病欠することが多くなる。また12月には、山縣有朋が形式的に示した[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長の辞意を承認した上に、いつ辞表を出すのかと迫り、大正6年([[1917年]])4月14日には実際に山縣が辞表を提出する事態となった。これは政治的なバランスを完全に無視した行為であり、[[寺内正毅]]首相の調停で辞表は却下された{{Sfn|伊藤之雄|2009|p=416}}。[[1919年]](大正8年)の年末には食事を摂ることも[[勅語]]を音読することもできなくなるほど病状は悪化していた{{efn|『原敬日記』によると、勅語などを読み上げる間に集中力が途切れて、途中で黙り込むことがあったという。[[8月31日]]の[[天長節]]式典([[天皇誕生日]])でも簡単な勅語をきちんと読み上げることができなかった。さらに、[[12月26日]]の第42[[帝国議会]]開院式、翌[[1920年]](大正9年)の新年祝賀、[[2月11日]]の[[紀元節]]式典([[建国記念の日]])に親臨していない<ref>児島 pp.105-107</ref>。}}。


11月には貞明皇后とともに[[伏見桃山陵]]を参拝。京都へ向かう[[お召し列車]]の中で大正天皇は[[原敬]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]を呼び雑談をするが、知識が豊富な原は、以後も行幸や大演習の際に話相手として再三呼ばれることになる{{sfn|小田部雄次|2012|pp=127-128}}。
[[1920年]](大正9年)[[3月26日]]、[[東京帝国大学]]教授[[三浦謹之助]]は「幼小時の脳膜炎のため(中略)緊張を要する儀式には安静を失い、身体の傾斜をきたし、心身の平衡を保てない」という診断書を提出した<ref>{{Cite book |和書 |author=林栄子|title=近代医学の先駆者-三浦謹之助 |page=211 |publisher=叢文社 |date=2011 |isbn=9784794706737}}</ref>。これを受けて[[松方正義]][[内大臣府|内大臣]]が[[原敬]]首相に[[摂政]]の設置を提案したが、当面は天皇の病状を公表して関係者や国民の心の準備を待つこととした<ref>児島 pp.105-109</ref>。


[[即位の礼|即位礼]]と[[大嘗祭]]は当初、[[1914年]](大正3年)11月に行う予定であったが、同年4月に昭憲皇太后が崩御したため1年延期された。[[1915年]](大正4年)11月10日に[[京都御所]]で即位礼紫宸殿の儀、11月14日から15日にかけて大嘗祭、11月16日と17日に[[二条離宮]]で各国の王族や要人をはじめ、皇族、文武高官、有爵位者に加え、外国大使夫妻なども招かれ大規模であり二日間に渡って一日目は伝統的な日本様式と二日目は和洋折衷をモチーフにしたフランス様式と異なる構成を催した[[大饗の儀]](大正大饗)が盛大に行われた<ref name=":7">{{Cite web |url=https://livinghistory-nijojo.com/ |title=Living history in 京都・二条城 |access-date=2024-01-30 |publisher=Living History 京都・二条城協議会 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/introduction/highlights/history/ |title=二条城の歴史・見どころ ~ 歴史|publisher=京都市 |accessdate=2023-09-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kyoto-gotairei.com/|title=京都の御大礼 -即位礼・大嘗祭と宮廷文化のみやび-|publisher=「京都の御大礼—即位礼・大嘗祭と宮廷文化のみやび—」展 実行委員会 |accessdate=2023-09-09}}</ref>{{sfn|古川隆久|2007|pp=153-160}}{{efn|なお節子皇后は第4子([[三笠宮崇仁親王]])懐妊中のため即位礼を欠席した。またこの時に製作された高御座と御帳台は昭和・平成・令和3代の即位礼でも使用されている{{sfn|古川隆久|2007|p=155}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191019/k10012140251000.html |title=「即位礼正殿の儀」で天皇陛下がのぼられる「高御座」公開 |publisher=NHK NEWS WEB |accessdate=2019-10-28 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20191021005636/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191019/k10012140251000.html|archivedate=2019-10-19}}</ref>。}}。大正天皇自身は即位礼の準備委員長である原敬に、儀式の簡素化や日程短縮の希望を伝えていたがほとんど無視され{{sfn|原武史|2015|pp=246-248}}、[[貴族院 (日本)|貴族院]][[書記官長]]の[[柳田國男]]が莫大な労力と経費をかけて前代未聞であると評した儀礼が行われた{{sfn|原武史|2015|pp=255-256}}。
またこの間、[[1918年]](大正7年)[[11月11日]]に[[第一次世界大戦]]が終結し、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の一国「[[五大国]]」として戦勝国の一員となった日本は、その後の[[パリ講和会議]]にも参加し、[[国際連盟]][[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]の地位を得るなど、アジア・太平洋地域での自国の権益を拡大していった。


大正天皇の即位により[[天長節]]は8月31日となった<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2952124|官報第31号『勅令』、1912年9月4日 |format=EXTERNAL}}</ref>が、夏季の8月は行事を行うには猛暑であるため、1913年(大正2年)に10月31日が「天長節祝日」に定められ、以後、祝賀行事は10月31日に行われるようになった{{sfn|古川隆久|2007|p=141}}<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2952391|官報第291号『勅令』『告示』、1913年7月18日 |format=EXTERNAL}}</ref>。
摂政設置の動きが活発化するのは翌[[1921年]](大正10年)半ばからである。5月から8月末日までに、原首相や山縣元老を中心に根回しが行われ、政府内の了解が固まった<ref>児島 pp.200-203, p.205</ref>。10月4日に[[宮内省]](現在の[[宮内庁]])から「快方に向かう見込みがない」旨の病状発表がなされた後に、各宮家から了解を取り、10月11日には妻・貞明皇后の了解を得、10月27日には松方内大臣が大正天皇と当時20歳だった第1皇男子の皇太子裕仁親王(後の[[昭和天皇]])の承諾を得た<ref>児島 pp.216-217</ref>。


=== 政治能力の不安 ===
[[原敬暗殺事件|原首相暗殺事件]]を挟み、[[11月20日]]には「宮中重要会議」が近いことが新聞報道され、[[11月22日|22日]]には議題が[[皇室典範 (1889年)|皇室典範]]の摂政に関する条項<ref group="注釈">新聞は「摂政」の語は使わず「皇室典範第十九条第二項」と報じた。同条項の条文は "天皇久シキニ亙ルノ故障ニヨリ大政ヲ親ラスル事能ハサル場合ハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク" である。 </ref>に関連すること、24日には議題が「皇太子殿下の重大御任務」であることなど、間接的表現で皇太子の摂政就任が近いことが報道された<ref>児島 pp.226-227</ref>。そして[[11月25日]]午前11時に[[皇族会議]]が皇太子を議長として開かれ、摂政設置案を満場一致で可決。午後1時には枢密院会議が開かれ、皇族会議の発議に対して満場一致で同意する。枢密院会議が午後2時に終了した直後の午後2時30分に、天皇は詔書<ref group="注釈">"朕久シキニ亙ルノ疾患ニ由リ大政ヲ親ラスル事能ハサルヲ以テ皇族会議及ヒ枢密顧問ノ会議ヲ経テ皇太子裕仁親王摂政ニ任ス茲ニ之ヲ宣布ス 大正十年十一月二十五日 [[御名御璽]] 摂政名 宮内大臣子爵[[牧野伸顕]] 内閣総理大臣子爵[[高橋是清]]"</ref>を発し、皇太子裕仁親王を摂政に任命した<ref>[http://133.30.51.93/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10099307&TYPE=HTML_FILE&POS=1 神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--]{{リンク切れ|date=2019-05-15}} 新聞記事文庫 政治(20-084) 大阪朝日新聞 1921年11月26日</ref>。
{{see also|大正政変}}


大正天皇の政治力は即位前から不安視されていた。明治天皇崩御直前の1912年(明治45年)7月26日に、[[徳大寺実則]]内大臣兼侍従長と[[渡辺千秋]]宮内大臣が[[昭憲皇太后|美子皇后]]に面会し、大正天皇を皇后と[[伏見宮貞愛親王]]で補佐することを依頼{{sfn|古川隆久|2007|p=108-109}}。しかし、皇后は「『女性が政治に関わるべきではない』という明治天皇の意思を守りたい」として断った{{sfn|原武史|2017|p=129}}。また崩御直後には、[[西園寺公望]]首相が[[元老]]の[[山縣有朋]]と共に謁見し、西園寺が大正天皇へ政事についての苦言を呈し、天皇が「十分に気を付ける」と返答するやり取りがあった{{sfn|古川隆久|2007|p=110-111}}。
同時に[[宮内省]]から『天皇陛下御容體書』が公表されるとともに、出生以来の病歴が別途発表された<ref>児島 pp.227-228</ref>。このため、後々にも「病弱な天皇」として一般に認識されることになった<ref group="注釈">動静は、[[四竈孝輔]]『侍従武官日記』(芙蓉書房、1980年ほか)に詳しい。著者は海軍の[[侍従武官]]。</ref>。 この後、大正天皇が政務に復帰することは無かった。


しかし1912年(大正元年)11月、大正天皇は[[桂太郎]]内大臣に突然[[元帥 (日本)|元帥]]任命を打診する。終身現役の元帥になれば政党の党首になることはできず、新党を組織して首相に復帰する野心を有していた桂は拒絶した。桂は[[第3次桂内閣]]を組閣すると、留任を辞退しようとしていた[[斎藤実]]海軍大臣に留任を命ずる勅語や、[[帝国議会]]の停会を命ずる勅語などを出させて政局を乗り切ろうとした{{Sfn|古川隆久|2007|pp=131-138}}。しかしこの行動は野党・[[立憲政友会]]や民衆の反発を引き起こし、[[護憲運動|第一次憲政擁護運動]]、そして桂内閣の倒閣につながっていった{{sfn|原武史|2015|pp=240-241}}。
=== 晩年、崩御 ===
[[画像:大正天皇大葬.jpg|thumb|right|250px|1927年(昭和2年)、大正天皇の大喪儀]]
[[画像:Funeral-of-Emperor-Taisho-1926.png|thumb|right|250px|大正天皇の葬儀、東京市内。]]
1922年(大正11年)4月に[[イギリス]]の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード王太子]](後の国王エドワード8世、現在の[[エリザベス2世]]女王の伯父)が訪日し1か月近く滞在した際、大正天皇の病状を憚った日本側は天皇とイギリス王太子(皇太子)の面会を設定しなかった<ref>児島 pp.237-241</ref>。一方、[[6月20日]]には第1皇男子の摂政宮皇太子裕仁親王と[[久邇宮|久邇宮家]]の良子女王([[香淳皇后]])の婚姻の[[勅許]]を下している<ref>児島 p.243</ref>。


1913年(大正2年)5月、風邪をこじらせ体温39度を超える肺炎となる{{sfn|原武史|2015|p=242}}。肺炎は同月末に治癒するが、9月まで葉山や日光で静養した{{sfn|古川隆久|2007|p=141}}。また、この間の6月に青山御所から、近代的な改修{{efn|皇居の居住部は明治天皇の希望で照明がろうそくのみであったが、電灯が付けられ、スチーム暖房が導入された{{sfn|古川隆久|2007|p=145}}。}}が完了した[[宮城|皇居]]奥宮殿に転居した{{sfn|古川隆久|2007|p=145}}。
[[1925年]](大正14年)[[5月10日]]には成婚満25年の節目を迎え、摂政宮皇太子裕仁親王らから賀詞を受けた他、貞明皇后とともに夫妻で久々に謁見所に出御、[[皇族]]総代、[[加藤高明]]内閣総理大臣、[[濱尾新]]枢密院議長から奉祝を受けている。同年[[12月19日]]に重度の脳貧血の発作を起こし、貞明皇后も驚愕、翌日未明まで看病を続けたがこの心労で皇后も体調を崩し、半月ほど寝込むほどであった。これ以降、大正天皇は4ヶ月に渡りほぼ寝たきりとなった。


1914年(大正3年)3月、[[シーメンス事件]]により[[第1次山本内閣]]が総辞職した際には、大正天皇は後継総理の選定を元老に委ねたにもかかわらず、昭憲皇太后危篤の報を受けて沼津御用邸へ向かう車中で[[山本権兵衛]]に留任を求める不用意な発言を行う。しかし、以前から大正天皇の政治能力に疑問を持っていた山本{{efn|山本権兵衛は女婿の[[財部彪]]に、「大正天皇の考えといっても、明治天皇のそれと異なる。たとえ、大正天皇の命であっても国家のためにならないと判断すれば従わないほうが忠誠を尽くすことになる」と語っていた{{sfn|原武史|2015|pp=238-239}}。}}はこれに取り合わず山縣有朋を推薦。天皇は直ちに山縣を呼び組閣を命じたが、山縣にも断られ、かつ諫言を受ける有様であった{{Sfn|古川隆久|2007|pp=142-144}}{{sfn|安田浩|2019|pp=166-167}}。また、同年には[[波多野敬直]]宮内大臣が元老[[井上馨]]に「(大正天皇が元老に対して)何を諮問すべきか否かの事の軽重や、職務権限を理解していない」と告げている{{sfn|安田浩|2019|pp=159}}。
[[1926年]](大正15年)[[5月8日]]には病床を離れ、歩行も可能となったが[[5月11日|同月11日]]には再度脳貧血の発作が見られ、病床に就いた。[[8月10日]]、大正天皇は帯で縛りつけられるようにして車に乗せられ、原宿駅から葉山へ向かった。その後、大正天皇の病状悪化はとどまらず言語障害、記憶障害、歩行困難に加えて神経痛も進み、仕人(つこうど)の小川金男によれば「手の指を自由にお曲げになれないので、侍従が手の平に[[林檎|リンゴ]]をおのせして、それから一本一本指を曲げてさし上げ」るような状態となった{{sfn|小川|1951|p=154}}。


1915年(大正4年)、[[第2次大隈内閣]]の[[大浦兼武]]内務大臣の汚職事件が発覚すると、7月に[[大隈重信]]首相は「事件の責任を取る」として全閣僚の辞表を天皇に提出した。大隈を信頼していた大正天皇は辞表をその場で却下しようとしたが大隈の要請で留保され、元老に対応を協議した。山縣有朋は大隈留任の方針であったが、軽率な判断をしないよう天皇に諫言している{{sfn|古川隆久|2007|pp=174-175}}。大隈は翌[[1916年]](大正5年)6月に内閣総辞職の意を奏上し、後継に[[加藤高明]]と[[寺内正毅]]を推薦し、かつての[[第1次大隈内閣|隈板内閣]]のような内閣を作ろうとした<ref>{{Cite book|和書|author=伊藤之雄|authorlink=伊藤之雄|date=2019-07|title=大隈重信(下)「巨人」が築いたもの|publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=978-4-12-102551-7|pages= 275-276}}</ref>。大正天皇は山縣有朋ら元老に後任選考を委ねたが、大隈は辞意を取り消す内奏を行い、天皇もこれを受け入れてしまう。面子を潰された山縣は、今度も天皇に軽率な判断をせず元老に任せ、筋を通すよう諫言した。その後、大隈は「後任に加藤高明を推薦する」とした辞表を提出し、元老に諮問しないよう働きかけたが、大正天皇は元老会議の推薦に基づき寺内を後継首相に任命した<ref>{{Cite book|和書|author=伊藤之雄|authorlink=伊藤之雄|date=2019-07|title=大隈重信(下)「巨人」が築いたもの|publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=978-4-12-102551-7|pages= 277-279}}</ref><!--{{sfn|古川隆久|2007|pp=176-179}}-->。12月には山縣が[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長辞任の意を内奏した。これは以前に何度も行われた形式的なものであり、却下されることを前提とした山縣の政治的パフォーマンスであった。しかし大正天皇は辞任を認めただけでなく、いつ辞表を出すのか尋ね、その後も山縣に辞表提出を問うていた。このため大正6年(1917年)4月14日には山縣が実際に枢密院議長の辞表を提出する事態となり、5月2日に寺内首相の取りなしで留任の勅語が下ったことで、ようやく事態は収拾された<ref>{{cite book|和書|title=山縣有朋|author=伊藤之雄|publisher=文藝春秋 <文春新書>|year=2009|pages=416-417|isbn=978-4-16-660684-9}}</ref>。
その後、大正天皇は日光・沼津の各御用邸で[[転地療養]]を続けた後、[[1926年]](大正15年)[[8月10日]]に葉山の御用邸に転地して以来、しばらくは病状が落ち着いていたが、[[9月11日]]に脳貧血の発作を再発、10月下旬には食欲が減退、[[気管支炎]]の症状もみせ、日中でも寝ていることが増えてきた。


[[1918年米騒動]](大正7年)の際には日光田母沢御用邸で避暑中であったが、皇室財産から政府を通じて各府県に300万円(現在の60億円相当)を下賜した。ただし、天皇が金銭だけ支出して避暑を続けることに世間の批判があったことから、政府の要請を受けて急いで東京へ帰っている{{sfn|古川隆久|2007|pp=180-182}}。
[[11月]]に病状悪化が進み、同月下旬以降には体温が上昇、やがて流動食しか喉を通せなくなった。[[12月8日]]に再び気管支炎が悪化、体温上昇も著しくなり、翌日以降も症状は改善せず、大正天皇は病床で療養する日々が続いた。


=== 皇太子裕仁親王の摂政就任 ===
このようななか、宮内省から『天皇陛下御異例』と言う見出しで病状経過の発表があったのが[[12月15日]]であった。同時の[[9月11日]]に「脳貧血の御症状」を再発、[[10月27日]]から「御睡眠勝ちにして御食気減少」し、[[11月14日]]以降は「軽微なる御せきおよび少量の御かく痰あらせら」れ、12月に入ると「御体温昇騰し御脈拍御呼吸数とも増進」したことが明かされた。その翌日[[12月16日]]には「天皇御病状頗る重篤」に陥り、各皇族、王族、元帥、閣僚らが続々と参邸する事態となった。
[[File:Hirohito Japan (cropped).jpg|thumb|left|180px|皇太子時代の裕仁親王]]
[[ファイル:Emperor Taisho heading for special military exercises in Settsu in the fall of 1919.jpg|250px|thumb|right|大阪での[[陸軍特別大演習]]に向かう大正天皇([[1919年]]秋撮影)]]
大正天皇は1918年(大正7年)末に風邪を引き、[[帝国議会]]開会式を欠席。翌1919年(大正8年)正月の儀式はほぼ予定通り行われたが、風邪が長引き1月末から3月まで葉山で静養する{{sfn|古川隆久|2007|pp=186-187}}。同年10月の海軍特別大演習では勅語を軍令部長が代読した{{sfn|古川隆久|2007|p=188}}。そして11月に兵庫県・大阪府で行われた[[陸軍特別大演習]]への参加が最後の東京の外への公式行幸となった{{sfn|原武史|2015|p=280}}。12月の帝国議会開会式は、勅語朗読の練習をおこなったものの、うまくいかなかったため、前日になって出席が中止された{{sfn|古川隆久|2007|pp=192-193}}。


1920年(大正9年)3月30日、大正天皇の「体調悪化」が初めて宮内省から公表された。ただし、神経痛などとして言語障害や身体の傾斜といった真の病状は公表されなかった{{sfn|古川隆久|2007|pp=186,195-196}}。大正天皇本人は自身の病状を認識しておらず、「普通である」と考えていた{{sfn|原武史|2015|p=285}}。その後は必要最低限の面会以外は静養に専念し、行事への臨席などは皇太子裕仁親王や貞明皇后が代行することになる{{sfn|古川隆久|2007|p=196}}。同年6月に[[松方正義]]内大臣が摂政設置を[[原敬]]首相に提起したが、原は「誰もが納得する病状でなければ摂政設置は困難であり、しばらく様子を見たほうが良い」と判断した{{sfn|原武史|2015|p=286}}。
[[東京日日新聞]]など新聞各紙は16日以降、連日、号外を出して一進一退する大正天皇の病状を伝えた。しかし24日、冬の陽光に包まれていた葉山御用邸は午後から厚い雲に覆われ、いつしか雪も舞い始め、雷鳴も響いた。同日の東京朝日第1号外には「今朝の御容体 暫次不良に拝す」、第2号外には「聖上陛下御容体 御険悪に向はせ給ふ」、第3号外には「益々御危険」、第4号外には「全く御絶望」、25日、同第1号外には「聖上御危篤」と発表された。


