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「日本本土空襲」の版間の差分

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[[File:Firebombing leaflet.jpg|right|250px|thumb|米軍の空爆予告の[[伝単]]。<BR /><SUB>[[1945年]](昭和20年)[[8月1日]]に広島や長崎その他33都市に投下された。裏面には軍施設への攻撃予告と避難指示、日本国民を軍事政権から解放する旨の文章が記載。</SUB>]]
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'''日本本土空襲'''(にっぽんほんどくうしゅう)は、[[太平洋戦争]]([[東亜]][[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍([[アメリカ軍]]と[[イギリス軍]])が日本各都市に対して行った[[空襲]]、[[戦略爆撃]]である。連合国軍による攻撃は、特に[[1944年]]([[昭和]]19年)末から熾烈となり、最終的には[[無差別爆撃]](絨毯爆撃)として行われた。
'''日本本土空襲'''(にっぽんほんどくうしゅう)は、[[第二次世界大戦]]期[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が日本各都市に対して行った[[爆撃]]である。[[1944年]]([[昭和]]19年)末から本格的な[[戦略爆撃]]となり、長期間の大規模な[[無差別爆撃]]も実施された。


攻撃は、[[ボーイング]][[B-29 (航空機)|B-29]]に代表される[[戦略爆撃機]]による爆撃のみならず、英米の[[機動部隊]]艦載機や[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]などから飛来する機体による爆撃や[[機銃掃射]]というかたちでも行われた。また、[[航空戦力]]によってだけではなく、沿岸部の都市では[[艦砲射撃]]によっても攻撃されたところもある。
攻撃は、[[ボーイング]][[B-29 (航空機)|B-29]]に代表される[[戦略爆撃機]]による爆撃のみならず、英米の[[機動部隊]]艦載機や[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]などから飛来する機体による爆撃や[[機銃掃射]]というかたちでも行われた。また、[[航空戦力]]によってだけではなく、沿岸部の都市では[[艦砲射撃]]によっても攻撃されたところもある。
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[[田中利幸]]「犯罪と責任:無差別爆撃と大量虐殺」現代社会研究12号、京都女子大学現代社会学部、2009年</ref>、被災人口は970万人に及んだ<ref name="nikkei20110810"/>。被災面積は約1億9,100万[[坪]](約6万4,000[[ヘクタール]])で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した<ref name="nikkei20110810"/>。その他、多くの[[国宝]]・[[重要文化財]]が焼失した。
[[田中利幸]]「犯罪と責任:無差別爆撃と大量虐殺」現代社会研究12号、京都女子大学現代社会学部、2009年</ref>、被災人口は970万人に及んだ<ref name="nikkei20110810"/>。被災面積は約1億9,100万[[坪]](約6万4,000[[ヘクタール]])で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した<ref name="nikkei20110810"/>。その他、多くの[[国宝]]・[[重要文化財]]が焼失した。


== 経過 ==
== 連合軍の戦略爆撃 ==
{{See|戦略爆撃}}
{{See|戦略爆撃}}


=== ナパーム焼夷弾の開発 ===
=== 太平洋戦争以前 ===
[[日中戦争]]中の[[1938年]](昭和13年)2月23日に当時は日本領[[外地]]だった[[台湾]]の[[台北松山空港|台北松山基地]]に[[ソ連空軍志願隊]]と[[中華民国空軍]]が共同で空襲を行い、民間人に若干の被害を生じたことがあった。
ドイツ軍が[[焼夷弾]]による[[ロンドン爆撃]]をおこなうと、米空軍は[[焼夷弾]]の開発にふみきり<ref>カー「戦略東京大空爆」 大谷勲訳、1994年</ref>、1942年には投下後ばらばらになって着地すると尾部からナパームを噴射しながら跳びはねるという強力な着火能力をもつ小型焼夷弾M69が開発された<ref name=imai>今井清一「戦略爆撃と日本」日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室、2007年。2014.10.27閲覧</ref>。M69を開発した国家防衛調査委員会(NDRC)焼夷弾研究開発部門長で[[スタンダード・オイル]]社副社長のラッセルは「軍需工場を爆撃する精密爆撃よりも焼夷弾による市街地絨毯爆撃をおこなうべきだ」と主張した<ref name=imai/>。

1943年のNDRC作成の情報部焼夷弾レポートでは「日本の都市はほとんどが木造住宅でしかも過密なため大火災がおきやすい、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災をおこさせ、住宅と混在する、ないしはその周囲にある工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法である」と報告された<ref name=imai/>。

=== 外地台湾空襲 ===
[[アメリカ軍]]による日本空襲以前には、[[日中戦争]]中の[[1938年]](昭和13年)2月23日に当時は日本領[[外地]]だった[[台湾]]の[[台北松山空港|台北松山基地]]に[[ソ連空軍志願隊]]と[[中華民国空軍]]が共同で空襲を行い、民間人に若干の被害を生じたことがあった。


[[1938年]](昭和13年)[[5月20日]]に中国軍の[[B-10 (航空機)|B-10]]爆撃機が[[九州]]に侵入し、爆弾ではないが、反戦ビラを投下した。その後、日本軍は同年12月から[[重慶爆撃]]を開始した。
[[1938年]](昭和13年)[[5月20日]]に中国軍の[[B-10 (航空機)|B-10]]爆撃機が[[九州]]に侵入し、爆弾ではないが、反戦ビラを投下した。その後、日本軍は同年12月から[[重慶爆撃]]を開始した。


=== ドーリットル空襲 ===
[[1943年]](昭和18年)[[11月25日]]に台湾に対する[[新竹空襲]]が、1945年(昭和20年)5月31日には[[台北大空襲]]が行われ

=== 日本本土への初空襲 (ドーリットル空襲) ===
{{See|ドーリットル空襲}}
{{See|ドーリットル空襲}}
第二次世界大戦における日本本土の初空襲は[[1942年]](昭和17年)[[4月18日]]の[[ドーリットル空襲]]で、航空母艦「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」から陸上機である16機の[[B-25 (航空機)|B-25]]中型爆撃機を発進させ、東京、川崎、名古屋、四日市、神戸などへの空爆に成功した。その後、日本軍も6月と9月に[[アメリカ本土空襲]]を行った。
第二次世界大戦における日本本土の初空襲は[[1942年]](昭和17年)[[4月18日]]の[[ドーリットル空襲]]で、航空母艦「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」から陸上機である16機の[[B-25 (航空機)|B-25]]中型爆撃機を発進させ、東京、川崎、名古屋、四日市、神戸などへの空爆に成功した。その後、日本軍も6月と9月に[[アメリカ本土空襲]]を行った。


=== B-29爆撃機による空襲 ===
=== 戦略爆撃の準備 ===
日米開戦直前、アメリカ政府はボーイング社に試験飛行もしていない[[B-29_(航空機)|B-29]]爆撃機を250機も発注したが、[[真珠湾攻撃]]で発注数を倍加、翌1942年2月にはゼネラル・モーターズ、ノース・アメリカン、ベル社にも協力を求め1600機の生産を命じた<ref name=imai/>。しかし、実現まで2年を必要とした<ref name=imai/>。
日米開戦直前、アメリカ政府はボーイング社に試験飛行もしていない[[B-29_(航空機)|B-29]]爆撃機を250機も発注したが、[[真珠湾攻撃]]で発注数を倍加、翌1942年2月にはゼネラル・モーターズ、ノース・アメリカン、ベル社にも協力を求め1600機の生産を命じた<ref name=imai/>。しかし、実現まで2年を必要とした<ref name=imai/>。


ドイツ軍が[[焼夷弾]]による[[ロンドン爆撃]]をおこなうと、米空軍は[[焼夷弾]]の開発にふみきり<ref>カー「戦略東京大空爆」 大谷勲訳、1994年</ref>、1942年には投下後ばらばらになって着地すると尾部からナパームを噴射しながら跳びはねるという強力な着火能力をもつ小型焼夷弾M69が開発された<ref name=imai>今井清一「戦略爆撃と日本」日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室、2007年。2014.10.27閲覧</ref>。M69を開発した国家防衛調査委員会(NDRC)焼夷弾研究開発部門長で[[スタンダード・オイル]]社副社長のラッセルは「軍需工場を爆撃する精密爆撃よりも焼夷弾による市街地絨毯爆撃をおこなうべきだ」と主張した<ref name=imai/>。

