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日本のキリスト教史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本キリスト教史から転送)

日本のキリスト教史(にほんのキリストきょうし)では、日本におけるキリスト教の歴史とその展開について述べる。

日本の宗教全般については「日本の宗教」を参照のこと。

世界のキリスト教の歴史については、「キリスト教の歴史」を参照のこと。

概要

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7世紀頃には、にキリスト教が伝わっていたことを示す大秦景教流行中国碑。中国の影響を強く受けた日本でも、キリスト教が何らかの形で伝えられていたという説はあるも、確証はない。
キリスト教の儀式を行う日本人と司祭
イエズス会士と日本人(1600年頃)
イエス・キリスト踏み絵

「日本にいつキリスト教が到来したか?」という日本の歴史上の問いに関しては、歴史的・学問的に見て証拠が多く、高等学校日本史文部科学省検定済教科書で、キリスト教の日本への最初の伝来となっているのは、「1549年カトリック教会修道会であるイエズス会フランシスコ・ザビエルによる布教」である[1][2][3][4][5][6][注釈 3]

戦国時代のさなかであり、当初は、ザビエルたちイエズス会の宣教師のみで、キリスト教の日本布教が開始された。

宣教師たちは、日本人と衝突を起こしながらも布教を続け、時の権力者織田信長の庇護を受けることにも成功し、順調に信者を増大させた。

しかし、豊臣秀吉安土桃山時代には、勢力を拡大したキリスト教徒が、神道仏教を迫害する事例が起こった[信頼性要検証][注釈 4][注釈 5]。他、ポルトガル商人によって日本人が奴隷貿易の商品となって海外に人身売買[注釈 6][注釈 13]ているという話も出ており[注釈 9][35][36][37]これを耳にした秀吉は、バテレン追放令を発布し、宣教を禁止した[信頼性要検証][注釈 14]秀吉が奴隷貿易に怒って追放令を発したとの説もあるが、最新の研究はこの説を否定している[39][注釈 18]

しかし、この時は南蛮貿易の利益が優先され、また下手に弾圧すると、九州征伐で平定したばかりの九州での反乱が考えられたため(当時の日本では、特に宣教開始の地である九州地方でキリシタン大名や信者(キリシタン)が多かった)、本格的な追放は行われず、宣教活動は半ば黙認されていた。だが、サン=フェリペ号事件が起きたころ、秀吉はキリスト教の本格的な弾圧を開始した。

やがて時代が移り、関ヶ原の戦いで勝利を収めて豊臣政権に代わって、天下統一を成し遂げた徳川家康江戸時代には、一時的に布教は認められた。しかし、その後は江戸幕府禁教令を出し、キリスト教を禁教として鎖国政策を採ったため、宣教師はもちろん、外国人も許可無しでは日本に入国できなくなった。

一方で檀家制度を整備して、キリスト教徒をあぶり出すため、庶民に踏み絵を踏ませた。その間、江戸時代の末まで、一部の信者たちが密かにキリスト教の信仰を伝えていくこととなった。この信者たちのことは「隠れキリシタン」と呼ばれている。

やがて明治維新が起き、江戸時代は終わった。明治には欧米列強と不平等条約を結ばされ、諸外国と対等になろうと必死であった明治政府は日本の近代化を図り、富国強兵殖産興業文明開化といった政治法律経済軍事など、西洋式に倣ってあらゆる分野の改革を断行した。その中には、国内でのキリスト教の布教・国民の信仰許可も含まれており、完全ではなかったものの信教の自由が法的にも保障された。

以後、キリスト教は再度日本での布教を開始していった。戦国時代ではカトリックが主であったが、明治以降はプロテスタント正教会など、各派が布教を行った。この時、クリスマスなどのいくつかの行事が日本に持ち込まれ、日本の文化の一つとして定着していった。

第二次世界大戦が始まると、「敵国の宗教」ともみなされたキリスト教も神道仏教など他の宗教と同じく、政府・大本営から戦争協力を命じられ、それを拒絶した宗教団体は、特別高等警察から徹底的に弾圧されることとなった。第二次世界大戦がと日本の敗北で終結すると、日本ではほぼ完全な形での信教の自由日本国憲法で(第20条)保障され、不自由のないキリスト教の布教が開始された。

英国国教会[49]ルーテル教会[50]フランシスコ・ザビエル崇敬し、命日の12月3日を記念日としている。日本二十六聖人についてもルーテル教会、英国国教会、聖公会は殉教した日の2月5日または翌日の2月6日を記念日としている[51]

現在、キリスト教の文化は(教会での結婚式クリスマスなどに象徴されるように)日本の文化に様々な影響を与えている。しかし、日本は公的機関が宗教の割合を詳しく調査していないので不明な点もあるが、キリスト教の信者そのものは、カトリック・プロテスタント・正教会の全てを合計しても、日本人全体の1%前後程度といわれている。文化庁の宗教年鑑では、信者数で1%となっている[52]。また、CIAの調査によると、日本のキリスト教徒の割合は1.5%ほどと推定されている[53]東京基督教大学の日本宣教リサーチによれば、2014年の日本のキリスト教人口は約104万人で、日本の全人口のうち、0.82%となっている[54]。2018年も信者数の概数は105万人で、対人口比で0.83%で、概数は変わっていない[55]

各国の宗教団体には普遍的に見られることだが、日本のキリスト教団体も、教義や伝道方法への考え方の相違、行動方針や政治的主張を巡っての対立があり、多くの諸団体に分かれている。それぞれの団体は、協力、もしくは対立関係にある。

戦国時代から安土桃山時代

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背景

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16世紀、ドイツ(当時の神聖ローマ帝国)でマルティン・ルターが起こした宗教改革が各国に波及しており、カトリックのお膝元のイタリアでさえ教皇の権威に陰りが見えていた。

カトリック教会は、権威を取り戻すために遠くアジアでの布教活動も視野に入れ始めていた。信者数が増えればプロテスタント勢力への牽制にもなる。また、金銭的な問題からも、アジア布教は急務と教会上層部は考えていた。当時は贖宥状(免償符)への風当たりが強くなったため、売り上げが急減しており、カトリックの財政事情に影響を及ぼしていた。アジアの有力者を信者にすれば、カトリック教会への莫大な献金が期待できた。なお、贖宥状の金銭での売買は、トリエント公会議の決議によって1563年に禁止されている。

このようなヨーロッパの宗教事情が、日本にイエズス会フランシスコ会の宣教師が入国する下地となっていった。

宣教師は、アジアへ活発に派遣されていった。まず、植民地化が進んでいたインド東南アジアに大量に送り込まれた。宣教師たちはさらに東にも目を向け、やがて極東にまで進出してくるようになった。

フランシスコ・ザビエルによる宣教活動

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イエズス会カトリック教会修道会)の創設メンバーの一人で、西インドで宣教活動に従事していたバスク人司祭フランシスコ・ザビエルマラッカで知り合った「ヤジロウ」(アンジロウとも)という日本人によって、日本のことを知り興味を抱いたことが、日本における宣教活動のきっかけとなった。農民の家の子供であるフェルナン・メンデス・ピント支那沿岸から颶風(ぐふう・熱帯気候 低気圧の旧称の風)に遭って薩摩の種子島に漂着したのであるが、そこからまたインドに渡ったりして、先に日本から伴って行った勘四郎に教理を教えて聖霊降臨日の大祝日に洗礼を受けさせた勘四郎と云う男(洗礼名、パウロ)と日本人の従者二人(ヨハネアントニオ)が日本人で最初の洗礼を受けたカトリック信者である[56]

1549年に始まるザビエルによる宣教活動が、日本へのキリスト教の最初の伝来で、これは歴史事実として教科書等に記述されて、一般にも広く知られている。

フランシスコ・ザビエルとイエズス会

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フランシスコ・ザビエル

ザビエルは、ヤジロウやコスメ・デ・トーレスジョアン・フェルナンデスらとともに8月15日(この日は「聖母マリアの被昇天の祭日」に当たり、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。)鹿児島に上陸し、2年3か月にわたって宣教活動を行った。

ザビエルは「日本国王」(天皇)の宣教許可を得ようと薩摩藩から平戸山口を経て京にたどりついたが、当時の京都は戦乱で寂れきっていた。天皇の権威も失墜しており、征夷大将軍も不在であったため、ザビエルは目的を果たせなかった。その後、言語や文化の違いなど多大な困難を乗り越えながら、徐々に日本人協力者を得ることができ、700名ほどに洗礼を授けた。各地を旅する中で、ザビエルは日本文化に中国が大きな影響を与えていると見抜き、中国宣教を志して広東の上川島に上陸したが、中国本土を目前にして病没した。

日本人を「もっとも優秀で理性的な国民」であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を依頼。それに応えて優秀な人材が積極的に日本に送られた。ザビエル以降、ガスパル・ヴィレラルイス・デ・アルメイダ豊後府内に日本最初の病院を開設)、ルイス・フロイス織田信長豊臣秀吉と会見し、『日本史』を記す)、ガスパール・コエリョなどのイエズス会員が日本に来航し、布教活動にあたった。

また、ザビエルは日本の首都に神学部法学部、ならびに医学部を兼ね備えたカトリック系の総合大学を建学するというを抱いていたが、彼の夢は1913年にイエズス会士によって上智大学東京に建学したことによって叶えられた(ただし、上智大学において医学部は設置されていない)。なお「上智」とは「ソフィア」の訳である。

日本での布教活動

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伊東マンショグレゴリウス13世の謁見の場面

日本では、他の植民地化されたアジア地域と異なりヨーロッパの影響が及ばず、本国の軍事的・経済的な支援が無かった。そのため、宣教師たちはまずその土地の大名などの有力武将と会見し、南蛮貿易の利益などを訴えながら布教の許可を得ると共に、安全の確保を図った。これ以前、1543年にはポルトガルの船が種子島に難破しており、火縄銃などが伝来していた。大名は、独自に南蛮人との交易の道を模索している真っ最中であり、その南蛮との窓口になりうるザビエルたちは、来日当初、大名たちから基本的に歓迎された。

布教の中心的な役割を果たしたのは、ロレンソ了斎籠手田氏・一部氏[57]・木村氏[58]末次平蔵の父親の末次興善[59]セバスチャン木村フランス語版)・ガスパル西トマス西らなど、肥前国平戸島生月島の者達であった。

この過程の中でキリスト教に触れた大名たちの中にも、洗礼を受けるものが現れた。彼らがキリスト教を信仰した理由は、キリスト教の理念に真剣に惹かれた者の他、単に南蛮との貿易をより円滑かつ大規模に行いたいため、または南蛮の文化や科学技術を習得する目的から信仰するようになった者もいた。彼らはキリシタン大名と呼ばれており、特に有名なものとして大友宗麟大村純忠有馬晴信結城忠正高山友照および高山右近親子、小西行長蒲生氏郷などがいる。

なお布教当初は、言葉の問題や、ヤジロウが聖書デウス(神)を「大日」と訳したこと、ザビエルらが仏教発祥の地であるインド天竺)から来たこと、日本人の間で「外来の宗教と言えば仏教」という考えが強かったことなど、複数の要因からキリスト教は「天竺教」「南蛮宗」などと呼ばれ、仏教の一派と誤解されることも多かった。布教当初、「知らずに仏教用語を使っていたことがキリスト教の正確な理解を妨げている」と認識したザビエルらは、すぐに仏教用語をできるだけ廃した「原語主義」を採用していくこととなる。

イエズス会の宣教方針に則り、日本における宣教方針は、日本の伝統文化と生活様式を尊重すること、日本人司祭司教を養成して日本の教会を司牧させることにおかれた。これは同時代のヨーロッパ人の、非ヨーロッパ文化に対する態度としては他に例をみないものであった。「適応主義」と呼ばれたこの指針によって日本での宣教は順調に進んだ。しかし日本人には司祭になる能力も適性もないと考えて軽視したフランシスコ・カブラルが布教長であった時代、ポルトガル人と日本人たちの間で溝が深まって宣教活動が停滞した。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

イエズス会本部からの巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは各地を回って実情を視察した上で、カブラルを解任してその方針を否定、従来行われていた適応主義の復活を命じた。ヴァリニャーノは日本人司祭の養成を急務とし、各地にセミナリオ(小神学校)とノビシャド(修練院)、コレジオ(大神学校)を設置した。これらの学校では当時の学術語であったラテン語、日本語および哲学・神学、自然科学、音楽、美術、演劇、体育と日本の古典を必修科目として学習させていた。これは人文主義的素養を重視したイエズス会の教育方針によるもので、イエズス会による教育は日本の明治以降の学校教育の先取りともいえるものであった。

