「国鉄C11形蒸気機関車」の版間の差分
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2021年10月14日 (木) 22:53時点における版
C11形蒸気機関車 | |
---|---|
C11 1(青梅鉄道公園) | |
基本情報 | |
運用者 |
鉄道省 → 日本国有鉄道 北海道旅客鉄道 大井川鐵道 東武鉄道 |
製造所 |
汽車製造・川崎車輛 日立製作所・日本車輌製造 |
製造年 | 1932年 - 1947年 |
製造数 | 381両 |
愛称 | Cのチョンチョン |
主要諸元 | |
軸配置 | 1C2 (2-6-4) |
軌間 | 1,067 mm |
全長 | 12,650 mm |
全高 | 3,900 mm |
機関車重量 | 66.05 t(運転整備時) |
動輪上重量 | 36.96 t(運転整備時) |
動輪径 | 1,520 mm |
軸重 | 12.40 t(第3動輪上) |
シリンダ数 | 単式2気筒 |
シリンダ (直径×行程) | 450 mm × 610 mm |
弁装置 | ワルシャート式 |
ボイラー圧力 |
14.0 kgf/cm2 (1.373 MPa; 199.1 psi) 1935年3月改訂以降 15.0 kgf/cm2 (1.471 MPa; 213.4 psi) |
ボイラー水容量 | 3.8 m3 |
大煙管 (直径×長さ×数) | 127 mm×3,200 mm×24本 |
小煙管 (直径×長さ×数) | 45 mm×3,200 mm×87本 |
火格子面積 | 1.60 m2 |
全伝熱面積 | 103.0 m2 |
過熱伝熱面積 | 29.8 m2 |
全蒸発伝熱面積 | 73.2 m2 |
煙管蒸発伝熱面積 | 63.2 m2 |
火室蒸発伝熱面積 | 10.0 m2 |
燃料 | 石炭 |
燃料搭載量 | 3.00 t |
水タンク容量 | 6.8 m3 |
制動装置 | 自動空気ブレーキ |
最高運転速度 | 85 km/h |
最大出力 | 783 PS |
定格出力 | 610 PS |
国鉄C11形蒸気機関車(こくてつC11がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が1932年(昭和7年)に設計した過熱式のタンク式蒸気機関車(タンク機関車)である。
概要
老朽化した種々雑多な支線・区間運転用機関車群の代替用として、1930年(昭和5年)に設計されたC10形の改良増備機として設計・製造された軸配置1C2の小型タンク機関車である。
開発経緯
1920年代の国鉄では、第一次世界大戦終結後の日本経済の低迷と、特に都市部での並行私鉄線や自動車の台頭などの事情から、旅客・貨物輸送ともに輸送単位の縮小や列車運行回数の高頻度化が求められるようになっていた。
そこでその要請に応えるべく、C51形やC53形といった大型制式蒸気機関車の新製投入で余剰となった、6200形などの鉄道国有化以前に製造された軸配置2Bのテンダー式蒸気機関車(テンダー機関車)を改造した軸配置2B1などのタンク機関車[注 1]を、支線区運用や都市部の区間運転などに充てることとした。だが、それらの車両は改造の時点で製造から既に20年前後が経過しており、改造後10年を経ずして老朽化のために休車扱いとなる車両が発生するなど、その状態は思わしくなかった。また種車の形式が種々雑多で構造や交換部品の仕様などが完全には統一されておらず、保守作業の規格化という観点からも望ましくなかった。
都市部での旅客列車の高頻度・高速運転については、当時地方私鉄を中心に実用化が進みつつあったガソリンカーなどの内燃機関を動力とする気動車も選択肢の一つであり、1929年(昭和4年)には鉄道省初の制式ガソリン動車であるキハニ5000形が製造されている。だが、これは搭載機関出力の非力さや設計面での未熟などが重なって、これらの老朽タンク機関車による旅客列車を代替するには全く不十分なものであった[注 2]。
そこで制式テンダー機関車では、当時最も小型であったC50形を基本としつつ、支線区の輸送需要を考慮して一回り小型化し、炭水を無補給で50kmから60km程度の距離を走行可能とする[1]石炭庫と水タンクの搭載、それにそれらの重量の変化による動軸重の変化を抑制するために2軸従台車を付加する形[2]で、国鉄としては1917年(大正6年)の4110形最終増備グループ以来13年ぶりとなる、新設計の制式タンク機関車が作られることとなった。
その先駈けとなったのは鉄道省の島秀雄を主務設計者として鉄道省・国内機関車メーカー各社によって共同設計され、1930年(昭和5年)に製造されたC10形である。これは主として都市部に配置された。だが、このC10形は性能面では概ね満足な成績が得られたものの、従台車を2軸台車としたにもかかわらず動軸重が13 tを超過し、軸重制限の厳しい丙線以下の支線区への投入には適さないという問題があった。そこでこの新型タンク機関車の本格量産にあたって、C10形に続き1931年(昭和6年)に設計されたC54形で得られたノウハウを盛り込んで設計をさらに見直し、特に薄鋼板部品の接合に折から実用化が急速に進みつつあった電気溶接を採用するなど、新技術を積極的に導入して軽量化を図ることで、動軸重を13 t以下に抑えることとなった。
この新型機関車はC10形の続番としてC11形という形式が与えられ、C10形に引き続き島秀雄を主務設計者として[2]設計作業が行われた。
本形式では水タンク・石炭庫・運転室など薄鋼板を使用する部分について構造の見直しと工作法の工夫が行われ、これにより運転整備重量をC10形比で約5パーセントの削減となる66.05 t[注 3]、動軸重で最大12.5 tの範囲内に収め、C10形と比較して入線可能線区を大幅に拡大することに成功した[注 4]。
本形式は不況期の輸送需要減少を背景として開発された機種であるがコンパクトで使い勝手がよく、戦時中に貨物輸送能力の増強用として支線区を中心に投入されたこともあり、その総数が381両[注 5]に達するという、国鉄近代型制式蒸気機関車の中でも有数の成功作となった。また、その設計で得られた知見はC54形の後継機種となるC55形の設計にフィードバックされ、国鉄最後の新設計制式蒸気機関車となったE10形まで引き継がれており、その面でも大きな成功を収めた形式である。
構造
C50形のものよりボイラーバレル径をやや太く、そして全長を短く再設計した2缶胴構成の過熱式ボイラーを、肉厚圧延鋼板を切り抜いて加工・組み立てした主台枠に搭載する。
ボイラーの火床面積は1.6平方mで、基本となったC50形のものより若干小さいが、ほぼ同等の面積を確保した。
過熱器はC10形と同じ4段構成であるが、最上段を4列、それ以外を6列としていた同形式とは異なり、4段とも6列構成として性能向上を図った。
シリンダ構成は一般的な単式2気筒、弁装置は鉄道省で標準的に採用されていたワルシャート式で、動輪径は総重量・ボイラー寸法などから8620形やC50形などで採用されていた1,600 mmより5パーセント小さい1,520 mmとされた。
先台車の復元装置はC50形で初採用されたエコノミー式が踏襲され、従台車は外側軸受支持による釣り合い梁式2軸ボギー台車を備える。
製造
1932年(昭和7年)から1947年(昭和22年)までの16年間に381両が汽車製造会社、川崎車輛、日立製作所、日本車輌製造の各社により生産された。生産時期によって1 - 4次までのバリエーションがある。C10形に比べると溶接部分が多く、ボイラーの過熱器がC10形と比較して2基増強され、除煙板が装備されているなどの特徴がある。
また、民間向けに製造されたものも少なくなく、11社へ計20両が納入されているが、いずれも概ね同時期の国鉄向けに準じた仕様となっている。
- 1次形 (C11 1 - 23)
- 本形式の基本形で、ボイラー側面の重見式給水加熱装置と、第1缶胴上に設けられた蒸気ドーム、それに惰行時にバイパス路を自動開放してピストンのポンプ作用で加減弁から蒸気が吸い出されるのを防ぐ、自動バイパス弁[3]の搭載が特徴である。2次形の一部まで取り付けられていた重見式給水加熱装置は期待した性能を発揮できなかったため、戦後間もないころまでに撤去され、同じく2次形の途中まで搭載されていた自動バイパス弁も動作が思わしくなかったことから、1940年(昭和15年)ごろまでにすべて撤去された[3]。
- 2次形 (C11 24 - 140)
- アーチ管が取付けられ、1次形では第2缶胴上にあった砂箱と蒸気ドームの位置が互いに入れ替わった。これは、下り勾配で缶水が前方に偏った場合に、蒸気ドーム内に缶水が入る恐れがあったための対策として行われた。
- 3次形 (C11 141 - 246)
- 貨物列車牽引に対応し、軸重増加を図るべく水槽容量を増大したため側水槽の下端が運転室床面より低くなり、背部炭庫の上辺が水平となった。重見式給水加熱装置は、最初から装着されていない。
- 4次形 (C11 247 - 381)
