「経 (仏教)」の版間の差分
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{{Redirect|スートラ|ドノヴァンのアルバム|スートラ〜教典}} |
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{{Infobox Buddhist term |
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'''経典'''(きょうてん、きょうでん、{{lang-sa-short|sūtra}}, '''スートラ'''、{{lang-pi-short|sutta}}, '''スッタ'''、'''経''')とは、[[仏教]]において[[釈迦]]が説いた教えを記録した聖典のこと。 |
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| title = スッタ, スートラ |
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| en = thread |
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| pi = sutta |
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| sa = sūtra |
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| my = |
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| my-Latn = |
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| zh = 契經 |
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| zh-Latn = |
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| ja = 経 |
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| ja-Latn = |
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[[File:A Sanskrit manuscript of Lotus Sutra in South Turkestan Brahmi script.jpg|thumb|upright=1.2|[[ブラーフミー文字]]で記された、[[法華経]]の[[サンスクリット語]]写本]] |
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'''経'''(きょう)、 '''スートラ'''({{lang-sa-short|sūtra}})、'''スッタ'''({{lang-pi-short|sutta}})とは、[[仏典]]のひとつであり、[[釈迦]]が説いた教え([[法 (仏教)|法]],ダルマ)を記録した聖典のこと。[[三蔵]]を構成する、[[律 (仏教)|律]](ヴィヤナ)、経(スートラ)、[[論 (仏教)|論]](アビダルマ)の一つをなす。 |
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'''スートラ'''({{lang-sa-short|sūtra}})の原義は「糸」のことで、元々は[[バラモン教]]において『[[ヴェーダ]]』のためにまとめられた散文綱要書を指して呼んでいたが、後にバラモン教・[[ヒンドゥー教]]の様々な文献や仏教の文献にも、この呼称が採用されていった<ref>[http://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9 スートラとは] - [[世界大百科事典]]/[[コトバンク]]</ref>。 |
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==語義== |
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===原義=== |
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「[[スートラ]]」({{lang-sa-short|sūtra}})の原義は「糸」のことで、元々は[[バラモン教]]において『[[ヴェーダ]]』のためにまとめられた散文綱要書を指して呼んでいたが、後にバラモン教・[[ヒンドゥー教]]の様々な文献や仏教の文献にも、この呼称が採用されていった<ref>[http://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9 スートラとは] - [[世界大百科事典]]/[[コトバンク]]</ref>。 |
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仏教用語の ''sutta'', ''sutra''はおそらくサンスクリット語の ''sūkta'' (''su'' + ''ukta'')に由来しており、「よく話されている」ことを意味し、これは「仏陀によって話されたものはすべてよく話された」との信念からであろう<ref name=norman1997p104>K. R. Norman (1997), ''A philological approach to Buddhism: the Bukkyo Dendo Kyokai Lectures 1994''. (Buddhist Forum, Vol. v.)London: School of Oriental and African Studies,p. 104</ref>。 |
