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メジロマックイーン

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メジロマックイーン
種牡馬時代のメジロマックイーン
(2002年7月22日、社台スタリオンステーション)
欧字表記 Mejiro McQueen
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 芦毛[1]
生誕 1987年4月3日[1]
死没 2006年4月3日
(19歳没・旧20歳)
メジロティターン[1]
メジロオーロラ[1]
母の父 リマンド[1]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1]
生産者 吉田堅[1]
馬主 メジロ商事(株)[1]
調教師 池江泰郎栗東[1]
厩務員 早川清隆
競走成績
タイトル JRA賞最優秀5歳以上牡馬(1991年)
顕彰馬
生涯成績 21戦12勝[1]
獲得賞金 10億1465万7700円[2]
勝ち鞍
GI 菊花賞 1990年
GI 天皇賞(春) 1991年・1992年
GI 宝塚記念 1993年
GII 阪神大賞典 1991年・1992年
GII 京都大賞典 1991年・1993年
GII 産経大阪杯 1993年
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メジロマックイーン(欧字名:Mejiro McQueen1987年4月3日 - 2006年4月3日生没同日))は、日本競走馬種牡馬[1]

中央競馬菊花賞宝塚記念天皇賞(春)(2回)などに優勝、1991年春の天皇賞では祖父メジロアサマ、父メジロティターンに続く父子3代天皇賞制覇を成し遂げた。同年秋の天皇賞で、日本におけるGI競走史上初の1位降着も記録している。獲得賞金10億1465万7700円は、当時の世界最高記録。獲得賞金額が10億円を突破した最初の馬である。1991年度JRA賞最優秀5歳以上牡馬。1994年、顕彰馬に選出。

半兄に1986年の菊花賞、1987年の有馬記念を制したメジロデュレン(父フィディオン)がいる。

生涯

幼駒時代

1987年、北海道浦河町の吉田堅牧場で生まれる。母メジロオーロラはメジロ牧場からの預託馬であり、離乳後の9月に同場に移動し、馴致・育成が行われた。幼いころは病弱な馬であり、高熱を出したり怪我をすることもたびたびだった[3]。この年のメジロ牧場の同期馬は特に「メジロ87年組」と呼ばれ、後に宝塚記念を制するメジロライアン、宝塚記念と有馬記念を制するメジロパーマーなどがいる豊年であり、その中で本馬は2番目ないし3番目の評価であった[注 1]

メジロ商事株式会社の用いる冠名「メジロ」にアメリカの俳優スティーブ・マックイーンを組み合わせ「メジロマックイーン」と命名された[6]

競走年齢の3歳に達し、栗東トレーニングセンター池江泰郎厩舎に入る。500kgをはるかに超える大型馬であり、調教を積んでもなかなか体重が絞れず、さらにすね骨膜炎(ソエ)も発症したため[7][8]、デビューは4歳の2月と遅れた[9][7]

戦績

4歳時(1990年)

1990年2月、阪神の新馬戦(ダート1700m)でデビュー。当日は2番人気に支持され、道中2番手でレースを進めて直線入り口で先頭に立つと、2着のハギノレジェンドに1馬身強の差をつけて初勝利を挙げた[10]。なお、3着以下には10馬身以上の大差を付けた[10]。池江が東京優駿(日本ダービー)を視野に入れた[11]というほどの楽勝だったが、その後は骨膜炎が完治しなかったこともあり、この後ゆきやなぎ賞、あやめ賞を2戦続けて惜敗を喫する。これを受け陣営は秋の菊花賞に目標を切り替え、マックイーンは休養に出された。

9月に復帰して緒戦の渡島特別を2着としたあと、2週間後の木古内特別(500万下条件戦)で2勝目を挙げると、翌週も連闘で大沼ステークスに出走し、連勝する。目標としていた菊花賞出走には、京都新聞杯5着以内となればたやすく実現するが、池江は、兄のメジロデュレンが菊花賞優勝前に出走した嵐山ステークスをあえて選択[注 2][8]、このレースは勝利する計算で送り込んだ[8]。直前の調教では、東京優駿(日本ダービー)では2着で、京都新聞杯に出走予定のメジロライアンとともに、2頭で併せ馬を行った[12]。併せ馬を軽々とこなした姿に、池江は菊花賞制覇の自信を持つようになっていた[12]

