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マヤノトップガン

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マヤノトップガン
1996年3月9日 阪神競馬場
品種 サラブレッド[1]
性別 [1][2]
毛色 栗毛[1][2]
生誕 1992年3月24日[1]
死没 2019年11月3日(27歳没)[3]
ブライアンズタイム[1][2]
アルプミープリーズ[1][2]
母の父 Blushing Groom[1][2]
生国 日本の旗 日本北海道新冠町[1][2]
生産者 川上悦夫[4]
生産牧場 川上悦夫[1][2]
馬主 田所祐[1][2]
調教師 坂口正大栗東[1][2]
厩務員 足立信之[5]
競走成績
タイトル JRA賞年度代表馬 (1995年)
最優秀4歳牡馬 (1995年)
生涯成績 21戦8勝[1][2]
獲得賞金 8億1039万0000円[1][2]
勝ち鞍
GI 菊花賞 1995年
GI 有馬記念 1995年
GI 宝塚記念 1996年
GI 天皇賞(春) 1997年
GII 阪神大賞典 1997年
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マヤノトップガン(欧字名:Mayano Top Gun1992年3月24日 - 2019年11月3日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1995年JRA賞年度代表馬JRA賞最優秀4歳牡馬である。同年の菊花賞(GI)、有馬記念(GI)、1996年の宝塚記念(GI)、1997年の天皇賞(春)(GI)を優勝した。

概要

1992年3月24日、北海道新冠町の川上悦夫牧場で生産された父ブライアンズタイムの牡馬である。兵庫県神戸市灘区の田所病院の病院長であり、冠名「マヤノ」の馬主・田所祐が所有し、栗東トレーニングセンター所属の調教師・坂口正大が管理した。骨瘤のために3歳のうちにデビューできなかったが、4歳、1995年1月にデビューした。

春のクラシックは間に合わなかったが、秋のトライアル競走で連続2着となり、優先出走権を得て臨んだ菊花賞(GI)を好位追走から抜け出して優勝した。続いて有馬記念(GI)で一線級の古馬と対したが、逃げ切り優勝。1976年トウショウボーイ以来となるデビュー年の有馬記念優勝を果たした。年初めに阪神・淡路大震災が発生し、馬主や調教師も被災する中、年間で13戦して有馬記念戴冠まで成し遂げ、この年の年度代表馬となった。

古馬となってからは、ナリタブライアンバブルガムフェローなどに敗退、サクラローレルマーベラスサンデーとは「三強」を形成して鎬を削った。連戦連勝とはいかなかったが、1996年の宝塚記念(GI)では好位追走から抜け出し優勝。史上7頭目となるファン投票にて出走馬を決める競走の連勝、いわゆる「春秋グランプリ」連覇を果たした。そして1997年からは、逃げ先行を強制させず、馬の気持ちに任せた。一転して、後方からの追い上げを見せ、阪神大賞典(GII)、天皇賞(春)(GI)を優勝した。

競走馬引退後は、種牡馬となり、プリサイスマシーンチャクラなど重賞優勝産駒を多数輩出。また2021年のジャパンダートダービーを優勝したキャッスルトップの母父でもある。

デビューまで

誕生までの経緯

川上牧場

川上牧場は、北海道新冠町の牧場である。1966年に川上景吉が拓き、牛と競走馬生産の兼業を営んでいたが[6]、1960年代に、高校を卒業した翌日の川上悦夫が18歳で継ぎ、牛をすべて売却して兼業を辞め、繁殖牝馬2頭から始まる競走馬生産専業牧場に生まれ変わっていた[7]。借金を背負った金欠状態からのスタートで、継いでしばらくは、馬主の仔分けの管理に甘んじたが[7]、次第に自己所有の繁殖牝馬を増やし、悦夫自らが考えた配合論の実践に勤しむようになっていた[8]

1987年には、クラウンエクシードがウインターステークス(GIII)を優勝し、生産馬の中央競馬重賞初優勝を叶えていた[9]。この年、牧場が抱える繁殖牝馬は25頭にまで増えていた[9]。牧場の規模を広げ、いくらかの経営危機も乗り越えながら存続していたが、あるとき、牧場の経営が良くなかった。そのとき、1頭の牝馬アルプミープリーズに出会う[10]。それでも川上は、無理をしてアルプミープリーズを購入し、牧場に迎え入れていた[11]

アルプミープリーズ

アルプミープリーズは、アメリカで生産された父ブラッシンググルーム、母父ヴェイグリーノーブルの牝馬である。1986年のパリ大賞(G1)や1987年のサンセットハンデキャップ英語版(G1)を優勝したスウィンク(父:リロイ)の半姉であった[12]。競走馬にはならず、アメリカで繁殖牝馬となり、初仔と2番仔を産んだ後、1988年に日本にもたらされた[12]。輸入後、北海道新冠町の早田牧場新冠支場に繋養され、3番仔を産んだ[13]

母父:ブラッシンググルーム

18歳から勉強し血統通となった川上は、この頃、ハイペリオン系リボーが好みだった[10]。そしてハイペリオンの血を持つ、ブラッシンググルームかヴェイグリーノーブルの血が入った繁殖牝馬を探し求めていた[10]。ちょうどその時、父ブラッシンググルーム、母父ヴェイグリーノーブルのアルプミープリーズに出会っている。しかし外見だけは、川上は「馬を見たらこれはどうかなと思えるような馬[11]」だった。おまけに経営不振中だったが、構わず購入を強行していた[10][11]。迎え入れて初年度の1989年、2年目の1990年は、共にイルドブルボンと交配し、4番仔5番仔の牝馬を産んでいる[12]