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===仏教における「スートラ」=== |
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仏教においては、厳密には、元来「経」({{lang-sa-short|sūtra}}, スートラ、{{lang-pi-short|sutta}}, スッタ)とは、「'''[[三蔵]]'''」({{lang-pi-short|Tipitaka}}, [[ティピタカ]]、{{lang-sa-short|Tripiṭaka}}, トリピタカ)として構成される「[[仏典]]」の3分類の内の1つ、「経蔵」、「我は(釈迦から)こう聞いた」(如是我聞)で始まる「釈迦の口説」文献群の範疇を指す言葉だった。「'''[[三蔵]]'''」は以下の構成をもつ。{{See also|三蔵}} |
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==定義== |
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仏教においては、厳密には、元来「経」({{lang-sa-short|sūtra}}, スートラ、{{lang-pi-short|sutta}}, スッタ)とは、「'''[[三蔵]]'''」({{lang-pi-short|Tipitaka}}, [[ティピタカ]]、{{lang-sa-short|Tripiṭaka}}, トリピタカ)として構成される「[[仏典]]」の3分類の内の1つ、「経蔵」、「我は(釈迦から)こう聞いた」(如是我聞)で始まる「釈迦の口説」文献群の範疇を指す言葉だった。「'''[[三蔵]]'''」は以下の構成をもつ。{ |
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* [[律蔵]]([[パーリ語|巴]]・[[サンスクリット|梵]]: Vinaya pitaka(ヴィナヤ・ピタカ)) --- [[僧伽]](僧団)規則・道徳・生活様相などをまとめたもの |
* [[律蔵]]([[パーリ語|巴]]・[[サンスクリット|梵]]: Vinaya pitaka(ヴィナヤ・ピタカ)) --- [[僧伽]](僧団)規則・道徳・生活様相などをまとめたもの |
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* [[経蔵]]({{lang-pi-short|Sutta pitaka(スッタ・ピタカ)}}、{{lang-sa-short|Sūtra pitaka}}(スートラ・ピタカ)) --- [[釈迦]]の説いたとされる教えをまとめたもの |
* [[経蔵]]({{lang-pi-short|Sutta pitaka(スッタ・ピタカ)}}、{{lang-sa-short|Sūtra pitaka}}(スートラ・ピタカ)) --- [[釈迦]]の説いたとされる教えをまとめたもの |
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という2つの意味が混在しており、文脈によってどちらの意味で用いられているか注意する必要がある。 |
という2つの意味が混在しており、文脈によってどちらの意味で用いられているか注意する必要がある。 |
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== 現存するもの == |
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大きく原始仏典と大乗仏典にわかれる。 |
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* [[部派仏教]] |
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原始仏典にはパーリ五部および漢訳の[[阿含経]]典群があり、その一部は釈尊の言葉を比較的忠実に伝えているといわれる。 |
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** [[上座部]]大寺派 - [[経蔵 (パーリ)]] ([[長部 (パーリ)|長部]], [[中部 (パーリ)|中部]], [[相応部]], [[増支部]]) |
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** [[法蔵部]] - [[長阿含経]], [[中阿含経]], [[雑阿含経]] |
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== 脚注 == |
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大乗仏教の代表的な経典としては、『[[般若経]]』、『[[維摩経]]』、『[[涅槃経]]』、『[[華厳経]]』、『[[法華三部経]]』、『[[浄土三部経]]』、『[[金剛頂経]]』などが挙げられる。大乗仏典は西暦紀元前後以降、大乗仏教教団によって[[サンスクリット]]語で編纂された。歴史上の釈尊の説ではないとする[[大乗非仏説]]もあるが、そのため抽象化された非人間的存在としての[[ブッダ]]の説すなわち仏説であるとしている。般若経典群、『法華経』、『華厳経』その他がこれに含まれる。 |
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{{reflist}} |
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言語的には、[[パーリ語]]・サンスクリット語などのインドのものを初めとして、[[中国語|漢語]]、[[チベット語]]、[[モンゴル語]]、[[満州語]]のものがあり、[[西夏語]]のものも一部現存する。漢語やパーリ語から日本語に訳したものもこれに準じる。 |
