イチロー
ニューヨーク・ヤンキース #31 | |
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2012年8月1日、ヤンキー・スタジアムにて | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県西春日井郡豊山町 |
生年月日 | 1973年10月22日(51歳) |
身長 体重 |
5' 11" =約180.3 cm 170 lb =約77.1 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 外野手(主に右翼手) |
プロ入り | 1991年 ドラフト4位 |
初出場 |
NPB / 1992年7月11日 MLB / 2001年4月2日 |
年俸 | $6,500,000(2013年) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
WBC | 2006年、2009年 |
この表について
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イチロー(本名:鈴木 一朗〈すずき いちろう〉、1973年10月22日 - )は、ニューヨーク・ヤンキースに所属する愛知県西春日井郡豊山町出身のプロ野球選手(外野手)。他表現では「Ichiro」「Ichiro Suzuki」「イチロー・スズキ」など。
NPB・MLBの双方で活躍。MLBのシーズン最多安打記録や10年連続200安打などの多数の記録を保持している。
夫人は元TBSアナウンサーの福島弓子。代理人はトニー・アタナシオ。
日本での愛称は「イチ」。アメリカ合衆国での愛称は「魔法使い(Wizard)」「安打製造機(Hit Machine/Hitting Machine)」など[1][2][3][4]。
経歴
プロ入り前
この節の加筆が望まれています。 |
小学校時代は地元の少年野球チーム・豊山町スポーツ少年団に所属。エースで4番として活躍。6年生の時に全国大会に出場。小学3年生の頃から学校から帰ると、父親と近くの公園で野球の練習に明け暮れた。やがて学年が上がるにつれて、それだけでは満足できなくなり、町内にある空港バッティングセンターにほぼ毎日通い詰めていた。バッティングセンターに通いつめるあまり、普通の球速では満足できなくなり、イチロー用のスプリングを作って、行く前に電話したという[要出典]。同センターにはイチロー専用8番打席が現在もある。なお、同時期に稲葉篤紀も同じバッティングセンターに通っていた。稲葉は「隣で同い年くらいの奴がめっちゃ速いボールを簡単に遠くまで飛ばしていた」と話している。
豊山中学校では小学生時代の仲間と共に学校の野球部に所属。エースで中軸(主に3番)を打ち、中学3年の時に全日本少年軟式野球大会に出場し3位入賞を果たす。学校での成績も優秀で、学年では常にトップ10に入っていたという。地元・愛知の多くの強豪校から誘いが来たが、愛工大名電に進学する。
愛工大名電高校時代から地元では有名な選手で、愛知を代表する名門野球部において1年時からいきなりレギュラーを獲得(ポジションは三塁手で打順は主に1 - 3番) 。2年時に夏の甲子園(左翼手として出場)、3年時に春の甲子園(投手として出場)と2度甲子園に出場したものの、いずれも初戦敗退に終わっている。高校時代の監督は中村豪。松井秀喜とはこの頃から練習試合を通じて面識があった。高校3年生の地方大会での打率が7割以上を記録していた程の打者だった。3年間の高校通算成績は536打数269安打、打率.501 本塁打19本 二塁打74本 三塁打28本 盗塁131である。高校時代は投手だったが、交通事故(自転車での通学中に車と接触している)による怪我が原因で投手から野手転向を余儀なくされる。投手としても有力な選手として当時から名前が挙がっていた。
1991年ドラフト4位でオリックス・ブルーウェーブに入団。
オリックス時代
- 1992年
- 7月11日の対福岡ダイエーホークス17回戦(平和台球場)で、左翼手・村上信一に代わって守備で「鈴木 一朗」として1軍初出場を果たした。翌日の対ダイエー戦で初スタメン出場。木村恵二の放った直球を右翼へ打ち返してプロ初安打を記録した[5]。この年は打率.366でウエスタン・リーグの首位打者を獲得しながらも、土井正三・小川亨などの1軍首脳陣から自身の打法(振り子打法)を否定される。「足の速さを活かしてゴロを打つように」と打撃方法を変更する打診を受けたが拒否[6]、1軍打撃コーチの山内一弘と意見や指導が合わず、シーズン終盤にスタメン起用される機会は増えたものの、一軍に定着することはなかった。同年のジュニアオールスターでは、同点の8回に有働克也から代打決勝本塁打を放ってMVPと賞金100万円を獲得するが、この賞金全額を神戸市の養護施設に寄付した(2軍選手ではイチローが初)。
- 1993年
- 4月10日の開幕戦は9番・中堅手としてスタメンに起用され、翌日の試合では1番打者を務める。その後は控えにまわり、6月12日の対大阪近鉄バファローズ戦(長岡市悠久山野球場)で再び1番・中堅手としてスタメン出場を果たす。同試合では野茂英雄からプロ初本塁打を放った[7]。以降も6月23日まではスタメン起用されるが、程なくして打法に関する監督の意向で2軍行きを命じられる。2軍生活を余儀なくされたイチローは、同年の秋に2軍打撃コーチの河村健一郎と二人三脚で、日本時代のイチローの代名詞ともなる「振り子打法」を作り上げた。2軍では、前年から続いて2シーズンにまたがる46試合連続安打を記録(1シーズンでは30試合)[5]。この年は打率.371を残したが規定打席に少し足りず、もし規定打席に達していれば首位打者になる可能性があった(1993年のウエスタン・リーグ首位打者の柳田聖人の打率は.346)。同年オフにはハワイ・ウィンターリーグに派遣され、「ヒロ・スターズ」に所属して優勝し、ウィンター・リーグ初のMVPに選ばれた。カウアイのヴィディンハ・フィールドでは推定飛距離500フィート(152メートル)の本塁打を打ち、地元では「新幹線ホーマー」と呼ばれていた[8]。
- 1994年
- 公式戦開幕直前、登録名を本名の「鈴木一朗」から「イチロー」に変更。日本人選手として初めてファーストネームでの選手名登録となった。この年から監督に招聘された仰木彬はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと即座に一軍に呼び、2番打者に抜擢。打法も同年から新しく1軍打撃コーチとなった新井宏昌に理解され、レギュラーとして活躍。4月末から1番打者に定着し、5月から8月にかけて日本プロ野球新記録となる69試合連続出塁を記録した。9月11日には日本プロ野球タイ記録の1試合4二塁打を記録すると同時に、1950年に藤村富美男が作ったシーズン最多安打記録191本に並んだ。次の試合でシーズン最多安打記録を44年ぶりに更新し、同月の122試合目には日本プロ野球史上初、130試合制としては史上唯一となるシーズン200本安打の偉業を達成した。最終的に安打数も210本(当時の日本プロ野球記録、2010年にマット・マートンが214本を記録したため、現在はパ・リーグ記録)まで伸ばし、この活躍で安打数が話題となったため、連盟によって同年から「最多安打」が連盟表彰のタイトルとされた。打率では、プロ野球史上初の4割打者誕生はならなかったものの、130試合制の中で124試合終了時まで3割9分台(.3904)を堅持。最終的にはパシフィック・リーグ新記録となる打率.385(2000年に自ら記録を更新)を残して首位打者を獲得。そのほかにも最高出塁率・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞を獲得し、打者としては日本プロ野球史上最年少でシーズンMVPを獲得した。
- 1995年
- 開幕前の1月17日に発生した阪神淡路大震災によって、本拠地の神戸市が壊滅的な被害を受けた。イチロー自身も神戸市内にあるオリックスの寮で被災するなど、この年のオリックスは「がんばろう KOBE」を合言葉にスタートした。イチローは震災からの復興を目指す「神戸のシンボル」的存在として、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得。「打者五冠王」に輝いた。打点王と盗塁王の同時獲得は日本プロ野球史上初(現在も唯一)のほか、全試合フル出場での首位打者は王貞治(1969年)に次ぐ史上2人目の快挙だった。本塁打はリーグ3位タイの25本で、この年に28本放って本塁打王を獲得した小久保裕紀とは3本差であり、日本プロ野球史上前例のない打撃タイトル独占(六冠王)にあと一歩だった。そのほか、リーグ2位の長打率や当時のパ・リーグ記録となるシーズン18死球、自身初のリーグ最多敬遠に加え、当時の日本プロ野球タイ記録となるシーズン初回表先頭打者本塁打5本を残すと、前年に自らが記録した69試合に迫る歴代2位の67試合連続出塁を記録。2年連続となるシーズンMVP・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞も受賞。そしてチームは悲願のリーグ優勝を達成した。
- 1996年
- 開幕から前半戦まで1番打者として出場。オールスターゲーム第1戦では広島東洋カープの紀藤真琴から初回先頭打者初球本塁打(オールスター史上3人目、パ・リーグ選手では史上初)を放った。第2戦では投手として登板。セ・リーグ総監督の野村克也が松井秀喜の代打で送った高津臣吾を遊ゴロに打ち取っている。後半戦からは打順を変更され、3番に固定。前半戦までは打率が1度も.330を超えない状態が続いていたが、3番になってからは調子を上げて固め打ちが目立つようになり、8月にはプロ野球記録となる月間48安打(月間打率は.475)を記録した。最終的に3年連続となる首位打者を獲得し、また193安打で3年連続となる最多安打・最高出塁率を記録、去年に引き続き最多敬遠も記録した。猛打賞を26回(達成当時、日本プロ野球記録。現在日本プロ野球歴代2位)、1試合4安打を8回記録(達成当時、日本プロ野球新記録。現在はパ・リーグ記録)。9月23日の対日本ハムファイターズ戦(グリーンスタジアム神戸)で、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ二塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「神戸での胴上げ」を実現させた。日本シリーズでは、第1戦の延長10回に河野博文から決勝本塁打を放つなどの活躍を見せ、1977年以来19年ぶりの日本一に輝いた。イチローは優秀選手賞を受賞したほか、3年連続となるシーズンMVPを手にした。3年連続シーズンMVPは日本プロ野球タイ記録で、山田久志に次いで史上2人目の快挙。
- 1997年
- この年以降は主に3番打者として出場。6月に「209打席連続無三振」の日本プロ野球記録を樹立。その後の対日本ハム戦で下柳剛から三振するまで、「216打席連続無三振」を記録した。三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年時の三振はわずか3つである。最終的には185安打として、最高出塁率に関しては3年連続で途切れたが、最多安打・首位打者を4年連続とし、最多敬遠も3年連続と伸ばした。
- 1998年
- シーズン序盤から好調を維持。91試合目には打率.396を記録した。最終的に打率.358、181安打でシーズンを終え、張本勲の4年連続を抜いて日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成。5年連続・通算5回目となる最多安打も記録した(連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録。5年連続は長嶋茂雄の6年連続に次いで歴代2位、通算5回は長嶋茂雄の10回、川上哲治の6回に次いで歴代3位)他、リーグ最多敬遠も4年連続となった。
- 1999年
- 4月20日の対日本ハム戦で金村曉から本塁打を放ち、日本プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。7月6日の対西武ライオンズ戦で松坂大輔から通算100号本塁打を打った。前半戦を打率.370・19本塁打・60打点の成績で折り返すと、1995年以来のペースで本塁打を量産していたが、8月24日の対日本ハム戦で下柳剛から右手に死球を受けて負傷、残りのシーズンを棒に振った。これにより、1994年の開幕戦から続けていた連続試合出場がパ・リーグ歴代4位(現5位)の763でストップした。また、今シーズンは141安打にとどまり、最多安打に関しても5年連続で途切れた。しかし3年ぶりに最高出塁率を記録した他、首位打者に関しては6年連続とした他、引き続き5年連続最多敬遠を記録した。
- 2000年
- 開幕戦から4番に指名される。毎試合スタメン出場すると、79試合目を終えた時点でも打率.401を残すなど高打率を維持。7月には通算10度目となる月間MVP(日本プロ野球記録)を受賞した。97試合目終了時点で打率.398を記録。102試合目終了時まで3割9分台(.3923)を堅持するなど高打率を残していたが、8月27日の対千葉ロッテマリーンズ戦で3回に三塁線へファウルボールを打った際に右脇腹を痛めて途中交代。再び残りシーズンを棒に振った。
- 10月12日、記者会見でポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦の意向を表明。翌日の神戸での本拠地最終戦で9回に守備固めとしての出場した(打席には立たなかった)。前日の記者会見を聞いたファンの声援に応えるため、イチローは手を振って応え、ファン一人一人と別れの握手をした。最終的に、日本プロ野球歴代2位となるシーズン打率.387を記録。安打数こそ153安打にとどまり最多安打を逃したが、通算7度目の首位打者(日本プロ野球記録)を獲得。6年連続となる最多敬遠(パ・リーグ記録)も記録。ほか、2年連続通算5度目となる最高出塁率、7年連続通算7度目となるベストナイン・ゴールデングラブ賞をそれぞれ獲得した。
- 11月10日にポスティングシステムによる交渉権をシアトル・マリナーズが獲得。19日に3年契約で合意し、28日に渡米。30日に3年総額1400万ドルで正式契約を結び、野手としては日本人初のメジャーリーガーとなった[注 1]。
マリナーズ時代
(日付は全て現地時間)
- 2001年
- 当初は、日本人野手がメジャーで通用するのか疑問視する声が日米問わず多かった。あるマリナーズの番記者は日本でのイチローのビデオを見て、「ピッチャーが投げるすべての球に反応して動き、バッターボックスでふらついているようにも見えた。球を叩くように打ち、すぐさま走り出すスタイルは、メジャーリーグの投手と野手が相手では歯が立たないだろうと思われた。その上、パワーもなさそうだった」と述べ、当時のマリナーズ監督のルー・ピネラも、「打率は2割8分から3割、盗塁は25から30、まあ得点は稼いでくれるだろう」とそこまで大きな期待はしていなかった[9]。また、「背番号51」についても、当時のマリナーズではランディ・ジョンソン(1989 - 1998年まで在籍)の番号というイメージがファンの間で認識されていたために、「ランディの功績を台無しにする」「ランディを侮辱している」という理由であまり好意的には見られていなかった。その後の活躍で、このことを取り沙汰するファンは誰もいなくなった(最終的に、マリナーズでの背番号51は、ランディ・ジョンソンとの連名での永久欠番になるのではないかといった予想がされるまでになる[10])。前述の番記者も、シーズン開幕から1か月半後の『シアトル・タイムズ』紙に、「お詫び」のコラムを掲載している[9]。
- 4月2日のオークランド・アスレチックスとの開幕戦に、1番・右翼でスタメン出場。第4打席に中堅前へメジャー初安打を放ち、第5打席にはバント安打を記録して2安打1得点の活躍でチームの勝利に貢献した。4月11日は敵地オークランドで三塁を狙ったテレンス・ロングを完璧な送球で刺して大きな話題を呼んでいる(後述)。その後も順調に安打を積み重ね、4月から5月にかけて2か月連続でこの年から制定された月間新人MVPを受賞。オールスターゲームではファン投票で337万票を獲得。日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となる得票数で初選出された。オールスターでは先発のランディ・ジョンソンと対戦。内野安打を放ち、盗塁も記録した。7月はキャリアを通じて自己ワーストとなる21打席連続無安打を喫し失速するが、翌月から復調。8月28日には132試合目での200安打に到達。9月8日には1996年にアレックス・ロドリゲスが記録した球団最多安打記録の215安打を更新。再び8月と9月の2か月連続で月間新人MVPを受賞する活躍で、シーズン116勝(メジャータイ記録)でのチームの地区優勝に大きく貢献した。マリナーズのこの活躍は、コミッショナー特別表彰を受けることになる。
- この年、1930年のビル・テリー(ジャイアンツ)以来となるシーズン242安打(当時歴代9位)を放ち、メジャーリーグの新人最多安打記録を更新(この年の両リーグ最多安打でもある)するとともに、メジャー史上初となるアメリカンリーグの新人王・MVP・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞の同時受賞を達成(現在でも唯一)。首位打者と盗塁王を同時に獲得したのは1949年のジャッキー・ロビンソン以来52年ぶり通算6人目、新人でアメリカンリーグの打撃部門を制したのは1964年ミネソタ・ツインズのトニー・オリバ以来。安打試合数の135試合はロジャース・ホーンスビー、チャック・クライン、ウェイド・ボッグス、デレク・ジーターら4人と並ぶメジャータイ記録で、192単打と692打数はアメリカンリーグ新人記録、打率.350はアメリカンリーグ1年目選手の歴代最高打率。新人王とMVPに同時に選出されたのはイチローのほかには1975年のフレッド・リンのみであり、新人王と打撃タイトルの同時受賞はトニー・オリバ(首位打者)、ジャッキー・ロビンソン、ビンス・コールマン(盗塁王)、ウォルト・ドロポ(打点王)、マーク・マグワイア(本塁打王)以来6人目である。当時、イチローの安打数が200を超えたあたりからメディアでは「新人最多安打記録」が話題になったため、リーグ機構が1947年に制定したルーキー資格を基に過去の打撃記録を調べ直した結果、当初1927年のロイド・ウェイナーの「223安打」と思われていた新人安打数記録が1911年にジョー・ジャクソンが記録した「233安打」に訂正される事態も起きている[要出典]その他にもリーグ2位の127得点を残し、得点圏打率(.445)、2死得点圏打率(.460)、2死得点圏出塁率(.558)、走者ありでの打率(.420)は両リーグを通じて1位を記録した。
- 5月は月間打率.404を残すと、26日に打率と出塁率でリーグトップに躍り出た。6月18日のシンシナティ・レッズ戦では1999年2月にマリナーズのキャンプに参加して以来3年ぶりにケン・グリフィー・ジュニアと再会。「やっぱり彼は僕にとってメジャーリーガーの象徴。メジャーに興味を持ったのも、彼の美しさ、スピードを見て感銘を受けたからなんです」と語った[11]。しかし8月から調子を落とし、9月22日のアナハイム・エンゼルス戦で2年連続の200安打を達成したが、チームも8月から失速。監督のルー・ピネラはゲン担ぎとして試合前のメンバー表交換にイチローを登場させるなどしたが、地区3位に沈んだ。自身は最終的にリーグ4位の打率.321を残すと、208安打を打つも最多安打にはあと1本及ばなかった。前年の活躍もあったため、投手から警戒されるようになり、それに伴いリーグ最多の27敬遠を記録した。そのため、四球は前年の30から68に倍増した。11月には日米野球に参加した。
