浪曲
浪曲(ろうきょく)は、日本で明治時代初期から始まった演芸で、「浪花節」(なにわぶし)とも言う[1]。三味線を伴奏にして独特の節と語りで物語を進める語り芸(話芸)。一つ30分ほどである。
落語、講談とともに「日本三大話芸」の一つとされ[1][注釈 1]、最盛期の昭和初期には日本全国に約3000人の浪曲師がいた[1]。その後、急速に衰えた[2]が、復興や再評価の動きもある(後述)。
概説
[編集]浪曲の起源は800年前とも言われ、古くから伝わる浄瑠璃や説経節、祭文語りなどが基礎になって、大道芸として始まった[3]。浪曲は主に七五調で演じられ「泣き」と「笑い」の感情を揺さぶる[4]。時代に翻弄されつつ、いつも人々の心に寄り添ってきた芸能[5]である。
声を出して演じる者を「浪曲師」(ろうきょくし)[6]と呼び、三味線伴奏者を「曲師」と呼ぶ。
一つの物語を節(ふし)と啖呵(たんか)で演じる。節は歌う部分で物語の状況や登場人物の心情を歌詞にしており、啖呵は登場人物を演じて台詞(セリフ)を話す。重視する順を「一声、二節、三啖呵(いちこえ、にふし、さんたんか)」と言う。前の二つを「声節(こえふし)」と呼び、特に重要視する[7]。
落語は「噺す」、講談は「読む」、浪曲は「語る」芸能[8]と言われるように、聴かせ所が異なり、三味線入りである浪曲は、都市中心に盛んになった講談・落語と比べ、鉄道網の発達と軌を一にするように[注釈 2]、当時の最新メディアである、レコードやラジオを媒介として、都市部から地方部に至るまで全国的人気を保った[9]。歌謡浪曲から演歌へ、人気は連綿と続く。そのため演歌と共に、「田舎臭い」「通俗的」と軽蔑的に評されることもあった。反面、伝統的叙情や鎮魂の力が備わっているとも言える[10]。
日本国内では大衆に愛された浪曲であるが、知識人[11]による教養主義[注釈 3]から嫌われた[12]。特に文学者に浪花節嫌いを公言する者は多く、蛇蝎の如く嫌われ、尾崎紅葉[13]、泉鏡花[14]、夏目漱石、芥川龍之介[15]、永井荷風[注釈 4][16]、三好達治[17][18]、三島由紀夫[17]らが嫌っていたことが記録に残っている。また、演芸と関わりの深い久保田万太郎[19][20]の浪花節嫌いは有名であった。
一方で浪花節に好意的に言及する者もいる。二代目玉川勝太郎の『天保水滸伝』に触発されて『伝法水滸伝』を書いた山口瞳[21]、二代目広沢虎造の『次郎長伝』に愛着を表した村松友視[22]のほか、2017年に処女作『おらおらでひとりいぐも』で文藝賞(第54回)を受賞し、『久米宏 ラジオなんですけど』にゲスト出演した作家若竹千佐子は番組内で、虎造の影響を明言した[23](後に第158回芥川賞受賞)。テレビ界では著書で幼少時に浪花節に親しんだことを明かしている演出家鴨下信一[24]、演芸界では『ラジオビバリー昼ズ』でネタにするなど、玉川福太郎一門と国本武春を中心に浪曲を話題にし続けた放送作家高田文夫[25]がいる。また舞踏家の田中泯は福太郎が読む『森の石松』に合わせて踊るというパフォーマンスを披露したこともある[26]。
物語の内容から、転じて「浪花節にでも出てきそうな」という意味で、言動や考え方が義理人情を重んじ[27]、通俗的で情緒的であることを俗に「浪花節的な」あるいは単に「浪花節」と比喩する[28][例 1][例 2][例 3]。
思わず真似をして唸りたくなる節回しという間口の広さと、その実うまくなるには鍛錬を要する奥の深さを同時に持つ。近接した芸能を(郷土芸能も含め)どん欲に取り込み、浪曲師が節の運びなどに各人各様の創意工夫をすることで発展した。節回しの自由さ、融通無碍ぶりが大きな特徴である。竹本義太夫が決定打であった義太夫節や鶴賀新内の新内節のような、様式を決定付ける存在は未だ出ていない[29][注釈 5]。
浪曲(浪花節)の実演を表す動詞には様々あり、「うなる」「語る」「読む」「うたう」「口演する」などがある。使用する局面によって多少使い分けているが基本的に同じ意味である[注釈 6]。
台本は存在するが譜面はなく[30]、浪曲師と曲師の呼吸が合うかどうかが重要であり、春野恵子の説明によれば「浪曲師と曲師が舞台で繰り広げるやりとりは「ジャズのセッションのよう」とも言われ、そのライブ感が浪曲の魅力」である [31][注釈 7]。
三味線の伴奏者(相方)のうち、主たる相手は「相三味線(あいじゃみせん)」と呼ばれる[32][注釈 8][注釈 9]。浪曲の三味線は太棹を用い[33]、調弦は三下り(さんさがり)にする。小ぶりの撥で弾く[34]。上方では曲師とギター奏者がつくこともある[35][注釈 10]。
男女共に古くから活躍する芸能である。およそ伝統的とされる日本の芸能の中で、男女が全く対等に活躍できるものは数少ない[36][37]。
テレビ時代に浪曲そのものは動きが地味で対応できなかったが、他ジャンルをブレンドして[38]生き延びた。
現在、浪曲の定席(常打ちの寄席)は、東京都台東区浅草の「木馬亭」と大阪府大阪市天王寺区の「一心寺門前浪曲寄席」、大阪府大阪市港区の「みなと浪曲寄席」で聴ける。他に東京では永谷の演芸場などで浪曲公演が毎月ある。
中でも、東京・渋谷で毎月開催されている「渋谷らくご」(シブラク)に浪曲師が1枚必ず加えられ、若い世代に浪曲が伝わってきており[39]、近年、長い低迷期から抜け出した[40][41][42]。
浪花節の複雑で、結局、つかみ所のない魅力は「鵺」(ぬえ)に度々たとえられる[43][44]。
日本国内(内地)から国外への殖民・移民が第二次世界大戦前を中心に盛んに行われたが、それに伴う浪曲の普及は結局、日本人及び日系人社会に留まり、人種社会を超えた広がりを持たなかった[注釈 11]。
なお、講談などの二次的著作物であるかの点で争いの種は消えない。
歴史
[編集]「浪花節」という字面だけを見て関西で出来た物である、と短絡をするのは以下にみるように誤りである。注意されたい[注釈 12]。芸としての源流が関西にあるとしても、その源流は前進の芸能、デロレン祭文のように関東にもある。「浪花節」という名は東京発である。また、落語のように東西差はあまり無く、桃中軒雲右衛門や二代目広沢虎造のように東西を股に掛けた交流、旅回りが浪曲の歴史の重要な部分[45][注釈 13]と言える。また第二次世界大戦のとき「戦いの歌」として浪曲が喧伝されたのは周知のことである[46]。
形成期から、芸としての成立へ
[編集]浪曲は、いずれも願人が多く演じていた、「ちょぼくれ=ちょんがれ」(阿呆陀羅経)[47]を基礎にデロレン祭文(貝祭文)など近接する門付諸芸[48]が徐々に合流し、同じく源流を共にする説経節の影響を受け[49]、大道芸として始まった。幕末期、特に大坂では、さらに講談などの影響から複雑な語り物を扱う「ちょんがれ節」に転化した[50]。成立に先行する文化・文政年間、大坂など上方の浪花伊助(なにわ いすけ)[51]が、阿波浄瑠璃、祭文、春駒節、ほめら等を取り入れて「浮連節(うかれぶし)」と名付け、新しく売り出した芸を源流とするが、伝説である[52]。後述する雲右衛門が「浪花節」の名で関西で口演した後、明治36年以降も大阪の芸人は「浮れ節」で登録があった。大阪でも「浪花節」になるのは大正12年である[53]。大阪から西の地方では「浮かれ節」という呼び方が主であった。中村幸彦の研究により、大阪の浮かれ節は明治4年より前には寄席出演を果たしている事が判明している[54][55][注釈 14]。 横浜・本牧のヒラキで祭文を語って活躍していた青木勝之助(後に美弘舎東一。玉川派の祖)が、寄席進出の運動に私費を全て投じ、東京・四谷の寄席「山本亭」に出演したことを嚆矢とする[56][57]。浪花節は差別され[注釈 15]、組合結成後も寄席への出演は容易にはかなわず、相変わらず浅草・奥山、両国広小路[58]や上野山下[注釈 16]、神田筋違、秋葉っ原[注釈 17]、八丁堀三角、銀座采女が原[注釈 18]、桜田久保町の原[注釈 19]、下谷佐竹っ原[注釈 20]、本所津軽っ原[注釈 21]といった盛り場のヒラキがその中心であった[注釈 22]。東京における浪花節の成立・同業組合の結成・寄席出演の時期は諸説ありはっきりせず[注釈 23][注釈 24]、明治12年までには遊芸人の鑑札を得ていたようである。また「浪花節」と称したグループだけでなく、周辺芸能と推定されている「歌祭文節」「都節(一中節ではない)」「七色節」などが、それぞれに盛り場のヒラキで活動し、勢力を維持していた。唯二郎『実録浪曲史』によれば、1882年(明治15年)(当時の浪花節組合頭取は芝新網の藤本清助と芝浜松町の春日井善太郎の2名)から1888年(21年)に至るまで「浪花節」より「七色節」の芸人の数が大きく上回っていた。それが、1891年(明治24年)を境として情勢は一変し、「七色節」の人数は激減する。「都節」「歌祭文節」も減少し、「浪花節」だけが微減にとどまった。なお、当時の浪花節は芝新網、七色節は浅草、神田に多く、また、七色節は浪花節と大差はなく、あわせて越後の五色軍談[59][60]との関連性が指摘されている[61]。この頃、春日井から組合頭取を引き継いだ浪花亭駒吉は、講釈の昼席に通い演題を仕入れ、また説経節の日暮龍卜に節調を習うことで、相三味線の戸川てるとともに、浪花節という芸の向上に努め、後に「関東節の祖」と呼ばれるようになる。
当時は、釈台を前に着流し姿で裾をはしょる姿で、説経節に伝わる「小栗判官」や「刈萱」などの寺社縁起物[注釈 25]、「鬼神のお松」「八百屋お七」などの巷間に残る語り物などが主に演じられ、「風呂帰りの手ぬぐいを肩にしたその日稼ぎの勤労者」が聴いているというのが普通の寄席風景だったという[62]。また1889年(明治22年)における大阪・名護町の寄席では「まだ大道芸時代の猥雑な雰囲気を残す小屋の中で演じられている浮かれ節は「暁天星五郎、新門辰五郎、国定忠治」といった侠客物や白浪もので」あった[63]。
また、吉川小繁(後の桃中軒雲右衛門)は、この時期ヒラキに出ていた。新聞紙上で自身が連載にて告白した所によれば、浪花亭浜勝(駒吉の弟子)の手下として三度ボリ(山場で3回集金に回ること)をしたという[64]。
寄席芸としての隆盛期
[編集]その後、山の手の端席から都心の大きな寄席への進出が盛んになっていく。しかし、職域を侵され始めた講談や落語からは「ご入来」と蔑視されていた。
大阪でも浮かれ節専門の寄席(1884年(明治17年)から1889年(明治22年)にかけて、天満「国光席」、松島「広沢館」、千日前「愛進館」など)や浮かれ節の組合(岡本義治の版権問題に対応する必要から愛国社を明治28年に結成[65]。のちの「親友派組合」から親友協会に至る)ができた。
1892年(明治25年)頃には、浪花節の寄席定着があり[66][注釈 26]、東京では勢いが増す。落語や講談と紛争が起きている。明治26年に講釈師・落語家と浪花節語りとの合同演芸会が遊楽館で企画された[67]が、講談・落語側が共演を拒否。手打ちとして1894年(明治27年)2月10日・11日、神田「錦輝館」にて三派大集演芸会が開かれる。(落語柳連)三代目春風亭柳枝、初代談洲楼燕枝、(浪花節連)初代鼈甲斎虎丸、浪花亭駒吉、(落語三遊連)四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓遊[68][69][70]。
1897年(明治30年)、斎藤緑雨がその作品『おぼえ帳』に書いた[71]頃には、都心の東京日本橋葺屋町(元吉原そば)の「大ろじ」[72]に浪花節が出演し[73]、駒吉や、門下の浪花亭峰吉や浪花亭愛造の活躍もあり、1900年(明治33年)には、東京市内の寄席120軒のうち53軒が浪花節を主にかける(定席)までに勢いを増す[74]。従来「御入来」(ごにゅうらい)と言われ、代名詞として蔑まれた要因でもあった外題付け(物語の導入部)を、主題ごとに改め、物語の内容を改良し、衣装を黒紋付袴姿にするなどして芸格を上げる。
このように明治中期には東西で、主任を務める形の寄席芸としての地位が確立された。
東京の浪花節には増えた出番を求めて、名古屋(早川辰燕、初代鼈甲斎虎丸、末広亭清風など)や大阪(京山大教、京山恭為など)から浮かれ節語りが続々と上京・参入する[75]。出番を巡って神田「市場亭」や芝「伊皿子亭」などの有力席亭主側と関東の地元芸人側で対立し、芸人を中心に「関西派(神田組)」と呼ばれる愛進舎(辰燕、虎丸、清風、三河家梅車、二代目吉川繁吉(後の雲右衛門)など)と「関東派(浅草組)」と呼ばれる共盛会(浪花亭一派、初代東家楽遊、武蔵家嘉市、春日亭清吉など)に分かれ[76][77]、この構図はさらに分派を産みながら[78]大正時代も続く[注釈 27]。
また別の流れとして、熊本県から九州一帯を制覇していた「糸入り軍談」美当一調が1898年(明治31年)に上京し、九段の偕行社にて、東宮他皇族、各大臣、陸軍将校の前での公演を、1902年(明治35年)には6月18日から6日間、東京・銀座歌舞伎座で浪花節関連では初の公演をしている。昼夜二回にわたり教育活動写真[79]と合わせて、日清戦争談や北清事変を口演(神田錦輝館、明治座でお名残公演を行っている)。[80][81][82]。明治39年末にも上京、浪花節連の助演を得て慈善公演する。
1903年(明治36年)、愛造は浪曲界で初めてのレコード盤吹き込みをする(当時はSPレコード)[83]。 1906年(明治39年)には東京で浪花節人気が大きく盛り上がり、10月には『都新聞』の演芸三傑の投票があり(芸能界の人気投票は明治時代には既に盛んであったわけである)、その年の流行をまとめた「エスペラントと浪花節」という言葉が新聞に踊った[84]。この頃、名古屋を中心に大流行した(説経)源氏節がある[85][86][注釈 28]。
雲右衛門の凱旋・劇場芸・レコード
[編集]日露戦争勝利の余韻もまだ冷めない1907年(明治40年)、三河家梅車の妻お浜との駆け落ちにより雌伏し、突如弟子入りを志願してきた大陸浪人の宮崎滔天を配下にしていた[注釈 29][注釈 30]桃中軒雲右衛門が、総髪、紋付袴姿で屏風を背に、「不弁」と言うのみで(つまり外題付けも無しに)いきなり本題に入るという新演出、「武士道鼓吹」を旗印にし、演目は玄洋社の助力により台本内容を高めた義士伝ばかりという新機軸[87]で、一息が非常に長い「三段流し」を駆使し、研鑽の地・九州(炭坑夫、港湾労働者から火が点き、それまで多く行なっていた慈善興行(美当一調を踏襲している)により上流・中流の婦人に人気があったという[88])から神戸(有栖川宮妃の御前口演もあった)、大阪、京都と東上しつつ続々と沸かせてゆく。それが新聞記事により大きな話題になる中、ついには6月、東京の大劇場[注釈 31]本郷座に進出、27日もの間、連日3時間以上の長講、2500人収容の劇場を超満員にする[89]。風雲児・雲右衛門により、人気は大衆的なものから、当時から浪花節を嫌悪していた上流・中流層にまで広がり、世を席巻する。雲右衛門のインパクトは強く、浪曲のスタイル確立へ大きく影響した反面、居丈高なイメージも浪曲の一般的なイメージ形成にいまだ影響を与えて続けている[注釈 32]。 直後の1908年(明治41年)2月、大阪の吉田奈良丸も対抗するように「日本一」の呼び声を伴い東上し、新富座に出演[90][91]、さらに11月には初代京山小円も同座に上がるなど、寄席芸として定着してわずか20年ほどの新興演芸・浪花節は、一気に千人以上の客席を埋めることが出来る劇場芸能となる。
雲の東上後に桃中軒如雲[92]、天中軒雲月[93]、篠田実[94]、山田芳夫[95]、梅中軒鴬童などが「天才少年」として全国から続々登場し、それぞれ人気を呼ぶ。
こうして浪花節は、明治末期には落語や講談をはるかにしのぐ人気となる[96]。明治38年には東京の浪曲師の数が落語家や講談師を抜き、明治40年には448名とピークを迎える。落語家の2倍強、講談の4倍弱である[注釈 33]。当時の寄席読みの名人としては、東西に一心亭辰雄、春日亭清吉、初代東家楽遊改め悟楽斎三叟や岡本鶴治(おかもと かくじ)などがいる。
奈良丸のレコードが発売され、代名詞となった「日本一」の流麗な語りで、合わせて売上50万枚に及び、誕生間もない日本のレコード・蓄音機の全国的普及[97]に大きな貢献を果たす[98][99](この時期以降の浪花節(浪曲)の人気者は数多く吹き込み音源化されている)。その後、三河屋円車の『どんどん節』[100]や、奈良丸のメロディを使った俗曲『奈良丸くずし』[101][102][103][注釈 34]またこの時期、落語や講談から一足遅れで、浪花節でも速記本が多数出版される。ちなみに当時(1912年)、浅草寺の境内(薬師堂脇)で見世物の一つとして聞くことが出来た蝋管レコード屋の浪花節(木村重松、浪花亭愛造、鼈甲斎虎丸等の節まね)[104]その演目は「中山(堀部)安兵衛、赤垣源蔵、大岡政談、五寸釘寅吉、鍋島猫騒動、雷電小野川、国定忠治、安中草三郎、宮本六三四(武蔵)、天一坊、桂川力蔵、幡随院長兵衛、檜山大作、明石仁王、宮本左門之介、桜川五郎蔵、御笑、山中鹿之助、鼠小僧、姐妃お百、河内山宗俊」というものだった[105]。講談が盛んに取り入れられ、義士伝が浪花節の演目として加わり始めていた。
そんな中で1913年(大正2年)、『講談倶楽部』の臨時増刊『浪花節十八番』刊行に当たり、講釈師連と出版元・講談社の対立も起きる[106][107][108][注釈 35]。また、この時期[注釈 36]、関東では浪花節の名の元となった言われるほどの名門浪花亭から重勝、重松、重友、重正など木村一派が独立する騒動が起きる。
1904年7月4日、大審院は、桃中軒雲右衛門の海賊版レコードの著作権違反事件で、浪花節は著作権法上の音楽的著作物でないと判定し、損害賠償請求をも否定した[109]。
「浪花節」が「浪曲」と呼ばれ始めたのは新聞紙上で[注釈 37]、その後徐々に広まり、昭和に入ってから「浪花節」の呼び名に取って代わるようになる[110]。この頃から多くの浪曲師により忠臣蔵が浪花節で演じられる。あまりに義士伝ばかりがかかるため、「義士伝禁止」の貼紙が楽屋に掲げられたり、当時の川柳に「武士道も ついに彼らに 鼓吹され」[111][112][注釈 38]と言われたりするほどで、その内容は、武士道に拍手をする民衆の視点よりも、武士道それ自体の宣伝にと視点が変わっていった[113][114]。わかりやすさを買われて浪花節は早くより民衆教化に利用され、1919年(大正8年)、国民思想統一を旗印に古賀廉造らの肝煎りで「通俗教育研究会」が結成され、翌1920年(大正9年)の第1回国勢調査で大阪市・東京市の要請を受け、宣伝と説明の役を担う[115][116][注釈 39]。また、当時盛んに行われ急増した海外移民に対する排日感情が高まる中、移民を追って奈良丸[117]を始めとした浪曲師たちにより、樺太、台湾、朝鮮、満州はもちろんのこと、ハワイやアメリカ合衆国本土[118]、ブラジル[119]まで海外巡業が行われるようになる。
