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|存命人物の出典明記=2010年7月}}
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{{Infobox お笑い芸人
{{Infobox お笑い芸人
|名前=ビートたけし<br>({{ruby|北野|きたの}} {{ruby|武|たけし}})<br>Takeshi Kitano
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|画像=[[ファイル:Takeshi Kitano 2017.jpg|230px]]
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|キャプション=2017年3月16日、[[ゴースト・イン・ザ・シェル (映画)|ゴースト・イン・ザ・シェル]]ワールドプレミア試写会にて
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|方言=[[江戸弁]]
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|最終学歴=[[明治大学]][[工学部]](現:[[理工学部]])機械工学科除籍(のちに特別卒業認定)
|最終学歴=[[明治大学]][[工学部]](現:[[理工学部]])機械工学科除籍(のちに特別卒業認定)
|師匠=[[深見千三郎]](師匠)<br>[[松鶴家千代若・千代菊]](門下)
|師匠=[[深見千三郎]]<br>[[松鶴家千代若・千代菊]]
|出身=[[浅草フランス座]]
|出身=[[浅草フランス座]]
|コンビ名=[[ツービート]]
|コンビ名=[[ツービート]]
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|芸風=[[漫才]](ツッコミ→ボケ)
|芸風=[[漫才]](ツッコミ→ボケ)
|立ち位置=左
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|事務所=ライト企画→フリー→吉川事務所→[[太田プロダクション]]→[[TAP (芸能プロダクション)|オフィス北野]]→[[T.Nゴン]]
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|活動時期=1972年 -
|活動時期=1972年 -
|同期=[[笑福亭鶴瓶]]<br/>[[志村けん]]
|同期=[[笑福亭鶴瓶]]<br/>[[志村けん]]
|現在の代表番組=
|現在の代表番組=
<small>'''レギュラー番組'''</small><br>[[ビートたけしのTVタックル]]([[日曜日|日]])<br>[[ビートたけしのスポーツ大将]](日)<br>[[世界まる見え!テレビ特捜部]]([[月曜日|月]])<br>[[名医とつながる!たけしの家庭の医学]]([[火曜日|火]])<br>[[奇跡体験!アンビリバボー]]([[木曜日|木]])<br>[[たけしのニッポンのミカタ!]]([[金曜日|金]])<br>[[情報7days ニュースキャスター]]([[土曜日|土]])<br><small>'''スペシャル番組'''</small><br>[[平成教育委員会|たけし・逸見の平成教育委員会]]<br>[[ビートたけしの禁断の大暴露!!超常現象(秘)Xファイル]]<br>[[日清食品 THE MANZAI|THE MANZAI]]
<small>'''レギュラー番組'''</small><br>[[ビートたけしのTVタックル]]([[日曜日|日]])<br>[[ビートたけしのスポーツ大将]](日)<br>[[世界まる見え!テレビ特捜部]]([[月曜日|月]])<br>[[名医とつながる!たけしの家庭の医学]]([[火曜日|火]])<br>[[奇跡体験!アンビリバボー]]([[木曜日|木]])<br>[[たけしのニッポンのミカタ!]]([[金曜日|金]])<br>[[情報7days ニュースキャスター]]([[土曜日|土]])<br><small>'''スペシャル番組'''</small><br>[[平成教育委員会|たけし・逸見の平成教育委員会]]<br>[[ビートたけしの禁断の大暴露!!超常現象(秘)Xファイル]]<br>[[THE MANZAI (お笑いのコンテスト)|THE MANZAI]]
|過去の代表番組=[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]<br>[[スーパージョッキー]]<br>[[オレたちひょうきん族]]<br>スポーツ大将<br>[[痛快なりゆき番組 風雲!たけし城|風雲!たけし城]]<br>[[北野ファンクラブ]] 他多数
|過去の代表番組=[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]<br>[[スーパージョッキー]]<br>[[オレたちひょうきん族]]<br>スポーツ大将<br>[[痛快なりゆき番組 風雲!たけし城|風雲!たけし城]]<br>[[北野ファンクラブ]] 他多数
|作品=[[映画]]「[[その男、凶暴につき]]」<br>映画「[[HANA-BI]]」<br>映画「[[座頭市 (2003年の映画)|座頭市]]」<br>[[著書]]「[[たけしくん、ハイ!]]」<br>著書「[[浅草キッド (小説)|浅草キッド]]」
|作品=[[映画]]「[[その男、凶暴につき]]」<br>映画「[[HANA-BI]]」<br>映画「[[座頭市 (2003年の映画)|座頭市]]」<br>[[著書]]「[[たけしくん、ハイ!]]」<br>著書「[[浅草キッド (小説)|浅草キッド]]」
|他の活動=[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[俳優]]、[[大学教授]]、[[歌手]]、[[芸術家]]、[[作家]]、編集家
|他の活動=[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[大学教授]]、[[歌手]]、[[芸術家]]、[[作家]]、編集家
|配偶者=
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|親族=[[北野大]](兄)
|親族=[[北野大]](兄)<br>[[北野篤]](長男)<br>[[北野井子]](長女
|弟子=[[たけし軍団]]
|弟子=[[たけし軍団]]
|公式サイト=[https://takeshi-kitano.jp/ 北野武(ビートたけし) サイト]
|公式サイト=[https://tap-1.jp/ 芸能事務所 会社TAP]
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*1990年 トリノ国際映画祭 特別賞
*1990年 トリノ国際映画祭 特別賞
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| 芸名 = 北野 武
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| ふりがな = きたの たけし
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| 本名 = 北野 武
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| 出生地 = {{JPN}}・東京都足立区島根
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| 身長 = 168cm
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| 生年 = 1947
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| 職業 = 映画監督、[[俳優]]、脚本家、編集家
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| ジャンル = 映画
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| 配偶者 =
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|著名な家族=[[北野幹子]](元妻)
| 事務所 =
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| 主な作品 = 『その男、凶暴につき』<br>『[[あの夏、いちばん静かな海。]]』<br>『[[ソナチネ (映画)|ソナチネ]]』<br>『[[キッズ・リターン]]』<br>『HANA-BI』<br>『[[菊次郎の夏]]』<br>『[[BROTHER]]』<br>『座頭市』<br>『[[アウトレイジ (2010年の映画)|アウトレイジ]]』シリーズ<br>『[[龍三と七人の子分たち]]』
|主な作品=『その男、凶暴につき』<br>『[[あの夏、いちばん静かな海。]]』<br>『[[ソナチネ (映画)|ソナチネ]]』<br>『[[キッズ・リターン]]』<br>『HANA-BI』<br>『[[菊次郎の夏]]』<br>『[[BROTHER]]』<br>『座頭市』<br>『[[アウトレイジ (2010年の映画)|アウトレイジ]]』シリーズ<br>『[[龍三と七人の子分たち]]』
| 東京国際映画祭 = '''特別賞'''<br>[[第24回東京国際映画祭|2014年]] 世界の映画界への長年に渡る貢献に対して
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[金獅子賞]]'''<br>[[第54回ヴェネツィア国際映画祭|1997年]]『[[HANA-BI]]』<br>'''[[銀獅子賞]]'''<br>[[第60回ヴェネツィア国際映画祭|2003年]]『[[座頭市 (2003年の映画)|座頭市]]』<br>'''[[監督・ばんざい!賞]]'''<br>[[第64回ヴェネツィア国際映画祭|2007年]]『[[監督・ばんざい!]]』
|東京国際映画祭='''特別賞'''<br>[[第24回東京国際映画祭|2014年]] 世界の映画界への長年に渡る貢献に対して
|ヴェネツィア国際映画祭='''[[金獅子賞]]'''<br>[[第54回ヴェネツィア国際映画祭|1997年]]『[[HANA-BI]]』<br>'''[[銀獅子賞]]'''<br>[[第60回ヴェネツィア国際映画祭|2003年]]『[[座頭市 (2003年の映画)|座頭市]]』<br>'''[[監督・ばんざい!賞]]'''<br>[[第64回ヴェネツィア国際映画祭|2007年]]『[[監督・ばんざい!]]』
| 日本アカデミー賞 = '''最優秀編集賞'''<br>[[第27回日本アカデミー賞|2003年]]『座頭市』<br>'''話題賞'''<br>[[第10回日本アカデミー賞|1986年]]『[[哀しい気分でジョーク]]』<br>[[第14回日本アカデミー賞|1990年]]『[[その男、凶暴につき]]』
|日本アカデミー賞='''最優秀編集賞'''<br>[[第27回日本アカデミー賞|2003年]]『座頭市』<br>'''話題賞'''<br>[[第10回日本アカデミー賞|1986年]]『[[哀しい気分でジョーク]]』<br>[[第14回日本アカデミー賞|1990年]]『[[その男、凶暴につき]]』
| ブルーリボン賞 = '''作品賞'''<br>1991年『[[あの夏、いちばん静かな海。]]』<br>1998年『HANA-BI』<br>'''監督賞'''<br>1991年『あの夏、いちばん静かな海。』<br>1996年『[[キッズ・リターン]]』<br>1998年『HANA-BI』<br>'''主演男優賞'''<br>1998年『HANA-BI』<br>'''助演男優賞'''<br>1985年『[[夜叉]]』
|ブルーリボン賞='''作品賞'''<br>1991年『[[あの夏、いちばん静かな海。]]』<br>1998年『HANA-BI』<br>'''監督賞'''<br>1991年『あの夏、いちばん静かな海。』<br>1996年『[[キッズ・リターン]]』<br>1998年『HANA-BI』<br>'''主演男優賞'''<br>1998年『HANA-BI』<br>'''助演男優賞'''<br>1985年『[[夜叉]]』
| ヨーロッパ映画賞 = '''非ヨーロッパ映画賞'''<br>1997年『HANA-BI』
|ヨーロッパ映画賞='''非ヨーロッパ映画賞'''<br>1997年『HANA-BI』
| 備考 =
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[[File:Takeshi_Kitano_Signature.svg|thumb|サイン]]
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1978年、東京都新宿区[[高田馬場]]にある芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する「マラソン漫才・ツービート・ギャグ・デスマッチ」なる漫才ライブを開催したが、この企画をした[[高信太郎]]との繋がりでたけしも、[[高平哲郎]]や[[赤塚不二夫]]、タモリなどと一時期交友関係を持った。その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わず、自ずと距離を置くこととなった。
1978年、東京都新宿区[[高田馬場]]にある芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する「マラソン漫才・ツービート・ギャグ・デスマッチ」なる漫才ライブを開催したが、この企画をした[[高信太郎]]との繋がりでたけしも、[[高平哲郎]]や[[赤塚不二夫]]、タモリなどと一時期交友関係を持った。その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わず、自ずと距離を置くこととなった。

1979年、女流漫才師「ミキ&ミチ」の[[北野幹子|内海ミキ]]と結婚。千葉県銚子市にある[[犬吠埼]]にて新婚旅行<ref> ビートたけし『たけし! オレの毒ガス半世紀』(講談社 171頁)</ref>、東京都葛飾区[[亀有]]のアパートで生活を始める。

9月12日、父の菊次郎が死去<ref>2016年12月21日NHK放送「ファミリーヒストリー」</ref>。


11月、『[[花王名人劇場]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]] 企画:[[澤田隆治]])において、人気落語家・[[月の家圓鏡|月の家円鏡]](8代目・[[橘家圓蔵 (8代目)|橘家圓蔵]])の共演者に抜擢される。古典派から「[[邪道]]」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、「花王名人劇場」での「[[激突!漫才新幹線]]」制作への布石となり、後の漫才ブームへ繋がった。
11月、『[[花王名人劇場]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]] 企画:[[澤田隆治]])において、人気落語家・[[月の家圓鏡|月の家円鏡]](8代目・[[橘家圓蔵 (8代目)|橘家圓蔵]])の共演者に抜擢される。古典派から「[[邪道]]」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、「花王名人劇場」での「[[激突!漫才新幹線]]」制作への布石となり、後の漫才ブームへ繋がった。
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その他、放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、[[ファミリーコンピュータ]]のゲーム企画も行った。この頃より、タモリ・明石家さんまと共に、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。
その他、放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、[[ファミリーコンピュータ]]のゲーム企画も行った。この頃より、タモリ・明石家さんまと共に、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。

1986年12月、たけし軍団の一部の軍団員とともに[[講談社]]の[[フライデー (雑誌)|フライデー]]誌の編集部を襲撃、住居侵入・器物損壊・暴行の容疑で警察に現行犯逮捕される。この事件によって写真週刊誌の行き過ぎた取材が問題視され当時の官房長官がコメントを出すなど社会現象になった。{{main|フライデー襲撃事件}}

1994年8月、バイクによる自損事故を起こし重傷を負う。(詳細は後述)


漫才を披露する事はほとんどなくなったが、かつてはTVでは島田洋七との「B & Beat」で、稀に弟子のライブに飛び入りで相方ビートきよしとの「ツービート」として、漫才を披露することがある<ref>『とんねるずのみなさんのおかげでした』フジテレビ系列 2010年9月30日放送など</ref>。
漫才を披露する事はほとんどなくなったが、かつてはTVでは島田洋七との「B & Beat」で、稀に弟子のライブに飛び入りで相方ビートきよしとの「ツービート」として、漫才を披露することがある<ref>『とんねるずのみなさんのおかげでした』フジテレビ系列 2010年9月30日放送など</ref>。
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*父・菊次郎の叔母で実質の祖母<ref group="注">もともと母・さきがうしの実子(北野徳次郎)と結婚して北野家に入ったが夫が夭折(1923年8月18日死亡)、その後うしがさきの後添いに甥だった正端菊次郎を連れて結婚にあたって、菊次郎がうしと養子縁組(1925年8月17日)を行ったため。2016年12月21日NHK放送「ファミリーヒストリー」</ref>である北野うし(1873年9月、徳島県徳島市[[通町 (徳島市)|通町]]生れ<ref>2016年12月21日NHK放送「ファミリーヒストリー」</ref>)は、明治時代に娘義太夫([[女義太夫]])の花形であった<ref>2016年12月21日NHK放送「ファミリーヒストリー」</ref>。
*父・菊次郎の叔母で実質の祖母<ref group="注">もともと母・さきがうしの実子(北野徳次郎)と結婚して北野家に入ったが夫が夭折(1923年8月18日死亡)、その後うしがさきの後添いに甥だった正端菊次郎を連れて結婚にあたって、菊次郎がうしと養子縁組(1925年8月17日)を行ったため。2016年12月21日NHK放送「ファミリーヒストリー」</ref>である北野うし(1873年9月、徳島県徳島市[[通町 (徳島市)|通町]]生れ<ref>2016年12月21日NHK放送「ファミリーヒストリー」</ref>)は、明治時代に娘義太夫([[女義太夫]])の花形であった<ref>2016年12月21日NHK放送「ファミリーヒストリー」</ref>。
*明治大学名誉教授・秋草学園短期大学学長・工学博士でタレントでもある[[北野大]]は兄。
*明治大学名誉教授・秋草学園短期大学学長・工学博士でタレントでもある[[北野大]]は兄。
*元漫才師の[[北野幹子]]と結婚していたが、2019年6月に協議離婚<ref>{{Cite web|title=ビートたけしさんの妻、協議離婚を認める|url=https://www.sankei.com/entertainments/news/190614/ent1906140013-n1.html|website=産経ニュース|date=2019-06-14|accessdate=2019-06-15|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC|publisher=産経新聞社|quote=タレントで映画監督のビートたけし(北野武)さん(72)の妻、幹子さんは14日、顧問弁護士を通じ、たけしさんと協議離婚したことを発表した。}}</ref>。2020年、たけしのマネジメント業務を行う女性と再婚した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/02/08/kiji/20200208s00041000075000c.html|ビートたけし再婚 “芸能界最高齢級”73歳、8年交際“公私のパートナー”と]</ref>。
*愛犬は柴犬の雄の「ゴン」。「ゴン」の名は、たけしが2018年4月以降所属する事務所「T.Nゴン」の社名に使用されている<ref>{{Cite web|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201803170000636.html |title=たけしが独立語る「何も変わらない」新会社名由来も|newspaper=日刊スポーツ|date=2018-03-17|accessdate=2019-04-14}}</ref><ref>2019年4月13日放送「[[天才!志村どうぶつ園]]」に、ゴンを連れてゲスト出演した。</ref>。
*CMプランナーの[[北野篤]]は長男、歌手・女優の[[北野井子]]は長女。愛犬はシェパードの雌の「ミケ」、柴犬の雄の「ゴン」。「ゴン」の名は、たけしが2018年4月以降所属する事務所「T.Nゴン」の社名に使用されている<ref>{{Cite web|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201803170000636.html |title=たけしが独立語る「何も変わらない」新会社名由来も|newspaper=日刊スポーツ|date=2018-03-17|accessdate=2019-04-14}}</ref><ref>2019年4月13日放送「[[天才!志村どうぶつ園]]」に、ゴンを連れてゲスト出演した。</ref>。


