コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「北島三郎」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Goncyan (会話 | 投稿記録)
ディスコグラフィー: 歌手活動とは関係ない為
+Dablink(サブちゃん。試用。)
1行目: 1行目:
{{Dablink|'''サブちゃん'''は、この項目へ転送されています。その他の用法については「[[特別:検索/"サブちゃん|全文検索]]」をご利用ください。}}
{{Infobox Musician/sandbox <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
{{Infobox Musician/sandbox <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = 北島三郎
| Name = 北島三郎

2012年3月10日 (土) 21:13時点における版

北島三郎
出生名 大野穣
別名 サブちゃん、親父、原譲二(作詞・作曲時のペンネーム
生誕 (1936-10-04) 1936年10月4日(88歳)
出身地 日本の旗 日本 北海道上磯郡知内村(現・知内町
学歴 北海道函館西高等学校中退
ジャンル 演歌
職業 演歌歌手シンガーソングライター俳優
担当楽器 ギター
活動期間 1962年 - 現在
レーベル 日本クラウン
事務所 新栄プロダクション
北島音楽事務所
共同作業者 山本譲二松原のぶえ小金沢昇司ほか
公式サイト 公式プロフィール

北島 三郎(きたじま さぶろう、1936年10月4日 ‐ )は、日本の演歌歌手俳優作詞家作曲家。「函館の女」に始まる『女』シリーズ、「兄弟仁義」などの『任侠』シリーズなど、数多くのヒット曲がある。

人物・エピソード

  • 本名は大野穣(おおのみのる)。一般にはサブちゃんという愛称で呼ばれている。また作詞家・作曲家、としては原 譲二(はら じょうじ)のペンネームで自身の曲はもちろんのこと、北島ファミリーのメンバー等の他の演歌歌手に楽曲提供する事もある。更に自身の舞台のシナリオや演出も原譲二の名で担当している。
  • デビュー時に所属した新栄プロダクションを経て後に独立し、北島音楽事務所を旗揚げした。
  • 東京都八王子市にある、総数36部屋の大豪邸に、家族と内弟子と共に住んでいる。(“三郎”からの語呂合わせで、36部屋作られた。)総敷地面積1500坪、総工費20億円のこの豪邸は、しばしばマスコミに取り上げられている。
  • 演歌の振興や後進の育成にも貢献しており、山本譲二小金沢昇司など、北島と同じ事務所または北島を慕う演歌歌手によって北島ファミリーが形成されている。ファミリーからは親父と呼ばれている。
  • 加山雄三とは親友である。
  • 酒は全く飲めない。
  • 舞台前に飲まないと調子良く歌えないと漏らすほど、三ツ矢サイダーを愛飲している。ある日、弟子の北山たけしが舞台前に三ツ矢サイダーをどうしても入手できず、別メーカーのサイダーを北島に注いだところ、違いを見抜いた北島から怒号が飛んだというエピソードがある。サイダーの炭酸を抜くのも、弟子の仕事の一つである。[1]
  • 佛所護念会教団信者としても知られている。
  • 口癖は「アメリカジャズあり、フランスシャンソンあり、日本演歌あり」。

来歴

デビューまで

幼いころ、「エスペランサー」を作詞作曲して歌ったことで有名。これは、マル秘話である 北海道上磯郡知内村(現在の知内町)出身。北海道函館西高等学校に進学した。高校時代の北島は、海で溺れた小学生を救助したという逸話がある(この人命救助の件は当時の函館新聞にも掲載され、その記事が函館市の北島三郎記念館に飾られている)。

高校在学中に函館で開催された「NHKのど自慢」に出場し、歌手を志すことになる。

18歳で高校を中退、東京の親族を頼って上京し、当初は東京声専音楽学校(後の昭和音楽芸術学院、現在は閉校)に入学。しかし歌謡曲志向であったため、渋谷を拠点に流しの仕事をしながらデビューを目指す。流しの収入は3曲100円であったと云われている。またこの頃、妻・雅子(後の北島音楽事務所社長→副会長)と結婚。ちなみに雅子夫人は、当時、北島が下宿していたアパートの大家の娘である。