1920年(大正9年)から1921年(大正10年)2月にかけ皇太子妃の内定取り消しをめぐる[[宮中某重大事件]]が発生するも無事解決したのを受けて、1921年3月、皇太子裕仁親王は懸案だった[[皇太子裕仁親王の欧州訪問|欧州訪問]]に出発した{{sfn|古川隆久|2007|pp=199-200}}。この頃の大正天皇は、同年7月に塩原御用邸へ静養に行った際には、侍従に抱えられてやっと歩き、風呂や階段を怖がったり、突然暴れだしたりした。また前年の出来事や身近な人物を忘れるなど記憶喪失状態に陥るなどの状態であった{{sfn|古川隆久|2007|p=202}}。
同年[[12月25日]]午前1時25分、静養中の[[御用邸|葉山御用邸]]において、長く会えなかった実母の[[柳原愛子]](二位局)の手を握ったまま[[心臓麻痺]]により<ref>{{Cite book |和書|title=昭和天皇実録巻四 |publisher=東京書籍 |author=宮内庁 |date=2015-09 |isbn=9784487744046 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-05-16}}</ref>[[崩御]]。宝算47。


{{Wikisource|皇太子裕仁親王攝政ニ任ス|裕仁親王の摂政任命|詔書}}
臨終の床に生母を呼んだのは妻・貞明皇后の配慮だったという。
1921年(大正10年)9月に皇太子が欧州から帰国すると、摂政設置に向けた最終段階に入る。10月4日には大正天皇の病状が深刻であり、事実上公務を行うことができなくなっている旨の発表がなされ、[[牧野伸顕]]宮内大臣により皇族への根回しが行われた{{sfn|古川隆久|2007|pp=203-205}}。11月4日に[[原敬暗殺事件|原首相が暗殺]]されたが、11月22日には松方内大臣と牧野宮内大臣が大正天皇に拝謁し、摂政設置について報告と了解を求めようとした。しかし大正天皇は意思疎通できない状態であった。そして11月25日に皇室会議と枢密院で摂政設置が決議され、正式に皇太子裕仁親王が摂政に就任した{{sfn|古川隆久|2007|pp=205-207}}<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2954911|官報(號外)、1921年11月25日|format=EXTERNAL}}</ref>{{efn|摂政任命の詔書は大正天皇が署名できないため、皇太子が代筆した{{sfn|古川隆久|2007|p=207}}。}}{{efn|この摂政就任に関し、原武史は牧野伸顕ら宮内官僚による「[[主君押込]]」説を主張した{{sfn|原武史|2015|pp=310-311}}が、古川隆久は政治家から皇族まで全関係者が同意した点を挙げ原武史説を批判した{{sfn|古川隆久|2007|p=209}}。}}。同日、大正天皇は摂政が執務に使用する印判を引き渡すのを一度は抵抗し、また、12月には侍従に対し「己れは別に身体が悪くないだろう」と何度も話しかけたりしていた{{sfn|古川隆久|2007|p=208}}。同日付の[[東京朝日新聞]]夕刊に、以下の宮内省発表「聖上陛下御容体書」が掲載された。


 「天皇陛下に於かせられては禀賦御孱弱に渉らせられ、御降誕後三週日を出てさるに脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御幼年時代に重症の[[百日咳]]、続いて[[腸チフス]]、[[胸膜炎]]等の御大患を御経過あらせられ、其の為め御心身の発達に於いて幾分後れさせらるゝ所ありしが、御[[践祚]]以来内外の政務御多端に渉らせられ、日夜御[[宸襟]]を悩ませられ給ひし為め、近年に至り遂に御脳力御衰退の徴候を拝するに至れり。目下御身体の御模様に於ては引続き御変りあらせられず、御体量の如きも従前と大差あらせられざるも、御記銘、御判断、御思考等の諸脳力漸次衰へさせられ、御思慮の環境も随て陝隘とならせらる。殊に御記憶力に至りては御衰退の兆最も著しく、之に加ふるに御発語の御障碍あらせらるる為め、御意志の御表現甚御困難に拝し奉るは洵に恐懼に堪へざる所なり」
これに伴い、「[[大正]]」から「[[昭和]]」に改元、摂政宮皇太子裕仁親王が[[皇位継承]]し、第124代天皇として践祚する([[昭和天皇]])。


=== 病状の悪化 ===
崩御後の[[1927年]]([[昭和]]2年)[[1月19日]]、父の明治天皇の先例に倣って、在位中の元号が用いられ「'''大正天皇'''(たいしょうてんのう)」と追号される([[昭和天皇]]勅定)。
その後の大正天皇は、夏は主に日光、他の季節は沼津や葉山に長期滞在し療養に専念した。日課として散歩を行ったり、具合のいい日は侍従や女官たちとビリヤードや雑談をして過ごしたが、病状の悪化は続いた{{sfn|古川隆久|2007|p=214-217}}{{efn|明治・大正・昭和の三代に亘って仕人(つこうど。宮中の諸雑務に携わる宮内省の下級職員)として勤務した小川金男は、崩御前年(大正14年)頃の葉山における大正天皇の姿について、後年回想している。それによると、[[健忘]]の症状が進んでいたが身体機能維持の観点からよく御用邸の廊下を歩いていた。その際、自身を鼓舞するように軍歌の『[[道は六百八十里]]』を歌っていたが、歌詞の冒頭しか思い出せない様子で、その部分を繰り返しながら廊下を歩く姿に小川は「何ともいえないおいたわしい感じ」を受けたと述べている{{sfn|小川金男|2023|pp=212-213}}。}}。


[[1924年]](大正13年)1月26日の裕仁親王の婚礼の饗宴に出御せず{{sfn|古川隆久|2007|p=214}}、[[1925年]](大正14年)5月10日に行われた[[銀婚式]]も、大正天皇は非公式な祝賀を受けただけで{{sfn|原武史|2015|p=320}}、午餐会に臨御することができなかった{{sfn|古川隆久|2007|p=218}}。12月19日には脳貧血を起こしトイレで倒れ、その後は発熱が続く{{sfn|田中伸尚|1988|p=32}}。
[[1927年]]([[昭和]]2年)[[2月8日]]、[[新宿御苑]]にて[[大喪儀]]が執り行われる。これは、[[大日本帝国憲法]]及び[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]下での最後の(天皇の)大喪となる。同日、天皇として史上初めて[[関東地方|関東]]の地にある[[武蔵陵墓地|多摩陵]]([[東京都]][[八王子市]][[長房町]])に葬られた。毎年[[12月25日]]には[[大正天皇祭|大正天皇例祭]]が行われている。


翌[[1926年]](大正15年)年初からは風邪を引き、5月に完治したものの再び脳貧血を起こし{{sfn|古川隆久|2007|p=219}}、ほぼ歩行が不可能になった{{sfn|原武史|2015|p=320}}。8月に車椅子に座ったままの状態で、[[原宿駅]]の皇室専用ホーム{{efn|このホームは御用邸に向かう大正天皇が人目に触れないよう建設されたもの{{sfn|原武史|2015|p=320}}で、大正天皇が生前このホームを利用したのはこれが最初で最後であった{{sfn|古川隆久|2007|p=220}}。}}から列車に乗り、葉山御用邸へ移住した{{sfn|古川隆久|2007|p=220}}。
大正天皇には皇兄が二人([[稚瑞照彦尊]]・[[建宮敬仁親王]])いるが共に自身の誕生前に薨去している。[[2019年]]([[令和]]元年)現在、'''天皇の次男(第二皇子)以後の続柄にあたる[[親王]]'''(皇子/皇男子)'''が皇太子となり'''(立太子)'''皇位を継承した最後の事例'''であり、次代以降の[[昭和天皇]](長男)、[[明仁|上皇]](孫)、[[徳仁|今上天皇]](曾孫)の続柄はいずれも父帝たる天皇から見て長男(第一皇子/皇男子)にあたり、いわゆる男系(父系)男子の[[長子相続]]によって[[皇位継承|皇位が継承]]されている。

葉山転地後は小康状態となったが、10月末から38度を超える高熱が続き、裕仁親王が九州への行啓を取りやめ葉山へ見舞いに行った。11月19日からは宮内省が数日おきに詳しい病状を発表するようになり、国民による平穏祈願が全国に広まっていった{{sfn|古川隆久|2007|pp=220-221}}。12月1日には生母の柳原愛子が東京都[[白山 (文京区)|白山]]の[[大乗寺 (文京区) |大乗寺]]で行われた「聖上御脳御平癒の祈祷」に参加している<ref>{{cite book|和書|title=昭憲皇太后・貞明皇后|author=小田部雄次|publisher=[[ミネルヴァ書房]] <ミネルヴァ日本評伝選>|year=2010|pages=286-287|isbn=978-4-623-05908-9}}</ref>。12月8日に呼吸困難に陥り、急遽取り寄せられた酸素吸入器が使われ、新聞号外が出された。この日以降、葉山には皇族や柳原愛子、政府高官の見舞が相次ぐ{{sfn|古川隆久|2007|p=222-223}}。12月14日には体温が39度に達し、食事がゴム管による流動食に切り替えられた{{sfn|古川隆久|2007|p=223}}。12月16日、呼吸が浅くなり不整脈が出始める。

=== 崩御 ===
[[画像:大正天皇大葬.jpg|thumb|right|250px|1927年(昭和2年)、大正天皇の大喪]]
天皇危篤との報が東京に届くと、[[若槻礼次郎]]総理大臣以下全閣僚から枢密顧問官、元老、重臣まで揃って葉山へ駆けつけ、現地は駆逐艦3隻も出動するなど厳重警戒体制がとられた{{sfn|田中伸尚|1988|pp=52-56}}。全国で歳末行事の自粛や平穏祈願が行われ{{sfn|古川隆久|2007|pp=223-224}}、[[ラジオ]]は12月16日以降、娯楽放送を中止し、宮内省からの発表があれば随時病状を報道{{sfn|田中伸尚|1988|p=56}}。12月14日から崩御までの宮内省発表は61回行われ、ラジオでの放送は計433回に達した{{sfn|井上亮|2013|p=296}}。

これを受けてラジオの加入申込者数が急増し、翌年2月の大喪までに36万件に達した{{sfn|古川隆久|2007|pp=223-224}}。また、新聞社も葉山に記者数十人を送り込んで報道体制をとった{{sfn|田中伸尚|1988|p=56}}。

{{Wikisource|天皇陛下崩御 (大正15年12月25日告示)|大正天皇崩御|告示}}
病状は一時小康状態となったが、12月24日午後から肺炎が悪化し、午後7時に危篤となった。そして、翌日の[[1926年]](大正15年)[[12月25日]]午前1時25分、皇后や皇太子夫妻、皇族、柳原愛子が見守る中、心臓麻痺により崩御{{sfn|古川隆久|2007|p=224}}{{sfn|原武史|2015|p=326}}。宮内庁からは天皇崩御後の午前1時45分に危篤になったこと、午前2時40分に崩御が発表された{{sfn|田中伸尚|1988|pp=68-74}}。宝算47。

これに伴いただちに、摂政であった長男の皇太子裕仁親王が皇位継承し([[昭和天皇]])、第124代天皇に[[践祚]](即位)した。このとき、貞明皇后の発願で、大正天皇の供養のため「[[南無妙法蓮華経]]」の[[題目]]を模写した紙が多数制作されている<ref>{{cite book|和書|title=天皇と宗教 |author=山口輝臣・小倉慈司 |publisher=講談社 <講談社学術文庫>|series=天皇の歴史 9 |year=2018 |origyear=2011|pages=259-260 |isbn=978-4-06-512671-4 }}</ref>。

== 葬儀 ==
[[File:御車寄轜車發引前.jpg|thumb|[[明治宮殿]]御車寄前で[[牛車|轜車]](じしゃ)が発引される様子]]
[[画像:Funeral-of-Emperor-Taisho-1926.png|thumb|right|250px|当時の多摩陵]]
[[ファイル:Tama-no-Misasagi.jpg|多摩陵|thumb|right|200px]]
[[1927年]](昭和2年)[[1月29日]]に「'''大正天皇'''(たいしょうてんのう)」と追号され{{sfn|古川隆久|2007|pp=224-225}}、大喪が2月7日から8日にかけて[[新宿御苑]]を中心に行われた{{sfn|古川隆久|2007|pp=227}}。皇居から新宿御苑の式場までの葬列は計6千人、全長6キロメートルという壮大なもの{{sfn|田中伸尚|1988|pp=186}}で、沿道には150万乃至300万人の市民が集まったといわれ、葬列はラジオで実況放送された{{sfn|井上亮|2013|pp=300-303}}{{refnest|group=注釈|このとき将棋倒しで死者2人、重傷者14人、その他計300人の負傷者が出た{{sfn|井上亮|2013|p=300}}。}}。葬場殿の儀(葬儀)は午後9時から午後11時まで行われ、内外の高官約7千人が参列した{{sfn|田中伸尚|1988|pp=187-188}}。その後、[[中央本線]]の千駄ヶ谷駅の隣に臨時で設置された[[千駄ケ谷駅#新宿御苑仮停車場|新宿御苑駅]]から霊柩列車に移され、昭和天皇名代の[[秩父宮雍仁親王]]らを乗せ出発{{sfn|田中伸尚|1988|pp=188}}。同じく臨時駅の[[東浅川駅|東浅川仮駅]]{{efn|[[太平洋戦争]]終戦まで皇族参拝用に使用された後、八王子市に払い下げられ、集会所「陵南会館」として使用されたが、[[1990年]]([[平成]]2年)に天皇即位の礼と大嘗祭に反対する過激派に爆破され焼失した([[八王子市陵南会館爆破事件]]){{sfn|古川隆久|2007|p=234}}。}}まで運ばれ、東京府[[南多摩郡]][[横山村 (東京都)|横山村]](現在の[[東京都]][[八王子市]][[長房町]])の御料地に築かれた[[武蔵陵墓地|多摩陵]]に葬られた{{sfn|古川隆久|2007|pp=230-231}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/123/index.html|title=-天皇陵-大正天皇 多摩陵(たいしょうてんのう たまのみささぎ)|accessdate=2018-05-03 |publisher=宮内庁}}</ref>{{efn|陵墓予定地内には地元の墓地数か所に計587基の墓があったが、強制移転させられている{{sfn|田中伸尚|1988|pp=139-140}}。}}。

新宿御苑の葬場殿と多摩陵は一般公開されたが好評で、葬場殿は2月9日から3月7日まで、多摩陵は2月13日から4月4日まで公開期間が延長された。葬場殿の参拝者はのべ250万人、多摩陵の参拝者はのべ89万8千人にのぼった。多摩陵には売店や料亭まで建ち、[[鉄道省|省線]]や[[京王電鉄|京王電気軌道]]では臨時列車を走らせた。さらに京王電気軌道は[[多摩御陵前駅|御陵前駅]]に至る[[京王御陵線|御陵線]]を建設したが、開業した[[1931年]](昭和6年)には参拝ブームは下火となっており、まもなく閑散となった{{sfn|古川隆久|2007|p=231-234}}。

現在、毎年12月25日に宮中で[[大正天皇祭|大正天皇例祭]]が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html|title=主要祭儀一覧 |publisher=宮内庁 |accessdate=2019-10-19}}</ref>。

== 死後の評価と「遠眼鏡事件」 ==
[[画像:Taisho5.jpg|thumb|200px|1917年(大正6年)、帝国議会の開院式に向かう大正天皇]]
国内外の死亡記事では、大正年間に日本の国際的地位が高まったこと、政治制度や文化など近代化の一層の進展が大正天皇の功績として挙げられていた。やがてその評価は、追悼本として知られる限り唯一市販された『大正天皇御治世史』や、[[若槻礼次郎]]首相の弔辞で用いられた「守成の君主」に落ち着いた{{sfn|古川隆久|2007|pp=235-238}}。とは言え明治天皇とは異なり、大正天皇を偲び記念する運動はほとんどなく、誕生日は祝日とならず、大正神宮も造られなかった{{sfn|古川隆久|2007|p=245}}。

そして社会に広く定着したのは、「大正天皇が[[帝国議会]]の開院式で[[詔勅|勅書]]をくるくると丸め、遠眼鏡にして議員席を見渡した」とされる{{sfn|原武史|2015|p=14}}「'''遠眼鏡事件'''」に代表されるような「大正天皇精神病者説」であり、その風説は少なくとも昭和初期には一般大衆の間で広まっていた{{sfn|古川隆久|2007|p=239}}。[[1944年]](昭和19年)に遠眼鏡事件の噂を語った男が[[不敬罪]]で捕まっている<ref>{{cite book|和書|title=戦前不敬発言大全|author= 高井ホアン|publisher=パブリブ |year=2019 |page=343 |isbn=978-4-908468-35-3 }}</ref>ほか、1921年に小学2年生であった[[丸山眞男]]は、当時、「大正天皇が脳を患っており、勅書を丸めて覗いた」という噂が流れていたことを[[1989年]](平成元年)の[[エッセイ]]で回想している{{sfn|原武史|2015|pp=20-21}}。

遠眼鏡事件が公然と語り出されるのは戦後であり、近代天皇制の呪縛から解放された後の昭和30年代に集中している{{sfn|原武史|2015|p=15}}。一つは「[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]」[[1959年]](昭和34年)2月号掲載の無署名{{refnest|group=注釈|[[梶山季之]]が黒田長敬に取材したとされる{{sfn|井上亮|2013|p=292}}。}}記事「悲劇の天皇・大正天皇」で、[[黒田長敬]]侍従の、1920年頃に大正天皇が勅書朗読後にうまく巻けたか透かして見た、という証言を載せた{{sfn|原武史|2015|pp=15-16}}。また、元女官の山川三千子{{efn|1892年 - 1965年。旧姓・久世。源氏名「桜木」。昭憲皇太后に仕えた。夫は[[山川黙]]。{{sfn|山川三千子|2016|pp=19,330,333}}}}は、[[1960年]](昭和35年)の著書『女官』に、大正天皇が初めて帝国議会開会式に臨んだ1912年に遠眼鏡として覗いた光景を、姑の弟である[[山川健次郎]]が目撃した話をしていたと記している{{sfn|山川三千子|2016|p=315}}{{sfn|原武史|2015|pp=17-18}}。

この遠眼鏡事件については諸説あり、[[歴史学者]]の[[古川隆久]]は、決定的な史料はなく真相は不明であるが、大正天皇は精神疾患ではないので風説はいわれのない中傷であると主張している{{sfn|古川隆久|2007|p=240}}。そのほか、大正天皇・貞明皇后に仕えた元女官の坂東登女子{{efn|1892年 - 1980年。旧姓・梨木。源氏名「椿」{{sfn|山口幸洋|2022|pp=18,21,172}}。}}は、あるとき勅書が本来とは逆向きに巻いてあったため、その次の折に巻き方が間違っていないか遠眼鏡のように覗き込んで確認した、という話を大正天皇から直接聞いたと語っている{{sfn|山口幸洋|2022|pp=82-83}}。


== 皇子 ==
== 皇子 ==
妻の[[貞明皇后]]との間に4人の皇男子をもうけた。現行の皇室典範が施行された後の[[1947年]](昭和22年)[[10月14日]]に[[GHQ]]の指令によって[[伏見宮]][[旧皇族|系の皇族と宮家]]が[[皇籍離脱]]した際、昭和天皇とその弟宮の三男子及び各妃とその子女・子孫が皇室に留まった。大正天皇・貞明皇后夫妻は、[[2022年]]([[令和]]4年)1月時点における'''[[皇室典範]]の定めるところによる[[皇室]]構成員の中で生まれながらの[[皇族]]である者([[徳仁]]・[[明仁]]・全ての[[親王]]・[[内親王]]・[[女王 (皇族)|女王]])'''の[[最近共通祖先]]となっている。
妻の[[貞明皇后]]との間に、(女子はなく)4人の皇男子をもうけた。


