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「襟裳岬 (森進一の曲)」の版間の差分

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『[[NHK紅白歌合戦]]』で「襟裳岬」は、初披露時の1974年の第25回に続いて、1997年の[[第48回NHK紅白歌合戦|第48回]]、[[2010年]]の[[第61回NHK紅白歌合戦|第61回]]、[[2013年]]の[[第64回NHK紅白歌合戦|第64回]]と、合計4度歌唱されている。また、[[2005年]]の[[第56回NHK紅白歌合戦|第56回]]での出場者選考アンケート「[[スキウタ]]」にも、「[[おふくろさん]]」と共にランクインした。
『[[NHK紅白歌合戦]]』で「襟裳岬」は、初披露時の1974年の第25回に続いて、1997年の[[第48回NHK紅白歌合戦|第48回]]、[[2010年]]の[[第61回NHK紅白歌合戦|第61回]]、[[2013年]]の[[第64回NHK紅白歌合戦|第64回]]と、合計4度歌唱されている。また、[[2005年]]の[[第56回NHK紅白歌合戦|第56回]]での出場者選考アンケート「[[スキウタ]]」にも、「[[おふくろさん]]」と共にランクインした。

== 評論 ==
[[相倉久人]]は「吉田拓郎がなぜ若い世代にウケたかというと、彼の歌は本質的に日本のものだからです。だけど、拓郎の歌はコブシやなんかを取っちゃって、リズムやテンポが速くなってるからモダンに聞こえるんです。でも本質的には日本のものだから、当然、[[日本人]]にはウケますよ。ところが森進一が拓郎の『襟裳岬』を歌ったとき、業界の人も含めて、勘違いしちゃった人が多かったんですよ。演歌の時代は終わって、これからはフォークやニューミュージックの時代なんだって。だから、それじゃ次は[[大瀧詠一]]に作曲を頼もう、誰それに頼もうという風になっちゃったわけです。だけど、さすがに作詞家の岡本おさみが気づいた。あれは良くなかったと。『襟裳岬』を歌ったばっかりに森進一は軽く歌い始めちゃった。『あれは絶対に間違いだ』って、彼は言った(中略)演歌の時代が終わって新しい音楽の時代になったんじゃなくて、それまで演歌が持っていたけど失われかかっているものを、拓郎やなんかのフォークの連中は、自分ではそうは思ってないけど、表現したわけです。歌に日本的なものが浸み出してきちゃうんですよ。演歌の持っていた重要な部分を、いつのまにかフォークなんかが持っちゃってたわけ。これはかなりしつこく[[日本レコード大賞|レコード大賞]]なんかの機会に言ってきたつもりですけどね(中略)。僕が[[吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋|つま恋]]に行ったとき、一番興味があったのは『襟裳岬』を拓郎がどう歌うかということでした。そしたらステージの流れの中で自分の曲の一つだという風に、何でもないように歌っちゃうわけ。さすがだなと思いましたね(中略)。森進一側から『あんなものだって演歌は取り入れられるんだぞ』という姿勢でやればいいものを、森側からフォークの方に擦り寄ってきた感じになった。それが他にまで影響しちゃったんですよ。フォーク系のものが、やたらと歌謡曲の世界に入り込んできちゃった。当人あるいはスタッフが勘違いして『これからはこっちだ』と思っちゃった。演歌のいい部分を持っているからこそ『襟裳岬』がヒットしたはずなのに、フォークでも何でもやってみようみたいなことになり、そういうのが一時、けっこう増えましたね。要するに、アメリカに憧れて[[アメリカ合衆国の音楽|アメリカの歌]]をアメリカ風に歌うというのと同じ姿勢になっちゃったんです」などと論じている<ref name="相倉松村">[[#相倉松村]],「第9回 ニューミュージックを聴き直す 3 勘違いされたフォーク」 pp.259-264。</ref>。