父:ブライアンズタイム

そして1991年、川上は、ハイペリオン系の牝馬には、ヘイルトゥリーズン系の種牡馬が合うだろうと考え、ヘイルトゥリーズン系であり、リボーの血も持つ種牡馬であるブライアンズタイムを交配相手に選ぶ[14]。川上は、後に「うまく配合すれば、ステイヤー素晴らしい仔が出来る、と確信していた[10]」と振り返っている。受胎を経て、1992年3月24日、北海道新冠町の川上悦夫牧場にてアルプミープリーズの6番仔となる栗毛牡馬(後のマヤノトップガン)が誕生する[12]

1994年、牧場はある事業に失敗したため、再びの経営不振に陥っている[10]。その改善のために、川上は、多数の繁殖牝馬の整理を行い、アルプミープリーズを放出する決断をしている[8]。6番仔の翌年、アルプミープリーズは、川上牧場で7番仔を得てから他所に移っていた。しかし移動直後の1994年6月20日、出産の際に死亡している[10][15]

幼駒時代

6番仔の出来は良く、牧場でも高い評価が与えられていた[11]。幼駒の頃である1993年、牧場の先輩にあたるナリタタイシンが、クラシック三冠競走第一弾の皐月賞を優勝を果たしていた[16]。GI初勝利となった牧場は、取材を多数受けていたが、ナリタタイシンの後に続くような、期待している2歳馬についての質問もあった。そのとき川上は、この6番仔の名を挙げていたという[11]。6番仔は、怪我とも無縁で、順調に育っていた[17]。そして首が低かった[17]。牧場では、人間が鼻をしきりに撫でていた。首を下げる回数が多く、川上にそれが癖になって、首の位置が低くなったという[17]

坂口正大

6番仔は、産まれる前から、栗東トレーニングセンター所属の坂口正大調教師の管理が内定していた。1991年秋、牧場を訪れた坂口は、姉の5番仔に好印象を持ち、管理を申し出ていた[18]。しかし既に先約がいたために諦め、代わりに腹に宿っている仔、後の6番仔を取り置きしたという経緯があった[19]。坂口は、そのとっておきの6番仔を、同じく調教師の父の代から関わり、自身の仲人を務めるなど密な関係にあった馬主の田所祐に紹介する[20]。田所は、相馬眼がないと自認していた[21]。さらに飛行機が苦手であることから、北海道入りを拒み、馬選びを坂口にすべて委任していた[21]。そのため、まもなく田所の所有馬となった。

自身が子供の頃に遊んだ兵庫県神戸市摩耶山に由来する冠名「マヤノ」を用いる田所は[21]、医師であり、神戸市灘区の田所病院の病院長だった[22]。名付けは馬主歴がかさむにつれて、自身で行わなくなり、6番仔の命名は、病院の事務会計係の提案を、採用していた[23]。その事務会計係は、この数年前に流行していたトム・クルーズ戦闘機パイロットを演じるアメリカ映画「トップガン」のファンだった[19][23]。そこでその映画の名前を拝借、冠名と組み合わせて「マヤノトップガン」となった[23]

マヤノトップガンは、3歳となった1994年3月、坂口厩舎に入厩した[18]。しかし調教を始めると、直ちに右前肢に骨瘤[注釈 1]をきたして、調教続行不能となり、厩舎からの退場を余儀なくされた[24]。北海道に戻り、門別町のクローバーファームで放牧休養[19]。骨瘤は、放牧地にある川で冷やして癒され、秋になって再入厩した[25]。ただし厩舎でも骨瘤のために、脚部への負担の小さいプール調教で鍛えられた。ゆえに時間を要し、大幅に遅れて、3歳のうちにデビューできなかった[24]

ファイル:Max beauty.jpg
田所祐の勝負服を纏う田原成貴マックス[注釈 2]ビューティ、1987年ローズステークス

後に田原成貴主戦騎手となるが「生産者川上、馬主田所、調教師坂口、騎手田原」というカルテットは、1992年クラシックに臨んだマヤノペトリュースと全く同じだった。1989年に生産されたマヤノペトリュースは、1992年のシンザン記念(GIII)で重賞初勝利を果たした後、きさらぎ賞(GIII)ヒシマサルに次ぐ2着[26][27]。そしてクラシック三冠競走第一弾の皐月賞(GI)に参戦したが、ミホノブルボンに逃げ切りを許す5着だった[28]

映像外部リンク
1992年 東京優駿(日本ダービー)(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

続く第二弾の東京優駿(日本ダービー)(GI)では、再び逃げるミホノブルボンを、ライスシャワーとともに追い上げたが、4馬身突き放され二冠を許した[29]。終いはライスシャワーとの2着争いとなったが、ライスシャワーにハナ差先着を許した3着だった[30]。この後は、ミホノブルボンの三冠阻止と自身のクラシック戴冠を狙い、秋の最終戦菊花賞を目指したが、深管骨瘤を発症[31]。ダービー3着を最後に引退に追い込まれ、戴冠は果たせぬまま、京都競馬場誘導馬に転向していた[25]

競走馬時代

4歳(1995年)

条件馬時代

1995年1月8日、京都競馬場新馬戦(ダート1200メートル)にてデビューを果たした。武豊が騎乗し単勝オッズ1.0倍の1番人気に推されたが、ワンダーパヒュームに敗れる5着だった[24]。それから田原成貴、武が騎乗し、同条件の未勝利とに臨むも連続3着。武が騎乗した4戦目、3月25日の同条件の未勝利戦にて、好位追走から差し切りを果たし、初勝利を挙げた。