貞明皇后は次男の淳宮雍仁親王出産後の1903年(明治36年)夏に流産している<ref name="hara2017-174">[[#原 2017|原 2017]] p.174</ref>。
[[連合国軍占領下の日本]]の[[1947年]](昭和22年)に[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)の指令によって、[[旧皇族|11宮家に属した伏見宮系の皇族51人]]が[[皇籍離脱]]した際、大正天皇の皇子すなわち昭和天皇の弟宮たる[[秩父宮]]家、[[高松宮]]家、[[三笠宮]]家の[[直宮家|直宮3家]]が[[皇室]]に留まった。


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![[御称号]]び[[諱]]・[[身位]]
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!生年月日
!生年月日
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| [[ファイル:Emperor Showa 1956-11-face.jpg|75px]]
| [[ファイル:Hirohito in dress uniform.jpg|75px]]
| style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[昭和天皇|迪宮裕仁親王]]
| style="white-space:nowrap;text-align:center"|迪宮裕仁親王
|みちのみや ひろひと
|みちのみや ひろひと
| {{Nowrap|[[1901年]]明治34年}}<br />[[4月29日]]
| {{Nowrap|[[1901年]]明治34年}}<br />[[4月29日]]
|[[1989年]]昭和64年<br />[[1月7日]](満87歳没)
|[[1989年]]昭和64年<br />[[1月7日]](満87歳没)
| style="white-space:nowrap;text-align:left;background-color:#ADD8E6"|第一皇男子<br />(第1子)
| style="white-space:nowrap;text-align:left;background-color:#ADD8E6"|第一皇男子<br />(第1子)
|[[香淳皇后|良子女王]]([[久邇宮]]家)と結婚(→[[香淳皇后]])。<br>[[摂政]]:[[1921年]](大正10年)[[11月25日]]<br> – [[1926年]](大正15年)[[12月25日]]<br>'''[[昭和天皇]]'''(第124代天皇)<br>子女:[[昭和天皇#皇子女|2男5女(7)]]。
|[[香淳皇后|良子女王]]([[久邇宮]]家)と結婚(→[[香淳皇后]])。<br>[[摂政]]:[[1921年]](大正10年)[[11月25日]]<br> – [[1926年]](大正15年)[[12月25日]]<br>'''[[昭和天皇]]'''(第124代天皇)<br>子女:[[昭和天皇#皇子女|2男5女(7]]。
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| [[ファイル:Chichibunomiya Yasuhito.jpg|75px]]
| [[ファイル:Chichibunomiya Yasuhito.jpg|75px]]
| style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[秩父宮雍仁親王|淳宮雍仁親王]]
| style="white-space:nowrap;text-align:center"|淳宮雍仁親王
|あつのみや やすひと
|あつのみや やすひと
|[[1902年]]明治35年<br />[[6月25日]]
|[[1902年]]明治35年<br />[[6月25日]]
|[[1953年]]昭和28年<br />[[1月4日]](満50歳没)
|[[1953年]]昭和28年<br />[[1月4日]](満50歳没)
|style="text-align:left;background-color:#ADD8E6"|第二皇男子<br />(第2子)
|style="text-align:left;background-color:#ADD8E6"|第二皇男子<br />(第2子)
|[[雍仁親王妃勢津子|松平節子]]と結婚(→[[雍仁親王妃勢津子]])。<br>'''[[秩父宮雍仁親王]]'''(宮号:[[秩父宮]])<br>子女:無し。
|[[雍仁親王妃勢津子|松平節子]]と結婚(→[[雍仁親王妃勢津子]])。<br>'''[[雍仁親王]]'''(宮号:'''[[秩父宮]]''')<br>子女:無し。
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| [[ファイル:Takamatsunomiya nobuhito.jpg|75px]]
| [[ファイル:Takamatsunomiya nobuhito.jpg|75px]]
| style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[高松宮宣仁親王|光宮宣仁親王]]
| style="white-space:nowrap;text-align:center"|光宮宣仁親王
|てるのみや のぶひと
|てるのみや のぶひと
|[[1905年]]明治38年<br />[[1月3日]]
|[[1905年]]明治38年<br />[[1月3日]]
| style="white-space:nowrap;" |[[1987年]]昭和62年<br />[[2月3日]](満82歳没)
| style="white-space:nowrap;" |[[1987年]]昭和62年<br />[[2月3日]](満82歳没)
|style="text-align:left;background-color:#ADD8E6"|第三皇男子<br />(第3子)
|style="text-align:left;background-color:#ADD8E6"|第三皇男子<br />(第3子)
| style="white-space:nowrap;" |[[宣仁親王妃喜久子|徳川喜久子]]と結婚(→[[宣仁親王妃喜久子]])。<br>'''[[高松宮宣仁親王]]'''(宮号:[[高松宮]])<br>断絶した[[有栖川宮]]家の祭祀を継承。<br>子女:無し。
| style="white-space:nowrap;" |[[宣仁親王妃喜久子|徳川喜久子]]と結婚(→[[宣仁親王妃喜久子]])。<br>'''[[宣仁親王]]'''(宮号:'''[[高松宮]]''')<br>断絶した[[有栖川宮]]家の祭祀を継承。<br>子女:無し。
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| [[ファイル:Prince Mikasa 2012-1-2.jpg|75px]]
| [[ファイル:Prince Mikasa 2012-1-2.jpg|75px]]
| style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[三笠宮崇仁親王|澄宮崇仁親王]]
| style="white-space:nowrap;text-align:center"|澄宮崇仁親王
|すみのみや たかひと
|すみのみや たかひと
|[[1915年]]大正4年<br />[[12月2日]]
|[[1915年]]大正4年<br />[[12月2日]]
|[[2016年]]平成28年<br />[[10月27日]](満100歳没)
|[[2016年]]平成28年<br />[[10月27日]](満100歳没)
|style="text-align:left;background-color:#ADD8E6"|第四皇男子<br />(第4子)
|style="text-align:left;background-color:#ADD8E6"|第四皇男子<br />(第4子)
|[[崇仁親王妃百合子|高木百合子]]と結婚(→[[崇仁親王妃百合子]])。<br>'''[[三笠宮崇仁親王]]'''(宮号:[[三笠宮]])<br>子女:[[三笠宮崇仁親王#子女|3男2女(5)]]。
|[[崇仁親王妃百合子|高木百合子]]と結婚(→[[崇仁親王妃百合子]])。<br>'''[[崇仁親王]]'''(宮号:'''[[三笠宮]] ''')<br>子女:[[三笠宮崇仁親王#子女|3男2女(5]]。
|}
|}


[[ファイル:Emperor Taisho's sons 1921.jpg|thumb|240px|1921年(大正10年)撮影、4人の皇子。<br>左から皇太子裕仁親王(長男)、崇仁親王(四男)、宣仁親王(三男)、雍仁親王(次男)。]]
== 系譜 ==
{{大正天皇の系譜}}
{|class="wikitable" style="width:80%"
|rowspan="8" align="center" style="background-color:#ddf;width:25%"|'''大正天皇'''
|rowspan="4" align="center" style="background-color:#dfd;width:25%"|'''父:'''<br>[[明治天皇]]
|rowspan="2" align="center" style="background-color:#dfd;width:25%"|'''祖父:'''<br>[[孝明天皇]]
|rowspan="1" align="center" style="background-color:#dfd;width:25%"|'''曾祖父:'''<br>[[仁孝天皇]]
|-
|rowspan="1" align="center"|'''曾祖母:'''<br>[[正親町雅子]]
|-
|rowspan="2" align="center"|'''祖母:'''<br>[[中山慶子]]
|rowspan="1" align="center"|'''曾祖父:'''<br>[[中山忠能]]
|-
|rowspan="1" align="center"| '''曾祖母:'''<br>[[中山愛子|園愛子]]
|-
|rowspan="4" align="center"|'''母:'''<br>[[柳原愛子]]
|rowspan="2" align="center"| '''祖父:'''<br>[[柳原光愛]]
|rowspan="1" align="center"|'''曾祖父:'''<br>[[柳原隆光]]
|-
|rowspan="1" align="center"|'''曾祖母:'''<br>正親町三条則子
|-
|rowspan="2" align="center"|'''祖母:'''<br>長谷川歌野
|rowspan="1" align="center"|'''曾祖父:'''<br>長谷川雪顕
|-
|rowspan="1" align="center"|'''曾祖母:'''<br>不詳
|}
{{皇室明治以降}}
{{明治天皇皇子女}}


== 陵・霊廟 ==
== 人物像 ==
皇太子時代に富士山麓の愛鷹山御狩場で狩猟中に一人はぐれた際、通りかかった青年に道を尋ね、そして立ち寄った家でお茶漬けを勧められたり{{sfn|原武史|2015|p=104}}、陸軍の演習に参加した際に、突然旧友宅を訪問したり{{sfn|原武史|2015|pp=220-221}}、当時上品な場所でないと見られていた{{efn|当時の蕎麦屋の2階では男女が逢引したり売春することもあった{{sfn|原武史|2015|p=223}}。}}[[蕎麦]]屋に入る{{sfn|原武史|2015|p=223}}など、気軽で奔放な性格であった{{efn|仕人として宮中に勤務した小川金男(前述)によると、大正天皇が皇位に即いた直後に「陛下は誰にでも気易く話しかけられるお癖があるから、仕人は決して陛下の御前に姿をお見せしてはならぬ」という趣旨の訓示を受けたという{{sfn|小川金男|2023|p=202}}。}}。[[梨本伊都子]]は著書『三代の天皇と私』で「明治天皇と違って大正天皇は大変親しみやすいお気軽なお方でした」と評している<ref name=sandai>{{cite book|和書|title=三代の天皇と私|author=梨本伊都子|publisher=[[講談社]]|series=もんじゅ選書 ; 9|year=1985|pages=188-189|isbn=4061922599}}</ref>{{sfn|原武史|2017|p=152}}。
[[ファイル:Tama-no-Misasagi.jpg|多摩陵|thumb|right|210px]]
[[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[宮内庁]]により[[東京都]][[八王子市]]長房町の[[武蔵陵墓地]]にある'''多摩陵'''(たまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は[[上円下方墳]]<ref>{{Cite web|url=http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/123/index.html|title=-天皇陵-大正天皇 多摩陵(たいしょうてんのう たまのみささぎ)|accessdate=2018-05-03 |publisher=宮内庁}}</ref>。大正天皇から陵は[[東京]]に移されている。


趣味は当時としては極端な洋風で、和服より洋服、[[日本酒]]より[[ワイン]]を好んだ{{sfn|原武史|2017|p=155}}。娯楽は側近たちとビリヤードや将棋を楽しんだほか、皇太子時代には運動のため[[自転車]]に乗り、[[三菱財閥]]から献上された[[ヨット]]「[[初加勢]]」でクルージングを楽しんでいた{{sfn|古川隆久|2007|pp=79-83}}。
また[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


乗馬も嗜み、行幸時に話し相手となった原敬が大正天皇の馬の鑑識眼に驚いている{{sfn|原武史|2015|p=237}}ほか、[[名和長憲]]らの指導を受けた乗馬の腕は優れたものがあった{{sfn|小田部雄次|2016|pp=161-163}}。
== 人物像 ==
* [[三島中洲]]の指導を受け、創作した[[漢詩]]の数は実に1367首もあり、質量とも歴代天皇の中でも抜きんでている<ref group="注釈">第2位が[[後光明天皇]]の98首、第3位が[[嵯峨天皇]]の97首。[[石川忠久]]『漢詩人 大正天皇 - その風雅の心』p.10 ISBN 9784469232585</ref>。天皇は「歌よりも詩のほうがいい。お前たちも作れ」と侍従たちに盛んに詩作を勧めていた。その漢詩の中には宇治の[[平等院鳳凰堂]]とその地で自刃した[[源頼政]]の辞世の句を讃える詩や、明治天皇に殉じた[[乃木希典]]を偲ぶ詩、新橋駅まで見送りに来た[[大韓帝国|韓国]]皇太子を歓迎する詩もある。<ref>[[石川忠久]]『漢詩人 大正天皇 - その風雅の心』p.95, p135, p.155-156</ref> また、和歌の数は[[岡野弘彦]]の調べによると456首が確認されている。岡野は、大正天皇の[[御製]]集の解説の中で歌の出来は相当なもので、特に「清涼さ」「透徹した描写」においては、明治天皇や昭和天皇よりも優れていたと分析している。
** [[富山県]]訪問時に詠んだ「登呉羽山」の詩は現在、[[呉羽山]]山頂に碑文となっており、大正天皇唯一の詩碑とされている{{Sfn|原|2000|p=不明}}{{要ページ番号|date=2019-05-16}}。
* 皇太子時代に全国を巡啓し、[[京都大学医学部附属病院|京都帝国大学医科大学附属病院]](現:京都大学医学部附属病院)を訪れた時には、患者に声をかけ、患者が涙にむせんだという逸話も残っており、[[福岡県知事]]との会話の間に持っていた[[タバコ]]を気軽に差し出したという記録も残っている。このような思ったことをすぐに言動に出す性格は幼少期からのものであるが、嘉仁親王の性格を好ましく思わなかった明治天皇や[[山縣有朋]]らに幾度となくたしなめられていたようである。
* 巡啓中には、[[有栖川宮]]の黙認もあって、非常に気さくに、身分に構わず気軽に声をかけた。移動も特別編成の[[お召し列車]]ではなく、一般乗客と同じ普通列車に乗り込み、[[兵庫県]]の陸軍大演習ではいきなり旧友宅を訪問、[[新潟県]]では早朝に宿舎を抜け出して散策をし、ある時は蕎麦屋(当時はあまり品の良くない場所とされていた)に入るなど自由奔放に振る舞った。1911年(明治44年)4月に[[仙台市]]を行啓した際に台覧した競馬会では、競走中は終始立ち上がって観戦し、競走の度に御付の武官と馬を指さして話をしたり、競走の合間を待ちかねて幕の隙間より裏手の馬の係留所をのぞこうとするなどした。これらは当時、明治天皇が一般人の目の見えないところに「神」として君臨していたのとは好対照である。[[梨本伊都子|守正王妃伊都子]]は、自伝『三代の天皇と私』(1975年)の中で、「明治天皇と違って大正天皇は大変親しみやすいお気軽なお方でした」と述べている<ref name="smokers">{{Cite web |url=http://aienka.jp/smokers/003/ |title=歴史を変えた愛煙家たち(3) |website=愛煙家通信 Web版 |publisher=喫煙文化研究会 |accessdate=2019-05-15}}</ref>。
* 即位前は3人の息子たちと気軽に[[合唱]]や[[鬼ごっこ]]、[[映画]]鑑賞、[[将棋]]を楽しむなど良き父親であったという<ref>{{Cite news |url=https://www.sankei.com/life/news/140909/lif1409090070-n1.html |title=【昭和天皇実録公表】大正天皇と鬼ごっこ、家族の愛情に包まれ固い絆 終戦前に皇族一丸(1/2ページ) |newspaper=産経ニュース |date=2014-09-09}}</ref>。また、西洋的な行事を好んでおり、「昭和天皇実録」には1907年(明治40年)に当時6歳の裕仁親王(後の昭和天皇)へ[[靴下]]に入れた玩具を[[クリスマス]]プレゼントとして贈ったという記述がある<ref>「『昭和天皇実録』を読み解く:6)大正天皇との絆と影響 歴史学者・伊藤之雄が語る」『週刊朝日』、朝日新聞出版、2014年10月31日、36頁。</ref>。
* 愛煙家として知られた父の明治天皇以上に大の[[たばこ]]好きであった。皇太子時代、喫煙量の多さを心配した[[宮内庁東宮職|東宮大夫]]に対し、「それでは、一本のたばこになるべくたくさんの葉を詰めた[[紙巻きたばこ|紙巻たばこ]]を作ってほしい」と注文し、実際に特製のたばこを作らせている。践祚後は、ハバナ[[葉巻たばこ]]、トルコ(葉)混成口付紙巻たばこ、ハバナ(葉)口付紙巻たばこなど、数種類のたばこを愛用していた。参内した者に対しても自ら愛用する葉巻を気軽に手渡すことが度々あったという<ref name="smokers"></ref>。


また愛煙家で、自分が吸う[[たばこ]]の香りや辛さについて注文を付け、東宮太夫がたばこの本数を減らすよう進言すると、通常より長い約11.5センチメートルの特製紙巻たばこを生産させている<ref name=great>{{cite book|和書|title=グレート・スモーカー|editor=祥伝社新書編集部|publisher=[[祥伝社]]|series=祥伝社新書 ; 051|year=2006|pages=82-83|isbn=4-396-11051-0}}</ref>。また、[[梨本宮守正王|梨本宮]]が参内した際に自分の煙草入れから葉巻を鷲掴みにして「持って行け」と渡したり<ref name=great />{{efn|大正天皇は極めて辛口のたばこを好んだらしく、梨本宮が帰宅後に吸ってみたところ、渋い顔をして「いただいては来たが、こんな辛い葉巻では…」と箱にしまい込んでしまった。しかしこれ以降、参内のたびに葉巻を渡されるようになり「侍従はけしからん。こんなのをお勧めして…」と怒っていたという<ref name=sandai/>。}}、九州行啓時に鉄道に同乗した[[福岡県知事]]に「汝は煙草を好むや」と言ってたばこを差し出し、知事が驚いたエピソードがある{{sfn|原武史|2015|p=99}}。
=== 病状に関するもの ===
* [[宮内庁]]は[[2008年]](平成20年)[[6月4日]]、『大正天皇実録』の一部(複製本)を公開した{{efn|[[2002年]](平成14年)には[[1912年]](明治45年/大正元年)から[[1914年]](大正3年)までの2年分、全体の約1割ほどが公開されていた。このときの黒塗り部分は141箇所あった。[[2003年]](平成15年)には[[1915年]](大正4年)から[[1921年]](大正10年)までの7年分が公開されていた。このときの黒塗り部分は360箇所以上という<ref>[[高橋紘]]『平成の天皇と皇室』文藝春秋、2003年、p.177.</ref>。}}。それによると、[[1921年]](大正10年)の実子で長男の皇太子裕仁親王の摂政就任時には「大正三年頃ヨリ軽度ノ御発語御障害アリ、其ノ後ニ至リ御姿勢前方ヘ屈セラルル御傾向アリ」「殊ニ御記憶力ハ御衰退アリ」などと、病状について新聞発表がされている。
*NHKは宮内庁に黒塗りの行われなかった『昭和天皇実録』と同じ基準での公開を申請し、[[2015年]](平成27年)に約8割の1000カ所以上が公開された。
::: 小学校2年で83日欠席し進級試験も受けられず留年した。
::: 小学校6年生では74日間欠席した。
::: 大正7年(1918年)には38歳で、2年前頃から発語障害、歩行困難等の異状があった。
::: 大正14年(1925年)12月には一時人事不省に陥り、3ヶ月寝たきりだった<ref>{{Cite news |url=http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2015_0701.html |newspaper=NHK NEWS WEB |title=大正天皇の実像詳細に |archiveurl=http://web.archive.org/web/20150704172504/http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2015_0701.html |archivedate=2015-07-04 |publisher=NHK |accessdate=2019-05-15}}</ref>。
* [[原武史]]は著書『大正天皇』(朝日新聞社、2000年)で、大正天皇は最終的に政治的な立場から排除(「押し込め」)された天皇であり、「生まれながらの病弱な天皇イメージ」が政治的な思惑を含んで流布された根拠に欠けるものだと指摘した。皇太子時代から近かった原敬首相存命時に極力伏せられてきた天皇の病状が原の暗殺直後に一般に流布されるようになった、巡啓時の新聞記事には皇太子の健康回復が詳細に述べられているとしている。[[伊藤之雄]]はこうした指摘が事実誤認に基づくもので、「よいという建前で報じざるをえない」新聞記事を主要史料とすることは本当の論証にならないと反論している<ref>『日本歴史』641(2001年10月){{Full citation needed |date=2019-05-16 |title=}}、伊藤之雄『政党政治と天皇』講談社、2002年。{{要ページ番号|date=2019-05-16}}</ref>。
:::まことしやかに語られたエピソードによると、ある真夜中、吉原で夜遊びのあと、天皇が宮城に戻ろうとすると、開けておいた潜り戸が閉まっていた。そこで、門扉を叩き「朕である。門を開けよ!」 と騒ぐと出てきた門番に「何が朕だ、陛下ならこの時間は、とっくに寝室でお休みの時間だ!」と一喝され、殴られた挙げ句一晩閉め出されたと言う。
だが、実際にはこの話は、[[江戸時代]]の[[春日局]]のエピソードとして、同様の話が伝わっており、話の混同が起きていると思われる。
明治生まれの年寄りたちは、「大正天皇は遊びが過ぎて梅毒にかかり、それが脳に回って崩御したのだ」と、作り話をまことしやかに話していた。 