===友人関係===
===友人関係===
*B&Bの[[島田洋七]]とは、漫才ブームが始まる数年前に出会って以来の親友。洋七とは、横山やすしに紹介されたのがきっかけである。洋七とは、「やすしと洋七とたけしが食事にいって、やすしが2人を置いてけぼりにし、2人は夜通し東京までの道のりを歩いて帰った」などいくつかのエピソードがある。洋七が芸能界を引退しようとした話を聞いたたけしは、「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と洋七を一喝した。洋七は一度は解雇された吉本に頭を下げて復帰を許され、生涯一漫才師を誓い、島田洋八と再びB&Bを復活させ、こつこつと仕事をこなすようになり、その後、「佐賀のがばいばあちゃん」シリーズなどで、再び人気が出るようになった。
*B&Bの[[島田洋七]]とは、漫才ブームが始まる数年前に出会って以来の親友。洋七とは、横山やすしに紹介されたのがきっかけである。洋七とは、「やすしと洋七とたけしが食事にいって、やすしが2人を置いてけぼりにし、2人は夜通し東京までの道のりを歩いて帰った」、「たけしがフライデー事件で謹慎していた際に、洋七と毎日のようにゴルフをしていた」などいくつかのエピソードがある。洋七が芸能界を引退しようとした話を聞いたたけしは、「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と洋七を一喝した。洋七は一度は解雇された吉本に頭を下げて復帰を許され、生涯一漫才師を誓い、島田洋八と再びB&Bを復活させ、こつこつと仕事をこなすようになり、その後、「佐賀のがばいばあちゃん」シリーズなどで、再び人気が出るようになった。
**一方で洋七の弟弟子である島田紳助との交友は少なく、「漫才ブームの時ぐらいしか知らない」と述べている<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201108280038.html |title=たけし、紳助さん引退「全然分からない」 |newspaper=asahi.com |agency=日刊スポーツ |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2011-09-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130429154525/http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201108280038.html |archivedate=2013年4月29日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。<!-- 紳助もたけしが『行列のできる法律相談所』に出演した際、長年の芸能生活でたけしと会話を交わしたことはほとんどないと語った。(検証可能性が低いためコメントアウトにて記載) -->
**一方で洋七の弟弟子である島田紳助との交友は少なく、「漫才ブームの時ぐらいしか知らない」と述べている<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201108280038.html |title=たけし、紳助さん引退「全然分からない」 |newspaper=asahi.com |agency=日刊スポーツ |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2011-09-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130429154525/http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201108280038.html |archivedate=2013年4月29日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。<!-- 紳助もたけしが『行列のできる法律相談所』に出演した際、長年の芸能生活でたけしと会話を交わしたことはほとんどないと語った。(検証可能性が低いためコメントアウトにて記載) -->


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*横山やすしを大変尊敬し、葬儀の時には駆けつけた時には、「雲の上にいるような人だった。やすしさんには芸も色気も敵わない。もう少し漫才を続けてほしかった」とコメントし、やすしの全盛期を懐かしむなど、親交があった。
*横山やすしを大変尊敬し、葬儀の時には駆けつけた時には、「雲の上にいるような人だった。やすしさんには芸も色気も敵わない。もう少し漫才を続けてほしかった」とコメントし、やすしの全盛期を懐かしむなど、親交があった。
**この縁から、やすしの最後の弟子である[[横山ひとし]]が、一時期オフィス北野に所属したことがあった。
**この縁から、やすしの最後の弟子である[[横山ひとし]]が、一時期オフィス北野に所属したことがあった。

*1990年代初めには[[オウム真理教]]の教祖[[麻原彰晃]]の宗教観に深く陶酔し、自ら対談を申し込む<ref>ビートたけしのテレビタックル・デラックス テレビ朝日 1991年12月30日<!--http://sonshiasahara.rakurakuhp.net/i_501200.htm--></ref><ref>『特別対談 ビートたけし 麻原彰晃』 Bart 1992年6月22日号 集英社</ref><ref>『[http://japa.la/2012/06/28/597/ 麻原彰晃 – 『TIME』の表紙を飾った最後の日本人]』 JAPA+LA(ジャパラ) 2012年6月28日</ref>など、一時期交友関係を持った。[[地下鉄サリン事件]]後は否定的な見解を取っている。


===エピソード===
===エピソード===
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所ジョージとは親友である一方で、たけしは所の生活スタイルに嫉妬していると告白している。2015年12月29日に放送された『一流が嫉妬したスゴい人』で、「所の生活スタイルは、発想が違っていて、俺には真似できない。俺は所から仕事以外の楽しみ方というものをすべて教わった」と話している<ref name="sponichi20151229">{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/12/29/kiji/K20151229011772960.html |title=ビートたけし、所ジョージ&甲本ヒロトに嫉妬する理由 |work=Sponichi Annex |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2015-12-25 |accessdate=2017-10-15 }}</ref>。また、同番組でたけしは、過去に[[甲本ヒロト]]にも嫉妬したことがあったと告白している。「俺、もしかするとお笑いじゃなくて、こういう感じの音楽をやりたかったんじゃないかなって気付かされて、嫉妬したね」と話し、甲本の歌については「悲しいのよ。不良をやろうとして不良になれない子のパンクって感じがしてね。歌での表現でしか不良をできないのかな、と感じたんだよね。よく考えるとパンクではなくて演歌なんだよね。でも感じがパンクなんだよね。こういう歌を10代とかに聴いていたら涙したんだろうなあ」と評している<ref name="sponichi20151229"/>。
所ジョージとは親友である一方で、たけしは所の生活スタイルに嫉妬していると告白している。2015年12月29日に放送された『一流が嫉妬したスゴい人』で、「所の生活スタイルは、発想が違っていて、俺には真似できない。俺は所から仕事以外の楽しみ方というものをすべて教わった」と話している<ref name="sponichi20151229">{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/12/29/kiji/K20151229011772960.html |title=ビートたけし、所ジョージ&甲本ヒロトに嫉妬する理由 |work=Sponichi Annex |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2015-12-25 |accessdate=2017-10-15 }}</ref>。また、同番組でたけしは、過去に[[甲本ヒロト]]にも嫉妬したことがあったと告白している。「俺、もしかするとお笑いじゃなくて、こういう感じの音楽をやりたかったんじゃないかなって気付かされて、嫉妬したね」と話し、甲本の歌については「悲しいのよ。不良をやろうとして不良になれない子のパンクって感じがしてね。歌での表現でしか不良をできないのかな、と感じたんだよね。よく考えるとパンクではなくて演歌なんだよね。でも感じがパンクなんだよね。こういう歌を10代とかに聴いていたら涙したんだろうなあ」と評している<ref name="sponichi20151229"/>。

[[カラオケ]]が好きであり、付き人のシェパード太郎によるとテンションが高い時は付き人に「エロいの歌ってくれ」と[[サザンオールスターズ]]の楽曲をリクエストし、逆にテンションが低い時は[[THE BLUE HEARTS]]の楽曲などをリクエストするという<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/10488227/ ビートたけしの意外な一面を付き人が語る「テンションが高い時はエロい歌」] [[ライブドアニュース]] </ref>。


長く活躍したこともあり、知名度は高い。2020年7月22日に放送された『[[水曜日のダウンタウン]]』の「古今東西 日本人知名度ランキング」<ref>調査対象は日本の人口バランスに合わせた比率の10代〜70代(2000人)で、全国の[[あなたの街に住みますプロジェクト|あなたの街に住みます芸人]]による街頭調査およびリサーチ会社による調査を行った。ノミネートされた人物の中には戦国武将などの歴史的人物も含む。</ref>では、第5位(94.2%)にランクインした<ref>{{Cite news
長く活躍したこともあり、知名度は高い。2020年7月22日に放送された『[[水曜日のダウンタウン]]』の「古今東西 日本人知名度ランキング」<ref>調査対象は日本の人口バランスに合わせた比率の10代〜70代(2000人)で、全国の[[あなたの街に住みますプロジェクト|あなたの街に住みます芸人]]による街頭調査およびリサーチ会社による調査を行った。ノミネートされた人物の中には戦国武将などの歴史的人物も含む。</ref>では、第5位(94.2%)にランクインした<ref>{{Cite news
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| date = 2020-07-23
| date = 2020-07-23
| url = https://news.yahoo.co.jp/articles/555538a4966e406db65f1843c54ac21b2f4f89b2}}</ref>。
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==事件・事故==
===フライデー襲撃事件===
{{Main|フライデー襲撃事件}}
1986年12月9日、たけし軍団の一部メンバー11人を連れて講談社に行き、フライデー襲撃事件を起こし逮捕。翌1987年6月10日に[[懲役]]6か月、[[執行猶予]]2年の判決が出された([[東京地方裁判所|東京地裁]]、確定)。当時のレギュラー番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』『スーパージョッキー』への出演については、執行猶予判決が確定するまでの約8か月間謹慎することとなった。なお、当時たけしと交際していたといわれた女性への暴行で告訴された記者は、罰金10万円の判決を受けた。

1987年、映画監督・深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都府において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と語った。

===バイク事故===
1994年8月2日午前1時40分、[[原動機付自転車|原付バイク]]で東京都新宿区の[[安鎮坂]]付近を走行中に自損事故を起こし頭部に重傷を負った。事故後は[[東京医科大学病院]]に救急搬送されて一命を取り留めたものの<ref>東京医大病院、教授同士が法廷闘争 『週刊ポスト』(小学館) 1999年7月16日号</ref>、長期の入院などにより約半年間に渡ってテレビ出演が出来なくなった。また、事故は酒気帯び運転によるものだったために[[書類送検]]され、[[起訴猶予]]処分を受けた。

退院時に会見を行ったが、この時点ではまだ顔面が麻痺しており大きく変形した状態であったため、大変な反響を呼んだ。本人は「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面[[和田弘とマヒナスターズ|マヒナスターズ]]にしますから」と、自らの怪我をネタにした。退院後もリハビリを続け麻痺はある程度回復したが、一部は回復せず残ることとなった。

翌年3月4日の『平成教育委員会』でテレビ復帰し<ref group="注">正確には、前日の『北野ファンクラブ』のEDトークに飛び入り出演している</ref>、その後レギュラー番組にも復帰した。

この事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に、事故前の1993年に亡くなった親友の逸見政孝が出てきたとのこと。たけしは「あれは、『まだ俺は死んじゃいけない。』って逸見さんが言いに来てくれたんじゃないかな」と、退院後のインタビューで答えた。

入院中に面識のない[[原節子]]から数珠を贈られ、これを常に身に着けていたが<ref group="注">退院時の会見でも着用していたため、信仰に目覚めたのかと話題になった。会見での正確な発言は「これねえ、原節子さんっていう人の、女優さんの、友達の尼さんが、観音様彫ってくれたんですよ。そんで、いろいろ書いてくれて、ほいでみんな心配してるってんで、これしてたら気持ちいいよって言うからやってるんですけど」</ref>、退院後しばらくして突如壊れて散らばった。たけしは拾い集めようとしたが、「これは病気が良くなった証拠だ」と思い直し、再び着けることはなかった。

なお、このバイク事故の第一発見者は、「[[光GENJI]]」の[[諸星和己]]だったことをたけしが話していたとして、現在の付き人のシェパード太郎が記している<ref>{{Cite web |url=http://ameblo.jp/ken-kusai/entry-11932159031.html |title=9月12日 金曜日 〜気品あるロケ〜 |accessdate=2015-06-10 |author=シェパード太郎 |date=2014-09-29 |work=シェパード太郎"不完全日記" }}</ref>。

この事故により缶コーヒー「[[ジョージア (缶コーヒー)|ジョージア]]」のテレビ広告への出演が決定しスケジュールも出ていたが、撮影中止となった<ref>{{Cite web |url=http://www.toyokeizai.net/business/column/detail/AC/6a3f5c633c391903314792f099149ef7/page/3/ |title=CEOへの道 日本コカ・コーラ取締役会長・魚谷雅彦(Part4)——数千万円のキャンセル料を支払ってジョージアのCMを作りました(3) |publisher=東洋経済オンライン |date=2010-02-09 |accessdate=2016-08-08 |quote=チームと広告代理店といろんな案を出し、日本のサラリーマンを描くべく、当時タレント人気ナンバーワンだったT軍団に全員出演してもらうことになりました。ところが、契約もできて撮影日も決まった段階で、Tさんがなんと不幸にも交通事故に。通常3カ月ほどかかる企画と制作を1カ月でゼロからやり直すことになりました。 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100212124340/http://www.toyokeizai.net/business/column/detail/AC/6a3f5c633c391903314792f099149ef7/page/3 |archivedate=2010年2月12日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。

なお、2016年秋に自身が出演した日清[[カップヌードル]]の広告にて、たけしがガムテープで補修だらけの原付バイクに乗るという1994年の事故を連想させるシーンが存在し、その広告の最後には「'''守ろう、交通ルール!'''」というセリフを発している<ref>[http://www.cupnoodle.jp/cm/obakas_univ02.html 「OBAKA’S UNIVERSITY おバカへの疾走篇」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170202073339/http://www.cupnoodle.jp/cm/obakas_univ02.html |date=2017年2月2日 }}</ref>。


==価値観==
==価値観==
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ピアノを弾くのは[[フェルディナント・バイエル|バイエル]]、[[カール・ツェルニー|ツェルニー]]、そして[[ソナチネ]]までで、それ以上の域に到達する必要はないと言う。これは、さらに上を目指すのは本末転倒で、タップもピアノも「真剣にやろうと思えばやれる」ところまで到達し、それ以降はいかにアレンジして見せるかを考えるのが芸人の仕事だとする、彼の考えに由来する。
ピアノを弾くのは[[フェルディナント・バイエル|バイエル]]、[[カール・ツェルニー|ツェルニー]]、そして[[ソナチネ]]までで、それ以上の域に到達する必要はないと言う。これは、さらに上を目指すのは本末転倒で、タップもピアノも「真剣にやろうと思えばやれる」ところまで到達し、それ以降はいかにアレンジして見せるかを考えるのが芸人の仕事だとする、彼の考えに由来する。

オフィス北野の社長だった[[森昌行]]の証言によると、技巧的なものよりシンプルな物を好みレコーディングでも何度もやり直すのも苦手で、譜面どおりにやる事よりも自分が気持ちよいと思わなければOKを出さないとの事で、ロックで言えば[[ビートルズ]]よりも[[ローリング・ストーンズ|ストーンズ]]のような物を好んでいる<ref>[[酒井康]]著『虹色の音詞』175〜176p</ref>。また、[[ヘヴィメタル]]のような音楽は好んでおらず<ref>酒井康著『虹色の音詞』176p</ref>、過去に[[LOUDNESS]]の[[高崎晃]]<ref group="注">かつて森はLOUDNESSのライブビデオや海外ツアーのディレクターとして共に仕事をした事がある。</ref>がたけし側に曲を依頼されて[[デモテープ]]を製作したが<ref>[[ロッキンf]] 1988年7月号 72p</ref>最終的に使われることが無かった。


ミュージシャンとしてのサザンオールスターズの[[桑田佳祐]]を「大した天才だと思う」と述べており<ref>[http://news.livedoor.com/lite/article_detail/10756109/ ビートたけし 桑田佳祐は「大した天才だと思う」と発言] livedoor NEWS 2015年10月27日閲覧</ref>、カラオケのレパートリーとして「[[真夏の果実]]」「[[マンピーのG★SPOT]]」「[[SEA SIDE WOMAN BLUES]]」を挙げている。ただし、桑田が監督を務めた映画『[[稲村ジェーン]]』<ref>ビートたけし『仁義なき映画論』1991年、太田出版のち文春文庫 ISBN 9784167578022</ref>や[[ひつじだよ! 全員集合!|2014年の年越しライブでの紫綬褒章に関連するトラブル]]<ref name="zenka" />に関しては批判的な発言を述べていた。また、桑田も芸人としてのたけしを認めている<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/11192600/ 太田光が桑田佳祐からのメールに驚き「偽ベッキーを連れて行きます」],ライブドアニュース , 2016年2月17日 </ref>。
ミュージシャンとしてのサザンオールスターズの[[桑田佳祐]]を「大した天才だと思う」と述べており<ref>[http://news.livedoor.com/lite/article_detail/10756109/ ビートたけし 桑田佳祐は「大した天才だと思う」と発言] livedoor NEWS 2015年10月27日閲覧</ref>、カラオケのレパートリーとして「[[真夏の果実]]」「[[マンピーのG★SPOT]]」「[[SEA SIDE WOMAN BLUES]]」を挙げている。ただし、桑田が監督を務めた映画『[[稲村ジェーン]]』<ref>ビートたけし『仁義なき映画論』1991年、太田出版のち文春文庫 ISBN 9784167578022</ref>や[[ひつじだよ! 全員集合!|2014年の年越しライブでの紫綬褒章に関連するトラブル]]<ref name="zenka" />に関しては批判的な発言を述べていた。また、桑田も芸人としてのたけしを認めている<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/11192600/ 太田光が桑田佳祐からのメールに驚き「偽ベッキーを連れて行きます」],ライブドアニュース , 2016年2月17日 </ref>。

===ファッション===
漫才ブームの頃は、[[三宅一生]]の服を愛用していた<ref name="wasahi">{{Cite journal |和書 |author=|date=1982-04-16 |title=<small>異色連載対談(151) </small>女が迫る 風吹ジュンの巻 ゲスト・ビートたけし |journal=[[週刊朝日]] |volume=|publisher=[[朝日新聞社]] |page=113 }}</ref>。しかし三宅から「服を着ないでくれ」と言われたことを漫才のネタにして<ref name="wasahi" />、三宅のとこに電話して「着るぞ。ガタガタいうと買うぞ」と脅かしてやった、などとテレビで話し有名になった<ref name="wasahi" />。実際に三宅の事務所の広報担当からたけしに直接電話があり<ref name="wasahi" />、「たけしさん、本人はあんまりいい顔していませんよ。なるべく着ないでください。イメージくずれるから」と言われたと1982年の[[週刊誌]]のインタビューで話している<ref name="wasahi" />。


