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===歌唱===
;絶唱型
:1973年9月にた6枚目のシングルとしてリリースされた「ちぎれた愛」は、曲中「僕の気持ちを信じて、君をはなすもんか、好きだ、好きだよ、好きなんだよー!」とインパクト絶大な台詞が挿入された最初の作品で、喉の奥底から[[ハスキーボイス|ハスキーな歌声]]をしぼり出すように歌い上げ、初めてオリコン1位を獲得<ref name="近代映画197312" />。180cmを超える長身から発する歌声は圧倒的で、その歌唱法は「絶唱型」<ref name=" yomiuri20180517"/>、のちに「絶叫型」といわれた<ref name="s40otoko201210">{{Cite journal|author=濱口英樹|year=2015|month=10|title=FLASH昭和48年博物館 音楽|journal=昭和40年男|publisher=クレタパブリッシング|issue=Vol.31|pages=109}}</ref>。長身をくねらせ、長い髪を振り乱して、全身全霊を込めた喉が張り裂ける様な歌唱法は、激しいアクションとともに、それまでのアイドルに見られなかったもので<ref name="s40otoko201210"/>、次作品の「愛の十字架」、1974年の「傷だらけのローラ」、1975年の「[[至上の愛 (西城秀樹の曲)|至上の愛]]」へと受け継がれて徐々にエスカレートしていき、女性ファンを熱狂させた<ref name="artes13" /><ref name="kumanichi20180518">{{Cite news|url=https://kumanichi.com/column/shinseimen/475762/|date=2018-05-18|title=新生面/コラム/5月18日付|newspaper=[[熊本日日新聞]]|publisher=熊本日日新聞社|accessdate=2018-06-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180518073840/https://kumanichi.com/column/shinseimen/475762/|archivedate=2018-05-18}}</ref>。「傷だらけのローラ」では、新人賞も紅白も出場できなかった前年の悔しさが募り、「早く自分のスタイルを確立したい」と焦り、アメリカで流行っていた[[シャウト|シャウト唱法]]を加えたい」と意見した。
:<!-- バグ回避。「Help:箇条書き」を参照。 -->
;歌唱力の評価
:西城の歌唱力は今日評価が高く<ref>{{Cite web |author=maki |title=【エンタがビタミン♪】西城秀樹“45歳”の写真集 綾小路翔が感慨「ワイルドでセクシーでダイナミックなロックンローラー」 |Techinsight(テックインサイト)|海外セレブ、国内エンタメのオンリーワンをお届けするニュースサイト |url=https://japan.techinsight.jp/2018/05/maki05211048.html/2 |website=Techinsight |publisher=テックインサイト株式会社 |date=2018-05-21 |accessdate=2021-07-15 |page=2 }}</ref><ref>{{Cite news2|author=北川純子|title=ヒデキ完璧! 励まし・切望…ローラ12通りの歌い分け|newspaper=朝日新聞デジタル|publisher=朝日新聞社|date=2018-06-15|url=https://www.asahi.com/articles/ASL6D6GJNL5YUPQJ007.html|accessdate=2018-05-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180618152610/https://www.asahi.com/articles/ASL6D6GJNL5YUPQJ007.html|archivedate=2018-06-18}}[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/230027 西城秀樹との追憶の日々…フォーリーブス江木俊夫が語る]、[http://tablo.jp/media/entertainment/news003299.html 追悼・西城秀樹さん ジャニーズにも多大な影響を与えた本物の「スター」|平本淳也]、[http://crea.bunshun.jp/articles/-/20289 西城秀樹を偲ぶ脳内コンサート開催! 「愛は激しく空は永遠に青い」]、[https://ameblo.jp/ogurajun/entry-12378915062.html 秀樹さんを送ってきました]、[https://ameblo.jp/toshicappuccino/entry-12376685073.html 西城秀樹さんとの思い出]</ref>、所属事務所「芸映」後輩でもあった[[岩崎宏美]]は西城の特徴的な歌声について「誰にもまねできないでしょうね」と評した<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2111615/full/ 岩崎宏美、西城さん死去で報道陣にお願い 不自由な姿でなく「元気な西城秀樹を」 ]、[http://news.line.me/issue/oa-tvasahi-geinou/94b4d432254e 宏美「ヒデキは心の中で」 (テレビ朝日) - LINEアカウントメディア]</ref>。[[松任谷由実]]は「西城秀樹っていう人は圧倒的にスターだったと思う」と述べ、スター性の根源には「声の素晴らしさがある」と話し「歌手は声がその運命を100%以上決める」と持論を述べ、「斜のかかった強い少年声というのか..大好きな声です」と話している<ref name="mynavi20180528">[https://news.mynavi.jp/article/20180528-637058/ 松任谷由実、西城秀樹さんとの共演を振り返る「切ないです」]</ref>。[[ミッツ・マングローブ]]は「ヒデキは私にとって最初の"ヒーロー"でした。自分の本質とは真逆の、快活で社交的な男子性の塊みたいなヒデキに対し、それでも無抵抗に心躍ることができたのは、やはりその歌声と健やかな大衆性が圧倒的だったからに他なりません」と述べている。[[三原じゅん子]]は西城を「アイドルを超えた歌唱力の持ち主」、[[黒柳徹子]]は「『ザ・ベストテン』の出演者のなかで、ダントツに歌がうまかった」<ref>{{Cite news2 |title=【西城秀樹さん死去】黒柳徹子さん「ダントツに歌がうまかった」 |url=https://www.sankei.com/entertainments/news/180517/ent1805170017-n1.html |date=2018-05-17 |newspaper=産経スポーツ |publisher=産業経済新聞社 |accessdate=2018-05-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180518235824/https://www.sankei.com/entertainments/news/180517/ent1805170017-n1.html |archivedate=2018-05-19}}</ref>、[[鴨下信一]]は「歌唱力は同時代の誰よりもあった」と評している<ref name="サンデー毎日201878">{{cite journal |和書 |author=鴨下信一 |url=https://mainichi.jp/sunday/articles/20180625/org/00m/070/009000d |journal=[[サンデー毎日]] |volume=2018年7月8日号 |title=西城秀樹さんがいた時代と風景 最後まで「常識人」であろうとした「スター」 |publisher=[[毎日新聞出版]] |pages=138-139 |accessdate=2018-07-04 |archiveurl=https://archive.fo/ZOwJt |archivedate=2018-06-30 }}</ref>。