一時停滞した浪花節[120]も、前記の三巨頭の次の世代、三代目鼈甲斎虎丸[121]、東家楽燕、木村重友で「三羽烏」、さらに初代天中軒雲月を加え、四天王と称される。1923年(大正12年)、関東大震災の後、篠田実のレコード『紺屋高尾』が空前の大ヒットを飛ばす。寄席は、内容が飛躍的に充実していく活動写真(映画)に興行的に押され始める。弁士に転向した例も多くあったという。
一握りである劇場読みの大家は、大きな資産を持つほどになる[注釈 40]が、多くの無名浪曲師は地方巡業や寄席出演で糊口を凌ぐ[注釈 41]。大家の偽物や紛らわしい芸名のエピソードも数多くあった。
以下は、1919年(大正8年)に関西のオリエントレコードを傘下にし[122]、日本の蓄音器レコード界の最大のメーカーとなったニッポノホン(日本蓄音器商会。現・日本コロムビア)総目録(1926年(大正15年)5月発行)のジャンル別内訳である[123][注釈 42][124][125][注釈 43]。
ジャンル | 発売枚数 | 代表作品 |
---|---|---|
童謡 | 37 | 「十五夜お月」本居みどり子[126][127]など |
独唱唱歌 | 74 | 「埴生の宿」原信子、「シューベルトの子守唄」三浦環など |
お伽歌劇 | 29 | 「一寸法師」など |
歌劇劇歌 | 13 | 「ゴンドラの唄」松井須磨子、「カルメンの唄」中山歌子[128]など |
吹奏楽管弦楽 | 42 | 「君が代行進曲」海軍軍楽隊、「ダニューブ・ワルツ」「軍艦行進曲」陸軍戸山軍楽隊など |
独奏 | 15 | <ヴァイオリン>「ミニュエット」<ベートーヴェン>カスリーン・パーロウ[129][130]など |
ハーモニカ | 37 | 「ラ・パロマ」「越後獅子」川口章吾[131]など |
合奏 | 11 | <和洋合奏>「新内流し」「奴さん」など |
尺八 | 30 | <都山流、琴古流>など |
琵琶 | 117 | <錦心流、筑前琵琶、高峰琵琶>など |
謡曲 | 21 | 「隅田川」宝生九郎など |
長唄 | 116 | 「娘道成寺」芳村伊十郎など |
清元 | 55 | 「神田祭」喜久太夫[132]など |
常磐津 | 33 | 「将門」松尾太夫など |
新内 | 13 | 「蘭蝶」富士松加賀太夫など |
歌沢 | 16 | 「夕ぐれ[要曖昧さ回避]」歌沢寅右衛門など |
端唄小唄 | 64 | 「都々逸」「大津画[133]」「さのさ[134]」「海晏寺」「鬢のほつれ」「御所車」※なお次項に「俚謡」の部があるが、端唄小唄の部に「鴨緑江節[135]」「汐来節[136]」「仙台節[137]」「木曽節」「大島節[138]」などが混載されている。 |
俚謡 | 64 | 「安来節」三津島勝子[139]、「磯節」関根安中[140]、「追分」「八木節」など |
歌舞伎劇 | 43 | 「与話情浮名横櫛」尾上梅幸など |
映画説明 | 10 | 「アントニーとクレオパトラ」染井三郎[141]ほか |
太神楽、 | 11 | 「伊勢音頭」梅坊主など |
落語 | 28 | 「そこつ長屋」柳家小さんなど |
浪花節 | 207 | 東家楽燕、吉田奈良丸、天中軒雲月、篠田実、桃中軒雲右衛門など |
義太夫 | 74 | 「寺子屋」竹本南部太夫など |
ラジオの登場・戦時協力
[編集]日本放送協会の発足
[編集]ラジオ放送が始まると、1925年(大正14年)演芸の一つとして初めてラジオに登場。5月15日、試験放送中の大阪放送局(BK)に宮川松安の浪花節。関東は開局から3ヶ月遅れでAKに春日亭清吉が登場する。[142][注釈 44]
月.日 | 種目 | 題名 | 出演者 |
3.2 | 落語 | 女のりんき | 柳亭左楽 |
3.5 | 講談 | 大瀬半五郎 | 神田伯山 |
3.11 | 映画物語 | 噫無情 | 熊岡天童 |
4.14 | 民謡 | 追分節 | 小林孝江 |
6.8 | 浪花節 | 柳生二蓋笠 | 春日亭清吉 |
6.13 | 浪花節 | 荒木東下り | 浪花亭峰吉 |
回数 | 演題 | 回数 | 演題 | 回数 | 演題 |
82 | 大石内蔵助 | 28 | 慶安太平記 | 14 | 堅田落 |
. | 南部坂(20回) | 28 | 清水次郎長 | 14 | 太閤記 |
. | 山鹿護送(14回) | 25 | 塩原多助 | 13 | 天保六花撰 |
. | 山科妻子別れ(14回) | 24 | 伊達騒動 | . | 河内山宗俊(7回) |
. | 大石東下り(7回) | . | 伊達大評定(11回) | 13 | 明石の切捨 |
. | 久馬御薬献上(6回) | 23 | 水戸黄門記 | 13 | 安宅の関 |
38 | 堀部安兵衛 | 22 | 夕立勘五郎 | 12 | 夕立勘五郎 |
. | 安兵衛婿入(12回) | 21 | 寛永三馬術 | 11 | 加賀騒動 |
. | 孝子迷の印籠(9回) | . | 間垣平九郎(6回) | 11 | 大西郷 |
22 | 赤埴源蔵 | 19 | 天保水滸伝 | 11 | 明治の裁判 |
21 | 天野屋利兵衛 | 19 | 壷坂霊験記 | 11 | 五郎正宗伝 |
304 | 義士伝関係総計 | 18 | 金比羅利生記 | 10 | 成田利生記 |
68 | 乃木将軍 | 18 | 柳田格之進 | 10 | め組辰五郎 |
. | 辻占売り(11回) | 17 | 国定忠治 | 10 | 小金井小次郎 |
. | 塩原温泉(5回) | 17 | 祐天吉松 | 10 | 幡随院長兵衛 |
39 | 寛政力士伝 | 16 | 桜川五郎蔵 | 10 | 柳生日記 |
. | 谷風情角力(6回) | 16 | 有馬猫騒動[145] | . | 柳生二蓋笠(5回) |
. | 雷電(20回) | 16 | 安中草三郎 | 10 | 荒木又右衛門 |
. | 越の海勇蔵(5回) | 15 | 紀国屋 | 10 | 源平盛衰記 |
30 | 佐倉義民伝 | 15 | 橘 英夫 | 10 | 関取千両幟 |
30 | 大岡政談 | 14 | 左 甚五郎 | . | |
. | 越後伝吉(10回) | 14 | 召集令 | . |
昭和初期のラジオの浪曲の演題を参考に提示する。これは三局時代のあと、全国中継が可能になった昭和4年から7年までの各放送局の合計である[146]。
その日本放送協会(のちのNHK)ネットワークの完成で浪花節の人気は全国的に広まる。
地方 | 一位 | 二位 | 三位 | 四位 | 五位 |
---|---|---|---|---|---|
関東 | 浪花節 | 講談 | 落語・人情噺 | 琵琶 | 里謡・民謡 |
関西 | 浪花節 | 落語・人情噺 | 講談 | 琵琶 | 義太夫 |
東海 | 浪花節 | 義太夫 | 落語・人情噺 | 講談 | 琵琶 |
中国 | 浪花節 | 琵琶 | 義太夫 | 謡曲 | 里謡・民謡 |
九州 | 浪花節 | 謡曲 | 義太夫 | 琵琶 | ラジオドラマ |
東北 | 浪花節 | 里謡・民謡 | 講談 | 琵琶 | 謡曲 |
北海道 | 浪花節 | 里謡・民謡 | 謡曲 | 琵琶 | 講談 |
浪曲は昭和初年においては庶民に支持され、1932年(昭和7年)に実施された「全国ラジオ調査」では、ラジオ聴取者の好む番組の第一位は浪曲で、全体の57パーセントを占めた[147]。肉弾三勇士事件が起きると、熱狂の中、他の芸能と先を競うように寿々木米若、三代目吉田奈良丸、初代木村友衛などがいち早くレコード化をする[注釈 45]。昭和9年頃から浪花節の慰問が増え始めたという[148]。この時期、東家楽燕を校長として、日本浪曲学校[149][150]が設立され、のちの三波春夫が入学している[151]。 「忠君愛国」「義理人情」[27]を賛美した演題が国民教化に利用される。より一層ラジオで放送され[152]、七五調に乗った平易な節調と軽快なセリフ(啖呵)がもてはやされて、庶民の人気を博した。浪花亭綾太郎の壺坂霊験記、二代目広沢虎造の清水次郎長伝、二代目玉川勝太郎の天保水滸伝、寿々木米若の佐渡情話、三門博の唄入り観音経、初代春日井梅鴬の赤城の子守唄などが次々と一世を風靡し[153]、戦前まで全盛を迎える。
- [参考]総レコード制作枚数
- 昭和12年7月1日~昭和13年6月末日の統計。
- 単位:万枚(見込に過去の手持ち売りさばき分含む)
メーカー | 総制作枚数 | 売上見込枚数 |
---|---|---|
コロムビア | 603 | 601 |
ビクター | 418 | 337 |
ポリドール | 339 | 260 |
テイチク | 226 | 220 |
キング | 143 | 88 |
タイヘイ | 201 | 130 |
アサヒ | 41 | 46 |
ショウチク | 85 | 85 |
コッカ | 37 | 31 |
福永 | 32 | 30 |
コムパル | 3 | 3 |
ニッポン | 8 | 6 |
合計 | 2136 | 1836 |
1ヶ月平均 | 178 | 153 |
原典:『出版警察報』第113号、1938年(昭和13年)9月。出典:『近代日本芸能年表 下』p.190
また、二代目天中軒雲月(戦後に伊丹秀子に改名)の七色の声[154]で「杉野兵曹長の妻」や「九段の母」が大ヒットする。当時の軍人政治家は浪曲好きが多く、歴代総理大臣の趣味は浪花節と相場は決まっていたという。例として林銑十郎など[155]。
「一人一芸」「個人芸」と巷間いわれるほど、浪曲師各自の節の個性が人気や知名度、さらに収入に直結し、浪曲の寄席は東京において、徐々に減り続け、次代育成機能を持つ場は戦中期に、音羽座から浅草・金車の一軒ぐらいになる。一方レコードやラジオによる全国的知名度の獲得と収入、浜町明治座や京橋新富座、京都南座、大阪道頓堀角座など以前より馴染みの劇場だけでなく、銀座歌舞伎座[156]をはじめとした一流大劇場での独演会や浪曲大会[157]での大収入、知名度を生かした地方の地方巡業といった後の演歌にも類似した構造があらわになる。
浪花節と同様の演題を持ち、大家がラジオ出演を重ねた講談[158]や、禁演落語[159]などにより時節柄、下火になるが、戦後に大きく復活・興隆する落語(戦中期には講談落語協会として統合される)とは対照的に、当時最新の新興芸能であった漫才などと共にもてはやされ(わらわし隊などの慰問団)隆盛を迎える。
軍事協力・愛国浪曲
[編集]1940年(昭和15年)8月16日、広沢虎造映画出演問題を巡っての、浅草田島町殺傷事件は、浪曲家の伝統生活中の、最も悪質に属する部分のあらわれと見てよい[160][161][注釈 46][162]。 総動員体制の中、戦争協力の促進を企図し国威発揚のために「浪曲向上会」(1941年5月27日発足、斎藤瀏が会長[163])が結成され、多くの浪曲師や作家が動員される。愛国浪曲が情報局・大政翼賛会の肝いりで続々作られることとなる[164]。
- 長谷川伸「函館紺血碑」[171] - 広沢虎造#2代目
- 長田幹彦「涙の船唄」[172] - 寿々木米若
- 白井喬二「筑紫の博麻呂」-[173] 東家楽燕
- 武田麟太郎「天下の糸平」[174] - 玉川勝太郎#2代目
- 久米正雄「血を嗣ぐもの」[175][176] - 冨士月子
- 藤森成吉「長英の新出発」[177](「傷痍」に差し替え) - 春日井梅鴬#初代
- 子母沢寛「十四日の月」[178] - 木村友衛#初代
- 尾崎士郎「村上六等警部」[179] - 酒井雲
- 長谷川時雨「桜ふぶき」 - 二葉百合子
- 浜本浩「東天紅」[180] - 京山幸枝
- 佐藤春夫「大場鎮の一夜」[181] - 梅中軒鴬童
- 倉田百三「お礼詣りする父娘」[182](「まごころ」に差し替え) - 宮川松安
- 三上於菟吉「雲に鳥無常剣」[183] - (演じ手無し)
- 菊池寛「近衛篤磨」 - 松風軒栄楽
- 木村毅「シンガポールの白梅」 - 東武蔵
- 土師清二「近江商人」[184] - (演じ手無し)
- 吉川英治「大楠公夫人」[185] - 吉田大和丞
- 富沢有為男「諏訪湖の蘆」[186] - 京山小円嬢#初代
- 竹田敏彦「少年街の勇士」[187] - 日吉川秋水#初代
- 大木惇夫「荒地」[188] - (演じ手無し)
愛国浪曲は、それまでとかく低俗、下品なものとされてきたことへの対抗する路線の延長線上にあり[189]、一つの集大成でもあった。また、軍事ものを売りにしないタイプの浪曲師も総動員をかける形で開かれた。試みは概ね定着せず[190]、しかし結果的に浪曲は、先の大戦で積極的に加担した芸能[191]としても記憶された[192][193][194]。
丸の内帝国劇場は、情報局に講堂として接収され[195][196]、1941年(昭和16年)1月30日に愛国浪曲試聴会[197][198]。1942年5月、軍用機献納浪曲大会[199]。浪曲動員協議会、浪曲作家協会の結成を経て、浪曲向上会が情報局・NHKの後援のもとに1942年10月1日に国民浪曲賞を設定する[200]。また1943年(昭和18年)12月30日に帝劇で「芸能従軍壮行 浪曲大会」[注釈 48]。出演は春日井梅鴬、広沢虎造、梅中軒鴬童、寿々木米若[201]。戦中の1943年には、浪曲師の数はピークを迎え、東京だけで約千名、全国的には3千名近くいた[202]という。要約である。より詳細は唯二郎『実録浪曲史』 p.95-141(1940年から1945年敗戦まで)を参照のこと。1945年(昭和20年)5月、「一億憤激米英撃滅浪曲」[注釈 49]台本発表、これらの新作の多くはNHKの国民浪曲として放送され、レコード化された[203]。
戦後の復活・民放発足によるラジオ浪曲のブーム
[編集]1945年(昭和20年)太平洋戦争敗戦後は一転、GHQに「前時代的、反動的」と他の演芸と同様に疎まれる存在となる[204][注釈 50]。しかし、その体制下でも地方巡業を中心にした大家は「所得番付」に多く顔を出す[205]など、農漁村を中心に根強い人気[206]を維持する。
1951年(昭和26年)の民放ラジオの登場と共に、その根強い大衆的人気から、二代目広沢虎造の俗称「虎造アワー」[207]や、新進浪曲師国友忠の「銭形平次」[注釈 51]、二代目広沢菊春の「姿三四郎」などの連続浪曲読み番組、素人の浪曲のど自慢番組(ラジオ東京浪曲天狗道場など)が続々と編成され、全国放送のNHKも巻き込んだラジオ浪曲のブームとして昭和30年代初頭に再び最盛期を迎える。大阪では先行する民間放送2社が熾烈な争いをする中、共同でNHKを含めた聴取率調査が行われ、ABC(朝日放送)「漫才学校」57.5%.NJB(のちの毎日放送)「浪曲ごもくめし」44.8%.同NJB「浪曲演芸会」41.3%.と漫才と並んで浪曲が大人気で当時の好みがわかる。トップ20にはABCが9本、NJB8本、NHK3本と入っていて既に民間放送がNHKを凌駕していた[注釈 52]。
曜 | 番組名 | 放送局 | 聴取率 |
---|---|---|---|
火 | 浪曲天狗道場 | ラジオ東京 | 23.8% |
木 | 浪曲学校 | 文化放送 | 12.8% |
月 | 浪曲十八番集 | ラジオ東京 | 11.4% |
火 | 歌のパラダイス | ラジオ東京 | 10.3% |
木 | 歌謡ベストテン | 文化放送 | 10.0% |
土 | 浪曲次郎長伝 | ラジオ東京 | 9.8% |
木 | 私と貴方の三つの歌 | 文化放送 | 9.6% |
火 | 歌の風車 | ラジオ東京 | 9.4% |
日 | 浪曲歌合戦 | 文化放送 | 9.2%[208] |
民放ラジオ番組の聴取率ベストテンに5つもランクインする[209]。「浪曲天狗道場」は1957年度(昭和32年)に断トツの聴取率23.8%を記録する。再びお茶の間を席巻し、巷間で「銭湯に行けば、虎造の『〽旅ゆけば』を真似した声が湯船で必ず聞こえる」と言われたのは戦後のこの時期であった。また当時の子どもはみな、虎造の「〽旅行けば~」や二代目玉川勝太郎の「〽利根の川風たもとに」といった外題付けを知っていた[210]。
昭和30年代中頃までは、どんな小さい街にも劇場があり、ほとんどは映画館である。街によっては芝居小屋もあった。芝居小屋がなくても映画館には芝居がかかったり、浪花節(浪曲)や流行歌の公演がおこなわれたりもしていた。公民館や体育館などでも、よくそういう芸能公演があった[211]。レコード吹込みやNHK・民放ラジオ・映画というメディアに露出する一握りの浪曲師に人気が集中する一方、この時期にもまだ浪曲の門付けをしたという証言が複数ある[212][213][注釈 53]など、ラジオ浪曲のブームに乗らない大半の浪曲師は、高度成長の開始とともに衰退していく[注釈 54]。
銀座歌舞伎座[214]、大阪文楽座、浅草国際劇場など大劇場で戦前に引き続き「浪曲大会」が定期的に開かれるなどする。
衰退
[編集]西暦 | 民放R 局数 |
ラジオ 普及率 |
民放T 局数 |
テレビ 普及率 |
---|---|---|---|---|
1951 | 9 | 58.6% | - | - |
1952 | 21 | 63.6% | - | - |
1953 | 45 | 70.4% | 1 | 0.1% |
1954 | 59 | 75.2% | 1 | 0.3% |
1955 | 62 | 73.8% | 2 | 0.9% |
1956 | 80 | 77.8% | 4 | 2.3% |
1957 | 88 | 81.2% | 6 | 5.1% |
1958 | 100 | 81.3% | 27 | 11.0% |
1959 | 104 | 74.7% | 47 | 23.1% |
1960 | 115 | 57.2% | 61 | 33.2% |
1961 | 124 | 45.8% | 82 | 49.5% |
この辺りは、同時平行的に記述するため、注意されたい。 民放の発足ともに始まった最後の大ブーム、ラジオ浪曲のブームは急激なラジオ離れで、10年程で去るが、NHKは粘り強いサポートを続け、現在まで続くラジオ番組「浪曲十八番」だけでなく、台本作家や若手浪曲師の育成機能までを一時担うようになり、新作の発表数は一時的に増えた。毎月公演の形で開催していたNHK浪曲研究会は17年間の歴史を重ね、1972年(昭和47年)3月25日に終了した。後継として「NHK東西浪曲大会」を開催。