さらにヴァリニャーノは将来の日本を担う少年たちに直接ヨーロッパを見せ、同時にヨーロッパに日本の存在をアピールしようと天正遣欧使節1582年 - 1590年)を企画。イエズス会員に伴われた四人の少年たち(伊東マンショ原マルティノ千々石ミゲル中浦ジュリアン)はヨーロッパ各地で熱狂的な歓迎を受け、使節の企画は大成功を収めた。

宣教師の受けた誹謗中傷

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宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある[60]。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。

司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした[61]

さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた[62]仏教説話集『沙石集』には生き肝をとする説話があり[63]仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダ等による西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である大村由己が執筆した『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。

社会的摩擦

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日本初の南蛮外科医である修道士ルイス・デ・アルメイダは、有馬晴純は領内にあった十字架を倒し、キリスト教徒が元の教えに強制改宗するように命じたと1564年十月十四日付、豊後発信の書簡で言及している[8]。1563年十一月七日頃[9]には横瀬浦港にある修道院が焼かれ、次いですぐにキリシタンの農民たちの家が焼かれたという[10]。1573年には深堀純賢によってトードス・オス・サントス教会が焼き払われた[11]。こうしてキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していたが[12]、日本におけるイエズス会の責任者であるヴァリニャーノは寺社の破壊を禁じていた[64][注釈 4]

豊臣秀吉とキリスト教

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日本二十六聖人の記念碑

織田信長は宣教師たちに対して好意的であった。信長の後を継いだ豊臣秀吉も基本的に信長の政策を継承し、宣教師に対して寛大であった。

しかし、秀吉の天下統一目前の1587年九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって多数の神社が焼かれ、仏教徒が迫害を受けている[信頼性要検証]ことを知り、また、日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていた[注釈 9][注釈 13][注釈 6][注釈 14][注釈 10]こと、そして最大の要因である長崎・浦上・茂木がイエズス会領となり且つ要塞化されている[注釈 19]ことなどを理由とし九州征伐完了直後、筑前箱崎において、秀吉に謁見するため長崎から来ていた布教責任者であるガスパール・コエリョに対し、バテレン追放令を発布し宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明した(この時、秀吉がバテレン追放令を発布した理由については、さまざまな説がある。詳細はバテレン追放令の項を参照)。

これに対してコエリョは、有馬晴信などキリシタン大名に秀吉と敵対するよう要請、さらに武器・弾薬の支援を約束した[68]。しかし有馬晴信は、既に天下人の座をほぼ手中に収めていた秀吉と敵対する気はなく、この要請は実現されなかった。以後、イエズス会は秀吉を刺激するのを恐れ、公の宣教活動をしばらく控えるようになる。

一方、秀吉は追放令を発布こそしたが、以後も実質上キリシタンは黙認したため迫害などはほぼ行われなかった。なぜなら秀吉はポルトガルを通じての南蛮貿易に積極的であったため、追放令の徹底を図らなかったと考えられている[注釈 20]。そのため、宣教師たちは立場こそ不安定だったものの、この時点ではまだかなり自由な宣教活動を続けていた。

1591年インド総督大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、三教神道儒教仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した[71]秀吉ポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった[72]。勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し[73]豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した[74]

現在、神奈川県中郡大磯町澤田美喜記念館に伝わる絵巻物ご聖体の連祷と黙想の図』は、この時期の1592年(天正20年)に製作されたと目され、日本に現存するもので最古級のキリスト教絵画とされる[75]

しかし、豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会ドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化する。彼らは日本宣教において、当時のイエズス会の(社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教していくという)やり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入っての直接宣教を試みた。けれども、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらずに秀吉を刺激した(たとえば日本では服装によって判断されると考えたイエズス会員の方針と異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服にこだわった)ことや、イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化したことで、日本での宣教師の立場は徐々に悪化していく。

そして1596年サン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、1597年、当時スペインの庇護によって京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じた。これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑された(日本二十六聖人の殉教)[注釈 21]

江戸時代

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徳川家康

秀吉没後、実権を掌握した徳川家康は当初キリスト教宣教を黙認していた。たとえば1598年にはスペイン人宣教師ヘロニモ・デ・ヘスースにスペイン船来航の斡旋を依頼し、江戸における教会の建設と布教許可を与えており、東京駅八重洲北口遺跡からはこの頃のキリシタン墓が、帰依したと思われるアジア人の人骨とともに見つかっている[77]。家康はキリスト教そのものには一貫して無関心であった。これは、三河一向一揆で宗教に苦しめられた記憶があったからとの説がある。家康は将軍職徳川秀忠に譲り、大御所として駿府に引退した後の1607年にもイエズス会員フランシスコ・パジオカタルーニャ語版を引見し、外国人宣教師の滞在と布教の許可を与えている。

しかし一方で家康は海外との貿易の実利を求めていた。1600年オランダリーフデ号が漂着し、イングランド人航海士ウィリアム・アダムスヤン・ヨーステンが家康に仕え始めると、家康は、彼らから最新の欧州事情の情報を得た。かつての強国スペインポルトガルに対して、新興のイングランドやオランダがアルマダの海戦八十年戦争(オランダ独立戦争)などで勝利して追い上げている当時のヨーロッパ情勢を理解し、両陣営を競わせながら貿易の実利を得ることを狙っていたのである(ウィリアム・アダムスは、実際にアルマダの海戦に参戦していた)。

また、プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって宣教師やキリスト教を排除する理由はない代わりに積極的に保護する理由もなかった。事実、オランダは東南アジアの植民地において、(経済的な搾取や文化の弾圧は行っていたものの)現地の宗教や政治形態に対してはあまり干渉しない方針を基本としていた。

しかし1612年岡本大八事件有馬晴信がからんだ疑獄事件)が起こると、関係者がどちらもキリシタンであったことから、家康はそれまでの態度を一転して諸大名幕臣へのキリスト教の禁止を通達、原主水などキリシタンであった旗本が改易された。翌年になると側近以心崇伝の手による「排吉支丹文」によってキリスト教信仰の禁止が明文化され、全国で迫害が行われるようになった。1616年に徳川家康が亡くなると、「東照大権現」とされて神として祀られたこともキリスト教禁止に影響を与えたとする見方もある[78]

1616年のニ港制限令は、イギリス商館リチャード・コックスが江戸にいる間のことだったが、これはコックスがオランダとイギリスに関してした発言が彼が意図した以上に幕府に警戒感を抱かせたことが発端となった可能性が指摘されている[79][注釈 22]

1619年に京都で52名が殉教し、1622年に長崎で55名が殉教(元和の大殉教)、1623年江戸でも55名が殉教した(江戸の大殉教英語版)。以後、禁教令の解除まで約250年の間、キリスト教徒は幕府と幕府の庇護する仏教徒、神道信者などにより迫害されることになる。

ただ、禁令の徹底は地方によって異なり、例えば松前藩などは、幕府に対して「領内にはキリシタンはなし」と報告していたものの、実際には取り締まりは緩く、多くのキリシタンが本州から逃れてきていた。松前藩のこの姿勢は、1637年島原の乱が起きてキリスト教禁止の命令が徹底されるまで続いた[85]

一方、神仏習合多神教の宗教的秩序の上にあり、天皇・院(太上天皇)自らが神道の祭祀を主宰し、仏教の祈祷を実修し続けてきた朝廷にとって、一神教のキリスト教は早くから警戒され、排除が試みられる対象であった。キリスト教禁止は江戸幕府朝廷が連携・協同して取り組める方針で朝幕関係にとっても望ましかった[86][87]

アメリカ合衆国歴史家ジョージ・エリソンはキリスト教徒迫害の責任者をナチスホロコーストで指導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンと比較した[88][89]

島原の乱

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1637年肥前島原肥後天草百姓身分の者たち(農民やかつてキリシタン大名の家臣であった元武士たちなどから構成された)3万人が蜂起した事件は、幕府に衝撃を与えた。これが島原の乱である。蜂起の直接的原因は島原藩唐津藩(天草を所領)による残酷な収税制度にあったが、同地にはキリシタン大名であった有馬晴信小西行長の統治時代に入信したキリシタンが多く、一揆の盟約結成の求心力としてキリスト教信仰を基盤においた内部統制も行われたこと、そのことが一向宗法華宗などのような求心性の強い宗教勢力が排他的な一揆的結合の核となって強大な政治勢力を築いた事態の再来する危機を感じさせたこと、さらには幕藩体制のゆがみが明るみに出ることを幕府が恐れたことから「キリシタンによる反乱」と単純化されて規定され、原城陥落後に1名の内通者を除く参加者全員が殺害された。なお、当時の島原藩主松倉勝家は、農民の生活が成り立たないほどの収奪を行ったかどで斬首され、同様に唐津藩主寺沢堅高は天草の領地を没収されて、その後自害している(江戸期を通じて、一藩の藩主が切腹でなく斬首となったのはこの松倉勝家の1例のみである)。

この事件を重く見た幕府は、禁教を徹底させる観点から、カトリック国であるポルトガルとの断交を望むようになり、1638年にはカピタン・モールの将軍への謁見を拒否している。また、キリシタンをあぶりだすために絵踏や、キリシタンを密告した者に報奨金を与えようとした。だが幕府は、ポルトガルがマカオからもたらす中国産の生糸などに日本市場が大きく依存していたことから、ポルトガルとの貿易の途絶をためらった。

しかし、1639年に、オランダ商館長フランソワ・カロンが江戸に参府した際に、幕府はオランダの植民地である台湾経由でも中国産の生糸などを確保できることをカロンから確認できたことで、ポルトガルとの断交に踏み切ることになった。そして、長崎奉行や西国大名に、ポルトガル船の来航の禁止と、九州沿岸の防備体制の確立を求めた通達(「第五次鎖国令」)を発布し、ポルトガルを長崎の出島から追放した。1641年には、商館にあった西暦に関するものを理由として、オランダの商館も平戸から長崎の出島に移転され、商船の入港が統制・制限されるようになった。各地で宗門改制度や檀家制度が整備されると、キリスト教の禁止は幕藩体制の根幹に組み込まれていく。

キリスト教の禁令はローマカトリック教会に限定されていたわけではなく、平戸のオランダ倉庫はキリスト教の年号(1639年)を使用したことを理由に破壊され[90]、オランダ人墓地も同時期に破却、死体は掘り返され海に投棄された[91]。1654年、ガブリエル・ハッパルトは長崎での陸上埋葬の嘆願をしたが、キリスト教式の葬儀や埋葬は認められず、日本式で行うことを条件に埋葬が許可された[92][93][94][注釈 23]

オランダ人の記録によると、徳川家光はオランダ人の宗教がポルトガル人の宗教と類似したものであると理解しており、オランダ人を長崎の出島に監禁した理由の一つにキリスト教の信仰があったとしている[98][注釈 24]

エンゲルベルト・ケンペル1690年代の出島において、オランダ人が日本人による様々な辱めや不名誉に耐え忍ばなければならなかったと述べている。キリストの名を口にすること、宗教に関連した楽曲を歌うこと、祈ること、祝祭日を祝うこと、十字架を持ち歩くことは禁じられていた[99][注釈 25]

鎖国

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マリア観音(主に中国製の慈母観音像を、聖母マリアに見立てて信仰の対象としていたもの)

壊滅したかに見えたキリスト教徒たちであったが、九州の一部などでは信徒たちが宣教師たちの教えを口伝えに伝え、水方や帳方といった信徒組織を形成することで、親から子へ、子から孫へと密かに信仰を伝えていった。これが隠れキリシタン(潜伏キリシタン)である。彼らは仏教徒を装いながらも信仰をひたすら守り、キリスト教を自由に信仰できる日が来るのを待ち続けた。

それでも発覚する場合があり、一つの地域で大勢のキリシタンが一斉に見つかり、信仰共同体が崩壊する、いわゆる「崩れ」がたびたび起こった。濃尾崩れのように、信者の大量処刑により、キリシタンがほぼ根絶されて幕を閉じた事件もあれば、浦上一番崩れ浦上二番崩れ天草崩れのように、混乱を恐れ江戸幕府が、信者を赦免した事例もある。

ヨーロッパのカトリック教会は、キリスト教徒が完全追放された日本に興味を持ち続けた。日本における教会の発展と受難の物語はヨーロッパで語り継がれ、多くの人々がこの東洋の国への再宣教の日が来ることを待ち続けた。