===スタジアム・コンサート===
===スタジアム・コンサート===
スタジアムコンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催したのも西城である(グループでの日本初は1968年の[[ザ・タイガース]])<ref name="40n-47" /><ref name="tokyo17_23">[http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/hideki_kanreki/CK2018051902100035.html 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】 (17)球場コンサート 空中芸に父カンカン]、[http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/hideki_kanreki/CK2018051902100041.html (23)ペンライト 始まりは74年の懐中電灯]</ref><!---<ref name="tokyo-np20160608">[https://web.archive.org/web/20160608011922/http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201606/CK2016060102000200.html <西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (17)球場コンサート](Internet Archive)</ref>---><ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180610-13 【MUSIC】西城秀樹『ブルースカイブルー』あの頃、大阪ミナミの青空が照らした天然芝。/CULTURAL REVIEW about Baseball]</ref>。1974年夏、ワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”』を大阪球場で開く。「[[ウッドストック・フェスティバル]]」の影響を受け、「野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」と西城自身が企画し、このコンサートが実現した。観客2万5000人。コンサートは設営から解体までに3日かかり、その間の弁当代だけで300万円<ref name="週刊平凡1983728" />。1回にかかる費用は当時の金額で6000万円<ref name="週刊平凡1983728">{{cite journal |和書 |author=|journal=週刊平凡 |volume=1983年7月28日号 |title=ただいまギネスブック申請考慮中 大阪球場コンサート連続10年 西城秀樹 |quote={{small|西城「いまコンサートでつきもののペンシルライト、あれもボクが第一回目の前日にラジオで、ほら、球場は広いし、おまけに暗いでしょ、どこにお客さんがいるかわからないので、みんなコンサートに懐中電灯持って来て!って呼びかけたのが最初ですよ。当時はペンシルライトじゃなくて懐中電灯ですよ。いまじゃ[[ケミカルライト]]だけど」「大阪球場で始めたのは地元の広島に近かったこともあります。一回目のときは俺はここで何をすればいいのか全く分からなくなりました。もうそのプレッシャーたるや口では言えませんね。いざ本番、もう居ても立ってもいられなくなっちゃってグラウンドを走り始めたんです。演出にそんなのありませんよ。三塁側からぐるりと一周ね。歌は滅茶苦茶になりましたけど、これが好評で、2回目からは恒例になりました」「大阪球場は本当は5回で終わりだったんですが、5回目に『これで終わりだね!』っていったらファンが『いやだ!』っていうから、それ聞いたらたまらなくなって『ヨシ!来年も会おうぜ!』って口走っちゃったんです。その夜、会社の幹部と話し合いです。社長と専務から『しょうがない、勝手にやってくれ』と言われて、それでさらに5回続いたんです。あれは綺麗ごとじゃなく、金じゃないんだよね。ボクだけじゃなくスタッフ全員に素晴らしい興奮があるわけ。ああいう仕事はやっぱり男の仕事だと思えるな(当時はこのような現場に女性の進出はなかった)」}} |publisher=平凡出版 |pages=30-31 }}</ref>。満員になっても儲けが出ることは無かった<ref name="週刊平凡1983728" />。西城の球場コンサートは、ただ歌と演奏をするだけにとどまらず、現在では許可されない巨大クレーンにより宙づりになった「ゴンドラ」の中での歌唱や<ref name="40n-47" /><ref name="tokyo17_23"/><ref>{{Cite news2 |title=たまのスタジオ日記 第30回 西城秀樹さん |work=[[みゅーじん]] |date=2006-05-06 |author=|url=http://www.tv-tokyo.co.jp/m-jin/tama_st/tama_st_30/index.html |accessdate=2018-06-24 |publisher=[[テレビ東京]] }}</ref>、ヘリコプターを使った派手で危険な演出も自身のアイデアで実行し、日本での初導入とされるレーザー光線や<ref name="artes13" />、衣装に電飾を仕込む演出効果など、球場の大きな空間を利用しての派手な仕掛け{{refnest|group="注"|この他、「オートバイ」、「CAR」、[[トラック野郎]]の「デコトラ」、11tトラックを改造した「光の箱」、ステージの一部が15mまでせり上がる「リフト」、前に飛び出す「ムービングステージ」、「炎のじゅうたん」、「空中からの[[ダイビング|ダイブ]]」、おなじみ「スペースイーグル」、「[[バルーン]]」、「空中ブランコ」、「[[E.T.]]自転車」、「[[レーザー光線]]」、「煙幕」、「火薬」、「花火」など<ref name="月刊平凡197611" />。}}、演出が売りであり、毎年赤字覚悟でエスカレートしていった<ref name="週刊平凡1983728" />。時代的にどれも人が操作したり手動で動かす手作りライブであった。クレーンの使用は西城自身が工事現場のクレーンを見て「何か使い道ないかな」と閃いたのが切っ掛け<ref>「コンサートで工事現場の3Kの現実を実現 {{small|野外コンサートで日本初の試みをチャレンジするまでの発想法}}」[[#熱き想い]]、45-49頁。</ref>。豪雨のカーテンに包まれ、雷鳴が響きわたる中、稲妻に照らし出されて<ref>{{cite journal |和書 |author=|journal=月刊平凡 |volume=1979年11月号 |title=ヤング・エネルギー大噴射で日本列島大パニック!! |publisher=平凡出版 |page=90 }}</ref>、[[キング・クリムゾン]]の「[[エピタフ (曲)|エピタフ]]」を熱唱した1979年の後楽園球場では<ref name="artes13" /><!---<ref name="tokyo-spo-ym" />---><ref>[http://www.tapthepop.net/roots/24435 世界への悲観を描いた「エピタフ」と、それに共鳴した日本の歌い手たち]、[http://www.jprime.jp/articles/-/12400 西城秀樹さんの『傷だらけのローラ』は、大好きなイギリスロックが原点だった][http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/magazine/synthesizers-now-and-then-sampling シンセ今と昔:音を記録するメディア - Red Bull Music Academy Japan]</ref>、マイクから感電しながら歌唱を続行、「本当に死んでもかまわないと思いながらやってた」、「俺たちの時代の人ってのはみんな命を賭けてた」と述べている<ref name="みうら">「西城秀樹」[[#みうら]]、175-186頁</ref>。
スタジアムコンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催したのも西城である(グループでの日本初は1968年の[[ザ・タイガース]])<ref name="40n-47" /><ref name="tokyo17_23">[http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/hideki_kanreki/CK2018051902100035.html 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】 (17)球場コンサート 空中芸に父カンカン]、[http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/hideki_kanreki/CK2018051902100041.html (23)ペンライト 始まりは74年の懐中電灯]</ref><!---<ref name="tokyo-np20160608">[https://web.archive.org/web/20160608011922/http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201606/CK2016060102000200.html <西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (17)球場コンサート](Internet Archive)</ref>---><ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180610-13 【MUSIC】西城秀樹『ブルースカイブルー』あの頃、大阪ミナミの青空が照らした天然芝。/CULTURAL REVIEW about Baseball]</ref>。1974年夏、ワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”』を大阪球場で開く。「[[ウッドストック・フェスティバル]]」の影響を受け、「野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」と西城自身が企画し、このコンサートが実現した。観客2万5000人。コンサートは設営から解体までに3日かかり、その間の弁当代だけで300万円<ref name="週刊平凡1983728" />。1回にかかる費用は当時の金額で6000万円<ref name="週刊平凡1983728">{{cite journal |和書 |author=|journal=週刊平凡 |volume=1983年7月28日号 |title=ただいまギネスブック申請考慮中 大阪球場コンサート連続10年 西城秀樹 |quote={{small|西城「いまコンサートでつきもののペンシルライト、あれもボクが第一回目の前日にラジオで、ほら、球場は広いし、おまけに暗いでしょ、どこにお客さんがいるかわからないので、みんなコンサートに懐中電灯持って来て!って呼びかけたのが最初ですよ。当時はペンシルライトじゃなくて懐中電灯ですよ。いまじゃ[[ケミカルライト]]だけど」「大阪球場で始めたのは地元の広島に近かったこともあります。一回目のときは俺はここで何をすればいいのか全く分からなくなりました。もうそのプレッシャーたるや口では言えませんね。いざ本番、もう居ても立ってもいられなくなっちゃってグラウンドを走り始めたんです。演出にそんなのありませんよ。三塁側からぐるりと一周ね。歌は滅茶苦茶になりましたけど、これが好評で、2回目からは恒例になりました」「大阪球場は本当は5回で終わりだったんですが、5回目に『これで終わりだね!』っていったらファンが『いやだ!』っていうから、それ聞いたらたまらなくなって『ヨシ!来年も会おうぜ!』って口走っちゃったんです。その夜、会社の幹部と話し合いです。社長と専務から『しょうがない、勝手にやってくれ』と言われて、それでさらに5回続いたんです。あれは綺麗ごとじゃなく、金じゃないんだよね。ボクだけじゃなくスタッフ全員に素晴らしい興奮があるわけ。ああいう仕事はやっぱり男の仕事だと思えるな(当時はこのような現場に女性の進出はなかった)」}} |publisher=平凡出版 |pages=30-31 }}</ref>。満員になっても儲けが出ることは無かった<ref name="週刊平凡1983728" />。西城の球場コンサートは、ただ歌と演奏をするだけにとどまらず、現在では許可されない巨大クレーンにより宙づりになった「ゴンドラ」の中での歌唱や<ref name="40n-47" /><ref name="tokyo17_23"/><ref>{{Cite news2 |title=たまのスタジオ日記 第30回 西城秀樹さん |work=[[みゅーじん]] |date=2006-05-06 |author=|url=http://www.tv-tokyo.co.jp/m-jin/tama_st/tama_st_30/index.html |accessdate=2018-06-24 |publisher=[[テレビ東京]] }}</ref>、ヘリコプターを使った派手で危険な演出も自身のアイデアで実行し、日本での初導入とされるレーザー光線や<ref name="artes13" />、衣装に電飾を仕込む演出効果など、球場の大きな空間を利用しての派手な仕掛け{{refnest|group="注"|この他、「オートバイ」、「CAR」、[[トラック野郎]]の「デコトラ」、11tトラックを改造した「光の箱」、ステージの一部が15mまでせり上がる「リフト」、前に飛び出す「ムービングステージ」、「炎のじゅうたん」、「空中からの[[ダイビング|ダイブ]]」、おなじみ「スペースイーグル」、「[[バルーン]]」、「空中ブランコ」、「[[E.T.]]自転車」、「[[レーザー光線]]」、「煙幕」、「火薬」、「花火」など<ref name="月刊平凡197611" />。}}、演出が売りであり、毎年赤字覚悟でエスカレートしていった<ref name="週刊平凡1983728" />。時代的にどれも人が操作したり手動で動かす手作りライブであった。クレーンの使用は西城自身が工事現場のクレーンを見て「何か使い道ないかな」と閃いたのが切っ掛け<ref>「コンサートで工事現場の3Kの現実を実現 {{small|野外コンサートで日本初の試みをチャレンジするまでの発想法}}」[[#熱き想い]]、45-49頁。</ref>。豪雨のカーテンに包まれ、雷鳴が響きわたる中、稲妻に照らし出されて<ref>{{cite journal |和書 |author=|journal=月刊平凡 |volume=1979年11月号 |title=ヤング・エネルギー大噴射で日本列島大パニック!! |publisher=平凡出版 |page=90 }}</ref>、[[キング・クリムゾン]]の「[[エピタフ (曲)|エピタフ]]」を熱唱した1979年の後楽園球場では<ref name="artes13" /><!---<ref name="tokyo-spo-ym" />---><ref>[http://www.tapthepop.net/roots/24435 世界への悲観を描いた「エピタフ」と、それに共鳴した日本の歌い手たち]、[http://www.jprime.jp/articles/-/12400 西城秀樹さんの『傷だらけのローラ』は、大好きなイギリスロックが原点だった][http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/magazine/synthesizers-now-and-then-sampling シンセ今と昔:音を記録するメディア - Red Bull Music Academy Japan]</ref>、マイクから感電しながら歌唱を続行、「本当に死んでもかまわないと思いながらやってた」、「俺たちの時代の人ってのはみんな命を賭けてた」と述べている<ref name="みうら">「西城秀樹」[[#みうら]]、175-186頁</ref>。