- 2003年
- 4月は打率.243という低調なスタートを切ったが、5月から調子を上げ、16日にはメジャー通算500本安打を達成。オールスターのファン投票では新人から3年連続で両リーグ最多得票を獲得。この年から新たに設けられた選手間投票でも最高の評価を受けて選出された。これは、ファン投票の連続最多得票は新人からという注釈を外してもケン・グリフィー・ジュニア以来史上2人目の快挙であり、メジャーリーグのスター選手の地位を確固たるものにした。7月18日には自身メジャー初の満塁本塁打を放った。前年と同じく8月に失速。9月20日に200安打に到達したものの、最終的にはリーグ7位の打率.312、同2位の212安打に終わった。チームも前年と同じく同時期に失速。前年と同じ勝敗数でシーズンを終えた。オフには4年4400万ドルで契約延長した。
- 2004年
- スプリングトレーニングでメジャー移籍後最高となる打率.421を残して開幕を迎える。前年と同じく4月は打率.255と低調なスタートとなったが、5月には調子を上げ、日米通算2000安打を達成すると共に自身2度目の月間50安打を記録。21日に日米通算2000安打を達成。6月にやや調子を落とすと、オールスターのファン投票中間発表では松井秀喜が3位、自身は4位だったが、最終発表で逆転し4年連続のオールスター先発出場を果たした。7月は29日に1試合5安打を記録するなど再び調子を上げて51安打を放ち、ジョー・メドウィック以来68年ぶりとなるシーズン2度の月間50安打を達成。8月3日には首位打者に浮上した。26日にはメジャー史上初となるデビューから4年連続200安打記録を本塁打で自己最速にて達成。31日に球団記録であるアレックス・ロドリゲスの月間54安打を更新すると、68年ぶりにロイ・ウェザリーの月間56安打のタイ記録に並んだ(タイ・カッブの月間67安打には届かなかった)。正式な記録ではないが、7月18日から8月17日の間にヒットを67本打っている(この間の打率は.508)。通算4度の月間50安打はピート・ローズに並び(メジャー記録はジョージ・シスラーの10度)、他にもシーズン月間50安打の記録を3度とし、68年ぶりに記録を更新。9月30日にはビル・テリーの連続4シーズン通算918安打も更新。10月1日、本拠地セーフコ・フィールドで迎えたテキサス・レンジャーズ戦では、84年間破られることのなかったジョージ・シスラーのメジャー歴代シーズン最多安打記録の257安打を更新した。
- 10月1日に256安打としていたイチローはライアン・ドリースから第一打席に三塁前に高くバウンドするレフト前ヒットで記録に並ぶと、第二打席にセンター前に弾き返し258安打とした。この試合のアナウンサーのデイブ・ニーハウスは「the greatest moment of my baseball career」と述べ、最多安打を打った瞬間には「And a ground ball back up the middle! And there it is! He's the new all time hit king in major league history, number two-five-eight! My oh my!」と実況した"[12][13]。258安打を打った後チームが連打で畳み掛け、この日は3安打、チームも勝利した。その後、10月2日に1安打、10月3日の最終試合でも2安打を打った。
- 最終的にチームは12年ぶりの地区最下位に沈んだが、自身はジョージ・シスラーのシーズン安打記録を5本上回る262安打でシーズン最多安打記録を更新。同時に打率.372を残すと、メジャーでは3年ぶり2度目の首位打者にも輝いたほか、得点圏打率(.372)、得点圏出塁率(.484)、2死得点圏打率(.472)、2死得点圏出塁率(.600)、走者あり打率(.364)、走者あり出塁率(.439)、対左投手打率(.404)、敬遠数(19)、出塁数(315)でもリーグ1位を記録。出塁率(.414)、盗塁数(36)などではリーグ2位を記録した。262安打の影に隠れがちであるが、月間50安打をシーズンで3度達成したのは史上初、またロード打率(.405)、後半戦打率(.429)を記録。更にロードで記録した145安打もロード記録としてはシーズンメジャー最多安打となった。
- シスラーの記録は年間154試合制での記録で、イチローは160試合目での記録到達であったため[14]、米国内では少なからず疑問視する見方もあったものの[15][注 2]、この記録は内外で高い評価を受け、アメリカでは多くの新聞でその偉業を称える記事が掲載され、『USAトゥデイ』紙にもバリー・ボンズが700号ホームランを打った時以来の全面広告でメジャーリーグ機構が祝福の意を表した。ジョージ・シスラーの記録そのものが「破るのが困難な記録」とされていたこともあり、イチローは史上8人目となるコミッショナー特別表彰を受け(2001年にも球団としてコミッショナー特別表彰を受けており、複数回の受賞を達成したのはイチローが唯一である)、アメリカ野球殿堂には特別ブースが用意された。日本からは正力松太郎賞特別賞が授与された。
- 2005年
- 4月は打率.356と好調なスタートを切ったが、一方で例年調子の良い5月に調子を落とす。6月14日には1933年のチャック・クライン(683試合)、1932年のロイド・ウェイナー(686試合)に次いで1900年以降3番目のスピード記録となる696試合目でのメジャー通算1000安打を達成したが、結果的にはメジャー5年目の時点で自己最低となる打率.311で前半戦を終了。オールスターではファン投票4位となり、初めて選手間投票での選出となった。翌年のワールド・ベースボール・クラシック開催を記念して、各国から選出された打者によって争われることとなったオールスター前日のホームランダービーの出場も打診されたが、こちらは辞退した。
- 前年の活躍によってテッド・ウィリアムズ以来の打率4割達成やジョー・ディマジオの持つ56試合連続安打記録の更新なども期待されたシーズンであったが、最終的にはメジャーでの自己最多となるシーズン15本塁打・12三塁打を記録した一方で、自己ワーストの打率.303と206安打に終わり、(当初の期待から見れば)不本意なシーズンとなった。また、チームも2年連続の地区最下位に沈んだ。5年連続100得点30盗塁は6年連続のジョー・モーガン、タイ記録のリッキー・ヘンダーソンに次いで3人目(19世紀の記録を入れるとビリー・ハミルトンの10年連続が最高)。5度の200安打100得点30盗塁はタイ・カッブ以来89年ぶり、連続記録としては史上初。チャック・クラインの連続5シーズン通算1118安打を抜いた。
- この年に初開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表に選出される。イチローはこれまで国際大会については「オリンピックはあくまでもアマチュアのための大会。自分はプロ」という考え(アマチュアリズム)で[16]、オリンピックなど国際大会への参加を断り続けていたが、WBCはメジャーリーグ主導によるプロの初の世界大会とあって進んで参加した。1次リーグこそ本調子でなかったものの、2次リーグ、準決勝、決勝と試合が進むごとに調子を上げ、アメリカ戦では先頭打者本塁打を記録。マリナーズでは見られなかった感情・闘志むき出しのプレイを見せ、疑惑の判定で敗れたアメリカ戦の後には、決起集会を開いてチームを鼓舞するなど[17][注 3]、日本の野球選手の顔として、日本チームを牽引。決勝の対キューバ戦では、中押しのきっかけとなる二塁打と、1点差に詰め寄られた後に突き放すタイムリーヒットを放った。最終的に一次予選から決勝まで全ての試合で安打を記録すると、打率.364(33打数12安打)、1本塁打、5打点、5盗塁、7得点、4四球を残して外野手部門のベストナインに選ばれた。
- レギュラーシーズンでは、5月にメジャー通算200盗塁、その翌日には日米通算400盗塁を達成。6月にはキャリア1808試合目で日米通算2500安打を達成。近代野球では最速となるアル・シモンズの1786試合、タイ・カッブの1792試合にはわずかに及ばなかった。オールスターファン投票では3位でオールスターに選出。会見では6年以上連続選出がアレックス・ロドリゲスとマニー・ラミレスだけであったことについて、「残りのひとりになりたいと思う。それは大いにある目標です」と語った[18]。7月26日には戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続6シーズン通算1274安打を更新。8月16日にロジャース・ホーンスビーが持つ連続6シーズン最多安打1296本を超え、8月29日にはメジャー通算400マルチヒットを928試合目で達成。これは6年目ではメジャー最速。9月には19世紀以降最多となるウィリー・キーラーの連続6シーズン通算1313安打を抜いた。9月7日に日米通算800マルチヒットも達成。9日にはジョージ・シスラーが持つ6シーズン最多安打1317安打を超え、一週間後となった16日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー史上3人目となる6年連続200安打を達成した。この試合において三盗を成功させたことで33連続盗塁成功となり、アメリカンリーグ新記録も達成。満33歳になるこのシーズンに自己3番目の記録となる45盗塁を残し、盗塁成功率.957を記録した。
- 最終的に2年ぶりのリーグ最多安打となる224安打とリーグ6位の打率.322を記録したが、8月には自己ワーストとなる月間打率.233の不振に陥り、「あんなに野球が難しいのか、こんなにしんどいのかと何度も思った」と振り返った[18]。連続盗塁成功は39まで伸ばしたが、ビンス・コールマンのシーズン記録44連続盗塁成功には及ばなかった。その他、メジャー通算100敬遠と日米通算200敬遠も達成。この年から創立されたセイバーメトリクスの専門家により選出されるフィールディング・バイブル・アワードの右翼手部門にも選出された。
- 2007年
- 5月3日に41連続盗塁成功を達成。シーズンを跨いでのアメリカンリーグ連続盗塁成功記録を更新(従来の記録は、ティム・レインズの40)。5月16日にリーグ記録を45まで伸ばす。5月18日のエンゼルス戦、7回裏に先頭打者のイチローが安打で出塁。この場面でベンチからヒットエンドランのサインが出て、イチローはヒットエンドランのタイミングでスタートを切るが、2番打者のホセ・ビドロがサインを見落として投球を見送り、ヒットエンドランに失敗。これが盗塁死扱いになって連続盗塁成功記録は「45」でストップし、ビンス・コールマンの連続盗塁成功50のメジャー記録更新は目前で逸した。7月5日には56試合中53試合目となる安打を放ってジョージ・シスラーやタイ・カッブに並ぶも、56試合中56試合に安打を放ったジョー・ディマジオや56試合中54試合に安打を放ったデレク・ジーターには及ばなかった。7月8日、戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続7シーズン通算1479本安打を抜いた。
- シーズン終了を待たず、7月には5年9000万ドルで契約を延長。7月11日、7年連続で出場したオールスターゲームにおいてクリス・ヤングからオールスター史上初のランニングホームランを放った。同試合ではこのランニングホームランを含む3打数3安打2打点を記録。オールスターMVPを受賞した。7月17日には1901年以降最多となるビル・テリーが持つ連続7シーズン最多安打1487安打を超え、29日にはアル・シモンズ(1040試合)、ジョージ・シスラー(1048試合)に次ぐ近代野球では3番目のスピード記録となる1060試合目でのメジャー通算1500安打を達成。8月17日に19世紀以降最多となるジェシー・バーケットが持つ連続7シーズン最多安打1526安打を超え、9月3日のニューヨーク・ヤンキース戦ではロジャー・クレメンスから本塁打を放ち、7年連続200安打(史上3人目)を達成。最終的にマグリオ・オルドニェスとの首位打者争いには敗れたものの、リーグ2位の打率.351と同1位の238安打を記録。メジャー初となる3度目の230安打以上を達成。リーグ9位の出塁率.396に加え、リーグ2位(125打席以上)の得点圏打率.397、リーグ1位の二死得点圏打率.431、満塁では13打数8安打、打率.615という驚異的な勝負強さを発揮。2001年以来2度目となるシルバースラッガー賞を受賞した。今シーズンは右翼手ではなく中堅手としてプレーしたが、中堅手としてもゴールドグラブ賞も受賞。アンドレ・ドーソン以来となるシーズン途中のコンバートなしでの右翼手と中堅手両方での受賞となり、この年にゴールドグラブ賞とシルバースラッガー賞を同時に受賞した選手は、アメリカンリーグではイチローとプラシド・ポランコのみだった。
- 2008年
- スプリングトレーニングで26打席連続無安打を喫して開幕を迎え、5月終了時点でも打率.284とメジャー8年目で初めて打率3割未満で6月を迎えた。6月7日に戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続8シーズン通算1666安打を抜いた。6月11日にメジャー通算300盗塁を達成。5日後に日米通算500盗塁を達成。21日には1901年以降最多となるポール・ウェイナーが持つ連続8シーズン最多1680安打を超え、7月27日には19世紀以降最多となるウィリー・キーラーが持つ連続8シーズン最多安打1719安打を超えた。30日のテキサス・レンジャーズ戦ではルイス・メンドーサからレフト前に安打を放ち、日本人選手では張本勲以来2人目となる日米通算3000安打を達成。2175試合目に達成したため、2135試合で達成したタイ・カッブには及ばなかった。
- 9月17日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で遊撃手への内野安打を放ち、8年連続200安打を達成。ウィリー・キーラーが1894年から1901年にかけて記録して以来、107年ぶりの記録を達成した。9月26日のオークランド・アスレチックス戦では8年連続100得点を達成。同一シーズンでの200本安打100得点を8回記録したのはルー・ゲーリック以来2人目、連続記録としては史上初(19世紀の記録を入れるとウィリー・キーラーも達成している)。シーズンを両リーグトップタイの213安打で終了。メジャータイ記録となる3年連続最多安打(史上7人目)、史上初となる3年連続両リーグ最多安打を記録した。シーズンを終えての連続記録を「打率3割」「200安打」「100得点」「30盗塁」「オールスター選出」「ゴールドグラブ賞」について8年連続と伸ばした。
- 2009年
- 3月には第2回WBCに出場。大会開幕前の練習試合から全く安打が出ず、大会開幕後も打率.200前後という絶不調の状態に陥り、マスコミなどからはバッシングも受け、"国民の心配事"とまでささやかれた。それでも監督の原辰徳は全試合でイチローを1番に起用し続け、最終的にイチローもそれに応える。決勝の韓国戦で、6打数4安打、延長10回に林昌勇から決勝の2点適時打を放つ活躍で連覇に貢献。大会全体では打率.273(44打数12安打)ながらも最後の最後で日本の連覇に大きく貢献。その後のトロフィー授与式や祝勝会では、普段クールなイチローも笑顔を絶やすことはなかった。
- WBC終了後マリナーズに合流。プレシーズンゲームに数試合に出場したが、WBCの影響から極度の疲労により体調を崩すと、4月3日に精密検査を受けた結果、胃に出血性の潰瘍が認められ、自身初の故障者リスト入りとなってしまった[19]。自身開幕戦となった4月15日のロサンゼルス・エンゼルス戦で張本勲と並ぶ生涯通算安打の日本記録となる3085安打目を満塁本塁打で記録。同時に日米通算1000打点も達成した。当日は「ジャッキー・ロビンソン・デー」だったこともあり、この日だけは背番号を42に変更して出場した(なお、当日はイチローに限らず、選手や監督、コーチも背番号を42に変更して出場している)。翌16日には3086安打目を右翼前に放ち、記録を更新。5月にはメジャータイ記録に残り1と迫る通算7度目の20試合以上連続安打。6月3日には自身の持つ球団記録を塗り替える27試合連続安打を記録し、メジャー9年間で最高となる打率.362で前半戦を終了。オールスターにも9年連続の選出を果たした。
- 7月28日のトロント・ブルージェイズ戦では3対3の同点で迎えた9回、2アウト満塁の場面でスコット・ダウンズから自身メジャー初となるサヨナラ打を記録。9月6日、アル・シモンズの1390試合に次いで近代野球史上では2番目の速さとなる1402試合目でのメジャー通算2000本安打を達成。12日のテキサス・レンジャーズ戦では日米通算200号本塁打を達成。翌13日にはウィリー・キーラーが持っていた8年連続200安打を108年ぶりに更新する9年連続200本安打を達成。17日のシカゴ・ホワイトソックス戦にて延長14回の場面で自身メジャー2度目のサヨナラ打を記録した。さらに翌18日のニューヨーク・ヤンキース戦にて1−2で迎えた9回裏、2アウト2塁の場面でマリアノ・リベラから自身メジャー初となる逆転サヨナラ本塁打を記録した(この試合ではリベラは自身通算1000奪三振を達成した試合であった)(シーズン3度のサヨナラ打、2試合連続のサヨナラ打、逆転サヨナラ本塁打は全て日本人メジャーリーガー初)。26日のトロント・ブルージェイズ戦での5回、1死三塁のチャンスで回った第3打席、デビッド・パーシーが投じた2ストライクからの外角球を見逃すと判定はストライク。この判定にバットでボールの通過地点を示すなどして抗議。日米通じて自身初の退場処分を受けるなど、本人にとって「初」ずくめの年となった。
- 4月から10月まですべての月で月間打率3割以上を記録。昨年の8月から続いていた2試合連続無安打なし記録を9月下旬まで継続。併殺打の数も出場1試合目に記録した1のみに留めるなど、シーズンを通して抜群の安定感を見せた。故障者リスト入りしたこともあり一時は200安打の記録更新も危ぶまれたが、終わってみればシーズン225安打を記録。220安打以上は自身5度目で、ジェシー・バーケットが4回の220安打を記録して以降108年間更新者が現れなかった記録を破った。このシーズンはジョー・マウアーと首位打者争いを繰り広げ、リーグ2位の打率.352と、メジャー史上初となる4年連続最多安打を記録。また、メジャー移籍後では自己最高の長打率を残した。自身3度目の最多敬遠も記録。2007年以来3度目となるシルバー・スラッガー賞を受賞した。シーズンを通じての「100得点」「30盗塁」の連続記録は8年で途絶えたが、「打率3割」「200安打」「オールスター選出」「ゴールドグラブ賞」については9年連続と伸ばした。また、2006年以来のフィールディング・バイブル・アワードにも選出された。
- 2010年
- 6月5日のロサンゼルス・エンゼルス戦にて、フランクリン・グティエレスの内野ゴロで本塁に生還し、メジャー通算1000得点を達成。9月18日、日本プロ野球選手経験者として史上初となる日米通算3500安打を記録。23日には自身が持つ9年連続200安打の記録を伸ばし10年連続200本安打とした。通算での200本安打10回はタイ・カッブを抜き、ピート・ローズと並ぶ大リーグ史上1位タイ記録であるが、10年連続は史上初の記録である。安打数は最終的に214安打とし、自身8回目の210安打を記録。タイ・カッブが持つ通算7回の210安打という記録を86年ぶりに更新した。シーズンを終えての連続記録を「打率3割」「200安打」「オールスター選出」「ゴールドグラブ賞」について10年連続と伸ばした。また前年に途切れた30盗塁は、42盗塁を残して再び達成。前年に引き続き、通算3度目のフィールディング・バイブル・アワードも受賞した。
- 2011年