鎖国令以降、江戸期の日本に渡航した数少ない宣教師の一人に、イタリア人教区司祭ジョバンニ・シドッチがいる。シドッチは鎖国下の日本への渡航を願い、教皇庁に許しを求めていた。教皇庁は殉教することが明白な地に司祭を送ることはできないと拒絶したが、シドッチの再三の願い出に教皇クレメンス11世は特別な許可を与えた。

1708年、シドッチは苦労の末に屋久島へ上陸したが、すぐに捕らえられ、長崎を経て江戸に送られ、死ぬまで切支丹屋敷にいた。江戸では儒学者新井白石が取り調べにあたったが、シドッチの人格の高潔さと学識に感銘を受け、尋問というよりは対話という形で、多くの新知識を学び取った。その成果が『西洋紀聞』『采覧異言』である。

アイヌへの布教

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アイヌは、数多くのカムイを崇拝する独自の宗教観を有していた。 

江戸時代の初期、蝦夷地(現在の北海道)の一部を治めていた松前藩は、アイヌが「日本風俗に化し染まぬ様」にすることを掟としており、日本語使用、和人風の服装をした場合は罰則があったため、独自の宗教観を保っていた[102]が イエズス会ジロラモ・デ・アンゼリス神父、ディエゴ・カルヴァリヨ神父がやってきて、大千軒岳の麓に生活し、布教を行った。[85][103] 島原の乱以後、徳川家光は、キリシタンをなくすように指令を出し、松前藩は106名の蝦夷キリシタン1639年(寛永16年)に処刑した。

ロシア人も交易を目的として上陸する一方、正教を布教したりしていた。明治以降色丹島に集められた北千島アイヌの集落には、教会が建てられ、キリスト教を信仰していたとする記録が残っている[104]樺太アイヌにもロシア正教会が布教を行った記録があるが、改宗者は少数であったことが報告されている。

1779年、厚岸にロシア人イワン・アンチーピンが上陸するできごとがあった。幕府は、すでに千島列島択捉島に住むアイヌに、キリスト教が布教されている情報を得ていたため、国泰寺を建立するなどして、キリスト教が広まらないようにした[105]

幕末から明治

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アメリカ合衆国からの要求をきっかけに、日本は西洋諸国に門戸を開くようになった。1858年には日米修好通商条約日仏修好通商条約などが結ばれたことで、外交使節や貿易商と共に多くの宣教師たちが来日した。

1846年4月30日にバーナード・ジャン・ベッテルハイム医療宣教師琉球王国に到着し、8年間迫害の中で宣教活動を行い、琉球語に聖書を翻訳した[注釈 26][106][107][108][109]

カトリック教会の復興とキリスト教解禁

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カトリック教会ローマ教皇庁は、鎖国期を通じて日本への再宣教の方策を模索していたが、19世紀半ばには日本に開国の兆しありと見て、フランスに本部を置くパリ外国宣教会 (Missions Étrangères de Paris; M.E.P.) に日本への宣教師派遣を依頼した。こうして1844年テオドール・フォルカード (Théodore-Augustin Forcade) 神父司祭)が那覇に派遣され、2年滞在して日本への渡航許可を再三求めたが、果たせず1846年に帰国した。しかし、同年にフォルカードを初代教区長として日本使徒座代理区が設立され、その後1855年からユジェンヌ・エマニュエル・メルメ・カション (Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon)、プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール (Prudence Séraphin-Barthélemy Girard)、ルイ・テオドル・フューレ (Louis-Théodore Furet) の3人の司祭が那覇に赴任して日本語を学んでいたが、1858年に日仏修好通商条約が結ばれたことで、日本入国が可能になった。メルメ・カションは函館に赴き、ジラールは江戸を経て横浜に拠点を構えた。ジラールは1862年、横浜に開国以来最初のカトリック教会となる聖心教会(その後移転し、現在の山手教会)を建てた。このころ、ヨーロッパのカトリック教会の強い関心が日本に寄せられていた証左として、1862年に「日本二十六聖人」の列聖が行われたことがあげられる。

大浦天主堂

1864年になってフューレは長崎に土地を購入、後から加わったベルナール・プティジャン (Bernard-Thadée Petitjean) 神父(後に司教)と共に1865年に教会堂を建てた。これが大浦天主堂である。一か月後、教会を訪れた婦人たちが自分たちは禁教下で信仰を守り続けた潜伏信徒(隠れキリシタン)であることを告白、神父は驚愕した。これを「長崎の信徒発見」という。信仰を表明した信徒の多くはカトリック教会に復帰して司祭の指導を受けるようになった。

しかし、彼らは同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治新政府も慶応4年3月15日(1868年4月7日)に五榜の掲示という高札を掲示してキリスト教禁教を継続した[110]ため、信徒への拷問や流刑などが行われた[111]。明治政府が刑事罰を与えたキリスト教徒はカトリックに留まらず、他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。

だが、明治政府の予想に反して、キリスト教禁止と信徒への弾圧は諸外国の激しい抗議と反発を引き起こした。岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の解禁が条約改正の条件であるとされ、1873年(明治6年)にキリスト教禁止令は解かれた[注釈 27]

カトリック教会の動向

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1846年から、日本での宣教を委託されていたパリ外国宣教会は、復興当初から宣教のみならず教育事業と社会福祉事業に力を注いでいた。

なお、1884年(明治17年)には、信者数は30,230名、司祭数54名、伝道士252名、教会数は84であった。

教育事業

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ベルナール・プティジャン

1872年にはプティジャン司教の招きによってフランスからサン・モール会(現:幼きイエス会英語版)が招かれている。最初の5人の修道女たちは横浜に修道院と孤児院を建てた。1888年には彼らの手で築地教会の近くに高等仏和女学校が開かれた。これが後の雙葉学園の前身である。プティジャン司教は同じくフランスの女子修道会であるショファイユの幼きイエズス修道会にも修道女の派遣を依頼、これに応えて1877年に来日した4名は神戸で孤児院と学校(後の大阪信愛女学院)を開いた。1878年にはシャルトル聖パウロ修道女会が来日、函館に仏蘭西女学校を開設し、1882年には神田教会の敷地内に孤児院や小学校を建てた。同学校は白百合学園へと発展していく。1887年には、パリ外国宣教会の招致に応えて5人のマリア会員が来日し、翌年東京都に暁星学園が創立された。さらにマリア会によって1891年には長崎市海星学園が、1898年には大阪市大阪明星学園が、1901年には横浜市セント・ジョセフ学院が創立された。

なお、キリシタン時代の日本において活躍したイエズス会は、「日本にカトリック高等教育機関を」という教皇庁の求めによって明治期の終わりになって来日し、1913年上智大学を開いている。

社会福祉事業

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この時期、パリ外国宣教会の司祭たちは、政府によって活動を制限されていたため、日本人信者の協力を得て慈善事業・社会福祉事業に力を注ぎ、主に下層階級への宣教活動を行った。

1877年には築地教会の信徒であった本多善右衛門によって浅草にフランス語学校「玫瑰(まいかい)学校」(後の浅草教会)が設立された。この学校は児童福祉施設としても機能していた。1888年、パリ外国宣教会の司祭ジャン・ピエール・レイは、玫瑰学校に収容されていた孤児たちが青年へと成長し、職業訓練等が必要になり、もっと大きな施設が必要と考え、高木甚三郎の協力を得て関口に移転し「聖母仏語学校」(後のカトリック関口教会)を設立した。これらを代表とする学校は、表向きは「フランス語学校」であるが、実態は児童福祉施設であり、また政府によって活動を制限されていた外国人宣教師たちの宗教活動を補助するための機関でもあった。

ジェルマン・レジェ・テストウィード

1873年に来日した司祭のジェルマン・レジェ・テストウィードは、1880年に西関東・東海道地方を担当した。この巡回伝道の旅行中、足柄街道筋の水車小屋で30歳ぐらいの盲目の女性ハンセン病患者と出会い、療養所の設立を決意する。1889年静岡県御殿場市に療養所を設立。彼は上司に設立許可を願うにあたり「らい患者が現世の苦しみによって永遠の生命を得ることができたら苦しみも又幸せとなるでしょう。そのために病院を建て、そのことを教えたいと思います。こうして彼らは肉体の救いと共に魂のたすかりを得ると思います」と説明した。彼はこの病院に「主における復活」の意味で「神山復生病院」と命名、これが日本最初のハンセン病療養所となった。1898年には、ジャン・マリー・コール[注釈 28] により熊本県熊本市にもハンセン病療養所(待労院)が創設された。

マルク・マリー・ド・ロ

1878年長崎県外海地区(現・長崎市)に赴任したマルク・マリー・ド・ロは、この地域の人々の生活が貧しく、孤児や捨子も多く、特に海難事故で一家の働き手である夫や息子を失った家族が悲惨な生活を送っていることを知り、1880年に孤児院を開設し、1883年には救助院(黒崎村女子救助院)を設立して授産活動を開始する。この施設に修道女として入院した婦人たちは、ド・ロの技術指導に基づき、織布、編物、素麺、マカロニ、パン、醤油の製造などを行った。ここで製造されたシーツやマカロニ、パンなどは外国人居留地向け、素麺や醤油などは内地向けに販売された。

このように、パリ外国宣教会に委託されたカトリック教会は、下層階級を中心に宣教活動の一環として積極的に慈善事業を行った。

教区の変遷

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1846年に設立されパリ外国宣教会に委託された日本使徒座代理区は、1876年に日本北緯使徒座代理区、日本南緯使徒座代理区の2区に分割された。日本北緯使徒座代理区は横浜に司教座を置いて北海道、東北、関東および中部の各地方を管轄区域とし、日本南緯使徒座代理区は長崎に司教座を置いて近畿、中国、四国、九州の各地方を管轄した。日本北緯使徒座代理区は、1877年に司教座を東京築地教会に移し、1891年には北海道と東北地方を分離(函館使徒座代理区)して東京大司教区となった。日本南緯使徒座代理区は、1888年に日本中部使徒座代理区が新設されたことにより近畿、中国、四国の3地方を委譲し、管轄は九州地方のみに縮小。同年、司教区に昇格して長崎司教区となった。

プロテスタント教会の動向

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改革派の宣教師
グイド・フルベッキサミュエル・ロビンス・ブラウンダン・B・シモンズ
ジェームス・カーティス・ヘボン

プロテスタントの宣教師として最初に来日したのは1859年5月到来の米国聖公会ジョン・リギンズ (John Liggins) と6月来日のチャニング・ウィリアムズ (Channing Moore Williams) であった。これを皮切りに1859年中には,「ヘボン」とよばれたアメリカ合衆国長老教会の医師ジェームズ・カーティス・ヘップバーン (James Curtis Hepburn) (10月17日)をはじめとし、アメリカ・オランダ改革派教会から派遣された宣教師サミュエル・ブラウン (Samuel Robbins Brown) とグイド・フルベッキ (Guido Herman Fridolin Verbeck)、医療宣教師ダン・B・シモンズ (Danne B.Simmons) などが続々と来日した。さらに翌年の1860年にはバプテスト教会のジョナサン・ゴーブル (Jonathan Goble)、1861年にはアメリカ・オランダ改革派教会(ダッチ・リフォームド、現RCA)の牧師ジェームズ・バラ (James Ballagh) などが日本の土を踏んだ。これがプロテスタント各教派の最初の宣教師グループである。

ダニエル・クロスビー・グリーン

やや遅れて1869年にはアメリカ伝道委員会(アメリカン・ボード) (American Board of Commissioners for Foreign Missions) のダニエル・クロスビー・グリーン (Daniel Crosby Greene) が来日し、1873年には米国メソジスト監督教会宣教師メリマン・ハリス (Merriman Colbert Harris) が函館に着任した。

近代以降の日本のプロテスタントを語る上で欠かせない三つの流れがある。それは「横浜バンド」、「熊本バンド」、そして「札幌バンド」である。ここでいうバンドとは「団体」という意味である。