- 資材と工数を節約した戦時設計形で、除煙板は木製となり、砂箱と蒸気ドームキセは工作の容易化のために角形(かまぼこ形)となった。後年の装備改造で3次形までと同様の形態に改められたものが多いが、砂箱と蒸気ドーム被いは原形のまま残ったものがある。
製造年次ごとの番号と両数は次のとおりである。
- 1932年 - C11 1 - 22(22両)
- 1933年 - C11 23 - 43(21両)
- 1934年 - C11 44 - 55・57 - 58(14両)
- 1935年 - C11 56・59 - 84(27両)
- 1936年 - C11 85 - 98(14両)
- 1937年 - C11 99 - 125(27両)
- 1938年 - C11 126 - 140(15両)
- 1940年 - C11 141 - 200・ 215 - 226(72両)
- 1941年 - C11 201 - 208(8両)
- 1942年 - C11 209 - 214・227 - 238(18両)
- 1943年 - C11 239 - 251・267(14両)
- 1944年 - C11 252 - 266・268 - 281(29両)
- 1945年 - C11 282 - 311(30両)
- 1946年 - C11 312 - 370(59両)
- 1947年 - C11 371 - 381(11両)
製造所別の番号(製造番号)と両数は次のとおりである。
- 汽車製造(60両)
- C11 1 - 8(製造番号 1174 - 1181)
- C11 30 - 34(製造番号 1206 - 1210)
- C11 55・56(製造番号 1269・1270)
- C11 66 - 68(製造番号 1289 - 1291)
- C11 76 - 78(製造番号 1292 - 1294)
- C11 84(製造番号 1335)
- C11 133 - 170(製造番号 1552 - 1559・1906 - 1935)
- 川崎車輛(88両)
- C11 9 - 16(製造番号 1409 - 1416)
- C11 24 - 29(製造番号 1447 - 1452)
- C11 35 - 44(製造番号 1453 - 1462)
- C11 49 - 54(製造番号 1502 - 1507)
- C11 59 - 65(製造番号 1527 - 1533)
- C11 72 - 75(製造番号 1534 - 1537)
- C11 81 - 83(製造番号 1593 - 1595)
- C11 93 - 98(製造番号 1672 - 1677)
- C11 113 - 120(製造番号 1856 - 1859・1865 - 1868)
- C11 171 - 200(製造番号 2333 - 2343・2353 - 2364・2375 - 2381)
- 日立製作所(53両)
- C11 17 - 21(製造番号 462 - 466)
- C11 45 - 48(製造番号 520 - 523)
- C11 79・80(製造番号 626・627)
- C11 85 - 92(製造番号 716 - 723)
- C11 99 - 101(製造番号 810 - 812)
- C11 105 - 109(製造番号 851 - 855)
- C11 121 - 125(製造番号 949 - 953)
- C11 201 - 214(製造番号 1482 - 1491・1496 - 1499)
- C11 247 - 251(製造番号 1669 - 1673)
- C11 266(製造番号 1779) - 宇部鉄道へ割り当ての予定だったが、戦時買収により直接鉄道省籍に編入された。
- C11 267(製造番号 1702) - 樺太庁鉄道へ割り当ての予定だったが、南樺太の内地編入により直接鉄道省籍に編入された。
- 日本車輌製造(180両)
- C11 22・23 製造番号 268・269)
- C11 57・58(製造番号 334 - 335)
- C11 69 - 71(製造番号 336 - 338)
- C11 102 - 104(製造番号 467 - 469)
- C11 110 - 112(製造番号 486 - 488)
- C11 126 - 132(製造番号 561 - 567)
- C11 215 - 246(製造番号 973 - 984・1108 - 1119・1167 - 1174)
- C11 252 - 265(製造番号 1221 - 1228・1251 - 1256)
- C11 268 - 381(製造番号 1343 - 1372・1380 - 1408・1418 - 1472)
民間向けの同形機
前述のとおり、内地・外地合わせて11社へ20両が納入されている。
- 朝鮮京南鉄道
- 25 - 1935年・日立製作所(製造番号 624)
- 26 - 1936年・日立製作所(製造番号 725)
- 日本炭鉱高松鉱業所(以下の2両は、除煙板を装備していなかった)
- C1101 - 1941年・日立製作所(製造番号 1578。発注者は日産化学)
- C1102 - 1943年・日立製作所(製造番号 1741。発注者は日本鉱業)
- 松尾鉱業
- 樺太人造石油 → 帝国燃料興業内淵鉄道
- C111 - 1942年・日立製作所(製造番号 1396)ソ連接収後の消息不明
- C112 - 1944年・日立製作所(製造番号 1783)同上
- 宇部油化工業
- 内淵人造石油(樺太)
- 4 - 6 - 1944年・日本車輌製造(製造番号 1257 - 1259)ソ連接収後の消息不明
- 東武鉄道
- 雄別炭礦尺別専用鉄道 - 砂箱が角形、蒸気ドームが丸形、除煙板も角張った戦時形
- 江若鉄道
- 三井鉱山芦別鉱業所専用鉄道 → 三井芦別鉄道
- C11-1 - 3 - 1947年・日本車輌製造(製造番号 1475 - 1477) → 1950年8月10日移動 (3) 、1953年9月6日移動(1・2)・三井鉱山砂川鉱業所奈井江専用鉄道
- 同和鉱業片上鉄道
運用
最初は主に西日本の都市近郊や主要支線で使用された。近畿地方の快速列車を牽引した際には特急と張り合う俊足ぶりを発揮した[注 8]。やがて活躍の場を広げてほぼ全国各地に配属され、主にローカル線の列車牽引に使用された。気動車が普及するにつれて余剰となり始め、1960年(昭和35年)ごろから少しずつ廃車が出たが、貨物列車用や入換用として蒸気機関車の末期まで数多く残った。
本形式による優等列車運用への充当例としては、現役時代も終わりに近づいた1965年(昭和40年)10月から1968年(昭和43年)9月にかけて、肥前山口駅で長崎発着編成と佐世保発着編成を分割併合して運行されていた寝台特急「さくら」(2001・2002レ)の佐世保発着編成のうち、佐世保線早岐 - 佐世保間8.9kmの牽引に抜擢されたのが最も良く知られている。
これは早岐駅の立地と構内配線の制約から、肥前山口から早岐を経て佐世保に至るルートで直通列車を運転する場合には列車を早岐でスイッチバックさせる必要があった[注 9]が、早岐以東の本務機であるDD51形を同駅で機回しする所要時間に比して早岐と佐世保の間の運転所要時間が短く、かといって「さくら」の20系客車は機関車を最後尾とした推進運転に対応していなかったことから、機関車の付け替え時間の節減を図って当時早岐機関区に配置され、佐世保・大村の両線で運用されていた本形式を早岐 - 佐世保間の牽引機に起用した[注 10]ものである。
この「さくら」では1965年(昭和40年)10月から1966年(昭和41年)9月まで、自重軽減のため[注 11]電動発電機とパンタグラフを撤去したカニ22形を正規電源車とする基本編成が佐世保発着編成に割り当てられていたが、その後はマヤ20形簡易電源車を含む付属編成に割り当て変更となっている。
なお、ヘッドマークは本務機に装着されたままとなっていたため、本形式には基本的にヘッドマークは装着されないことになっていたが、実際には、鉄道雑誌の取材などに応じた際に予備のマークを背面に装着したり、機関車を方向転換して正面向けにして、マークを装着して運転するなどのサービスをすることが時折あった。
1970年(昭和45年)10月14日から1971年(昭和46年)6月25日まで、無火ながらC11 91が「日立ポンパ号」の先頭を飾り、全国各地の駅で展示された。
譲渡
動態保存用を除く本形式の払下げは、雄別鉄道への3両とラサ工業宮古工場専用鉄道への1両 (C11 247) 、三井鉱山奈井江専用鉄道への1両 (C11 226) の計5両が存在する。
雄別鉄道へは、C11 65が1961年(昭和36年)、C11 127が1962年(昭和37年)、C11 3が1964年(昭和39年)に国鉄から払下げられ、江若鉄道からのC11 1、松尾鉱山鉄道からのC11 8とともに5両体制で1970年(昭和45年)の廃止まで貨物列車の牽引用に使用された。
保存機
動態保存機
小型で運転線区を選ばず扱いやすいことや、比較的に維持費が安く済むことから2020年(令和2年)現在、1両が運用を終了したものの日本の動態保存中の蒸気機関車としては最多の5両が各地で保存運転を行なっている。