歌手デビュー一年前の25歳の時に、『ゲルピンぽん太ちん太』の“ぽん太”として漫才コンビでのステージも経験。これは歌の師匠船村徹がステージ度胸をつけるためにやらせたらしく、お客さんに受けなかったため、ギャラは一切もらえなかったと云う。

メジャーデビュー

芸名の『北島三郎』は、当時の恩師であった船村徹により、北の島(北海道)から来たので姓を北島とし、また三郎はみんなが親しみやすいようにと命名された。

1962年村田英雄の「王将」のヒット記念パーティーで歌手としての初舞台を踏み、その後の映画出演においても『兄弟仁義』等の東映任侠路線で多数共演した。このような縁から後年も村田英雄を先輩歌手としてよく慕った。そして同年6月、「ブンガチャ節」(作詞・星野哲郎、作曲・船村徹)で日本コロムビアからメジャー・デビューしたが売れることはなかった。

この曲は渋谷などの繁華街流しが歌っていた春歌(猥歌)の歌詞を変えて売り出したもので、発売から1週間で放送禁止となった[2](歌詞の中にある合いの手がベッドが軋む音を連想させ卑猥だからという俗説もある)。

低迷からの脱出

急造されたセカンド・シングル「なみだ船」がヒット(公称でミリオンセラー[3])し、出世作となる。

1963年秋、日本クラウンの設立と同時に同社へ移籍。クラウンレコード第一回新譜に、美空ひばりらと共に名を連ねる。また、この年紅白歌合戦に初出場。

1965年、「兄弟仁義」や「函館の女」(公称で150万枚)がヒットし、演歌歌手としての人気を確立。兄弟仁義は東映で映画化され自らも出演。これも大ヒットし、シリーズ化され、主演映画スターとしても活躍するようになる。

1978年、「与作」(NHK『あなたのメロディー』で公募)は競作となったが、親しみやすい歌詞とゆったりした曲調でヒットし、ファン層を拡大することに成功。

1980年代以降、腹が丈夫であったことが由来とされるペンネーム・原譲二を用いて自ら作詞や作曲、演出を手がけることが多くなってゆく。

1985年8月、飛行機に特設ステージを設け、機内コンサートを開催。なお、飛行機内での本格的コンサートは世界初。

1986年12月、広域暴力団稲川会の新年会に出席していたことが静岡県警の捜査で明らかになり、決定していた第37回NHK紅白歌合戦への出場を辞退する(連続出場回数は23回でストップ)[4]

演歌の大御所として

1997年9月、演歌初のCDエクストラとなる「出逢い」を発売。また、北海道寿都町のイメージソング「風のロマン/弁慶岬」も歌う。

1998年アニメの主題歌(NHKおじゃる丸』主題歌「詠人(うたびと)」を歌うなど、新しいジャンルへも挑戦。

「あの日時代」は、オリコン演歌チャート(注・シングルチャートではない)で、最高位1位を記録(同チャート1位の史上最高齢記録を更新)。

2003年11月29日、八王子観光大使に委嘱。

2006年10月、満70歳を迎えたことを祝うパーティーの席上で、ファミリーの「長男」という位置づけであった山本譲二2007年に“暖簾分け”の形で独立させることと、音楽事務所の社長を夫人の雅子から長男の龍に交代させることを発表し、周囲を驚かせた。なお、北島は「今後も山本を支援し続けることに変わりはない」と明言。

2010年1月、シングル『夫婦一生』でオリコンチャート10位を獲得。ソロでは73歳3ヶ月でのシングル・アルバムチャート共に10位以内の獲得は史上最年長での記録である。2010年10月には同曲が日本レコード協会ゴールドディスク認定を受け、日本におけるゴールドディスクの史上最年長記録を更新した[5]

