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| 学歴 = [[早稲田大学第二文学部]]中退<ref name="nichigai">{{Cite book |author1=細川周平 |author2=片山杜秀 |和書 |title=日本の作曲家: 近現代音楽人名事典 |publisher=[[日外アソシエーツ]] |year=2008 |isbn=4-8169-2119-2 |page=134 }}</ref> |
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| ジャンル = {{Hlist-comma|[[J-POP]]<ref>{{Cite web|和書|title=大滝詠一(オオタキエイイチ)の情報まとめ |url=https://okmusic.jp/%E5%A4%A7%E6%BB%9D%E8%A9%A0%E4%B8%80 |website=OKMusic |publisher=ジャパンミュージックネットワーク株式会社 |accessdate=2021-05-27 }}</ref>|[[シティ・ポップ]]<ref>{{Cite web|和書|author=栗本斉 |title=シティ・ポップス NOW & THEN |url=https://www.billboard-japan.com/special/detail/808 |website=[[Billboard JAPAN]] |publisher=[[阪神コンテンツリンク]] |accessdate=2021-05-27 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=松永尚久 |title=当時の“シティポップ”は、人間の鳴らす楽器だけで高い完成度を実現した。 ──原田夏樹が語る、大滝詠一の世代を超えた影響力。 |url=https://www.pen-online.jp/article/007722.html |website=[[Pen (雑誌)|Pen Online]] |publisher=[[CCCメディアハウス]] |date=2021-03-30 |accessdate=2021-03-30 }}</ref>}} |
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|ジャンル = [[ロック (音楽)|ロック]]<br>[[ポピュラー音楽]] |
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| 担当楽器 = {{Hlist-comma|[[ボーカル]]|[[ギター]]}} |
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| 活動期間 = [[1969年]] - [[2013年]] |
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| 事務所 = ザ・ナイアガラ・エンタープライズ |
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| 共同作業者 = [[はっぴいえんど]](1969年 - 1972年) |
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|公式サイト = |
| 公式サイト = [http://www.fussa45.net/ 大瀧詠一 アミーゴ・ガレージ] |
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|旧メンバー = <!-- グループのみ --> |
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|著名使用楽器 = |
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'''大瀧 詠一'''、'''大滝 詠一'''(おおたき えいいち、本名:大瀧 榮一、[[1948年]][[7月28日]] - [[2013年]][[12月30日]]<ref name="asahi131231"/><ref name="nikkei131231"/><ref name="sponichi131231"/><ref name="nikkansports131231"/>)は、[[日本]]の[[音楽家|ミュージシャン]]。 |
'''大瀧 詠一'''、'''大滝 詠一'''(おおたき えいいち、本名:大瀧 榮一、[[1948年]]〈[[昭和]]23年〉[[7月28日]] - [[2013年]]〈[[平成]]25年〉[[12月30日]]<ref name="asahi131231"/><ref name="nikkei131231"/><ref name="sponichi131231"/><ref name="nikkansports131231"/>)は、[[日本]]の[[音楽家|ミュージシャン]]。 |
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[[シンガーソングライター]]、[[作曲家]]、[[編曲家|アレンジャー]]、[[音楽プロデューサー]]、[[レコードレーベル]]のオーナー、ラジオ[[ディスクジョッキー|DJ]]、[[レコーディング・エンジニア]]、[[マスタリング・エンジニア]]、[[著述家]]、元[[ダブル・オーレコード|Oo Records]] |
[[シンガーソングライター]]、[[作曲家]]、[[編曲家|アレンジャー]]、[[音楽プロデューサー]]、[[レコードレーベル]]のオーナー、ラジオ[[ディスクジョッキー|DJ]]、[[レコーディング・エンジニア]]、[[マスタリング・エンジニア]]、[[著述家]]、元[[ダブル・オーレコード|Oo Records]]取締役など、多くの顔を持つ。 |
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== 生涯 == |
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娘婿は音楽プロデューサー・音楽評論家で[[バート・バカラック]]研究家の坂口修<ref>[http://www.mishimaga.com/gaihu/020.html 内田樹 第20回 凱風館日乗(2013年を振り返って) - みんなのミシマガジン]</ref>。 |
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== 来歴 == |
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=== 生い立ちと学生時代 === |
=== 生い立ちと学生時代 === |
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[[岩手県]][[江刺郡]][[梁川村 (岩手県)|梁川村]](現: [[奥州市]])生まれ。母子家庭で育ち、母親が公立学校の教師だったため、小学校・中学校でそれぞれ転校を経験している(小学校で[[江刺市|江刺]]から[[遠野市|遠野]]。中学で遠野から[[釜石市|釜石]])。 |
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[[岩手県]][[江刺郡]][[梁川村 (岩手県)|梁川村]](のちの[[江刺市]]、現在の[[奥州市]])生まれ。母子家庭で育ち、母親が公立学校の教師だったため、小学校・中学校でそれぞれ転校を経験している(小学生の頃には江刺から[[遠野市|遠野]]。中学生時代には遠野から[[釜石市|釜石]])。 |
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小学5年の夏、親戚の家で聴いた[[コニー・フランシス]]の「カラーに口紅」(Lipstick On Your Collar) に衝撃を受けて以降、アメリカンポップスに傾倒。中学入学後ラジオクラブに入り、ラジオを自作し、米軍極東放送 ([[AFN|FEN]]) やニッポン放送の番組を聴くようになる。間もなくレコード収集を始め、[[エルヴィス・プレスリー]]や[[ビーチ・ボーイズ]]などの音楽を分析的に聴くようになり、独自の研究を深める。 |
小学5年の夏、親戚の家で聴いた[[コニー・フランシス]]の「カラーに口紅」(Lipstick On Your Collar) に衝撃を受けて以降、アメリカンポップスに傾倒。中学入学後ラジオクラブに入り、ラジオを自作し、米軍極東放送 ([[AFN|FEN]]) やニッポン放送の番組を聴くようになる。間もなくレコード収集を始め、[[エルヴィス・プレスリー]]や[[ビーチ・ボーイズ]]などの音楽を分析的に聴くようになり、独自の研究を深める。 |
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そのため、[[1962年]]夏から[[1966年]]までにチャートインした曲はすべて覚えている<ref>時期的には中学2年から高校3年の期間に当たる。レコード屋に入り浸り、レコード屋の店員より音楽に詳しいことから助言をしていた。そのおかげで買えないレコードも全部聴けていたという。</ref>というほど精通している。 |
そのため、[[1962年]]夏から[[1966年]]までにチャートインした曲はすべて覚えている<ref group="注">時期的には中学2年から高校3年の期間に当たる。レコード屋に入り浸り、レコード屋の店員より音楽に詳しいことから助言をしていた。そのおかげで買えないレコードも全部聴けていたという。</ref>というほど精通している。同時期には[[小林旭]]や[[三橋美智也]]なども好んで聞いていた。特に[[ハナ肇とクレージーキャッツ|クレージーキャッツ]]の[[植木等]]が歌う「[[スーダラ節]]」には非常に影響を受けたとされる。 |
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[[1964年]]、[[岩手県立花巻北高等学校]]に入学 |
[[1964年]]、[[岩手県立花巻北高等学校]]に入学。下宿で一人暮らしをするが、学費を全部レコードにつぎ込んでいたために学費未納により1年で退学させられ、[[岩手県立釜石南高等学校]](現:[[岩手県立釜石高等学校]])に編入。入学直前、FENで[[ビートルズ]]を知り、以降[[リバプール・サウンド]]全般を買いまくっていた。釜石南高編入後、初めてバンドを組む。「スプレンダーズ」というバンドで[[ドラマー|ドラム]]を担当。本来ならコミックバンドをやりたかったが同志が見つからず、やむなくビートルズタイプのバンドを組んだ。メンバーには現在釜石市にある[[釜石市立鉄の歴史館|鉄の歴史館]]館長を務める佐々木諭がいた。 |
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[[1967年]] |
[[1967年]]に上京、[[小岩]]の製鉄会社に就職するも、出社約20日、在籍期間3ヶ月で[[退職#自己都合退職|退職]]。その数日前、[[船橋ヘルスセンター]]で会社の慰安会があり、余興でビートルズの「[[ガール (ビートルズの曲)|ガール]]」を[[アカペラ]]で歌ったところ、上司から「うん、キミはこういう所にいるべき人間ではない」と諭されたという<ref>『総特集 大瀧詠一と大瀧詠一のナイアガラ30年史』</ref>。同年夏に、[[布谷文夫]]と知り合い「タブー」というバンドを結成。ドラムを担当していたが、同年末に解散。 |
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[[1968年]]に[[早稲田大学第二文学部]]に入学<ref name="nichigai" />。布谷を通じて交友があった中田佳彦<ref>[[中田喜直]]の甥で、[[はっぴいえんど]]にもかかわりが深かった人物。</ref>から[[細野晴臣]]を紹介されて意気投合。なお両者の初対面は細野の家に大瀧が招かれる形で行われた。その際、細野が"腕試し"として[[ヤングブラッズ (1960年代のバンド)|ヤングブラッズ]]の「[[ゲット・トゥゲザー ( |
[[1968年]]に[[早稲田大学第二文学部]]に入学<ref name="nichigai" />。布谷を通じて交友があった中田佳彦<ref group="注">[[中田喜直]]の甥で、[[はっぴいえんど]]にもかかわりが深かった人物。</ref>から[[細野晴臣]]を紹介されて意気投合。なお両者の初対面は細野の家に大瀧が招かれる形で行われた。その際、細野が"腕試し"として[[ヤングブラッズ (1960年代のバンド)|ヤングブラッズ]]の「[[ゲット・トゥゲザー (1964年の曲)|ゲット・トゥゲザー]]」(シングル盤)を見えるように置いておいた。部屋に入りしなの大瀧がそれに気付き「おっゲット・トゥゲザー」と言い、細野を感心させた。その後、大瀧・中田・細野の3人で定期的にポップスの研究会を開く。[[1969年]]、細野が参加していたバンド「[[エイプリル・フール (バンド)|エイプリル・フール]]」の解散直前に、細野と[[松本隆]]によって計画されていた新バンドに加入を要請され受諾。 |
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=== 1970年代 === |
=== 1970年代 === |
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はっぴいえんど活動中の[[1971年]]にソロ活動を開始し、アルバム『[[大瀧詠一 (アルバム)|大瀧詠一]]』([[1972年]])を発表。はっぴいえんど解散後はソロ活動に移行せず、当時のシンガーソングライターとしては異例である[[コマーシャルソング|CMソング]]の制作と、ごまのはえ、布谷文夫など若手のプロデュースを始める。 |
はっぴいえんど活動中の[[1971年]]にソロ活動を開始し、アルバム『[[大瀧詠一 (アルバム)|大瀧詠一]]』([[1972年]])を発表。はっぴいえんど解散後はソロ活動に移行せず、当時のシンガーソングライターとしては異例である[[コマーシャルソング|CMソング]]の制作と、ごまのはえ、布谷文夫など若手のプロデュースを始める。 |
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この頃、1972年発売の[[山下達郎]]の自主制作アルバム『[[ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY]]』を偶然耳にした[[伊藤銀次]]が大瀧宅に『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を持参し、アルバムを聞いて山下のボーカルを耳にした大瀧はアルバムに連絡先が記載されていたので連絡を取り山下を自宅に招く。アメリカのポップス好きという共通の趣味を持つことから意気投合し、「はっぴいえんどの解散コンサートでコーラスを手伝ってもらえないか?」と依頼したことが山下がプロデビューする切っ掛けとなる。伊藤銀次が山下の自主制作アルバムを大瀧宅に持参したことが切っ掛けだったが、最終的に山下達郎のプロデビューの切っ掛けは大瀧との出会いであることから山下達郎を見出だした人物といえる。その後山下との交流は大瀧が他界する2013年まで続いた。 |
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[[1974年]]9月には自らが[[作詞]]・[[作曲]]・[[編曲]]・[[プロデューサー|プロデュース]]・[[エンジニア]]・[[マスタリング#原盤製作|原盤制作]]・[[音楽出版|原盤管理]]などをこなすプライベートレーベル「[[ナイアガラレコード|ナイアガラ・レーベル]]」を設立し、[[エレックレコード (オリジナル)|エレックレコード]]と契約。翌[[1975年]]にははっぴいえんど解散後初となるソロアルバム『[[NIAGARA MOON]]』を発表。また、ラジオ関東(現在の[[アール・エフ・ラジオ日本]])で、DJをつとめる番組『[[ゴー・ゴー・ナイアガラ (ラジオ番組)|ゴー・ゴー・ナイアガラ]]』を開始し、学生層のコアなファンを獲得するなど、精力的にソロ活動を開始するが、その矢先、エレックレコードが事業縮小し、契約破棄される。 |
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[[1974年]]9月には自らが[[作詞]]・[[作曲]]・[[編曲]]・[[プロデューサー|プロデュース]]・[[エンジニア]]・[[マスタリング#原盤制作|原盤制作]]・[[音楽出版|原盤管理]]などをこなすプライベートレーベル「[[ナイアガラレコード|ナイアガラ・レーベル]]」を設立し、[[エレックレコード (オリジナル)|エレックレコード]]と契約。翌[[1975年]]にははっぴいえんど解散後初となるソロアルバム『[[NIAGARA MOON]]』を発表。また、ラジオ関東(現在の[[アール・エフ・ラジオ日本]])で、DJをつとめる番組『[[ゴー・ゴー・ナイアガラ (ラジオ番組)|ゴー・ゴー・ナイアガラ]]』を開始し、学生層のコアなファンを獲得するなど、精力的にソロ活動を開始するが、その矢先、エレックレコードが事業縮小し、契約破棄される。 |
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[[1976年]]にコロムビアレコードにナイアガラごと移籍する。その際の契約は福生45スタジオに当時最新鋭の16チャンネルのマルチトラックレコーダーを提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作するという内容だった。 |
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[[1976年]]、[[日本コロムビア]]にナイアガラごと移籍。その際の契約は福生45スタジオに当時最新鋭の16チャンネルの[[マルチトラック]]レコーダーを提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作するという内容だった。後に「3年間何処にも出ないでスタジオにこもりっきりだった」、「3年間での激務は笛吹銅次(エンジニアとして別名)のエンジニアで、歌を作ったり詞を書くのは得意ですが、エンジニアは素人ですから」とコロムビア所属のハードな契約を結んだ3年間を振り返っている。 |
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『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』『[[GO! GO! NIAGARA]]』『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はヒットを記録<ref>『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』『[[GO! GO! NIAGARA]]』についてはゴールデン・ディスクとしてコロムビアからヒット賞を受けており、『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はチャート入りしている</ref>したものの、趣味性の強すぎる楽曲が災いし、以降作品の完成度とはうらはらに売り上げが低迷。[[1977年]]の『[[NIAGARA CALENDAR]]』はチャート入りさえしなかった。 |
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『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』『[[GO! GO! NIAGARA]]』『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はヒットを記録<ref>『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』『[[GO! GO! NIAGARA]]』についてはゴールデン・ディスクとしてコロムビアからヒット賞を受けており、『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はチャート入りしている</ref>したものの、趣味性の強すぎる楽曲が災いして以降作品の完成度と裏腹に売上が低迷。[[1977年]]の『[[NIAGARA CALENDAR]]』はチャート入りさえしなかった。 |
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[[1978年]]の『[[LET'S ONDO AGAIN]]』を最後にコロムビアとの契約を解消。福生45スタジオの機材も売却。ナイアガラレコードも休業状態に陥る。以降レコードの販売権の契約が残っている2年間の間、ソロ作が発表できない状況に陥る。この年にはアルバムを3作しか作っておらず、本来ならばもう1枚作らないといけない契約になっていたための自主規制であり、[[1980年]]にコロムビア主導で『[[TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA]]』が発売された時には安堵したという。 |