===数学===
===数学===
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}}</ref>。また、有名俳優でも撮影後気に入らないと出演シーンを編集でカットすることもある一方で、大杉漣や[[寺島進]]など北野作品に多く出演したことで名前が知られた俳優もいる。
}}</ref>。また、有名俳優でも撮影後気に入らないと出演シーンを編集でカットすることもある一方で、大杉漣や[[寺島進]]など北野作品に多く出演したことで名前が知られた俳優もいる。


映画音楽は『Dolls』まで、[[久石譲]]が長期にわたって担当していたが、その後は[[梶浦由記]]や[[鈴木慶一]]を起用している。
映画音楽は『Dolls』まで、[[久石譲]]が長期にわたって担当していたが、その後は[[梶浦由記]]や[[鈴木慶一]]を起用している。[[水道橋博士]]によると、久石の起用を止めたのは、映画そのものではなく、音楽が評価されてしまったからだと語っている<ref>[http://cinema-magazine.com/news/1933#浅草キッド、ビートたけしに言いたい放題]MOVIE ENTER 週刊シネママガジン(2009年10月4日)2016年11月24日閲覧。</ref>

===お笑いタレントと映画監督===
フランスと日本の文化観の違いとして「芸人という立場が映画監督としては悪影響を及ぼす、なんて気はなくて、フランス人の見方は、もっと才能があるんだっていう。この人はまだいろんなことがやれるんだって感じがあって。だからギャング映画撮っても問題ないし、バカバカしいことをやってもそれはそれとして見てくれる。映画は映画、バラエティはバラエティって分けてくれるんで、ありがたい。気が楽になった」とコメントしている。

「日本は漫才師が映画撮った、みたいな雰囲気があって、[[松本人志]]が映画撮ると、“かつて映画を撮ったお笑い人”の中に必ず俺が入っている」と、異業種の人間に対する偏見が強い日本の見方には苦言を呈している<ref>{{Cite web |url=http://www.cinemacafe.net/news/cgi/report/2010/03/7843/ |title=たけし帰国会見 仏芸術文化勲章最高章は「黒澤さんが貰ったやつ、すげえ」 |publisher=cinemacafe.net |date=2010-03-13 |accessdate=2016-08-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100315162512/http://www.cinemacafe.net/news/cgi/report/2010/03/7843/ |archivedate=2010年3月15日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。また、海外メディアが(監督・北野武としての)彼にインタビュー取材を行った際に、彼が映画製作に使う専用のオフィスへ海外メディアクルーを招き、オフィス内部の紹介やインタビューに応じる姿があった。なお、日本のメディアに対してはオフィスは基本的に非公開であったが、世界各国のメディアによるドキュメンタリーを扱った日本のテレビ番組で放送された際に、初めて明かされている。


===北野武が選ぶ好きな映画10本===
===北野武が選ぶ好きな映画10本===
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'''ショートムービー'''
'''ショートムービー'''
*'''[[それぞれのシネマ]]より「素晴らしき休日」'''(2007年)
*'''[[それぞれのシネマ]]より「素晴らしき休日」'''(2007年)
'''ミュージック・ビデオ'''
*'''[[Begin (北野井子の曲)|Begin]]'''(北野井子、1998年)

===受賞歴===
===受賞歴===
*1990年 日本映画監督協会新人奨励賞
*1990年 日本映画監督協会新人奨励賞
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*[[女が眠る時]] (2016年2月27日、ウェイン・ワン監督) - 佐原 役
*[[女が眠る時]] (2016年2月27日、ウェイン・ワン監督) - 佐原 役
*[[ゴースト・イン・ザ・シェル (映画)|ゴースト・イン・ザ・シェル]](2017年3月31日(全米)、ルパート・サンダース監督) - 荒巻大輔 役<ref>{{Cite web|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0080879|title=ビートたけし、ハリウッド版「攻殻機動隊」出演決定!スカヨハと共演!|publisher=シネマトゥデイ|date=2016-03-03|accessdate=2016-03-03}}</ref>
*[[ゴースト・イン・ザ・シェル (映画)|ゴースト・イン・ザ・シェル]](2017年3月31日(全米)、ルパート・サンダース監督) - 荒巻大輔 役<ref>{{Cite web|url=http://www.cinematoday.jp/page/N0080879|title=ビートたけし、ハリウッド版「攻殻機動隊」出演決定!スカヨハと共演!|publisher=シネマトゥデイ|date=2016-03-03|accessdate=2016-03-03}}</ref>

===舞台===
*海に響く軍靴〜FOOTSTEPS IN THE PACIFIC〜(2015年、[[博品館劇場]]) - 原案

===テレビアニメ===
*[[グラゼニ]] (2018年) - 本人 役

==劇場アニメ===
*[[まことちゃん]](1980年) - 本人 役


===ゲーム===
===ゲーム===
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==広告==
==広告==
1984年、「スーしませう」のキャッチコピーで発売された「白仁丹」や、ペプシの比較広告をパロディ化した『デミュートサンスター』では企画・演出に関わった。
[[大橋巨泉]]と共演の広告「アサヒ生ビール」は撮影終了後、フライデー襲撃事件の影響で放映されなかった(なお、広告のスナップショットは巨泉の自伝『ゲバゲバ70年!』の中で見る事が可能)。1984年、「スーしませう」のキャッチコピーで発売された「白仁丹」や、ペプシの比較広告をパロディ化した『デミュートサンスター』では企画・演出に関わった。


2007年から[[ロシア]][[独立国家共同体|CIS]]地域で[[パナソニック|Panasonic]]ブランドの[[VIERA|薄型テレビ]]の広告に出演。同広告担当者によると、「日本の有名人が単独で海外の国々で広告モデルになるのは初めてではないか」との事。
2007年から[[ロシア]][[独立国家共同体|CIS]]地域で[[パナソニック|Panasonic]]ブランドの[[VIERA|薄型テレビ]]の広告に出演。同広告担当者によると、「日本の有名人が単独で海外の国々で広告モデルになるのは初めてではないか」との事。
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==連載==
==連載==
*ビートたけし「21世紀毒談」(週刊ポスト)
*ビートたけし「21世紀毒談」(週刊ポスト)
*「達人対談」(新潮45)
*「世相斬り」(東京スポーツ)
*([[SIGHT]])
*([[週刊実話]])


==ネットマガジン==
==ネットマガジン==
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===参加したコンピュータゲーム===
===参加したコンピュータゲーム===
*[[たけしの挑戦状]]([[タイトー]])
*[[たけしの挑戦状]]([[タイトー]])
*[[たけしの戦国風雲児]](タイトー)
*[[ファミリートレーナー 突撃!風雲たけし城]]([[バンダイ]])
*[[オールナイトニッポンスーパーマリオブラザーズ]]([[任天堂]])
*ビートたけしのお笑いKGB~THE GAME([[徳間書店]]・京風とまと・ファイブクリエイション)
*ビートたけしのお笑いKGB~THE GAME([[徳間書店]]・京風とまと・ファイブクリエイション)
====たけしの挑戦状====
====たけしの挑戦状====
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*[[日本数学会]]出版賞受賞(2008年)<ref>[http://mathsoc.jp/publicity/pubprize2008.html 日本数学会 広報委員会 2008年度日本数学会賞出版賞]</ref>
*[[日本数学会]]出版賞受賞(2008年)<ref>[http://mathsoc.jp/publicity/pubprize2008.html 日本数学会 広報委員会 2008年度日本数学会賞出版賞]</ref>
*『[[タイム (雑誌)|タイム]]』誌アジア版2001年2月12日号の表紙を飾った。2002年には同誌の「アジアのヒーロー」の一人として選出された<ref>{{Cite web |url=http://www.time.com/time/asia/features/heroes/takeshi.html |title=Asian Heros - Takeshi Kitano |language=英語 |publisher=TIMEasia.com |accessdate=2016-08-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020425005832/http://www.time.com/time/asia/features/heroes/takeshi.html |archivedate=2002年4月25日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
*『[[タイム (雑誌)|タイム]]』誌アジア版2001年2月12日号の表紙を飾った。2002年には同誌の「アジアのヒーロー」の一人として選出された<ref>{{Cite web |url=http://www.time.com/time/asia/features/heroes/takeshi.html |title=Asian Heros - Takeshi Kitano |language=英語 |publisher=TIMEasia.com |accessdate=2016-08-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020425005832/http://www.time.com/time/asia/features/heroes/takeshi.html |archivedate=2002年4月25日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。

==評価==
===肯定的評価===
*1981年、[[文芸評論家]]の[[鶴見俊輔]]は『広告批評』誌上における座談の中で、「'''ツービートは[[がきデカ]]の位置に似ている'''」と評し、文芸評論家・[[高澤秀次]]はこの評を絶賛した。
*1983年、[[吉本隆明]]は[[栗本慎一郎]]との対談集の中で、たけしの話芸を「'''自分を[[異化]]することによって[[自然]]の流れとしてしまう芸風'''」と評した<ref>栗本慎一郎・吉本隆明『相対幻論』冬樹社、1983年(1985年に角川文庫に収録) ISBN 978-4041501054(角川文庫版)</ref>。一方、のちに吉本が「[[海燕]]」誌上で[[埴谷雄高]]と論争(1985年)になった際、たけしは『もっと阿呆になれ、吉本!』という文章を発表し「吉本さんは言い回しが難解」と批判した。
*[[加藤茶]]は、インタビューで「…たけし君が映画監督で評価されている。でも、お笑いに帰ってくると、必ずバカなことするじゃないですか。バカをやる、という素晴らしさの原点を知っているんです。だから大好き」と、評価している<ref>朝日新聞夕刊『人生の贈りもの』2008年12月5日より</ref>。
*[[色川武大]]は「'''才能は切れるが、それだけにいいところを一人占めしようとしすぎる'''」とし、[[榎本健一]]・[[藤山寛美]]・萩本欽一と並べて「自分の手足を切ってゆく」タイプの芸人に分類し、対極として、[[古川ロッパ]]・[[森繁久彌]]・タモリの名を挙げた<ref>色川武大『なつかしい芸人たち』新潮社、1989年 ISBN 978-4103311041(「銀座百点」掲載、1987年)</ref>。
*たけしに影響を受けた芸能人は多く、[[とんねるず]]、[[爆笑問題]]、[[さまぁ〜ず]]などが挙げられる。その理由は「たけしの芸風に直接影響を受けた」「マルチタレントとしての先輩として尊敬している」など、さまざまである。
**爆笑問題の太田光は漫才のネタにたけしが得意とする「ブラックユーモア」を積極的に取り入れたりしているその一方で「自分は憧れているビートたけしとは別物である」といった思いをしばしば述べており、自身がする無軌道なボケ・発言などはそれらの表れであるとしている<ref>[http://bylines.news.yahoo.co.jp/tvnosukima/20160412-00056451/ 爆笑問題はなぜ“つまらない”ボケを繰り返すのか? 太田光の「テレビ論」] [[Yahoo!ニュース]] </ref>。
**とんねるずは、マルチタレントとしてたけしに大いに影響を受け、たけしが高めたお笑い芸人の地位をさらに高めることに成功している。
**[[ナインティナイン]]も、たけしからの影響を強く受けている。ナイナイは若手時代にたけしとお笑いウルトラクイズで共演したことにより、知名度が上がった。その後、ナイナイの冠番組などに、たけしが呼ばれるなどしている。
**[[ロンドンブーツ1号2号]]の[[田村亮 (お笑い芸人)|田村亮]]は「芸能人は皆例外なくオーラを持っているが、たけしさんは格が違う。」と語っている。
**お笑い芸人以外では、[[TOKIO]]のメンバー全員がたけしのファンであることが、「たけしのニッポンのミカタ(国分太一がレギュラー出演している)」10月31日放送分で紹介された。
**俳優の[[西島秀俊]]はたけしのファンであり、『ビートたけしのオールナイトニッポン』など昔、たけしが出演していたラジオ番組が録音されたカセットテープを知人から借り、MDに録音していた程である。『ビートたけしのオールナイトニッポン』については、四国に住むマニアから当時の録音テープを貰い、その約200本のテープを同じくたけしのファンである水道橋博士に贈っているほどである。
**美空ひばりの息子である[[加藤和也 (ひばりプロダクション)|加藤和也]]はたけしのファンであり、少年時代にひばりがたけしを強引に和也に合わせたことがある(和也はとんねるずのファンでもあり、ひばりがとんねるずに差し入れを行うなど、同様のエピソードがある)。
*フランス芸術文化勲章の「シュヴァリエ」を1999年に授与され、2010年に「コマンドゥール」を授与された際に、[[フランス文化省]]から「映画監督としての活動は言うまでもなく、1つの才能を持った人ではない。人々を笑わせること、感動させることができ、怖がらせることもできる。あらゆる面で支持者を持つ。類を見ない自由さをもってモノづくりを進める直感的才能に対し、賞を贈る」と評された。なお、この「コマンドゥール」受賞をレジオンドヌール勲章の「オフィシエ」を受賞した黒澤明を超えたとする報道もあったが、レジオンドヌール勲章はフランスでは最高位の勲章であり、芸術文化勲章との勲位の比較は意味がない。2016年にはたけしもレジオンドヌール勲章(オフィシエ)を受章している。

===否定的評価===
*1981年、[[ルポライター]]・[[鎌田慧]]が「'''ツービートの残酷ギャグは[[ファシズム]]の兆し'''」と批判した<ref>「ファシズムみんなで進めば怖くない」『朝日ジャーナル』朝日新聞社、1981年</ref>。
*ルポライター・[[吉岡忍 (作家)|吉岡忍]]は、ツービート(ビートたけし)を[[ジョン・レノン]]射殺事件の犯人[[マーク・チャップマン]]に重ねて論じるほど忌諱していたが、後に吉岡はその認識を変え、北野映画の[[ルポルタージュ]]を執筆するほど関心を寄せるようになった。
*[[辛淑玉]]や[[佐高信]]、[[本多光夫|諸井薫]]が、たけしの軍団に対する態度を「[[権威主義]]的で[[いじめ|弱い者いじめ]]をしている」と、{{要出典範囲|それぞれコラムなど|date=2017年4月}}で述べている。これら批判的な論評について、たけしは「冗談と本気の区別が付かない奴らがいる」と評している。
*[[田中康夫]]は、たけしを自らと同じく「価値紊乱者」(既存の権威への挑戦者)として評価しつつも、1980年代中盤には『感覚の倫理学』および『ファディッシュ考現学』にて立川流への入門や軍団創設を「肩書きや権威など精神的ブランドに頼るようになり(当時、たけしがなりたいと語っていた)日本の[[レニー・ブルース]]になりそこねた」と評した。一方で、たけしの過激な言動に隠された内面の繊細さもまた指摘し、フライデー襲撃事件の際にはフライデーの取材姿勢を批判、たけしを擁護する立場を取った<ref>[[朝倉喬司]]/監修・[[筑紫哲也]]『たけし事件 - 怒りと響き』太田出版、1987年 ISBN 978-4900416284</ref>。その後、田中はたけしとテレビ番組で度々共演するなど交流も持ったが、その後も「ドナルドダックのように嫌われることも厭わず本音で周囲に毒を吐く存在であったはずが、嫌われることを恐れ人気者であり続けようとミッキーマウスのように無難な優等生的発言しか行わなくなりつつある」といった意味の論評も行っている<ref>『神なき国のガリバー』、『ニッポンご託宣』</ref>。また、バイク事故直後にあえて顔面麻痺状態で会見に臨んだことは評価したが、その後の本格復帰については「芸能界の一線からは退いた方が良かったのではないか、取り巻きや軍団を養うためだとすれば自活を促すべきだった」と評した。他方、たけしは「理屈ばっかり言っていた田中康夫が気に食わず」<ref>『森田一義アワー 笑っていいとも!』最終回(2014年3月31日)「表彰状」イジリー北野(ビートたけし)</ref>、1983年2月に当時田中がレギュラー出演していた『森田一義アワー 笑っていいとも!』に乱入し、田中の首を締め上げたことがあった。たけしが2014年3月31日放映の『笑っていいとも!』最終回でこのエピソードを披露すると、その夜の総集編である『[[笑っていいとも!特大号|笑っていいとも!グランドフィナーレ 感謝の超特大号]]』では、たけしの代わりに太田光が田中の首を締め上げて見せた。

===自己評価===
*『たけしの誰でもピカソ』で島田洋七がゲスト出演した際に、たけしは「漫才では洋七に勝てない、しゃべりではさんまに勝てない、司会では紳助に勝てない。でも芸能人としてのトータルでは良い所には行くと思う」と、漫才ブームを共にした芸人達と比較した上で、自己評価をしている。

===他者への評価===
*若手映画監督たちに「他の嫌なものも認める余裕がないといけない」と述べた上で「僕は[[アニメ]]は嫌い。[[宮崎駿]]も嫌い<!-- 文章を繰り返し書き換えておられる方へ:「〜も嫌い」ではなく「〜は一番嫌い」です。かぎかっこ「」での引用ですから書き換えないでください。 -->。でも、あれだけお金を稼げる、すごいアニメとは認める」と語った<ref>日刊スポーツ 2014年10月25日16時52分配信、ヤフーニュース。</ref>。