皇太子時代は非常に早足で、行啓等では侍従や先導する知事が付いていけなくなることもあった{{sfn|小川金男|2023|pp=204, 223-224, 299}}<ref>{{Cite book|和書|editor=[[霞会館]]公家と武家文化に関する調査委員会|others=[[河鰭実英|河鰭實英]]講演|year=1992|title=宮廷の生活 : 幕末から明治・大正時代|publisher=霞会館|ncid=BN0817019X|page=52}}</ref>。
=== その他 ===
* 大正天皇の成婚の時、日本各地で記念として[[サクラ|桜]]が大量に植樹された。
* 現在、日本で広く行われている[[神道]]式の神前結婚式は、大正天皇と貞明皇后の婚儀を、[[東京大神宮]]が一般向けにアレンジしたものである。
* 現在、日本の多くの小学生が通学時に[[筆記用具]]、[[教科書]]、ノートなどを入れて背中に背負っている[[ランドセル]]は、[[1887年]](明治20年)、当時皇太子であった大正天皇の学習院初等科入学の際、[[伊藤博文]]が祝い品として[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]の将校背嚢に倣った鞄を献上、それがきっかけで世間に徐々に浸透して今のような形になったとされる。
* [[1912年]](明治45年)[[7月30日]]に[[明治天皇]]崩御・大正天皇践祚となったが、休日法の改正は[[9月4日]]となった。大正天皇の誕生日は[[8月31日]]であるが、1912年(大正元年)8月31日時点における[[天長節]]は、まだ明治天皇の誕生日である[[11月3日]](現在の[[文化の日]]、[[日本国憲法]]公布日)のままだった。
* [[1913年]](大正2年)[[8月31日]]に[[天長節]]が行われたが、盛暑期に天長節の式典を斎行するのが困難との理由で、[[1914年]](大正3年)からは2か月遅れの[[10月31日]]に天長節の式典を斎行するようになった。なお、月遅れでは9月に31日が存在しないため2か月遅れとなっている。休日としては、8月31日が天長節、10月31日が天長節祝日という名称となり、天皇誕生日に関する休日が大正期は年2回となっていた。
* 長男の[[昭和天皇]]と同じく、父子揃って[[蕎麦]]が好物であったといわれている。
* 近代の歴代天皇のうち、父・明治天皇と長男・昭和天皇の誕生日は崩御以降にも別の祝日となっているが(明治天皇…[[11月3日]]『[[文化の日]]』。昭和天皇…[[4月29日]]『[[昭和の日]]』)、大正天皇の誕生日は別の祝日となっていない。しかしながら、先帝崩御日が毎年休日となる休日法が施行されていた[[1926年]](大正15年)[[12月25日]]に大正天皇が崩御し、[[1927年]](昭和2年)から[[1947年]](昭和22年)まで[[大正天皇祭]]として12月25日が休日となっていたことは、日本に[[クリスマス]]が定着するきっかけの一つになったとされている。


== 遠眼鏡事件 ==
=== 詩人として ===
[[ファイル:Daichu-ji (Numazu) 001.jpg|代替文=大中寺観梅の石碑|サムネイル|大中寺観梅の石碑]]
[[画像:Taisho5.jpg|thumb|250px|1917年(大正6年)、帝国議会の開院式に向かう大正天皇]]
{{Quote frame|『西瓜』<br>濯得清泉翠有光<br>剖来紅雪正吹香<br>甘漿滴滴如繁露<br>一嚼使人神骨涼{{sfn|石川忠久|2009|p=181}}|align=center}}
「遠眼鏡事件」とは、「大正天皇が進行した脳病により[[帝国議会]]の開院式で[[詔勅]]を読んだ後、大正天皇はその[[詔勅|勅書]]をくるくると丸め、遠めがねにして議員席を見渡した」とされる「事件」であり、それにまつわるさまざまな風説<ref group="注釈">「遠めがねにして覗いたあと、丸めた勅書を持って近くにいた人の頭をポコッと叩いた」という話が付くこともあるが、これは[[第二次世界大戦]][[日本の降伏|敗戦]]後の[[極東国際軍事裁判]]における[[大川周明]]の行動との錯綜であるとの見方がある。</ref>が流布されており、「大正天皇は暗愚であった」と誤って評価される要因の一つであると言われる。
三島中洲の指導を受け[[漢詩]]を始めた大正天皇は[[和歌]]より漢詩を好み、'''昭陽'''の雅号を名乗った{{sfn|石川忠久|2009|pp=23-24}}。1896年(明治29年)から1917年(大正6年)の22年間に1367首の漢詩を創作し、その数は歴代天皇の中で突出している{{efn|第2位が[[後光明天皇]]の98首、第3位が[[嵯峨天皇]]の97首{{sfn|石川忠久|2009|p=10}}}}。そして、全作品が宮内庁書陵部所蔵の『大正天皇御集』に収録されており{{sfn|石川忠久|2009|p=10}}、うち251首は一部添削を経て、1948年(昭和23年)に『大正天皇御製詩集』として公刊された{{sfn|石川忠久|2009|pp=11-15}}。


漢詩のうち1129首が最も創作しやすい七言絶句で、作風は平易であるというのが一般的評価である{{sfn|古川隆久|2007|p=50}}。巡啓先の光景や日々の生活のほか[[八甲田雪中行軍遭難事件]]といった出来事などを詩に詠んでいる{{sfn|石川忠久|2009|pp=77-90,133他}}が、[[古田島洋介]]は「確実に文学的価値があるのは、1914年(大正3年)作の『西瓜』のみ」としており、古川隆久は「大正天皇は素人詩人の部類に入る」とみている{{sfn|古川隆久|2007|p=50}}。[[石川忠久]]は「大正天皇の詩は未完成で、せっかくの才能が十分に磨かれずに終わった」と評している{{sfn|石川忠久|2009|p=209}}。
この種の風説に関して書かれた記事は数種存在するが、記事相互の内容(天皇の行動、「事件」が起こったとされる時期など)はかなり異なっており、信憑性は定かではない。また、語り出された時期は[[第二次世界大戦]]後の[[1950年代]]後半にほぼ集中している。ただし[[政治学者]]の[[丸山眞男]]は、大正天皇の在位中からこの手の風説はあったとしている。丸山眞男は、『昭和天皇を廻るきれぎれの回想』(1989年、のち「丸山眞男集 15」岩波書店)において、以下のように記している。
{{Quotation|私は四谷第一小学校の二年生であった。大正天皇が脳を患っていることはそれ以前に民間に漠然と伝わっていた。それも甚だ週刊誌的噂話を伴っていて、天皇が詔書を読むときに丸めてのぞきめがねにして見た、というような真偽定かでないエピソードは小学生の間でも話題になっていたのである。}}
この事件について、近年、大正天皇付きの女官による証言が報じられている<ref group="注釈">[[朝日新聞]][[2001年]]3月14日付の記事によると、大正天皇から直接聞いた話として以下の証言をしている。


漢詩の詩碑は2か所に建てられており、一つは[[富山県]][[富山市]]の[[呉羽山]]山頂にある「登呉羽山」の碑、もう一つは[[静岡県]][[沼津市]]大中寺にある「大中寺観梅」の碑である{{sfn|古川隆久|2007|pp=50-51}}。
{{Quotation|ある時、議会で勅語が天地逆さまに巻きつけてあったので、ひっくり返して読み上げ、随分恥ずかしい思いをした。このようなことがないよう、詔書を筒のように持って中を覗いて間違っていないことを確かめて読み上げようとしたものだ。}}</ref>。
また、大正天皇は[[脳膜炎]]を患って以来、手先が不自由であり、上手く巻けたかどうかを調べていたのが、議員からは遠眼鏡のように使っていたように見えたという説{{efn|当時の侍従・[[黒田長敬]]の証言による<ref>{{cite journal |和書 |journal=[[文藝春秋]] |volume=1959年2月号|title=悲劇の帝王 大正天皇 |publisher=文藝春秋 |page=146-160 |date=1959-02}}</ref>。}}もある。


一方、和歌は生涯で少なくとも465首を詠んだとされるが、(父親)明治天皇の約9万首、(長男)昭和天皇の約1万首に比べると極めて少ない。しかし、古川隆久は「心の鋭敏さの点では明治・大正・昭和三代の中で一番鋭い感じがする」と評価している{{sfn|古川隆久|2007|p=48}}。
なお、そもそも勅書は読み上げる時以外には丸めておくものであるので、「勅書を丸める行為をした」こと自体におかしな点はない<ref>[http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/detail.php?sid=4412&type=recorded 参議院インターネット審議中継 2017年11月8日 開会式]{{リンク切れ|date=2019-05-15}} 10:45より、勅語に相当する「おことば」の書面を天皇が丸めている。</ref>。


== 脳病の原因 ==
=== 人間関係 ===
==== 明治天皇(父) ====
明治天皇は[[1887年]](明治20年)までに9人の皇子女をもうけたが、男子は大正天皇を除いてみな夭折し、誕生後直ちに死去した2件以外の初発の病名は全て慢性脳膜炎であった<ref name="森岡">森岡清美『華族社会の「家」戦略』索引p.399-400{{Full citation needed |date=2019-05-16 |title=本書の刊行年は2002年と2017年の2つがありますが、どちらを使用したのか不明です。}}</ref>。大正天皇自身も誕生後まもなく脳膜炎様の病気を患い、その後遺症に苦しんだ<ref name="森岡" />。遠眼鏡事件に始まる暗愚との風説もこの病気に起因するとする説がある。また、1888年(明治21年)・1889年(明治22年)の『華族統計書』によると、公家華族や武家華族の3歳未満児の死因で最も多いのは脳膜炎で、31件中12件を占めていた<ref name="森岡" />。
明治天皇は幼少時の嘉仁親王の習字の清書を見たがったり、読書の進度を気にしたり、柳原愛子を通じて指示をするなど教育に干渉したが、教育掛の湯本武比古に拒絶され、以降は口出しを止めた{{sfn|古川隆久|2007|p=13}}。皇太子になってからも明治天皇の心配は変わらず、年数回、皇太子の側近に日誌を提出させ、健康状態や生活、勉強の状況などをチェックしていた。しかし皇太子にとってはこれが重荷となり、皇居に参内してもなかなか天皇に会わず、会っても会話が弾まなかった{{sfn|古川隆久|2007|pp=33-34}}。これは明治天皇のしっかり教育したいという意志に基づいて行っていたと考えられている。また、大正天皇は皇子に制約を課したりはあまりしなかったが明治天皇はこれをよく思わなかったという逸話もある。


さらに、明治天皇は皇太子が「洋風」を好み基礎学問が不十分ながら[[フランス語]]を非常に好むことに頭を悩ませたほか{{sfn|安田浩|2019|p=158}}、その軽率な言動を不快に思っており、1898年(明治31年)に皇太子が東宮職員の不出来を挙げ「全員更迭せよ」と周囲に発言した際には、侍従職幹事の[[岩倉具定]]を通じて叱責している{{sfn|古川隆久|2007|p=42-43}}。
この点について、1923年(大正12年)、[[京都帝国大学]][[医学部]][[小児科]]教授の[[平井毓太郎]]が脳膜炎様病症は慢性鉛中毒症であるとの研究成果を発表した<ref name="森岡" />。「[[禁中|禁裡院中]]の女子は、鉛あるいは水銀を原料とする[[鉛白|白粉]]を用いたから、皇子女の脳膜炎様病症は、白粉から母親の体内に入った鉛毒・水銀毒の結果である」と推定された<ref name="森岡" />。平井の発表に先立つ1907年(明治40年)の段階で、含鉛白粉の害は、上流階級や有識階級の間ですでに周知の情報となっていたとされている<ref name="森岡" />。


==== 貞明皇后(妻)====
== 軍における階級 ==
夫妻で側近とともに[[ダンス]]を楽しんだり、漢詩を62首創作するなど、貞明皇后は大正天皇の趣味に合わせようとしていた{{sfn|古川隆久|2007|pp=72-73}}。しかし夫婦仲は必ずしも良好だったわけではなかった。大正天皇は新婚早々に、同じく日光で避暑中の[[梨本伊都子|鍋島伊都子]]{{efn|鍋島伊都子は美人として評判で、当時[[梨本宮守正王]]と婚約中であった{{sfn|小田部雄次|2002|p=117}}。}}を頻繁に訪問しては、飼い犬を預けるなどの行動をとった際には、怒った節子妃が一時帰京{{efn|皇后の父・[[九条道孝]]が危篤との電報を受けた帰京であったが、道孝は無事で皇后は9日後に日光に戻っている{{sfn|小田部雄次|2002|p=118}}。}}したこともあった{{sfn|古川隆久|2007|pp=72-73}}{{sfn|小田部雄次|2002|p=116-120}}。そして、伊都子には梨本宮との結婚後も会いに行っており、東宮侍従長の[[木戸孝正]]に嘆かれている{{sfn|古川隆久|2007|p=73}}。
=== 日本軍の階級 ===
*{{flagicon|JPN}}:[[1912年]](大正元年)[[7月30日]] [[大日本帝国陸軍|陸]][[大日本帝国海軍|海軍]][[大元帥]]


公式に側室制度([[一夫多妻制]])は廃止されていなかったが、大正天皇は側室を持たなかった{{sfn|小田部雄次|2002|p=150}}{{efn|大正天皇が側室を持たなかった理由は諸説ある。天皇・皇后がともに庶子であったことから側室制度の廃止を願っていたとする説、貞明皇后が早々に複数の男子を産んだことから結果的に一夫一妻になったとする説、近代家族の姿が広まるという時代状況を踏まえた天皇・皇后の意思によるとする説などがある<ref>{{cite book|和書|title=近代皇室の社会史|author=森暢平|publisher=吉川弘文館|year=2020|pages=78-96|isbn=978-4-642-03892-8}}</ref>。}}。しかし他の女性への興味を隠そうとはせず、戯れて女官を追い回しては手を掴んで離さなかったり、女官に肖像写真を求めたりした{{sfn|山川三千子|2016|pp=224}}。また、女官に手を付けていたとの噂が世間に広まっており、[[徳富蘆花]]がその日記に遺している{{sfn|原武史|2017|pp=224-226}}。
=== 外国軍の階級 ===

*{{GBR}} : [[イギリス陸軍|陸軍]][[元帥 (イギリス)|元帥]]([[:en:Field marshal (United Kingdom)|Field marshal]])、1918年(大正7年)1月1日任官<ref>
==== 4人の息子たち ====
{{cite web |title = The Edinburgh Gazette_War Office, 22nd January 1918. |publisher =The Gazette |issue=13199 |date=25 January 1918 |url = https://www.thegazette.co.uk/Edinburgh/issue/13199/page/416 |accessdate = 2018-03-02}}</ref>
貞明皇后との間には以下の4人の皇子をもうけた([[#皇子|#詳細]])。[[昭和天皇|迪宮裕仁親王]](昭和天皇)、[[秩父宮雍仁親王|淳宮雍仁親王]] (秩父宮)、[[高松宮宣仁親王|光宮宣仁親王]](高松宮)、[[三笠宮崇仁親王|澄宮崇仁親王]](三笠宮)である{{sfn|古川隆久|2007|pp=74-75}}。

伝統に従い、裕仁親王と雍仁親王は誕生してすぐ、[[川村純義]]邸に預けられたが、川村が1903年に死亡すると、裕仁親王と雍仁親王は仮東宮御所に隣接する皇孫仮御殿に移った。その後は、皇太子が突然皇孫仮御殿に立ち寄って[[鬼ごっこ]]に加わったり、少なくとも週一回は家族団欒の時を過ごすなど、子煩悩な父親ぶりを示した{{sfn|古川隆久|2007|p=76-79}}。家族団欒の場では、皇后が弾く[[ピアノ]]に合わせて子供たちと軍歌や唱歌を歌ったりした{{sfn|原武史|2015|p=179}}。

昭和天皇は大正天皇生誕100年を翌年に控えた、1978年(昭和53年)12月4日の[[記者会見]]で、自身の父親である大正天皇について、「幼いころ一緒に[[将棋]]を指したり歌を歌った思い出があること」と、「『詩文を良くし記憶力が良かった』と母から聞いた」とし、「本当に天皇として立派な方であった」と語っている{{sfn|古川隆久|2005|pp=240-241}}。

==== 政治家 ====
; 大隈重信
[[大隈重信]]は、堅苦しい話だけでなく世間話など面白い話をすることから大正天皇に好かれていた{{sfn|安田浩|2019|p=167}}。皇太子時代の[[1898年]](明治31年)、[[第1次大隈内閣]]退陣後に早稲田の大隈邸に招かれ、[[能]]や[[狂言]]などの歓待を受ける。皇太子が在野の人物の私邸を複数回訪問するのは異例であったが、[[1912年]](明治45年/大正元年)にも、大隈邸と[[早稲田大学]]を訪問している{{sfn|古川隆久|2007|p=167}}。その後大隈は再び首相([[第2次大隈内閣]])となった後、頻繁に拝謁し長話をしては、天皇が上奏に来た他の大臣を待たせることもあった{{sfn|安田浩|2019|p=167}}。そして大隈家には大正天皇の宸翰2通、大隈を詠んだ御製が残されていた<ref>{{cite book|和書|title=大隈重信|author=伊藤之雄|publisher=中央公論新社 <中公新書>|volume=下|date=2019|page=273|isbn=978-4-12-102551-7}}</ref>。

; 原敬
[[原敬]]は、[[1906年]](明治39年)に[[第1次西園寺内閣]]の内務大臣に就任し、大正天皇(当時:皇太子)との接点ができて以降、行幸時のお召列車で話し相手として呼び出されるなど信頼を得ていた。そのやりとりは原敬日記に数多く記録されている{{sfn|原武史|2015|pp=24,236}}。

; 山縣有朋
一方で、天皇がひどく嫌っていたのが山縣有朋である。1896年(明治29年)に山縣が沼津御用邸滞在中の皇太子を訪ね、君主のあるべき姿を説いた。このとき、皇太子は「山縣が酒に酔い、暴言を吐いた」と漏らしたが、問題とならず済んだ{{sfn|古川隆久|2007|pp=111}}。山縣は、天皇即位後も大正天皇に、父親の明治天皇を模範にした苦言を呈した{{sfn|原武史|2015|p=271}}。これに対して、大正天皇は山縣が拝謁を求めても直接会わず女官に対応させたりした{{sfn|安田浩|2019|p=167}}。そのほか、大正天皇は[[寺内正毅]](初代朝鮮総督)に対し「山縣の人望のなさ」について言及している{{sfn|原武史|2015|p=274}}。