C11 171
1940年(昭和15年)7月19日に川崎車輛兵庫工場で落成した3次形の1両(製造番号 2333)。同年7月28日に稲沢機関区に新製配置された。1941年(昭和16年)10月25日に名古屋機関区に転属してからは、中京圏で使用された。1942年(昭和17年)2月14日に深川機関区、1944年(昭和19年)4月19日に朱鞠内機関区、1949年(昭和24年)3月9日に標茶機関区、1953年(昭和28年)8月15日に木古内機関区、さらに1956年(昭和31年)9月8日に長万部機関区に転属し、廃車になるまで北海道で使用された。そして、1974年(昭和49年)7月16日に釧路機関区に転属し、1975年(昭和50年)4月24日の無煙化まで貨物列車に使用された。同年6月25日付で廃車となり、同8月13日[注 12]から標茶町の桜町児童公園に静態保存されていた。しかし、1995年(平成7年)11月3日をもって「C62ニセコ号」の運行を終了したJR北海道からの要請で返還され、1998年(平成10年)11月27日に苗穂工場にて動態復元工事が開始された[注 13]。1999年(平成11年)4月8日に火入れ式が行われ、同月21日付で車籍復活(復籍)[注 14]し、翌22日に留萌本線で試運転を開始。同年5月1日に同線深川 - 留萌(のちに増毛)間の「SLすずらん号」(2006年〈平成18年〉9月10日をもって運転終了)で営業運転を開始した。その後は、「SLふらの・びえい号」や「SL冬の湿原号」、「SL函館大沼号」などの道内の蒸気機関車牽引列車(SL列車)に使用されるようになった。なお、2020年(令和2年)現在は「SL冬の湿原号」の運用で用いられているのみである。また、この関係上、本機はそれまで所属していた旭川運転所から上述の釧路運輸車両所に転属となった。JR北海道の経営難により、2021年度の検査期限を前に廃車も検討されたが、鉄道旅の魅力づけに不可欠として存続させることとなった[4]。通常はボイラー保護を目的として、ディーゼル機関車による補助機関車(補機)を従えての運行形態が採られている[注 15]が、「SL冬の湿原号」通常運行時(釧路 - 標茶間往復)は補機を連結することはあまりない。
2012年(平成24年)3月12日に、台湾鉄路管理局所属のCK124と姉妹列車となった。
臨時列車としての運転記録は以下のとおり。
- 2000年(平成12年)7月6・7日 - 旭川 - 名寄間「SL塩狩峠号」
- 2001年(平成13年)7月 - 根室本線厚岸 - 根室間「SL根室号」
- 2001年(平成13年)7月20 - 22日 - 根室本線白糠 - 釧路間「SL白糠号」
- 2001年(平成13年)7月30日 - 8月5日 - 北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線北見 - 池田間「SL銀河号」
- 2001年(平成13年)8月26日 - 旭川 - 名寄間「SL塩狩峠号」
- 2008年(平成20年)6月28・29日 - 北見 - 遠軽 - 白滝間「SL常紋号」[5]
- 2009年(平成21年)9月5・6日 - 新夕張 - 夕張間「SL夕張応援号」[6]
- 2010年(平成22年)11月28日 - 札幌 - 小樽間「SL北海道鉄道130周年記念号」[7]
C11 190
1940年(昭和15年)9月11日に川崎車輛兵庫工場で落成(製造番号 2361)。C11 171と同じく3次形の1両。同月中に仙台機関区に新製配置された。1941年(昭和16年)3月31日に尻内機関区、1943年(昭和18年)9月に早岐機関区、1949年(昭和24年)3月1日に伊万里機関区、さらに1950年(昭和25年)10月15日に熊本機関区に転属し、九州地方で使用された。本機は同年10月28日に三角線熊本 → 三角間でお召し列車を牽引した経歴がある。1974年(昭和49年)4月25日付で休車、同年6月12日付で廃車となり、1977年(昭和52年)に解体される予定であったが、熊本県八代市在住の個人に買い取られ、1978年(昭和53年)より静態保存されていた。彼が復活を夢見て大切に保管していたことが、大井川鐵道の関係者の目にとまった。2001年(平成13年)6月19日に保存場所から搬出され、翌20日に海上輸送で長洲港から出発し、23日に御前崎港西埠頭に到着。翌24日に大井川鐵道へ搬入された。同年8月28日に同鉄道では「C11 190復活プロジェクト」が開始され、約5,000万円の経費を目標に、鉄道ファンから募金を集めることとなり、同9月に動態復元工事が開始された。2003年(平成15年)5月9日に塗装が完了した。外装は、先述のお召し列車牽引の功績を称え、除煙板に金色の社紋が取り付けられ、車体各所にステンレスによる縁取りがなされたお召し仕様のものとなった。復元にあたり、汽笛を含めていくつかの部品は愛好家らからの寄贈品で賄われた。同年6月3日に火入れ式が行われ、同月23日に試運転が開始された。同7月17・18日に募金者対象の試乗会が実施され、翌19日に営業運転を開始した[8]。お召し仕様は、2007年(平成19年)の検査で通常の仕様に一時戻された[注 16]が、2011年(平成23年)10月7 - 9日に開催されるSLフェスタ2011および全国SLサミットに合わせて、再びお召し仕様に戻された。同鉄道が年一度に開催される夜行運転「ナイトトレイン」の初充当は2008年(平成20年)で、この際にヘッドライト横にシールドビームによる副灯が追加されている。その後は一時的に取り外されているが、現在副灯が追加されている状態とされている。なお、2009年(平成21年)9月9日に、鉄道部品店ジャパレが主催とする団体列車「銀河超特急999号」の牽引機として充当された当日は、TVアニメ版銀河鉄道999の999号を模した装飾を施して運転されている。2016年(平成28年)、イカロス出版『蒸気機関車EX』との大井川鐵道SL復活運転40周年記念タイアップ企画として、本機にK-7形の小倉工場式切取り除煙板(門鉄デフ)が期間限定として装着された。これは、本機が現役時代九州地区で活躍していたことにちなんでの企画だが、本機自体は門鉄デフを装着された経歴は持ってはいない。2020年(令和2年)現在、単機での牽引は客車4両まで(以前は5両まで)が可能である[注 17]。
- 主要諸元は以下のとおり。
- 全長 - 12.650 m
- 全高 - 3.900 m
- 全幅 - 2.936 m
- 重量 - 66.05 t
- 空重量 - 51.69 t
C11 207
1941年(昭和16年)12月26日に日立製作所笠戸工場で落成(製造番号 1488)。上記2両と同じく3次形の1両。新製配置区は不明だが、1972年(昭和47年)[注 18]12月8日に長万部機関区に転属するまでは、終戦直後より長らく静内機関区に配置され、日高本線で運用されていた。長万部機関区時代は瀬棚線の貨物列車などに使用されたが、同線の無煙化に伴い、1974年(昭和49年)6月30日に「瀬棚線SLさよなら列車」に使用された。同年10月1日付で廃車となり、同11月19日より静内町(現・新ひだか町)の山手公園に静態保存されていた。2000年(平成12年)3月3日にJR北海道に返還され、同鉄道の苗穂工場へ搬入された。動態復元工事を受け、同年9月30日付で復籍[注 19]し、同10月7日より函館本線小樽(のちに札幌) - ニセコ(のちに蘭越)間の「SLニセコ号」に使用されるようになった。復活1年目は動輪軸受の異常発熱が頻発して満足に運用できなかった[注 20]。そのため、修理と調整を繰り返した末、翌年になってようやく安定稼働するようになった。以後はC11 171の予備機という扱いで「SLニセコ号」のほか、「SL冬の湿原号」、「SL函館大沼号」などにも使用され、時折C11 171との重連運転も実施された。検査期限である2014年(平成26年)秋まで運用され[9]、同年11月の札幌 - 小樽間での団体臨時列車を最後に道内での運用を終了した。上記のとおり動輪の調子が依然芳しくなかったことをはじめ、本機に対しての新型ATSの設置が難しいこと、北海道旅客鉄道内での営業不振に伴う財政難や、機関士確保が難航したことなどの影響により、同年以降はC11 171のみで運用されることになった。
道内での運用を終了したC11 207については、東武鉄道(扱い上は客車、車掌車含めて東武博物館が保有[10])が借り受け、2017年度より東武鬼怒川線の下今市 - 鬼怒川温泉間で運行することになった[11]。列車名称は「SL大樹」。苗穂工場にて全般検査を施工の上、2016年(平成28年)8月12日に苗穂工場を出場、同月19日に南栗橋車両管区に入場[12]、同年9月12日に火入れ式が行われた[13]。その後、同区内にて新設されたSL検修庫にて同鉄道での運用のための改造工事が実施された。2017年(平成29年)8月10日に運行を開始した[14][15][16]。主な改造点として以下が挙げられる。
- 後部タンクの上部に同鉄道用のL字型無線アンテナを増設