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また、経・律・論および、その注釈書などは、'''大蔵経'''もしくは'''一切経'''と呼ばれる叢書にまとめられた。この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、編入される書物の基準が厳格で、入蔵録と呼ばれる収録対象とすべき経典のリスト(経録)とセットにされ、基準外のものは蔵外(ぞうがい)と称された。[[昭和]]9年([[1934年]])に、日本で編纂された[[大正新脩大蔵経]]は、より広範囲に中国・日本撰述の典籍も含めている。 |
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== パーリ語経典 == |
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{{main|パーリ語経典}} |
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'''経'''(スッタ、sutta)は釈迦や、弟子たちの言行録を集めたもの。釈迦の入滅後、教えを正しく伝えるために、弟子たちは経典編集の集会([[結集]])を開き、経典整理を開始した。ところが、仏滅後100-200年ころには教団は多くの[[部派仏教|部派]]に分裂し、それぞれの部派が各自の三蔵を伝持するようになった。それらはインドの各地の言語によっていたと思われる。完全な形で現存するのは、[[スリランカ]]に伝えられた[[上座部仏教|上座部]]系のパーリ語経典のみで、現在、スリランカ、タイ、ミャンマーなど東南アジアの仏教国で広く用いられている。その内容は次の通りである。 |
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# 律蔵:経分別(戒律の本文解説)、犍度(けんど、教団の制度規定)、付録。 |
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# 経蔵:長部、中部、相応部、増支部、小部の5部。前4部は漢訳『''[[阿含経]]''』に相当する。 |
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# 論蔵:法集論、分別論、界論、人施設論、論事、双論、発趣論の7部。 |
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これらは[[紀元前2世紀]]-[[紀元前1世紀]]ころまでに徐々に形成されたもので、紀元前1世紀ころにスリランカに伝えられたといわれ、以後、多くの蔵外の注釈書、綱要書、史書等が作られた。1881年ロンドンにパーリ聖典協会 (Pāli Text Society) が設立されて原典の校訂出版等がなされ、日本では若干の蔵外文献も含めて『''南伝大蔵経''』65巻([[1935年]]-[[1941年]])に完訳されている。 |
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注意が必要なのは、パーリ語経典が必ずしも古い形を残しているとは限らない点である。漢訳の『''阿含経''』には上座部に伝わったより古い形態のものがあったり、あきらかにサンスクリット語からの漢訳と考えられるものがある。その意味で、パーリ語経典が原初の形態を伝えていると考えることは、間違いではないが正確な表現ではない。 |
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== 漢訳経典 == |
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中国における'''経典'''の漢訳事業は[[2世紀]]後半から始まり、[[11世紀]]末までほぼ間断なく継続された。漢訳事業の進行に伴い、訳経の収集や分類、経典の真偽の判別が必要となり、[[4世紀]]末には[[釈道安]]によって最初の[[経録]]である『''綜理衆経目録''』(亡佚)が、[[6世紀]]初めには僧祐によって『''[[出三蔵記集]]''』が作成された。これらの衆経ないし三蔵を、[[北朝 (中国)|北朝]]の[[北魏]]で「'''一切経'''」と呼び、[[南朝 (中国)|南朝]]の[[梁 (南朝)|梁]]で「'''大蔵経'''」と呼んだといい、[[隋]]・[[唐]]初に及んで両者の名称が確立し、写経の書式も1行17字前後と定着した。 |
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隋・唐時代にも[[道宣]]の『''[[大唐内典録]]''』等の多くの経録が編纂されたが、後代に影響を与えたのは[[730年]](開元18)に完成した智昇撰『''[[開元釈教録]]''』20巻である。ここでは、[[南北朝時代 (中国)|南北朝]]以来の経典分類法を踏襲して大乗の三蔵と小乗の三蔵および聖賢集伝とに三大別し、そのうち大乗経典を『[[般若経|般若]]』、『[[宝積経|宝積]]』、『[[大集経|大集]]』、『[[華厳経|華厳]]』、『[[涅槃経|涅槃]]』の五大部としたうえで、当時実在しており、大蔵経に編入すべき仏典の総数を1076部'''5048巻'''と決定した。ここに収載された5048巻の経律論は、[[北宋]]以後の印刷大蔵経(一切経)の基準となった。 |
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=== 大蔵経 === |
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テキストの形態は、初期は巻物状の写本(巻子本)であったが、北宋の『開宝蔵』以降は木版印刷の版木、刊本の形となった。近年では電子データ化された大蔵経も利用できるようになっている。収録される仏典は、三蔵(経律論)におさまる漢訳文献と、中国側の注釈書、独立作品、僧の伝記、目録などの著作群からなる。<ref>船山徹 『仏典はどう漢訳されたのか―スートラが経典になるとき』 ISBN 4000246917</ref> |
