「明仁」の版間の差分
1,134行目: | 1,134行目: | ||
[[Category:1933年生]] |
[[Category:1933年生]] |
||
[[Category:存命人物]] |
[[Category:存命人物]] |
||
[[Category:退位した |
[[Category:退位した君主]] |
2020年6月4日 (木) 00:34時点における版
明仁 | |
---|---|
即位礼 |
即位礼正殿の儀 1990年(平成2年)11月12日 於 皇居 宮殿 |
大嘗祭 |
大嘗宮の儀 1990年(平成2年) 11月22日・23日 於 皇居 東御苑大嘗宮 |
元号 | |
内閣総理大臣 | |
先代 | 昭和天皇 |
次代 | 徳仁 |
誕生 |
1933年(昭和8年)12月23日 午前6時39分(91歳) 日本・東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区千代田) 宮城内産殿 |
諱 |
1933年(昭和8年)12月29日 命名 |
称号 |
|
印 |
|
元服 | 1952年(昭和27年)11月10日 |
父親 | 昭和天皇 |
母親 | 香淳皇后 |
皇后 |
美智子(旧姓名:正田 美智子) 1959年(昭和34年)4月10日 結婚 (→皇太子妃) (→皇后) (→上皇后) |
子女 | |
皇嗣 | 皇太子徳仁親王 |
皇居 |
皇居 御所 東京都千代田区千代田1-1 |
栄典 |
一覧参照
|
学歴 | |
副業 | 魚類学者 |
親署 | |
日本の憲政史上初めて譲位し、上皇となった。天皇の譲位による皇位継承は光格天皇以来202年ぶりのことである。 |
称号:上皇 | |
---|---|
敬称 |
陛下 His Majesty the Emperor Emeritus |
皇室 |
---|
|
昭和天皇と香淳皇后の第1皇男子[7]。皇子女に徳仁(第126代天皇)、秋篠宮文仁親王(皇嗣)、黒田清子がいる。
父帝・昭和天皇の崩御を受けて、日本国憲法及び現皇室典範下で初めて皇位を継承し、元号法に基づき「昭和」に代わって翌日より「平成」と改元された[8]。また、天皇退位特例法に基づき、憲政史上初めて譲位した[注釈 3][9][10]。
人物
天皇・上皇として
1933年(昭和8年)12月23日に東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区)宮城(現・皇居)内の産殿にて、昭和天皇・香淳皇后夫妻の(二男五女のうち)第5子かつ第1皇男子として誕生。
姉に東久邇成子(照宮成子内親王)、久宮祐子内親王、鷹司和子(孝宮和子内親王)、池田厚子(順宮厚子内親王)、弟に常陸宮正仁親王(義宮正仁親王)、妹に島津貴子(清宮貴子内親王)がいる。
1952年(昭和27年)に皇室典範規定に基づき18歳で成年[11]。1959年(昭和34年)に正田美智子と成婚し、浩宮徳仁親王(第1子/長男、第126代天皇)、礼宮文仁親王(第2子/次男、現:秋篠宮当主、皇嗣)、紀宮清子内親王(第3子/長女、結婚により皇籍離脱。現:黒田清子)の二男一女の3人の子女をもうける。
1989年(昭和64年)1月7日に実父である昭和天皇の崩御[12]に伴い皇位継承し、第125代天皇に即位[13][14]。
天皇在位中は高齢になっても、年間約1,000件の書類に目を通して署名・捺印し、各種行事に約200回出席し(いずれも平成23年/2011年度[15])、20件近くの宮中祭祀や祭儀を執り行うなど精力的に活動していた[16]。しかし、2015年(平成27年)に施設訪問の一部を皇太子徳仁親王同妃雅子(当時)および秋篠宮文仁親王同妃紀子に引き継いだ[17][18]。
天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行により、2019年(平成31年)4月30日限りで退位し、5月1日0時の皇太子徳仁親王の第126代天皇即位に伴い、上皇となる。譲位に伴う皇位継承が行われたのは、光格天皇から仁孝天皇への譲位以来202年ぶりである。明仁は、歴代天皇の中で最初に譲位した皇極天皇(斉明天皇として重祚)[注釈 4]より数えて、59人目である。譲位時の年齢は85歳であり、歴代天皇の中で最高齢で譲位した。
上皇となって以降は、上皇后の美智子とともに私的な日本各地への訪問や芸術鑑賞などをして日々を過ごす。
現在、上皇である明仁は、天皇や皇族とともに皇室を構成している[19]。存命中の男性皇室構成員としては最年長であり[20]、退位特例法により、皇位継承権を有しない唯一の(天皇以外の)男性皇室構成員となった。
科学者として
魚類学者としても知られ、ハゼの分類学的研究者であった。日本魚類学会に属して自ら研究して書いた論文28編(2018年時点)を同学会誌に発表[21]。1992年(平成4年)には『Science』誌に「"Early cultivators of science in Japan"(邦訳例:日本における科学の早期開拓者たち)」という題で寄稿した[22]。また2000年(平成12年)、2008年(平成20年)、2016年(平成28年)には、日本国外の雑誌『Gene』に第一著者として論文が掲載されている[23][24][25]。
魚類学における業績は各国で評価され、学界において以下に記述する役職に就いている。
- 1980年(昭和55年)、英国のロンドン・リンネ協会外国会員。1986年(昭和61年)、同協会名誉会員。
- オーストラリア博物館リサーチ・アソシエート。
- ロンドン動物学会名誉会員。
- アルゼンチン自然科学研究所永久名誉会員。
この他にも1998年(平成10年)には英国ロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞、2007年(平成19年)の欧州5か国訪問ではスウェーデンウプサラ大学名誉学員に列せられた。また長年のハゼの分類学的研究に対する貢献を称え、新種のハゼの一種の命名に、1992年(平成4年)には Platygobiopsis akihito と[26]、2005年(平成17年)には Exyrias akihito[27]、2007年(平成19年)にはハゼの新属にアキヒト属 (Akihito) と[28]、彼の名を織り込んだ献名がなされた。
皇族および天皇としての国際親善とは別に、魚類研究での外国との交流もあり、皇太子時代に問い合わせに応答した中国の魚類学者に年賀状を毎年送っている[29]。
民族学者である梅棹忠夫は、1971年(昭和46年)8月26日の仲間内の食事会にて「この前、皇太子殿下(=明仁親王)にご進講に行った。皇太子殿下の植物学に対する造詣はたいしたもの。立派に東大、京大教授が務まる。帝としてはどうか知らないが、学者としては一流だ。」と述べている[30]。
発見したハゼ
- キマダラハゼ:Astrabe flavimaculata Akihito et Meguro[31]
- シマシロクラハゼ:Astrabe fasciata Akihito et Meguro
- ヒメトサカハゼ:Cristatogobius aurimaculatus Akihito et Meguro
- コンジキハゼ:Glossogobius aureus Akihito et Meguro
- クロオビハゼ:Myersina nigrivirgata Akihito et Meguro
- ミツボシゴマハゼ:Pandaka trimaculata Akihito et Meguro
来歴
幼少時代
1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、宮城(現、皇居)内の産殿にて誕生。昭和天皇、香淳皇后の(両親夫妻の間にもうけられた2男5女・7人の子女のうち)第5子にして初の皇子(第一皇男子)であった。
称号「継宮」(つぐのみや)、名前「明仁」(あきひと)。
これは父、昭和天皇による命名で、いずれも明治3年1月3日(1870年2月3日)の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅『大教宣布』より「…立極垂統、列皇相承、継之述之…宜明治教以宣揚惟神之大道也…(「極(皇位)」を立て「統(皇統)」を垂れ、列皇(歴代天皇)は相承し、之を継ぎ之を述べ…よろしく治教を明らかにし以て「惟神(かんながら)」の大道を宣揚すべき也)」に出典を求め、命名されたものである。
お印の「榮(えい)」は文字で、「草花が盛んに茂る様子」を意味する[5]。
昭和天皇の子女として4人続けて女子の誕生を経た後の次期皇位継承者になる男子の誕生ということもあって、国内の沸き立ち方は並々ならぬものがあり、北原白秋作詞、中山晋平作曲で奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』まで作られた。
1936年(昭和11年)3月29日、皇室の伝統的慣習に基づき、将来の天皇になるべくして皇太子明仁親王は満2歳で両親の元を離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって養育される。当初は週に一度の日曜日には宮中に参内して両親と面会する機会もあったが、1か月を過ぎる頃から日曜日も東宮仮御所で過ごすようになった[32]。
1940年(昭和15年)に学習院初等科に入学。学習院就学時代は山梨勝之進院長の下で教育を受け、内舎人、信国鉄蔵を師として剣道を練成した。
1941年(昭和16年)12月8日、自身の学習院初等科2年次在学時に、日米開戦。学習院初等科5年次の1944年(昭和19年)、第二次世界大戦の戦火の拡大により、初めは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光、湯元の南間ホテルに疎開。当地で翌1945年(昭和20年)8月15日に、他の疎開児童らとは別室にてラジオでの父帝による玉音放送を聴き、終戦を迎えた。終戦後に帰京。
1946年(昭和21年)10月から1950年(昭和25年)12月まで、父、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ばせる」という新しい皇太子への教育方針に従い、アメリカ合衆国の著名な女性の児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。1949年(昭和22年)6月27日には、ヴァイニングとともにGHQの設置された第一生命館を訪問して連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと面会した。このときマッカーサーは「殿下は落ち着いて、まことに魅力的なお方だった」と好印象を持ったといわれる[33]。また、西洋で流行していたボードゲームのリバーシ(現在のオセロ)を与えられ、父、昭和天皇とたびたび対戦して知恵を磨いた[34]。
1950年(昭和25年)、学習院高等科2年の際に馬術部の主将となる[35]。
1951年(昭和26年)10月、学習院高等科の修学旅行に参加。学友とは前半別行程で、20日夜に青森行きの夜行準急列車で出発。青森県内を回った後の26日、岩手県平泉で修学旅行に合流、29日に帰京した[36]。
成年以降
1952年(昭和27年)11月10日、皇居、表北ノ間で立太子の礼と皇太子明仁親王の成年式が挙行された。同日、大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。