2022年9月26日 (月) 13:16時点における版

西城 秀樹
出生名 木本 龍雄きもと たつお
生誕
死没
学歴 明治大学付属中野高等学校定時制 卒業
ジャンル
職業
担当楽器 ボーカル
活動期間 1972年3月25日 - 2018年5月16日
レーベル
事務所 芸映→アースコーポレーション
公式サイト https://www.earth-corp.co.jp/HIDEKI/

(さいじょう ひでき、1955年〈昭和30年〉4月13日 - 2018年〈平成30年〉5月16日[2])は、日本の男性歌手・俳優。新御三家の1人。 本名:木本 龍雄(きもと たつお)。広島県広島市出身[3][4][5]。アースコーポレーション所属。

来歴

生い立ち

広島県広島市東蟹屋町に生まれる[6]ジャズギターが趣味だった父親の影響で幼少期から洋楽に馴染み、ジャズスクールに通って、最初はエレキギター、その後ベース、次いでドラムを勉強した[7]。小学4年生の時に、兄とエレキバンド「ベガーズ(beggars)」を結成[8][9]。小学校在学中から小学生ドラマーとして活動し[10]、兄が中3、自身が中1のとき、中学校の文化祭でステージ演奏をした[11]ザ・ベンチャーズローリング・ストーンズジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンシカゴなどの洋楽に影響を受けた[12]。中学以降もバンド活動を続け、ビアガーデン等でバンド演奏のアルバイトをした[13]。こうした洋楽通ぶりがプロデビュー後、他のアイドルとは一線を画す個性となった[14]

兄らが卒業したため中学2年のとき「ベガーズ」からメンバーを入れ替え「ジプシー」を結成[15]。このバンドでリードボーカルとなる[16]。「ジプシー」でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第一回、第二回に出場し[15]、中国大会で優勝した[17]。高校一年のとき、R&B喫茶「パンチ」から声がかかり[16]、店のレギュラーバンドになり[16]、店で歌唱していたところをスカウトされる[17][18]。本来、歌手には興味がなかったが、当時尾崎紀世彦の「また逢う日まで」がヒットして、歌謡曲が変わり始めた時期と感じスカウトを承諾した。父親が頑固で厳格な人であったため芸能界入りを猛反対[19]。その反対を押し切り、高校一年の二学期途中の1971年10月3日、家出同然で広島から夜行列車で上京[16]、10月4日朝、東京駅着[16]。芸能事務所「芸映」に所属[20]。都内の定時制高校へ転校する[21]。3畳もない納戸(三角部屋)にマネージャーと二人で住んだ[16][22]

デビュー後

1972年3月25日、日本ビクター(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のRCAレーベルよりシングル『恋する季節』で歌手デビュー[注 1]。芸名は『女学生の友』の一般公募[23]。片仮名の「ヒデキ」が愛称となる[14]

1972年11月25日に発売されたシングル『チャンスは一度』で、一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、野口五郎(1971年5月、歌手デビュー)、郷ひろみ(1972年8月、歌手デビュー)と共に「新御三家」と呼ばれるようになった[24]

1973年6月25日、5枚目のシングル『情熱の嵐』がオリコン週間チャートで初のベストテン入り[14]、以降『ちぎれた愛』、『愛の十字架』が連続してオリコン週間チャートの第1位を獲得。『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞する。

激しい恋』がオリコン年間チャートの第8位を獲得。『傷だらけのローラ』が、『第16回日本レコード大賞』で歌唱賞を受賞。これによりポップス歌手としては史上初となる2年連続受賞を樹立する。『第25回NHK紅白歌合戦』にも初出場し、その後も着実にヒットを飛ばす。ホームドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演、松竹映画『愛と誠』で映画初主演と、俳優としても活動する。

1976年の「ジャガー」、1978年の『』で、『東京音楽祭』国内大会でゴールデン・カナリー賞を受賞し、世界大会にも出場。1979年にシングル曲として発売された「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」で「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露した。

ロック系のポピュラー音楽を中心にしたコンサート活動も精力的に行い、1974年から1983年まで10年連続で、大阪スタヂアム(大阪球場)でのスタジアム・コンサートを(1978年からは後楽園球場でも)開催する。1975年秋には、日本人のソロ歌手として史上初となる日本武道館でのリサイタルを公演し[25]、その後11年連続(通算12回)開催する。

1981年4月6日、『リトルガール』でシングル30曲ベストテン入り(オリコン史上初)[注 2]。続く『セクシーガール』で、発売シングルレコードの総売上枚数が1,000万枚を突破する(史上5組目)[14][注 3][注 4]

1983年1月21日、スタッフと共に芸映を退社し独立、有限会社(現・株式会社)「アースコーポレーション」を設立する。

NHK紅白歌合戦』は1974年から1984年の「抱きしめてジルバ」まで11年連続出場(その後1994年に10年ぶりに出場後、1995年、1997年から2001年までの計7回出場した。)。『日本レコード大賞』では1976年の「若き獅子たち」が歌唱賞を受賞。金賞は1978年の「ブルースカイ ブルー」から1983年の「ギャランドゥ」まで6年連続受賞する。ヒット曲をランキング形式で紹介する音楽番組『ザ・ベストテン』には放送が開始した1978年の「ブーツをぬいで朝食を」から1985年の「腕の中へ」まで22曲ランクインした。

長らく独身であったが、2001年6月30日に大阪府在住の会社員の一般女性と結婚[注 5]。2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男、2005年1月7日に二男が誕生している。

脳梗塞発症

2001年秋に脳梗塞を発症(この時は「二次性多血症」と発表)[26]

2003年6月21日、公演先の韓国で2度目の脳梗塞を発症する。軽度の言語障害の後遺症は残ったが、闘病の末復帰し、2006年9月27日、3年ぶりに『めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -』が両A面で発売された。

だが8年後の2011年12月20日に、脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度入院する。右半身麻痺と言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態などが改善していた[27][28]

晩年・闘病・死去

2018年4月14日、栃木県足利市で開催された『~一緒に歌おう!青春の歌~同窓会コンサート2018 in足利』(企画・運営、三貴エージェンシー)[29]に出演。結果的にこのコンサートが西城にとって公での最後の歌唱となった。それから5日後の4月19日、東京都練馬区の練馬文化センターで開催された『第23回 紅白歌合戦』(日本歌手協会主催)[30]に知人が出場するため、プライベートで観覧。最後方の席に西城が座っている事に気づいた総合司会で歌手協会理事、合田道人が駆け寄ってインタビューを敢行。紹介された際、西城は自ら立ち上がって観客にアピール。この場で11月開催の歌謡祭への出演を打診されると「はい、ぜひ」と答えたが、結局これが最後の公の姿となった[31]