1943年のNDRC作成の情報部焼夷弾レポートでは「日本の都市はほとんどが木造住宅でしかも過密なため大火災がおきやすい、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災をおこさせ、住宅と混在する、ないしはその周囲にある工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法である」と報告された<ref name=imai/>。

1943年8月27日、[[ヘンリー・アーノルド]]は日本敗北のための空戦計画を提出する。日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張し、[[焼夷弾]]の使用に関しても言及していた<ref>荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書108頁</ref>。アーノルドは科学研究開発局長官[[ヴァネヴァー・ブッシュ]]から「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない<ref>荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書133-134頁</ref>。

[[1943年]](昭和18年)[[11月25日]]に台湾に対する[[新竹空襲]]が行われ

=== 戦略爆撃の実施以降 ===
[[1944年]](昭和19年)6月に[[B-29_(航空機)|B-29]]爆撃機による初めての空襲が[[八幡製鉄所]]を目標にして中国の成都の基地から行われた([[八幡空襲]])。成都からの爆撃はB-29の航続距離の制約で九州北部しか爆撃できず、成都へのB-29用燃料の輸送の困難さのため出撃回数も限られていた。これらの問題を解決するためにアメリカは[[マリアナ諸島]]を攻略し、大規模な航空基地を建設した。
[[1944年]](昭和19年)6月に[[B-29_(航空機)|B-29]]爆撃機による初めての空襲が[[八幡製鉄所]]を目標にして中国の成都の基地から行われた([[八幡空襲]])。成都からの爆撃はB-29の航続距離の制約で九州北部しか爆撃できず、成都へのB-29用燃料の輸送の困難さのため出撃回数も限られていた。これらの問題を解決するためにアメリカは[[マリアナ諸島]]を攻略し、大規模な航空基地を建設した。


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B-29による初期の空襲は軍需工場を目標とした通常爆弾主体の高高度爆撃(高度8000m~10000m)であったため、命中率が低く攻撃目標の損害は限定的であった。そこで、「戦果が少ない」と判断された爆撃軍司令官のヘイウッド・S・ハンセル准将は更迭され<ref>米軍が記録した日本空襲 p34</ref>、1945年1月、ヨーロッパ戦線でドイツに対する絨毯爆撃の実績があり、中国戦線での[[漢口大空襲]]で焼夷弾絨毯爆撃の経験もある[[カーチス・ルメイ|カーチス・ルメイ少将]]が、[[グアム島]][[第21爆撃集団]]司令官に着任した。ルメイ少将はまず爆撃高度を少し下げることを行ったが<ref>日本爆撃の実録 p174</ref>、次いで都市部に対しては3月10日の[[東京大空襲]]をかわきりに夜間に低高度(高度2000m程度)から焼夷弾を集中投下する[[無差別爆撃]](地域焼夷弾爆撃<ref>米軍が記録した日本空襲 p39</ref>)を開始した。焼夷弾空襲は耐火性の低い日本の家屋に対して高い威力を発揮し、なかでも[[東京大空襲]]では死者10万人の大きな人的被害をもたらした。
B-29による初期の空襲は軍需工場を目標とした通常爆弾主体の高高度爆撃(高度8000m~10000m)であったため、命中率が低く攻撃目標の損害は限定的であった。そこで、「戦果が少ない」と判断された爆撃軍司令官のヘイウッド・S・ハンセル准将は更迭され<ref>米軍が記録した日本空襲 p34</ref>、1945年1月、ヨーロッパ戦線でドイツに対する絨毯爆撃の実績があり、中国戦線での[[漢口大空襲]]で焼夷弾絨毯爆撃の経験もある[[カーチス・ルメイ|カーチス・ルメイ少将]]が、[[グアム島]][[第21爆撃集団]]司令官に着任した。ルメイ少将はまず爆撃高度を少し下げることを行ったが<ref>日本爆撃の実録 p174</ref>、次いで都市部に対しては3月10日の[[東京大空襲]]をかわきりに夜間に低高度(高度2000m程度)から焼夷弾を集中投下する[[無差別爆撃]](地域焼夷弾爆撃<ref>米軍が記録した日本空襲 p39</ref>)を開始した。焼夷弾空襲は耐火性の低い日本の家屋に対して高い威力を発揮し、なかでも[[東京大空襲]]では死者10万人の大きな人的被害をもたらした。


1945年(昭和20年)5月31日には[[台北大空襲]]が行われた。
=== 原爆投下まで ===

=== 原爆投下 ===
B-29による空襲は、東京および四大都市といった大都市から、主要な地方都市の多くに及んだ。多いときは一度に500機以上のB-29が飛来した。主要都市のうち、京都・広島・小倉・新潟は[[原子爆弾]]の攻撃目標候補となったため、後述のように小規模な空襲は受けているものの大規模な焼夷弾空襲は免れた。その後、[[ハリー・S・トルーマン]]大統領が、婦女子の被害を避けるため原爆攻撃目標から東京と京都は除くよう[[ヘンリー・スティムソン]]陸軍長官に指示し、原爆投下目標都市は広島・小倉・新潟・長崎と決定された<ref>浄法寺(1981年)、382頁。</ref>。スティムソンも戦後への影響を考慮して京都への攻撃に反対していた。そして、[[広島市への原子爆弾投下]]と[[長崎市への原子爆弾投下]]が行われて、日本側は大きな被害を出した。なお、京都が大規模空襲を免れた経緯について、文化財保護の目的で作成された[[ラングドン・ウォーナー|ウォーナーリスト]]によって京都の大規模空襲が避けられたという説が日本国内で流布したが、実際には初期の段階で原爆投下目標都市として京都が計画されていた上に、小規模ながら西陣地区などの[[京都空襲]]も行われており、文化財保護の為に京都を空襲しなかったという説は根拠性が乏しい。
B-29による空襲は、東京および四大都市といった大都市から、主要な地方都市の多くに及んだ。多いときは一度に500機以上のB-29が飛来した。主要都市のうち、京都・広島・小倉・新潟は[[原子爆弾]]の攻撃目標候補となったため、後述のように小規模な空襲は受けているものの大規模な焼夷弾空襲は免れた。その後、[[ハリー・S・トルーマン]]大統領が、婦女子の被害を避けるため原爆攻撃目標から東京と京都は除くよう[[ヘンリー・スティムソン]]陸軍長官に指示し、原爆投下目標都市は広島・小倉・新潟・長崎と決定された<ref>浄法寺(1981年)、382頁。</ref>。スティムソンも戦後への影響を考慮して京都への攻撃に反対していた。そして、[[広島市への原子爆弾投下]]と[[長崎市への原子爆弾投下]]が行われて、日本側は大きな被害を出した。なお、京都が大規模空襲を免れた経緯について、文化財保護の目的で作成された[[ラングドン・ウォーナー|ウォーナーリスト]]によって京都の大規模空襲が避けられたという説が日本国内で流布したが、実際には初期の段階で原爆投下目標都市として京都が計画されていた上に、小規模ながら西陣地区などの[[京都空襲]]も行われており、文化財保護の為に京都を空襲しなかったという説は根拠性が乏しい。


== 主な空襲一覧 ==
== 空襲一覧 ==
[[画像:Firebombing of Tokyo.jpg|thumb|right|240px|空襲を受ける東京市街([[1945年]][[5月25日]])]]
[[画像:Firebombing of Tokyo.jpg|thumb|right|240px|空襲を受ける東京市街([[1945年]][[5月25日]])]]
[[画像:Tokyo after the 1945 air raid.jpg|thumb|right|240px|焼け野原となった東京市街]]
[[画像:Tokyo after the 1945 air raid.jpg|thumb|right|240px|焼け野原となった東京市街]]

2015年11月7日 (土) 13:38時点における版

空襲の主力となったB-29戦略爆撃機による爆弾投下
米軍の空爆予告の伝単
1945年(昭和20年)8月1日に広島や長崎その他33都市に投下された。裏面には軍施設への攻撃予告と避難指示、日本国民を軍事政権から解放する旨の文章が記載。