[[1978年]]の『[[LET'S ONDO AGAIN]]』を最後にコロムビアとの契約を解消。福生45スタジオの機材も売却。ナイアガラレコードも休業状態に陥る。以降レコードの販売権の契約が残っている2年間の間、ソロ作が発表できない状況に陥る。この年にはアルバムを3作しか作っておらず、本来ならばもう1枚作らないといけない契約になっていたための自主規制であり、[[1980年]]にコロムビア主導で『[[TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA]]』が発売された時には安堵したという。 |
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=== 1980年代前期 === |
=== 1980年代前期 === |
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[[1979年]]から |
[[1979年]]からプロデュース業を手掛け、翌[[1980年]]にプロデュースの仕事で出入りすることが多かった[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBS・ソニー]]に移籍。旧友である[[松本隆]]と組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる作品のレコーディングに取り掛かる。このレコーディングの最中に、女性向きと考えた「[[さらばシベリア鉄道]]」を[[太田裕美]]に提供。同曲は大瀧の曲で初めてのヒットシングルになった。 |
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[[1981年]]3月に『[[A LONG VACATION]]』を発表。当初は売 |
[[1981年]]3月に『[[A LONG VACATION]]』を発表。当初は売上が低迷していた<ref>初チャートインは70位だった。</ref>が、徐々にセールスを伸ばし(大滝曰く「演歌の様な売れ方」)、夏にはチャート2位を記録。「[[第23回日本レコード大賞]]・ベストアルバム賞」を受賞。同年7月にリリースされた[[西城秀樹]]のアルバム「[[ポップンガール・ヒデキ]]」に収録されている「スポーツ・ガール」「ロンサム・シティー」を提供。(作詞は松本隆)[[1983年]]まで精力的に楽曲提供・プロデュースを続け、松本とコンビでの[[松田聖子]]の シングル『[[風立ちぬ (松田聖子の曲)|風立ちぬ]]』で初のチャート1位を記録。[[うなずきトリオ]]のシングル「うなずきマーチ」では大滝作詞曲で初のチャート入りを果たすなど、多くのアイドルソング・コミックソングを手掛け一躍名声が高まる。[[森進一]]の『[[冬のリヴィエラ]]』では[[歌謡曲]]の王道路線歌手の幅を拡げるポップス楽曲を提供し歌手の新たな側面を開拓。 |
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[[1984年]]のアルバム『[[EACH TIME]]』制作時に、いわゆる「曲が出なくなる」状態に陥ったことや、独自のポップス音楽の歴史を研究する中で、オリジナル作品をコンスタントに発表していく意味を見いだせなくなった大滝はこのアルバムを持って音楽制作活動の休止を決断。[[1985年]]6月の[[はっぴいえんど]]再結成ライブが最後のライブへの出演となり、同年11月[[シングルカット]]した「[[フィヨルドの少女/バチェラー・ガール|フィヨルドの少女]]」を最後に1997年まで新譜発表は途絶えた。 |
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=== 1980年代後期 - 1990年代 === |
=== 1980年代後期 - 1990年代 === |
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プロデューサー・作曲家としては80年代後半も引き続き活動 |
プロデューサー・作曲家としては80年代後半も引き続き活動、[[1985年]]には自ら大ファンであると公言する[[小林旭]]の「[[熱き心に]]」では、ポップス王道楽曲提供により、旧知のリスナーには往年のマイトガイの活躍を再び思い起こさせ、また小林の若かりし頃における銀幕の大スターとしての人気を知らない若いリスナーにも小林という存在を知らしめた。翌年には自身が少年期からのファンであるクレージーキャッツの30周年記念作を手掛け、新曲「[[実年行進曲]]」を作曲・編曲、[[五万節]]のリメイク「新五万節」を編曲(クレジットでは編々曲)した。クレージーキャッツの楽曲を数多く手掛けた[[萩原哲晶]]の愛好家でもある大瀧は萩原に敬意を表して、彼の名前を「原編曲」としてクレジットし、「実年行進曲」と「新五万節」に過去の楽曲のフレーズを挿入している。 |
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[[1980年代]]後期以降、ナイアガラレコードの旧譜のリマスタリングや、大瀧が影響を受けた先人の音源復刻「LEGENDARY REMASTER SERIES」の監修やライナー執筆、ラジオの特別番組のDJなどを手掛ける。また、1979年から本格的に取り組み始めたポップス史の研究は、[[1983年]]に「分母分子論」としてその一端が明らかにされていたが、[[1991年]]にはそれを更に発展させた「普動説」として結実させている。 |
[[1980年代]]後期以降、ナイアガラレコードの旧譜の[[リマスタリング]]や、大瀧が影響を受けた先人の音源復刻「LEGENDARY REMASTER SERIES」の監修やライナー執筆、ラジオの特別番組のDJなどを手掛ける。また、1979年から本格的に取り組み始めたポップス史の研究は、[[1983年]]に「分母分子論」としてその一端が明らかにされていたが、[[1991年]]にはそれを更に発展させた「普動説」として結実させている。 |
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[[1988年]]に[[小泉今日子]]に提供した『[[快盗ルビイ (曲)|快盗ルビイ]]』以降作曲から遠ざかっていたが、[[1994年]]からソニーの[[ダブル・オーレコード|Oo Records]]に取締役兼プロデューサーとして参加。[[ |
[[1988年]]に[[小泉今日子]]に提供した『[[快盗ルビイ (曲)|快盗ルビイ]]』以降作曲から遠ざかっていたが、[[1994年]]からソニー・レコードの[[ダブル・オーレコード|Oo Records]]に取締役兼プロデューサーとして参加。翌年、[[さくらももこ]]の依頼により、『[[ちびまる子ちゃん]]』のアニメ主題歌を作曲。[[渡辺満里奈]]の『[[うれしい予感/針切じいさんのロケン・ロール|うれしい予感]]』で7年ぶりに作曲家として復帰する。 |
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[[1997年]]には12年ぶりとなる新曲『[[幸せな結末]]』を発表。[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9ドラマ]]『[[ラブジェネレーション]]』の主題歌としてミリオンセラーを達成。 |
そして[[1997年]]には12年ぶりとなる新曲『[[幸せな結末]]』を発表。[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9ドラマ]]『[[ラブジェネレーション]]』の主題歌として制作されたこの曲は[[ミリオンセラー]]を達成。当時『[[オールナイトニッポンDX|大滝詠一のオールナイトニッポンDX]]』にて1985年からの12年間について「引退していた」と語った。ちょくちょく楽曲提供やプロデュース業はしていたので、歌手としては引退していたと言う事になる。『幸せな結末』に続き、[[市川実和子]]のシングル「ポップスター」のプロデュースも手掛ける。 |
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=== 2000年代 - 2010年代 === |
=== 2000年代 - 2010年代 === |
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[[2000年代]]に入ると再び旧譜のリマスタリング、音源復刻監修を再開。また昔の自分のラジオ番組をリマスターして再放送したり、昔の自分のラジオ番組の新シリーズを開始するなど、独自の試みを行うようになった。 |
[[2000年代]]に入ると再び旧譜の[[リマスタリング]]、音源復刻監修を再開。また昔の自分のラジオ番組をリマスターして再放送したり、昔の自分のラジオ番組の新シリーズを開始するなど、独自の試みを行うようになった。 |
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[[2003年]]には6年ぶりのシングル『[[恋するふたり]]』を発表。月9ドラマ『[[東京ラブ・シネマ]]』主題歌としてヒットする。また、[[竹内まりや]]のアルバム『[[Longtime Favorites]]』で[[フランク・シナトラ]] & [[ナンシー・シナトラ]]の「恋のひとこと」(SOMETHING STUPID) を[[デュエット]]。これらが最後の作品発表となった。 |
[[2003年]]には6年ぶりのシングル『[[恋するふたり (大滝詠一の曲)|恋するふたり]]』を発表。月9ドラマ『[[東京ラブ・シネマ]]』主題歌としてヒットする。また、[[竹内まりや]]のアルバム『[[Longtime Favorites]]』で[[フランク・シナトラ]] & [[ナンシー・シナトラ]]の「恋のひとこと」(SOMETHING STUPID) を[[デュエット]]。これらが最後の作品発表となった。 |
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[[2004年]]末には自宅にマスタリング用の器材を導入 |
[[2004年]]末には自宅にマスタリング用の器材を導入、福生45スタジオが復活。[[2005年]]から最後のリマスターとしてナイアガラ旧譜の30周年アニバーサリー盤の発表を順次開始。[[2014年]]3月には最終作となる「EACH TIME」の発表を控えていた。またラジオ『[[大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝]]』も佳境にさしかかっており、2014年春もしくは夏に完結し、本命である[[イギリス]]のポップス伝に移行するものと目されていた。 |
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[[2005年]]、[[とんねるず]]の新曲の企画が立ち上がり、作詞に[[糸井重里]]を起用した『[[大滝詠一_NOVELTY_SONG_BOOK/NIAGARA_ONDO_BOOK#収録曲_2|ゆうがたフレンド (USEFUL SONG) ]]』が制作されたが、とんねるずサイドが希望していたイメージと相違したことから未発表となる<ref>{{Cite news |title=とんねるず」石橋貴明、大瀧詠一さんが作曲した「とんねるず」の幻の曲を明かす「多分、大瀧さんの家のライブラリーにあります」 |newspaper=スポーツ報知|date=2020-09-02 |
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|url=https://hochi.news/articles/20200902-OHT1T50036.html |accessdate=2023-04-29}}</ref>。この曲の制作にあたり、[[2005年]][[12月12日]]に本人による歌唱も録音されており、これが大瀧最後の公式歌唱レコーディング音源となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4eed3e967c4b94d229ce500dca585eb1250813f8|title=大滝詠一 日本ポップス界の巨人の尽きない探究心、好奇心が結実した“ノベルティ・ソング”【前編】|accessdate=2022-04-29}}</ref>。 |
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[[2011年]][[3月11日]]に起きた[[東日本大震災]]後には、地元の同級生に電話を掛けて安否確認をする等、震災にあった地元に思いを寄せ続け、被災者となった同級生にサインを入れた自身のCDを贈っている。 |
[[2011年]][[3月11日]]に起きた[[東日本大震災]]後には、地元の同級生に電話を掛けて安否確認をする等、震災にあった地元に思いを寄せ続け、被災者となった同級生にサインを入れた自身のCDを贈っている。 |
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=== 65歳で急死 === |
=== 65歳での急死 === |
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[[2013年]][[12月30日]]17時 |
[[2013年]][[12月30日]] 17時50分頃<ref>{{Cite news |title=ミュージシャンの大瀧詠一さん死去、65歳 |newspaper=[[TBSテレビ|TBS]] News i (インターネット・アーカイブのキャッシュ)|date=2013-12-31 |url=https://web.archive.org/web/20140102235114/http://news.tbs.co.jp/20131231/newseye/tbs_newseye2093139.html |accessdate=2014-01-02}}</ref>、[[東京都]][[西多摩郡]][[瑞穂町]]の自宅で家族と夕食後のデザートに[[リンゴ]]を食べている時に倒れ、救急搬送された。警視庁[[福生警察署]]などによると、家族は「リンゴを食べていてのどに詰まらせた」と説明していたという<ref>{{Cite news |title=〈速報〉大滝詠一さん急死 リンゴ食べている時に |newspaper=朝日新聞デジタル(インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2013-12-31 |url=http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/NIK201312310074.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140101074229/http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/NIK201312310074.html |archivedate=2014-01-01 |accessdate=2014-01-02}}</ref>。救急隊がかけつけた時は既に[[心肺停止]]状態であり、病院に搬送後19時頃に死亡が確認された<ref name="asahi131231"/><ref name="nikkei131231"/><ref name="sponichi131231"/><ref name="nikkansports131231"/>。死因は[[動脈瘤|解離性動脈瘤]]とされた(報道では発症部位など詳細については発表されていない)<ref name="asahi131231"/><ref name="nikkei131231"/><ref name="sponichi131231"/><ref name="nikkansports131231"/>。{{没年齢|1948|7|28|2013|12|30}}。 |
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突然の訃報は音楽関係者に大きな衝撃を与え、[[佐野元春]]<ref>{{Cite news|title=佐野元春「ひとつの大きな星を失った」|newspaper=日刊スポーツ(インターネット・アーカイブのキャッシュ)|date=2013-12-31|url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238284.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140101102239/http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238284.html|archivedate=2014年1月1日|accessdate=2014-01-05|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、[[山下達郎]]<ref>{{Cite web |url=http://www.tatsuro.co.jp/news/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140101220017/http://www.tatsuro.co.jp/news/ |archivedate=2014-01-01 |title=NEWS/TOP|publisher=山下達郎 OFFCIAL WEB SITE([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ) |accessdate=2014-01-05}}</ref>、[[大貫妙子]]、[[吉田美奈子]]<ref>{{Cite web |url=http://www.la-la-bells.com/well.html |title=well|publisher=YOSHIDA MINAKO official web site |date=2014-01-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140719220608/http://la-la-bells.com/well.html |archivedate=2014-07-19 |accessdate=2014-11-12}}</ref>、[[桑野信義]]らが追悼のコメントを発表した<ref>{{Cite news|title=大瀧詠一さん音楽仲間ら追悼 佐野元春「日本の音楽界はひとつの大きな星を失った」|newspaper=[[オリコン|ORICON STYLE]]|url=http://www.oricon.co.jp/news/2032625/full|date=2013-12-31|accessdate=2014-01-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140105112053/http://www.oricon.co.jp/news/2032625/full|archivedate=2014-01-05|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。また長年の盟友だった[[松本隆]]は自身のTwitterにて「北へ還る十二月の旅人よ」と大瀧の曲「[[さらばシベリア鉄道]]」にかけた追悼の辞を捧げている<ref>{{Twitter status|takashi_mtmt|419377483574550529}} 2014年1月3日閲覧。</ref>。 |
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[[2014年]][[1月4日]]、都内で葬儀が営まれ、約100人の関係者が参列した。式場には未発表である |