この日から6日後の2018年4月25日、自宅で夕食中に突然倒れ、全身けいれんののち心停止。救急搬送で緊急入院。救命処置により再び心臓は動き出すが、約40分間の心停止により、医師から脳死の可能性が高いことを告げられる。「持って1週間だと思ってください」との説明だったが、深い昏睡状態で3週間闘病を続け、同年5月16日23時53分、急性心不全のために神奈川県横浜市内の昭和大学藤が丘病院で死去[32]。63歳没。法名は「修音院釋秀樹(しゅうおんいんしゃくひでき)」[33]

西城の訃報を受け、「新御三家」としてライバルでもあり戦友でもあった郷ひろみと野口五郎を始め[34]、数多くの著名人が追悼コメントを発した。

死去から9日後の5月25日に青山葬儀所で通夜が営まれ、新御三家の二人を始めとする歌手仲間・芸能関係者・多数のファン達が参列[35]。翌日の告別式では野口と郷が終始涙ぐみながら弔辞を読み[36]、出棺の際には代表曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」「ブルースカイ ブルー」等が流され、約1万人のファンから「ヒデキ!」コールを浴びながら斎場を後にした[37]。その後、遺体は品川区の桐ヶ谷斎場にて荼毘に付された。

死後の事実公表

没後の11月、妻・木本美紀が『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』を上梓。この中で西城は1996年頃に糖尿病の診断を受け、インスリンを投与していたこと[38]、報道では2回とされていた脳梗塞が、実際には結婚直後の2001年に発症していたほか、「隠れ脳梗塞」を含めると計8回発症していたこと、2014年の暮れ頃には、これらの疾患に加えて、脳の神経細胞が徐々に脱落する「多系統萎縮症」の診断を受けていたこと[39]、そして脳梗塞と多系統萎縮症に関する事実は妻とマネージャーの間で伏せられていたことを公表した[26]。実際に西城の病状は2014年頃から徐々に進行。転倒しやすくなり、言語の出にくさも顕著になった。2017年の暮れごろには歩行にも支障が出ていたが、改善することを信じて、急変する直前まで真面目にリハビリメニューに臨んでいた[40]

年表

1972年 - 1975年

1972年3月25日発売のシングル『恋する季節』で歌手デビュー。8月8日、東京・郵便貯金ホールにてファースト・コンサート『ワイルドな17歳』を開催。同年11月に発売された1stアルバム『ワイルドな17才』のB面3曲目「母と子の絆」は、この年ポール・サイモンが世界的に大ヒットさせたシングルを西城が訳詞したもの[41]。12月4日、『夜のヒットスタジオ』に初出演。日本レコード大賞の第14回最優秀新人賞候補は11月26日の部門賞で5組を選出した。結果、森昌子(37票)、三善英史(36票)、麻丘めぐみ(27票)、郷ひろみ(20票)、青い三角定規(20票)に、僅か1票差の19票に終わり惨敗、選に漏れた[41]

1973年3月26日、大阪毎日ホールでデビュー1周年記念コンサート『ヒデキ・オン・ステージ』を開催。9月24日、『ちぎれた愛』が「新御三家」の中では初めてとなるオリコン1位(47.5万枚)を獲得[14][42]。これは70年代デビューの男性アイドルでも初のオリコン1位であった[42]。11月、「ヒデキ、感激!!」でお馴染み「ハウス バーモントカレー」のテレビ広告が放送開始。12月31日、『第15回日本レコード大賞』歌唱賞を獲得するも、初出場が確実視された『第24回NHK紅白歌合戦』は落選[43]

1974年1月16日 - 10月9日、ホームドラマとして人気を博したTBS系列テレビドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演。

1974年8月3日、スタジアムでのワンマン・コンサートを、大阪球場で (以降10年連続、後楽園球場では1978年から4年連続で) 開催。10月6日、広島郵便貯金ホールにて凱旋コンサート『バック・ホーム・アゲイン・ヒロシマ』を開催[44]。 12月31日、「傷だらけのローラ」で2年連続となる『第16回日本レコード大賞』歌唱賞を受賞。『第25回NHK紅白歌合戦』初出場。

1975年1月30日、第12回『ゴールデン・アロー賞』でグラフ賞を受賞。2月15日、西城の初の海外進出作品として「傷だらけのローラ」のフランス語バージョン「LOLA」が、フランス、スイス、ベルギーで発売され、3月31日に発売されたカナダでは[45][46]、ヒットチャート第2位にランクされた[47][注 6]。5月、3月31日より放送開始の『寺内貫太郎一家2』で、番組名物小林亜星との乱闘シーンの撮影中、腕を骨折。6月6日 - 9月26日、TBS系列のテレビドラマ『あこがれ共同隊』で、郷ひろみ、桜田淳子らと共演。6月13日公開の松竹映画『おれの行く道』に主演。6月29日、『第4回東京音楽祭』国内大会に出場。「LOLA」を熱唱し、ゴールデン・スター賞を受賞。

1975年7月20日、富士山麓緑の休暇村の特設ステージにて日本歌謡史上初の大規模野外コンサートを開催。これを皮切りに、『全国縦断コンサートツアー』をスタートさせる。8月24日、大阪スタヂアム(大阪球場)にてエンディング・フェスティバル。1975年10月10日、このツアーを追って撮影されたドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ(BLOW UP!HIDEKI)』が公開上映される[48]。11月3日、日本人ソロ歌手としては初めての日本武道館公演を行う[49](以降1985年まで11年連続で開催。)

1976年 - 1979年

1976年2月25日、この年から作詞者に阿久悠を起用 10月19日、赤坂ナイトクラブニューラテンクォーターにて初のディナーショーを開催。11月3日、第2回日本武道館コンサート『ヒデキ・イン・武道館』を開催。1977年3月30日、デビュー5周年記念の第3回日本武道館コンサートを開催。7月5日 - 7月28日、ミュージカルに初挑戦。阿久悠台本・作詩、三木たかし作曲、浅利慶太演出による劇団四季わが青春の北壁』(日生劇場)に主演、ポスター担当はイラストレーターの横尾忠則(雑誌では8ページの内6ページが横尾忠則のイラストという記事もあった)[50][51]。8月27日、第4回大阪球場コンサートを開催。11月3日、この年2度目となる第4回日本武道館コンサートを開催。11月20日、NHK『ビッグショー』に出演(タイトルは『若さを誇らしく思う時に』)。

1978年2月9日、元旦発売の『ブーツをぬいで朝食を』が『ザ・ベストテン』で第1位を獲得。

1978年7月22日、従来の大阪球場に加え、東京の後楽園球場でも第1回コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。8月26日、第5回大阪球場コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。同年12月19日発売の『ブルースカイ ブルー』は、『ザ・ベストテン』で14週ベストテン入りし、年間ベストテン第9位を獲得し、『FNS歌謡祭'78』では初の最優秀歌唱賞を受賞。

1979年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。同年2月21日発売の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』は、180.8万枚のセールスを記録し、西城自身最大のヒット作となる。年末の賞レースでは、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを獲得。

1980年 - 1984年

1980年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。6月13日、フジテレビ「日生ファミリースペシャル」枠のアニメ坊っちゃん』で、坊っちゃん役で声優初挑戦。7月18日、第3回後楽園球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。8月23日、第7回大阪球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。11月3日、第7回日本武道館コンサートを開催。11月23日、東芝日曜劇場『遠くはなれて子守唄』(「日本民間放送連盟賞」受賞作品)に出演。

1981年4月、とんねるずが初めてレギュラー出演した西城司会の情報番組『モーニングサラダ』(日本テレビ)放送開始。8月16日、第4回後楽園球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。8月22日、第8回大阪球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。11月3日、第8回日本武道館コンサート『HIDEKI MY LOVE Hideki Saijo IN BUDOKAN』を開催。