歌謡浪曲スタイルの大流行はあったものの(1972年(昭和47年)には二葉百合子が吹き込んだ「岸壁の母」がロングヒット)、戦後の寄席は大阪では、空襲から辛うじて焼け残った飛田筋・天王寺館、今里・双葉館、九条・若春館のみ残り、東京は全て無くなり、東京は1952年(昭和27年)8月に上野「桜亭」、1955年(昭和30年)8月13日に南千住「栗友亭」が唯一の浪曲寄席として開場するが、長くは続かなかった。1955年(昭和30年)開業の船橋ヘルスセンターをはじめとした、各地の健康ランドでの巡業や、「福祉浪曲大会」などの地方部での浪曲大会、老人ホームの慰問[216]などが主な活動範囲となる。民音や労音もこの頃は地区ごとに浪曲大会を開いている。浅草木馬館が改装し、1970年(昭和45年)5月上席からついに定席化し「木馬亭」として安定するまでは、東家浦太郎や、四代目天中軒雲月、木村若衛、松平国十郎の戦後四天王をはじめとした大家は引き続き健在だが、若手の将来性という点では苦境が続いた[217]。
関西においても、初代京山幸枝若、冨士月の栄や戦後入門組の初代真山一郎、二代目春野百合子が「関西戦後四天王」として活躍したが、一足遅れで同じ状況になる。既に寄席はなくなり、昭和50年代の関西浪曲の中心として浪曲大会が開かれた道頓堀・朝日座は1984年(昭和59年)2月に閉鎖され[218]、戦後長らく浪花節を舞台にのせていた道頓堀五座の最後の一つ、中座も1999年10月の「浪曲お別れ興行」をもって閉鎖された。
バブル崩壊後、少々復活の兆しが見えている。玉川福太郎の証言によれば、バブル崩壊後に浪曲師を志望する若者が急増し曲師が不足する事態になったという[219]。
新時代
[編集]生活の中で三味線の音色が聴こえる環境がいつの間に消えていく中、聴き手である浪曲(や主題や世界観が共通する時代劇、演歌など)に馴染みのある世代的に最後の固まり(昭和30年代までに生まれ、ラジオ番組で馴染んだ世代、つまり概ね団塊の世代まで)の退場が間近に迫り、一人隆盛を保つ落語界に比べ、浪曲自体の将来が危ぶまれている。講談同様、浪曲においても徐々に女性が入門者の中心となる。関東では玉川福太郎[220]から次の国本武春が入門するまで15年間、その後に続く男性浪曲師として玉川太福が福太郎に入門するまでも25年という長い空白期間がある[注釈 55]などのボトルネック状態があった[注釈 56]がそこは脱している。
しかし、浪曲の未来を考える上で唯一の希望と呼ぶにふさわしい孤軍奮闘を見せていた国本武春が後年に脳出血を患い、その影響で2015年12月に急逝[221]、武春イズムを受け継ぐ若手浪曲師達[注釈 57]に正念場が訪れている[223]。その中で頭一つ抜け出しているのが先述の玉川太福[224]で、太福は従来の活動と並行して落語家の春風亭昇太の内輪となったことで落語芸術協会にも所属することとなり、新宿末廣亭などの落語の定席寄席への出演も増えたことで認知度が高まり、同じく芸協所属である講談師の六代目神田伯山と共に期待を集める存在となっている[225]。太福にも2022年以降弟子が新たに複数入門しており、加入している芸協の定席寄席を中心に前座修行の場とする[注釈 58]など、さらに次代の浪曲師の育成にも並行して努める事になった。また、太福の芸協入会により、芸協に所属していない浪曲師も不定期ではあるが芸協の定席寄席(主に新宿末廣亭)へ顔付けされる機会も増えつつあったが、このうち玉川奈々福、三代目広沢菊春、国本はる乃の3名も太福に続いて2024年5月に落語芸術協会の正会員(色物芸人)として加入した[227]。また落語協会の定席興行でも、2024年4月上席の鈴本演芸場昼の部(主任:十一代目金原亭馬生と金原亭小馬生の日替わり)に花渡家ちとせ(春日井梅光門下、日本浪曲協会参与)が出演[228]するなど、落語を中心とした定席への進出も散見されるようになった。
一方、上方の浪曲界では2024年7月に二代目京山幸枝若が、重要無形文化財保持者(いわゆる「人間国宝」)に認定するよう、文化審議会から文部科学大臣に答申され、同年12月に認定された。浪曲師(浪曲語り)の分野では初の「人間国宝」認定となる[注釈 59][229][230]。
一方で浪曲界全体の課題となっている深刻な曲師不足に対する策として「iPad浪曲」を発案し、実演する動きもある[231]。
声・節・タンカ
[編集]声
[編集]遠くまで伝わる大音(だいおん。響き渡る大きな声)が上とされ、必然的に胴声(どうごえ)=白声(しらごえ)=寂声(さびごえ)=いわゆる塩辛声=ダミ声=しわがれ声[注釈 60]で唸る事が浪曲であった。胴声は、ホーミーのように倍音豊かな発声を指す [232][注釈 61]。特徴的な声を作るために、喉から血が出るような修業を積んだという苦労談は多々出てくる[233][234][235]。この特徴づける声には科学的根拠は現時点で無く[236]、音声学からのアプローチが必要である。
旧来からの声が良い典型として寿々木米若や初代春日井梅鶯を挙げることができる[237][注釈 62]。
が、マイクが発達して以降は、必須ではなくなり、小音(しょうおん。マイクなしでは寄席の後方まで届かないような小さな声)であってもその才能が生かされるようになる。木村若衛のように、上声(うわごえ)を使う事が主流となり、三門博のように、裏声を巧みに取り入れ特長にした者さえもいる [238]。これを活かした人に広沢虎造_(2代目)がいた。
また、広沢瓢右衛門のように自他共に認める悪声であっても、それ以外の部分を磨き続け、ブレイクすることもあった。かつては喉の酷使が祟り、舞台で使う声が出なくなり引退したり、残った啖呵のうまさを活用してまれに講談に転じる者もあった(例:一心亭辰雄、初代木村友衛)。
同じ演題、同じ台本であっても、素読みにするか、節をつけて歌うかなど浪曲師の演出次第(または、その日の声の出方、体調)で大きく変えることも可能である。
稽古として「声調べ」(こえしらべ)を行う。三味線の音色に無意味な歌詞を乗せて、浪曲の練習を行う[239][240][241][注釈 63]。
- 〽何が何して何とやら
- 何から何までなにとやら
- モノがモノしてモノとやら
- モノからモノまでモノとやら[242]
節(フシ)
[編集](広義の)フシとは、日本における水泳のスタート前アナウンス、大相撲の呼び出しや行司の声のように、他の場所でも意識することなく使われているものである[243]。 現在の浪曲では大別すると関西節、関東節、(中京節で)三つに分けられる。浪曲師の節、曲師の調弦の音高、曲師が繰り出すフレーズの基本形など、すべて異なる。
- 関西節が一番古く、浮かれ節と呼ばれた。低調子(または水調子)とも言う。ベンベンと低い。
- 関東節は、高調子ともいい、三味線の調子が「カンカンカン」と高く、哀切、悲壮感が漂う。三味線の手としては単純。
- (中京節は、関東節と関西節を上手くミックスした形。アクセントとしてよく利用される[244][245]。)
元来、浪曲のフシは独流のものであって、原則として師匠のフシは継承しない[246][247][29][注釈 64]。よって「一人一節」というほど細かい節回しは異なる。各々が、他の浪曲師や民謡、伝統芸能から取り入れるなど、特徴的な「独自の基礎曲」と呼ぶべき節調(メリスマ)[248](小節、コブシである)を曲師と共に作り上げる。関東節、関西節はあくまで基本の節調(ふしちょう)、目安である。
代表的なところでは、佐渡おけさを採り入れ、哀調が特徴の名作「佐渡情話」を作り上げた米若節の寿々木米若、関東節 と中京節をミックスして虎造節を作り、当たり芸「清水次郎長伝」を演じた二代目広沢虎造[注釈 65]、低調子が主流の関西節のなかで、高音でノリのよいテンポの幸枝若節を作り、「河内十人斬り」や「左甚五郎」を演じ、戦後の浪曲界を支えた初代京山幸枝若、中京節では、浪曲に新内節をミックス して三門節を作り「唄入り観音経」を演じた三門博が挙げられる。また、天才少年浪曲師初代天中軒雲月から女性浪曲師2代目天中軒雲月に引き継がれた、明るく平易な雲月節[249]が、のちに数多くの女流浪曲師の節作りの土台となる[250][251]。例外として関東節の二葉百合子がいる[252]。
キッカケ、道中付け、うれい節、セメ節、浮かれ節、バラシなどについては、こちらを参照のこと。澤孝子公認ページ|浪曲語辞典(解説:大西信行)
大まかにいって、関西節は節を聞かせる事に主眼をおき、関東節はタンカを聞かせる傾向が強い。
経緯から、関東にも関西節の系譜を持つ一派がおり、現在は、関西には関西節のみ、関東には関東節と関西節がいる。東西で相互に特徴を取り入れることも徐々に進み、三波春夫によれば中京節が「現在の主流となって」[253]おり、純関東節、純関西節といえる存在は現在は少ない[254]。
啖呵(タンカ)
[編集]タンカとは、本来、畳み掛けるような言葉使いを指す。泣きは節主体、タンカが笑いの部分を主に扱う。 浪花ぶし的な主題も共通する[255]「寅さん」など、実演販売でお馴染みの啖呵売(たんかばい)と同様の用法から、今は単に節のつかない部分を指す。全盛期には「ケレンはトリを取れない」と言われる[256]など、タンカ読み(タンカを得意とする者)は傍流扱いされた。ケレンは、浪曲においては歌舞伎用語とは違う意味を持ち、「滑稽」とほぼ同義である[257]。
特に得意としたのは関西のケレン読みの浪曲師(東京に転じ落語の定席に出続けた「落語浪曲」の二代目広沢菊春、悪声であったが滑稽で晩年にブレイクした広沢瓢右衛門、歯切れの良く明るく時にボヤキ口調の入るケレンが魅力の京山幸枝若[要曖昧さ回避]も含まれる)、古くは「節の奈良丸、啖呵の辰雄、声のいいのが雲右衛門[258][259]」と並び称された一心亭辰雄(後に喉を痛めて講談に転出、服部伸と名乗る)、同じく江戸っ子で愛嬌のある小気味良い啖呵が大きな魅力であった二代目広沢虎造、江戸前のタンカと言えばもう一人、「灰神楽三太郎」の初代相模太郎が挙げられる。
衰退期に入ると、お涙頂戴より笑いの要素がより重視されるようになり、広沢瓢右衛門が明治の演題を引っさげブレイクした頃からひとつの潮流として明確になる[260][261][262]。
特にタンカは落語や講談と共通点が多いが、浪曲は曲師が合いの手としてフレーズ[注釈 66]を挟み、印象は異なる。
浪曲の構成
[編集]一席一話完結(端物)から、好評の場合は話を膨らませて、何段[注釈 67]にもわたる長いシリーズ物も作られた。時間にすると一席は30分位にまとめられている。しかしかつては、雲右衛門の舞台における一席1時間弱にわたる長講や、逆にSPレコードに吹き込むために3分ごとの細切れにまとめられたものも多数あり、融通無碍ゆえに演芸の中ではメディア対応が素早く、いち早いレコード吹き込みに重宝された[263]。
現在は、寄席の連日出演が常態でない、ラジオでも単独浪曲師の番組がなくなって久しいなど、口演形態の変化により、物語のハイライト部分の抜き読みばかりになり、シリーズ物を通しで味わう「連続読み」を味わう機会は極端に少なくなっている[264]。今でもおなじみの締めの台詞「ちょうど時間となりました」は、今日ではあまり聴けるものでは無くなった[265][注釈 68]。
寄席や大会などの正式な場においては、まずマイクで演者の紹介があったのち、幕が開き浪曲師が登場する。あいさつがあった後に[注釈 69]演題に入る。拍子木が鳴り、曲師が弾き出しを奏でる。
冒頭の部分はゲダイ(外題・解題・下題)付け、またはヒョウダイ(表題・標題)付け[注釈 70]と呼ぶ。
客から期待を込め、声がかかることもある(待ってました!、たっぷり!、名調子!など)[266][注釈 71]。
浪曲の衣装・舞台セット
[編集]舞台に上がる浪曲師は和服姿であり、正装として特に袴を多く用いる[注釈 72][267]。
演じる時の舞台のセットはまず舞台の中央、浪曲師の後ろに金屏風を置く。その前に腰ぐらいの高さの小さめのテーブルを置き、演台とする[268]。その上に、華やかな柄の特製のテーブルかけ[注釈 73]をかけてある。真後ろに背もたれの長い椅子があり、演者の多くは立ちながら演じている[注釈 74]。
観客から見て右手の方に曲師が座っている。現在、曲師は定席など正式な舞台では衝立を挟んで観客から見えないようになっており、中では正面を向く浪曲師に横から正対して座っている。が「出弾き」と呼ぶ客前に出て弾くスタイルも少数だがある[注釈 75][注釈 76]。
高座の座布団に座り語る「座り高座」(現在の文楽語りとほぼ同じスタイル)[注釈 77]は、前身である芸能の「説経浄瑠璃」、「デロレン祭文」などから引き続き、雲右衛門以前には主流であった。雲右衛門により立ち演説スタイルが主流になった後にも、落語の定席が主な活躍の場であった広沢菊春など[注釈 78]、現在に至るまで時おり見ることができる[注釈 79][42]。
浪曲の代表的な演題(外題)
[編集]武芸物、出世物、任侠物(三尺物ともいう)、悲恋物、ケレン物(お笑い)など多種多様である。特に赤穂義士伝(忠臣蔵)ものは派生する人気の演題(外伝)が非常に多く、義士伝で一ジャンルを成している。大別すると、武士道を鼓舞するような内容の金襖物(きんぶすまもの)と、(広義の)世話物(せわもの)に分かれる[270]。
講談(成立期から講釈ダネをフシ付けすることで大きく発展した[271])、落語、文芸作品、歌舞伎や浄瑠璃、ニュースなど題材は多様である[270]。
文句、言葉も自分で作るのが本来の姿で、作詞の役割、作曲の役割、実演を兼ねる[29](フシ付け)。国友忠(河北省一が筆名)など。野口甫堂(東家楽浦の筆名)、鈴木啓之(三門博)、池上勇(広沢菊春)、小島美士五郎(広沢瓢右衛門)、阪口三夢(天龍三郎)の作・脚色のように他の浪曲師がネタを引き継ぐ場合もある。雲右衛門の頃からレコード会社により、原作として長谷川伸や行友李風、尾崎士郎、子母沢寛など。正岡容や、畑喜代司、本多哲、小菅一夫、萩原四朗、水野春三(水野草庵子)、秩父重剛、中川明徳、室町京之介、房前智光、木村学司、内山惣十郎、芝清之、大西信行、現在の芦川淳平、稲田和浩のように、浪曲台本を手がける作家もいる[注釈 80]。
文芸浪曲は酒井雲や初代林伯猿が端緒で、菊池寛「恩讐の彼方に」や泉鏡花「滝の白糸」など文芸作品が浪曲化された。それまで欠けていると指摘され続けた藝術的な薫りを浪曲の世界に加えた。後の女流浪曲にその芸風は引き継がれている。
また、演目の東西交流は早くから進んでおり、関西の浪曲師が関東が舞台の演題をするケースが多いがその逆の演題もある。
- ※以下は浪曲で代表的とされる演目である。右の名はその作品で代表的な演者(または現在聞きやすい演者)[272]。
このジャンル分けは便宜的なものである。出征して戦死し、靖国神社に祀られた息子への心情をうたった「親子物」で「戦争物」である「九段の母」など。
- 任侠物(三尺物)
- 世話物(悲恋・スキャンダル)
- お家騒動物(金襖物)
- 戦争物
- 親子物
- 相撲物
- 寛政力士伝シリーズ - 京山幸枝若
- 歌舞伎物
- 浄瑠璃物
- 滑稽物(ケレン、お笑い)
- 落語物
- 怪談・怪奇物
- 番町皿屋敷 - 春野百合子
- その他
歌謡浪曲
[編集]歌謡浪曲とは、伴奏が三味線でなく洋楽器で、より歌うことを重視した、浪曲と歌謡曲の中間的形態である。浪曲のもともと持っていた自在性・融通性により生まれ、戦後の高度成長期に大きく膨らみ、主流となっていった。
先駆として、戦前に宮川松安が実演した洋楽器を使う楽浪曲の試みや、「浪謡曲」芙蓉軒麗花、洋楽器伴奏で演じた初代筑波武蔵など。戦中になると軍歌入りの浪曲となり、木村若衛の「歌謡浪曲」が放送局で企画放送される[304]。戦後になると「歌謡節」を各人が創設する[305]。
1957年(昭和32年)、当時若手浪曲師であった三波春夫や村田英雄は、奇しくも同年に、伴奏が洋楽器でより歌うことを重視した歌謡曲(のちに演歌)の世界へ転進[306]、そのレパートリーとして歌謡浪曲を歌うようになる[307]。
歌謡浪曲の定義は難しいが、浪曲の中に歌謡曲を一部取り込むものと、浪曲をオーケストラ伴奏で「歌う」(芸態は全く変わらないが歌謡曲に合わせてこの表現)ものをどちらも歌謡浪曲と呼ぶ[308]。
ラジオ浪曲も全盛を過ぎ、小屋自体の数が減った寄席や同じく減った通常の巡業より、一流大家ばかりが競演することが売りの大会形式の興行が地方部でも増えてきた、そのごろを境に若手の修業する機会は急速に失われていく。スタンスの取り方はさまざまで、女流では天津羽衣や二葉百合子などの大きな流れ自体がほぼ歌謡浪曲そのものであった。浪花節は歌謡浪曲を通して現在の演歌に強い影響を与えた。
また男性では、関西の真山一郎一門が、浪曲界の中で「演歌浪曲」と称した歌謡浪曲を専ら演じている[309]など現在も、東西の高座で歌謡浪曲スタイルを披露する浪曲師はいる。
浪曲の周辺・影響
[編集]全盛期は芸能界(戦時体制で生まれた言葉である[310][311])の王様と評されたこともあり[312]、その影響は広範囲に及ぶ。その様は一昔前のサブカル[313]に例えられる。
河内音頭
[編集]河内音頭は浪曲と密接な関係を持つ。現在は関西の浪曲師の多数が音頭取りとして参加し、渾然一体となっている[314][注釈 82]。河内音頭からの浪曲入りもある(例:2代目真山一郎)。その代表作として初代京山幸枝若の「河内音頭河内十人斬り」がある[315]。毎年開催されている錦糸町河内音頭大盆踊りで、関東初お目見えとなる人もおり、貴重な機会となる。
節劇・映画のタナ読み
[編集]一人ではなく二人以上で一つの演目を分担して語る「掛け合い浪曲」は今でも口演される[316]。役柄で割り振るなど、節劇の前駆形態とも目される。
節と語りで物語を回す浪花節の形式は、現在の歌舞伎・文楽における義太夫の形の代替のように使われ、剣劇と共に現在の大衆演劇のルーツの一つ、浪花節劇=「節劇」[317][318]が、長らく演じられていた[319]。大舞台での名手としてコメディアンの堺駿二、玉川良一、芦屋雁之助がいる[320][注釈 83]。特に盛んだったのは九州で、大歌舞伎の役者でも義太夫替わりに浪花節を使わなければ、客が納得しなかったという[318]。地方回りの一座に、売れない浪曲師が帯同し上演された[321]。最盛期は敗戦直前[注釈 84]である。大衆演劇俳優、沢竜二の父は「桃中軒雲富士」という名で、浪曲師から大衆演劇に流れたのもその一例である。
派生して、浪花節を無声映画の活弁代わりに使う連鎖劇も生まれた。吉本興業が一時期推進した映画興行路線[322][323]の中、「浪曲トーキー」を打ち出した。アメリカで有名になり、後に帰国した桃中軒浪右衛門[324](とうちゅうけん なみえもん)は、同様な弁士として活躍し、アメリカ市民権を取得し活動していた。映画「カポネ大いに泣く」の主人公は彼がモデルである[325]。
これらは1957年(昭和32年)異色作の舞台「きりしとほろ上人伝」につながっていく。武智鉄二演出、浪曲(木村若衛、国友忠が幕毎に分担)が物語の進行、操り人形と役者が共演する舞台であった[326]。同様の浪曲ミュージカルが民音制作でいくつか作られている。