2011年、第32回松尾芸能賞・大賞を受賞。

北島ファミリーの大江裕は北島に憧れ、目標にしている。この様に、演歌歌手の目標になる事もある。

地デジ推進活動

2009年、デジタル放送推進協会が「日本全国地デジで元気!」キャンペーンを始めた際、「地デジで元気!音頭」を作曲し(もちろん“原譲二”名義で)、自ら歌った。その縁で翌年6月、総務省から「地デジ化応援隊」メンバーの一人に選ばれた。北島の場合は今後なお一層「元気!音頭」を通じて、アナログテレビジョン放送終了に向けた周知活動を展開することになる。

ディスコグラフィー

楽曲提供曲

作詞・作曲

作曲

  • 北山たけし
    • 筑後川
  • 小金沢昇司
    • 義経伝説
    • まごころの花よ
  • 瀬川瑛子
    • 恋間川
    • 命歌
    • あなたが命
  • 原田悠里
    • ビロードの夢
  • みちのく乃兄弟
    • ふるさとに逢いたい
    • みちのくの桜
    • ふるさとの風はやさしかった
  • 山口ひろみ
    • ひだまり坂
    • 春は二度来る、三度来る
  • 山本譲二
    • えくぼ
    • 長州の男
    • 生きる
  • 島津亜矢
    • 北海峡
    • 大器晩成
    • 温故知新
  • 和田青児
    • 夢一路
    • 望郷歌
    • 人生列車
    • 青春は終わらない
    • 甲州街道の渡り鳥
    • さいはての宿
    • 上野発
    • おやじさん
  • 里見☆しのぶ
    • めぐり逢い函館
    • おんなの桟橋
  • 大江裕
    • のろま大将
    • なんか一丁やったろかい
    • 夕焼け大将
  • 底ぬけプレジデンツ(浜田雅功大竹一樹宮迫博之
    • これが恋だと分からずに
    • 男の生き様

作詞・補作詞

  • 山本譲二
    • 夢街道(補作詞)

歌碑・記念館

出演

NHK 紅白歌合戦出場歴

1963年NHK紅白歌合戦に初出場して以来、現在2010年まで歴代最多の通算47回の出場を数える。連続出場回数は、1986年に暴力団との交際が明らかになったため、自ら出場辞退を宣言し23回で一旦ストップ。その後1987年から現在まで24回連続出場中である。なおトリ通算出場回数は12回で、美空ひばり五木ひろし(いずれも13回)に次いで歴代第2位。

