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=== 1970年代 === |
=== 1970年代 === |
2020年10月1日 (木) 08:02時点における版
大瀧 詠一 | |
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出生名 | 大瀧 榮一 |
別名 | 大滝 詠一(アーティスト名) |
生誕 | 1948年7月28日 |
出身地 | 日本・岩手県 |
死没 | 2013年12月30日(65歳没)[1][2][3][4] |
学歴 | 早稲田大学文学部[[5] |
ジャンル |
ロック ポピュラー音楽 |
職業 |
シンガーソングライター 音楽プロデューサー |
担当楽器 |
ボーカル ギター |
活動期間 | 1969年-2013年 |
レーベル |
キングレコード ナイアガラ/エレック ナイアガラ/日本コロムビア ソニー・ミュージックレコーズ(CBSソニー / Sony Records) |
事務所 | ザ・ナイアガラ・エンタープライズ |
共同作業者 | はっぴいえんど(1969年-1972年) |
公式サイト | fussa45.net |
大瀧 詠一、大滝 詠一(おおたき えいいち、本名:大瀧 榮一、1948年7月28日 - 2013年12月30日[1][2][3][4])は、日本のミュージシャン。
シンガーソングライター、作曲家、アレンジャー、音楽プロデューサー、レコードレーベルのオーナー、ラジオDJ、レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニア、著述家、元Oo Records(現在は会社自体がない)取締役など、多くの顔を持つ。
娘婿は音楽プロデューサー・音楽評論家でバート・バカラック研究家の坂口修[6]。
来歴
生い立ちと学生時代
岩手県江刺郡梁川村(現: 奥州市)生まれ。母子家庭で育ち、母親が公立学校の教師だったため、小学校・中学校でそれぞれ転校を経験している(小学校で江刺から遠野。中学で遠野から釜石)。
小学5年の夏、親戚の家で聴いたコニー・フランシスの「カラーに口紅」(Lipstick On Your Collar) に衝撃を受けて以降、アメリカンポップスに傾倒。中学入学後ラジオクラブに入り、ラジオを自作し、米軍極東放送 (FEN) やニッポン放送の番組を聴くようになる。間もなくレコード収集を始め、エルヴィス・プレスリーやビーチ・ボーイズなどの音楽を分析的に聴くようになり、独自の研究を深める。
そのため、1962年夏から1966年までにチャートインした曲はすべて覚えている[7]というほど精通している。洋楽面のみで語られがちだが、同時期には小林旭や三橋美智也なども好んで聞いていた。特にクレージーキャッツの植木等が歌う「スーダラ節」には非常に影響を受けたとされる。
1964年、岩手県立花巻北高等学校に入学し、下宿で一人暮らしをするが、授業料を全部レコードにつぎ込んでいたため、1年で退学させられ、岩手県立釜石南高等学校(現:岩手県立釜石高等学校)に編入。入学直前、FENでビートルズを知り、以降リバプール・サウンド全般を買いまくっていたという。釜石南高編入後、初めてバンドを組む。「スプレンダーズ」というバンドでドラムを担当していた。本来ならコミックバンドをやりたかったが同志が見つからず、やむなくビートルズタイプのバンドを組んだという。メンバーには現在釜石市にある鉄の歴史館館長を務める佐々木諭がいた。
1967年、上京し、小岩の製鉄会社に就職するも、出社約20日、在籍期間3ヶ月で退職。その数日前、船橋ヘルスセンターで会社の慰安会があり、余興でビートルズの「ガール」をアカペラで歌ったところ、上司から「うん、キミはこういう所にいるべき人間ではない」と諭されたという[8]。同年夏に、布谷文夫と知り合い、洪栄龍らと共に「タブー」というバンドを結成。ドラムを担当していたが、同年末に解散。
1968年に早稲田大学文学部に入学[5]。布谷を通じて交友があった中田佳彦[9]から細野晴臣を紹介されて意気投合。なお両者の初対面は細野の家に大瀧が招かれる形で行われた。その際、細野が"腕試し"としてヤングブラッズの「ゲット・トゥゲザー」(シングル盤)を見えるように置いておいた。それに部屋に入りしなの大瀧が気付き「おっゲット・トゥゲザー」と言い、細野を感心させたという。その後、大瀧・中田・細野の3人で定期的にポップスの研究会を開く。1969年、細野が参加していたバンド「エイプリル・フール」の解散直前に、細野と松本隆によって計画されていた新バンドに加入を要請され受諾。
1970年代
「ヴァレンタイン・ブルー」は翌1970年「はっぴいえんど」に改名し、アルバム『はっぴいえんど』でデビュー。この時期、「新宿プレイマップ」での座談会(日本語ロック論争)に参加。
はっぴいえんど活動中の1971年にソロ活動を開始し、アルバム『大瀧詠一』(1972年)を発表。はっぴいえんど解散後はソロ活動に移行せず、当時のシンガーソングライターとしては異例であるCMソングの制作と、ごまのはえ、布谷文夫など若手のプロデュースを始める。