1953年(昭和28年)3月30日から同年10月12日までの半年余りにわたり、人生初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ合衆国、カナダを歴訪。同年6月2日、エリザベス2世英国女王(1952年2月6日:父のジョージ6世国王の崩御により即位)の戴冠式へ父帝、昭和天皇の名代として各国王族らと共に参列。この時の地位は皇太子であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行った。後年、2007年(平成19年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行っている。しかしこの外遊の結果(皇太子という身分とはいえ特別待遇されることはなく)、学習院大学の単位が不足して進級できずやむを得ず中途退学したものの、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学業を継続する[37]。
欧米訪問からの帰国直後の同年12月に、結核の感染を診断される。この時、ストレプトマイシンなどの特効薬が発見されており、それの投与による治療を受け、1957年(昭和32年)までにほぼ治癒した。このことは長らく公にされていなかったが、2009年(平成21年)3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした[38][39]。
1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れていた長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢会テニスコートでのテニストーナメントで日清製粉グループ会長(当時)であった正田英三郎の長女、正田美智子と出会い、テニスを通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に『女ともだち』と題した彼女の写真を出品した。しかし、「皇太子が積極的に正田美智子との結婚を考えている」ということが分かると、皇室内外からの反対もあった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の著作『入江相政日記』には、「『東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん』と母、香淳皇后が秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子の両親王妃と共に昭和天皇に訴えた」という内容の記述がある。
1959年(昭和34年)1月14日に納采の儀が、同年4月10日に皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀が執り行われた。明治以降では初の皇族、華族以外からの皇太子妃(将来の皇后)であり、また成婚に至る過程が報道されたこともあって、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が起る。成婚のパレードは盛大に行われ、多数の国民から祝福を受けた。2人の成婚の様子を生中継放送で視聴するために、当時高価であったテレビも一般家庭に普及し始めた。また婚礼を祝して『祝典行進曲』が作曲された。同年7月15日に、皇太子妃美智子の第一子懐妊が発表された。
1960年(昭和35年)2月23日に第1子、第一男子浩宮徳仁親王(ひろのみや なるひと)が誕生。3月には妹、清宮貴子内親王が、明仁親王の学友だった島津久永と結婚した。同年9月22日から同年10月7日にかけて、妃美智子を伴って夫妻で日米修好100周年記念のためアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。
1965年(昭和40年)11月30日、第2子、第二男子礼宮文仁親王(あやのみや ふみひと)が誕生。1969年(昭和44年)4月18日、第3子、第一女子紀宮清子内親王(のりのみや さやこ)が誕生。
-
1952年(昭和27年)、立太子の礼
-
1952年(昭和27年)、立太子の礼後、両親と共に市民の歓声に応える
-
正田美智子との結婚の儀に際し。
-
1987年(昭和62年)、皇太子夫妻としての最後の外国訪問(アメリカ合衆国、アンドルーズ空軍基地にて)
沖縄県訪問に際して
沖縄県の祖国復帰(沖縄返還)が実現して3年後の1975年(昭和50年)、沖縄国際海洋博覧会に際し、父、昭和天皇も大正期の皇太子時代に行啓した沖縄県に立太子後、初めて訪問。海洋博の写真を収めた書籍『海 その望ましい未来』、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に親覧した皇太子および同妃の姿が収録される[注釈 5]。
この沖縄県訪問については複数の事件もあった。同年7月17日、皇太子妃美智子を伴い夫妻でひめゆりの塔に献花のため訪問したところ、その場に潜んでいた過激派2人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟のメンバー)から火炎瓶1本を投げつけられる(ひめゆりの塔事件)。同日夜、皇太子は「沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ。」と県民の心情を思う異例の談話を発表している。
なお、この皇太子夫妻訪沖については同事件の犯人の所属する組織など以外にも、各種政治団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会や、全日本学生自治会総連合(全学連)・県学連などによる1000人単位のデモなどを行ったほか、沖縄入りした皇太子および同妃の自動車に空き瓶などを投げつけるなどのテロ(犯人は公務執行妨害で逮捕)に及んだが[40]、皇太子および同妃に怪我などはなく、つつがなく予定を終了した。皇太子は当時より沖縄に関心をよせ 琉歌を研究し、琉歌8首を発表している[41]。
1976年(昭和51年)1月18日の海洋博閉会式にも揃って出席している。
1987年(昭和62年)にも、沖縄海邦国体を前に病臥した父・昭和天皇(昭和天皇が在位中の天皇として史上初めて沖縄を訪問する予定だった)の名代として沖縄を訪問し、同年10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇のことばを代読した。当時の西銘順治沖縄県知事は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う。」と談話を発表した。
天皇即位以降
1989年(昭和64年)1月7日、父・昭和天皇の崩御を受け、直ちに歴代3位の年長となる55歳で第125代天皇に即位[42](現行の皇室典範により、「践祚〈せんそ〉」と「即位〈そくい〉」が統合されたため、従前の「践祚」に相当)。同日、皇位継承の儀式(剣璽等承継の儀)を執り行い、翌8日、元号法に基づき「平成」に改元された。9日に執り行われた即位後朝見の儀では「国民とともに日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」との「おことば」を発した[43]。
諒闇が明けた1990年(平成2年)の即位の礼に際して、京都御所(京都府京都市上京区)から皇居(東京都千代田区)へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行われ、同年11月12日に中心儀式である即位礼正殿の儀が執り行われた。祖父の大正天皇及び父の昭和天皇とも即位の礼を京都御所で挙行しており(即位礼紫宸殿の儀)、関東(東京都)の地で即位した初めての天皇となる。同日、即位の礼「祝賀御列の儀」としてオープンカーでのパレードが行われ、皇居から赤坂御所までの4.7kmの道のりを、約12万人の市民が埋め尽くし平成時代(1989年1月8日 – 2019年4月30日)の天皇と皇后を祝福した。同年11月22日・23日、皇居内で大嘗祭が執り行われた。
1992年(平成4年)10月、中華人民共和国政府の招待で同国を訪問する[44]。日中関係史で中国大陸に渡ったのは歴代天皇で初の出来事であり[45]、生前の昭和天皇が希望していたことであったが[46]、当時の中国外交部長(外務大臣)だった銭其シンは回顧録で「天皇訪中は六四天安門事件での西側諸国の対中制裁の突破口という側面もあった」と明かしている[47]。
1999年(平成11年)に即位10周年を迎え、同年11月20日に「御即位十年をお祝いする国民祭典」が開催され、同日夜には二重橋で祝賀の声に応えた。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。
1993年(平成5年)には、父の昭和天皇が実現できなかった沖縄県行幸を自身の在位中で果たした。この折には皇后美智子(当時)とともに、予定になかったひめゆり学徒隊の慰霊碑への訪問を行った。2003年(平成15年)までに、47都道府県の日本全国の巡幸を達成した。
2009年(平成21年)11月12日、政府主催の「御在位二十年記念式典」・民間主催の「御即位二十年をお祝いする国民祭典」が執り行われた。
2009年(平成21年)12月15日、習近平中華人民共和国副主席(後の中国最高指導者)と会見。この会見の申請が、慣例の1か月前を切って行われたことから騒動となり、羽毛田信吾・宮内庁長官が記者会見で政府・民主党政権・鳩山由紀夫内閣を批判する発言を行った(天皇特例会見)。
2011年(平成23年)3月16日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の発生とそれに伴う被害に鑑み、国民および被災者に対し異例のビデオメッセージを放送した[48]。
-
剣璽等承継の儀
1989年(昭和64年)1月7日 -
1990年(平成2年)、大嘗祭
-
平成の大嘗宮(再現模型)
-
即位礼および大嘗祭での帛御服
-
祝賀御列の儀
-
饗宴の儀
-
2005年(平成17年)6月28日、米国自治領・サイパン島訪問時、皇后美智子と共に。
-
燕尾服姿の正装
-
2009年(平成21年)7月10日、カナダ・ブリティッシュコロンビア州訪問時。
譲位の意向
2016年(平成28年)7月13日、NHKや『毎日新聞』が、天皇の位を生前に皇太子(次期皇位継承者)に譲る「生前退位(譲位)」の意向を、宮内庁関係者に示したと一斉に報道[49][50]。諸報道によれば、天皇として「憲法に定められた象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」と考えており、「数年内の譲位を望んでいる」とされ[49][50]、「天皇自身が広く内外に『お気持ち』を表わす方向で、調整が進められている」とされた[49][50]。しかし、宮内庁の山本信一郎次長(当時、現・宮内庁長官)は、報道を受け、各社の取材に対して「そうした事実は一切ない。陛下は憲法上のお立場から、皇室典範や皇室の制度に関する発言は差し控えてこられた。」と報道内容を否定した[51]。8月8日、約11分間のビデオを通じて、自ら個人の「お気持ち」を『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば』として表明。自身が即位後、日々、天皇として望ましい在り方を模索して今日に至ったが、高齢になったため、全身全霊で象徴としての務めを果たしていくことが難しくなってきたと案じていることへの国民の理解を求めた[52][53]。
2017年(平成29年)12月1日開催の皇室会議において、天皇退位の日が2019年(平成31年)4月30日に決定した。同8日、政府は同日付での退位を閣議決定した(第4次安倍内閣)[54][55]。
2019年(平成31年)2月24日、政府主催の「天皇陛下御在位三十年記念式典」が、皇后美智子との成婚60周年を迎えた同年4月10日には「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」が開催された。