[[2014年]][[1月4日]]、都内で葬儀が営まれ、約100人の関係者が参列した。式場には未発表である自身の声による「[[夢で逢えたら (大瀧詠一の曲)|夢で逢えたら]]」が流され、[[柩]]ははっぴいえんどメンバーだった[[松本隆]]、[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]、[[細野晴臣]]の3人らによって抱えられた<ref>{{Twitter status|takashi_mtmt|419375696025096192}} 2014年1月3日閲覧。</ref>。また、多くのスタッフ・関係者からの要望により、「A LONG VACATION」の発売日で、最期のアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日でもあった[[3月21日]]に「お別れの会」が執り行われ、一般参列者向けの献花台も設けられた<ref>{{Cite news |title=大滝詠一さん葬儀に細野晴臣ら100人参列 |newspaper=日刊スポーツ(インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2014-01-05 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000101692 |accessdate=2014-01-05}}</ref><ref>{{Cite news |title=大滝詠一を偲ぶ<お別れ会>開催。鈴木茂「大滝さんとの対話は幸せな時間だった」 |newspaper=BARKS |date=2014-03-21 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000101692 |accessdate=2014-03-21}}</ref>。 |
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3月21日の「EACH TIME」発売を前に、[[3月19日]]からは過去音源の[[iTunes Store]]における一斉配信がスタートし、その中には |
3月21日の「EACH TIME」発売を前に、[[3月19日]]からは過去音源の[[iTunes Store]]における一斉配信がスタートし、その中には廃盤になり入手困難となっていた[[シリア・ポール]]による「夢で逢えたら」のカバーや単独でCD販売されていなかった「DEBUT」、30周年リイシューから除外された「[[LET'S ONDO AGAIN]]」といった貴重な音源も含まれている。ただし周年CD化記念時のボーナス・トラック類は除外され、オリジナル収録曲のみの内容となっている<ref>{{Cite news |title=大滝詠一、不朽の名作がiTunesで |newspaper=BARKS |date=2014-03-19 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000101577 |accessdate=2014-03-21}}</ref>。 |
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お別れ会の場で、 |
お別れ会の場で、妻から最期の言葉が「ママありがとう」だったことが明かされ、直後に意識を失い、[[チアノーゼ]]も起こしていたという。救急隊の到着まで心臓マッサージを続けた(妻は[[日本の看護師|看護師]]だった)が、意識を取り戻すことがなくそのまま死亡したと臨終の状況が明かされている<ref>{{Cite news |url=https://www.oricon.co.jp/news/2035450/full/ |title=大瀧詠一さん、死去直前に妻に感謝の言葉 “最期の日”も仕事していた |newspaper=[[オリコン|ORICON STYLE]] |date=2014-03-21 |accessdate=2023-04-27}}</ref>。続けて「当日会話をしたのは20分ぐらいだったと思います。今では会話のすべてが遺言となってしまいました。本来ならば、12月末は大好きな落語を聴いて、スタジオの整理、片付けをしている姿があったのですが、昨年はありませんでした。亡くなる最後に『ありがとう』と言ってくれたのは、これまで主人を支えて見守ってくださった方々、またファンの方々に私から一言お礼を述べてほしいということだったと思います。この場をお借りしまして、本当にありがとうございました」と深々とお辞儀をした<ref>{{Cite news |url=https://kogotokoub.exblog.jp/22989787/|title= 一周忌で想う、大瀧詠一と“お笑い”のこと-KAWADE夢ムック、などより。|date=2014-12-30 |accessdate=2014-12-30}}</ref>。 |
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=== 死後 === |
=== 死後 === |
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死後約1年経った[[2014年]][[12月3日]]には生前に山下達郎へ構想を語っていたオールタイムベスト |
死後約1年経った[[2014年]][[12月3日]]には生前に山下達郎へ構想を語っていた[[オールタイム・ベスト]]『[[Best Always]]』が発売。これには大瀧が密かにレコーディングしていた「夢で逢えたら」のセルフカバーが収録。大瀧の歌声による「新作」が発売されるのは実に11年ぶりとなった。また、発売が望まれていた『[[Niagara CD Book II]]』も遅れて[[2015年]][[3月21日]]に発売された<ref>{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/10/14/kiji/K20141014009099250.html |title=大滝詠一さん遺品の中に幻の音源…本人が歌う「夢で逢えたら」 |newspaper=[[スポーツニッポン]] |date=2014-10-14 |accessdate=2014-10-14}}</ref>。 |
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大瀧詠一の楽曲は2020年現在も[[サブスクリプションサービス]]では解禁されていない。 |
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[[2020年]][[10月1日]]からは、出身地に近い[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[東北新幹線]][[水沢江刺駅]]において、「[[君は天然色]]」をアレンジしたものが発車メロディとして使用されている<ref>{{Cite news |url=https://www.city.oshu.iwate.jp/site/mayor/35377.html |title=定例記者会見(令和2年9月9日) |newspaper=[[奥州市]]公式ホームページ |date=2020-09-09 |accessdate=2010-10-01}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.iwate-np.co.jp/article/2020/10/1/85635 |title=大滝サウンド 出発進行 新幹線水沢江刺駅発車メロディー |newspaper=[[岩手日報]] |date=2020-10-01 |accessdate=2010-10-01}}</ref>。 |
[[2020年]][[10月1日]]からは、出身地に近い[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[東北新幹線]][[水沢江刺駅]]において、「[[君は天然色]]」をアレンジしたものが発車メロディとして使用されている<ref>{{Cite news |url=https://www.city.oshu.iwate.jp/site/mayor/35377.html |title=定例記者会見(令和2年9月9日) |newspaper=[[奥州市]]公式ホームページ |date=2020-09-09 |accessdate=2010-10-01}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.iwate-np.co.jp/article/2020/10/1/85635 |title=大滝サウンド 出発進行 新幹線水沢江刺駅発車メロディー |newspaper=[[岩手日報]] |date=2020-10-01 |accessdate=2010-10-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201002152753/https://www.iwate-np.co.jp/article/2020/10/1/85635|archivedate=2020-10-02}}</ref>。 |
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[[2021年]][[3月21日]]、ナイアガラ・レーベルにおけるソロ名義の全楽曲の[[サブスクリプション]]を解禁<ref>{{Cite web|和書|title=大滝詠一の全楽曲サブスク解禁(コメントあり)|url=https://natalie.mu/music/news/418492|website=音楽ナタリー|accessdate=2021-03-07|language=ja|first=Natasha|last=Inc}}</ref>。また[[YouTube]]では「[[君は天然色]]」の[[ミュージック・ビデオ]]が3月3日12:00に公開された。これは「[[A LONG VACATION]]」のリリース40周年を記念して制作された同曲初のMV作品。同アルバムのジャケットを手掛けた[[永井博 (イラストレーター)|永井博]]によるイラストが立体的に表現された映像で構成されており、制作は大滝の大ファンであるアニメ映像ディレクターの[[依田伸隆]]が担当した。 |
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[[2023年]][[10月25日]]にリリースされた松田聖子のベストアルバム『[[Bible -milky blue-]]』に「風立ちぬ(duet version)」が収録された。この音源は1981年に松田が同曲をレコーディングした際に立ち会った大瀧が遊び心で、松田の歌唱と自身の歌唱を繋ぎ合わせる[[編集|エディット]]を施しデュエットソングに仕立てたものである。永らく表に出すことのない音源であったが、大瀧の没後10年という節目に解禁された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/SeikoMatsuda/info/555478|title=松田聖子ベスト盤「Bible」シリーズ新作:秘蔵音源「風立ちぬ(duet version)/大滝詠一×松田聖子」初収録の完全生産限定アナログ盤、2023年10月25日(水)発売決定! 数々のヒット曲満載のCDも同時発売!|website=ソニーミュージック|publisher=ソニー・ミュージックエンタテインメント|date=2023-09-01|accessdate=2023-10-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/541724|title=松田聖子ベスト盤はオリジナルライトブルー2枚組、大滝詠一との「風立ちぬ」デュエット音源を初収録|website=音楽ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-09-21|accessdate=2023-10-29}}</ref>。 |
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== 人物・作風 == |
== 人物・作風 == |
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[[1950年代]]から[[1970年代]]にかけてのアメリカのポップス・ロック、イギリスの[[リバプールサウンド]]、日本の歌謡曲・演芸についての豊富な知識を持ち、それらを駆使して制作される音楽トラックは、普通に聴こえても分析すると実は非常にマニアックであり、また、自作詞に関しては独特のおふざけが入っている。『[[ゴー・ゴー・ナイアガラ (ラジオ番組)|ゴー・ゴー・ナイアガラ]]』時代にリスナーから「あなたには悩みというものがないのですか?」という投稿が送られてきたという。なお、作品はおおまかに分けると、メロディタイプといわれる歌もの、[[コミックソング|ノベルティ]]タイプといわれるサウンド偏重ものの2種類に分かれる。 |
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楽曲制作の |
楽曲制作の綿密さを語る一例として、ある人物が大瀧に「あの曲は3つの曲からの[[盗作|剽窃]]ですね」と指摘し訊ねたところ、「その3つと、あと2曲の5曲からできてるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と大滝が言い返したという逸話([[山下達郎]]がしばしばラジオでする話)や[[伊藤銀次]]がレコーディングに参加した際、有名曲のフレーズを音符を逆にして弾くのを強要されて唖然としたという。 |
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以上の経緯から「[[渋谷系]]のように過去の作品のいいところをつまみ食いしながら楽曲を作っている」と思われがちだが、本人曰く「最終的には+αのインスピレーションがないと曲が完成しない」とのことで、『EACH TIME』のレコーディング期には既にそのインスピレーションが尽きかけていたという。 |
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発言に関しても独特のジョークが多々入っているのが特徴。ふざけている |
発言に関しても独特のジョークが多々入っているのが特徴。ふざけているようで真面目だったり、真面目なようでふざけている発言を淡々とするタイプの人間であり、単純に発言を文字起こししてはいけない人物だった。特に有名なのが「2001年ナイアガラの旅」に纏わるものであり、1984年に「[[ミュージック・ステディ]]」の大滝詠一特集で「[[1988年]]に『ナイアガラトライアングル Vol.3』、[[1989年]]に『ナイアガラカレンダー '89(復刻版)』、[[1991年]]にはソロでの新作『1991』でレコード番号も1991を予約。[[1994年]]には『ナイアガラトライアングル Vol.4』、[[2000年]]に『ナイアガラトライアングルVol.5』、[[2001年]]に再びソロの新作として『2001年ナイアガラの旅』を発表、以上を'''予定している'''」という発言。この発言を真に受けて泣いたファンは数多い。1990年代までは同様の発言を繰り返していたが、大瀧にその気は全くなく、山下達郎などに、いざ追及される側になると「予定は未定だからね」「それより君の作品はどうなの?」とはぐらかしたり、新曲と称してドラムのカウント部分だけをレコーディングしたものを放送したりしていた。 |
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また、他者への提供曲の[[セルフカバー]]を発表する |
また、他者への提供曲の[[セルフカバー]]を発表することに消極的で、ラジオ番組でリスナーにあるかどうか問われても、ないと上手くその存在をうやむやにしていた。また、出しても歌詞を改作したり、新たなメロディーを追加して発表する例が多かった。 |
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当初から他者への提供曲として製作されたものに限定すれば、歌詞の改作をしなかったセルフカバーは、[[沢田研二]]の「[[いくつかの場面|あの娘にご用心]]」だけであり、セルフカバーを作った理由も「曲数が足りなかったから」という不本意なものだった。 |
当初から他者への提供曲として製作されたものに限定すれば、歌詞の改作をしなかったセルフカバーは、[[沢田研二]]の「[[いくつかの場面|あの娘にご用心]]」だけであり、セルフカバーを作った理由も「曲数が足りなかったから」という不本意なものだった。 |
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それ以外では[[スラップスティック (バンド)|スラップスティック]]の「デッキ・チェア」を歌詞を新たに |
それ以外では[[スラップスティック (バンド)|スラップスティック]]の「デッキ・チェア」を歌詞を新たに松本隆に依頼し「スピーチ・バルーン」として、「海辺のジュリエット」は歌詞を新たに松本に依頼しただけでなく、新たにサビの部分のパートを作り「[[恋するカレン]]」としてセルフカバーされている。 |
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」で太田が、アルバム録音中にディレクターが同じ(白川隆三)だった事もあり、同時期に同じスタジオの別ブースで録音中だった大滝の元に挨拶に行った時に「太田裕美に良いじゃないかと思う曲がある」と言われて提供されたと「さらばシベリア鉄道」提供の経緯を語っている。 |
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「さらばシベリア鉄道」は自身の曲として製作中に[[太田裕美]]への提供を思いつき、それを実行したもので、2015年3月29日にNHK BSプレミアムで放送された「大瀧詠一ソングブック」で太田が、アルバム録音中にディレクターが同じ(白川隆三)だったこともあり、同時期に同じスタジオの別ブースで録音中だった大滝の元に挨拶に行った時に「太田裕美に良いじゃないかと思う曲がある」と言われ提供されたと「さらばシベリア鉄道」提供の経緯を語っている。偶然にも「[[木綿のハンカチーフ]]」と同じ松本隆作詞で女性詞と男性詞が交互に出て来る構成の歌詞だった。 |
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「Bachelor Girl」は一旦自身の録音が完成しながら歌詞の内容への疑問から発表を見送り、疑問点が解決した後に[[稲垣潤一]]への提供を行なった為、結果的に自身のバージョンがセルフカバーとして発表されたという経緯がある。 |
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「Bachelor Girl」は一旦自身の録音が完成しながら歌詞の内容への疑問から発表を見送り、疑問点が解決した後で[[稲垣潤一]]に提供したため、結果的に自身のバージョンがセルフカバーとして発表された経緯がある。 |
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「[[夢で逢えたら (大瀧詠一の曲)|夢で逢えたら]]」 |
「[[夢で逢えたら (大瀧詠一の曲)|夢で逢えたら]]」は生前、セルフカバーのマスターテープの存在は家族にしか明かしておらず、死後、関係者がスタジオの整理をしている中、本人がないと言っていたセルフカバーのテープが次々発見されCD化されている。 |
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自身のラジオ番組で、自分の作品を特集する場合は「我田引水くんにお願いする」と |
自身のラジオ番組で、自分の作品を特集する場合は「我田引水くんにお願いする」というように別名を用いて大滝詠一として直接自分の作品を取り上げない演出をしていた。 |
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[[松任谷正隆]]曰く、[[今田耕司]]を1000倍暗くしたのが |
[[松任谷正隆]]曰く、[[今田耕司]]を1000倍暗くしたのが大滝詠一とのこと(「[[FUN]]」より)。 |
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デモバージョンは詞先の楽曲のデモは提供された歌詞を歌うが、曲先の作品は殆ど仮詞は付けず鼻唄でメロディーを歌って提出している。『[[A LONG VACATION 40th Anniversary Edition]]』のDisc-2の『Road to A LONG VACATION』にて1978年から3年間に出した曲のデモバージョンがそれぞれ一部収録されて聞くことができる。 |
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大瀧曰く「デモをガッチリ作ると本番が駄目になる」、「その形に囚われてしまう」と鼻唄(本人曰くフニャフニャ)メロディーのデモを製作する。 |
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なお、『[[A LONG VACATION]]』収録曲の「Velvet Motel」は当初「Summer Breeze」のタイトルで[[アン・ルイス]]に書いていた曲で、「A LONG VACATION 40th Anniversary Edition」のDisc-2の『Road to A LONG VACATION』で仮詞か正式に提供する歌詞だったかの言及はなかったが、大瀧による歌詞が付いているデモテープの一部が公開された。 |
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=== 主な別名・変名 === |
=== 主な別名・変名 === |