1974年9月には自らが作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニア・原盤制作・原盤管理などをこなすプライベートレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立し、エレックレコードと契約。翌1975年にははっぴいえんど解散後初となるソロアルバム『NIAGARA MOON』を発表。また、ラジオ関東(現在のアール・エフ・ラジオ日本)で、DJをつとめる番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』を開始し、学生層のコアなファンを獲得するなど、精力的にソロ活動を開始するが、その矢先、エレックレコードが事業縮小し、契約破棄される。
1976年にコロムビアレコードにナイアガラごと移籍する。その際の契約は福生45スタジオに当時最新鋭の16チャンネルのマルチトラックレコーダーを提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作するという内容だった。
『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』『GO! GO! NIAGARA』『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はヒットを記録[10]したものの、趣味性の強すぎる楽曲が災いし、以降作品の完成度とはうらはらに売り上げが低迷。1977年の『NIAGARA CALENDAR』はチャート入りさえしなかった。
1978年の『LET'S ONDO AGAIN』を最後にコロムビアとの契約を解消。福生45スタジオの機材も売却。ナイアガラレコードも休業状態に陥る。以降レコードの販売権の契約が残っている2年間の間、ソロ作が発表できない状況に陥る。この年にはアルバムを3作しか作っておらず、本来ならばもう1枚作らないといけない契約になっていたための自主規制であり、1980年にコロムビア主導で『TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA』が発売された時には安堵したという。
1980年代前期
1979年からはプロデュース業を手掛け、翌1980年にプロデュースの仕事で出入りすることが多かったCBSソニーに移籍。旧友である松本隆と組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる作品のレコーディングに取り掛かる。このレコーディングの最中に、女性向きと考えた「さらばシベリア鉄道」を太田裕美に提供。同曲は大瀧の曲で初めてのヒットシングルになった。
1981年3月に『A LONG VACATION』を発表。当初は売り上げが低迷していたが、徐々にセールスを伸ばし、夏にはチャート2位を記録。「第23回日本レコード大賞・ベストアルバム賞」を受賞した。同年7月にリリースされた西城秀樹のアルバム「ポップンガール・ヒデキ」に収録されている「スポーツ・ガール」「ロンサム・シティー」を提供。(作詞は松本隆)1983年まで精力的に楽曲提供・プロデュースを続け、松本とコンビでの松田聖子の シングル『風立ちぬ』で初のチャート1位を記録。うなずきトリオのシングル「うなずきマーチ」では大滝作詞曲で初のチャート入りを果たすなど、多くのアイドルソング・コミックソングなどを手掛け一躍名声が高まる。また森進一の『冬のリヴィエラ』や小林旭の『熱き心に』など演歌系のジャンルにも進出を果たす。
しかし、独自の音楽理論を構築していったことなどが影響し、オリジナル作品をコンスタントに発表していく意味を見いだせなくなっていき、1984年のアルバム『EACH TIME』制作時に歌手活動の休止を決断。1985年6月のはっぴいえんど再結成ライブを最後に人前で歌うことはほとんどなくなり、同年11月にシングルカットした「フィヨルドの少女」を最後に新譜の発表は長い間途絶えることになる。
1980年代後期 - 1990年代
プロデューサー・作曲家としては80年代後半も引き続き活動し、1986年には自身が少年期からのファンであるクレージーキャッツの30周年記念作を手掛け、新曲「実年行進曲」を作曲・編曲、五万節のリメイク「新五万節」を編曲(クレジットでは編々曲)した。クレージーキャッツの楽曲を数多く手掛けた萩原哲晶の愛好家でもある大瀧は萩原に敬意を表して、彼の名前を「原編曲」としてクレジットし、「実年行進曲」と「新五万節」に過去の楽曲のフレーズを挿入している。
1980年代後期以降、ナイアガラレコードの旧譜のリマスタリングや、大瀧が影響を受けた先人の音源復刻「LEGENDARY REMASTER SERIES」の監修やライナー執筆、ラジオの特別番組のDJなどを手掛ける。また、1979年から本格的に取り組み始めたポップス史の研究は、1983年に「分母分子論」としてその一端が明らかにされていたが、1991年にはそれを更に発展させた「普動説」として結実させている。
1988年に小泉今日子に提供した『快盗ルビイ』以降作曲から遠ざかっていたが、1994年からソニーのOo Recordsに取締役兼プロデューサーとして参加。1995年の渡辺満里奈の『うれしい予感』が作曲家としての復帰作となる。
1997年には12年ぶりとなる新曲『幸せな結末』を発表。月9ドラマ『ラブジェネレーション』の主題歌としてミリオンセラーを達成。これに続き、市川実和子のシングル・アルバムのプロデュースも手掛ける。