日本映画で繰り返し映画化されてやまない素材が「忠臣蔵」と「清水次郎長」であったように、興行の点で共通する部分を持っていた浪花節は[327]、トーキー初期から「節劇」のタナ読みの立場で「浪曲映画」も盛ん[328]で、「佐渡情話」(1934年公開)、「石松夢道中」(1940年公開)、虎造を出演させた「次郎長三国志」シリーズ(東宝版。1952年 - 公開)、「浪曲子守唄」(1966年公開)などがある。中で役者としても活躍した虎造[注釈 85]は、浪曲の枠をも超えた最大級のスターだったのである。浪曲映画はこれ以外にもプログラムピクチャーとして[注釈 86]数多く制作され(一例として、1960-1961年、自社製作の時代劇が黄金期の東映の第二番線として公開された第二東映のラインナップにも多く浪曲で馴染みの主題が見られる)、寿々木米若や二代目雲月(伊丹秀子)などが複数の映画に出演している[329]。節劇は近年、日本浪曲協会のイベントで東家一太郎がかけている。
演歌
[編集]大正、昭和の流行歌、戦中の軍歌も基本は西洋音階のメジャー旋律を使った曲が多かった。それが、歌謡浪曲以降、和の旋律、マイナー音階が(流行歌→)歌謡曲に多く用いられるようになり、演歌につながる[330]。三波春夫、村田英雄の2名(後に演歌の両巨頭)を始めとした若手の浪曲師達は浪曲界を去った[306]が、それぞれに浪曲を随時取り上げる。特に三波春夫は劇場閑散期である毎年8月歌舞伎座での座長公演を引き受け、20年連続公演をする[331][332]。他に1984年(昭和59年)、木村友衛(二代目)の演歌レコード[注釈 87]「浪花節だよ人生は」は、細川たかしや水前寺清子などと競作となり大ヒットをする。2009年(平成21年)には、股旅物を得意とする氷川きよしの「浪曲一代」がヒットした。また浪曲師が演歌歌手を兼任、レコードリリースする例は未だに多い。浪曲師とされる人に入門した演歌歌手としては、中村美律子などがいる。 他に浪曲の影響が明らかな中期以降、歌を変えた美空ひばり、畠山みどり、幼少期に浪曲と民謡のスパルタ訓練を行い独特のうなり節[333]を売りにした都はるみ、影響を公言する例で八代亜紀がある。泣き節演歌の島倉千代子や水前寺清子まで浪花節の影響を指摘されている[334]。
レコード
[編集]浪曲のレコードは、浪花亭愛造以降大変多くの吹込みがあり日本でのレコード普及と軌を一にする[335]。日本の高度成長期にあたる、浪曲の衰退期に入ると浪曲師でデビューをして人気者になってもレコード発売がされないことが増え(逆に言えばそれまで多くの浪曲師の録音がレコード化した[336] )、昭和40年代に関西でローオンレコード[337]、昭和50年代に東京でベルボアレコードが設立され、独立レーベルとして活動をした。戦前から戦中のレコード初発状況は近代日本芸能年表・下に詳しい[338]。
民謡
[編集]津軽三味線の小原節[注釈 88]には浪曲「壺坂霊験記」を取り入れた演題がある。また安来節のアンコに浪曲を取り入れたのは、曲師の山本太一の存在が大きいという[339]。
また、浪花節でテーブルかけが標準的になるほど流行した影響で、その後に全国的に流行した八木節、安来節、河内音頭、津軽三味線、逆輸入の形で山形県のデロレン祭文でもテーブルかけが作られた[340]。
ラジオの浪曲
[編集]ラジオでは1925年(大正14年)東京放送局 (JOAK)の開局3ヶ月後から出演[注釈 44][142]、日本の軍国化に伴いその比重を増す[341]。戦後、民放ラジオが続々発足すると、人気と効率(費用対効果)に目を付けたスポンサーの要請で、浪曲番組を大量に制作した[342]。詳しくは歴史の節を参照のこと。また、レコード会社への専属契約に準じた、民放(ラジオ創世期)への専属制度が浪曲に限らず、演芸界全体、民放からNHKにまでも広がった[343]。
朝日放送の「おはよう浪曲」は長い歴史を終えた。[344] ラジオの日本での放送開始直前から第二次世界大戦後の1952年までの(浪花節以外も含めた)各芸能の放送記録は、『日本近代芸能年表・下』p.74-147に詳しい。
テレビと浪曲
[編集]NHKは、現在に至るまで継続的に本格浪曲を取り上げ続けている。 それ以外で本格的に浪曲を取り上げた番組の数は極めて少ない。近年では年2回、NHK初夏の浪曲大会(浪曲特選・夏)と冬のスタジオ録画(浪曲特選・冬)のがあるのみである。朝日放送の「おはよう浪曲」はテレビ版があったが終了している[注釈 89]。過去には浅草木馬亭で収録が行われた二葉百合子、玉川良一司会の東京12チャンネル「涙の浪曲劇場」があった。それ以前には素人のど自慢として民放テレビ創成期のKRTテレビ(後のTBSテレビ)「浪曲天狗道場」や後にフジテレビ「テレビ浪曲道場」など[注釈 90]。「浪曲は動きが無いからテレビ向きではない」との定評が立つ[345]。
こども向け
[編集]こども向けに浪曲を親しませる機会としては、フジテレビ「ひらけ!ポンキッキ」にて、玉川カルテットが数え方をその芸風そのままに伝えた事がある[346]。やや時をおいて2000年4月 - 9月、「アニメ浪曲紀行 清水次郎長伝」が毎日放送をキー局にして放映された。また、2001年に浪曲絵本として「ねぎぼうずのあさたろう」が発売された。国本武春が協力。長谷川伸を思わせる股旅物になっている。2008年にはアニメ化、テレビ朝日系列で放映された。近年ではNHK教育テレビ「にほんごであそぼ」のうなりやベベン役を国本武春が演じた。以上のように、国本武春が、浪曲の将来を考える中で、こども向けの活動を継続して重視したのは明らかで、後に続く者の登場が待たれる。
色物演芸とコント・バラエティ番組
[編集]色物演芸の世界では、浪曲の物まね(特に節まねと呼ぶ)[注釈 91][注釈 92]の、古くは浮世亭信楽(うきよてい しがらき)[347][348][注釈 93]、戦後期まで活躍した前田勝之助[349][350]や隅田梅若(すみだ うめわか)[349](どちらもラジオ浪曲天狗道場の指南役を務めたことでも有名)、浮世亭雲心坊[351]、他には浪曲修行の経験の有無に関わらず、よく舞台で演じられた[352]。先駆として井口静波、虎造節[353]を取り入れた「地球の上に朝がくる」のボーイズ川田義雄[354]、「歌謡浪曲カルテット」とうたっていた玉川カルテット、既に名を成していた四代目宮川左近が結成した宮川左近ショー、浪曲漫才として(砂川捨丸などの音曲万才の系譜を色濃く受け継ぐ形で)転出した浪曲師はタイヘイトリオなど多数である[306]。浪曲はテレビ番組の形式としては成功せず、しかしバラエティ番組としては「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」の度肝を抜く「アッと驚くタメゴロー[355]」、「オレたちひょうきん族」にてアダモステ(仇申亭 北)、鬼瓦権造が浪曲をモチーフに使い[356]、テレビ史に印象を残している。
落語
[編集]3代目三遊亭圓歌の「浪曲社長」のように、逆に浪曲から落語に影響を与えた作品もある。浪曲を取り込む落語は時折見られ、田舎回りで訛りの酷い浪曲師を滑稽に取り上げた5代目古今亭志ん生の落語「夕立勘五郎」[357][注釈 94]は当時の浪曲に対する悪印象を今に伝える。9代目入船亭扇橋は2代目広沢虎造に入門しようとした所から芸界履歴をスタートさせた。甚五郎物のネタは、講談から題材を採った2代目広沢菊春のよく演じた「落語浪曲」から、落語の3代目桂三木助のネタになった。立川談志は子供の時分から浪曲が好きだっただけでなく、実際に幾つかのネタは浪曲師から仕入れている[358]。2代目快楽亭ブラックの代表作の一つ「英国密航」は広沢瓢右衛門の浪曲を落語化したものである[359][360]。大阪では、笑福亭福笑の改作「浪曲ヤクザ」[361]。近年でも三遊亭白鳥作「流れの豚次伝」シリーズ(任侠流山動物園)全10段は、2代目広沢虎造の「清水次郎長伝」からの影響を公言するなど、浪曲へのオマージュあふれた作品で、柳家喬太郎、柳家三三他も演じている。また春野恵子、瑞姫、玉川太福によりそれぞれフシ付け(浪曲化)され共有化している。既に講談化もされ、(落語経由ではあるが)浪曲的主題の講談への逆輸入という珍しい事態が起きている、とも言える。
漫画・コミックとの関わり
[編集]マンガ、「ONE PIECE(ワンピース)」は作者の尾田栄一郎が虎造の次郎長伝を聴きながら執筆していると言われ、作中にも影響が色濃い[362][363][364]。 亡くなったさくらももこの「ちびまる子ちゃん」は当初、自伝的性格が色濃いマンガであった。作者が旧清水市出身ということで、祖父・友蔵の影響で主人公のまる子も浪曲・落語が好きである[365][注釈 95]。
原爆マンガとして有名なはだしのゲンは作者の好みで、作中浪曲がたびたび登場する(綾太郎、米若、虎造)[366][367]。
その他
[編集]1979年(昭和54年)、田中小実昌が小説『浪曲師朝日丸の話』などで直木賞を受賞した[368]。
「浪曲師を目指した」例は、演歌界の他にも植木等の父徹誠、アナウンサーの小島一慶など、未だに時折エピソードが披露されるほどある。
(日本における)シャンソンの女王として後世にも名を残す宝塚歌劇団出身の越路吹雪は、舞台で2代目広沢虎造の次郎長伝の節真似(森の石松)を披露したことをきっかけとして、注目を集めていくようになる[369]。
寺山修司によるアングラ劇団「演劇実験室天井桟敷」[370]の「見世物の復権」を謳った旗揚げは「浪花節による一幕 青森県のせむし男」である[371]。1983年、寺山の没後にパルコ劇場で再演あり[372]。美輪明宏・国本武春[373]・木村勝千代[374]出演。
国本武春の活動の両輪のもう一方である「三味線ロック」→「三味線弾き語り」がある[375]。本人は亡くなったが、浪曲師の中には浪曲と他ジャンルを同時平行的に活動する者も現れ始めてきている[376]。
また、労働者向けの音楽(演芸)の近さから、たびたび接近してきたブルースと浪曲は(川田義雄の「浪曲セントルイスブルース」、八代亜紀[377]、国本武春、2代目京山幸枝若など)結局、今に至っている。
電気グルーヴの曲「浪曲インベダー」[378][379]はこの世代の浪曲の受容ぶり(認知の際(きわ)で「よくわからない」けど、和風で演歌的なもの)を端的に表す。
ライブコマースは、2017年が日本における認知元年だが、ヒラキ_(芸能)と同様に投げ銭が行われる。
港家小ゆきは「クラシカ浪曲」として「ベートーヴェン一代記より 歓喜の歌」を語る等新機軸を打ち出し注目を集めている[380]。
ちんどん屋から浪曲師となった港家小そめ、その独り立ちまでを追ったドキュメンタリー映画「絶唱浪曲ストーリー」が川上アチカ監督により撮影され、1時間51分の作品として完成、公開された[381]。
主な浪曲師
[編集]大きな名前については、その名にあやかり芸を継承するために襲名する事(名跡化)がある。浪曲の名跡一覧も参照のこと。逆に本名(または本名の一部)を使用することもあった。新興芸能であった時期は他の演芸同様に、師弟関係は固定化されておらず、師匠を遍歴する者や、師匠無しの独立独歩の者もいた。また、曲師、裏方(マネージャーまたは「支配人」)との転出入の歴史的な多さ、戦後においての演歌・民謡歌手や色物演芸との比較的自由な行き来は特筆に値する[注釈 96]。現在の浪曲師は落語のように徒弟制度が整い、3年以上の年季奉公、1年の御礼奉公が一般的である(江戸落語のような二つ目は現在はない)。節目として名披露目(年季明け)があり、一人前という扱いに変わる。
もともと浪花節は、他の演芸に比べても女性の進出が早く、成立前の江戸末期から曲師はもちろん既に女流もおり、明治・大正期には女流浪曲団がいくつも結成され巡業に出て好評を得ていた[382]。そのような所から戦前期より、著名な初代春野百合子や冨士月子、二代目天中軒雲月、戦後期には天津羽衣や二葉百合子、二代目春野百合子が登場する。後に浪曲への入門者全体が減る中で女性に偏りだし、近年は講談と同様に現役浪曲師の男女比が逆転する状況になっている。
明治期より大相撲を真似た「浪曲師番付」が多数発行され配布された。地方巡業をする際に活用され、当時の位付けの一端は覗うことができる[383][384]。
東西交流が多く、東・名・阪・九州の間で拠点を移す者は、他の演芸に比べても、(浪曲師・曲師ともに)古くから多い。
現役浪曲師については日本浪曲協会、浪曲親友協会の浪曲師一覧、または浪曲師一覧も参照のこと。[385]
※五十音順
関東の浪曲師
[編集]- 東武蔵 - 寄席読みの名人。文化放送「浪曲学校」。二葉百合子の大師匠。落語の立川談志師がこよなく愛し、演芸選集にも登場する[386]。
- 東家浦太郎
- 東家三楽
- 初代東家(東亭)三楽 - 東家派の祖。
- 四代目東家三楽
- 東家楽浦 - 寄席打ちの名人。「木馬亭」を開いた功労者。
- 東家楽燕 - 雲右衛門に傾倒し東家ながら入門、関東における関西節の流れを作る。日本浪曲学校設立に関わる。
- 東家楽遊
- 天津羽衣
- イエス玉川:
- 一心亭辰雄(のちの服部伸)
- 梅原秀夫 - 鼈甲斎虎洲から本名に転じ、文芸浪曲・軍事浪曲で有名になる。のちに五代目鼈甲斎虎丸を襲名。
- 大木伸夫 - 歌謡浪曲。
- 鹿島秀月(かしま しゅうげつ)
- 春日清鶴[388](かすが せいかく)
- 春日井梅鶯
- 春日亭清吉 - 大正期の重鎮。
- 木村重友
- 初代木村重友 - 木村派の雄。関東節。
- 木村重正(きむら しげまさ)
- 木村重松
- 木村友衛
- 木村松太郎
- 木村若衛 - 戦後期の大看板。知能犯的な人物造型の「天保六花撰」。後に日本演芸家連合会長。
- 国友忠 - ラジオ浪曲「銭形平次」。中国残留婦人の帰国に尽力。
- 国本武春 - 伝統的浪曲と現代的にアレンジした独創的浪曲の二つをこなしテレビ出演も多数。浪曲の将来を背負って立つ立場であったが、これから本番という時期に亡くなる。
- 小金井太郎(こがねい たろう) - 二代目玉川勝太郎とともに玉川の両翼と呼ばれる[391]。
- 相模太郎
- 五月一朗 - ケレンで美声、ケレン読みでは珍しくトリを取って看板となる。
- 澤孝子 - 二代目広澤菊春に入門。後に澤孝子と改名。前日本浪曲協会会長。:
- 篠田実
- 初代篠田実 - 「紺屋高尾」。
- 寿々木米若 - 新潟県出身。「佐渡情話」。新作派。
- 玉川勝太郎
- 玉川福太郎
- 二代目玉川福太郎 - 今につながる多くの弟子を育て、次世代のリーダーとして期待されながら若くして亡くなる。
- 玉川奈々福 - 近年の浪曲を裏と表から支える存在[392]。
- 玉川太福 - 近年、若手の出世頭。
- 津田清美(つだ せいみ) - 満鉄社員から浪曲師に転進のインテリ。人物活写に定評。「タイショ」と合いの手を入れる「清美節」[393]。
- 二代目天中軒雲月(雲月嬢改め) - 七色の声を生かし、戦争物の時流に乗る。伊丹秀子の名で戦後も活躍。
- 浪花亭愛造
- 初代浪花亭愛造 - 桃中軒雲右衛門の初期の好敵手。浪曲界初のレコード吹き込み。早世。
- 浪花亭綾太郎 - 盲目の浪曲師。「妻は夫を労わりつ」で有名な「壷坂霊験記」。
- 浪花亭駒吉
- 初代浪花亭駒吉 - 関東節の祖
- 浪花亭峰吉 - 駒吉の直門下。司法の勉強と弟子修業を両立。後に司法記者格で法廷取材。「泥棒士官」。
- 浪花家辰造
- 三代目浪花家辰造 - 二丁三味線を用いた独特のフシ。
- 南條文若 - 三波春夫の浪界時代の名。日本浪曲学校出身。
- 林伯猿
- 初代林伯猿 - 文芸浪曲。
- 二代目広沢菊春 - 落語浪曲で知られ、落語の寄席に出る。「徂徠豆腐」。
- 広沢虎造
- 二代目広沢虎造 - 浪曲の代名詞「清水次郎長伝」で広く一世を風靡。浪曲の代名詞的存在。
- 二葉百合子 - 歌謡浪曲「岸壁の母」。関東節を多くの歌手に伝える。
- 三代目鼈甲斎虎丸 - 節使いが関東関西に大きな影響を与える。晩年は大阪に移る。
- 松平国十郎(一時、京極佳津照 きょうごくかづてる)
- 美弘舎東一(青木勝之助改め) - 玉川派の祖
- 吉川小福(よしかわこふく) - 自ら腹を切った女流浪曲師[394]。名前を改進軒女雲に改める[395]。
関西の浪曲師
[編集]- 岡本鶴治(おかもと かくじ)
- 岡本玉治(おかもと たまじ)-フラフラ節。相模太郎の芸風確立に多大な影響を与える。
- 京山恭安斎 (きょうやま きょうあんさい)- 成立期に活躍[396]。
- 京山幸枝
- 京山幸枝若
- 京山小円 - 桃中軒雲右衛門、二代目吉田奈良丸と共に第1期浪曲黄金時代。
- 京山小円嬢 - 関西女流浪曲の三羽ガラスの一人。
- 京山若丸 - 「新談(新作)読み」の自作自演で知られた。第1期浪曲黄金時代の一人。
- 松風軒栄楽 - 新作浪曲が得意で「乃木大将」や「青山殺人事件」。
- 天光軒満月 - 菊池寛の「父帰る」や「召集令」など「悲劇読み」の大家。
- 天龍三郎 - 二代目広沢菊春の実弟。晩年は関西の重鎮として活躍。
- 筑波武蔵
- 梅中軒鶯童- 師匠を持たず、自由奔放な「鶯童節」で関西の大看板になった。「紀伊国屋文左衛門」。
- 春野百合子
- 二代目春野百合子 - 女流浪曲の大御所。「西鶴五人女」シリーズ。
- 日吉川秋斎 - ノリの良い秋斎節で「左甚五郎」「水戸黄門」。
- 日吉川秋水 - ケレン(お笑い)浪曲の第一人者。
- 広沢菊春
- 初代広沢菊春 - 2代目菊春、天龍三郎兄弟の父。
- 広沢駒蔵 - ケレン浪曲の中堅。「水戸黄門」「左甚五郎」。
- 広沢虎吉
- 二代目広沢虎吉 - 浪花節親友派組合頭取。定席小屋「広沢館」を経営、隠居し「井上晴夢」。弟子に2代目広沢虎造他。
- 広沢瓢右衛門 - 売れ出したのが浪曲衰退期の昭和50年代、70歳を過ぎてからと言う異例の浪曲師。自他共に認める悪声。
- 冨士月子 - 東京で単身独立独歩の修行を経て、初代春野百合子と人気を二分。親友協会初の女流会長。
- 冨士月の栄 - 関西戦後四天王。
- 藤川友春 - 「弁慶新五郎」「柳生十兵衛旅日記」「難波戦記」「鍵屋騒動」「朝鮮軍記清正の苦心」「侠客小仏重三」「後藤又兵衛」などを口演。ハンセン病を押して高座に上がり続けるがついに下ろされ療養に入る。
- 芙蓉軒麗花(広沢香菊改め) - 戦前は姉の若菊と共に東京で女流浪曲団「初音会」の座員。戦後「ろうきょく炭坑節」のレコードが大ヒット。
- 松浦四郎若 - 関西の正統派。
- 真山一郎
- 三原佐知子:
- 宮川左近
- 宮川松安(みやがわ しょうあん) (昭和39年没)- 放送に初めて乗った浪曲師。楽浪曲も。謹厳実直の堅物としてのエピソードが残る[398]。