しかし騎乗していた内田浩一は油断し、先行したにもかかわらず、直線でしばらく進路を見つけることができずにいた[8]。残り100メートルでようやく外に持ち出したものの、2着に敗れた。このミスに内田は、池江ら陣営に顔向けすることができないと思い、レース後引き揚げてくる際に、誤って落馬して救急車で搬送されたいと考えていた[8]。出走賞金の加算に失敗し[8]、賞金不足で菊花賞への出走が危ぶまれたが、賞金上位の馬が調教後に回避したため、出走が可能になった[12]。前走の敗戦は内田のミスにより乗り替わりも検討されたが、池江がオーナーの北野ミヤに内田の続投をお願いするなどもあり、北野の取り計らいで、引き続き内田での臨戦となった[12][注 3]

重賞初出走の条件馬であったが、長距離向きと見られる血統的な特長と、前走の追い切り[注 4]で当日1番人気のメジロライアンに先着するなど調子の良さが考慮され、4番人気に支持された[14]。スタートから先行すると、仮柵が取り払われて馬場の良い内側を通り、最終コーナーで先頭に並びかけた[12]。単枠指定の人気馬メジロライアン、ホワイトストーンを寄せ付けずゴールまで押し切り、2着ホワイトストーンに1馬身4分の1差をつけ優勝した[12]。1番人気のライアンは3着。重馬場での競走ながら、優勝タイム3分6秒2は菊花賞史上3位(当時)の走破タイムだった。

この後は食欲不振に陥って調整の遅れが乱れたこと[15]、「有馬記念はライアンに獲らせたい」という馬主の意向もあり、年末の有馬記念を回避[16][注 5]、休養に入った。

5歳時(1991年)

休養明け初戦は阪神大賞典から始動[注 6]。ここから内田浩一に替わり、鞍上に武豊を迎えた。休み明けということ、また前半がスローペースとなったため掛かり気味[注 7]となったが、武が中団の馬群に入れて折り合いをつけ[15]、最後の直線のゴール前でゴーサインをかわして復帰初戦を勝利した。そして、目標としていた天皇賞(春)に向かう。メジロライアン、ホワイトストーンとの「3強」の争いという前評判であったが、当日は単勝1.7倍の圧倒的1番人気に支持された[17]。レースでは菊花賞と同様に先行、直線で抜け出して、2着のミスターアダムスに2馬身半差をつけて優勝。1984年に死去したメジログループ前総帥・北野豊吉の宿願であった父子3代天皇賞制覇を達成し、口取り撮影(競走後に行われる記念撮影)では、武が馬上で豊吉の写真を掲げた。続く宝塚記念[注 8] も単勝1.4倍の1番人気に支持されたが、直線で先に抜け出したメジロライアンを捉えきれず、2着に敗れた。

休養を経ての秋初戦は京都大賞典に出走、2着に3馬身半の差を付け勝利する。しかし、タマモクロス以来の天皇賞春秋連覇を目指した天皇賞(秋)では、プレクラスニーに6馬身差をつけて1位入線するも、スタート直後に内側に斜行、プレジデントシチー(18位入線)の進路を妨害したことで、18着に降着となる。GI競走での1位入線馬の降着処分は日本競馬史上初めてのことであった他、この年から発売された馬番連勝式が最初に行われたG1レースであったこともあり一般紙でもレースや武豊の騎乗が大きく取り上げられた[注 9][注 10]。(レースの詳細については第104回天皇賞を参照)

その後はジャパンカップゴールデンフェザントの4着に敗れ、年末の有馬記念では先行押し切りを図るも、15頭中14番人気のダイユウサクにゴール前で差し切られ、2着に終わった。秋はやや精彩を欠いたものの、通年の安定した走りが評価され、翌1月には当年の最優秀5歳以上牡馬に選出された。

6歳時(1992年)

1992年は前年と同じく阪神大賞典から始動、同競走連覇を達成し、天皇賞(春)に向かう。このレースは、前年のクラシック二冠馬で、デビュー以来7連勝を続けるトウカイテイオーとの「世紀の対決」が大きな話題となった。このレースは鞍上に武豊が騎乗しているレースで唯一の2番人気である。発走前にメジロマックイーンの後肢の蹄鉄が折損・落鉄し打ち直すトラブルがあったが[20]、レースでは先行策から抜け出してトウカイテイオーを5着に退け、史上初の春の天皇賞連覇を達成した[注 11]。また、鞍上の武豊は1989年のイナリワンから天皇賞(春)4連覇となった。しかし、次走予定の宝塚記念に向けた調教中に骨折(左前脚部第一指節種子骨骨折:全治6か月)が判明し、長期休養を余儀なくされる。