2000年代 - 2010年代
2000年代に入ると再び旧譜のリマスタリング、音源復刻監修を再開。また昔の自分のラジオ番組をリマスターして再放送したり、昔の自分のラジオ番組の新シリーズを開始するなど、独自の試みを行うようになった。
2003年には6年ぶりのシングル『恋するふたり』を発表。月9ドラマ『東京ラブ・シネマ』主題歌としてヒットする。また、竹内まりやのアルバム『Longtime Favorites』でフランク・シナトラ & ナンシー・シナトラの「恋のひとこと」(SOMETHING STUPID) をデュエット。これらが最後の作品発表となった。
2004年末には自宅にマスタリング用の器材を導入し、福生45スタジオが復活。2005年から最後のリマスターとしてナイアガラ旧譜の30周年アニバーサリー盤の発表を順次開始。2014年3月には最終作となる「EACH TIME」の発表を控えていた。またラジオ『大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝』も佳境にさしかかっており、2014年春もしくは夏に完結し、本命であるイギリスのポップス伝に移行するものと目されていた。
2011年3月11日に起きた東日本大震災後には、地元の同級生に電話を掛けて安否確認をする等、震災にあった地元に思いを寄せ続け、被災者となった同級生にサインを入れた自身のCDを贈っている。
65歳で急死
2013年12月30日17時30分頃[11]、東京都西多摩郡瑞穂町の自宅で家族と夕食後のデザートにリンゴを食べている時に倒れ、救急搬送された。警視庁福生警察署などによると、家族は「林檎を食べていてのどに詰まらせた」と説明していたという[12]。救急隊がかけつけた時は既に心肺停止状態であり、病院に搬送後19時頃に死亡が確認された[1][2][3][4]。死因は解離性動脈瘤とされた(報道では発症部位など詳細については発表されていない)[1][2][3][4]。65歳没。
大瀧の突然の訃報は音楽関係者に大きな衝撃を与え、佐野元春[13]、山下達郎[14]、大貫妙子、吉田美奈子[15]、桑野信義らが追悼のコメントを発表した[16]。また長年の盟友だった松本隆は自身のTwitterにて「北へ還る十二月の旅人よ」と大瀧の曲「さらばシベリア鉄道」にかけた追悼の辞を捧げている[17]。
2014年1月4日、都内で葬儀が営まれ、約100人の関係者が参列した。式場には未発表である大瀧自身の声による「夢で逢えたら」が流され、大瀧の柩ははっぴいえんどメンバーだった松本隆、鈴木茂、細野晴臣の3人らによって抱えられた[18]。また、多くのスタッフ・関係者からの要望により、「A LONG VACATION」の発売日で、最期のアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日でもあった3月21日に「お別れの会」が執り行われ、一般参列者向けの献花台も設けられた。[19][20]
3月21日の「EACH TIME」発売を前に、3月19日からは過去音源のiTunes Storeにおける一斉配信がスタートし、その中には絶版になり入手困難となっていたシリア・ポールによる「夢で逢えたら」のカバーや単品CD販売の無かった「DEBUT」、30周年シリーズから除外された「LET'S ONDO AGAIN」といった貴重な音源も含まれている。ただし、周年CD化記念時のボーナス・トラック類は除外され、オリジナル形態のみの販売となっている[21]。
お別れ会の場で、大瀧の妻から最期の言葉が「ママありがとう」だったことが明かされ、直後に意識を失い、チアノーゼも起こしていたという。救急隊の到着まで心臓マッサージを続けた(大瀧の妻は看護師だった)が、意識を取り戻すことがなくそのまま死亡したと臨終の状況が明かされている[22]。大瀧の妻は続けて「当日会話をしたのは20分ぐらいだったと思います。今では会話のすべてが遺言となってしまいました。本来ならば、12月末は大好きな落語を聴いて、スタジオの整理、片付けをしている姿があったのですが、昨年はありませんでした。亡くなる最後に『ありがとう』と言ってくれたのは、これまで主人を支えて見守ってくださった方々、またファンの方々に私から一言お礼を述べてほしいということだったと思います。この場をお借りしまして、本当にありがとうございました」と深々とお辞儀をした[23]。
死後
死後約1年経った2014年12月3日には生前に山下達郎へ構想を語っていたオールタイムベストアルバム『Best Always』が発売。これには大瀧自身が密かにレコーディングしていた「夢で逢えたら」のセルフカバーが収録されている。大瀧の唄声による「新作」が発売されるのは実に11年ぶりとなった。また、発売が望まれていた『Niagara CD Book II』も遅れて2015年3月21日に発売された[24]。 大瀧詠一の楽曲は2020年現在もサブスクリプションサービスでは解禁されていない。
2020年10月1日からは、出身地に近い東日本旅客鉄道(JR東日本)東北新幹線水沢江刺駅において、「君は天然色」をアレンジしたものが発車メロディとして使用されている[25][26]。
人物・作風