日本本土空襲(にっぽんほんどくうしゅう)は、第二次世界大戦期に連合国軍が日本各都市に対して行った爆撃である。1944年昭和19年)末から本格的な戦略爆撃となり、長期間の大規模な無差別爆撃も実施された。

攻撃は、ボーイングB-29に代表される戦略爆撃機による爆撃のみならず、英米の機動部隊艦載機や硫黄島などから飛来する機体による爆撃や機銃掃射というかたちでも行われた。また、航空戦力によってだけではなく、沿岸部の都市では艦砲射撃によっても攻撃されたところもある。

空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災し、死傷者数は各説あるが100万とするものもあり[1]、被災人口は970万人に及んだ[2]。被災面積は約1億9,100万(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した[2]。その他、多くの国宝重要文化財が焼失した。

経過

太平洋戦争以前

日中戦争中の1938年(昭和13年)2月23日に当時は日本領外地だった台湾台北松山基地ソ連空軍志願隊中華民国空軍が共同で空襲を行い、民間人に若干の被害を生じたことがあった。

1938年(昭和13年)5月20日に中国軍のB-10爆撃機が九州に侵入し、爆弾ではないが、反戦ビラを投下した。その後、日本軍は同年12月から重慶爆撃を開始した。

ドーリットル空襲

第二次世界大戦における日本本土の初空襲は1942年(昭和17年)4月18日ドーリットル空襲で、航空母艦「ホーネット」から陸上機である16機のB-25中型爆撃機を発進させ、東京、川崎、名古屋、四日市、神戸などへの空爆に成功した。その後、日本軍も6月と9月にアメリカ本土空襲を行った。

戦略爆撃の準備

日米開戦直前、アメリカ政府はボーイング社に試験飛行もしていないB-29爆撃機を250機も発注したが、真珠湾攻撃で発注数を倍加、翌1942年2月にはゼネラル・モーターズ、ノース・アメリカン、ベル社にも協力を求め1600機の生産を命じた[3]。しかし、実現まで2年を必要とした[3]

ドイツ軍が焼夷弾によるロンドン爆撃をおこなうと、米空軍は焼夷弾の開発にふみきり[4]、1942年には投下後ばらばらになって着地すると尾部からナパームを噴射しながら跳びはねるという強力な着火能力をもつ小型焼夷弾M69が開発された[3]。M69を開発した国家防衛調査委員会(NDRC)焼夷弾研究開発部門長でスタンダード・オイル社副社長のラッセルは「軍需工場を爆撃する精密爆撃よりも焼夷弾による市街地絨毯爆撃をおこなうべきだ」と主張した[3]

1943年のNDRC作成の情報部焼夷弾レポートでは「日本の都市はほとんどが木造住宅でしかも過密なため大火災がおきやすい、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災をおこさせ、住宅と混在する、ないしはその周囲にある工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法である」と報告された[3]

1943年8月27日、ヘンリー・アーノルドは日本敗北のための空戦計画を提出する。日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張し、焼夷弾の使用に関しても言及していた[5]。アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[6]

1943年(昭和18年)11月25日に台湾に対する新竹空襲が行われる。

戦略爆撃の実施以降

1944年(昭和19年)6月にB-29爆撃機による初めての空襲が八幡製鉄所を目標にして中国の成都の基地から行われた(八幡空襲)。成都からの爆撃はB-29の航続距離の制約で九州北部しか爆撃できず、成都へのB-29用燃料の輸送の困難さのため出撃回数も限られていた。これらの問題を解決するためにアメリカはマリアナ諸島を攻略し、大規模な航空基地を建設した。

マリアナからの初空襲は1944年11月24日で、B-29の増強とともに大規模な日本本土爆撃へと進み、北海道を除く日本本土の大半が攻撃目標となった。空母搭載機による日本本土への攻撃も、沖縄に対する1944年10月10日の十・十空襲、1945年2月の関東地区空襲(ジャンボリー作戦)などが行われた。

1945年4月7日以降は硫黄島に配備されたアメリカ陸軍のP-51P-47などの戦闘機も空襲に参加し、B-29爆撃隊の護衛にあたるとともに、地上施設の攻撃を行った[7]。硫黄島は日本爆撃の際に損傷したり故障したB-29の不時着用の基地としても大きな役割を果たした[7]。また、B-29は関門海峡や主要港湾への大規模な機雷投下も行い日本の海上輸送を妨害した(飢餓作戦[8]。なお、空襲以外の日本本土への攻撃として、釜石艦砲射撃室蘭艦砲射撃のような艦砲射撃も行われており、日立、清水、浜松など製鉄所や軍需工場が存在するいくつかの工業都市が破壊された。

カーチス・ルメイ少将

B-29による初期の空襲は軍需工場を目標とした通常爆弾主体の高高度爆撃(高度8000m~10000m)であったため、命中率が低く攻撃目標の損害は限定的であった。そこで、「戦果が少ない」と判断された爆撃軍司令官のヘイウッド・S・ハンセル准将は更迭され[9]、1945年1月、ヨーロッパ戦線でドイツに対する絨毯爆撃の実績があり、中国戦線での漢口大空襲で焼夷弾絨毯爆撃の経験もあるカーチス・ルメイ少将が、グアム島第21爆撃集団司令官に着任した。ルメイ少将はまず爆撃高度を少し下げることを行ったが[10]、次いで都市部に対しては3月10日の東京大空襲をかわきりに夜間に低高度(高度2000m程度)から焼夷弾を集中投下する無差別爆撃(地域焼夷弾爆撃[11])を開始した。焼夷弾空襲は耐火性の低い日本の家屋に対して高い威力を発揮し、なかでも東京大空襲では死者10万人の大きな人的被害をもたらした。

1945年(昭和20年)5月31日には台北大空襲が行われた。

原爆投下

B-29による空襲は、東京および四大都市といった大都市から、主要な地方都市の多くに及んだ。多いときは一度に500機以上のB-29が飛来した。主要都市のうち、京都・広島・小倉・新潟は原子爆弾の攻撃目標候補となったため、後述のように小規模な空襲は受けているものの大規模な焼夷弾空襲は免れた。その後、ハリー・S・トルーマン大統領が、婦女子の被害を避けるため原爆攻撃目標から東京と京都は除くようヘンリー・スティムソン陸軍長官に指示し、原爆投下目標都市は広島・小倉・新潟・長崎と決定された[12]。スティムソンも戦後への影響を考慮して京都への攻撃に反対していた。そして、広島市への原子爆弾投下長崎市への原子爆弾投下が行われて、日本側は大きな被害を出した。なお、京都が大規模空襲を免れた経緯について、文化財保護の目的で作成されたウォーナーリストによって京都の大規模空襲が避けられたという説が日本国内で流布したが、実際には初期の段階で原爆投下目標都市として京都が計画されていた上に、小規模ながら西陣地区などの京都空襲も行われており、文化財保護の為に京都を空襲しなかったという説は根拠性が乏しい。

空襲一覧

空襲を受ける東京市街(1945年5月25日
焼け野原となった東京市街

米軍機数、空襲被害は資料により大きな違いがある。

主要大都市

東京

  • 1942年(昭和17年)4月18日 - ドーリットル空襲
  • 1944年(昭和19年)11月24日 - マリアナ諸島のB29による初空襲。B29・111機が出撃し、途中故障で引き返した機を除き88機が爆撃に参加。中島飛行機武蔵製作所(現在の武蔵野市)が目標。 東京はこれ以後106回の空襲を受けた。11月27日には中島飛行機武蔵製作所2回目の空襲。中島飛行機武蔵製作所は初回から最後の翌年の4月12日まで11回空爆される。
  • 1945年(昭和20年)2月16日 - 米空母機動部隊艦載機による本土初空襲(ジャンボリー作戦)。関東の航空基地と軍需工場が標的。(ドイツでは2月13日からドレスデン爆撃)
  • 3月10日 - 東京大空襲(下町大空襲)。死者約8万-10万。負傷4万-11万名。焼失26万8千戸。
  • 4月13日 - 城北大空襲。B29・330機。死者2459名。焼失20万戸。主として豊島・渋谷・向島・深川方面。
  • 4月15日 - 城南京浜大空襲。B29・202機。死者841名。焼失6万8400戸。主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している川崎市も同時に空襲を受けた。
  • 5月24日 - B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。
  • 5月25日 - 山手大空襲。B29・470機。死者3651名。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面。国会議事堂周辺や皇居の一部も焼失。