7歳時(1993年)

1993年、復帰戦の産経大阪杯をコースレコードで優勝し、天皇賞(春)3連覇に挑んだ。しかし、前年ミホノブルボンのクラシック三冠を菊花賞で阻んだライスシャワーに徹底マークされ、直線半ばで交わされて2着に敗れた。次走の宝塚記念では勝利を収め、GI競走の連続年度勝利記録となる4年連続GI制覇を達成した。

秋初戦の京都大賞典では、2分22秒7という当時のコースレコードで、レガシーワールドに3馬身半差をつけ優勝。この結果、獲得賞金が史上初の10億円突破となった。しかし、天皇賞(秋)4日前の10月27日、ウッドチップコースでの追い切りを終えた直後に歩様に異常が見られ、検査の結果左前脚部繋靱帯炎を発症していることが判明[21]。2日後の29日に池江から現役引退・種牡馬入りが発表され[22]、約1か月後の11月21日、京都競馬場で引退式が行われた[22]

種牡馬時代

競走馬引退後は、一株1200万円・総額7億2000万円のシンジケートが組まれ、社台スタリオンステーション早来で種牡馬として繋養された。ノーザンダンサーロイヤルチャージャーなど、当時の主流血脈を持っていない異系血統という点で配合選択肢の幅広さが注目され[23]、初年度にはシスタートウショウ桜花賞優勝)、同世代のユキノサンライズ重賞3勝)、宝塚記念でマックイーンの2着となったこともあるイクノディクタス(同4勝)などを含む、100頭近くへの種付けが行われた。中でもイクノディクタスとの交配は、同馬が牝馬の賞金王であったことに加え、マックイーンが競走馬時代に想いを寄せていた[23]という、関係者からのエピソードが紹介されていたこともあり、特に注目された[注 12]

先に初年度産駒がデビューしたメジロライアンがGI優勝馬を2頭出し、マックイーンにも同様の期待が寄せられた。しかし、初年度産駒にクイーンカップ優勝、エリザベス女王杯3着などの成績を残したエイダイクイン(母ユキノサンライズ)を出したものの、以降は散発的に重賞勝利馬を出すに留まり、当初の期待度ほどの成績は収めていない。2012年10月にホクトスルタン予後不良となり登録を抹消されたことで、JRAに登録しているメジロマックイーン産駒はいなくなった[24]。2018年現在、父系の孫としては、ギンザグリングラスの仔であるクイーンソネラ、ミナノキングがいる。

母の父としては、中央競馬のGI競走を3勝したドリームジャーニーと2011年の中央競馬クラシック三冠馬オルフェーヴルの全兄弟[注 13]や、2012年のクラシック二冠馬(皐月賞菊花賞)のゴールドシップなど、本馬と同じく池江泰郎が管理したステイゴールドとの配合に顕著な実績を残している[注 14]。産駒の活躍により2011年にはリーディングブルードメアサイアーとして5位に入っている[注 15]。2012年もオルフェーヴル、ゴールドシップなどの活躍により、リーディングブルードメアサイアー6位となり、2013年も9位となった。

2004年に社台スタリオンステーション荻伏に移動したあと、2006年4月3日に同場で心不全のため死亡。奇しくもこの日は生まれた日と同日であった。北海道洞爺湖町のメジロ牧場に墓が建てられている。