独自の音楽理論を持ち、1990年代に隆盛を誇った渋谷系の様に他ミュージシャンからの引用が多いのが特徴。1950年代から1970年代にかけてのアメリカのポップス・ロック、イギリスのリバプールサウンド、日本の歌謡曲・演芸についての豊富な知識を持ち、それらを駆使して制作される音楽トラックは、普通に聞こえても分析すると実は非常にマニアックであり、また、自作詞に関しては独特のおふざけが入っている。『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代にリスナーから「あなたには悩みというものがないのですか?」という投稿が送られてきたという。尚、作品はおおまかに分けると、メロディタイプと言われる歌もの、ノベルティタイプと言われるサウンド偏重ものの2種類に分かれる。
楽曲制作の念密さを語る一例として、ある人物が大瀧に「あの曲は3つの曲からの剽窃ですね」と指摘し訊ねた所、「その3つと、あと2曲の5曲から出来てるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と大滝が言い返したという逸話(山下達郎がしばしばラジオでする話)や伊藤銀次がレコーディングに参加した際、有名曲のフレーズを音符を逆にして弾くのを強要されて唖然としたという。
尚、以上の経緯から「渋谷系の様に過去の作品のいい所をつまみ食いしながら楽曲を作っている」と思われがちだが、本人曰く「最終的には+αのインスピレーションがないと曲が完成しない」との事で、『EACH TIME』のレコーディング期には既にそのインスピレーションが尽きかけていたという。
発言に関しても独特のジョークが多々入っているのが特徴。ふざけている様で真面目だったり、真面目な様でふざけている発言を淡々とするタイプの人間であり、単純に発言を文字起こししてはいけない人物だった。特に有名なのが「2001年ナイアガラの旅」に纏わるものであり、1984年に「ミュージック・ステディ」の大滝詠一特集で「1988年に『ナイアガラトライアングル Vol.3』、1989年に『ナイアガラカレンダー '89(復刻版)』、1991年にはソロでの新作『1991』でレコード番号も1991を予約。1994年には『ナイアガラトライアングル Vol.4』、2000年に『ナイアガラトライアングルVol.5』、2001年に再びソロの新作として『2001年ナイアガラの旅』を発表、以上を予定している」という発言である。この発言を真に受けて泣いたファンは数多い。1990年代までは同様の発言を繰り返していたが、大瀧本人にその気は全くなく、山下達郎等に、いざ追及される側になると「予定は未定だからね」「それより君の作品はどうなの?」とはぐらかしたり、新曲と称してドラムのカウント部分だけをレコーディングしたものを放送したりしていた。
また、他者への提供曲のセルフカバーを発表する事に消極的で、ラジオ番組でリスナーにあるかどうか問われても、ないと上手くその存在をうやむやにしていた。また、出しても歌詞を改作したり、新たなメロディーを追加して発表する例が多かった。
当初から他者への提供曲として製作されたものに限定すれば、歌詞の改作をしなかったセルフカバーは、沢田研二の「あの娘にご用心」だけであり、セルフカバーを作った理由も「曲数が足りなかったから」という不本意なものだった。
それ以外ではスラップスティックの「デッキ・チェア」を歌詞を新たに松本隆に依頼して「スピーチ・バルーン」として、「海辺のジュリエット」は歌詞を新たに松本隆に依頼しただけでなく、新たにサビの部分のパートを作り「恋するカレン」としてセルフカバーされている。また、「さらばシベリア鉄道」は自身の曲としての製作中に太田裕美への提供を思いつき、それを行したもので、2015年3月29日にNHK BSプレミアムで放送された「大瀧詠一ソングブック 」で太田が、アルバム録音中にディレクターが同じ(白川隆三)だった事もあり、同時期に同じスタジオの別ブースで録音中だった大滝の元に挨拶に行った時に「太田裕美に良いじゃないかと思う曲がある」と言われて提供されたと「さらばシベリア鉄道」提供の経緯を語っている。 「Bachelor Girl」は一旦自身の録音が完成しながら歌詞の内容への疑問から発表を見送り、疑問点が解決した後に稲垣潤一への提供を行なった為、結果的に自身のバージョンがセルフカバーとして発表されたという経緯がある。
「夢で逢えたら」も生前、セルフカバーのマスターテープの存在は家族にしか明かしておらず、死後、関係者がスタジオの整理をしている中で、本人がないと言っていたセルフカバーのテープが次々に発見されてCD化されている。
自身のラジオ番組で、自分の作品を特集する場合は「我田引水くんにお願いする」と言う様に別名を用いて大滝詠一として直接自分の作品を取り上げない演出をしていた。
松任谷正隆曰く、今田耕司を1000倍暗くしたのが大滝詠一との事(FUNより)。
主な別名・変名
独特のおふざけは数多くの変名にも反映されている。最初に名乗ったのは「ちぇるしぃ」で、大瀧がフォーク時代の細野晴臣と一緒に、「細野晴臣+α」名義でステージに上がった際に、ジョニ・ミッチェルの「チェルシーの朝 (Chelsea Morning)」を歌った所、観客の中にいた「ジョン・セバスチャンとフォークロックを守る会」のメンバーから「チェルシー」と呼ばれるようになったのがきっかけ。
- 大滝栄一(デビュー当初のミュージシャン名。本名を常用漢字表記にしたもの)
- 大滝詠一(ミュージシャン名)