名古屋

1944年(昭和19年)12月13日以降、名古屋は軍需工業地帯が集中していたため下記の大空襲を含む63回の空襲を受けて死者8630名、負傷者11164名、罹災者52万3千名の被害を出した。実際には死者は1万名以上にのぼるとみられる。

大阪

空襲後の大阪市街

大阪は1945年(昭和20年)2月26日以降、 下記の大空襲を含む33回の空襲を受けた。

  • 1945年3月13日 大阪大空襲 B29・279機。死者3115名。焼失13万2459戸。
    • 6月7日 B29・250機。死者1594名。負傷者4967名。焼失5万6千戸。
    • 6月15日 B29・469機。死者418名。負傷者1842名。焼失4万9千戸。
    • 7月24日 B29・約400機を含む大小二千機。死者187名。負傷317名。焼失554戸。
    • 8月14日 B29・約100機。死者173名。負傷89名。焼失二千戸。大阪城にあった砲兵工廠が目標であった。

神戸

神戸は1945年(昭和20年)1月3日以降、下記の大空襲を含む83日・128回、死者8841名、負傷18404名、焼失12万8千戸の被害を終戦までに受けた。同年3月17日の大空襲で旧市街地の西の地域を中心に焼失する。

  • 1945年3月17日 神戸大空襲 B29・309機。死者2598名。負傷者8558名。全焼6万5千戸。罹災人口23万6千名。
  • 5月11日 B29・92機。死者1093名。負傷者924人。
  • 6月5日 B29・481機。死者3184名。負傷者5824名。全焼5万5千戸。罹災人口21万3千名。

京都

京都は1945年(昭和20年)1月16日以降、合計20回以上の空襲を受けて死者302人、負傷者561人の被害を出した(京都空襲)。

主要地方都市

1944年

十・十空襲に遭う那覇市街
  • 1944年6月15日 八幡空襲 中国の成都の基地から初めてB29が本土を空襲した。
  • 10月10日 十・十空襲 沖縄県全域に対しての米艦載機による空襲(フィリピン進攻の準備作戦)。那覇市街での被害が大きかったため、那覇空襲とも呼ばれる。
  • 10月25日 大村大空襲 当時東亜最大規模と言われた第21海軍航空廠があった長崎県大村市を狙った空襲。死者約500名。
  • 11月21日 熊本初空襲

1945年2月

1945年3月

  • 3月1日 台南初空襲 日本統治時代台湾台南市
  • 3月18日朝 大分空襲 航空隊施設を狙ったものと見られ、宇佐・大分・佐伯が空襲を受けた。
  • 3月18日朝 鹿児島初空襲 グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町にある海軍航空隊を急降下爆撃。
  • 3月19日 アメリカ軍機動部隊、室戸岬沖80キロの近海に来襲。米艦載機350機が呉軍港空襲を敢行。航空母艦3巡洋艦2敷設艦2が大破沈没。これに対しての日本軍の反撃で、九州沖航空戦が生起した。
  • 3月27日 小倉大空襲

1945年4月

  • 4月4日 立川空襲 死者144名。立川陸軍航空工廠立川飛行場がターゲット。残堀川沿いにあった山中坂の防空壕に焼夷弾が直撃し、42名が死亡した。
  • 4月8日 玉野空襲
  • 4月12日 郡山空襲
  • 4月15日 川崎空襲 死者約1000人、負傷者15,000人。罹災人口10万人。全半壊33,361戸。同工場287戸。川崎は7月13日、25日、8月1日、13日にも空襲を受けた。
  • 4月20日 倉敷空襲 帯江地区が被害を受けた。
  • 4月21日  鹿児島空襲 鹿児島市電上町線の一部区間が被害を受けた。時限爆弾が投下され、5月末ごろまで昼となく夜となく爆発を続けたため、熊本第6師団から歩兵1個中隊と工兵隊1分隊が、時限爆弾とこの不発弾処理にあたった。

1945年5月

  • 5月10日 徳山大空襲 第三海軍燃料廠を狙った空襲。B29・117機。死者500人以上、負傷者約1000人。
  • 5月29日 横浜大空襲 B29・475機、P51・約100機。死者3787人。重傷者1554人。軽傷者10,837人。罹災人口323,000人。焼失約3万戸。その後の調査で、死者は8千-1万人にのぼることが確実と考えられている。
  • 5月31日 台北大空襲 B24・117機日本統治時代台北市、死者約3000人。

1945年6月

空襲後の鹿児島市街
空襲後の浜松市街
空襲後の静岡市街
空襲後の水島市街
  • 6月1日 尼崎空襲 死者231人。奈良空襲
  • 6月10日 日立空襲 死者1200人。
  • 6月10日 千葉空襲 B29・約100機。死者152人。
  • 6月17日 鹿児島大空襲 B29・117機、焼夷弾810トン。死者2,316人、負傷者5,000人以上、家屋被災約11,600戸。
  • 6月18日 浜松空襲 死者1720人。焼失家屋15,400戸。
  • 6月18日 四日市空襲 B29・89機。死者736人、負傷者1500名、行方不明63人、被災者47,153名、焼失家屋11,390戸。
  • 6月19日 福岡大空襲 B29・239機。罹災人口60,599人(うち死者902人)。罹災家屋12,693戸。
  • 6月19-20日 静岡大空襲 B29・137機。死者1,952人 罹災人口127,119人 焼失家屋30,045戸。静岡市(現在の葵区駿河区)は、計26回の空襲を受けたが、それ以外にも数えきれない程の機銃掃射など小規模な爆撃を受けている。
  • 6月19-20日 豊橋空襲 B29・136機。死者624人
  • 6月22日 姫路空襲川西航空機姫路製作所とその周辺) B29・52機、死者341人、罹災者10220人。
  • 6月22日 水島空襲(現倉敷市) 死者11人、重軽傷者46人。
  • 6月22日 各務原空襲(現航空自衛隊岐阜基地付近)B29・44機。死者169人
  • 6月22日 呉空襲 工廠への爆撃[13] 死者1600人。
  • 6月26日 奈良空襲
  • 6月28日 呉大空襲
  • 6月29日 佐世保大空襲 B29・141機。焼夷弾約1200トン。死者約1300人、罹災人口約65,000人。当日は雨で「今日は来ないだろう」という市民の不意を突き深夜に空襲された。
  • 6月29日 岡山空襲 B29・137機。死者1737人。罹災人口12万人。罹災家屋25,000戸。(『岡山市史』)空襲警報が出されずまったくの不意打ちであったため被害が増大した。