- 東武鉄道専用ATS(東武形ATS)装置の設置については、機関車とは別の車両(車掌車ヨ8000形)のヨ8634とヨ8709に電源装置などの本体装置一式を、同機には運転室内に同ATSの車内警報表示機をそれぞれ搭載しており、さらに後部連結面にYL11-96-2形ジャンパ連結器を増設して、両車に搭載されているATS装置同士を接続させて専用ATSを作動させる方式を採用。このため、同鉄道にて本線走行をする時には、ヨ8000形を後部に連結していなければならない。
- 連結された14系客車のスハフ14形の床下に搭載されているディーゼル発電機からの電力をKE85形ジャンパ連結器によりヨ8000形を介して本機に連結して電力を供給している。これは本機は発電容量を大きくした蒸気タービン発電機をボイラー上部に2基装備しているが、ATSとデジタル無線装置の電力消費があまりにも大きく、ヨ8000形に搭載されているバッテリーでは時折容量が不足するため、バックアップとしての電力である[17](現在は、タービン発電機の負荷を軽減するために本機の発電機は稼働させず、ヨ8000形および14系客車からの給電によって対応している)。
- 車体の右側側面に強制給油タンクを装備しており、点検ごとに給油が必要な箇所の一部に強制給油タンクからの配管を新たに配置して、常に給油されるシステムとしている。
- 機関車後面にある2灯の後灯は後部にある水タンクの妻面に移設されている。
- スノープラウは搬入時点ではJR北海道仕様だったが、前面側はステップにかからない程度の小さなスノープラウに付け替えている。これは、上記の東武鉄道専用ATS装置を作動させるために必要となるATS車上子を設置しなければならなかったことから、借受である以上JR北海道仕様のスノープラウを改造するのではなく、一度それを取り外して保管し、新たに製作して対応している。
- 運転室側面の区名札入れには下今市機関区を表す「今」を、仕業札入れには東武鉄道の社紋をそれぞれ掲げている。
なお、本機は濃霧の多い線区で使用されていたため、前照灯を左右除煙板のステー上に各1基ずつ搭載する「カニ目」、「蟹」と呼ばれる非常に独特な外見となっている。
臨時列車としての運転記録は以下のとおり。
- 2001年(平成13年)6月10日 - 旭川 - 留萌間「SLひまわり号」
- 2007年(平成19年)9月8・9日 - 追分・新夕張 - 夕張間「SL夕張応援号」[18]
- 2008年(平成20年)9月6・7日 - 新夕張 - 夕張間「SL夕張応援号」[19]
- 2009年(平成21年)6月27・28日 - 北見 - 遠軽間「SL常紋号」[20]
- 2011年(平成23年)7月2・3日 - 北見 - 知床斜里間「SLオホーツク号」[21]
- 2011年(平成23年)9月2 - 4日 - 帯広 - 池田間「SLとかち号」[22]
- 2012年(平成24年)5月19・20日 - 登別 - 室蘭間「SLみなと室蘭140周年号」[23]
- 2012年(平成24年)6月30日、7月1日 - 北見 - 知床斜里間「SLオホーツク号」[24]
- 2013年(平成25年)6月22・23日 - 北見 - 知床斜里間「SLオホーツク号」
C11 227
1942年(昭和17年)9月9日[注 21]に名古屋の日本車輌製造本店で落成(製造番号 1108)。1975年(昭和50年)11月22日に大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ入線。動態復元工事を受け、1976年(昭和51年)7月9日のSL急行「かわね路号」運行開始で動態保存機としての営業運転を開始した。
C11 325
1946年(昭和21年)3月28日に日本車輌熱田工場で落成(製造番号 1407)。4次形の後期製造グループに含まれ、「戦時設計」「戦時工程」による大幅な簡素化が図られていた。そのため、現役当時は工作の容易化を図った角型の砂箱と蒸気ドーム被いを装着しており、落成後しばらくは除煙板も木製仕様であった。同年4月に茅ヶ崎機関区に新製配置され、相模線や南武線、入換などに用いられた。1967年(昭和42年)3月には米沢機関区に転属し、米坂線や左沢線で使用された。1972年(昭和47年)、左沢線で蒸気機関車の運転が終了されるにあたり、本機が同年4月23日に「SLさよなら列車」を牽引した。翌5月に休車となり、のちに廃車となった。1973年(昭和48年)に新潟県水原町(現・阿賀野市)水原中学校へ無償譲渡され、静態保存されることとなったため、同年5月15日に新津機関区に転属した。1996年(平成8年)、C12 66により「SLもおか」を運転していた真岡鐵道が、予備機として使用するため、同年3月27日に水原中学校から同鉄道真岡駅前へ移設された。1997年(平成9年)11月19日にJR東日本大宮工場(現・大宮総合車両センター)へ入場し、翌1998年(平成10年)9月にかけて動態復元工事が行われた。この工事にあたり、1次形にならって、特徴的であった角型ドームを通常の丸型ドームに交換した。同年9月25日付で車籍編入し、同10月8日に真岡鐵道へ入線、同月9日に試運転が開始された。この際、C12 66との重連での試運転も幾度か行われた。なお、同14日に本機の所有権が事業母体である真岡市に取得され、真岡鐵道は真岡市より本機を借り受けての運行とされた。翌11月1日、全国の第三セクター鉄道による「ふるさとレールフェスタ」に併せて、C12 66との重連で営業運転を開始した。その後は、ホームグラウンドである真岡鐵道での「SLもおか」のC12 66検査時の予備機、および重連運転用として使用された。2006年(平成18年)12月8・9日には本機の生誕60年(還暦)を記念してナンバープレートを赤色に塗り替えて運転されている[25]。また、2012年(平成24年)4月14・15日にも、桜の開花に合わせて同じくナンバープレートをピンク色に塗り変えている。その他、外観の変移としては、2005年(平成17年)に全般検査を施工・出場した際には、除煙板を加工してバイパス弁点検窓が追加されている他、汽笛の音調も微細ながら全般検査出場ごとに変化が見られている。
しかし、SLの維持のために多額の費用を要する上に利用客が減少しており、沿線地域で構成する「真岡線SL運行協議会」が負担する赤字額が増加しているため、2018年(平成30年)5月に真岡市の市議会にて本機の売却譲渡案が検討され、本機を売却することが同年8月末に決定した[26]。これに伴い売却準備のため所有権を芳賀地区広域行政事務組合に移譲し、2019年(平成31年)3月25日に入札が行われ、東武鉄道が約1億2000万円で応札した[27][注 22]。本機は同年12月1日のラストランを最後に真岡鐵道での運用を終え、同中旬に中間検査Aを施工するため、大宮総合車両センターへ回送された。この間に東武鉄道との譲渡および賃借契約の締結を2020年(令和2年)3月に完了させ、同年7月30日をもって譲渡された[28][29]。南栗橋車両管区にて、上述のC11 207と同様の保安装置改造工事を施工し、2020年(令和2年)12月26日に営業運転が開始された[30]。
また本機は復元時に、所有者である真岡市と復元および検査の委託担当となるJR東日本との賃借契約を結んでおり、2001年(平成13年)よりJR東日本管内での出張運転も開始した。以下は、本機の出張履歴である。特記以外使用される客車はすべて高崎車両センターの旧型客車である。
- 臨時列車としての運転記録
- 2001年(平成13年)10月6 - 8日、2004年(平成16年)2月7・8日 - 只見線会津若松 - 会津川口・只見間「SL&DL会津只見号」
- 只見線全線開通30周年を記念しての特別復活。この時は上り只見発会津若松行き列車をDE10形が牽引。日によっては折り返し駅を会津川口駅と只見駅の2駅に分けていた。
- 2004年(平成16年)2月の運転は、初の冬季運転。豪雪の中を運転で、只見駅構内の転車台が積雪で使用できないことなどの理由で上り列車をDE10形の牽引運行とした。
- 2002年(平成14年)10月12 - 14日他 - 只見線会津若松 - 只見間「SL会津只見号」
- 只見駅構内の転車台を整備して復活。これ以降2011年(平成23年)まで毎年運転されている。
- 2007年(平成19年)の運転からは季節観光列車として見直され、5月下旬に「SL会津只見新緑号」、11月上旬に「SL会津只見紅葉号」という列車名で運転されている。(夏期運行の場合は「SL会津只見号」として設定)
- 2001年(平成13年)に「SL&DL会津只見号」でSL運行を開始して10周年が経過するあたり、同年5月の運転は「SL会津只見10周年号」として運行された。
- 2012年(平成24年)からは会津若松 - 会津川口間に短縮しての運転を行っている。これは、会津川口 - 只見間が平成23年7月新潟・福島豪雨により被災したため。会津川口駅構内の転車台を整備して復活させ、往復正方向にて運転。当面の間はこの区間での運行が続けられる。なお、列車名については、2012年(平成24年)は「SL只見線奥会津号」、2013年(平成25年)から2015年(平成27年)にかけては「SL只見線紅葉号」という列車名で運行されており、いずれも紅葉シーズンでの運行。ただし、2016年および2017年(平成29年)は「SL只見線新緑号」という列車名で、上述の「SL会津只見10周年号」以来5年ぶりの新緑シーズン運行を行っている[注 23]。