- イーチ大滝 (DJ)
- 多羅尾伴内(アレンジャー、CM音楽作曲、ピアニスト、パーカッショニスト、ドラマー、作詞家、作曲家)
- ちぇるしぃ (CHELSEA)(アレンジャー)
- 笛吹銅次(レコーディングエンジニア、マスタリングエンジニア、笛吹童子のもじり)
- RINKY O'HEN(アレンジャー)
- 多幸福(テレビドラマ関係者との共同ペンネーム)
- 南部半九郎(ベーシスト、タンクタンクローのもじり)
- イーハトヴ・田五三九(ドラマー)
- Jack Tones(多重録音コーラス時の一人コーラスグループ。グループ名は楽曲提供したキングトーンズと、アメリカのコーラスグループQuin-tones、The Teen Queensから)
- 宿霧十軒 (Bass)(やどぎりじゅうけん、スティーヴ・マックイーン主演のTV映画「拳銃無宿」から)
- 我田引水 (Baritone)
- ちぇるしぃ (1st Tenor)
- 金田一幸助 (2nd Tenor、金田一耕助のもじり)
- 遠山“桜吹雪”金五郎(「お花見メレンゲ」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、遠山金四郎のもじり)
- 国定公園(「名月赤坂マンション」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、国定忠治のもじり)
- 二宮損損(「座 読書」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、二宮尊徳のもじり)
- 坂本八(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、坂本九のもじり)
- トランク短井(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、フランク永井のもじり)
- 厚家羅漢(評論家、解説者、あっけらかん)
- 鬼野盗作("ナイアガラ俳句友の会")
- 馬耳東風("信じられる耳を持つ努力をしよう会"会長)
- 吉川詠一
- ヤング大滝(ハナ肇とクレイジーキャッツ「実年行進曲」におけるクレジット)
- 桶二歌八(「邦子のアンアン小唄」スーパーバイザー)
リズムへの傾倒
ソロになって以降、ノベルティタイプの楽曲を製作する中で数多くのリズムを導入。特にメレンゲ(ドミニカ共和国のダンスミュージック)(英語版)は気に入ったようで、数度曲名にも使用されている。また、ニューオリンズのガンボミュージックに関しても日本においては、かなり早い時期に着目。細野晴臣に勧めて、細野のキャリアに強い影響を与えている。
しかし、最終的に日本のダンスミュージックなら音頭だろうという考えに辿り着き、音頭を積極的に発表するようになった。この考えに辿り着くまでは紆余曲折あり、きっかけは1973年に伊藤銀次から薦められた中原弓彦(小林信彦)の『日本の喜劇人』を読み、日本の喜劇史に興味を持った事。その後、大瀧は『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代に事務所に集うナイアガラマニアの若者に同書を必読書として勧めていた。その影響もあり、「音頭を作っては?」というハガキがラジオに送られてくるようになり、前々から興味としてはあったものを実行に移した。
その後もコンスタントに音頭を製作。代表的なものに「ナイアガラ音頭」(アルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』収録)、「クリスマス音頭」(アルバム『NIAGARA CALENDAR』収録)、「ビックリハウス音頭」、片岡鶴太郎の『スリラー音頭』と『ビート・イット音頭』や角川博の「うさぎ温泉音頭」、更に金沢明子の「イエロー・サブマリン音頭」(編曲: 萩原哲晶)のプロデュース等がある。
レコーディングエンジニアとして
1973年から1979年まではレコーディング・エンジニア、ミキサー笛吹銅次としても活動。名前は吉野金次、伊藤銀次と来て次は「銅次」だという事で、笛吹童子をもじったもの。
また、1974年にははちみつぱい唯一のシングル盤「君と旅行鞄(トランク) / 酔いどれダンスミュージック」にもレコーディング・エンジニアとして参加している。
福生45スタジオを拠点にしていた事もあり、ソニーに移籍後はエンジニア業から一旦離れたが、2000年代以降はラジオ番組をリマスタリングするようになり、2004年には福生45スタジオをリマスタリングの場として活用。その後発表された30th Anniversary盤は、久々に笛吹銅次がエンジニアを手掛けている。
過去の作品は全て大瀧がエンジニアをしていると誤解されている事が多いが、ソニー移籍後はCD制作に関しては吉田保を中心とした外部のエンジニアを起用していた。但し、その他の音源に関してはその限りではなく、福生45スタジオに録音テープを持ち帰り、自らオーバーダビングするという作業を度々行なっていた。『幸せな結末』のストリングスバージョン等は福生45スタジオで制作されたものである。
メディア出演