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独特のおふざけは数多くの変名にも反映されている。最初に名乗ったのは「ちぇるしぃ」で、大瀧が[[フォークソング|フォーク]]時代の細野晴臣と一緒に、「細野晴臣+α」名義でステージに上がった際に、[[ジョニ・ミッチェル]]の「[[チェルシーの朝]] (Chelsea Morning)」を歌った |
独特のおふざけは数多くの変名にも反映されている。最初に名乗ったのは「ちぇるしぃ」で、大瀧が[[フォークソング|フォーク]]時代の細野晴臣と一緒に、「細野晴臣+α」名義でステージに上がった際に、[[ジョニ・ミッチェル]]の「[[チェルシーの朝]] (Chelsea Morning)」を歌ったところ、観客の中にいた「ジョン・セバスチャンとフォークロックを守る会」のメンバーから「チェルシー」と呼ばれるようになったのがきっかけ。 |
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* 大滝栄一(デビュー当初のミュージシャン名。本名を[[常用漢字]]表記にしたもの) |
* 大滝栄一(デビュー当初のミュージシャン名。本名を[[常用漢字]]表記にしたもの) |
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* 大滝詠一(ミュージシャン名) |
* 大滝詠一(ミュージシャン名) |
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* イーチ大滝 |
* イーチ大滝 ([[ディスクジョッキー|DJ]]) |
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* [[多羅尾伴内]](アレンジャー、CM音楽作曲、ピアニスト、パーカッショニスト、ドラマー、作詞家、作曲家) |
* [[多羅尾伴内]](アレンジャー、CM音楽作曲、ピアニスト、パーカッショニスト、ドラマー、作詞家、作曲家) |
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* ちぇるしぃ |
* ちぇるしぃ (CHELSEA)(アレンジャー) |
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* 笛吹銅次(レコーディングエンジニア、マスタリングエンジニア、[[笛吹童子]] |
* 笛吹銅次(レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニア。名前は[[吉野金次]]、[[伊藤銀次]]と来て次は「銅次」だということで、[[笛吹童子]]をもじったもの) |
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* RINKY O'HEN(アレンジャー) |
* RINKY O'HEN(アレンジャー。「臨機応変」のもじり) |
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* 多幸福(テレビドラマ関係者との共同ペンネーム) |
* 多幸福(テレビドラマ関係者との共同ペンネーム) |
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* 南部半九郎(ベーシスト、[[タンクタンクロー]]のもじり) |
* 南部半九郎(ベーシスト、[[タンクタンクロー]]と[[ハンク・ウィリアムス]]のもじり) |
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* イーハトヴ・田五三九(ドラマー) |
* イーハトヴ・田五三九(ドラマー) |
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* Jack Tones(多重録音コーラス時の一人コーラスグループ。グループ名は楽曲提供した[[キングトーンズ]]と、アメリカのコーラスグループQuin-tones、{{仮リンク|The Teen Queens|en|The Teen Queens}}から) |
* Jack Tones(多重録音コーラス時の一人コーラスグループ。グループ名は楽曲提供した[[キングトーンズ]]と、アメリカのコーラスグループQuin-tones、{{仮リンク|The Teen Queens|en|The Teen Queens}}から) |
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* 宿霧十軒 (Bass)(やどぎりじゅうけん、[[スティーヴ・マックイーン]]主演のTV映画「[[拳銃無宿]]」から |
*: ・宿霧十軒 (Bass)(やどぎりじゅうけん。「がんばれば愛」「Rock'n'Roll退屈男」コーラス・アレンジ、[[スティーブ・マックイーン|スティーヴ・マックイーン]]主演のTV映画「[[拳銃無宿 (テレビドラマ)|拳銃無宿]]」から) |
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* [[我田引水]] |
*: ・[[我田引水]] (Baritone) |
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* ちぇるしぃ |
*: ・ちぇるしぃ (1st Tenor) |
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* 金田一幸助 |
*: ・金田一幸助 (2nd Tenor、[[金田一耕助]]のもじり) |
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* 遠山“桜吹雪”金五郎(「お花見[[メレンゲ (音楽)|メレンゲ]]」(『[[NIAGARA CALENDAR]]』)ヴォーカル、[[遠山金四郎]]のもじり) |
* 遠山“桜吹雪”金五郎(「お花見[[メレンゲ (音楽)|メレンゲ]]」(『[[NIAGARA CALENDAR]]』)ヴォーカル、[[遠山景元|遠山金四郎]]のもじり) |
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* [[国定公園]](「名月赤坂マンション」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[国定忠治]]のもじり) |
* [[国定公園]](「名月赤坂マンション」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[国定忠治]]のもじり)<ref group="注">読み方は“くにさだきみその”となっている。</ref> |
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* 二宮損損(「座 読書」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[二宮尊徳]]のもじり) |
* 二宮損損(「座 読書」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[二宮尊徳]]のもじり) |
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* 坂本八(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[坂本九]]のもじり) |
* 坂本八(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[坂本九]]のもじり) |
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* トランク短井(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[フランク永井]]のもじり) |
* トランク短井(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[フランク永井]]のもじり) |
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* 厚家羅漢(評論家、解説者、 |
* 厚家羅漢(評論家、解説者、あっけらかん) |
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* 鬼野盗作("ナイアガラ俳句友の会") |
* 鬼野盗作("ナイアガラ俳句友の会") |
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* 馬耳東風("信じられる耳を持つ努力をしよう会"会長) |
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* 吉川詠一 |
* 吉川詠一 |
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* ヤング大滝(ハナ肇とクレイジーキャッツ「実年行進曲」におけるクレジット) |
* ヤング大滝(ハナ肇とクレイジーキャッツ「実年行進曲」におけるクレジット) |
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* 桶二歌八 |
* 桶二歌八(「邦子のアンアン小唄」スーパーバイザー) |
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* ニークロ大滝(「恋のナックルボール 前田幸長 Ver.」歌手名) |
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=== レコード会社 === |
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[[はっぴいえんど]]時代を含めて、レコード会社は、インディーズ系の[[アングラ・レコード・クラブ|URC(アングラ・レコード・クラブ)]]→ [[ベルウッド・レコード]]([[キングレコード]]) → [[エレックレコード]]を経て、[[日本コロムビア]]と移籍して行くが、ベルウッド・レコードの次はメジャーなレコード会社への移籍を考えていた<ref name="エレック">「資料日本ポピュラー史研究 初期フォーク・レーベル編」[[黒沢進]]著、SFC音楽出版、1986年12月15日発行、118ページ。</ref>。そこで[[東芝EMI]]、[[CBSソニー]]、日本コロムビアにかけあうも、CMソングのアルバムは出せないと断られ、エレックレコードには仕方なく移籍するということになった。そのため、発売されたレコードにエレックのマークが載るのも、「いやでしたねぇー。裏も表もいれられた時は、あんないやなことはなかったね。もうあの字だけは避けたいとずっと思ってた。URCの頃は、まだレコード会社を知らなかったし、初めてレコード出たところですから。レコード盤になったというだけで喜んでましたけど、まあ、エレックだけは行きたくない会社でしたね。はっきりいって(笑)」と語っている<ref name="エレック"></ref>。 |
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=== リズムへの傾倒 === |
=== リズムへの傾倒 === |
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ソロになって以降、ノベルティタイプの楽曲を製作する中で数多くのリズムを導入。特に[[メレンゲ (音楽)|メレンゲ]]([[ドミニカ共和国]]のダンスミュージック){{small|([[:en:Merengue (dance)|英語版]])}}は気に入ったようで、数度曲名にも使用されている。また、ニューオリンズのガンボミュージックに関しても日本においては、かなり早い時期に着目。[[細野晴臣]]に勧めて、細野のキャリアに強い影響を与えている。 |
ソロになって以降、ノベルティタイプの楽曲を製作する中で数多くのリズムを導入。特に[[メレンゲ (音楽)|メレンゲ]]([[ドミニカ共和国]]のダンスミュージック){{small|([[:en:Merengue (dance)|英語版]])}}は気に入ったようで、数度曲名にも使用されている。また、ニューオリンズの[[ガンボ]]ミュージックに関しても日本においては、かなり早い時期に着目。[[細野晴臣]]に勧めて、細野のキャリアに強い影響を与えている。 |
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だが、最終的に日本のダンスミュージックなら音頭だろうという考えに辿り着き、[[音頭]]を積極的に発表するようになった。この考えに辿り着くまでは紆余曲折あり、きっかけは[[1973年]]に[[伊藤銀次]]から薦められた中原弓彦([[小林信彦]])の『日本の喜劇人』を読み、日本の喜劇史に興味を持ったこと。その後、大瀧は『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代に事務所に集うナイアガラマニアの若者に同書を必読書として勧めていた。その影響もあり、「音頭を作っては?」というハガキがラジオに送られてくるようになり、前々から興味としてはあったものを実行に移した。 |
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その後もコンスタントに音頭を製作。代表的なものに「ナイアガラ音頭」(アルバム『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』収録)、「クリスマス音頭」(アルバム『[[NIAGARA CALENDAR]]』収録)、「[[ビックリハウス]]音頭」、[[片岡鶴太郎]]の『スリラー音頭』と『ビート・イット音頭』や[[角川博]]の「うさぎ温泉音頭」、更に[[金沢明子]]の「[[イエロー・サブマリン音頭]]」([[編曲]]: [[萩原哲晶]])のプロデュース等がある。 |
その後もコンスタントに音頭を製作。代表的なものに「ナイアガラ音頭」(アルバム『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』収録)、「クリスマス音頭」(アルバム『[[NIAGARA CALENDAR]]』収録)、「[[ビックリハウス]]音頭」、[[片岡鶴太郎]]の『スリラー音頭』と『ビート・イット音頭』や[[角川博]]の「うさぎ温泉音頭」、更に[[金沢明子]]の「[[イエロー・サブマリン音頭]]」([[編曲]]: [[萩原哲晶]])のプロデュース等がある。 |
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=== レコーディングエンジニアとして === |
=== レコーディング・エンジニアとして === |
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[[1973年]]から[[1979年]]までは[[レコーディング・エンジニア]]、ミキサー笛吹銅次としても活動。名前は[[吉野金次]]、[[伊藤銀次]]と来て次は「銅次」だという |
[[1973年]]から[[1979年]]までは[[レコーディング・エンジニア]]、ミキサー笛吹銅次としても活動。名前は[[吉野金次]]、[[伊藤銀次]]と来て次は「銅次」だということで、[[笛吹童子]]をもじったもの。 |
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また、[[1974年]]には[[はちみつぱい]]唯一のシングル盤「君と旅行鞄{{small|(トランク)}} / 酔いどれダンスミュージック」にもレコーディング・エンジニアとして参加している。 |
また、[[1974年]]には[[はちみつぱい]]唯一のシングル盤「君と旅行鞄{{small|(トランク)}} / 酔いどれダンスミュージック」にもレコーディング・エンジニアとして参加している。 |
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福生45スタジオを拠点にしていた |
福生45スタジオを拠点にしていたこともあり、ソニー移籍後はエンジニア業から一旦離れたが、[[2000年代]]以降はラジオ番組を[[リマスタリング]]するようになり、[[2004年]]には福生45スタジオをリマスタリングの場として活用。 |
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その後発表された30th Anniversary盤は、久々に笛吹銅次がエンジニアを手掛けている。 |
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過去の作品は全て大瀧がエンジニアをしていると誤解されている事が多いが、ソニー移籍後はCD制作に関しては[[吉田保 (レコーディングエンジニア)|吉田保]]を中心とした外部のエンジニアを起用していた。但し、その他の音源に関してはその限りではなく、福生45スタジオに録音テープを持ち帰り、自らオーバーダビングするという作業を度々行なっていた。『[[幸せな結末]]』のストリングスバージョン等は福生45スタジオで制作されたものである。 |
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過去の作品は全て大瀧がエンジニアをしていると誤解されていることが多いが、ソニー移籍後はCD制作に関しては[[吉田保 (レコーディングエンジニア)|吉田保]]を中心とした外部のエンジニアを起用した。その他の音源に関してはその限りではなく、福生45スタジオに録音テープを持ち帰り、自らオーバーダビングする作業を度々行なっていた。『[[幸せな結末]]』のストリングスバージョン等は福生45スタジオで制作されたものである。 |
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=== メディア出演 === |
=== メディア出演 === |
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[[テレビ]]嫌いとして知られており、はっぴいえんど時代こそ数度テレビ出演したものの、ソロになって以降は1970年代のエレック |
[[テレビ]]嫌いとして知られており、はっぴいえんど時代こそ数度テレビ出演したものの、ソロになって以降は1970年代のエレック-コロムビア時代に歌番組以外の取材・インタビューに応じる形で数回出演しただけで、1981年にCBS・ソニーに移籍後、活動再開以降は、顔出しでテレビに出ることは全くなく、[[1983年]][[3月24日]]の「[[笑っていいとも]]」への電話出演や、[[1986年]][[10月15日]]放映<ref>{{Cite web|和書|url=http://columbia.jp/artist-info/hibari/COBA-6761-70.html |title=美空ひばり 宙(そらから) |publisher=日本コロンビア |archiveurl=https://archive.vn/Sp1Dh |archivedate=2015-11-13 |accessdate=2021-04-24}}</ref>の第6回[[日本作曲大賞]]に音声のみのコメントを残した程度であった(テレビ番組「[[佐野元春のザ・ソングライターズ]]」の佐野からの直接の出演オファーも辞退)。 |
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ただし、「テレビに出演するのが嫌い」という意味でのテレビ嫌いで、テレビを見るのは大好きであり、[[1980年代]]後半-[[1990年代]]前半は自宅に[[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ]]が20台以上あり、それが常時動いているというほどのテレビマニアだった。主に[[大相撲中継]]を好んでいたが、[[テレビドラマ]]に関しては長年興味がなく、初めて全部見たテレビドラマは「[[ラブジェネレーション]] (1997年)」だった。その後、[[宮藤官九郎]]作品にはまっていたという。 |
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メディア出演はほぼ[[ラジオ]]に限られる。1980年代前半まではレギュラープログラムを持っていたが、1980年代後半以降は単発的な特別番組の出演がメインになった。交友のある人物がDJ、若しくはパーソナリティ |
メディア出演はほぼ[[ラジオ]]に限られる。1980年代前半まではレギュラープログラムを持っていたが、1980年代後半以降は単発的な特別番組の出演がメインになった。交友のある人物がDJ、若しくはパーソナリティを務める番組へのゲスト出演も多数あり、その中でも一番有名なのは、[[1984年]]から[[2011年]]まで山下達郎と行なっていた[[山下達郎のサンデー・ソングブック|新春放談]]。この企画は当初の番組が無くなっても、交友の深いミュージシャンや音楽評論家の番組を間借りして急場をしのぎ、四半世紀以上続いた。 |