== 影響 ==
== 影響 ==
* フォーク界との連携による本作の成功は、以後の歌謡界に大きな影響を与えた{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}<ref name="realsoundみの後藤"/><ref name="男性シンガー・ソングライター"/><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=AoFgIowII48C&printsec=frontcover&source=gbs_v2_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p.111]、[https://reminder.top/624087285/ 1980年代の吉田拓郎、過去の自分との決別からスタートした “大人” のリアル]{{Cite news|title=アイドル編<450>フォークとのハイブリット|date=2020-02-03|author=田代俊一郎|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/581006/|accessdate=2022年7月21日|publisher=[[西日本新聞社]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200204093821/https://www.nishinippon.co.jp/item/n/581006/|archivedate=2020年2月4日}}{{Cite interview|和書|subject=水原空気|subject2=若松宗雄|url=https://ginzamag.com/column/seikomatsuda-80s-08/|title=松田聖子の80年代伝説Vol.8 乙女心がおしゃれなWジャケットにギュッと詰まった6thアルバム『Candy』|date=2021-01-23|work=ginzamag.column|publisher=[[マガジンハウス]]|accessdate=2022年7月21日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210123132018/https://ginzamag.com/column/seikomatsuda-80s-08/|archivedate=2021年1月23日}}</ref>。[[ポピュラー音楽|大衆音楽]]の主流を自負し、日本的情緒を代表している筈の[[演歌]]・[[歌謡曲]]が、新しい世代の音楽に接点を求め、それが大衆に受け入れられたということは、既成の歌謡曲と、新しい音楽の流れが、時代の中で[[相対主義|相対的]]な力関係を持ち始めたということでもあった{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}<ref name="ベストアルバム">{{Cite book |和書 |author = [[田家秀樹]]・大越正実・藤井徹貫・前田祥丈・下村誠 |year=1992 |title=日本のベスト・アルバム |publisher=[[シンコー・ミュージック]] |isbn=9784401614035 |page=136 }}</ref>。本作以降、フォーク系[[シンガーソングライター]]が歌謡ポップス系や演歌歌手に曲を提供するケースが目立って増えるようになった{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}<ref name="realsoundみの後藤"/><ref>[https://web.archive.org/web/20050611012444/http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/interview/2005/sun050529.html nikkansports.com> 日刊スポーツ> 吉田拓郎インタビュー](Internet Archive)</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20111223065859/http://www.yomiuri.co.jp/otona/people/graffiti/090520.htm 歌謡曲とフォークの架け橋めざして~太田裕美さん(1) : 青春グラフィティ](Internet Archive)、[[鈴木啓之 (経営者)|鈴木啓之]] 『昭和歌謡レコード大全』 [[白夜書房]] 2003年 p183、[[長田暁二]] 『歌でつづる20世紀』 [[ヤマハミュージックメディア]] 2003年 p202、203、池田憲一 『昭和流行歌の軌跡』 白馬出版 1985年 p35-36、[[五木ひろし]]『五木ひろし ファイティングポーズの想い』 [[日本放送出版協会]] 2004年 p147、148、『1946-1999 売れたものアルバム』 MediaView [[東京書籍]] 2000年 p180-181。</ref>。この背景には、新鮮な楽曲を欲していた歌謡曲サイドが、目新しさを求めて「若者の歌」にアプローチしたということ{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}、フォーク系[[シンガーソングライター]]にとっては、自分の楽曲を歌わせる「新しい素材」を歌謡曲に求めたという理由があった{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}。自分で作った歌を自分で歌うのがシンガーソングライターではあるが、ソングライターとしての自分の実力をより世間に広く知らしめたいという"野心"がそこにあった{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}。[[保守]]的でありながらも、常に目新しさを貧欲に求め続ける歌謡界と、新しいスタイルでビジネスを展開しようとしながらも、人材不足を感じていたフォーク([[ニューミュージック]])界の両者の思惑がここで一致した{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}。ビジネス面からいえば、それまで[[レコード会社]]や[[芸能プロダクション]]しか知らなかった一つの楽曲から派生する[[著作権#出版権設定契約(出版権)|出版権]]や[[原盤権]]といった「[[著作権|権利ビジネス]]」を知った吉田拓郎と後藤豊([[後藤由多加]])が設立したユイ音楽工房をはじめとする新興プロダクションが{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}、自分たちの手で「権利ビジネス」を取り戻したいという欲求もあった{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}。これはレコード会社、プロダクション、ミュージシャンなどの意識が大きく変化した日本の音楽ビジネス史上、稀に見る音楽ビジネスの大転換でもあった{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}。また、それまでは歌謡曲の[[縄張り|テリトリー]]だった日本的メンタリティーを主題として打ち出すシンガーソングライターもこれ以降、脚光を浴びていく<ref name="ベストアルバム"/>。そうした音楽の流れは、旧態依然たる[[プロット (物語)|プロット]]の中に[[ノスタルジア|ノスタルジー]]としての[[叙情#音楽における叙情性|叙情]]を求めていた演歌・歌謡曲に替わって、時代感覚の中でその叙情を表現していった<ref name="ベストアルバム"/>。叙情フォークのムーブメントは、見方を変えれば、歌謡曲ルネッサンスでもあった<ref name="ベストアルバム"/>。また吉田拓郎にとっても[[作曲家]]としての幅の広さとオリジナリティーを世間に認知させた記念碑的な作品となり<ref>[https://www.teichiku.co.jp/artist/takuro/disco/ci31.html 吉田拓郎「家へ帰ろう / 襟裳岬:TECI-31」]</ref>、以降、[[音楽プロデューサー]]としての地位も確立していく<ref>{{Cite|和書 |author=シンコーミュージック|title=フォーク黄金時代(1969〜1978) {{small|(CUT-UP-FROM [[YOUNG GUITAR]])}} |year=1992 |publisher=シンコーミュージック|page=185 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jprime.jp/articles/-/24523?page=2|title=【歌手引退】吉田拓郎、52年の活動を振り返ってみえた「日本音楽史のレジェンド」になれたワケ|website=[[週刊女性PRIME]]|date=2022-07-18|accessdate=2022年7月21日|publisher=[[主婦と生活社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220719025743/https://www.jprime.jp/articles/-/24523?page=2|archivedate=2022年7月19日}}</ref>。