テレビ嫌いとして知られており、はっぴいえんど時代こそ数度テレビ出演したものの、ソロになって以降は1970年代のエレック~コロムビア時代に歌番組以外の取材・インタビューに応じる形で数回出演しただけで、1981年にCBS・ソニーに移籍の上で活動を再開して以降は、顔出しでテレビに出る事は全くなく、1983年3月24日の「笑っていいとも」への電話出演や、1986年10月15日放映[27]の第6回日本作曲大賞に音声のみのコメントを残した程度であった(佐野元春のテレビ番組「佐野元春のザ・ソングライターズ」の佐野からの直接の出演オファーも辞退している)。但し、「テレビに出演するのが嫌い」という意味でのテレビ嫌いであり、テレビを見るのは大好きであり、1980年代後半~1990年代前半は自宅にビデオが20台以上あり、それが常時動いているという程のテレビマニアだった。主に相撲と野球を好んでいた。テレビドラマに関しては長年興味がなく、初めて全部見たテレビドラマが「ラブジェネレーション」。その後、宮藤官九郎作品にもはまっていたという。
メディア出演はほぼラジオに限られる。1980年代前半まではレギュラープログラムを持っていたが、1980年代後半以降は単発的な特別番組の出演がメインになった。交友のある人物がDJ、若しくはパーソナリティーを務める番組へのゲスト出演も多数あり、その中でも一番有名なのは、1984年から2011年まで山下達郎と行なっていた新春放談。この企画は当初の番組が無くなっても、交友の深いミュージシャンや音楽評論家の番組を間借りして急場をしのぎ、四半世紀以上続いた。
勉強家として
諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広い事でも有名である。自身は音楽の系譜についての勉強をライフワークとしているが(『分母分子論』『ポップス伝』の様に紙上・ラジオ上で、その成果を垣間みる事が出来る)、音楽のみにとどまらず、広い分野にまで“関連性”を基底に置いて研究している事が「勉強家」と称する所以である。
大瀧と同様に、日本の大衆音楽を研究しているミュージシャンに近田春夫がいるが、近田が多数の著書を発表しているのに対し、大瀧はラジオ放送をメインの発表の場としている。
その後の音楽界に与えた影響
ミュージシャン主導で自主レーベルを持つ、プロデュースのクレジットを入れる、CMソングをミュージシャンとして本格的に作る、シングルにカラオケバージョンを入れる等、先進的な活動を行ない、これらは後にスタンダードになっている。
また、日本のポピュラー音楽に与えた影響に少なからぬものがあり、特に、山下達郎の一部の作品、渋谷系等への影響を指摘する声もある[28]。
エピソード
大瀧は小学校5年から中学校1年まで野球部に在籍していた事もあって、野球好きミュージシャンの一人でもあった。まだCS衛星放送が普及していない頃から自宅にアンテナを取り付けて全国各地でのプロ野球中継を視聴していた[29]。また、長嶋茂雄のファンとしても知られており、長嶋ジャイアンツのキャンプを見学する為に宮崎市へ足を運んだ事もあった[29]。
ディスコグラフィ
※オリジナル・アルバムに絞って記載。“NIAGARA TRIANGLEシリーズ”と“NIAGARA CM SPECIALシリーズ”、『LET'S ONDO AGAIN』、インストゥルメンタル・アルバムは除外。
タイトル | 発売日 | オリコンチャート最高位 |
---|---|---|
Bellwood ⁄ KING | ||
大瀧詠一 | 1972年11月25日 | 75位 |
NIAGARA ⁄ ELEC | ||
NIAGARA MOON | 1975年5月30日 | 77位 |
NIAGARA ⁄ COLUMBIA | ||
GO! GO! NIAGARA | 1976年10月25日 | 41位 |
NIAGARA CALENDAR | 1977年12月25日 | 60位(1996年盤、オリジナル盤は不明) |
NIAGARA ⁄ CBS/SONY | ||
A LONG VACATION | 1981年3月21日 | 2位 |
EACH TIME | 1984年3月21日 | 1位 |
NIAGARA ⁄ Sony Music Labels Inc. | ||
DEBUT AGAIN | 2016年3月21日 | 3位 |
トリビュート・アルバム
- 『ナイアガラで恋をして Tribute to EIICHI OHTAKI』
- 『A LONG VACATION from Ladies』
大瀧に影響を受けた著名人
- 鈴木雅之、ラッツ&スター - 鈴木たちがアマチュアの頃から大瀧の自宅へ行ったりと親交がある。96年の紅白で夢で逢えたらを披露した時には田代の間奏の台詞に大瀧が感動して泣いていたこともあった。
- 岩崎元是 - 元岩崎元是&WINDYのメンバーで、現在、アレンジャー、作曲家、キーボーディスト。大瀧が影響を受けたフィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」というアレンジ手法を用いている。
- 山口隆 - サンボマスターボーカル、ギター。大瀧をリスペクトしており、対談したことがある。
- 萩原健太 - 音楽評論家で作曲家、プロデューサー。大瀧を敬愛しており、「ナイアガラ祭り」なるイベントを行っている。
- いとうせいこう - 2015年3月29日にNHK BSプレミアムで放送された「大瀧詠一ソングブック」で萩原健太と共にMCを務めた。