- 4月2日のオークランド・アスレチックス戦、自身のメジャーデビューからちょうど10年となったこの試合で、エドガー・マルティネスの持つ球団最多安打記録を更新するメジャー通算2248安打を達成[20]。4月ではメジャー移籍後4番目に高い月間打率.328とともに39安打10盗塁を記録するなど快調な滑り出しを見せた。しかしこれまで最も相性の良かった5月は一転して極度の不振が続き、メジャーデビュー以降全ての月で最低となる月間打率.210を記録。6月15日のエンゼルス戦でメジャー通算400盗塁および日米通算600盗塁を記録。シーズンを通しては自身初となる2年連続40盗塁を達成。37歳ながら走塁による貢献値を示すEQBRRはメジャー全体で3位の8.9を記録した。また、9月8日のロイヤルズ戦ではメジャー通算36本目の初回先頭打者本塁打を放ったことでボビー・ボンズを上回る歴代6位となり、日米通算では44本目となって福本豊を上回る日本選手最多記録となった。
- しかし、5月以降は一度も月間打率3割を記録出来ないまま、打率.272、184安打でシーズンを終了。メジャー移籍後10年連続で達成してきた「打率3割」「200安打」「オールスター出場」が途切れた(中でも「打率3割」と「オールスター出場」に関しては、日米通算ではレギュラーの座を確保した1994年以降17年連続で達成していた)。守備でも最終的にDRSではなんとかプラスに留めたものの、UZRではデータ公開が始まった2002年以降初めてマイナスの数値を記録(ただし、UZRは最低3年はモニターしなければ正確な評価は出ないとされる)[21]。この年から各ポジション別に選ばれた最終候補3人の中から受賞者が決定となるよう方式が変更されたゴールドグラブ賞選考では、最終候補にも名が挙がることはなく、他の記録と同様に10年連続(日米通算では1994年以降17年連続)で途切れてしまった。
- こうした極度の不振により、各メディアからは「年齢による力の衰え」[22]と指摘され、「今季は期待外れに終わった」とする声も聞かれる[23]不本意なシーズンとなった。不振の要因として、「スピードの衰え」や「視力の低下」、「不運」などが囁かれ[24]、「一塁に到達するまでのスピードが平均3.9秒になった」とする[25](ただし前年の平均も3.92秒)[26]声や、「右方向へのゴロが多く、内野安打を稼ぎやすい左方向への打球が少なかった」[27]、「好守によって阻まれたヒットが多い」[28]、「ボール球に手を出す確率が高くなった」などというさまざまな声が挙がった[29]。
- 2012年
- 3月28日、メジャー移籍以降初めて日本での公式開幕戦に出場し、5打数4安打の活躍を見せる。5月20日に日米通算500二塁打、翌日に同100三塁打、6月19日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではアル・シモンズ、タイ・カッブ、ジョージ・シスラーに次ぐ速さとなる1817試合目でメジャー通算2500本安打を達成[30]。この年は、前年オフからマリナーズ監督のエリック・ウェッジが進言してきた起用法で、打順が定位置であった1番から3番へ移っていたものの、成績不振により6月以降は再び1番や2番にも移るなど起用法が転々。調子は一向に戻らず打率.261を喫し、特に本拠地セーフコ・フィールドでは打率.214であった。
ヤンキース時代
(日付は全て現地時間)
- 7月23日、D.J.ミッチェルとダニー・ファーカー(英語版)との2対1のトレードでニューヨーク・ヤンキースへ移籍[31]。移籍発表の記者会見の場では、自ら移籍を志願していたことを明かすと「11年半、ファンの方と同じ時間、思いを共有したことを振り返り、自分がマリナーズのユニホームを脱ぐと想像したときに、大変さびしい思いになったし、今回の決断は大変難しいものだった。オールスターブレークの間に自分なりに考えて出した結論は、20代前半の選手が多いこのチームの未来に、来年以降僕がいるべきではないのではないか。また、僕自身環境を変えて刺激を求めたい、という強い思いが芽生えた」と語り[32]、ヤンキースへの移籍に対する心意気として「結果的には一番勝ってないチームから、一番勝っているチームに行くということになるので、テンションの上げ方をどうしようかなと思います」と語った[32]。オリックス時代から慣れ親しんできた背番号51は、ヤンキースではイチロー自身も憧れていたバーニー・ウィリアムスがかつて付けていた番号ということもあり「とてもつけることはできない」と固辞し、背番号は31となった[33]。
- 移籍当日の“敵地”となったセーフコフィールドでのマリナーズ戦に8番右翼で先発出場。第一打席に先発のケビン・ミルウッドから移籍後初安打・初盗塁を記録した。移籍当初はニック・スウィッシャーが故障離脱していたことに伴い本職の右翼で出場していたが、その間に左翼守備の練習を行ってエリアの広さ、ポジショニング、フェンスなどを確認すると、スウィッシャーの守備復帰以降は予定通り左翼手で主に起用され、チーム状況に合わせて右翼手や中堅手としても出場。打順は、移籍当初は下位で起用されることが多かったが、9月下旬からは主に2番で起用され、デレク・ジーターやアレックス・ロドリゲスと並ぶ打順起用については「そりゃ気持ちいいです。悪い気はしない」と述べた[34]。このシーズンは左投手を苦手としたため、相手先発が左投手の場合はスタメンから外れることも多かったが[35]、チームの故障者増に伴い、左投手の場合でのスタメンは増えていった。
- 7月30日にはヤンキースタジアムにて、メジャー通算100本塁打となる移籍後初本塁打を記録し、8月16日にメジャー通算300二塁打を達成。9月3週には、2010年9月以来の通算4度目となる週間MVPを受賞[36]。チームは10月3日のレギュラーシーズン最終戦に地区優勝を決め、イチローもシーズン最終打席にタイムリーヒットを打った直後に1ゲーム差で追っていたボルチモア・オリオールズがタンパベイ・レイズが敗れたため地区優勝が決定[37]。最終的にチームも勝利し、イチローにとっては2001年以来の12年ぶりの地区優勝を決めた。マリナーズとして地区優勝を決めた2001年は、9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の影響でシャンパンファイトを自粛していたため、メジャーでは初のシャンパンファイトを経験することになった[38]。レギュラーシーズン全体の安打数は178安打と去年を下回る自己最低記録ではあったが、打率は.283と昨年を上回った。しかも、マリナーズ時代までは95試合で105安打、4本塁打、打点28、打率.261といった自己キャリア最低記録更新ペースの低迷であったが、ヤンキース移籍以降は67試合で73安打、5本塁打、打点27、打率.322と大幅に改善された。特に本拠地ヤンキー・スタジアムでの成績は打率.359であり、ヤンキー移籍後の本塁打は全てヤンキー・スタジアムでのものであるなど、この年のマリナーズは本拠地セーフコ・フィールドでは全体の打率が.261で、本拠地の打率は.214、移籍前の4本塁打中3本はロードゲームで打ったのとは対照的な成績となった。
- ポストシーズンでは全試合で2番打者として出場。オリオールズとのディビジョンシリーズ第1戦では3安打の活躍を見せる。第2戦では二死一塁の場面でロビンソン・カノの二塁打の間に生還。この場面では、完全にアウトのタイミングで三塁を回ったが(三塁ベースコーチは本塁突入を指示している)、相手捕手のマット・ウィータースのタッチを2回かわしてホームインする活躍を見せた[39][40]。このホームインは各所で話題を呼び、「忍者」と言った呼び方[39][41]や、映画のマトリックスにちなんで「Matrix」[39][42][43]、「サルサダンス」などと呼ばれ大きな反響を呼び[39]、ESPNはこのスライディングを「ひょっとしたらヤンキースの歴史の中でも最高のスライディング(Ichiro Suzuki made perhaps the best slide in the history of the Yankees.)」と報道した[44]。デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦では、9回にはホセ・バルベルデからポストシーズンで初となる本塁打を放つなど6打数4安打4打点の活躍を見せたがチームは敗れ[45]、その後チームは四連敗を喫し敗退。敗退後は、「悔しい思いしかないが、こういう本来持っている気持ちを思い出させてもらったことに感謝している。色んなものを僕に与えてくれた。ここでしか味わえないものは確実に存在する」と語った。
- 2007年にマリナーズと結んだ契約が終了し、プロ入り後初めてFAとなったオフには、イチロー自身が残留を望んでいるとされていたヤンキース[46]の他に、サンフランシスコ・ジャイアンツ[47]、フィラデルフィア・フィリーズ[48][49]、さらに日本球界では古巣のオリックス・バファローズ[50]と、出身地の愛知県を本拠地とする中日ドラゴンズ[51]が興味を示す報道があったが、12月19日にヤンキースと2年1300万ドルで契約を結んだことが発表された[52]。ヤンキースは1年契約を基本線としていたが、他球団が2年契約を提示していたことが明らかになり、方針転換したと言われる[52]。一部のファンなどからは背番号を長年慣れ親しんだ51に戻すべきという意見もあったが[53]、引き続き31を着用することとなった[54]。
- 翌年3月に開催される第3回WBCについては、ヤンキースと再契約する以前の11月19日に参加辞退の意思を正式に表明[55]。「ボクの中で第2回大会を終えた時点で3回目の出場は考えられませんでした。今日までその気持ちが変わることはなくこういう形になりました」として[56]、第2回WBCの時点で既に第3回大会への参加は考えてなかったことを明かし、一方で「大会が着実に成長している」ともコメントした[57][58]。東京スポーツによると、後年イチローは第2回大会決勝戦の打席について「野球人生の中であんなに恐怖を感じた打席はなかった」と語り、次回のWBCの参加はしないという考えを固めていたという[56]。
選手としての特徴
いわゆる「走攻守三拍子」全てにおいて非常に高い評価を得ているオールラウンドプレイヤーであり、アメリカにおいても(メジャーとしては)非常に遅い年齢でのデビューながらも走攻守すべての面で数多くの記録を打ち立ててきたことにより、将来の野球殿堂入りが確実視されている[59][60](後述)。
打撃
マリナーズ時代はほとんどの試合で1番打者を務め、リーグを代表するリードオフマンの1人として知られた。2001年から2010年までの平均では224本、初めて200安打が途切れた2011年までの平均でも220安打を放ち、また10年の200安打達成回数のうち、実に8年で210安打以上を記録。ハイペースで安打を量産している[注 4]。
歴代シーズン最多単打記録を保持し、後述する俊足から比較的内野安打が多く、安打の内容は単打の割合が高い。2009年9月にメジャー通算2000本安打を達成した時点では、そのうちの452本が内野安打であった[61]。日本ではオリックス時代後期にクリーンナップを務めていたこともあって長打を打つことも多かったが、メジャー移籍後はより単打の多い打撃となっている。
バッティングスタイルは、変化球を狙い、速球を“詰まりながら”内野と外野の間に落とす。または、あえて相手投手の決め球を狙って打ちにいくという[62]。バッティングフォームが「打った直後、すでに右足が一塁を向いている」ため、俊足と相まって他の選手ならばアウトになるような内野ゴロが安打になることが多い。アメリカのメディアに「走りながら打っている」、「走りながら打つ忙しい選手」などと言われるように、左打者でかつスイングから走り始めるまでの一連の動作が速い分、本塁から一塁への到達時間が3.9 - 3.7秒と非常に短く[63][64]、バント安打の際には3.46秒を記録したこともあり[26]、2001年と2010年を比較して0.1秒ほど平均速度は遅くなっているものの[26]、2010年時点でも平均3.92秒[26]、バント安打で3.56秒を記録するスピードを誇る[26]。また、視力は0.4前後と良くはないもののコンタクトレンズは使用しておらず、ボールを点や線でなく立体的にとらえているという[65]。
2001年のメジャーデビュー当初、当時マリナーズのチームメイトであったジョン・オルルドは、イチローの打撃について5通りの打ち方をすると評している。1つ目はランニング・ワン・ハンダー(半分走りながら片手で打つ)、2つ目はザ・リーナー(ボールに寄りかかりながら打つ)、3つ目はフィストカフ・スイング(なぐりつけるように流し打つ)、4つ目はチップ・スイング(ゴルフのチップショットのように打つ)、5つ目はパワースイング(力で引っ張るバッティング)であるという[66]。
シーズン最多安打記録を更新した翌2005年には打率4割を期待する声も挙がったが、『ニューヨーク・タイムズ』紙はイチローのバッティングスタイルを考慮すると、4割の大台達成よりもむしろジョー・ディマジオの持つ56試合連続安打記録を塗り替えるほうが現実的との見解を示した[67]。対して本人はインタビューでの『打率4割とメジャー最長記録である56試合連続安打、どちらのほうが達成は難しいか?』という問いで、56試合連続安打のほうを選んでいる[68]。
現役メジャーリーガーとしては小柄で、本塁打数も歴代シルバースラッガー賞受賞者の中では最も少ない部類に入る。本塁打に関しては打てないというわけではなく、元マリナーズ監督のボブ・メルビンがケーブルテレビ局『ESPN』に「(試合前の)彼の打撃練習を見てみなよ。いつも山ほど(ホームランを)打っているよ」と語っているように、ウェイド・ボッグスやタイ・カッブなどと同じくあえて試合では単打狙いに徹していると言われる[69]。コラムニストの木本大志は、イチローが内野安打を打った時と本塁打を打った時では、軸の位置に違いがあることを言及している[70]。イチロー自身も『ニューヨーク・タイムズ』紙に「僕にとって、フライを打ってから『あぁ、多分ホームランになるな』と思うシチュエーションになった事は一度もない」と語っている[71]。日本時代に当時130試合制の1シーズンで25本塁打、メジャー時代に1シーズンで15本塁打を放ったこともあり、日本人選手の中では松井秀喜に次ぐメジャー通算長打率を残してもいる。2007年のオールスター後のインタビューでは「(打率が)2割2分でいいなら、40本(打てる)と言っておきましょう」と冗談混じりに語った[72]。
四球を望まず積極的に打ちにいくタイプで[73]、三振・四球ともに少ない。特に三振の少なさに関しては、216打席連続無三振のNPB記録も所持している。 2000年5月13日の対ロッテ戦では、1回裏の打席で後藤利幸の投じたワンバウンドの悪球を打ちにいき、ライトに運んでヒットにしている[74]など、ボール球でもヒットにする類まれなバットコントロールを持っており、安打量産の大きな武器となっている。
リードオフマンを務めていることから、「塁に出るのが仕事」と述べており[75]、メジャー通算2748出塁は、自身がデビューした2001年以降では両リーグ2位・アメリカンリーグ1位の数字であり、リードオフマンの打者としては2位以下を大きく引き離して1位である(2010年シーズン終了時点)。
1軍に定着した日本時代の1994年シーズンからメジャー移籍後の2010年シーズンまで、17年連続で打率3割以上を記録し続け、その間に首位打者を9度獲得。さらにメジャーでの通算打率も現役選手中2位(1位はアルバート・プホルス)の高打率を記録しているが、本人は「打率は変動するが、安打は積み重ねることができる」との理由から、打率よりも安打数を重視している[76]。2002年に行われたインタビューでも、「シーズンを終えて『199安打で4割』と『ジョージ・シスラーのメジャー記録を上回る258安打で3割9分9厘』、イチローはどちらを望むのか」という質問に対して「僕が210本のヒットを打った94年に、よく訊かれたことがあるんです。それは、『199本で4割ピッタリだったとして、次の打席はどうするか』ということだったのですが、いつも決まってこう答えていました。『決まり切ったこと、訊かないでください』と。もちろんそれは今も変わりません」と答えている[77]。また、日米合わせて12回記録している最多安打は、すべて両リーグ最多安打である(メジャーでの最多安打を逃した2002年・2003年・2005年シーズンはすべてリーグ2位。不振に苦しんだ2011年に初めて9位に終わった)。
上下に変動する打率よりも、安打数を重視するプレースタイルは、オリックス時代にイチローの打撃投手を務めていた奥村幸治の提案であった。1994年シーズンにおいて210安打を達成する際に、周囲の話題が上がり続ける「イチローの打率」に集中し、「ついに4割打者誕生か」と騒がれた。しかし、これではイチローと言えども気になりやすいということで、イチローが試合でのびのび打てるように、「安打数」に目をつけた[78]。後年奥村は「だからイチローに、“1日1本のつもりで積み上げていこうよ”と声をかけたんです。すると彼も、“いいですね”といって、それ以降、電光掲示板の打率を見なくなった。ただ僕は大変でした。大記録が近づくにつれ、周囲の期待がわかるから、“これはぶつけられないぞ”とね(笑い)」と語っている[78]。
打席に入ると、背筋を伸ばして後傾気味に重心を取り、右手でバットを垂直に揃え、左手を右上腕部に添える動作を、必ず行う。この動作は1996年シーズンの後半から行うようになり、それまでは左手を右上腕部に添える動作がなく、代わりにバットをぐるぐると回していた。バットを回す動作は、イチローが子供の時に憧れてモノマネを得意としていたという田尾安志と酷似している。これは眼の焦点をスコアボードに合わせた後、バットへ焦点を変えることによって、ボールに対する動体視力を一時的に上げる効果があるとも言われている[79]。この特徴的な動作と、バットコントロールの巧みさからイチローのバットはメジャーで「magic wand(『魔法の杖』の意)」と称される[80]。バッティングフォームはメジャーリーグ移籍直後は日本より数段速いと言われるメジャーの直球に対応するため、振り子打法と呼ばれるハイキックをやめてオープンスタンスを採用するなど、止めどなく変化を続けているが、フォームの変更については「言っておきたいのはフォームを変えたのではなく、変わったのだということです。変えるのと変わるのでは全然違うと思います」と語っている[81]。2004年6月24日の夜に行ったフォーム改造では「小さい頃に野球をやっていた時に感じたのと、近い感覚が戻ってきた」と語っている[82](この時、なにかが降りてきたかのようにフォーム改造を思いついたことから、一部[誰?]で「シスラーが憑依した」とも言われた。)このシーズン、メジャー記録となる262安打を放っている。2005年からは、四球の数こそ増えないものの、待球により、球数は増えている。2007年からは内角対策のために猫背になることがある。2008年は自分のストライクゾーンを狭めて悪球打ちをせず、ストライクゾーンに来た球だけを振るようにしたことにより、四球が若干増えた。下半身は、やや内股気味に小さく両足を開いて構える。
得点圏に強く、日本時代の通算得点圏打率が.365[5]、メジャー時代の通算得点圏打率が.333という数字を残している。シーズンでは、日本時代に1996年から1998年までリーグ1位、1994年・1995年・2000年でリーグ2位を記録している。メジャー移籍後は2001年と2004年にリーグ1位、2007年にリーグ2位を記録している。こうした得点圏での強さから、ホームランの少ない打者でありながら敬遠四球の数が多く、日米通算で266個を記録しており、日本では6年連続6度・メジャーでは3度の最多敬遠を記録している。満塁にも強く、日本では通算満塁打率.363を記録しており[5]、メジャーでは通算満塁打率.409(115打数47安打)を誇っている。満塁本塁打率も高く、日本時代の14.7本に1本の割合(118本中8本)は通算満塁本塁打が7本以上の選手の中では日本プロ野球歴代1位であり、駒田徳広と並ぶ6年連続満塁本塁打の日本プロ野球記録も持っている。メジャー移籍後は満塁本塁打を4本放っており、満塁では長打率が上がる傾向にある。