在位中の2019年(平成31年)4月1日、元号法に基づき新元号「令和」が公表され、元号を改める政令に署名し、公布した[56]。なお、新元号が政府より事前発表されるにあたり、この影響で日本の情報システム業界では新規案件で元号を使用した機能の受注については、新規元号発表までは見合わせるか、西暦のみか、2018年(平成30年)までとするかで動きが分かれた。カレンダー業界は印刷発行と販売に多大なる影響が出ることを危惧していた[57][58]。
退位の日である2019年(平成31年)4月30日の午後5時から、国事行為として退位礼正殿の儀が皇居宮殿正殿松の間で行われ、これが天皇としての最後の公務となった。
天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定により、明仁はこの日を以って退位し、翌5月1日午前0時に上皇となり、自身の第1皇男子である皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位した。同時に元号法の規定により、「平成」から「令和」に改元された。これにより2019年は、「平成31年(1月1日-4月30日)」と「令和元年(5月1日-12月31日)」という2つの元号が存在することとなった。
上皇として
2017年(平成29年)6月9日の国会参議院本会議での議決により『天皇の退位等に関する皇室典範特例法』が成立し、7日後の16日に公布された。2019年(平成31年)4月30日に同法が完全に施行され、天皇の地位と職務は全て皇太子徳仁親王へと引き継がれた。明仁は、1868年(慶応4年/明治元年)の一世一元の制制定後、かつ憲政史上初めて譲位した天皇となった[注釈 6]。
天皇退位特例法施行にともない、宮内庁には上皇と上皇后の家政機関として「上皇職」が設置された。
明仁は、満85歳で上皇となって以降、天皇在位中とは異なり公的な場に姿を見せることは少なく、上皇后の美智子とともに私的な日本各地への訪問や芸術鑑賞などで日々を過ごす。86歳となった同年12月23日は、前年まで天皇誕生日(祝日)であったが、退位後は平日となり、翌年2020年(令和2年)より第126代天皇・徳仁の誕生日である2月23日が新たな天皇誕生日となった。
2020年(令和2年)1月2日、妻の上皇后美智子、天皇徳仁と皇后雅子および他の皇族らと共に、皇居での新年一般参賀に参加。退位後に初めて公の場で姿を見せた。
宮内庁は同年1月30日、上皇が29日午後6時半ごろ、私的外出ののち吹上仙洞御所に戻って約1時間後に倒れたと発表した。意識はしばらくして戻り、翌30日に宮内庁病院で頭部MRI検査と専門医による診察を受けたが、症状の原因となる所見は見られず、当面は経過観察を続けるとした。また同庁によると、上皇が倒れた際に上皇后が非常ブザーで侍医を呼んだ。上皇はいびきのような息づかいだったが、侍医の診察開始から間もなく意識を回復したという。夕食を取らずにそのまま就寝した。30日朝は通常通り朝食をとったという。2019年(令和元年)7月には脳貧血のため立っていられず、かがみ込む症状があった。宮内庁は、上皇の最近の体調に問題はなかったとし、仙洞仮御所(旧:高輪皇族邸)への引越準備に加え、ハゼ科魚類の研究や上皇后との日課の散策、読書などをして静かに過ごしているという[59]。
同年3月31日に、上皇后と共に仮住居である仙洞仮御所(高輪皇族邸)に引っ越す。
喪儀及び陵墓の格式については、天皇と同様としている。従って、上皇の崩御に当たっては大喪の礼が執行され、天皇陵が造営されることになっている。
-
2019年11月1日、日本で開催されたラグビーワールドカップ2019の3位決定戦(ニュージーランド対ウェールズ、会場:東京スタジアム)をプライベートで観戦する上皇と上皇后。
年譜
- 1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、宮城(現・皇居)内産殿にて誕生。昭和天皇、香淳皇后第5子にして初の皇子(第1皇男子)。
- 1940年(昭和15年)に学習院初等科に入学。
- 1944年(昭和19年)、第二次世界大戦の戦火の拡大により疎開。
- 1952年(昭和27年)11月10日、皇居仮宮殿表北ノ間にて立太子の礼並びに成年式。同日、大勲位に叙され、菊花大綬章を授与される。
- 1959年(昭和34年)
- 1月14日、正田美智子との納采の儀(婚約)。
- 4月10日、皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀。
- 1960年(昭和35年)2月23日に第1子、第1皇男子浩宮徳仁親王誕生。
- 1965年(昭和40年)11月30日、第2子、第2皇男子礼宮文仁親王誕生。
- 1969年(昭和44年)4月18日、第3子、第1皇女子紀宮清子内親王誕生。
- 1975年(昭和50年)、沖縄県訪問。沖縄国際海洋博覧会に出席。ひめゆりの塔事件起こる。
- 1989年(昭和64年/平成元年)
- 1990年(平成2年)
1991年(平成3年)2月23日(31歳)、皇太子徳仁親王の立太子の礼挙行。
- 1992年(平成4年)10月、中華人民共和国訪問。
- 1999年(平成11年)、在位10年を迎える。11月20日、「御即位十年をお祝いする国民祭典」開催。
- 2000年(平成12年)
- 6月16日、香淳皇后崩御。
- 7月25日、皇淳皇后斂葬の儀。
- 2005年(平成17年)11月12日、紀宮清子内親王と黒田慶樹が結婚。内親王皇籍離脱(黒田清子)。
- 2009年(平成21年)、在位20年を迎える。11月12日、政府主催の「御在位二十年記念式典」・民間主催の「御即位二十年をお祝いする国民祭典」開催。
- 2011年(平成23年)3月16日、東日本大震災に関し、ビデオメッセージを放送。
- 2016年(平成28年)
- 7月13日、NHKなどが、明仁が「生前退位」を望んでいると報道。
- 8月8日、退位報道に関し、ビデオメッセージ(『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば』)公表。退位の意向をにじませる。
- 2017年(平成29年)
- 6月9日、天皇退位特例法成立。6月16日、公布。
- 12月1日、皇室会議において、退位の日が2019年(平成31年)4月30日に決定。
- 2019年(平成31年/令和元年)
- 2020年(令和2年)1月2日、退位後初めて一般参賀に姿を見せる。
逸話
青年以降、皇太子時代
- 1953年(昭和28年)6月2日のエリザベス2世英国女王戴冠式への台臨のために同年3月30日から同年10月12日まで外遊、人生初の外国渡航。
- 出発の際には、皇居から横浜港まで、小旗を持った100万人もの国民の祝賀を受けたという。また、テレビ開局以来初の大規模イベントとなり、各放送局が実況中継した[60]。
- 大型客船プレジデント・ウィルソン号(アメリカン・プレジデント・ライン社所属、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した[61]。三島由紀夫も2年前に同船でハワイに向け出帆し世界旅行に出ている[62][注釈 7]。
- イギリスでは、第二次世界大戦で敵対国であった記憶は未だ褪せておらず、1953年(昭和28年)6月2日のウェストミンスター寺院でのエリザベス2世の戴冠式[63]に参列した際は13番目の席次(前列中央の座席で、隣席はネパール王子)を与えられたが、エリザベス2世女王との対面まで長時間待機させられた。また女王は、日本の皇太子と握手は交わしたが視線は交わさなかった[60]。
- ただその4日後の6月6日のエプソム競馬場でのダービー観戦でエリザベス2世女王(当時:27歳、皇太子明仁親王は19歳)から彼女の隣席に誘われ、幾分か会話を重ねた。その中で、かつて戦間期(日本の大正年間)の日英同盟時代に女王の祖父ジョージ5世国王が、(皇太子明仁親王の父親である)昭和天皇の(その当時の明仁親王とほぼ同じ年頃に)皇太子時代での訪英の折に歓迎した話などを振り返り、(第二次世界大戦で敵対し途絶えていた)戦後においての日英両国での皇室王室間交流が再開したとされる。
- 半年にわたって外遊した結果、単位不足で進級できず留年を回避するため、学習院大学政治学科をやむなく中途退学し、その後は聴講生として大学に在籍し続けた。聴講生となって以降は例外なく皇族としての特権なども許容されず、クラブ活動にも原則として参加できなかった[64]。宮内庁は、学歴を「学習院大学教育ご修了」としている。なお学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に両国高校から現役進学した後の日本会議国会議員懇談会初代会長島村宜伸がいる。島村は1956年(昭和31年)3月に政治学士となり、39年5か月後の1995年(平成7年)8月に村山改造内閣で初入閣して文部大臣の認証を受けている。
- 1959年(昭和34年)4月10日の結婚の儀の記念切手では、4種のうち10円と30円で皇太子妃と一緒の肖像[注釈 8]が発行された。また切手は郵政省から皇室と正田家に「皇太子御成婚記念切手帖」が献上されている[注釈 9]。
- 皇太子時代の1960年(昭和35年)に、アメリカ合衆国イリノイ州のシカゴ市長により寄贈されたミシシッピ川水系原産のブルーギルを日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈した。これは当時の貧しい食糧事情を思ってのことであったが、国内で異常繁殖したブルーギルは在来種の水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系を破壊する結果となった。2007年、滋賀県大津市で開かれた全国豊かな海づくり大会で「外来魚の中のブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したものであり、当初、食用魚としての期待が大きく、養殖が開始されましたが、今、このような結果になったことに心を痛めています[65]」と異例の(自己批判を意味する)発言を行い、会場では驚きの声が上がった。この発言は本人の意向によりなされたもので、当初の原稿はより謝罪の色合いの強いものであったが、「ここまで謝罪する必要はないのでは」との地元からの意見もあり、式典前に改められていた[66]。
天皇即位後
- 父の昭和天皇崩御にあたり、相続税4億2800万円を納めた[67]。また、皇居のある千代田区には住民税を納めている[67]。
- 1991年(平成3年)に雲仙普賢岳噴火の際には、被災地を見舞い、床に膝をついて直接被災者らと同じ姿勢で言葉を交わしたが、天皇が一般国民と対面して会話をする際に「床に膝をつく」という行為は史上初めてであった。これは美智子妃と夫妻ともに昭和期の皇太子時代から行っているものだったが、その後の被災地の見舞いでも続けられ、平成に入ってからは他の皇族もこれに倣っている。
- 2008年(平成20年)9月8日、新潟県中越地震の被災地を見舞うための行幸の折、被害が甚大であった被災当時の山古志村(現・長岡市山古志)を視察。その後、山古志の被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。また、中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ[68]。
- 2002年(平成14年)2月20日、チェロの師・清水勝雄が死去。その夜、皇后美智子のピアノ伴奏に合わせて演奏を行い、故人を偲んだ[69]。
- 2005年(平成17年)6月28日、サイパン島訪問の際には当初の予定に含まれていなかった「韓国・朝鮮人慰霊碑(追悼平和塔)」に皇后美智子を同伴で立ち寄った。これは天皇の配慮だったとされている[70]。