==脚注==
==脚注==

2021年7月21日 (水) 08:08時点における版

ビートたけし
北野きたの たけし
2017年3月16日、ゴースト・イン・ザ・シェルワールドプレミア試写会にて
本名 北野 武(きたの たけし)
ニックネーム たけちゃん、たけし、殿、世界のキタノ
別名義 北野武、マス北野
生年月日 (1947-01-18) 1947年1月18日(77歳)
出身地 日本の旗 日本東京都足立区島根
血液型 O型
身長 168cm
言語 日本語
方言 江戸弁
最終学歴 明治大学工学部(現:理工学部)機械工学科除籍(のちに特別卒業認定)
師匠 深見千三郎
松鶴家千代若・千代菊
出身 浅草フランス座
コンビ名 ツービート
グループ名 亀有ブラザーズ→北千住ブラザーズ
相方 ビートきよし
芸風 漫才(ツッコミ→ボケ)
立ち位置
事務所 ライト企画→フリー→吉川事務所→太田プロダクションオフィス北野→フリー→T.Nゴン
活動時期 1972年 -
同期 笑福亭鶴瓶
志村けん
現在の代表番組 レギュラー番組
ビートたけしのTVタックル)
ビートたけしのスポーツ大将(日)
世界まる見え!テレビ特捜部)
名医とつながる!たけしの家庭の医学
奇跡体験!アンビリバボー
たけしのニッポンのミカタ!)
情報7days ニュースキャスター
スペシャル番組
たけし・逸見の平成教育委員会
ビートたけしの禁断の大暴露!!超常現象(秘)Xファイル
THE MANZAI
過去の代表番組 天才・たけしの元気が出るテレビ!!
スーパージョッキー
オレたちひょうきん族
スポーツ大将
風雲!たけし城
北野ファンクラブ 他多数
作品 映画その男、凶暴につき
映画「HANA-BI
映画「座頭市
著書たけしくん、ハイ!
著書「浅草キッド
他の活動 映画監督脚本家大学教授歌手芸術家作家、編集家
親族 北野大(兄)
北野篤(長男)
北野井子(長女)
弟子 たけし軍団
公式サイト 芸能事務所 株式会社TAP
受賞歴

東京スポーツ映画大賞での受賞歴は除く)

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きたの たけし
北野 武
本名 北野 武
生年月日 (1947-01-18) 1947年1月18日(77歳)
出生地 日本の旗 日本・東京都足立区島根
出身地 日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
身長 168cm
血液型 O型
職業 映画監督、俳優、脚本家、編集家
ジャンル 映画
著名な家族 北野幹子(元妻)
主な作品
『その男、凶暴につき』
あの夏、いちばん静かな海。
ソナチネ
キッズ・リターン
『HANA-BI』
菊次郎の夏
BROTHER
『座頭市』
アウトレイジ』シリーズ
龍三と七人の子分たち
受賞
ヴェネツィア国際映画祭
金獅子賞
1997年HANA-BI
銀獅子賞
2003年座頭市
監督・ばんざい!賞
2007年監督・ばんざい!
東京国際映画祭
特別賞
2014年 世界の映画界への長年に渡る貢献に対して
ヨーロッパ映画賞
非ヨーロッパ映画賞
1997年『HANA-BI』
日本アカデミー賞
最優秀編集賞
2003年『座頭市』
話題賞
1986年哀しい気分でジョーク
1990年その男、凶暴につき
ブルーリボン賞
作品賞
1991年『あの夏、いちばん静かな海。
1998年『HANA-BI』
監督賞
1991年『あの夏、いちばん静かな海。』
1996年『キッズ・リターン
1998年『HANA-BI』
主演男優賞
1998年『HANA-BI』
助演男優賞
1985年『夜叉
その他の賞
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サイン

ビートたけし1947年〈昭和22年〉1月18日 - )は、日本のお笑いタレント映画監督俳優

本名及び映画監督としての名義は北野 武(きたの たけし)。東京都足立区島根出身。勲等は旭日小綬章。

タモリ明石家さんまと共に、日本のお笑いBIG3の一角を担う。

日本国外では本名の北野武名義での映画監督として知られる。

概要

1980年代初頭に起こった漫才ブームで、漫才コンビ・ツービートとして社会風刺を題材としたシニカルな笑いで人気を獲得し、『THE MANZAI』『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)などに出演し番組が大ヒットした。1990年代からはテレビ番組の司会や映画監督業を中心に活動している。

映画監督時や『平成教育委員会』(フジテレビ)などの番組では本名の「北野武」名義を用い、その他の番組、映画で出演するときは芸名の「ビートたけし」でタレント活動している。これに関して、2010年5月9日放送の『平成教育委員会』にて、「アカデミックな場所では『北野武』または『マス北野』、芸人として出る時は『ビートたけし』で使い分けている」との旨を述べた。日本国外では基本的に本名である『Takeshi Kitano』だが、『Beat Takeshi Kitano』と、いう、本名と芸名を併せた名義を使うこともある。

また、絵画では「ビートたけし・北野武」名義を使用する。

落語立川流Bコースの一員で、高座名「立川錦之助」を持つ[注 1]。近年は落語を口演する際、立川談春から一字もらい「立川梅春」を名乗っている。

東京都にある東京都立足立高等学校から明治大学工学部(現理工学部)機械工学科除籍(のちに特別卒業認定[6])。元・東京芸術大学大学院映像研究科特別教授(2005年 - 2008年)

来歴

高校時代まで

塗装職人の父・北野菊次郎(1899年[注 2] - 1979年)と、母・北野さき(1904年[注 3] - 1999年)の四男(幼少時に早逝した兄が一人いるため、実質は三男として育つ)として生まれ、「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」との願いから、「」と命名された。『平凡パンチ』1978年11月13日号のインタビュー記事では「浅草に生まれて、下町に育った」と語っており、1982年「週刊サンケイ」の小林信彦との対談でも「生まれたのは浅草(台東区)で、すぐ移って、物心ついた時には足立区にいたんです」と話している[7]。色白で細面、小柄だが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、祖母の北野うしに非常に可愛がられて育った(家族構成は、「親族」節を参照)。母親からは厳しく接せられた。

足立区立梅島第一小学校に入学。教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績は優秀で、特に算数と図画工作が得意だった。小学校卒業後は、母親が進学校を希望したため、近隣の中学ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校へ越境入学した。中学卒業後、東京都立足立高等学校に入学。なお、小学校、中学校、高等学校では野球部に所属(高校は、軟式野球部)したが、高等学校在学中にヨネクラジムでボクシングを習っていたという。なお、演芸場時代は、漫才師の野球チーム「メダトーズ」に加入していた。また未成年時代に飲酒していたことも自身の著書で明かしている。

大学時代

1965年に高校を卒業し、母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学。しかし大学での生活には適応できず、五月病を患うようになり、大学2年の時には、家出同然に一人暮らしを始め、東京都新宿区の界隈で当ての無い日々を送るようになる。

学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズに傾倒する。「LeftyCandy」や「新宿ACB(アシベ)」、名曲喫茶「風月堂」などに入り浸った。また、ジャズ喫茶のボーイもしていて、ジャズの見識は一部で有名であった。東京都新宿区にあるジャズ喫茶「ビザール」では、若松孝二小水一男らと知り合う。また「ビザール」のボーイの後輩に萩原朔美がいた。ヴィレッジヴァンガードで、遅番のボーイとして働いていた時は永山則夫が早番のボーイとして働いていた。「ジャズ・ビレッジ」の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったとのこと[注 4]

この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧だった。ジャズ喫茶のボーイ[8]以外に、菓子の計り売り[8]、実演販売員[8]、ビルの解体工[8]クラブのボーイ[8]東京国際空港での荷卸し[8]、タクシー運転手[8]、ガソリンスタンド店員[8]を転々とする。東京国際空港の荷役作業ではジャズ喫茶の常連客だった中上健次が先輩におり、共にガルーダ・インドネシア航空の荷役として働いていた[9]。後に通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演したり[注 5]、学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていた。

大学は140単位のうち106単位まで取得していたにもかかわらず、結局通学せずに除籍になった。その後、2004年9月7日には明治大学より「特別卒業認定証」(明治大学独自の制度であり、法的な大学卒業とは異なる)[注 6]及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受賞。

前座時代

学生運動が収束に向かったこともあって、自身も去就を模索する必要に迫られた。芸能に興味はあったが、アングラ演劇には馴染めず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう[10]」という理由で、いつしか芸人を志望するようになった。ただ、子供の勉学に厳しく大学にまで入らせて芸人の道を志した息子に、母は怒り嘆き、子供の頃から厳しい勉強を強いられて窮屈な思いをしていた武は、これに猛反発。北野家においても、近所の体裁を考えて「芸人を目指した北野家の武」という存在は無かった事になっていた。

1972年夏、東京都台東区浅草にあるストリップ劇場の浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。当時、たけしと思しき人物を見た井上ひさしは「不機嫌そうな青年[11]」と、その印象を述べている。やがて、同劇場の経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太としてコント(軽演劇)を学ぶ。初舞台は、痴漢のコント。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため、深見から気に入られた。ただ、深見は一般の場所でも唐突にギャグ(ボケ)を連発、間髪入れずに師を即興で罵倒という技術を仕込まれ、この特異な芸の仕込みに北野は深見に四六時中振り回される形となり芸を習得、模索する事になる。この指導もあり、舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれ、後に誕生する漫才コンビ・ツービート独自の芸風の基礎として取り入れられ漫才ブームで駆使し一気に開花する。当時は、フランス座の四畳間の屋根裏部屋で寝泊りをしていた。

長じて、フランス座の新人芸人とコントコンビを組むことを考える。舞台(コント)が活動の主軸を旨としていた深見は、漫才での活動を望んだ弟子の北野を即刻破門(後に解除)[注 7]、漫才を主軸に活動の場を放送媒体に移す。

ツービート結成

コントでの芸能界デビューを模索した一方、フランス座に出入りしていた2年先輩の兼子二郎(のちのビートきよし)から漫才コンビを組むよう誘いを受けた。コントにこだわったたけしは漫才に慎重だったが、当時フランス座は経営難で、給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、コントコンビを組む予定だった相方の病気もあり、また、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、松鶴家千代若・千代菊門下の漫才コンビ「松鶴家二郎・次郎」の次郎として舞台に上がることを了承した。深見からは引き続きフランス座の屋根裏部屋で住むことが許された。

当初は兼子がツッコミの正統派の掛合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。きよしが一時コロムビア・ライトの付き人をして生活を凌いでいたため、その縁で空たかし・きよしコロムビア・トップ・ライトの一門は皆「青空」の家号を名乗るが、片方だけが弟子なので「空」だけとなった)と名乗って興行に出たこともあった。また、当時はツッコミ担当で、ネタはきよしが作成していた。東京都外のキャバレー周りの営業なども行ったが、たけしは酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり、酩酊して舞台に上がることが多かった。また店を誹謗したり客やホステスに喧嘩を吹っ掛けため度々舞台から降ろされた。そのため兼子は場繋ぎに使う奇術ネタを用意していたという。そしてこの頃から「暴走ネタ・危険ネタ」へシフトしていき、ボケとツッコミの役割も入れ替わった。

紆余曲折の後、2人はコンビ名を「ツービート」へと変更し、たけしは「ビートたけし」、兼子は「ビートきよし」を芸名とした。

その頃、大阪府で頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、ツービートもスピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。それに呼応するように、服装もタキシード蝶ネクタイからアイビー・ルックへ変更することで、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。当初ツービートは、代演で松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。毒舌の限りを尽くした掟破りのたけしのツッコミネタもさることながら、ボーイズグループの楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行ったり、型破りな舞台が多いため、他の芸人が観に行ってしまうので「ツービートが漫才を始めると楽屋が空っぽになる」と評判になった。

漫才ブームまで

演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい抑圧を受け、漫才協団から脱退を求める声すら起きたという[12]。1976年協団が主催するNHK新人漫才コンクールにツービートは3年連続で出場したが最優秀賞を獲得することは出来なかった。

1978年、東京都新宿区高田馬場にある芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する「マラソン漫才・ツービート・ギャグ・デスマッチ」なる漫才ライブを開催したが、この企画をした高信太郎との繋がりでたけしも、高平哲郎赤塚不二夫、タモリなどと一時期交友関係を持った。その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わず、自ずと距離を置くこととなった。

1979年、女流漫才師「ミキ&ミチ」の内海ミキと結婚。千葉県銚子市にある犬吠埼にて新婚旅行[13]、東京都葛飾区亀有のアパートで生活を始める。

9月12日、父の菊次郎が死去[14]

11月、『花王名人劇場』(関西テレビ 企画:澤田隆治)において、人気落語家・月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。古典派から「邪道」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、「花王名人劇場」での「激突!漫才新幹線」制作への布石となり、後の漫才ブームへ繋がった。

漫才ブーム

1980年からの漫才ブームでは、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に、B&Bやザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。

速射砲さながらに喋りまくるたけしのスタイルや、金属バット殺人事件深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいち早くギャグに取り入れる「不謹慎ネタ」は「残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、たけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。日本船舶振興会の広告を皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」「寝る前にちゃんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば怖くない」「少年よ大志を抱け。老人よ墓石を抱け」等の一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。

1980年6月、ネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに約85万部の売上となったが、当初事務所側はせいぜい3万部程度の売り上げと見込み、印税全額を2人が受け取る契約を結んでいたため、大金が転がり込んだという。

レオタードハイレグを擬した「コマネチ」

この時期に、ツービートとして出演していた『スター爆笑座』(TBS) の初代司会であったせんだみつおと楽屋で雑談中に、たけしの代表的ギャグとして知られる「コマネチ!」のギャグが生まれた[15]

1980年10月、昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)で、ツービートは火曜日のレギュラーとなった。1982年10月、ブームの終焉と共に番組も終了したが、最終回でたけしは客に対し「何でもゲラゲラ笑いやがって! 本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と語った(なお、フジテレビからオファーのあった後番組の司会をたけしは断り、代わりに『森田一義アワー 笑っていいとも!』が開始された)。

1982年の夏にはブームは完全に終息し、たけしは「ツービートのたけし」としてではなく「タレント・ビートたけし」として、この頃以降は、単独で司会をする番組を多く持つようになるなどしていった。

漫才ブーム以後

漫才ブームを生き残ったたけしは、自身のスタイルを大きく転換させる。毒舌家というパブリックイメージはそのままに、ネタに依存する消耗度の高い喋りを捨て、パーソナリティを軸とした芸風に移行していく。

1981年元旦からニッポン放送NRN系のラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』、同年5月からフジテレビ系の『オレたちひょうきん族』がそれぞれ開始される。

1982年から1984年にかけて、番組出演中に弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為「ボーヤ」と呼ばれる)が押しかけ、相当の数が集まった事(たけし軍団)から、集団で行うバラエティを模索。日本テレビ『スーパージョッキー』、TBS『笑ってポン!』等が始まった。また、博識が評価されて、毎日放送『世界まるごとHOWマッチ』等で文化人的な出演要請も増えた。

  • スーパージョッキー(日本テレビ)
  • 天才・たけしの元気が出るテレビ!!(日本テレビ)
  • ビートたけしのスポーツ大将(テレビ朝日
  • 痛快なりゆき番組 風雲!たけし城 (TBS)
  • OH!たけし(日本テレビ)
  • 世界まるごとHOWマッチ(毎日放送
  • オレたちひょうきん族(フジテレビ)
  • オールナイトニッポン(ニッポン放送)

上記は、1985年当時のレギュラー番組すべてであるが、このうち日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビの20時台番組ですべて最高視聴率をマークした。なお、『たけし城』『元気』『スポーツ大将』は、全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。

その他、放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、ファミリーコンピュータのゲーム企画も行った。この頃より、タモリ・明石家さんまと共に、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。

1986年12月、たけし軍団の一部の軍団員とともに講談社フライデー誌の編集部を襲撃、住居侵入・器物損壊・暴行の容疑で警察に現行犯逮捕される。この事件によって写真週刊誌の行き過ぎた取材が問題視され当時の官房長官がコメントを出すなど社会現象になった。

1994年8月、バイクによる自損事故を起こし重傷を負う。(詳細は後述)

漫才を披露する事はほとんどなくなったが、かつてはTVでは島田洋七との「B & Beat」で、稀に弟子のライブに飛び入りで相方ビートきよしとの「ツービート」として、漫才を披露することがある[16]

2014年10月27日、約30年ぶりとなる単独ライブを渋谷のCBGKシブゲキ!!にて開催。ライブのタイトルは「たけしが毎週ニュースキャスターの楽屋で、朝ズバッ!なんかで使ったパネルを勝手に拝借して、イタズラ書きをしてはニュースキャスター後のS1TBSに来ていた、爆笑問題田中の楽屋にそっと置いていたパネルが溜まったのでテレビでお披露目しようとしたら、何処の局からも相手されなくて、仕方なくLIVEでお披露目することになった、たけし的スライドショーなLIVE」[17]。約200席のプレミアライブは約1分で即完売となった[18]

人物

浅草公会堂の手形

特徴

ビートたけしは自らを「俺」「僕」「オイラ」と呼び、それぞれ場の雰囲気に合わせ使い分けている。「オイラ」は下町・職人言葉の位置づけで、自身が育った島根町が職人街だったことと関連するとしている。かつて足立区の広報誌から受けたインタビューでは、「足立は東京の下町だね。その足立の下町が島根だというの。島根は下町の中の下町。足立の中の足立だって思うんだよね」とコメントした。

たけしのものまねをする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作(しかし、たけし本人は1990年代以降はあまり見せなくなっている)は癖ではなく、ツービート時代に「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ、稽古中に頭から落下してしまい頸椎を負傷、以後しばらくの年月に渡り首に違和感があったためと『週刊ポスト』の連載コラムで述べている。