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=== 勉強家として === |
=== 勉強家として === |
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諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広い |
諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広いことでも有名である。自身は音楽の系譜についての勉強を[[ライフワーク]]としているが(『分母分子論』『ポップス伝』のように紙上・ラジオ上で、その成果を垣間みることができる)、音楽のみにとどまらず、広い分野にまで“関連性”を基底に置いて研究していることが「勉強家」と称する所以である。 |
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大瀧と同様に、日本の大衆音楽を研究しているミュージシャンに[[近田春夫]]がいるが、近田が多数の著書を発表しているのに対し、大瀧は<!--(こう記述する根拠を示せ)「後に残らず消えてしまう」-->ラジオ放送をメインの発表の場としている。 |
大瀧と同様に、日本の大衆音楽を研究しているミュージシャンに[[近田春夫]]がいるが、近田が多数の著書を発表しているのに対し、大瀧は<!--(こう記述する根拠を示せ)「後に残らず消えてしまう」-->ラジオ放送をメインの発表の場としている。 |
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ミュージシャン主導で自主レーベルを持つ、プロデュースのクレジットを入れる、[[CMソング]]をミュージシャンとして本格的に作る、シングルにカラオケバージョンを入れる等、先進的な活動を行ない、これらは後にスタンダードになっている。 |
ミュージシャン主導で自主レーベルを持つ、プロデュースのクレジットを入れる、[[CMソング]]をミュージシャンとして本格的に作る、シングルにカラオケバージョンを入れる等、先進的な活動を行ない、これらは後にスタンダードになっている。 |
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また、日本のポピュラー音楽に与えた影響に少なからぬものがあり、特に、山下達郎の一部の作品、[[渋谷系]]等への影響を指摘する声もある<ref name="リアルサウンド">{{Cite news |title=さようなら大瀧詠一さん 日本のポップ史を変えた偉大な功績を振り返る |newspaper=リアルサウンド(インターネット・アーカイブのキャッシュ)|date=2014-01-01 |author= |url=http://realsound.jp/2014/01/post-232.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140116101850/http://realsound.jp/2014/01/post-232.html |archivedate=2014-01-16}}</ref>。 |
また、日本のポピュラー音楽に与えた影響に少なからぬものがあり、特に、山下達郎の一部の作品、[[渋谷系]]等への影響を指摘する声もある<ref name="リアルサウンド">{{Cite news |title=さようなら大瀧詠一さん 日本のポップ史を変えた偉大な功績を振り返る |newspaper=リアルサウンド(インターネット・アーカイブのキャッシュ)|date=2014-01-01 |author= |url=http://realsound.jp/2014/01/post-232.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140116101850/http://realsound.jp/2014/01/post-232.html |archivedate=2014-01-16}}</ref>。 |
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=== エピソード === |
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大瀧は小学校5年から中学校1年まで野球部に在籍していた事もあって、[[野球]]好きミュージシャンの一人でもあった。まだ[[衛星放送|CS衛星放送]]が普及していない頃から自宅にアンテナを取り付けて全国各地でのプロ野球中継を視聴していた<ref name="Ohtaki">{{Cite news|title=長嶋氏の大ファン大瀧詠一さん おさい銭33円|newspaper=スポニチAnnex(インターネット・アーカイブのキャッシュ)|date=2014-01-01|url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/01/01/kiji/K20140101007304250.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140102065842/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/01/01/kiji/K20140101007304250.html|archivedate=2014-01-02|accessdate=2014-01-02}}</ref>。また、[[長嶋茂雄]]のファンとしても知られており、[[読売ジャイアンツ|長嶋ジャイアンツ]]の[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]を見学する為に[[宮崎市]]へ足を運んだ事もあった<ref name="Ohtaki"/>。 |
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== ディスコグラフィ == |
== ディスコグラフィ == |
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== 大瀧に影響を受けた著名人 == |
== 大瀧に影響を受けた著名人 == |
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* [[鈴木雅之 (歌手)|鈴木雅之]]、[[ラッツ&スター]] - |
* [[鈴木雅之 (歌手)|鈴木雅之]]、[[ラッツ&スター]] - 彼らがアマチュアの頃から大瀧の自宅へ行ったり親交がある。1996年の[[NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]で「夢で逢えたら」を披露した時は、[[田代まさし]]の間奏の台詞に大瀧が感動し泣いていたこともあった。 |
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* [[岩崎元是]] - 元[[岩崎元是&WINDY]]のメンバー |
* [[岩崎元是]] - 元[[岩崎元是&WINDY]]のメンバー。現在、[[アレンジャー]]、[[作曲家]]、[[キーボーディスト]]。大瀧が影響を受けたフィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」というアレンジ手法を用いている。 |
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* 山口隆 - [[サンボマスター]]ボーカル |
* 山口隆 - [[サンボマスター]]のボーカル・ギター。大瀧をリスペクトしており、対談したことがある。 |
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* [[萩原健太]] - 音楽評論家 |
* [[萩原健太]] - 音楽評論家、作曲家、プロデューサー。大瀧を敬愛しており、「ナイアガラ祭り」なるイベントを行っている。 |
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* [[いとうせいこう]] - 2015年3月29日に[[NHK BSプレミアム]]で放送された「大瀧詠一ソングブック」で萩原 |
* [[いとうせいこう]] - 2015年3月29日に[[NHK BSプレミアム]]で放送された「大瀧詠一ソングブック」で萩原と共にMCを務めた。 |
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* [[宮永正隆]] ‐ 集英社「りぼん」編集者(83~90年)~さくらももこトータルプロデューサー兼さくらプロダクション社長(90~97年)~音楽評論家・ビートルズ大学学長(97~現在)。1983年集英社入社時から「りぼんオリジナル」読者投稿ページ"だべりんぐストリート"にてみーやん名義で大滝楽曲を紹介し、「りぼん」本誌読者投稿ページ"みーやんのとんでもケチャップ"レコードレビュー欄では80年代の大滝詠一の新譜をもれなく紹介するナイアガラ・ファン。担当漫画家の一人である柊あおいの「魔法のとけたプリンセス」扉タイトルには英語で小さく「Magic in your eys」と付記し、さくらももこに大滝作品の凄さをたっぷり啓蒙し「ちびまる子ちゃん」扉絵で12か月にわたり「ナイアガラ・カレンダー」の各曲をテーマにした事もある。91年秋からの「さくらももこのオールナイトニッポン月曜1部」では相方および選曲担当を務め、第1回の1曲目でプロモオンリー非売品だった大滝アルバム「Snow Time」収録の「夏のリビエラ」をかけ、番組を通じて大滝詠一の魅力を発信した。番組では大瀧本人がゲストで2時間出演した回もある。最終回では「夏のリビエラ」をもう一度かけ、大瀧からの音声メッセージも届いた。その間、ちびまる子を起用してのNTT夏のサンクスフェアの音楽として大瀧に旧作「レッツ・オンド・アゲン」(布谷文夫)の使用許諾を打診したところ、大瀧が同曲を新たにプロデュースして「レッツ・オンド・アゲイン」(細川たかし)が誕生した。95年アニメ版「ちびまる子ちゃん」再開時に、大瀧に主題歌をオファーし、大瀧は「うれしい予感」(渡辺満里奈)、「針切じいさんのロケンロール」(植木等)を発表した。ビートルズ大学学長としてトークライブ・執筆等の評論活動を開始した際、大瀧は「ビートルズ大学名誉教授」に就任し、現在も永久クレジットされている。 |
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* [[さくらももこ]] - 大滝の長年のファン(最初の夫であった[[宮永正隆]]の影響も大きい)で、「[[ちびまる子ちゃん]]」のアニメが再開されるに当たってテーマソングを依頼した。そして作られたのが渡辺満里奈の「[[うれしい予感/針切じいさんのロケン・ロール|うれしい予感]]」である。 |
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* [[さくらももこ]] - 大滝のファンで「[[ちびまる子ちゃん]]」のアニメが再開されるに当たりテーマソングを依頼。作られたのが渡辺満里奈の「[[うれしい予感/針切じいさんのロケン・ロール|うれしい予感]]」である。([[宮永正隆]]の項に詳しい) |
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==家族・姻戚== |
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娘婿は音楽プロデューサー・音楽評論家で[[バート・バカラック]]研究家の坂口修<ref>[https://web.archive.org/web/20170922024028/http://www.mishimaga.com/gaihu/020.html 内田樹 第20回 凱風館日乗(2013年を振り返って) - みんなのミシマガジン]</ref>。 |
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== 参考資料 == |
== 参考資料 == |
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*『増補改訂版 All About Niagara』[[白夜書房]]、2005年 |
*『増補改訂版 All About Niagara』[[白夜書房]]、2005年12月 |
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* 各アルバムのライナー・ノーツ |
* 各アルバムのライナー・ノーツ |
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== 出演 == |
== 出演 == |
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=== ラジオ === |
=== ラジオ === |
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*[[ゴー・ゴー・ナイアガラ (ラジオ番組)|ゴー・ゴー・ナイアガラ]](ラジオ関東 |
*[[ゴー・ゴー・ナイアガラ (ラジオ番組)|ゴー・ゴー・ナイアガラ]](ラジオ関東【現・[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]】:[[1975年]][[6月23日]] ‐ [[1978年]][[9月25日]] / [[TBSラジオ]]:[[1979年]][[10月14日]] ‐ [[1980年]][[4月6日]]・[[1981年]][[10月10日]] ‐ [[1983年]][[3月29日]]) ‐ [https://web.archive.org/web/20181223124122/http://www.jorf.co.jp/?program=niagara ラジオ日本の開局60周年記念特番として、2018年12月23日 ‐ 2019年3月31日までの全13回、同番組のセレクションが毎週日曜深夜25時00分に再放送された]。 |
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*ニューミュージックフォーラム(1981年4月 ‐ 1982年9月、[[エフエム大阪|FM大阪]]制作[[全国FM放送協議会|JFN]]系)日曜日 13:00~13:55 |
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**番組自体は以前より女性パーソナリティが担当していたが、1981年4月から大瀧が担当することになり、アシスタントは[[西岡幸子]]が務めた。番組内の一コーナーとして、大瀧とゆかりのあるゲストと対談する「大滝詠一のスピーチ・バルーン」があったが、別録音のためアシスタントは加わっていない。この当時レコードのクレジットに大滝詠一を使用していたこともあり、タイトルも大瀧ではなく大滝となっていた。 |
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*新春放談(1983年 ‐ 2011年) |
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*[[オールナイトニッポンDX]](1997年11月28日 、[[ニッポン放送]])金曜日 19:00~21:00 |
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**1月の第一週と二週に放送される[[山下達郎]]とのトークコーナーで、[[NHKFM]]「山下達郎の[[サウンドストリート]]」でスタートしたのを皮切りに、山下降板後は[[佐野元春]]や[[萩原健太]]の番組を間借りして続けられ、JFN系の「[[プレミアム3]]」を経て、「山下達郎のサンデーソングブック」まで続けられたが、大滝の地元岩手県が甚大な被害を受けた東日本大震災に伴い、2012年は放送されず、一旦幕が下ろされた。そして、2013年12月30日の大滝の他界により、四半世紀に渡った山下との放談は完全に幕を閉じた。大滝が表舞台を去り、自身のアルバムのリマスターに徹する半隠居生活になって以降、唯一のラジオ出演であった為、これを聞かなければ、近況や一年何をして過ごしていたか等、大滝の動向を知る事は出来なかった。 |
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**「イーチ・大滝のオールナイトニッポンDX(デラックス) ゴーゴー隅田川」という番組タイトルで、週替わりの金曜パーソナリティとして一日のみ担当。番組進行は放送当時ニッポン放送のアナウンサーだった[[桜庭亮平]]が務めた。 |
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*大瀧詠一のスピーチ・バルーン(2001年10月6日 ‐ 2002年、[[BSデジタル音声放送|BSデジタルラジオ]] [[LFX488]])土曜日 21:00~22:00 |
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**20年前に放送された番組「ニューミュージックフォーラム」内の一コーナーとしてあった「大滝詠一のスピーチ・バルーン」を発展的に独立させたもの。 |
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*サンデー ズバリ!ラジオ 大瀧詠一のスピーチ・バルーン(2012年1月15日 ‐ 、[[ニッポン放送]])日曜日 19:30~20:30 |
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**BSデジタルラジオで放送されていた「大瀧詠一のスピーチ・バルーン」を再編集したもの。 |
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*新春放談(1984年 ‐ 2011年) |
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**1月の第一週と二週に放送される[[山下達郎]]とのトークコーナー。[[NHK-FM放送|NHK-FM]]「山下達郎の[[サウンドストリート]]」でスタートしたのを皮切りに、山下降板後は[[佐野元春]]や[[萩原健太]]の番組を間借りして続けられ、JFN系の「プレミアム3」を経て、「山下達郎のサンデーソングブック」まで続けられたが、2012年は諸事情のため放送されず、一旦幕が下ろされた。そして、2013年12月30日の大瀧の他界により、四半世紀に渡った山下との放談は完全に幕を閉じた。大瀧が表舞台を去り、自身のアルバムのリマスターに徹する半隠居生活になって以降、唯一のラジオ出演であったため、これを聞かなければ、近況や一年何をして過ごしていたか等、大瀧の動向を知ることはできなかった。 |
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*[[大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝]](NHK-FM、第1期 2012年3月27日 ‐ 3月31日、第2期 2012年8月28日 ‐ 9月1日、第3期 2013年3月26日 ‐ 3月30日、第4期 2012年8月13日 ‐ 3月17日)放送時間はいずれも0:00~0:50 |
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=== 映画 === |
=== 映画 === |
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*[[僕は天使ぢゃないよ]](脚本、監督:[[あがた森魚]] |
*[[僕は天使ぢゃないよ]](脚本、監督:[[あがた森魚]])(1974年) |
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== 監修ビデオ |
== 監修ビデオ・DVD == |
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* 『[[クレージー映画|クレージーキャッツ]]・デラックス』[[東宝]]、1984年。DVD化、2005年。 |
* 『[[クレージー映画|クレージーキャッツ]]・デラックス』[[東宝]]、1984年。DVD化、2005年。 |
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== 書籍 == |
== 書籍 == |
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*『All about Niagara 1973-1979』八曜社、1982年 |
