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この人事は、内閣改造により[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]が大野派の[[水田三喜男]]から[[田中角栄]]に交替したため、面目を潰された大野をなだめるための起用だったといわれている。大野は当時自民党[[自由民主党副総裁|副総裁]]で、関係を良好に保つ必要があった。派閥や参院自民党の推薦枠にも入っていなかったため、官邸からの連絡を受けたとき、近藤は議員宿舎で就寝中だった。


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2023年1月7日 (土) 06:19時点における版

近藤 鶴代
こんどう つるよ
生年月日 1901年11月16日
出生地 岡山県新見市
没年月日 (1970-08-09) 1970年8月9日(68歳没)
出身校 日本女子大学
前職 教員
所属政党無所属→)
日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 従三位
勲一等瑞宝章
親族 小谷節夫(兄)

内閣 第2次池田内閣
在任期間 1962年7月18日 - 1963年7月18日

選挙区 岡山県選挙区
当選回数 2
在任期間 1956年7月9日 - 1968年7月7日

選挙区 岡山県→
岡山県第2区
当選回数 4
在任期間 1946年4月11日 - 1953年3月14日
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近藤 鶴代(こんどう つるよ、1901年明治34年)11月16日[1][注 1] - 1970年昭和45年)8月9日[1][2])は、日本政治家衆議院議員(4期)、参議院議員(2期)。

来歴・人物

岡山県新見市に生まれる。1924年日本女子大学校家政科を卒業後、山陽高等女学校(現山陽学園高等学校)、岡山県第一岡山高等女学校(現岡山県立岡山操山高等学校)等で教諭を務める[2][3]。家事や作法を教えていた。

戦後の1946年日本進歩党衆議院議員の長兄小谷節夫公職追放となり、兄の代わりとして、無所属で衆議院議員選挙に岡山全県区(当時)から立候補し当選、日本初の女性代議士の一人となった[2][3]。当選後は日本自由党民主自由党→自由党に所属し、1948年には第2次吉田内閣において外務政務次官に抜擢された[2][3]

初当選以来、4期連続当選を果たすも[2]1953年1955年の総選挙で相次いで落選。1956年第4回参議院議員通常選挙岡山地方区から当選[4]し、中央政界に復帰する。自由民主党では大野伴睦の派閥に所属する。

1962年第6回参議院議員通常選挙にて再選後、第2次池田第2次改造内閣にて科学技術庁長官原子力委員長として入閣[4][5]中山マサに次いで2人目の女性閣僚となった[1][5]

この人事は、内閣改造により大蔵大臣が大野派の水田三喜男から田中角栄に交替したため、面目を潰された大野をなだめるための起用だったといわれている。大野は当時自民党副総裁で、関係を良好に保つ必要があった。派閥や参院自民党の推薦枠にも入っていなかったため、官邸からの連絡を受けたとき、近藤は議員宿舎で就寝中だった。

1968年、7月の参院選にリウマチのため出馬を断念、政界を引退した[6][7]。1970年8月9日死去、68歳。死没日をもって勲一等瑞宝章追贈、従七位から従三位に叙される[8]

公務においても、常に和服で通してきた[7]。また熱心な改憲論者でもあった。

脚注

注釈

  1. ^ 『新しき明日の来るを信ず』98頁では11月13日。

出典

  1. ^ a b c 『日本人名大辞典』801頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』264頁。
  3. ^ a b c 『新しき明日の来るを信ず』98頁。
  4. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』312-313頁。
  5. ^ a b 『新しき明日の来るを信ず』99頁。
  6. ^ 岡山県歴史人物事典編纂委員会 編『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年、456頁。 
  7. ^ a b 『新しき明日の来るを信ず』100頁。
  8. ^ 『官報』第13096号11-12頁 昭和45年8月13日号

参考文献

  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 岩尾光代著『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』日本放送出版協会、1999年。ISBN 4140804394
  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
公職
先代
三木武夫
日本の旗 科学技術庁長官
第11代:1962年 - 1963年
次代
佐藤栄作
先代
三木武夫
日本の旗 原子力委員長
第11代:1962年 - 1963年
次代
佐藤栄作
議会
先代
木内四郎
日本の旗 参議院外務委員長
1961年 - 1962年
次代
井上清一