高い得点圏打率を記録しているものの、打順の関係や敬遠四球の多さから得点圏での打数自体が少なく、本塁打の数が長距離打者ほど多くないことも相まって、シーズン100打点以上を記録したことは1度もない。日本時代の1995年には打点王を獲得しているが、得点圏打数はわずかに92であった。1999年も100打数にすら到達しておらず、メジャーで159試合出場した2003年も105打数に終わっている。他の年はほとんど120打数前後である。1997年のみ他の年と比べて得点圏打数が突出しており(166打数)、この年は91打点を記録した。メジャー移籍後の2001年には、ほとんどの試合で1番打者として出場し本塁打が1桁ながら、69打点をマークしている。2005年と2007年には1番打者で68打点(1番打者としてのシーズン打点数ではマリナーズの球団記録)を稼いだ。打点に関しては本人は重視しておらず、2009年に日米通算1000打点を達成した際、「打点のことは全く頭になかったですね」と口にしている[83]。また、このような勝負強さから、メジャー移籍後の2002年に3番打者を数試合任されたこともあった。この間の打率は.571と打ち込んだが、本人は「僕が3番を打つということは、チーム状態が良くないという証。良いことではない」と述べている[84]。
左打者ながら左投手を得意にしており、日本時代の対左投手通算打率が.371[5]、メジャー時代の対左投手通算打率が.335で、それぞれ自身の通算打率を上回っている。特に2004年シーズンは対左打率.404を記録した。
守備
強肩で知られ、2006年に行われたメジャーリーガー415人による投票「最も肩が強い外野手」で48%の得票率を占め1位となった[85][注 5]。1998年に行われたオールスターゲームの遠投競争では、ナゴヤドームのセンターフェンス手前からバックネット近くの城島健司まで推定130mの遠投を披露している。強肩であることに加えて送球のコントロールも良いため、ブラディミール・ゲレーロの送球が「バズーカ」などと呼ばれていたのに対してイチローの送球は「レーザービーム」と称されている。
前述の「レーザービーム」は、2001年4月11日の対オークランド・アスレチックス戦で、ライト前ヒットで三進を試みた一塁走者のテレンス・ロングを正確かつ力強い送球で三塁に補殺した際、実況アナウンサーであったリック・リズが「イチローからのレーザービーム攻撃だ!」と叫んだことに所以する。この補殺がイチローのメジャー最初の補殺でもあり、正確無比な強肩を相手に強く印象付けるだけでなく、イチロー自身をアメリカに認めさせるプレーにもなった。なお、日本では「レーザービーム」という表現が定着しているが、アメリカにおいては特段そのように呼ばれる事はない。インパクトのある送球を全般的に"the Throw" と表現することが多く、この時の送球もそう表現されている[86]。
捕球にも優れており、日本ではゴールデングラブ賞を1994年から2000年まで7年連続、メジャーではゴールドグラブ賞を2001年から2010年まで10年連続、日米通算で17年連続で受賞している。広範囲な守備と強肩のため、イチローの守備範囲に納まる打球は三塁打が二塁打になったり、犠牲フライが併殺外野フライになったりする。この事からイチローの守備する右翼は、その背番号と守備範囲の広さから、機密性が高く警備が非常に厳重であるネバダ州の米軍軍事施設(一時期、宇宙人やUFOの研究をしているとも噂されていた)に掛けて、「エリア51」と呼ばれている。
2005年5月2日の対ロサンゼルス・エンゼルス戦の7回表で、ギャレット・アンダーソンが打ったホームラン性の球を、フェンスをよじ登ってキャッチした。スパイダーマンのように壁を駆け上がって捕ったとアメリカメディアが報道したため[87]、「スパイダーマンキャッチ」と称された。
高校時代は投手をしていたが登板のない時などは外野手も務めており、夏の甲子園に出場した際には左翼を守っている。プロ入り後、210安打を放った1994年からは本西厚博(のちに谷佳知)、田口壮とともに当時日本一と言われたオリックス外野陣の一翼を担った。日本時代は主に右翼手を務めたものの、中堅手を任されることも多々あり、一つのポジションに定着することはなかった(1998年は左翼手で20試合以上スタメン出場している。オールスターゲームや日米野球戦でも左翼を守ることがあった)が、1999年シーズン以降は右翼手に固定された。メジャー移籍後はほとんどの試合で右翼を守っており、2006年シーズン途中から2008年シーズン途中まではコンバートによって中堅手を務めた。2012年にヤンキース移籍後は、左中間の広いヤンキースタジアムを考慮して左翼手にコンバートされているものの、他の選手の休養などの兼ね合いから中堅手や右翼手としても出場(途中で守備位置が変わることも多々あり、1試合で外野3箇所すべてを守ったこともある)しており、外野をどこでも守れるユーティリティプレイヤーとなった。また、休養時などにDHとして出場することがある。
こうした俊足強肩かつ優れた捕球能力といった守備力の高さは数字にも表れており、DRSやUZRなど守備指標の各数値は守備の面でも不振に苦しんだ2011年を除き毎年リーグ上位に位置し続け、セイバーメトリクス識者によるフィールディング・バイブル・アワードにも2006年の創始以来、外野手ではカール・クロフォードと並び最多の3回選出されている。打撃と同じく守備でも積極的な傾向が見られ、メジャー10年のキャリアで右翼手リーグトップの刺殺数を7回、中堅手リーグトップの刺殺数を1回記録している。俊足で守備範囲も広いため、本来なら他のポジションの捕球するような打球を、自ら捕りに行く姿がしばしば見られる。2007年の試合では、左翼定位置への犠牲フライを中堅から走ってきて捕球すると、そのまま本塁へ送球したことがある。また2009年の試合では、1点リード9回2アウト満塁の場面からの、一塁側フェンス際へのファウルフライを、右翼から走ってきてスライディングキャッチで試合を終了させたこともある。
守備機会の多さの割りに守備率も高く、2001年から2003年まで3年連続で右翼手リーグトップの守備率をマーク。中堅手としてプレーした2007年は刺殺数が400を超えながら失策数を1に留め、それまでマリナーズの球団記録だった1992年ケン・グリフィー・ジュニアの.997を抜く、シーズン守備率.998(のちにフランクリン・グティエレスが更新)を記録している。近年は守備率が低下しており、2008年から2011年まで連続して9割9分を下回っているが、2009-2010年にかけては、フィールディング・バイブル・アワードを2年連続で受賞している。(2012年は再び9割9分を上回った)。
走塁
イチローは走塁が、いわゆる「走攻守」の中で最も難しいと考えている。「走塁は打撃や守備よりも難しい」と口にしており[88]、その理由として、「打撃は成功率が良くて3割強だが、走塁は成功率が10割に近くないといけない」こと、「走塁は、野手の肩や芝生の状態などといったことをすべて考え、それらを踏まえた上で瞬間的な判断をしなければならないから難しい」ことなどを挙げている[89]。
1995年と2001年に盗塁王のタイトルを獲得。盗塁は成功率を重視しているため盗塁数を増やすことに関してはそれほど重視しておらず、特に2006年頃からはクイックモーションや警戒の不充分な相手投手を選んで盗塁する慎重なスタイルをとっている。マリナーズ首脳陣からは、自分の判断で自由に盗塁できる権利(いわゆる「グリーンライト」)を与えられていた[90]。
盗塁数は年間30から40の間が理想だとコメントしており[91]、2008年は70試合の時点で30盗塁を稼ぐなど[92]一時は年間70盗塁を超えるペースであったが、中盤から極端に企図数が減り、最終的に40台に終わっている。2009年は中盤に左ふくらはぎを痛め8試合欠場して以降は盗塁企図が減り、メジャー移籍後では初めて30未満に終わったものの、翌2010年と2011年には再び40盗塁以上を記録し、自身初の2年連続40盗塁を達成。理想に掲げた30盗塁以上を記録した2001年から2008年、2010年・2011年はいずれもリーグ5位以内に入っている。
盗塁の成功率は高く、日本時代に通算199盗塁で.858、メジャーで通算452盗塁で.816の記録を残しており、これはリッキー・ヘンダーソンの通算.808やルー・ブロックの通算.753などを上回っている。シーズン記録では、日本時代に30盗塁以上を残しながら成功率9割以上を2回(1996年、1997年)、メジャー時代に40盗塁以上を残しながら成功率9割以上を2回(2006年、2008年)達成している。特に2006年シーズンは45盗塁を記録。盗塁死を2に留め、.9574という数字をマークしている[注 6]。また、「シーズン連続盗塁成功」と「シーズンをまたいでの連続盗塁成功」両方のアメリカンリーグ記録保持者でもある。
怪我のリスクを最小限に抑える目的から、ヘッドスライディングはほとんどすることはない。一塁へのヘッドスライディングは最も嫌うところであり、これを行った福岡ソフトバンクホークスの川崎宗則に対して苦言を呈したことが、話題になった[93][94]。盗塁や進塁の際、アウトになる危険性が高いと判断したときには、トップスピードでのスライディングや走塁から急停止して野手のタッチのタイミングを外す高度なフェイントを見せることがある。2005年5月15日のボストン・レッドソックスとの試合では、本塁突入の際にホームベース前で急停止した後、外野からの返球を受けてブロックの体勢に入っていた相手捕手のダグ・ミラベリの背中を飛び越そうとするプレーを見せた他、2012年10月8日のディビジョン・シリーズでのボルチモア・オリオールズとの試合では、アウトのタイミングであったのにもかかわらず相手捕手のマット・ウィータースのタッチを二度もかわして生還するプレーを見せている。
こうしたプレーに対してイチローは「(普通は)スピードを上げたくなるが、スピードを落とすという発想(が大事)になる。ブレーキをかけることは別に怖くないし、どんな動きをしてもけがをすることがないという自信がある」と説明[95]、あえて減速することも走塁技術の一環であると考えている。
故障に対する強さ・対策
メジャーに移籍して以降は故障などで戦線離脱することがほとんどない。故障者リストに入ったのは2009年開幕時の1度のみであり(それもレギュラーシーズン中ではなくWBCの影響である)、毎年平均で約159試合に出場して出塁数を積み重ねている。21世紀以降ではメジャーリーグの試合に最も多く出場した選手である。
こうした故障への強さに対して、イチローは「プロ野球選手は、怪我をしてから治す人がほとんどです。しかし、大切なのは怪我をしないように普段から調整することです。怪我をしてからでは遅いのです。 」と述べている[要出典]。
イチローは怪我予防の意識が強く、起床から就寝までほぼ同じ行動パターンを繰り返しており、毎日自宅でカレーライスを食べてから、球場入りの時刻や練習の手順まで乱れず行動を一定化している[96]。また、筋肉が非常に柔らかく、体の柔らかさを高める運動を重視すると共に、クラブハウスでも「ソファは腰に負担がかかる」としてパイプ椅子を使用し、またスパイクを履いたままで階段を使用すると滑って捻挫の可能性があるとして必ずスロープを使用する、怪我しやすいヘッドスライディングをしないといった対策を常に立てている[96]。
また、衝撃緩和のため「力を抜く」ということ(イチローはサヨナラゲームでチームメイトが騒いでいる時でも、誰かにぶつかられても衝撃を緩和させるように対策をとっている)や、早く練習を始めて体を多く動かすこと[97]、「滑る場所」には徹底的に注意する(イチローは宮崎のお店の裏の階段や雨の日の新神戸駅で滑って転倒しそうになったエピソードを明かしており、滑りやすい場所では細心の注意を払っている)といったことに大きな注意を払っている[98]。
イチローは、「何故これ程にまで怪我をしないことにこだわっているのか?」という質問に対しては、「僕、いくらもらっていると思います?」と答えており、自身の年俸の高さなどから来る大きな責任感によるところが大きい[99]。
評価
アメリカの野球専門誌『ベースボール・アメリカ』に掲載された大リーグ30球団の監督による「Best Tools」投票で、イチローは2003年に「ベスト・ヒッター」「ベスト・バンター」「ベスト・ベースランナー」「最速ベースランナー」「守備部門ベスト外野手」「ベスト強肩外野手」「最もエキサイティングな選手」の7部門でトップに輝いた[100]。
2006年の投票では、「最もエキサイティングな選手」「最もバントが上手い選手」で1位、「最高の打者」「最高の走者」で2位、「最も俊足のベースランナー」で3位に選出された[101]。2007年の投票でも、「ベスト・ヒッター」「ベスト・バンター」「ベスト・ベースランナー」「最もエキサイティングな選手」「守備部門ベスト外野手」「ベスト強肩外野手」で1位に、「最速ベースランナー」で2位に選ばれるなど、メジャーリーグの監督から高い評価を受けている[102]。
2008年のメジャーリーグスカウトによる投票でも、「ベスト・ヒッター」「ベスト・バットコントロール」「守備部門ベスト外野手」「ベスト強肩外野手」「ベスト・ベースランナー」の5部門で1位に、「ベスト・バンター」「最速ランナー」「ベスト・スティーラー」でも2位に選ばれるなど高評価を受けている[103]。
監督によるアメリカンリーグBest tools評価[104]
年度 | best hitter | best bunter | best hit-and-run artist | fastest baserunner | best baserunner | best outfield arm | best defensive outfielder | most exciting player |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2001 | 第2位 | 第3位 | - | 第1位 | 第1位 | 第1位 | 第3位 | 第1位 |
2002 | 第1位 | 第1位 | - | 第1位 | 第1位 | 第1位 | 第2位 | 第1位 |
2003 | 第1位 | 第1位 | - | 第1位 | 第1位 | 第1位 | 第1位 | 第1位 |
2004 | - | 第2位 | - | 第2位 | 第1位 | 第2位 | 第1位 | 第2位 |
2005 | 第3位 | 第2位 | - | - | 第1位 | 第1位 | 第1位 | 第3位 |
2006 | 第2位 | 第2位 | - | 第3位 | 第2位 | 第1位 | 第1位 | 第1位 |
2007 | 第1位 | 第1位 | - | 第2位 | 第1位 | 第1位 | 第1位 | 第1位 |
2008 | - | 第1位 | - | 第2位 | 第1位 | 第1位 | 第1位 | 第3位 |
2009 | 第2位 | 第1位 | - | 第2位 | 第3位 | 第1位 | 第2位 | 第2位 |
2010 | - | 第1位 | 第3位 | 第2位 | 第1位 | 第1位 | 第1位 | 第3位 |
2011 | - | - | - | - | - | 第3位 | - | - |
2012 | - | - | - | - | - | - | - | - |
こうした走攻守に対する高い評価はセイバー・メトリクス上でも現れている。2001年以降WARは一貫してプラスを維持し、2004年はrWARでア・リーグ1位であった。
映画『マネーボール』では主人公ビリー・ビーン(俳優:ブラッド・ピット)が空港で見た野球中継に僅かな時間写っている。このシーンについて映画のベネット・ミラー監督は「日本人向けのサービスではない」と断った上で「中継カメラがアップで捉えたイチローとそれを見つめるビーンの図は、まるで西部劇の決闘みたいだよね。このときビーンは主力選手を引き抜かれ、新たな選手を獲得したいのにお金がない。ビーンにとってイチローはぜひとも欲しい選手だが、高給取りの彼には手が届かないんだ。イチローはそんな苦しい立場のビーンに脅威を与える“敵”のようにも見える。そんな雰囲気を感覚的に表現してみたかったんだ」と語っている[105]。
『スポーツ・イラストレイテッド』誌では、「イチローを首位打者候補に予想しないのは、タイガー・ウッズを優勝候補から外すのと同じ」と評した。また、同誌は2005年のMLB特集記事において、イチローを「理想の1番打者」と評している[106]。アジア系アメリカ人向けのニュースサイト「goldsea.com」は、2002年に「アメリカで最も感動を与えてくれるアジアのスポーツスター」のランキングを発表すると、姚明(NBAヒューストン・ロケッツ)や野茂英雄らを抑えてイチローを1位に選出した[107]。第1回WBC終了時には、米スポーツ専門ケーブル局『ESPN』のコラムニストがイチローを絶賛すると、「イチローを見られるのは、私たちに与えられた特権」と語った。将来の殿堂入りについても言及した[108]。MLB公式サイトは、2009年7月21日にイチローの特集記事を掲載すると、「日本人初の殿堂入りは決まったも同然」と位置付けた[109][110]。
大リーグの殿堂表彰者からの評価も高く、フランク・ロビンソンは「イチローが殿堂入りできないのは、単に時期尚早だから」としたものの、「でも、5年目から彼の殿堂入りは固いとみていたね。きっと、殿堂入りする。それくらい、いい選手だ」と評価。レジー・ジャクソンも「彼は特別。もう少し、現役を続けなきゃいけないけど、メジャーで凄いことをやってきたからね」とイチローの殿堂入りを支持した。また同じく殿堂入りしているグース・ゴセージも「イチローは、メジャーに来てからというもの、我々が今まで見たこともない選手になった。今までとは違うタイプ。試合をつくるし、毎年200本もヒットを打っている。毎年毎年、それをやるのは、本当にスペシャルな選手なんだ」と評価し、ルー・ブロックも「イチローは他の誰とも違う。野球が本当に旨いんだ。他の打者と同じなのは、バットを手から離す時だけさ」と話した。殿堂表彰者で、イチローをコーチの立場から見ていたポール・モリターも、「イチローが将来、殿堂入りすることは間違いない」と断言し「彼をクーパーズタウンから締め出すものは、何一つないだろう」と話した他、デニス・エカーズリーは「イチローの殿堂入りに何の疑いもない。日本から来て、メジャーの試合までも変えてしまった。今まで見たこともない打者だよ」と語り、メジャーリーグの歴史まで変えた存在としてイチローを評価した[111]。
2011年に殿堂入りしたロベルト・アロマーは「私は、イチローがいつか殿堂入りするのをここで待っているよ。彼の数字を見れば一目瞭然だろう。何本のヒットを打っているの? 2400本は打っているよね? 大したものだ。彼は首位打者(2回)もゴールドグラブ(10回)も受賞している選手。それだけの記録を持っている選手が殿堂入りしないなんてありえない。彼に、野球殿堂で待っているよ、と伝えておいてほしい」と語り[112]、既にイチローの殿堂入りを確実視している。
通算3,141安打のトニー・グウィン(2007年殿堂入り)は、「彼のおかげで、みんながコンタクトヒッターの価値を再認識するようになった」と高く評価すると、7年連続200安打の記録を持つウェイド・ボッグス(2005年殿堂入り)も、イチローの殿堂入りを期待してエールを送った[113]。