*『All about Niagara 1973-1979』八曜社、1982年1月。 |
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*『テレビの黄金時代』[[小林信彦]]編、[[キネマ旬報社]]、1983年 |
*『テレビの黄金時代』[[小林信彦]]編、[[キネマ旬報社]]、1983年5月。のち復刻版、1987年11月。 - クレージー・キャッツ本。[[谷啓]]、小林信彦、大瀧詠一による座談会も収録。 |
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**同題名の小林信彦の著作『テレビの黄金時代』([[文芸春秋]]、2002年10月。のち[[文春文庫]]、2005年11月。)は、別内容の書籍。 |
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*『いちど話してみたかった:小林信彦デラックストーク』[[情報センター出版局]]、1983年<!--6月-->。 - 小林・大瀧の対談が収録。 |
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*『いちど話してみたかった:小林信彦デラックストーク』[[情報センター出版局]]、1983年6月。 - 小林・大瀧の対談が収録。 |
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*『All About Niagara 1973-1979+α』[[白夜書房]]、2001年<!--3月-->。のち増補改訂版、2005年。 |
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*『All About Niagara 1973-1979+α』[[白夜書房]]、2001年3月。のち増補改訂版、2005年。 |
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*『小林旭読本:歌う大スターの伝説』小林信彦と共同責任編集、[[キネマ旬報社]]〈キネ旬ムック〉、2002年<!--3月-->。 |
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*『小林旭読本:歌う大スターの伝説』小林信彦と共同責任編集、[[キネマ旬報社]]〈キネ旬ムック〉、2002年3月。 |
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* [[竹内義和]]、[[北野誠]]『聖戦 サイキック 15thアニバーサリー』[[文藝春秋]]、2003年<!--8月-->。 <!--ISBN 4163652604--> - ゲスト参加。 |
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* [[竹内義和]]、[[北野誠 (タレント)|北野誠]]『聖戦 サイキック 15thアニバーサリー』[[文藝春秋]]、2003年8月。 <!--ISBN 4163652604--> - ゲスト参加。 |
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*『大瀧詠一:大瀧詠一と大滝詠一のソロ活動40年史』[[河出書房新社]]〈KAWADE夢ムック〉、2005年<!--11月-->。のち増補新版、2012年。 |
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*『大瀧詠一:大瀧詠一と大滝詠一のソロ活動40年史』[[河出書房新社]]〈KAWADE夢ムック〉、2005年11月。のち増補新版、2012年。 |
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* [[山口隆]]『叱り叱られ』[[幻冬舎]]、2008年<!--2月-->。 - 山口と大瀧の対談が収録。 |
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* [[サンボマスター#メンバー|山口隆]]『叱り叱られ』[[幻冬舎]]、2008年2月。 - 山口と大瀧の対談が収録。 |
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*『大滝詠一 Talks About Niagara コンプリート・エディション』[[ミュージック・マガジン]]〈[[レコード・コレクターズ]]別冊〉、2014年<!--3月-->。 |
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*『大滝詠一 |
*『大滝詠一 Talks About Niagara コンプリート・エディション』[[ミュージック・マガジン]]〈[[レコード・コレクターズ]]別冊〉、2014年3月。 |
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*『大滝詠一読本 完全保存版 2017 EDITION』[[ステレオサウンド]]〈別冊ステレオサウンド〉、2017年3月。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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{{Reflist}} |
{{Reflist}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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*[[ゴー・ゴー・ナイアガラ]] |
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* [[ナイアガラ・フォール・オブ・サウンド・オーケストラ]]--> |
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* [[三ツ矢サイダー]] |
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* [[エルヴィス・プレスリー]] |
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* [[フィル・スペクター]] |
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* [[ハナ肇とクレージーキャッツ]] |
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* [[萩原哲晶]] |
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* [[岩手県出身の人物一覧]] |
* [[岩手県出身の人物一覧]] |
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* [[ポピュラー音楽の音楽家一覧 (日本・個人)]] |
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* [[日本語ロック論争]] |
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* [[ダブル・オーレコード|Oo Records]] - 大瀧詠一が取締役を務めたレコード会社。1997年にソニー・ミュージックエンタテインメントに吸収。 |
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* [[小林信彦]] |
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* [[FMおおつ]] - [[滋賀県]][[大津市]]にあるコミュニティーFM局。日曜24:00 - 24:30に「Niagara Moonがまた輝けば♪」なる湖西吟次と言う[[伊藤銀次]]を捩った名前の大瀧ファンのナイアガラーのDJによる大瀧がDJを勤めたラジオ番組『GO!GO!Niagara』を蘇らせた様な番組を放送している。オープニングで『GO!GO!Niagara』のテーマ「Dr.Kaplan's Office」をバックに『GO!GO!Niagara』での大瀧の口上を番組用に改作した口上を述べる等大瀧リスペクトの高い番組である。 |
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* [[高信太郎]] -70年代に音楽雑誌の対談で知り合い、「ナイアガラ予言者」「ナイアガラ大滝登り」などの漫画を描いた。 |
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* [[朝妻一郎]] |
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* [[大森昭男]] |
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* [[誠のサイキック青年団]] ラジオ番組 リスナー |
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<!--*[[大森明男]] - [[三ツ矢サイダー]]などのCMソング制作を多数依頼した人物--> |
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* [[ダブル・オーレコード|Oo Records]] - 大瀧詠一が取締役を務めたレコード会社。1997年にソニー・ミュージックエンタテインメントに吸収 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* {{ |
* {{Official website|www.fussa45.net/|大瀧詠一 アミーゴ・ガレージ}} - 公式サイト |
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* [https://www.sonymusic.co.jp/artist/EiichiOhtaki/ 大滝詠一] - ソニーミュージックによる公式ページ |
* [https://www.sonymusic.co.jp/artist/EiichiOhtaki/ 大滝詠一] - ソニーミュージックによる公式ページ |
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* [https://www.radiodays.jp/artist/show/137 ラジオデイズ] - 2008年から、大滝と[[内田樹]]、ライヴカフェ「Again」店主[[石川茂樹]]、ラジオデイズプロデューサー[[平川克美]]による対談を毎年有料配信していた。現在も一部無料で試聴可能。 |
* [https://www.radiodays.jp/artist/show/137 ラジオデイズ] - 2008年から、大滝と[[内田樹]]、ライヴカフェ「Again」店主[[石川茂樹]]、ラジオデイズプロデューサー[[平川克美]]による対談を毎年有料配信していた。現在も一部無料で試聴可能。 |
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[[Category:1948年生]] |
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大瀧 詠一 | |
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出生名 | 大瀧 榮一 |
別名 | 別記を参照 |
生誕 | 1948年7月28日 |
出身地 | 日本・岩手県江刺郡梁川村(現・奥州市江刺梁川) |
死没 | 2013年12月30日(65歳没)[1][2][3][4] |
学歴 | 早稲田大学第二文学部中退[5] |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1969年 - 2013年 |
レーベル | |
事務所 | ザ・ナイアガラ・エンタープライズ |
共同作業者 | はっぴいえんど(1969年 - 1972年) |
公式サイト | 大瀧詠一 アミーゴ・ガレージ |
大瀧 詠一、大滝 詠一(おおたき えいいち、本名:大瀧 榮一、1948年〈昭和23年〉7月28日 - 2013年〈平成25年〉12月30日[1][2][3][4])は、日本のミュージシャン。
シンガーソングライター、作曲家、アレンジャー、音楽プロデューサー、レコードレーベルのオーナー、ラジオDJ、レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニア、著述家、元Oo Records取締役など、多くの顔を持つ。
生涯
[編集]生い立ちと学生時代
[編集]岩手県江刺郡梁川村(のちの江刺市、現在の奥州市)生まれ。母子家庭で育ち、母親が公立学校の教師だったため、小学校・中学校でそれぞれ転校を経験している(小学生の頃には江刺から遠野。中学生時代には遠野から釜石)。
小学5年の夏、親戚の家で聴いたコニー・フランシスの「カラーに口紅」(Lipstick On Your Collar) に衝撃を受けて以降、アメリカンポップスに傾倒。中学入学後ラジオクラブに入り、ラジオを自作し、米軍極東放送 (FEN) やニッポン放送の番組を聴くようになる。間もなくレコード収集を始め、エルヴィス・プレスリーやビーチ・ボーイズなどの音楽を分析的に聴くようになり、独自の研究を深める。
そのため、1962年夏から1966年までにチャートインした曲はすべて覚えている[注 1]というほど精通している。同時期には小林旭や三橋美智也なども好んで聞いていた。特にクレージーキャッツの植木等が歌う「スーダラ節」には非常に影響を受けたとされる。
1964年、岩手県立花巻北高等学校に入学。下宿で一人暮らしをするが、学費を全部レコードにつぎ込んでいたために学費未納により1年で退学させられ、岩手県立釜石南高等学校(現:岩手県立釜石高等学校)に編入。入学直前、FENでビートルズを知り、以降リバプール・サウンド全般を買いまくっていた。釜石南高編入後、初めてバンドを組む。「スプレンダーズ」というバンドでドラムを担当。本来ならコミックバンドをやりたかったが同志が見つからず、やむなくビートルズタイプのバンドを組んだ。メンバーには現在釜石市にある鉄の歴史館館長を務める佐々木諭がいた。
1967年に上京、小岩の製鉄会社に就職するも、出社約20日、在籍期間3ヶ月で退職。その数日前、船橋ヘルスセンターで会社の慰安会があり、余興でビートルズの「ガール」をアカペラで歌ったところ、上司から「うん、キミはこういう所にいるべき人間ではない」と諭されたという[9]。同年夏に、布谷文夫と知り合い「タブー」というバンドを結成。ドラムを担当していたが、同年末に解散。
1968年に早稲田大学第二文学部に入学[5]。布谷を通じて交友があった中田佳彦[注 2]から細野晴臣を紹介されて意気投合。なお両者の初対面は細野の家に大瀧が招かれる形で行われた。その際、細野が"腕試し"としてヤングブラッズの「ゲット・トゥゲザー」(シングル盤)を見えるように置いておいた。部屋に入りしなの大瀧がそれに気付き「おっゲット・トゥゲザー」と言い、細野を感心させた。その後、大瀧・中田・細野の3人で定期的にポップスの研究会を開く。1969年、細野が参加していたバンド「エイプリル・フール」の解散直前に、細野と松本隆によって計画されていた新バンドに加入を要請され受諾。
1970年代
[編集]「ヴァレンタイン・ブルー」は翌1970年「はっぴいえんど」に改名し、アルバム『はっぴいえんど』でデビュー。この時期、「新宿プレイマップ」での座談会(日本語ロック論争)に参加。
はっぴいえんど活動中の1971年にソロ活動を開始し、アルバム『大瀧詠一』(1972年)を発表。はっぴいえんど解散後はソロ活動に移行せず、当時のシンガーソングライターとしては異例であるCMソングの制作と、ごまのはえ、布谷文夫など若手のプロデュースを始める。
この頃、1972年発売の山下達郎の自主制作アルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を偶然耳にした伊藤銀次が大瀧宅に『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を持参し、アルバムを聞いて山下のボーカルを耳にした大瀧はアルバムに連絡先が記載されていたので連絡を取り山下を自宅に招く。アメリカのポップス好きという共通の趣味を持つことから意気投合し、「はっぴいえんどの解散コンサートでコーラスを手伝ってもらえないか?」と依頼したことが山下がプロデビューする切っ掛けとなる。伊藤銀次が山下の自主制作アルバムを大瀧宅に持参したことが切っ掛けだったが、最終的に山下達郎のプロデビューの切っ掛けは大瀧との出会いであることから山下達郎を見出だした人物といえる。その後山下との交流は大瀧が他界する2013年まで続いた。
1974年9月には自らが作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニア・原盤制作・原盤管理などをこなすプライベートレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立し、エレックレコードと契約。翌1975年にははっぴいえんど解散後初となるソロアルバム『NIAGARA MOON』を発表。また、ラジオ関東(現在のアール・エフ・ラジオ日本)で、DJをつとめる番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』を開始し、学生層のコアなファンを獲得するなど、精力的にソロ活動を開始するが、その矢先、エレックレコードが事業縮小し、契約破棄される。
1976年、日本コロムビアにナイアガラごと移籍。その際の契約は福生45スタジオに当時最新鋭の16チャンネルのマルチトラックレコーダーを提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作するという内容だった。後に「3年間何処にも出ないでスタジオにこもりっきりだった」、「3年間での激務は笛吹銅次(エンジニアとして別名)のエンジニアで、歌を作ったり詞を書くのは得意ですが、エンジニアは素人ですから」とコロムビア所属のハードな契約を結んだ3年間を振り返っている。 『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』『GO! GO! NIAGARA』『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はヒットを記録[10]したものの、趣味性の強すぎる楽曲が災いして以降作品の完成度と裏腹に売上が低迷。1977年の『NIAGARA CALENDAR』はチャート入りさえしなかった。
1978年の『LET'S ONDO AGAIN』を最後にコロムビアとの契約を解消。福生45スタジオの機材も売却。ナイアガラレコードも休業状態に陥る。以降レコードの販売権の契約が残っている2年間の間、ソロ作が発表できない状況に陥る。この年にはアルバムを3作しか作っておらず、本来ならばもう1枚作らないといけない契約になっていたための自主規制であり、1980年にコロムビア主導で『TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA』が発売された時には安堵したという。
1980年代前期
[編集]1979年からプロデュース業を手掛け、翌1980年にプロデュースの仕事で出入りすることが多かったCBS・ソニーに移籍。旧友である松本隆と組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる作品のレコーディングに取り掛かる。このレコーディングの最中に、女性向きと考えた「さらばシベリア鉄道」を太田裕美に提供。同曲は大瀧の曲で初めてのヒットシングルになった。
1981年3月に『A LONG VACATION』を発表。当初は売上が低迷していた[11]が、徐々にセールスを伸ばし(大滝曰く「演歌の様な売れ方」)、夏にはチャート2位を記録。「第23回日本レコード大賞・ベストアルバム賞」を受賞。同年7月にリリースされた西城秀樹のアルバム「ポップンガール・ヒデキ」に収録されている「スポーツ・ガール」「ロンサム・シティー」を提供。(作詞は松本隆)1983年まで精力的に楽曲提供・プロデュースを続け、松本とコンビでの松田聖子の シングル『風立ちぬ』で初のチャート1位を記録。うなずきトリオのシングル「うなずきマーチ」では大滝作詞曲で初のチャート入りを果たすなど、多くのアイドルソング・コミックソングを手掛け一躍名声が高まる。森進一の『冬のリヴィエラ』では歌謡曲の王道路線歌手の幅を拡げるポップス楽曲を提供し歌手の新たな側面を開拓。