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=== 中国 === |
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==== 北宋版系 ==== |
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最初の大蔵経刊本は、[[北宋]]の[[趙匡胤|太祖]]・[[太宗 (宋)|太宗]]の治世、[[971年]] - [[977年]]([[開宝]]4 - [[太平興国]]2)にかけて蜀([[四川省]])で版木が彫られ、[[983年]](太平興国8)に、都の[[開封]]に建てられた「印経院」で印刷された。これは古くは『蜀版大蔵経』と呼ばれていたが、現在では開版の年号をとって『開宝蔵』、あるいは太祖の詔勅に基づいて開版されたため『勅版』と呼ぶのが一般的である。『''[[開元釈教録]]''』によって編纂される。当時の「蜀大字本」の規格の文字により、毎行14字の巻子本形式であった。これは宋朝の功徳事業で、[[西夏]]、[[高麗]]、日本などの近隣諸国に贈与された。[[983年]]に入宋した[[東大寺]]僧の[[奝然]]は、新撰の大蔵経481函5048巻と新訳経典40巻などを下賜され、日本に持ち帰ったが、[[藤原道長]]が建立した[[法成寺]]に施入したために、寺と共に焼失してしまった。ただ、新しく請来(招来)された大蔵経ということで盛んに書写されたため、その転写本が各地に幾らか残っている。『開宝蔵』の原本は、世界で12巻が確認されており、日本では京都・[[南禅寺]]および東京・[[書道博物館]]に1巻ずつ、計2巻が所蔵されている。 |
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[[金 (王朝)|金]]の時代には、[[1147年]] - [[1173年]]にかけての時期に、『金版』が作られる。こちらも毎行14字。長らく幻の大蔵経であったが、[[1933年]]に[[山西省]]の[[趙城県]]にある広勝寺で発見される。そのため、別名『趙城蔵』とも呼ばれている。[[1984年]]より、この蔵経を底本にして『'''中華大蔵経'''』([[影印本]])が発刊される。また、[[元 (王朝)|元]]の時代に数次にわたって補刻が行なわれている(元代補修版)。 |
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==== 契丹版系 ==== |
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[[契丹]]の[[990年]] - [[1010年]]頃に開版された大蔵経。契丹が[[後晋]]から割譲された[[燕雲十六州]]の地方で、この地にあった[[隋]]以来の[[房山区|房山]]の『[[石経]]』のテキストも参考にして、国家事業として行なわれた印刷事業であった。この大蔵経も金版と同様に幻の大蔵経であったが、[[1982年]]に[[山西省]]の[[応県]]にある古刹、[[応県木塔|仏宮寺の木塔]]に安置された仏像内から、12巻の『契丹版』が発見され、房山[[雲居寺 (北京市)|雲居寺]]の『石経』との関係などが確認され、毎行17字の標準形式であったことが実証された。 |
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==== 南宋版系 ==== |
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南宋から明代にかけても各地で私版の大蔵経の作成が続いた。それは、[[福州市|福州]]([[福建省]])等覚禅院で[[11世紀]]末に開始された『等覚禅院版』([[1075年]] - [[1112年]])に始まる。これは、北宋版系や契丹版系の国家事業としての開版とは異なり、信者の寄進による私版の事業であった。以後、同じく福州「開元寺版」(1112年 - [[1151年]])や[[湖州市|湖州]]の『思渓版』([[1126年]] - [[1132年]])、[[蘇州市|蘇州]]で開版された『磧砂版』([[1232年]] - [[1305年]])、[[杭州市|杭州]]の『普寧版』([[1277年]] - [[1290年]])といった蔵経の印刷が続いた。この系統も、標準形式である毎行17字である。 |
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[[明]]末になると、それまでの巻物ではない新しい形式の[[袋綴じ]]本の『万暦版大蔵経』(徑山蔵)が出版された。[[清]]朝の大蔵経である『龍蔵』や、後述の日本の『鉄眼版』、『卍字藏』は、この系統に属する。 |
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=== 朝鮮半島 === |
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高麗では、[[1010年]]に『開宝蔵』の覆刻版を出し(『高麗初雕本』)、その版木が[[元 (王朝)|元]]軍による兵火で焼失すると、[[1236年]]には『高麗再雕本』を完成させた。この時、編纂の責任者であり、『高麗国新雕大蔵経校正別録』を撰した守其が、『契丹版』によって『初雕本』の誤りを改めている。今も海印寺に板木を収蔵する『再雕本』の『[[高麗八萬大蔵経|高麗大蔵経]]』は、当時誤雕が少なく古い姿をとどめる最良のテキストとされていたため、明治・大正時期の『縮刷蔵経』や後述の『大正新脩大蔵経』では、北宋版系と契丹版系との校合を「他本に勝る所以である」として、底本に採用された。 |