ワンダーパヒューム。この世代の桜花賞を優勝馬である。

続いて500万円以下に臨み、初戦は3着。2戦目となる5月28日、武がアメリカのケンタッキーダービーに挑戦したため、代わりに田原が起用され、以後田原が引退まで添い遂げることとなる[25]中京競馬場の500万円以下(ダート1700メートル)にて、後方に7馬身差をつけて、2勝目を挙げた[24]。同じ日、この年のクラシック三冠競走第二弾・東京優駿(日本ダービー)が行われており、タヤスツヨシが制していた。

この頃から、マヤノトップガンの脚部不安が解消され、中京のダート競走が少なくなった季節に差し掛かったのもあり、900万円以下からは、芝に転向する[18]。6月18日のロイヤル香港ジョッキークラブトロフィー(芝2000メートル)こそ、フェアダンス[注釈 3]に敗れる3着だったが、続く7月9日の中京のやまゆりステークス(芝1800メートル)では、好位から抜け出し、3勝目を挙げていた。この勝利をきっかけに坂口は、マヤノトップガンのスケールの大きさを認めるようになり、クラシック三冠競走の最終戦である菊花賞を強く意識するようになった[20]。このやまゆりステークスの優勝馬では、1989年のバンブービギンが、秋に菊花賞を制するという前例があった[20]。そこで坂口は、バンブービギンの成り上がりを参考にして、菊花賞を目指すことになった[20]

続いて重賞初挑戦、菊花賞のトライアル競走である9月17日の神戸新聞杯(GII)に臨んだ。東京優駿優勝馬タヤスツヨシの始動戦であり、1.3倍の1番人気に支持される一方、マヤノトップガンは13.5倍の5番人気だった[33]。平均ペースの好位を追走し、直線で先頭に立ち、後方外から忍び寄るタヤスツヨシを突き放すことには成功し、先頭を守っていた[34]。しかしゴール寸前で、背後から追い上げた7番人気タニノクリエイトに接近を許した[34]。並ばれて、半馬身差し切られたところが決勝線通過し、2着[35]。重賞勝利は逃したものの、菊花賞への優先出走権を確保していた[36]

しかしこのまま本番には、直行しなかった。2000メートルの神戸新聞杯でさえも、終いでかわされ敗れるなど、この頃のマヤノトップガンには、終いが甘くなる危険があり、坂口は本番の3000メートルに対して不安を持っていた[18][37]。そこで距離延長を慣れさせるために、本番を前に2200メートルに臨むこととなった[37]。関西で行われるもう一つのトライアル競走である、10月15日の京都新聞杯(GII)にも出走することになった。一叩きしたタヤスツヨシとの再戦となり、タヤスツヨシは再び1番人気に推され、マヤノトップガンは2番人気に甘んじたが、オッズは2.7倍と4.4倍にまで縮まり、マヤノトップガンの支持率は高まっていた[38]

先行して敗れた神戸新聞杯の反省から、終いをもたせるために後方に控え、スローペースを追走した[39]。直線では、タヤスツヨシを置き去りにして、逃げるナリタキングオーに接近し、ゴール寸前で並びかけるところまで追い詰めていた[39]。しかし終いでのもうひと伸びが足りず、ナリタキングオーに逃げ切りを許した[25]。再びクビ差の2着敗退、重複して優先出走権を獲得している[40]。この後、坂口が決断し、菊花賞参戦が確定した[25]

菊花賞

11月5日、クラシック三冠競走最終戦の菊花賞(GI)に参戦する。これまでのクラシックは、皐月賞をジェニュインが、東京優駿をタヤスツヨシが制していた。どちらも故障離脱はしていなかったが、ジェニュインは天皇賞(秋)で古馬に挑み不在、タヤスツヨシはトライアルを連敗して信頼を失い、参戦していても存在感がなかった[41]。おまけに、これといった上がり馬も出現していないと考えられていた[41]。そのため、大本命不在の混戦となる[42]。18頭立てとなる中、最有力視されたのは、マヤノトップガンでも、これまで鎬を削っていた牡馬たちでもなく、紅一点の牝馬ダンスパートナーだった[42]

ダンスパートナーは、桜花賞2着、優駿牝馬(オークス)を優勝した後[43]、夏にフランス遠征して、帰国した直後の参戦だった[42]。牝馬の菊花賞参戦は18年ぶり、牝馬クラシック優勝馬の参戦は28年ぶりであり、優勝は1947年ブラウニー以降、48年間遠ざかっていた[41][42]。にもかかわらず、ダンスパートナーが、単勝オッズ4.9倍の1番人気となる[42]。牡馬の最上位は、2番人気ナリタキングオーの6.0倍であり、次ぐ6.5倍の3番人気がマヤノトップガンだった。当日の誘導馬は、菊花賞参戦が叶わなかったマヤノペトリュースが務めていた[25]

映像外部リンク
1995年 菊花賞(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画
1995年 菊花賞(GI)
レース映像 関西テレビ競馬公式YouTubeチャンネルによる動画