1981年8月、第8回広島平和音楽祭が開催された。その際、広島県出身の西城はリトルガールを熱唱。またこの日の為に作られた楽曲「天と地の架け橋」も披露した。

1982年1月4日 - 1月5日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月13日、『ありがとう青春3650日』と銘打ったデビュー10周年誕生日パーティーを赤坂プリンスホテルで開く。同時に記念作品として『南十字星』が3月25日に発売され、東宝創立50周年記念の日豪合作映画「南十字星」の主題歌となった。8月21日、第9回大阪球場コンサート『BIG GAME '82 HIDEKI』を開催。11月21日、第9回日本武道館コンサート『HIDEKI RECITAL - 秋ドラマチック』を開催。 1983年1月21日、芸映を円満独立して「アースコーポレーション」設立。独立第1弾のシングルは『ギャランドゥ』。8月6日、ツアーラストを大阪球場コンサート『BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT』で閉め、10年続いたスタジアムコンサートに幕を下ろした。11月20日、第10回日本武道館コンサートを開催。

1984年2月5日、体調不良を訴え東京女子医大病院へ。「低髄液圧症候群」との診断を受け同院に入院。3月25日に退院。

1984年4月1日、『Do You Know』で『第13回東京音楽祭』世界大会に出場、初の銀賞を受賞。収録曲「Winter Blue」の作曲者は西城本人である。「5月4日 - 5月28日、7年ぶりとなる日生劇場での主演ミュージカル『デュエット』。8月7日、第11回日本武道館コンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。8月14日、大阪城ホールコンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。

1984年8月12日、アニメーション映画黒い雨にうたれて』公開、主演声優を務める[52]

1984年秋に横浜の自宅スタジオから半径500mで聴取可能なFMミニ放送を行う[53]、深夜「こちらモモタロー」のコール・サインで始まり、「お待たせしました。今夜も横浜に住む女性だけに向けて、キャピキャピ放送をお聞かせしましょう。お相手は桃太郎です」と続き、即興風の音楽演奏や自身作曲の歌を歌ったり、物まねなどを流した。最初は毎日放送したが、家の周りに車が何十台も集まって近所迷惑になったため、西城が寝付かれない日、友人が集まって騒ぐ日など、放送日は西城の気まぐれで10日に一回程度になった[53]

1985年 - 1994年

1985年1月19日、シングル盤50曲発売記念・第12回日本武道館コンサート『'85 HIDEKI Special in Budokan - for 50 songs -』を開催。今までのシングル50曲を全部歌った。2月、『つくば万博』開会式で、そのテーマ曲「一万光年の愛」を当時の皇太子明仁親王(現:明仁上皇)と礼宮文仁親王(現:秋篠宮文仁親王)の臨席上でNHK交響楽団をバックに歌唱する[54]

1986年5月17日、主演映画『傷だらけの勲章』が全国公開。

1987年5月21日にシングル『New York Girl』を発売。表題曲はプロデューサーにジョージ・デュークを迎えたブラックテイストの楽曲で、ジョージから「ヒデキの声は世界で1人しかいない」と絶賛された[55]。同年10月4日に昭和記念公園で開催された「Japan Aid 2nd」(ロックフェス)にジョージ・デュークのゲストとして出演し「New York Girl」を披露。

1988年、ソウルオリンピック前夜祭に趙容弼(チョー・ヨンピル)(韓国)、陳百強(ダニー・チャン)(香港)、胡寅寅(フーインイン)(中国)と共に出演、日本人として初めて韓国の公式の場において、日本語で 「傷だらけのローラ」を熱唱。またこの模様はKBSをキーステーションに衛星中継で各国に放映された[56]

1989年6月、主演ミュージカル『坂本龍馬』の公演。大阪・新歌舞伎座で座長公演を開始(以降3年連続)。

1990年、クイーン・エリザベス2世号(香港から日本へのクルージング)で船上ディナーショー。 1991年4月、フジテレビ系のアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「走れ正直者」を担当。5月11日、東京・厚生年金会館でデビュー20周年記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD』を開催。初の学園祭ライブを早稲田大学で行う。 1992年4月14日 - 9月29日、『徳川無頼帳』で時代劇ドラマ初レギュラー出演。

1993年3月、『STOP AIDS CONCERT』(横浜文化体育館)出演・プロデュース。西城の呼び掛けでもんたよしのり寺田恵子沢田知可子男闘呼組、海外からディオンヌ・ワーウィックなど多数のアーチストが参加。

1994年、主演ミュージカル『ラヴ』の公演。12月31日、10年ぶりに『第45回NHK紅白歌合戦』に出場し、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌う。

1995年 - 1999年

1995年1月17日に発生した、阪神大震災の被災者のために数度、兵庫県神戸市に足を運び、チャリティー募金も行なう。これが縁で神戸市民から「元気づけられたので是非」という要望があり、2年続けて『第46回NHK紅白歌合戦』で「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌うことになった。

1995年3月9日、東京都の渋谷公会堂にて39(Thank you)歳記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 39』を開催。8月5日・6日、桑田佳祐からの電話でのオファーを受け、サザンオールスターズコンサートスーパー・ライブ・イン・横浜 ホタル・カリフォルニア』にゲスト出演。オープニングで2日間観客数16万人と「Y・M・C・A」を決行。

1996年7月3日 - 7月14日、ロックミュージカルの『D・LIVE Rock To The Future』に出演。シングル『round'n'round』で音楽番組出演時には、D・LIVEで結成されたMillennium Eve(Back-vo.杏子、gt.中山加奈子、Key.中村美紀、bs.仙波さとみ、ds.MITSUKO)をバックに歌った。 1997年1月21日、25周年を記念して、デビューから現在までのヒストリー・ビデオ『HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES』を発売。

1997年8月6日、X JAPANYOSHIKIのプロデュースによるシングル『moment』を発売。

1998年4月から、NHK総合青春のポップス』のレギュラー司会を務め(~2002年3月)、歌手としても幅広いジャンルの楽曲を歌唱した[57]

1999年2月7日、舞台『寺内貫太郎一家』に出演(新橋演舞場)。5月、人気ロボットアニメ機動戦士ガンダムシリーズ∀ガンダム』のテレビ主題歌「ターンAターン」を担当。11月17日、レコード会社をポリドールに移籍。第1弾シングルは『Bailamos〜Tonight we dance〜』(エンリケ・イグレシアスのカバー曲)。同年の第50回NHK紅白歌合戦 では、宝塚歌劇団月組をバックに同曲を歌う[58]

2000年 - 2009年

2000年3月31日、東京・厚生年金会館にて80曲記念コンサート『Bailamos 2000』を開催。4月26日リリースの『Love Torture』、ジャケットと共にプロモーションビデオは、西城秀樹自身のプロデュースとなる作品である。シドニーオリンピックサッカー日本代表壮行試合にて「君が代」を斉唱。10月17日発売のシングル『時のきざはし』は、RKこと河村隆一がプロデュースを担当。河村は幼少期に西城に憧れていたこともあり実現。プライベートでも付き合いがある。11月28日、第12回(2001年度)日本ジュエリーベストドレッサー賞を男性部門で受賞。同年中国で行われた『同一首歌 流行経典大型演唱会 (上)』(音楽の大きな祭典)のDVDが中国で発売されている。西城はその祭典で「羅拉」(ローラ・日本語)と「瞬間」(moment・北京語)を歌っている。尚、出演者の中、ソロ歌手で2曲歌ったのは西城だけである[59]

2001年3月、45歳のとき、芸能生活30周年を記念した独身最後の写真集 『H45』を発売[60][61]。「ギャランドゥ」全開ショットやヌードを含むセクシーでワイルドな秘蔵写真が満載[60][62]。6月30日、大阪府在住の一般女性と電撃的に結婚を発表し、静岡県の神社で挙式。7月、ディズニー映画ラマになった王様』の主題歌「ラッキー☆ムーチョ」を「ムーチョ☆ヒデキ」として歌唱。10月、デビュー30周年記念コンサートツアーを開催。

2002年4月28日 - 5月13日、新宿コマ劇場梅田コマ劇場にて『新・演歌の花道』に出演。「サンヨーオールスターゲーム」のオープニングイベントにて「君が代」、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱。

2003年6月21日、ディナーショーのため訪れていた韓国で脳梗塞を発症。9月1日 - 9月13日、中日劇場・新宿コマ劇場・梅田コマ劇場『Forever '70s 〜青春〜 伝説のステージ』出演。

