1935年の東京巨人軍
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1935年の東京巨人軍
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米国遠征成績 | |||
75勝33敗1分 勝率.694 | |||
球団組織 | |||
オーナー | 正力松太郎 | ||
監督 | 市岡忠男(総監督) 浅沼誉夫(総監督) 三宅大輔(監督) | ||
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1935年の東京巨人軍(1935ねんのとうきょうきょじんぐん)では、1935年の東京巨人軍における動向をまとめる。
前年、大日本東京野球倶楽部として発足したチームは、2月14日、横浜港から秩父丸に乗り、第1回アメリカ遠征に出発した。アメリカでは、サンフランシスコでの試合を皮切りに、バスで東へ移動しながら、各地で試合を行い、デトロイトで折り返して西海岸に戻ってくる行程を取った。マイナーリーグを中心としたチームと対戦し、75勝33敗1分 勝率.694の好成績を収めた。対戦結果は日本でも連日報じられ、この活躍を受けて、全国でプロ野球チーム発足の機運が高まり、翌年のプロ野球リーグ発足に繋がった。
第1回アメリカ遠征の対戦チーム、サンフランシスコ・シールズを率いていたフランク・オドールは、大日本東京野球倶楽部のマネージャーをしていた鈴木惣太郎に、「大日本東京野球倶楽部」というチーム名はアメリカでは解りにくいから、チームの愛称を付けることを提唱した。そこで、ニューヨーク・ジャイアンツを参考にして、アメリカ遠征中は「東京ジャイアンツ」と名乗ることにした。これがきっかけとなり、大日本東京野球倶楽部は帰国後に「東京巨人軍」と改称されることになった。
できごと
[編集]- 大日本東京野球倶楽部が初のアメリカ遠征を行い、7月16日までに2Aのパシフィックコーストリーグの8球団のほか、カナダ・メキシコ・ハワイへも訪れ、ノンプロ・大学・在留邦人のチームと計109試合を戦い、75勝33敗1分の成績を残す。遠征中は「東京ジャイアンツ」と名乗り、チームの愛称「巨人」が事実上誕生されたとされている[1]。