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1963年昭和38年)/第14回 ギター仁義 03/25 松山恵子
1964年(昭和39年)/第15回 2 ソーラン仁義 01/25 朝丘雪路 トップバッター
1965年(昭和40年)/第16回 3 帰ろかな 24/25 こまどり姉妹 トリ前 (1)
1966年(昭和41年)/第17回 4 函館の女 07/25 畠山みどり
1967年(昭和42年)/第18回 5 博多の女 21/23 都はるみ
1968年(昭和43年)/第19回 6 薩摩の女 13/23 江利チエミ
1969年(昭和44年)/第20回 7 加賀の女 22/23 都はるみ (2) トリ前 (2)
1970年(昭和45年)/第21回 8 23/24 青江三奈 トリ前 (3)
1971年(昭和46年)/第22回 9 北海太鼓 10/25 島倉千代子
1972年(昭和47年)/第23回 10 冬の宿 23/23 美空ひばり トリ (1)
1973年(昭和48年)/第24回 11 帰ろかな(2回目) 22/22 島倉千代子 (2) トリ (2)
1974年(昭和49年)/第25回 12 寒流 14/25 水前寺清子
1975年(昭和50年)/第26回 13 残雪 22/24 都はるみ (3)
1976年(昭和51年)/第27回 14 22/24 青江三奈 (2)
1977年(昭和52年)/第28回 15 終着駅は始発駅 14/24 水前寺清子 (2)
1978年(昭和53年)/第29回 16 与作 19/24 小柳ルミ子
1979年(昭和54年)/第30回 17 与作(2回目) 22/23 都はるみ (4) トリ前 (4)
1980年(昭和55年)/第31回 18 風雪ながれ旅 18/23 都はるみ (5)
1981年(昭和56年)/第32回 19 風雪ながれ旅(2回目) 22/22 森昌子 大トリ (3)
1982年(昭和57年)/第33回 20 なみだ船 20/22 小林幸子
1983年(昭和58年)/第34回 21 漁歌 17/21 八代亜紀
1984年(昭和59年)/第35回 22 まつり 18/20 八代亜紀 (2)
1985年(昭和60年)/第36回 23 十九のまつり 17/20 八代亜紀 (3)
1986年(昭和61年)/第37回 出場取り消し
1987年(昭和62年)/第38回 24 18/20 石川さゆり
1988年(昭和63年)/第39回 25 年輪 21/21 小林幸子 (2) 大トリ (4)
1989年平成元年)/第40回 26 夜汽車 20/20 石川さゆり (2) トリ (5)
1990年(平成2年)/第41回 27 27/29 和田アキ子
1991年(平成3年)/第42回 28 北の大地 27/28 石川さゆり (3) トリ前 (5)
1992年(平成4年)/第43回 29 帰ろかな(3回目) 28/28 由紀さおり 大トリ (6)
1993年(平成5年)/第44回 30 まつり(2回目) 26/26 石川さゆり (4) 大トリ (7)
1994年(平成6年)/第45回 31 年輪(2回目) 24/25 石川さゆり (5) トリ前 (6)
1995年(平成7年)/第46回 32 23/25 石川さゆり (6)
1996年(平成8年)/第47回 33 風雪ながれ旅(3回目) 25/25 坂本冬美 大トリ (8)
1997年(平成9年)/第48回 34 24/25 和田アキ子 (2) トリ前 (7)
1998年(平成10年)/第49回 35 根っこ 24/25 安室奈美恵 トリ前 (8)
1999年(平成11年)/第50回 36 まつり(3回目) 27/27 和田アキ子 (3) 大トリ (9)
2000年(平成12年)/第51回 37 帰ろかな(4回目) 27/28 和田アキ子 (4) トリ前 (9)
2001年(平成13年)/第52回 38 山(2回目) 27/27 和田アキ子 (5) 大トリ (10)
2002年(平成14年)/第53回 39 帰ろかな(5回目) 26/27 天童よしみ トリ前 (10)
2003年(平成15年)/第54回 40 風雪ながれ旅(4回目) 28/30 石川さゆり (7)
2004年(平成16年)/第55回 41 25/28 坂本冬美 (2)
2005年(平成17年)/第56回 42 風雪ながれ旅(5回目) 28/29 中島美嘉 トリ前 (11)
2006年(平成18年)/第57回 43 まつり(4回目) 27/27 川中美幸 大トリ (11)
2007年(平成19年)/第58回 44 帰ろかな(6回目) 22/27 天童よしみ (2)
2008年(平成20年)/第59回 45 北の漁場 22/26 一青窈
2009年(平成21年)/第60回 46 まつり(5回目) 25/25 DREAMS COME TRUE 大トリ (12)
2010年(平成22年)/第61回 47 風雪ながれ旅(6回目) 20/22 石川さゆり(8)
2011年(平成23年)/第62回 48 帰ろかな(7回目) 24/25 天童よしみ (3) トリ前 (12)
注意点
  • 対戦相手の歌手名のカッコ内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にあるカッコはトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「出演順/出場者数」で表す。

レギュラー番組

時代劇

  • 長谷川伸シリーズ 第13話「旅の馬鹿安」(1972年、NET
  • 暴れん坊将軍 I - XIIシリーズ(テレビ朝日) - 江戸町火消し『め組』頭・辰五郎(1978年 - 2002年)
    • VIIIシリーズから江戸町火消肝煎・辰五郎、IXシリーズから江戸町火消総元締・辰五郎として準レギュラーになる。暴れん坊将軍の全てのオープニング(IXシリーズ、XI・XIIシリーズ)・エンディング(Iシリーズ - VIIIシリーズ、Xシリーズ、800回スペシャル、春のスペシャル)も歌っていた。IXシリーズ、Iシリーズ - VIIIシリーズ、Xシリーズ、800回スペシャルの歌詞の作詞、作曲は原譲二(北島三郎)である。