1945年7月

空襲後の仙台市街
呉軍港空襲。7月28日に江田島小用沖で爆撃を受ける戦艦榛名
空襲後の青森市街
  • 7月1-2日 熊本大空襲
    • 午後11時以降の深夜から空襲、B29 154機(米軍資料):60機(日本軍部発表)[14]市街地の約20%を焼失。死者数469人、負傷者数552人、罹災家屋総数11,000戸、罹災者数43,000人[15]
  • 7月1日-2日 呉市空襲 B29・150機。死者3,700人[16]
  • 7月2日 下関空襲 B29・143機。死者324人。罹災人口38,700人。罹災家屋8,600戸。6月29日に続く2度目の空襲。
  • 7月3日 姫路大空襲 深夜から4日未明にかけ、B29・106機。死者173人、重軽傷者160人余、罹災者45,182人、全焼家屋約1万300戸。姫路城は焼失を免れる。
  • 7月4日 高松空襲 B29・116機。死者1359人、罹災人口86,400人、罹災家屋18,913戸。高松市の約80%が焦土と化した。
  • 7月4日 徳島大空襲 B29・129機 死者約1,000人、けが人は約2,000人、被災者約70,000人。徳島市(当時)の62%が焦土と化した。
  • 7月4日 高知大空襲 B29・125機 死者401人、重傷95人、軽傷194人、不明22人、罹災人口40,737人。罹災面積4,186,446平方m、全焼壊11,804戸、半焼壊108戸。
  • 7月6日 千葉空襲 B29・124機。死傷者1,679人。
  • 7月6日 甲府空襲 B29・131機。死者1,027人。全焼17,920戸。
  • 7月7日 清水大空襲(現在の静岡市清水区
  • 7月9日 和歌山大空襲 B29・約100機。死者約1200人。
  • 7月9日 堺空襲 B29・約100機。死者1860人。焼失18,000戸。
  • 7月9日 岐阜空襲 B29・約130機。死者約900人。
  • 7月10日 仙台空襲 B29・124機。死者828人。負傷者385人。焼失家屋23,956戸。詳細は項目記事を参照。
  • 7月12日 宇都宮大空襲 B29・133機、焼夷弾12,704発。死者628人、負傷者約1,150人。焼失家屋9,490戸。鹿沼空襲 死者9人。
  • 7月12日 敦賀空襲 死者109人。負傷者201人。日本海側初の空襲[17]
  • 7月13日 1回目の一宮空襲。午後8時頃、B29約20機の編隊が、愛知県一宮市内北部の葉栗・西成両地区と今伊勢町に油脂焼夷弾を投下、20数名の死者。
  • 7月14日 釜石艦砲射撃。一回目。少なくとも死者515人。
  • 7月14-15日 北海道空襲 米機動部隊艦載機約2,000機による空襲。被害は北海道全土と青森県に及んだ。青函連絡船全12隻も被害に遭い、青函航路が途絶した。
  • 7月15日 室蘭艦砲射撃。死者436人。室蘭は前日にも空襲を受けたばかりだった。
  • 7月16-17日 大分空襲 16日夜半頃B29編隊(約30数機)が襲来、市の中心部を約6,000発の焼夷弾爆撃。2,358戸が焼失。
    • 大分はこの他にも4月21日、5月5日、8月10日など本土空襲での米軍の通り道であったため度々空襲を受けた。一連の空襲での死傷者は1,193人。
  • 7月16日 平塚大空襲 B29・136機 焼夷弾10,961発、死者343名
    • 海軍火薬廠、日本国際航空工業、第二海軍航空廠平塚分工場、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場がターゲットであったとされ、人的被害は比較的少ないが大規模な爆撃。当時の市域における面積の約8割、戸数の約6割を焼失。
  • 7月17日 沼津大空襲 B29・130機 焼夷弾9,000発。死者274人。沼津海軍工廠・海軍技術研究所音響研究部が置かれた同市はこの他にも7回の空襲を経験。
  • 7月17日 桑名空襲
    • 桑名は7月24日にも空襲を受けた。
  • 7月17日 日立艦砲射撃(日立市・ひたちなか市)。死者394人。アメリカの戦艦5隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦9隻とイギリスの戦艦3隻によるもの。
  • 7月18日 野島崎(千葉県白浜)艦砲射撃。死者6人。巡洋艦4隻、駆逐艦9隻によるもの。
  • 7月19日 福井空襲 B29・120機。死者1,576人。
  • 7月19日 日立空襲 B29・127機、死傷者2,199人。
  • 7月19日 銚子空襲 B29・91機。死傷者1,181人。
  • 7月19-20日 岡崎空襲 B29・126機。死者203人。
  • 7月24日 半田空襲 B29・78機。死者269人。中島飛行機半田製作所を標的とした攻撃。
  • 7月24日、28日 津大空襲 死者1,239人。旧市街の全域、及び、橋北地区の工場地帯が焼失。
  • 7月24日、28日 呉軍港空襲 米艦載機950機、B29・110機[13] 航空母艦3 巡洋艦5が大破沈没 死者780人。
  • 7月25日 保戸島空襲(大分県津久見市)米軍のF6F艦上戦闘機が投下した3発のうちの1発が授業中だった保戸島国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)を直撃し、児童125人、教師2人が即死し、70数人の児童が重軽傷を負った。
  • 7月25日 串本艦砲射撃。潮岬も含め、周辺は何度となく艦砲射撃を受けている。
  • 7月26日 松山大空襲 B29・128機による午後11時から2時間10分に及ぶ夜間空襲。死者・行方不明259人、負傷者把握不可の大惨事となった。全戸数の55%である14,300戸を焼失。全人口の53%の62,200人が罹災し、市のシンボルである松山城へも焼夷弾攻撃を受けたが、大天守は焼失を免れる。米軍機の損失はなかった(「アメリカ軍松山爆撃報告書」による)。なお、松山地方裁判所検事正からの7月30日付の報告書には、死者301名、重軽傷者520名、行方不明12名、罹災民約82,000名と記されている。
  • 7月26日 平空襲
  • 7月26日 徳山空襲 B29・約100機。死者482人、負傷者469人。市街地の90%を焼失。5月10日の空襲と合わせて旧徳山市街地は壊滅した。
  • 7月27日 2度目の鹿児島空襲。昼12時45分頃、3梯団からなるB29の爆撃を受けた。
  • 7月28日 青森大空襲 B29・61機。死傷者1767人。焼失家屋18,045戸(市街地の88%)。新型のM74六角焼夷弾が使用され、東北地方では最大の被害を出した。
  • 7月28日-29日 2回目の一宮空襲。午後10時頃、B29約260機が愛知県一宮市上空に侵入し、油脂焼夷弾の波状攻撃を行った。2回に及ぶ空襲で市街地面積の80%が灰燼に帰し、罹災戸数は全市戸数の83%にあたる10,468戸、罹災者は全市人口の71%にあたる41,027名、内死者727名、負傷者4,187名に達した。
  • 7月28日-29日 宇治山田空襲。市街地面積の5割に相当する27,751.35m2、全戸数の3割に相当する4,517戸を焼失、総人口の35%に相当する22,600人が罹災[18](死者75人、負傷者111人[19])。伊勢神宮の正殿は内宮外宮とも無事であった[20]
  • 7月29日 浜松艦砲射撃。死者177人。周辺の被害も含む。
  • 7月29日 大垣空襲。死者50人、負傷者約100人、全半壊家屋約4,900戸、罹災者約30,000人。大垣城開闡寺などが焼失。
  • 7月29日 津市国宝建造物である観音寺本堂、大宝院本堂(阿弥陀堂)、西来寺奥殿が戦災で焼失。
  • 7月31日 清水艦砲射撃。死者44人。7隻の駆逐艦によるもの。

1945年7月21日米軍報告書

米軍陸軍第20航空部隊が対日爆撃の中間総括を試みる報告書「中小工業都市地域への爆撃」のなかで、6月15日の大阪への空襲(第4回大阪大空襲)を以って第20航空軍によって優先目標と認められた「指定工業集中地区」の実質的な破壊を完了したとし、さらなる破壊効果増大のために攻撃目標として中小都市を含む180都市を人口に基づいて順位付けし、リストアップした。