- 吉田小奈良(よしだ こなら) - 二代目奈良丸の妹。明治から大正にかけての代表的女流浪曲師[399]。
- 吉田奈良丸 - 名門名跡。
中京の浪曲師
[編集]中京の浪曲師、というより主に関東に進出していった中京節の一覧である。
- 末広亭清風 - 寄席「新宿末廣亭」の名前が残る。明治期の重鎮。
- 五代目天中軒雲月: - 四代目の弟子。女流。現在は浪曲親友協会理事で日本浪曲協会にも所属。
- 鼈甲斎虎丸 - 中京節の第一人者。「安中草三」の連続読みは有名。五代まで続き、現在は継ぐ者がいない。
- 三門博 - 東京へ出て、御門博から戦時の時節柄、改名。「唄入り観音経」が空前のヒット。
- 三河家梅車[400](みかわや ばいしゃ)
- 三河家円車[401](みかわや えんしゃ) - 「ドンドン節」が大流行。梅車の弟子。
- 港家小柳[402](みなとや こりゅう) - 「深川裸祭り」が継承ネタ。5代目は2017年に没。東京の協会に属していた。
- 港家小柳丸 - 「寄席打ちの名人」。「亀甲組」など任侠物を得意としていた。3代目は中京浪曲協会会長[403]。
九州の浪曲師
[編集]九州出身で九州色が強い大看板の浪曲師の一覧になる。切り節、祭文と呼ばれていた土壌があり、雲右衛門の後(美当一調の後)に九州出身の浪曲師は多い[404]。 中京地区と同じく、彼らは関西や関東に更なる活躍の場を求めて移っていった。地回りの浪曲師が九州には特に多く、興浪会結成の基盤にもなった。
- 京山華千代 - 義姉の初代春野百合子とともに九州出身。戦前は大阪、戦後は東京で活躍。
- 桃中軒牛右衛門(宮崎滔天) - 人気が先立ち、浪花節としてはうまいものではなかったという定評が残っている。
- 桃中軒雲右衛門
- 初代桃中軒雲右衛門 - 浪曲界の中興の祖。
- 初代天光軒満月 - 九州で長年巡業していたが、大阪天満・国光席に出て、そこから大看板となる。哀調が特徴。
- 天中軒雲月
- 天中軒雲衛 - のちの敏腕興行師永田貞雄。天下一のハッタリとそれを納得させてしまう内容を両立させ、名を轟かす。愛国浪曲から戦後の浪曲界に深く関わっている。力道山の日本プロレスも。
- 酒井雲 - 文芸浪曲を始める。村田英雄の師匠であった。熊本→岐阜在
- 酒井雲坊 - 村田英雄の浪曲師時代の芸名。出身地・九州で人気を博した。後に古賀政男にスカウトされ歌謡界へ。
浪曲師の所属団体
[編集]関東と関西を代表する上記2団体のほか、過去には(興浪会→)西日本浪曲会が福岡にあった。また、戦時総動員体制の中、統合される形の団体「日本浪曲会」が敗戦までの1年間存在した。戦後は中京浪曲協会が名古屋に存在した。
ニセ浪曲師
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
浪曲という分野自体の衰え、情報環境の飛躍的発展と共に、ニセ浪曲師の存在も風化してきているが、渾然一体[406]として浪花節語り/浪曲師としての正統性[注釈 97]がさほど重要でなかった時代は天狗連や無名な浪曲師が、有名な浪曲師から名前を拝借し、「ニセ浪曲師」として巡業して回ることが度々見られた[407][408][409]。 例として村田英雄(少年酒井雲と無断で名乗った時期がある)[410][411]。 真鍋によれば、「キク・ヨム・マネル」というゆるやかな連結の実践の中で、素人が大量に生み出され、プロ裸足のセミ・プロが「回路」として生み出されていった(民放史にも残る浪曲天狗道場はこういった土壌の元に生まれた番組、プレ・カラオケと呼べる)。 「東三光」[注釈 98][412]を名乗るなど、松平国十郎は名前に拘り続けた[413]。他にニセ物騒動があった大木伸夫。五月一朗が談話で「春日丼梅鶯」と変名を名乗った話をしている[414]。 観客の受容史としては、後(戦後)の西部劇の速撃ちガンマンとして「来日」・実演したケニー・ダンカン、やプロレス、ビートたけしが言及し、未だ記憶に残る「エノケソ」[415][416](エノケンの偽物)に通底する。
寄席
[編集]現在
[編集]過去の主要な寄席(浪曲定席中心)
[編集]- 京山亭 - 四谷の山本亭を京山大教が買い取り改名。(M39山本亭)
- 虎丸亭 - 初代虎丸東京進出のために同郷の人間が作る。小菅一夫に拠れば、浅草猿若町。
- 神田・錦輝館 - 貸席。日本の映画史に登場する。浪花節初の合同演芸会の会場
- 大ろじ - 東京日本橋・葦屋町。大円朝も出た大店。明治30年頃は浪花節を多く出す。
- 都川亭 - 本所区外手町(現・墨田区石原)
- 市場亭 - 東京神田美土代町3-1。またの名を「本市場」。席主・奥津万吉。関西(から進出)派の拠点。愛進舎から神田組へ。凱旋後の雲右衛門が買収・改装した後、神田「入道館」[417]→雲の没後三代目鼈甲斎虎丸の手に渡り「民衆座」。定員は700人、寄席としては巨大レベル。(M39)(T15)(現在ベルサール神田の角の位置)
- 新恵比寿亭 - 東京浅草ちんや横丁[418]。明治24年築。浪花亭駒吉を中心とする関東派の拠点。午前10時から夜11時まで、毎日営業。1人持ち時間40分。共盛会から浅草組へ。席数257[419]。席主・中沢源之助。大正3年まで営業を確認[420]。
- 伊皿子亭 - 東京・芝。関西組の拠点の一つ。芝区伊皿子40。後に「万盛館」。
- 栄寿亭 - 芝烏森 愛造『美声絃入り講談』の看板(M39)
- 東京亭 - 日本橋南伝馬町34。愛造が変調を来たした場所(漫語)
- 天満・国光席本席(くにみつせき) - 明治16年に浮かれ節の定席としてできた天満天神裏・吉川館が改称[421]。原惣兵衛。定員400人[422]。第二次大戦の空襲で焼けた。
- 松島・広沢館 - 広沢虎吉(井上晴夢)が経営しチェーン化した。220席[422]。吉本に買収される。
- 千日前・愛進亭(または愛進館) - 大阪市内各地に第一(南千日前、200席)から第四まである寄席チェーンであった。持ち主は井谷亀之助。終戦前は初代日吉川秋水の弟の南条一が館主[422]。1910年(明治43年)10月に娘義太夫の大阪における一番の定席、播重席を買収し第五愛進亭と改名するが、引き続き娘義太夫を興行[423]。その後曲折があり[424][425]、昭和4年の「入場料調査」では浪花節でカウントされ[426]、そのころ浪花節定席に変わる[427]。
- 喜楽席 - 堺市。広沢瓢右衛門の初舞台の席。
- 寿亭 - 横浜・伊勢佐木町。関外伊勢佐木町方面を縄張りとする沢野巳之助が経営。
- 二山亭-青山通り(現246)沿い(M39)
- 廣川亭 - 深川・冨吉町(M39)
- 浪花館 - 深川・富川町(M39)(T15)
- 桜館 - 深川・黒江町(M39)(T15)
- 広尾亭 - 麻布・広尾(M39)(T15)
- 福槌 - 麻布・宮下町(M39)(T15)
- 喜扇亭 - 日本橋人形町。
- 浦安亭 - 千葉県南葛飾郡浦安町(現:浦安市)堀江185番地。許可番号1号。明治43年。間口5間、奥行8間、定員350名。[428]山本周五郎の『青べか物語』にある浦粕亭のモデル[429]。漁師町。客の気性が荒いことで名が知られ[430]、近所にある先んじてあったが無許可の「堀川亭」→間もなく焼けて、1910年建て替えた「演技館」(定員600名)と共に、浪曲に限らずデロレン祭文、落語なども行われた。昭和40年取り壊し[431]。
- 花岩亭 - 本所・緑町(M3)(T15)終戦まで。
- 金車亭 - 東京浅草。一流が集う講釈場だったが昭和11年暮、浪花節席に変わった。浅草1-40-5[432]。
- 住吉亭 - 南條文若(後の三波春夫)デビューの場[433]。
- 栗友亭 - 南千住コツ通り。戦後、ラジオ東京「浪曲天狗道場」ヒットの時期に浪曲定席として開けるが時期は短い。
脚注
[編集]例
[編集]浪花節または浪花節的の使用例
- ^ 「SF作品も本質は意外に浪花節なのではないかと思いました」。プロダクション・アイジー石川光久社長インタビュー『日経MJ』2017年1月4日。
- ^ しかし、熊本県立大学理事長の五百旗頭(いおきべ)真(近代日本政治外交史)は昭和天皇の考え方を「浪花節」と例える。「退位させるのは責任があったからであり、責任があった私人となれば戦犯のナンバーワンとして引き出される」と話す。木戸の「封印」は当然だった。『毎日新聞』東京朝刊2017年1月5日3頁「考・皇室:憲法と歩む/7」。
- ^ 「音楽、主人公たちが歩く街の情景、浪花節的に片づいたりしない人間関係。さまざまな場面に独特の乾いたにおいがふっと漂う」。『読売新聞』東京夕刊2017年1月27日11頁[映画]破門 ふたりのヤクビョーガミ=松竹ほか 味のある「迷コンビ」。
注釈
[編集]- ^ 浪曲(浪花節)のNDC分類は最新の10版に於いても、大衆芸能の下にある「779.15」である。
- ^ 新幹線以前限定である。
- ^ 教養主義とは、文化の享受を通して人格を高めようという考え方である。当時の日本の教養主義の源流は明治時代の修養主義であり、明治末期(二十世紀初め)から特に高学歴者に普及し、高学歴層が自分たち一般庶民から差別化しようする意識から高学歴層に固有の文化となっていった。差別化というのは自分たちを上に置くわけであるから、特権化という方がわかりやすいであろう。古川隆久『戦時下の日本映画』p.25-26。
- ^ 「荷風と音楽」『季刊芸術』12(3)p.111
- ^ 伝統邦楽界では一般的である「家元制度」に象徴される分派主義(杵屋正邦「一邦楽系作曲家の体験的発言」『科学と思想』1976(10)p.322とは様相を異にしている。
- ^ 現代人からすれば「歌う」であるが、詳しくは語りものの項に説明があるので参照のこと。
- ^ 浪曲師と曲師がどう呼吸を合わせて演奏しているかは国本武春『待ってました名調子!』に詳しい。東家みさ子(p.46-54)、岩崎節子(p.96-99)、沢村豊子(p.100-103)の項などを参照のこと。
- ^ 相三味線は歴史的に配偶者、つまり女房が多かった。このケースは2024年の時点で比率は減っているが、東家一太郎における東家美、三代目広沢菊春における広沢美舟などの例も散見される。
- ^ 現代に向かっていく中で、高野東海や山本太一など男性の高名な曲師もおり、また曲師不足に起因するフリー曲師の増加もあり、現在は組合せに特別なものはない。
- ^ 『日本浪曲史』南北社版(1968年刊)p.373(中川明徳による補章)は、天龍三郎がギター奏者をつけ始めたことを批判的に書いており、その頃より始まり、一手法として京山幸枝若など上方に定着した様子がうかがえる。
- ^ 「コロニア浪曲」。細川に頻出。
- ^ 『痴遊雑誌』に転載された「浪花節漫語」の上欄、北村大巴(浪花容峰)の寄稿にもあるように、古くから関西で「浪花節だから浪花(大阪)」と単純化をする傾向が見られる。出典:『痴遊雑誌』復刻2巻p.882。
- ^ 東西の境を超えた巡業は的屋に似て少ない。出典:『テキヤはどこからやってくるのか?』(ISBN 978-4334037956)p.21。
- ^ 『日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』にも「うかれぶしさわぎ」という名の今の浪花節とは別の音曲(演者・立花家圓左衛門、富士松ぎん蝶)の収録がある。同じ演者にある「浮世節」の別称であろう
- ^ 同時期に寄席に登場したオッペケペーの浮世亭○○こと川上音二郎や娘義太夫などと比べても明らかである。
- ^ 現在の上野駅構内。1882年(明治15年)11月に閉鎖される。
- ^ 明治期に入り火除地となる。明治23年には日本鉄道の貨物駅用地となる。
- ^ 采女橋の脇に空き地があった
- ^ 今の新橋駅日比谷口近辺
- ^ 佐竹藩の屋敷跡。現在の台東区台東『竹町の人とくらし(台東区文化財調査報告書 第18集)』台東区教育委員会文化事業体育課、1995。
- ^ 本所の津軽藩屋敷跡。今の墨田区緑図書館の近辺
- ^ いずれも後に周辺に寄席が出来ている
- ^ 中村幸彦1983p.300
- ^ 明治5年とする石谷華堤説と明治10年以降とする平林説が主にある。全容については芝清之『浪花節 東京市中・寄席名及び出演者一覧』の冒頭を参照のこと。しかしながら「遊芸稼人」の歴史における重要な明治8年刊『諸芸人名録』に浪花節の名はなく、それ以降に結成されたと具体的に推定できる。
- ^ 節談説教の演目と重なり、その影響がうかがえる。
- ^ 東京・神田「市場亭」、浅草雷門「新恵比寿亭」が共に開場するのが明治25年。 出典:芝清之『浪花節 東京市内・寄席名及び出演者一覧』。
- ^ 芸人同士の深刻な対立ではなく、合併興行をする場面も多くあった。
- ^ 消えた芸能として挙げた(倉田喜弘などの研究)。
- ^ 実際には今でいうブレーン的役割を果たした。
- ^ この上京の前、佐世保での公演後に二人は別れ、宮崎は「白浪庵滔天」の名を芸名としても使い、後に伊藤痴遊、一心亭辰雄と関西巡業している。
- ^ 『警視庁統計書』によれば当時1904年の東京市内の寄席は135軒。1日あたりの平均客数は昼席45人、夜席73人。それに対し、東京市内の劇場は大劇場が7座、小劇場が12座存在し、1日あたりの平均客数429人で一幕見を加えると、719人。出典:上田学『日本映画草創期の興行と観客』早稲田大学出版部、2012年3月30日。ISBN 9784657120045 p.70。
- ^ 正岡容「雲右衛門以前」は『日本浪曲史』のプロトタイプと呼べる作品である。その集成にもある。
- ^ 活動写真大流行「戦争後は火が消えたような活動写真がにわかに復活し、市内至る所に楽隊の囃子賑わしく、興行場はどこも大入り大繁盛。(中略)芝居に飽き、寄席に飽き、浪花節に飽き果て」た結果である。と書かれる状況になる。原典:『東京朝日新聞』1908年8月24日。年表下p.188。
- ^ 三波春夫の歌舞伎座公演2年目の1966年谷屋充作『風流奈良丸くづし』
- ^ これは創立間もない講談社が速記から創作(今に至る路線である)に転じる重要なきっかけとなる
- ^ 『講談社の90年』には、明治44年「講談倶楽部」創刊号には「浪花亭重松」で速記掲載があったが、問題の大正2年の増刊「浪花節十八番」発売記念の浪花節芸者大会に「木村重松」で出演していることが確認できる。
- ^ 一部で定説化した「大正6年12月20日付の『都新聞』紙上で初めて使用された」という事実は無いが、直後の年明け大正7年1月3日付には同紙上で記述を発見できる。関西でも大正9年8月18日付の『大阪毎日新聞』にある。その頃既に浪曲の世界を「浪界」と呼ぶ記述は見られ、「浪界」の初出は明治41年6月15日『福岡日日新聞』よりは以前。以上は芝清之『新聞にみる浪花節変遷史』明治編、大正編でも確認可能。
- ^ 当時、流行していた天才少年浪曲師が楽屋に増えた事に対する言葉だという異説あり。
- ^ また1930年(昭和5年)10月に浪花節「大和魂・国勢調査」吉田大和之丞、コロムビア。年表下。
- ^ 二代目東家楽遊の浜町御殿や鼈甲斎虎丸の中野御殿、また、初代雲月の唐津の大邸宅の一帯が「雲月町」と呼ばれていた例、戦後に寿々木米若の伊東温泉の割烹旅館「よねわか荘」など。また、大和之丞(二代目奈良丸)が中心となって1935年(昭和10年)京都で大石神社を創建した例がある。
- ^ その様は、梅中軒鴬童『浪曲旅芸人』などに詳しい
- ^ 他に、当時レコードを活用し音楽(主にクラシック)の講演(今でいうレコードコンサート)をしていた田辺尚雄のエピソード。明治末年には「地方の講演は」「学校の講堂でやる」。「蓄音器を一台」準備を頼むと「レコードは浪花節か端唄か民謡」しかないが用意しときますと返事されたという。初めて聞く交響曲やピアノソナタ、オルガン曲に非常な驚きを示したと。田辺尚雄『明治音楽物語』p.301)
- ^ 日蓄は内憂(ラジオの脅威)外患(電気吹込という新システムを利用した外国レコードの参入)を抱えていた。出典:『昭和演歌の歴史』p.74欄外
- ^ a b 1924年秋に常務理事に就任した新名直和が打ち出した番組編成方針により、浪花節はその人気が排除の対象となる。新名は「放送の目的は、教養・報道・娯楽」であり「この鼎の三本足が相俟ってやっていくべきものと思うが、その中で最も中心となるべきものは教養である」との見解を表明するとともに、当時根強い人気を誇っていた浪花節をはじめ、小唄や常磐津などを「社会の悪」として放送しない方針を打ち出した。このためニュースに続いて、当初逓信省が想定していた伝統音楽や伝統芸能のいくつかも番組の候補から脱落した。原典:「座談会・放送事始」での新名の証言。『放送文化』1960年3月号.また浪花節は、宮家から放送の要請があるまで一度も放送されないほど徹底して除外されていた。(日本放送協会編『放送五十史年資料編』日本放送出版協会、1977年)出典:戸ノ下達也/長木誠二『総力戦と音楽文化』p.198
- ^ 国会図書館「れきおん」に多数録音が残されている
- ^ 吉川潮『江戸っ子だってねえ 浪曲師廣澤虎造一代』日本放送出版協会。1998年10月24日。ISBN 978-4140053089。「第7章 血煙田島町」p.168-189
- ^ 戦時ラジオのプロパガンダによる戦争責任を考える論文に愛国浪曲が1文字も無い。
- ^ 大会の存在自体に疑問符
- ^ 存在自体に疑問符が付く
- ^ またこう書く人もいる。「日本はポツダム宣言にもとづいて連合国に占領されることになった。(中略)天皇自ら天皇の人間宣言を行い、平和主義に徹し(中略)昭和20年9月13日、GHQの民間情報教育部(局)からの通達につぎのような内容が含まれていた。『尚演芸放送に関しては地方放送に於ても実施するを認められ居るも之が取扱に付ては当分の間純娯楽的なるものを主とし講談、浪曲、放送劇等に於ても軍事的好戦ものはなさざること』」p.238「この占領政策によって、義理人情や義侠の精神などの日本固有の価値観が否定された。浪曲はこの急速に衰退することになった。だが、戦前、戦中を生き抜いてきた日本人の価値観がそう簡単に消え去るものではなかった。日本人の底に流れる心情の世界を代弁する浪曲・浪花節はやがて、流行歌の形式を借りて新境地を開拓し義理人情の世界を表現するようになる」p.239欄外『昭和演歌の歴史』戦後の民放ラジオによるラジオ浪曲ブームを軽視し、敗戦とともに浪曲は終わった、とする立場
- ^ 「銭形平次」(ラジオ東京 - 文化放送)は異例の長期間にわたる番組であった。脚本は全て国友の自作