競走成績

年月日 競馬場 競走名 頭数 枠番 馬番 オッズ
(人気)
着順 距離
(馬場)
タイム 3F タイム
騎手 勝ち馬/(2着馬)
1990. 2. 3 阪神 4歳新馬 10 6 6 3.3(2人) 1着 ダ1700m(不) 1.47.7 (37.0) -0.3 村本善之 (ハギノレジェンド)
2. 25 阪神 ゆきやなぎ賞 500万下 13 5 6 2.2(1人) 2着 芝2000m(重) 2.04.6 (38.5) 0.2 村本善之 シンボリデーバ
5. 12 京都 あやめ賞 500万下 15 2 3 1.7(1人) 3着 芝2200m(良) 2.17.5 (37.8) 0.4 村本善之 ホウユウロイヤル
9. 2 函館 渡島特別 500万下 10 7 8 1.7(1人) 2着 ダ1700m(良) 1.46.6 (38.9) 0.0 内田浩一 マンジュデンカブト
9. 16 函館 木古内特別 500万下 8 4 4 1.2(1人) 1着 ダ1700m(重) 1.47.3 (37.6) -0.1 内田浩一 (リキサンロイヤル)
9. 23 函館 大沼S 900万下 14 7 12 4.1(1人) 1着 芝2000m(不) 2.04.5 (38.2) -0.3 内田浩一 (トウショウアイ)
10. 13 京都 嵐山S 1500万下 9 5 5 2.4(1人) 2着 芝3000m(稍) 3.06.6 (36.5) 0.2 内田浩一 ミスターアダムス
11. 4 京都 菊花賞 GI 17 2 2 7.8(4人) 1着 芝3000m(重) 3.06.2 (35.4) -0.2 内田浩一 ホワイトストーン
1991. 3. 10 中京 阪神大賞典 GII 9 4 4 1.2(1人) 1着 芝3000m(良) R3.07.3 (35.4) -0.4 武豊 (ゴーサイン)
4. 28 京都 天皇賞(春) GI 18 7 15 1.7(1人) 1着 芝3200m(良) 3.18.8 (36.0) -0.4 武豊 (ミスターアダムス)
6. 9 京都 宝塚記念 GI 10 8 10 1.4(1人) 2着 芝2200m(良) 2.13.8 (36.1) 0.2 武豊 メジロライアン
10. 6 京都 京都大賞典 GII 7 4 4 1.1(1人) 1着 芝2400m(良) 2.26.5 (35.5) -0.6 武豊 (メイショウビトリア)
10. 27 東京 天皇賞(秋) GI 18 7 13 1.9(1人) *18着 芝2000m(不) 2.02.9 (37.4) -1.0 武豊 プレクラスニー
11. 24 東京 ジャパンC GI 15 3 5 1.9(1人) 4着 芝2400m(良) 2.25.3 (34.9) 0.6 武豊 ゴールデンフェザント
12. 22 中山 有馬記念 GI 15 1 1 1.7(1人) 2着 芝2500m(良) 2.30.8 (35.6) 0.2 武豊 ダイユウサク
1992. 3. 15 阪神 阪神大賞典 GII 6 4 4 1.3(1人) 1着 芝3000m(良) 3.13.5 (36.7) -0.4 武豊 カミノクレッセ
4. 26 京都 天皇賞(春) GI 14 4 5 2.2(2人) 1着 芝3200m(稍) 3.20.0 (36.3) -0.8 武豊 (カミノクレッセ)
1993. 4. 4 阪神 産経大阪杯 GII 16 7 13 2.4(1人) 1着 芝2000m(良) R2.03.3 (37.1) -0.8 武豊 ナイスネイチャ
4. 25 京都 天皇賞(春) GI 15 8 14 1.6(1人) 2着 芝3200m(良) 3.17.5 (36.8) 0.4 武豊 ライスシャワー
6. 13 阪神 宝塚記念 GI 11 6 6 1.5(1人) 1着 芝2200m(良) 2.17.7 (38.0) -0.3 武豊 イクノディクタス
10. 10 京都 京都大賞典 GII 11 1 1 1.2(1人) 1着 芝2400m(良) R2.22.7 (35.7) -0.6 武豊 レガシーワールド
  • 1 (*)1位入線の後、18着に降着
  • 2 タイム欄のRはレコード勝ちを示す。

特徴・評価

競走馬としての特徴・適性

「無尽蔵」とも称された豊富なスタミナを活かし、ハイペースの長距離戦でも先行策をとってそのまま押し切るというレーススタイルを得意とした。一般的にステイヤー(長距離得意の馬)と認識されており、「史上最強のステイヤー」とも評される。競馬評論家の大川慶次郎は、マックイーンは時計の早い競馬に持ち込んで勝つタイプの馬だが一瞬の切れ味とは縁がなく、「そういう意味では間違いなく真のステイヤー」と述べている[25]。しかし5歳以降に手綱を執った武豊は「短距離でも充分に強く、ただ距離が持つだけ[26]」「マイルのGIレースでも勝負になった[27]」「スプリンターズステークスでもメンバーによってはブッチぎったかもしれない」[28]と発言している。また一般に見られる例とは逆に加齢とともにレースでの落ち着きを失っていったといい、1993年春の天皇賞前には「今のマックイーンに3200mは長すぎます」とも語っていた[29]。 武は後年になって、凱旋門賞に挑戦してみたかった名馬としてキタサンブラックスーパークリークとともに本馬を挙げた上で「スタミナが半端なかったし、道悪もいいし、スピードもある。レースに注文があまりつかなかった」と述べて能力を高く評価している[30]