No 都市 都道府県 No 都市 都道府県 No 都市 都道府県 No 都市 都道府県
1 東京 東京都 46 宇部市 山口県 91 今治市 愛媛県 136 石巻市 宮城県
2 大阪市 大阪府 47 青森市 青森県 92 松江市 島根県 137 日田市 大分県
3 名古屋市 愛知県 48 福井市 福井県 93 沼津市 静岡県 138 土浦市 茨城県
4 京都市 京都府 49 川口市 埼玉県 94 宇治山田市 三重県 139 彦根市 滋賀県
5 横浜市 神奈川県 50 秋田市 秋田県 95 宇和島市 愛媛県 140 鶴岡市 山形県
6 神戸市 兵庫県 51 千葉市 千葉県 96 小田原市 神奈川県 141 池田町 北海道
7 広島市 広島県 52 盛岡市 岩手県 97 小松市 石川県 142 玉野市 岡山県
8 福岡市 福岡県 53 久留米市 福岡県 98 弘前市 青森県 143 松阪市 三重県
9 川崎市 神奈川県 54 若松市 福岡県 99 岩国市 山口県 144 上田市 長野県
10 呉市 広島県 55 宇都宮市 栃木県 100 船橋市 千葉県 145 飾磨市 兵庫県
11 八幡市 福岡県 56 旭川市 北海道 101 佐賀市 佐賀県 146 川内町 青森県
12 長崎市 長崎県 57 前橋市 群馬県 102 東舞鶴市 京都府 147 能代市 秋田県
13 仙台市 宮城県 58 桐生市 群馬県 103 鳥取市 鳥取県 148 立川市 東京都
14 札幌市 北海道 59 戸畑市 福岡県 104 半田市 愛知県 149 西条市 愛媛県
15 静岡市 静岡県 60 岡崎市 愛知県 105 熊谷市 埼玉県 150 八代市 熊本県
16 熊本市 熊本県 61 日立市 茨城県 106 米沢市 山形県 151 伊丹市 兵庫県
17 佐世保市 長崎県 62 延岡市 宮崎県 107 尾道市 広島県 152 下松市 山口県
18 函館市 北海道 63 大分市 大分県 108 足利市 栃木県 153 三島市 静岡県
19 下関市 山口県 64 長野市 長野県 109 福島市 福島県 154 宮古市 岩手県
20 和歌山市 和歌山県 65 八戸市 青森県 110 会津若松市 福島県 155 佐伯市 大分県
21 横須賀市 神奈川県 66 松本市 長野県 111 明石市 兵庫県 156 新宮市 和歌山県
22 鹿児島市 鹿児島県 67 高崎市 群馬県 112 米子市 鳥取県 157 萩市 山口県
23 金沢市 石川県 68 一宮市 愛知県 113 直方市 福岡県 158 浜田市 島根県
24 堺市 大阪府 69 山形市 山形県 114 飯塚市 福岡県 159 倉敷市 岡山県
25 尼崎市 兵庫県 70 津市 三重県 115 岸和田市 大阪府 160 酒田市 山形県
26 小倉市 福岡県 71 清水市 静岡県 116 小野田市 山口県 161 福知山市 京都府
27 大牟田市 福岡県 72 大津市 滋賀県 117 瀬戸市 愛知県 162 八幡浜市 愛媛県
28 岐阜市 岐阜県 73 長岡市 新潟県 118 豊中市 大阪府 163 敦賀市 福井県
29 浜松市 静岡県 74 宮崎市 宮崎県 119 諌早市 長崎県 164 唐津市 佐賀県
30 小樽市 北海道 75 水戸市 茨城県 120 平塚市 神奈川県 165 高山市 岐阜県
31 岡山市 岡山県 76 吹田市 大阪府 121 新居浜市 愛媛県 166 栃木市 栃木県
32 新潟市 新潟県 77 別府市 大分県 122 釜石市 岩手県 167 島原市 長崎県
33 豊橋市 愛知県 78 釧路市 北海道 123 桑名市 三重県 168 高田市 新潟県
34 門司市 福岡県 79 八王子市 東京都 124 鎌倉市 神奈川県 169 平市 福島県
35 布施市 大阪府 80 奈良市 奈良県 125 岡谷市 長野県 170 七尾市 石川県
36 富山市 富山県 81 銚子市 千葉県 126 伊勢崎市 群馬県 171 舞鶴市 京都府
37 徳島市 徳島県 82 大宮市 埼玉県 127 津山市 岡山県 172 柏崎市 新潟県
38 松山市 愛媛県 83 浦和市 埼玉県 128 芦屋市 兵庫県 173 洲本市 兵庫県
39 西宮市 兵庫県 84 高岡市 富山県 129 三原市 広島県 174 中津市 大分県
40 高松市 香川県 85 防府市 山口県 130 徳山市 山口県 175 海南市 和歌山県
41 室蘭市 北海道 86 都城市 宮崎県 131 川越市 埼玉県 176 館山市 千葉県
42 高知市 高知県 87 市川市 千葉県 132 山口市 山口県 177 飯田市 長野県
43 姫路市 兵庫県 88 郡山市 福島県 133 藤沢市 神奈川県 178 丸亀市 香川県
44 四日市市 三重県 89 福山市 広島県 134 帯広市 北海道 179 多治見市 岐阜県
45 甲府市 山梨県 90 大垣市 岐阜県 135 三条市 新潟県 180 熱海市 静岡県

この中で、横浜市神戸市川崎市については、すでに破壊済みであり、名古屋市には過去5回の攻撃を行いこれ以上の攻撃は不要であること、さらに東京大阪市尼崎市はそれぞれ5回と4回ずつ攻撃を行なっており、それぞれあと1回ずつ最大努力の攻撃を行えばよいとされた。 また、都市爆撃を免除した3つの例を示した[21]

  1. 原子爆弾の投下目標として、爆撃対象から除外された4都市。
  2. レーダーが作用しにくい地形であるために、夜間や悪天候での爆撃を免除されていた15都市。
  3. 北緯39度以北にあるため、硫黄島を基地として使用するまでは目標がサイパン島から遠すぎて攻撃不可能であった17都市。

1945年8月

広島の原爆ドーム
長崎への原爆投下によって廃墟と化した浦上天主堂付近
焼け野原になった福山城と福山市街地
土崎空襲の爆弾破片で損傷した「首無し地蔵」
(秋田市飯島・雲祥院)
  • 8月1日 水戸空襲 B29・99機。死者242人。負傷者1293人。罹災人口5万605人。
  • 8月1日 八王子空襲 B29・169機。死者445人。負傷者2000人以上。焼失家屋14,000戸。罹災人口77,000人。
  • 8月1日 長岡空襲 B29・125機。死者1470人余。焼失家屋11,986戸。
  • 8月2日 富山大空襲 B29・174機。死者2737人。負傷者7900人。焼失家屋24,914戸(市街地の99.5%)。罹災人口109,592人。広島・長崎の原爆を除けば地方都市として最大の被害。

なお、8月1日から翌2日未明にかけて行われた水戸・八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官カーチス・ルメイが自身の昇進と陸軍航空隊発足記念日を祝う目的で一斉に行われた戦略上特に意味のない作戦で、1日の弾薬使用量がノルマンディー上陸作戦を上回るように計算されていた。

  • 8月5日 前橋・高崎空襲 B29・92機。死傷者1323人。
  • 8月5日 佐賀空襲
  • 8月5-6日 今治空襲 B29・約70機。死者454人、重傷者150人、被災者34,200人、市街地の80%が焼失。
  • 8月6日 広島原爆
  • 8月7日 豊川空襲豊川海軍工廠が空襲で壊滅。死者2477人。
  • 8月8日 福山大空襲 B29・91機。死者354人、負傷者864人、焼失家屋数10,179戸、被災人口47,326人(福山市民82%が被災)。同年6月にはグラマンF6F艦上戦闘機によって福山海軍航空隊への機銃掃射が行われていた。
  • 8月8日 八幡大空襲。B29・127機。死者2952人、焼失家屋数14,380戸。このときの火災による煙が、翌日の原爆の投下目標を小倉から長崎に変更させる一因となった。
  • 8月9日 長崎原爆
  • 8月9日 大湊空襲。死者129名、負傷者300名以上。敷設艦常磐などが大破。
  • 8月9日 釜石艦砲射撃。2回目。少なくとも死者301人。爆音は秋田市まで響いたという。
  • 8月10日 花巻空襲、熊本空襲
  • 8月11日 久留米空襲。日中、B-24が市街地を空襲し、久留米駅が全焼。死者約210人[23]。焼失家屋4,506戸。
  • 8月11日 加治木空襲 ダグラスA-20爆撃機18機による2回目の空襲。死者26人。役場をはじめ、諸官庁、学校がほとんど焼失。送電線・電話線も焼け、ラジオも聞けなかった。
  • 8月13日 長野空襲 長野市上田市に艦載機62機による空襲。
  • 8月14日 熊谷空襲 B29・82機。死傷者687人。
  • 8月14日 岩国大空襲 この空襲の帰りに光にも空襲があった。
  • 8月14日 山口県光市 光海軍工廠空襲 死者738人。
  • 8月14-15日 小田原空襲 死者30-50人。伊勢崎(伊勢崎空襲)と熊谷を空襲したB29が帰路に余った爆弾を投下した[24]
  • 8月14-15日 土崎空襲 B29・132機。死者250人超、製油所全滅。最後の空襲。