1984年のアルバム『EACH TIME』制作時に、いわゆる「曲が出なくなる」状態に陥ったことや、独自のポップス音楽の歴史を研究する中で、オリジナル作品をコンスタントに発表していく意味を見いだせなくなった大滝はこのアルバムを持って音楽制作活動の休止を決断。1985年6月のはっぴいえんど再結成ライブが最後のライブへの出演となり、同年11月シングルカットした「フィヨルドの少女」を最後に1997年まで新譜発表は途絶えた。
1980年代後期 - 1990年代
[編集]プロデューサー・作曲家としては80年代後半も引き続き活動、1985年には自ら大ファンであると公言する小林旭の「熱き心に」では、ポップス王道楽曲提供により、旧知のリスナーには往年のマイトガイの活躍を再び思い起こさせ、また小林の若かりし頃における銀幕の大スターとしての人気を知らない若いリスナーにも小林という存在を知らしめた。翌年には自身が少年期からのファンであるクレージーキャッツの30周年記念作を手掛け、新曲「実年行進曲」を作曲・編曲、五万節のリメイク「新五万節」を編曲(クレジットでは編々曲)した。クレージーキャッツの楽曲を数多く手掛けた萩原哲晶の愛好家でもある大瀧は萩原に敬意を表して、彼の名前を「原編曲」としてクレジットし、「実年行進曲」と「新五万節」に過去の楽曲のフレーズを挿入している。
1980年代後期以降、ナイアガラレコードの旧譜のリマスタリングや、大瀧が影響を受けた先人の音源復刻「LEGENDARY REMASTER SERIES」の監修やライナー執筆、ラジオの特別番組のDJなどを手掛ける。また、1979年から本格的に取り組み始めたポップス史の研究は、1983年に「分母分子論」としてその一端が明らかにされていたが、1991年にはそれを更に発展させた「普動説」として結実させている。
1988年に小泉今日子に提供した『快盗ルビイ』以降作曲から遠ざかっていたが、1994年からソニー・レコードのOo Recordsに取締役兼プロデューサーとして参加。翌年、さくらももこの依頼により、『ちびまる子ちゃん』のアニメ主題歌を作曲。渡辺満里奈の『うれしい予感』で7年ぶりに作曲家として復帰する。
そして1997年には12年ぶりとなる新曲『幸せな結末』を発表。月9ドラマ『ラブジェネレーション』の主題歌として制作されたこの曲はミリオンセラーを達成。当時『大滝詠一のオールナイトニッポンDX』にて1985年からの12年間について「引退していた」と語った。ちょくちょく楽曲提供やプロデュース業はしていたので、歌手としては引退していたと言う事になる。『幸せな結末』に続き、市川実和子のシングル「ポップスター」のプロデュースも手掛ける。
2000年代 - 2010年代
[編集]2000年代に入ると再び旧譜のリマスタリング、音源復刻監修を再開。また昔の自分のラジオ番組をリマスターして再放送したり、昔の自分のラジオ番組の新シリーズを開始するなど、独自の試みを行うようになった。
2003年には6年ぶりのシングル『恋するふたり』を発表。月9ドラマ『東京ラブ・シネマ』主題歌としてヒットする。また、竹内まりやのアルバム『Longtime Favorites』でフランク・シナトラ & ナンシー・シナトラの「恋のひとこと」(SOMETHING STUPID) をデュエット。これらが最後の作品発表となった。
2004年末には自宅にマスタリング用の器材を導入、福生45スタジオが復活。2005年から最後のリマスターとしてナイアガラ旧譜の30周年アニバーサリー盤の発表を順次開始。2014年3月には最終作となる「EACH TIME」の発表を控えていた。またラジオ『大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝』も佳境にさしかかっており、2014年春もしくは夏に完結し、本命であるイギリスのポップス伝に移行するものと目されていた。
2005年、とんねるずの新曲の企画が立ち上がり、作詞に糸井重里を起用した『ゆうがたフレンド (USEFUL SONG) 』が制作されたが、とんねるずサイドが希望していたイメージと相違したことから未発表となる[12]。この曲の制作にあたり、2005年12月12日に本人による歌唱も録音されており、これが大瀧最後の公式歌唱レコーディング音源となっている[13]。
2011年3月11日に起きた東日本大震災後には、地元の同級生に電話を掛けて安否確認をする等、震災にあった地元に思いを寄せ続け、被災者となった同級生にサインを入れた自身のCDを贈っている。
65歳での急死
[編集]2013年12月30日 17時50分頃[14]、東京都西多摩郡瑞穂町の自宅で家族と夕食後のデザートにリンゴを食べている時に倒れ、救急搬送された。警視庁福生警察署などによると、家族は「リンゴを食べていてのどに詰まらせた」と説明していたという[15]。救急隊がかけつけた時は既に心肺停止状態であり、病院に搬送後19時頃に死亡が確認された[1][2][3][4]。死因は解離性動脈瘤とされた(報道では発症部位など詳細については発表されていない)[1][2][3][4]。65歳没。
突然の訃報は音楽関係者に大きな衝撃を与え、佐野元春[16]、山下達郎[17]、大貫妙子、吉田美奈子[18]、桑野信義らが追悼のコメントを発表した[19]。また長年の盟友だった松本隆は自身のTwitterにて「北へ還る十二月の旅人よ」と大瀧の曲「さらばシベリア鉄道」にかけた追悼の辞を捧げている[20]。
2014年1月4日、都内で葬儀が営まれ、約100人の関係者が参列した。式場には未発表である自身の声による「夢で逢えたら」が流され、柩ははっぴいえんどメンバーだった松本隆、鈴木茂、細野晴臣の3人らによって抱えられた[21]。また、多くのスタッフ・関係者からの要望により、「A LONG VACATION」の発売日で、最期のアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日でもあった3月21日に「お別れの会」が執り行われ、一般参列者向けの献花台も設けられた[22][23]。
3月21日の「EACH TIME」発売を前に、3月19日からは過去音源のiTunes Storeにおける一斉配信がスタートし、その中には廃盤になり入手困難となっていたシリア・ポールによる「夢で逢えたら」のカバーや単独でCD販売されていなかった「DEBUT」、30周年リイシューから除外された「LET'S ONDO AGAIN」といった貴重な音源も含まれている。ただし周年CD化記念時のボーナス・トラック類は除外され、オリジナル収録曲のみの内容となっている[24]。
お別れ会の場で、妻から最期の言葉が「ママありがとう」だったことが明かされ、直後に意識を失い、チアノーゼも起こしていたという。救急隊の到着まで心臓マッサージを続けた(妻は看護師だった)が、意識を取り戻すことがなくそのまま死亡したと臨終の状況が明かされている[25]。続けて「当日会話をしたのは20分ぐらいだったと思います。今では会話のすべてが遺言となってしまいました。本来ならば、12月末は大好きな落語を聴いて、スタジオの整理、片付けをしている姿があったのですが、昨年はありませんでした。亡くなる最後に『ありがとう』と言ってくれたのは、これまで主人を支えて見守ってくださった方々、またファンの方々に私から一言お礼を述べてほしいということだったと思います。この場をお借りしまして、本当にありがとうございました」と深々とお辞儀をした[26]。
死後
[編集]死後約1年経った2014年12月3日には生前に山下達郎へ構想を語っていたオールタイム・ベスト『Best Always』が発売。これには大瀧が密かにレコーディングしていた「夢で逢えたら」のセルフカバーが収録。大瀧の歌声による「新作」が発売されるのは実に11年ぶりとなった。また、発売が望まれていた『Niagara CD Book II』も遅れて2015年3月21日に発売された[27]。
2020年10月1日からは、出身地に近い東日本旅客鉄道(JR東日本)東北新幹線水沢江刺駅において、「君は天然色」をアレンジしたものが発車メロディとして使用されている[28][29]。
2021年3月21日、ナイアガラ・レーベルにおけるソロ名義の全楽曲のサブスクリプションを解禁[30]。またYouTubeでは「君は天然色」のミュージック・ビデオが3月3日12:00に公開された。これは「A LONG VACATION」のリリース40周年を記念して制作された同曲初のMV作品。同アルバムのジャケットを手掛けた永井博によるイラストが立体的に表現された映像で構成されており、制作は大滝の大ファンであるアニメ映像ディレクターの依田伸隆が担当した。
2023年10月25日にリリースされた松田聖子のベストアルバム『Bible -milky blue-』に「風立ちぬ(duet version)」が収録された。この音源は1981年に松田が同曲をレコーディングした際に立ち会った大瀧が遊び心で、松田の歌唱と自身の歌唱を繋ぎ合わせるエディットを施しデュエットソングに仕立てたものである。永らく表に出すことのない音源であったが、大瀧の没後10年という節目に解禁された[31][32]。
人物・作風
[編集]1950年代から1970年代にかけてのアメリカのポップス・ロック、イギリスのリバプールサウンド、日本の歌謡曲・演芸についての豊富な知識を持ち、それらを駆使して制作される音楽トラックは、普通に聴こえても分析すると実は非常にマニアックであり、また、自作詞に関しては独特のおふざけが入っている。『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代にリスナーから「あなたには悩みというものがないのですか?」という投稿が送られてきたという。なお、作品はおおまかに分けると、メロディタイプといわれる歌もの、ノベルティタイプといわれるサウンド偏重ものの2種類に分かれる。
楽曲制作の綿密さを語る一例として、ある人物が大瀧に「あの曲は3つの曲からの剽窃ですね」と指摘し訊ねたところ、「その3つと、あと2曲の5曲からできてるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と大滝が言い返したという逸話(山下達郎がしばしばラジオでする話)や伊藤銀次がレコーディングに参加した際、有名曲のフレーズを音符を逆にして弾くのを強要されて唖然としたという。
以上の経緯から「渋谷系のように過去の作品のいいところをつまみ食いしながら楽曲を作っている」と思われがちだが、本人曰く「最終的には+αのインスピレーションがないと曲が完成しない」とのことで、『EACH TIME』のレコーディング期には既にそのインスピレーションが尽きかけていたという。
発言に関しても独特のジョークが多々入っているのが特徴。ふざけているようで真面目だったり、真面目なようでふざけている発言を淡々とするタイプの人間であり、単純に発言を文字起こししてはいけない人物だった。特に有名なのが「2001年ナイアガラの旅」に纏わるものであり、1984年に「ミュージック・ステディ」の大滝詠一特集で「1988年に『ナイアガラトライアングル Vol.3』、1989年に『ナイアガラカレンダー '89(復刻版)』、1991年にはソロでの新作『1991』でレコード番号も1991を予約。1994年には『ナイアガラトライアングル Vol.4』、2000年に『ナイアガラトライアングルVol.5』、2001年に再びソロの新作として『2001年ナイアガラの旅』を発表、以上を予定している」という発言。この発言を真に受けて泣いたファンは数多い。1990年代までは同様の発言を繰り返していたが、大瀧にその気は全くなく、山下達郎などに、いざ追及される側になると「予定は未定だからね」「それより君の作品はどうなの?」とはぐらかしたり、新曲と称してドラムのカウント部分だけをレコーディングしたものを放送したりしていた。
また、他者への提供曲のセルフカバーを発表することに消極的で、ラジオ番組でリスナーにあるかどうか問われても、ないと上手くその存在をうやむやにしていた。また、出しても歌詞を改作したり、新たなメロディーを追加して発表する例が多かった。
当初から他者への提供曲として製作されたものに限定すれば、歌詞の改作をしなかったセルフカバーは、沢田研二の「あの娘にご用心」だけであり、セルフカバーを作った理由も「曲数が足りなかったから」という不本意なものだった。
それ以外ではスラップスティックの「デッキ・チェア」を歌詞を新たに松本隆に依頼し「スピーチ・バルーン」として、「海辺のジュリエット」は歌詞を新たに松本に依頼しただけでなく、新たにサビの部分のパートを作り「恋するカレン」としてセルフカバーされている。
「さらばシベリア鉄道」は自身の曲として製作中に太田裕美への提供を思いつき、それを実行したもので、2015年3月29日にNHK BSプレミアムで放送された「大瀧詠一ソングブック」で太田が、アルバム録音中にディレクターが同じ(白川隆三)だったこともあり、同時期に同じスタジオの別ブースで録音中だった大滝の元に挨拶に行った時に「太田裕美に良いじゃないかと思う曲がある」と言われ提供されたと「さらばシベリア鉄道」提供の経緯を語っている。偶然にも「木綿のハンカチーフ」と同じ松本隆作詞で女性詞と男性詞が交互に出て来る構成の歌詞だった。
「Bachelor Girl」は一旦自身の録音が完成しながら歌詞の内容への疑問から発表を見送り、疑問点が解決した後で稲垣潤一に提供したため、結果的に自身のバージョンがセルフカバーとして発表された経緯がある。
「夢で逢えたら」は生前、セルフカバーのマスターテープの存在は家族にしか明かしておらず、死後、関係者がスタジオの整理をしている中、本人がないと言っていたセルフカバーのテープが次々発見されCD化されている。
自身のラジオ番組で、自分の作品を特集する場合は「我田引水くんにお願いする」というように別名を用いて大滝詠一として直接自分の作品を取り上げない演出をしていた。
松任谷正隆曰く、今田耕司を1000倍暗くしたのが大滝詠一とのこと(「FUN」より)。
デモバージョンは詞先の楽曲のデモは提供された歌詞を歌うが、曲先の作品は殆ど仮詞は付けず鼻唄でメロディーを歌って提出している。『A LONG VACATION 40th Anniversary Edition』のDisc-2の『Road to A LONG VACATION』にて1978年から3年間に出した曲のデモバージョンがそれぞれ一部収録されて聞くことができる。 大瀧曰く「デモをガッチリ作ると本番が駄目になる」、「その形に囚われてしまう」と鼻唄(本人曰くフニャフニャ)メロディーのデモを製作する。 なお、『A LONG VACATION』収録曲の「Velvet Motel」は当初「Summer Breeze」のタイトルでアン・ルイスに書いていた曲で、「A LONG VACATION 40th Anniversary Edition」のDisc-2の『Road to A LONG VACATION』で仮詞か正式に提供する歌詞だったかの言及はなかったが、大瀧による歌詞が付いているデモテープの一部が公開された。
主な別名・変名
[編集]独特のおふざけは数多くの変名にも反映されている。最初に名乗ったのは「ちぇるしぃ」で、大瀧がフォーク時代の細野晴臣と一緒に、「細野晴臣+α」名義でステージに上がった際に、ジョニ・ミッチェルの「チェルシーの朝 (Chelsea Morning)」を歌ったところ、観客の中にいた「ジョン・セバスチャンとフォークロックを守る会」のメンバーから「チェルシー」と呼ばれるようになったのがきっかけ。
- 大滝栄一(デビュー当初のミュージシャン名。本名を常用漢字表記にしたもの)
- 大滝詠一(ミュージシャン名)
- イーチ大滝 (DJ)
- 多羅尾伴内(アレンジャー、CM音楽作曲、ピアニスト、パーカッショニスト、ドラマー、作詞家、作曲家)
- ちぇるしぃ (CHELSEA)(アレンジャー)
- 笛吹銅次(レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニア。名前は吉野金次、伊藤銀次と来て次は「銅次」だということで、笛吹童子をもじったもの)
- RINKY O'HEN(アレンジャー。「臨機応変」のもじり)
- 多幸福(テレビドラマ関係者との共同ペンネーム)
- 南部半九郎(ベーシスト、タンクタンクローとハンク・ウィリアムスのもじり)
- イーハトヴ・田五三九(ドラマー)
- Jack Tones(多重録音コーラス時の一人コーラスグループ。グループ名は楽曲提供したキングトーンズと、アメリカのコーラスグループQuin-tones、The Teen Queensから)
- ・宿霧十軒 (Bass)(やどぎりじゅうけん。「がんばれば愛」「Rock'n'Roll退屈男」コーラス・アレンジ、スティーヴ・マックイーン主演のTV映画「拳銃無宿」から)
- ・我田引水 (Baritone)
- ・ちぇるしぃ (1st Tenor)
- ・金田一幸助 (2nd Tenor、金田一耕助のもじり)
- 遠山“桜吹雪”金五郎(「お花見メレンゲ」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、遠山金四郎のもじり)
- 国定公園(「名月赤坂マンション」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、国定忠治のもじり)[注 3]
- 二宮損損(「座 読書」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、二宮尊徳のもじり)
- 坂本八(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、坂本九のもじり)
- トランク短井(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、フランク永井のもじり)
- 厚家羅漢(評論家、解説者、あっけらかん)
- 鬼野盗作("ナイアガラ俳句友の会")
- 馬耳東風("信じられる耳を持つ努力をしよう会"会長)
- 吉川詠一
- ヤング大滝(ハナ肇とクレイジーキャッツ「実年行進曲」におけるクレジット)
- 桶二歌八(「邦子のアンアン小唄」スーパーバイザー)
- ニークロ大滝(「恋のナックルボール 前田幸長 Ver.」歌手名)
レコード会社
[編集]はっぴいえんど時代を含めて、レコード会社は、インディーズ系のURC(アングラ・レコード・クラブ)→ ベルウッド・レコード(キングレコード) → エレックレコードを経て、日本コロムビアと移籍して行くが、ベルウッド・レコードの次はメジャーなレコード会社への移籍を考えていた[33]。そこで東芝EMI、CBSソニー、日本コロムビアにかけあうも、CMソングのアルバムは出せないと断られ、エレックレコードには仕方なく移籍するということになった。そのため、発売されたレコードにエレックのマークが載るのも、「いやでしたねぇー。裏も表もいれられた時は、あんないやなことはなかったね。もうあの字だけは避けたいとずっと思ってた。URCの頃は、まだレコード会社を知らなかったし、初めてレコード出たところですから。レコード盤になったというだけで喜んでましたけど、まあ、エレックだけは行きたくない会社でしたね。はっきりいって(笑)」と語っている[33]。
リズムへの傾倒
[編集]ソロになって以降、ノベルティタイプの楽曲を製作する中で数多くのリズムを導入。特にメレンゲ(ドミニカ共和国のダンスミュージック)(英語版)は気に入ったようで、数度曲名にも使用されている。また、ニューオリンズのガンボミュージックに関しても日本においては、かなり早い時期に着目。細野晴臣に勧めて、細野のキャリアに強い影響を与えている。
だが、最終的に日本のダンスミュージックなら音頭だろうという考えに辿り着き、音頭を積極的に発表するようになった。この考えに辿り着くまでは紆余曲折あり、きっかけは1973年に伊藤銀次から薦められた中原弓彦(小林信彦)の『日本の喜劇人』を読み、日本の喜劇史に興味を持ったこと。その後、大瀧は『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代に事務所に集うナイアガラマニアの若者に同書を必読書として勧めていた。その影響もあり、「音頭を作っては?」というハガキがラジオに送られてくるようになり、前々から興味としてはあったものを実行に移した。
その後もコンスタントに音頭を製作。代表的なものに「ナイアガラ音頭」(アルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』収録)、「クリスマス音頭」(アルバム『NIAGARA CALENDAR』収録)、「ビックリハウス音頭」、片岡鶴太郎の『スリラー音頭』と『ビート・イット音頭』や角川博の「うさぎ温泉音頭」、更に金沢明子の「イエロー・サブマリン音頭」(編曲: 萩原哲晶)のプロデュース等がある。
レコーディング・エンジニアとして
[編集]1973年から1979年まではレコーディング・エンジニア、ミキサー笛吹銅次としても活動。名前は吉野金次、伊藤銀次と来て次は「銅次」だということで、笛吹童子をもじったもの。
また、1974年にははちみつぱい唯一のシングル盤「君と旅行鞄(トランク) / 酔いどれダンスミュージック」にもレコーディング・エンジニアとして参加している。
福生45スタジオを拠点にしていたこともあり、ソニー移籍後はエンジニア業から一旦離れたが、2000年代以降はラジオ番組をリマスタリングするようになり、2004年には福生45スタジオをリマスタリングの場として活用。
その後発表された30th Anniversary盤は、久々に笛吹銅次がエンジニアを手掛けている。