米国の野球ファンの間でもイチローの評価は高く、「メジャーで最高の選手」と評価する声もある[114]。地元シアトルでは非常に人気が高く、熱心なマリナーズファンのみならず、現地の子供達の間でも、スーパースター的な位置づけを受けている[115]。2007年には、ESPNが行った「マリナーズの顔は誰?」というアンケートで、投票総数3万4166票中96%の票を集めて1位に選ばれた[116]。同年のシアトルの地元紙が企画したファン投票では、地元選手の人気第1位に輝いた。2005年にスーパーボウル進出を果たしたNFLチーム、シアトル・シーホークスでリーグMVPに輝いたRBショーン・アレキサンダーをも凌ぐ快挙に、マルティネス球団マーケティング担当重役もあらためてイチローの存在感に驚かされたという[117]。また、同年にESPNがウェブサイト上で実施した「あなたが理想とする打順は?」というファン投票では、「理想の1、2番打者」の項目でおよそ39%の支持を集め、デレク・ジーター(ニューヨーク・ヤンキース)を抑えてトップに立った[118]。さらに、米国のスポーツ専門誌「Sporting News」が発表した、米大リーグ488選手らの投票によるオールスターにも、アリーグ外野手部門で選出された[119]。翌2008年には、米4大ネットワークのひとつ、FOXが各ポジション別に現時点で最高のプレーヤーを選出すると、三塁手のアレックス・ロドリゲス(ニューヨーク・ヤンキース)、右翼手のブラディミール・ゲレーロ(ロサンゼルス・エンゼルス)らそうそうたる顔ぶれの中で、イチローがメジャー最高の中堅手に選出された。打者に不利なセーフコフィールドを本拠地としながらも高打率をマークしたことに加え、広い守備範囲と強肩でディフェンス面でも最高の中堅手であり、通算272盗塁(2007年終了時)を決めていることと合わせ、走攻守すべてを絶賛した[120]。同年1月にマリナーズの公式サイトが発表した「チームの歴代ベストナイン」では、右翼手で選出された[121]。2007年のオールスターゲームでMVPを獲得した際には、ニューヨーク・タイムズなどの米主要メディアが、こぞってトップニュースで報じ、「だれもイチローを倒せない」「歴史をつくった」と賛辞を送った[122]。2008年3月には、スポーツ総合誌「ESPN」の10周年記念特集号で、「この10年で最もスポーツ界にインパクトを与えた10人のアスリート」に選出され、女子テニスのウィリアムズ姉妹や、アレックス・ロドリゲスらと共に名を連ねた[123]。
イチローの殿堂入りに関してもESPNがネット投票を実施し、約83%のファンが賛成に投票し、中でも地元シアトル(当時)のワシントン州では91%だった[124]。2013年1月5日にはCBSスポーツ電子版が「現役選手で殿堂入りが確実な5人」を特集し、デレク・ジーター、マリアノ・リベラ、アルバート・プホルス、ジム・トーミの4人とともにイチローの名前が挙げられた[59][60]。この中でCBSスポーツは、「日本プロ野球はメジャーに匹敵するわけではないが、両国リーグ合わせ3884安打は十分な数字」と指摘している[60]。
ニューヨーク・ヤンキースの元捕手ホルヘ・ポサダはイチローをメジャーリーグでもトップ5に入る選手だと語り、同じくヤンキースのアレックス・ロドリゲスは、2006年のオールスターゲームの際に、イチローに対して「試合前の調整法を教えて欲しい」として、合同練習を申し込んだ[125]。台湾出身のメジャーリーガーである王建民は、試合開始前のイチローにサインを3つ頼んでいる。元チームメイトのジャロッド・ウォッシュバーンは「(イチローは)何でもできるから、もう何をやっても驚かない」「だが、(手の内を)全部見たと思っても、また違う何かをやってみせる」と寸評している[71]。同じく元チームメイトのエドガー・マルティネスは、イチローの人物像を「少年そのもの」と評している。
一方で、米国スポーツサイトSI.comが現役のメジャーリーガーのアンケートの変人選手ランキングで、8位に選出されたこともある[126]。
2004年のシーズン最多安打記録樹立時の首相の小泉純一郎は、「もうすごいの一語に尽きるね。これだけの偉大な選手はもう当分出ないんじゃないかな。天賦の才能に加えて、人一倍の努力。偉大だね。どんな称賛の言葉を言っても、言い過ぎることはない」と褒め称えた[127]。また、今上天皇は、2001年の記者会見で、「イチロー選手を始めとする日本人選手の米国大リーグでの活躍はうれしいことでした」と述べ[128]、2004年の記者会見では、「イチロー選手の大リーグで成し遂げた大きな成果も心に残ることでした」と述べている[129]。2009 ワールド・ベースボール・クラシック後は野球界のみならず政界などの各方面からもイチローを賞賛するコメントが発せられた。キューバのフィデル・カストロ元議長は、決勝戦後に「イチローは世界最高の打者」と語った[130]。
各種メディアでの調査等でも、イチローの高い人気が証明されている。マークスJPによる「最も好きなスポーツ選手」ランキングではあらゆる世代で2位以下を圧倒し1位となった[131]。東京商工会議所が実施した新入社員の意識調査によると、「理想の社長」の項目で北野武と並んで1位[132]、中央調査社による2007年の「最も好きなスポーツ選手」でも1位であった[133]。また、2007年にオリコンが実施した「好きなスポーツ選手」の調査でも男性選手部門で1位[134]、「世界に誇れる日本人」のランキングでも、男性部門で1位となった[135]。2008年に同じくオリコンが実施した「世界で活躍する日本人アスリート」のランキングでは2位以下に圧倒的な差をつけて1位になった[136]。gooによる憧れの理想体型を持つ男性有名人ランキングでも、1位であった[137]。博報堂が行った「アスリートイメージ評価調査」では、「好感が持てるアスリート」で1位となり、総合ランキングでも1位となった[138]。2009年には、学校法人産業能率大学が新入社員を対象に実施した『理想の上司』のアンケートでは、「男性上司」の部門で1位の座に輝いた[139]
- 批判
日本では、あまり報道されないが、「リーダーシップのなさ」や、「独特のプレースタイル」などに、批判も多い[140]。ただしこれにはイチローに対する人種差別を指摘する声もある[141]。
逸話
学生時代
交通事故(自転車での通学中に車と接触した)による怪我が原因で投手から野手に転向した。しかし、投手というポジションへの強い憧れを公言しており、『週刊ベースボール』誌で組まれた松井秀喜との対談の席で松井から「今でもピッチャーに未練はあるんですか」と尋ねられた際には「それはもう、むちゃくちゃある」と答えた。また、両者はイチローが1学年上の関係だが、高校時代に対戦している。愛工大名電高校と星稜高校両校の野球部には交流があり、年に数回合宿を兼ねた練習試合を行っていたため。
オリックス時代
憧れの選手
広島東洋カープの前田智徳と、シアトル・マリナーズのケン・グリフィー・ジュニアが憧れの選手だった。
前田については「真っ先に会いたい」と話しており、1994年のオールスターゲームで対面できた時には、前田に「握手してもらえませんか?」と聞きながら握手を交わし満面の笑みを浮かべていた。背番号「51」をつけたのは、前田がプロ入り時に着用していた背番号だからと言われている。ファンの間では、イチローがヤンキース移籍後に背番号「31」を着用したのも、前田が二度目につけた番号だからではないかとも言われたが、イチロー自身は「31」を選んだ理由について「フィーリングでしょうね。「1」が欲しかったというのはあります。響きとサインを書いた時のバランスとかで」と答えている[32]。
グリフィーについては「あこがれの存在」と公言し、寮の自室にそのユニフォームを飾り、打撃フォームもまねていた[142][143]。1995年のオフにテレビ番組の企画で初対面すると、「腕(の太さ)が倍になったらメジャーを考えます」とグリフィーに約束すると、1999年のマリナーズのキャンプ参加時に再会。休日は一緒にNBAを観戦する姿などが見られた[142]。メジャー移籍後にグリフィーと再会した2002年には、「やっぱり彼は僕にとってメジャーリーガーの象徴。メジャーに興味を持ったのも、彼の美しさ、スピードを見て感銘を受けたからなんです」と語った[11]。2009年にはグリフィーがマリナーズに復帰しチームメイトとなる。9年連続200安打達成の際のインタビューで、「ジュニアの存在は計り知れない」とグリフィーに感謝を示すと共に「シアトルの天然記念物に指定すべきだね。みんなで守っていかないといけないと思いますね」と語る[144]ほど普段から仲が良く、じゃれ合っている姿がよく見られた。また、当時のグリフィーはイチローをくすぐることを日課とし、グリフィー曰く「安打をよく打つから」くすぐっており、2009年のイチローの27試合連続安打のときには毎日くすぐらなければならなかったので大変だったという[145]。グリフィーの引退が発表された2010年6月2日の試合では、気持ちの整理もできないまま混乱した状態で試合に出場したと語るも、延長10回に二塁ベース後方に砂上に描かれたグリフィーの背番号「24」の右端へのサヨナラ打を放ち引退に華を添えた[146]。
投手と三塁手
1996年のオールスターの9回2アウト、打者松井秀喜(当時巨人)のところで、パ・リーグの仰木彬監督は、スピードガンコンテストで146kmをマークしたことのあるイチローを投手に起用。イチロー対松井の夢の対決を期待したファンが大歓声を送った。セ・リーグの野村克也監督は、代打に高津臣吾(当時ヤクルト)を送った(結果はショートゴロ)。 1999年6月13日のダイエー(現在のソフトバンク)戦では途中から三塁を守った。守備機会としてはゴロを1つ捌いた。
マリナーズ時代
イチ・メーター
セーフコ・フィールドの右翼席最前列には、イチローの年間安打数をカウントする「ICHI-METER(イチ・メーター)」という手作りの紙ボードを掲げるファンがいる。掲げているのはエイミー・フランジという女性ファンの一家で、1996年から毎年シーズンチケットを購入している熱心なマリナーズファンだという。イチ・メーターという名前の由来は「イチロー」と「メーター(測定機)」を掛け合わせたものであり、シアトルの野球ファンの間では有名になっている[147]。
安打数のカウントは、イチローが最多安打記録を達成した2004年シーズンから開始された。262安打をカウントした初代イチ・メーターはアメリカ野球殿堂に寄贈されており、2012年までのイチ・メーターは二代目である[148]。
イチローのヤンキース移籍直後の、2012年7月24日のセーフコフィールドでのマリナーズ戦にもイチ・メーターを持参しており、イチローが試合前に感謝の意を込めてボードにサインをしている。イチローはこの年11月に、エイミーへのサインをしたマリナーズ時代のバット、スパイク、そして感謝の気持ちを書いた手紙を贈った[149]。
映画・ドラマ出演
2001年、『走れ!イチロー』(2001年・監督大森一樹)で本人役として出演した。台詞は無かった。
2006年には『古畑任三郎 ファイナル』第2話に、主人公・古畑と対決する犯人役「シアトル・マリナーズのイチロー」として出演した。イチローは古畑シリーズのDVDを全巻持ち、古畑任三郎のテーマ曲を部屋でかけるほどの大ファンと公言していたことから出演に至った。2004年シーズン終了後の10月より1年以上の期間をかけて撮影された。
古畑シリーズの脚本家である三谷幸喜はエッセイや2008年の再放送時のコメント映像中で、出演が決定すると、イチロー本人と対面した際に、殺人犯役でそのまま「イチロー」の名前を使うのはためらわれるので「ハチロー」のような役名や別の職業にしてはどうかと提案したが、イチローが「これは本人役じゃないと面白くない。自分を演じたい」と熱望したため、そのまま「シアトル・マリナーズのイチロー」にした、と語っている。あくまでフィクションである事を明示的にするため、レギュラーキャラクターの向島音吉の義弟であるとの設定がなされた。キャラクターについても「嘘はつかない」、「フェアプレーを好む」、「残虐な殺し方はしない」などイチロー本人の要望やイメージが反映されており、私利私欲でなく恐喝に苦しむ義兄を救うために殺人を犯す一方で、アリバイ工作や偽証を拒んで古畑に頭脳戦を挑むという役どころとなっている。撮影に当たっては台詞を完璧に憶えてNGはほとんどなく、主演の田村正和は「役者の鑑」と評した。視聴率は27%で、12年続いたシリーズの中で7番目に高いものとなった。
2011年、メジャーリーグを扱った映画『マネーボール』(2011年・監督ベネット・ミラー)で、短い時間だが画面に映っている。
無断広告
2007年11月27日、写真入りの広告を無断で使用されたとして、台湾の広告代理店に損害賠償を求めていた訴訟の控訴審判決が、台湾高等法院で下された。同院は「台湾ではニューヨーク・ヤンキース(当時・現ナショナルズ)の王建民投手(台湾出身)の知名度に及ばない」などとして、500万台湾ドル(約1700万円)の支払いを命じた1審判決を大幅に減額し、100万台湾ドル(約340万円)の支払いを言い渡した[150]。
内野守備
2008年8月17日、同点の9回裏1死2,3塁という場面でメジャー移籍後初めて内野(二遊間)の守備位置についたが(いわゆる5人内野シフト)、四球で満塁になったところで外野に戻り、守備機会はなかった。
ヤンキース時代
サイン入りバット盗難事件
2013年1月7日、神戸総合運動公園に展示されていたイチローのサイン入りバットが盗まれる事件があり、19歳の少年が逮捕される事件があった[151][152][153][154]。盗まれたバットは特に破損は見受けられず、無事に戻った。
自動車事故
2013年3月2日、スプリング・トレーニングのキャンプ地であるフロリダ州タンパで、同日行われたタイガースとのオープン戦に出場後、車で球場を後にしたところで事故に遭遇(左折しようとして目の前に割り込んできた自動車と接触・追突)。本人にも、相手のドライバーにも怪我はなく、ヤンキースのブライアン・キャッシュマンゼネラルマネージャー(GM)はニューヨーク・ポスト紙(電子版)に「通訳から連絡を受けた。彼は大丈夫だ」とコメントした。[155][156][157][158]。
人物
家族
妻は元・TBSアナウンサーの福島弓子。妻とともに資産管理会社を設立し会社を妻に任せている[159][160]。
子供はいない。柴犬を飼っており、非常に可愛がっている。名を「一弓(いっきゅう)」と言い、命名は、自身と妻の名「一朗」「弓子」から一文字ずつを採って「一(いつ)」+「弓(きゅう)」としたものである。
名前は「一朗」だが次男である。4歳年上の兄・鈴木一泰は、グラフィックデザイナー。イチローが現在使用する野球用品には、彼がデザインした専用ロゴが刻まれている。主な作品に日本BS放送のマスコット「BEAMO」、ボビー・オロゴンの「もす!」Tシャツのロゴなどがある。
用具
バットはミズノの篠塚和典モデルがベースであるという。ヘッドを軽量化させており、直径60.5ミリという極細。芯の部分も細く、使うには相当な技術が要求される[161]。バット製作にあたってミズノの工場内にある歴代選手シグネーチャーモデル展示室に並ぶバットの中で、本人いわく「遠くから見ても、それだけがもうチカチカ輝いていた」と言い、手に取ると何から何まで自分にピッタリであったとのことである。自分の調子に合わせてバットを変えるのではなく、バットに合わせて自分を調整していくため、オリックス入団時から一貫して同じ形のバットを使い続けている。イチローを含め様々なプロ野球選手たちのバットを作ってきた、バット職人である久保田五十一は、「私の記憶の中では、これほど(バットを)変えない方はいらっしゃらないですね」とイチローについて語っている[162]。
スパイクシューズは山陰アシックス工業が製作している。年々改良が続けられている専用シューズは軽量化に重点が置かれており、2009年モデルは片足約250gという超軽量化を実現している。反面、スパイク部分に使用されている特殊素材は軽量化の代わりに耐久性を犠牲にしており、3試合程度の使用で新品と交換している。同社がイチローのために製造しているシューズは試合用と練習用を合わせて年間150足を超える。
バットやグラブを「道具ではない。自分の一部。自分の体の一部」だと語るほど、使う野球用品を非常に大切に扱っている[86]。そのため、打った直後も必ずバットを静かに置く。オリックス時代に1度だけバットを放り投げたことがあり、そのときのことについて、「後ですごく後悔して、それから特に道具に対する気持ちが強くなってますね」とインタビューで答えている[163]。
セーフコ・フィールドのダグアウトにはイチロー専用のバットを置くための穴が開けられていたが、イチローの移籍後に塞がれその跡がかすかに残るのみとなっている[164]。
他の選手の野球用具は絶対に触らない。チームメイトだった城島健司は、「人のグローブ、人のバットは絶対に触らないですからね。手に重さだったり形だったりが残るのが嫌なんですって」とイチローについて語っている[62]。
グラブの手入れについては、「気持ちが芽生えてきますから。グラブに対する気持ちが」「作ってくれた人に対する感謝、小さい子なら買ってくれた人への感謝の気持ち、自分のプレイに対する愛情。こういうところが、グラブを磨くことでとても変わってくるんですよ」とインタビューで答えている。また、自身が子供にグラブの手入れをするよう呼びかけることについては、「決して『きれいにしろ』というだけの意味ではありません。そのグラブで練習をしたことっていうのは、体に、必ず残るわけですよ。記憶が体に残っていく。でも、何も手入れしてない汚いグラブでプレイしていたら、その練習は記憶には残らないですよね。そういう意味もあるんですよ」と答えている[165]。
2008年3月、それまでイチローのグラブを作っていた坪田信義が引退し、坪田の弟子である岸本耕作がイチローのグラブ製作を引き継いだ[166]。イチローは2008年シーズンいっぱいを岸本のグラブで過ごし、ゴールドグラブ賞を受賞。このことについてインタビューで「岸本さんのグラブになってゴールドグラブ賞がとれなかったら、おそらく岸本さんは自分を責めたでしょう。僕はそれを何としても阻まないといけないという思いで守っていました」と答えている。
趣味・好物
少年期からドラゴンクエストのファンであり、プロ野球選手になってからもよくプレーしている[167]。また、イチローの所縁の品が展示されているアイ・ファインには、イチローが少年期にプレーしたドラゴンクエストシリーズのソフトが展示されている[168]。
自動車好きであり、1995年から日産自動車のCMに出演している。日本では日産自動車のシーマ、インフィニティQ45、ホシノインパルで1000万円以上かけて改造したマーチなどに乗っていた[169]。アメリカでは同じく日産自動車のインフィニティ・G35クーペ、ポルシェ・カレラGT、オールスターMVPの副賞として贈呈されたシボレー・タホ・ハイブリッドなどを所有している。
偏食家である。海苔に醤油を付けハケのようにしてご飯に塗ったものの「ご飯部分」が好物である[170]。独身時代から牛タンが好きで、神戸市三宮の牛タン専門店「牛や たん平」の常連となっている。渡米してから2007年までは、シアトルの自宅にいる際の朝食には弓子夫人手作りのカレーを食べていた[62]。その後、毎朝カレーを食べる習慣を改め、朝食には「食パンとうどんあるいはそうめん」を食べるなどしている。こうした偏食からイチローの食生活に迫ったアメリカの番組に対して医療支援団体が「子供が真似をする」と言う抗議を受け放送が見送られたことになったこともある[171]。
自らがCMに出演している佐藤製薬のユンケル黄帝液を愛飲している。遠征時には、特注で作った専用ケースにユンケルを詰めて持って行く[62]。WBC優勝後の会見で当時、福岡ソフトバンクホークスの川崎宗則が、「イチローさんがユンケルを飲むのは試合の1時間前」と話した。
メディアへの姿勢
メディアへの接し方については、「メディアと選手というのは戦っています。お互いが緊張しなくてはいけないし、お互いが育て合う関係だと思います。ですから妥協はしたくないのです」とインタビューで発言している。そのため、メディアと選手とが馴れ合っているような関係を快く思っていない[172]。
若手時代は今と違ってむしろマスコミに対して好意的で、バラエティ番組にもよく出演し、明るく喋っていた。急変したのは評論家・永谷脩が事実無根の文章を書いて発表して以降である[173]。
慈善活動