* フォーク界との連携による本作の成功は、以後の歌謡界に大きな影響を与えた{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}<ref name="realsoundみの後藤"/><ref name="男性シンガー・ソングライター"/><ref name="相倉松村"/><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=AoFgIowII48C&printsec=frontcover&source=gbs_v2_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p.111]、[https://reminder.top/624087285/ 1980年代の吉田拓郎、過去の自分との決別からスタートした “大人” のリアル]{{Cite news|title=アイドル編<450>フォークとのハイブリット|date=2020-02-03|author=田代俊一郎|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/581006/|accessdate=2022年7月21日|publisher=[[西日本新聞社]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200204093821/https://www.nishinippon.co.jp/item/n/581006/|archivedate=2020年2月4日}}{{Cite interview|和書|subject=水原空気|subject2=若松宗雄|url=https://ginzamag.com/column/seikomatsuda-80s-08/|title=松田聖子の80年代伝説Vol.8 乙女心がおしゃれなWジャケットにギュッと詰まった6thアルバム『Candy』|date=2021-01-23|work=ginzamag.column|publisher=[[マガジンハウス]]|accessdate=2022年7月21日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210123132018/https://ginzamag.com/column/seikomatsuda-80s-08/|archivedate=2021年1月23日}}</ref>。[[ポピュラー音楽|大衆音楽]]の主流を自負し、日本的情緒を代表している筈の[[演歌]]・[[歌謡曲]]が、新しい世代の音楽に接点を求め、それが大衆に受け入れられたということは、既成の歌謡曲と、新しい音楽の流れが、時代の中で[[相対主義|相対的]]な力関係を持ち始めたということでもあった{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}<ref name="ベストアルバム">{{Cite book |和書 |author = [[田家秀樹]]・大越正実・藤井徹貫・前田祥丈・下村誠 |year=1992 |title=日本のベスト・アルバム |publisher=[[シンコー・ミュージック]] |isbn=9784401614035 |page=136 }}</ref>。本作以降、フォーク系[[シンガーソングライター]]が歌謡ポップス系や演歌歌手に曲を提供するケースが目立って増えるようになった{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}<ref name="realsoundみの後藤"/><ref>[https://web.archive.org/web/20050611012444/http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/interview/2005/sun050529.html nikkansports.com> 日刊スポーツ> 吉田拓郎インタビュー](Internet Archive)</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20111223065859/http://www.yomiuri.co.jp/otona/people/graffiti/090520.htm 歌謡曲とフォークの架け橋めざして~太田裕美さん(1) : 青春グラフィティ](Internet Archive)、[[鈴木啓之 (経営者)|鈴木啓之]] 『昭和歌謡レコード大全』 [[白夜書房]] 2003年 p183、[[長田暁二]] 『歌でつづる20世紀』 [[ヤマハミュージックメディア]] 2003年 p202、203、池田憲一 『昭和流行歌の軌跡』 白馬出版 1985年 p35-36、[[五木ひろし]]『五木ひろし ファイティングポーズの想い』 [[日本放送出版協会]] 2004年 p147、148、『1946-1999 売れたものアルバム』 MediaView [[東京書籍]] 2000年 p180-181。</ref>。この背景には、新鮮な楽曲を欲していた歌謡曲サイドが、目新しさを求めて「若者の歌」にアプローチしたということ{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}、フォーク系[[シンガーソングライター]]にとっては、自分の楽曲を歌わせる「新しい素材」を歌謡曲に求めたという理由があった{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}。自分で作った歌を自分で歌うのがシンガーソングライターではあるが、ソングライターとしての自分の実力をより世間に広く知らしめたいという"野心"がそこにあった{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}。[[保守]]的でありながらも、常に目新しさを貧欲に求め続ける歌謡界と、新しいスタイルでビジネスを展開しようとしながらも、人材不足を感じていたフォーク([[ニューミュージック]])界の両者の思惑がここで一致した{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}。ビジネス面からいえば、それまで[[レコード会社]]や[[芸能プロダクション]]しか知らなかった一つの楽曲から派生する[[著作権#出版権設定契約(出版権)|出版権]]や[[原盤権]]といった「[[著作権|権利ビジネス]]」を知った吉田拓郎と後藤豊([[後藤由多加]])が設立したユイ音楽工房をはじめとする新興プロダクションが{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}、自分たちの手で「権利ビジネス」を取り戻したいという欲求もあった{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}。これはレコード会社、プロダクション、ミュージシャンなどの意識が大きく変化した日本の音楽ビジネス史上、稀に見る音楽ビジネスの大転換でもあった{{sfn|前田平原2|1993|pp=27-29}}。また、それまでは歌謡曲の[[縄張り|テリトリー]]だった日本的メンタリティーを主題として打ち出すシンガーソングライターもこれ以降、脚光を浴びていく<ref name="ベストアルバム"/>。そうした音楽の流れは、旧態依然たる[[プロット (物語)|プロット]]の中に[[ノスタルジア|ノスタルジー]]としての[[叙情#音楽における叙情性|叙情]]を求めていた演歌・歌謡曲に替わって、時代感覚の中でその叙情を表現していった<ref name="ベストアルバム"/>。叙情フォークのムーブメントは、見方を変えれば、歌謡曲ルネッサンスでもあった<ref name="ベストアルバム"/>。また吉田拓郎にとっても[[作曲家]]としての幅の広さとオリジナリティーを世間に認知させた記念碑的な作品となり<ref>[https://www.teichiku.co.jp/artist/takuro/disco/ci31.html 吉田拓郎「家へ帰ろう / 襟裳岬:TECI-31」]</ref>、以降、[[音楽プロデューサー]]としての地位も確立していく<ref>{{Cite|和書 |author=シンコーミュージック|title=フォーク黄金時代(1969〜1978) {{small|(CUT-UP-FROM [[YOUNG GUITAR]])}} |year=1992 |publisher=シンコーミュージック|page=185 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jprime.jp/articles/-/24523?page=2|title=【歌手引退】吉田拓郎、52年の活動を振り返ってみえた「日本音楽史のレジェンド」になれたワケ|website=[[週刊女性PRIME]]|date=2022-07-18|accessdate=2022年7月21日|publisher=[[主婦と生活社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220719025743/https://www.jprime.jp/articles/-/24523?page=2|archivedate=2022年7月19日}}</ref>。