たけしが司会のバラエティ番組などにおいて、他の出演者(主に女優や子供タレント、たけしより先輩のタレント等)がくだらないことを言ったり、話が噛み合わなかったりなどちょっとしたミスをするとたけしの近くにいるタレント(例:「世界まる見え!テレビ特捜部」の所ジョージ)やたけし軍団などの後輩芸人をたけしがピコピコハンマーハリセンメガホンで叩いて笑いに変えることがある(例:たけし「あいつを何とかしろ!ピコッ!」)。これは、たけしが過去に出演した映画「戦場のメリークリスマス」において、監督の大島渚が、たけしがNGを出した場合、本業が俳優でないたけしへの配慮として助監督が代わりに叱られるというものから来ている(詳しくは戦場のメリークリスマスの『エピソード』欄を参照)。このたけしのやり方によって、普段はなかなかツッコめない女優や先輩タレント相手または、ロケなどでちょっと離れた場所にいるタレントにも(間接的ではあるが)結果的にツッコむことができるので、このツッコミをマネする芸人もいる。

また番組冒頭で「というわけで(ございましてですね)…」という台詞と同時に司会を始めるたけしのスタイルは、元々は他の出演者に「どういうわけだよ!」とツッコミを貰うためのボケにすぎなかったが、バラエティ番組などで当たり前のように常用されている。

芸名(愛称)

愛称は「たけし」、多くの芸能人からは「たけしさん」と呼ばれるが、タモリや和田アキ子からは「たけちゃん」、たけし軍団やたけしを慕っている後輩芸人からは「殿」と呼ばれており[19]、所ジョージからは「北野さん」や「おじさん」「おいさん」と呼ばれ、明石家さんまからはたまに「おっさん」「ビート」「タケ[注 8]と呼ばれる。笑福亭鶴瓶からは「兄さん」とも呼ばれている。

主なキャラクター

※詳細は各項を参照。

親族

  • 父・菊次郎の叔母で実質の祖母[注 9]である北野うし(1873年9月、徳島県徳島市通町生れ[20])は、明治時代に娘義太夫(女義太夫)の花形であった[21]
  • 明治大学名誉教授・秋草学園短期大学学長・工学博士でタレントでもある北野大は兄。
  • 元漫才師の北野幹子と結婚していたが、2019年6月に協議離婚[22]。2020年、たけしのマネジメント業務を行う女性と再婚した[23]
  • CMプランナーの北野篤は長男、歌手・女優の北野井子は長女。愛犬はシェパードの雌の「ミケ」、柴犬の雄の「ゴン」。「ゴン」の名は、たけしが2018年4月以降所属する事務所「T.Nゴン」の社名に使用されている[24][25]

友人関係

  • B&Bの島田洋七とは、漫才ブームが始まる数年前に出会って以来の親友。洋七とは、横山やすしに紹介されたのがきっかけである。洋七とは、「やすしと洋七とたけしが食事にいって、やすしが2人を置いてけぼりにし、2人は夜通し東京までの道のりを歩いて帰った」、「たけしがフライデー事件で謹慎していた際に、洋七と毎日のようにゴルフをしていた」などいくつかのエピソードがある。洋七が芸能界を引退しようとした話を聞いたたけしは、「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と洋七を一喝した。洋七は一度は解雇された吉本に頭を下げて復帰を許され、生涯一漫才師を誓い、島田洋八と再びB&Bを復活させ、こつこつと仕事をこなすようになり、その後、「佐賀のがばいばあちゃん」シリーズなどで、再び人気が出るようになった。
    • 一方で洋七の弟弟子である島田紳助との交友は少なく、「漫才ブームの時ぐらいしか知らない」と述べている[26]
  • 所ジョージと非常に仲が良く、毎週日曜日に所の遊び場兼事務所である「世田谷ベース」へ遊びに行く。料理が得意な夫人の手料理を肴に、趣味の話などを酒とともに酌み交わすことが楽しみの一つとなっている。
  • たけし・逸見の平成教育委員会などで共演した逸見政孝とも親交が深く、その後の逸見家との交流も深い。逸見は「ひょうきん族」で共演したり、「オールナイトニッポン」で逸見のことを話題にするなど、関係があった。「平成教育委員会」で共演したのを契機にに交友を深めていく。お笑いBIG3シリーズにおける活躍はもちろん、数学を得意としたたけしと国語・社会は得意であったが数学を苦手としていた逸見、巨人ファンのたけしと阪神ファンの逸見といったように対照的であるがゆえに、お互いにないものを補い合えると認めあう仲だった。逸見からガンの再発で再入院する事実を告げられたたけしは、その日から告別式の日まで酒を断ったという。
  • 横山やすしを大変尊敬し、葬儀の時には駆けつけた時には、「雲の上にいるような人だった。やすしさんには芸も色気も敵わない。もう少し漫才を続けてほしかった」とコメントし、やすしの全盛期を懐かしむなど、親交があった。
    • この縁から、やすしの最後の弟子である横山ひとしが、一時期オフィス北野に所属したことがあった。

エピソード

芸人として同じ浅草界隈で育った先輩芸人で、漫才ブーム当時などすでにお笑い界のトップに君臨していた萩本欽一に対し、批判的な意見を述べていた。コント55号の毒のある笑いは好きだったが、萩本が1人で司会をするようになってからのアットホームな笑いやザ・ドリフターズの子供向けの笑いに自身の目指すお笑いと今後のテレビ界に危機感を感じたため、「萩本欽一といかりや長介を引きずり下ろしたかった、この2人の牙城を崩さない限り、ひょうきん族はありえないと思った。」と語っている[31]。萩本やザ・ドリフターズと入れ替わるようにたけし自身がお笑い界のトップに君臨することとなる。萩本とたけしのテレビでの共演は未だに実現していない。1985年までのお笑いBIG3は萩本、タモリ、たけしであったものの、この3人を前面に出した番組はなかった。

トーク番組の最終回に、スペシャルゲストとして招かれることも多い(『たかじんnoばぁ〜』(1996年7月13日放送)、『すてきな出逢い いい朝8時』(2001年9月29日放送)、『クメピポ!絶対あいたい1001人』(2009年7月29日放送)、『笑っていいとも!』「テレフォンショッキング」(2014年3月31日放送[32][33] ※レギュラー放送分)等)。

大阪市にある放送局のローカル番組にも時折出演することがある。特にたけしのレギュラー番組を多数制作している朝日放送に関して縁が深く、『探偵!ナイトスクープ』『ナンバ壱番館』などにもゲスト出演している。また、関西テレビや讀賣テレビに関してはやしきたかじんとの親交もあり、たかじんの番組にゲスト出演している。一方で、毎日放送に関してはイースト・エンタテインメント制作の日本全国ネット番組に限定され、ローカル番組では出演がない。また、関西・関東いずれにおいても独立局への出演は全くと言っていいほどなく、極めて珍しい例として2015年5月22日放送の『バラいろダンディ』(TOKYO MX)にゲスト出演したことがある[34]

2009年10月3日放送分のTBS『オールスター感謝祭』で総合司会の島田紳助が「番組開始前に自身の楽屋に挨拶に来なかった」として解答者の東京03に激怒したとされる件に関し、同年10月27日付けの東京スポーツに「紳助が『あいさつがない』とかって若手の東京03ってのを怒ったものだから、出番前にタレントがいちいちオレんとこにあいさつに来て、うるさくってしょうがないよ」とのコメントを発した[35]

林家三平の襲名披露興行で披露して以来、林家三平と国分佐智子の結婚式や『とんねるずのみなさんのおかげでした』内で行われた飯尾和樹」(ずん)の披露宴、『森田一義アワー 笑っていいとも!』のテレフォンショッキング最終回等で表彰状ネタ(その人物等への表彰状を読む体裁で随所にブラックジョークなどを盛り込んで話すスタイル)をしばしば行っている[36]

所ジョージとは親友である一方で、たけしは所の生活スタイルに嫉妬していると告白している。2015年12月29日に放送された『一流が嫉妬したスゴい人』で、「所の生活スタイルは、発想が違っていて、俺には真似できない。俺は所から仕事以外の楽しみ方というものをすべて教わった」と話している[37]。また、同番組でたけしは、過去に甲本ヒロトにも嫉妬したことがあったと告白している。「俺、もしかするとお笑いじゃなくて、こういう感じの音楽をやりたかったんじゃないかなって気付かされて、嫉妬したね」と話し、甲本の歌については「悲しいのよ。不良をやろうとして不良になれない子のパンクって感じがしてね。歌での表現でしか不良をできないのかな、と感じたんだよね。よく考えるとパンクではなくて演歌なんだよね。でも感じがパンクなんだよね。こういう歌を10代とかに聴いていたら涙したんだろうなあ」と評している[37]

カラオケが好きであり、付き人のシェパード太郎によるとテンションが高い時は付き人に「エロいの歌ってくれ」とサザンオールスターズの楽曲をリクエストし、逆にテンションが低い時はTHE BLUE HEARTSの楽曲などをリクエストするという[38]

長く活躍したこともあり、知名度は高い。2020年7月22日に放送された『水曜日のダウンタウン』の「古今東西 日本人知名度ランキング」[39]では、第5位(94.2%)にランクインした[40]

事件・事故

フライデー襲撃事件

1986年12月9日、たけし軍団の一部メンバー11人を連れて講談社に行き、フライデー襲撃事件を起こし逮捕。翌1987年6月10日に懲役6か月、執行猶予2年の判決が出された(東京地裁、確定)。当時のレギュラー番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』『スーパージョッキー』への出演については、執行猶予判決が確定するまでの約8か月間謹慎することとなった。なお、当時たけしと交際していたといわれた女性への暴行で告訴された記者は、罰金10万円の判決を受けた。

1987年、映画監督・深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都府において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と語った。

バイク事故

1994年8月2日午前1時40分、原付バイクで東京都新宿区の安鎮坂付近を走行中に自損事故を起こし頭部に重傷を負った。事故後は東京医科大学病院に救急搬送されて一命を取り留めたものの[41]、長期の入院などにより約半年間に渡ってテレビ出演が出来なくなった。また、事故は酒気帯び運転によるものだったために書類送検され、起訴猶予処分を受けた。

退院時に会見を行ったが、この時点ではまだ顔面が麻痺しており大きく変形した状態であったため、大変な反響を呼んだ。本人は「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにしますから」と、自らの怪我をネタにした。退院後もリハビリを続け麻痺はある程度回復したが、一部は回復せず残ることとなった。

翌年3月4日の『平成教育委員会』でテレビ復帰し[注 10]、その後レギュラー番組にも復帰した。

この事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に、事故前の1993年に亡くなった親友の逸見政孝が出てきたとのこと。たけしは「あれは、『まだ俺は死んじゃいけない。』って逸見さんが言いに来てくれたんじゃないかな」と、退院後のインタビューで答えた。

入院中に面識のない原節子から数珠を贈られ、これを常に身に着けていたが[注 11]、退院後しばらくして突如壊れて散らばった。たけしは拾い集めようとしたが、「これは病気が良くなった証拠だ」と思い直し、再び着けることはなかった。

なお、このバイク事故の第一発見者は、「光GENJI」の諸星和己だったことをたけしが話していたとして、現在の付き人のシェパード太郎が記している[42]

この事故により缶コーヒー「ジョージア」のテレビ広告への出演が決定しスケジュールも出ていたが、撮影中止となった[43]

なお、2016年秋に自身が出演した日清カップヌードルの広告にて、たけしがガムテープで補修だらけの原付バイクに乗るという1994年の事故を連想させるシーンが存在し、その広告の最後には「守ろう、交通ルール!」というセリフを発している[44]

価値観

上皇・上皇后

明仁(上皇)と美智子(上皇后)に対しては畏敬の念を述べている。

ビートたけしが明仁を「すごい存在」と初めて思ったきっかけとして、中学生時代に母親に連れられて皇太子妃時代の美智子を送りに軽井沢に行ったことを竹田恒泰と対談した際に明かしており、「強制されて行った感じはなかった」と述べている。天皇について「信仰に近いというか、神にかなり似た存在」と形容しており、「日本の歴史を振り返ると天皇は『はなからいる』存在」とも述べている。2009年に宮中茶会に招待されており、明仁と美智子がたけしの映画を見ていた事を語ったり体調を尋ねるなどされ、緊張した事を明かしている[45]

過去にたけし自身に紫綬褒章受章の打診が来たが、断ったエピソードを明かしており、理由は本人曰く自身に逮捕歴・前科があることや授賞式に配偶者が出席しなければいけないという決まりがあったからであるといい、「本当はもらいたかったけど、俺はもらうような立場ではないとお断りを入れた」とも述べている[46]。この辞退についてたけしの弟子の東国原英夫は紫綬褒章に賞金が無い事を理由にしていたとギャグとして述べたが、2016年10月21日に、天皇夫妻の公務を増やしたくなかった事が受章辞退の本当の理由と明かした[47]

2019年4月10日に国立劇場で行われた、明仁の天皇在位30周年を祝賀する「感謝の集い」では、映画監督・北野武として登壇し、ギャグを挟みながら祝辞を述べた[48]

社会風刺

ツービート時代からの漫才はもとより、『週刊ポスト』連載の「毒針巷談」(その後「世紀末毒談」を経て「21世紀毒談」)や『新潮45』連載、東京スポーツ連載『ビートたけし本紙客員編集長の世相メッタ斬り』、テレビ番組『ビートたけしのTVタックル』などで世相を風刺する発言も多く行っており、それが話題となることもある。例えば、1990年代に「『北野党』を立ち上げる」と冗談で発言したことが大きく取り上げられたこともあった。

別の一例としては、1992年に『新潮45』の連載にて「『地球にやさしく』なんかできない」のタイトルで、「地球に優しくしたいなら人間殺さないといけない」と、当時の政財界やマスコミによる「エコロジーブーム」の欺瞞性および浅薄さを皮肉った[49]。この「『地球にやさしく』- 」は、同年6月18日付けの朝日新聞に「ビートたけしと地球環境」と題した、環境問題への無関心を戒める社説が掲載されるなど反響を呼んだ。なお、この文章は1996年の山形大学教育学部の入学試験の小論文試験の出題にも使用された。

原子力発電については「原子力発電を批判するような人たちは、すぐに『もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ』とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。でも、新しい技術に対しては『危険だ』と叫ぶ、オオカミ少年の方がマスコミ的にはウケがいい」[50]「東京湾に原発を作れ」と称賛とも皮肉ともとれる発言をしている[51][52]

北朝鮮による日本人拉致問題をテーマにした映画を作りたい」と2008年7月21日放送分「TVタックル」2時間スペシャルの収録で発言したが、その場面がすべてカットされたことが「週刊文春」2008年7月24日号で報じられたことがある。

ニッポン放送『オールナイトニッポン』にて、日本テレビから同局が「チャリティー番組」として放送し、募金活動も行っている『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』への出演オファーを受けたが、拒否したことを明かしている。さらに、「ヨダレ垂らした芸能人どもがめちゃくちゃ高いギャラ稼ぐくせに、これ以上貧乏人から金巻きあげんな。チャリティーっていうくらいならお前ら全員ノーギャラで出ろよ!」と発言し、偽善番組とも述べている。

『情報7daysニュースキャスター』で、当時のアメリカ合衆国大統領バラク・オバマが同性婚を支持する事を表明したニュースを取り上げた際に「同性婚が認められたら、そのうち動物との結婚も認められるようになったりね」「結婚した男2人が子ども育てるっていうけど、その子どもはどういう風になっていくんでしょうね。お前のお母さんはお父さん?とか言われんじゃないの」とギャグとして発言し、すぐさま渡辺えりから「どうしてそういうこと言うんですか」と反論されたことがある[53]

ただし、たけし本人はこういった発言があまりにも大きく取り上げられたり、反応されたりすることに対し、「芸人の言っていることを一々真面目に取り上げるな」などと述べている。また、芸能ネタを語る事もあるが、話している事の中にはたけしの創作も含まれていることが著書で語られており、「嘘の情報源は俺」とも述べている[54]

タップダンス・ピアノ・音楽

漫才ブームが過ぎ、次代に生き残るための材料を思索していた時期、たけしはテレビの更なるバラエティショー化が進むと予想し、「タップとピアノ位はやれないとみっともねえだろ」と考え[55]、たけし軍団でもタップ・楽器・太神楽ジャグリング)が必修科目となった。その中で、太神楽は海老一染之助・染太郎を師匠として学んだが、染之助の技は花柳流名取であったことに由来すると知り、日本舞踊も習うようになった。タップダンスに対する思い入れは深く、毎日練習を欠かさず行なう。映画『座頭市』の撮影では踊るシーンが無いのにも関わらず練習をしていた。海外に渡航する際ですらタップシューズを持参するとのこと。最近では2013年にポカリスエットの広告や2019年の『FNS27時間テレビ』でタップダンスを披露している。

ピアノを弾くのはバイエルツェルニー、そしてソナチネまでで、それ以上の域に到達する必要はないと言う。これは、さらに上を目指すのは本末転倒で、タップもピアノも「真剣にやろうと思えばやれる」ところまで到達し、それ以降はいかにアレンジして見せるかを考えるのが芸人の仕事だとする、彼の考えに由来する。