横浜バンド

1862年にヘボンの開いた横浜英学所(ヨコハマ・アカデミー)は[112]、ジェームズ・バラの弟ジョンに引き継がれ、バラ学校と呼ばれていた(バラ学校は1880年に築地居留地に移転して築地大学校となる)。1872年押川方義東北学院創立者)らバラ学校の青年たちが信仰を告白し、洗礼を受けた。このグループが「横浜バンド」である。同じ年、横浜に最初の教会「日本基督公会」(海岸教会)が開かれた。1873年にはサミュエル・ブラウンの自宅に集まった青年たちによって「ブラウン塾」が発足。生徒の中には前出の押川方義のほか、青山学院の院長となる本多庸一や、明治学院創設メンバーである井深梶之助植村正久らがいた。このバラ学校とブラウン塾の流れから1877年に東京一致神学校が生まれ、1887年に東京一致英和学校(築地大学校の後身)・東京英和予備学校と統合した上で白金に移転して明治学院が誕生した。また,一時帰国していたブラウンと共に1869年に来日したメアリー・キダー (Mary E. Kidder) が、ヘボンの診療所で教育していた。ここから後のフェリス女学院が誕生する。

1871年熊本洋学校に教師として招かれた元陸軍士官L・L・ジェーンズ (Leroy Lancing Janes) は会衆派教会の熱心な信徒であり、彼の感化によって教え子たちが信仰に入った。「熊本バンド」(1876年)と呼ばれたこのグループは、熊本洋学校廃止によってジェーンズが大阪英学校に移るとこれに従い、ジェーンズが勧めたことで(新島襄1875年に開いた)同志社英学校に加わった。その中に宮川経輝小崎弘道(同志社第二代社長)、海老名弾正(第八代同志社総長)らのメンバーがいた。

ウィリアム・スミス・クラーク
同志社英学校の教師と学生たち(1877年秋、右端が新島襄、左端がJ.D.デイヴィス[113]

札幌農学校(現在の北海道大学)で教壇に立ったW・S・クラーク (William Smith Clark) とメリマン・ハリスの薫陶を受けた教え子によって結成されたのが「札幌バンド」(1877年)である。クラークの教え子たちの中には佐藤昌介大島正健内村鑑三新渡戸稲造、植物学者の宮部金吾、土木工学の広井勇らがいた(内村鑑三はのちに「無教会主義」を唱えることになる)。

日本のプロテスタントはこれらのグループを核として発展した。横浜バンドの流れから「日本基督教会」が、「熊本バンド」から日本組合基督教会が生まれた。そしてアメリカとイギリスの聖公会の流れから日本聖公会が、メソジスト系の諸派から日本メソヂスト教会が誕生した。

1872年にはジェームス・ハミルトン・バラ宣教師によって横浜日本基督公会が設立され、1873年(明治6年)にはキリシタン禁制が解除された。フルベッキ宣教師が日本政府左院の翻訳顧問となり、グリーン牧師やジェームス・カーティス・ヘボン宣教師らとともに新約聖書翻訳に取り組んだ[114]。初期の宣教師たちの宿願であった日本語訳聖書の出版事業もこの時期精力的にすすめられ、1880年に新約聖書、1888年に旧約聖書が出版された。

1873年までに、ほとんどのプロテスタントの教派が来日した[注釈 29]、1874年創立の神戸の摂津第一公会は、当初から会衆制を採った[115]

1880年にはイギリス発祥のキリスト教青年会(YMCA)の日本支部が発足した。

1882年時点で日本に在留していた宣教師は138名であった[116]。初期の宣教師は聖書信仰と保守的な神学を持ち、その宣教の情熱の背景にはアメリカの大覚醒と呼ばれたリバイバルがあった[117][118]。循環するリバイバルがアメリカのキリスト教の特徴である[119]。ブラウンら宣教師は大覚醒運動の影響を受けていた[120]。アメリカの宣教師によって日本に福音主義(エヴァンジェリカリズム)が伝えられた[注釈 30][121][122]

中田重治パゼット・ウィルクス三谷種吉

福音派(特にホーリネス運動)の源流の一つで「松江バンド」(1893年)も特筆に値する。1890年聖公会牧師バークレー・バックストン松江市での伝道が始まりであり、竹田俊造三谷種吉堀内文一らを輩出。1897年9月26日にバックストンの招きにより、パゼット・ウィルクスが来日し、日本伝道隊1904年)や日本イエス・キリスト教団関西聖書神学校などの設立に関わった。三谷種吉は日本最初の音楽伝道者であり、今も歌われる讃美歌「ただ信ぜよ」、「神は愛なり」を歌いながら、伝道した[123]

1878年5月15-17日に、第一回全国基督教信徒大親睦会が開催され、1880年第二回が開かれていたが、1882年は耶蘇退治の迫害があった。1883年の5月8-12日に開催された第三回全国基督教信徒大親睦会からリバイバルが起こり、全国的に広がった。5月14日の基督教大演説会には四千人を集めた。1884年同志社リバイバルは、3月17日の祈祷会で最高潮を迎え、200名の学生が信仰を告白して、洗礼を受けた[118]

「日本のプロテスタントは教育中心、上流階級と中流階級に対する伝道を行ってきた」といわれる[注釈 31][124]。日本の初期のプロテスタントの指導者は特に知識階級、佐幕派の士族階層が中心だった[125][注釈 32][126][注釈 33]

教育事業

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アメリカの宣教師を中心に、日本での明治初期のミッションスクール創設にあたっては、カトリックより早く、日本における女子教育の嚆矢ともいえる。

1869年明治2年)、アメリカの宣教師らが東京を視察し、ミッションスクール「カロザース塾」を開校、現在の女子学院中学校・高等学校の源流となる。

1870年(明治3年)、米国改革派教会婦人伝道師メアリー・エディー・キダーを派遣しフェリス女学院を創設する。

1871年明治4年)には、1861年から横浜に滞在していたジェームズ・H・バラの要請に応え、米国婦人一致外国伝道協会 (WUMS) のメアリー・P・プラインらにより〈ドリーマス・スクール〉が設立される(現:横浜共立学園中学校・高等学校)。

1873年(明治6年)、米国伝道会から派遣された女性宣教師イライザ・タルカットジュリア・ダッドレーが神戸の宣教師団の支援の元に私塾を開校(現:神戸女学院中学部・高等学部)。

正教会の動向

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大主教ニコライ

日本における正教会伝道は、1861年にはロシア正教会ニコライ・カサートキンが来日し、函館の領事館付き修道司祭に着任したのが嚆矢である。当初からニコライは「日本人への伝道・日本正教会の建設」を志して修道司祭となっており、活動を領事館付き司祭の枠にとどめる考えはなかった。派遣したロシア正教会上層部もまた同様の考えであった。その後もニコライは、この基本方針を貫いた。

函館・仙台の人士が初期の信徒を構成したため、函館・東北地方での浸潤がまず始まった日本の正教会だが、1872年に神田駿河台の土地2300坪を得て、宣教の拠点とした。1874年5月には布教会議が東京で開催される。1880年にはニコライは主教叙聖され、この時からロシア正教会から派遣される主教を待たずに司祭輔祭を叙聖することができるようになり、日本正教会神品が増加する環境が整った。1880年には現存するものの中では日本最古の木造教会建築である、石巻ハリストス正教会の聖使徒イオアン会堂が完成。1891年には東京復活大聖堂(ニコライ堂)が竣工する。

また出版事業に重きを置いたニコライにより、各種祈祷書・聖歌譜が日本語に活発に翻訳されていった。1882年に帰国した山下りんにより各地の聖堂のイコンが描かれていった。また日本に着任していた修道司祭アナトリイの甥でもありピアノ・チェロの奏者でもあったヤコフ・チハイが同年頃に来日し、聖歌教師として聖歌の普及に努めた。正教会は急速に教勢を拡大していく。

しかし1891年大津事件にみられるように日本の対露感情が悪化していく中、ロシア正教会から伝道された日本の正教会もまた各地で迫害を受けていく。1904年にはついに日露戦争が開戦される。この時、ニコライ主教は日本にとどまり、「諸君は皇軍の為に祈れ」と言い、苦難の下にあった日本人正教徒たちを激励し続けた。ニコライは内面では、度重なるロシア軍の敗報に苦悩していたが[127]、あくまで日本人の指導者・日本の正教会の主教という姿を貫き通すことになる。同時に日露戦争時、日本の正教会は日本政府と協力し正教徒ロシア人捕虜の世話に当たり、「日本正教会」でありかつ「日本人のためだけではない正教会」である姿を両立させることとなった。

日露戦争終結直後、日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂もあわや暴徒に襲撃されるところであったということからも、当時の日本の正教会が置かれた立場が垣間見える[128]。こうした逆境にもかかわらず、1911年、ニコライが大主教に昇叙された年には、日本正教会の教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝教者121名に達した。これは当時の日本にあって、カトリック教会に次ぐ規模であった。

明治最後の年、1912年にニコライは永眠、76歳であった。この時、明治天皇から恩賜の花環が与えられた。外国人宣教師の永眠に際して花環が与えられたのは異例のことであった。ニコライの伝道はその後、日本ハリストス正教会に結実する。

明治から大正

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内村鑑三

明治初期から中期にかけては、国を挙げて欧化政策が進められたため、西欧精神の中枢であるキリスト教に関心を持つ日本人が増えてきた。福澤諭吉がキリスト教国教会論を主張し、上流階級がキリスト教に殺到した時代である[129][117]。なお、1895年のカトリック教会は、信徒数50,302人、司教4人、司祭はパリ外国宣教会士88人、マリア会士27人、邦人司祭20人であった。プロテスタントは1888年末に249教会、信徒15,514人、宣教師451人、日本人教役者142人、神学校14校、神学生287人、年間の受洗者は約7,000人を数えた。正教徒の信徒数は17,000人であった。

しかし明治中期以降、日本が富国強兵政策をとって近代国家への歩みを模索し、国粋主義的思想が強まるようになるとキリスト教への見方にも変化が起こる。1889年に発布された「大日本帝国憲法」では日本が立憲君主制国家たることを宣言しているが、この中で信教の自由は限定的なものとされた。さらに天皇に対する忠誠を説く「教育勅語」(1890年)で明治日本における天皇の位置づけが明確に示された。国家の核としての天皇と国家神道の位置づけが明確にされたことで、キリスト教に対する風当たりが強まっていく。このような風潮を象徴するできごとが内村鑑三の不敬事件1891年)であった。また、政府は大逆事件(1911年)で幸徳秋水を処刑したが、キリスト教に批判的な立場から、彼の遺作である『基督抹殺論』の刊行を認めた。

このような情勢の中でも、この時期、様々なキリスト教的社会福祉事業や社会運動が起こっている。キリスト教精神がようやく日本社会に浸透し、社会への働きかけという形で実を結び始めたことの証ともいえる。

カトリック教会の動向

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高等教育や出版活動において日本のカトリック教会は、プロテスタントに大きく遅れをとっていた。

明治末期になると、パリ外国宣教会による日本の独占司牧体制に無理があることは、同会の一部でも認められ、今後の教会の発展には他の修道会の来日が必要であるとの意見が出始めた[注釈 34]

岩下壮一

しかし、パリ外国宣教会の内部からは、十分な内部変革の動きが無かったこともあり、日露戦争前後の時期になると、日本人の司祭や信徒の一部から「パリ外国宣教会の宣教活動は、近代国家となった日本では十分な成果を挙げ得ないもの」として、教会改革の必要性を唱える者が現れた。例えば長崎教区で教会改革を目指した司祭の平山牧民[注釈 35]および一部の信徒らは、慈善活動を通じて下層階級への宣教事業に力を入れる同会に不満を持ち、高等教育や学術活動に強いイエズス会の誘致運動を行い、教皇庁にその必要を主張する意見の具申を行っている[130]。また東京大司教区では、知識人層を対象にした出版活動や青年運動が展開され、パリ外国宣教会の中には日本人の若手カトリック知識人の活発な活動に期待する宣教師も存在した。

しかし、日本人信者によるパリ外国宣教会の司牧体制に向けた批判活動は、平山牧民の追放や前田事件を引き起こし、結果的にイエズス会の招致は実現したが、教会の改革運動は低調な状態に陥ってしまった。その後、1916年岩下壮一を中心として結成された第2次公教青年会の会長に山本信次郎が就任し、再び知識人活動や青年運動が盛り上がった。

ピオ10世
上智大学初代学長
ヘルマン・ホフマン
ウィリアム・ヘンリー・オコンネル
ピエール・マリ・オズーフ

教育事業

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日露戦争後の1905年11月、教皇ピオ10世は、アメリカ人司教のウィリアム・ヘンリー・オコンネルを親善使節として明治天皇宛てに親書を託し派遣した。

