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近衛前久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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近衛 前久
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文5年(1536年
死没 慶長17年5月8日 / (1612-06-07) 1612年6月7日(76歳没)
改名 晴嗣→前嗣→前久
別名 一字名:竜・山・杉・春
道号:竜山(龍山)
戒名 東求院龍山空誉
墓所 京都市東山区東福寺
官位 従一位関白左大臣太政大臣准三宮
主君 後奈良天皇正親町天皇後陽成天皇
氏族 近衛家
父母 父:近衛稙家、母:久我慶子
兄弟 花屋玉栄大陽院足利義輝正室)、前久陽山道澄尊信ひ文字姫朝倉義景継室)、秀山尊性渓江院斎藤正義庶子
正室:久我晴通
側室: 波多野惣七娘、宝樹院
信尹尊勢宝光院前子光照院
猶子:堯真慈運教如
特記
事項
後水尾天皇外祖父
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近衛 前久(このえ さきひさ、旧字体近󠄁衞 前󠄁久)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿太政大臣近衛稙家の子。官位従一位関白左大臣、太政大臣、准三宮近衛家17代当主。

生涯

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前歴

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天文5年(1536年)、近衛稙家の長男として京都に生まれる。母は久我通言の養女慶子。

天文9年(1540年)、元服し、叔母・慶寿院の夫でもある室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、晴嗣(はるつぐ)を名乗る。

天文10年(1541年)、従三位に叙せられ公卿に列する。

天文16年(1547年)に内大臣、天文22年(1553年)に右大臣、天文23年(1554年)に関白左大臣となる。また、藤氏長者に就任した。

天文24年(1555年)1月13日、従一位に昇叙し、足利将軍家からの偏諱(「晴」の字)を捨てて、名を前嗣(さきつぐ)と改めた[1]。この当時、将軍・足利義輝三好長慶との対立により、京から朽木に動座しており、改名したのは義輝との関係を断とうとしたからとされる[1]

上杉謙信との盟約

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永禄2年(1559年)、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛した際、前嗣と景虎は互いに肝胆照らし合い、血書の起請文を交わして盟約を結んだ。

永禄3年(1560年)、前嗣は関白の職にありながら、景虎を頼り、越後に下向した。

永禄4年(1561年)初夏、前嗣は景虎の関東平定を助けるために上野下総に赴き足利藤氏を支援するなど、公家らしからぬ行動力をみせた。景虎が越後に帰国した際も危険を覚悟の上で古河城に残り、情勢を逐一越後に伝えるなど、大胆かつ豪胆な人物でもあった。その後、謙信は信濃へ出兵し、武田信玄といわゆる第四次川中島の戦いを演じることになる。謙信の活躍はただちに古河城の前嗣にも伝えられ、前嗣は謙信に宛てて戦勝を賀す書状を送っている(『歴代古案』)。この頃、名を前嗣から前久(さきひさ)に改め[2]、花押を公家様式から武家様式のものに変えた。古河入城にあたった前久の決意めいた気概が窺える。

しかし、武田・北条の二面作戦から謙信の関東平定が立ち行かなくなると、次第に前久は不毛感を覚え、永禄5年(1562年)8月、失意のうちに帰洛する。この帰洛は謙信の説得を振り切ってのことで、謙信はかなり立腹したとされる(「尊経閣文庫所蔵文書」『上越史』337)。しかし、一説には謙信の関東平定後に上洛を促す計画であったともされている[注 1]

二条晴良・足利義昭との対立

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永禄8年(1565年)5月、永禄の変で将軍・足利義輝を殺害した三好三人衆は将軍殺害の罪に問われる事を危惧して、揃って前久を頼った。前久は義輝の従兄弟であったが、その正室である自分の姉を保護した事を評価してこれを認め、彼らが推す足利義栄の将軍就任を決定した。

永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じ上洛を果たした。義昭は永禄の変後の前久の行動から兄の死には前久が関与しているのではと疑い、更に前関白の二条晴良も前久の罪を追及した。吟味の結果、義昭はついに前久を朝廷から追放した[注 2]

関白の解任

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10月に前久は、都から丹波国赤井直正(妹婿、または娘婿[7])を頼って黒井城下館に流寓。翌11月には摂津国大坂本願寺寺内町に移るとそこで関白を解任された[8]。関白は二条晴良が再任されている。この時、本願寺11世・顕如は前久が寺内町にいることを知らなかったようで、それを知ったのは元亀元年(1570年)9月、石山合戦勃発の直前であった[9]。また、この頃に顕如の長男・教如を前久は自らの猶子としているようである。後に「信長包囲網」の動きが出てくると、前久も三好三人衆の依頼を受けてこれに参加して顕如に決起を促したといわれている。だが、前久自身は信長に敵意は無く、将軍・足利義昭と関白・二条晴良への対抗とその排除が目的であった。

