コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

フォークソング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フォーク・ソングから転送)
フォークソング
様式的起源 民俗音楽
民族音楽
文化的起源 国により異なる
世界各国
使用楽器 アコースティック・ギター
ウッドベース
バンジョー
フィドル
ベース
ドラム
ピアノ
民俗楽器など
融合ジャンル
フォークロック
フォーク・メタル
ネオフォーク
サイケデリック・フォーク
アメリカーナ
関連項目
本文参照
テンプレートを表示

フォークソング: Folk Song , Contemporary Folk music)は、民謡民族音楽に根ざした音楽や、さらにそれから派生したポピュラー音楽も指す用語で、音楽ジャンルの一つ。

元来は、民衆が共同で作り歌い伝承されてきた、作者不明の歌[1]民衆価値観生活の実感から生まれてきた歌、つまり民謡民俗音楽[出典 1]を指す[出典 2]だが、その民謡から派生したポピュラー音楽をも含める[3]

後者のポピュラー音楽のフォークソングのほうは、伝承民謡の形式や感覚を借りて作られた歌のことで、伝承民謡が作者不明なのに対し、後者は職業的な作者が作詞・作曲し職業的な歌手が歌って商品化が行われていることが多いところが異なっており、実質的には民俗音楽ではなくてポピュラー音楽に分類される[1]。後者の内容は(伝承民謡同様に)民衆の素朴な情感を歌う歌も多数あるが、現代の社会問題、反戦思想などを歌うものがむしろ多く[1]、つまり反戦歌などのプロテストソングも範疇に含まれる[2]。本来のフォークソングの演奏は、アコースティックギターバンジョーなどを使用した弾き語りを主体とし[2]電気楽器は使わないのが伝統的音楽表現であった[2](そこがフォークロックロックとは異なっている)。
最も一般的な名称は「フォークミュージック」であるが、英語圏では「民謡」の意味のFolk Musicと区別するために「コンテンポラリー・フォークミュージック」または「フォーク・リバイバル(ミュージック)」などと呼ばれた[出典 3]

歴史:1920s-1950s

[編集]

アメリカ合衆国(以下、アメリカ)の音楽の始まりは、ジェノヴァ出身のイタリア人クリストファー・コロンブスが、ヨーロッパ人にとっての新大陸を発見した1492年に求められるが[6]、当時100万人いたネイティブ・アメリカンは既に音楽を持っていたが、ヨーロッパ人との文化的融合はなされず、先住民の音楽が現代のアメリカン・ポピュラー・ミュージックに与えた影響はごく僅かである[6]

「フォーク・ミュージック」は、アメリカで19世紀研究者愛好家によって蒐集された[7]レコード会社はアメリカでは19世紀末にはすでに存在していたが[出典 4]アメリカ南部民族音楽を開拓するところまではいかなかった[8]。南部が音楽の宝庫であることに気づくのはずっと後になってからだった[8]商品としてのレコードが作られたのは1890年だが、1本のシリンダーに1回の吹き込みしか出来ず、注文数に応じて吹き込みを何度もやってくれる歌手を探すのも大変だった[8]。シリンダーから円盤レコードになるのは、20世紀に入ってからで、1920年代に円盤レコードと蓄音機がレコード会社の商品として、市場に流通し始めた[出典 5]

1929年世界大恐慌後に誕生したフランクリン・ルーズベルト政権は、不況克服のためにニューディール政策を施行したが、それは政治経済分野だけでなく、文化的にも大きな影響を及ぼした[7]。「フェデラル・ワン」と呼ばれる芸術支援政策には多くの作家音楽家が地方のコミュニティに派遣され、地元のブルースワークソングエスニック文化の採集を命じられた[7]。すでにアメリカ議会図書館にはアメリカのフォークソングを管理/保存する「アーカイブ・オブ・アメリカン・フォークソング」が民間の基金によって1928年に設置されていたが、ジョン・ローマックス(後に息子のアラン・ローマックスが加わる)がディレクターに就任する1931年以降、蒐集活動はさらに活発になった[出典 6]。こうして「フォークソング」は1930年代に入ると公式にアメリカで「国民文化」として承認され「アメリカの音楽」として、文字通り国家のお墨付きを得た[7]第一次世界大戦で疲弊したヨーロッパを尻目にそれまで「ヨーロッパの辺境」的位置付けに甘んじていたアメリカは、世界大戦以降、突如として国際政治の中心に躍り出た[7]。政治的地位が上昇した国家は必ず文化的なアイデンティティを必要とするため、アメリカはヨーロッパとは異なる独自の文化を模索した[7]。この流れの中でアメリカ文学の再評価が進み、音楽では「フォークソング/ルーツ・ミュージック英語版」も再評価され「国民文化」として正統化された[7]。ローマックス親子は、アメリカ議会図書館の委嘱を受け、録音器材を担ぎ、全米各地のフォークソングの収集をした[8]。そこで発見したのが「現代フォークソングの祖」といわれるウディ・ガスリー[8]、ガスリーは不況下で放浪する「ホーボー」と呼ばれる人たちと共に全米をまわり、土着のメロディに新しい歌詞をつけて、貧困や政治、旅情や自然を歌った[出典 7]。ホーボーは貨物列車無賃でもぐりこんで、土地から土地へ放浪し、収穫の手伝いなどの季節労働をしてその日暮らしをする人たちだった[8]。ガスリーは彼らのことを歌ったホーボーソング(渡り労働者の歌)をたくさん作った[8]。1000曲以上を残したガスリーは多くのミュージションに敬愛され、ピート・シーガーボブ・ディランブルース・スプリングスティーンシャロン・ジョーンズらが、ガスリーの歌を歌い継ぐ[出典 8]ウィーヴァーズやピート・シーガーらもこのころから活動を開始した。ピート・シーガーはハーバード大学を中退した中産階級出身のエリートだったが、1960年代以降にジャーナリスティックなメッセージ性を非常に強く押し出した[8]

第二次世界大戦後にソ連との冷戦が始まるとアメリカ国内の共産主義者に対する赤狩りが吹き荒れ、ジョセフ・マッカーシー上院上院議員は「フォーク」という用語を共産主義と結びつけて攻撃した[出典 9]マスメディアは一斉に「フォーク」という用語を使用を控え、「カントリー」という言葉が流通するようになった。カントリー・ミュージックというジャンル名は1940年代に入って用いられたものだったが[7]、これをきっかけとして「カントリー・ミュージック」というジャンル名が定着した[7]。本来同じカテゴリーの音楽を目指していたはずの「フォーク・ミュージック」と「カントリー・ミュージック」はこれを機に政治的に離反した[7]。「フォーク・ミュージック」は赤狩り以降、共産党が民衆の音楽として評価し、一方で「カントリー・ミュージック」は保守的な価値観を内包する白人の「農村/田舎」の音楽として機能し始めた[7]。カントリー・ミュージックは「素朴」「郷愁」「楽天性」を漂わせたが、第二次世界大戦後のフォーク・ミュージックには「反抗」「左翼」「悲観性」といったニュアンスを際立たせた[8]。殺人を犯して服役した黒人シンガー・レッドベリーは、ブルースも歌ったが、仕事や刑務所や差別について歌い、フォーク・シンガーとしてアメリカ共産党から英雄視された[8]。カントリーは人々がかかえる不安を慰安し、フォークは抵抗へと駆り立てていく[8]。1950年代以降のフォークを盛り上げたのは、主に都会のインテリ白人大学生だった[8]。当時の音楽シーンは、黒人はブルース、白人はカントリー、そして中産階級のインテリ層が60年代のモダン・フォークを支えた[4]

1950年代のフォーク・ミュージック・リバイバル

[編集]
ウディ・ガスリー

1930年代から活動を続けたウディ・ガスリーとピート・シーガーの存在が1950年代から1960年代の「フォーク・ミュージック・リバイバル」(以下「フォークソング・リバイバル)」という大きな流れを生み出すきっかけになった[出典 10]。これらは民衆の歌であるフォークをもう一度自分たちの手に取り戻そうとする運動であると同時に、これらのルーツであるブルースブルーグラスオールドタイミー英語版などを再発見する動きであった[出典 11]。彼らは伝承歌を再構成して歌うことが多かったが[9]、そこには主義主張が盛り込まれていた[9]。ウディ・ガスリーは伝統的な歌を歌い、彼自身も作曲をする。ウディの音楽はアメリカ議会図書館にも保管されている[11]。ウディのギター・ケースには「この楽器はファシストを殺す(This Machine kills fascists)」と書かれていた[出典 12]。「フォークソング・リバイバル」勃興期の演奏形態としては、バンジョー、アコースティックギター、ウッド・ベースという楽器編成が多かった。しかし、次第にバンジョーは使われなくなり、アコースティックギターが中心的な楽器となっていった。

「フォークソング・リバイバル」は、一般的にキングストン・トリオ英語版の「トム・ドゥーリー Tom Dooley[12]が大ヒットした1958年からボブ・ディランエレキ・ギターに持ち替えた1965年までを指し[13]、この音楽的動きは1950年末期から[9]、1960年代に頂点に達した[9]

ザ・キングストン・トリオ(1958年)

ザ・キングストン・トリオ en:The Kingston Trioアメリカ西海岸出身で、過度に政治的なメッセージやプロテストソングは避け、いわゆる「お行儀の良い」大学生的な歌を歌っていた。[14]Cracked Potという名の、大学内のクラブで歌っていたところをフランク・ウェルバー Frank Nicholas Werberに見出され、彼がマネージャーとなり、キャピトルレコードと契約を結ぶにいたった。最初のヒット曲は『トム・ドゥーリー』で、これはレッドベリーの追悼コンサートでも歌われ、レコードが300万枚以上売れるヒットとなり、グラミー賞のBest Country & Western Recording賞を受賞した。1958年から1961年にかけてのキングストン・トリオの大きな商業的成功により、キャピトルレコードは巨額の収益を得ることとなった。キャピトルレコードはキングストン・トリオに似たアーティストグループ、例えばブラザース・フォア en:the Brothers Fourピーター・ポール&マリー en:Peter, Paul and Mary、ザ・ライムライターズ en:The Limeliters、ザ・チャド・ミッチェル・トリオen:The Chad Mitchell Trio、ザ・ニュー・クリスティ・ミンストレルズ en:The New Christy Minstrelsなどの楽曲のリリースにも力を入れてゆくことになった。

歴史:1960s-2010s

[編集]

1960年代のフォーク・リバイバルの絶頂期と転機

[編集]

第二次世界大戦後のアメリカは世界をリードする大国として君臨し[3]、「自由で豊かな理想の国・アメリカ」のイメージは定着し[3]、世界の人々はアメリカに憧れの目を向けた[3]。しかしアメリカの夢は『アメリカン・グラフィティ』の舞台になった1962年で終わったと言われる[3]ベトナム戦争の泥沼に足を取られつつあったアメリカでは、1963年8月に人種差別撤退を訴えるワシントン大行進が行われ、同年11月にはケネディ大統領暗殺事件が起き、それまで繁栄の陰に隠れていた矛盾が社会問題化しつつあった[3]。このような人種差別反対運動や東西対立などの新たな戦争に対する不安から、若い世代がコミュニケーションやメッセージの手段としてフォークソングに注目し、「フォークソング・リバイバル」は必ずしも昔を懐かしむムーブメントではなくなり[3]、若いフォークシンガーたちが自分たちの思いを託した新しい歌を発表しはじめた[出典 13]。1960年代前半にはフォーク・シーンはオリジナル曲が中心になっていった。当時は徴兵制のあったアメリカでは、実際に戦場に行かねばならないかも知れない現実に晒されていたアメリカの若者たちには切実な状況があった[3]。こうして激動するアメリカの政治運動と結びつき、フォークはますます政治や社会を批判するツールになっていく[8]