スタートから好位の4番手につけ、平均ないしスローペースを追走した[41][44]。2周目の第3コーナーから最終コーナーにかけて、前の3頭が垂れて、相対的にマヤノトップガンは進出した形となった。まもなく、単独先頭を奪取しながら最終コーナーを通過。直線では、後方待機勢の目標となりながら、逃げ切り押し切りを目指した[14]。後方勢では、大外からダンスパートナーが、背後からトウカイパレスが、内からホッカイルソーが追い上げており、接近を許した[42]。しかしマヤノトップガンは失速することなく伸びて、相手にそれ以上は許さず、リードを守り切った[45]。後方に1馬身4分の1差をつけて、先頭で決勝線を通過した[46]

菊花賞戴冠を果たす。重賞初勝利がGIだった。走破タイムは3分4秒4であり、前年の3分4秒6を上回る菊花賞レコードを成し遂げている[45]。田原は、これまでフレッシュボイスで皐月賞2着、グランパズドリームで東京優駿2着、スダホークで東京優駿並びに菊花賞2着などがあったが、それを乗り越えたクラシック三冠競走初勝利だった[47]。参戦直前、田原と坂口は、直線では、差し遅れた京都新聞杯よりも前に位置して、先頭を目指そうと打ち合わせていたが、田原は、明確な勝ち筋がイメージできず、一人藻掻いていた[14]。そのとき田原は、兄弟子で1980年にノースガストを導いた田島良保を頼り、田島から「スタートから2ハロンを気分良く走らせるようにしたら[14]」と助言を貰った結果、迷いなく騎乗することができ、マヤノトップガンを勝利に導いている[14]。決勝線通過直後、田原は胸に十字を切り、観客に投げキッスするという、1995年凱旋門賞にてラムタラを勝利に導いた直後のランフランコ・デットーリに似たパフォーマンスで喜びを表していた[25]。田原は「あんなに京都の直線を長く感じたのは初めて(中略)最後はさすがに、馬がへばりそうになっていたので、何度も"頑張れ、頑張れ"って励まし続けながら手綱をしごいていたよ[14]」と回顧している。

また坂口は、GI競走初勝利だった[31]。菊花賞は、1978年キャプテンナムラで臨み、インターグシケンに半馬身届かず2着となっていたが、それ以来マヤノペトリュースなどがいても、菊花賞出走すら叶えることができなかった[31]。そしてこの年、キャプテンナムラ以来の菊花賞挑戦で優勝、17年ぶりの雪辱を果たしていた[31]。最後の直線で逃げ切りを図るマヤノトップガンをスタンドから望む坂口は、右足を床に打つなど我を失いながら応援していたという[20]。その模様は、KBS京都が記録しており、翌週の放送で晒されていた[20]

有馬記念

1月のデビューから菊花賞まで12戦を走り、既に疲れが出ていたが放牧には出ず、この年の13戦目を目指した。13戦目には、暮れの有馬記念が選ばれる。ただ状態が悪いままに臨み、最高格のグランプリ競走で凡走することは、菊花賞優勝馬の面目を失いかねなかった[48]。そこで坂口は、5着以内に入る見込みがあるなら、面目は保てるという考えに至っていた[49]。そのため5着以内になるような状態を、直前まで慎重に見極め、有馬記念1週間前に参戦を決断した[49][50]

12月24日の有馬記念(GI)は、12頭立てとなり、一線級の古馬が立ちはだかった。人気の中心は、前年のワンツー、ナリタブライアンヒシアマゾンだった[51]。前年のクラシック三冠馬、有馬記念優勝馬であるナリタブライアンは、この年春に故障。秋に復帰し、天皇賞(秋)とジャパンカップに1番人気で臨んだが、それぞれ12着、6着敗退。それでも人気は根強かった[51]。そしてGI2勝の牝馬ヒシアマゾンは、この年の秋、オールカマー京都大賞典を連勝して、ジャパンカップでランドに次ぐ2着、日本調教馬最先着を果たしていた[51]

次いで天皇賞(秋)にてワンツーフィニッシュのサクラチトセオーとジェニュイン、そしてジャパンカップ4着のタイキブリザードが推され、マヤノトップガンはこれに続く6番人気、単勝オッズ13.0倍の6番人気に留まっていた。展開は、典型的な逃げ馬がおらず、タイキブリザードが逃げる形になると考えられた[52][53]。しかし田原は、自ら逃げてレースを支配したほうが、マヤノトップガンのためになるという結論に行き着く[48]。ただし当日は、逃げ馬に不利な強い風が吹いていた[48]

映像外部リンク
1995年 有馬記念(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画
1995年 有馬記念(GI)
レース映像 関西テレビ競馬公式YouTubeチャンネルによる動画

スタートから、先行するタイキブリザードを制して先頭を奪取した[53]。タイキブリザードの抵抗はなく、単独での逃げを実現した[53]。逃げるうちにペースを落とし、自らに有利なスローペースに持ち込んでいた[54]。2週目の第3コーナーから後方に構えていた人気のナリタブライアン、ヒシアマゾンが進出を開始。特にナリタブライアンが台頭し、こちらに並びかける勢いを見せていた[54]

直線では、馬場の最も内側で逃げ粘り、外から迫り来るナリタブライアンらに抵抗する[55]。するとたちまちナリタブライアンらが失速、マヤノトップガンの独走状態が仕上がっていた[55]。後方に2馬身差をつけて逃げ切りを果たした[56]。GI連勝、2勝目を成し遂げる。前年のナリタブライアンに続いて史上10頭目となる4歳馬による有馬記念優勝を果たした[50]。また1976年トウショウボーイ以来となる、デビューした年と同じ年の、暮れの有馬記念戴冠を成し遂げている[50]