元亀2年(1571年)には三好義継がいる河内国若江城の城下に移っている[10]

また、この年か翌元亀3年(1572年)に前久は隠密裏に越前国一乗谷朝倉義景を訪問している[7]

天正元年(1573年)7月に義昭が信長によって京都を追放されて若江城に入ると、この前後に前久は若江の町を後にしている[7]。一方、晴良も信長から疎んじられるようになると、前久は再び赤井直正のもとに移っている[7]。こうして前久は完全に「信長包囲網」から離脱した。

天正3年(1575年)2月、信長の奏上により、帰洛を許された。

織田信長との親交

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以後は信長との親交を深め、特に鷹狩りという共通の趣味を有していた事から、前久と信長はしばしば互いの成果を自慢しあったといわれている。

天正3年9月、毛利輝元への包囲網構築を画策する信長に要請される形で、九州に下向し、大友氏伊東氏相良氏島津氏の和議を図った。

天正5年(1577年)2月、京都に戻り、翌天正6年(1578年)には准三宮の待遇を受ける。また、同年6月には2人で少数の供だけを連れて鷹狩りに出て満喫した信長が、その場で当時の公家領としては破格の1,500石の加増の命令書を書いて前久に渡したという。

天正7年(1579年)には織田軍とともに摂津国に出陣している[11]

天正8年(1580年)になると信長と本願寺の調停に乗り出し、顕如は大坂本願寺を退去した。特に10年近くかかっても攻め落とせなかった大坂本願寺を開城させた事に対する信長の評価は高く、前久が息子・信基にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」約束を得たという。

天正9年(1581年)1月15日に信長が安土で行った馬揃えに参加している。次いで、2月28日に京都で行われた大規模な京都御馬揃えにも正親町季秀烏丸光宣日野輝資高倉永孝とともに参加している[12]

天正10年(1582年)2月、太政大臣となるが、5月には辞任している。これは信長の三職推任問題に関連して前久が信長に同職を譲る意向であったからだともいわれている。3月には信長に同行し、日野輝資、飛鳥井雅敦、烏丸光宣、正親町季秀とともに甲州征伐に出陣している[13]

本能寺の変

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だが、6月2日の本能寺の変によって、信長が横死したため、前久の運命も変転を余儀なくされる。失意の前久は落飾し、竜山(龍山)と号する。しかし、「本能寺を攻撃した明智光秀軍が前久邸[注 3]から本能寺を銃撃した[注 4]」と讒言に遭い、織田信孝や後に猶子となる羽柴秀吉からも詰問される。そのため、以後は徳川家康を頼り(徳川氏の創姓は前久と吉田兼右が関わっていた)、遠江国浜松に下向した。

一年後、家康の斡旋により秀吉の誤解は解け京都に戻るが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで両者が激突したため、またもや立場が危うくなった前久は奈良に身を寄せ、両者の間に和議が成立したことを見届けてから帰洛した。

隠棲後

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天正15年(1587年)以降、足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂を別荘として隠棲した。貞享3年(1686年)刊行の『雍州府志』によると、前久が隠棲していた時代の慈照寺は「時に此の寺、住職無し」の状態だったという。

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦時には、東軍に与した水谷勝俊の嫡男勝隆を匿う一方で、西軍の島津氏と音信する等中立を保ちつつ、関ヶ原合戦の詳細な情報を息子の信尹に伝えるなど、かつての活躍をうかがわせる行動をしている。

慶長17年(1612年)5月8日、薨去。享年77。京都東福寺に葬られた。法名は東求院龍山空誉

人物・評価

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前久は五摂家筆頭という名門貴族の生まれにありながら、その半生を流浪に費やした。また、当代屈指の文化人でもあり、中央の文化の地方波及にも貢献している[14]

前久は藤原氏嫡流五摂家らしく、和歌連歌に優れた才能を発揮した。書道は、青蓮院流を学び、有職故実にも詳しかった。更に馬術や鷹狩りなどにも抜群の力量を示して「龍山公鷹百首」という鷹狩りの専門的な解説書を兼ねた歌集も執筆し、秀吉と家康に写本を与えている。古筆の蒐集でもしられ、前久が所持した久我通親筆と謂われる千載和歌集はその分割に際して、古筆家により龍山切と命名された。

歌道については、信長の七回忌(天正十六年六月二日)に詠んだ追悼歌の六首が残っている。六首全てで五七五七七の書き出しの一字がそれぞれ「なむあみだぶ」で揃えられている[15]