1958年末のキングストン・トリオ「トム・ドゥーリ―」の大ヒットで火がついた「フォークソング・リバイバル」は全米各地に、フォークソングを中心とした野外フェスティバルを生んだ[17]。1959年7月11~12日にロードアイランド州ニューポートのフリーボディ・パークで、第一回ニューポート・フォーク・フェスティバル英語版が開催された[出典 14]。出演はピート・シーガーやキングストン・トリオ、ボブ・ギブソン英語版&ジョーン・バエズなど、フォーク・ブームの幕開けを告げるような内容だったが[17]、レコード会社が開催した同イベントは観客の不入りにより、 一旦中 止となり、 1963年にミュージシャンが主体となり政治色を強めて再開されている[18]

アメリカでの転機

だがこのフォーク・リバイバルの絶頂期に、ある種の転機が訪れた。1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでは、ボブ・ディランエレキ・ギターを抱え、バック・バンドをしたがえて登場し、大ブーイングを浴びた[出典 15]Electric Dylan controversy)。このエポックメイキングな事件を境に「フォークソング・リバイバル」ブームは急速に衰退した[17]。これはかつてフォークとロックが水と油のような関係であったことを象徴する事件といえる[16]。反近代主義と反商業主義を掲げる「フォーク・ミュージック」で重要視されるのは歌のメッセージであり、言葉の伝達を容易にする場の親密さである[13]。フォークに傾倒する人々にとってはエレキ・ギターはテクノロジーの象徴であり、大音量で歌詞が聞き取りにくく、ビートルズに代表される商業主義のシンボルとして認めるわけにはいかなかった[13]。ボブ・ディランの演奏中にバックステージでは、ピート・シーガ―が怒りに震えながらを振り回してシールドケーブルを切ろうとしたなどの逸話も残る[13]。結果的にロックはここでフォークが持っていた反体制的で反商業主義的なイデオロギーを引き継ぎ、それを商業主義の枠内で実践しようとするジャンルとして発展していく[13]。ボブ・ディランの事件以降、1967年までの間に音楽用語として「ロック」が定着し[13]、「ロックンロール」という用語と区別されて使われるようになった[13]

フォーク・シーンで活躍していたボブ・ディラン、ニール・ヤングジョニ・ミッチェルバーズなどのミュージシャンは、1964年のビートルズのアメリカ上陸に影響を受け、エレクトリックギターエレクトリックベースドラムスというロックの楽器編成(ただし、アコースティックギターを併用する場合も多い)で演奏するようになった[16]。これをフォークロックと呼ぶ。アメリカではフォークロックの開祖はバーズと論じられることが多いという[8]。『読売新聞夕刊1965年9月25日付に「最近のアメリカ人の好みとしては、小・中学生はゴーゴー、ヒッチ・ハイク英語版、ワッシなどのダンス伴奏としてのエレキ・ギターを中心とするロックン・ロール・ミュージック、そして高校生や大学生はフォーク・ミュージック、二十代はミュージカルの中のヒット・メロディーというように大別される」と書かれている[19]

イギリスやカナダのフォーク・リバイバル

また英国でもリチャード・トンプソン率いるフェアポート・コンヴェンションやディック・ゴーハン、ユワン・マッコール、ペンタングル、スティーライ・スパンなど、フォークソングを演奏するミュージシャンが活躍した。[20]1960年代半ば、アイルランドのホースリップス、イギリスのフェアポート・コンヴェンション、スティーライ・スパンは、ロックの伝統的な楽器要素: エレキギターベースドラムを使用した。 1960年代後半には、民俗復興により、ドノヴァンなどのシンガーソングライターの世代が台頭してきた。イギリスでのフォーク音楽復興運動はブリティッシュ・フォーク・リバイバルと呼ばれている。

またニール・ヤング、バフィ・セント・メリー、ゴードン・ライトフット、レナード・コーエンジョニ・ミッチェルらのカナダ出身のアーティストも登場した。

1960年代の日本への上陸

フォークソングの中でも「モダン・フォーク」は、1960年代「フォーク・ミュージック・リバイバル」の折に大流行した美しいアメリカハーモニー・コーラスを伴ったグループによるフォークを指す[21]。1960年代に入ると、フォークは商業的な色合いを身にまとい[出典 16]、「海外のヒットソング」として日本に上陸してきた[出典 17]。キングストン・トリオ、ニュー・クリスティ・ミンストレルズ英語版ブラザーズ・フォアピーター・ポール&マリー(PPM)らで[23]、これが日本でカレッジ・フォークブームの火付け役となっていく[出典 18]。キングストン・トリオは1961年1月初来日[24]。1962年4月にはブラザーズ・フォアが[24]、1963年10月にはピート・シーガーが初来日している[24]。以降もハイウェイメン英語版、ピーター・ポール&マリー[25]、ニュー・クリスティ・ミンストレルズ、ブラザーズ・フォア、CSN&Yフィル・オクス英語版など多くのアーティストが登場した。

他ジャンルへの影響

1960年代半ばから発展したフォークロックも、この現象の中で進化していった。最初のフォークリバイバルは大衆音楽に大きな影響を与えた。また20世紀後半の「セカンドフォークリバイバル」は、コンサート、レコーディング、放送を通じてアーティストに新しいジャンルのポピュラーミュージックをもたらした。

1970年代、他のグループはこのロック的アプローチを採用した。イギリスのルネッサンスのようなグループは、プログレッシブ・ロックのグループながら、フォーク・ソング的な曲も発表している。

1970年代以降

[編集]

1970年代以降、アメリカのフォークミュージックはスティーヴ・グッドマン、ジョン・プライン、エミルー・ハリス、ハリー・チェイピンなどの新しいシンガーソングライターによって支えられた。イギリスのルネッサンスはプログレとフォークを融合したロックを演奏した。1980年代初頭のザ・ポーグスと1990年代のアイルランドのザ・コアーズにより、 アルバムチャートに伝統的な曲が取り入れられた。1980年代、ワシントンスクエアでフォークミュージック演奏が行われた。スザンヌ・ベガはフォークとプロテスト・フォーク指向の音楽を披露[26]。また黒人歌手のトレイシー・チャップマンもフォークのヒットをリリースした。エミルー・ハリスやスティーブ・アール、ウィルコ、サン・ヴォルトらのアーティストは、オルタナ・カントリーとフォークの精神を受け入れた。1990年代後半、フォーク・ミュージックはイライザ・カーシー、ケイト・ラズビー、ビル・ジョーンズ(女性)などのアーティストを通じて、音楽評論家や音楽ファンから注目された。カナダにおいて1990年代から2000年代にかけて最も売れたフォークグループは、ニューファンドランド出身のケルト人でロックテイストなグレートビッグシーで、カナダで4枚のアルバムをプラチナヒットさせている。コアーズは1990年から2000年代前半まで活動し、ケルト音楽とポップスを演奏し、2つのジャンルをブレンドした曲を発表した。2000年以降は、ブランディ・カーライルらが活躍した。

なお、ネオフォーク (Neofolk) というジャンル名は、欧米のスワンズやコイルらのバンドの音楽を指している。2007年に結成されたマムフォード・アンド・サンズなどのフォーク・ロックおよびインディー・フォーク・バンドは、2010年にブレイクし、シェナンドーランは2011年に1960年代の現代アメリカのフォークミュージックを現代のリスナーに届けるために結成されたバンドである[27]

フィルク音楽もスタイルと文化の面でフォーク音楽と見なすことができる。SFのコミュニティはサイエンスフィクションのファンダムであるが、これは珍しく完全に現代的なもので[28]1980年代に始まったネオフォークはヨーロッパの伝統的な民俗音楽と歴史、哲学的歌詞、伝統的な歌を融合した。主にヨーロッパであるが、他の地域にも影響を与えた。民俗音楽はドイツ、イギリス、スカンジナビア諸国、スラブ諸国でがメジャーで、デヴィッド・スミス(アカ・ダム・ザ・バード)やダンハイム、アルコナなどのバンドがあり、こうしたほとんどのバンドは、他の音楽ジャンルとフォークジャンルを結び付けている[29]。1980年代にフォークパンクは、フォークミュージックとパンクロックを融合し、ロンドンを拠点とするアイルランドのバンドであるザ・ポーグスによって開拓された。民俗音楽やプロテスト音楽はトピックに関する話題を対象とした。その他のサブジャンルにはサイケデリック・フォークアメリカーナなどのジャンルがある。

フランスではライオネル・ロシュマン(Lionel Rocheman)が組織したアメリカンセンターでの最初の音楽祭、フーテナニーによって1964年ごろからパリでフォーク運動が始まった。フランスの著名なフォーク歌手にはフランシス・キャバレルらがいた[30]。1960年代末にはフォーク運動は、パリ五月革命と同様の政治的、社会的運動となる。参加と表現の民主化、文化的イベントの自己管理の中からこの動きが発生した。

1960年代、70年代のフランスのフォーク音楽家としては、グレアム・オールライト[31]やトライ・ヤン・Tri Yannやアラン・スティベルらがあげられる。彼らの登場は民俗復活と呼ばれ、他のヨーロッパ諸国でも同様に伝統的な歌のリバイバルや、伝統的な楽器( バイオリンバグパイプハーディガーディなど)を使用する伝統的なスタイルの音楽再興の象徴となった。また2000年代にはコクーンが登場し、15万枚のヒットを記録した[32]

ギリアン・ウェルチらのネオ・トラディショナル・フォークも、アメリカで人気となった[33]。これとは別にネオフォークというジャンルも登場した。1980年代初期から、 インダストリアルシーンで少数のアーティストが新しいヨーロッパのフォークミュージックを作成しようとした。ネオフォークと呼ばれるこの流れは、アングロサクソン民族運動の影響を強く受けているが、異教ロマン主義オカルトなどのテーマは、ヨーロッパ文化と歴史への興味を示している。1990年代メタルバンドは楽器、メロディ、伝統的なテキストを使用して音楽をミックスしはじめる。この流れはフォークメタルまたはメタルフォークと呼ばれる。


主なフォークソング

[編集]

特に著名なアーティスト

[編集]

日本のフォーク

[編集]

「フォークソング」「フォーク」

[編集]

今日、日本で「フォークソング」「フォーク」と呼ばれるものは、1950年代後半にアメリカで他の音楽ジャンルと共に興ったリバイバル現象英語版の折に流行した「フォーク・リバイバル」ブームで、商業的にも大成功したポップス寄りの「モダンフォーク」に影響を受けた音楽を指す[出典 19]