この年は、有馬記念の前まで年間でGIを2勝した馬が存在しなかった[57]。そのためJRA賞年度代表馬の行方が注目されていたが、マヤノトップガンが有馬記念を制して、唯一のGI2勝馬となっていた[57]。そして行われたJRA賞の投票では、全177票中160票を集めて過半数を得て、年度代表馬を受賞した[注釈 4]。加えて全177票中173票を集めて過半数を得て、最優秀4歳牡馬[注釈 5]も受賞した[58]

5歳(1996年)

阪神大賞典

前年は13戦走ったため、この年は、まず疲労回復に専念。春の目標を天皇賞(春)に定め、産経大阪杯からの始動が予定されていた[59]。しかし田原からの助言があり、天皇賞(春)へ「よりゆったりとしたローテーションで[59]」(石田敏徳)臨むために、阪神大賞典に変更する[60][59]。その阪神大賞典には、ナリタブライアンの始動戦にもなっていた。よって前年と前々年の年度代表馬による対決が実現した。3月9日、阪神大賞典(GII)に臨む。マヤノトップガンは、疲労回復を優先したため、調教が捗らず、万全とは言えない出来だった[60]。年度代表馬2頭は人気を集めたが、小差でマヤノトップガンが1番人気となった[61]。スタートから先行して4番手を追走し、ナリタブライアンを背負いながら、スローペースを追走した[62]

映像外部リンク
1996年 阪神大賞典(GII)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画
第44回阪神大賞典
手前: ナリタブライアン、奥: マヤノトップガン

2周目の第3コーナーから進出を開始し、先頭に立ち、大勢を引き離していたが、ナリタブライアンだけには接近を許した[63]。外からかわされそうになったが、抵抗して横並びの並走に持ち込んで最終コーナーを通過する。2頭は後続を引き離しながらの一騎打ち、直線でも並走を続け、両者小差のリードを得た瞬間も各々あったが、すぐに並走状態に収束していた[64]。ゴール手前では、並走状態が解かれず、ほとんど同時に決勝線を通過していた[62]。3着には9馬身先んじた2頭だったが、その優劣の判断は、写真判定に委ねられて、ナリタブライアンの先着が認められ、マヤノトップガンはアタマ差の2着だった[63][62]

続いて本番の4月21日、天皇賞(春)(GI)に臨む。調教をあまりせずに臨んだ阪神大賞典にて、ナリタブライアンに小差の2着となったことから、坂口は、もっと調教で強化し、万全で臨めばどこまで突き抜けられるだろう、という発想に至っていた[65]。そこで「必要なステップを踏まずに、自分の気持ちだけで[66]」(坂口)調教を積み重ねて、当日を迎えていた[65]。ナリタブライアンとの再戦となり、人気は2頭に集中したが、1番人気は、阪神大賞典の着順通りナリタブライアンに譲る形だった[67]

映像外部リンク
1996年 天皇賞(春)(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

スタートから先行して、スローペースを追走[67]。2周目の第3コーナーから進出、すぐ外にナリタブライアンを引き連れており、阪神大賞典と同じように、2頭が先頭で並び立ちながら、最終コーナーを通過していた[68]。しかし直線に入ってまもなく、マヤノトップガンは失速し、ナリタブライアンに後れを取っていた[69]。おまけにサクラローレルやハギノリアルキングホッカイルソーにもかわされた[70]。後方から追い上げたサクラローレルが、ナリタブライアンをもかわして優勝する一方、それに6馬身以上後れを取る5着に敗れた[70]。失速は、折り合いをつけて走れなかった報いだった[65]。そして折り合いを欠いた原因は、坂口によれば、調教しすぎてマヤノトップガンの機嫌を損なったためであり、自身の発想のミス、「勘違い[60]」「錯覚[60]」だったと振り返っている[65]

宝塚記念

天皇賞(春)の後は、夏の宝塚記念を目指すことになったが、好走には機嫌を取り戻す必要があった[65]。そこで石川県小松市の小松温泉牧場にて、疲労回復とストレス緩和させるための短期放牧を挟んでいた[71]。そして7月7日、七夕に行われる宝塚記念(GI)に臨む。ナリタブライアンは故障離脱、サクラローレルは計画的に一足早く休養、ヒシアマゾンやステージチャンプも離脱するなど有力古馬が相次いで回避し、7月上旬開催という試みで期待された4歳クラシック優勝馬の参戦もなかった[72][73]。立ちはだかったGI優勝馬は、マヤノトップガンの他に、ダンスパートナー、レガシーワールドヤマニンパラダイスの3頭いたが、いずれも勢いに欠けていた[73]。ファン投票10位以内のうち、3頭しか参戦しておらず、メンバーは手薄と考えられていた[72]。そんな中、マヤノトップガンは、2.0倍の1番人気となる。次いでタマモクロス産駒のGII優勝馬カネツクロス、ダンスパートナー、GII2着のサンデーブランチだった[73]

映像外部リンク
1996年 宝塚記念(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

スタートからカネツクロスが大きく逃げる展開で、その3番手を平均ペースで追走した[73][74]。第3コーナーから進出を開始して、最終コーナーをカネツクロスに並びかけながら通過[74]。軽く促されただけで鋭い伸びを見せ、直線に入ってまもなく先頭を奪取した[72]。カネツクロスなどの抵抗もなく、突き放して独走となった[74]。後方に1馬身半差をつけて先頭で決勝線を通過した[75]