- 2008年(平成20年)11月8日、先代の昭和天皇同様、「慶應義塾大学創立150周年記念式典」に皇后美智子と共に夫妻で出席し「おことば」を述べた[71]。
- 2011年(平成23年)3月11日発生の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)については前述のように、異例の「ビデオメッセージ」を全日本国民向けに送ったほか、各地の避難所を皇后美智子と共に巡幸啓している[72]。
- 2013年(平成25年)4月15日、即位後初めて定例の静養や公的行事ではない1泊2日の私的旅行として皇后美智子と共に長野県千曲市にある「あんずの里」に行幸啓した[73]。同年7月には福島県に行幸した。その後、年2回程度私的旅行が行われている。2014年(平成26年)5月には栃木県渡良瀬遊水地など、同年9月には青森県八戸市、2015年(平成27年)6月には宮城県刈田郡蔵王町の北原尾[74]、同年7月には福島県の復興公営住宅、2016年(平成28年)11月には愛知県入鹿池[75]、2017年(平成29年)9月には埼玉県日高市の高麗神社、渋沢栄一生地などを巡幸している[76]。
-
2005年(平成17年)12月23日、東京都千代田区・皇居での天皇誕生日一般参賀にて
-
2010年(平成22年)1月2日、東京都千代田区・皇居における国民へ向かって新年一般参賀での「お言葉」
人物に関するもの
- 高校生時代のエピソードとして、「銀ブラ事件」が有名である。学習院高等科3年の試験が終わった日、学友の橋本明、千家崇彦と3人で周りの人間を出し抜き、東京・銀座の町をぶらついた。高級喫茶店「花馬車」で橋本の交際関係であった女性と合流し、皆で所持金を出し合い、一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンバン」でアップルパイと紅茶を楽しんだが、ほどなく発見される。連れ出した学友は、警察と皇室関係者に厳しく叱責されたという。
- 上述の銀ブラをはじめとする高等科時代のエピソードを基に、同級生だった藤島泰輔が皇太子に捧げて書いた[77]小説が『孤獨の人』(1956年)である。同作は発売前からマスコミに取り上げられ、映画化もされた。一方、戦後の日本において、戦争のイメージがなく、若く清新な「新生日本」にふさわしいともてはやされた皇太子の実像が、学友たちの権力争いの道具となり宮内庁職員らの窮屈な支配に諦めを抱く存在として描かれたことで、その人気は結婚によるミッチー・ブームが起こるまで陰りを見せた。背景には逆コースと呼ばれた民主化に逆行する風潮への批判があり、日本社会党の茜ケ久保重光と江田三郎は国会でこの小説を取り上げ、枠に嵌められる皇太子の状況への同情と落胆を語り、宮内庁への批判を展開した[78]。
- 経済学者の関根友彦元ヨーク大学教授は学習院初等科からの同級生で、特に中等科時代に親しく交流したという[79][80]。
- 靖国神社には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は親拝していない。一方で靖国神社の元宮司である南部利昭には、宮司就任前に「靖国のこと、頼みます」と声をかけている[注釈 10]。
- 「お好きなテレビ番組は?」との質問については、「各局の競争が激しいので…」などと回答するのが普通である(これは父・昭和天皇も同様であった)。ただし、皇太子時代には好きなテレビ番組として『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)を挙げたことがある。他に即位後の園遊会で水木しげるに「『ゲゲゲの女房』を見ましたが、絵をかくのは大変そうですね」と声をかけた[81]。
- 皇居がある千代田区は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う計画停電の対象外地域であったが、「国民と困難を分かち合いたい」とする天皇の意向により、皇居は停電時間に合わせ電源を落とした[82]。計画停電の実施が終了した後も計画停電発表終了まではこの「自主停電」は続けたという[83]。
- 2011年7月29日から8月10日、アメリカの調査会社GfKとAP通信が、日本全国の成人1000人を対象に電話で行った世論調査では、各国の元首や首脳についての設問で、天皇は「好き」を70%獲得し、オバマ米国大統領(同41%)などを大幅に超えて1位であった[84]。
乗り物に関すること
- 1953年、皇太子は葉山において学友の所有するアルファロメオ・1900を運転している。この車は、当時最先端の高性能車であった。このドライブでは、車の所有者の学友が助手席に座り、護衛または侍従が後部座席に収まり、皇太子が実際に運転している[85]。
- 2018年(平成30年)時点、プライベートで運転するのは1991年(平成3年)製のグレーのホンダ・インテグラ(4ドア仕様・MT)[86]。皇居内を移動する際に運転しており、現在は一般公道を走行することはないという[87]。法令に基づき、2007年(平成19年)以降3年ごとに高齢者講習を受講の上運転免許を更新しているが、2016年の更新を最後にする意向である[88]。
- カナダ空軍のビクトリア基地において軍用機のコクピットに座ったこともあり、写真が残されている。またビクトリアからバンクーバーまではこの空軍機で移動した。同機の機長だったデーブ・アダムソン中佐とは2009年(平成21年)のカナダ訪問の際に再会し、「あなたのことはよく覚えています」と旧交を温めていた[89]。
日産自動車(主に旧プリンス自動車)とのかかわり
成婚前にはしばしば、成婚後もしばらくの間、愛車でドライブを楽しんでおり、国産車では1954年に献上されたプリンス自動車(現:日産自動車)のプリンス・セダン(後年、日産自動車に返還され現存)以降、 天皇に即位後に乗り換えたホンダ・インテグラまで、通算9台のプリンス車を用いた。その中にはプリンスの試作1900ccエンジンを先行搭載した初代スカイラインや、高級車「グランド・グロリア」の後席スペースを100mm延長した特注車も含まれていた。なおこのグロリアのストレッチ仕様車は、標準車のスペースでは「私はよいのですが美智子が…」という皇太子妃への気配りにより特別生産された[90]。
- その他、プリンスが納入した公用車については、同様に妃への気配りから「サイドシル(車体側面・ドア部分の敷居)をもっと低くできないか」(乗り降りをしやすくするため)という質問も出している。プリンス側では、後席シート座面を低く下げ、天井内張りの厚みを薄くすることで乗り降りのしやすさを改善した[91]。
発言
- 「さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。このときに当たり、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします」
- 「日本国憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です」
- 「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」
- 2001年(平成13年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて[94]。
- この発言は内外の興味を強く引き、韓国においても大々的に報道された。桓武天皇#天皇明仁の発言も参照。
- 「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」
- 「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」
- 「皇太子の記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました」- 人格否定発言を受けて
- 2004年(平成16年)、誕生日に際する文書回答より[96]。
- 「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います」
- 「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、(中略)私の皇室に対する考え方は、天皇および皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです」
- 以上、2005年(平成17年)12月19日、誕生日に際する記者会見にて[97]。
- 「これからの日本の教育の在り方については関係者が十分に議論を尽くして、日本の人々が自分の国と自分の国の人々を大切にしながら世界の国の人々の幸せに心を寄せていくように育っていくことを願っています。戦前のような状況になるのではないかということですが、戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、総理または総理経験者4人(濱口雄幸、犬養毅、高橋是清、斎藤実)が亡くなり、さらに総理1人(岡田啓介)がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています。」- 在日外国報道協会代表質問「教育基本法改正に伴い愛国心の表現を盛り込むことが、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」に対して。
- 「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです。(中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています」
- 2006年(平成18年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて[99]。
- 「皇太子妃が病気の今、家族が皆で、支えていくのは当然のことです。私も、皇后も、将来重い立場に立つ皇太子、皇太子妃の健康を願いつつ、2人の力になっていきたいと願っています」
- 2008年(平成20年)12月23日、誕生日に際する文書回答にて[100]。
- 「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」
- 「2人のそれぞれの在り方についての話し合いも含め、何でも2人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します。(中略)結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。」
- 以上、2009年(平成21年)4月8日、結婚満50年に際する記者会見にて[101]。
- 「今日の世界は決して平和な状態ではあるとはいえません。明るい面として考えられるのは、世界がより透明化し、多くの人々が事実関係が共有できるようになったことです。拉致の問題も、それが行われた当時は今と違って、日本人皆が拉致を事実として認識することはありませんでした。このため拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念でした。それぞれの家族の苦しみはいかばかりであったかと思います」
- 「皇位継承の制度にかかわることについては、国会の論議にゆだねるべきであると思いますが、将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と思います。2人は長年私と共に過ごしており、私を支えてくれました。天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています」
- 以上、2009年(平成21年)11月11日、即位20年に際する記者会見にて[102]。