== 収録曲 ==
== 収録曲 ==
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* [[五木ひろし]]『五木ひろし ファイティングポーズの想い』 [[日本放送出版協会]] 2004年
* [[五木ひろし]]『五木ひろし ファイティングポーズの想い』 [[日本放送出版協会]] 2004年
* [[日刊ゲンダイ]] 〈連載 森進一「人生ひたすら」〉 2007年4月10〜13日
* [[日刊ゲンダイ]] 〈連載 森進一「人生ひたすら」〉 2007年4月10〜13日
* {{Cite |和書|author1=相倉久人|authorlink1=相倉久人|author2=松村洋|authorlink2=松村洋|year=2016|title=相倉久人にきく昭和歌謡史|publisher=アルテスパブリッシング|isbn=978-4-86559-146-0||ref=相倉松村}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2024年12月20日 (金) 23:03時点における版

「襟裳岬」
森進一シングル
B面 世捨人唄
リリース
ジャンル 演歌フォークソング
時間
レーベル ビクター
作詞・作曲 岡本おさみ(作詞)
吉田拓郎(作曲)
馬飼野俊一(編曲)
ゴールドディスク
チャート最高順位
  • 週間6位(オリコン
  • 1974年度年間31位(オリコン)
  • 1975年度年間77位(オリコン)
  • 森進一 シングル 年表
    冬の旅
    1973年
    襟裳岬
    1974年
    さらば友よ
    (1974年)
    特記事項:当初はAB面が逆になっていた[1]
    テンプレートを表示

    襟裳岬』(えりもみさき)は、1974年1月15日に発売された森進一の29枚目のシングル。

    襟裳岬歌碑。左が本曲の、右が島倉千代子版の歌碑

    作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎というフォーク全盛期を代表するコンビの作品[1][2][3][4]