- さくらももこ - 大滝の長年のファン(最初の夫であった宮永正隆の影響も大きい)で、「ちびまる子ちゃん」のアニメが再開されるに当たってテーマソングを依頼した。そして作られたのが渡辺満里奈の「うれしい予感」である。
参考資料
- 『増補改訂版 All About Niagara』白夜書房、2005年。
- 各アルバムのライナー・ノーツ
出演
ラジオ
- ゴー・ゴー・ナイアガラ(ラジオ関東(現・ラジオ日本):1975年6月23日 ‐ 1978年9月25日 / TBSラジオ:1979年10月14日 ‐ 1980年4月6日・1981年10月10日 ‐ 1983年3月29日) ‐ ラジオ日本の開局60周年記念特番として、2018年12月23日 ‐ 2019年3月31日までの全13回、同番組のセレクションが毎週日曜深夜25時00分に再放送された。
- スピーチ・バルーン(1981年 ‐ 1982年、FM大阪制作JFN系)
- 新春放談(1983年 ‐ 2011年)
- 1月の第一週と二週に放送される山下達郎とのトークコーナーで、NHKFM「山下達郎のサウンドストリート」でスタートしたのを皮切りに、山下降板後は佐野元春や萩原健太の番組を間借りして続けられ、JFN系の「プレミアム3」を経て、「山下達郎のサンデーソングブック」まで続けられたが、大滝の地元岩手県が甚大な被害を受けた東日本大震災に伴い、2012年は放送されず、一旦幕が下ろされた。そして、2013年12月30日の大滝の他界により、四半世紀に渡った山下との放談は完全に幕を閉じた。大滝が表舞台を去り、自身のアルバムのリマスターに徹する半隠居生活になって以降、唯一のラジオ出演であった為、これを聞かなければ、近況や一年何をして過ごしていたか等、大滝の動向を知る事は出来なかった。
映画
監修ビデオ、DVD
受賞
- 第23回日本レコード大賞(1981年) - ベスト・アルバム賞『A LONG VACATION』
- 第56回日本レコード大賞(2014年) - 特別功労賞
書籍
- 『All about Niagara 1973-1979』八曜社、1982年。
- 『テレビの黄金時代』小林信彦編、キネマ旬報社、1983年。のち復刻版、1987年。 のち文芸春秋、2002年。のち文春文庫、2005年。- クレージー・キャッツ本。谷啓、小林信彦、大瀧詠一による座談会も収録。
- 『いちど話してみたかった:小林信彦デラックストーク』情報センター出版局、1983年。 - 小林・大瀧の対談が収録。
- 『All About Niagara 1973-1979+α』白夜書房、2001年。のち増補改訂版、2005年。
- 『小林旭読本:歌う大スターの伝説』小林信彦と共同責任編集、キネマ旬報社〈キネ旬ムック〉、2002年。
- 竹内義和、北野誠『聖戦 サイキック 15thアニバーサリー』文藝春秋、2003年。 - ゲスト参加。
- 『大瀧詠一:大瀧詠一と大滝詠一のソロ活動40年史』河出書房新社〈KAWADE夢ムック〉、2005年。のち増補新版、2012年。
- 山口隆『叱り叱られ』幻冬舎、2008年。 - 山口と大瀧の対談が収録。
- 『大滝詠一 Talks About Niagara コンプリート・エディション』ミュージック・マガジン〈レコード・コレクターズ別冊〉、2014年。
- 『大滝詠一読本 完全保存版 2017 EDITION』ステレオサウンド〈別冊ステレオサウンド〉、2017年。
脚注
- ^ a b c d “大瀧詠一さん急死 65歳 「幸せな結末」などヒット曲”. 朝日新聞デジタル. (2013年12月31日). オリジナルの2013年12月31日時点におけるアーカイブ。 2014年1月2日閲覧。
- ^ a b c d “歌手の大滝詠一さん急死 65歳、「君は天然色」”. 日本経済新聞(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2013年12月31日). オリジナルの2014年1月1日時点におけるアーカイブ。 2014年1月2日閲覧。
- ^ a b c d “大滝詠一さん急死 65歳 達郎、聖子プロデュース「幸せな結末」が大ヒット”. スポニチAnnex(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2013年12月31日). オリジナルの2014年1月2日時点におけるアーカイブ。 2014年1月2日閲覧。
- ^ a b c d “大滝詠一さん急死 リンゴ食べている時に”. 日刊スポーツ(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2013年12月31日). オリジナルの2014年1月2日時点におけるアーカイブ。 2014年1月2日閲覧。
- ^ a b 日外アソシエーツ『日本の作曲家: 近現代音楽人名事典』p.134
- ^ 内田樹 第20回 凱風館日乗(2013年を振り返って) - みんなのミシマガジン
- ^ 時期的には中学2年から高校3年の期間に当たる。レコード屋に入り浸り、レコード屋の店員より音楽に詳しいことから助言をしていた。そのおかげで買えないレコードも全部聴けていたという。
- ^ 『総特集 大瀧詠一と大瀧詠一のナイアガラ30年史』
- ^ 中田喜直の甥で、はっぴいえんどにもかかわりが深かった人物。