=== 「脳病」について ===
大正天皇は生後一年以内に、2回脳膜炎らしき病気にかかっている。当時、[[白粉]]を使う女性は[[鉛中毒]]を患っていたが、その白粉を乳幼児が吸ったり、母乳から摂取すると鉛中毒による脳膜炎を引き起こすことがあった。大正天皇の病気の原因も、乳母が使用した白粉の可能性があると考察されている{{sfn|杉下守弘|2012|pp=58-59}}。

1920年3月、東京大学教授の[[三浦謹之助]]と侍医頭の[[池辺棟三郎]]は、「大正天皇は即位後の多忙により神経過敏となったうえ、2年前から内分泌臓器のいくつかが不調となり、幼児期の脳膜炎の影響から心身の緊張を要する儀式の際に体が傾くなど平衡を失うようになったため、政務を見る以外には儀式に出ず静養することが必要である」、との診断書を出している。しかし原因確定は不可能であった{{sfn|古川隆久|2007|pp=193-194}}。

近年、神経心理学者の[[杉下守弘]]は、当時の文献の分析を行い、大正天皇の病気は[[前頭葉]]、[[側頭葉]]、[[頭頂葉]]の少なくとも一つに脳萎縮が起こり、[[失語症]]、さらに記憶・判断・思考なども障害され日常生活が送れなくなり[[認知症]]になる「[[原発性進行性失語|原発性進行性失語症]]」{{sfn|杉下守弘|2012|p=60}}、もしくは大脳半球皮質および皮質下神経核などが萎縮し、構音障害、身体の前屈、歩行障害から、徐々に失語症、記憶障害、判断障害が起こり認知症になる「[[大脳皮質基底核変性症|大脳皮質基底核症候群]]」{{sfn|杉下守弘|2012|p=61}}と推察している。

== 大正天皇実録 ==
{{main|大正天皇実録}}
1927年6月、[[宮内省]]は図書寮に大正天皇実録部を設置し『'''大正天皇実録'''』の編纂を開始した。実録は[[1934年]](昭和9年)末に145冊の稿本が作成された後、更なる資料の補遺、充実を図り、[[1936年]](昭和11年)の大正天皇十年祭を前に完成し、[[昭和天皇]]、[[香淳皇后]]、節子皇太后([[貞明皇后]])に捧呈された{{efn|なお宮内省では同時期に『[[明治天皇紀]]』(1933年/昭和8年完成)や歴代天皇・皇族の記録である『天皇皇族実録』も編纂されていた{{sfn|季武嘉也|2005|p=98-99}}。}}{{sfn|季武嘉也|2005|p=98-99}}。しかし、長い間非公開であり、[[朝日新聞]]の情報公開請求を契機として[[2002年]](平成14年)から[[2011年]](平成23年)にかけ、4回に分けて公開された。ただし、この時は個人識別情報として全体の3パーセントが黒塗りとされた<ref>{{cite news|和書|title=大正天皇実録、大半の黒塗り開示 「一時人事不省」判明 |newspaper=朝日新聞 |date=2015-07-01 |author= |url=https://www.asahi.com/articles/ASH713G64H71UTIL009.html |accessdate=2019-11-07}}</ref>。その後、[[2015年]](平成27年)に[[公文書管理法]]の「時の経過」を考慮して黒塗り部分が残り0.5パーセントまで減らされたが、現在も学業成績や病状に関する部分の一部が非公開とされている<ref name="yumani" />。

[[ゆまに書房]]が[[2016年]](平成28年)から[[2021年]]([[令和]]3年)にかけて実録本文の補訂版を刊行中である<ref name="yumani" />。

== 軍歴 ==
=== 日本 ===
* 1889年(明治22年)11月3日 [[大日本帝国陸軍|陸軍]]歩兵少尉<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2945154|『官報』号外、1889年(明治22年)11月3日|format=EXTERNAL}}</ref>
* 1892年(明治25年)11月3日 陸軍歩兵中尉<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2946073|『官報』「叙任及辞令」、1892年(明治25年)11月5日 |format=EXTERNAL}}</ref>
* 1895年(明治28年)1月4日 陸軍歩兵大尉<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2946723|『官報』号外「叙任」、1898年(明治28年)11月3日|format=EXTERNAL}}</ref>
* 1898年(明治31年)11月3日 陸軍歩兵少佐及[[大日本帝国海軍|海軍]]少佐<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2947894|『官報』号外「叙任」、1898年(明治31年)11月3日|format=EXTERNAL}}</ref>
* 1901年(明治34年)11月3日 陸軍歩兵中佐及海軍中佐<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2948801|『官報』号外「叙任」、1901年(明治34年)11月3日|format=EXTERNAL}}</ref>
* 1903年(明治36年)11月3日 陸軍歩兵大佐及海軍大佐<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2949411|『官報』号外「叙任」、1903年(明治36年)11月3日|format=EXTERNAL}}</ref>
* 1905年(明治38年)11月3日 陸軍少将及海軍少将<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2950040|『官報』号外「叙任」、1905年(明治38年)11月3日|format=EXTERNAL}}</ref>
* 1909年(明治42年)11月3日 陸軍中将及海軍中将<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2951260|『官報』号外「叙任」、1909年(明治42年)11月3日 |format=EXTERNAL}}</ref>
* 1912年(明治45年/大正元年)7月30日 [[大元帥]]

=== 外国 ===
* {{GBR}} : ([[イギリス陸軍]])[[陸軍元帥 (イギリス)|陸軍元帥]]、1918年(大正7年)1月1日任命<ref>{{cite web |title = The Edinburgh Gazette_War Office, 22nd January 1918. |publisher =The Gazette |issue=13199 |date=1918-01-25 |url = https://www.thegazette.co.uk/Edinburgh/issue/13199/page/416 |accessdate = 2018-03-02}}</ref>

なお、日本側はその返礼として、1918年10月に、[[ジョージ5世]]に対して[[元帥 (日本)|元帥陸軍大将]]を授与している<ref>{{cite journal |last1=Jenzen-Jones |first1=N.R. |title=The King George V Gensuitō: An Imperial Japanese rarity in the Royal Collection |journal=Arms & Armour |date=20 October 2022 |volume=19 |issue=2 |pages=185–197 |doi=10.1080/17416124.2022.2126100 |s2cid=253055340 |url=https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/17416124.2022.2126100 |access-date=21 October 2022 |issn=1741-6124}}</ref>。当時は、君主の間で互いに軍の階級を授与する外交儀礼が存在し、イギリスは日本以外にも12カ国(ドイツ、ロシア、スペイン等)の君主に陸軍元帥を授与している<ref>『The British Field Marshals, 1736–1997: A Biographical Dictionary』, Pen and Sword Books, 1999, Introduction</ref>。


== 栄典 ==
== 栄典 ==
[[File:Emperor Taisho the Order of the Garter.jpg|thumb|ガーター騎士団の正装をした大正天皇(1912年頃撮影)]]
=== 日本 ===
* [[1889年]](明治22年)[[11月3日]] - [[大勲位菊花大綬章]]<ref>『官報』号外「詔勅 立皇太子公布之件」1889年11月3日。</ref>
* [[1900年]](明治33年)[[5月10日]] - [[大勲位菊花章頸飾|菊花章頸飾]]<ref>『官報』号外 1900年5月10日。</ref>
* [[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - [[功三級金鵄勲章]]・[[従軍記章#明治三十七八年従軍記章|明治三十七八年従軍記章]]<ref>『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。</ref>


=== 外国 ===
* [[1889年]](明治22年)[[11月3日]] - {{flagicon|JPN}} [[大勲位菊花大綬章]]<ref>『官報』号外「詔勅 立皇太子公布之件」明治22年(1889年)11月3日。</ref>
* {{flag|Austria-Hungary}}:[[:en:Order of Saint Stephen of Hungary|聖シュテファン勲章]]大十字章(1900年7月18日)<ref name="Seitoku">{{cite book|author=刑部芳則|title=明治時代の勲章外交儀礼|url=http://meijiseitoku.org/pdf/f54-5.pdf|year=2017|publisher=明治聖徳記念学会紀要|language=ja|page=152}}</ref>
* [[1900年]](明治33年)[[5月10日]] - {{flagicon|JPN}} [[大勲位菊花章頸飾|菊花章頸飾]]<ref>『官報』号外 明治33年(1900年)5月10日。</ref>
* {{Flag|Belgium}}:[[:en:Order of Leopold (Belgium)|レオポルド勲章]]剣付大綬章(1898年11月18日)<ref name="Seitoku"/>
* [[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - {{flagicon|JPN}} [[功三級金鵄勲章]]・[[従軍記章#発行された従軍記章|明治三十七八年従軍記章]]<ref>『官報』号外「叙任及辞令」明治39年(1906年)12月30日。</ref>
* {{Flag|Denmark}}:[[エレファント勲章]]騎士(1900年3月5日)<ref name="Seitoku"/>
* {{FRA1870}}:[[レジオンドヌール勲章]]大十字章(1899年5月3日)<ref name="Seitoku"/>
* {{Flag|German Empire}}:[[:en:Order of the Black Eagle|黒鷲勲章]]騎士(1899年12月21日)<ref name="Seitoku"/>
** {{BAY}}:[[:en:Order of St. Hubert|聖フーベルトゥス勲章]]騎士(1904年3月16日)<ref name="Seitoku"/>
* {{flagcountry2|Greece|royal}}:
** [[:en:Order of George I|ゲオルギオス1世勲章]]大十字章
** [[:en:Order of the Redeemer|救い主勲章]]大十字章
* {{Flag|Kingdom of Italy}}:
** [[聖アヌンツィアータ騎士団]]騎士(1900年3月22日)<ref name="dell'interno1920">{{cite book|author=Italy. Ministero dell'interno|title=Calendario generale del regno d'Italia|url=https://books.google.com/books?id=KU1TIJPtKx0C&pg=PR3|year=1920|page=[https://books.google.com.sg/books?id=KU1TIJPtKx0C&pg=PA57 57]}}</ref>
** [[聖マウリッツィオ・ラザロ勲章]]大十字騎士章(1900年3月22日)
** [[:en:Order of the Crown of Italy|イタリア王冠勲章]]大十字章(1900年3月22日)
* {{KOR1897}}:[[大勲位金尺大綬章]](1900年9月20日)<ref name="Seitoku"/>
* {{flag|Netherlands}}:[[:en:Order of the Netherlands Lion|ネーデルラント獅子勲章]]大十字章(1900年7月12日)<ref name="Seitoku"/>
* {{Flag|Norway}}:[[聖オーラヴ勲章]]大十字章
* {{Flag|Poland}}:[[:en:Order of the White Eagle (Poland)|白鷲勲章]]騎士
* {{PRT1830}}:[[:en:Sash of the Two Orders|キリストおよび聖ベントのアヴィス勲章]]大十字章(1904年4月)<ref name="Seitoku"/>
* {{flag|Russian Empire}}:[[:en:Order of St. Andrew|聖アンドレイ勲章]]騎士(1900年7月2日)<ref name="Seitoku"/>
* {{flagcountry2|Thailand|1855}}:[[大チャクリー勲章]]騎士(1899年10月26日)<ref>{{cite journal |author=Royal Thai Government Gazette |author-link=:en:Royal Gazette (Thailand)|date=9 December 1900 |url=http://www.ratchakitcha.soc.go.th/DATA/PDF/2443/037/527_1.PDF |title=ข้อความในใบบอกพระยาฤทธิรงค์รณเฉท อรรคราชทูตสยามกรุงญี่ปุ่น เรื่อง พระราชทานเครื่องราชอิศริยาภรณ์ มหาจักรีบรมราชวงษ์แก่มกุฎราชกุมาร กรุงญี่ปุ่น|language=th |access-date=2019-05-08 }}</ref>
* {{Flag|Spain|1874}}:[[金羊毛騎士団]]騎士(1897年12月6日)<ref name="Seitoku"/>
* {{Flag|Sweden}}:[[:en:Order of the Seraphim|セラフィム勲章]]騎士(1907年9月20日)<ref>{{citation|title=Sveriges Statskalender|year=1909|page=613|url=http://runeberg.org/rikskal/1909/0697.html|via=runeberg.org|access-date=2018-01-06|language=sv}}</ref>
* {{Flag|United Kingdom}}:[[ガーター勲章]]騎士(1912年9月18日)<ref>{{cite web |url=https://www.heraldica.org/topics/orders/garterlist.htm |title=List of the Knights of the Garter=François Velde, Heraldica.org |access-date=February 22, 2019}}</ref>

== 系譜 ==
{{大正天皇の系譜}}
; 明治天皇以降の系図
{{皇室明治以降}}
; 明治天皇の皇子女
{{明治天皇皇子女}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
302行目: 385行目:


=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{notelist}}
{{notelist|30em}}


=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
{{reflist|20em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
{{参照方法|date=2019年5月15日 (水) 08:54 (UTC)|section=1}}
* {{Cite book |和書 |author=浅見雅男|authorlink=浅見雅男 |title=大正天皇婚約解消事件|publisher=[[KADOKAWA]] <[[角川ソフィア文庫]]> |year=2019|origyear=2010|isbn=978-4-04-400389-0 |ref=harv}}
* [[石川忠久]] 『漢詩人大正天皇 その風雅の心』[[大修館書店]]、[[2009年]]
* 石川忠久 大正天皇漢詩集』大修館書店、2014年(漢詩約270首を訳註・解説した編著)。
* {{Cite book |和書 |author=石川忠久|authorlink=石川忠久 |title=漢詩人 大正天皇 その風雅の心|publisher=[[大修館書店]] |year=2009|isbn=978-4-469-23258-5 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=小川金男 |others=[[河西秀哉]]監修 |title=皇室の茶坊主 下級役人がみた明治・大正の「宮廷」 |publisher=[[創元社]] |year=2023 |origyear=1951 |isbn=978-4-422-20169-6 |ref=harv}}
* [[岡野弘彦]]解題 『大正天皇御集 おほみやびうた』[[明徳出版社]]、[[2002年]]
* {{Cite book |和書 |author=小川金男|title=宮廷 |publisher=日本出版協同株式会社 |date=1951 |ref={{SfnRef|小川|1951}} }}
* {{Cite book |和書 |author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次 |title=四代の天皇と女性たち|publisher=[[文藝春秋]] <[[文春新書]]> |year=2002|isbn=4-16-660273-X |ref=harv}}
* {{cite book |和書 |title=大元帥と皇族軍人 明治編 |author=小田部雄次 |publisher=[[吉川弘文館]] <[[歴史文化ライブラリー]]> |year= 2016| isbn=978-4-642-05824-7 |ref=harv}}
* 木下彪注解 『大正天皇 御製詩集』[[明徳出版社]]、新版[[2000年]](初版は[[1960年]])
* {{cite book |和書 |title=皇后の近代|author=片野真佐子|publisher=講談社 <講談社選書メチエ> |year=2003|isbn=4-06-258283-X |ref=harv}}
*『大正天皇実録』宮内省図書寮編修、[[ゆまに書房]](補訂版全6巻・別巻1)、2016年より刊行、2021年完結予定。
* {{Cite book |和書 |author=田中伸尚|authorlink=田中伸尚 |title=大正天皇の大葬 |publisher=[[第三書館]] |year=1988|id={{全国書誌番号|22528711}} |ref=harv}}
* [[児島襄]] 『天皇(I) 若き親王』 [[文春文庫]] 1981年。新版・カゼット出版、[[2007年]]{{疑問点|date=2019年5月16日 (木) 11:30 (UTC)|title=文春文庫版とカゼット出版のものとの2点がここに載っていますが、本記事の出典として使用されているもの(脚注として記入されているもの)はどちらなのか不明です。}}
* {{Cite book |和書 |author=原武史|authorlink=原武史 |title=大正天皇 |publisher=[[朝日新聞出版]] <[[朝日文庫]]> |year=2015|origyear=2000|isbn=978-4-02-261827-6 |ref=harv}}
* 西川泰彦 『天地十分春風吹き満つ 大正天皇御製詩拝読』[[錦正社]]、[[2006年]]
* {{Cite book |和書 |author=[[原武史]] |title=大正天 |publisher=[[朝日新聞社]] |series=[[朝日選書]] |date=2000 |ref={{SfnRef|原|2000}} }}<!--[[朝日文庫]]、[[2015年]]-->
* {{Cite book |和書 |author=原武史|title=皇后考|publisher=[[講談社]] <[[講談社学術文庫]]>|year=2017 |origyear=2015|isbn=978-4-06-292473-3|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=[[古川隆久]] |title=大正天皇 |publisher=[[吉川弘文館]] |series=[[人物叢書]] |date=2007 |ref={{SfnRef|古川|2007}} }}
* {{Cite book |和書 |author=古川隆久|authorlink=古川隆久 |title=大正天皇 |publisher=[[吉川弘文館]] <[[人物叢書]]> |year=2007|isbn=978-4-642-05240-5 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=安田浩|authorlink=安田浩 (歴史学者) |title=天皇の政治史 |publisher=吉川弘文館 <読みなおす日本史> |year=2019|origyear=1998|isbn=978-4-642-07106-2 |ref=harv}}
* [[古田島洋介]] 『大正天皇御製詩の基礎的研究』明徳出版社、[[2005年]]
* {{Cite book |和書 |author=山口幸洋|authorlink=山口幸洋 |others=河西秀哉監修 |title=大正女官、宮中語り |publisher=創元社 |year=2022|origyear=2000|isbn=978-4-422-20167-2 |ref=harv}}
* フレドリック・ディキンソン 『大正天皇 一躍五大洲を雄飛す』[[ミネルヴァ書房]]〈[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]〉、[[2009年]](米国人の研究者([[1961年]]生)で、[[京都大学]]に留学し[[高坂正堯]]に師事。自身による日本語出版)。
* {{Cite book|和書|author=伊藤之雄|authorlink=伊藤之雄|date=2009|title=山県有朋-愚直な権力者の生涯|publisher=[[藝春秋]]|series=[[文春新書]]|isbn=978-4-16-660684-9|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=山川三千子 |title=女官 |publisher=講談社 <講談社学術庫> |year=2016 |origyear=1960 |isbn=978-4-06-292376-7 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author={{仮リンク|F・R・ディキンソン|en|Frederick Dickinson}} |title=大正天皇 <small>一躍五大洲を雄飛す</small> |publisher=[[ミネルヴァ書房]] <[[ミネルヴァ日本評伝選]]> |year=2009|isbn=978-4-623-05561-6 |ref=harv}}
* {{cite book|和書|title=[[大正天皇実録]] 補訂版|editor=宮内省図書寮編修|publisher=[[ゆまに書房]](全6巻)|date=2016-2021年}} - 別巻(索引・解説)は未刊

=== 論文 ===
* {{Cite journal |和書|author=季武嘉也 |title=歴史資料の公開の現状と問題点 |date=2005 |publisher=創価大学人文学会 |journal=創価大学人文論集 |volume=17 |id={{NAID|110006608499}} |pages=89-120 |ref=harv }}
* {{Cite journal |和書|author=杉下守弘 |title=大正天皇(1879-1926)の御病気に関する文献的考察 |date=2012 |publisher=脳血管研究所 |journal=認知神経科学 |volume=14 |issue=1 |id={{NAID|40019382858}} |pages=51-67 |ref=harv }}

== 関連文献 ==
* {{cite book|和書 |title=大正天皇御製歌集 |publisher=宮内省図書寮 |volume=上|date=1945 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1140995}}
* {{cite book|和書 |title=大正天皇御製歌集 |publisher=宮内省図書寮 |volume=下|date=1945 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1140999}}
* {{cite book|和書 |title=大正天皇御製詩集 |publisher=宮内省図書寮 |volume=上|date=1945 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1140997}}
* {{cite book|和書 |title=大正天皇御製詩集 |publisher=宮内省図書寮 |volume=下|date=1945 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1141000}}
* {{cite book|和書 |editor=石川忠久 |title=大正天皇漢詩集 |publisher=大修館書店 |date=2014 }}(漢詩約270首を訳註・解説した編著)。
* {{cite book|和書|others=[[岡野弘彦]]解題 |title=大正天皇御集 おほみやびうた| publisher=[[明徳出版社]] |year=2002 |isbn=978-4-89619-549-1 }}
* {{cite book|和書| others=木下彪注解 |title=大正天皇 御製詩集| publisher=明徳出版社 |year=2000 |origyear=1960}}
* {{cite book|和書|title=天地十分春風吹き満つ 大正天皇御製詩拝読 |author=西川泰彦 |publisher=[[錦正社]] |year=2006 |isbn=4-7646-0270-9 }}
* {{cite book|和書|title=大正天皇御製詩の基礎的研究 |author=古田島洋介|authorlink=古田島洋介|publisher= 明徳出版社|year=2005|isbn=4-89619-172-2}}