2004年3月6日、NHKミュージック・イン・ドラマ『ホシに願いを』に出演[63]。7月2日、当時西城が在住していた神奈川県川崎市の市制80周年記念マッチとして開催された日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)2部(当時)の川崎フロンターレ - 横浜FC戦(川崎市等々力陸上競技場で開催)においてハーフタイムショーに出演し「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱[64]。以後、2007年[注 7]を除き2013年まで毎年フロンターレ主催の川崎市制記念試合に出演[65]。10月、著書『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』(リベロ)を発売。

2005年7月1日、パチスロメーカー「オリンピア」からタイアップ・パチスロ『ヒデキに夢中!!』がリリース。

2006年9月、東京スポーツで『西城秀樹歌手生活35周年、奇跡の復活 ヒデキカンゲキ!』が連載される。9月27日、脳梗塞発症以来、3年ぶりのシングル『めぐり逢い/Same old story 〜男の生き様〜』を発売。

2008年5月30日、NHK総合『青春のポップス』で共演した森口博子早見優等と共に、東京都の中野サンプラザホールにてコンサート『思い出の青春ポップス』を開催。9月17日、アンダーグラフの「ジャパニーズ ロック ファイター」のプロモーション・ビデオに出演。

2009年3月30日 - 9月26日、NHK朝の連続ドラマ『つばさ』に出演。4月5日 - 、『趣味の園芸 やさいの時間』にレギュラー出演。番組の主題歌「ベジタブル・ワンダフル」を歌う。9月15日、89回目で最後となる大阪・厚生年金ホールでのコンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 2009』を開催。

2010年 - 2018年

2011年3月17日 - 3月28日、藤原紀香主演のミュージカル『マルグリット』に初の悪役として出演。6月10日、NHK Eテレ時々迷々』「ヒデキに会いたい!」が放送される[66]。9月30日、デビュー40周年記念コンサートを渋谷C.C.Lemonホールで開催。12月20日 - 12月30日、脳梗塞が再発していることが判明し、東京都内の病院で入院治療する。右半身麻痺の後遺症が残るが、リハビリの結果つえをついて歩けるまで回復。

2012年1月28日、静岡で行われたチャリティーコンサートに出演。6月28日、水泳の発展と普及に寄与する人材をたたえる日本スイミングクラブ協会主催の「ベストスイマー2012」を受賞。10月26日、著書『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』(廣済堂出版)を発売。

2013年4月17日 - 12月4日、NHK BSプレミアムの料理・紀行番組『ぐるっと食の旅 キッチンがゆく』に、月1回のレギュラー出演。

2014年4月5日 - 9月27日、BSジャパンの情報番組『ヒデキの感激!NEXTハウス』にレギュラー出演。8月9日、NHKで生放送された第46回『思い出のメロディー』(同局の音楽番組に4年ぶり)に出演する。

2015年4月11日、東京ビッグサイト東京国際展示場・東6ホール)にて開催の、東日本大震災復興イベント『フラワードリーム in 東京ビッグサイト 2015』において、60歳以上の著名人にバラを贈る『第8回 Happy Rose アワード』を受賞[67]。 2015年4月13日、60歳の誕生日に還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』を発売。同日、東京都港区の赤坂BLITZにて自ら「ヒデキ還暦!」と題した記念ライブを開催。「新御三家」の盟友、野口五郎がゲストとして登場。バースデーケーキを運びながらステージに現れ、西城の誕生日を祝い抱擁を交わした[68]。同日、埼玉県入間市に西城がプロデュースした体験型市民農園『西城秀樹体験型市民農園 「百果百菜」』開園[69]。 同年7月15日「1975年劇場公開の映画『ブロウアップ・ヒデキ』」(松竹映画)が初DVD化[70]

2016年2月13日、西城が監修したソフトバンクY!mobile」の広告が放送開始[71]。「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」のメロディーにのせた歌とダンスをプロデュース。川崎フロンターレの川崎市記念試合応援ハーフタイムショーは死去前年の2017年まで続けられており、亡くなった2018年は本人不在の等身大パネル及び過去の歌唱音源、映像での参加ながらもサポーターから熱く迎えられた。

作品

業績

西城は「新御三家」の一人として、今日に繋がる男性アイドルの原型を作り上げ、「歌謡曲の新時代」を築いた人物の一人である[72]

日本の男性アイドルの「新御三家」として売り出された際、郷ひろみは「可愛い美少年」、野口五郎は「歌が上手い」とされ、西城は大きいだけであまり特長がないと見なされた[10]。そこでスタッフは、彼らと差別化を図り、西城の個性を活かすため、「情熱的でセクシーな、男性的魅力」をコンセプトとして打ち出していこうと決めた。そのコンセプトに沿って、楽曲やダンスの振り付け、衣装が創作されていった[10][73]。プロデューサーも西城の音楽的バックボーンを理解し、海外のサウンドと日本のメロディをドッキングさせるロック/ポップス寄りの楽曲作りが行われた[74]。意図的に激しいロック調の曲を作り、女性ファンがより興奮しやすくなるようなストレートなフレーズを歌詞に散りばめた [75]。派手でセクシーなアクションと長身かつ、長い脚が映えるビラビラ衣装がそのイメージを決定づけた[9][10][41][76]。初期にはエルヴィス・プレスリーを意識した衣装など、アメリカナイズした雰囲気を衣装に取り入れた[10]

スタジアム・コンサート

スタジアムコンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催したのも西城である(グループでの日本初は1968年のザ・タイガース[10][77][78]。1974年夏、ワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”』を大阪球場で開く。「ウッドストック・フェスティバル」の影響を受け、「野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」と西城自身が企画し、このコンサートが実現した。観客2万5000人。コンサートは設営から解体までに3日かかり、その間の弁当代だけで300万円[79]。1回にかかる費用は当時の金額で6000万円[79]。満員になっても儲けが出ることは無かった[79]。西城の球場コンサートは、ただ歌と演奏をするだけにとどまらず、現在では許可されない巨大クレーンにより宙づりになった「ゴンドラ」の中での歌唱や[10][77][80]、ヘリコプターを使った派手で危険な演出も自身のアイデアで実行し、日本での初導入とされるレーザー光線や[47]、衣装に電飾を仕込む演出効果など、球場の大きな空間を利用しての派手な仕掛け[注 8]、演出が売りであり、毎年赤字覚悟でエスカレートしていった[79]。時代的にどれも人が操作したり手動で動かす手作りライブであった。クレーンの使用は西城自身が工事現場のクレーンを見て「何か使い道ないかな」と閃いたのが切っ掛け[82]。豪雨のカーテンに包まれ、雷鳴が響きわたる中、稲妻に照らし出されて[83]キング・クリムゾンの「エピタフ」を熱唱した1979年の後楽園球場では[47][84]、マイクから感電しながら歌唱を続行、「本当に死んでもかまわないと思いながらやってた」、「俺たちの時代の人ってのはみんな命を賭けてた」と述べている[85]

大阪球場は1974年より1983年まで10年連続と長きにわたり継続。派手な仕掛けに加え、「雨男」と言われるぐらい雨中でのライブも多かった。「ペンライト」は西城のコンサートが発祥[79][86][87]サイモンとガーファンクルの海外のライブでファンがライターを灯す姿にヒントを得て、1974年の球場ライブで「(火は危ないから)なにか光るものを用意してきて!」と観客に呼びかけると、それ以降「ペンライト」というものを、観客が用意するようになった[77][88]。3回目の大阪球場ライブを伝える1976年11月の『月刊平凡』の記事に「ヒデキの登場に、赤、黄、グリーンのペンライトを持ったファンが応える」という記述が[81]、1976年11月の武道館リサイタルをレポートした『mimi』1977年1月号の記事に「全方向から見られるように、八角形にしつらえたステージ。秀樹のステージでおなじみとなったペンライトのゆれる中で..」という記述が見られる[89]

大阪球場跡地に建設されたなんばパークスの屋上に在るパークスガーデンには、大阪球場を本拠地にした南海ホークスの元選手たちの手形モニュメントが設置されているが、その中に難波及び大阪球場にゆかりのある人物のひとりとして西城秀樹の手形とサインが入ったモニュメントも設置されている[90][91][92]