- ^ 1.漫才学校 ABC 57.5 2.浪曲ごもくめし NJB 44.8 3.浪曲演芸会 NHK 41.3 4.お好み演芸会 NHK 40.3 5.明色歌謡ゲーム ABC 38.9 6.ラジオ浮世亭 ABC 38.1 7.アベック歌合戦 NJB 38.1 8.ラジオ寄席 NHK 38.0 9.おしゃれクイズ ABC 36.2 10.三つの歌 NHK 35.7 11.浪曲名人会 ABC 35.7 12.五九童のおばあちゃん NJB 35.0 13.お笑い街録 ABC 34.8 14.アチャコの自叙伝 34.4 15.歌の二人三脚 ABC 34.4 16.お蝶さん NJB 33.3 17.お好みヒット・メロディ ABC 32.9 18.浪曲シリーズ NJB 32.5 19.浪曲トクホンアワー ABC 31.2 20.のんき裁判 NJB 31.1 (55年2月『3社共同調査』より) 原典:朝日放送社史編修室『朝日放送の50年 Ⅰ本史』p.60 出典:辻一郎『私だけの放送史』p.26。なお52.12.20に朝日放送は新日本放送、電通大阪の3社共同で放送調査委員会を設け、翌年1月21日から1週間にわたって、阪神地区の「ラジオ聴取状況調査」をおこなっている。これは民放ではじめての本格的なマーケット・リサーチであり、調査対象を世帯でなく個人としたのが特色であった。『朝日放送の50年 Ⅰ本史』p.65
- ^ 流しであるが、小沢昭一『日本の放浪芸』p.352-354
- ^ (関西で)「昭和20年代半ば、浪曲は急速に人気を失った」と明記あり。ワッハ上方『上方演芸大全』p.58
- ^ その間、入門者がいなかった訳ではないが、浪曲界に居続け大成した者はいない。
- ^ 多くの一門芸脈(鼈甲齋など)の消滅に悪影響は現れている。
- ^ 多くは大学卒業など他の演芸同様に高学歴化が進む。例として木村勝千代(木村松太郎門下)は10歳で松太郎に入門し、その後専修大学文学部国文科を卒業しており、学業と並行し浪曲師としても活動している[222]。
- ^ 実際に一番弟子の玉川わ太(わだい)、二番弟子の玉川き太(きだい)は落語芸術協会の前座としても所属し、特にわ太は2023年7月17日の浅草演芸ホール夜の部の開口一番で『阿漕ヶ浦』を演じた(曲師は太福も担当する玉川みね子が務めた)。太福のツイートによれば、(落語主体の東京の)定席寄席で浪曲師の前座が開口一番を演じたこと自体が初めてであったという[226]。
- ^ 演芸界では現在まで、江戸落語の五代目柳家小さん、十代目柳家小三治、六代目五街道雲助(2024年7月現在保持者)、上方落語の三代目桂米朝、江戸講談の六代目一龍齋貞水、三代目神田松鯉(2024年7月現在保持者)が「人間国宝」に認定されている。
- ^ この特徴的な声については、『日本の古典芸能 9 寄席』p.44に中村幸彦による説明がある。
- ^ 正確には、よく言われるような(理想的な)浪曲師の声としてのシオカラ声・しわがれ声・ダミ声は誤り。
- ^ 現在の西洋音階が絶対視される状況に於いての「美声」とは違う。
- ^ 音声ファイル 32分00秒付近
- ^ コピー芸という批判的な文脈が未だ使われる。出典:『東京人』380号p.43-46
- ^ 虎造節は、時の試練を越えて保存会が結成・活発な活動がなされている
- ^ BGM 国本p.11
- ^ 一話を一段と呼ぶ
- ^ それを逆手に取ったのが、初代京山幸枝若の巧みな芸であった。実際には無いのに「この後続きはレコードで」などがある。出典:国本p.84
- ^ 「本日のお外題は」という形で演題名を紹介することも多い
- ^ 読みのみ一定していて、表記に揺れが見られる場合はカタカナで表記するルールに基づく
- ^ 主に歌舞伎の大向うや義太夫の慣習からの移行と考えられる。
- ^ もちろん例外もあり、雲右衛門は入道姿で舞台をこなした例、同様に東武蔵や玉川勝太郎が袈裟姿で高座をこなした例もある。
- ^ 芝居における引幕、落語における後幕、相撲の化粧回しと同じくファンが浪曲師に送る物があり、寄贈者名が記してある事が多い。浪曲師個人で所有。国本p.137
- ^ 更に「浪曲大会」などの格式張った舞台になると、テーブルの両サイド、離れた位置にさらに小さなテーブルを置き、松の盆栽を置く。
- ^ 関西では一風亭初月、関東でも沢村豊子・佐藤貴美江・玉川みね子が、時おり出弾きを披露する。
- ^ 曲師を隠すのは、明治時代活躍した桃中軒雲右衛門が、曲師をしていた美しい妻を観客が狙わないように隠したことに由来するという俗説があるが、実際にはそれ以前に美当一調が始めた。出典:安田宗生編『美當一調・桃中軒雲右衛門関係新聞資料』
- ^ 三味線を持つ曲師は、ついたて無しに右隣に座る。
- ^ 最初は釈台を使ったが、後には釈台もなく語った [269]
- ^ 落語家との共演が多い玉川太福がテーブル掛けを座り高座用に畳み、披露している。
- ^ 浪曲作家は浪曲史研究家を兼ねるケースが非常に多く、その著作数は多い
- ^ 京山若丸作。広島県矢野村に住む貧しい小作農夫、松岡のもとに召集令が下り、病気の妻と幼子2人を残し戦地へ。周囲は冷たく、高利貸に罵倒されて誰の助けもなく、仕事先の組頭にも残す家族の世話を断られる。妻は夫の心残りを察して、2人の子供も殺して自分の元へ送ってくれと書き遺して自殺していた。悲しみのうちに松岡が子供に手をかけようとする間一髪、ただ一人の理解者である警官が飛び込んで松岡を諭す。様子を聞いていた高利貸も飛び込んで非を詫び、松岡は出征していく。日露戦争後の社会の疲弊と成金の出現を痛烈に批判した全く架空の話だが、そのリアルさゆえモデルの松岡を名乗る男ができるほどヒット。関東では東家楽燕、関西では天光軒満月がそれぞれ脚色して受け継ぐ。出典:ワッハ上方『上方演芸大全』p.292欄外
- ^ また関西テレビの節に浪曲ジャンルの出演者として鉄砲光三郎も入れられている。放送演芸史p.297。なお、章末の放送演目一覧表には独立して「音頭」の項目がある放送演芸史p.314
- ^ 昭和30年から50年ごろまで、東西のコマ劇場で大勢の観客を集めた公演には必ずといっていいぐらい劇中劇があった。誰でも知っている芝居の名場面のパロディで、コメディアンと演出家の腕のみせ所だった。劇中劇にもいろんな切り口があるのだが浪曲(フシ)劇は必ずうける定番であった。当然のことだが浪曲劇は浪曲がうまくないとおもしろく展開しない。浪曲がまだまだ盛んなころだったから、笑いものにされるために出てくれる浪曲師などいるわけはない。というわけで劇中劇の浪曲劇は、コメディアンで浪曲のできる人がいないと成立しないから、いまではやれなくなってしまった。あのころは堺駿二が見事な節で、「港家小柳丸の実弟だもの」と教えてもらって納得した。玉川良一さんは家号の通り玉川一門で、〽利根の川風、タモトにエレテエ・・・・・・をギャグにしていたぐらいだから浪曲劇はお手のものだった。雁之助さんは五条家金玉師匠が組んだ浪曲劇の一座でやっていたというから本物である。一度だけねだって雁之助さんが劇中劇で「神崎与五郎・東下りの場」を浪曲劇でやってもらったことがある。 浪曲師・芦屋雁之助 三味線・岩崎節子 神崎与五郎・宮川大助 茶店の婆さん・間寛平 馬子丑五郎・芦屋小雁 馬の足・芦屋雁平 という配役である。 沢田隆治『私説大阪テレビコメディ史』p.23-24
- ^ 戦中である1943年(昭和18年)末に発表された大日本興行協会の全国統計によると、浪曲専門の一座は255座、浪曲・漫才の座は49、浪曲及び舞踏は4、浪曲劇専門は41、時代劇と浪曲劇を併演するものは12。出典:『実録 浪曲史』p.118 ★要確認
- ^ 戦前はこちらが詳しい
- ^ キネマ旬報年間ベストテンには、戦前に浪曲でもおなじみの主人公の映画がいくつかランクインしているが、「浪曲映画」は戦前戦後を通して数少ない。参考サイト
- ^ 浪曲そのままのタイトル、浪曲師でもある2代目友衛のヒット曲であるが、歌謡浪曲の特徴は備えておらず、その点もあってか浪曲の範疇には取られないことが多い.
- ^ 本調子であり、浪曲とは異なっている
- ^ 司会の芦川淳平が書いた『浪曲の神髄』に放送リストがある
- ^ いずれも1クール(3ヶ月)程度の短いもので、テレビでも人気が定着したとは言い難い
- ^ 浪曲を愛好してそのもの真似をやりたがるのは、農村を含めた全国の庶民だった。『ものまねの歴史』p.219
- ^ 浪曲の世界ではまず先人の節まねから入り、徐々に自分の節使いを創造していくのが常道である。節まねは特別なものでなく、今でも二代目東家浦太郎など、高座の余興で披露する場合がある。
- ^ 「雲右衛門の弟子で雲太夫といった人が、(柳亭)左楽さんの門下になって、信楽を名乗った。本名を鈴木政吉という。今西の正蔵がこしらえた『墓誌』に出ております」出典:三遊亭円生『寄席切絵図』(引用者補足:桃中軒雲太夫といえば東家楽燕のことであり、おそらく芸談の類であろう)
- ^ 弟子筋に当たる古今亭志ん輔が継承し現在も寄席で演じることがある
- ^ 言わずもがなだが、地元の清水次郎長伝→虎造→森の石松の連想が強力に働いたと思われる。
- ^ 小、坊については修行中を表す意味が強く、その名を持つ浪曲師だけを集めた大会もしばしば開かれた。(唯1999, p. 90)
- ^ =東西の両協会(日本浪曲協会と浪曲親友協会)への名前登録の有無
- ^ 東三光は本来、京山華千代、初代春野百合子の師匠の名前である。
出典
[編集]- ^ a b c 「浪曲の魅力 映画で再発見」『読売新聞』朝刊2020年6月20日(エンタメ面)
- ^ 出典:小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』「浪曲」秩父久方
- ^ 公益社団法人浪曲親友協会「浪曲とは」
- ^ 日本浪曲協会主催で度々開かれる大会等イベントは「笑う浪花節vs. 泣く浪花節」
- ^ 『東京人』380号、p.16
- ^ または浪曲家(ろうきょくか): 三波美夕紀『昭和の歌藝人 三波春夫――戦争・抑留・貧困・五輪・万博』(さくら舎、2016年5月14日 ISBN 9784865810523)p.25
- ^ 国本、p.43-44
- ^ エーピーピーカンパニー『江戸東京芸能地図大鑑』付属冊子。p.23
- ^ 稲田、2014、p.123
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- ^ 「一時期はこの国の大衆演芸のトップを占め、黄金時代とよばれる全盛期を、なんどもくり返しつかんだことの浪花ぶしなのに、この国の知識人からひどくうとまれさげすまれて来た浪花ぶしである」(大西、p.8)
- ^ 稲田、2014、p.122。主に雲右衛門、楽燕の亜流による『義士伝』『乃木将軍』などの押しつけがましさによると推測されている。
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- ^ 中村(1983)p.302-303。なお、1)蝶浮連節=浮れ節=チョンガレで興行届を同じ代表が書いている。2)届けに浅草在の「浪花節」の鑑札の写しがある(届けの年月日不明)。
- ^ 江戸東京で「ウカレブシ」の呼称では駄目な理由をきちんと説明した文献は関東側には一つとしてなく、雑誌『上方』144号(1943.(1))の「関西浪花節の今昔」に「江戸名物の都々逸、大津絵、甚句、などが『浮かれ節』として」あったためとあり、これが明確な説明である。出典:『日本近代歌謡史』p.2258-2260。
- ^ 「明治7年麻布の寄席「福井亭」に春日井松之助・八木亭清歌が出演したことが端緒」という異説あり。『万有百科大事典 3』p.385.文責は河竹登志夫。
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- ^ 原典:大我居士『貧天地飢寒窟探検記』(飢寒窟編)p.14、出典:上島敏昭「仇討ちのドラマトゥルギー―浪花節の忠臣蔵をめぐって―」『芸能』33(12) p.30
- ^ 唯、p.9。「雲入道一代」『二六夕刊』1912年(大正元年)8月27日 - 9月4日まで7回?6回連載を確認済み。
- ^ 『上方芸能』(136)p.28
- ^ 明治25年に番付あり。『定本』p.78
- ^ 『定本』p.83
- ^ 出典:『近代日本芸能年表 上』p.95。『萬朝報』『読売新聞』など当時の在京紙の多くの紙面に残っている。
- ^ その場に実地見学でいた一心亭辰雄の回想録によれば、講談の邑井貞吉が『南部坂』をやったという。(上記新聞記事に講談の出演記載無し)駒吉は『仙台の鬼夫婦』を演った。(『浪花節一代』, p. 63-65)
- ^ 吉川潮『江戸っ子だってねえ 浪曲師廣澤虎造一代』(1998年刊)p.22によれば、明治26年。柳亭左楽を筆頭に落語・講談連合から開催に強硬に反対する意見が出たが、円遊の仲介で手打ちになったという。
- ^ 「○猶敗北の例をいはば、浪花節といふもの、都の中央にては大ろじといふに折々かかるのみなりしが、この程は宴席の余興にも召されて、これが寄席に旦那様奥様の黒の羽織を見ること、敢えて珍しからずと聞く」。発表は『太陽』明治30年10月号、確認済み。出典:坪内祐三編『明治の文学 15 斎藤緑雨』(筑摩書房 2002年)p.410。
- ^ 大円朝こと三遊亭圓朝も出演した大店である。出典:三遊亭圓生『寄席切絵図』。
- ^ 1885年(明治18年)3月下席には早くも美弘舎東一、浪花亭駒吉が出演している。出典:芝清之『浪花節 東京市内・寄席名及び出演者一覧』。
- ^ 『萬朝報』1900年(明治33年)10月13日付。出典:兵藤『<声>の国民国家・日本』。確認済。
- ^ 『うなる』p.106
- ^ 大西信行『浪花節繁昌記』によれば明治24年。
- ^ 浪花亭駒子(一心亭辰雄)の回想録。(『浪花節一代』, p. 24-25,70-71)。
- ^ 正岡容『日本浪曲史』p.180-181「明治31年、浪花節界は感情的にもつれ、愛進舎、共盛会の二派に分かれ、三十五年和解したがさらに同志会が生まれ、この派には楽遊や小楽や小福や重子(初代重正)も属したが(以下略)。
- ^ 活動写真の日本初は1896年(明治29年)11月17日
- ^ 松竹株式会社『歌舞伎座百年史 資料編』p.53
- ^ 安田宗生 編『美當一調・桃中軒雲右衛門関係新聞資料』
- ^ 唯1999, p. 334.
- ^ 来日したグラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグによる。以下はその復刻版。『日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』TOCF 59051。
- ^ 原典:『朝日新聞』1906年10月2日。(唯1999, p. 10-11)
- ^ コトバンク「源氏節」
- ^ 唯1999, p. 39.
- ^ 秩父久方によれば「当時の壮士の演説会のようすを模倣し、芸能的にショーアップしたものであろう」出典:「浪曲」『日本大百科全書』18巻p.531。
- ^ 岡本和明『俺の喉は一声千両』
- ^ 寄席の入場料が十銭の時代に、一等一円の料金を取り、最初の5日間で費用を回収、それ以降は入場料がそのまま利益という近代興行界最大の快挙であった。出典:倉田喜弘「浪曲」『日本音楽大事典』平凡社。
- ^ 派手な宣伝は相当なもので、東京市中に「日本一の奈良丸」とビラなどで告知、関東の浪花節語りは一斉に反発しビラを叩き落として回ったという逸話が残る。出典:『定本』p.139。
- ^ 1908.2.11 浪花節、吉田奈良丸、新富座、宣伝文句の「日本一」で浪花節界紛糾(~2.25)[二六新報]『年表』上、p.140。
- ^ 1908年(明治41年)6月15日。『福岡日日新聞』によれば当年13歳。
- ^ 1910年(明治43年)6月27日。『福岡日日新聞』によれば12歳。
- ^ 1911年(明治44年)9月29日。『河北新報』によれば13歳。
- ^ 成人し、後に娘が天津羽衣。
- ^ 唯1999, p. 8の表2.
- ^ つまりレコードも上・中流階級から普及し、隠れるように浪花節を聴いたのである。(『日本近代歌謡史』, p. 3, 別冊付録「日本流行歌大系・略史」)
- ^ 山口亀之助『日本レコード発達史』p.164
- ^ 倉田喜弘『日本レコード文化史』
- ^ 明治26年頃には「どんどん節」は流行っている「たいちようドンドン節」。円車の節を織り込んだ「新どんどん節」は明治44年に流行。歌詞も掲示。歌本あり。(『日本近代歌謡史』, p. 2237,2267-2279, 下巻)
- ^ 「奈良丸は、美しく語り、歌った。大衆はひたすら恍惚と聴き惚れた。その感激が、かの笹やぶしの流行となった。俗にいう奈良丸くずしである。〽笹やささ、ささは要らぬか煤竹を、大高源吾は橋の上浪花節〽あした待たるる宝船」但しこの流行は大正3年。浪花節の流行歌としては、三河家円車のどんどん節に遅れること数年である」定本p.140
- ^ 大正3年から4年。(『日本近代歌謡史』)
- ^ 『日本のうた 第一集 明治・大正』p.221によれば、最後の一節が奈良丸の浪花節の節調をそのまま採り入れている。また三番の歌詞「月が出た出た月が出た/セメント会社の上に出た/東京にゃ煙突が多いから/さぞやお月様煙たかろう」はのちの『炭坑節』の元となった。出典:「東京のうた.84 奈良丸くずし」『朝日新聞』1968年5月1日
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- ^ 山口亀之助『レコード文化発達史』録音文献協会〈昭11〉、1936年、21頁 。 なお『定本 日本浪曲史』によれば、これは幟に書かれた演者本人が吹込みをしたものではなく、鼈甲斎雲竜による節まねであったという。
- ^ 1913.8.17このころ雑誌『講談倶楽部』が浪花節を掲載、講談師は反発して講談の提供を止めようと決議[二六新報]。典拠:『近代日本芸能年表』上p.158
- ^ 講談社社史編纂委員会『『講談社の90年』』、60-61頁 。
- ^ 背景には、浪花節がその社会的地位を一足飛びに上げていく中で、そのネタ元として、講釈師の高座やその速記本を大いに利用していたこともある。(唯1999, p. 303)
- ^ 法律新聞
- ^ NHKで「浪花節」から「浪曲」へ言い換えるようになったのは1957年(昭和32年)のことである。『放送演芸史』p.61
- ^ 正岡容『日本浪曲史』p.135、井上剣花坊の川柳。
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- ^ 1920年10月レコード「国勢調査」吉田奈良丸.東洋蓄
- ^ 奈良丸の渡米は1917年(大正6年)。3月8日サイベリア丸で鹿島を立ち、5月13日SFユーイングフィールド野球場にて邦字紙『新世界』主催読者大会で口演。7月8日ウィルソン大統領に単独面会、後の首相・原敬の後押しで。その後アメリカ・ビクターで吹き込み。出典:『浪曲の神髄』p.97-105。
- ^ 唯1999, p. 25.