英語で"フォークソング"はもともと民謡の意」と説明されることが多い[出典 20]ドイツ語の「volkslied」、また英語の「folk song」の訳語として明治期から用いられるようになった言葉という[36]町田嘉章浅野建二著『日本民謡集』(1960年初版、岩波書店)の中で浅野は「フォークソング=民謡という訳が生まれた明治時代には、ありとあらゆる大衆音楽を民謡と分類していたことがある」と解説している[38]。つまり日本にもアメリカにも当時はまだ音楽ジャンルがたくさん無く、フォークソングを表す適切な言葉が無く、フォークソング=民謡と訳し、これが今日まで残っているものと考えられる[39]。今日日本で言う「フォークソング」「フォーク」と「日本の民謡」は全く違うため[出典 21]、日本のフォークソングは日本の民謡とは別のものと考えた方がよい[出典 22]。全国新聞の記事で、音楽ジャンル名としての「フォーク」という言葉の使用は『朝日新聞夕刊1962年4月6日付の「音楽評」「清潔な魅力 ブラザース・フォアの民謡」という記事が初出と見られている[36]。「フォーク」という言葉の浸透については、1950年代において「フォークダンス」の導入と普及も影響があるのではないかという見方もある[36]。日本の「フォークソング」「フォーク」は、1960年代前半にブームとなった生ギターを中心としたアコースティックな音楽[40]が入口ではあったが[37]、実際にはリズム・アンド・ブルースカントリーミュージックロックなど、他のアメリカンポップスに交じって日本に流れ込んできた大衆音楽の影響も受けている[出典 23]。デビュー時に"フォーク歌手"と呼ばれ、自作の歌でその後の音楽界に大きな影響を与えた吉田拓郎[出典 24]、1960年代の広島でのアマチュア時代にはロックバンドR&Bバンド)を組んでおり[出典 25]、フォークソングのみならず、多様な音楽ジャンルからの影響が知られており[出典 26][注釈 1]、また井上陽水ビートルズマニアとして知られ[出典 29]、ボブ・ディランを本格的に聴いたのはプロデビュー以降に小室等に薦められたからで[出典 30]泉谷しげるに至っては「もともとローリング・ストーンズに憧れて音楽を始めて、機材が要らないし、儲かりそうだとフォークを始めた」と話している[62]加川良も「リバプールサウンドが好きで、学生時代はずっとロックバンドのボーカルをやっていた」と[63]なぎらけんいちは「フォークを選んだのは、ただ単にエレキギターが買えなかったこと。それにアンプも高かったから」と述べている[63]。また忌野清志郎も初めて組んだバンド「Clover」で「本当はエレキのバンドをやりたかったんだけど、フォークソングも流行ってたし、楽器の関係もあって、手軽なフォークをやった」と述べている[64]。一般的にフォークシンガーのカテゴリーに入れられることの多い人の中には、音楽的バックボーンにロックやR&Bを持つ人も多い[63]1970年代以降の「フォーク」は他の音楽ジャンルを融合した音楽といえる[65]

日本の流行歌史を辿っていくと、いつの時代にも洋楽を新たな形で取り組むことで、新しい表現が生まれてきたという面があり[出典 31]、フォークソングも同様である[出典 32]。1960年代前半には知る人ぞ知るある種のサブカルチャー的な存在だったフォークソングが[39]、1970年代にはレコードの売上げを始めとして日本のポピュラー音楽史上で避けて通ることの出来ないほど、メインカルチャーにまで登りつめたことは特筆すべきトピックといえる[出典 33]

源流

[編集]

日本のフォークソングの起点をどこに定めるかは難しい[出典 34]。日本のフォークソングの源流は、1950年代に起こった日本のうたごえ運動に、1959年以降に商業的な色合いと様式を身にまとい[出典 35]、海外のヒットソングとして日本に上陸してきたキングストン・トリオ[70]ブラザーズ・フォアピーター・ポール&マリー(PPM)らを合体したものが「日本版フォークソングの誕生」という見方が多い[出典 36]小室等は「1950年代の終わり中学のとき、キングストン・トリオの『トム・ドゥリー』を聞いた。それはフォークソングとして耳にしたのではなく、デル・シャノンコニー・フランシスらのアメリカのポップスのチャートに上がってきたヒット曲の1つとして聞いた」と証言している[74]田家秀樹は「1959年にビルボードNo.1ヒットを記録した『トム・ドゥリー』が日本に紹介され、それまでの日本の歌謡曲とは全く違う新しい音楽として影響を与えるところから日本のフォークソングは始まっている」と論じている[75]。1959年以降に当時のラジオから日本に入ってきたカントリー&ウエスタンを学生たちがコピーしていたら、「アコースティックギターの音は似てるんだけど何か違う、これはいったい何だ?」と気付いた者がいて[69]、当時の先端をいっていた学生たちが、アメリカの音楽雑誌を取り寄せて「どうやらこれは"フォークソング"というらしい」と気付いたというのが、日本で「フォークソング」という言葉が入ってきた始まりという説もある[69]。これらの話から日本では明治時代に「folk music」を「民謡」と訳して以降、「フォークソング」という言葉は全く認知されずにこの時代まで来たと想像される[76]。それでフォークソングはかっこいいとなり、日本で多くのフォークソンググループが出来たといわれる[69]。覚えやすく歌いやすいフォークソング、コピーが流行り、フォークギターもよく売れた[10]

流行の開始

[編集]

1963年9月27日付の『読売新聞夕刊に「最近のアメリカ軽音楽界 完全に民謡ブーム 大学生たちが熱烈な推進」という見出しで「民謡」と「フォークソング」を等号で結び、ジョーン・バエズら著名な歌手を紹介している[出典 37]。この記事では日本の民謡歌手の代表として三橋美智也にコメントを求めるなど、フォークソングの概念を伝統的なフォークソング(民謡)と混同しており[39]、少なくとも日本でこの時点ではアメリカの「フォーク・リバイバル」後の所謂「モダンフォーク」については広まっていなかったと考えられる[39]。また同じ1963年の『ミュージック・ライフ』は、PPMを「女性一人、男性二人の民謡コーラスチームです。モダン・ジャズでもやりそうなスタイルです」などと紹介しているという[10]。翌1964年になると民謡ではなく、フォークソングという表記が一般化し[36]、概ね1965 - 1966年ころ、音楽ジャンル名としての「フォーク」が定着したと見られる[出典 38]。 ボブ・ディランのレコードデビューは1962年3月で[24]、ボブ・ディランのシングル盤が日本で発売されたのは、1965年の「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」(邦題「ホームシック・ブルース」)が最初で[76]、発売元の日本コロムビアはボブ・ディランに「ウエスタン調ロックにつづる哀愁」とキャッチコピーを付けた[76]。ウエスタンという言葉が使われているのは、この前に日本でカントリー&ウエスタン(C&W)のブームがあったからだった[出典 39]

朝日新聞』1966年4月24日付に「フォークソング大はやり 若者の生活に密着」という見出しの記事が載り[77]、「最近、フォークソングが、若者を中心とする歌好きの人々の間ですごくはやっている。ひところのエレキブームのようなハデな騒がしさはないが、若い人たちによってその魅力はなかなか大きいようだ。フォークソングが日本に入って来たのは3、4年前。アメリカでジャズとは別に、歌手と聴衆が一緒になって歌う"新民謡"が生まれ、これがフォークソングと呼ばれた。最近は反戦歌など社会性を持ったものが人気を呼んでいる」と書かれている[77]。また『毎日新聞』1966年9月8日付の「寒流」というコラムに「ギター、フォークソングの孤独なブーム」という見出しの記事が載り[78]、「クラシックギターが売れている。業界の話によると、全国で50のメーカーが月産10万台を作っているそうだ(中略)こんなに売れ、演奏者も多いのなら、エレキ騒動やピアノ教室のように社会的な話題になってもよさそうだが、いっこうにそれらしいことを聞かない。ブームが潜行してる。同じようなブームにフォークソングがある。モダン・フォークと呼ばれるもので、素朴なメロディーに乗せて反戦や社会批判を歌ったものだ。アメリカの大学生の間から流行して、日本でも大学生を中心に百組ほどのグループがある。一説によるとフォーク人口は百万人。それなのにこのブームは表面化しない」などと書かれており[78]、1966年9月時点ではフォークソングムーブメントはそこまで大きくなっていないことが分かる。

日本のフォークソングにはアメリカの伝統的な音楽の継承を目的とするフォークリバイバル英語版的意味はあまり含まれない[出典 40]。あまりというのは日本のフォークソングを先導した労音は、アメリカのフォークソングの思想を受け容れたものだったが[出典 41]、日本の若者にとってはファッションだったからである[出典 42]。アメリカでは当時はまだ徴兵制が残り[3]、実際に戦場に行かねばならないかも知れない現実に晒されていたアメリカの若者たちとは違い[3]、日本の若者たちにとっては戦争は切実な問題ではなかった[3]

大学生とフォークソング

[編集]

1960年代初頭にアメリカの学生の間で盛り上がっていたフォークソングブームに飛びついたのが、日本の富裕層の若者、特に東京成城学園青山学院明治学院など、アメリカ的な自由主義の伝統を持つ私立大学に通う大学生だった[出典 43]ブルーカラー的匂いのあったロックンロールとは違って知的な匂いもあり[出典 44]、アコースティックギターの新鮮さ、美しく爽やかなハーモニーに多くの大学生が驚き、われ先にとグループを結成してそのコピーを始めた[出典 45]。それは同じくアメリカからの輸入品であるアイビールックと連鎖していた[出典 46]。アメリカのフォークソングの動きをいち早く日本に紹介したのが、当時の男性向けファッション雑誌MEN'S CLUB』や深夜ラジオだった[4]芝生の植えられたキャンパスで、アイビーファッションに身を包み、ギターを片手にアメリカのモダンフォーク[注釈 2]コピーを歌う[出典 47]。ギター1本あればみんなと一緒に歌うことが出来るのもフォークソングの魅力だった[67]。それまでに日本に入って来た洋楽は、演じる側と聴く側に境界線があったが[85]、フォークソングはその境界線を取り払った音楽だった[51]。それまでの既成の音楽と著しく違っていたのは、歌い手自ら作詞家作曲家になれたことで[51]なぎら健壱は「シンガーソングライター」も実質的にここを始まりとしている」と論じている[51]。自作で曲を作るのはもう少し後の話で[10]、初期のカレッジ・フォークは、エリート意識とアメリカ文化への憧れから、演奏に関しては英語の歌詞で歌うことに徹する原語主義が貫かれていたという[出典 48]。これが60年代の最新トレンドであり、これらはキャンパス・フォーク、カレッジ・フォークなどと呼ばれるようになった[出典 49]日本フィリップス・レコードの元プロデューサーディレクター本城和治は「担当していた森山良子のアルバムに『カレッジフォーク』という言葉を当て嵌めたんですね。『カレッジフォーク』という言葉を使っているのはフィリップスだけ。僕は『キャンパスフォーク』というのは抵抗があった。会社によって『キャンパスフォーク』とか独自の言い方をしていましたね」などと述べているが[87]、森山のレコードデビューは1967年1月25日リリースのシングルこの広い野原いっぱい」が最初で、「カレッジ・フォーク」という言葉は『読売新聞』1965年5月19日付の夕刊「新フォーク・ソングの泉をもとめて 永六輔、いずみ・たく氏ら全国へ取材の旅 六月には新作発表会」という記事に既に見られる[36]。なぎらは「フォーク・シーンを支える絶対数の多さから、フォークがファッション、精神的なものも含めて若者文化をリードした」と論じている[51]。振り返れば軽さはあるにせよ、それまでの若者の自己表現のツールが文学や学生運動などだったが[63]、フォークソングはそれに代わる明確な意思を持つ若者の新しい自己表現のツールであったことは確かである[63]。昭和40年代、日本中の若者という若者が、思わずフォークギターを手にしてしまった[63]