長所・短所

武豊は初めて本馬に跨った際、1200mの実戦的な調教後に息ひとつ乱れていない様子を目の当たりにし、心肺機能に優れた馬との第一印象を抱いた[31]。武は心肺機能について「とにかく心臓がいい。走った後の息の戻りがズバ抜けて早いですね」と述べている[32]。操縦の面でも「真面目で、競馬をわりとよく理解しています。コーナーも自分から回っていく。これは強い馬の一つの共通点なんです」[32]、「ジョッキーの意思が伝わりやすい」[33]、「どんなレースでも、鞍上の意思通りに動かせる馬で、本当に乗りやすかった」[26]と語り、総じて「とにかく欠点が少ない。欠点が少ないということは、負ける要素が少ないということ」と評している[34]。また武は「顔がいい」ということもマックイーンの長所として挙げており、「強い馬の顔は必ず整っているし、小さい」と述べ[32]、池江恭郎も「頭も顔立ちもいい、男らしい馬です。人間なら女性にモテるタイプですね」と述べている[35]。大川慶次郎は、秋の天皇賞はマックイーンにとっては向いている距離のレースではないものの、重馬場で2着に入線していたプレクラスニーに6馬身の差をつけていたことで、「長距離得意というのと同じくらいに、雨が非常に得意だった」としている[36]。また池江は「精神的にタフで無駄な神経を使わない。2000m以上がいい馬で先行もできるし、騎手にしたら実に乗りやすいタイプ」と評している[37]

一方、関係外部からは瞬発力の不足が指摘されており、特に1991年のジャパンカップ、有馬記念において、レース後半の瞬発力勝負で敗れたことは欠点の露呈に他ならないとして、この年のフリーハンデ評価にも影響を与えた[38][注 16][注 17]

成長力

1991年春の天皇賞を勝った時点では、武はその能力について、全てに自身が騎乗し、「平成三強」と呼ばれたオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワン と比較する段階ではないと語っていた[41]。その後、7歳の大阪杯で初めて「凄味が出てきた」と評し、結果的にラストランとなった京都大賞典の後には「7歳の秋だというのに、さらに強くなっていた。ホンマ、わからん馬やわァ」、「これまでになかった凄みが出てきた。この秋のマックは違いますよ」とコメントし[21]、「今さら僕がどうのこうの言うレベルじゃない。本当に凄い馬ですよ」と絶賛した[42]。当時、7歳は一般に衰えが見られる年齢とされており、その成長曲線の特殊性が指摘されている[注 18][注 19][注 20]

気性・性格

関係者の証言からは、厩舎内で見せた周囲に甘える姿と、競馬場で見せた堂々とした姿とのギャップが示されている[注 21][注 22]

他方、前述の通り競走生活の晩年には落ち着きを失い始め、レースや調教も嫌がるようになっていった[47]。また、引退が決定してから引退式までの間に、急速に老け込んだ様子を見せたという。これについて武は「あの馬のことだから、周囲の雰囲気から自分の競走生活が終わったことを分かっていたんでしょうね」と語っている[43]

人気

ギャンブルの対象という側面では、全21戦中で単勝2番人気以下に落ちたのは3戦のみ、2度出走した京都大賞典ではいずれも71.8%という単勝支持を受けるなど、常に大きな信頼を置かれていた。全戦の平均では43.97%の単勝支持を受けており、これは同年代で屈指のアイドルホースであったトウカイテイオーの36.87%を大きく上回る[48]。武は「クリークにしてもオグリにしても、この馬ほど勝って当たり前、とは思われていなかったでしょう」と述べている[31]

一方でキャラクターという側面では、同期のメジロライアンが惜敗続きで判官贔屓的な人気を博していたのに対し、マックイーンは「強いばかりで面白みがない」とも評され、強さの割に人気がないと見られていた[注 23][注 24]。しかしファンが少なかったわけではなく、6歳時に骨折した際には、回復を祈るファンからの何万という折り鶴が厩舎に送られ、涙ながらに応援の電話をかけてくる女性ファンも存在したことを池江が明かしている[51]。またタマモクロス、オグリキャップと続いた芦毛の最強馬、さらに祖父メジロアサマ、父メジロティターンより続く芦毛の系統という事実から「芦毛伝説第三章」というフレーズ[注 25]と共に応援するファンも存在した。