過去の作品は全て大瀧がエンジニアをしていると誤解されていることが多いが、ソニー移籍後はCD制作に関しては吉田保を中心とした外部のエンジニアを起用した。その他の音源に関してはその限りではなく、福生45スタジオに録音テープを持ち帰り、自らオーバーダビングする作業を度々行なっていた。『幸せな結末』のストリングスバージョン等は福生45スタジオで制作されたものである。
メディア出演
[編集]テレビ嫌いとして知られており、はっぴいえんど時代こそ数度テレビ出演したものの、ソロになって以降は1970年代のエレック-コロムビア時代に歌番組以外の取材・インタビューに応じる形で数回出演しただけで、1981年にCBS・ソニーに移籍後、活動再開以降は、顔出しでテレビに出ることは全くなく、1983年3月24日の「笑っていいとも」への電話出演や、1986年10月15日放映[34]の第6回日本作曲大賞に音声のみのコメントを残した程度であった(テレビ番組「佐野元春のザ・ソングライターズ」の佐野からの直接の出演オファーも辞退)。
ただし、「テレビに出演するのが嫌い」という意味でのテレビ嫌いで、テレビを見るのは大好きであり、1980年代後半-1990年代前半は自宅にビデオデッキが20台以上あり、それが常時動いているというほどのテレビマニアだった。主に大相撲中継を好んでいたが、テレビドラマに関しては長年興味がなく、初めて全部見たテレビドラマは「ラブジェネレーション (1997年)」だった。その後、宮藤官九郎作品にはまっていたという。
メディア出演はほぼラジオに限られる。1980年代前半まではレギュラープログラムを持っていたが、1980年代後半以降は単発的な特別番組の出演がメインになった。交友のある人物がDJ、若しくはパーソナリティを務める番組へのゲスト出演も多数あり、その中でも一番有名なのは、1984年から2011年まで山下達郎と行なっていた新春放談。この企画は当初の番組が無くなっても、交友の深いミュージシャンや音楽評論家の番組を間借りして急場をしのぎ、四半世紀以上続いた。
勉強家として
[編集]諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広いことでも有名である。自身は音楽の系譜についての勉強をライフワークとしているが(『分母分子論』『ポップス伝』のように紙上・ラジオ上で、その成果を垣間みることができる)、音楽のみにとどまらず、広い分野にまで“関連性”を基底に置いて研究していることが「勉強家」と称する所以である。
大瀧と同様に、日本の大衆音楽を研究しているミュージシャンに近田春夫がいるが、近田が多数の著書を発表しているのに対し、大瀧はラジオ放送をメインの発表の場としている。
その後の音楽界に与えた影響
[編集]ミュージシャン主導で自主レーベルを持つ、プロデュースのクレジットを入れる、CMソングをミュージシャンとして本格的に作る、シングルにカラオケバージョンを入れる等、先進的な活動を行ない、これらは後にスタンダードになっている。
また、日本のポピュラー音楽に与えた影響に少なからぬものがあり、特に、山下達郎の一部の作品、渋谷系等への影響を指摘する声もある[35]。
ディスコグラフィ
[編集]※オリジナル・アルバムに絞って記載。“NIAGARA TRIANGLEシリーズ”と“NIAGARA CM SPECIALシリーズ”、『LET'S ONDO AGAIN』、インストゥルメンタル・アルバムは除外。
タイトル | 発売日 | オリコンチャート最高位 |
---|---|---|
Bellwood ⁄ KING | ||
大瀧詠一 | 1972年11月25日 | 75位 |
NIAGARA ⁄ ELEC | ||
NIAGARA MOON | 1975年5月30日 | 77位 |
NIAGARA ⁄ COLUMBIA | ||
GO! GO! NIAGARA | 1976年10月25日 | 41位 |
NIAGARA CALENDAR | 1977年12月25日 | 60位(1996年盤、オリジナル盤は不明) |
NIAGARA ⁄ CBS/SONY | ||
A LONG VACATION | 1981年3月21日 | 2位 |
EACH TIME | 1984年3月21日 | 1位 |
NIAGARA ⁄ Sony Music Labels Inc. | ||
DEBUT AGAIN | 2016年3月21日 | 3位 |
トリビュート・アルバム
[編集]- 『ナイアガラで恋をして Tribute to EIICHI OHTAKI』
- 『A LONG VACATION from Ladies』
大瀧に影響を受けた著名人
[編集]- 鈴木雅之、ラッツ&スター - 彼らがアマチュアの頃から大瀧の自宅へ行ったり親交がある。1996年の紅白歌合戦で「夢で逢えたら」を披露した時は、田代まさしの間奏の台詞に大瀧が感動し泣いていたこともあった。
- 岩崎元是 - 元岩崎元是&WINDYのメンバー。現在、アレンジャー、作曲家、キーボーディスト。大瀧が影響を受けたフィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」というアレンジ手法を用いている。
- 山口隆 - サンボマスターのボーカル・ギター。大瀧をリスペクトしており、対談したことがある。
- 萩原健太 - 音楽評論家、作曲家、プロデューサー。大瀧を敬愛しており、「ナイアガラ祭り」なるイベントを行っている。
- いとうせいこう - 2015年3月29日にNHK BSプレミアムで放送された「大瀧詠一ソングブック」で萩原と共にMCを務めた。
- 宮永正隆 ‐ 集英社「りぼん」編集者(83~90年)~さくらももこトータルプロデューサー兼さくらプロダクション社長(90~97年)~音楽評論家・ビートルズ大学学長(97~現在)。1983年集英社入社時から「りぼんオリジナル」読者投稿ページ"だべりんぐストリート"にてみーやん名義で大滝楽曲を紹介し、「りぼん」本誌読者投稿ページ"みーやんのとんでもケチャップ"レコードレビュー欄では80年代の大滝詠一の新譜をもれなく紹介するナイアガラ・ファン。担当漫画家の一人である柊あおいの「魔法のとけたプリンセス」扉タイトルには英語で小さく「Magic in your eys」と付記し、さくらももこに大滝作品の凄さをたっぷり啓蒙し「ちびまる子ちゃん」扉絵で12か月にわたり「ナイアガラ・カレンダー」の各曲をテーマにした事もある。91年秋からの「さくらももこのオールナイトニッポン月曜1部」では相方および選曲担当を務め、第1回の1曲目でプロモオンリー非売品だった大滝アルバム「Snow Time」収録の「夏のリビエラ」をかけ、番組を通じて大滝詠一の魅力を発信した。番組では大瀧本人がゲストで2時間出演した回もある。最終回では「夏のリビエラ」をもう一度かけ、大瀧からの音声メッセージも届いた。その間、ちびまる子を起用してのNTT夏のサンクスフェアの音楽として大瀧に旧作「レッツ・オンド・アゲン」(布谷文夫)の使用許諾を打診したところ、大瀧が同曲を新たにプロデュースして「レッツ・オンド・アゲイン」(細川たかし)が誕生した。95年アニメ版「ちびまる子ちゃん」再開時に、大瀧に主題歌をオファーし、大瀧は「うれしい予感」(渡辺満里奈)、「針切じいさんのロケンロール」(植木等)を発表した。ビートルズ大学学長としてトークライブ・執筆等の評論活動を開始した際、大瀧は「ビートルズ大学名誉教授」に就任し、現在も永久クレジットされている。
- さくらももこ - 大滝のファンで「ちびまる子ちゃん」のアニメが再開されるに当たりテーマソングを依頼。作られたのが渡辺満里奈の「うれしい予感」である。(宮永正隆の項に詳しい)
家族・姻戚
[編集]娘婿は音楽プロデューサー・音楽評論家でバート・バカラック研究家の坂口修[36]。
参考資料
[編集]- 『増補改訂版 All About Niagara』白夜書房、2005年12月
- 各アルバムのライナー・ノーツ
出演
[編集]ラジオ
[編集]- ゴー・ゴー・ナイアガラ(ラジオ関東【現・ラジオ日本】:1975年6月23日 ‐ 1978年9月25日 / TBSラジオ:1979年10月14日 ‐ 1980年4月6日・1981年10月10日 ‐ 1983年3月29日) ‐ ラジオ日本の開局60周年記念特番として、2018年12月23日 ‐ 2019年3月31日までの全13回、同番組のセレクションが毎週日曜深夜25時00分に再放送された。
- ニューミュージックフォーラム(1981年4月 ‐ 1982年9月、FM大阪制作JFN系)日曜日 13:00~13:55
- 番組自体は以前より女性パーソナリティが担当していたが、1981年4月から大瀧が担当することになり、アシスタントは西岡幸子が務めた。番組内の一コーナーとして、大瀧とゆかりのあるゲストと対談する「大滝詠一のスピーチ・バルーン」があったが、別録音のためアシスタントは加わっていない。この当時レコードのクレジットに大滝詠一を使用していたこともあり、タイトルも大瀧ではなく大滝となっていた。
- オールナイトニッポンDX(1997年11月28日 、ニッポン放送)金曜日 19:00~21:00
- 「イーチ・大滝のオールナイトニッポンDX(デラックス) ゴーゴー隅田川」という番組タイトルで、週替わりの金曜パーソナリティとして一日のみ担当。番組進行は放送当時ニッポン放送のアナウンサーだった桜庭亮平が務めた。
- 大瀧詠一のスピーチ・バルーン(2001年10月6日 ‐ 2002年、BSデジタルラジオ LFX488)土曜日 21:00~22:00
- 20年前に放送された番組「ニューミュージックフォーラム」内の一コーナーとしてあった「大滝詠一のスピーチ・バルーン」を発展的に独立させたもの。
- サンデー ズバリ!ラジオ 大瀧詠一のスピーチ・バルーン(2012年1月15日 ‐ 、ニッポン放送)日曜日 19:30~20:30
- BSデジタルラジオで放送されていた「大瀧詠一のスピーチ・バルーン」を再編集したもの。
- 新春放談(1984年 ‐ 2011年)
- 1月の第一週と二週に放送される山下達郎とのトークコーナー。NHK-FM「山下達郎のサウンドストリート」でスタートしたのを皮切りに、山下降板後は佐野元春や萩原健太の番組を間借りして続けられ、JFN系の「プレミアム3」を経て、「山下達郎のサンデーソングブック」まで続けられたが、2012年は諸事情のため放送されず、一旦幕が下ろされた。そして、2013年12月30日の大瀧の他界により、四半世紀に渡った山下との放談は完全に幕を閉じた。大瀧が表舞台を去り、自身のアルバムのリマスターに徹する半隠居生活になって以降、唯一のラジオ出演であったため、これを聞かなければ、近況や一年何をして過ごしていたか等、大瀧の動向を知ることはできなかった。
- 大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝(NHK-FM、第1期 2012年3月27日 ‐ 3月31日、第2期 2012年8月28日 ‐ 9月1日、第3期 2013年3月26日 ‐ 3月30日、第4期 2012年8月13日 ‐ 3月17日)放送時間はいずれも0:00~0:50
映画
[編集]監修ビデオ・DVD
[編集]受賞
[編集]- 第23回日本レコード大賞(1981年) - ベスト・アルバム賞『A LONG VACATION』
- 第56回日本レコード大賞(2014年) - 特別功労賞
書籍
[編集]- 『All about Niagara 1973-1979』八曜社、1982年1月。
- 『テレビの黄金時代』小林信彦編、キネマ旬報社、1983年5月。のち復刻版、1987年11月。 - クレージー・キャッツ本。谷啓、小林信彦、大瀧詠一による座談会も収録。
- 『いちど話してみたかった:小林信彦デラックストーク』情報センター出版局、1983年6月。 - 小林・大瀧の対談が収録。
- 『All About Niagara 1973-1979+α』白夜書房、2001年3月。のち増補改訂版、2005年。
- 『小林旭読本:歌う大スターの伝説』小林信彦と共同責任編集、キネマ旬報社〈キネ旬ムック〉、2002年3月。
- 竹内義和、北野誠『聖戦 サイキック 15thアニバーサリー』文藝春秋、2003年8月。 - ゲスト参加。
- 『大瀧詠一:大瀧詠一と大滝詠一のソロ活動40年史』河出書房新社〈KAWADE夢ムック〉、2005年11月。のち増補新版、2012年。
- 山口隆『叱り叱られ』幻冬舎、2008年2月。 - 山口と大瀧の対談が収録。
- 『大滝詠一 Talks About Niagara コンプリート・エディション』ミュージック・マガジン〈レコード・コレクターズ別冊〉、2014年3月。
- 『大滝詠一読本 完全保存版 2017 EDITION』ステレオサウンド〈別冊ステレオサウンド〉、2017年3月。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d “大瀧詠一さん急死 65歳 「幸せな結末」などヒット曲”. 朝日新聞デジタル. (2013年12月31日). オリジナルの2013年12月31日時点におけるアーカイブ。 2014年1月2日閲覧。
- ^ a b c d “歌手の大滝詠一さん急死 65歳、「君は天然色」”. 日本経済新聞(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2013年12月31日). オリジナルの2014年1月1日時点におけるアーカイブ。 2014年1月2日閲覧。
- ^ a b c d “大滝詠一さん急死 65歳 達郎、聖子プロデュース「幸せな結末」が大ヒット”. スポニチAnnex(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2013年12月31日). オリジナルの2014年1月2日時点におけるアーカイブ。 2014年1月2日閲覧。
- ^ a b c d “大滝詠一さん急死 リンゴ食べている時に”. 日刊スポーツ(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2013年12月31日). オリジナルの2014年1月2日時点におけるアーカイブ。 2014年1月2日閲覧。
- ^ a b 細川周平、片山杜秀『日本の作曲家: 近現代音楽人名事典』日外アソシエーツ、2008年、134頁。ISBN 4-8169-2119-2。
- ^ “大滝詠一(オオタキエイイチ)の情報まとめ”. OKMusic. ジャパンミュージックネットワーク株式会社. 2021年5月27日閲覧。
- ^ 栗本斉. “シティ・ポップス NOW & THEN”. Billboard JAPAN. 阪神コンテンツリンク. 2021年5月27日閲覧。
- ^ 松永尚久 (2021年3月30日). “当時の“シティポップ”は、人間の鳴らす楽器だけで高い完成度を実現した。 ──原田夏樹が語る、大滝詠一の世代を超えた影響力。”. Pen Online. CCCメディアハウス. 2021年3月30日閲覧。
- ^ 『総特集 大瀧詠一と大瀧詠一のナイアガラ30年史』
- ^ 『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』『GO! GO! NIAGARA』についてはゴールデン・ディスクとしてコロムビアからヒット賞を受けており、『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はチャート入りしている
- ^ 初チャートインは70位だった。
- ^ “とんねるず」石橋貴明、大瀧詠一さんが作曲した「とんねるず」の幻の曲を明かす「多分、大瀧さんの家のライブラリーにあります」”. スポーツ報知. (2020年9月2日) 2023年4月29日閲覧。
- ^ “大滝詠一 日本ポップス界の巨人の尽きない探究心、好奇心が結実した“ノベルティ・ソング”【前編】”. 2022年4月29日閲覧。
- ^ “ミュージシャンの大瀧詠一さん死去、65歳”. TBS News i (インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2013年12月31日) 2014年1月2日閲覧。
- ^ “〈速報〉大滝詠一さん急死 リンゴ食べている時に”. 朝日新聞デジタル(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2013年12月31日). オリジナルの2014年1月1日時点におけるアーカイブ。 2014年1月2日閲覧。
- ^ “佐野元春「ひとつの大きな星を失った」”. 日刊スポーツ(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2013年12月31日). オリジナルの2014年1月1日時点におけるアーカイブ。 2014年1月5日閲覧。
- ^ “NEWS/TOP”. 山下達郎 OFFCIAL WEB SITE(インターネットアーカイブのキャッシュ). 2014年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月5日閲覧。
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- ^ “大瀧詠一さん音楽仲間ら追悼 佐野元春「日本の音楽界はひとつの大きな星を失った」”. ORICON STYLE. (2013年12月31日). オリジナルの2014年1月5日時点におけるアーカイブ。 2014年1月5日閲覧。
- ^ takashi_mtmtのツイート(419377483574550529) 2014年1月3日閲覧。
- ^ takashi_mtmtのツイート(419375696025096192) 2014年1月3日閲覧。
- ^ “大滝詠一さん葬儀に細野晴臣ら100人参列”. 日刊スポーツ(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2014年1月5日) 2014年1月5日閲覧。
- ^ “大滝詠一を偲ぶ<お別れ会>開催。鈴木茂「大滝さんとの対話は幸せな時間だった」”. BARKS. (2014年3月21日) 2014年3月21日閲覧。
- ^ “大滝詠一、不朽の名作がiTunesで”. BARKS. (2014年3月19日) 2014年3月21日閲覧。
- ^ “大瀧詠一さん、死去直前に妻に感謝の言葉 “最期の日”も仕事していた”. ORICON STYLE. (2014年3月21日) 2023年4月27日閲覧。
- ^ “一周忌で想う、大瀧詠一と“お笑い”のこと-KAWADE夢ムック、などより。”. (2014年12月30日) 2014年12月30日閲覧。
- ^ “大滝詠一さん遺品の中に幻の音源…本人が歌う「夢で逢えたら」”. スポーツニッポン. (2014年10月14日) 2014年10月14日閲覧。
- ^ “定例記者会見(令和2年9月9日)”. 奥州市公式ホームページ. (2020年9月9日) 2010年10月1日閲覧。
- ^ “大滝サウンド 出発進行 新幹線水沢江刺駅発車メロディー”. 岩手日報. (2020年10月1日). オリジナルの2020年10月2日時点におけるアーカイブ。 2010年10月1日閲覧。
- ^ Inc, Natasha. “大滝詠一の全楽曲サブスク解禁(コメントあり)”. 音楽ナタリー. 2021年3月7日閲覧。
- ^ “松田聖子ベスト盤「Bible」シリーズ新作:秘蔵音源「風立ちぬ(duet version)/大滝詠一×松田聖子」初収録の完全生産限定アナログ盤、2023年10月25日(水)発売決定! 数々のヒット曲満載のCDも同時発売!”. ソニーミュージック. ソニー・ミュージックエンタテインメント (2023年9月1日). 2023年10月29日閲覧。
- ^ “松田聖子ベスト盤はオリジナルライトブルー2枚組、大滝詠一との「風立ちぬ」デュエット音源を初収録”. 音楽ナタリー. ナターシャ (2023年9月21日). 2023年10月29日閲覧。
- ^ a b 「資料日本ポピュラー史研究 初期フォーク・レーベル編」黒沢進著、SFC音楽出版、1986年12月15日発行、118ページ。
- ^ “美空ひばり 宙(そらから)”. 日本コロンビア. 2015年11月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月24日閲覧。
- ^ “さようなら大瀧詠一さん 日本のポップ史を変えた偉大な功績を振り返る”. リアルサウンド(インターネット・アーカイブのキャッシュ). (2014年1月1日). オリジナルの2014年1月16日時点におけるアーカイブ。
- ^ 内田樹 第20回 凱風館日乗(2013年を振り返って) - みんなのミシマガジン
関連項目
[編集]- 岩手県出身の人物一覧
- ポピュラー音楽の音楽家一覧 (日本・個人)
- Oo Records - 大瀧詠一が取締役を務めたレコード会社。1997年にソニー・ミュージックエンタテインメントに吸収。
- FMおおつ - 滋賀県大津市にあるコミュニティーFM局。日曜24:00 - 24:30に「Niagara Moonがまた輝けば♪」なる湖西吟次と言う伊藤銀次を捩った名前の大瀧ファンのナイアガラーのDJによる大瀧がDJを勤めたラジオ番組『GO!GO!Niagara』を蘇らせた様な番組を放送している。オープニングで『GO!GO!Niagara』のテーマ「Dr.Kaplan's Office」をバックに『GO!GO!Niagara』での大瀧の口上を番組用に改作した口上を述べる等大瀧リスペクトの高い番組である。