- 「(公務の)負担の軽減は、公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので、十分に考えてしなくてはいけません。今のところしばらくはこのままでいきたいと考えています。私が病気になったときには、昨年のように皇太子と秋篠宮が代わりを務めてくれますから、その点は何も心配はなく、心強く思っています」
- 2012年(平成24年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて[103]。
- 「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」
- 「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています」
- 以上、2013年(平成25年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて[104]
- 「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
- 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります」
- 2016年(平成28年)8月8日、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」にて[105]。
- 「明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また,昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います」
- 2018年(平成30年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて[106]
- 「今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました。ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。即位から30年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」
病歴
- 2003年(平成15年)1月に、前立腺がんの手術を受けて回復した[108]。
- 2008年(平成20年)12月に、不整脈を発症したが回復した[109][110]。
- 2011年(平成23年)11月に、気管支炎と肺炎の治療を受けて回復した[111]。
- 2012年(平成24年)3月に、心臓冠動脈のバイパス手術を受けて回復した[112]。
栄典
日本の栄典
- - 大勲位菊花章頸飾
- - 勲一等旭日桐花大綬章
- - 瑞宝大綬章
- - 文化勲章
- - 日本赤十字社特別社員
- - 日本赤十字社金色有功章
外国の栄典
系譜
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
124 昭和天皇 | 秩父宮雍仁親王 | 高松宮宣仁親王 | 三笠宮崇仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
125 上皇 | 常陸宮正仁親王 | 寬仁親王 | 桂宮宜仁親王 | 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
126 今上天皇 | 秋篠宮文仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明仁の系譜 |
---|
上皇 | 父: 昭和天皇 |
祖父: 大正天皇 |
曾祖父: 明治天皇 |
曾祖母: 柳原愛子 | |||
祖母: 貞明皇后 |
曾祖父: 九条道孝 | ||
曾祖母: 野間幾子 | |||
母: 香淳皇后 |
祖父: 邦彦王(久邇宮) |
曾祖父: 朝彦親王(久邇宮) | |
曾祖母: 泉萬喜子 | |||
祖母: 俔子 |
曾祖父: 島津忠義 | ||
曾祖母: 山崎寿満子 |
- 高祖父:孝明天皇(第121代天皇)
- 高祖母:中山慶子(典侍、明治天皇生母)
- 曾祖父:明治天皇(第122代天皇)
- 曾祖母:柳原愛子(正二位・典侍、大正天皇生母)
- 祖父:大正天皇(第123代天皇)
- 祖母:貞明皇后(華族・九条道孝公爵第四女子)
- 父:昭和天皇(第124代天皇)
- 母:香淳皇后(久邇宮邦彦王第一王女)
- 伯父:久邇宮朝融王(第3代久邇宮家当主)
- 伯父:久邇邦久(侯爵)
- 叔母:三条西信子(三条西公正伯爵夫人)
- 叔母:大谷智子(大谷光暢伯爵夫人)
- 叔父:東伏見慈洽(伯爵、天台宗青蓮院門跡門主)
上皇の男系直系
- 皇子皇孫は皇位継承権を有する男系男子のみ記載。
- 代数は皇統譜による。
- 北朝は歴代に算入していない。
1 神武天皇 | 2 綏靖天皇 | 3 安寧天皇 | 4 懿徳天皇 | 5 孝昭天皇 | 6 孝安天皇 | 7 孝靈天皇 | 8 孝元天皇 | 9 開化天皇 | 10 崇神天皇 |
11 垂仁天皇 | 12 景行天皇 | 日本武尊 | 14 仲哀天皇 | 15 応神天皇 | 稚野毛二派皇子 | 意富富杼王 | 乎非王 | 彦主人王 | 26 継体天皇 |
29 欽明天皇 | 30 敏達天皇 | 押坂彦人 大兄皇子 |
34 舒明天皇 | 38 天智天皇 | 志貴皇子 | 49 光仁天皇 | 50 桓武天皇 | 52 嵯峨天皇 | 54 仁明天皇 |
58 光孝天皇 | 59 宇多天皇 | 60 醍醐天皇 | 62 村上天皇 | 64 円融天皇 | 66 一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | 71 後三条天皇 | 72 白河天皇 | 73 堀河天皇 |
74 鳥羽天皇 | 77 後白河天皇 | 80 高倉天皇 | 82 後鳥羽天皇 | 83 土御門天皇 | 88 後嵯峨天皇 | 89 後深草天皇 | 92 伏見天皇 | 93 後伏見天皇 | 北1 光厳天皇 |
北3 崇光天皇 | 栄仁親王(伏見宮) | 貞成親王(伏見宮) | 102 後花園天皇 | 103 後土御門天皇 | 104 後柏原天皇 | 105 後奈良天皇 | 106 正親町天皇 | 誠仁親王 | 107 後陽成天皇 |
108 後水尾天皇 | 112 霊元天皇 | 113 東山天皇 | 直仁親王(閑院宮) | 典仁親王(閑院宮) | 119 光格天皇 | 120 仁孝天皇 | 121 孝明天皇 | 122 明治天皇 | 123 大正天皇 |
124 昭和天皇 | 125 上皇 |
后妃
身位 | 名 | 生年月日 | 結婚の儀 | 出身 | 子女 | |
---|---|---|---|---|---|---|
上皇后 | 1934年(昭和9年) 10月20日(90歳) |
1959年(昭和34年) 4月10日/ 65年268日 |
正田家 |
皇子孫
皇子女
妻の上皇后美智子との間に、2男1女の3子がいる。
諱 | 誕生時の身位 | 生年月日 | 御称号 | 続柄 | 現在[129] | |
---|---|---|---|---|---|---|
親王 | 昭和35年(1960年) 2月23日(64歳) |
第1皇男子(第1子) | 今上天皇(第126代天皇) 小和田雅子と結婚。后妃:皇后雅子 子女:1女(1人)。 | |||
親王 | 昭和40年(1965年) 11月30日(59歳) |
第2皇男子(第2子) | 秋篠宮文仁親王 秋篠宮家(あきしののみや)当主かつ皇嗣(皇位継承順位第1位) 川嶋紀子と結婚。后妃:(皇嗣妃) 文仁親王妃紀子 子女:1男2女(3人)。 | |||
内親王 | 昭和44年(1969年) 4月18日(55歳) |
第1皇女子(第3子) | 黒田慶樹と結婚。 黒田家に降嫁し皇籍離脱[130]以後、黒田清子(姓読み:くろだ)。 子女:無し。 |
皇孫
1男3女の孫がいる。
諱および身位 | 生年月日 | 御称号 | 続柄 | |
---|---|---|---|---|
ファイル:Princess Aiko.jpg | 平成13年(2001年) 12月1日(23歳) |
今上天皇第1皇女子(第1子) | ||
平成3年(1991年) 10月23日(33歳) |
皇嗣秋篠宮文仁親王第1女子(第1子) | |||
平成6年(1994年) 12月29日(30歳) |
皇嗣秋篠宮文仁親王第2女子(第2子) | |||
平成18年(2006年) 9月6日(18歳) |
皇嗣秋篠宮文仁親王第1男子(第3子) 皇位継承順位第2位 |
※順序は兄弟姉妹間長子を優先。
世界各国訪問歴
年 | 出国月日 | 帰国月日 | 訪問地 | 同行者 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1953 | 3月30日 | 10月12日 | イギリス アメリカ合衆国(立寄り) カナダ(立寄り) フランス(立寄り) スペイン(立寄り) モナコ(立寄り) スイス(立寄り) (立寄りした国は合計13国カ国) |
英女王戴冠式参列、天皇名代 | |
1960 | 9月22日 | 10月 | 7日アメリカ合衆国 | 皇太子妃 | 日米修好100年記念 |
11月12日 | 12月 | 9日 イラン エチオピア インド ネパール タイ(立寄り) |
皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1962 | 1月22日 | 2月10日 | パキスタン インドネシア |
皇太子妃 | 国際親善(名代) |
11月 | 5日11月10日 | フィリピン | 皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1964 | 5月10日 | 5月17日 | メキシコ アメリカ合衆国(立寄り) |
皇太子妃 | 国際親善(名代) |
12月14日 | 12月21日 | タイ | 皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1967 | 5月 9日 | 5月31日 | ペルー アルゼンチン ブラジル |
皇太子妃 | 国際親善(名代) |
1970 | 2月19日 | 2月28日 | マレーシア(天皇名代) シンガポール |
皇太子妃 | 国際親善 |
1971 | 6月 3日 | 6月12日 | アフガニスタン イラン(立寄り) タイ(立寄り) |
皇太子妃 | 国際親善(名代) |
1973 | 5月 6日 | 5月23日 | オーストラリア ニュージーランド |
皇太子妃 | 国際親善 |
10月11日 | 10月22日 | スペイン アメリカ合衆国(立寄り) ベルギー(立寄り) |
皇太子妃 | 国際親善 | |
1975 | 2月20日 | 2月28日 | ネパール バングラデシュ(立寄り) インド(立寄り) |
皇太子妃 | ネパール国王戴冠式参列 |
1976 | 6月 8日 | 6月25日 | ヨルダン ユーゴスラビア(名代) イギリス タイ(立寄り) |
皇太子妃 | 国際親善 |
1978 | 6月12日 | 6月27日 | ブラジル パラグアイ アメリカ合衆国(立寄り) |
皇太子妃 | ブラジル移住70周年記念式典参列 |
1979 | 10月 | 5日10月14日 | ルーマニア ブルガリア(名代) オランダ(立寄り) ベルギー(立寄り) |
皇太子妃 | 国際親善 |
1981 | 2月27日 | 3月 7日 | サウジアラビア スリランカ タイ(立寄り) シンガポール(立寄り) |
皇太子妃 | 国際親善 |
7月26日 | 8月 2日 | イギリス ベルギー(立寄り) |