教皇使節の日本訪問は、日露戦争時に戦地のカトリック教会が日本により保護されたことに対して、ローマ教皇が明治天皇に感謝の意を表するために行われたものだが、同時に日本のカトリック教会の現状視察という別の目的を持っていた。この訪問を機縁に、日本のカトリック教会もフランスのパリ外国宣教会の独占から多様化された。スペインよりドミニコ会、ドイツより神言会イエズス会フランシスコ会、カナダよりフランシスコ会、ドミニコ会、イタリアよりサレジオ会が来日した。この多様化によって教育事業においても、従来の初等中等教育から高等教育にも取組んだ。

1906年にピオ10世より「日本に高等教育機関を設置すること」の要請を受けたイエズス会は、1908年に3人のイエズス会員を派遣する。その後、1911年に財団法人上智学院を設立、1913年専門学校令による大学上智大学)を開校した。1916年には、聖心女子学院高等専門学校(後の聖心女子大学)が設立され、カトリックは貧民層のためという印象は薄れた。

社会福祉事業

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このような流れの中でも、社会福祉事業は続けられた。

1926年、司祭のアルベール・アンリ・シャルル・ブルトン[注釈 36] によって神奈川県鎌倉市に結核療養所「聖テレジア療養所」が設立された。また女子教育においても1907年、司祭のルイ・ルラーブ[注釈 37] によって京都府宮津市に宮津裁縫伝習所が創設され、後の京都暁星高等学校へと発展する。

本所教会焼討ち事件

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1905年9月5日、ロシア帝国と締結されたポーツマス条約に、日露戦争時の増税による耐乏生活を強いられてきた民衆の不満が爆発した。(日比谷焼打事件)翌9月6日23時頃、本所地区に決起した暴徒は、本所教会を襲い一帯の信者の住居と共に本所教会は焼討ちされた。暴動が鎮まった後も敵意は教会に向けられたため、当時の東京大司教であったピエール・マリー・オズーフは時勢を考え、本所教会の主任司祭を日本人に交代した。

プロテスタント教会の動向

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賀川豊彦(左)と山室軍平(右)

この時期はプロテスタントにとっても困難な時期ではあったが、売買春の廃絶を目指した日本基督教婦人矯風会1886年)の発足や、石井十次による岡山孤児院1887年)、石井亮一の聖三一孤女学院(1891年、後の滝乃川学園)のような養護施設活動、山室軍平による救世軍運動(1895年)などキリスト教的社会福祉事業、社会運動、廃娼運動が起こっている。セツルメント運動や神戸・灘での生活協同組合(現コープこうべ)なども、キリスト教文化の影響下に生まれた運動として挙げることができる。

熊本バンドの主要メンバー(1892年、後列左端が海老名弾正、その右隣に横井時雄、前列右端が宮川経輝、その左隣に小崎弘道[131]

また、この時期、自由主義神学高等批評が導入され、日本の教会に混乱を与えることになる。1885年にドイツ普及福音教会ウィルフリード・スピンナーが来日し、聖書は人間の宗教的な記録であると主張した。またこの派からオットー・シュミーデルも来日する。この立場は、新神学と呼ばれたが、彼ら自身は「最も進歩せる学術的キリスト神学」と称した。これは日本組合基督教会に強い影響を与えた。

1887年には大日本帝国政府司法大臣らの招聘でアメリカ・ユニテリアン協会からユニテリアンの宣教師が来日し、三位一体、キリストの神性を否定した。熊本バンド小崎弘道はリベラルな新神学を受け入れ、1889年同志社学院で開催されたキリスト教青年会夏期学校で、「聖書のインスピレーション」と題して講演をした。また、1891年金森通倫も「モーセ五書は、ユダヤ人の伝説や神話の寄せ集めである」と主張した[129][118]

1892年には日本基督教会で「日本の花嫁事件」が起こり、田村直臣牧師が免職になった。1893年に東京帝国大学の井上哲次郎教授は、『教育と宗教の衝突』を発表して内村鑑三を非難し、キリスト教と日本は相容れないとした[117][118]。それに対して柏木義円は『同志社文学』第59号に「勅語と基督教」を掲載して反論した[132]

1897年にはドイツの普及福音教会が東京に東郷坂教会を設立し、ユニヴァーサリズム英語版を支持する赤司繁太郎が1946年まで牧師を務めた[133][134]

1901年5月に20世紀大挙伝道の働きの中で、リバイバルが起こり、1907年にはプロテスタント人口が約6万人となった[129]

植村正久

1901年9月から、リベラル神学を巡って、植村・海老名論争が起こる。1902年福音同盟会は総会を開き、イエス・キリストの神性を確認し、海老名を追放したが、植村も十全霊感を否定した[129]

1903年には、それまで各教派別に編纂されていた讃美歌集を一つにまとめた共通『讃美歌』が作成された。

1904年日露戦争では、海老名弾正植村正久井深梶之助本多庸一が主戦論を唱え、内村鑑三柏木義円白石喜之介が非戦論を唱えた。トルストイの影響を受けた、キリスト教社会主義者の安部磯雄木下尚江西川光次郎石川三四郎片山潜らも無抵抗主義の非戦論だった[118]

ウィリアム・ブース

1907年には救世軍の創立者ウィリアム・ブースが来日した。2万人を超える群集がブース大将を歓迎し、彼は西園寺公望大隈重信明治天皇に面会した。1912年救世軍病院が開設される[135]

エディンバラ宣教会議

1909年10月には、日本におけるプロテスタント宣教開始50年を祝って、宣教開始50年記念会が開催された。

1910年朝鮮併合後に朝鮮総督府日本統治時代の朝鮮)は、日本基督教会の指導者植村正久に朝鮮宣教を持ちかけた。植村は朝鮮併合には賛成していたものの、朝鮮宣教は断ったため朝鮮総督府は、日本組合基督教会の指導者海老名弾正に朝鮮宣教を命じた。日本組合基督教会は、同年10月の第26回定期総会で全会一致をもって「朝鮮人伝道」を決議し、渡瀬常吉を派遣。日本組合基督教会は朝鮮総督府より莫大な資金援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げた[136][137][129][138]

明治(1868年-1912年)の終わりから大正(1912年-1926年)にかけて、明治後半にみられた国粋主義への傾きが一時的に退潮した。1912年の神仏基による三教会同は、ようやくキリスト教の地位が宗教界で同等なものとみなされたかのような印象を与えたが、その一方で昭和(1926年-1989年)に入ってキリスト教が国家の統制下に組み込まれていくことへの伏線となった。この時期、日本基督教会の信徒であった賀川豊彦は労働組合運動など活発に社会運動を行なったが、彼の設立した消費組合は後の生活協同組合へとつながった。

中田重治内村鑑三木村清松、再臨運動を始めた頃、1918年頃

1918年には中田重治内村鑑三木村清松が再臨運動を展開した。1919年11月、淀橋教会の祈祷会から、ホーリネス・リバイバルが起き、四重の福音を唱えるホーリネスは教勢を拡大していった[129][117]

教育事業

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1910年6月にエディンバラ宣教会議が開催され、日本からは本多庸一井深梶之助原田助などが出席した。この大会の決議により、東京女子大学が設立された[注釈 38]

1918年12月の大学令公布を受けてプロテスタント系の専門学校の間でも大学昇格運動が起こり、1920年同志社大学1922年立教大学1932年関西学院大学が設立された。

青山学院高木壬太郎院長の下で大学昇格を目指した。しかし高木の急死(1921年)、関東大震災による校舎壊滅(1923年)などの不運も重なって、青山学院の大学昇格は戦後まで持ち越しとなった。

正教会の動向

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大正以降の正教会の動向については、日露戦争ロシア革命の影響が大きく、反露感情・反共感情の広がりと母教会(ロシア正教会)に対する共産主義政権による弾圧もあり、他教派とは歴史的に置かれた環境が異なるために独特の経緯をたどった部分が少なく無い。

昭和初期以前、明治末から既に日露戦争に代表される日露関係の悪化から、日本正教会は日本において他教派よりも一層厳しい立場に置かれていた。正教側は、正教はロシア専有の宗教ではなく世界の聖公使徒教会であると主張していたが(これは世界の正教会と共通する見解[139])、世間からは「露教」と誤解する向きが根強かった。1894年ギリシャ正教会のディオニシオス大主教が来日してニコライ主教とともに奉神礼を行ったことを、「正教会が蒙っていた冤罪を雪ぐべき好機会」であったと記した三井道郎の回想記の一節にも、当時の日本正教会が置かれた状況が垣間見える[140]

戦前戦中昭和

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皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会

昭和初期には軍部が擡頭すると、軍国主義のイデオロギーとして国家神道が利用されるようになり神道以外の宗教団体への圧力が強まった。特に教育や思想の分野において国粋主義が強化されたことで西洋の宗教であるとみなされたキリスト教は苦しい立場におかれることになった。特に1931年満洲事変勃発以降はその傾向が強まった。

1930年代後半になると、1936年における日独防共協定の締結など、ナチス・ドイツへの接近が強まっていく。当時のドイツでは、ナチズムと「アーリアン学説」の広まりを背景として、キリスト教は、ユダヤ教と同じセム系一神教(アブラハムの宗教)であることを理由として、厳しい統制を受けた。そのような時代背景において、日本におけるナチス・ドイツへの関心の高まりも、結果としてキリスト教に対する圧力を高めた。

1939年帝国議会によって戦争遂行のため宗教団体を統制する目的で「宗教団体法案」が可決成立し、翌1940年4月1日から施行された。これによって、日本のキリスト教界において多くの団体が政府に協力した[注釈 39]

カトリック教会の動向

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殉教血史
日本二十六聖人
土井辰雄
ヨゼフ・フロジャック

カトリック教会では、1933年から1934年にかけて奄美カトリック迫害が起こった[129]ほか、1932年には上智大生靖国神社参拝拒否事件が起こり、靖国参拝の強要に反対した学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解「第一聖省訓令」「祖国に対する信者のつとめ」を出し、以後戦争については沈黙した(ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいる)。このように、軍国化していく日本において、社会的な迫害の対象に置かれるなど困難な社会的状況にあったため、1931年には、映画「殉教血史 日本二十六聖人」を製作公開するなど、キリスト教徒への偏見を払拭する試みが行われた。なお、1940年の登録信者数は119,324人であった。

教育事業

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困難な社会的状況の中、神言会の司祭であったヨゼフ・ライネルスは、1922年2月18日に設立された名古屋知牧区の初代教区長に就任すると、宣教とともに教育の重要性を唱えた神言会の意志を受け、教育機関の設立に奔走する。1932年1月、名古屋市に南山中学校(現在の南山学園)を設立し、初代理事長および校長を務めた。

社会福祉事業

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このような状勢の中でも、社会福祉事業は続けられた。パリ外国宣教会の司祭であったヨゼフ・フロジャックは、1927年、東京市中野療養所の結核患者の一人を見舞ったことを契機に療養所訪問を始めた。1929年には野方町丸山に民家を借用し、療養所から退院させられて行き場所のない患者5名を収容する。1930年には中野療養所の近くに「ベタニアの家」を建設し、患者15名を収容した。同年、女子患者のため、別に民家を借用して患者5名を収容する。1932年、今度は患者の子供を救済するため「ナザレトの家」を建設し、男児10数名を収容、さらに1933年、療養農園「ベトレヘムの園」を建設し、軽患者の男女60名を収容した。1934年、ベトレヘムの園隣接地を買収し、養護施設「東星学園」(現在のベトレヘム学園)を建設、ナザレトの家の児童33名を移し、ナザレトの家は乳児院に転換する。1936年には学園児のため、「東星尋常小学校」を開校した。

フロジャックは事業開始直後から周囲の無理解と資金難に苦しみながらも事業を維持し、戦中、戦後も多くの社会福祉施設や幼稚園・学校を設立した。ベタニアの家はその後、社会福祉法人「慈生会」へと発展し、また教育事業は東生学園へと発展した。

宗教団体の設立

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1941年5月、日本のカトリック教会は、宗教団体法に従いローマ教皇直属である日本の各司教区と日本に所在する修道会をすべて統合する団体として日本天主公教教団を設立、初代統理者に東京の土井辰雄司教を選出した[注釈 40]

プロテスタント教会の動向

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バークレー・バックストン最後の来日。三谷種吉らと。1937年
朱基徹牧師
日本基督教団統理者富田満

プロテスタントでは、朝鮮の長老派が神社参拝を拒んでいたため、日本政府は1938年6月末、同じ長老派系統の日本基督教会大会議長富田満を派遣して朱基徹牧師ら朝鮮の長老派を説得させるが、朱基徹らは拒んだため、殉教することになる。朝鮮の教会は、約70名の牧師が投獄、拷問に遭い50名が殉教し、2,000名の信徒が投獄され、約200の教会が閉鎖された[141]