慈善活動を積極的に行っている。1998年には出身地の愛知県に対して社会福祉のために1000万円を、兵庫県に対して震災復興のために1000万円を寄付した。 2000年には豪雨によって被害を受けた愛知県にトレーナー、パーカー計1000枚、Tシャツ500枚(計1300万円相当)を贈っている[174]。また、1996年から2004年まで、神戸総合運動公園野球場にイチロー・シートを毎年20席(約140万円分)設置し、神戸の野球少年を招待した。2005年には病気などで苦しむ子供たちを支援するため、日米のスターバックスと協力し、店頭で自身をイメージしたプリペイドカードを販売、その売り上げを募金に寄付した。2011年2月には口蹄疫・鳥インフルエンザ復興ならびに霧島連峰・新燃岳噴火被災対応のために宮崎県に対して1000万円を贈った[175]。さらに3月には東北地方太平洋沖地震に際して、日本赤十字社に1億円の義援金を寄付した[175]。スターバックスのハワード・シュルツ会長によると、「イチローはマスコミに公表しないだけで、毎年、尋常じゃない額の寄付を地元シアトルにしてくれている」という。
イチローと神戸
オリックス時代から慣れ親しんでいる神戸の街に強い愛着を持っている。出身は愛知県だが、メジャー移籍後もシーズンオフのほとんどを毎年神戸で過ごしており、オフでの自主トレーニングにも神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)を使用している。「ESPN The Magazine」創刊10周年記念特別号内のインタビューで、「どこからそのスパーク(情熱)を得るのか?」という質問に対して、イチローは神戸を挙げた。
イチローは「僕という選手を、神戸という場所を抜きに説明が出来ない。それぐらい密接な繋がりのある場所なんです」と語っている。また、他のインタビューでは「今ある僕の人格だとか性格だとか考え方というのは、ほとんど神戸で作られたものなんです。一番何かを感じて成長する時期に、神戸にいた。出身は愛知県ですが、僕にはふるさとが二つある。 」「神戸とは一生付き合っていくと思います」と語っている[176]。
日本に対する思い
世界に出て再認識したことのひとつが、日本語を大切にすることであるという。きっかけに関して、「米国に行ってから、日本語の深さや美しさを自分なりに感じるようになり、日本語をきれいに話したいと思い始めた。日本語でも自分の感覚や思いを伝えることは困難だと感じている。それが外国語となれば、不可能に等しい。英語で苦労する以前に、僕は日本語で苦労している」と話している[177]。また、野球以外でも、経済や日本企業の技術力、動向などにも高い関心を持っている[178]。
日米通算記録
日米通算記録はNPBとMLBでの成績を合算した記録であり、両方の球界でプレー経験のある日本選手によく使用される。当然ながら、NPBとMLBは別リーグであるために公式記録上では各リーグで残した成績を合わせて適用されることはない。しかし、一選手のキャリア成績としては、「張本勲の安打数を破った」というように、参考記録ながらも日米通算記録をもって日本選手歴代記録として評されることもある[179]。イチローのキャリア成績として日米通算記録を見た場合には、日本選手歴代上位に相当する項目は多く、以下に例を挙げると
- 歴代1位相当:安打 (3884)、単打 (3040)、二塁打 (519)、打席 (12371)、打数 (11704)、打率 (.332)、外野手刺殺 (5961)、首位打者回数 (9)、最多安打回数 (12)、打率3割回数 (17)、月間MVP獲得回数 (11)、初回先頭打者本塁打 (45)
- 歴代2位相当:試合 (2862)、得点 (1862)、盗塁 (651)、敬遠 (271)、出塁 (4894)、外野手補殺 (168)
- 歴代3位相当:塁打 (5275)、三塁打 (103)
- 歴代4位相当:年間MVP獲得回数 (4)
などがある(2012年シーズン終了時)。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992 | オリックス | 40 | 99 | 95 | 9 | 24 | 5 | 0 | 0 | 29 | 5 | 3 | 2 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 11 | 0 | .253 | .276 | .305 | .581 |
1993 | 43 | 67 | 64 | 4 | 12 | 2 | 0 | 1 | 17 | 3 | 0 | 2 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 7 | 2 | .188 | .212 | .266 | .478 | |
1994 | 130 | 616 | 546 | 111 | 210 | 41 | 5 | 13 | 300 | 54 | 29 | 7 | 7 | 2 | 51 | 8 | 10 | 53 | 3 | .385 | .445 | .549 | .994 | |
1995 | 130 | 613 | 524 | 104 | 179 | 23 | 4 | 25 | 285 | 80 | 49 | 9 | 0 | 3 | 68 | 17 | 18 | 52 | 7 | .342 | .432 | .544 | .976 | |
1996 | 130 | 611 | 542 | 104 | 193 | 24 | 4 | 16 | 273 | 84 | 35 | 3 | 0 | 4 | 56 | 13 | 9 | 57 | 8 | .356 | .422 | .504 | .926 | |
1997 | 135 | 607 | 536 | 94 | 185 | 31 | 4 | 17 | 275 | 91 | 39 | 4 | 0 | 5 | 62 | 14 | 4 | 36 | 10 | .345 | .414 | .519 | .933 | |
1998 | 135 | 558 | 506 | 79 | 181 | 36 | 3 | 13 | 262 | 71 | 11 | 4 | 0 | 2 | 43 | 15 | 7 | 35 | 21 | .358 | .414 | .518 | .932 | |
1999 | 103 | 468 | 411 | 80 | 141 | 27 | 2 | 21 | 235 | 68 | 12 | 1 | 0 | 5 | 45 | 15 | 7 | 46 | 5 | .343 | .412 | .572 | .984 | |
2000 | 105 | 459 | 395 | 73 | 153 | 22 | 1 | 12 | 213 | 73 | 21 | 1 | 0 | 6 | 54 | 16 | 4 | 36 | 3 | .387 | .460 | .539 | .999 | |
2001 | SEA | 157 | 738 | 692 | 127 | 242 | 34 | 8 | 8 | 316 | 69 | 56 | 14 | 4 | 4 | 30 | 10 | 8 | 53 | 3 | .350 | .381 | .457 | .838 |
2002 | 157 | 728 | 647 | 111 | 208 | 27 | 8 | 8 | 275 | 51 | 31 | 15 | 3 | 5 | 68 | 27 | 5 | 62 | 8 | .321 | .388 | .425 | .813 | |
2003 | 159 | 725 | 679 | 111 | 212 | 29 | 8 | 13 | 296 | 62 | 34 | 8 | 3 | 1 | 36 | 7 | 6 | 69 | 3 | .312 | .352 | .436 | .788 | |
2004 | 161 | 762 | 704 | 101 | 262 | 24 | 5 | 8 | 320 | 60 | 36 | 11 | 2 | 3 | 49 | 19 | 4 | 63 | 6 | .372 | .414 | .455 | .869 | |
2005 | 162 | 739 | 679 | 111 | 206 | 21 | 12 | 15 | 296 | 68 | 33 | 8 | 2 | 6 | 48 | 23 | 4 | 66 | 5 | .303 | .350 | .436 | .786 | |
2006 | 161 | 752 | 695 | 110 | 224 | 20 | 9 | 9 | 289 | 49 | 45 | 2 | 1 | 2 | 49 | 16 | 5 | 71 | 2 | .322 | .370 | .416 | .786 | |
2007 | 161 | 736 | 678 | 111 | 238 | 22 | 7 | 6 | 292 | 68 | 37 | 8 | 4 | 2 | 49 | 13 | 3 | 77 | 7 | .351 | .396 | .431 | .827 | |
2008 | 162 | 749 | 686 | 103 | 213 | 20 | 7 | 6 | 265 | 42 | 43 | 4 | 3 | 4 | 51 | 12 | 5 | 65 | 8 | .310 | .361 | .386 | .747 | |
2009 | 146 | 678 | 639 | 88 | 225 | 31 | 4 | 11 | 297 | 46 | 26 | 9 | 2 | 1 | 32 | 15 | 4 | 71 | 1 | .352 | .386 | .465 | .851 | |
2010 | 162 | 732 | 680 | 74 | 214 | 30 | 3 | 6 | 268 | 43 | 42 | 9 | 3 | 1 | 45 | 13 | 3 | 86 | 3 | .315 | .359 | .394 | .754 | |
2011 | 161 | 721 | 677 | 80 | 184 | 22 | 3 | 5 | 227 | 47 | 40 | 7 | 1 | 4 | 39 | 13 | 0 | 69 | 11 | .272 | .310 | .335 | .645 | |
2012 | 95 | 423 | 402 | 49 | 105 | 15 | 5 | 4 | 142 | 28 | 15 | 2 | 0 | 4 | 17 | 4 | 0 | 40 | 10 | .261 | .288 | .353 | .642 | |
NYY | 67 | 240 | 227 | 28 | 73 | 13 | 1 | 5 | 103 | 27 | 14 | 5 | 5 | 1 | 5 | 1 | 2 | 21 | 2 | .322 | .340 | .454 | .794 | |
'12計 | 162 | 663 | 629 | 77 | 178 | 28 | 6 | 9 | 245 | 55 | 29 | 7 | 5 | 5 | 22 | 5 | 2 | 61 | 12 | .283 | .307 | .390 | .696 | |
NPB:9年 | 951 | 4098 | 3619 | 658 | 1278 | 211 | 23 | 118 | 1889 | 529 | 199 | 33 | 9 | 27 | 384 | 98 | 59 | 333 | 59 | .353 | .421 | .522 | .943 | |
MLB:12年 | 1911 | 8723 | 8085 | 1204 | 2606 | 308 | 80 | 104 | 3386 | 660 | 452 | 102 | 33 | 38 | 518 | 173 | 49 | 813 | 69 | .322 | .365 | .419 | .784 |
- 2012年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLBにおける歴代最高。
年度別打撃成績所属リーグ内順位
年度 | 年齢 | 所属リーグ | 打率 | 安打 | 本塁打 | 打点 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1992 | 19 | パ・リーグ | - | - | - | - | - |
1993 | 20 | パ・リーグ | - | - | - | - | - |
1994 | 21 | パ・リーグ | 1位 | 1位 | - | - | 2位 |
1995 | 22 | パ・リーグ | 1位 | 1位 | 3位 | 1位 | 1位 |
1996 | 23 | パ・リーグ | 1位 | 1位 | - | - | 2位 |
1997 | 24 | パ・リーグ | 1位 | 1位 | - | 8位 | 6位 |
1998 | 25 | パ・リーグ | 1位 | 1位 | - | - | 3位 |
1999 | 26 | パ・リーグ | 1位 | 7位 | 10位 | - | 2位 |
2000 | 27 | パ・リーグ | 1位 | 6位 | - | - | 3位 |
2001 | 28 | ア・リーグ | 1位 | 1位 | - | - | - |
2002 | 29 | ア・リーグ | 4位 | 2位 | - | - | - |
2003 | 30 | ア・リーグ | 7位 | 2位 | - | - | - |
2004 | 31 | ア・リーグ | 1位 | 1位 | - | - | - |
2005 | 32 | ア・リーグ | - | 2位 | - | - | - |
2006 | 33 | ア・リーグ | 6位 | 1位 | - | - | - |
2007 | 34 | ア・リーグ | 2位 | 1位 | - | - | - |
2008 | 35 | ア・リーグ | 7位 | 1位 | - | - | - |
2009 | 36 | ア・リーグ | 2位 | 1位 | - | - | - |
2010 | 37 | ア・リーグ | 7位 | 1位 | - | - | - |
2011 | 38 | ア・リーグ | - | 9位 | - | - | - |
2012 | 39 | ア・リーグ | - | - | - | - | - |
- -は10位未満(打率、OPSは規定打席未到達の場合も-と表記)
WBCでの成績
年 度 |
代 表 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006 | 日本 | 8 | 40 | 33 | 7 | 12 | 1 | 0 | 1 | 16 | 5 | 4 | 0 | 2 | 0 | 4 | 1 | 1 | 1 | 0 | .364 | .447 | .485 | .932 |
2009 | 9 | 44 | 44 | 7 | 12 | 2 | 1 | 0 | 16 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .273 | .273 | .364 | .637 | |
出場:2回 | 17 | 84 | 77 | 14 | 24 | 3 | 1 | 1 | 32 | 10 | 5 | 0 | 2 | 0 | 4 | 1 | 1 | 3 | 0 | .312 | .354 | .416 | .770 |
年度別守備成績
年度 | 球団 | LF | CF | RF | OF | ||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||
1992 | オリックス | - | - | - | 34 | 50 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |||||||||||||||
1993 | - | - | - | 32 | 34 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | ||||||||||||||||
1994 | - | - | - | 130 | 261 | 10 | 5 | 3 | .982 | ||||||||||||||||
1995 | - | - | - | 130 | 262 | 14 | 2 | 5 | .993 | ||||||||||||||||
1996 | - | - | - | 130 | 277 | 8 | 2 | 3 | .993 | ||||||||||||||||
1997 | - | - | - | 135 | 269 | 7 | 2 | 2 | .993 | ||||||||||||||||
1998 | - | - | - | 135 | 245 | 12 | 3 | 4 | .988 | ||||||||||||||||
1999 | - | - | - | 103 | 196 | 9 | 0 | 1 | 1.000 | ||||||||||||||||
2000 | - | - | - | 105 | 218 | 5 | 4 | 1 | .982 | ||||||||||||||||
2001 | SEA | - | - | 152 | 335 | 8 | 1 | 2 | .997 | 152 | 335 | 8 | 1 | 2 | .997 | ||||||||||
2002 | - | 3 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 150 | 325 | 8 | 3 | 0 | .991 | 152 | 333 | 8 | 3 | 0 | .991 | ||||||
2003 | - | - | 159 | 337 | 12 | 2 | 4 | .994 | 159 | 337 | 12 | 2 | 4 | .994 | |||||||||||
2004 | - | - | 158 | 372 | 12 | 3 | 2 | .992 | 158 | 372 | 12 | 3 | 2 | .992 | |||||||||||
2005 | - | - | 158 | 381 | 10 | 2 | 2 | .995 | 158 | 381 | 10 | 2 | 2 | .995 | |||||||||||
2006 | - | 39 | 114 | 1 | 1 | 0 | .991 | 121 | 250 | 8 | 2 | 3 | .992 | 159 | 364 | 9 | 3 | 3 | .992 | ||||||
2007 | - | 155 | 424 | 8 | 1 | 3 | .998 | - | 155 | 424 | 8 | 1 | 3 | .998 | |||||||||||
2008 | - | 69 | 195 | 4 | 1 | 1 | .995 | 91 | 175 | 7 | 4 | 1 | .978 | 160 | 370 | 11 | 5 | 2 | .987 | ||||||
2009 | - | - | 145 | 317 | 5 | 4 | 2 | .988 | 145 | 317 | 5 | 4 | 2 | .988 | |||||||||||
2010 | - | - | 160 | 354 | 7 | 4 | 1 | .989 | 160 | 354 | 7 | 4 | 1 | .989 | |||||||||||
2011 | - | - | 151 | 263 | 7 | 4 | 5 | .985 | 151 | 263 | 7 | 4 | 5 | .985 | |||||||||||
2012 | - | - | 93 | 198 | 3 | 1 | 0 | .995 | 93 | 198 | 3 | 1 | 0 | .995 | |||||||||||