特に盛んだったのが東京[出典 50]、日本で最初のフォークソンググループとも言われる立教大学の大沢保が作った「セント・ポール・フォーク・シンガーズ」が[出典 51]、1963年12月24日に[68]、日本で初めてのフーテナニー[注釈 3]「フーテナニー'63」を他2組と銀座ガスホールで開催した[出典 53]。この催しが一つのきっかけとなって、それまでバラバラだったフォークソング運動に横の連帯が生まれた[出典 54]。翌年の 「フーテナニー12-25-64」 は当時としては異例の1,200人の観客を動員[18]。1964年暮れと1965年6月に「ジュニア・ジャンボリー」が成功し、カレッジフォークのパターンが決まった[68]。これらの多くは学生が主体となった 団体や労音によって主催された[18]。彼らが企画した手作りのコンサートや大学祭などがフォー クシンガー・フォークグループの主な演奏の場となった[18]。ただし、1965年ころまではプログラムの半分以上はカントリー&ウエスタンだったともいわれる[10]。ここから各所で「〇〇フーテナニー」「〇〇ジャンボリー」「〇〇フェスティバル」など呼ばれるコンサートが開かれた[出典 55]。1965年10月にはキングストン・トリオらアメリカカレッジのキャンパスシンガーたちが、日劇で開かれた「第1回フォークソング・フェスティバル」に総出で出演した[73]マイク真木の在籍した「モダン・フォーク・カルテット」や石川鷹彦が在籍していた「フォーク・ウィンズ」、「ハミング・バーズ」など、各大学にカレッジ・フォークのグループがあり[出典 56]森山良子細野晴臣もカレッジ・フォーク出身者で[出典 57]、細野も「オックス・ドライヴァーズ」というグループを率いてキングストン・トリオなどを歌っていた[76]。国産初の本格的なフォーク・ギターが発売されたのは1966年(ヤマハFG180、18,000円)[92]。同年にはカレッジ・フォーク出身のマイク眞木「バラが咲いた」や[出典 58]ザ・ブロードサイド・フォーの「若者たち」が同名ドラマ主題歌として大ヒットし[93]、日本でフォークブームが起きた[出典 59]。これらは職業作家の作品で自作自演ではなく[出典 60]、既成の歌謡曲のフィールドで作り出された「フォークソング風歌謡曲」で[91]、マイク眞木を"日本のボブ・ディラン"として売り出そうとした時代感覚はかなりズレていた[91]。当時はレコード会社の力が圧倒的で[83]、作家(作詞家作曲家)はレコード会社の専属制を執っており[83]、レコード会社の専属でない者が、自身で作詞・作曲したレコードを出すのは難しかった[83]。当時のレコード会社がリリースする流行歌の内容は、青春恋愛などを歌った他愛もないもので[83]、フォークっぽい曲を狙って出しても実質は歌謡曲だった[83]。「バラが咲いた」も、浜口庫之助ジョニー・ティロットソンに書いたものを[出典 61]デモテープを頼んだマイク眞木のバージョンの出来がとても良かったことから、代わりに歌ってシングルリリースされ大ヒットしたものだった[出典 62]。2023年7月22日にBSフジで放送された『HIT SONG MAKERS フォークソングスペシャル ~日本のフォークソングは如何に生まれたのか~』では、マイク眞木は、レコーディングの際にレコード会社から「フォークソング風に歌ってくれ、と要請を受けた」と証言している。「バラが咲いた」はフォークソング風歌謡曲である[63]

このようなセンスは同時期に流行った海外のロック・ムーブメントの歌謡曲展開だったグループ・サウンズ (GS) に近いものがあった[91]。ただしこれらは他の歌謡曲に較べれば、時代の空気を感じさせるものとして、若い世代に支持された[91]。また1968年ころからカレッジ・フォークの中で日本語オリジナルのフォークをやる者が出てきた[出典 63]。フォー・セインツやザ・リガニーズ、モダン・フォーク・フェローズ、キャッスル&ゲイツなどだが、ただ大ヒットシングルを出すまでには至らなかった[76]。こうした関東のカレッジフォークはアメリカの社会派という輸入物は抜きにしたもので[73]、民衆を鼓舞し前進させるものではなかった[73]

フォークソングとGS

[編集]

同時期の1960年代後半、ロックバンド風のサウンドやスタイルがグループ・サウンズ (GS) として発展し、フォークソングブームは一時GSブームの後ろに隠れた[出典 64]。GSブームはフォークソングブームとは別の流れで[出典 65][注釈 4]、1957年から1959年ころのロカビリーブーム~1960年以降のベンチャーズビートルズ来日に刺激されたエレキ・ブームの流れにあるものである[出典 66]

みのは「ミュージシャンの自主性の獲得ということで言えば、グループ・サウンズは“半・自立”みたいな感じだった。自分の足で立ったのは、フォークが最初だったのかなと思う」などと[59]後藤豊は「グループサウンズは芸能界とのつながりが強かった。才能のある人はいっぱいいたんだけど、出てきた時代が不運だったというか」などと述べている[59]。ただしこの時期に音楽を志す若者が、最初の取っ掛かりとして、フォークギターか、エレキギターのどちらかを持ったという点では、日本のポップスの歴史の中では重要な季節であったといえる[出典 67]。また当時のフォークファンに大きな影響を与えたボブ・ディランが、1965年にフォークギターからエレキギターに持ち替え、フォークファンから非難された事件もショックな出来事で[出典 68]、フォークがロック化するのは世界的な傾向でもあった[出典 69]。本来的に考えれば、フォークソングとロックンロールは必ずしも対立するものではなく[91]、どちらもアイルランドスコットランドなどの移民伝承音楽、そして黒人音楽をルーツとして生まれたもので[91]カントリー・ミュージックを含めていわば親類関係にある音楽だった[91]。ところが限られた情報しかなかった日本から見る限り、フォークソングがアコースティックギター、ロックンロールがエレキギターという楽器の区別も分かりやすく見えた[91]。しかしフォークソング=良識、ロックンロール=不良という捉え方は、あまりに単純過ぎたし、どちらも元々、"体制"に対する反抗の精神を根本に持っていたことを見落とし、それらが現象面だけから、全く別の"欧米の新しい流行"として受け入れられたことが、その後の日本のフォークとロックの関係をギクシャクしたものにしていった原因の一つになった[出典 70]。またフォークとロックを融合した「フォークロック」については[出典 71]、日本ではあまり語られないが、アメリカでは60年代末期にロック文化を根づかせる陰の力になったと評価されているという[出典 72]。先述の日本フィリップス・レコード元プロデューサー・本城和治は「日本初のフォークロックのグループはマイク眞木とザ・マイクスと思う」と述べている[105]

関西フォーク

[編集]

1969年になると下降線をたどるGSブームと入れ替わるように世の中がフォーク一色になった[出典 73]。東京と同様にフォークソングが盛んだったのは関西だった[出典 74]。前述のように日本のフォークの源流にうたごえ運動があり[9]、高石事務所~音楽舎~URCを立ち上げ[出典 75]、関西フォークを主導した秦政明も、かつては積極的にうたごえ運動に関わった人で[9]全日本フォークジャンボリーを企画運営したのもうたごえ運動と関係する労音スタッフによるもので[出典 76]、初期の日本のフォークが、政治とも微妙な関係を持っていたのには、このような背景があった[9]

東京育ちのお坊ちゃまが歌うカレッジ・フォークへの反撥心から関西フォークは生まれた[出典 77]。直接の切っ掛けとしては1967年1月にジョーン・バエズが来日し[113]、大阪の府学連(大阪府学生自治会連合)の平和集会でベトナム反戦への熱い思いを訴えたことともいわれる[73]。また東京の"業界"から距離を持ち得たからこそ、よりアマチュア的な純粋さを保ちながら成長していくことが出来たとも言える[97]。コピーの多かった関東に比べて関西では1967年からフォークソングの特徴でもある集会スタイルのコンサート「フォークキャンプ」をいち早く開催した[76]。1969年から1971年にかけて3回開催された全日本フォークジャンボリー(中津川フォークジャンボリー)も関西フォークの当時の盛り上がりを象徴するイベントといえる[18]

これに参加した京都の学生のグループ・ザ・フォーク・クルセダーズが「帰って来たヨッパライ」を自主製作し[出典 78]、これがラジオ関西深夜放送で取り上げられると大きな反響を呼び[出典 79]、これに目を付けたパシフィック音楽出版原盤権を獲得し[115]ニッポン放送を経て[115]東芝音楽工業から1967年暮れにシングルリリースされ[出典 80]、楽曲のユニークさから社会現象となり、280万枚を売り上げるメガヒットになった[出典 81]。これはフォークソングの自作自演曲としては初めての大ヒット曲といえるものだが[出典 82]、加工が施された内容からカテゴリーが難しく[出典 83]、早回し録音がウケたコミックソングに入れられることも多いが[出典 84]、実験的な手法は後期ビートルズの影響を指摘されることもあり[出典 85]、この曲を日本語ロックの先駆と評価されることもある[76]。また70年代に吉田拓郎井上陽水かぐや姫らが花開けたのもフォークルの活躍があったからこそという評価もある[115]。「帰って来たヨッパライ」の大ヒットにより注目されたのが関西フォークだった[出典 86]。関西フォークは東京のカレッジフォークが飛び火したもので[出典 87]、当初は関西にもカレッジフォークのグループはいた[出典 88]。しかし今日では東京のカレッジフォークとは大きく異なり、オリジナルの反戦フォーク、プロテスト・フォーク、アングラ・フォークを主体としたものとして語られる[出典 89]。きれいごとのカレッジフォークを打破するが如く、そのカウンターカルチャーとして出現した[出典 90]小室等は、関西フォークについて「上から目線の反戦歌というか、親のスネっかじりが反戦を声高に歌っていいのか、自分の中で煩悶がありました。もっと自分の立ち位置を確認してから歌いたい。もう一度、音楽というところに戻ろう。直接、反戦を歌っちゃ駄目なんだ、と僕は思っていました」と述べている[127]

プロテストソングとしてのフォークソング

[編集]