テレビドラマ

舞台公演

テレビCM

パチンコ・パチスロ

  • パチンコ
    • CRお祭りサブちゃん(2003年、京楽産業
    • CR粋だね!サブちゃん(2006年、オリンピア[HEIWA BROSブランド])
    • CR北島三郎 魂の唄(2011年、平和
  • パチスロ
    • お見事! サブちゃん/め組のサブちゃん(2004年、オリンピア)
    • 続・お見事! サブちゃん/ノーマルだよ! サブちゃん(2010年、オリンピア)

通信カラオケシステムでの本人出演映像

  • 2003年頃より、通信カラオケシステムDAMの機種改良に伴い、同機種で配信する北島の代表曲で、背景映像に北島本人が出演する映像が多く採用されている。主な作品は以下の通りである。
    • 与作
    • 北の漁場
    • 風雪ながれ旅

競馬との関係

日本の競馬界では、「キタサン」の冠号で多くの競走馬を所有する馬主としても知られる(登録上の名義は「大野商事」)。中央競馬における勝負服のデザインは、母校函館西高校ラグビー部のジャージを模したものである。かつては日本中央競馬会(JRA)のマナー啓発のPRに起用され、2009年5月には東京競馬場で行われた第76回東京優駿の発走前に場内で国歌を独唱した[6]地方競馬でも楠賞全日本アラブ優駿を制したトライバルセンプーとキタサンオーカンなどを所有(トライバルセンプーは夫人名義だが北島も実質的にオーナーに等しい)。川崎競馬場には北島が寄贈した馬の実物大模型[7]「キタサンカワサキ」が展示されている。

主な所有馬

家族

  • 妻は雅子夫人。北島夫妻が挙式したのは1959年11月。雅子夫人は当時、レコードデビューを目指す北島が都内で下宿していたアパートの大家の娘であった。北島がレコードデビューする約3年前の挙式だった。式に出席したのは両家あわせて21人だけだったという。北島は定収がなかっただけに、夫人の両親から結婚を反対されたと後に語っている。その後、北島は独身歌手としてデビュー(デビュー前の歌手に妻と子供がいるのは当時の芸能界ではありえなかった)。その後、結婚は週刊誌によってすっぱ抜かれた。
  • 次男の大野誠は、ロックバンド『1st BLOOD』のボーカル“MAKOTO”として、1988年にデビュー。シングル「American Dream」は北島の「年輪」とオリコンシングルチャートに同時チャートインし、オリコン史上初の「親子同時チャートイン」を記録した[8]。当時既に“MAKOTO”の芸名で活躍していた北野誠がいたが、北島側が北野に“MAKOTO”名義を譲って貰えるよう申し入れをし、北野は芸名を本名に改名して現在に至っている。『1st BLOOD』は2枚のアルバムを発売後、解散。誠はその後『大地土子』のペンネームで、北島の曲の作詞・作曲を手がけている。
  • 三女の領子は『演劇集団 円』を経て『オスカープロモーション』に所属する、女優声優水町レイコである。
  • 下記しているが、事務所の後輩で北島ファミリーの一員である北山たけしと次女が結婚した為、北山は義理の息子である。

北島ファミリー

かつて在籍したメンバー

関連項目

脚注

  1. ^ 紅白で大トリを務める北島三郎、その歌声の秘けつとは? エンタメニュース 2009/12/24(木)10:49
  2. ^ 読売新聞社文化部『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』社会思想社、1997年、86頁。ISBN 4390116010
  3. ^ 『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』83頁
  4. ^ 朝日新聞2011年8月24日朝刊
  5. ^ 北島三郎 史上最年長ゴールドディスク - スポーツ報知・2010年10月23日
  6. ^ 北島三郎がダービー発走前に君が代独唱(日刊スポーツ、2009年6月1日)
  7. ^ 川崎競馬場に実物大の馬の模型が贈呈される(KEIBA.GO.JP、2008年1月18日)
  8. ^ オリコン・ウィークリー(編)『小池聡行のオリコンデータ私書箱』オリジナルコンフィデンス、1991年、103頁。ISBN 4871310272

外部リンク