第11代同志社総長牧野虎次

1939年に成立した宗教団体法を受けて青山学院で開催された皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会の決議に基づいて、1941年にプロテスタント32教派が自発的に統合し、日本基督教団が結成された。これにともない、日本各地のプロテスタント系神学校の大半は1943年日本東部神学校日本西部神学校日本女子神学校の3校に統合された[142]。さらに1944年には男子校2校の再統合により日本基督教神学専門学校が設立された(同時に日本女子神学校も日本基督教女子神学専門学校と改称)[注釈 41]

このような大合同の動きに最後まで抵抗したのは同志社大学で、学徒出陣によって授業継続が困難となった状況下でも同大神学科は廃止されることなく終戦を迎えた[143]

この困難な時代、日本のキリスト教界において多くが国家に妥協する一方、戦争反対を表明した一部の教会、再臨信仰を咎められたホーリネス系教団神社参拝を拒否した美濃ミッション等には徹底した弾圧が加えられ、解散に追い込まれた。ホーリネス弾圧の中で命を落とした者に小山宗祐菅野鋭斉藤保太郎辻啓蔵小出朋治(獄中での死亡順)、竹入高池田長十郎佐野明治(出獄後死亡)などがいる[117]

正教会の動向

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セルギイ府主教

戦時下の中で、正教徒外交官である杉原千畝は「命のビザ」を発行し、ナチスの虐殺からユダヤ人を生命の危機からを助けた。イスラエルの回復を祈るホーリネス系のキリスト者が逃れてきたユダヤ人たちを受け入れた。旧約の神の民のうち、ある人は日本から渡米し、また再建されたイスラエルに帰還していった[144][145]

1931年、大主教ニコライの後継者であるセルギイ・チホミーロフ府主教に昇叙された。だが、共産主義政権(ソ連)の下で弾圧されその監視下にあるロシア正教会の意思・決定に忠実なセルギイに対し、亡命ロシア人や日本人信徒から様々な反発が起こった。

このような状況下で、セルギイを、その任から解き日本人を主教にするよう日本政府から圧力がかかった。日本正教会は抵抗することもなく、1940年、セルギイは引退を余儀なくされ、代わってニコライ小野帰一が主教に着座した。その後も当局の監視は続き、高齢のセルギイは1945年特別高等警察に逮捕され拷問を受け、約1ヶ月拘留された[146]。釈放後の同年8月10日、終戦の5日前にセルギイは死去した。拷問による衰弱死といわれている。

戦後昭和から平成前半

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1945年8月に第二次世界大戦日本の降伏連合国の勝利により終結すると、進駐してきたGHQの指示によって国家による神社への保護(国家神道)が廃止されたことにより、キリスト教各派は自由に活動できるようになった。さらに1945年10月、宗教団体法が撤廃され宗教法人令が公布・施行されると、戦時中に統合・監督的束縛を加えられていたキリスト教各派は、一斉に組織の再編に着手すると共に、日本各地で大規模な布教を開始した。

1946年日本国憲法によって完全な信教の自由が認められると、海外のキリスト教諸団体は活発に宣教師を派遣するようになった。さらに、かねてから準備されていた口語訳聖書も出版(新約1954年、旧約1955年)された。

カトリック教会の動向

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1945年11月に全国臨時教区長会議を開催、従来の教団組織を改称し、翌12月には天主公教教区連盟[注釈 42]を設置した。さらに1947年5月に全国教区長会議および教区連盟理事会が開かれて、今後の事業計画や活動方針を示すと共に、「教区長共同教書」が発表され、大々的に布教活動が行われた。その結果、登録信者数は1946年の108,324人から1950年には143,461人に増加し、さらに1955年には212,318人、1968年には344,343人となって戦前をはるかに凌ぐ比率で増加した。

また世界レベルでは、二つの世界大戦を防げなかったことと、戦後も冷戦構造の中で精神的な指導力を発揮できないことへの反省から、1962年以降、カトリック教会で「アジョルナメント」(現代化)を目指した公会議(第2バチカン公会議)が行われた。この会議では、カトリック教会の冷静な現状認識と今後の方向性が確認された。その中でヨーロッパ中心的な思考にとらわれすぎていたカトリック教会の姿勢が正され、もっと世界規模の視野を持って、教会のあり方を考える必要性が痛感された。

公会議のこのような精神に沿って、教会生活全体の見直しが行われたが、その一環として典礼の国語化が進められた。日本でもミサをはじめとする典礼の日本語式次第と、典礼の中で用いられる日本語聖歌(典礼聖歌)が作成された。また公会議では他宗教、特にキリスト教他教派への敬意と対話という方針がはっきりと打ち出された(「エキュメニズム」と呼ばれる宗教間対話の動きは、元々プロテスタントの中から起こったもので、1910年エディンバラ宣教会議を嚆矢とする)。

こうしたエキュメニズムの精神にそってプロテスタント諸教派とカトリック教会の聖書学者が結集して聖書の翻訳事業が行われることになった。ここに共同訳聖書1978年)が完成し、さらに共同訳聖書における問題点を改善して出版されたのが新共同訳聖書1987年)である。

1981年には、史上初めてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が来日。東京、広島、長崎を訪れ、「平和アピール」を発表するなどした。

プロテスタント教会の動向

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1956年2月にビリー・グラハムが来日し、日本における最初のビリー・グラハム伝道大会が開かれた[129]

1959年は、プロテスタント宣教百周年記念行事が、エキュメニカル派福音派で別々に開かれた。エキュメニカル派では日本キリスト教協議会、日本基督教団を中心として開催された。その後1970年大阪万博では、カトリック教会とエキュメニカル派のプロテスタントとの共同によるキリスト教館の出展があった。この頃から日本基督教団では、教会派社会派が対立し、教団紛争と呼ばれる紛争状態に入った[129][107][109]

常葉隆興牧師

一方、福音派(聖書信仰派)は、イムマヌエル綜合伝道団蔦田二雄ホーリネス車田秋次日本キリスト改革派教会マキルエン常葉隆興岡田稔聖書キリスト教会尾山令仁らを指導者として、1959年日本宣教百年記念聖書信仰運動を展開し、翌年日本プロテスタント聖書信仰同盟の発足を見た。この働きが新改訳聖書(新約1965年、旧約1970年)の出版と日本福音同盟の成立(1968年)につながった。エキュメニカル派は世界教会協議会 (WCC) と交わりを持ち、福音派は世界福音同盟ローザンヌ運動と交わりを持っている[135][147][148]

1974年に日本で最初の日本伝道会議が開催され、イギリスのジョン・ストットが招かれた。70年代は福音派の協力関係が結ばれ、聖書信仰の教会が教勢を伸ばした時代であり、「はばたく日本の福音派」と呼ばれている[129][149][150]

1999年10月末に、京都市国立京都国際会館で「世界宣教会議」が開催され、奥山実牧師が委員長を務めた。この「世界宣教会議」は、『キリスト教年鑑』2001年版によって「日本キリスト教史上最大規模の『世界宣教会議』」と呼ばれている[151]

正教会の動向

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西方教会諸派が戦後に日本で教勢を回復する一方で、日本正教会は戦後を迎えてもなお安定することはなかった。第二次世界大戦も他教派と同様に正教会にとり苦悩の原因であったが、それ以上の長期に亘る苦悩の原因としてソビエト連邦の存在があったためである。共産主義諸国で弾圧を受けており、経済的・人的援助はロシア正教会から行われなかったにも拘わらず、正教会は「アカ」のレッテルを貼られて各地で教勢を衰退させた。

また、日本正教会内部も、ソビエト連邦による弾圧・監視下にあるモスクワ総主教庁の意思の真正性に対する疑問から、母教会たるロシア正教会との関係をどのような形にするのかについてロシア革命直後から戦後しばらくまで様々な立場に割れた状態が続いており、これも教勢衰退の原因となった。

1970年になってモスクワ総主教庁とアメリカ正教会と日本正教会の合意が成立し、日本正教会はロシア正教会を母教会とする自治教会の祝福を得ることで、ようやく教会組織の安定を得た。

2000年5月には史上初めてモスクワ総主教アレクシイ2世が日本を訪問した(逆に言えば日本正教会はロシア正教会の子教会であるにも拘わらず、モスクワ総主教が訪日したことが歴史上実に一度も無かったことを意味する)。来日時、アレクシイ2世は日本正教会の首座主教の着座式を執り行うとともに、天皇とも会見している。また、着座式にはアメリカ正教会からも首座主教の出席があった。

混乱の時代を経ながらも、日本正教会は明治の日本語訳による奉神礼を守り続けて今日に至っている。

平成後半から令和

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2008年11月24日、日本のカトリック教会は、長崎市長崎県営野球場において「ペトロ岐部と187殉教者列福式」を挙行した[152]。これは日本カトリック史上初めて日本で行われた列福式であった。

2009年には、日本プロテスタント宣教150周年を記念して、エキュメニカル派、福音派、聖霊派の三派の共同になる日本プロテスタント宣教150周年記念大会が開催された[109]

2010年5月に、エディンバラ宣教会議100周年を記念して世界宣教東京大会が開催。初日に大川従道牧師らが説教した。また閉会式で尾山令仁牧師が日本の犯した罪を謝罪し、これにこたえてアメリカ合衆国の代表が日本に原爆を投下した罪と世界に対して犯した罪を謝罪した[153][154]

2013年4月11日付のカトリック新聞オンラインに「旧日本軍に殺された司教、列福へ一歩前進」という記事が掲載された[155]。内容は、「日中戦争中に起きた正定事件によって殺害された司教ら9人の列福運動が、オランダで進んでいる」というものだったが、この虐殺事件の真偽が問題視され、西村眞悟がブログ上で抗議する[156]など波紋を呼んだ。

2016年、京都府木津川市に、コプト正教会系列の聖母マリア・聖マルココプト正教会が開設された。

2019年11月23日-26日の日程で第266代ローマ教皇フランシスコが来日(1981年の第264代教皇ヨハネ・パウロ2世以来、2度目の教皇来日)。教皇来日のテーマは、「すべてのいのちを守るため〜PROTECT ALL LIFE」[157]。フランシスコ教皇は東京都、広島県、長崎県を訪問し、東日本大震災被災者との交流、皇居での今上天皇(徳仁)との会見や総理大臣官邸での安倍晋三首相との会談、東京ドームでの5万人ミサなどを行った。

主な聖書翻訳

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2003年に、新日本聖書刊行会は、差別用語を中心に改訂し、新改訳第3版を発行。そして宗教改革500年の2017年に、新改訳の大幅な改訂が実施され、新改訳2017を発行。ほとんどの節に何等かの改訂が施された。フランシスコ会聖書研究所は、2011年にそれまでバラで発行していた聖書の合冊版を発行。日本聖書協会はカトリック側と共同で新共同訳の改訂に着手し、2018年に聖書協会共同訳を発行。新改訳2017も聖書協会共同訳も初刷で改訂箇所が見つかり、それぞれ発行された翌年に改訂している。

直近のキリスト教人口

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文化庁宗務課の統計『宗教年鑑 令和3年版』(2021年)によると、2020年12月31日時点で日本におけるキリスト教人口は1,915,294人で、対総人口比率は1.1%である[158]

ただし『宗教年鑑』は宗教法人化されていない宗教団体は含んでいないこと、逆に異端とされがちな宗派を含んでいることに注意が必要である[159]

『宗教統計調査 文化庁 令和2年度』によると、2019年末時点でのキリスト教人口の内訳は、カトリック教会880,277人、プロテスタント諸教派総計341,066人、日本ハリストス正教会9,468人、末日聖徒イエス・キリスト教会128,132人である[160]

「宗教年鑑 令和3年版」によると、都道府県別人口100人あたりのキリスト教徒数トップ5・ワースト5は下記の通りである。

(都道府県別)人口100人あたりのキリスト教徒数
トップ5・ワースト5
資料:宗教年鑑 令和3年度
順位 都道府県 人数 順位 都道府県 人数
1位 東京都の旗 東京 6.2人 43位 福島県の旗 福島県 0.39人
2位 長崎県の旗 長崎県 4.8人 44位 島根県の旗 島根県 0.39人
3位 神奈川県の旗 神奈川 3.3人 45位 岩手県の旗 岩手県 0.34人
4位 沖縄県の旗 沖縄県 2人 46位 富山県の旗 富山県 0.30人
5位 兵庫県の旗 兵庫県 1.1人 47位 福井県の旗 福井県 0.27人