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しかし守其が校合したのは、『開宝蔵』『高麗初雕本』『契丹版』の三者のみであり、『開宝蔵』と『高麗初雕本』とは原本と覆刻版の関係にあり、基本的に同一系統のテキストである。つまり、北宋版系と契丹版系との間で校合したのみに過ぎない。後にテキスト・クリティークが進むにつれ、「古い姿をとどめる最良のテキスト」という評価が「最初に印刷された大蔵経」であるということによる思い込みであったということがといわれるようになってきた。実際、北京を中心とした河北省・山西省の地域のテキストである房山『石経』『契丹版』や、或いは漢代から唐代の都[[長安]]の一切経写本の系統を引く、南宋版『思渓資福蔵』や元版『普寧蔵』等の大蔵経の方がより良いテキストである場合が多く、それに対して『開宝蔵(勅版)』『高麗版』系統のテキストは、蜀(四川省)の地域に流布していた写本系列の一切経の姿をとどめているに過ぎないという説が出されている。 |
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しかし、仏教の中心であった長安の方が写経のたびに改編され、テキストとして洗練の度を加えていったため、逆に地方版である蜀地のテキストの方が原形を留めているという説もある。例えば[[鳩摩羅什]]訳『''[[摩訶般若波羅蜜経]]''』の冒頭、開宝蔵で『如是我聞一時'''佛'''住…』が、「思渓資福蔵」「普寧蔵」や後の「徑山蔵」では『如是我聞一時'''婆伽婆'''住…』になっている例に見られるように、新しい時代層の漢訳経典のスタイルに合わせて改変されている場合もある。 |
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=== 日本 === |
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日本では、『[[日本書紀]]』で白雉2年(651年)の記述に「一切経」が初めて現れるが事実とは考えられていない。その後も「一切経」はしばしば現れ、経典の収集、写経、読誦をしめす<ref name="sueki">{{Cite |和書 |author = 末木文美士 |title = 日本仏教入門 |date = 2014-03-21 |publisher = KADOKAWA/角川学芸出版 |isbn = 4047035378 }}</ref>。[[竹内亮 (日本史学者)|竹内亮]]によれば、日本では「一切経」の名前は知られてはいたものの、「一切経」を構成する経録(リスト)である入蔵録の請来は[[奈良時代]]の[[玄昉]]によるもの(後述)が初めてと推定され、[[光明皇后]]がこれに基づいて一切経の写経を行おうとしたところ、一切経を構成する全ての経典が日本国内に備わっていないことが判明したため、蔵外である[[別生経]]や[[偽経]]、章疏(注釈書)の類までを書写してこれに代えた(「五月一日経」)と伝えられていることから、日本では「一切経」という言葉が"手に入る限り一切の(仏教)経典"という意味に読み替えられていたのではないかと推測している<ref>竹内亮「大寺制の成立と都城」『日本古代の寺院と社会』(塙書房、2016年) ISBN 978-4-8273-1280-5 P96-98</ref>。 |
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とくに、[[天平]]7年([[735年]])[[玄昉]]が請来(将来)した五千余巻は、当時の欽定大蔵経と推定される。底本とされ大規模な写経がおこなわれた。 |
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寛和2年(986年)に[[奝然]]は大蔵経(開宝蔵)を輸入し、確実な大蔵経の請来として最も古い記録となる。奝然死後に[[藤原道長]]に渡り[[法成寺]]経堂に収められた(1021年)が火災で焼失したとみられる<ref name="sueki"/>。平安時代末から鎌倉時代にかけては、[[栄西]]、[[俊乗坊重源|重源]]、[[慶政]]その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経』が輸入された。室町時代には室町幕府や九州探題、[[大内氏]]の名義で朝鮮に大蔵経を求め、日本に送られた大蔵経は寺院に寄進された(ただし、朝鮮から請来(将来)された大蔵経は高麗版に限らず、宋版・元版が送られた例がある。また、寺院の要請を受けて名義を貸す形で大蔵経を求める使者を出した例もある)<ref name=suda>須田牧子「大蔵経輸入とその影響」『中世日朝関係と大内氏』(東京大学出版会、2011年) ISBN 978-4-13-026227-9 (原論文:2007年)</ref>。 |
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* [[慶安]]元年([[1648年]])、[[天海]]による『寛永寺版(天海版)』が徳川幕府の支援をうけて完成。 |
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* [[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])、[[鉄眼道光]]が『黄檗版大蔵経(鉄眼版)』を完成。鉄眼が艱難辛苦の後に完成させた大蔵経として、[[第二次世界大戦]]前の日本の修身の教科書にも採用されて著名なものではあるが、歴代の大蔵経中で、最も誤字が多い。これは、明版の大蔵経の現物をバラバラにして、それを裏返して元版としたことによる。反面、鉄眼の大蔵経が刊行されたことでこれまで特権的な有力寺院しか持ちえなかった大蔵経が村落の寺院でも所持が出来るようになった<ref name=suda/>。 |
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* [[1885年]]、『大日本校訂大藏經縮刷藏本』(縮刷大蔵経、東京弘教書院)を刊行。底本は『高麗大蔵経』 |