- ^ 移民一世を中心に第二次世界大戦後も一定の人気を保ち続け、「コロニア浪曲」と呼ばれる現地制作のレコードも作られた。出典:細川周平『遠きにありてつくるもの―日系ブラジル人の思い・ことば・芸能』みすず書房 2008年。
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- ^ 1912年(明治45年)3月17日、神田・市場亭にて「安中草三」を6時間に及ぶ通し読みをし、一躍名を上げた。出典:『二六新報』1912年3月15日夕刊、同3月20日夕刊。
- ^ 日蓄は大正14年6月、帝国蓄音器、三光堂、東京蓄音器の3社を合体させ、合同蓄音器が発足した(8月3日設立)同様にスタンダード蓄音器、イーグル蓄音器が統合した。出典:『昭和演歌の歴史』p.75欄外
- ^ (『日本近代歌謡史』, p. 3794-3795)
- ^ 音楽評論家中村とうようは、レコードが本格的に商品になった時期を1927年から1929年にかけてとみている。真鍋2017 p.91
- ^ 大正15年晩秋、ニッポノホンから発売された「君恋し」がヒットし始める。出典:『昭和演歌の歴史』p.74。この前の時期の表。
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- ^ コトバンク
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- ^ 唯1999, p. 48表5に、日本近代芸能年表下p.76で補正.
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- ^ 「この七色の声という歌い文句は、テイチクの専属の時から使われはじめたもので、その第一作が昭和10年の「乃木将軍涙の墓参」。ついで11年に発売した萩原四朗作「銅像を洗う女・杉野兵曹長の妻」が大ヒットし、女性の浪曲レコードはあまり売れないとのジンクスを見事に打ち破った。以来、<七色の声>は一人立ちし、雲月の代名詞となり一世を風靡した」 (唯1999, p. 356)
- ^ 「浪曲は取って置きの隠し芸だった」(唯1999, p. 84, 「宰相の趣味」)
- ^ 1938年(昭和13年)8月29日から3日間の二代目天中軒雲月の襲名5周年記念独演会や、1940年(昭和15年)8月28日、29日の春日井梅鴬独演会など 出典:『歌舞伎座百年史』p.272,284,289,298
- ^ 1942年(昭和17年)には欠くこともなく毎月劇場での浪曲大会が続いたという(唯1999, p. 112)
- ^ 放送演芸史p.41
- ^ 講談落語協会が禁止演目を浅草妙本寺のはなし塚に葬ったのは1941年10月30日のことであった。(唯1999, p. 104)
- ^ 原本である『日本浪曲史』p.16「昭和十五年晩夏、廣澤虎造興行問題を巡っての、浅草田島町殺傷事件のごとき、以上、説述した浪曲家が伝統生活中の、最も悪質に属する部分の残滓のあらわれと見てよいであろう」
- ^ 『定本日本浪曲史』p.30
- ^ 詳細については猪野健治『興行界の顔役』ISBN 9784480039798冒頭を参照
- ^ 唯1999, p. 97,103.
- ^ 軍事浪曲の延長で作られた 兵藤p.238-239
- ^ 真鍋p.162-163
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- ^ 同盟通信社アーカイブズ 同盟旬報 第4巻 第32号(通号123号)A25_0432_123(065)p.3531にて確認
- ^ 正岡容『日本浪曲史』浪曲史年表に1939年と1940年に分かれて記載(p.426)年譜的信頼性に足りない根拠。1939年分記載は長谷川伸『函館紺血碑』 - 広沢虎造、長田幹彦『涙の船唄』 - 寿々木米若、白井喬二『筑紫の博麻呂』 - 東家楽燕、武田麟太郎『天下の糸平』 - 玉川勝太郎、久米正雄『血を嗣ぐもの』 - 冨士月子、藤森成吉『長英の新出発』 - 春日井梅鶯、子母沢寛『十四日の月』 - 木村友衛、尾崎士郎『村上六等警部』 - 酒井雲、長谷川時雨『桜ふぶき』 - 春野百合子、浜本浩『東天紅』 - 京山幸枝。1940年分記載は佐藤春夫『大場鎮の一夜』 - 梅中軒鶯童、倉田百三『まごころ』 - 宮川松安、三上於菟吉『雲に鳥無常剣』 - 広沢晴海、菊池寛『近衛篤麿』 - 松風軒栄楽、木村毅『シンガポールの白梅』 - 東武蔵。
- ^ 『新聞集成 昭和編年史』に記載無
- ^ 戊辰戦争における幕府側の戦死者を弔った柳川熊吉の義憤とそれを容認した官軍の寛大さを語る真鍋p.162
- ^ 新民謡をつくりだす情話文学者と米若の真鍋p.163
- ^ 愛国浪曲になった名作小説一覧(国会図書館蔵)
- ^ 筑波山の乱に加わった田中平八の伝記を扱った真鍋p.162
- ^ 負傷した兵士、落合が看護婦、千代の献身的な介護と輸血により生き延びる物語.真鍋p.177
- ^ 赤十字社の資料による従軍看護婦の物語 (唯1999, p. 97)
- ^ 蘭学者高野長英を扱った真鍋p.162
- ^ 水戸藩士らの尊王攘夷思想に基づいて勃発した天狗党の乱をとりあげた真鍋p.162
- ^ 神風連の乱をとりあげた真鍋p.162
- ^ 松本上等兵夫妻と一家の大黒柱を戦争で失った板井家との交流を描いた真鍋p.176
- ^ 大場鎮の攻略で、日本兵がある民家に突入すると、中国人の赤ん坊がとりのこされていた。兵士たちが面倒をみていると、その兄の少年がやってきて、日本兵の親切に感激する。そして日本兵を信頼した少年は、そのときの隊長が負傷したと聞くやただちに駆けつけて看護し、少年は後日その隊長にひきとられて立派に成人したという 兵藤『声の国民国家・日本』p.229
- ^ 観音信仰と奇跡譚がからんだ父娘の愛情物語真鍋p.162
- ^ 井伊直弼の家臣でありながら、水戸学を学び、勤王思想を掲げる武士を主人公とする真鍋p.162
- ^ 商家の主従関係を扱った美談真鍋p.162
- ^ 青空文庫
- ^ ベルリンオリンピックで金メダルを獲得した孫基禎の物語である真鍋p.163
- ^ 紙芝居屋の戦死美談真鍋p.163
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- ^ 正岡1968p.316「但し上演した大半は棒読みにちかく(中略)清吉など、さぞや片腹痛かったろう」
- ^ 真鍋p12
- ^ 1941年(昭和16年)朝日新聞中央調査会が行った「地方娯楽調査資料」があり、浪曲はやはり全国的に人気を得ていた事がわかる。出典:『近代庶民生活誌 第8巻 (遊戯・娯楽)』に収録
- ^ 小島貞二『こんな落語家がいた 戦中・戦後の演芸視』p.168-171
- ^ 戦後に日本文化放送(今の文化放送)(当時はキリスト教会の意向が強く反映された局であった)開局の際、浪曲を番組に採るか否かで論争が起きたジャパンタイムス、文藝春秋1950年5月号。結局、浪曲番組は開局時から放送することで決着する。(唯1999, p. 217)
- ^ 帝劇社史ページによれば1940年9月情報局に徴用される
- ^ 1942年3月に帝国劇場は返還される
- ^ 唯1999, p. 101.
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- ^ 原典:中川明徳「浪曲口三味線」(唯1999, p. 49)
- ^ 唯1999, p. 110.
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- ^ 出典:『大衆文化事典』浪曲の項(芝清之)(弘文堂、1991年、p.858)
- ^ 唯1999, p. 67.
- ^ CCDから禁止演目など具体的な指示通達を受けたことがわかっている(唯1999, p. 155-156)
- ^ 芸能人の長者番付 東京財務局調査 朝日新聞 1949年4月12日付に三門博、広沢虎造、春日井梅鶯の名
- ^ 唯1999, p. 176.
- ^ (唯1999, p. 306) TBSに入局し、スポーツアナウンサーとして活躍した虎造の息子、山田二郎(虎造節継承会)も談話で言っている
- ^ 「関東全地域・夏期 民放在京3局 高聴取率番組 昭和32年度」(唯1999, p. 261.表32右)
- ^ NHK調べ。表の前年、昭和31年度も。1位浪曲天狗道場(火)ラジオ東京19.6%、2位浪曲名人席(日)ラジオ東京14.4%、3位浪曲学校(木)文化放送14.2%、8位銭形平次(月)ラジオ東京9.6%、10位浪曲玉手箱(金)ニッポン9.1% (唯1999, p. 261.表32左)
- ^ 兵藤裕己『声の国民国家・日本』p.12
- ^ 宮崎学「ヤクザと芸能の世界」『ヤクザと日本』ちくま新書 p.112
- ^ 小沢昭一『放浪芸雑録』「トクダシ小屋のトクちゃんの一代記について/語り手=徳ちゃん」
- ^ 大利根勝子『浪曲波乱万丈!』(DVD) での告白
- ^ 1965年(昭和40年)から1993年(平成6年)までは毎年開催 出典:松竹(株)・(株)歌舞伎座「歌舞伎座百年史」平成7年(1995年)発行
- ^ 唯p.219表23 NHK調べ
- ^ 『日本浪曲大全集』
- ^ この時期の新聞記事に頻繁に出てくる
- ^ 芦川淳平『浪曲の神髄』p.47-48
- ^ 「メロディーとともに (7)「浪曲・次郎長伝」『神戸新聞』1999年6月4日付夕刊、3面。
- ^ 「十二 惜しかった玉川福太郎の事故死」『定本日本浪曲史』p.288-289
- ^ 浪曲の隆盛のため孤軍奮闘 国本武春さんをしのぶ 油井雅和 - 毎日新聞
- ^ われら専修人 : 木村 勝千代 木村派 浪曲師 - 朝日新聞デジタル(専修大学ドットコム)
- ^ 「浪曲人気復活 落語に続け」日本経済新聞2017年5月8日夕刊p.16
- ^ 平成29年度文化庁芸術祭(大衆芸能部門)新人賞受賞 [1]
- ^ 読売新聞 2018年1月1日付 第三部 3面「講談・浪曲に新星」
- ^ 玉川太福 [@tamagawadaifuku] (2023年7月17日). "令和5年7月17日". X(旧Twitter)より2023年7月18日閲覧。
- ^ 【新協会員のお知らせ】 - 落語芸術協会 2024年5月8日
- ^ 花渡家ちとせ [@chitose_kadoya] (2024年4月10日). "お陰様で鈴本演芸場四月上席昼の部、無事に千秋楽を迎えることが出来ました!". X(旧Twitter)より2024年5月12日閲覧。
- ^ 人間国宝に6人 浪曲語りの京山幸枝若さん、沈金の西勝広さんら - 朝日新聞デジタル 2024年7月20日
- ^ 吉本興業所属で史上初、浪曲師でも初の人間国宝認定に京山幸枝若「何でも初めてというのは、うれしいもの」 - スポーツ報知 2024年12月2日
- ^ 2017年6月10日木馬亭イベント「電気浪曲の会」虎造節大会関係者中心に天狗連
- ^ 国本p.70
- ^ これはただただ怒鳴る。そうしてカラカラに声を嗄らしてしまう。そこをいよいよふた調子も三調子も張り上げて、血を吐く思いで歌いつづける。すると枯れがれに枯れつくした底の底のまた底の方から滾滾と美しい声の泉が噴き上げて来る。即ちそれが、自分の研がれ、磨かれ、鍛え上げられたほんとうの「声」なのだ。-正岡容『日本浪曲史』南北社版 p.357-358
- ^ ジャンルは違うが、以下一例。「すると先生は「まず声の訓練をせよ」とおっしゃいました。ごうごうと落ちる滝、ざあざあと流れる川、どうどうと打ち寄せる波、そういうものに向かって、それらの音に敗けない声でお経をせよ。三日か四日で声はつぶれるが、それでも出ない声でやる。そのうちのどから血が出る。それでもまだやる。そうして三十日か四十日たったころに何日も何日もしゃべっても決して枯れない声になる。本格的な布教師になるならば、それに耐える努力をしなければならないがどうか、というわけです」-祖父江省念『節談説教七十年』p.69
- ^ また、声をよくするためにナメクジを呑み込む話は広沢瓢右衛門などがしている。出典:『悪声伝』
- ^ 颯田琴次『かたい声、やわらかい声』日本放送出版協会 1976。以降近刊無し
- ^ 「『台詞の不味い』という点では『両横綱』であった米若と春日井梅鶯について、房前は『タンカを吹き飛ばしてお釣りの来る』ような『素晴らしい』声とフシを二人はもっていたと評している」真鍋2017p.85
- ^ 国本p.167
- ^ 『まるごと三味線の本』p.117
- ^ 『うなる』p.8
- ^ 『昭和の歌藝人』p.25
- ^ 正岡容『日本浪曲史』中川明徳による補章「第11章 節・外題付・曲師・稽古」p.358
- ^ 『うなる』。p.27-29
- ^ 北川純子は現役の曲師でもあり、東西の寄席に出演している。おもな発表論文に北川純子「関東節の浪曲における三味線」『大阪教育大学紀要 第I部門 人文科学』第60巻第1号、大阪教育大学、1-18頁、ISSN 03893448、2020年4月28日閲覧。
- ^ 北川純子「日本音楽における「間(ま)」概念の検討-浪曲三味線の現場から」『大阪教育大学紀要 第I部門 人文科学』第59巻、大阪教育大学、1-12頁、ISSN 03893448、2014年4月26日閲覧。(大阪教育大学)がある
- ^ 定本p.11
- ^ 『うなる』p.25
- ^ ワッハ上方『上方演芸大全』p.282
- ^ 唯1999, p. 356-357.
- ^ 『にっぽん芸能史』p.
- ^ 『まるごと三味線の本』p.117-118
- ^ 定本p.254-255
- ^ 出典:三波春夫『歌藝の天地』
- ^ 正岡容『日本浪曲史』南北社版 p.342-343 もそれを裏書きする
- ^ 大西p.11
- ^ (唯1999, p. 374, 「関東ではケレン読みは天下を取れないといわれた。しかしケレンも立派な芸であり、特にケレン読みの少ない現在、再認識されるべきである」)
- ^ 国本p.11
- ^ 安藤鶴夫『巷談本牧亭』(1964)にも記載あり。
- ^ 大西p.14
- ^ 国本p.82
- ^ 瓢右衛門ブームによって浪花節の断末魔にポッと灯がともったようであるが(中略)傍流も傍流だったケレン浪曲―滑稽味、諧謔味のつよい、いわば都会的センスの浪花節だったからである。出典:小沢昭一「浪花節と私」『うなる』p.40
- ^ 「飄右衛門さんの語る明治ネタの滑稽浪曲は大阪でも東京でも大いに受けて、これでまた浪曲が息を吹き返すのではないかとふと思った程だったが」大西p.17
- ^ 稲田2014p.
- ^ 『上方演芸大全』p.299
- ^ 大西信行『浪花節繁昌記』p.76-77
- ^ 国本p.174,付属CD『待ってました 名調子!』題名通りに掛け声講座あり。
- ^ 国本武春がイベントでサングラス姿やクマのプー太郎に扮した例さえもある。国本p.116,121
- ^ 国本p.136
- ^ 唯1999, p. 169-170.
- ^ a b 国本p.155
- ^ 「ネタを 借用」『東京人』380号p.54 リード部分。
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)の主な浪花節演題などを基に、現代化した一覧である
- ^ レコード初発は1928年5月「次郎長と黒駒」ヒコーキ。年表下p.28.「森の石松」1934年1月コロムビア.
- ^ 2代目の初発は1934年8月「天保水滸伝・平手造酒」ポリドール。年表下p.41
- ^ 初発は東海林太郎を受けての1935年10月ポリドール。年表下p.43
- ^ 初発は1940年2月「唄入り観音経・吉五郎地蔵の由来」(御門名義)キング。年表下p.54
- ^ 文化デジタルライブラリー
- ^ どの組織にも属さない一匹狼がやくざ世界のしがらみの中でがんじがらめになりながらもなお意地を貫き通して生きていく。決して颯爽としたヒーローではない。世間に逆らい、苦しみながらそれでも旅鴉の生き方をまっとうしようとする。その傷だらけの姿が胸を打つ。p.6.一匹狼の渡世人が、清純で無垢な女のために命を賭ける。これが股旅もののパターンになる。p.14.股旅ものは長谷川伸にはじまるという。p.6川本三郎『時代劇ここにあり』平凡社、2005年10月1日。ISBN 9784582832693
- ^ 1936年8月タイヘイ年表下p.45
- ^ レコード初発は1915年12月日蓄。年表下p.10
- ^ 初発1924年6月オリエント。年表下p.21
- ^ 初発は1931年1月ビクター。年表下p.34
- ^ 多くの傑作選に残る。『極め付この節この一番 名浪曲・関東節編』等
- ^ 1934年8月リーガル年表下p41
- ^ 2代目。初発は1911年1月「義経安宅落」日蓄。東家楽遊が1911年2月「大石東下り」日蓄。初発は1911年4月「大高源吾」日蓄年表下p.8
- ^ 1912年11月初発。ライロフォン(ドイツ輸入盤)
- ^ 初発は1922年1月、帝蓄。年表下p.17
- ^ 初発は1933年12月ポリドール。年表下p.40
- ^ 1934年8月タイヘイ年表下p.41
- ^ 初発は1924年4月「乃木将軍・孝子辻占売り」オリエント年表下p.22
- ^ 二代目雲月が本格的なスターダムにのし上がったのは1935年(昭和10年)に発表した「杉野兵曹長の妻」であったといわれる。1935年夏に台本が書き下ろされ、秋に発表されたと記されている。その後、時をおかずに、1936年1月分新譜として「銅像を涙で洗う女 杉野兵曹長の妻」(テイチク1765-68)が発売されたと推測される。 真鍋2017 p.230
- ^ 1932年3月「軍神誉の三勇士」初代天光軒満月、タイヘイ。
- ^ 1932年5月東家楽声、太陽。
- ^ 1932年6月、吉田奈良丸、ビクター。以上年表下p.36
- ^ 初発は1939年9月テイチク年表下p.53
- ^ 初発は1930年5月「丸橋の附回し」パーロフォン年表下p.34
- ^ 「怪僧善達」ニットーレコードNitto 3543-3544 http://78music.web.fc2.com/nitto.html
- ^ 1925年(大正14年)浪花節「壷阪寺」浪花亭綾太郎、ライオン。年表下p.23
- ^ 北川論文によりダブルチェック済。
- ^ 水野悠子『江戸・東京娘義太夫の歴史』p.4-5
- ^ レコード初発は1940年「灰神楽道中」ポリドールp.54
- ^ 初発1926年3月日蓄。年表下p.24
- ^ レコードの初発は1926年6月「安中草三郎・久保田の最期」日蓄。年表下p.26
- ^ 第一弾は1940年8月18日「夢の鉄兜」。和田肇のピアノに田中佐知子の琴も加わった。(唯1999, p. 100)
- ^ 唯1999, p. 270-272.