脚注

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注釈

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  1. ^ 日本キリスト教歴史大事典編集委員会『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、ISBN 9784764240056、の「景教」の項目。広隆寺が何らかの役割を担っていた、といった記述もある。複数の文献が掲載されている。
  2. ^ 景教の日本への伝播によってイエス・キリストの誕生時の物語も日本にも伝わり、そのイメージを重ねる形で聖徳太子が馬小屋の前で生まれたとされ、その幼名が厩戸皇子となったとする説もいくつかの通俗本などで書かれているが、これに関しては証拠があるわけではなく、想像の域を出ない。
  3. ^ ネストリウス派キリスト教(中国景教と呼ばれたもの)が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説・研究がある[注釈 1][7][注釈 2]。ただし、歴史的証拠や文書による記録が少なく、はっきりしない点も多い。
  4. ^ a b c ポルトガル商人はキリスト教の教会を破壊し、キリストの肖像画を燃やさせた領主の港へも来航して宣教師と対立した[12]
  5. ^ キリスト教に敵対的な領主は領内の十字架を倒し、キリスト教徒を元の教えに強制改宗するように命じたり(1564年十月十四日)[8]、1563年十一月七日頃には修道院とキリシタンの農民たちの家を燃やした[9][10]。1573年にはトードス・オス・サントス教会が焼き払われている[11]。このようにキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していた[12]
  6. ^ a b 1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」は宣教師が朝鮮半島に日本人を売っていたと糾弾しているが[13]、朝鮮半島との貿易は対馬宋氏の独占状態であり[14]、宣教師が初めて朝鮮半島を訪れたのは1593年である。ポルトガルの奴隷貿易に関しては少数の中国人や日本人等のアジア人奴隷の記録が残されているが[15]、具体的な記述は『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』に頼っている。いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている。 『デ・サンデ天正遣欧使節記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[16]。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売る等の道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。 豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。
    牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候。

    ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり[17]、実際に目撃したものを著述したとは考えられず、文書の正確性に問題が指摘されている[18]

  7. ^ 天正遣欧使節記は幻想をあたかも現実かのように描いており、文学のジャンルに分類できると考えられている。実際に起きた会話を書き写したものではない[20]フィクションであるため歴史学の一次資料としての使用はできず、ラテン語で出版されているため読者はヨーロッパの人々を念頭に創作されていたと考えられる。
  8. ^ 1555年、ポルトガル商人が日本人の奴隷の少女を買い取ってポルトガルに連れ帰ったとイエズス会士が告発を行っている[23]
  9. ^ a b c イエズス会1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[注釈 8]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[24]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[25][26][27]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[28][注釈 4]
  10. ^ a b 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがある。宣教師によって記述された情報はポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動[22]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる[注釈 9]
  11. ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [30]のだという。
  12. ^ 江戸幕府が豊臣秀吉遊郭を拡大して唐人屋敷への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓を島原の乱後の1639年(寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている[31][32]。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売りの仲介をする女衒が、年季奉公の前借金前渡しの証文を作り、本人の意志に関係なく性的サービスの提供の強要が横行した(性的奴隷)。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発だった[33]
  13. ^ a b デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本文化宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[19][注釈 7]
    日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235

    デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[19]

    また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235

    デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[19]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[21]。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差がうかがえる[注釈 10]。伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[29][注釈 11]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった[注釈 12]。宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた[33][34]

  14. ^ a b 歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[38]
  15. ^ 中国人奴隷は目撃の20年前に日本人家族によって購入されていた[40]
  16. ^ 島津による豊後侵攻ではキリスト教徒、非キリスト教徒を問わず少年少女が乱妨取りによって奴隷とされた[42][43]
  17. ^ 秀吉は乱妨取りなどによって人身売買されたものだけでなく、日本各地で自発的に領地を出た農民をも領地に返すよう命じていた[47]。さらに肉食によって農業生産が落ちることを懸念していた[48]
  18. ^ 鄭舜功の編纂した百科事典『日本一鑑』によると、南九州薩摩[40]では200-300人の中国人奴隷[注釈 15]が家畜のように扱われていたと記録されているが[41][注釈 16]、日本の奴隷市場倭寇による中国人奴隷や朝鮮人奴隷の供給だけでなく、日本国内からの供給にも依存していたという[44]。歴史家ホムロ・ダ・シウヴァ・エハルトは、ポルトガル船来航以前から人身売買は行われており[45]、その状況も列島全体で広く知られていたことや、秀吉の質問状の分析から[46][45]、秀吉は倫理的な側面よりも宣教師の影響や、九州での労働力枯渇等の経済的な側面[注釈 17]を優先しており、秀吉が奴隷貿易に怒ってバテレン追放令を発布したとの岡本良知の説は覆えることになると結論を述べている[45]
  19. ^ 長崎はもともと小さな寒村に過ぎなかったが、カリオン神父
    ここには諸領主から迫害されて信仰を失いまいとして各地から追放されて来た様々なキリスト教徒たちによって造られた四百以上の家屋からなる集落がある

    と述べている[65]大村純忠は新町長崎と茂木寄進状を天正八年四月二十七日(1580年6月9日)付で発行、都市の無期限使用権と治外法権を与える代わりに、港の関税、入港税を永久に確保し、徴収のための役人を常駐させることにした[66]大村純忠ポルトガル船の誘致、新町長崎茂木寄進の打診は1579年秋にヴァリニャーノが訪問した際になされていたが、イエズス会は1580年10月、1582年12月において論議し申し出を受け入れることを裁決した。その理由として、戦争が絶えずある日本で、イエズス会は全資産を長崎に有しているため、安全な土地を持つ必要があること、戦渦や迫害により土地を追われたキリシタンのための避難所となること、ポルトガル船が来航することで、イエズス会の必要とする必需品がもたらされること、いつでも同地を手放すことができる自由裁量権があること等を挙げている[67]

  20. ^ 追放令を命じた当の秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[69]。1590年、ガスパール・コエリョと対照的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している[70]
  21. ^ 英国国教会豊臣秀吉が26人の殉教者を処刑した日の翌日である2月6日を1959年に記念日とした[76]アメリカ福音ルター派教会でも、2月5日を記念日としている。
  22. ^ イギリス商館リチャード・コックスは着任早々、オランダ人がイギリス人と称して海賊行為を行い、イギリス人の悪評が立っていることに衝撃を受けたという[80]。オランダ人に対抗するためにリチャード・コックスはオランダがスペイン王国の一部であるためオランダ人は反逆者であり、いずれ日本国を滅ぼすかもしれないと幕府に訴えた。またオランダは英国のおかげで独立しており、オランダは英国の属国だとの風評を立てた[81]。 オランダ商館長ヤックス・スペックスもコックスと同様に、オランダ総督をオランダ国王として虚偽の呼称を使用し、オランダ国王がキリスト教王国の中でも最も偉大な王であり、全ての王を支配しているとの風評を広げようとした。コックスはこれを逆手にとり、自国がオランダよりはるかに優れていることを大名や役人の前で説明したが、島津家久はこれを信じて、オランダ人でなくイギリス人に薩摩での貿易を許可するとの言質をとることに成功した[82]1616年、二港制限令はイギリス人とオランダ人を長崎と平戸に閉じ込めることを決定した。コックスは秀忠に謁見しようとしたが、家康宛ての書状であるとの表向きの理由で拒否された[83]。さらに宣教師も追い打ちをかけて、連邦共和国を巡ってスペインが困っているのは、イギリスの支援があるからであり、イギリス人が正統な国王に対して対抗する手段を与えたとの有害な事実を広めた[84]
  23. ^ 現存する最古の西洋人墓碑は江戸時代後期、元出島オランダ商館長ヘンドリック・ホットフリート・デュルコープ(1736-1778)のものである。オランダの日誌によるとキリスト教式の葬儀が異例ながら許された[95][96]。墓碑は1779年1月4日に設置された[97]
  24. ^ 家光はキリスト教への恐怖からオランダ人を出島に移したが、外国との貿易に付随する政治的な利害関係を排除するためでもあった[98]
  25. ^ 島原の乱において幕府の軍事支援要請にオランダ人は応じた。そのことでオランダはイギリスを含むヨーロッパ諸国から強く非難された[100]ジョバンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリはオランダ人が行っていた踏み絵をイギリス人が拒否したと記述しているが[101]、オランダ人が踏み絵をしたという一次資料は残されていない[100]ガリヴァー旅行記でもオランダ人が踏み絵をしていたとの風評が描かれている。
  26. ^ 日本のプロテスタントは1859年を日本宣教初年とし、プロテスタント宣教50周年、100周年、150周年を祝っているため、ベッテルハイムを巡って議論がある。
  27. ^ 1873年2月24日、政府は、明治6年太政官布告第68号(布告三十日間掲示及従来ノ高札面除却)により、従来の高札を撤去した。これにより、キリシタン禁制を定めた高札(五榜の掲示の第3札)は事実上廃止され、江戸時代初期以来つづけられてきたキリスト教に対する禁教政策に終止符が打たれた。
  28. ^ ジャン・マリー・コール (Jean-Marie Corre)
    1850年6月28日フランスのブリュターニュに生まれる。1875年パリ外国宣教会宣教師として来日、主として天草地方において伝道に従事した後、長崎の神学校に教師として配属された。その後、熊本に転じ苦難の中にハンセン病患者の救済に当たり収容施設である待労院を設立した。1911年2月9日熊本で死去。
  29. ^ モラヴィア兄弟団など未上陸の教派もある
  30. ^ ただし、エキュメニカル派リベラル派)と福音派聖書信仰)は福音主義についての解釈が異なる
  31. ^ 「日本の教会は、他の国々の教会の始まりとは異なって、人々の運動が起こらなかった。最初の指導者たちや教会員の多くは武士出身であり、金銭には潔白だったが、当時の特権的な知識階級だった。」
  32. ^ 試みに新信仰を告白したる当時の青年に就いてその境遇を調査せよ。植村正久は幕人の子に非ずや。彼は幕人の総てが受けたる戦敗者苦痛を受けたる者なり。本多庸一は津軽人の子に非ずや。維新の時に於ける津軽の位地とその苦心とを知る者は、誰れか彼らが得意ならざる境遇の人なるを疑う者あらんや。井深梶之助は会津人の子なり。彼は国破れて山河ありの逆境を経験したる者なり。押川方義は伊予松山の人の子なり。松山も亦佐幕党にして今や失意の境遇にあるものなり。」 「時代と戦わんとする新信仰を懐抱する青年が多く戦敗者のうちより出でたるは、共に自然の数なりきと言わざるべからず。総ての精神的革命の多くは時代の陰影より出づ」 "
  33. ^ 古屋安雄は日本のプロテスタントが知識階級、没落した士族階級中心であったことから、リベラル神学を受け入れてしまったのだと指摘する。
  34. ^ 1889年9月に大阪で行われた宣教師会議の時、他の宣教団の来日を必要とするという意見を述べたものが1名、また別に今後の時勢を見て他会へ来日要請することを考慮に入れるべきであるとするものが1名いたという。(ASMEP,Vol.573,Pierre-Marie Osouf à un pére,Tokio,17 août 1889.)
  35. ^ 平山要五郎(通称 牧民)
    1859年長崎県五島市岐宿町水ノ浦に生まれる。1889年2月10日に司祭に叙階された。五島列島では島田喜蔵に次いで2番目に叙階された司祭である。イエズス会の来日の実現に向けて働きかけたが、当時の長崎司教クーザンの強い反発を買い、破門に近い「聖職停止」の処分を受けた。1918年5月25日死去。
  36. ^ アルベール・アンリ・シャルル・ブルトン (Albert-Henri Charles Breton)
    1882年7月16日、フランスのサン-タングヴェールにて生まれた。アラスの神学校で神学を学んだのち、1901年パリ外国宣教会に入会した。1905年6月司祭に叙階、同年8月に日本派遣を命じられ函館に赴任した。翌年新潟、さらに1907年には青森県弘前に転任した。1908年、青森に赴任しフォーリー神父のもとで助任司祭を務めたが小児麻痺を発病し、治療のためにフランスに帰国した。アメリカ経由で日本に帰る途中、カルフォルニアの日本からの移民の実情を視察して帰任した。鎌倉七里ケ浜に土地を求め、聖テレジア療養所を設立、鎌倉教会および東京本郷教会の司祭を兼任した。1931年福岡司教に任ぜられ福岡に転じた。1940年引退。第二次世界大戦中も日本に留まったが一時スパイの疑いで憲兵隊に逮捕されたことが伝えられている。1954年8月11日、鎌倉において死去。
  37. ^ ジャン・ルイ・ルラーブ (Jean-Louis Relave)
    1857年12月17日フランス南部リヨン市郊外のセント・ジェルジス村で生まれた。パリ外国宣教会経営の神学校に学び、1885年司祭となった。直ちに宣教師として日本に派遣され、京都において伝道生活を送った後、宮津教会に転任し生涯を同地で過した。キリスト教布教のかたわら教育活動にも熱心で暁星女子高等学校を創立するなど女子教育に献身した。1940年、健康を害し1941年2月1日死去。
  38. ^ 「大学」を称しているが実際は専門学校令に準拠した専門学校である。
  39. ^ 日本基督教団と日本天主公教教団は、政府に求められて戦争協力を表明し、戦後になってこの事象を非難された時、教会と信徒を守るためには他に選択肢がなく、苦渋の決断であったと弁解した。
  40. ^ 終戦後、日本天主公教教団は廃止され、新たにカトリック中央協議会が組織された。
  41. ^ 日本基督教神学専門学校と日本基督教女子神学専門学校は戦後の学制改革により東京神学大学となった。
  42. ^ 1948年にカトリック教区連盟と改称、1953年8月24日にカトリック中央協議会となった。