皇太子妃 | 英皇太子結婚参列 差遣 | |
1983 | 3月10日 | 3月25日 | ザンビア タンザニア ケニア(名代) ルクセンブルク(立寄り) ベルギー(立寄り) タイ(立寄り) |
皇太子妃 | 国際親善 |
1984 | 2月25日 | 3月 8日 | ザイール セネガル(名代) ベルギー(立寄り) イギリス(立寄り) |
皇太子妃 | 国際親善 |
1985 | 2月23日 | 3月 9日 | スペイン アイルランド(名代) ポーランド(立寄り) イギリス(立寄り) |
皇太子妃 | 国際親善 |
6月 1日 | 6月15日 | スウェーデン デンマーク ノルウェー(名代) フィンランド |
皇太子妃 | 国際親善 | |
1987 | 10月 | 3日10月10日 | アメリカ合衆国 | 皇太子妃 | 国際親善 |
年 | 出国 | 帰国 | 訪問地 | 同行 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1991年 (平成3) |
9月26日 | 10月 | 6日 タイ マレーシア インドネシア |
皇后 | 国際親善 各国からの招待 |
1992年 (平成4) |
10月23日 | 10月28日 | 中国 | 皇后 | 国際親善 中国からの招待 |
1993年 (平成5) |
8月 6日 | 8月 9日 | ベルギー | 皇后 | 国王ボードゥアン1世の国葬参列 |
9月 3日 | 9月19日 | イタリア ベルギー ドイツ バチカン(立寄り) |
皇后 | 国際親善 各国からの招待 | |
1994年 (平成6) |
6月10日 | 6月26日 | アメリカ合衆国 | 皇后 | 国際親善 アメリカからの招待 |
10月 | 2日10月14日 | フランス スペイン ドイツ(立寄り) |
皇后 | 国際親善 両国からの招待 | |
1997年 (平成9) |
5月30日 | 6月13日 | ブラジル アルゼンチン ルクセンブルク(立寄り) アメリカ合衆国(立寄り) |
皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
1998年 (平成10) |
5月23日 | 6月 5日 | イギリス デンマーク ポーランド(立寄り) |
皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
2000年 (平成12) |
5月20日 | 6月 1日 | オランダ スウェーデン スイス(立寄り) フィンランド(立寄り) |
皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
2002年 (平成14) |
7月 6日 | 7月20日 | ポーランド ハンガリー チェコ(立寄り) オーストリア(立寄り) |
皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
2005年 (平成17) |
5月 7日 | 5月14日 | ノルウェー アイルランド(立寄り) |
皇后 | 国際親善 ノルウェーからの招待 |
6月27日 | 6月28日 | サイパン島 | 皇后 | 平和祈念 戦没者慰霊 | |
2006年 (平成18) |
6月 8日 | 6月15日 | シンガポール タイ マレーシア(立寄り) |
皇后 | 国際親善 シンガポールからの招待 タイ国王即位60年記念式典臨席 |
2007年 (平成19) |
5月21日 | 5月30日 | スウェーデン エストニア ラトビア リトアニア イギリス |
皇后 | 国際親善 各国からの招待[132] |
2009年 (平成21) |
7月 3日 | 7月17日 | カナダ ハワイ |
皇后 | 国際親善 カナダからの招待 ハワイ州皇太子明仁親王奨学金財団50周年記念行事[133] |
2012年 (平成24) |
5月16日 | 5月20日 | イギリス | 皇后 | 女王エリザベス2世即位60周年の記念午餐会招待[134] |
2013年 (平成25) |
11月30日 | 12月 | 6日インド | 皇后 | 国際親善 インド政府からの招待[135] |
2015年 (平成27) |
4月 8日 | 4月 9日 | パラオ | 皇后 | 戦没者慰霊 平和祈念 パラオ国の招請[136] |
2016年 (平成28) |
1月27日 | 1月30日 | フィリピン | 皇后 | 国際親善 フィリピン政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念[137] |
2017年 (平成29) |
2月28日 | 3月 6日 | ベトナム タイ(立寄り) |
皇后 | 国際親善 ベトナム政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念 タイ国前国王プミポン・アドゥンヤデートの弔問[138] |
著書
- 『ともしび 皇太子同妃両殿下御歌集』宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年(昭和61年)12月 ISBN 9784573143012
- 『道 平成元年〜平成10年 天皇陛下御即位十年記念記録集』宮内庁編、日本放送出版協会、1999年(平成11年)10月 / 新装版2009年(平成22年)9月、ISBN 4140813903
- 『道 平成11年〜平成20年 天皇陛下御即位二十年記念記録集』宮内庁編、日本放送出版協会、2009年(平成22年)9月、ISBN 414081389X
- 『道 平成21年〜平成31年 天皇陛下御即位三十年記念記録集』宮内庁編、NHK出版、2019年(平成31年)3月、ISBN 4140817755
- 『天皇陛下 科学を語る』宮内庁侍従職監修、朝日新聞出版、2009年10月 ISBN 4023304522
- 『日本産魚類大図鑑=The fishes of the Japanese archipelago』 東海大学出版会、1984年(昭和59年)12月
- ISBN 4-486-05053-3(図版)
- ISBN 4-486-05053-3(解説)
- ISBN 4-486-05054-1 (Text)
- 論文『ハゼ科魚類の進化』を所収(他に第2版で、ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、益田一ほか編。
- 『日本の淡水魚』 山と溪谷社、1989年(平成元年)11月、ISBN 4-635-09021-3
- (チチブ類の項目を執筆)、川那部浩哉、水野信彦編・監修
- 『日本産魚類検索 全種の同定』 東海大学出版会、1993年(平成5年)10月 / 第2版2000年(平成12年)12月 / 第3版2013年(平成25年)3月、ISBN 4486018044
- (ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、中坊徹次編
脚注
注釈
- ^ 「元号を改める政令」は翌8日より施行。
- ^ 代数は皇統譜による。
- ^ 天皇の譲位は1817年 (文化14年)の光格天皇以来202年ぶりのことである。
- ^ 8人10代にわたり実在した女性天皇(女帝)の一人で、推古天皇に次ぐ2人目の女性天皇。
- ^ 後者は2006年7月21日、DVDが発売されている(ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントより、定価5250円)。開会式で宣言を読み上げる姿はテレビ中継もされ(7月19日、NHK総合テレビ)、後年ドキュメンタリー番組にもそのまま使用された(『映像でつづる復帰30周年』)
- ^ 江戸時代後期にあたる1817年5月7日(旧暦:文化14年3月22日)の光格天皇から仁孝天皇への譲位以来、天皇譲位は例がなかった
- ^ 学習院の先輩であった三島は、皇太子外遊にあたり「愉しき御航海を――皇太子殿下へ」を書き、同船についても触れている[61]。
- ^ 『郵趣』2009年4月号によれば、宮内庁から服装の変更申し出により、原案から皇太子は背広からモーニング、皇太子妃は洋装から和服に変更されている。
- ^ 実物と同様の物品が逓信総合博物館で所蔵されている。
- ^ 『週刊朝日』2004年12月3日。ただし、南部は「どうやら、久邇さまが陛下にお願いしていたようです」と『週刊朝日』に述べており、天皇の発言は南部を宮司に推挙した久邇邦昭(天皇の従兄)からの依頼によるものとしている。
出典
- ^ 吉田 伸弥『天皇への道 明仁陛下の昭和史』(1991年、読売新聞社)p277
- ^ 吉田 伸弥『天皇への道 明仁陛下の昭和史』(1991年、読売新聞社)p316-317
- ^ 瀬畑 源『象徴天皇制の形成過程:宮内庁とマスメディアの関係を中心に』第II部第4章p141論文掲載ページ
- ^ s:親王御名命
- ^ a b “皇室の系図-皇室とっておき”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2016年1月29日閲覧。
- ^ 天皇の退位等に関する皇室典範特例法第三条第二項「上皇の敬称は、陛下とする。」
- ^ 2男5女のうち第5子
- ^ 1979年:元号法(昭和54年法律第43号)2項「元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。」
- ^ 小川真由美 (2019年4月30日). “政府、皇室の伝統と憲法との整合性考慮(『産経新聞』)”. gooニュース. NTTレゾナント. 2019年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月2日閲覧。
- ^ “「令和」幕開け 新天皇陛下が即位”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2019年5月1日) 2019年5月27日閲覧。
- ^ 皇室典範第二十二條 天皇、皇太子及び皇太孫の成年は、十八年とする。
- ^ 1989年:昭和64年1月7日内閣告示第1号 天皇陛下崩御に関する件(竹下改造内閣)
- ^ 皇室典範第四條 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。
- ^ 昭和64年1月7日内閣告示第2号 皇太子明仁親王殿下が皇位を継承された件 (竹下改造内閣)
- ^ 宮内庁. “天皇皇后両陛下のご活動”. 2012年6月11日閲覧。
- ^ 宮内庁. “宮中祭祀”. 2009年6月11日閲覧。
- ^ “秋篠宮ご夫妻、日赤で高齢者とご交流 両陛下の施設ご訪問を初めて引き継がれる”. 産経ニュース (産業経済新聞社). (2015年9月15日) 2015年12月9日閲覧。
- ^ “秋篠宮さま、50歳誕生日で質問とご回答”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社): p. 2. (2015年11月30日). オリジナルの2015年12月12日時点におけるアーカイブ。 2015年12月9日閲覧。
- ^ 新しい皇室の姿|平成から令和へ 新時代の幕開け NHK NEWS WEB
- ^ 女性皇族も含めた存命中の最年長の皇族は崇仁親王妃百合子。
- ^ 【なっとく科学】皇居の自然(1)皇居に残る豊かな生態系『読売新聞』夕刊2018年10月18日(3面)。
- ^ “Early Cultivators of Science in Japan”. Science 258 (5082): 578. (October 1992). doi:10.1126/science.1411568. PMID 1411568.