なけきても 名残つきせぬ なみた哉 猶したはるゝ なきかおもかけ
むつましき むかしの人や むかふらむ むなしき空の むらさきの雲
あたし世の あはれおもへは 明くれに あめかなみたか あまるころもて
みても猶 みまくほしきは みのこして みねにかくるゝ みしかよの月
たつねても たまのありかは 玉ゆらも たもとの露に たれかやとさむ
ふくるよの ふしとあれつゝ ふく風に ふたゝひみえぬ ふるあとの夢

京都を離れ、地方を流浪遍歴することを余儀なくされたが、前久にとっては、単に経済的困窮や戦乱を逃れるためのものではなく、むしろ政治への積極参加のための手段の一つであった。同時に地方に中央の文化を伝播する上で、重要な役割を果たしたと評価されている。

年譜

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以下表中、日付は旧暦、西暦年は和暦年を日付にかかわらず単純にユリウス暦に置換したものである。

和暦年 日付 西暦年 出来事 出典
天文9年 12月30日 1541年 元服、将軍足利義晴の偏諱を受け近衛晴嗣と名乗り、正五位下に叙して禁色を聴される
天文10年 1月3日 1541年 左近衛権少将に任官
1月5日 従四位上に昇叙
2月24日 左近衛権中将に転任
2月27日 従三位に昇叙、左近衛権中将は元の如し
3月27日 伊予権守を兼任
天文11年 1月5日 1542年 正三位に昇叙、左近衛権中将兼伊予権守は元の如し
2月2日 権中納言に転任、左近衛権中将は元の如し
天文13年 1月6日 1544年 従二位に昇叙、権中納言兼左近衛権中将は元の如し
天文14年 12月23日 1545年 権大納言に転任
天文15年 3月13日 1546年 右近衛大将を兼任
12月23日 左近衛大将を兼任、右近衛大将は辞す
天文16年 1月5日 1547年 正二位に昇叙、権大納言兼左近衛大将は元の如し
2月17日 内大臣に転任、左近衛大将は元の如し
天文22年 1月26日 1553年 右大臣に転任、左近衛大将は元の如し
1月30日 左近衛大将を辞す
天文23年 3月2日 1554年 関白宣下、右大臣は元の如し
4月11日 左大臣に転任、関白は元の如し
天文24年 1月13日 1555年 従一位に昇叙、関白左大臣は元の如し、足利義晴の偏諱を捨て名を前嗣と改める
弘治3年 9月2日 1557年 左大臣を辞す
永禄3年 9月19日 1560年 越後国府中長尾景虎のもとへ下向
永禄4年 5月 1561年 越後府中から上野国厩橋に転居
不詳 上野国厩橋から下総国古河に転居
不詳 名を前久と改める
永禄5年 2月 1562年 下総国古河から上野国厩橋に転居
不詳 上野国厩橋から越後国府中に転居
8月 帰洛
永禄9年 12月 1566年 松平家康の苗字を徳川に改め、従五位下三河守に叙任することを朝廷に斡旋
永禄11年 10月 1568年 黒井城下館に流寓 大梅山興禅寺
11月 摂津国大坂大坂本願寺寺内町に寄寓。関白を解任される。
元亀3年 不詳 1572年 石山本願寺から河内国若江三好義継のもとに移る
元亀4年 不詳 1573年 三好義継のもとから丹波国黒井城の赤井直正のもとに移る
天正3年 6月28日 1575年 帰洛
9月 薩摩国鹿児島島津義久のもとへ下向
天正4年 不詳 1576年 島津義久のもとと肥後国八代の相良義陽のもととを往復する
天正5年 2月26日 1577年 帰洛
閏7月20日 朝廷に再出仕
天正6年 1月20日 1578年 准三宮宣下
天正10年 2月2日 1582年 太政大臣宣下
3月 甲斐国府中織田信長と同道
5月 太政大臣を辞す
6月2日 出家、山城国嵯峨に逼塞
11月 遠江国浜松の徳川家康のもとに寄寓
天正11年 9月 1583年 帰洛
天正12年 3月 1584年 大和国奈良に奔る
7月 美濃国へ移る
天正13年 7月 1585年 羽柴秀吉を猶子とする
8月 越前国に下向
閏8月 帰洛
天正15年 3月 1587年 上野国草津に湯治下向
8月 帰洛
慶長17年 5月8日 1612年 薨去

系譜

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略系図

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凡例 - 実線は実子、縦点線は養子、横点線は婚姻。

近衛家 足利将軍家 天皇家
 
 
久我通言
 
 
 
 
 
近衞尚通
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久我晴通
 
慶子
 
近衛稙家
 
慶寿院
 
足利義晴
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久我通堅
 
北政所
 
近衞前久
 
大陽院
 
足利義輝
 
足利義昭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久我敦通
 
豊臣秀吉
(猶子)
 
近衛信尹
 
近衛前子
(中和門院)
 