プロテストソングという言葉は、日本語では抗議の歌と訳されることがあるが[123]、思想的、政治的な信条を歌に託して訴えるもので[123]、勿論これもアメリカからの輸入で、60年代のアメリカでの公民権運動の際に「勝利を我等に」がそのアンセムとなり、ジョーン・バエズやピート・シーガー、ボブ・ディランらによって広く歌われた[123]。なぜ関西フォークがプロテスト・フォークだったかと言えば、そういう時代だったからである[出典 91]。当時は中学生政治運動をやる時代[128]東大安田講堂事件や、パリ五月危機、アメリカはベトナム戦争の渦中で、日本を含めた全世界で戦争反対のデモや集会が行われた[出典 92]。みんなで力を合わせれば国が動くんじゃないかとみんなが考えた[出典 93]。日本でこれらは60年代後半の安保闘争フォークゲリラヒッピー文化などと結びついて[出典 94]アジテーションの手段として重要な役割を果たした[出典 95]。「アジ」の代わりにギターを持ってがなる、これが当時のフォークソングだった[出典 96]

『読売新聞』は1969年11月4日付のコラム「あんぐる」で「昨今の日本の日本のフォーク・ブームは音楽的な実りは何一つない。高石友也らのフォーク・ゲリラの自称フォークは、なるほど、体制に反抗しようとする若者らしい怒りがその歌詞には見られても、メロディーは流行歌と大同小異。森山良子らのいわゆるフォークに至っては、歌謡曲と何らかわるところがない。若者たちの既存体制に対する不満の爆発がザ・ビートルズを頂点とするグループ・サウンズを生んだ。しかしいったんそれが日本に輸入されると『月の沙漠』的発想にうずもれて『ブルー・シャトウ』になってしまったように爆発的エネルギーは去勢されてしまった。フォークも同様で音楽的にも歌詞の内容も中学二、三年程度のものしか感じられない」などと批判した[96]

プロテストソングを最初に日本でやったのは東京出身の高田渡であったが[123]、1967年に高石友也と秦政明が設立した『高石音楽事務所』に高田や岡林信康五つの赤い風船中川五郎遠藤賢司ジャックスが所属し、大きなムーブメントになった[出典 97]。高石友也や高田渡、遠藤賢司らは関西人ではないが[出典 98]、今日では一括して関西フォークと括られることが多い[出典 99]。1969年に設立された会員制の通信販売のレコード会社・音楽舎→アングラ・レコード・クラブ(URC)は関西フォークの普及に大きく貢献した[出典 100]。楽曲では岡林信康の「友よ」「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」などが有名である[出典 101]三上寛は「3000年の間、沈黙を強いられていた連中が、自分の言葉で喋りはじめた時代だった。反戦、失恋、四畳半、僕ら自身の言葉で歌われたという、いい時代でした。『マイナーこそがメジャーなのだ』と、あの頃は胸を張って言えました」などと述べている[63]

また1960年代後半から1970年代初頭にかけてはもとまろ赤い鳥、ピンク・ピクルス、ウィッシュ、五つの赤い風船らも話題曲を発表した。1966年7月17日、『勝ち抜きエレキ合戦』のフォーク版・フジテレビフォークソング合戦』スタート[91]。8月1日、ニッポン放送バイタリス・フォーク・ビレッジ[出典 102]、10月31日、TBSテレビヤング720』、11月、ラジオ関西『ミッドナイト・フォーク』などが放送開始し[91]放送局レコード会社がフォーク・イベントに手を染め始めた[91]。当時のラジオリスナーはフォークソングを支持する若者が多かった[10]

フォークからニューミュージックへ

[編集]

1970年代初頭の吉田拓郎の登場により[出典 103]、それまで反体制色の濃かったフォーク・ソングはポップス化し[出典 104]、「シンガーソングライター」という音楽的形態として[出典 105]、表舞台に引き上げられた[出典 106]広島フォーク村出身の吉田拓郎は[出典 107]、関西フォークとは距離を置き[出典 108]政治と結びついていた連帯の歌を排除し[出典 109]、徹底的な個人主義をフォークソングに持ち込んだ[出典 110]。それまでのフォークは、東京か関西のイメージしかなかったため[166]、広島フォーク村出身の拓郎の登場は、当時のフォークファンには新鮮な驚きがあった[166]

諸説あるにせよ1971年の第3回全日本フォークジャンボリーに於ける伝説のステージは[出典 111]、吉田拓郎をそれまでの「関西フォーク」中心の流れに対峙する存在として認知させたのは歴史的事実である[出典 112]70年安保は、実質的には1969年秋に"体制側"の勝利に終わり[168]、政治闘争に関わった者の中には、より過激な闘争状態を志向する者もいたが[168]、圧倒的多数を占めたのは、挫折感から日常生活に埋没していった層だった[168]。ストレートなプロテストソングから、個と社会との関り、個と個の関係、自己の内面へのアプローチ、日本のフォークソングは"青春時代"を過ぎて、"大人"の世界へと踏み出す時を迎えていた[168]アジテーターとして類い稀なる才を発揮した吉田拓郎を大多数の若者が支持したのである[出典 113]。吉田拓郎の成功を見て、各レコード会社は、フォークに力を入れた[出典 114]。60年代とうってかわって70年代は脱政治・個人の時代となり[出典 115]、吉田拓郎や井上陽水松任谷由実中島みゆきらは政治性の薄いフォークソングを発売し[出典 116]、これがニュー・ミュージックという新ジャンルへと変質した[出典 117]

北山修(きたやま おさむ)は「音楽界は〝変化"のときを迎えつつありました。フォークルの『帰って来たヨッパライ』のような〝手作り〟の良さを持ったものから、計画的に物事を進めないといけないショー・ビジネスへの転換。フォークソング→ニューミュージック、複数の個性が集団の中で切磋琢磨し合う〝グループ"→シンガー・ソングライターの〝個人"の時代への変化などです。拓郎や陽水らの登場によって、『時代』は明らかに変わってゆくのです。拓郎のアルバム『元気です。』を聴いたとき、『あぁ時代は変わったんだな』と感じましたね」などと述べている[45]富澤一誠は「拓郎・陽水・かぐや姫らの生活派・四畳半フォークと関西フォークの違いは、新聞でいうと関西フォークは社会面、生活派フォークは芸能面に当たるかな。70年安保が自動延長になり『外に向かって何を言ってもダメ』という空気が生まれ、自分の問題として、矛先を内側に向けた。これが生活派フォークです。歌うスタイルも『私たち』『僕たち』から『僕の』『私の』に変っていきました。『僕の髪が肩まで伸びて…』はやはり象徴的な歌です。1972年に拓郎が出て(ブレイクして)、ガロあがた森魚、1973年にかぐや姫、井上陽水、1974年にグレープ山本コウタローとウィークエンドが続きました。1975年にユーミンが出現したころから、フォークという言葉が消え、ニューミュージックに受け継がれていきました」などと論じている[63]。フォークは1980年代半ばに早くも懐メロ扱いされた[63]。小川真一は「時代の動きに機敏に反応するのもフォークソングであるが、たぶん最初はそれほど大きなものではなかった。時代の代弁者ではあっても、大きく人を動かすものではなかったように思う。それが変わり始めたのが、1971年の第3回全日本フォークジャンボリーであり、1975年の吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋になるだろう。今では大規模な野外コンサートや、ドーム球場での連続ライブなどもまるで珍しくないが、全く基盤のないところからハンドメイドで作り上げていった、それが70年代であったように思う。またレコード売り上げという意味に於いては、吉田拓郎やかぐや姫のシングルが異例の大ヒットを記録し、井上陽水のアルバム氷の世界』が、日本レコード史上初めてアルバム100万枚を超えるセールスを打ち立て、フォークが売れる時代が始まった。ヤマハが主催したポプコンや、全国各地で開催されたフォークのコンテストによって、フォークソングの裾野はさらに広がり、それは新しい若者の音楽=ニューミュージックへと進化を遂げた。ニューミュージック、J-POP、フォーキー・ミュージックと、指し示す言葉は色々と変化し続けているが、フォークソングのスピリットは今も生き続ける」などと論じている[出典 118]

日本の主なアーティスト

[編集]

日本がらみのフォーク年表

[編集]

日本の主なフォークシンガー

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 拓郎は自身で「僕はフォークじゃない」[出典 27]、「日本にフォークソングなんてない。アマチュアが生業として歌っていないものを、米国ではトラディショナルフォークソングと呼んでいる。そうなると、僕なんかはフォークじゃないし『神田川』は演歌。ただ、その言葉を使うことによって、売れたことは事実です」などと述べている[出典 28]
  2. ^ なぎら健壱は「モダンフォークという言葉は当時の大学生が作った和製英語」と述べている[84]。1965年ころの読売新聞には「モダンフォーク」という言葉の使用が多数見られる[36]
  3. ^ 叫ぶという意味のスラングから生まれた語で、フォークソングの集会で、歌う者と聴くものとが一緒になって楽しむことを意味する。60年代のアメリカでは盛んに行われた[出典 52]。フーテナニーという言葉をお茶の間に最初に持ち込んだのは、1963年秋にアメリカから帰国した雪村いづみと言われる[3]
  4. ^ 「グループ・サウンズ」という言葉が普及する以前の『読売新聞』夕刊1967年1月17日付にザ・タイガースのデビューを紹介した記事が載り、「ザ・スパイダースザ・ワイルドワンズブルー・コメッツザ・サベージ…など和製フォーク・ソング・グループの花ざかりの中に,もうひとつザ・タイガースが誕生する」と書かれているという[36]