種牡馬入り後の1994年には、前年秋に創刊したばかりの『週刊Gallop』のテレビCMにメインキャラクターとして起用されている。

2011年には、JRAのテレビCM「20th century boy」の天皇賞(春)に1991年の映像で起用されている。

投票での評価

日本中央競馬会が2000年に実施した、ファン投票による名馬選定企画「20世紀の名馬大投票」では、13419票を集め第12位に選出されている。また、雑誌『Sports Graphic Number』が1999年に競馬関係者に対して行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」という企画でも12位に選ばれている[注 26]

年度別種牡馬成績

年度 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012
順位(日本総合) 229位 40位 22位 21位 22位 26位 28位 43位 45位 66位 78位 72位 84位 137位 285位 298位
順位(中央競馬 169位 30位 18位 21位 22位 27位 27位 42位 42位 62位 81位 67位 73位 139位 401位 345位
AEI(中央競馬) 0.47 0.78 0.88 1.02 0.77 0.73 0.89 0.74 0.86 0.74 0.83 1.45 1.72 0.99 0.00 0.42
総出走頭数(中央競馬) 22 71 90 82 102 115 96 86 70 49 35 28 16 8 4 0
総勝ち頭数(中央競馬) 7 28 28 26 21 30 29 15 13 8 6 5 3 1 0 0

主な産駒

母の父としての主な産駒

太字はGⅠ・JpnⅠ競走優勝。

エピソード

サンデーサイレンスとの関係

社台スタリオンステーション早来に繋養されていた時期、非常に気性が激しいことで知られたサンデーサイレンスと仲が良かったと伝えられている。早来では両馬の放牧地は隣同士に設えられており、当初マックイーンは同馬からしきりに威嚇を受けていた[53]。これに対してマックイーンは無視を続けていた[53]ところ、サンデーも次第にマックイーンの側では落ち着きを見せるようになり、後には「恋人」と言われるほどの仲となった[54]。サンデーの死後、マックイーンは社台スタリオンステーション荻伏に移されたが、こちらではサンデーサイレンス産駒のロサードに慕われていた[54]。なお、当時の社台スタリオンステーションでは、ファンサービスの一環で内国産種牡馬は見学可能であったが、サンデーサイレンスの隣の放牧地だった時期は見学不可であった。

血統表

メジロマックイーン血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 パーソロン系
[§ 2]

メジロティターン
1978 芦毛
父の父
メジロアサマ
1966 芦毛
*パーソロン Milesian
Paleo
*スヰート First Fiddle
Blue Eyed Momo
父の母
*シェリル
Cheryl
1971 鹿毛
フランス
*スノッブ Mourne
Senones
Chanel Pan
Barley Corn

メジロオーロラ
1978 栗毛
*リマンド
Remand
1965 栗毛
イギリス
Alcide Alycidon
Chenille
Admonish Palestine
Warning
母の母
メジロアイリス
1964 黒鹿毛
*ヒンドスタン Bois Roussel
Sonibai
アサマユリ ボストニアン
トモエ
母系(F-No.) アサマユリ系(FN:7-c) [§ 3]
5代内の近親交配 アウトブリード [§ 4]
出典
  1. ^ [55]
  2. ^ [56]
  3. ^ [57]
  4. ^ [55]

祖父メジロアサマは名牝ラトロワンヌの子孫だが、授精率が極端に低く、一時は種牡馬失格の烙印を押された馬だった(詳細は同馬の項参照)。また父メジロティターンも授精率に問題があり、最も多かった年でも40頭強しか産駒を送り出していない。

曾祖父のパーソロンは本来マイルから中距離を得意とする血統であり、父方の血統は本質的にはステイヤーではなく、メジロマックイーンのスタミナは、長距離に強さを見せたリマンドヒンドスタンなどを父祖に持つ母方から受け継いだとする意見がある[58]

祖母メジロアイリスの孫(本馬のいとこ)にスポーツニッポン賞金杯京都記念の優勝馬で、天皇賞(春)と宝塚記念で2着の成績があるメジロトーマスと、函館記念優勝のメジロマーシャスがいる。