- ^ 『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』『GO! GO! NIAGARA』についてはゴールデン・ディスクとしてコロムビアからヒット賞を受けており、『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はチャート入りしている
- ^ “ミュージシャンの大瀧詠一さん死去、65歳”. TBS News i (インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2013年12月31日) 2014年1月2日閲覧。
- ^ “〈速報〉大滝詠一さん急死 リンゴ食べている時に”. 朝日新聞デジタル(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2013年12月31日). オリジナルの2014年1月1日時点におけるアーカイブ。 2014年1月2日閲覧。
- ^ “佐野元春「ひとつの大きな星を失った」”. 日刊スポーツ(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2013年12月31日). オリジナルの2014年1月1日時点におけるアーカイブ。 2014年1月5日閲覧。
- ^ “NEWS/TOP”. 山下達郎 OFFCIAL WEB SITE(インターネットアーカイブのキャッシュ). 2014年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月5日閲覧。
- ^ “well”. YOSHIDA MINAKO official web site (2014年1月2日). 2014年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月12日閲覧。
- ^ “大瀧詠一さん音楽仲間ら追悼 佐野元春「日本の音楽界はひとつの大きな星を失った」”. ORICON STYLE(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2013年12月31日). オリジナルの2014年1月5日時点におけるアーカイブ。 2014年1月5日閲覧。
- ^ takashi_mtmtのツイート(419377483574550529) 2014年1月3日閲覧。
- ^ takashi_mtmtのツイート(419375696025096192) 2014年1月3日閲覧。
- ^ “大滝詠一さん葬儀に細野晴臣ら100人参列”. 日刊スポーツ(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2014年1月5日) 2014年1月5日閲覧。
- ^ “大滝詠一を偲ぶ<お別れ会>開催。鈴木茂「大滝さんとの対話は幸せな時間だった」”. BARKS. (2014年3月21日) 2014年3月21日閲覧。
- ^ “大滝詠一、不朽の名作がiTunesで”. BARKS. (2014年3月19日) 2014年3月21日閲覧。
- ^ “大瀧詠一さん、死去直前に妻に感謝の言葉 “最期の日”も仕事していた”. ORICON STYLE. (2014年3月21日). オリジナルの2014年4月16日時点におけるアーカイブ。 2014年9月6日閲覧。
- ^ “一周忌で想う、大瀧詠一と“お笑い”のこと-KAWADE夢ムック、などより。”. (2014年12月30日) 2014年12月30日閲覧。
- ^ “大滝詠一さん遺品の中に幻の音源…本人が歌う「夢で逢えたら」”. スポーツニッポン. (2014年10月14日) 2014年10月14日閲覧。
- ^ “定例記者会見(令和2年9月9日)”. 奥州市公式ホームページ. (2020年9月9日) 2010年10月1日閲覧。
- ^ “大滝サウンド 出発進行 新幹線水沢江刺駅発車メロディー”. 岩手日報. (2020年10月1日) 2010年10月1日閲覧。
- ^ 美空ひばり 宙(そらから)
- ^ “さようなら大瀧詠一さん 日本のポップ史を変えた偉大な功績を振り返る”. リアルサウンド(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2014年1月1日). オリジナルの2014年1月16日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b “長嶋氏の大ファン大瀧詠一さん おさい銭33円”. スポニチAnnex(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2014年1月1日). オリジナルの2014年1月2日時点におけるアーカイブ。 2014年1月2日閲覧。
関連項目
- 三ツ矢サイダー
- エルヴィス・プレスリー
- フィル・スペクター
- ハナ肇とクレージーキャッツ
- 萩原哲晶
- 岩手県出身の人物一覧
- 日本語ロック論争
- 小林信彦
- 高信太郎 -70年代に音楽雑誌の対談で知り合い、「ナイアガラ予言者」「ナイアガラ大滝登り」などの漫画を描いた。
- 朝妻一郎
- 大森昭男
- 誠のサイキック青年団 ラジオ番組 リスナー
- Oo Records - 大瀧詠一が取締役を務めたレコード会社。1997年にソニー・ミュージックエンタテインメントに吸収