- 以上のような名称変更を伴っての只見線運行は2017年(平成29年)まで毎年欠かさず続けられていたが、2018年(平成30年)は本機が全般検査施工および真岡鐵道内を含めた「栃木デスティネーションキャンペーン」の開催に伴い、初めて運転がされなかった。その後、上述のとおり真岡市が本機を他社へ売却する状況に至り、同じく全般検査に出されているC12 66に代わって真岡鐵道での運用に従事しているため、2019年(平成31年 / 令和元年)も運転されなかった。
- 2003年(平成15年)4月1 - 4日 - 八戸線八戸 - 久慈間「SLうみねこ号」
- 北東北デスティネーションキャンペーンのオープニングイベントとして運転。12系客車を初めて牽引。3両。
- 2003年(平成15年)9月27・28日、2004年(平成16年)7月19日 - 陸羽西線・羽越本線新庄 - 酒田間「SLもがみ号」
- 別称「SLおしん号」。下り新庄発酒田行き列車の蒸気機関車は正方向、上り酒田発新庄行き列車の蒸気機関車はバック運転(逆機)。
- 翌年は「おいしい山形デスティネーションキャンペーン」の一環としても再運転。
- 2004年(平成16年) - 2006年(平成18年) - 磐越東線郡山 - いわき間「SLあぶくま号」
- 磐越東線では約36年ぶりのSL営業運転。復路は小川郷 → 小野新町間に山間部があり、SL単独での牽引が困難であることから、編成後部にDE10形が連結された。しかし、2004年(平成16年)5月(初運転年)の試運転初日のみ、編成後部にDE10形の後押しがない形で運転された。
- 2004年(平成16年)3月28日 - 水戸線小山 - 下館間「SLもおか」小山延長運転
- 単機で小山 - 下館間を牽引し、下館駅到着後、茂木方にC12 66を連結し真岡駅までプッシュプルで運転。真岡駅から先はC12 66の単機牽引。客車は「SLもおか」用の50系客車を使用。
- 2004年(平成16年)7月1 - 4日、2005年(平成17年)9月17 - 19日 - 左沢線山形 - 左沢間「SLおいしい山形号」
- 「おいしい山形デスティネーションキャンペーン」のオープニングを飾った。32年ぶりの里帰り運転。
- 好評のため、翌年にも「SL秋祭り号」として臨時運転。
- 2007年(平成19年)6月9・10日の運転は列車名を「SLさくらんぼ号」に変更。以降2010年(平成22年)まで毎年6月中旬に運転。
- 2011年(平成23年)4月には「SL花回廊号」として運転予定だったが、東北地方太平洋沖地震の影響により運転取り止めとなった。翌2012年(平成24年)に再度計画・運行された。
- 2013年(平成25年)は、2014年(平成26年)7 - 9月に開催される山形デスティネーションキャンペーンのプレイベントとして、9月に「SL山形日和。号」という列車名で運転。また、本番の2014年(平成26年)では陸羽西線での運行と区別するため「SL山形日和。左沢線号」という列車名で運行となった。2015年(平成27年)も9月に同じ列車名で運行。
- 2004年(平成16年)・2005年(平成17年)・2013年(平成25年)の運転では、各運転日のうち1日だけ、山形新幹線「つばさ」と山形駅にて同時発車・並走運転を行っている。
- 2007年(平成19年)10月20・21日他 - 石巻線小牛田 - 女川間「SLホエール号」
- 2008年(平成20年)開催の仙台・宮城デスティネーションキャンペーンのプレ・イベントとして特別運転。
- そして本開催の2008年(平成20年)も同時期に再び運転され、さらに引き続き2009年(平成21年)、2010年(平成22年)にも運転を実施。
- 2011年(平成23年)の運転では東日本大震災からの立ち直りを祈念して、小牛田 - 石巻間に短縮しつつ「DL・SL石巻復興号」と名前を変えて運転(DLは仙台 - 小牛田間での運転)[31]。
- 2012年(平成24年)には、石巻線開業100周年を記念して「SL石巻100周年号」として小牛田 - 石巻間にて運行。
- 2008年(平成20年)12月20日(下り小牛田発新庄行き列車)・21日(上り新庄発小牛田行き列車)他 - 陸羽東線小牛田 - 新庄間「SL湯けむり号」
- 「SLホエール号」と同様、仙台・宮城デスティネーションキャンペーンの一環として運行。
- 当初D51 498で運転の予定だったが、本機のボイラー不具合により代走。最後尾にディーゼル機関車DE10形を連結しての運転となった。なお、客車は12系客車4両で、「SLうみねこ号」以来5年ぶりにして2度目の組み合わせになる。
- D51 498復活後の2009年(平成21年)12月5・6日にも本機を使用して再度運転された。この時より旧型客車に変更で4両編成、最後尾にDE10形を連結。なお、5日の新庄 → 小牛田間の列車は「SLつばさ10周年号」と称して運転された。その際、山形新幹線「つばさ」と新庄駅にて同時発車・並走運転を行い、新庄延伸10周年を祝った。
- 2011年(平成23年)11月26・27日の運転では東日本大震災からの立ち直りを祈念して、「SL湯けむり復興号」と名前を変えて運転。旧型客車は3両編成で使用し最後尾にDE10形を連結。
- 2013年(平成25年)4月には、「仙台・宮城デスティネーションキャンペーン」のオープニングを飾る「SL湯けむりDC号」として運行。復興号と同様の内容。残雪の中を走った。
- 2012年(平成24年)11月10・11日 - 信越本線長岡 - 飯山線十日町間「SL信濃川ロマン号」
- 2012年(平成24年)11月30日、12月1・2日 - 水郡線水戸 → 常陸大子間「SL奥久地清流ライン号」
- 2014年(平成26年)9月13日 - 陸羽西線・羽越本線新庄 → 酒田間「SL山形日和。陸羽西線号」
- 2014年(平成26年)9月14日 - 羽越本線・陸羽西線酒田 → 新庄間「SL陸羽西線100周年号」
- 山形デスティネーション「山形日和。」の一環として運転。9月13日はキャンペーン最終日を飾る列車として、翌14日は陸羽西線の100周年を記念する列車として2日1往復で別運行とされた。
- 同線の運行は上記の「SLもがみ」以来10年ぶり。
- 2016年(平成28年)11月19・20日 - 飯山線飯山 - 信越本線長岡間「SL飯山線ロマン号」
- 2012年(平成24年)に好評を博した「SL信濃川ロマン号」、区間を引き延ばして再度運転。飯山 - 十日町間では無煙化後44年ぶりのSL運行となった。
- 片道100kmをゆうに超える運行であるため、2日間かけての1往復、さらに支社管轄の関係上、十日町駅で系統分離し、営業運転もそれに準じて4本立てとした。(飯山発十日町行き「1号」、十日町発長岡行き「3号」、長岡発十日町行き「2号」、十日町発飯山行き「4号」)
- 運行時の給水は桑名川駅(復路)・森宮野原駅(往路)・十日町駅・小千谷駅(復路)で、地元消防署の消防車を使って行われた。
- 試運転は10月19・20日、26・27日、11月1・2日、8・9日、14・15日の10日間5往復行われた。
- 試運転、本運転とも機関車の区名札は前回同様「長岡(縦書き)」であった。これは、整備拠点を長岡車両センターとしたためで、乗務員も新潟支社の人材を使用しているためである。
- 上述の理由により、往路運転前と復路運転後には、同センターのDE10形牽引の回送列車が夜間に行われている。これにより往路運転後に同センターの転車台を使って方向転換し、復路も正方向での運行を可能としている。
- 2001年(平成13年)10月6 - 8日、2004年(平成16年)2月7・8日 - 只見線会津若松 - 会津川口・只見間「SL&DL会津只見号」
今後の新規動態保存機
2018年(平成30年)、東武鉄道・東武博物館に譲渡[32]。2019年(平成31年 / 令和元年)より動態保存機として復元に着手[33]。2020年(令和2年)11月に、東武鉄道が創立123周年を迎え、SL事業の転換期を迎えることと、さらなる飛躍を車両番号で表現することを意味して「C11 123」と命名[34]。
元の車号はC111[注 26](江若鉄道)
江若鉄道 → 雄別炭礦鉄道 → 釧路開発埠頭 [注 27] → 廃車後は北海道江別市の個人の下で保管 → 日本鉄道保存協会 → 東武鉄道
過去の動態保存機