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* [[1902年]]、『卍字藏』(京都藏經書院)刊行。 |
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* [[1912年]]、『大日本続蔵経』(日本藏經院)が完成。 |
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今日から見れば校訂不備が多しとの批判はあるが、世界における仏教界や仏教研究に寄与しているのは、[[高楠順次郎]]・[[渡辺海旭]]監修の『'''[[大正新脩大蔵経|大正新脩大藏經]]'''』(大正一切経刊行会)100巻である。高麗[[海印寺 (陜川郡)|海印寺]]本を底本として諸本と校合、[[1924年]]から[[1934年]]にいたる歳月を費やし、正蔵(55巻)、続蔵(30巻)、昭和法宝目録(3巻)、図像部(12巻)を収める。 |
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なお『大正新脩大蔵経』には、底本『高麗大蔵経』テキストに対する上記『思渓資福蔵』(宋本)、『普寧蔵』(元本)『徑山蔵』(明本)等のテキストとの異同の校訂情報が載せられている。この校訂は、『大日本校訂縮刷大蔵経』(縮蔵)の宋本・元本・明本(三本)との校勘を引き継ぎ、それに「[[宮内庁書陵部]]蔵宋本」(宮本)や「[[正倉院#聖語蔵|聖語蔵]]」などのテキストとの校勘を付加したものである。三本との校訂に関しては、原典に当たっていないと思われるケースもあり、校勘情報にも本文同様に[[誤謬]]、[[誤植]]が存在する場合もあるので、利用の際には、この点も考慮する必要がある。 |
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[[ファイル:Zōkyō.gif|大正新脩大藏經までの主要な漢訳大蔵経系列]] |
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漢訳経典の日本語訳(読み下し)も行われ、『'''國譯大藏經'''』、『'''国訳一切経'''』、『'''昭和新修国訳大蔵経'''』などがある。また、近年[[東京大学]]の『大正新脩大藏經』テキストデータベース (SAT) や、[[台北]]の中華電子佛典協會 (CBETA) といったプロジェクトが大正新脩大藏經の電子テキスト化を推進していて、一定の制約内でその使用が開放されている。 |
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== チベット語訳経典 == |
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{{main|チベット大蔵経}} |
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チベットにおける個別の仏典翻訳は、[[7世紀]]'''[[ソンツェン・ガンポ]]'''の命令で、経典のチベット語訳は、トンミ・サンボータ([[:bo:སློབ་དཔོན་ཐུ་མི་སམ་བྷོ་ཊ། |チベット語版]] [[:en:Thonmi Sambhota|英語版]])によって始められたが、8世紀末、仏教が国教となるのにともない、仏典翻訳は王国の国家事業となり、隣国インドより網羅的、体系的に仏典を収集し、翻訳する作業が開始され、数十年の短期間で一挙に完遂された。サンスクリット語の原典を正確に翻訳するための[[チベット語]]文法と語彙の整備が行われ ([[:en:Mahāvyutpatti|Mahāvyutpatti]])、シャン=イェシェデ、カワ=ペルツェク、チョクロ=ルイゲンツェンらが作業に従事、[[824年]]、一応の完成をみた ({{lang|en|dkar-chag ldan-dkar-ma}}<ref>Yoshimura, Shyuki 芳村修基 (1950). The Denkar-ma: An Oldest Catalogue of the Tibetan Buddhist Canons. Kyoto: Ryukoku University.</ref><ref>川越英真『パンタン目録』(Karchag Phangthangma [[:en:Karchag Phangthangma|英文]])の研究 A Study of dKar chag 'Phang thang ma.、日本西蔵学会会報、51: 115 – 131.</ref><ref>Kawagoe Eishin 川越英真 (2005b). Dkar chag ʼPhang thang ma. Sendai: 東北インド・チベット研究会Tōhoku Indo-Chibetto Kenkyūkai.</ref>)。 |
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チベット仏教における経典の分類は、他の仏教圏とも共通する「経・律・論」の三部分類よりも、「仏説部(カンギュル)」、「論疏部(テンギュル)」の2分類が重視される。カンギュルとは釈尊のことばそのものである「カー」をチベット語に「ギュル」(翻訳)したもの、テンギュルとは、竜樹らインドの仏教学者たちが「カー」に対してほどこした注釈である「テン」をチベット語に「ギュル」したもの、の意味である。 |
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チベットでは、経典は、信仰心を著わすものとしてながらく写本で流布していたが、[[中国]]の[[明|明朝]]の[[永楽帝]]は中国に使者を派遣するチベット諸侯や教団への土産として、[[1410年]]木版による大蔵経を開版、この習慣がチベットにも取り入れられ、以後、何種類かが開版されることになった。 |