オフィス北野の社長だった森昌行の証言によると、技巧的なものよりシンプルな物を好みレコーディングでも何度もやり直すのも苦手で、譜面どおりにやる事よりも自分が気持ちよいと思わなければOKを出さないとの事で、ロックで言えばビートルズよりもストーンズのような物を好んでいる[56]。また、ヘヴィメタルのような音楽は好んでおらず[57]、過去にLOUDNESS高崎晃[注 12]がたけし側に曲を依頼されてデモテープを製作したが[58]最終的に使われることが無かった。

ミュージシャンとしてのサザンオールスターズの桑田佳祐を「大した天才だと思う」と述べており[59]、カラオケのレパートリーとして「真夏の果実」「マンピーのG★SPOT」「SEA SIDE WOMAN BLUES」を挙げている。ただし、桑田が監督を務めた映画『稲村ジェーン[60]2014年の年越しライブでの紫綬褒章に関連するトラブル[46]に関しては批判的な発言を述べていた。また、桑田も芸人としてのたけしを認めている[61]

ファッション

漫才ブームの頃は、三宅一生の服を愛用していた[62]。しかし三宅から「服を着ないでくれ」と言われたことを漫才のネタにして[62]、三宅のとこに電話して「着るぞ。ガタガタいうと買うぞ」と脅かしてやった、などとテレビで話し有名になった[62]。実際に三宅の事務所の広報担当からたけしに直接電話があり[62]、「たけしさん、本人はあんまりいい顔していませんよ。なるべく着ないでください。イメージくずれるから」と言われたと1982年の週刊誌のインタビューで話している[62]

数学

「幼少時代」にもあるように教育熱心だった母親は、日本が高度経済成長期であったことを踏まえ「算数を勉強しておけば将来働き口に困らないだろう」という考えから、たけしが子供の頃から算数などの理数系に力を入れて勉強するきっかけとなった[63]。 理系学部出身であったことからも分かるように、数学に対する造詣は深く、「もし道を間違えなかったら、数学の研究者になりたかった」とも語った。1980年代の民放番組の司会進行中に、「自分は漫才師になったので今がある、物理学の道に進んでいたら、もう既にノーベル賞を取っている」と真剣な面持ちで話し、編集されなかったこともあった。数学好きが高じ『たけしのコマネチ大学数学科』をスタートさせ、その才能を発揮させている。

ここがヘンだよ日本人』では、「数学というものは哲学であって、全ての事象は数学に支配されており数学で説明できる」と発言している。『たけし・逸見の平成教育委員会』では「数学は答えさえ合っていれば良い」という独自の考えで、正解ながらも解の論拠が間違っている生徒を優秀生徒に選出した事がある。

スポーツ

野球をこよなく好む。幼少の頃からプロ野球のチーム「読売ジャイアンツ」のファンで、特に長嶋茂雄を敬愛している。草野球チーム(「たけし軍団」)では、投手を務めることもある。野球をする時のたけしは真剣であり、川崎球場での番組収録中、グラウンドに男性アイドルが登場したため女性ファンの歓声により、試合どころではなくなってしまった。その際に誰よりも早く「ここはグラウンドで野球をやってるんだぞ!コンサートじゃねえんだ!」とスタッフを一喝した。現在では、日本のプロ野球よりもメジャーリーグへの関心が高い。

神宮外苑の軟式球場が一種のホームグラウンドで、最盛期は年間70試合近くも行い、1991年の阪神タイガース・ファン感謝デーならびに1992年の千葉ロッテマリーンズ・ファン感謝デーで、軟式ルールながら阪神・ロッテに勝利した。作家・伊集院静が連載していたエッセイ『二日酔い主義』の中には、たけしと一緒にプレーをした記憶に触れる回が幾つかあり、『たけしのグローブ』(伊集院静『あの子のカーネーション』文藝春秋、1989年)では、たけしの使い込まれたグローブに強かな野球少年の面影を重ねて描かれていた。

格闘技では、自身もジムに通った経験を持つボクシングを好み、映画『キッズ・リターン』を作った。映画の中で人を殴るシーンや『座頭市』における逆手斬りのフォームには影響が垣間見える。浅草時代を知る石倉三郎は、「タケちゃんのケンカはボクシングスタイルで結構パンチも早かった」と述べている。なお、たけし自身は1963年の高山一夫勝又行雄戦、1971年の金沢和良ルーベン・オリバレス戦をベストマッチに挙げている。その一方で、1987年のたけしプロレス軍団にまつわる騒動において苦い経験もした。また、空手で骨折し、拳の一部が変形している。

キム・ヨナの指先の微妙な動きと豊かな表情[64]を高く買っており、「役者として演技力がうまいな。技術は真央ちゃんと変わらないし、ジャンプは難しいことやっていないのに、演技力が圧倒的だった」「真央ちゃんは芝居を勉強したらいいよ」と述べている[65]

浅田真央に対しても『情報7days ニュースキャスター』2014年2月22日放送分で「真央ちゃん(の演技)良かったね、いいんだよ、どうせあんな採点なんてインチキなんだから」と冗談交じりで述べ「真央ちゃんみたいなのはね、メダルとれなくたってね、感動があるんだよ。だからいいんだよ」と評価している。

他にもサッカーに詳しく、Jリーグ開始以前の国内・海外選手に特に詳しい。また、相撲にも造詣が深く、自身がメインキャスターを務める『情報7days ニュースキャスター』の番組内で、その博識ぶりを発揮している。

一方で、鉄棒の逆上がりや跳び箱といった器械体操の類は不得意であり、後にたけしの出演番組内でもネタにされ、『たけしの跳び箱オリンピック』と題した苦手克服企画が、1988年の年末に放送された。

オリンピックを愛する男であり、日刊スポーツの「東京五輪・パラリンピック特集」では会場、費用負担、新競技など問題点ばかりが目立ってしまった特集掲載期間中、五輪を愛するたけしはあえて「オリンピックは末期状態」と厳しい言葉で活を入れた。オリンピックの商業主義も批判しており、「アジェンダ2020」を採択する一方で高い理想、高価な施設、高級感のある大会運営を強いていることに関して「利権を持つ欧州貴族がうまいことやって、金をもうける手段になってる」と一刀両断。東京大会でスケートボード、サーフィンなどを新種目としたことにも違和感を覚えている。2024年大会の立候補地にパリとロサンゼルスしか名乗りを上げなかったことに関しては異例の事態に「やりたい所なくなるよ」と言い「元来ギリシャの五輪なんだから、毎回ギリシャでやればいい。会場も毎回造らなくていいし、聖火も運ばなくていい」と皮肉った[66]

映画監督「北野武」

『HANA-BI』が第54回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞
第53回カンヌ国際映画祭(2000年度)にて

たけしは幼少期ほとんど映画を見たことがなく、黒澤明との対談では『力道山物語』『二等兵物語』『鉄道員 (1956年の映画)』しか見たことがないと話している。また黒澤はたけしの映画作品を(作中に)余計なものがないから好きだと評価している。

監督としての経歴

『その男、凶暴につき』(1989年)は、監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化を予定し、配給の松竹は両者の間で交渉を進めたが、スケジュールや条件で合致せず、深作が辞退した。そこで松竹は人物的魅力と話題性から、たけし(以下、映画の項目では映画監督での活動名(本名)での「北野」で表記)に監督を依頼したところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用された。[67]映画監督・北野武としてのデビュー作『その男、凶暴につき』は、1989年に予定通り公開された。この時のことを後年関根潤三の著書の推薦文で「(映画監督について)あんなに大変な仕事はあるのかと思った。」と述べている。

その後、1990年に公開された監督2作目となる『3-4X10月』からは脚本も兼任し、映画監督としての本格的な活動を開始する。興行的成功は中々出なかったが、黒澤明淀川長治蓮實重彦といった日本映画の重鎮からは作風を高く評価される。また、1993年の『ソナチネ』ではカンヌ国際映画祭「ある視点」部門ロンドン映画祭に招待され、海外でも高い評価を獲得する。

1996年には『キッズ・リターン』を発表。バイク事故からの復活を印象付け、カンヌ国際映画祭監督週間部門にも招待される。

1997年、映画『HANA-BI』が、第54回ヴェネツィア国際映画祭で日本作品として40年ぶりとなる金獅子賞を受賞した。発表直後、北野は「異分野出身者でも大きな賞を取れると示すことができ、これから映画を目指す者に刺激になったと思う」と語った。授賞式では「今度またイタリアと組んでどこか攻めよう」「Let's try again with Italia and go to some country to war」と日英両語でスピーチ[68]。帰国時の記者会見で、現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して、笑いをとった。

第52回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式参加した映画『菊次郎の夏』で、約5分間のスタンディングオベーションを受けた。

2003年には『座頭市』が第60回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門に出品され、監督賞にあたる銀獅子賞を受賞。トロント国際映画祭でも最高賞にあたる観客賞を受賞し、北野映画としては異例の国内外でのヒットを記録した。

2005年4月、フランスの『カイエ・デュ・シネマ』創刊600号記念号の特別編集長を務める。カイエ・デュ・シネマは300号から100号毎に映画人を編集長に招いて記念号を発行しており、過去に記念号の編集長を務めた映画監督は、ジャン=リュック・ゴダール[注 13](300号)、ヴィム・ヴェンダース(400号)、マーチン・スコセッシ(500号)などがいる。

2005年4月、東京芸術大学で新設された大学院映像研究科の特別教授および映画専攻長に就任(〜2008年。なお、監督領域の教授は北野と黒沢清の2名)。北野大も淑徳大学教授であったので、兄弟で教授となった。

2007年5月、カンヌ国際映画祭60周年特別記念企画「To Each His Own Cinema」(それぞれのシネマ)に世界5大陸25ヶ国から選出された35名の著名な映画監督の中で唯一の日本人として名を連ねた。

2007年8月、第64回ヴェネツィア国際映画祭にて、北野の映画監督作『監督・ばんざい!』に基づき「監督・ばんざい!賞」が新設され、表彰式に出席した。

2008年6月19日、第30回モスクワ国際映画祭で「特別功労賞」 (Life-time Achievement Award) を受賞。2003年の新藤兼人に次ぐ2人目の日本人受賞者となった。20日の会見では「ロシアの人は自分(北野)を過大評価している」「数々の芸術家が出ているロシアで表彰されるのは恥ずかしい」と語った。

2010年3月9日、フランス芸術文化勲章の一つであるコマンドゥール章を受章。13日の帰国会見では勲章の披露の前に、自身が作った「バンクーバー」と書かれた金メダルを出すボケを行い、笑いをとった。

2011年秋公開予定だった『アウトレイジ2』について「宮城県」でクランクインの準備をしていたら「東日本大震災」に遭遇しロケが取り止めとなり「6000万円以上損害が出た」と語っている[69]。なお『アウトレイジ2』は、舞台を神戸市に移して『アウトレイジ ビヨンド』として、2012年10月6日に公開。

2016年、アカデミー賞を主催する米映画芸術科学アカデミーよりライター部門での会員候補に選定された。

撮影に関するエピソード

大森南朋はたけしについて「説明が無いまま始まる恐怖がいつもあります」と話している。『アウトレイジ 最終章』の撮影中、大森は撮影当日現場でマシンガンに刺さっているのを知ったので「そういうことなのか」と思い、たけしがいない間に傘越しに撃つ練習をした。ところが、そのエピソードを聞いていたたけしは「おいらは漫才出身だからね」と涼しい顔をしおり、さらに「だから、テストを重ねた方が役者に芝居が入っていくという道理がわからない。それに漫才は一発目が勝負で、やればやるほどネタを知っている客は笑わなくなるから、北野組でもその新鮮さを求めるやり方を踏襲して、特に指示も出さずにいきなり『どうぞ(やってください)』って言うんですよ(笑)」と笑った。大杉漣はその緊張感あるたけし映画の撮影現場で貧血を起こして倒れたことがある[70]

北野映画の特徴

北野映画の特徴として以下のようなものが挙げられている[71]

  • 青を基調とした映像「キタノブルー」。
  • 自身が俳優として出演し、脚本も手がけていることが多い。
  • 歩くシーンが多い。
  • セリフが少ない(逆に言えば必要最低限のセリフで映画を成立させている)。
  • 四コマ漫画の連続性。
  • 瞬発的殺戮・秒殺・加減のない暴力描写のリアリズム。観客が想像する前に事が行われる恐怖。
  • 多くの映画パロディー
  • 北野の口癖である「馬鹿野郎」もしくは「この野郎」というセリフが、映画内で多用されている。
  • 緊張の中に突如織り込まれるギャグ

自らの映画作品に暴力団が登場することについては「暴力団を賛美した表現をしたことはなく、拳銃を使った人間は幸せになれないようなシナリオにしている」と述べている[72]

キタノブルー

「キタノ映画」のビジュアル面での特徴として、画面全体のトーン、小道具の色などに青が頻繁に使われるというものがあり、気品があるとして「キタノブルー」と呼ばれる[73]。特に『ソナチネ』など中盤までの作品において顕著で、ヨーロッパで高い評価を得た。突然の雨により画面が青一色になったのがきっかけとされる。極力余計な色を使用しないようにしていたことから、以降青を意識するようになったという[74][注 14]ただし『Dolls』からはキタノブルーの傾向は薄れている。

また、このキタノブルーにはジャン・ポール・ベルモンド主演の『いぬ』にアラン・ドロン主演の『サムライ』や『仁義』、リノ・ヴァンチュラ主演の『ギャング』『影の軍隊』などで知られるフランス映画の巨匠ジャン=ピエール・メルヴィルの影響を強く受けており、とりわけ『サムライ』以降の「メルヴィル・ブルー」が強い後期の作品の影響が濃い。「メルヴィル・ブルー」以外にも歩くシーンが多いやセリフが少ない、唐突に訪れるリアルな暴力や死、省略演出の多用もメルヴィルからの影響を強く受けており[75][76]、自著でも特に『サムライ』を絶賛している[77]

メルヴィル作品『ギャング』のリメイク版である、『マルセイユの決着』が2008年に日本で公開された際のプレスシートにはたけしによるメルヴィルを絶賛する旨のコメントが掲載された。

2016年10月にフランスでレジオン・ドヌール勲章の授与式が行われた際に「オフィシエ」を授与し同授与式に参加した、たけしは同授与式で『サムライ』の主演のアラン・ドロンの息子のアンソニー・ドロンと会った[78]

映画観

「究極の映画とは、10枚の写真だけで構成される映画であり、回ってるフィルムをピタッと止めたときに、2時間の映画の中の何十万というコマの中の任意の1コマが美しいのが理想だと思う。例えば女性のヌードを撮影するってのも、ただ裸の女が出てるだけではなく、ストーリーの中で女が脱いでいくというものであり、グラビアは映画の原型みたいなものだと思う」と語っている[79]。また、「たった1枚の絵画だけで20分も30分もその場に人を釘付けにできるのだとしたら、映画も少ないカットでそういう事ができるのを感覚的に目標にしている」と語っている[80]

自らが俳優として数々の作品に出演する際の姿勢として、撮影方針に口出ししないようにしているため、監督を務める際にも撮影方針に意見をする俳優は嫌いだと発言している[81]。また、有名俳優でも撮影後気に入らないと出演シーンを編集でカットすることもある一方で、大杉漣や寺島進など北野作品に多く出演したことで名前が知られた俳優もいる。

映画音楽は『Dolls』まで、久石譲が長期にわたって担当していたが、その後は梶浦由記鈴木慶一を起用している。水道橋博士によると、久石の起用を止めたのは、映画そのものではなく、音楽が評価されてしまったからだと語っている[82]

お笑いタレントと映画監督

フランスと日本の文化観の違いとして「芸人という立場が映画監督としては悪影響を及ぼす、なんて気はなくて、フランス人の見方は、もっと才能があるんだっていう。この人はまだいろんなことがやれるんだって感じがあって。だからギャング映画撮っても問題ないし、バカバカしいことをやってもそれはそれとして見てくれる。映画は映画、バラエティはバラエティって分けてくれるんで、ありがたい。気が楽になった」とコメントしている。

「日本は漫才師が映画撮った、みたいな雰囲気があって、松本人志が映画撮ると、“かつて映画を撮ったお笑い人”の中に必ず俺が入っている」と、異業種の人間に対する偏見が強い日本の見方には苦言を呈している[83]。また、海外メディアが(監督・北野武としての)彼にインタビュー取材を行った際に、彼が映画製作に使う専用のオフィスへ海外メディアクルーを招き、オフィス内部の紹介やインタビューに応じる姿があった。なお、日本のメディアに対してはオフィスは基本的に非公開であったが、世界各国のメディアによるドキュメンタリーを扱った日本のテレビ番組で放送された際に、初めて明かされている。

北野武が選ぶ好きな映画10本

  1. 天井桟敷の人々 Children of Paradise(1945年、監督:マルセル・カルネ
  2. 2001年宇宙の旅 2001:A Space Odyssey(1968年、監督:スタンリー・キューブリック
  3. 時計じかけのオレンジ A Clockwork Orange(1971年、監督:スタンリー・キューブリック)
  4. 七人の侍(1954年、監督:黒澤明)
  5. L.A.大捜査線/狼たちの街 To Live and Die in L.A.(1985年、監督:ウィリアム・フリードキン
  6. ワイルド・アット・ハート Wild at Heart(1990年、監督:デヴィッド・リンチ
  7. ガルシアの首 Bring Me the Head of Alfredo Garcia(1974年、監督:サム・ペキンパー
  8. ダークマン Darkman(1990年、監督:サム・ライミ
  9. 狂い咲きサンダーロード(1980年、監督:石井聰亙
  10. 鉄道員 The Railroad Man(1956年、監督:ピエトロ・ジェルミ