後陽成天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近衛信尋
 
 
 
後水尾天皇

前久を題材とする作品

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テレビドラマ

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脚注

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注釈

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  1. ^ 湯川敏治は、近衛尚通の妹・慶寿院が将軍・足利義晴に嫁いで所生の義輝が将軍になったことで、近衛家を介して朝廷と室町幕府の関係が強化されたことを指摘し、前久の下向の背景には、近衛家先代稙家・正親町天皇・将軍義輝・慶寿院らによって進められていた朝廷(室町幕府)再興計画の一環として謙信の上洛を促すために派遣されたとする説を採る[3]。ただし、近衛家と関東地方に関しては尚通の姉である通称「北の藤」と呼ばれた女性が北条氏綱の後妻になっていたことも考慮する必要がある。しかし、「北の藤」は天文年間末頃には亡くなっていたと推定されるため[4]、近衛家と後北条氏の関係が前久の行動を抑制することはなかったとみられる。
  2. ^ 谷口研吾は叔父である久我晴通(近衛稙家の実弟)が前久の追い落としに関与した可能性を指摘している[5]が、金子拓は晴通が細川藤孝・一色藤長らと連絡を取り合い、義昭の京都追放後も公家で唯一義昭に同行したことを指摘するものの、前久とも関係があったことを指摘して結論を保留している[6]
  3. ^ この前久邸は元は天正7年(1579年)に羽柴秀吉が自邸として建設したものの、信長に没収されて代わりに前久に贈られた物であり、二条御所周辺で唯一の武家造の建物であったという。
  4. ^ この事から本能寺の変の黒幕を前久だとする説があるが、本能寺の変直前には信長を後任に推挙して太政大臣を辞任し、かつ変前日にも信長と歓談していた程の親密な関係であった前久にとって、信長の死は痛恨の窮み以外の何物でもなかった。これは、本能寺の変直後に出家している事や、既に徳川氏の天下になっていた慶長13年(1608年)の信長の命日に追悼句会を開いている事からも明白である。

出典

[編集]
  1. ^ a b 天野 2014, p. 85.
  2. ^ 天野 2014, p. 99.
  3. ^ 湯川敏治『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会、2005年、100-103頁。ISBN 978-4-7971-0744-9 
  4. ^ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年、29-31頁。ISBN 978-4-86403-289-6 
  5. ^ 谷口 1994, p. 75.
  6. ^ 金子拓「久我晴通の生涯と室町幕府」『織田信長権力論』吉川弘文館、2015年、61-63・68-69頁。ISBN 978-4-642-02925-4 
  7. ^ a b c d 谷口 1994, p. 83.
  8. ^ 谷口 1994, p. 80.
  9. ^ 谷口 1994, p. 81.
  10. ^ 谷口 1994, p. 82.
  11. ^ 谷口 1994, p. 131.
  12. ^ 谷口 1994, p. 129、130.
  13. ^ 谷口 1994, p. 137、138.
  14. ^ 近衛通隆「近衛前久」『国史大辞典』 5巻、吉川弘文館、1985年。ISBN 4-642-00505-6 
  15. ^ 藤本正行『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』洋泉社〈歴史新書y〉、2010年、236頁。ISBN 978-4862486387 

参考文献

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関連項目

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公職
先代
一条兼冬
左大臣
1554 - 1557
次代
西園寺公朝
先代
一条兼冬
右大臣
1553 - 1554
次代
西園寺公朝
先代
一条兼冬
左近衛大将
1546 - 1553
次代
西園寺公朝
先代
一条兼冬
内大臣
1547 - 1553
次代
西園寺公朝
先代
一条兼冬
右近衛大将
1546
次代
足利義晴
明正天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 正親町天皇
 
 
 
 
 
 
 
8. 誠仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 万里小路房子
 
 
 
 
 
 
 
4. 後陽成天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 勧修寺晴秀
 
 
 
 
 
 
 
9. 勧修寺晴子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 粟屋元子
 
 
 
 
 
 
 
2. 後水尾天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 近衛稙家
 
 
 
 
 
 
 
10. 近衛前久
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 久我慶子
 
 
 
 
 
 
 
5. 近衛前子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11. 宝樹院
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 109代天皇
明正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 松平広忠
 
 
 
 
 
 
 
12. 徳川家康
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 於大の方
 
 
 
 
 
 
 
6. 徳川秀忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 戸塚忠春
 
 
 
 
 
 
 
13. 西郷局
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. 西郷正勝
 
 
 
 
 
 
 
3. 徳川和子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 浅井久政
 
 
 
 
 
 
 
14. 浅井長政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. 小野殿
 
 
 
 
 
 
 
7. 小督
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. 織田信秀
 
 
 
 
 
 
 
15. 於市
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31. 土田御前