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* 北京版 永楽版カンギュル(1410年)、万暦版カンギュル([[1606年]])、康熙版カンギュル([[1692年]])、雍正版テンギュル([[1724年]]) |
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* リタン版([[1621年]]-[[1624年]]) |
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* ナルタン版 カンギュル([[1732年]])、テンギュル([[1773年]]) |
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* デルゲ版 カンギュル([[1733年]])、テンギュル([[1742年]]) |
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* ラサ版 カンギュル([[1936年]]) |
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また中国では、[[1990年代]]より、洋装本の形式で刊行される中華大蔵経事業の一部として、過去の諸写本、諸版の多くを校合したテンギュルの編纂が進められている。 |
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以上の諸版に収録されている教典群大蔵経には、大乗の経論、ことに原典も漢訳も現存しないインド後期仏教の文献が多く含まれており、インド後期仏教の研究にも重要な意味をもっている。チベット語訳がサンスクリットの逐語訳に近く、原形に還元しやすいので、原典のない漢訳経典の原型を探るためにも重要視されている。 |
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チベットの四大宗派のひとつ[[ニンマ派]]では、ある時期に埋蔵された経典(テルマ gter-ma)が、時を経て、しかるべき定めを帯びたテルトン(埋蔵経典発掘者)によって発見されたとする経、論を多数有し、同派の特徴となっている。テルマ(埋蔵経典)の出現は、中世以来、現代に至るまで継続しており、乾慧学者から発掘者による創作だと見なされることがある。この派は上記の諸版と異なる古タントラ集成(ニンマ・ギューブム)を有している。 |
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== 日本語訳 == |
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{{main|日本語訳仏典}} |
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*『[[南伝大蔵経]]』(全65巻70冊)[[大蔵出版]] |
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**『律蔵』(5巻5冊) |
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**『経蔵』(39巻42冊) |
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**『論蔵』(14巻15冊) |
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**『蔵外』(7巻8冊) |
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*『[[新国訳大蔵経]]』 大蔵出版 |
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**『インド撰述部』(既刊50冊) |
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**『中国撰述部』(第一期全12冊) |
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*『[[国訳一切経]]』(全255巻257冊)[[大東出版社]] |
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**『印度撰述部』(全155巻155冊) |
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**『和漢撰述部』(全100巻102冊) |
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== 参考文献 == |
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* 『大蔵経:成立と変遷』大蔵会編([[京都市|京都]]:[[百華苑]]、[[1964年]]) |
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* 『漢訳大蔵経の歴史:写経から刊経へ』[[竺沙雅章]][著](京都:[[大谷大学]]、[[1993年]]) |
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* 『[[敦煌学]]とその周辺』第4回講座「漢訳大蔵経」[[藤枝晃]][講話](なにわ塾叢書51)([[大阪市|大阪]]:[[大阪府]]、[[1999年]]) |
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* 「漢語仏典:その初期の成立状況をめぐって」船山徹([[京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター]]編『漢籍はおもしろい』所収)([[東京都|東京]]:[[研文出版]]、[[2008年]]) |