NYY | 35 | 50 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 7 | 10 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | 39 | 41 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | 63 | 101 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | |
'12計 | SEA・NYY | 35 | 50 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 7 | 10 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | 132 | 239 | 4 | 1 | 0 | .996 | 156 | 299 | 5 | 1 | 0 | .997 |
NPB:9年 | - | - | - | 934 | 1812 | 66 | 18 | 19 | .991 | ||||||||||||||||
MLB:12年 | 35 | 50 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 273 | 751 | 14 | 3 | 4 | .996 | 1577 | 3348 | 88 | 30 | 22 | .991 | 1865 | 4149 | 102 | 33 | 26 | .992 |
- 各年度の太字はその年のリーグ最高。
- 2002年・2006年・2012年は試合途中に守備位置変更が行われていることから、試合数の合計は一致していない。
- 1999年6月13日のダイエー(現在のソフトバンク)戦では途中出場ながら3Bを守った。守備機会はゴロを1つ捌き補殺1を記録している。
タイトル・表彰
NPB
- シーズン
- 首位打者:7回 (1994年 - 2000年)
- 打点王:1回 (1995年)
- 盗塁王:1回 (1995年)※打点王・盗塁王の同時獲得、最高出塁率・盗塁王の同時獲得などの時点でいずれもNPB史上初
- 最多安打:5回 (1994年 - 1998年)
- 最高出塁率:5回 (1994年 - 1996年、1999年 - 2000年)
- 正力松太郎賞:3回 (1994年 - 1995年、2004年)※2004年は特別賞
- 年間MVP:3回 (1994年 - 1996年)
- ベストナイン:7回 (1994年 - 2000年)
- ゴールデングラブ賞:7回 (1994年 - 2000年)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:4回 (1994年 - 1997年)
- コミッショナー特別表彰 (1994年)
- パ・リーグ特別表彰:6回 (1994年 - 1995年、1997年 - 2000年)※1995年は会長特別賞
- セ・リーグ特別表彰:1回 (1994年)
- 月間/その他
- 月間MVP:10回 (1994年6月、1994年8月、1995年6月、1996年8月、1997年6月、1998年6月、1998年7月、1999年5月、1999年7月、2000年7月)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1996年)
- ジュニアオールスターゲームMVP (1992年)
- オールスターゲーム新人賞(1994年)
- オールスターゲーム優秀選手:7回 (1995年第1戦、1996年第1戦・第3戦、1997年第2戦、1999年第1戦、2000年第2戦・第3戦)
- パ・リーグオールスター東西対抗MVP:1回 (1995年)
- 日米野球 シリーズ殊勲選手:1回 (1998年)
- 花のパ・リーグ大賞:3回 (1994年 - 1995年、1998年)
- センチュリーベストナイン(外野手)
MLB
- シーズン
- 新人王(2001年)
- 年間MVP:1回(2001年)※新人王との同時獲得は1975年フレッド・リンとイチローのみ
- 首位打者:2回(2001年、2004年)
- 盗塁王:1回(2001年)※首位打者との同時獲得は1949年ジャッキー・ロビンソン以来52年ぶり
- シルバースラッガー賞:3回(2001年、2007年、2009年)
- ゴールドグラブ賞:10回(2001年 - 2010年)
- 月間・週間/その他
- ア・リーグ月間新人MVP:4回(2001年4月・5月・8月・9月)
- ア・リーグ月間MVP:1回(2004年8月)
- ア・リーグ週間MVP:4回(2004年8月2日 - 8月8日、2006年5月29日 - 6月4日、2010年9月20日 - 9月26日、2012年9月17日 - 9月23日)
- オールスターMVP:1回(2007年)
- シアトル・マリナーズ球団MVP:5回(2001年、2004年、2007年、2009年 - 2010年)
- コミッショナー特別表彰(2005年4月22日)※2004年の年間最多安打記録更新を称えての表彰
- ハート&ハッスル賞(2008年)※チーム内での受賞[180]。30球団から1人の最終受賞者には選出されず
- プレイヤーズ・チョイス・アワード
- アメリカンリーグ最優秀新人(2001年)
- アメリカンリーグ最優秀選手:1回(2004年)
- フィールディング・バイブル・アワード:3回(2006年、2009年 - 2010年)
- MLB.com This Year in Baseball Awards
- Defensive Player of the Year:1回(2005年)
- Dependable Player of the Year:1回(2010年)
- Topps ルーキーオールスターチーム(2001年)
- Baseball Digest ルーキーオールスターチーム(2001年)
- The Sporting News
- アメリカンリーグ最優秀新人(2001年)
- アメリカンリーグオールスターチーム:4回(2001年、2004年、2007年、2009年)
- Baseball America
- 1st-Team Major League All-Stars(2001年)
- 2nd-Team Major League All-Stars(2004年)
- Negro Leagues Baseball Museum
- ディケイド(2000年 - 2009年)選出・評価
- ディケイドオールスターチーム
- ディケイドベスト選手
- ESPN Top 100 players of the decade(第5位)[186]
- MLB-network Top 9 players of the decade(第6位)
- MLB-network Top 9 outfielders of the decade(第3位)
- HeraldNet Top 10 Mariners of the Decade(第1位)[187]
その他
- 文部科学省 スポーツ功労者顕彰:3回(1999年、2006年、2009年)[188][189][190]
- 愛知県知事表彰 特別表彰(1994年)
- 兵庫県知事表彰 スポーツ優秀選手特別賞(1994年)
- 神戸市スポーツ特別賞(1994年)
- 豊山町民栄誉賞(1994年)
- 菊池寛賞(2001年)
- 日本プロスポーツ大賞
- 大賞:3回(1994年 - 1995年、2001年)
- 殊勲賞:2回(1996年、1998年)
- 報知プロスポーツ大賞
- 野球部門(パ・リーグ):4回(1994年 - 1996年、1998年)
- 特別賞:1回(2004年)
- 毎日スポーツ人賞
- グランプリ:2回(1994年 - 1995年)
- ファン賞:1回(2001年)
- 朝日スポーツ賞:3回(1994年、2001年、2009年)※2001年は特別賞、2009年はスーパーアスリート賞
- 新語・流行語大賞 年間大賞:1回(1994年)
- ゴールデンアロー賞 話題賞:2回(1994年 - 1995年)
- ベストスマイル・オブ・ザ・イヤー(1994年)
- 日本フェアプレー賞(1994年)
- ロドニー賞(1996年)
- 関西スポーツ賞 特別賞(1998年)
- 2006年WBCベストナイン(外野手)
チームとして
- コミッショナー特別表彰:1回(2001年)
- 紫綬褒章:2回(2006年、2009年)
記録
NPB
- NPB初記録・節目の記録
- 初出場:1992年7月11日、対福岡ダイエーホークス17回戦(平和台球場)、2回裏に村上信一に代わり左翼手として出場
- 初先発出場:1992年7月12日、対福岡ダイエーホークス18回戦(平和台球場)、9番・左翼手として先発出場
- 初安打:同上、5回表に木村恵二から右前安打
- 初盗塁:1992年7月26日、対福岡ダイエーホークス21回戦(グリーンスタジアム神戸)、6回裏に二盗(投手:杉本正、捕手:吉永幸一郎)
- 初打点:1992年8月14日、対日本ハムファイターズ18回戦(東京ドーム)、5回表に山森雅文の代打として出場、内山正博から適時二塁打
- 初本塁打:1993年6月12日、対近鉄バファローズ8回戦(長岡市悠久山野球場)、8回表に野茂英雄から右越ソロ
- 1000本安打:1999年4月20日、対日本ハムファイターズ1回戦(東京ドーム)、9回表に金村暁から右中間へ2ラン ※史上194人目(757試合目での達成は史上最速)
- 100本塁打:1999年7月6日、対西武ライオンズ15回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回裏に松坂大輔から中越ソロ ※史上205人目
- NPB記録
- シーズン打率.380以上:2回(1994年、2000年)
- シーズン打率.370以上:2回(1994年、2000年)※.360以上ではタイ記録
- シーズン打率.350以上:4回(1994年、1996年、1998年、2000年)
- シーズン打率.340以上:7回(1994年 - 2000年)
- シーズン複数安打試合:69(1994年)
- シーズン連続試合出塁:69(1994年5月21日 - 8月26日)
- シーズン連続打席無三振:216(1997年4月16日 - 6月24日)
- 20試合以上連続安打:4回(1994年2回、1999年、2000年)
- 1試合4二塁打:1994年9月11日、対近鉄バファローズ24回戦(藤井寺球場) ※タイ記録
- 通算盗塁成功率:.858(199盗塁33盗塁死)※100盗塁以上対象
- 首位打者:7回(1994年 - 2000年)※張本勲とタイ記録
- 両リーグ最多安打:5回(1994年 - 1998年)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:4回(1994年 - 1997年)※野手として松井秀喜とタイ記録
- 全イニング出場首位打者(1995年)※1969年の王貞治に次ぐ史上2人目
- 7年連続打率.340以上首位打者(1994年 - 2000年)
- 7年連続首位打者(1994年 - 2000年)
- 5年連続全試合出場首位打者(1994年 - 1998年)
- 5年連続両リーグ最多安打(1994年 - 1998年)
- 3年連続シーズンMVP(1994年 - 1996年)※山田久志とタイ記録。野手では史上唯一
- 4年連続IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞(1994年 - 1997年)
- 2年連続正力松太郎賞(1994年 - 1995年)
- 6年連続満塁本塁打(1995年 - 2000年)※駒田徳広とタイ記録
- 月間安打:48(1996年8月)
- 月間MVP:10回
- NPBパ・リーグ記録
- シーズン安打:210(1994年)※マット・マートンに次いでNPB歴代2位。達成当時はNPB記録
- シーズン打率:.387(2000年)※ランディ・バースに次いでNPB歴代2位
- シーズン初回表先頭打者本塁打:5(1995年)※タイ記録。達成当時はNPBタイ記録
- シーズン1試合4安打:8回(1996年)※達成当時はNPB記録
- 最多安打:5回(1994年 - 1998年)※長嶋茂雄、川上哲治に次いでNPB歴代3位。タイトル制定以後としてはNPB記録
- 最多単打:3回(1994年 - 1996年)※タイ記録
- パ・リーグ特別表彰:6回(1994年 - 1995年、1997年 - 2000年)
- 7年連続出塁率4割以上(1994年 - 2000年)
- 6年連続最多敬遠(1995年 - 2000年)
- 5年連続最多安打(1994年 - 1998年)※長嶋茂雄に次いでNPB歴代2位。タイトル制定以後としてはNPB記録
- 3年連続最多単打(1994年 - 1996年)※近藤和彦に次いでNPB歴代2位タイ
- 3年連続100得点(1994年 - 1996年)※福本豊とタイ記録
- 4年連続パ・リーグ特別表彰(1997年 - 2000年)※野茂英雄とタイ記録
- 球団記録
- 通算敬遠:98(1992 - 2000年)
- シーズン猛打賞:26回(1996年)※西岡剛に次いでNPB歴代2位。達成当時はNPB記録
- シーズン単打:151(1994年)※達成当時はNPB記録
- シーズン出塁率:.4596(2000年)
- シーズンMVP:3回(1994年 - 1996年)※山田久志とタイ記録。野村克也に次いでパ・リーグ歴代2位タイ
- 最多塁打:3回(1994年 - 1996年)※タイ記録。野村克也に次いでパ・リーグ歴代2位タイ
- 最高出塁率:5回(1994年 - 1996年、1999年 - 2000年)※タイトル制定以後(以前は不明)球団記録。張本勲に次いでパ・リーグ歴代2位
- 出塁率4割以上:7回(1994年 - 2000年)※張本勲に次いでパ・リーグ歴代2位
- 7年連続ベストナイン(1994年 - 2000年)※福本豊とタイ記録
- 3年連続最高出塁率(1994年 - 1996年)※タイトル制定以後(以前は不明)球団記録。張本勲に次いでパ・リーグ歴代2位タイ
- 3年連続最多塁打(1994年 - 1996年)※野村克也に次いでパ・リーグ歴代2位
- 連続試合出場:763(1994年4月9日 - 1999年8月24日)※パ・リーグ歴代5位。1994年6月24日から1996年4月11日までは212試合連続全イニング出場
- その他
- オールスター
- オールスター出場回数:7回(1994年 - 2000年)
- オールスター年間得票数:1,346,504票(1999年)※パ・リーグ記録。達成当時はオールスター記録
- 6年連続オールスター最多得票(1995年 - 2000年)※オールスタータイ記録。6年連続で両リーグ通じての最多得票はオールスター記録
- オールスター通算打率:.394(71打数28安打)※オールスター記録(50打数以上対象)
- オールスター連続試合安打:11(1996年第3戦 - 2000年第3戦)※オールスター記録
- オールスター連続打席安打:5 ※オールスター記録
- オールスター連続試合フルイニング出場:17(1994年第1戦 - 2000年第3戦)※オールスター記録
- シーズン死球:18(1995年)※達成当時はパ・リーグ記録
- 最多得点:4回(1994年 - 1997年)※福本豊に次いでパ・リーグ歴代2位
- 4年連続最多得点(1994年 - 1997年)※福本豊に次いでパ・リーグ歴代2位
- 3年連続得点圏打率リーグ1位(1996年 - 1998年)
- 連続試合安打:23(1994年5月21日 - 6月21日、7月13日 - 8月14日)
- 連続試合二塁打:5(1996年9月18日 - 24日)
- 連続試合複数安打:8(1998年、1999年)
- 連続試合得点:11(1995年5月30日 - 6月11日)
- 連続打席出塁:11(1994年6月22日 - 25日)
- 2試合連続無安打なし:130試合
- 外野手最多補殺:2回(1995年、1998年)
- オールスター
MLB
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- MLB記録
- シーズン安打:262(2004年)※ジョージ・シスラーを84年ぶり更新。また、安打数リーグ2位を記録した打者(マイケル・ヤング)との46安打差は史上最大差
- シーズン単打:225(2004年)※ウィリー・キーラーを106年ぶり更新
- シーズン200安打・100得点・30盗塁:8回(2001年 - 2008年)※7回の時点でウィリー・キーラーを107年ぶり更新
- シーズン200安打・100得点:8回(2001年 - 2008年)※ウィリー・キーラー、ルー・ゲーリッグとタイ記録
- シーズン200安打・30盗塁:9回(2001年 - 2008年、2010年)※8回の時点でタイ・カッブを92年ぶり更新
- シーズン240安打以上:2回(2001年、2004年)※ジョージ・シスラーとタイ記録
- シーズン230安打以上:3回(2001年、2004年、2007年)※ロジャース・ホーンスビー、ジョージ・シスラーを85年ぶり更新
- シーズン220安打以上:5回(2001年、2004年、2006 - 2007年、2009年)※ジェシー・バーケットを108年ぶり更新
- シーズン210安打以上:8回(2001年、2003年 - 2004年、2006年 - 2010年)※タイ・カッブを86年ぶり更新
- シーズン200安打以上:10回(2001年 - 2010年)※ピート・ローズとタイ記録
- シーズン200単打以上:2回(2004年、2007年)※ウィリー・キーラーを109年ぶり更新
- シーズン5安打試合:4回(2004年)※ウィリー・キーラー、タイ・カッブ、スタン・ミュージアル、トニー・グウィンとタイ記録
- シーズン月間50安打:3回(2004年5月・7月・8月)
- シーズン安打試合数:135(2001年)※ロジャース・ホーンスビー、チャック・クライン、ウェイド・ボッグス、デレク・ジーターとタイ記録
- ロードゲームシーズン安打:145(2004年)
- 最多単打:10回(2001年 - 2010年)※9回の時点でネリー・フォックスを49年ぶり更新
- 両リーグ最多単打:9回(2001年 - 2002年、2004年 - 2010年)※7回の時点でタイ・カッブを91年ぶり更新
- 両リーグ最多安打:7回(2001年、2004年、2006年 - 2010年)※タイ・カッブ、ピート・ローズとタイ記録
- 最多打数:8回(2001年、2004年 - 2008年、2010年 - 2011年)※Doc Cramerを69年ぶり更新
- 2か月連続月間50安打(2004年7月 - 8月)※タイ記録
- デビュー以来10年連続200安打(2001年 - 2010年)
- 10年連続200安打(2001年 - 2010年)※9年の時点でウィリー・キーラーを108年ぶり更新
- 8年連続200安打・100得点・30盗塁(2001年 - 2008年)※5年の時点でウィリー・キーラーを108年ぶり更新
- 8年連続200安打・100得点(2001年 - 2008年)※ウィリー・キーラーとタイ記録
- 8年連続200安打・30盗塁(2001年 - 2008年)※5年の時点でウィリー・キーラーを108年ぶり更新
- 5年連続最多安打(2006年 - 2010年)※4年の時点でジンジャー・ビューモンを105年ぶり更新
- 5年連続両リーグ最多安打(2006年 - 2010年)※3年の時点でダン・ブローザースを125年ぶり更新[191]
- 10年連続最多単打(2001年 - 2010年)※8年の時点でネリー・フォックスを48年ぶり更新
- 7年連続両リーグ最多単打(2004年 - 2010年)※5年の時点でネリー・フォックスを51年ぶり更新
- 5年連続最多打数(2004年 - 2008年)※4年の時点でジョージ・ライトを129年ぶり更新
- 連続5シーズン安打1100本以上:6回(2001年 - 2005年、2002年 - 2006年、2003年 - 2007年、2004年 - 2008年、2005年 - 2009年、2006年 - 2010年)