    制作経緯

    日本ビクターの創立50周年、さらに同社音楽部門が分離独立してビクター音楽産業株式会社になった1周年記念として特別企画されたうちの一曲[1][2][3]。同社の看板歌手10人、森進一、フランク永井松尾和子三浦洸一鶴田浩二青江三奈橋幸夫らの新曲シングル盤を1974年1月に一挙発売しようという内容であった[3][5]。これらのレコードに限って担当制はなく、企画を採用された者が制作責任者になるという試みであった[1]。森に関しては何か新しい発想のレコードをという方針で、当時まだ入社したてのディレクターだった高橋隆(元ソルティー・シュガーのメンバー、当時は高橋卓士)の案が採用された[1][2][6]。高橋が、吉田拓郎から「森さんみたいな人に書いてみたい」という話を以前から聞いていて実現に至ったもの[1][2][3][6]。しかし、ビクターレコード上層部や渡辺プロダクションのスタッフの反応は「フォークソングのイメージは森に合わない」「こんな字余りのような曲は森に似合わない」と評され[3]、吉田もこれ以上直せないところまで推敲を重ねたものの、当初はB面扱いだった[3]。当時の森は、母親の自殺や女性問題(女性側の狂言であったことが後に判明)から苦境に立たされていたが、森と同様のスキャンダルに巻き込まれていた吉田からの思いやりと[6]、この曲の3番の歌詞に感動した森が当時所属していた渡辺プロダクションのスタッフの反対を押し切り(森自身、「演歌の枠のみに囚われたくない」との思いがあったのも大きい)、両A面という扱いに変更して発売した[3][7][8][9]

    累計では約100万枚[3][10]または130万枚[11]のレコード売上を記録した。森は本作で1974年の第16回日本レコード大賞と、第5回日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞[3]。ライバルの五木ひろしに先を越されていただけに、その喜びようは尋常ではなかったという[5]。さらに同年の第25回NHK紅白歌合戦においてこの曲で4回目の白組トリおよび初の大トリを飾った。奇しくも紅組トリも島倉千代子の同名異曲の「襟裳岬」(1961年)であった[12][13]。ちなみに、その紅白では、レコ大からの移動で慌てていたこともあり、ズボンのファスナーを開けたまま舞台に出るというハプニングがあったが、間奏中に白組共演者たちに囲まれる中で閉め直し、滞りなく歌い上げた[14]

    曲の構成はAメロ→Bメロ→サビの定型だが[15]、〈わけのわからないことで〉の符割りなどが純度100%の拓郎節といえる[15]。また森も自身の解釈でこれを歌い切った[15]。拓郎は森の歌唱版を最初に聞いたとき、「こういうふうに歌うのか、これはかなわない」と卒倒したという[2]小西良太郎は「森はよしだたくろう作品をたくろうより上手く歌った」と評価した[16]

    後日譚

    岡本おさみは襟裳岬へ旅行した時、漁師に「いいとこですね」と話しかけたら、北海道の人特有の素朴な言い方で「なんもないんだー」という答えが返って来た。そこで「何もないの、いいじゃないですか」と言ったら「なんもないんだ。焚火してるしか、しょうがないんだ」とまた素朴な答えが返って来た。それで最初、「焚火」という仮タイトルで拓郎に歌詞を渡したという[2]

    ヒットした当時、襟裳岬のあるえりも町の人々は、サビに登場する「襟裳の春は何もない春です[17]という歌詞に、「何もない春」なんて無いと反感を持たれ、渡辺プロや作詞者の岡本宅への抗議の電話もあった[18]。しかし、襟裳の知名度アップに貢献したということでそういった反感も消え、後にえりも町から森に感謝状が贈られた[10]。反感を買ってしまった「何もない春」の部分であるが、実際は作詞した岡本おさみが襟裳に訪れた時に大変寒く、民家で「何もないですがお茶でもいかがですか?」と温かくもてなしされたことに感動して作詞したものであった。

    1997年平成9年)には、えりも町に観光施設「風の館[19]」が開業したのを機に[11]、えりも町に元からあった島倉版の歌碑と並べる形で[20]、この歌の記念歌碑が設置された。同年8月14日には森夫妻を招いての除幕式が行われた[11]

    NHK紅白歌合戦』で「襟裳岬」は、初披露時の1974年の第25回に続いて、1997年の第48回2010年第61回2013年第64回と、合計4度歌唱されている。また、2005年第56回での出場者選考アンケート「スキウタ」にも、「おふくろさん」と共にランクインした。