- ^ a b c ワッハ上方編、織田正吉「漫才」『上方演芸大全』p.58
- ^ 事実関係は『東京人』380号p.22-23 リード文が「歌謡浪曲の村田英雄と三波春夫」
- ^ 稲田2014。p.186
- ^ また関東においても、三門博や玉川福太郎などがレコードを出している
- ^ 矢野誠一『昭和の演藝二〇講』p.148
- ^ 「芸人」を「芸能人」というようになったのは、たしか戦前の昭和十五、六年ごろだったように記憶している。時の情報局が考え出したように思うから、つまり’’官製語’’である。‘‘芸’’と’’人’’の間に‘‘能’’が加えられたからといって、たちまち有能になったわけもあるまいが、そそっかしい芸人は芸能人とよばれることで、ハクがついたように嬉しがった者もあったらしい。出典:高橋博『大衆芸能』教育史料出版会、1980年。p.3
- ^ 「以降、浪花節は、ほかの演芸を圧して人気はうなぎのぼり(中略)まさに大衆芸能の王座を占めており 」小沢昭一『ものがたり芸能と社会』白水社、1998年11月。ISDN 9784560039885。p.201
- ^ 「かつての「日本人」なら誰も知っていた物語である。だが、それらに登場するヒーローやヒロインの名も、既に私達には耳遠いものになりつつある。浪花節は今日ではほぼ忘れられた、ひと昔まえのサブカルチャーである」兵藤『<声>の国民国家・日本』p.242
- ^ 朝日放送の浪曲の項目には「浪曲と同根のものである河内音頭は」とある。放送演芸史p.188-189。
- ^ 『まるごと三味線の本』p.146
- ^ 現在でも時折、定席以外の場で見られる。出典:『上方伝統芸能あんない』浪曲の章、『待ってました 名調子!』、『浪曲定席 木馬亭よ、永遠なれ。 芸豪烈伝+浪曲日記』
- ^ コラム:節劇|大衆芸能編・寄席|文化デジタルライブラリー
- ^ a b 『大衆演劇お作法』ぴあ株式会社、2004年3月6日。p.69
- ^ 古く雲右衛門以前の1897年(明治30年)には高松で市川小円次。広辞苑第6版「浪花-節-芝居」
- ^ 澤田隆治「昭和三十年代、ギャグの基盤に浪曲があった」『東京人』380号p.67
- ^ 稲田2014。p.247
- ^ 林正之助によれば1935年(昭和10年)吉本はJ.O.スタヂオ及び日活と提携し、寿々木米若、篠田実による浪曲トーキーを公開した:出典『上方笑芸の世界』「宮川左近ショー」p.124
- ^ 小島貞二『力道山以前の力道山たち』三一書房、1983年。に掲載されている力道山道場開きの礼状に「吉本映画 社長林正之助」の名。
- ^ コトバンク
- ^ 唯1999, p. 376,378-379.
- ^ 同年芸術祭賞受賞 (PDF)
- ^ 浅沼圭司他編『新映画事典』美術出版社、1980年9月20日。佐藤忠男「日本映画の体質」p.370
- ^ 「トーキー初期には、ジャズを取り入れた映画が作られるいっぽう、浪曲映画も盛んに作られた。浪曲は要所要所がフシがついた語りになっている語りものである。さらにまた、西洋音楽の形式はとっているが感覚的、内容的には伝統的な語りものに近いと考えられる歌謡曲が発達し」出典:佐藤忠男『増補版日本映画史1』岩波書店、2006年10月6日。p.12
- ^ 出典:『実録 浪曲史』、ムービーウォーカー、jmdb日本映画データベース
- ^ 稲田2014p.187
- ^ 『歌藝人』p.192
- ^ 1961年(8月1日-28日興行)は谷屋充作「桃中軒雲右衛門とその妻」「名月綾太郎ぶし」など。『歌舞伎座百年史』p.286他
- ^ 都はるみの「唸り」は弘田三枝子の演歌調ジャズヴォイスの影響を受けたオリジナルな唱法である。菊池清麿『昭和演歌の歴史』p.309
- ^ 以上、「六〇年代――歌謡曲・演歌の時代」p.291-326『昭和演歌の歴史』を参考にした
- ^ SPレコードレーベルに見る 日蓄-日本コロムビアの歴史には、京山小円、奈良丸の写真入りレーベルが納められている。写真入りレーベルは本文中にもあるようにセールスが確実に見込める限られた物だけ発行された
- ^ 浅草・イサミ堂のページには浪曲演者一覧があり、より深く浪曲を知りたい人には便利である。
- ^ 浪曲(ろーきょく)と(河内、江州)音頭(おんど)で「ローオン」である。出典:『日本一あぶない音楽 河内音頭の世界』p.193
- ^ p.7-72。1909年から1952年までのレコード初発
- ^ 石田信夫『安来節』中国新聞社 1982年 p.201-
- ^ 津軽三味線に明治期テーブル掛けがあった記述は国本p.111
- ^ 芝清之の労作「浪花節 ラジオ・テレビ出演者一覧」を参照のこと
- ^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.46-77などにスポンサーの盛衰(日本電建他)含め詳しく載っている。
- ^ 唯1999, p. 108-109,228-231, 「ラジオの専属契約」.
- ^ 他に「浪曲歌合戦」ABC(民放連1958年第6回ラジオ視聴者参加番組部門佳作)など『朝日放送の50年 Ⅲ資料集』p.28
- ^ 当時ラジオからテレビのディレクターに転じた澤田隆治の証言。「昭和三十年代、ギャグの基盤に浪曲があった」『東京人』380号p.66
- ^ スポット
- ^ 得意は木村重松、木村重友、初代港家小柳丸など 出典:桂文楽『あばらかべっそん』
- ^ 大正10年に浪曲から落語家に転じ、没年昭和2年3月2日。出典:『古今東西落語家事典』。
- ^ a b 『ものまねの歴史』p.229
- ^ 神保喜利彦『東京漫才調査報告及資料控』p.99
- ^ 石井公成『ものまねの歴史』p.218-219
- ^ 井上宏編『放送演芸史』世界思想社 1985年
- ^ その代表となる広沢虎造の「清水次郎長伝」のまねをする人は(引用者補足:素人でも)、戦前・戦後を通じて非常に多かったのだ。『ものまねの歴史』p.228
- ^ 『ものまねの歴史』p.225-227
- ^ 元は浪曲「清水次郎長」の本座村の為五郎のタメゴローである。澤田隆治『東京人』380号p.67
- ^ 高田文夫『東京人』380号p.22
- ^ 浪花節の粗探しで、昭和初期の新作。戦後はやらなかった。保田武宏『志ん生全席 落語事典』大和書房、2008年1月25日。p.251
- ^ 『談志百選』p.390-391には広沢瓢右衛門から「鈴が森」「佐野山」他の稽古をつけてもらったことを書いている
- ^ 瀧口雅仁『落語を観るならこのDVD』ポット出版、2009年11月7日。ISBN 978-4780801316。
- ^ 平岡正明『快楽亭ブラックの毒落語』彩流社, 2009年。ISBN 978-4779114601。p.7 なお、この演目は明治の講釈師伊藤痴遊が作ったものを瓢右衛門が蘇らせた
- ^ ワッハ上方『上方演芸大全』p.226
- ^ ワンピース世界研究所『ワンピース探究王』第4章 ・『ワンピース』侠客ヒーロー考(新大将「藤虎」から垣間見える尾田先生の「男気」とは!?。
- ^ 小池一夫『小池一夫のキャラクター創造論 : 読者が「飽きない」キャラクターを生み出す方法』
- ^ 好きが高じて『次郎長三国志』のDVDのパッケージにイラストが使われた
- ^ フジテレビ『ちびまる子ちゃん大図鑑DX』
- ^ マンバ通信
- ^ 大村克巳『「はだしのゲン」創作の真実』
- ^ 『香具師の旅』河出文庫978-4309407166に収録
- ^ ドラマの友「越路吹雪物語」20回
- ^ 「浪花節もポップアートの一種として前衛的な演劇活動(例えば劇団「天井桟敷」など)にも結びつくような機運が起こりつつあることは注目に値する」万有百貨大事典3 音楽 演劇.p.386.文責は河竹登志夫。
- ^ http://www.terayamaism.com/?p=557
- ^ https://stage.parco.jp/s/program/000346/
- ^ 舞台制作PLUS+
- ^ http://blog.livedoor.jp/katutiyoane/archives/46391720.html
- ^ 『まるごと三味線の本』p.146-148
- ^ お披露目済でいくと、倍音をキーワードに活動する東家孝太郎。
- ^ 寺岡呼人×八代亜紀「ブルースはね、私ずっと言い続けてきてるんですけど、浪曲なの。物悲しいリズムと悲しい言葉がね」 https://natalie.mu/music/pp/yashiroaki02
- ^ VOXXXに収録
- ^ 解説
- ^ 2023年7月2日14:30よりNHK Eテレ放送「NHK 浪曲特選・夏」(公開録画:2023年4月21日17:00より、イイノホールでの「NHK東西浪曲大会」)
- ^ 中日新聞 2023年7月6日、夕刊、E版、2面、「二人三脚 受け継がれる芸」(融)。名古屋シネマスコーレ公開は7月29日。
- ^ 唯1999, p. 33, 「明治・大正女流列伝」.
- ^ 『定本 日本浪曲史』p.304-306に大正6年版、昭和39年版、昭和51年版。
- ^ 巡業した浪曲師自身を持ち上げたお手盛りの番付も多く、そこは御愛嬌であるとされる。
- ^ この節は、稲田和浩『浪曲論』彩流社 2013年 ISBN 978-4779119088、正岡容著 大西信行編 『定本日本浪曲史』岩波書店 2009年 ISBN 978-4000242639 を参考にした。
- ^ 定本p.223
- ^ コトバンク
- ^ コトバンク
- ^ 定本p.5,186-188
- ^ 講談では荒木南陵が一手に演じた。原作の記載無。有竹修二『講談・伝統の話芸』p.237
- ^ 定本p.202
- ^ AERA(31)43p.56-61
- ^ 定本195-196
- ^ 定本p.196-198
- ^ 女流番付も。実録p.34,36
- ^ 定本p.65-69
- ^ 唯1999, p. 259.
- ^ 定本p.230
- ^ p.34に女流番付あり。実録p.34-36
- ^ 定本p.88
- ^ 定本p.161
- ^ http://rokyoku.or.jp/index.php?%E6%B8%AF%E5%AE%B6%E5%B0%8F%E6%9F%B3
- ^ 初代は定本p.203-205
- ^ 福岡から佐賀、長崎出身の浪曲師は桃中軒雲右衛門の登場以来数多い。安斎竹夫『浪曲事典』1975年刊にも九州が本拠地の浪曲師の掲載がある
- ^ 定本p.102-104
- ^ 「金原は自分の名乗っていた雲入道を酒井(雲:引用者補足)に名乗らせ、自分は眠獅庵白羊というヘンな名を付けたが、いずれにしても余り有名でない芸名を」『浪曲旅芸人』p.179
- ^ 真鍋昌賢.寛容な客―ニセ物の芸能史に向けて―
- ^ 真鍋2017.p.73-77
- ^ 1926.8.2関東浪花節協会の擬名取締り、雲月に似せた天中軒雪月を私文書偽造で告訴、ニセモノの鼈甲齋虎丸は天昇軒錦道と改名[国民]年表上p.212-213
- ^ 唯1999, p. 208.
- ^ ニセ浪曲師と思しき巡業を捉えた稀少な公的記録。NDL所蔵。福島県旧塩川町の町史の記載。「広沢虎造の一門で広沢辰一の公演回数が多く、他に関東節の重鎮で東山小円」系譜に記載が無い
- ^ 成立期に「都三光」がいた。定本p.48-49
- ^ 唯1999, p. 288-294, 「松平国十郎の改名―ニセ者の話―」.
- ^ 月刊浪曲1995年9月号
- ^ この人物を題材にして、2016年三谷幸喜脚本で舞台化
- ^ wowowにより舞台中継された
- ^ 1912.10.2桃中軒雲右衛門、入道館を買収して開館式[万朝報]近代日本芸能年表上p.155
- ^ 浅草公園の図。明治40年。右下の雷門の位置の左側に新恵比寿亭
- ^ 松山伝十郎編『浅草繁昌記』実力社 1910年 p.154
- ^ 『写真にみる浅草芸能伝』芝清之による解説。p.203
- ^ 堀江誠二『悪声伝 広沢瓢右衛門の不思議』p.31
- ^ a b c 定本p.296
- ^ 大阪毎日新聞1910年11月29日付
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- ^ 大阪毎日1912年1月29日付
- ^ 村嶋歸之調査『大大阪』
- ^ 桂米朝『上方芸人誌』p.177
- ^ 浦安町誌上p.293
- ^ 三谷紀美『浦安・海に抱かれた町』筑摩書房、1995年。ISBN 4480813810。p.137
- ^ 『歌藝人』p.98-102 芸の難所として、三河一色(現:西尾市海岸近辺)と共に挙げられる
- ^ 三谷p.144
- ^ エーピーピーカンパニー『江戸東京芸能地図大鑑』
- ^ 『歌藝人』p.32
参考資料
[編集]主な参考文献
[編集]- 秩父久方「浪花節」『日本大百科全書』(ニッポニカ)、小学館。1984-1994年(全26巻)主な浪花節の演題の部分
- 興津要「浪花節」『世界大百科事典』平凡社。[1]
- 唯二郎『実録 浪曲史』東峰書房、1999年。ISBN 9784885920486。
- 国本武春『待ってました 名調子!』アールズ出版、2012年。ISBN 9784862042156。
- 大西信行『浪花節繁昌記』小学館、1998年。ISBN 9784093872645。
- 「平成の浪曲時代がやってきた!」『東京人』380号 都市出版。2017年2月発行。
- 倉田喜弘「浪曲」『日本音楽大事典』平凡社 1989年 ISBN 9784582109115
- 倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍、1979年。ISBN 9784487750047。 岩波現代文庫版もあり。
- 兵藤裕己『“声”の国民国家・日本』日本放送出版協会、2000年。ISBN 9784140019009。 講談社学術文庫版もあり。
- 正岡容著 著、大西信行 編『定本日本浪曲史』岩波書店、2009年。ISBN 9784000242639。 1968年南北社版にそれ以降を書いた章と年表を加除。
- 芦川淳平『浪曲の神髄 : 日本人の魂の叫びが聞こえる : 附・浪曲脚本事典』JDC出版、2013年。ISBN 9784890084883。
- 倉田喜弘『明治大正の民衆娯楽』岩波新書、1980年4月。全国書誌番号:80021499。
- 西沢爽『日本近代歌謡史』桜楓社、1990年11月。ISBN 9784273022341。下p.2267-2279を中心に。
- 井上宏 編『放送演芸史』世界思想社、1985年4月。ISBN 9784790702733。
- 真鍋昌賢『浪花節 流動する語り芸ー演者と聴衆の近代』せりか書房、2017年3月。ISBN 9784796703635。
- 田中悠美子、野川美穂子、配川美加『まるごと三味線の本』青弓社、2009年12月。ISBN 9784787272775。(浪曲関連は概ね布目英一執筆)
- 中村幸彦『中村幸彦著述集 第10巻 舌耕文学談』中央公論新社、1983年。ISBN 9784124021509。
- 稲田和浩『にっぽん芸能史』映人社、2014年5月。ISBN 9784871002363。
- 稲田和浩『浪曲論』彩流社、2013年9月。ISBN 9784779119088。
- 倉田喜弘、林淑姫共著『近代日本芸能年表 附・付属資料/索引 全2巻』ゆまに書房、2013年。ISBN 9784843341407
- 石井公成『〈ものまね〉の歴史 : 仏教・笑い・芸能 』吉川弘文館、2017年。ISBN 9784642058483
- 芝清之『浪曲人物史 その系図と墓誌録』上方芸能 編集部、1977年12月1日。
- 芝清之『浪花節 : 東京市内・寄席名及び出演者一覧 』月刊浪曲編集部、1986年。JP番号 87007797
- 芝清之『浪花節. ラジオ・テレビ出演者及び演題一覧』月刊浪曲編集部、1986年6月。JP番号 87025030
- 芝清之『新聞に見る浪花節変遷史. 明治篇』月刊浪曲編集部、1997年2月。JP番号 98033938
- 芝清之『新聞に見る浪花節変遷史. 大正篇』月刊浪曲編集部、1997年6月。JP番号 98003827
- 三好貢『浪花節一代』朋文社、1957年。doi:10.11501/2484514。全国書誌番号:58000659 。
画像資料
[編集]音声資料
[編集]- (CD)『浪花節名演集 SP盤復刻』全5枚日本コロムビア、2011年。COCJ-37011 - 15(美当一調の「糸入り講談」や、中川明徳『浪花節発達史』で録音された前身芸能の数々も再収録されている)
- (CD) 小沢昭一『ドキュメント「日本の放浪芸」小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸』ビクター、1999年。VICG-60231 - 37
- (CD) 小沢昭一『また又日本の放浪芸 節談説教 小沢昭一が訪ねた旅僧たちの説法』ビクター、1999年。VICG-60243 - 48
- (CD)『全集・日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』ユニバーサルミュージック、2001年04月25日。TOCF-59061 - 71
- (CD) 『極付この節この一番!!~名浪曲・関東節編~』日本コロムビア、2013年5月29日。COCJ-38024/5
- (CD) 『極付この節この一番!!~名浪曲・関西節編~』日本コロムビア、2013年5月29日。COCJ-38026/7
- 国立国会図書館 歴史的音源「れきおん」レコードによる浪曲の普及 - 歴史的に貴重な音源をまとめて紹介している。
関連項目
[編集]- 落語
- 講談
- 浪曲十八番 - NHK東西浪曲大会
- 演歌
- 音頭 - 浪曲音頭
- 河内音頭 - 安来節 - 八木節
- 柳家小半治 - 三遊亭圓右#3代目 - 堺正章 - 藤圭子 - 内藤やす子 - 泉ピン子 - 親族に浪曲師を持つ芸能人。
- 伊藤痴遊 - 宮崎滔天 - 頭山満
- 畑俊六 - 斎藤瀏
- 古賀廉造 - 床次竹二郎 - 賀屋興宣 - 鳩山一郎 - 大野伴睦 - 田中角栄 - 政界において浪曲に関係した者。いわゆる党人派が多いが、池田勇人のように官僚出身者も関係している。
- 松竹 - 篭寅興業部 - 吉本興業 - 東宝 - 山春 - 山口組 - 永田貞雄
- 川内康範 - 二代目天中軒雲月の大阪時代に作家として付く。「哀怨の記 天中軒雲月」は雲月と永田貞雄の厳しい結婚生活を描いた初期作品。
- 日本文化チャンネル桜 - 日本共産党 - 浪曲を取り上げることで、支援する(した)政治的団体
- 著作隣接権
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 一般社団法人 日本浪曲協会
- 公益社団法人 浪曲親友協会
- 月刊浪曲 - archive.today(2013年4月27日アーカイブ分)
- 東京かわら版.net
- USEN J-48 浪曲 チャンネル - 24時間、浪曲が流れる。
- SPレコードレーベルに見る 日蓄-日本コロムビアの歴史 - レコード初期からの発展史に、浪曲が如何に重要な位置を占めたか、わかる。
- 法政大学大原社会研究所 愛国浪曲についての記述
- 浪曲の歴史 - 文化デジタルライブラリー
- NHKクロニクル(番組確定表検索)
- 「最古の浪曲レコードも 日文研が1万枚をアーカイブ化」(朝日新聞デジタル記事2020年7月5日)
- 日文研 浪曲SPレコードデジタルアーカイブ