出典

[編集]
  1. ^ a b c 平凡社『改訂新版 世界大百科事典』中村 とうよう執筆「フォークソング」
  2. ^ a b c d e f g フォークソングとは”. コトバンク. 2023年3月10日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y #前田平原 pp.8–36
  4. ^ a b c d e f g h i j Tohyama Shuhei (2017年1月5日). “美人白書 Vol.36 BONNIE PINK”. NEWYORKER MAGAZINE. 2021年5月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月11日閲覧。
  5. ^ Ruehl. “Folk Music”. About.com definition. August 18, 2011閲覧。
  6. ^ a b #アメリカ音楽史 pp.11–16,19–214
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n #大和田 pp.57–66
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u #アメリカ音楽史 pp.233–250
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae #完全読本 pp.18–30,45–47,52–59
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 長谷川倫子「カレッジ・フォークからCBC ラジオ深夜放送ファンの集いへ : 1969年三河大島のメディア・イベントを事例として」『コミュニケーション科学』第40号、東京経済大学コミュニケーション学会、2014年9月、3-25頁、ISSN 1340-587XNAID 120005521297 
  11. ^ Library of Congress. Related Material – Woody Guthrie Sound Recordings at the American Folklife Center. arachivedate= Septenber 9 , 2019.
  12. ^ The Never-Ending Revival by Michael F. Scully University of Illinois Press Urbana and Chicago 2008 ISBN 978-0-252-03333-9
  13. ^ a b c d e f g #大和田 pp.182–188
  14. ^ Rubeck, Jack; Blake, Ben; Shaw, Allan (1986). The Kingston Trio On Record. KK Inc.. p. 11. ISBN 978-0-674-95133-4 
  15. ^ a b c d e f g h “THE ALFEE 坂崎幸之助さん、フォークソングを語る!”. エフエム東京. (2014年8月17日). オリジナルの2015年10月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151022145954/http://www.tfm.co.jp/hv/?itemid=84316 2023年8月8日閲覧。 
  16. ^ a b c d e f フォークからロックへと 転身を遂げたボブ・ディランの 歴史的傑作『追憶のハイウェイ61』
  17. ^ a b c d e #前田平原 pp.28–29
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n 永井純一『日本における黎明期のロックコンサートとフェスティバル--1950〜70年代前半を中心に神戸山手大学紀要 pp.195-199:(2009-12-20) - 関西国際大学情報リポジトリ
  19. ^ “キングストン・トリオが来日”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 10. (1965年9月25日) 
  20. ^ BBC Sessions”. Steeleyespanfan.co.uk. 12 Decemeber 2024閲覧。
  21. ^ a b c #鈴木 pp.86–89,146–147、172–175、210–213
  22. ^ a b c d e f g h 1960年代後半のカレッジフォークを仕掛け人とともに振り返る”. Rolling Stone Japan. ローリング・ストーン. p. 3 (2021年8月31日). 2022年8月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月8日閲覧。
  23. ^ 完全読本, pp. 18–21.
  24. ^ a b c d e #なぎら pp.344–372
  25. ^ [1]
  26. ^ [2]
  27. ^ About Shenandoah Run”. shenandoahrun.com. 2015年2月3日閲覧。
  28. ^ Definition of filk by FilkOntario”. Filkontario.ca. 2013年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年12月29日閲覧。
  29. ^ Music | Castlefest” (英語). www.castlefest.nl. 2017年7月4日閲覧。
  30. ^ French-folk singers The famouspeople.com 2023年10月23日閲覧
  31. ^ [3]
  32. ^ Birchmeier, Jason. “Cocoon”. AllMusic. 2020年2月1日閲覧。
  33. ^ Neo traditional folk All music 2023年10月23日閲覧
  34. ^ 「200CDブリティッシュ・ロック」 p.186。立風書房
  35. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x “石井竜也のルーツ!? ニューミュージックの歴史と魅力を紐解く”. TOKYO FM + PRニュース 高橋みなみの これから、何する? (エフエム東京). (2017年10月23日). オリジナルの2017年8月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171024160314/https://tfm-plus.gsj.mobi/news/pvT6JdtrOq.html?showContents=detail 2023年8月11日閲覧。 Vol.31 昭和50年 ニューミュージック誕生(1/3) - 振り返る昭和 - 地球発(Internet Archive)、アリス、吉田拓郎、渡辺真知子。「昭和40年男」がニューミュージックを大特集!あの名曲に秘められた秘話 音楽が2倍楽しくなる話 富澤一誠 (PDF) 中日文化センター 平成26年4月~6月、5月1日 ゲスト:富澤一誠さん - ドコモ団塊倶楽部徳光和夫とくモリ歌謡サタデー日本の歌謡史を鋭く紐解く!音楽評論家・富澤一誠さん登場!森山良子 - フォークソングの時代 - ドリーミュージック11月15日(日)富澤一誠さん「黄金のフォーク・ブーム到来~岡林信康から吉田拓郎へ~」(報告)第44回 岡林信康と吉田拓郎は特別な存在!高等教育の明日 われら大学人<88>音楽評論家として評論活動 展開する尚美学園大副学長 冨澤一誠さん 「青春生きざま論」でエール 東大を中退歌手めざすが 「大人の音楽」普及に尽力あの素晴らしい〈フォークソング〉をもう一度<富澤一誠が歴史検証>「時代に選ばれた吉田拓郎がライブを変革させた」ドコモ団塊倶楽部 放送レポート 5月1日 ゲスト:富澤一誠さん テーマ:『レコードじゃんけんで振り返る “昭和”のミュージックシーン!』「独りぼっちは決して寂しいものではない」76歳でリタイアする吉田拓郎の「終活」
  36. ^ a b c d e f g h i j k l m 山田晴通新聞記事データベースにみる音楽ジャンル名としての「フォーク」概念の定着過程」『コミュニケーション科学』第32号、東京経済大学、2010年10月、158-190頁、ISSN 1340587XNAID 110008434633 
  37. ^ a b c “民謡をフォークに編曲ギター使い弾き語り、吉倉三喜男氏(発発行の流行人)”. 日経流通新聞 (日本経済新聞社): p. 10. (1994年10月22日) 
  38. ^ a b c d “フォークソング考 ある地方青年の場合(下) 無名性・集団性で進む”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 17. (1972年7月25日) 
  39. ^ a b c d e f g h i j k #ユリイカ pp.136–143
  40. ^ 安田奈緒美 (2015年5月1日). “絶滅のギタ女、時代を経て復活・増殖中 教祖は加藤登紀子、イルカらフォークソング世代…ではなく「椎名林檎」”. 産経WEST (産経新聞大阪本社). オリジナルの2021年12月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211204172513/https://www.sankei.com/article/20150501-UIAXKIHHAZLDRJZTEJG3VIJIME/ 2023年6月1日閲覧。 
  41. ^ 「音楽文化・産業論 2008 I」 講師:後藤由多加 「インディーズ創世記」立命館大学
  42. ^ 吉田拓郎 シンガーソングライター よしだたくろう”. NHK人物録. NHKアーカイブス. 2020年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月8日閲覧。『フォークソングの時代』 曲目メモ by 森山良子 - ハイレゾ音源配信サイト井上陽水、唯一無二の世界観で魅せた「UNITED COVER2」東京公演今、歌うために走っている――小田和正74歳、これからに向けて鍛え直す日々”. Yahoo!ニュースオリジナル特集 (2021年12月22日). 2021年12月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月1日閲覧。“桑田佳祐「吉田拓郎、偉大です。ファンでございます」活動区切りで感謝コメント”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2022–06–29). オリジナルの2022年6月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220625150030/https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202206250001694.html 2023年6月1日閲覧。 堂本兄弟、2004年2月29日 長戸大幸さん×平澤創[対談]”. フェイス25周年記念Webサイト・スペシャル対談企画 最終回【前編】. フェイス. 2019年2月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月1日閲覧。“【ダイアモンド✡ユカイ×織田哲郎 対談・中編】音楽少年の人生を変えた長戸大幸さんとの出会い”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社). (2021年6月30日). オリジナルの2022年4月10日時点におけるアーカイブ。. https://archive.ph/OzNFp 2023年6月1日閲覧。 完全引退へ!小室哲哉が“負けを認めた”アーティストとは音楽業界総合情報サイト Musicman-NET - Musicman's RELAY 第67回 きくち伸氏 フジテレビプロデューサー、“「フォークの聖地」つま恋リゾート営業終了”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2016–09–02). オリジナルの2016年9月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160902085153/https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ02HIF_S6A900C1000000/ 2023年6月1日閲覧。 “あぶくま抄・論説 あぶくま抄 拓郎さんの終活(7月30日)”. 福島民報 (福島民報社). (2022年7月30日). オリジナルの2022年7月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220730021652/https://www.minpo.jp/news/moredetail/2022073099222 2023年8月8日閲覧。 越智俊至・飯田樹与・中山敬三 (2020年10月4日). “<考える広場>吉田拓郎が拓いた地平”. 東京新聞 TOKYO Web (中日新聞東京本社). オリジナルの2020年10月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221004034506/https://www.tokyo-np.co.jp/article/206251 2023年8月8日閲覧。 
  43. ^ a b c Takuro Yoshida: Shangri-La - The Band Website (英語)
  44. ^ a b 田畑竜介 (2022年7月4日). “吉田拓郎は“昭和・平成維新の存在”音楽プロデューサーが軌跡たどる”. 田畑竜介 Grooooow Up. RKB毎日放送. 2022年7月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月23日閲覧。
  45. ^ a b 喜多由浩 (2023年10月11日). “話の肖像画 精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<10> 僕らはだんだん倦んでいった”. 産経ニュース. 2023年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月18日閲覧。話の肖像画 精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<11> 「変化」を実感した拓郎の登場”. 産経ニュース (2023年10月12日). 2023年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月18日閲覧。
  46. ^ a b c d e f 竹村章・松田秀彦 (2022年4月17日). “インタビュー<日曜日のヒーロー> 第466回 吉田拓郎”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). オリジナルの2005年6月11日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20050611012444/https://www.nikkansports.com/ns/entertainment/interview/2005/sun050529.html 2023年8月8日閲覧。 竹村章 (2022-06-). “【こんな人】テレビ見納め吉田拓郎 帰れコールに悪びれず、キャンディーズ曲依頼受け「勝った」”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). オリジナルの2022年6月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220624203514/https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202206240001263.html 2023年8月8日閲覧。 上田融 (2022年4月17日). “「つま恋」「全国ツアー」「フォーライフ」……。吉田拓郎、本紙に語る”. 東京新聞 (中日新聞東京本社). https://web.archive.org/web/20220417021441/https://www.tokyo-np.co.jp/article/171933/2 2023年8月8日閲覧。 
  47. ^ a b c 今、なぜ吉田拓郎なのか? ボブ・ディランと共鳴する“稀代のメロディメーカー”の歩み
  48. ^ 池内亜希 (2022–07–03). “今も消えぬ“ギターだこ”…吉田拓郎「音楽はやっぱり最後まで一緒にいる存在ですよ」”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 3. オリジナルの2022年7月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220702215254/https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20220701-OYT1T50136/ 2023年8月8日閲覧。 
  49. ^ a b #拓郎 pp.48-50
  50. ^ #恩蔵 pp.221-226
  51. ^ a b c d e f g h i j k l m n o #なぎら pp.7–11
  52. ^ a b #田家 pp.40-43
  53. ^ a b 第77回中国文化賞受賞に寄せて 吉田拓郎氏エッセー(Internet Archive)
  54. ^ a b 桑原聡 (2022年9月3日). “モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら (135) 拓郎よ、フォーエバー”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社). オリジナルの2022年9月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220903022810/https://www.sankei.com/article/20220903-5S7XI2NM4VNCBLXSHDC6WYRLMY/ 2023年8月8日閲覧。 
  55. ^ Apple Musicの「吉田拓郎 : 隠れた名曲」”. Apple Music. 2023年3月23日閲覧。
  56. ^ スペシャルインタビュー - MOMM | MusicMusic Scene VOL.02 田家秀樹(Internet Archive)
  57. ^ a b c 吉田拓郎によって始まったニューミュージックの時代を象徴するシンプルな名曲「どうしてこんなに悲しいんだろう」
  58. ^ a b 永堀アツオ (2024年6月1日). “80年代はシティポップだけじゃない! 音楽評論家・田家秀樹&スージー鈴木が迷わず選ぶ「殿堂入りすべきアーティスト」”. 週プレNEWS. 集英社. 2024年6月22日閲覧。
  59. ^ a b c 吉田拓郎が音楽シーンに残した功績とは? みのミュージックとフォーライフミュージック・後藤豊が語り合う やっぱり吉田拓郎は凄すぎる - みのミュージック
  60. ^ a b ディランの「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」を聴いて突然、こんなふうに書けばいいのだと分かったんだよ
  61. ^ a b ボブ・ディランを胸に抱いて、井上陽水は「ノーベル賞」を歌った
  62. ^ 田家秀樹 (2022年7月31日). “風邪のお陰で生まれた!? 泉谷しげるが明かす『春夏秋冬』誕生秘話 「明後日までに1曲作れ!」と言われて”. 現代ビジネス. 講談社. 2022年7月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月23日閲覧。
  63. ^ a b c d e f g h i j k l 「あのころ フォークル、拓郎、岡林、泉谷、古井戸、赤い鳥… 昭和40年代フォークをふりかえりて」『週刊宝石』1985年8月23、30日号、光文社、92–97頁。 
  64. ^ #金澤 pp.85–91
  65. ^ a b #音楽人 pp.52–53
  66. ^ a b c d #相倉松村 pp.252–264
  67. ^ a b c d e #瀧口 pp.11–23
  68. ^ a b c d e f g h i #池田 pp.29–32
  69. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q #富澤 pp.22–30
  70. ^ a b c d 津田敏之『1960年代の日本におけるブルーグラス音楽愛好者の交流の進展』 (PDF) 京都橘大学大学院文化政策研究科研究論集 第5号 2011年 pp.5–8
  71. ^ a b c 棚田輝嘉, 山内博之「フォークソングの形態素解析 : 関西フォークと一般フォークの比較」『實踐國文學』第80号、2011年10月、248-275頁、NAID 120005553164 
  72. ^ a b c d e f g #稲増 pp.192–214
  73. ^ a b c d e f g h i j k l #菊池 pp.211–220
  74. ^ #中山 pp.136–143
  75. ^ a b #音楽人 pp.20–21
  76. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s #小川 pp.30–52
  77. ^ a b “娯楽ウィークリー フォークソング大はやり 若者の生活に密着 レコード会社も拍車”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 23. (1966年4月24日) 
  78. ^ a b “寒流 ギター、フォークソングの孤独なブーム”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 23. (1966年9月8日) 
  79. ^ a b c d e f g h i j k l m 柳井康弘「吉田拓郎が日本のフォークソングに与えた偉大なる影響 : 私生活フォークの成立と「僕の歌」をめぐって(芸術のロケーション)」『Booklet』第12巻、慶應義塾大学、2004年1月31日、83-92頁、NAID 110004646497 