後楽園球場での初ライブ『BIG GAME'78 HIDEKI』は1978年7月22日[93]。ソロシンガーとしての初の開催で、以降、1981年まで毎年コンサートを行い計4回。後楽園球場の最多公演アーティストとなる(後楽園球場#コンサートを開催したミュージシャン)。マイケル・ジャクソンが1987年9月から初のワールドツアー(バッド・ワールド・ツアー)を日本から行う際、マイケルのスタッフが後楽園球場の演出に「西城のスタッフを借りたい」と申し出たといわれる。1978年夏の全国縦断ツアーでは、5回目の大阪球場の他、三重県の合歓の郷(7月9日)、千葉県東部の九十九里浜特設ステージ(7月26日)で野外ライブを行った[93]

野外ライヴ

1975年7月20日、富士山麓での野外ライヴは、広大な空き地に一からステージ設営し、バスで全国から観客を運ぶといった大イベントも成功させた[48][94][95][96]。観客3万人[97]。当時の週刊誌で「史上初、空前絶後の大イベント」と書かれており[95]、「夏フェス」の元祖ともいわれる[98]吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋』より二週間早く、ソロでの観客数万人規模の野外ライヴとしては、最も早い事例と見られる。本コンサートを皮切りに同年8月30日まで続いた『全国縦断サマー・フェスティバル』の模様とステージを離れた西城のプライベートタイムを細大もらさずフィルムに収めようと松竹日本テレビの二つの撮影クルーが社を挙げて追いかけた[97][99][注 9]。この松竹版がドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ』で[48]、1960年代にGSのバンドなどを主役とする歌謡映画がよく作られたが、このようなアイドルのひと夏のツアーを追ったドキュメンタリー映画が日本中でロードショーされるのは珍しく[101]、『エルビス・オン・ステージ』をヒントに製作されたと評された[101]。日本テレビは1975年9月25日の『木曜スペシャル』枠で『西城秀樹日本縦断20歳の絶唱!』「35メートルの秀樹宙吊りの熱唱▽完全取材!北海道から沖縄まで秀樹魅力の全て▽告白!母が語る秀樹生い立ちの秘密▽秀樹オンステージ」というタイトルで放送した[99]

鹿児島県最南端の島である与論島の海開きに合わせ、1979年3月31日に当地の海水浴場特設ステージでコンサート[102][103][104]。島外からのファン700人を含めた観客3000人[102]。発売間もない「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、ステージを降り、砂浜でファン全員で西城の周りを囲み一緒に歌った[102]。「ホップ・ステップ・ジャンプ」のジャケット写真はこの時撮影されたもの。

アジア進出

1981年5月、亜細亜テレビの香港音楽祭にスペシャルゲストとして出演[105]。20分のゲスト出演だったが[106]、番組視聴率は90%を超えた[107][108]。西城についての問い合わせが殺到し、香港のマスメディアに大きく取り上げられた[108]。当時の香港にもかつての日本の歌謡界と同様、歌う時に体を動かす人があまりおらず、現地の新聞に"ボディアクション""ボディランゲージ"とやたら書かれた[106]。西城からの影響で現地の歌手がそれをみんな真似し始めた[106]。9月12日 - 9月14日、香港で初めてのコンサートをクイーンエリザベス・スタジアムで開催[14][105]。現地のプロモーターから「香港の人は評価がストレートだから一回目でブーイングが来たら二度と香港では出来ないよ」と言われ、大変な重圧の中で歌い切り[108]、翌日の新聞の見出しはそれまでの「赤旗星(スーパースター)」から「天皇巨星(超スーパースター)」と表記され、「最もセクシーな歌手」と絶賛された[109]。香港のゴールドディスクを四年連続、プラチナディスクも計6回受賞[110]。アジアでの日本人歌手進出の先がけとなる[4][85][86][111][112][113][114][115]。当時の香港はアイドル歌手の存在はなく、歌唱力など実力のある人でないと人気は出ない土地柄だった[116]

1982年9月22日 - 9月24日の3日間[117]、香港にて2回目のコンサートを開催(クイーンエリザベス・スタジアム)[112][117]。当時の香港は教科書問題で揺れ[117][118]、同時期コンサートを予定していたさだまさし三原順子は中止を余儀なくされたが[107]、西城だけは特別扱い[107]。「僕は広島で生まれ、原爆ドームを見ながら育った。平和を思う気持ちは人一倍です。僕は平和を求める歌手として香港に来ました。歌に国境はない。あってはいけない」という西城のコメントが香港の新聞に大きく掲載された[117]。香港メディアも「歌と政治は切り離すべき」という論調を載せ、平和の使者としての西城を歓迎した[107][117]

日本のファンも熱狂的だが、香港の人たちの西城の愛し方は尋常ではなく[107]、コンサートが開催される半年も前から書店には西城の特集を組んだ芸能誌『好時代』がうず高く積まれ、『愛と誠』が上映され、それまでの西城のコンサートの模様を再編集し、ゴールデンタイムに流すハシャギようで、香港の街はヒデキ一色[107]。コンサートで客席に人指し指を向けようものなら、それまで踊り狂っていた子がワーッと泣き出しそれも男の子たちで、西城も「はじめは信じられない世界を見ているようだった」と話した[107]。アジアでは圧倒的に男性客が多かった[7]。香港で西城がダントツ人気を得た理由を香港観光協会は「香港の人間はメンタリティーの部分で、欧米人よりも日本人によく似ています。ジャズよりも当然、日本のポピュラーソングの方がなじみやすいし、リズムとかイントネーションもこっちにマッチしています。香港のショービジネスはアメリカ型というか、下積みから叩き上げていく、いわば本格志向なんです。逆にいうとアイドルの存在が香港にはないんですね。西城はジェネラルだし新鮮さがある。おまけに声量はあるし、歌がうまい。歌プラスショーとでもいうか、仕掛けのあるステージも香港の若い人たちを熱狂させるに充分でした」などと解説した[107]アニタ・ムイは西城の追っかけからファンクラブ副会長を務めた後、スカウトされ大スターになった[116][119][120]。1985年に香港の新聞に「西城秀樹聞梅艶芳暗恋」と書かれ、西城の恋人と騒がれたこともあった[116]。アニタは「日本で西城秀樹さんと共演したことが生涯最高の思い出」と話していた[121][注 10]ジャッキー・チェンサミュエル・ホイジョイ・ウォンなど、早くから西城のステージを観に訪れた[108][110][112]。ジャッキーは西城の追っかけのように客席の一番前で三脚まで置いて写真をバチバチ撮り、ステージの上からだとはっきり見えないので、現地のマスコミだと思っていたら、コンサートの終了後に控室に挨拶に来た[106]。ジャッキーはもう香港でも大スターで、西城も『酔拳』とか観ていたから驚き、すぐに食事に誘われ、ジャッキーはどんどん大スターになっていったが、以降もコンサートの時には必ず来てくれた[106]。彼らとは商売抜きで音楽だけで繋がっている関係[7]。彼らが来日した時は、自宅に招待したりし酒を酌み交わした[7][106]。それはアマチュア時代に年上のバンド仲間と純粋に音楽のことだけで付き合っていた頃の記憶と重なった[7]。ジャッキーとは映画での共演は無かったが、1987年8月1日に滋賀県の琵琶湖であった「第5回びわ湖水の祭典ASIA POPS'87」で最後のアンコールでジャッキーが飛び入りで入り「ギャランドゥ」などを一緒に歌った[106]。香港での成功でアジア各国のどこでもコンサートが開けるようになった[110]。自ら構築したステージ狭しと駆け回り、派手な身振り手振りで楽曲の世界観を表現する、「日本のアイドル歌手」というスタイルをいち早くアジア各国へ輸出した。『ミス・インターナショナル・クイーン』でタイのテレビに出演したはるな愛は、タイ王国の司会者が「スシ!テンプラ!西城秀樹!」と連呼するので驚いたと話している[122]。西城は「アジアの人たちにはアイドルだどうのこうのという先入観がないため、自分が今ここで出す音しか信用してもらえない。音だけの世界で人気を積み重ねた結果で、自分でも自信になった」と話している[7]