    評論

    相倉久人は「吉田拓郎がなぜ若い世代にウケたかというと、彼の歌は本質的に日本のものだからです。だけど、拓郎の歌はコブシやなんかを取っちゃって、リズムやテンポが速くなってるからモダンに聞こえるんです。でも本質的には日本のものだから、当然、日本人にはウケますよ。ところが森進一が拓郎の『襟裳岬』を歌ったとき、業界の人も含めて、勘違いしちゃった人が多かったんですよ。演歌の時代は終わって、これからはフォークやニューミュージックの時代なんだって。だから、それじゃ次は大瀧詠一に作曲を頼もう、誰それに頼もうという風になっちゃったわけです。だけど、さすがに作詞家の岡本おさみが気づいた。あれは良くなかったと。『襟裳岬』を歌ったばっかりに森進一は軽く歌い始めちゃった。『あれは絶対に間違いだ』って、彼は言った(中略)演歌の時代が終わって新しい音楽の時代になったんじゃなくて、それまで演歌が持っていたけど失われかかっているものを、拓郎やなんかのフォークの連中は、自分ではそうは思ってないけど、表現したわけです。歌に日本的なものが浸み出してきちゃうんですよ。演歌の持っていた重要な部分を、いつのまにかフォークなんかが持っちゃってたわけ。これはかなりしつこくレコード大賞なんかの機会に言ってきたつもりですけどね(中略)。僕がつま恋に行ったとき、一番興味があったのは『襟裳岬』を拓郎がどう歌うかということでした。そしたらステージの流れの中で自分の曲の一つだという風に、何でもないように歌っちゃうわけ。さすがだなと思いましたね(中略)。森進一側から『あんなものだって演歌は取り入れられるんだぞ』という姿勢でやればいいものを、森側からフォークの方に擦り寄ってきた感じになった。それが他にまで影響しちゃったんですよ。フォーク系のものが、やたらと歌謡曲の世界に入り込んできちゃった。当人あるいはスタッフが勘違いして『これからはこっちだ』と思っちゃった。演歌のいい部分を持っているからこそ『襟裳岬』がヒットしたはずなのに、フォークでも何でもやってみようみたいなことになり、そういうのが一時、けっこう増えましたね。要するに、アメリカに憧れてアメリカの歌をアメリカ風に歌うというのと同じ姿勢になっちゃったんです」などと論じている[21]

    影響

    • フォーク界との連携による本作の成功は、以後の歌謡界に大きな影響を与えた[4][6][15][21][22]大衆音楽の主流を自負し、日本的情緒を代表している筈の演歌歌謡曲が、新しい世代の音楽に接点を求め、それが大衆に受け入れられたということは、既成の歌謡曲と、新しい音楽の流れが、時代の中で相対的な力関係を持ち始めたということでもあった[4][23]。本作以降、フォーク系シンガーソングライターが歌謡ポップス系や演歌歌手に曲を提供するケースが目立って増えるようになった[4][6][24][25]。この背景には、新鮮な楽曲を欲していた歌謡曲サイドが、目新しさを求めて「若者の歌」にアプローチしたということ[4]、フォーク系シンガーソングライターにとっては、自分の楽曲を歌わせる「新しい素材」を歌謡曲に求めたという理由があった[4]。自分で作った歌を自分で歌うのがシンガーソングライターではあるが、ソングライターとしての自分の実力をより世間に広く知らしめたいという"野心"がそこにあった[4]保守的でありながらも、常に目新しさを貧欲に求め続ける歌謡界と、新しいスタイルでビジネスを展開しようとしながらも、人材不足を感じていたフォーク(ニューミュージック)界の両者の思惑がここで一致した[4]。ビジネス面からいえば、それまでレコード会社芸能プロダクションしか知らなかった一つの楽曲から派生する出版権原盤権といった「権利ビジネス」を知った吉田拓郎と後藤豊(後藤由多加)が設立したユイ音楽工房をはじめとする新興プロダクションが[4]、自分たちの手で「権利ビジネス」を取り戻したいという欲求もあった[4]。これはレコード会社、プロダクション、ミュージシャンなどの意識が大きく変化した日本の音楽ビジネス史上、稀に見る音楽ビジネスの大転換でもあった[4]。また、それまでは歌謡曲のテリトリーだった日本的メンタリティーを主題として打ち出すシンガーソングライターもこれ以降、脚光を浴びていく[23]。そうした音楽の流れは、旧態依然たるプロットの中にノスタルジーとしての叙情を求めていた演歌・歌謡曲に替わって、時代感覚の中でその叙情を表現していった[23]。叙情フォークのムーブメントは、見方を変えれば、歌謡曲ルネッサンスでもあった[23]。また吉田拓郎にとっても作曲家としての幅の広さとオリジナリティーを世間に認知させた記念碑的な作品となり[26]、以降、音楽プロデューサーとしての地位も確立していく[27][28]

    収録曲

    1. 襟裳岬(4分19秒)
    2. 世捨人唄(3分30秒)

    価格

    • 発売当時の値段は500円

    カバー

    映画化

    1975年4月1日公開 製作配給:日活。ヒット曲を元にした歌謡映画でもある[29]

    内容

    原宿のブティックで勤めている野々宮靖子は、ある日の買い物途中に杉山五郎という青年に出会う。やがて2人は恋に落ち、交際は順調に進むかに思われた最中、五郎が急病で倒れ亡くなってしまう。靖子は絶望に打ち拉がれる中葬儀を行い、五郎の友人の田口俊一と共に、五郎の故郷・襟裳岬に遺骨と遺品を持って埋葬しに行く。悲しみに暮れる靖子を田口は支えようとするが、靖子は五郎との思い出と共に生きていく事を決め、襟裳岬をあとにする。