大井川鐵道でC11 312が動態保存されていた。1946年(昭和21年)1月10日[注 28]に日本車輌製造本店で落成した4次形の1両(製造番号 1394)であり、同形式においての初めての「戦時設計」仕様機として登場(仕様は上記のC11 325と同様)。同年3月17日に仙台機関区に新製配置され、戦時設計仕様からの改良工事を終えたのち、1956年(昭和31年)9月2日に会津若松機関区に転属してからは、只見線、会津線、日中線の旅客・貨物列車を牽引していた。1974年(昭和49年)11月10日の日中線無煙化により、1975年(昭和50年)1月24日付で廃車となった。その後、国鉄が資産の民間譲渡を開始し、本機の個人への払い下げを天王寺管理局を通じて行った。同年中に会津若松機関区から多気駅へ回送されたのち、三重県松阪市のドライブインあら竹に搬入され、同12月より同所で静態保存されていた。しかし、伊勢自動車道勢和多気インターチェンジの建設に伴い、同所が移転することとなったため、C11形の増備を検討していた大井川鉄道へ1987年(昭和62年)10月に譲渡された。1988年(昭和63年)3月18日にドライブインあら竹から搬出され、翌19日[注 29]に同鉄道へ搬入された。4か月間の動態復元工事を受け、同年7月20日に新金谷 - 家山間で単機試運転を行い、同月23日に本機+C11 227の重連で営業運転を開始した。ドライブインあら竹での保存状態は比較的良好ではあったが、台枠関係の老朽化が激しく、動輪の軸焼けを起こすことが多かったため、2007年(平成19年)9月8日のさよなら運転をもって運用を終了。翌9日付で再度廃車[注 30]となった。同日以降は静態保存される予定であったが、部品取り機となり、いくつもの部品を外された状態(交換済みのボイラー部と走り装置のみ残存)で新金谷駅構外側線(大代川側線)に留置されていた[35]。これらのうち、ボイラーは2008年(平成20年)の夏にC11 227に移設されている。なお、C11 227はボイラー移設の際、上部に取り付けられていた汽笛もそのまま転用されており、そのため現在のC11 227はC11 312の汽笛を吹鳴して運転されている。長らく部品取り機として無残な姿とされていたが、2020年(令和2年)11月を目処に、新東名高速道路島田金谷インターチェンジ付近に新設される交流拠点「KADODE OOIGAWA」の「SL広場」での静態保存展示が決定した。これを受けて、錆取りや板金を行う、復元不可能な部品を新造するなどの復元工事が2019年(令和元年)10月ごろに開始され、復元工事中の2020年(令和2年)2月8・9日の両日に開催された「SLフェスタ2020 in 新金谷」において、「C11 312 復元状況展示会」が大代川側線で行われた。同月13日に「KADODE OOIGAWA」建設予定地へ搬入され、同年11月12日の「KADODE OOIGAWA」開業と同時に静態保存展示が開始された。
静態保存機
国鉄を代表する蒸気機関車の一つであるC11形は廃車後、全国各地で静態保存された。
画像 | 番号 | 所在地 | 備考 |
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C11 65 (国鉄→雄別鉄道) |
北海道釧路市阿寒町上阿寒34 阿寒炭鉱と鉄道館「雄鶴」 |
ヨ8057と連結されている。2021年現在、運転席に立ち入ることが可能である。 | |
C11 224 | 北海道標津郡標津町北1条西2丁目 根室標津駅跡転車台上 |
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C11 209 | 北海道標津郡中標津町丸山2丁目15番地 中標津町郷土館 |
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C11 133 | 北海道苫小牧市旭町3丁目1-12 苫小牧市科学センター |
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C11 167 | 青森県青森市合浦2丁目86外 合浦公園 |
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C11 210 | 青森県上北郡野辺地町字寺ノ沢56 愛宕公園 |
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C11 351 | 宮城県宮城郡利府町利府新谷地脇93 新幹線総合車両センター ※解体済み |
島野仙台市長(当時)の鉄道公園構想に基づき、廃車後の1972年(昭和47年)9月より、仙台市ガス局本庁舎裏の同局旧・原町工場の引込線跡で保存されていた[36]。1994年(平成6年)11月に移転し[37][36]、2019年(令和元年)12月に同施設内の保存車両ともども解体された。 | |
C11 367 | 宮城県遠田郡美里町字桜木町164番地 素山球場 |
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C11 372 | 秋田県北秋田市花園町17番地 米代児童公園 |
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C11 63 | 福島県喜多方市字諏訪183 日中線記念緑道公園 |
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C11 244 | 福島県河沼郡柳津町大字柳津字下大平 会津柳津駅前 |
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C11 254 | 福島県南会津郡南会津町 会津田島駅前[38] |
廃車直前に会津若松機関区に転属するまで長い間九州で使用されていたため、門鉄式除煙板や石炭庫の通風口といった九州地区のC11形の特徴を有する。 | |
C11 275 | 栃木県大田原市美原1丁目 交通公園 |
砂箱・蒸気ドームともに角型のままである。 | |
C11 304 | 埼玉県蕨市南町2丁目3-1 大荒田交通公園 |
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C11 322 | 埼玉県鴻巣市中央28 せせらぎ公園 |
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C11 292 | 東京都港区新橋2丁目 新橋駅日比谷口SL広場 |
鉄道100周年記念事業として新橋駅前に保存された。1945年(昭和20年)に製造後、転属することなく姫路機関区に所属し、1972年(昭和47年)8月に運用離脱し一時的に品川機関区へ移動後、同年9月に廃車となり保存されているため、東京で営業運転に使用されたことはない[39]。戦時形の特徴である角型の蒸気ドーム・砂箱がそのまま保たれている。テレビの報道番組において新橋駅SL広場でのインタビューシーンに映り込むことも多いほか、フジテレビで放送されていたバラエティ番組はねるのトびらのゲームコーナー「短縮鉄道の夜」において、そのコーナーの出演メンバーが乗り込んで銀河へ向かう列車の設定で登場した。 | |
C11 368 | 東京都中野区中野2丁目9-7 もみじ山文化センター 西館 |
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C11 1 | 東京都青梅市勝沼2丁目155番地 青梅鉄道公園 |
青梅鉄道公園開園時から保存されているC11形トップナンバー機。現役時は福知山機関区で使用されていた。除煙板上部のステーが円弧状に湾曲している。 | |
C11 245 | 神奈川県藤沢市鵠沼6丁目12-1 鵠沼運動公園 (八部球場三塁側) |
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C11 46 | 新潟県魚沼市井口新田字上ノ原 上ノ原児童公園 |
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C11 217 | 富山県高岡市古城1-8 高岡市民体育館 |
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C11 155 | 岐阜県大垣市室本町5-51 スイトピアセンター こどもサイエンスプラザ |
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C11 312 | 静岡県島田市竹下62番地 KADODE OOIGAWA |
旧動態保存機(上記参照) | |
C11 296 | 愛知県西尾市東幡豆町南越田3番地 愛知こどもの国 |
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C11 265 | 愛知県半田市御幸町110-4 半田市鉄道資料館 |
武豊線でのSLさよなら運転に使用された。戦時形で砂箱のみ角型のままとなっている。 | |
C11 40 | 京都府福知山市駅南町3丁目1 福知山駅南口公園 |
かつては篠山市内で保存されていたが、2007年(平成19年)に現在地に移設された。現役時代は福知山機関区に所属しており、青梅鉄道公園に保存されているC11 1と同様、除煙板上部のステーが円弧状に湾曲している。 | |
C11 64 | 京都府京都市下京区観喜寺町 京都鉄道博物館 |