1985年9月7日 - 9月11日、香港のほかシンガポールでもコンサートを開催。1986年、シチズンの広告で、海外(アジア各国)広告に初出演[123]。広告曲は「City Dreams From Tokyo」。10月14日 - 10月19日、香港、シンガポールにてコンサート『Caravan From Tokyo - HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '8-06-』を開催。10月14日に香港コロシアムで行われたコンサートの入場料は180香港ドル(約3600円)[123]。香港の当時のOLの平均月収は約6万円だったため、気軽にコンサートを楽しむというレベルではなくファンの見る目も厳しかった[123]。この日のコンサートの模様は、ビージーズでもロッド・スチュワートでもやらなかった前例のないTV完全中継が行われた[124]。毎年の日本武道館公演に香港からファンが数百人単位で鑑賞に訪れるので[107]、負担も大きいと考え、1980年代後半は香港を中心にアジアでの活動を増やした[107]。香港でも歌が売れ、ベストテン上位をキープ[105][125]。1986年に香港でも発売したカバー・アルバムStrangers in the Night』は、香港のアルバムチャートで前代未聞の47週トップを独走した[126]。香港での人気は、フランク・シナトラは別格にしても、ロッド・スチュワートを凌ぐとも称された[123]。1980年代後半は、日本より香港の人気の方が高いぐらいであった。また現地の歌手を活かすため、ステージや番組の演出にも関わり、日本と同様、香港のエンターテインメントの制作にも革命を起こした[106]

1987年3月5日 - 3月8日、中国本土で初のコンサートを首都北京首都体育館及び廣州・中山記念堂で開催[114][127][128]。中国人民対外友好協会の二年越しのラブコールに応える形で行われ[128]、廣州のコンサートは児童福祉会館のエレベーター建設のためのチャリティー・コンサートで、そのエレベーターは「西城号」と命名された[127]。香港の流行は中国にも伝わった[106]。廣州は香港から120kmしか離れておらず、香港での知名度が高い西城は、廣州でも大スターで、ホテルを一歩出るとあっという間に人垣ができた[128]。当時の中国の労働者の平均月収は約120人民元(当時の為替では約5000円)で、チケットは40元だったが飛ぶように売れた[128]。コンサートは5000人収容の中山記念堂で2回行われたが、収容しきれず、リハーサルを公開すると3000人集まった[128]。廣州に初めてレーザー光線を運び込み[128]、待ち望んだヒデキの肉声に、感情をあまり表面に出さないと言われた人たちが、手拍子を打ち、立ち上がり、踊り出した[128]。香港でも大ヒットした「年青人(ヤングマン)」では、会場中の人が「Y.M.C.A.」の大合唱。ヒデキが「再見!」とステージから去ると「安歌(アンコール)!」の声が響き渡った[128]。西城は「8年前、初めて香港でコンサートをやって以来、ボクはずっとアジアを見つめていた。フィリピン、シンガポールと段階を経て、やっと中国にたどりついた。これはボクの8年間の夢だったんです」と話した[128]。3月10日 - 5月5日、香港で初の主演映画『天使行動(Angel)』撮影(1989年、日本でも上映)[112]。撮影の3か月間、ジャッキー・チェン、レスリー・チャン、ジョイ・ウォンなどと友好を深める。

1988年9月16日、ソウルオリンピック前夜祭に趙容弼(チョー・ヨンピル・韓国)、陳百強(ダニー・チャン・香港)、胡寅寅(フーインイン・中国)と共に出演。「傷だらけのローラ」を歌う。日本人として初めて韓国の公式の場において、日本語の歌が電波にのった瞬間であった[112][129][130][注 11]。この模様は衛星中継で世界137か国に放映された。1989年2月、香港、バンコク、3月にブラジルサンパウロ(イヴィラポエラ体育館)でコンサートを開催。"K-POPブームの仕掛人"といわれるSMエンターテインメント創業者・李秀満(イ・スマン)も西城の影響を受けたといわれる。

1990年、広島・アジア音楽祭『Asian Harmony』を初プロデュースし、出演する。チョー・ヨンピルなど各国からトップ・アーティストを招聘した。1993年にも同種のアジア音楽祭をプロデュースし、出演する。1991年、バングラデシュ救援コンサート『俺らだけのヒットパレード』(以降3年連続)に出演。

1996年5月28日、『アジア音楽祭イン福岡』(TXN九州主催)出演と蓮舫とともに司会を務める[131]。中国、韓国、香港、タイ、マレーシアのトップシンガーが出演し、テレビ東京系で全国中継(19:00-20:54)。アジアのポップス音楽祭が民放のゴールデンタイムで生中継されるのは初めてといわれた[131]。同年、中国・大連市で行なわれた『国際ファッションショー前夜祭』に日本からのゲストとして出演。大連体育場約4万人の前で歌唱。中国全土及びアジア各国にテレビ放映された。

1997年10月開校した上海新偶像芸術学校(シャンハイ・ニューアイドル・アート・スクール)名誉教授[132]

1998年、「日中友好条約締結20周年」のイベントとして、中国世界文化遺産万里の長城において外国人歌手初の野外コンサートを開催する[133]。アジア・ツアーの一環として広州市・珠海市でもコンサートを開催。中国唱片廣州公司(CHINA RECORD)より「moment」北京語ヴァージョンを含むベストアルバム『瞬間』発売。中国でも西城の知名度は高いといわれる[111]

1999年9月、日本からペルー共和国への移民100周年記念年としてペルーリマで開催されたNHK『NHKのど自慢』に八代亜紀と共にゲスト出演[134]

2007年3月22日、香港のレコード協会にあたるIFPI香港の設立40周年記念のイベント『IFPI Top Sales Music Award』に、約35年間の広東ポップに大きな影響を与えた海外アーティストとして表彰された[112][135][136]。9月24日には、「日中国交正常化35周年」と「中韓国交開始30年」の節目として中国・南通市スポーツ・スタジアムで開催された『第9回アジア国際芸術祭』に松田聖子と共に招待され、「傷だらけのローラ」と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を観客約8万人に披露[137][138]。この模様は10月13日、中国全土に放映された。

2012年9月16日、ブラジル・サンパウロ(ビア・フンシャル劇場)で23年振りにコンサートを開催。

脚注

注釈

  1. ^ 1975年9月にRVCが設立。RCAレーベル事業が移管され、RVC所属となった
  2. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「37.リトルガール」の項を参照。
  3. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「38.セクシーガール」の項を参照。
  4. ^ オリコンの集計では1982年の「南十字星」により同記録を達成する。
  5. ^ 同じく新御三家の野口も同年2月に三井ゆりと結婚している。
  6. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1970〜1979」⇒「10.傷だらけのローラ」の項を参照。
  7. ^ 同年は川崎麻世が出演し「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱。
  8. ^ この他、「オートバイ」、「CAR」、トラック野郎の「デコトラ」、11tトラックを改造した「光の箱」、ステージの一部が15mまでせり上がる「リフト」、前に飛び出す「ムービングステージ」、「炎のじゅうたん」、「空中からのダイブ」、おなじみ「スペースイーグル」、「バルーン」、「空中ブランコ」、「E.T.自転車」、「レーザー光線」、「煙幕」、「火薬」、「花火」など[81]
  9. ^ 松竹はスタッフ40人、劇場用カメラ5台、レンズ40本、ヘリコプター1機、バス2台、ワゴン車2台と松竹大船撮影所の機材を7割方運び込み[97]、おりからスタジオで撮影中だった『男はつらいよ 葛飾立志篇』の撮影に支障をきたした[97]。これに対抗して日本テレビは東京からビデオカーを繰り出し、21歳の西城の内面をキメ細かく追ったが、松竹と日本テレビの撮影クルーが現場でしばしばぶつかった[99]。松竹が1975年9月20日から全国公開すると発表すると日本テレビが激怒[99]、日本テレビは1975年9月25日の『木曜スペシャル』枠で放送することを決めていたため「放送前に先に松竹に公開されては番組の商品価値が半減する。番組を作るときの契約ではテレビが優先だった」と西城の所属する芸映を突き上げ、「ご無理、ごもっとも」と芸映、松竹とも日本テレビに平伏[97][100]。『ブロウアップ ヒデキ』は同年10月10日に公開延期を余儀なくされた[99]。この醜態に城戸四郎松竹会長が「テレビや芸能プロに振り回されるとは何事か!」と激怒し、三嶋与四治企画本部長のクビが飛び、81歳の城戸会長が再び映画製作本部長として現場に復帰、第一線で指揮を執ることになった[99][100]
  10. ^ 1984年『ヤングアジア歌謡祭』[116]
  11. ^ これより一ヶ月前の1988年8月18日、少女隊が韓国側の放送局の了解なしに日本語で歌う[129]

出典

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参考文献

関連項目

外部リンク