    スタッフ

    キャスト

    撮影

    劇団こじかに籍を置き、子役として長く活躍していた山口いづみの映画初主演作[30]。山口はテレビドラマでは女子大生、若奥様役が多かったが、20歳になり、年齢相応の役に喜んだ[30]。1975年3月8日から北海道ロケ[30]北海道新冠町の明和牧場でハイセイコーとの共演、襟裳岬での撮影があった[30]。なお、監督の加藤彰は、1973年のロマンポルノ『愛に濡れたわたし』で森の『港町ブルース』を効果的に用いて好評を博した実績がある。

    興行

    1975年1月の段階では、日活の青春路線の大作として[31]、谷口世津主演、白鳥信一監督で『野菊の墓』との二本立てで1975年3月19日公開と報道されていたが[31][32]、日活側が出演を要請していた森進一の出演が難しくなったことが理由で[31]、1975年1月26日に製作延期を発表した(『野菊の墓』は製作中止)[31]。1975年2月には沢田研二主演の『ジュリー・オン・ステージ』と、春休み向け青春映画二本立てを予定していると報道されたが[33]、これも沢田のヨーロッパ旅行などでスケジュールが狂い、沢田の映画出演が不可能になった[33]。このため急遽、東映が9年前にお蔵入りさせた佐久間良子主演の『雪夫人絵図』を買い取り、本作と同時上映した[33]。日活と東映作品の併映は史上初[33]

    1975年のゴールデンウィークは、東宝山口百恵主演の『潮騒』と和田アキ子主演の『お姐ちゃんお手やわらかに』、松竹桜田淳子主演の『スプーン一杯の幸せ』と中村雅俊檀ふみ共演の『想い出のかたすみに』、東映が志穂美悦子主演の『華麗なる追跡』と菅原文太主演『県警対組織暴力』とそれぞれ二本立てで、邦画界はほぼアイドル映画一色に染められ[34][35][36][37]、人気スターの映画での競演にマスメディアも大いに取り上げ、昨今ではまずない華やかな興行争いになった[35][37]。日活の通常プログラムは、人気を博していた日活ロマンポルノであったが、盆正月やゴールデンウィークには、時折一般映画を製作していた[38]。日活はこれに割り込み、山口を女の戦いに押し出した宣伝を展開させたが[37]、ヒットしなかったとされる[38]