1935年(昭和10年)3月17日に川崎車輛で落成した2次形の1両(製造番号 1532)。同年3月28日に奈良機関庫に新製配置され、1938年(昭和13年)10月28日に湊町駐泊所に転属した。1939年(昭和14年)2月25日に深川機関区滝川支区に転属してからは、道内各地を転々と移動したが、1944年(昭和19年)10月17日に宮古機関区に転属してからは東北地方で運用された。1972年(昭和47年)の梅小路蒸気機関車館(京都鉄道博物館の前身)開館に伴い保存された。梅小路蒸気機関車館開館当初は動態保存とされ、1976年(昭和51年)3月16日に山陰本線京都 - 二条間高架化記念列車の牽引に使用されたが、その後は営業運転に就くことはなく、1986年(昭和61年)[注 31]に車籍を抹消され静態保存となっている。2006年(平成18年)に「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。 | |
C11 180 | 京都府宇治市広野町八軒屋谷1 京都府立山城総合運動公園 |
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C11 324 | 京都府京田辺市 京田辺駅前 ※解体済み |
1997年(平成9年)5月解体。動輪とナンバープレートが現地で保存され、運転室・石炭庫部分は京都鉄道博物館本館内で保存されている。 | |
C11 218 | 大阪府堺市堺区向陵西町4丁目3-3 はや総本店 |
店舗改装工事に伴い、2021年(令和3年)5月に大阪府道2号線沿いへ移設。 | |
C11 311 | 兵庫県西宮市甲子園町21-12 月見里公園 |
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C11 331 | 兵庫県加古川市加古川町424 鶴林寺公園 |
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C11 200 | 兵庫県たつの市龍野町富永 中川原公園 |
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C11 240 | 兵庫県赤穂市 赤穂城南緑地 ※解体済み |
1999年(平成11年)10月解体。 | |
C11 96 | 和歌山県新宮市熊野地1丁目 あけぼの団地児童公園 |
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C11 75 | 鳥取県倉吉市明治町 倉吉線鉄道記念館交番前 |
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C11 80 | 岡山県津山市大谷178 津山駅北口広場 |
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C11 189 | 広島県安芸郡府中町大須2丁目1-1 イオンモール広島府中 |
かつては可部線三段峡駅前に保存されていたが、同線可部 - 三段峡間廃止に伴い現在地に移設された。 | |
C11 66 | 徳島県鳴門市撫養町斎田大堤14番地 撫養第3公園 |
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C11 195 | 香川県東かがわ市与田山 旧東かがわ市立福栄小学校跡 |
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C11 117 | 高知県中村市(現・四万十市)駅前町 土佐くろしお鉄道中村駅構内 ※解体済み |
1974年(昭和49年)に日本最初のSLホテル「中村駅SLホテル」として開業した。客車2両と連結しホテルとして営業していたが、1980年(昭和55年)に廃業。その後しばらくの間、機関車のみ残されていたが、1989年(平成元年)8月に解体された。 | |
C11 131 | 福岡県直方市大字直方692-4 直方市石炭記念館 |
セム1形石炭車と連結した状態で保存されている。 | |
C11 260 | 福岡県中間市大字垣生字八ツ廣428番地 垣生公園 |
門鉄式除煙板を装備する。戦時形であり戦後に蒸気ドームは標準形に変更されたが砂箱は角形のままである。 | |
C11 257 | 福岡県糟屋郡須恵町大字上須恵 皿山公園 |
門鉄式除煙板を装備 | |
C11 61 | 福岡県八女市黒木町今2318-11 八女市黒木体育センター |
保存場所は旧黒木駅跡地にあたり、駅名板やプラットホームを再現して保存されている。 | |
C11 259 | 佐賀県武雄市武雄町24-12 東児童遊園地 |
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C11 284 | 熊本県熊本市 蓮政寺公園 ※解体済み |
1990年代に解体。2004年(平成16年)に行橋駅の高架化工事が完成した際に同駅東口前に本機の動輪が設置された。 | |
C11 270 | 大分県玖珠郡玖珠町大字森 三島公園 |
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C11 191 | 宮崎県宮崎市原町2-22 宮崎県福祉総合センター内交通公園 |
登場した作品
- コンピューターゲーム
- CM
- 黒田食品「十一の奈良漬」 - 関西や広島地区などで放映。C11 261が登場した。
脚注
注釈
- ^ 高頻度運転と支線区での運用状況を考慮し、始発・終着駅での転車台などによる方向転換が不要なタンク機関車とすることが特に求められた。
- ^ もっとも、鉄道省はその後もこの種の輸送需要に適合する気動車の開発を継続しており、それは日本車輌製造が私鉄向け車両における試行錯誤を繰り返した末に確立した、同社の標準的な設計手法を全面的に援用して1932年(昭和7年)に設計されたキハ41000形で実用段階に到達したが、C10形や本形式の計画段階ではその完成の見通しは全く立っていなかった。
- ^ C10形は69.7 tなので、3.65 tの軽量化が実現したことになる。
- ^ もっとも戦時体制下で貨物輸送能力増強が要請されたことから、1940年度以降に製造された3・4次車については軸重がC10形並に増加している。
- ^ そのほか、私鉄向け同形機が20両製造されたため、実際には401両が製造されたことになる。
- ^ 新宮鉄道から国有化された直後の紀勢中線に新製配置されたため。
- ^ 九州地区で運用された本形式に多く見られる形態。
- ^ 担当機関区の乗務員からは70km/hを超えると動揺が激しくなるとの指摘があり、対策としてボイラーを跨ぐ形で両側の側水槽をアングルでつなぐ事で個々の動揺を抑制した。
- ^ これは1934年(昭和9年)の現行路線(有明線)開業まで佐世保線肥前山口 - 早岐間と大村線早岐 - 諫早間が長崎本線であったことに由来する。
- ^ ただし、編成最後尾には本務機であるDD51形がそのまま連結されていた。
- ^ 軸重制限の厳しい佐世保線では、パンタグラフや電動発電機を搭載したままでは自重過大で速度制限が課せられるなど、運用上様々な制約があった。
- ^ 11月という説もある。
- ^ ボイラーは苗穂工場および隣接の下請け会社にて整備。
- ^ 車籍は旭川運転所。
- ^ 幹線を走行する際の速度制限による列車ダイヤ変更を極力回避する・石炭の補給の関係・急勾配における客車の両数等の理由がある。ただし、ダイヤの制限を受けにくく、かつ運行経路に急勾配がない状況であれば客車牽引は補機なしでも運行可能と思われる。
- ^ この際、ナンバープレートおよび連結棒のみお召し仕様(ナンバープレートは緑地に金文字)で残していたが、2008年(平成20年)7月の復活5周年記念ヘッドマーク取り付け時より通常のナンバープレート(黒地に金文字)に変更された。ただし、2009年(平成21年)春の定期検査後、再びナンバープレートおよび連結棒が緑に戻されている。
- ^ しかし、2018年(平成30年)秋ごろからボイラーの不具合により、牽引定数が減り、3両編成でも補機が必要になるほどの状態悪化が目立つようになった。これに伴い、2019年(平成31年)春からの全般検査におけるボイラー検査では、通常の新金谷車両区検修庫ではなく、提携担当業者である東海汽缶の工場へ搬送され、全面的な補修を受けることになった。
- ^ 1973年(昭和48年)という説もある。
- ^ 車籍は旭川運転所。
- ^ 2000年度のSLニセコ号運転初日には本機が充当される予定だったが、故障のためC11 171が代走した。
- ^ 9月18日という説もある。
- ^ ただし、この入札には「栃木県内に事業所をもつ鉄道会社であること」「栃木県内で運行すること」「真岡鐵道のC12が運行不能になった場合は貸借すること」など、事実上JR東日本と東武鉄道以外は参加できない条件が付与されていた。また、本機の売却が決定した際に大井川鐵道が交渉を持ちかけたが、上記条件を満たさないため断念している。