出典

[編集]
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  12. ^ a b c BOXER, C. R. The Christian Century in Japan, 1549 – 1650. California: University of California Press, 1974, pp. 97-98, "But since the Portuguese are unwilling to do this, and they often go to places against the padres` wishes, there is always much jealousy and rivalry between these lords, from which follow in turn to great toil and moil to the padres and to Christianity. And, moreover, it sometimes happens that the Portguese go with their ships to the fiefs of heathen lords who bitterly persecute the padres and Christianity, wrecking churches and burning images, which causes great scandal and contempt of the Christian religion."
  13. ^ 高麗江日本仁を売遣侯事曲事、1587年6月18日
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  18. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p.346
  19. ^ a b c デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p233-235
  20. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 366, "First, it is important to consider the format chosen by the missionaries. As Nina Chordas explains, early modern dialogues were a quasi-fictional genre, in the sense that they insisted on being accepted as an entity “with some agency in the actual, material world”. As a literary genre, the dialogue was the result of a “general distrust of imaginative literature” in the late Renaissance, thus offering an alternative for seducing the rational mind.1151 These texts were, as pointed by Jon R. Snyder, “never transcriptions of conversations or debates that actually occurred (although this is one of their enabling fictions); no unmediated traces of orality can be discovered in dialogue, except in the form of carefully constructed illusion.”1152"
  21. ^ MATSUDA Kiichi. Tenshō Ken’ō Shisetsu. Tokyo: Chōbunsha, 1991, pp. 274-5
  22. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 19-20
  23. ^ Slavery in Medieval Japan, Slavery in Medieval Japan, Thomas Nelson, Monumenta Nipponica, Vol. 59, No. 4 (Winter, 2004), pp. 463-492, "As early as 1555, complaints were made by the Church that Portuguese merchants were taking Japaense slave girls with them back to Portugal and living with them there in sin....Political disunity in Japan, however, together with the difficulty that the Portuguese Crown faced in enforcing its will in the distant Indies, the ready availability of human merchandise, and the profits to be made from the trade meant that the chances were negligible of such a ban actually being enforced. In 1603 and 1605, the citizens of Goa protested against the law, claiming that it was wrong to ban the traffic in slaves who had been legally bought. Eventually, in 1605, King Philip of Spain and Portugal issued a document that was a masterpiece of obfuscation intended both to pacify his critics in Goa demanding the right to take Japanese slaves and the Jesuits, who insisted that the practice be banned."
  24. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  25. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 496-497 "If that is the case, the king had then sent copies of the same order to India at least three times: in 1603, when Aires de Saldanha published it, in 1604, with Martim Afonso de Castro, and in 1605."
  26. ^ COSTA, João Paulo Oliveira e. O Cristianismo no Japão e o Episcopado de D. Luís Cerqueira. PhD thesis. Lisbon: Universidade Nova de Lisboa, 1998, p. 312. Sousa indicates the same letters, but he mistakenly attributed them to Filipe II, Filipe III’s father. See SOUSA, Lúcio de. Escravatura e Diáspora Japonesa nos séculos XVI e XVII. Braga: NICPRI, 2014, p. 298.
  27. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 493
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  40. ^ a b Human Trafficking and Piracy in Early Modern East Asia: Maritime Challenges to the Ming Dynasty Economy, 1370–1565, Harriet Zurndorfer, Comparative Studies in Society and History (2023), 1–24 doi:10.1017/S0010417523000270, p. 13, "The wokou also engaged in human trafficking. In 1556, the Zhejiang coastal commander Yang Yi sent his envoy Zheng Shungong (flourished in the sixteenth century) to Japan to ask Kyushu authorities to suppress piracy along the Chinese littoral. When Zheng arrived, he found in Satsuma some two to three hundred Chinese working as slaves. Originally from southern Fujian prefectures, they were kept by Japanese families who had bought them from the wokou some twenty years before.61"
  41. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 277, "Chinese forced labor brought to Japan via these pirates is Zhèng Shùn-gōng 鄭舜功’s Rìběn Yíjiàn 日本一鑑. The book was compiled during Zhèng’s six-month trip to Bungo 豊後 in 1556, during the height of the Wakō activities in the region. In the section describing captives in Japan, Zhèng mentions that in Takasu 高洲, southern Kyushu, there were about two to three hundred Chinese people, “treated like cattle”, originally from Fúzhōu 福州, Xīnghuà 興化, Quánzhōu 泉州, Zhāngzhōu 漳州 and other areas serving as slaves in the region.910"
  42. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p.274-275, "[Those from Satsuma, seeing that they were so successful in their intent,started to burn, destroy and devastate throughout those lands of Nangun and otherwere they went through, that nothing would stand still, and those who resisted alittle soon were killed. And what was not the least shameful thing, but the greatest shame, was to see the great crowd of people they would take captured, especially women, boys and girls, to whom they committed the greatest cruelties, and among these there was a great number of Christians.].
  43. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 275, "The scenario is confirmed by the diary of Uwai Kakken 上井覚兼, a bushi at the service of the Shimazu clan. In the entry for the 12th day of the 7th month of Tenshō 14 –August 26th 1586 – he writes:「一、十二日、早旦打立、湯之浦ヘ着候、路次すから、手負なとに行合候、其外、濫妨人なと・女・童なと数十人引つれかへり候ニ、道も去あえす候」903"
  44. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 282, "Forced labor was a sub product of these struggles, and the Japanese slave market became dependent not only on Chinese and Koreans captured by Wakō, but also on servants captured domestically."
  45. ^ a b c Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 333, "In conclusion, the interrogatory sent by Hideyoshi shows that the ruler was more concerned with economic aspects and the impact of the way Jesuits acted in Japan rather than moral issues. The depletion of the fields of Kyushu from human and animal labor force was a serious issue to the local economy. This conclusion overturns what has been stated by the previous historiography, since Okamoto, who defended that Hideyoshi, upon arriving in Kyushu, discovered for the first time the horrors of the slave trade and, moved by anger, ordered its suspension.1053 However, as we saw before, the practice was much older and most certainly known in the whole archipelago, although apparently restricted to Kyushu. Because the Kanpaku consolidated his rule over the island, conditions were favorable for him to enact such orders."
  46. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p.333, "The Kanpaku made three irrefutable offers to the Jesuits, effectively establishing the conditions for them to stay in the archipelago."
  47. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 330-331 ,"Fróis was, in fact, explaining his audience that Hideyoshi’s was poised to demand the return of people who were displaced by events such as war, kidnapping, or even people who had voluntarily fled their village...And the order for return of laborers to one’s fief was one of the necessary maneuvers to guarantee these conditions. These people could be displaced not only by conflict or kidnappings, but also by fleeing economic and social conditions. 1050 These were moves occurring in all Japanese territory and were not restricted to areas of Kyushu."
  48. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 328 ,"He explains the necessity they had of cows and horses in the country, as an important resource for war and manual labor. Hideyoshi also explains that eating these animals could deplete the land of this important resource. Once more, the ruler makes an irrefutable offer to the priests: if the Portuguese and the missionaries could not live without eating meat, Hideyoshi would order the construction of a facility to keep hunted animals to be consumed by the foreigners."
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  79. ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 32, "The dénouement of summer 1616 occurred while Cocks was in Edo; indeed, I have argued here that Cocks’s presence was the trigger. But he sorely overplayed his hand. Cocks’s remarks caused alarm more widespread than he could have intended. As well as banishing the bateren shūmon, Hidetada decided to confine the English and the Dutch.177"
  80. ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 30 "Little has been said above about the Dutch. Their base was beside that of the English on Hirado. On first arrival in Japan, Cocks and Saris were shocked to find that individual Dutchmen (not the Company itself) were billing themselves as “English,” which they did so as to engage in piracy without sullying their own country’s name.161 Not withstanding the honours given to Addames, the reputation preceding the English was accordingly not good."
  81. ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 31, "The best strategy was to link the Dutch to the Jesuits, which was intensely done after the first change in shogunal attitude in winter 1613–1614, after Saris had left and Cocks had gained some purchase on the situation in Japan. Jacques Speckx (1585–1652), chief of the Dutch factory, he reported, proclaimed that in Asia, “he took the Graue Moris [graf Maurits (1567–1625)] and the Estates of Holland to be as much as the King of England, if not more.”166 Yet Cocks countered, telling Matsura Takanobu that the Dutch were “natural vassals of the King of Spain,” and “in open rebellion cast hym offe,” referring to the Spanish Netherlands. Takanobu should beware, for the Dutch “might breed some alteration in the harts of his owne vasseles to doe as the Hollanders had done,” with wider ramifications, to “make others as themselves are, to the over throwe of the state of Japan.”167 Cocks pursued a dual line: the United Provinces were rightfully part of Catholic Spain, so the Dutch were rebels, and, though this was contradictory, it was England that had secured such independence as the Dutch enjoyed, and so, in a manner, was overlord to them. He informed the Hirado court “that all might heare” how, “the King of England has vassales much greater than the prince (or county [count]) w’ch governs the Hollanders, and that their state or government was under the command of the King of England, he having garrisons of English soldiers in their cheefest fortes, or places of strength they had.”168"
  82. ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 31-32 "Cocks was drawing attention to the Cautionary Towns, placed under English control as surety for Elizabeth’s enormous loans to the Dutch cause.170 But it was stretching the point to imply that the United Provinces were under English rule in any comprehensive way. Still, on hearing a Dutchman claim “their kinge of Holland to be the greatest kinge in Christendome, and that held all the others under,” Cocks weighed in: “I was not behindhand to tell him hee need not lye so  oude, for that they had no kinge at all in Holland, but wer governed by a count, or rather, they governed him,” that is, he was an elected stadtholder, not a king, which to a Japan just emerging from civil war might seem dangerously loose. And Cocks continued, forgetting Spain: “If they had any kinge of which they might boast, it was the Kinge ma’tes of England, who hitherto have been their protector, otherwise they had never bragged of their states.”171 "
  83. ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 32, "Cocks found himself blocked. James’s latest letter, brought on the Thomas or Advice, was refused, ostensibly on the grounds it was addressed to Ieyasu (recently deceased), and Cocks was allowed no audience.178 All the sub-factories were closed, with trade thereafter conducted only from Hirado. Cocks lamented they “might as wel banish vs right out of Japon as bynd vs to such a order.”179 He was informed by Kakuzeamon that it was temporary, until Japan was cleared of priests, after which trade would be reexpanded.180 But no reexpansion came."
  84. ^ The English and the Control of Christianity in the Early Edo Period, Timon Screech, Japan Review 24 (2012), p. 33, "Hidetada, now free of his father, made large-scale alterations to Ieyasu’s dispensation, not just with reference to international commerce. “[E]very one complayneth,” said Cocks, “that matters aer worse than in the ould mans daies, and that this man doth nothing but change offecers and displace tonos [daimyo].”181 The sequence with which this paper has engaged ended that autumn. The Jesuits were gone, or at least should have been. They were not supine, however; though few in number and living in hiding (as in England), they leaked out damaging facts. They tried to turn the tables over the matter of the United Provinces, pointing out the King of Spain was only troubled there because of English support, and “thenglish were they w’ch gave hem [the Dutch] meanes to stand against their naturall prince.”182"
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参考文献

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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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