== 大正天皇を扱った作品 ==
; テレビドラマ
* 『王朝の歳月』<ref>{{Citation|title=[815특집극] 왕조의 세월 {{!}} (1990/08/16)|url=https://www.youtube.com/watch?v=hM7aY0P8dvs|language=ja-JP|access-date=2024-01-10}}</ref>([[韓国放送公社|KBS]]、1990年 - 演・チャン・ギヨン)
; 漫画
* 『[[昭和天皇物語]]』([[小学館]]『[[ビッグコミックオリジナル]]』連載、2017年 - 、作画 [[能條純一]]:原作 [[半藤一利]]「昭和史」、脚本:[[永福一成]]、監修:[[志波秀宇]])
== 関連項目 ==
* [[迎賓館赤坂離宮]] - 皇太子嘉仁親王の住居である東宮御所として建設されたが、明治天皇が「華美に過ぎる」と反対し、使用されなかった。
* [[光文事件]]
* [[大正天皇実録]]

== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{Commons&cat-inline}}
* {{Commons&cat-inline}}
* {{Wikisource-inline|天皇陛下崩御 (大正15年12月25日告示)|大正天皇崩御|告示}}
* {{NHK放送史|D0009060005_00000|大正天皇崩御}}
* [https://www.britishpathe.com/asset/61928/ 大正天皇の葬儀の映像] - [https://www.britishpathe.com/ British Pathe]
* {{Kotobank}}
*[https://dl.ndl.go.jp/pid/1190442/ 大正天皇御治世史](国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)教文社、昭和2年


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2024年11月29日 (金) 14:17時点における最新版

大正天皇
大正天皇
1912年(大正元年)撮影

即位礼 ※即位礼紫宸殿の儀
1915年(大正4年)11月10日
京都御所
※即位礼大饗の儀
1915年(大正4年)11月16日11月17日
二条離宮
大嘗祭 1915年(大正4年)11月14日15日
於 大宮御所[1]大嘗宮
元号 大正: 1912年7月30日 - 1926年12月25日
摂政 皇太子裕仁親王(1921年11月25日 - 1926年12月25日)
内閣総理大臣
先代 明治天皇
次代 昭和天皇

誕生 1879年(明治12年)8月31日
午前8時12分
日本の旗 日本 東京府東京市赤坂区(現・東京都港区元赤坂青山御所
崩御 1926年大正15年)12月25日
午前1時25分(47歳没)
日本の旗 日本 神奈川県三浦郡葉山町 葉山御用邸
大喪儀 1927年(昭和2年)2月8日
新宿御苑
陵所 多摩陵東京都八王子市長房町
追号 大正天皇
1927年(昭和2年)1月19日追号勅定
嘉仁(よしひと)
称号 明宮(はるのみや)
壽(じゅ)
父親 明治天皇
母親 柳原愛子
皇后 貞明皇后(九条節子)
1900年(明治33年)5月10日 結婚
子女 迪宮裕仁親王(昭和天皇
淳宮雍仁親王(秩父宮雍仁親王
光宮宣仁親王(高松宮宣仁親王
澄宮崇仁親王(三笠宮崇仁親王
皇嗣 皇太子裕仁親王
皇居 宮城
栄典 大勲位
学歴 学習院中等部中途退学
親署 大正天皇の親署
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大正天皇(たいしょうてんのう、1879年明治12年〉8月31日 - 1926年大正15年〉12月25日)は、日本の第123代天皇(在位: 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年〉12月25日)。嘉仁(よしひと)、御称号明宮(はるのみや)。お印(じゅ)[2]

1879年(明治12年)8月31日誕生。明治天皇の唯一成人した皇男子(三男)である。

今上天皇第126代天皇・徳仁)の曽祖父である。

生誕時より病弱で幾度も大病に罹った。幼年期の個人授業の後、学習院初等科に途中入学するが、発達の遅れから中等科1年で中途退学。8歳で儲君、11歳で皇太子となる。皇太子妃選定における混乱(大正天皇婚約解消事件)を経て九条節子と結婚し、後の昭和天皇をはじめ4人の皇子(皇男子)をもうけた。また、皇太子時代には沖縄県を除く各道府県を巡啓したほか、1907年(明治40年)には史上初の皇太子の海外渡航として大韓帝国を訪問した。1912年(明治45年/大正元年)7月30日、父・明治天皇の崩御に伴い第123代天皇に即位。憲政史上及び大日本帝国憲法下で初めて皇位を継承した。生誕まもなく髄膜炎を患っており、その後健康を取り戻していたが、即位式の翌年頃から健康状態が悪化し、公務のみならず日常生活にも支障を来すようになる[3]1920年(大正9年)以降、病状が公表され世間に知られるところになり、1921年(大正10年)、長男の皇太子裕仁親王が摂政に就任し、療養生活に入った。しかし、その後も体調は回復せず、1926年(大正15年/昭和元年)の暮れの12月25日肺炎に伴う心臓麻痺[4]のため、47歳で崩御。

生涯

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誕生

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1879年(明治12年)8月31日午前8時12分、東京府青山御所の御産所で、明治天皇の第三皇子(皇男子)として誕生。生母は権典侍柳原愛子[5][6]9月6日明宮嘉仁親王(はるのみやよしひとしんのう)と命名される[7]。嘉仁の名は、詩経の「敬爾威儀無不柔嘉(爾の威儀を敬み、柔嘉ならざることなかれ)」(治者の心得として、自らの威儀を正して、柔和で善良でいなさい、といった意)からとられた[8]

出産時に体調が悪かった柳原愛子はヒステリーを起こし、かつ難産となり、嘉仁親王は全身に発疹がある虚弱状態で生まれた[9]。明治天皇の外祖父の中山忠能が皇子御世話に任命され、漢方医の浅田宗伯、今村了庵、岡桐蔭が治療にあたった[10]。しかし9月から11月にかけて断続的な嘔吐や痙攣(けいれん)などに襲われ、かなり危険な状態に陥った[11]

少年時代

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1892年(明治25年)、13歳当時の皇太子・嘉仁親王
合田清銅版画 「大正天皇」1900年

伝統に従い里子として12月に中山忠能邸に移る。しかし、忠能とその妻・愛子は嘉仁親王の養育に全く役に立たず、実の祖母であり、当時中山邸に住んでいた中山慶子を中心に親王の養育が行われた。慶子は「第二の御奉公」として親王の世話に没頭したが、親王の健康はなかなか良くならなかった。主治医となった浅田宗伯と慶子が相談し、強い漢方薬を頭に貼る荒療治を行った結果、体調が改善し、3歳になりようやく歩けるようになった[12]

1883年(明治16年)から勘解由小路資生を宮内省御用掛として『幼学綱要』などの講読や習字を開始する[13]。1885年(明治18年)3月、中山邸から青山御所赤坂仮皇居内の新御殿に移った[14]。小学校入学の年齢になっても病気がちのため、青山御所内に御学問所を作り個人授業を行うこととなり、湯本武比古が傅育官(教育係)に任命された[15]。しかし規則に縛られることを嫌う性格から、授業の内容が気に入らないと授業そのものを投げ出してしまうことがあった[16]

1887年(明治20年)8月31日、満8歳になったのを機に儲君かつ、美子皇后の実子と定められる[17]。同年9月から学習院予備科(のちの初等科)に通い始めた[18][注釈 1]が、1888年(明治21年)は病気がちで、4月から百日咳にかかり学校を3か月休み留年した。この頃の学業成績は、修身読書作文・実物(理科)・習字・遊戯(体育)が概ね良好だった一方、唱歌は平均的で、数学は良くなかった[20]

皇太子時代

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1890年、皇太子嘉仁親王、飛鳥山公園

1889年(明治22年)2月、青山御所から赤坂離宮内の東宮御所(「花御殿」と呼ばれた)に移る。同年11月3日に立太子礼が行われ皇太子になるとともに、陸軍歩兵少尉に任官[21]大勲位菊花大綬章を与えられた[22]。立太子後、皇太子の教育体制は軍事色が強まり、1891年(明治24年)には東宮武官長が設置され奥保鞏陸軍少将が就任し、奥は翌年1月に東宮大夫も兼務。身の回りの世話から女官が排除されたが、軍人に囲まれる生活で皇太子は次第に精神的・肉体的に不安定となっていった[23]

1891年11月、軍事教育が遅れていることから中尉への昇進が翌年11月へ延期となる。なおその後は規定年限に沿って昇進した[24]1893年(明治26年)学習院初等科を卒業し、中等科へ進学[24]。しかし1894年(明治27年)8月、病弱で勉学が遅れている皇太子をそのまま進学させると劣等感が強まり、君主にふさわしい性格を育成できなくなると判断され[24]、中等科1年修了をもって学習院を退学した[注釈 2][25]

明治20年代後半から皇太子の静養を目的に各地に御用邸(沼津御用邸(1893年築)、葉山御用邸(1894年築)、日光田母沢御用邸(1899年築)、塩原御用邸(1904年築))が建てられ、以後、これらの御用邸に長期滞在するようになる[26][27]

1895年5月には、風邪腸チフスに罹り、さらに軽い肺結核で重体になり、11月まで寝込む[28]。この頃、柳原愛子を乳母だと思っていた皇太子は彼女に厳しくあたり、実母であると明かされても、なかなか信じようとはしなかった[29]

皇太子の勉強の遅れを取り返すため、1895年以降、国学(和歌作文歴史地理)を担当する本居豊穎、漢学(漢詩・漢文)を担当する三島中洲が東宮職御用掛、次いで東宮侍講となった[30]。このほかフランス人フランソワ・サラザン、三田守真がフランス語を講義した[31]。ほぼ休みなく詰め込み教育が行われたが、それが皇太子の健康を悪化させるという悪循環が繰り返された[32]

1898年(明治31年)、第3次内閣を組閣した伊藤博文は、皇太子に関し、健康増進を最優先としながらも政治や軍事などの見識を持たせるため、適当な人物を監督役や側近とするよう明治天皇に進言した。これを受け大山巌が東宮職監督に、明治天皇の信任が厚かった有栖川宮威仁親王が東宮賓友に任じられた[33][34]。さらに翌1899年(明治32年)5月、威仁親王は東宮輔導となり皇太子養育の全権を与えられると、それまでの詰め込み教育を改め健康第一へと転換させた[35]

結婚

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東京国立博物館表慶館

皇太子妃選びには明治天皇の側近であり、昌子内親王房子内親王の養育主任であった[36]佐佐木高行が大きくかかわっていた。 1891年頃から皇太子妃選びが始まり、妃候補となる皇族公爵の娘が昌子内親王、房子内親王の遊び相手として赤坂離宮に招かれた[注釈 3][38]。明治天皇は皇太子妃をできれば皇族から選びたいと考えていた[39]

まもなく、伏見宮家の禎子女王が有力候補となり[40]、1893年春、佐佐木は禎子女王が皇太子妃に相応しいと土方久元宮内大臣に伝え、華族女学校学監の下田歌子も推薦。これを受け、明治天皇は同年5月に禎子女王を皇太子妃に内定した[41]

しかし1898年(明治31年)になると、天皇の侍医である橋本綱常池田謙斎が「禎子女王に肺病の疑いがある」と発言し出し、岡玄卿侍医局長も結婚中止を具申[42]。これを受けて、1899年(明治32年)1月から2月に宮中首脳が協議を行い「皇統継続」を考えれば禎子女王を皇太子妃にすることは問題であると結論付け[43]、3月22日に婚約内定が取り消された(大正天皇婚約解消事件[44]。その後、他の妃候補の検討が進められたが、体が丈夫で性格も悪くないという理由で消去法により旧摂関家出身の九条節子が妃候補に浮上[45]。1899年8月、九条節子が皇太子妃に内定した[46]

1900年(明治33年)2月11日に皇太子嘉仁親王と九条節子の婚約が正式決定し発表された[47]が、皇太子の健康に不安を持つ声があったため、この時点では婚礼の日程は未定であった。しかし3月に侍医や伊藤博文らによる会議で、皇太子が結婚前に他の女性に手を付けられないようにし[注釈 4]、これ以上婚礼を延ばすことができないとして、婚礼を5月とすることが内定した。そして4月27日になって5月10日に婚礼を行うことが発表された[48]

挙式は皇居賢所で神式により行われた[49][注釈 5]。皇居から青山御所への帰路は大勢の市民で埋め尽くされ、皇太子夫妻が乗った馬車の列が皇居正門で十数分間停止を余儀なくされる有様だった[51]。結婚を祝して各地から多くの品々が献納され、その中には、東京市内の政治家・財界人を発起人とした東宮殿下慶事奉祝会による募金で建設された「東京国立博物館表慶館」やサンフランシスコの日本人移民から贈られたアメリカ製の電気自動車もあった[52]

皇太子夫妻は5月23日から6月7日にかけ、三重県、奈良県、京都府の各府県を巡啓し、伊勢神宮神武天皇陵、泉涌寺などを結婚報告のため参拝した。この間、皇太子は嵐山桂離宮京都帝国大学などを訪問し、京都帝大附属病院では患者に直接語り掛けている[53][54]

国内各地を行啓

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1904年(明治37年)、迪宮と淳宮を可愛がる皇太子嘉仁親王。左端は侍従

東宮補導の有栖川宮威仁親王は、皇太子の健康な身体や精神を育成するため、名目上は授業で学んだ地理歴史を実際に見学するため、長期的な地方行啓を発案した[55]

第一回目は1900年10月から12月にかけて行われ、福岡佐賀長崎熊本各県と下関を行啓した。その後、岡山愛媛香川県を訪問する予定であったが、皇太子は途中滞在した兵庫県舞子で体調を崩し、静養の後に帰京した[56]。続いて1902年5月から6月に、東北地方の見学として、群馬長野新潟茨城各県を行啓。当初はさらに東北6県と栃木県も訪れる予定であったが、皇太子が体調を崩したため中止となった[57]

威仁親王の目論見通り、これらの地方巡啓により皇太子の健康が回復し、学習の効率も上がった。しかし皇太子の自由に任せた結果、生来の気まぐれな性格が助長され[注釈 6]、また有栖川宮への依存心が高まる結果となった。そこで威仁親王は自分の役割は終わったとして、1903年(明治36年)2月、明治天皇に東宮輔導廃止を進言した。明治天皇は即答を避けたが、威仁親王の体調が悪化したこともあり、同年6月に東宮輔導を免じられた[59]。その後も地方巡啓は続けられ、1903年10月には、和歌山・香川・愛媛・広島・岡山各県を訪問した[60]。なお、これらの巡啓時に皇太子と皇太子一家の写真を下賜したり、地元新聞社が写真を発売したことはこれまでなかったことであり、皇室を国民に身近な存在とすることに大きな効果があった[61]

日露戦争時には皇太子は大本営付の大佐であったが、1904年(明治37年)11月頃、児玉源太郎参謀次長を中心に皇太子を大総督とする陸軍大総督府を大陸に設ける案が立てられた。皇太子も大陸への出征に積極的であったが、皇太子が出征することはかつての日本で始めてのことであり、なれない現場の指揮が混乱するとの桂太郎首相や寺内正毅陸軍大臣の反対を受けて実現せずに終わった[62]

韓国訪問

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1907年(明治40年)、訪韓時の皇太子・嘉仁親王一行。前列右より 韓国皇太子・英親王(李垠)、皇太子・嘉仁親王、韓国皇帝・純宗、有栖川宮威仁親王
『遠州洋上作』
夜駕艨艟過遠州
満天明月思悠悠
何時能遂平生志
一躍雄飛五大洲[63]

皇太子は少なくとも1899年(明治32年)には外遊を希望しており、同年作の『夢遊欧州』と題する漢詩でロンドンベルリンを訪問する夢を謳ったり、『遠州洋上作』では「一躍雄飛五大洲」と書いていた。また『世界一周唱歌』が愛唱歌であった。しかし、皇太子の洋行は日本の歴史上かつてなかったことであり、明治天皇は西洋一辺倒になる懸念があるとして皇太子の洋行を認めない姿勢にあった[64]

1907年(明治40年)9月、伊藤博文韓国統監は、純宗の即位を機に日韓親善を名目として、英親王李垠が日本に留学し、代わりに皇太子が大韓帝国を訪問することを提言。明治天皇は韓国の治安が義兵運動で悪化していたことから難色を示したものの、伊藤が説得して韓国訪問が決定した[65]

皇太子には威仁親王のほか、東郷平八郎桂太郎前首相、花房義質宮内次官らが随行。10月10日に東京を鉄道で出発し、宇品港から戦艦香取に乗船、10月16日に仁川に上陸して、純宗や李垠の出迎えを受けた。10月17日から19日まで漢城に滞在し、韓国駐箚軍司令部、倭城台公園(現・南山公園)、昌徳宮景福宮などを巡ったほか、統監官邸で高宗と面会した。10月20日に漢城を出発、鎮海の視察を経て帰国[66]。このとき皇太子は李垠を気に入り、日本に留学した後に朝鮮語の学習に熱意を見せるようになった。この朝鮮語学習は天皇即位後も続き、侍従に時々朝鮮語を話していた[67]

1908年9月から10月にかけては東北6県を行啓した[68]。その後、まだ行啓していない地域からの請願を受けて、1909年9月から10月に岐阜および北陸3県[69][70]、1911年8月から9月に北海道[71]、1912年に山梨県を訪れ、これで沖縄県を除く全国を訪問したことになった[72]

1909年(明治42年)11月、陸海軍中将に昇進するとともに参謀本部付となり、1910年(明治43年)5月からは週2回参謀本部に出勤した。また、御用掛の福島安正松石安治から戦略・戦術を学んだが、教えられたことを何も理解していないと東宮武官に嘆かれている[73]

天皇即位

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大正天皇の肖像、1912年
即位礼当日の京都御所
大正4年の石版画「御大礼記念 二条城内豊楽殿大饗宴之御盛儀」(尚美堂・田中良三)

1912年7月29日夜、明治天皇が崩御[注釈 7]。皇太子は7月30日午前1時に践祚、大正(たいしょう)と改元した[75]。8月1日に朝見式が行われたが、出席した財部彪海軍次官によれば、大正天皇は勅語朗読中に言葉に詰まり、これを見て情けないと涙を流す侍従(米田虎雄)もいたという[76]

11月には貞明皇后とともに伏見桃山陵を参拝。京都へ向かうお召し列車の中で大正天皇は原敬内務大臣を呼び雑談をするが、知識が豊富な原は、以後も行幸や大演習の際に話相手として再三呼ばれることになる[77]

即位礼大嘗祭は当初、1914年(大正3年)11月に行う予定であったが、同年4月に昭憲皇太后が崩御したため1年延期された。1915年(大正4年)11月10日に京都御所で即位礼紫宸殿の儀、11月14日から15日にかけて大嘗祭、11月16日と17日に二条離宮で各国の王族や要人をはじめ、皇族、文武高官、有爵位者に加え、外国大使夫妻なども招かれ大規模であり二日間に渡って一日目は伝統的な日本様式と二日目は和洋折衷をモチーフにしたフランス様式と異なる構成を催した大饗の儀(大正大饗)が盛大に行われた[78][79][80][81][注釈 8]。大正天皇自身は即位礼の準備委員長である原敬に、儀式の簡素化や日程短縮の希望を伝えていたがほとんど無視され[84]貴族院書記官長柳田國男が莫大な労力と経費をかけて前代未聞であると評した儀礼が行われた[85]