  80. ^ a b 越智俊至 (2019年8月3日). “フォークはどこへ行った”. 東京新聞 TOKYO Web (中日新聞東京本社). オリジナルの2023年3月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20230303135300/https://www.tokyo-np.co.jp/article/3074 2023年3月3日閲覧。 
  81. ^ “日比谷でフォーク・ソングの会 森山良子も歌う”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 12. (1965年11月1日) 
  82. ^ a b c 『フォークソングの時代』 曲目メモ by 森山良子 - ハイレゾ音源配信サイト
  83. ^ a b c d e f g h i #金澤 pp.10–16
  84. ^ a b c d e f g h i j #なぎら pp.13–33
  85. ^ なぎら, pp. 7–11.
  86. ^ メディア世代のカルチャーシーン東京人は何を体験してきたのか (PDF) J-WAVE p.7
  87. ^ a b 1960年代後半のカレッジフォークを仕掛け人とともに振り返る”. Rolling Stone Japan. ローリング・ストーン. p. 2 (2021年8月31日). 2022年8月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月8日閲覧。
  88. ^ a b c d #200CD pp.172–173
  89. ^ a b c d #200CD p.127
  90. ^ a b 第90回 新田和長 氏 株式会社ドリーミュージック 取締役 エグゼクティブプロデューサー
  91. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q #前田平原 pp.38–66
  92. ^ a b #なぎら pp.307–337
  93. ^ 1960年代後半のカレッジフォークを仕掛け人とともに振り返る”. Rolling Stone Japan. ローリング・ストーン. p. 5 (2021年8月31日). 2022年8月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月8日閲覧。
  94. ^ #富澤 pp.31–38
  95. ^ #馬飼野 pp.74–77
  96. ^ a b c “あんぐる "フォークブーム"に苦言”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 9. (1969年11月4日) 
  97. ^ a b c d e f g h i j k #前田平原 pp.68–138
  98. ^ #菊池 pp.200–205
  99. ^ #小西 pp.250–254
  100. ^ #北中 p.21
  101. ^ #完全読本 pp.52–59
  102. ^ a b 「舛添はロックじゃなくてフォークソング!」発言の内田裕也に困惑と批判の声追悼・内田裕也 ロックプロデューサーとしての多大な功績
  103. ^ 西田浩 (2020年11月25日). “〔時代の証言者〕 現代の吟遊詩人 さだまさし(17) 「暗い」「軟弱」 曲への評判”. 読売新聞 (読売新聞社). https://twitter.com/y_seniorwriters/status/1331326724446035969 2023年8月8日閲覧。 
  104. ^ a b #前田平原 pp.58–60
  105. ^ 1960年代後半のカレッジフォークを仕掛け人とともに振り返る”. Rolling Stone Japan. ローリング・ストーン. p. 4 (2021年8月31日). 2022年8月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月8日閲覧。
  106. ^ a b c “〔俗語辞典〕 いつまで新しい?いまでも新しい?『ニューミュージック』”. NHKスペシャルニッポンのポ (NHK). (2017年6月1日). オリジナルの2017年4月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170416153126/http://www.nhk.or.jp/po/zokugo/1334.html 2023年8月11日閲覧。 
  107. ^ #完全読本 pp.64、108–109、129
  108. ^ #200CD p.149
  109. ^ a b #東谷 pp.
  110. ^ a b #牧村 pp.18–37
  111. ^ a b “あのとき それから 1969年(昭和44年) 日本初の大規模野外音楽ライブ”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. 4. (2016年8月3日) 
  112. ^ #金澤 pp.1–3
  113. ^ 菊池, pp. 211–220.
  114. ^ a b c d 【その歌の理由 by ふくおかとも彦】 第1回 ザ・フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」①
  115. ^ a b c d e f g h i j 阿弓義樹『「帰って来たヨッパライ」の歌詞についての考察』 (PDF) 城西国際大学日本研究センター紀要 日本研究センター刊行物編集委員会編 2009年pp.61–68
  116. ^ a b 反戦、反体制…昭和の若者は怒っていた!60年代~70年代の鮮やかな怒りを投影したフォークソングたち”. ラジトピ ラジオ関西トピックス. ラジオ関西 (2023年2月8日). 2023年2月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月8日閲覧。
  117. ^ #完全読本 pp.40–43
  118. ^ #北中 pp.12–15
  119. ^ a b c 清川仁 (2015年8月6日). “戦後70年 ここから変わった(4)…シンガー・ソングライター”. 読売新聞 (YOMIURI ONLINE). オリジナルの2015年10月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151022141137/http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150806-OYT8T50105.html 2023年2月8日閲覧。 
  120. ^ 帰って来たヨッパライ」『デジタル大辞泉プラス』https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B0%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%83%A8%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%A4コトバンクより2023年3月3日閲覧 
  121. ^ a b c #200CD pp.14–15
  122. ^ a b #前田平原 pp.108–138
  123. ^ a b c d e f g h i j k l #小川 pp.56–83
  124. ^ a b #瀧口 pp.47–82
  125. ^ #200CD pp.131–132
  126. ^ a b c #完全読本 pp.27–31、66–69、98–99
  127. ^ #パック・イン・ミュージック pp.379–381
  128. ^ #完全読本 pp.82–89
  129. ^ a b 反畑誠一 (2003年10月30日). “吉田拓郎ー人生の歌、特別な緊張感(ポピュラー)”. 日本経済新聞夕刊 (日本経済新聞社): p. 16 
  130. ^ a b “(あのとき・それから)1969年 フォークゲリラ 社会に訴える歌、若者が共鳴”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2018年6月6日). オリジナルの2018年6月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180609101936/https://www.asahi.com/articles/DA3S13529247.html 2023年6月1日閲覧。 
  131. ^ a b 小川真一 (2020年9月9日). “フォークソングを愛する人に甦る全盛期の記憶 社会現象には背景があり、歌にも行程があった”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2020年9月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月3日閲覧。
  132. ^ a b c d e f g h i j 高堀冬彦 (2022年7月21日). “引退「吉田拓郎」と学生運動 広島大で運動家から「やめろ!」と吊るしあげられた過去”. デイリー新潮. 新潮社. p. 2. 2022年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月8日閲覧。
  133. ^ 40年前、吉田拓郎と井上陽水に人生を変えられた若者たちの証言 江口寿史、中村雅俊、京本政樹…
  134. ^ 【歌手引退】吉田拓郎、52年の活動を振り返ってみえた「日本音楽史のレジェンド」になれたワケ”. 週刊女性PRIME. 主婦と生活社 (2022年7月18日). 2022年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月8日閲覧。
  135. ^ a b c #富澤 pp.2–11
  136. ^ a b c 対談:モダニスト大岡淳をめぐって <第1回> – 日本軽佻派・大岡淳と申しますっ!
  137. ^ 羽川英樹 (2020年6月4日). “6月4日(木) 朝ドラ新進女優さんがゲストに”. 羽川英樹のブログ. 2020年7月16日閲覧。[4]
  138. ^ #完全読本 pp.34–35
  139. ^ #前田平原 pp.152–161
  140. ^ a b 日本総合研究所 || 寺島実郎の発言 問いかけとしての戦後日本-(その5)日本人の心を映し出す歌謡曲の変遷 (archive)
  141. ^ a b c d #シンガー・ソングライター6 pp.6–12
  142. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus 百科事典マイペディア - 吉田拓郎コトバンク
  143. ^ a b Museum of Modern Music70'sバイブレーション! なぎら健壱インタビューp.3 (archive)、なぎら健壱インタビューp.4 (archive)
  144. ^ a b 【コラム】木田高介の果たした大きな役割|HMV ONLINE
  145. ^ 重見吉徳 (2020年10月16日). “吉田拓郎と重なる 中銀の投資家救済”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). オリジナルの2020年10月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201016120416/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65008910U0A011C2000000/ 2023年8月8日閲覧。 
  146. ^ a b 奥田民生&吉田拓郎で、鉄道に乗ってさすらいの旅へ 吉田拓郎のDNAを継承する奥田民生の「旅歌」”. 日経トレンディネット. 日経BP (2018年11月10日). 2021年11月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月8日閲覧。
  147. ^ “小貫信昭のコラム 名曲!言葉の魔法 第55回 吉田拓郎「今日までそして明日から」”. 歌ネット (ページワン). (2017年1月5日). オリジナルの2017年6月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170619233703/https://www.uta-net.com/user/column/55.html 2023年8月8日閲覧。 
  148. ^ 1972年1月21日吉田拓郎「結婚しようよ」がリリース~「闘う歌」から「暮らしの歌」への大転換となった歴史的な一曲 鈴木耕- 大人のミュージックカレンダー
  149. ^ 吉田拓郎 シンガーソングライター よしだたくろう”. NHK人物録. NHKアーカイブス. 2020年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月8日閲覧。音楽活動にピリオド 原点は広島… 吉田拓郎に捧ぐ! “広島フォーク村” は永遠なり…”. RCCニュース. 中国放送 (2022年7月19日). 2022年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月8日閲覧。“吉田拓郎「リタイアしたい」76歳 日本フォークの旗手、芸能活動年内終了へ 来月フジ特番が最後のテレビ”. Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. (2022年6月25日). オリジナルの2022年6月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220624221326/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/06/25/kiji/20220624s00041000802000c.html 2023年2月8日閲覧。 フォークソングをメジャーに!吉田拓郎 「元気です」 ロック・ポップス/国内ロック・ポップス、70年代の名盤の口コミ1972年1月21日吉田拓郎「結婚しようよ」がリリース~「闘う歌」から「暮らしの歌」への大転換となった歴史的な一曲 鈴木耕- 大人のミュージックカレンダー「拝啓 吉田拓郎様」 J-POPが語り出す、エイベックスの正月広告”. AdverTimes アドタイ. 宣伝会議 (2023年1月13日). 2023年8月8日閲覧。
  150. ^ a b 小栗勘太郎 (2013年6月13日). “【吉田拓郎「元気です」】 日本の音楽のあり様に革命を起こす”. ダイヤモンド社. オリジナルの2013年6月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130630114942/https://diamond.jp/articles/-/37334 2023年8月8日閲覧。 
  151. ^ 吉田拓郎の1970年代中盤、賞賛と中傷の両方を背に生きた20代後半を辿る”. Rolling Stone Japan. ローリング・ストーン (2022年9月14日). 2022年11月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月23日閲覧。
  152. ^ 帆苅智之 (2022年12月21日). “これだけはおさえたい邦楽名盤! 『今はまだ人生を語らず』で確信するアーティスト・吉田拓郎の桁違いの風格”. OKMusic. OKWAVE. 2023年8月8日閲覧。
  153. ^ “吉田拓郎「リタイアしたい」76歳 日本フォークの旗手、芸能活動年内終了へ 来月フジ特番が最後のテレビ”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2022年6月25日). オリジナルの2022年6月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220624221326/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/06/25/kiji/20220624s00041000802000c.html 2023年8月8日閲覧。 元尾哲也 (2022年6月25日). “拓郎の“店じまい”シャイであるうちに、実にまともで紳士的な人物だった”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). オリジナルの2022年6月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220624222235/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/06/25/kiji/20220625s00041000025000c.html 2023年8月8日閲覧。 
  154. ^ “#4 結婚しようよ/吉田拓郎”. BS-TBS. オリジナルの2013年4月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130408093855/http://www.bs-tbs.co.jp/songtosoul/onair/onair_04.html 2023年8月8日閲覧。 
  155. ^ フォークソングをメジャーに!吉田拓郎 「元気です」 ロック・ポップス/国内ロック・ポップス、70年代の名盤の口コミ
  156. ^ a b c d #なぎら pp.163–181
  157. ^ a b c d #池田 pp.32–35
  158. ^ ケータイde中国新聞 ケイタイでも読める「広島フォーク村」(archive)、吉田拓郎、ふたつの50年 広島フォーク村と深夜放送とあの時の歌は…学都遠く - 暴走族 (archive)広島駅ホームから始まった伝説 5万人の「つま恋コンサート」の光景…元バックバンド「愛奴」の劉哲志が語る吉田拓郎上京秘話”. ZAKZAK. 夕刊フジ (2022年7月27日). 2022年7月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月8日閲覧。
  159. ^ a b c d e #完全読本 pp.118–121
  160. ^ a b c d 藤森猛「Jポップ、Cポップ、Kポップの起源 全日本フォークジャンボリー」『Aichi University Lingua』第20巻、愛知大学語学教育研究室、2022年12月15日、11-13頁。 
  161. ^ a b c d 諸井克英今はまだ人生を語らず : 《吉田拓郎》が描く「生」の継続」『同志社女子大学生活科学』第50巻、同志社女子大学生活科学会、2017年2月、57-58頁、doi:10.15020/00001534ISSN 1345-1391NAID 120006328032 
  162. ^ a b 週刊ポスト読者1000人が選んだ「カラオケで歌いたい青春のフォークソング」『なごり雪』『時代』『落陽』『初恋』など”. NEWSポストセブン. 小学館. p. 1 (2023年6月26日). 2023年8月11日閲覧。
  163. ^ 桑原聡 (2022–09–03). “モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら (135) 拓郎よ、フォーエバー”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社). オリジナルの2022年9月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220903022810/https://www.sankei.com/article/20220903-5S7XI2NM4VNCBLXSHDC6WYRLMY/ 2023年3月23日閲覧。 
  164. ^ a b #瀧口 pp.109–144
  165. ^ “漫画家江口寿史(2)ギターと吉田拓郎のレコードー等身大の言葉創作後押し(こころの玉手箱)”. 日本経済新聞夕刊 (日本経済新聞社): p. 12. (2019年4月9日) 
  166. ^ a b #パック・イン・ミュージック pp.299–313
  167. ^ ナタリー - 日本初フェス「フォークジャンボリー」映画40年ぶり DVD化
  168. ^ a b c d e f #前田平原2 pp.8–15
  169. ^ #前田平原2 pp.20–29
  170. ^ “女性フォークソング"四枚のLP"”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 5. (1975年1月11日) 
  171. ^ ニューミュージックとは”. コトバンク. 2023年8月11日閲覧。
  172. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus 百科事典マイペディア - 松任谷由実 – コトバンク
  173. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus 百科事典マイペディア - 中島みゆき – コトバンク
  174. ^ “拓郎・かぐや姫 イン つま恋”コンサート開催(1975) - おんがく日めくり (Internet Archive)
  175. ^ #小川 pp.3–6
  176. ^ 加古陽治. “地下広場のフォーク集会(1969年) 「明日も晴れ」と信じて<一枚のものがたり>中谷吉隆:東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web. 東京新聞. 2024年8月31日閲覧。 “東京・新宿副都心に高層ビルがまだ一つもない一九六九年のことだ。毎週土曜日の晩、国鉄(現JR東日本)新宿駅西口地下広場は異様な熱気に包まれた。「ベトナムに平和を! 市民連合」(ベ平連)の若者たち(ヤングベ平連)のフォーク集会だった。(中略)六月二十八日についに衝突し、機動隊がガス弾を使った。一部の活動家は派出所に投石するなど暴徒化し、六十数人が逮捕された。”
  177. ^ 拓郎 Jポップ創始者たちが唄う“春の名曲”5選
  178. ^ 【1972年8月】旅の宿/よしだたくろう 幸せの絶頂期にリリース
  179. ^ 【1973年2月】学生街の喫茶店/ガロ バンドの亀裂を深めた皮肉な大ヒット曲