    脚注

    出典

    1. ^ a b c d e f 昭和・平成ヒット曲の裏側 森進一「襟裳岬」<前>思いつきの企画でセールス100万枚超”. 日刊ゲンダイデジタル. 日刊現代 (2019年1月13日). 2019年1月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月21日閲覧。
    2. ^ a b c d e f g h i 小堀勝啓の新栄トークジャンボリー 吉田拓郎が作曲した「襟裳岬」大ヒットのウラ話”. radichubu. CBCラジオ (2018年3月25日). 2022年4月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年年7月21日閲覧。
    3. ^ a b c d e f g h i 季節(いま)の歌 襟裳岬〜“何もない春です”と歌われた名曲にまつわる“色々事情あり”な誕生エピソード
    4. ^ a b c d e f g h i j k 前田平原2 1993, pp. 27–29.
    5. ^ a b 猪俣公章 『酒と演歌と男と女』 講談社 1993年 p198-200。
    6. ^ a b c d e 吉田拓郎が音楽シーンに残した功績とは? みのミュージックとフォーライフミュージック・後藤豊が語り合う やっぱり吉田拓郎は凄すぎる - みのミュージック
    7. ^ 日刊ゲンダイ、連載 森進一「人生ひたすら」2007年4月10〜13日。
    8. ^ 長田暁二 『歌でつづる20世紀』 ヤマハミュージックメディア 2003年 p202、203。
    9. ^ アサヒ芸能徳間書店、2009年6月25日号、p36-39。
    10. ^ a b 読売新聞社文化部『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』社会思想社、1997年、313頁。ISBN 4390116010
    11. ^ a b c 「窓」『日本経済新聞』1997年8月15日付朝刊、31頁。
    12. ^ 森版の「襟裳岬」が出るまでは「襟裳岬」といえば、この島倉版であったが、その後全くその位置が逆転してしまった(池田憲一 『昭和流行歌の軌跡』 白馬出版 1985年 p35)。
    13. ^ 当初、島倉は紅白で未歌唱のデビュー曲「この世の花」を歌唱する予定だったが、森に対抗するため「襟裳岬」に変更した(合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』。「この世の花」は1982年第33回で初披露が実現)。
    14. ^ 話題に事欠かない森進一の紅白 森昌子と共演、チャック全開事件…”. スポーツニッポン (2015年12月5日). 2016年3月6日閲覧。森進一、初の大トリで大失態/紅白を語る”. 日刊スポーツ (2009年12月27日). 2016年3月6日閲覧。
    15. ^ a b c d 馬飼野元宏 編『日本の男性シンガー・ソングライター』シンコーミュージック・エンタテイメント〈ディスク・コレクション〉、2013年9月、12頁。ISBN 9784401638857 
    16. ^ 小西良太郎「歌は世につれ世は歌につれ 歌謡特集(2) 『不況の中の'74年歌謡曲やぶにらみ考』」『スタア』1975年1月号、平凡出版、227–231頁。 
    17. ^ 岡本が訪れたのは2月で雪で真っ白だったため
    18. ^ 『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』312頁。
    19. ^ 襟裳岬「風の館」 - 公式ウェブサイト、えりも町 - 2021年7月3日閲覧。
    20. ^ 風のまち「えりも」観光ナビ| 襟裳岬(えりもみさき)、えりも町 - 2021年7月3日閲覧。
    21. ^ a b #相倉松村,「第9回 ニューミュージックを聴き直す 3 勘違いされたフォーク」 pp.259-264。
    22. ^ 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p.1111980年代の吉田拓郎、過去の自分との決別からスタートした “大人” のリアル田代俊一郎 (2020年2月3日). “アイドル編<450>フォークとのハイブリット”. 西日本新聞社. オリジナルの2020年2月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200204093821/https://www.nishinippon.co.jp/item/n/581006/ 2022年7月21日閲覧。 水原空気; 若松宗雄(インタビュー)「松田聖子の80年代伝説Vol.8 乙女心がおしゃれなWジャケットにギュッと詰まった6thアルバム『Candy』」『ginzamag.column』、マガジンハウス、2021年1月23日。オリジナルの2021年1月23日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20210123132018/https://ginzamag.com/column/seikomatsuda-80s-08/2022年7月21日閲覧 
    23. ^ a b c d 田家秀樹・大越正実・藤井徹貫・前田祥丈・下村誠『日本のベスト・アルバム』シンコー・ミュージック、1992年、136頁。ISBN 9784401614035 
    24. ^ nikkansports.com> 日刊スポーツ> 吉田拓郎インタビュー(Internet Archive)
    25. ^ 歌謡曲とフォークの架け橋めざして~太田裕美さん(1) : 青春グラフィティ(Internet Archive)、鈴木啓之 『昭和歌謡レコード大全』 白夜書房 2003年 p183、長田暁二 『歌でつづる20世紀』 ヤマハミュージックメディア 2003年 p202、203、池田憲一 『昭和流行歌の軌跡』 白馬出版 1985年 p35-36、五木ひろし『五木ひろし ファイティングポーズの想い』 日本放送出版協会 2004年 p147、148、『1946-1999 売れたものアルバム』 MediaView 東京書籍 2000年 p180-181。
    26. ^ 吉田拓郎「家へ帰ろう / 襟裳岬:TECI-31」
    27. ^ シンコーミュージック『フォーク黄金時代(1969〜1978) (CUT-UP-FROM YOUNG GUITAR)』シンコーミュージック、1992年、185頁。 
    28. ^ 【歌手引退】吉田拓郎、52年の活動を振り返ってみえた「日本音楽史のレジェンド」になれたワケ”. 週刊女性PRIME. 主婦と生活社 (2022年7月18日). 2022年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月21日閲覧。
    29. ^ 襟裳岬 | DVD・ブルーレイ | 日活
    30. ^ a b c d “『ハイセイコーに"ポ~ッ"山口でも怪物クンは知らん顔』”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1975年3月13日) 
    31. ^ a b c d “NEWSパック 製作延期”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 15. (1975年1月27日) 
    32. ^ 由原木七郎「日本映画評 志穂美悦子、谷口世津、そして、ふたたび大竹しのぶ」『近代映画』1975年6月号、近代映画社、167頁。 
    33. ^ a b c d “山口いづみ初公開『襟裳岬』 春雪とかす雪のハダ 『緊張で眠れないヮ』”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年2月22日) 
    34. ^ 藤木TDC「藤木TDCのヴィンテージ女優秘画帖(53)」『映画秘宝』2010年12月号、洋泉社、101頁。 
    35. ^ a b 「〈ルック〉 百恵ちゃんに辛勝した菅原文太」『週刊現代』1975年5月15号、講談社、27頁。 
    36. ^ “なになにッ! "跳び蹴り"でかせぐ2億円 東映の孝行娘・志穂美悦子”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年2月19日) 
    37. ^ a b c “なになにッ! 花のアイドル"大学対抗"スクリーン黄金週間の激突”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1975年3月27日) 
    38. ^ a b 寺脇研『ロマンポルノの時代』光文社、2012年、112-115頁。ISBN 978-4-334-03697-3 

    参考文献

    関連項目