- ^ これは秋季運行時、落ち葉による空転での立ち往生抑止が頻発したことから、現場サイドの要望により運行時期の変更を申し合わせたためである。
- ^ 特に水戸駅では2000年(平成12年)以降、駅の再開発に伴い転車台が撤去されており、周辺にも方向を変える設備がないため、往復正方向が困難であったためである。
- ^ 国鉄機とは異なる。
- ^ 青梅鉄道公園に保存されている国鉄機C11 1とは異なる。
- ^ 国鉄に在籍した経歴は一度もない
- ^ 1月14日という説もある。
- ^ 一部のウェブサイトや文献では、1988年(昭和63年)2月19日となっていることもあるが、誤りである。
- ^ 一部のウェブサイトや文献では、休車となっていることもあるが、誤りである。
- ^ 1987年(昭和62年)3月という説もある。
出典
- ^ 『世界の鉄道'75』、p.142
- ^ a b 『日本の蒸気機関車』、p.272
- ^ a b 『世界の鉄道'75』、p.144
- ^ “経営難でも「SLの運行続ける」 JR:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2021年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月17日閲覧。
- ^ 33年ぶりに石北線・常紋峠でSLを運転します - JR北海道プレスリリース 平成20年5月14日
- ^ 今年も運転「SL夕張応援号」 - JR北海道プレスリリース 平成21年6月18日
- ^ "SL北海道鉄道130周年記念号"運転 - 交友社「鉄道ファン」 railf.jp 鉄道ニュース 2010年11月30日
- ^ 「鉄道記録帳2003年7月」『RAIL FAN』第50巻第10号、鉄道友の会、2003年10月1日、22頁。
- ^ 鉄道ホビダス岐路に立つJR北海道の動態保存蒸機。 - 編集長敬白 鉄道ホビダス 2014年7月26日
- ^ 保存車両一覧 - 東武博物館 2018年6月19日
- ^ "栃木・福島エリアの支援活性化の一助となることを目指して 蒸気機関車(SL)の復活を目指します(2017年度目途)〜約50年ぶりのSL復活で日光・鬼怒川地区の活性化を推進します〜" (PDF) (Press release). 東武鉄道. 10 August 2015. 2019年1月30日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2020年11月7日閲覧。
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- ^ 朝日新聞2017年8月11日朝刊「復活の のろし」
- ^ 日光にSLの汽笛 東武鉄道 51年ぶり復活 - 朝日新聞デジタル 2017年8月11日
- ^ 『鉄道ファン』2017年10月号、pp.74 - 75
- ^ 「SL夕張応援号」運転のお知らせ - JR北海道プレスリリース 平成19年5月9日
- ^ 今年も運転 「SL夕張応援号」 - JR北海道プレスリリース 平成20年5月14日
- ^ 今年も石北線・常紋峠で「SL常紋号」を運転します - JR北海道プレスリリース 平成21年4月8日
- ^ オホーツクの海に煙ふたたび!「SLオホーツク号」乗車&撮影と旧・湧網線&根北線探訪の旅 - JR北海道プレスリリース 平成23年5月18日
- ^ JRで行く 秋の十勝 - GOTTON JR北海道(インターネットアーカイブ)
- ^ 〜室蘭港開港140 周年・室蘭本線開業120 周年〜 室蘭に運転!「SLみなと室蘭140 周年号」 - JR北海道プレスリリース 平成24年3月12日
- ^ 「SLオホーツク号」運行のお知らせ - JR北海道プレスリリース 平成24年5月18日
- ^ その10年後の2016年(平成28年)3月26・27日にも、本機の古希を記念して再びナンバープレートを赤色に塗り替えている。
- ^ 真岡線SL 1両に削減へ 6市町の運行協 経費増で維持困難、譲渡検討(東京新聞、2018年10月8日)
- ^ 真岡鉄道 SL1両を東武へ 通年運行 見直し必至(東京新聞、2019年3月27日)
- ^ "真岡鐵道で運行していたSL(C11形325号機)を2020年7月30日に譲受します! 〜SLの譲受に合わせDLと客車の体制も整え2機体制を確保し、乗車機会をさらに提供します〜" (PDF) (Press release). 東武鉄道. 20 July 2020. 2020年7月20日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2020年11月7日閲覧。
- ^ “東武鉄道にC11形譲渡 SL大樹として運行へ 芳賀広域行政が議決”. 下野新聞. (2020年3月3日). オリジナルの2020年3月20日時点におけるアーカイブ。 2020年11月7日閲覧。
- ^ "SL2機体制スタート!年間を通して「SLの走るまち 日光」が楽しめます 12月26日(土)、真岡鐵道で運行していたC11形325号機がSL大樹として運行を開始します! 〜年末年始はSL2機を活用し、1日8本SL運転を実施〜" (PDF) (Press release). 東武鉄道. 6 November 2020. 2020年11月7日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2020年11月7日閲覧。
- ^ 交友社『鉄道ファン』2012年7月号「JR車両ファイル2012」p.35
- ^ 日本鉄道保存協会会報2018年9月号(インターネットアーカイブ)
- ^ "SL全般の技術力をさらに磨き上げます 大手私鉄初!蒸気機関車の復元に挑戦! 〜復元後、鬼怒川線の「SL大樹」は2機体制で運行し、年間を通してSLをお楽しみいただけます〜" (PDF) (Press release). 東武鉄道. 8 November 2018. 2020年11月7日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2020年11月7日閲覧。
- ^ "―2021年冬の復元完了目指して、鋭意復元作業中!!― 東武鉄道 創立123周年を記念し、SL復元機の車両番号を「C11形123号機」に決定!!" (PDF) (Press release). 東武鉄道. 6 November 2020. 2020年11月7日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2020年11月7日閲覧。
- ^ ただし、2014年(平成26年)2月にはC11 227の中間検査に伴い、諸部品供給のため、一時的に新金谷車両区の車庫に取り込まれていた(イカロス出版『蒸気機関車EX Vol.16』より)
- ^ a b 交友社『鉄道ファン』1996年10月号 通巻426号 pp.102 - 103
- ^ 交友社『鉄道ファン』1996年8月号 通巻424号 p.120
- ^ 「保存車・廃車体一覧3 補遺【第6回】」『RAIL FAN』第49巻第3号、鉄道友の会、2002年3月号、19頁。
- ^ 鉄道トリビア第250回 新橋駅前のSLは現役時代、東京を走ったことがない - 杉山淳一、マイナビニュース、2014年4月19日
参考文献
- 久保田博「C11形タンク機関車の思い出」『鉄道ファン』No.134 1972年6月号、交友社、pp.35 - 38
- 『世界の鉄道 '75』、朝日新聞社、1974年10月
- 『レイル・マガジン 1994年1月増刊 RM POCKET 6 日本の蒸気機関車』、ネコ・パブリッシング、1994年1月
- 白川淳『全国保存鉄道III 東日本編』、JTBパブリッシング、1998年
- 細川武志 『蒸気機関車メカニズム図鑑』、グランプリ出版、1998年、pp.294 - 296 ISBN 4-87687-193-0
- ジェー・アール・アール『JR気動車客車編成表 '00年版』、交通新聞社、2000年
- 白井昭・橋本英樹 「大井川鐵道C11 190号機の復元工事状況」、『鉄道ファン』No.495 2002年7月号、交友社、2002年7月、pp.126 - 129
- 小沢年満 「C11 190号機 復活への道程」『鉄道ファン』No.496 2002年8月号、交友社、2002年8月、pp.168 - 170
- 種村直樹 「大井川でC11 190号機復活運転 提供者、社員、ファンの総意が実る」、『鉄道ジャーナル No.444 2003年10月号』、鉄道ジャーナル社、pp.64 - 69
- 白川淳『現役蒸気機関車のすべて』、JTBパブリッシング、2005年
- 『大井川鐵道オフィシャルガイド』
- 沖田祐作 編 「機関車表 国鉄編I 蒸気機関車の部」『レイル・マガジン 2008年9月号 No.300』、ネコ・パブリッシング、2008年9月(特別付録CD-ROM)
- 『SLダイヤ情報21』、交通新聞社、2012年
- 沖田祐作『機関車表 フル・コンプリート版 DVDブック』、ネコ・パブリッシング、2014年