牝系は1906年に小岩井農場がイギリスより輸入した牝馬(小岩井農場の基礎輸入牝馬)の一頭アストニシメント〜第二アストニシメント〜オーグメントの流れを汲み、とくに曾祖母のアサマユリから一大牝系が広がっている。その子孫には 高松宮記念優勝馬ショウナンカンプ川崎記念優勝馬のリージェントブラフなど数々の重賞優勝馬がいる。

メジロマックイーンは5代までアウトブリードであるが、母メジロオーロラは2000ギニー優勝馬テトラテマTetratemaのS5×M5、仏オークス優勝馬UgandaのS5×M5がインブリードされている。

脚注

注釈

  1. ^ 当時の場長・武田茂男は3番目としている[4]が、総帥の北野ミヤは2番目と記憶している[5]
  2. ^ メジロデュレンの頃の競走名は「嵐山特別」。
  3. ^ デビューから3戦で騎乗した村本善之への乗り替わりが検討されたが、北野が「1回のミスで降ろすのはかわいそう」とも主張した[13]
  4. ^ 競走前に行う最終調教のこと。
  5. ^ メジロライアンはオグリキャップの2着に敗れている。
  6. ^ この年は阪神競馬場改装の関係で中京競馬場での開催。
  7. ^ 掛かる、引っ掛かる=抑えようとする騎手の手綱に反し、ペース配分ができないこと。
  8. ^ 阪神競馬場改修により、京都競馬場で開催。
  9. ^ スポーツ紙の一面には「武豊大失態」「武豊の騎乗ミス」という武を批判する見出しが多く、島田明宏は「裁決、妨害、騎乗停止、処分といった言葉の響きのせいか、(武が)まるで犯罪者の扱いのようであった」と振り返っている[18]
  10. ^ 大川慶次郎は、江田の騎乗にも一因があるとし、「はっきりいってあのときの採決委員ママがきまじめすぎたと考えています。あれは騎手に対して5万円の罰金というペナルティーですます問題だったと私は考えています。
    (中略)メジロマックイーン自体は他の馬になにもしていないんです。むしろマックイーンに先手をとられたプレクラスニーが、あわててそうはさせじとマックイーンにつられて内へよせてしまったのが直接の原因でしょう。マックイーンとプレクラスニーが一緒になって内に幅よせし、この2頭に幅よせされたために内にいたほかの馬同士が激しくぶつかりあってしまったんです」と述べ、武は騎乗停止となったが、江田に対しては罰金ということでもいいと述べている[19]
  11. ^ 1981年以前は、天皇賞は一度優勝すると二度と出走できない「勝ち抜け制」であった。また、春-秋は1988年にタマモクロス、秋-春は1989年-1990年にスーパークリークが記録している。
  12. ^ 誕生したキソジクイーンは11戦未勝利に終わり、繁殖入りしている。
  13. ^ ドリームジャーニー、オルフェーヴルの父ステイゴールドは池江泰郎厩舎所属での後輩にあたり、2頭とも池江泰郎の息子・泰寿が管理している。
  14. ^ 2012年4月まで(2009年生まれの産駒まで)に同様の配合で中央競馬において出走歴があるのは合計6頭。うち5頭が勝ち上がり、4頭が重賞を勝ち、3頭がG1馬となっている。
  15. ^ 全46頭出走で出走回数は延べ234回。一頭当たりの賞金は2541万9739円。この数字はオルフェーヴルの活躍に負うところが大きく、リーディング上位40頭の中では最も出走頭数が少なく、最も一頭当たりの賞金が高く、2位以下を引き離す(次点はMachiavellianの1354万1383円)という極端な成績となっている。
  16. ^ 当年のマックイーンの評価は63kgで古牡馬最高値であったが、4歳馬のトウカイテイオーに与えられた65kgを下回った。
  17. ^ 大川慶次郎はこれを根拠に、「確かにライバルに恵まれていなかったので、中距離ぐらいなら楽に勝っていたのですが、短距離線ともなるとね。もしもマイル戦でヤマニンゼファーと戦っていたりしたら、キレの差で敵わなかったんじゃないでしょうか」と言い、短・中距離でも勝負になったという武の見解に疑問を呈している [39]。大川自身は、仮に短・中距離のレースに出走したら「まったくだめだったでしょね」とし、普通の馬にもかなわなかったと思うと述べている[40]
  18. ^ 武は後に京都大賞典を回想し、「ゴールしたときは驚きました。この馬、また強くなってるぞ、とね。6(7)歳でこれほどの強さを見せることができたのは、大事に使われてきたこともあるんでしょうけど。いろいろな意味で、初めてのことを経験させてくれた馬でした」と述べている[43]
  19. ^ 「京都大賞典の驚異的なレコードは、7歳の秋を迎えてもなお、上昇を続けるメジロマックイーンという馬の"すごさ"を改めてアピールするものだった」[44]
  20. ^ ライターの成沢大輔は「正直、マックイーンは大嫌いな馬の1頭だった。"だった"と過去形にしたのは7歳秋の京都大賞典を見てしまったからで、よもや7歳秋に2分22秒7などという時計を出す馬が存在するとは思わなかったのである。以後、嫌いという感情は恐れにシフトし、『まあ、バケモンだから仕方ないか』に変わっていった」と述べている[45]
  21. ^ 武豊は「普段はヘラヘラしているのに、いざ舞台に上がったら信じられない実力を見せる奴。表面には凄い部分を出さないから、『ほんとにこいつが?』と思ってしまうんですよね」と述べている[46]
  22. ^ 池江泰郎は「甘えん坊とは言っても、一歩外に足を踏み出すと決してオドオドすることなく、いつも堂々としています。第一、歩様が他の馬と全然違いますよ。人間で言えば、肩で風切って歩いているように」と述べている[35]。担当厩務員の早川清隆は、こうした様子から「強い馬のメンタルな部分も勉強になった」と述べている。
  23. ^ ライターの中田潤は「オグリキャップが築き上げた『競馬興行の黄金時代』。メジロマックイーンに悲劇があったとすれば、そんな華やかなステージに『やたら強いだけの馬』として君臨しなければならなかったことだろう」と述べている[49]
  24. ^ ライターの瀬戸慎一郎は「マックイーンは強さの割に人気のない馬でもあった。まあ、あのクラスにもなれば、知名度からしても、一言で"人気がない"と片付けるのは語弊があろう。ただ、僚馬メジロライアンのような愛され方をした馬でなかったことだけは確かである。いずれにせよ、強さの割に印象が地味であったのは否定できない」と述べている[50]
  25. ^ 元は大学の競馬サークルが、マックイーン出走時のパドックに掲げていた横断幕のフレーズ。メジロマックイーンを端的に表現しているとされ、メディアでも流用された。
  26. ^ ただし全体の投票数が少ないため、得票は1票のみ。投票したのは佐藤哲三で、「オールマイティーな強さ。多分、マイルでも負けないのでは」と評している[52]。なお、武はサイレンススズカ、池江はシンボリルドルフに投票(池江は「私が手掛けた馬」という条件でマックイーンを挙げている)。