春秋"グランプリ"連勝[76]
1勝目 連勝
リュウフォーレル 1963年宝塚 同年有馬
シンザン 1964年宝塚 同年有馬
スピードシンボリ 1969年有馬 同年宝塚 70年有馬
トウショウボーイ 1976年有馬 77年宝塚
イナリワン 1989年宝塚 同年有馬
メジロパーマー 1992年宝塚 同年有馬
マヤノトップガン 1995年有馬 96年宝塚

宝塚記念戴冠、グレード制導入の1984年以降史上18頭目となるGI3勝目を挙げる[76]。また1963年リユウフオーレル、1964年シンザン、1969年70年スピードシンボリ、1976年77年トウショウボーイ、1989年イナリワン、1992年メジロパーマーに続いて史上7頭目となるファン投票にて出走馬を決める競走の連勝、いわゆる「春秋グランプリ」連勝を成し遂げていた[76]

天皇賞(秋)

この後は、小松温泉牧場に移り、夏休みを過ごした[77]。暑さに負けることなく、順調に過ごし、8月7日に帰厩[77]。秋の最初の目標を天皇賞(秋)に定め、オールカマーからの参戦が予定された[78]。9月15日のオールカマー(GII)では、サクラローレルとの再戦となる。共に人気を集め、オッズ1倍台。こちらが小差で1番人気だった[79]

スタートから先行して3番手を確保、サクラローレルの直前の位置だった。スローペース追走から直線勝負となったが、こちらが全く伸びなかった[79]。サクラローレルに突き放され、おまけに先行するファッションショーや船橋競馬のマキバサイレントも捉えられず、サクラローレルに5馬身半後れを取る4着に敗れた[79]

続いて10月27日、目標の天皇賞(秋)に臨んだが、評価を落としていた。サクラローレル、重賞4連勝中のマーベラスサンデー、前年の朝日杯3歳ステークスを制した後、春のクラシック直前に故障、秋は菊花賞ではなくこちらに臨んだ4歳馬バブルガムフェローよりも低く見られた4番人気だった。それでも当日の状態は、仕上がっており、田原が厩務員足立に「今日の(マヤノ)トップガンはちょっと違う[80]」と伝えるほどだった。しかし舞台が、実力に加えて、運も味方につける必要がある東京芝2000メートルだった[80]

映像外部リンク
1996年 天皇賞(秋)(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画
バブルガムフェロー

スタートから先行したが、絶好位をバブルガムフェローに奪われ、その直後をスローペースで追走した[80]。直線では、外からバブルガムフェローに並びかけよう、そして背後のサクラローレル、大外のマーベラスサンデーから逃れようとスパートし、先頭を奪取した[81][82]。しかしすぐにバブルガムフェローに盛り返されて逆転、後ろ2頭を振り切ったものの、バブルガムフェローに半馬身後れを取る2着に敗れた[81]。有利な位置のバブルガムフェローに競りかけて、終いで先を許す敗戦は、田原によれば「もしバブルガムフェローと枠順が逆だったら(中略)間違いなく主導権を握っていただろう(中略)そうなれば向こうが仕掛けるのを見てから追い出すことができたはず[81]」と述べ、バブルガムフェローに騎乗した蛯名も少しの運を味方にしたことを勝因に挙げるほどの接戦だった[80]

続いてジャパンカップは見送り、暮れの有馬記念で連覇を目指した。サクラローレルに次ぐ、そしてマーベラスサンデー、ファビラスラフイン、ヒシアマゾンを上回る2番人気に推された[83]。スタートから先行し2番手を追走。しかし途中で小休止する場面がなく、行ったっきりの追走となってしまった[84]

映像外部リンク
1996年 有馬記念(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

直線ではすでに余力がついて失速、サクラローレルなどにかわされて優勝を許した[83]。さらに14番人気マイネルブリッジ、12番人気ダンスパートナーにも先着される7着、連覇はならなかった[85]。この年は、大レースの優勝馬が悉く異なり、有馬記念がJRA賞年度代表馬の決定戦という側面もあった[86]。宝塚記念優勝馬のマヤノトップガンにもその資格があったが、敗退。有馬記念とともに年度代表馬の座も、最優秀5歳以上牡馬も、サクラローレルにさらわれていた[86][注釈 6]

6歳(1997年)

阪神大賞典

6歳となったマヤノトップガンは、この年限りでの引退が決定する[88]。最後の春の目標は、天皇賞(春)となり、先立って3月16日、前哨戦の阪神大賞典に参戦した。相手は、サクラローレルやマーベラスサンデーなどはおらず、条件戦から連勝して成り上がってきたメジロランバダやビッグシンボルら新星候補だった[89]。対するマヤノトップガンは、宝塚記念から半年間、勝利から遠ざかっていた。おまけに田原は、3月初旬までに1勝しか挙げられていなかった。マヤノトップガンの場合は、湿った馬場に脚を取られたこと、田原の場合は、風邪に伴う体調不良が長引き、騎乗数を確保できなかったことという明確な理由が存在したが、この二人は、共に一線級からは一枚落ちる立場にまで没落したと考えられた。当日は1番人気だったが、メジロランバダが2倍、ビッグシンボルが4倍まで肉薄してくる、1.9倍に留まっていた[89]。前年は加減して臨み、ナリタブライアンと小差の2着となり、本番で仕上げて敗れるという失敗をしていたが、今回坂口は、掛かることなく、正しく順序を守って調教していた[66]