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== 注・出典 == |
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<references/> |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[仏典]]・[[三蔵]]・[[一切経]]・[[大蔵経]] |
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** [[パーリ語経典]]([[南伝大蔵経]]) |
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** [[高麗八萬大蔵経]] |
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** [[チベット大蔵経]] |
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** [[大正新脩大蔵経]] |
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* [[大内盛見]] |
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* [[道蔵]] |
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* [[写経]] |
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* [[読経]] |
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== 外部リンク == |
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* [http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sat/ 『大正新脩大藏經』テキストデータベース (SAT)] |
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* [http://www.daitopb.co.jp/15issaikyo.html 国訳一切経] |
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* [http://www.sutrapearls.org/ 佛典妙供] |
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* [http://www.cbeta.org/ 中華電子佛典協會 (CBETA)] |
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2021年1月30日 (土) 12:40時点における版
仏教用語 スッタ, スートラ | |
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パーリ語 | sutta |
サンスクリット語 | sūtra |
中国語 | 契經 |
日本語 | 経 |
英語 | thread |
経(きょう)、 スートラ(梵: sūtra)、スッタ(巴: sutta)とは、仏典のひとつであり、釈迦が説いた教え(法,ダルマ)を記録した聖典のこと。三蔵を構成する、律(ヴィヤナ)、経(スートラ)、論(アビダルマ)の一つをなす。
スートラ(梵: sūtra)の原義は「糸」のことで、元々はバラモン教において『ヴェーダ』のためにまとめられた散文綱要書を指して呼んでいたが、後にバラモン教・ヒンドゥー教の様々な文献や仏教の文献にも、この呼称が採用されていった[1]。
仏教用語の sutta, sutraはおそらくサンスクリット語の sūkta (su + ukta)に由来しており、「よく話されている」ことを意味し、これは「仏陀によって話されたものはすべてよく話された」との信念からであろう[2]。
定義
仏教においては、厳密には、元来「経」(梵: sūtra, スートラ、巴: sutta, スッタ)とは、「三蔵」(巴: Tipitaka, ティピタカ、梵: Tripiṭaka, トリピタカ)として構成される「仏典」の3分類の内の1つ、「経蔵」、「我は(釈迦から)こう聞いた」(如是我聞)で始まる「釈迦の口説」文献群の範疇を指す言葉だった。「三蔵」は以下の構成をもつ。{
- 律蔵(巴・梵: Vinaya pitaka(ヴィナヤ・ピタカ)) --- 僧伽(僧団)規則・道徳・生活様相などをまとめたもの
- 経蔵(巴: Sutta pitaka(スッタ・ピタカ)、梵: Sūtra pitaka(スートラ・ピタカ)) --- 釈迦の説いたとされる教えをまとめたもの
- 論蔵(巴: Abhidhamma pitaka(アビダンマ・ピタカ)、梵: Abhidharm pitaka(アビダルマ・ピタカ)) --- 上記の注釈、解釈などを集めたもの
北伝仏教・漢字文化圏における「経」「経典」
後に大乗仏教経典群が数多く作製されて追加されていき、「三蔵」構造が崩れてしまったことや、漢字で「経」と訳され、「スートラ」「三蔵」との対応関係が意識されづらくなってしまったことから、北伝仏教・漢字文化圏においては、「仏典」全体を漠然と「経」「経典」と表現するようにもなっていった。
そのため北伝仏教・漢字文化圏では、「三蔵」に代わる「仏典」全般の総称として、「大蔵経」(だいぞうきょう)・「一切経」(いっさいきょう)という呼称・概念が、新たに形成・普及された。
このように、北伝仏教・漢字文化圏における「経」「経典」という語には、
- 狭義の「経」「経典」 - 「スートラ」。三蔵の一。釈迦の直接の教説。
- 広義の「経」「経典」 - 「仏典」全般。「大蔵経」「一切経」。
という2つの意味が混在しており、文脈によってどちらの意味で用いられているか注意する必要がある。