監督作品

映画(太文字はたけしが出演している作品)
  • その男、凶暴につき(1989年) - 我妻諒介 役
  • 3-4X10月(さんたいよんえっくすじゅうがつ)(1990年) - 上原 役 ※兼脚本
  • あの夏、いちばん静かな海。(1991年) ※兼脚本、編集
  • ソナチネ(1993年) - 村川 役 ※兼脚本、編集
  • みんな〜やってるか!(1995年) - 透明人間推進協会博士 役 ※兼脚本
  • キッズ・リターン(1996年) ※兼脚本、編集
  • HANA-BI(1998年) - 西佳敬 役 ※兼脚本、編集、挿入画
  • 菊次郎の夏(1999年) - 菊次郎 役 ※兼脚本、編集
  • BROTHER(2001年) - 山本 役 ※兼脚本、編集
  • Dolls(2002年) ※兼脚本、編集
  • 座頭市(2003年) - 座頭市 役 ※兼脚本、編集
  • TAKESHIS'(2005年) - ビートたけし/北野武 役 ※兼脚本、編集
  • 監督・ばんざい!(2007年) - キタノ・タケシ監督 役 ※兼脚本、編集
  • アキレスと亀(2008年) - 倉持真知寿 役 ※兼脚本、編集
  • アウトレイジ(2010年)[84] - 大友 役 ※兼脚本、編集、製作総指揮
  • アウトレイジ ビヨンド(2012年) - 大友 役 ※兼脚本、編集、製作総指揮[85]
  • 龍三と七人の子分たち(2015年) - 村上 役[86] ※兼脚本、編集
  • アウトレイジ 最終章(2017年) - 大友 役[87][88] ※兼脚本、編集

ショートムービー

ミュージック・ビデオ

  • Begin(北野井子、1998年)

受賞歴

  • 1990年 日本映画監督協会新人奨励賞
  • 1991年 トリノ国際映画祭 特別賞(『3-4x10月』)
  • 1991年 第34回ブルーリボン賞 最優秀作品賞・監督賞(『あの夏、いちばん静かな海。』)
  • 1993年 タオルミナ国際映画祭 グランプリ(『ソナチネ』)
  • 1995年 コニャック国際映画祭 批評家賞(『ソナチネ』)
  • 1996年 第39回ブルーリボン賞 監督賞(『キッズ・リターン』)
  • 1996年 第6回日本映画プロフェッショナル大賞 監督賞(『キッズ・リターン』)
  • 1996年、山路ふみ子文化財団特別賞
  • 1997年 第54回ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞(『HANA-BI』)
  • 1998年 ニューヨーク国際映画祭 国際映画賞(『HANA-BI』)
  • 1998年 サンパウロ国際映画祭 批評家賞(『HANA-BI』)
  • 1998年 第10回ヨーロッパ映画賞 スクリーン・インターナショナル賞(『HANA-BI』)
  • 1998年 第41回ブルーリボン賞 作品賞・監督賞・主演男優賞(『HANA-BI』)
  • 1999年 第8回日本映画批評家大賞 監督賞
  • 2002年 ダマスカス国際映画祭 最優秀作品賞(『Dolls』)
  • 2003年 第60回ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞(『座頭市』)
  • 2003年 第33回シッチェス・カタロニア国際映画祭 グランプリ(『座頭市』)
  • 2003年 第26回トロント国際映画祭 観客賞(『座頭市』)
  • 2003年 第27回日本アカデミー賞 最優秀編集賞(『座頭市』)
  • 2006年 ガリレオ2000賞 文化特別賞
  • 2007年 第64回ヴェネツィア国際映画祭 監督・ばんざい!賞(『監督・ばんざい!』)
  • 2008年 モスクワ国際映画祭 特別功労賞
  • 2008年 テッサロニキ国際映画祭 ゴールデン・アレクサンダー名誉賞
  • 2008年 GQ MEN OF THE YEAR 2008[89]
  • 2009年 ソフィア国際映画祭 観客賞(『アキレスと亀』)
  • 2013年 第22回日本映画批評家大賞 監督賞(『アウトレイジ ビヨンド』)
  • 2015年 第8回したまちコメディ映画祭in台東 コメディ栄誉賞[5]

なお、2016年の第25回東京映画スポーツ映画大賞については発表時には監督賞・北野武(『龍三と七人の子分たち』)と発表されていた[90]。ところが、授賞式では同賞の審査委員長を務める北野が「是枝監督に」と自身が受賞したトロフィーを会場に来ていた是枝裕和監督(『海街diary』で出席)に手渡し、これにより是枝監督が監督賞を受賞することとなった[91]。主催者である東京スポーツの授賞式記事(受賞者一覧)では「監督賞:北野武(「龍三と七人の子分たち」)→是枝裕和(「海街diary」)」となっている[92]

出演

レギュラー番組

NHK

TBS系列

特記のないものはTBS製作

日本テレビ系列

特記のないものは日本テレビ製作

テレビ朝日系列

特記のないものはテレビ朝日製作

テレビ東京系列

特記のないものはテレビ東京製作

フジテレビ系列

特記のないものはフジテレビ製作

その他

テレビドラマ

映画

この項目は、他監督の作品として出演した映画の一覧である。『戦場のメリークリスマス』で注目され、『JM』でハリウッド映画出演も果たした。自らが映画監督の立場としては俳優に撮影方針を意見されることを好まないため、俳優として他監督の作品に出演する際にも同様にしているという。

映画出演作品

舞台

  • 海に響く軍靴〜FOOTSTEPS IN THE PACIFIC〜(2015年、博品館劇場) - 原案

テレビアニメ

劇場アニメ=

ゲーム

ラジオ

NHK紅白歌合戦出場歴

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
2019年(令和元年)/第70回 特別出演(初) 浅草キッド[131] なし なし 「夢を歌おう」特別企画で初出場

広告

大橋巨泉と共演の広告「アサヒ生ビール」は撮影終了後、フライデー襲撃事件の影響で放映されなかった(なお、広告のスナップショットは巨泉の自伝『ゲバゲバ70年!』の中で見る事が可能)。1984年、「スーしませう」のキャッチコピーで発売された「白仁丹」や、ペプシの比較広告をパロディ化した『デミュートサンスター』では企画・演出に関わった。

2007年からロシアCIS地域でPanasonicブランドの薄型テレビの広告に出演。同広告担当者によると、「日本の有名人が単独で海外の国々で広告モデルになるのは初めてではないか」との事。

他多数

著作物・出版物

連載コラムや著書の文章のほとんどは、本人が多忙であるため、北野武が口述し、それをライターに文章として起こしてもらっている(『コマネチ!2』にて、本人のコメントによる)。

著書

北野武名義

  • 『午前3時25分』(1983年、太田出版)増補改訂版(1986年)
  • 『毒針巷談』(1984年、太田出版)
  • 『たけしくん、ハイ!』(1984年、太田出版)のち新潮文庫
  • 『続毒針巷談』(1985年、太田出版)
  • 『余生』(2001年、ロッキング・オン)のちソフトバンク文庫
  • 『孤独』(2002年、ロッキング・オン)のちソフトバンク文庫
  • 『時効』(2003年、ロッキング・オン)のちソフトバンク文庫
  • 『武がたけしを殺す理由 全映画インタヴュー集』(2003年、ロッキング・オン)
  • 『イチロー北野武キャッチボール』(2003年、ぴあ
  • 『異形』(2004年、ロッキング・オン)
  • 『光』(2005年、ロッキング・オン)
  • 『生きる』(2007年、ロッキング・オン)
  • 『全思考』(2007年、幻冬舎)のち文庫
  • 『女たち』(2008年、ロッキング・オン)
  • 『北野武今、63歳』(2010年、ロッキング・オン)
  • 『KITANO par KITANO 北野武による「たけし」』ミシェル・テマン共著 松本百合子訳 (2010年、早川書房) のち文庫
  • 『超思考』(2011年、幻冬舎)のち文庫
  • 『物語』(2012年、ロッキング・オン)
  • 『ほしのはなし』作・絵 (2012年、ポプラ社)
  • 『やり残したこと』(2015年、ロッキング・オン)
  • 『新しい道徳』(2015年、幻冬舎)
  • 『ラストシーン』(2017年、ロッキング・オン)
  • 『首』(2019年、 KADOKAWA )- 小説作品
  • 『北野武第一短篇集 純、文学』(2019年、河出書房新社)- 小説作品
  • 『不良』(2020年、集英社) - 小説作品
  • 『大親分! アウトレイジな懲りない面々』(2020年、河出書房新社)

ビートたけし名義

  • 『たけし! オレの毒ガス半生記』(1981年、講談社)『真説「たけし!」 オレの毒ガス半生記』講談社+α文庫、1999
  • 『ビートたけしの変態志願』(1982年、KKベストセラーズ
  • 『恐怖びっくり毒本』(1983年、KKベストセラーズ)
  • 『ビートたけしの幸せ独り占め ハクション・カメラ術』(1981年、オールナイト・ニッポン サンケイ出版)のち扶桑社文庫(高田文夫共著)
  • 『ビートたけしのゴックン日本史 幕末・明治の巻』リヨン社 1982(ゴーストライター作と言われている[133]
  • 『ビートたけしの変・態・志・願 俺もお前も同期の桜』ベストセラーズ ワニの本 1982
  • 『ビートたけしの幸せになってしまいました』(1982年、オールナイト・ニッポン サンケイ出版)のち扶桑社文庫「思わず幸せになってしまいました」
  • 『ビートたけしの三国一の幸せ者』(1982年、オールナイト・ニッポン サンケイ出版)のち扶桑社文庫(高田文夫共著)
  • 『ビートたけしの無条件幸福』(1983年、オールナイト・ニッポン リビングマガジン)のち扶桑社文庫
  • 『恐怖びっくり毒本 眠れぬ夜のあなたに いたずらテキスト版』編著 ベストセラーシリーズ ワニの本 1983
  • 『ビートたけし&高田ギョロ目文夫のしまいにゃ笑うぞ!』高田文夫共著 スコラbooks 1983
  • 『ビートたけしのウソップ物語』話の特集 1983
  • 『ビートたけしのみんなゴミだった』(1983年、飛鳥新社)
  • 『ビートたけしのニッチもさっちも』(1984年、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)のち文庫
  • 『ギャグ狂殺人事件』(1984年、作品社)(ゴーストライター作と言われている[133])高田文夫との共著
  • 『たけし吼える!』(1984年、飛鳥新社)
  • 『あのひと』(1985年、飛鳥新社)のち新潮文庫
  • 『ビートたけしの幸か不幸か』(1985年、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)のち文庫
  • 『たけしの新・坊ちゃん』(1986年、太田出版)のち文庫
  • 『KID RETURN』(1986年、太田出版)
  • 『続々毒針巷談』(1986年、太田出版)
  • 『ビートたけしの不幸中の幸い』(1986年、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)のち文庫
  • 『少年』(1987年、太田出版)のち新潮文庫
  • 『たけしの挑戦状 たけし直伝 虎の巻』全2巻 太田出版 1987
  • 浅草キッド』(1988年、太田出版)のち新潮文庫
  • 『ビートたけしの全面幸福』(1988年、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)のち文庫
  • 『たけしの戦国風雲児 ファミコンゲーム必敗本』太田出版 1988
  • 『新毒針巷談』(1988年、太田出版)
  • 『教祖誕生 第一部』(1990年、太田出版)のち新潮文庫
  • 『ビートたけしのその男幸せにつき』(1990年、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)のち文庫
  • 『ビートたけしの幸せ丸十年』(1990年、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
  • 『仁義なき映画論』(1991年、太田出版)のち文春文庫
  • 『だから私は嫌われる』(1991年、新潮社)のち文庫
  • 『やっぱり私は嫌われる』(1991年、新潮社)のち文庫
  • 『ビートたけしの世紀末毒談』(1991年、小学館
  • 『場外乱闘』(1992年 太田出版)
  • 『ビートたけしの世紀末毒談 目には目を毒には毒を』(1992年、小学館)
  • 『こんな時代に誰がした! 場外乱闘2』(1993年、太田出版)
  • 『みんな自分がわからない』(1993年、新潮社)のち文庫
  • 『漫才病棟』(1993年、文藝春秋)のち文庫
  • 『女につける薬 偏見だらけの大和撫子育成講座』(1993年、祥伝社)
  • 『落選確実選挙演説』(1994年、新潮社)のち文庫
  • 『はっきり言って暴言です 恋愛・結婚・sex ビートたけしのTVタックル』テレビ朝日、1994 「嫉妬の法則 はっきり言って暴言です」角川文庫 『嫉妬の法則 恋愛・結婚・SEX』角川oneテーマ21 2013
  • 『顔面麻痺』(1994年、太田出版)のち幻冬舎文庫
  • 『女は死ななきゃ治らない あえて大和撫子改造講座』(1994年、祥伝社)
  • 『それでも女が好き めげずに大和撫子啓蒙講座』(1995年、祥伝社)
  • 『佐竹君からの手紙』太田出版 1995
  • 『あなたと俺と日本人 ビートたけし暴言集2 ビートたけしのTVタックル』モジカンパニー編 テレビ朝日事業局出版部 1995「日本人改造論 あなたと俺と日本人」角川文庫
  • 『たけしの死ぬための生き方』(1995年、新潮社)のち文庫
  • 『みんな〜やってるか!』(1995年、扶桑社)
  • 『たけしの20世紀日本史』(1996年、新潮社)のち文庫
  • 『草野球の神様』(1996年、新潮社)のち文庫
  • 『佐竹君からの手紙 サハリン篇』太田出版 1996
  • 『ザ・知的漫才 ビートたけしの結局わかりませんでした』(1996年、集英社)のち文庫
  • 『ビートたけしの世紀末毒談3』(1996年、小学館)「世紀末毒談」文庫
  • 『私は世界で嫌われる』(1998年、新潮社)のち文庫
  • 『たけしの「号外」!!東スポ客員編集長北野武・問題発言集'91-'98』(1998年、洋泉社)「たけしの「オイラが東スポ編集長!」」宝島sugoi文庫
  • 『愛でもくらえ』(1999年、祥伝社)のち黄金文庫
  • 『コマネチ!ビートたけし全記録』(1999年、新潮文庫)
  • 菊次郎とさき』(1999年、新潮社)のち文庫
  • 『偽善の爆発 初級人間学講座 時事問題講義 1』(2000年、新潮社)「私ばかりがなぜもてる たけしの初級賢者学講座」文庫
  • 『ニッポン文化大革命 初級人間学講座 基礎常識講義 2』新潮社、2000 「そのバカがとまらない たけしの中級賢者学講座」文庫
  • 『僕は馬鹿になった。ビートたけし詩集』祥伝社、2000 のち文庫
  • 『頂上対談』(2001年、新潮社)のち文庫
  • 『おまえの不幸には、訳がある!』新潮社・ラッコブックス、2001 のち文庫:副題:たけしの上級賢者学講座
  • 『コマネチ!2 −BROTHER大特集』(2001年、新潮社)
  • 『ビートたけしの黙示録』(2001年、徳間書店)のち文庫
  • 『路に落ちてた月 ビートたけし童話集』祥伝社 2001 のち黄金文庫
  • 『たけしの大英博物館見聞録』新潮社 とんぼの本 2002
  • 『巨頭会談』新潮社 2003 のち文庫
  • 『たけしの発明王』新潮社 2003
  • 『裸の王様』新潮新書 2003
  • 『悪口の技術』新潮社 2003 のち文庫
  • 『たけしの落書き入門』新潮社 とんぼの本 2004
  • 『達人に訊け!』奥本大三郎,毛利衛,桜井章一,戸田奈津子,藤原正彦,北原保雄,藤田紘一郎,中村祥二,岡部幸雄,岡野雅行共著 新潮社 2006 のち文庫
  • 『恐竜は虹色だったか? たけしの「最新科学教室」』橋本周司,田中修,上田恵介,村松照男,海部宣男,中込弥男,船山信次,冨田幸光,吉村仁,有田正光共著 新潮社 2008 「たけしの最新科学教室」文庫
  • 『貧格ニッポン新記録』小学館101新書 2008
  • 『「カミさんポックリ教」宣言』小学館101新書 2009
  • 『下世話の作法』祥伝社 2009 のち黄金文庫
  • 『漫才』新潮社 2009 のち文庫
  • 『1084(to-san ya-yo) MANZAI2 1月-3月』two beat [述] ネコ・パブリッシング 2010
  • 『ラジオ北野』新潮社 2010 のち文庫
  • 『間抜けの構造』新潮新書 2012
  • 『ヒンシュクの達人』小学館新書 2013
  • 『ビートたけしの幸せ三面記事新聞 TBS情報7daysニュースキャスター』ロッキング・オン 2013
  • 『たけしのグレートジャーニー』 関野吉晴, 西江雅之, 荻巣樹徳, 山極寿一, 松浦健二, 塚本勝巳, 長沼毅, 佐藤克文, 窪寺恒己, 鎌田浩毅,村山斉共著 新潮社 2014
  • 『日本人改造論 父親は自分のために生きろ』角川oneテーマ21 2014
  • 『アナログ』新潮社 2017
  • 『バカ論』新潮新書 2017
  • 『テレビじゃ言えない』小学館新書 2017
  • 『ビートたけしのオンナ論』サイゾー 2018
  • 『「さみしさ」の研究』 小学館新書 2018
  • 『芸人と影』小学館新書 2019
  • 『たけしの人生相談 悩むの勝手 ~伊集院さんに聞けなかった話』徳間書店 2019
  • 『キャバレー』文藝春秋 2019 - 小説作品
  • 『コロナとバカ』小学館新書 2021