米軍の心理作戦

米軍の戦時情報局は、戦況の正確な情報を持たない一般日本国民に対して「リーフレット心理作戦」を実行した。宣伝ビラをB29から撒くという方法で工作は行われ、米軍は1945年2月から終戦まで計460万部のビラを投下した[25]。「大本営発表の虚実を暴いたもの」「軍閥が諸悪の根源であり天皇は関係ない」「空襲の日時、場所の予告」が主な内容だった。空襲の場所と日時をビラで事前に予告し、実際にB29が空襲することはビラの信用性を大いに高めた。特に7月28-29日の第12回中小都市空襲では、青森、大垣、一宮、宇和島、津、宇治山田に空襲予告ビラが一斉に投下され、その24時間後に大空襲があった。この大規模ビラ投下は8月1日、8月5日にも実行された他、原爆投下のニュースもビラでされた[26]。日本国民の中には、ビラの内容以上にビラの上等な紙質に衝撃を受ける者もいた[27]

日本の防空体制

飛行部隊

操縦席側面にB-29を模った撃墜マークを多数描いた陸軍飛行第244戦隊の三式戦「飛燕」

当時の防空飛行部隊は、陸軍航空と海軍航空に分かれており、防空指揮や、その使用機材にも、あまり情報交換や協力関係が見られなかったために戦力を分散使用する結果となり、1944年以降の本土防空戦で実質的な敗北を喫し、国土は焦土と化し、制海権も失った。空軍が独立していたイギリスやドイツ、事実上の独立空軍をもつアメリカ(アメリカ陸軍航空軍)と異なり、陸軍または海軍付属の航空部隊という位置づけでしかなかった日本の航空部隊は(戦前に空軍創設の構想は陸軍を中心にあった)、統一の防空指揮系統や連携などが満足に出来ておらず、各部隊が個別に散発的に戦闘を行っていた。戦争前半に、南太平洋戦線にて低・中高度で来襲するB-17にも苦戦しており、それを遥かに上回る性能のB-29を、相対速度差がより少ない高空で少機数で迎撃していたのであるから戦果は乏しかった。強力なレーダー管制網・誘導システムがなかったこともその理由とされる

戦力としては、海軍側では大戦を通じて主戦力であった零戦を後継機種開発が結果的に後手に回った結果、使い続けなければならなかった。零戦の高高度性能は低く、対B-29戦の主要飛行高度(約1万m)まで20分程で上昇しても、高度を維持するのが精一杯で戦闘機動を行うと高度が急激に落ち回復が困難であった[28]。迎撃戦闘用に開発され、6,000m位の高度までなら優れた上昇力を発揮した雷電紫電紫電改も、9,000m以上の高空での飛行特性は零戦よりは良かったものの、アメリカ軍機より低い部位に入り、しかもそれぞれ生産数が少なく零戦を代替できるほどの量は確保できず、有効な戦力とはなり得なかった。

一方、本土防空の責任をより重く負わされていた陸軍は、海軍とは異なり、一式戦「隼」と同時開発されていた迎撃機二式単戦「鍾馗」や、二式複戦「屠龍」三式戦「飛燕」、そして米軍にも警戒された高性能戦闘機四式戦「疾風」など、戦闘機の更新や量産は海軍よりも柔軟かつ、タイミングを欠かさず行っている。しかしそれらをもってしても対B-29戦には苦戦を強いられた。

このほか海軍では、「斜銃」を装備した月光彗星銀河彩雲などを改造した夜間戦闘機が、陸軍でも同様の「上向砲」が一〇〇式司令部偵察機や「屠龍」に装備され一定の戦果をあげている。

しかしながら1945年3月の硫黄島陥落後には、B-29にP-51戦闘機の護衛が付くようになり対B-29戦の戦果は下降。輪をかけて同月より始まった沖縄戦に日本の陸海軍航空部隊は戦闘機多数を転用し飛行第47戦隊飛行第244戦隊第三〇二海軍航空隊主力、第三四三海軍航空隊といった主要防空飛行部隊も九州へと引き抜かれ、日本軍航空部隊の迎撃能力は極めて低下した。また、沖縄戦以後(6月以降)は本土決戦に備えて迎撃出撃自体を控えることとなり、合わせて燃料ほか物資の欠乏により日本軍航空部隊の迎撃能力は事実上破綻した。

一方で先進兵器の開発が進められ、ドイツの技術供与でロケット戦闘機「秋水」や陸軍のジェット戦闘機キ201「火龍」ビームライディング地対空誘導弾の試作や計画がされたが終戦に間に合わなかった。

レーダー

当時の日本軍は開戦前よりレーダーに対して理解のあった陸軍が「超短波警戒機乙」を既に実用化し本土やその周辺にも配備しており、1944年6月に中国成都市を出撃したB-29による本土初空襲である八幡空襲では朝鮮の済州島などに配備していた「超短波警戒機乙」が東シナ海上空を飛行するB-29編隊の機影をキャッチし北九州上空の迎撃に役立っている。また成都は中国の奥地であるため、中国大陸の日本軍勢力圏(支那派遣軍)上空を飛行する必要がありレーダーと合わせ日本陸軍の早期警戒は比較的良好におこなわれていた。

しかしながらB-29がマリアナ諸島から飛来してくるようになった11月24日以降、八丈島に「超短波警戒機乙」が配備されているとはいえ、マリアナからのB-29の飛行経路は絶海の太平洋上ということで早期警戒は極めて難しくなった。1945年3月10日の東京大空襲当時は八丈島の「超短波警戒機乙」はB-29の機影を捉えていたが、日本列島では強い季節風によって本土配備の「超短波警戒機乙」のレーダーアンテナが揺さぶられ精度が低下し、編隊の把握に支障が生じたため迎撃や空襲警報の発令は後手に回っている。

また高度測定用のレーダーが設置されていなかったことで、本来は待ち伏せ攻撃で有利な体制で戦闘が出来るはずの防空戦にもかかわらず、逆に探知が遅れてアメリカ軍に奇襲をかけられ、不利な戦闘を強いられる事が多かった。

高射砲

本土防空戦で陸軍主力高射砲となった九九式八糎高射砲

散発的な戦果にとどまった防空飛行部隊の戦闘機と異なり、力不足であったものの日本本土防空戦において相応の戦果を挙げたのが高射砲であり、B-29の撃墜または撃破の大半は高射砲によって行われた。特に夜間空襲時や、防空飛行部隊自体の迎撃能力が格段に落ちた1945年3月以降の末期戦には高射砲が迎撃の主力となっている。

大戦後期に新型の高射算定具や要地防空用に電波標定機(陸軍開発の射撃レーダー)・防空指揮通信機・特種指揮電話機などが配備されていたため、射撃精度は従来より向上していたが、高射砲も性能不足・門数不足・電波標定機不足によりドイツのような強力な迎撃を行うことは難しかった。また首都近辺では砲弾の欠乏も見られていたという[29]。強力な重高射砲である五式十五糎高射砲も開発されたが、2門が製造され末期に配備されたにとどまる。

民間防衛

日本では防空法が制定されており、防空壕の建設や疎開などの民間防衛が実施された。

防空要塞

栗田尚弥によれば、1944年には軍防空、民防空の強化充実が図られ、「東京航空要塞」が東京には出現していたとする[30][31]