出典

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  50. ^ Yahooスポーツ競馬 最強ヒストリー瀬戸慎一郎『メジロマックイーン - 名勝負なき名ステイヤー』第1話「能面の裏」
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参考文献

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  • 大川慶次郎『大川慶次郎殿堂馬を語る』(ゼスト、1997)ISBN 4916090527
  • 木村幸治『馬の王、騎手の詩』(宝島社、1994年)ISBN 4796608729
  • 島田明宏『「武豊」の瞬間 稀代の天才騎手 10年の歩み』(集英社、1997年)ISBN 4087831094
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  • 寺山修司志摩直人ほか『優駿観戦記で見る菊花賞十番勝負』(小学館文庫、1999年)ISBN 4094024824
  • 光栄出版部編『名馬列伝 メジロマックイーン』(光栄、1994年)ISBN 487719133X
  • サラブレッド探偵局編『競馬SLG名牝ファイル』(光栄、1994年)ISBN 4877191100
  • 『競馬種牡馬読本2』(宝島社、1997年)ISBN 4796693408
  • 『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬黄金の蹄跡』(文藝春秋、1999年)ISBN 4160081088
  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1992年2、5月号
    • 1993年12月号
    • 1999年11月号
      • 江面弘也『菊花賞、逆転の記憶 ~勝利への最終切符をつかんだステイヤーたち~』
    • 2001年5月号
    • 2004年10月号
  • 『週刊100名馬 Vol.22 メジロマックイーン』(産業経済新聞社、2001年)

外部リンク