- ^ “Evolutionary aspects of gobioid fishes based upon a phylogenetic analysis of mitochondrial cytochrome B genes”. Gene 259 (1-2): 5-15. (December 2000). doi:10.1016/S0378-1119(00)00488-1. PMID 11163956.※所属は、英:Imperial Residence=「皇居」となっている。なお、共著者に自身の次男で山階鳥類研究所総裁の秋篠宮文仁親王の名前もある。
- ^ “Evolution of Pacific Ocean and the Sea of Japan populations of the gobiid species, Pterogobius elapoides and Pterogobius zonoleucus, based on molecular and morphological analyses”. Gene 427 (1-2): 7-18. (December 2008). doi:10.1016/j.gene.2008.09.026. PMID 18848978.文仁親王の所属は総合研究大学院大学となっている。
- ^ “Speciation of two gobioid species, Pterogobius elapoides and Pterogobius zonoleucus revealed by multi-locus nuclear and mitochondrial DNA analyses”. Gene 576 (2-1): 593–602. (February 2016). doi:10.1016/j.gene.2015.10.014. PMID 26475939.文仁親王の所属は、東京大学総合研究博物館および東京農業大学となっている。
- ^ “Platygobiopsis akihito, new genus and species of gobiid fish from Flores, Indonesia”. Japanese Journal of Ichihyology 38 (4): 349-355. (1992). オリジナルの2012年3月16日時点におけるアーカイブ。 .
- ^ “Exyrias akihito, A New Species of Coral-Reef Goby (Gobiidae) from the Western Pacific”. The Raffles Bulletin of Zoology 53 (2): 231-235. (2005). オリジナルの2006年10月16日時点におけるアーカイブ。 .
- ^ Akihito vanuatu Watson, Keith & Marquet, 2007 FishBase
- ^ 天皇陛下と中国、ハゼ研究の縁 交流40年 文献送り、分類法を助言朝日新聞デジタル(2019年3月17日)2019年9月5日閲覧。
- ^ 楠田實『楠田實日記―佐藤栄作総理首席秘書官の二〇〇〇日』中央公論新社、2001年、635頁(1971年8月26日の条)。ISBN 978-4120031601。
- ^ Meguro=目黒勝介
- ^ 河原敏明 『良子皇太后』 ネスコ、1993年。ISBN 978-4890368464。
- ^ “GHQを驚嘆させた今上天皇の若き日々 マッカーサーの元儀仗兵が回顧 〈週刊朝日〉”. AERA dot. (2019年4月19日). 2020年1月11日閲覧。
- ^ "天皇 運命の物語 (1) -敗戦国の皇太子". 平成から令和へ. 23 December 2018. NHK. 2020年3月23日閲覧。
- ^ 「皇太子さまが馬術部主将に」『日本経済新聞』昭和25年10月21日3面
- ^ 「皇太子さま東北旅行へ」『朝日新聞』昭和26年10月22日4面
- ^ 河原敏明『天皇家の50年―激動の昭和皇族史』p.160-161(1975年)
- ^ 天皇陛下、結核感染歴を公表[リンク切れ]『毎日新聞』 2009年3月18日閲覧
- ^ 宮内庁 天皇陛下のおことば 財団法人結核予防会創立70周年記念第60回結核予防全国大会 平成21年3月18日(水)(ホテルニューオータニ) 2009年5月21日閲覧
- ^ 警察庁. “『昭和51年 警察白書』第7章 公安の維持”. 2009年12月5日閲覧。
- ^ 日本書道美術館『琉歌 - 南島のうたの心』1992, 教育書道出版協会、pp12-13, pp16-17.
- ^ 即位当時は歴代2位。次代の徳仁が59歳で即位したため3位となった。
- ^ 主な式典におけるおことば(平成元年):天皇陛下のおことば - 宮内庁
- ^ 『人民画報』の日本語ホームページ[1] アーカイブ 2016年3月4日 - ウェイバックマシン。
- ^ “天皇陛下「中国訪問はよかった」 渦巻く思惑、親善貫く” (日本語). 『朝日新聞』. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2017年10月30日) 2017年12月23日閲覧。
- ^ “「なぜ官僚の私が…」天皇訪中、大使は保守派を説得した”. 朝日新聞. (2018年12月22日) 2019年9月12日閲覧。
- ^ 銭其琛著濱本良一訳『銭其琛回顧録:中国外交20年の証言』3,p129、東洋書院、2006年
- ^ 東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば - 宮内庁
- ^ a b c “天皇陛下 「生前退位」の意向示される”. NHK NEWS. (2016年7月13日). オリジナルの2016年7月13日時点におけるアーカイブ。 2016年7月14日閲覧。
- ^ a b c “天皇陛下「生前退位」意向 数年内に譲位”. 『毎日新聞』. (2016年7月13日) 2016年7月14日閲覧。
- ^ “「そうした事実一切ない」=宮内庁次長は報道否定-生前退位” (2016年7月13日). 2016年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月14日閲覧。
- ^ “象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)”. 宮内庁. 2016年8月8日閲覧。
- ^ “Message from His Majesty The Emperor(August 8, 2016)”. The Imperial Household Agency. 2016年8月8日閲覧。
- ^ 『新元号の選定について』(プレスリリース)内閣官房、2019年4月1日。オリジナルの2019年4月2日時点におけるアーカイブ 。2019年4月2日閲覧。
- ^ 天皇陛下退位日、19年4月30日決定 翌日から新元号
- ^ 内閣総理大臣 安倍晋三「号外特第9号」(PDF)『官報』、国立印刷局、2019年4月1日、 オリジナルの2019年4月1日時点におけるアーカイブ、2019年4月2日閲覧。
- ^ “焦るカレンダー業界 天皇退位で元号変更”. 『日本経済新聞』 (2017年6月14日). 2018年8月3日閲覧。
- ^ “新元号公表、改元1カ月前に システム改修対応促す”. 『日本経済新聞』 (2018年5月17日). 2018年8月3日閲覧。
- ^ “上皇さま、一時意識失う 検査では異常なし”. 『日本経済新聞』 (2020年1月30日). 2020年3月18日閲覧。
- ^ a b 高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます —記者会見全記録と人間天皇の軌跡』現代史出版会、1982年。ISBN 978-4198126346。
- ^ a b 三島由紀夫「愉しき御航海を――皇太子殿下へ」(発表誌未詳 1953年3月10日)。『亀は兎に追ひつくか』(村山書店、1956年10月)、28巻 & 2003-03, pp. 56–58
- ^ 三島由紀夫『アポロの杯』(朝日新聞社、1952年10月)。27巻 & 2003-02, pp. 507–641
- ^ エリザベス2世としてイギリス女王に即位したのは、前年の1952年2月6日。その年の4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効され、日本は独立回復してイギリスとの国交も正常化した。
- ^ 河原敏明『天皇家の50年』p.161
- ^ “天皇陛下のおことば 第27回全国豊かな海づくり大会 平成19年11月11日(日)(滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール)”. 主な式典におけるおことば(平成19年). 宮内庁. 2008年12月9日閲覧。
- ^ “天皇陛下のブルーギル「持ち帰り謝罪」発言 舞台裏を証言”. 京都新聞 (2019年4月26日). 2019年5月2日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b 紀宮さまの婚約によりにわかに関心を集めている 皇室の家計はどうなってるの? 北川邦弘 All About、2004年12月28日
- ^ MSN産経 (2008年9月8日). “両陛下が旧・山古志村をご視察”. 2008年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年12月9日閲覧。
- ^ 『読売新聞』2002年2月21日ほか
- ^ 日刊ベリタ2005年06月28日掲載 天皇、韓国・朝鮮人戦没者慰霊碑にも立ち寄り(追加)
- ^ “慶應義塾創立150年、天皇陛下お言葉全文”. 2009年5月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年12月11日閲覧。
- ^ “両陛下、避難所訪問…膝つきながら被災者励ます 社会 YOMIURI ONLINE(読売新聞)”. 2011年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年4月24日閲覧。
- ^ “宮内庁主導「両陛下初の私的なご旅行」 ご健康を考え苦心の企画”. 産経新聞. (2013年4月15日). オリジナルの2013年4月18日時点におけるアーカイブ。 2013年4月17日閲覧。
- ^ 両陛下、「北のパラオ」訪問 宮城・北原尾
- ^ (皇族方の素顔)両陛下、7回目の私的旅行
- ^ 両陛下、私的旅行で埼玉へ 渡来人ゆかりの神社を初参拝
- ^ 序文前の献辞。藤島, 泰輔『孤獨の人』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2012年。ISBN 978-4-00-602201-3。
- ^ この段落の出典。河西秀哉「解説」、藤島, 泰輔『孤獨の人』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2012年、235-241頁。ISBN 978-4-00-602201-3。
- ^ 「関根 友彦先生 の 退職記念号に 寄せ て」[リンク切れ]愛知学院大学