スタートから逃げや先行はせず、最後方を追走した[89]。その後も、盛り返さず最後方に留まり、2周目の第3コーナーから、外をまくって進出した[89]。最終コーナーまでに好位に上がり、直線に入ってまもなく先頭を奪取。後は他の抵抗なく独走となった[89]。後方に3馬身半差をつけて決勝線を通過、半年ぶりの勝利を挙げた[90]

脚質転換

この阪神大賞典での、突然の最後方待機策について、田原はこのように述べている[89]

最後方からのレースになったけど、べつにそういう競馬をしたかったわけではない。とにかく気分よく走らせることが大事だから、馬の気持ちに任せていたらあの位置取りになっただけ。いままでは自分のリズムで走れば強い競馬をしていたけど、逆のときは脆さを出していたからね。天皇賞でも、ゲートを出てからこの馬のいい面を出してあげられるかどうかだと思うよ

4歳の頃は、スタートからマヤノトップガンの有無を言わさずに先行させて勝利を収めていたが、5歳になってからはマヤノトップガンは、先行向きの精神状態になかった[91]。それでも田原は、先入観から先行策を続け、低迷していた[91]。スタート直後のダッシュがないにもかかわらず、強く追って好位を確保、するとたちまち折り合いを欠き、終いに使う脚がなくなりかわされる、という敗戦がパターンとなっていた[92]。そこで田原は、ヒト主導の騎乗では、走ってくれないと考え、マヤノトップガンの能力を発揮させるために、その気持ちを最優先にしようと考える。すなわち、無理に先行させないという決断をしていた[93]。田原は5歳春の時点で、それを感じ取っていたが、先入観が邪魔をして踏ん切りがつかず、有馬記念大敗をきっかけに決別し、直後の阪神大賞典で実践に至っていた[93]

しかし悩み抜いて編み出した田原の騎乗法は、世間のみならず、関係者にも受け入れられなかった[94]。田原以外には、逃げ先行がマヤノトップガンの持ち味という先入観が依然として凝り固まっており、この方法は一回きりの奇策である、本番は正攻法で臨むだろうと捉えられた[94]。尤も世間は、サクラローレルへの対抗手段は、逃げ先行だと思い込んでいた[94]

田原の後ろ盾は、少なかった。しかし、ライバルサクラローレルの初代主戦騎手であり管理調教師――田原と親交が深かった小島太調教師、2月末の共同通信杯メジロブライトで制して調教師を引退したばかりの浅見国一からの支持、共感を得ていた[93][94]。特に浅見との懇談の中では、共通の認識を得ている。約20年前の1978年、新人の田原が京都2400メートルの天王山特別(700万円以下)で、浅見厩舎のヤマニンミノルに騎乗していた[94]。その際、第3コーナーの坂の下りでの進出は我慢して、最終コーナーを最後方で通過し、直線で外から追い上げて、勝利した過去を思い出していた[94]

後ろ盾が少ない状況で、脚質転換の決断をするために、田原は自ら追い込んでいた[95]。自意識を無くして苦悩から逃れ、無意識にその決断ができるように、三日間徹夜をして「半病人[95]」(田原)を目指したり、アメリカの俳優アル・パチーノの演技を大量に見て、役者になり切ろうと目指していた[95]。田原は普段、記者の取材に流暢に応対するが、天皇賞(春)に向けた記者からの取材を受けた際には、以下のように応対し記者を戸惑わせている[96][97]。鶴木遵によれば「人を煙に巻くような禅問答[95]」になっていた。

記者:天皇賞の競馬レース展開についてはどう思ってますか?
田原:うーん、展開ね…展開を考えた時点でボクの中では狂ってくるし…あくまでも自然の流れというか、マヤノトップガンの走りの中に、展開がはまってくるというか…展開の中に自然とボクとマヤノトップガンがいたというか……ゴメンネ、巧くは表現できないや
記者:相手馬はどの馬でしょう?
田原::サクラローレルも強いし、三強の闘いと言われているけれど、ボクにはあくまでもマヤノトップガンとボクなんだよね
記者:……
田原:サクラローレルも確かに強い。でもね、サクラローレルとマーベラスサンデーは、ボクとマヤノトップガンなんだよね。ボクがマヤノトップガンがどうであるかで、サクラローレルもマーベラスサンデーも変わってくるんだよね。いや競馬レースそのものが変わるというのではなくて、ボクとマヤノトップガンとの気持ちやコミュニケーションや意志の持ち方で、そのときどきのサクラローレルとマーベラスサンデーが違うし……違うといっても変だけれど、ゴメンナサイネ、でも違うんです。ボクとマヤノトップガンがどうであるかで、サクラローレルはいろんなサクラローレルがいるわけです
記者:それは、田原さんとマヤノトップガンの走りをするということですね?
田原:勿論、そりゃそうです
記者:前走の阪神大賞典の競馬で得たものも大きかったでしょうね
田原:いや、そのことでは何も変わっていないです。4歳で勝った有馬記念と、阪神大賞典は、ボクは一緒と思ってるし…一緒なんですよ。要するに形とか位置取りとかじゃなくて、マヤノトップガンがゲートを出て、あくまでもボクとマヤノトップガンがどうあるかであって、そのどうあるかは作戦とかではなくて、今この瞬間にどうあるかであって、うーん、それは全てがどうあるかにつながるし、うーん、さっき聞かれたサクラローレルとマーベラスサンデーはどうなるかにつながるし、やっぱり大事なんです。それなんです……