- 連続12シーズン最多安打:2606(2001年 - 2012年)※ポール・ウェイナーを75年ぶり更新
- 連続11シーズン最多安打:2428(2001年 - 2011年)※ポール・ウェイナーを74年ぶり更新
- 連続10シーズン最多安打:2244(2001年 - 2010年)※ロジャース・ホーンスビーを81年ぶり更新
- 連続9シーズン最多安打:2030(2001年 - 2009年)※ウィリー・キーラーを107年ぶり更新
- 連続8シーズン最多安打:1805(2001年 - 2008年)※ウィリー・キーラーを107年ぶり更新
- 連続7シーズン最多安打:1592(2001年 - 2007年)※ジェシー・バーケットを106年ぶり更新
- 連続6シーズン最多安打:1368(2004年 - 2009年)※ウィリー・キーラーを110年ぶり更新
- 連続5シーズン最多安打:1143(2004年 - 2008年)※チャック・クラインを75年ぶり更新
- 連続4シーズン最多安打:930(2004年 - 2007年)※ビル・テリーを75年ぶり更新
- 外野手1イニング2補殺(2003年5月25日)※タイ記録
- 4年連続右翼手最多出場(2002年 - 2005年)※Carl Furillo、Vic Wertzを54年ぶり更新
- 右翼手最多刺殺:7回(2001年 - 2005年、2009年 - 2010年)※Wally Mosesを65年ぶり更新
- 5年連続右翼手最多刺殺(2001年 - 2005年)※ティム・サーモンとタイ記録
- MLBアメリカンリーグ記録
- シーズン打席:762(2004年)※MLB歴代8位
- シーズン連続盗塁成功:39(2006年)※ビンス・コールマンに次いでMLB歴代2位
- シーズン右翼手刺殺:381(2005年)※MLB歴代2位タイ
- 2年連続220安打(2006年 - 2007年)※タイ・カッブ、ジョー・ジャクソンとタイ記録
- 5年連続210安打(2006年 - 2010年)※ウィリー・キーラーに次いでMLB歴代2位
- 8年連続100得点・30盗塁(2001年 - 2008年)※20世紀以降ではMLB記録
- 連続盗塁成功:45(2006年4月29日 - 2007年5月16日)※ビンス・コールマンに次いでMLB歴代2位
- 右翼手最多出場:5回(2002年 - 2005年、2010年)※ハンク・アーロンに次いでMLB歴代2位タイ
- ゴールドグラブ賞:10年連続、通算10回(2001年 - 2010年)※共に外野手部門ではアル・ケーライン、ケン・グリフィー・ジュニアとア・リーグタイ記録
- MLB新人記録
- 新人最多安打および1年目選手最多安打:242(2001年)※ジョー・ジャクソンを90年ぶり更新
- ア・リーグ新人最多単打およびア・リーグ1年目選手最多単打:192(2001年)
- ア・リーグ新人最多打数および1年目選手最多打数:692(2001年)
- ア・リーグ1年目選手最高打率:.350(2001年)
- 球団記録(シアトル・マリナーズ)
- 通算打数:7858(2001年 - 2012年)
- 通算打率:.322(2001年 - 2012年)
- 通算安打:2533(2001年 - 2012年)※エドガー・マルティネスを7年ぶり更新
- 通算単打:2060(2001年 - 2012年)
- 通算三塁打:79(2001年 - 2012年)
- 通算盗塁:438(2001年 - 2012年)
- 通算敬遠:172(2001年 - 2012年)※ケン・グリフィー・ジュニアとタイ記録
- 通算初回先頭打者本塁打:37(2001年 - 2012年)※MLB歴代6位、ア・リーグ歴代3位
- 通算外野手刺殺:4048(2001年 - 2012年)
- シーズン出場試合:162(2005年、2008年、2010年)※タイ記録。3度の162試合出場は単独球団記録
- シーズン打率:.372(2004年)
- シーズン打数:704(2004年)※MLB歴代3位、ア・リーグ歴代2位
- シーズン三塁打:12(2005年)
- シーズン初回先頭打者本塁打:5(2002年、2005年)
- シーズン出塁数:315(2004年)
- シーズン敬遠四球:27(2002年)
- シーズン複数安打試合数:80(2004年)
- シーズン1番打者打点:68(2005年、2007年)
- 20試合以上連続安打:7回(2001年2回、2004年 - 2007年、2009年)
- 月間6月打率:.427(2007年6月)
- 月間最多安打:56(2004年8月)
- 連続試合安打:27(2009年5月6日 - 6月3日)
- 連続2試合安打数:9(2004年9月21日 - 22日)※タイ記録
- 連続試合出場数:396(2004年7月11日 - 2006年9月25日)
- 新人最多得点:127(2001年)
- 新人最多二塁打:34(2001年)※タイ記録
- 新人最多三塁打:8(2001年)※タイ記録
- 新人最多塁打:316(2001年)
- 新人最多盗塁:56(2001年)
- 新人連続試合安打:23(2001年4月22日 - 5月18日)
- 1試合二塁打数:3(2003年9月20日、2010年7月29日)※タイ記録。また、イチローとエドガー・マルティネスのみ複数回記録
- 1試合三塁打数:2(2002年4月21日)※タイ記録
- 1試合盗塁数:4(2004年7月20日、2010年8月4日)※タイ記録。イチローのみ複数回記録
- 1試合敬遠数:3(2005年9月27日)※タイ記録(9イニングとしてはア・リーグタイ記録)
- 1試合死球数:2(2001年5月13日)※タイ記録
- 1試合外野手刺殺数:11(2007年6月27日)※タイ記録
- 1試合右翼手刺殺数:10(2012年5月3日)
- 球団記録(ニューヨーク・ヤンキース)
- デビューからの連続試合安打:12(2012年8月5日)※Don Slaughtとタイ記録
- その他
- オールスター
- 出場回数:10回(2001年 - 2010年)※球団タイ記録。2005年以外は先発出場。
- 打順1番での先発出場:5年連続、通算9回(2001年 - 2004年、2006年 - 2010年)※共にオールスター記録
- 右翼手での先発出場:6回(2002年 - 2003年、2006年、2008年 - 2010年)※オールスターア・リーグ歴代2位、MLB歴代4位
- 新人から3年連続オールスター両リーグ最多得票(2001年 - 2003年)※史上初。「新人から」という注釈を外してもケン・グリフィー・ジュニア以来史上2人目
- オールスターゲームでのランニング本塁打(2007年)※史上初
- インターリーグ
- 首位打者:1回(2007年)
- 最多安打:3回(2003年、2007年、2009年)
- 最多盗塁:3回(2003年、2006年 - 2007年)
- リーグ最多安打:7回(2001年、2004年、2006年 - 2010年)※タイ・カッブに次いでMLB歴代2位タイ
- 通算打率現役2位:.326(2011年シーズン終了時)※ア・リーグの現役選手中では1位[192]
- 通算1000安打達成試合数:696試合目(2005年)※1900年以降チャック・クライン、ロイド・ウェイナーに次いで3番目の速さでの達成
- 通算1500安打達成試合数:1060試合目(2007年)※1900年以降アル・シモンズ、ジョージ・シスラーに次いで3番目の速さでの達成
- 通算2000安打達成試合数:1402試合目(2009年)※1900年以降アル・シモンズに次いで2番目の速さでの達成
- 通算2500安打達成試合数:1817試合目(2012年)※1900年以降アル・シモンズ、タイ・カッブ、ジョージ・シスラーに次いで4番目の速さでの達成
- シーズン外野手守備率:.998(2007年)
- 2試合連続無安打なし:180試合(2008年8月15日 - 2009年9月26日)
- 連続試合出塁:43(2009年4月28日 - 6月14日)
- 連続試合複数安打:7(2001年5月11日 - 18日、2003年7月1日 - 8日、2007年5月13日 - 20日、2009年6月20日 - 27日、2010年5月8日 - 15日)
- 連続試合得点:8(2002年5月2日 - 10日、2004年7月18日 - 25日、2007年5月22日 - 29日)
- 連続無併殺打:169試合784打席736打数(2009年4月16日 - 2010年5月1日)※736打数は1920年以降で3番目の長さ
- 連続守備機会無失策:443(2006年9月8日 - 2007年9月12日)
- ア・リーグ地区シリーズ5試合最多安打:12(2001年)※シリーズタイ記録
- オールスター
背番号
- 51 (1992年 - 2012年7月22日)
- 31 (2012年7月23日 - )
関連情報
CM
- 『とんがりコーン』
- 『バーモントカレー』
- 『ククレカレー』
- 企業CM
- 「イチロー&若大将」篇(1996年) - 映画「日本一の若大将」の加山雄三のマラソンシーンと「ハワイの若大将」のサーフィンシーンにイチローをCG合成して、夢の共演が実現した。
- 「新年ジョギング」篇(1998年1月)
- 「イチロ初売りフェア」篇(1998年1月)
- 「ダンス・ウィズ ペンシル」篇(1998年4月1日 - )
- 「日産の新しい挑戦」篇(1999年1月1日 - 9日)
- 「総額10億円マイレージ」篇(1999年1月1日 - 31日)
- 「二系列大整列」篇(1999年4月1日 - 18日)
- 『スカイライン』
- 「幕開け」篇(イチロー篇)(2006年11月21日 - )
- 「雨」篇(イチロー篇)(2007年1月1日 - )
- 「一本の道」篇(2008年12月3日 - )
- 「001 Skyline talk」篇 - 「003 Skyline talk」篇(2007年4月12日 - )
- 「004 Skyline talk」篇「SKYLINE「50周年」篇(2007年4月24日 - )
- 「005 Skyline talk」篇 - 「010 Skyline talk」篇(2007年5月5日 - )
- 「一本の道」篇(2008年12月3日 - )
- 『スカイラインクーペ』
- 「PURE RED イチロー」篇(2007年10月3日 - )
- 『スカイラインクロスオーバー』
- 「日食」篇(2009年7月14日 - )
- 日興コーディアル証券(2001年 - )
- サントリー 『ペプシコーラ』(2002年)
- 「FEVER篇/BOOM篇」(2002年2月15日 - )
- 「イチローシズル篇」(2002年3月21日 - )
- 「イチローDIET篇」(2002年4月1日 - )
- 『ニンテンドーゲームキューブ シルバー』(2002年)
- 『ファミリースタジアム2003』 - ゲームソフト自体は開発、販売ともにナムコであるが、任天堂がCMを制作している(2003年)
- NTT西日本
- ENEOS
- NTTグループ
- アサヒビール
- 住友林業
- ミズノ
- 2006 ワールド・ベースボール・クラシック - 2006年2月5日に放送されたスーパーボウル中継の中でWBCのCMが放映された。アメリカ代表のロジャー・クレメンス、デレク・ジーター、ドミニカ代表のアルバート・プホルス、イタリア代表のマイク・ピアッツァらと共に、日本代表からイチローが出演[193]。
- 2009 ワールド・ベースボール・クラシック - 前回に引き続き出演。アメリカ代表のデレク・ジーター、ドミニカ代表のアレックス・ロドリゲス、メキシコ代表のホルヘ・カントゥと共に、日本代表として出演。
- キリンビール 『キリン一番搾り』(2009年 - )共演:松嶋菜々子
- 森永乳業 『ビヒダス』
テレビ番組
- 古畑任三郎・ファイナル 第41回「フェアな殺人者」(フジテレビ。2006年1月4日。本人役で出演)
- ICHIRO-MONDOW 〜Two Chairs〜(読売テレビ。2006年4月1日 - 2007年3月末)
- ICHIRO-VERSUS(読売テレビ。2007年4月7日 - 2008年3月末。上述番組の続編)
- 僕らの音楽 -OUR MUSIC-(フジテレビ系。2007年2月23日放送回。椎名林檎との対談)
- イチ流(年末年始恒例番組)
- 日本人メジャーリーガーの群像(年末年始恒例番組)
- プロフェッショナル 仕事の流儀[194](2008年1月2日、1月22日)
- BSデジタルの対談番組(ビートたけし、糸井重里、矢沢永吉との対談は書籍化されている)
- 99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜(2010年11月3日、第1夜。本人自身の野球映像出演)
- 「イチロー ぼくの歩んだ道 ~特別対談『大リーグの10年』with糸井重里~」(2011年1月1日。聞き手は糸井重里、住吉美紀)
- 「メジャーリーグ 〜アメリカ社会を映す鏡〜」(2011年1月1日。原題「Baseball The 10th Inning」)
ファッション雑誌
- ロフィシェル・ジャポン(2006年4月28日号)
- GQ(アメリカ版、2007年) [195]
イチローに関する出版物
- 『イチローとわが家 ほんとうの話』鈴木宣之著、イチローの父親による著作
- 『溺愛 ― 我が子イチロー』鈴木宣之著、イチローの父親による著作
- 『父と息子 ― イチローと私の二十一年』鈴木宣之著、イチローの父親による著作
- 『イチローに教えたこと、教えられたこと』中村豪著、愛工大名電在籍時の監督による著作 - イチローが愛工大名電に進学することになった経緯、イチローの高校時代、プロで芽が出なかった時のエピソードに詳しい。
- 『イチローの育て方』河村健一郎著
- 『イチロー・オン・イチロー ― Interview Special Edition』小松成美著
- 『イチロー、聖地へ』石田雄太著
- 『イチローは「天才」ではない』小川勝著
- 『ICHIRO メジャーを震撼させた男』Bob Sherwin著
- 『キャッチボール ICHIRO meets you』糸井重里著監修
- 『イチロー思考―孤高を貫き、成功をつかむ77の工夫』児玉光雄著
- 『イチローイズム―僕が考えたこと、感じたこと、信じること』石田雄太著
- 『イチロー 「勝利の方程式」 〜常に進化し続ける男の考え方〜』永谷脩著
- 『イチローの流儀』小西慶三著
- 『イチロー262のメッセージ』 - プロゴルファー宮里藍の愛読書として話題になり[196]、20万部突破のベストセラーになった。
- 『イチロー革命』ロバート・ホワイティング著、ISBN 978-4152085993
- 『マイ・フィールド・オブ・ドリームス ― イチローとアメリカの物語―』W.P. キンセラ著、井口優子翻訳
- 『イチロー果てしなき夢 少年の想いはるかに』義田貴士著
他多数
脚注
- ^ 同年オフに阪神タイガースの新庄剛志もニューヨーク・メッツと契約を結んだ。
- ^ ロジャー・マリスが、ベーブ・ルースが持つシーズン本塁打記録を破った際にも同様の論調が存在した
- ^ TBS系のスポーツ番組で西岡剛が語った内容によれば、その際、イチローは出席者全員分の食事代を一人で全額負担したという。
- ^ メジャーの連続10シーズンでの平均安打はイチローの224安打に対しイチロー以外の他の選手は全員が平均200安打を下回っている
- ^ 参考までに、2位がブラディミール・ゲレーロの32%、3位がホセ・ギーエンの8%である。
- ^ 参考までに、30盗塁以上対象の日本プロ野球記録が、1968年広瀬叔功の44盗塁2盗塁死、.9565である。
出典
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- ^ “Ichiro second fastest to 2,000”. ESPN. (2009年9月6日) 2013年1月4日閲覧。
- ^ “양키스 28번째 우승?..MLB 관전 포인트 10선”. yonhapnews. (2010年4月5日) 2013年1月4日閲覧。
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- ^ http://sankei.jp.msn.com/sports/mlb/090416/mlb0904161835028-n1.htm (リンク切れ)
- ^ “【6月12日】1993年(平5) 見出しにもならなかった「1番・センター、鈴木」の初本塁打”. スポニチ. 2009年2月27日閲覧。
- ^ “about HWB”. ハワイ・ウィンターリーグ. 2008年2月17日閲覧。
- ^ a b 『ICHIRO メジャーを震撼させた男』を参照。
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- ^ “Captain America Stirs Up Ryder Cup”. ウォールストリート・ジャーナル. (2004年9月16日)
- ^ “北京五輪野球:イチロー「五輪はアマのための大会」”. 朝鮮日報. (2007年1月2日)
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- ^ Does Ichiro need to re-invent himself as a hitter?The Seattle Times、2011年6月10日。
- ^ MLB's most disappointing players of 2011USA TODAY、2011年9月21日。
- ^ Ichiro Suzuki playing like impersonatorESPN、2011年9月12日。
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- ^ a b “WBC辞退イチローの本音”. 東京スポーツ. (2012年11月23日) 2013年1月9日閲覧。
- ^ 日刊スポーツ
- ^ 報知新聞
- ^ a b c “イチローの殿堂入りは確実 米メディアが“断言”予想”. スポーツニッポン. (2013年1月7日) 2013年1月9日閲覧。
- ^ a b c d “イチロー「殿堂入り確実な5人」に入る”. 日刊スポーツ. (2013年1月7日) 2013年1月9日閲覧。
- ^ Hitting is an art form for Seattle Mariners outfielder Ichiro Suzuki - ESPN
- ^ a b c d NHK放送「プロフェッショナル仕事の流儀」より。
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関連項目
- 愛知県出身の人物一覧
- オリックス・バファローズの選手一覧
- 愛知工業大学名電高等学校
- 日本人メジャーリーグ選手一覧
- 日本人のメジャーリーグベースボール選手が獲得したタイトル・表彰一覧
- イチロー杯争奪学童軟式野球大会
- アイ・ファイン :イチロー記念館。
- 鈴木宣之 :イチローの父(チチロー)
- 福島弓子 : 元TBSアナウンサー、イチロー夫人
- 張本勲 : 日本プロ野球の通算最多安打記録保持者
- ジョージ・シスラー : イチローが2004年に破るまでのシーズン最多安打記録保持者
- ウィリー・キーラー : イチローが2009年に破るまでの連続シーズン200安打記録保持者
- トニー・アタナシオ : スポーツエージェント、イチローの代理人を務めている
- ニッチロー : イチローの動作を真似るものまね芸人
外部リンク
- IchiroTimes - イチロータイムズ - イチロー公式サイト/アプリ
- 【特集】イチロー - 時事ドットコム
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)