大正天皇の即位により天長節は8月31日となった[86]が、夏季の8月は行事を行うには猛暑であるため、1913年(大正2年)に10月31日が「天長節祝日」に定められ、以後、祝賀行事は10月31日に行われるようになった[87][88]

政治能力の不安

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大正天皇の政治力は即位前から不安視されていた。明治天皇崩御直前の1912年(明治45年)7月26日に、徳大寺実則内大臣兼侍従長と渡辺千秋宮内大臣が美子皇后に面会し、大正天皇を皇后と伏見宮貞愛親王で補佐することを依頼[89]。しかし、皇后は「『女性が政治に関わるべきではない』という明治天皇の意思を守りたい」として断った[90]。また崩御直後には、西園寺公望首相が元老山縣有朋と共に謁見し、西園寺が大正天皇へ政事についての苦言を呈し、天皇が「十分に気を付ける」と返答するやり取りがあった[91]

しかし1912年(大正元年)11月、大正天皇は桂太郎内大臣に突然元帥任命を打診する。終身現役の元帥になれば政党の党首になることはできず、新党を組織して首相に復帰する野心を有していた桂は拒絶した。桂は第3次桂内閣を組閣すると、留任を辞退しようとしていた斎藤実海軍大臣に留任を命ずる勅語や、帝国議会の停会を命ずる勅語などを出させて政局を乗り切ろうとした[92]。しかしこの行動は野党・立憲政友会や民衆の反発を引き起こし、第一次憲政擁護運動、そして桂内閣の倒閣につながっていった[93]

1913年(大正2年)5月、風邪をこじらせ体温39度を超える肺炎となる[94]。肺炎は同月末に治癒するが、9月まで葉山や日光で静養した[87]。また、この間の6月に青山御所から、近代的な改修[注釈 9]が完了した皇居奥宮殿に転居した[95]

1914年(大正3年)3月、シーメンス事件により第1次山本内閣が総辞職した際には、大正天皇は後継総理の選定を元老に委ねたにもかかわらず、昭憲皇太后危篤の報を受けて沼津御用邸へ向かう車中で山本権兵衛に留任を求める不用意な発言を行う。しかし、以前から大正天皇の政治能力に疑問を持っていた山本[注釈 10]はこれに取り合わず山縣有朋を推薦。天皇は直ちに山縣を呼び組閣を命じたが、山縣にも断られ、かつ諫言を受ける有様であった[97][98]。また、同年には波多野敬直宮内大臣が元老井上馨に「(大正天皇が元老に対して)何を諮問すべきか否かの事の軽重や、職務権限を理解していない」と告げている[99]

1915年(大正4年)、第2次大隈内閣大浦兼武内務大臣の汚職事件が発覚すると、7月に大隈重信首相は「事件の責任を取る」として全閣僚の辞表を天皇に提出した。大隈を信頼していた大正天皇は辞表をその場で却下しようとしたが大隈の要請で留保され、元老に対応を協議した。山縣有朋は大隈留任の方針であったが、軽率な判断をしないよう天皇に諫言している[100]。大隈は翌1916年(大正5年)6月に内閣総辞職の意を奏上し、後継に加藤高明寺内正毅を推薦し、かつての隈板内閣のような内閣を作ろうとした[101]。大正天皇は山縣有朋ら元老に後任選考を委ねたが、大隈は辞意を取り消す内奏を行い、天皇もこれを受け入れてしまう。面子を潰された山縣は、今度も天皇に軽率な判断をせず元老に任せ、筋を通すよう諫言した。その後、大隈は「後任に加藤高明を推薦する」とした辞表を提出し、元老に諮問しないよう働きかけたが、大正天皇は元老会議の推薦に基づき寺内を後継首相に任命した[102]。12月には山縣が枢密院議長辞任の意を内奏した。これは以前に何度も行われた形式的なものであり、却下されることを前提とした山縣の政治的パフォーマンスであった。しかし大正天皇は辞任を認めただけでなく、いつ辞表を出すのか尋ね、その後も山縣に辞表提出を問うていた。このため大正6年(1917年)4月14日には山縣が実際に枢密院議長の辞表を提出する事態となり、5月2日に寺内首相の取りなしで留任の勅語が下ったことで、ようやく事態は収拾された[103]

1918年米騒動(大正7年)の際には日光田母沢御用邸で避暑中であったが、皇室財産から政府を通じて各府県に300万円(現在の60億円相当)を下賜した。ただし、天皇が金銭だけ支出して避暑を続けることに世間の批判があったことから、政府の要請を受けて急いで東京へ帰っている[104]

皇太子裕仁親王の摂政就任

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皇太子時代の裕仁親王
大阪での陸軍特別大演習に向かう大正天皇(1919年秋撮影)

大正天皇は1918年(大正7年)末に風邪を引き、帝国議会開会式を欠席。翌1919年(大正8年)正月の儀式はほぼ予定通り行われたが、風邪が長引き1月末から3月まで葉山で静養する[105]。同年10月の海軍特別大演習では勅語を軍令部長が代読した[106]。そして11月に兵庫県・大阪府で行われた陸軍特別大演習への参加が最後の東京の外への公式行幸となった[107]。12月の帝国議会開会式は、勅語朗読の練習をおこなったものの、うまくいかなかったため、前日になって出席が中止された[108]

1920年(大正9年)3月30日、大正天皇の「体調悪化」が初めて宮内省から公表された。ただし、神経痛などとして言語障害や身体の傾斜といった真の病状は公表されなかった[109]。大正天皇本人は自身の病状を認識しておらず、「普通である」と考えていた[110]。その後は必要最低限の面会以外は静養に専念し、行事への臨席などは皇太子裕仁親王や貞明皇后が代行することになる[111]。同年6月に松方正義内大臣が摂政設置を原敬首相に提起したが、原は「誰もが納得する病状でなければ摂政設置は困難であり、しばらく様子を見たほうが良い」と判断した[112]

1920年(大正9年)から1921年(大正10年)2月にかけ皇太子妃の内定取り消しをめぐる宮中某重大事件が発生するも無事解決したのを受けて、1921年3月、皇太子裕仁親王は懸案だった欧州訪問に出発した[113]。この頃の大正天皇は、同年7月に塩原御用邸へ静養に行った際には、侍従に抱えられてやっと歩き、風呂や階段を怖がったり、突然暴れだしたりした。また前年の出来事や身近な人物を忘れるなど記憶喪失状態に陥るなどの状態であった[114]

1921年(大正10年)9月に皇太子が欧州から帰国すると、摂政設置に向けた最終段階に入る。10月4日には大正天皇の病状が深刻であり、事実上公務を行うことができなくなっている旨の発表がなされ、牧野伸顕宮内大臣により皇族への根回しが行われた[115]。11月4日に原首相が暗殺されたが、11月22日には松方内大臣と牧野宮内大臣が大正天皇に拝謁し、摂政設置について報告と了解を求めようとした。しかし大正天皇は意思疎通できない状態であった。そして11月25日に皇室会議と枢密院で摂政設置が決議され、正式に皇太子裕仁親王が摂政に就任した[116][117][注釈 11][注釈 12]。同日、大正天皇は摂政が執務に使用する印判を引き渡すのを一度は抵抗し、また、12月には侍従に対し「己れは別に身体が悪くないだろう」と何度も話しかけたりしていた[121]。同日付の東京朝日新聞夕刊に、以下の宮内省発表「聖上陛下御容体書」が掲載された。

 「天皇陛下に於かせられては禀賦御孱弱に渉らせられ、御降誕後三週日を出てさるに脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御幼年時代に重症の百日咳、続いて腸チフス胸膜炎等の御大患を御経過あらせられ、其の為め御心身の発達に於いて幾分後れさせらるゝ所ありしが、御践祚以来内外の政務御多端に渉らせられ、日夜御宸襟を悩ませられ給ひし為め、近年に至り遂に御脳力御衰退の徴候を拝するに至れり。目下御身体の御模様に於ては引続き御変りあらせられず、御体量の如きも従前と大差あらせられざるも、御記銘、御判断、御思考等の諸脳力漸次衰へさせられ、御思慮の環境も随て陝隘とならせらる。殊に御記憶力に至りては御衰退の兆最も著しく、之に加ふるに御発語の御障碍あらせらるる為め、御意志の御表現甚御困難に拝し奉るは洵に恐懼に堪へざる所なり」

病状の悪化

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その後の大正天皇は、夏は主に日光、他の季節は沼津や葉山に長期滞在し療養に専念した。日課として散歩を行ったり、具合のいい日は侍従や女官たちとビリヤードや雑談をして過ごしたが、病状の悪化は続いた[122][注釈 13]

1924年(大正13年)1月26日の裕仁親王の婚礼の饗宴に出御せず[124]1925年(大正14年)5月10日に行われた銀婚式も、大正天皇は非公式な祝賀を受けただけで[125]、午餐会に臨御することができなかった[126]。12月19日には脳貧血を起こしトイレで倒れ、その後は発熱が続く[127]

1926年(大正15年)年初からは風邪を引き、5月に完治したものの再び脳貧血を起こし[128]、ほぼ歩行が不可能になった[125]。8月に車椅子に座ったままの状態で、原宿駅の皇室専用ホーム[注釈 14]から列車に乗り、葉山御用邸へ移住した[129]

葉山転地後は小康状態となったが、10月末から38度を超える高熱が続き、裕仁親王が九州への行啓を取りやめ葉山へ見舞いに行った。11月19日からは宮内省が数日おきに詳しい病状を発表するようになり、国民による平穏祈願が全国に広まっていった[130]。12月1日には生母の柳原愛子が東京都白山大乗寺で行われた「聖上御脳御平癒の祈祷」に参加している[131]。12月8日に呼吸困難に陥り、急遽取り寄せられた酸素吸入器が使われ、新聞号外が出された。この日以降、葉山には皇族や柳原愛子、政府高官の見舞が相次ぐ[132]。12月14日には体温が39度に達し、食事がゴム管による流動食に切り替えられた[133]。12月16日、呼吸が浅くなり不整脈が出始める。

崩御

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1927年(昭和2年)、大正天皇の大喪

天皇危篤との報が東京に届くと、若槻礼次郎総理大臣以下全閣僚から枢密顧問官、元老、重臣まで揃って葉山へ駆けつけ、現地は駆逐艦3隻も出動するなど厳重警戒体制がとられた[134]。全国で歳末行事の自粛や平穏祈願が行われ[135]ラジオは12月16日以降、娯楽放送を中止し、宮内省からの発表があれば随時病状を報道[136]。12月14日から崩御までの宮内省発表は61回行われ、ラジオでの放送は計433回に達した[137]

これを受けてラジオの加入申込者数が急増し、翌年2月の大喪までに36万件に達した[135]。また、新聞社も葉山に記者数十人を送り込んで報道体制をとった[136]

病状は一時小康状態となったが、12月24日午後から肺炎が悪化し、午後7時に危篤となった。そして、翌日の1926年(大正15年)12月25日午前1時25分、皇后や皇太子夫妻、皇族、柳原愛子が見守る中、心臓麻痺により崩御[138][139]。宮内庁からは天皇崩御後の午前1時45分に危篤になったこと、午前2時40分に崩御が発表された[140]。宝算47。

これに伴いただちに、摂政であった長男の皇太子裕仁親王が皇位継承し(昭和天皇)、第124代天皇に践祚(即位)した。このとき、貞明皇后の発願で、大正天皇の供養のため「南無妙法蓮華経」の題目を模写した紙が多数制作されている[141]

葬儀

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明治宮殿御車寄前で轜車(じしゃ)が発引される様子
当時の多摩陵
多摩陵

1927年(昭和2年)1月29日に「大正天皇(たいしょうてんのう)」と追号され[142]、大喪が2月7日から8日にかけて新宿御苑を中心に行われた[143]。皇居から新宿御苑の式場までの葬列は計6千人、全長6キロメートルという壮大なもの[144]で、沿道には150万乃至300万人の市民が集まったといわれ、葬列はラジオで実況放送された[145][注釈 15]。葬場殿の儀(葬儀)は午後9時から午後11時まで行われ、内外の高官約7千人が参列した[147]。その後、中央本線の千駄ヶ谷駅の隣に臨時で設置された新宿御苑駅から霊柩列車に移され、昭和天皇名代の秩父宮雍仁親王らを乗せ出発[148]。同じく臨時駅の東浅川仮駅[注釈 16]まで運ばれ、東京府南多摩郡横山村(現在の東京都八王子市長房町)の御料地に築かれた多摩陵に葬られた[150][151][注釈 17]

新宿御苑の葬場殿と多摩陵は一般公開されたが好評で、葬場殿は2月9日から3月7日まで、多摩陵は2月13日から4月4日まで公開期間が延長された。葬場殿の参拝者はのべ250万人、多摩陵の参拝者はのべ89万8千人にのぼった。多摩陵には売店や料亭まで建ち、省線京王電気軌道では臨時列車を走らせた。さらに京王電気軌道は御陵前駅に至る御陵線を建設したが、開業した1931年(昭和6年)には参拝ブームは下火となっており、まもなく閑散となった[153]

現在、毎年12月25日に宮中で大正天皇例祭が行われている[154]

死後の評価と「遠眼鏡事件」

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1917年(大正6年)、帝国議会の開院式に向かう大正天皇

国内外の死亡記事では、大正年間に日本の国際的地位が高まったこと、政治制度や文化など近代化の一層の進展が大正天皇の功績として挙げられていた。やがてその評価は、追悼本として知られる限り唯一市販された『大正天皇御治世史』や、若槻礼次郎首相の弔辞で用いられた「守成の君主」に落ち着いた[155]。とは言え明治天皇とは異なり、大正天皇を偲び記念する運動はほとんどなく、誕生日は祝日とならず、大正神宮も造られなかった[156]

そして社会に広く定着したのは、「大正天皇が帝国議会の開院式で勅書をくるくると丸め、遠眼鏡にして議員席を見渡した」とされる[157]遠眼鏡事件」に代表されるような「大正天皇精神病者説」であり、その風説は少なくとも昭和初期には一般大衆の間で広まっていた[158]1944年(昭和19年)に遠眼鏡事件の噂を語った男が不敬罪で捕まっている[159]ほか、1921年に小学2年生であった丸山眞男は、当時、「大正天皇が脳を患っており、勅書を丸めて覗いた」という噂が流れていたことを1989年(平成元年)のエッセイで回想している[160]

遠眼鏡事件が公然と語り出されるのは戦後であり、近代天皇制の呪縛から解放された後の昭和30年代に集中している[161]。一つは「文藝春秋1959年(昭和34年)2月号掲載の無署名[注釈 18]記事「悲劇の天皇・大正天皇」で、黒田長敬侍従の、1920年頃に大正天皇が勅書朗読後にうまく巻けたか透かして見た、という証言を載せた[163]。また、元女官の山川三千子[注釈 19]は、1960年(昭和35年)の著書『女官』に、大正天皇が初めて帝国議会開会式に臨んだ1912年に遠眼鏡として覗いた光景を、姑の弟である山川健次郎が目撃した話をしていたと記している[165][166]

この遠眼鏡事件については諸説あり、歴史学者古川隆久は、決定的な史料はなく真相は不明であるが、大正天皇は精神疾患ではないので風説はいわれのない中傷であると主張している[167]。そのほか、大正天皇・貞明皇后に仕えた元女官の坂東登女子[注釈 20]は、あるとき勅書が本来とは逆向きに巻いてあったため、その次の折に巻き方が間違っていないか遠眼鏡のように覗き込んで確認した、という話を大正天皇から直接聞いたと語っている[169]

皇子

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妻の貞明皇后との間に4人の皇男子をもうけた。現行の皇室典範が施行された後の1947年(昭和22年)10月14日GHQの指令によって伏見宮系の皇族と宮家皇籍離脱した際、昭和天皇とその弟宮の三男子及び各妃とその子女・子孫が皇室に留まった。大正天皇・貞明皇后夫妻は、2022年令和4年)1月時点における皇室典範の定めるところによる皇室構成員の中で生まれながらの皇族である者(徳仁明仁・全ての親王内親王女王最近共通祖先となっている。

貞明皇后は次男の淳宮雍仁親王出産後の1903年(明治36年)夏に流産している[170]

御称号および身位 読み 生年月日 没年月日 続柄 備考
迪宮裕仁親王 みちのみや ひろひと 1901年(明治34年)
4月29日
1989年(昭和64年)
1月7日(満87歳没)
第一皇男子
(第1子)
良子女王久邇宮家)と結婚(→香淳皇后)。
摂政1921年(大正10年)11月25日
1926年(大正15年)12月25日
昭和天皇(第124代天皇)
子女:2男5女(7人)
淳宮雍仁親王 あつのみや やすひと 1902年(明治35年)
6月25日
1953年(昭和28年)
1月4日(満50歳没)
第二皇男子
(第2子)
松平節子と結婚(→雍仁親王妃勢津子)。
雍仁親王(宮号:秩父宮
子女:無し。
光宮宣仁親王 てるのみや のぶひと 1905年(明治38年)
1月3日
1987年(昭和62年)
2月3日(満82歳没)
第三皇男子
(第3子)
徳川喜久子と結婚(→宣仁親王妃喜久子)。
宣仁親王(宮号:高松宮
断絶した有栖川宮家の祭祀を継承。
子女:無し。
澄宮崇仁親王 すみのみや たかひと 1915年(大正4年)
12月2日
2016年(平成28年)
10月27日(満100歳没)
第四皇男子
(第4子)
高木百合子と結婚(→崇仁親王妃百合子)。
崇仁親王(宮号:三笠宮
子女:3男2女(5人)
1921年(大正10年)撮影、4人の皇子。
左から皇太子裕仁親王(長男)、崇仁親王(四男)、宣仁親王(三男)、雍仁親王(次男)。

人物像

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皇太子時代に富士山麓の愛鷹山御狩場で狩猟中に一人はぐれた際、通りかかった青年に道を尋ね、そして立ち寄った家でお茶漬けを勧められたり[171]、陸軍の演習に参加した際に、突然旧友宅を訪問したり[172]、当時上品な場所でないと見られていた[注釈 21]蕎麦屋に入る[173]など、気軽で奔放な性格であった[注釈 22]梨本伊都子は著書『三代の天皇と私』で「明治天皇と違って大正天皇は大変親しみやすいお気軽なお方でした」と評している[175][176]

趣味は当時としては極端な洋風で、和服より洋服、日本酒よりワインを好んだ[177]。娯楽は側近たちとビリヤードや将棋を楽しんだほか、皇太子時代には運動のため自転車に乗り、三菱財閥から献上されたヨット初加勢」でクルージングを楽しんでいた[178]

乗馬も嗜み、行幸時に話し相手となった原敬が大正天皇の馬の鑑識眼に驚いている[179]ほか、名和長憲らの指導を受けた乗馬の腕は優れたものがあった[180]

また愛煙家で、自分が吸うたばこの香りや辛さについて注文を付け、東宮太夫がたばこの本数を減らすよう進言すると、通常より長い約11.5センチメートルの特製紙巻たばこを生産させている[181]。また、梨本宮が参内した際に自分の煙草入れから葉巻を鷲掴みにして「持って行け」と渡したり[181][注釈 23]、九州行啓時に鉄道に同乗した福岡県知事に「汝は煙草を好むや」と言ってたばこを差し出し、知事が驚いたエピソードがある[182]

皇太子時代は非常に早足で、行啓等では侍従や先導する知事が付いていけなくなることもあった[183][184]

詩人として

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大中寺観梅の石碑
大中寺観梅の石碑
『西瓜』
濯得清泉翠有光
剖来紅雪正吹香
甘漿滴滴如繁露
一嚼使人神骨涼[185]