出典(リンク)

[編集]
  1. ^ [2][3]
  2. ^ [4][3]
  3. ^ [3][5]
  4. ^ [2][8]
  5. ^ [7][8]
  6. ^ [7][8]
  7. ^ [4][8]
  8. ^ [4][8]
  9. ^ [7][8]
  10. ^ [4][3][9]
  11. ^ [9][10]
  12. ^ [8][9]
  13. ^ [3][15][16]
  14. ^ [17][18]
  15. ^ [4][16][17]
  16. ^ [3][9]
  17. ^ [3][9][22]
  18. ^ [9][22]
  19. ^ [2][35]
  20. ^ [2][35][36][37][38][39]
  21. ^ [36][38][39]
  22. ^ [36][39]
  23. ^ [35][38][41]
  24. ^ [37][42][43][44][45]
  25. ^ [43][46][47][48][49][50][51][52][53]
  26. ^ [43][49][52][53][54][55][56][57][58][59]
  27. ^ [46][47]
  28. ^ [46][58]
  29. ^ [60][61]
  30. ^ [60][61]
  31. ^ [35][51][66]
  32. ^ [35][51][66]
  33. ^ [35][39][51]
  34. ^ [15][67]
  35. ^ [9][67][68][69]
  36. ^ [9][10][15][22][67][71][72][73]
  37. ^ [36][39]
  38. ^ [36][39]
  39. ^ [10][76]
  40. ^ [9][10]
  41. ^ [3][10][69]
  42. ^ [3][10][69]
  43. ^ [9][10][22][35][51][79][80][81][82][83]
  44. ^ [3][16]
  45. ^ [22][35][83]
  46. ^ [3][75][76][83]
  47. ^ [16][22][35][79][76][82][84]
  48. ^ [4][10][15]
  49. ^ [35][51][66][36][67][71][76][86][87][88]
  50. ^ [9][76][89]
  51. ^ [3][18][68][69][70]
  52. ^ [68][73]
  53. ^ [3][18][68][70][73]
  54. ^ [18][70][68][73]
  55. ^ [10][84]
  56. ^ [9][69][79][90][84][91]
  57. ^ [4][9][10][35][69][82][84][91]
  58. ^ [4][35]
  59. ^ [9][10][35][68][69][76][79][83][84][91]
  60. ^ [9][76][79][91]
  61. ^ [63][22]
  62. ^ [63][22]
  63. ^ [76][88]
  64. ^ [68][72][94][95]
  65. ^ [69][72][96]
  66. ^ [51][69][72][96][97][98][99]
  67. ^ [88][97]
  68. ^ [97][100]
  69. ^ [97][101]
  70. ^ [91][102][103]
  71. ^ [21][104]
  72. ^ [21][104]
  73. ^ [88][106]
  74. ^ [18][76][79]
  75. ^ [18][9]
  76. ^ [107][108][109][110][111]
  77. ^ [9][71][97][112]
  78. ^ [114][115]
  79. ^ [114][115][116]
  80. ^ [90][114][115]
  81. ^ [69][72][76][84][114][115][117][118][119]
  82. ^ [76][115]
  83. ^ [115][120][121]
  84. ^ [76][84]
  85. ^ [115][122]
  86. ^ [9][89][123][124]
  87. ^ [9][89][123]
  88. ^ [9][89][69]
  89. ^ [9][51][72][123][124][125]
  90. ^ [51][123][126]
  91. ^ [9][35][51][119]
  92. ^ [9][35][92][97][129]
  93. ^ [9][51][97][129]
  94. ^ [10][35][73][97][130]
  95. ^ [15][72][73][79][80][97][130][131][132][133]
  96. ^ [134][135]
  97. ^ [79][84][97][116][121][132][136][137]
  98. ^ [123][126]
  99. ^ [123][126]
  100. ^ [79][84][123][121][138][139]
  101. ^ [35][119][122][123]
  102. ^ [24][91]
  103. ^ [15][46][57][79][132][140][141][142][143][144]
  104. ^ [10][15][35][47][54][132][145][146][147][148]
  105. ^ [46][57][144][149][150][151][152]
  106. ^ [15][35][44][46][102][142][150][153][154][155]
  107. ^ [69][73][156][157][158]
  108. ^ [69][132][159][160][161]
  109. ^ [35][79][132][141][159][162]
  110. ^ [35][73][79][132][141][157][159][163][164][165]
  111. ^ [18][69][132][159][160][161][167][168]
  112. ^ [65][109][110][111][132][135][141][156][160][161]
  113. ^ [18][160][161][168]
  114. ^ [143][156][169]
  115. ^ [35][135][157][159][164][18]
  116. ^ [35][79][106][132][136][140][146][156][157][170]
  117. ^ [35][39][66][106][162][136][171][172][173][174]
  118. ^ [131][175]

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]