都道府県別被害数

※広島と長崎は原爆被害を含む。沖縄の被害については沖縄戦を参照のこと。東京都の被害市町村数は23区を含む。

都道府県名 被害市町村数 死者数 行方不明者数 負傷者数 損失家屋数
北海道 52 1,210 20 - -
青森県 5 1,772 - 890 17,863
秋田県 2 94 8 - -
岩手県 5 616 10 664 4,850
宮城県 11 1,118 82 1,936 11,603
山形県 6 42 - 37 -
福島県 8 661 66 412 2,730
茨城県 7 3,299 60 3,190 14,952
栃木県 9 612 - 1,181 10,835
群馬県 15 1,237 - 1,538 15,052
千葉県 12 1,448 44 1,909 14,181
埼玉県 10 392 8 955 3,797
東京都 29 116,959 6,034 109,567 770,090
神奈川県 9 9,197 - 16,202 146,493
静岡県 15 6,539 10 9,808 96,774
新潟県 2 1,467 - 472 15,123
山梨県 2 1,181 - 885 17,364
長野県 4 52 - 46 106
富山県 2 2,300 - 3,801 22,490
石川県 3 27 - 25 -
福井県 2 1,809 14 1,907 26,966
岐阜県 3 1,191 23 1,071 33,963
愛知県 26 13,359 231 15,565 168,119
滋賀県 4 45 7 79 -
奈良県 12 31 - 122 -
三重県 8 5,612 3,749 3,749 32,837
和歌山県 12 1,830 5 5,255 30,276
大阪府 15 15,784 - 28,347 364,422
京都府 7 215 - 270 -
兵庫県 10 12,427 - 21,619 212,968
岡山県 3 1,773 127 1,114 23,800
広島県 3 262,425 14,394 46,672 101,628
鳥取県 3 61 9 312 -
島根県 1 38 - 16 -
山口県 9 3,493 161 3,878 23,106
香川県 1 1,369 186 1,034 -
徳島県 3 1,710 450 1,210 -
愛媛県 5 546 - 2,219 21,552
高知県 1 647 43 1,055 12,237
福岡県 4 5,776 - 5,011 62,048
佐賀県 3 138 - 192 -
長崎県 10 75,380 48 2,219 50,079
熊本県 11 869 - - 11,657
大分県 7 710 16 521 2,486
宮崎県 8 646 - 559 -
鹿児島県 51 4,601 48 2,219 -

損失家屋数、死者数は[32]より。 負傷、行方不明者数は[33]より。 被害市町村数は[34]より。

合計死者数

東京大空襲による死者

調査団体、研究者、新聞社各紙によってばらつきがあり、約24万から100万人と考えられている。

死傷者数(単位:人)
調査団体 合計 調査年数
米国戦略爆撃調査団 252,769 1947年
経済安定本部 299,485 1949年
戦災都市連盟 509,734 1956年
第一復員省 238,549 1957年
建設省戦災復興史 336,738 1957年
東京新聞 558,863 1994年
田中利幸 100万[1] 2009年
日本経済新聞 死者33万人、負傷者43万人 2011年[2]

負傷者は30万人程度[35]と推測されている。

戦後処理

これら日本各地に対する空襲については、戦後、米国戦略爆撃調査団による報告書が出されている。

アメリカ軍による民間人への無差別爆撃による民間人の大量虐殺は明らかに戦時国際法違反である[1]。たとえばアレクサンドル・パノフ(元駐日ロシア大使)は次のように述べている。「米国は、日本国民に対して少なからぬ重大な戦争犯罪を行いました。1945年3月10日の東京大空襲では一日で10万人以上の民間人が亡くなり、大阪、名古屋、その他の都市もそうした空襲に見舞われ、1945年8月の6日と9日の広島と長崎への原爆投下ですべてが終わりましたが、地表から消されたそれらの都市は、事実上、何ら軍事的意義を有してはいないのでした。」[36]

だが、サンフランシスコ講和条約によって日本国政府がアメリカへの補償請求権を放棄したため、無差別爆撃に関する補償は行われていない。

脚注

  1. ^ a b c 田中利幸「犯罪と責任:無差別爆撃と大量虐殺」現代社会研究12号、京都女子大学現代社会学部、2009年
  2. ^ a b c 「戦災復興 日本再生の記憶と遺産」 『日本経済新聞』 2011年(平成23年)8月10日 朝刊社会面
  3. ^ a b c d e 今井清一「戦略爆撃と日本」日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室、2007年。2014.10.27閲覧
  4. ^ カー「戦略東京大空爆」 大谷勲訳、1994年
  5. ^ 荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書108頁
  6. ^ 荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書133-134頁
  7. ^ a b 米軍が記録した日本空襲 p152
  8. ^ 米軍が記録した日本空襲 p162
  9. ^ 米軍が記録した日本空襲 p34
  10. ^ 日本爆撃の実録 p174
  11. ^ 米軍が記録した日本空襲 p39
  12. ^ 浄法寺(1981年)、382頁。
  13. ^ a b 呉市の歴史 | 呉市
  14. ^ 熊本県の百年(1987) 森田誠一ら、山川出版社、東京、市制百周年記念 熊本 歴史と魅力 (1989)、 熊本日日新聞 熊本 ふるさとの思い出 写真集 明治大正昭和 (1955) 図書刊行会など
  15. ^ 熊本市発表
  16. ^ 平和教育資料プリント - 呉戦災を記録する会
  17. ^ 図説福井県史 近代23 敦賀・福井空襲
  18. ^ 伊勢市 編『伊勢市史』伊勢市役所、昭和43年3月31日、954p.(445ページより)
  19. ^ 日本の空襲編集委員会 編『日本の空襲―五 愛知・三重・岐阜・福井・石川・富山』三省堂、1980年6月1日、360p.(241ページより)
  20. ^ 矢野憲一『伊勢神宮―知られざる杜のうち』角川選書402、角川学芸出版、平成18年11月10日、270p. ISBN 4-04-703402-9 (184 - 185ページより)
  21. ^ 吉田守男「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」朝日文庫、2002年8月。ISBN 4-02-261353-X
  22. ^ 上記の通り、中国大陸からの空襲はこの時点ですでにおこなわれており、マリアナ諸島からの空襲が実施されていなかったという意味である。後述の8月8日の空襲は日中に実施された。
  23. ^ 諸説あり、『続久留米市誌』上巻では212人、『目で見る久留米の歴史』・『久留米市史』では214人
  24. ^ 米軍が記録した日本空襲 p195
  25. ^ 川島高峰『流言・投書の太平洋戦争』(講談社学術文庫、2004)266-272頁
  26. ^ 工藤洋三/奥住喜重『写真が語る日本空襲』(現代史料出版、2008)、190頁
  27. ^ 川島高峰『流言・投書の太平洋戦争』(講談社学術文庫、2004)272頁
  28. ^ 『零戦ニ欠陥アリ設計者たちの記録』より
  29. ^ 草鹿 1979, p. 372.
  30. ^ 栗田尚弥「『東京航空要塞』の出現」、上山和雄編著『帝都と軍隊―地域と民衆の視点から』日本経済評論社、2002 年
  31. ^ 柳澤潤「日本陸軍の本土防空に対する考えとその防空作戦の結末」戦史研究年報 (11), 84-105, 2008-03 防衛省防衛研究所
  32. ^ 朝日新聞社『週刊朝日百科 日本の歴史 12 現代 122号・敗戦と原爆投下』
  33. ^ 三省堂『東京大空襲の記録』
  34. ^ 岩波新書 早乙女勝元著『東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録』
  35. ^ 空襲死者数全国調査
  36. ^ アレクサンドル・パノフ「プチャーチン提督が言い遺した道」『ロシアNOW』2015年5月20日。 

参考文献

  • 今井清一「戦略爆撃と日本」日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室、2007年。
  • E・バートレット・カー『戦略・東京大空爆』 大谷勲訳、光人社、1994年
  • 工藤洋三、奥住喜重『写真が語る日本空襲』現代史料出版、2008
  • 早乙女勝元『東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録』岩波新書
  • 浄法寺朝美 『日本防空史』 原書房、1981年。
  • 太平洋戦争研究会 『図説アメリカ軍の日本焦土作戦』 河出書房新社、2003年、ISBN 4-309-76028-7
  • 田中利幸「犯罪と責任:無差別爆撃と大量虐殺」現代社会研究12号、京都女子大学現代社会学部、2009年
  • チェスター・マーシャル(著)、高木晃治(訳) 『B-29日本爆撃30回の実録』 ネコ・パブリッシング、2001年、ISBN 4-87366-235-4
  • 原田良次 『日本大空襲』上下、中央公論新社〈中公新書〉、1973年。
  • 平塚柾緒 『米軍が記録した日本空襲』 草思社、1995年、ISBN 4-7942-0594-5
  • 文化庁 『戦災等による焼失文化財 建造物篇』 便利堂、1983年、ISBN 4653009473
  • 文化庁 『戦災等による焼失文化財 美術工芸篇』 便利堂、1983年、ISBN 4653009481
  • 草鹿, 龍之介 (1979), 連合艦隊参謀長の回想, 光和堂  - 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』、および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになった米軍側の情報などは敢えて訂正していないと言う(p.18)。
  • 吉田守男「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」朝日文庫、2002年

関連項目

外部リンク