三島中洲の指導を受け漢詩を始めた大正天皇は和歌より漢詩を好み、昭陽の雅号を名乗った[186]。1896年(明治29年)から1917年(大正6年)の22年間に1367首の漢詩を創作し、その数は歴代天皇の中で突出している[注釈 24]。そして、全作品が宮内庁書陵部所蔵の『大正天皇御集』に収録されており[187]、うち251首は一部添削を経て、1948年(昭和23年)に『大正天皇御製詩集』として公刊された[188]

漢詩のうち1129首が最も創作しやすい七言絶句で、作風は平易であるというのが一般的評価である[189]。巡啓先の光景や日々の生活のほか八甲田雪中行軍遭難事件といった出来事などを詩に詠んでいる[190]が、古田島洋介は「確実に文学的価値があるのは、1914年(大正3年)作の『西瓜』のみ」としており、古川隆久は「大正天皇は素人詩人の部類に入る」とみている[189]石川忠久は「大正天皇の詩は未完成で、せっかくの才能が十分に磨かれずに終わった」と評している[191]

漢詩の詩碑は2か所に建てられており、一つは富山県富山市呉羽山山頂にある「登呉羽山」の碑、もう一つは静岡県沼津市大中寺にある「大中寺観梅」の碑である[192]

一方、和歌は生涯で少なくとも465首を詠んだとされるが、(父親)明治天皇の約9万首、(長男)昭和天皇の約1万首に比べると極めて少ない。しかし、古川隆久は「心の鋭敏さの点では明治・大正・昭和三代の中で一番鋭い感じがする」と評価している[193]

人間関係

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明治天皇(父)

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明治天皇は幼少時の嘉仁親王の習字の清書を見たがったり、読書の進度を気にしたり、柳原愛子を通じて指示をするなど教育に干渉したが、教育掛の湯本武比古に拒絶され、以降は口出しを止めた[194]。皇太子になってからも明治天皇の心配は変わらず、年数回、皇太子の側近に日誌を提出させ、健康状態や生活、勉強の状況などをチェックしていた。しかし皇太子にとってはこれが重荷となり、皇居に参内してもなかなか天皇に会わず、会っても会話が弾まなかった[195]。これは明治天皇のしっかり教育したいという意志に基づいて行っていたと考えられている。また、大正天皇は皇子に制約を課したりはあまりしなかったが明治天皇はこれをよく思わなかったという逸話もある。

さらに、明治天皇は皇太子が「洋風」を好み基礎学問が不十分ながらフランス語を非常に好むことに頭を悩ませたほか[196]、その軽率な言動を不快に思っており、1898年(明治31年)に皇太子が東宮職員の不出来を挙げ「全員更迭せよ」と周囲に発言した際には、侍従職幹事の岩倉具定を通じて叱責している[197]

貞明皇后(妻)

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夫妻で側近とともにダンスを楽しんだり、漢詩を62首創作するなど、貞明皇后は大正天皇の趣味に合わせようとしていた[198]。しかし夫婦仲は必ずしも良好だったわけではなかった。大正天皇は新婚早々に、同じく日光で避暑中の鍋島伊都子[注釈 25]を頻繁に訪問しては、飼い犬を預けるなどの行動をとった際には、怒った節子妃が一時帰京[注釈 26]したこともあった[198][201]。そして、伊都子には梨本宮との結婚後も会いに行っており、東宮侍従長の木戸孝正に嘆かれている[202]

公式に側室制度(一夫多妻制)は廃止されていなかったが、大正天皇は側室を持たなかった[203][注釈 27]。しかし他の女性への興味を隠そうとはせず、戯れて女官を追い回しては手を掴んで離さなかったり、女官に肖像写真を求めたりした[205]。また、女官に手を付けていたとの噂が世間に広まっており、徳富蘆花がその日記に遺している[206]

4人の息子たち

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貞明皇后との間には以下の4人の皇子をもうけた(#詳細)。迪宮裕仁親王(昭和天皇)、淳宮雍仁親王 (秩父宮)、光宮宣仁親王(高松宮)、澄宮崇仁親王(三笠宮)である[207]

伝統に従い、裕仁親王と雍仁親王は誕生してすぐ、川村純義邸に預けられたが、川村が1903年に死亡すると、裕仁親王と雍仁親王は仮東宮御所に隣接する皇孫仮御殿に移った。その後は、皇太子が突然皇孫仮御殿に立ち寄って鬼ごっこに加わったり、少なくとも週一回は家族団欒の時を過ごすなど、子煩悩な父親ぶりを示した[208]。家族団欒の場では、皇后が弾くピアノに合わせて子供たちと軍歌や唱歌を歌ったりした[209]

昭和天皇は大正天皇生誕100年を翌年に控えた、1978年(昭和53年)12月4日の記者会見で、自身の父親である大正天皇について、「幼いころ一緒に将棋を指したり歌を歌った思い出があること」と、「『詩文を良くし記憶力が良かった』と母から聞いた」とし、「本当に天皇として立派な方であった」と語っている[210]

政治家

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大隈重信

大隈重信は、堅苦しい話だけでなく世間話など面白い話をすることから大正天皇に好かれていた[211]。皇太子時代の1898年(明治31年)、第1次大隈内閣退陣後に早稲田の大隈邸に招かれ、狂言などの歓待を受ける。皇太子が在野の人物の私邸を複数回訪問するのは異例であったが、1912年(明治45年/大正元年)にも、大隈邸と早稲田大学を訪問している[212]。その後大隈は再び首相(第2次大隈内閣)となった後、頻繁に拝謁し長話をしては、天皇が上奏に来た他の大臣を待たせることもあった[211]。そして大隈家には大正天皇の宸翰2通、大隈を詠んだ御製が残されていた[213]

原敬

原敬は、1906年(明治39年)に第1次西園寺内閣の内務大臣に就任し、大正天皇(当時:皇太子)との接点ができて以降、行幸時のお召列車で話し相手として呼び出されるなど信頼を得ていた。そのやりとりは原敬日記に数多く記録されている[214]

山縣有朋

一方で、天皇がひどく嫌っていたのが山縣有朋である。1896年(明治29年)に山縣が沼津御用邸滞在中の皇太子を訪ね、君主のあるべき姿を説いた。このとき、皇太子は「山縣が酒に酔い、暴言を吐いた」と漏らしたが、問題とならず済んだ[215]。山縣は、天皇即位後も大正天皇に、父親の明治天皇を模範にした苦言を呈した[216]。これに対して、大正天皇は山縣が拝謁を求めても直接会わず女官に対応させたりした[211]。そのほか、大正天皇は寺内正毅(初代朝鮮総督)に対し「山縣の人望のなさ」について言及している[217]

「脳病」について

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大正天皇は生後一年以内に、2回脳膜炎らしき病気にかかっている。当時、白粉を使う女性は鉛中毒を患っていたが、その白粉を乳幼児が吸ったり、母乳から摂取すると鉛中毒による脳膜炎を引き起こすことがあった。大正天皇の病気の原因も、乳母が使用した白粉の可能性があると考察されている[218]

1920年3月、東京大学教授の三浦謹之助と侍医頭の池辺棟三郎は、「大正天皇は即位後の多忙により神経過敏となったうえ、2年前から内分泌臓器のいくつかが不調となり、幼児期の脳膜炎の影響から心身の緊張を要する儀式の際に体が傾くなど平衡を失うようになったため、政務を見る以外には儀式に出ず静養することが必要である」、との診断書を出している。しかし原因確定は不可能であった[219]

近年、神経心理学者の杉下守弘は、当時の文献の分析を行い、大正天皇の病気は前頭葉側頭葉頭頂葉の少なくとも一つに脳萎縮が起こり、失語症、さらに記憶・判断・思考なども障害され日常生活が送れなくなり認知症になる「原発性進行性失語症[220]、もしくは大脳半球皮質および皮質下神経核などが萎縮し、構音障害、身体の前屈、歩行障害から、徐々に失語症、記憶障害、判断障害が起こり認知症になる「大脳皮質基底核症候群[221]と推察している。

大正天皇実録

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1927年6月、宮内省は図書寮に大正天皇実録部を設置し『大正天皇実録』の編纂を開始した。実録は1934年(昭和9年)末に145冊の稿本が作成された後、更なる資料の補遺、充実を図り、1936年(昭和11年)の大正天皇十年祭を前に完成し、昭和天皇香淳皇后、節子皇太后(貞明皇后)に捧呈された[注釈 28][222]。しかし、長い間非公開であり、朝日新聞の情報公開請求を契機として2002年(平成14年)から2011年(平成23年)にかけ、4回に分けて公開された。ただし、この時は個人識別情報として全体の3パーセントが黒塗りとされた[223]。その後、2015年(平成27年)に公文書管理法の「時の経過」を考慮して黒塗り部分が残り0.5パーセントまで減らされたが、現在も学業成績や病状に関する部分の一部が非公開とされている[2]

ゆまに書房2016年(平成28年)から2021年令和3年)にかけて実録本文の補訂版を刊行中である[2]

軍歴

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日本

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  • 1889年(明治22年)11月3日 陸軍歩兵少尉[224]
  • 1892年(明治25年)11月3日 陸軍歩兵中尉[225]
  • 1895年(明治28年)1月4日 陸軍歩兵大尉[226]
  • 1898年(明治31年)11月3日 陸軍歩兵少佐及海軍少佐[227]
  • 1901年(明治34年)11月3日 陸軍歩兵中佐及海軍中佐[228]
  • 1903年(明治36年)11月3日 陸軍歩兵大佐及海軍大佐[229]
  • 1905年(明治38年)11月3日 陸軍少将及海軍少将[230]
  • 1909年(明治42年)11月3日 陸軍中将及海軍中将[231]
  • 1912年(明治45年/大正元年)7月30日 大元帥

外国

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なお、日本側はその返礼として、1918年10月に、ジョージ5世に対して元帥陸軍大将を授与している[233]。当時は、君主の間で互いに軍の階級を授与する外交儀礼が存在し、イギリスは日本以外にも12カ国(ドイツ、ロシア、スペイン等)の君主に陸軍元帥を授与している[234]

栄典

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ガーター騎士団の正装をした大正天皇(1912年頃撮影)

日本

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外国

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系譜

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大正天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16.119代天皇
光格天皇
 
 
 
 
 
 
 
8.120代天皇
仁孝天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17.勧修寺婧子
 
 
 
 
 
 
 
4.121代天皇
孝明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18.正親町実光
 
 
 
 
 
 
 
9.正親町雅子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19.四辻千栄子
 
 
 
 
 
 
 
2.122代天皇
明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20.中山忠頼
 
 
 
 
 
 
 
10.中山忠能
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21.正親町三条綱子
 
 
 
 
 
 
 
5.中山慶子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22.松浦清
 
 
 
 
 
 
 
11.中山愛子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23.側室 森氏
 
 
 
 
 
 
 
1.123代天皇
大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24.柳原均光
柳原紀光長男)
 
 
 
 
 
 
 
12.柳原隆光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25.家女房
 
 
 
 
 
 
 
6.柳原光愛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26.正親町三条公則
正親町三条実同男)
 
 
 
 
 
 
 
13.正親町三条則子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3.柳原愛子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14.長谷川雪顕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7.長谷川歌野
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明治天皇以降の系図
 
 
 
 
122 明治天皇
 
 
 
 
123 大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
124 昭和天皇
 
秩父宮雍仁親王
 
高松宮宣仁親王
 
三笠宮崇仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
125 上皇
 
常陸宮正仁親王
 
寬仁親王
 
桂宮宜仁親王
 
高円宮憲仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
126 今上天皇
 
秋篠宮文仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
悠仁親王
明治天皇の皇子女
昭憲皇太后 (一条美子) (1849-1914)
 
 
 
 
 
子女無し
 
 
 
 
 
 
葉室光子 (1853-1873)
 
 
 
 
 
 
 
稚瑞照彦尊 (1873・第一皇男子/第一子・死産 )
 
 
 
 
 
 
 
 
橋本夏子 (1856-1873)
 
 
 
 
 
 
 
 
稚高依姫尊 (1873・第一皇女子/第二子・死産 )
 
 
 
明治天皇(第122代天皇)
 
 
 
 
 
 
 
 
梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女子/第三子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
建宮敬仁親王 (1877-1878・第二皇男子/第四子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明宮嘉仁親王 (1879-1926・第三皇男子/第五子・大正天皇:第123代天皇)
 
 
 
 
 
柳原愛子 (1855-1943)
 
 
 
 
 
 
滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女子/第六子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
増宮章子内親王 (1883・第四皇女子/第七子・夭折 )
 
 
 
 
千種任子 (1856-1944)
 
 
 
 
 
 
久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女子/第八子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭宮猷仁親王 (1887-1888・第四皇男子/第九子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
常宮昌子内親王 (1888-1940・第六皇女子/第十子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
竹田宮恒久王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
周宮房子内親王 (1890-1974・第七皇女子/第十一子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北白川宮成久王
 
 
 
 
 
 
 
富美宮允子内親王 (1891-1933・第八皇女子/第十二子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝香宮鳩彦王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
満宮輝仁親王 (1893-1894・第五皇男子/第十三子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
泰宮聡子内親王 (1896-1978・第九皇女子/第十四子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東久邇宮稔彦王
 
 
 
 
 
 
 
貞宮多喜子内親王 (1897-1899・第十皇女子/第十五子・夭折)
 
 
 
園祥子 (1867-1947)


脚注

[編集]

注釈

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  1. ^ 嘉仁親王が軍隊用の背嚢に学用品を入れて通学したことがランドセルの始まりとされている[19]
  2. ^ 表向きの理由は同年6月の地震で校舎が破損し授業に支障を来したこととされた[25]
  3. ^ 1891年4月3日に招かれたのは、 伏見宮禎子女王、北白川宮満子女王(北白川宮能久親王娘)、北白川宮貞子女王(同前)、九条籌子(かずこ。九条道孝娘)、九条節子(同前)、徳川国子(徳川慶喜娘)、徳川経子(同前)、徳川絲子(同前)、毛利万子(かずこ。毛利元徳娘)、岩倉米子(岩倉具定娘)の10名。その他、久邇宮純子女王久邇宮朝彦親王娘)、一条経子(一条実輝娘)、鷹司房子(鷹司煕通娘)の三人も候補とされた[37]
  4. ^ 飛鳥井雅道は皇室典範で皇位継承を嫡出子優先としたこと、国が一夫一妻制を奨励していたことが理由と指摘している[48]
  5. ^ この結婚式を模倣して神前結婚式が誕生し、日本全国に広まっていった[50]
  6. ^ 高崎行啓時に予定の道筋を取らず好き勝手に人力車を走らせたり、新潟では当日になって訪問先を変更させ、周囲を狼狽させたりした[58]
  7. ^ 実際には明治天皇は7月29日午後10時43分に没したが、践祚までの準備時間が足りないため公式には7月30日午前0時43分死去とされた[74]
  8. ^ なお節子皇后は第4子(三笠宮崇仁親王)懐妊中のため即位礼を欠席した。またこの時に製作された高御座と御帳台は昭和・平成・令和3代の即位礼でも使用されている[82][83]
  9. ^ 皇居の居住部は明治天皇の希望で照明がろうそくのみであったが、電灯が付けられ、スチーム暖房が導入された[95]
  10. ^ 山本権兵衛は女婿の財部彪に、「大正天皇の考えといっても、明治天皇のそれと異なる。たとえ、大正天皇の命であっても国家のためにならないと判断すれば従わないほうが忠誠を尽くすことになる」と語っていた[96]
  11. ^ 摂政任命の詔書は大正天皇が署名できないため、皇太子が代筆した[118]
  12. ^ この摂政就任に関し、原武史は牧野伸顕ら宮内官僚による「主君押込」説を主張した[119]が、古川隆久は政治家から皇族まで全関係者が同意した点を挙げ原武史説を批判した[120]
  13. ^ 明治・大正・昭和の三代に亘って仕人(つこうど。宮中の諸雑務に携わる宮内省の下級職員)として勤務した小川金男は、崩御前年(大正14年)頃の葉山における大正天皇の姿について、後年回想している。それによると、健忘の症状が進んでいたが身体機能維持の観点からよく御用邸の廊下を歩いていた。その際、自身を鼓舞するように軍歌の『道は六百八十里』を歌っていたが、歌詞の冒頭しか思い出せない様子で、その部分を繰り返しながら廊下を歩く姿に小川は「何ともいえないおいたわしい感じ」を受けたと述べている[123]
  14. ^ このホームは御用邸に向かう大正天皇が人目に触れないよう建設されたもの[125]で、大正天皇が生前このホームを利用したのはこれが最初で最後であった[129]
  15. ^ このとき将棋倒しで死者2人、重傷者14人、その他計300人の負傷者が出た[146]
  16. ^ 太平洋戦争終戦まで皇族参拝用に使用された後、八王子市に払い下げられ、集会所「陵南会館」として使用されたが、1990年平成2年)に天皇即位の礼と大嘗祭に反対する過激派に爆破され焼失した(八王子市陵南会館爆破事件[149]
  17. ^ 陵墓予定地内には地元の墓地数か所に計587基の墓があったが、強制移転させられている[152]
  18. ^ 梶山季之が黒田長敬に取材したとされる[162]
  19. ^ 1892年 - 1965年。旧姓・久世。源氏名「桜木」。昭憲皇太后に仕えた。夫は山川黙[164]
  20. ^ 1892年 - 1980年。旧姓・梨木。源氏名「椿」[168]
  21. ^ 当時の蕎麦屋の2階では男女が逢引したり売春することもあった[173]
  22. ^ 仕人として宮中に勤務した小川金男(前述)によると、大正天皇が皇位に即いた直後に「陛下は誰にでも気易く話しかけられるお癖があるから、仕人は決して陛下の御前に姿をお見せしてはならぬ」という趣旨の訓示を受けたという[174]
  23. ^ 大正天皇は極めて辛口のたばこを好んだらしく、梨本宮が帰宅後に吸ってみたところ、渋い顔をして「いただいては来たが、こんな辛い葉巻では…」と箱にしまい込んでしまった。しかしこれ以降、参内のたびに葉巻を渡されるようになり「侍従はけしからん。こんなのをお勧めして…」と怒っていたという[175]
  24. ^ 第2位が後光明天皇の98首、第3位が嵯峨天皇の97首[187]
  25. ^ 鍋島伊都子は美人として評判で、当時梨本宮守正王と婚約中であった[199]
  26. ^ 皇后の父・九条道孝が危篤との電報を受けた帰京であったが、道孝は無事で皇后は9日後に日光に戻っている[200]
  27. ^ 大正天皇が側室を持たなかった理由は諸説ある。天皇・皇后がともに庶子であったことから側室制度の廃止を願っていたとする説、貞明皇后が早々に複数の男子を産んだことから結果的に一夫一妻になったとする説、近代家族の姿が広まるという時代状況を踏まえた天皇・皇后の意思によるとする説などがある[204]
  28. ^ なお宮内省では同時期に『明治天皇紀』(1933年/昭和8年完成)や歴代天皇・皇族の記録である『天皇皇族実録』も編纂されていた[222]

出典

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参考文献

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書籍

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論文

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  • 季武嘉也「歴史資料の公開の現状と問題点」『創価大学人文論集』第17巻、創価大学人文学会、2005年、89-120頁、NAID 110006608499 
  • 杉下守弘「大正天皇(1879-1926)の御病気に関する文献的考察」『認知神経科学』第14巻第1号、脳血管研究所、2012年、51-67頁、NAID 40019382858 

関連文献

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大正天皇を扱った作品

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テレビドラマ
  • 『王朝の歳月』[1]KBS、1990年 - 演・チャン・ギヨン)
漫画

関連項目

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外部リンク

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大正天皇

1879年8月31日 - 1926年12月25日

日本の皇室
先代
明治天皇
(睦仁)
皇位
第123代天皇
大正天皇

1912年7月30日 – 1926年12月25日
大正元年7月30日 – 大正15年12月25日
次代
昭和天皇
(裕仁)

  1. ^ (日本語) [815특집극 왕조의 세월 | (1990/08/16)], https://www.youtube.com/watch?v=hM7aY0P8dvs 2024年1月10日閲覧。