共著

  • 『日本の差法 無差別級トークバトル』ホーキング青山との対談(2002年、新風舎)のち文庫
  • 『ツーアート』村上隆共著 ぴあ 2003 のち光文社知恵の森文庫
  • 『野球小僧 少年たけしと少年マツイ』松井秀喜共著 ぴあ 2004
  • 『コマ大数学科特別集中講座』竹内薫共著(2006年、扶桑社)のち新書
  • 『もったいないねこのバチ当たりめ!北野大VSビートたけしの新環境文化論』あ・うん 2010
  • 『THE PARADOX コマ大数学科公認副読本』竹内薫,中村亨共監修 扶桑社 2011
  • 『最後の大独演会』立川談志,太田光共著 新潮社 2012

絵本

  • ほしのはなし(2012年12月14日、ポプラ社)

写真集

  • 武風 たとえば風のように(1986年頃、O.P.F.C)
  • たけし軍団(1987年11月18日、太田出版)

写真作品

  • 「無題」(1994年、竹書房発行、月刊ザ・テンメイ1994年秋臨時増刊号「Super Tenmei」掲載)バイク事故直前に撮った(雑誌は事故後発売)、写真家としての処女作品。
  • 「ORA-ATAI」(1998年、新潮社発行、新潮45別冊2月号「北野武責任編集『コマネチ!』ビートたけし全記録」掲載)学ラン姿のガダルカナル・タカとセーラー服姿の井手らっきょ(スキンヘッドそのまま)がカップルに扮し東京見物するコンセプト。
  • 「海から来た、おんな」(2002年、小学館発行、2002年2月1日号「週刊ポスト」掲載)

連載

  • ビートたけし「21世紀毒談」(週刊ポスト)
  • 「達人対談」(新潮45)
  • 「世相斬り」(東京スポーツ)
  • SIGHT
  • 週刊実話

ネットマガジン

  • ビートたけし責任編集ネットマガジン『お笑いKGB』

音楽・ゲーム

歌唱作品

ツービート、ぢ・大黒堂名義で発表された作品についてはそれぞれの項目を参照。

シングル
  • 俺は絶対テクニシャン(1981年2月21日)
  • いたいけな夏(1981年6月5日)
  • 丸の内ストーリー(1982年4月5日。「畑中葉子・ビートたけし」名義)
  • BIGな気分で歌わせろ(1982年5月21日)
  • OK!マリアンヌ(1982年9月5日) - 売上3万枚[134]
  • TAKESHIの、たかをくくろうか(1983年5月21日)
  • アミダばばあの唄(1983年10月21日。「アミダばばあ&タケちゃんマン」名義)
  • びっくり箱のうた(1984年5月21日。「タケちゃんマン&ナンデスカマン」名義)
  • 抱いた腰がチャッチャッチャッ(1984年8月21日)
  • 哀しい気分でジョーク(1985年2月21日)
  • ポツンと1人きり(1986年2月5日)
  • I'll be back again...いつかは(1986年4月21日。「TAKESHI&HIROKI」名義) - オリコン8位
  • I FEEL LUCKY(1986年5月21日)
  • ロンリーボーイ・ロンリーガール(1986年8月15日)
  • BOY〜If I'm 17(1988年7月16日。「ビートたけし with たけし軍 COUNT DOWN」名義) -作詞:阿久悠・作曲:馬場孝幸、売上3万4000枚[134]
  • 真っ暗な夜に(1991年9月13日。所ジョージと組んだT's名義)
  • 嘲笑(1993年6月23日)- 作詞:ビートたけし・作曲:玉置浩二 玉置のセルフカバーアルバム『Offer Music Box』(2012年)に玉置版が収録された。
  • GOD BLESS YOU〜神の御加護を〜(1994年3月12日。「ビートたけし&ザ・常夏's」名義)
  • 修善寺で別れた大宮の女(ひと)(1997年3月21日。「トビ木村と足手まといア〜ンドビートたけし」名義)
オリジナルアルバム
  • おれに歌わせろ(1982年6月21日)
  • これでもか!(1983年1月21日)
  • AM 3:25(1984年10月21日)
  • 野戦病院〜ビートたけし&たけし軍団ライブ(1985年7月5日)
  • 浅草キッド(1986年8月15日)
  • 卒業(1987年7月29日)
  • 豪華絢爛(1988年9月7日)
ベストアルバム
  • たけちゃん・ナイス!(1988年2月21日)
  • オーイ!た〜けちゃ〜ん/BEST ONE(1988年11月21日)
  • CD FILE VOL.1(1989年3月21日)
  • CD FILE VOL.2(1989年3月21日)
  • OH!傑作 ビートたけし&たけし軍団COUNT DOWN BEST SONGS(1989年10月21日)
  • Singin' Loud II(1993年12月1日)
  • たけちゃん・ガンバレ!(1994年11月23日)
  • ゴメ〜ンネ!たけちゃん(1995年10月27日)

作詞提供

  • チポップ(宮沢りえ
  • 心から好き(宮沢りえ)TVドラマ『東京エレベーターガール』主題歌。kikuji名義にて。

参加音楽作品

  • モンゴル子守唄 所ジョージ(間奏のラジオアナウンス)
  • ニワトリは飛んでいかない 所ジョージ(曲中のニワトリの鳴き声)
    • 二曲共アルバム「コケコッコゥ~七色の声色~」収録、また上記の二曲だけではなく、ジャケット写真でもギターを持って所と写っている。

参加したコンピュータゲーム

たけしの挑戦状

1986年12月に発売され、たけしが監修したファミコン用ソフト『たけしの挑戦状』(タイトー)は「今までにない独創的な発想を入れたい」という意図が反映され、言葉通りその斬新さと理不尽きわまりない内容で多くのユーザーに衝撃を与え、伝説のクソゲーとして名を残すこととなった。たけし自ら、「今までのゲームと同じレベルで考えるとクリアー出来ない」とコメントしている。世界観は極めて退廃的であり、主人公は薄汚れた町並みの中に住む世帯持ちのしがないサラリーマンである。

多くの書籍などでクソゲーの代表格とされることが多い一方で、過去の名作ランキングでは必ず上位にランクされるほど非常に印象深い作品となり、現在では、「北野映画に通じるところがある」「早すぎたグランド・セフト・オート」など、ゲーム内容を再評価する声もある[135]

その他受賞歴など

  • 東京スポーツ新聞社客員編集長、東京スポーツ映画大賞審査委員長
  • フランス芸術文化勲章[4]
    • シュヴァリエ(騎士)(1999年)[2]
    • コマンドール(騎士団長)(2010年)
  • シャンパーニュ騎士団[4]
    • オフィシエ・ドヌール(名誉将校)(2014年)
    • シャンベラン・ドヌール(名誉侍従)[注 17](2015年)[136]
  • レジオンドヌール勲章オフィシエ(将校)(2016年)[137][138]
  • 旭日小綬章(2018年)[139]
  • 明治大学特別功労賞授与(2004年)
  • イタリアの第10回ガリレオ2000賞・文化特別賞受賞(2006年)
  • 日本数学会出版賞受賞(2008年)[140]
  • タイム』誌アジア版2001年2月12日号の表紙を飾った。2002年には同誌の「アジアのヒーロー」の一人として選出された[141]

評価

肯定的評価

  • 1981年、文芸評論家鶴見俊輔は『広告批評』誌上における座談の中で、「ツービートはがきデカの位置に似ている」と評し、文芸評論家・高澤秀次はこの評を絶賛した。
  • 1983年、吉本隆明栗本慎一郎との対談集の中で、たけしの話芸を「自分を異化することによって自然の流れとしてしまう芸風」と評した[142]。一方、のちに吉本が「海燕」誌上で埴谷雄高と論争(1985年)になった際、たけしは『もっと阿呆になれ、吉本!』という文章を発表し「吉本さんは言い回しが難解」と批判した。
  • 加藤茶は、インタビューで「…たけし君が映画監督で評価されている。でも、お笑いに帰ってくると、必ずバカなことするじゃないですか。バカをやる、という素晴らしさの原点を知っているんです。だから大好き」と、評価している[143]
  • 色川武大は「才能は切れるが、それだけにいいところを一人占めしようとしすぎる」とし、榎本健一藤山寛美・萩本欽一と並べて「自分の手足を切ってゆく」タイプの芸人に分類し、対極として、古川ロッパ森繁久彌・タモリの名を挙げた[144]
  • たけしに影響を受けた芸能人は多く、とんねるず爆笑問題さまぁ〜ずなどが挙げられる。その理由は「たけしの芸風に直接影響を受けた」「マルチタレントとしての先輩として尊敬している」など、さまざまである。
    • 爆笑問題の太田光は漫才のネタにたけしが得意とする「ブラックユーモア」を積極的に取り入れたりしているその一方で「自分は憧れているビートたけしとは別物である」といった思いをしばしば述べており、自身がする無軌道なボケ・発言などはそれらの表れであるとしている[145]
    • とんねるずは、マルチタレントとしてたけしに大いに影響を受け、たけしが高めたお笑い芸人の地位をさらに高めることに成功している。
    • ナインティナインも、たけしからの影響を強く受けている。ナイナイは若手時代にたけしとお笑いウルトラクイズで共演したことにより、知名度が上がった。その後、ナイナイの冠番組などに、たけしが呼ばれるなどしている。
    • ロンドンブーツ1号2号田村亮は「芸能人は皆例外なくオーラを持っているが、たけしさんは格が違う。」と語っている。
    • お笑い芸人以外では、TOKIOのメンバー全員がたけしのファンであることが、「たけしのニッポンのミカタ(国分太一がレギュラー出演している)」10月31日放送分で紹介された。
    • 俳優の西島秀俊はたけしのファンであり、『ビートたけしのオールナイトニッポン』など昔、たけしが出演していたラジオ番組が録音されたカセットテープを知人から借り、MDに録音していた程である。『ビートたけしのオールナイトニッポン』については、四国に住むマニアから当時の録音テープを貰い、その約200本のテープを同じくたけしのファンである水道橋博士に贈っているほどである。
    • 美空ひばりの息子である加藤和也はたけしのファンであり、少年時代にひばりがたけしを強引に和也に合わせたことがある(和也はとんねるずのファンでもあり、ひばりがとんねるずに差し入れを行うなど、同様のエピソードがある)。
  • フランス芸術文化勲章の「シュヴァリエ」を1999年に授与され、2010年に「コマンドゥール」を授与された際に、フランス文化省から「映画監督としての活動は言うまでもなく、1つの才能を持った人ではない。人々を笑わせること、感動させることができ、怖がらせることもできる。あらゆる面で支持者を持つ。類を見ない自由さをもってモノづくりを進める直感的才能に対し、賞を贈る」と評された。なお、この「コマンドゥール」受賞をレジオンドヌール勲章の「オフィシエ」を受賞した黒澤明を超えたとする報道もあったが、レジオンドヌール勲章はフランスでは最高位の勲章であり、芸術文化勲章との勲位の比較は意味がない。2016年にはたけしもレジオンドヌール勲章(オフィシエ)を受章している。

否定的評価

  • 1981年、ルポライター鎌田慧が「ツービートの残酷ギャグはファシズムの兆し」と批判した[146]
  • ルポライター・吉岡忍は、ツービート(ビートたけし)をジョン・レノン射殺事件の犯人マーク・チャップマンに重ねて論じるほど忌諱していたが、後に吉岡はその認識を変え、北野映画のルポルタージュを執筆するほど関心を寄せるようになった。
  • 辛淑玉佐高信諸井薫が、たけしの軍団に対する態度を「権威主義的で弱い者いじめをしている」と、それぞれコラムなど[要出典]で述べている。これら批判的な論評について、たけしは「冗談と本気の区別が付かない奴らがいる」と評している。
  • 田中康夫は、たけしを自らと同じく「価値紊乱者」(既存の権威への挑戦者)として評価しつつも、1980年代中盤には『感覚の倫理学』および『ファディッシュ考現学』にて立川流への入門や軍団創設を「肩書きや権威など精神的ブランドに頼るようになり(当時、たけしがなりたいと語っていた)日本のレニー・ブルースになりそこねた」と評した。一方で、たけしの過激な言動に隠された内面の繊細さもまた指摘し、フライデー襲撃事件の際にはフライデーの取材姿勢を批判、たけしを擁護する立場を取った[147]。その後、田中はたけしとテレビ番組で度々共演するなど交流も持ったが、その後も「ドナルドダックのように嫌われることも厭わず本音で周囲に毒を吐く存在であったはずが、嫌われることを恐れ人気者であり続けようとミッキーマウスのように無難な優等生的発言しか行わなくなりつつある」といった意味の論評も行っている[148]。また、バイク事故直後にあえて顔面麻痺状態で会見に臨んだことは評価したが、その後の本格復帰については「芸能界の一線からは退いた方が良かったのではないか、取り巻きや軍団を養うためだとすれば自活を促すべきだった」と評した。他方、たけしは「理屈ばっかり言っていた田中康夫が気に食わず」[149]、1983年2月に当時田中がレギュラー出演していた『森田一義アワー 笑っていいとも!』に乱入し、田中の首を締め上げたことがあった。たけしが2014年3月31日放映の『笑っていいとも!』最終回でこのエピソードを披露すると、その夜の総集編である『笑っていいとも!グランドフィナーレ 感謝の超特大号』では、たけしの代わりに太田光が田中の首を締め上げて見せた。

自己評価

  • 『たけしの誰でもピカソ』で島田洋七がゲスト出演した際に、たけしは「漫才では洋七に勝てない、しゃべりではさんまに勝てない、司会では紳助に勝てない。でも芸能人としてのトータルでは良い所には行くと思う」と、漫才ブームを共にした芸人達と比較した上で、自己評価をしている。

他者への評価

  • 若手映画監督たちに「他の嫌なものも認める余裕がないといけない」と述べた上で「僕はアニメは嫌い。宮崎駿も嫌い。でも、あれだけお金を稼げる、すごいアニメとは認める」と語った[150]

脚注

注釈

  1. ^ たけしがファンであった初代中村錦之助に因む。
  2. ^ 旧姓正端菊次郎 浅草生まれ。1925年8月叔母北野うしと養子縁組、北野姓になる。同月さきと結婚。2016年12月21日NHK放送「ファミリーヒストリー」[信頼性要検証]
  3. ^ 旧姓小宮さき 千葉県市原市五井生。1923年1月に北野うしの実子である徳次郎と結婚。同年8月徳次郎急逝。1925年8月、うしと養子縁組した菊次郎と結婚。2016年12月21日NHK放送「ファミリーヒストリー」[信頼性要検証]
  4. ^ 後年、これに続けて「死に場所探して生きるもよし」と加えた詞を作り、『死んだ犬』として発表した(作曲:泉谷しげる
  5. ^ 小水は『ほしをつぐもの』(1990年)で、若松は『エロティックな関係』(1992年)で、再びたけしを撮った
  6. ^ 100単位以上を取得しながら、何らかの理由で通学できなくなった人物に与える制度。
  7. ^ これにより芸人としての師弟関係は途絶するが、個人的な付き合いは継続していた。また、引き続き、フランス座の屋根裏部屋に住むことが許される。深見の下に立ち寄った北野に対して「タケ手前、馬鹿野郎、何しに来やがった! ラーメンでも食っていくか?」と粗雑ながら甲斐甲斐しくもてなされていた。
  8. ^ 特に毎年、フジテレビ系列で放送されている、FNS27時間テレビが顕著に出ている。
  9. ^ もともと母・さきがうしの実子(北野徳次郎)と結婚して北野家に入ったが夫が夭折(1923年8月18日死亡)、その後うしがさきの後添いに甥だった正端菊次郎を連れて結婚にあたって、菊次郎がうしと養子縁組(1925年8月17日)を行ったため。2016年12月21日NHK放送「ファミリーヒストリー」
  10. ^ 正確には、前日の『北野ファンクラブ』のEDトークに飛び入り出演している
  11. ^ 退院時の会見でも着用していたため、信仰に目覚めたのかと話題になった。会見での正確な発言は「これねえ、原節子さんっていう人の、女優さんの、友達の尼さんが、観音様彫ってくれたんですよ。そんで、いろいろ書いてくれて、ほいでみんな心配してるってんで、これしてたら気持ちいいよって言うからやってるんですけど」
  12. ^ かつて森はLOUDNESSのライブビデオや海外ツアーのディレクターとして共に仕事をした事がある。
  13. ^ 「ここ4、5年、私が素晴らしいと思っている、北野武の映画があります。『HANA-BI』という作品です。私が『HANA-BI』を好きなのは、それが日本映画だからではなく、普遍的な映画だからです。そこに登場するほとんどの人物たちが一重瞼の細い目をしていることに気づかないほど、普遍的な映画だと思います」と言及された事がある(『週刊読書人』 2002年11月22日号)
  14. ^ 柳島撮影監督、高屋照明監督へのインタビュー
  15. ^ 1991秋では、回答者として出演していた。実兄と共演。
  16. ^ 1992年 - 1996年・2017年 - 2019年は総合司会として参加、その他の年はゲストや中継でのゲスト出演
  17. ^ たけしはモナコ公国大公アルベール2世、フランスの政治家フランソワ・バロワンに続き史上3人目となる。

出典

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参考文献

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外部リンク