- ^ 「天皇陛下「退位」意向 驚きと共感と 公務多忙極め(その2止)」『毎日新聞』2016年7月14日
- ^ “【皇室ウイークリー】 (201)ゲゲゲの水木さん「天皇家はお化け好き」 愛子さまの俊足はクラス3位”. 産経ニュース (産業経済新聞社): p. 1. (2011年10月15日). オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。 2015年12月9日閲覧。
- ^ “両陛下、「自主停電」お続けに” (日本語). 産経新聞. (2011年3月24日). オリジナルの2011年3月26日時点におけるアーカイブ。 2011年4月25日閲覧。
- ^ 『女性セブン』2012年2月23日号
- ^ “日本人の7割強が「中国嫌い」 在日米軍基地「必要」が増えて6割に迫る”. J-CASTニュース. (2011年9月6日)
- ^ 小林彰太郞 『天皇の御料車』 89、90、91頁より。
- ^ “天皇陛下が免許更新。愛車のホンダ・インテグラで高齢者講習”. ハフィントン・ポスト (2016年1月8日). 2016年1月8日閲覧。
- ^ “天皇陛下の愛車は「キャブ車」だった!? いまなおご愛用される陛下の愛車に迫る”. 『ベストカー』. 講談社ビーシー (2017年11月9日). 2017年11月11日閲覧。
- ^ “天皇陛下が運転免許更新”. 時事通信社 (2016年1月8日). 2016年1月8日閲覧。
- ^ 両陛下、バンクーバーに移動 56年前のパイロットに見送られ、47NEWS(よんななニュース)、2009年7月13日
- ^ 小林彰太郞 『天皇の御料車』 96頁より。
- ^ 小林彰太郞 『天皇の御料車』 96頁より。
- ^ 宮内庁. “主な式典におけるおことば(平成2年)”. 2017年2月1日閲覧。
- ^ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成10年)”. 2009年12月5日閲覧。
- ^ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成13年)”. 2009年12月5日閲覧。
- ^ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成15年)”. 2009年12月5日閲覧。
- ^ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成16年)- 宮内記者会の質問に対する文書ご回答”. 2009年12月5日閲覧。
- ^ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成17年)”. 2009年12月5日閲覧。
- ^ 宮内庁. “シンガポール・タイご訪問に際し(平成18年) - 宮内庁”. 2009年12月5日閲覧。
- ^ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成18年)”. 2009年12月5日閲覧。
- ^ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成20年) - 宮内庁”. 2009年12月5日閲覧。
- ^ 宮内庁. “天皇皇后両陛下御結婚満50年に際して(平成21年)- 天皇皇后両陛下の記者会見”. 2009年12月5日閲覧。
- ^ 宮内庁. “天皇陛下ご即位二十年に際し(平成21年) - 宮内庁”. 2009年12月5日閲覧。
- ^ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成24年) - 宮内庁”. 2014年1月5日閲覧。
- ^ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成25年) - 宮内庁”. 2014年1月5日閲覧。
- ^ *象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日) - 宮内庁(動画閲覧可。メッセージを文字で読むこともできる)
- ^ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成30年) - 宮内庁”. 2014年1月5日閲覧。
- ^ 宮内庁. “退位礼正殿の儀の天皇陛下のおことば(平成31年4月30日)”. 2019年8月4日閲覧。
- ^ の中の皇室のご活動の中の天皇皇后両陛下のご日程の中の平成15年(1月〜3月)の中の天皇陛下のご入院・ご手術・ご退院について
- ^ 宮内庁の中の広報・報道の中の公表事項の中の今後の御公務及び宮中祭祀の進め方について
- ^ *宮内庁の中の広報・報道の中の公表事項の中の天皇陛下のご体調と天皇皇后両陛下のご日程について
- ^ 宮内庁の中の広報・報道の中の公表事項の中の天皇陛下のご体調について
- ^ 宮内庁の中の広報・報道の中の公表事項の中の天皇陛下のご検査の結果と今後の治療方針について
- ^ “Bundeskanzler Anfragebeantwortung” [Reply to a parliamentary question about the Decoration of Honour] (German). p. 1298. 27 January 2017閲覧。
- ^ – Hans Kejserlige Højhed Akihito Archived 29 May 2012 at the Wayback Machine.. borger.dk.
- ^ “Akihito”. Bearers of decorations. president. 18 January 2011閲覧。
- ^ Presidency, table Archived 10 May 2013 at the Wayback Machine. of recipients of the Order of the Three Stars since 2004.
- ^ Decree 1K-974
- ^ Omsa.org
- ^ Embassy of Japan in Nepal
- ^ Volkskrant, State visit of Netherlands in Japan, 1991, Group Photo アーカイブ 2016年3月4日 - ウェイバックマシン
- ^ The Royal Forums, State visit of Japan in Norway, May 2005, Photo
- ^ OPS.gov.ph Archived 17 August 2008 at the Wayback Machine.
- ^ Gov.ph Archived 13 October 2016 at the Wayback Machine.
- ^ “Cidadãos Estrangeiros Agraciados com Ordens Portuguesas” (ポルトガル語). presidencia.pt. 6 January 2011閲覧。
- ^ “Sahistory”. 2019年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月11日閲覧。
- ^ "Noblesse et Royautés" Archived 28 January 2016 at the Wayback Machine. (French), State visit of Spain in Japan, November 2008
- ^ Getty Images, State visit of Sweden in Japan, 03/2007, Group photo
- ^ “Media Centre >Buckingham Palace press releases >Appointment of a new Garter Knight”. Royal. 2008年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年9月28日閲覧。
- ^ 2019年(令和元年)5月1日現在。
- ^ 皇室典範(昭和二十二年法律第三号)「第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」の規定による。
- ^ 『皇族 天皇家の近現代史』 小田部雄次 中公新書 2011年
- ^ “ヨーロッパ諸国ご訪問(平成19年)”. 宮内庁 (2006年12月15日). 2015年7月14日閲覧。
- ^ “カナダ・アメリカ合衆国ご訪問(平成21年)”. 宮内庁 (2009年3月13日). 2015年7月14日閲覧。
- ^ “英国ご訪問(平成24年)”. 宮内庁 (2012年5月8日). 2015年7月14日閲覧。
- ^ 天皇皇后両陛下のインド御訪問(在インド日本国大使館ウェブサイト、2013年12月 6日閲覧)
- ^ “天皇皇后両陛下のパラオ国御訪問について”. 宮内庁. 2015年7月14日閲覧。
- ^ “天皇皇后両陛下のフィリピン国御訪問について”. 宮内庁. 2016年2月4日閲覧。
- ^ “天皇皇后両陛下のベトナム国御訪問について”. 宮内庁. 2017年4月30日閲覧。
参考文献
- 君塚直隆『女王陛下の外交戦略――エリザベス二世と「三つのサークル」』講談社、2008年3月。ISBN 978-4062145664。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集27巻 評論2』新潮社、2003年2月。ISBN 978-4106425677。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集28巻 評論3』新潮社、2003年3月。ISBN 978-4106425684。
- 『天皇の御料車』二玄社、1993年。(別冊CG)
- 『ビッグコミックススペシャル 明仁天皇物語』原作:永福一成 作画:古屋兎丸 監修:志波秀子 小学館 2019年 ISBN 978-4098603435
関連項目
- 宮内庁
- 象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば
- 明仁から徳仁への皇位継承
- 天皇の退位等に関する皇室典範特例法
- 上皇 (天皇退位特例法)
- ハゼ
- ティラピア
- ヒレナガニシキゴイ
- 郁沃会
- 小泉信三
- 学習まんが人物館 - 「平成の天皇」のタイトルで生誕から退位までの半生をコミカライズ化している、てしろぎたかしによる作画。
外部リンク
- 宮内庁ホームページ
- 皇太子さまご結婚 - NHKニュース(動画・静止画) NHKアーカイブス
- 天皇陛下即位の礼 - NHKニュース(動画・静止画) NHKアーカイブス
- NHK映画 寿ぐ御成婚 -NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブスカラー映像
明仁
| ||
日本の皇室 | ||
---|---|---|
先代 昭和天皇 (裕仁) |
皇位 第125代天皇 1989年1月7日 – 2019年4月30日 昭和64年1月7日 – 平成31年4月30日 |
次代 徳仁 |