坂口は、やはり逃げ先行がマヤノトップガンの持ち味である、という思想の持ち主だった[66]。そのため直前、天皇賞(春)の騎乗法を田原に対して、先行するように指示する[66]。しかしその場で、覚悟が決まっていた田原が反論し、先行策を否定していた[97]

阪神大賞典後のマヤノトップガンは、ナリタブライアンとの闘いで消耗した前年に比べて、疲労が少なく、簡単に万全な状態に仕上がっていた[66]。この頃、既に坂口は、マヤノトップガンに合った仕上げ方を見つけていたという[66]

天皇賞(春)

"三強" サクラローレル マヤノトップガン マーベラスサンデー
'96天皇賞秋[98] 2.5(1人) 3着 8.1(4人) 2着 4.0(2人) 4着
'96有馬記念[99] 2.2(1人) 1着 5.9(2人) 7着 8.4(3人) 2着
'97天皇賞春[100] 2.1(1人) ? 3.7(2人) ? 4.1(3人) ?

4月27日、天皇賞(春)に臨む。16頭が出走する中、3頭が「三強」として持ち上げられる。「三強」は前年の有馬記念で1番人気から3番人気までを占めた3頭と同じ、サクラローレルとマヤノトップガン、そしてマーベラスサンデーだった[101]。人気順は同じ、サクラローレルが最有力視されていたが[101]、オッズは接近して洗練された「三強」となっていた。有馬記念の後、サクラローレルは程度の軽い骨折が判明して休養しており、前哨戦を用いない直行だった[102]。またマーベラスサンデーは、産経大阪杯で始動し、ロイヤルタッチイシノサンデーらを相手に優勝していた[103]

スタートからマヤノトップガンは、阪神大賞典と同じだった。田原は馬の気持ちを尊重し、後方の内側を進んだ[104]。まもなく行きたがったが、内側には馬群ができていて進路がなく、行きあぐねたために落ち着きを取り戻し、折り合いをつけての追走を実現した[103]。逃げたのは、南井克巳が騎乗するビッグシンボルであり、やや速い平均ペースを刻んでいた[104]。サクラローレルとマーベラスサンデーは、マヤノトップガンより前の中団追走だった。2周目の第3コーナーにて、サクラローレルがかかりながら進出を開始すると、マーベラスサンデーはその後を追い、2頭は先行集団を射程に入れる位置まで来ていた[105][106]。2頭が動いたことで他の馬も動き、ペースは乱れたが、マヤノトップガンは、そこでは動かず、いまだ先行集団の背後に甘んじていた[106][107]

映像外部リンク
1997年 天皇賞(春)(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画
1997年 天皇賞(春)(GI)
レース映像 関西テレビ競馬公式YouTubeチャンネルによる動画

2頭は、横並びで最終コーナーを通過し、直線で競り合いを開始[108]。一方のマヤノトップガンは、折り合いがつき、手応え抜群の状態で最終コーナーまで到達する。内から外に持ち出しながら、直線に向き、2頭の遥か外、大外から追い上げる形となる[106]。2頭との差は8馬身あったが、田原に促されて末脚を発揮し、差を埋めていた[107]。2頭の競り合いは、内側のサクラローレルが制して抜け出していたが、それを外からマヤノトップガンが、2頭まとめて差し切った[108]。2頭には、抵抗する余力なく、かわしてからは差を広げる一方となる[106]。サクラローレルに1馬身4分の1、マーベラスサンデーに1馬身半以上の差をつけて、決勝線を先頭で通過した[109]

天皇賞を戴冠する。シンボリルドルフ、ナリタブライアンに次ぎ、オグリキャップメジロマックイーントウカイテイオーに並ぶGI競走4勝目を成し遂げた[110]。また走破タイム3分14秒4は、1993年ライスシャワーの3分17秒1を2.7秒更新して、天皇賞(春)レコード樹立[110]。さらに1993年、東京競馬場のダイヤモンドステークス(GIII)を優勝したマチカネタンホイザの3分16秒8を2.4秒更新し、日本レコードを樹立した[110]。さらに田原は、14回目の騎乗での天皇賞(春)初勝利だった[110]

これまでのGI3勝は、額面通り受け入れられていなかった[111]。牝馬が1番人気となる菊花賞、有力馬欠場多数の宝塚記念、そして意表を突いて逃げた有馬記念は、相手関係や田原の好判断の賜物だと考えられ、マヤノトップガンの実力を真正面から評価されていなかった[111]。しかし天皇賞(春)での4勝目と、その勝ちっぷりにて実力証明を果たしている[111]。坂口はこのように述べている[60]

自分の子供が可愛いのと同じで、ぼくもマヤノトップガンという馬は近年の馬の中でも5本の指に入る馬だと思っているんです。ところがマスコミには弱い弱いって書かれるんですね。
確かに負けたレースもあるけれど、敗因は道悪だとはっきりしている。能力で負けたわけではないですから、自分はあの馬は強いと思っているんです。ところが外からはそうは見えないらしくて、3強とは言ってもらってるけど、あくまでも3番目の馬なんですね(笑)。
それに対しては"なにくそ"という気持ちがありまして、だから先頭でゴールしたときは胸がスッとしました。やっぱりうちの馬がいちばん強かったじゃないかって。
引退

天皇賞(春)の後は、宝塚記念を見送り、夏休み。秋は、天皇賞(秋)やジャパンカップ出走を目指していた[17]。しかし9月25日、左前脚浅屈腱炎を発症[112]。程度は軽かったが、この秋の出走が不能となり、前倒しでの引退となった[112]。11月30日の昼休み、阪神競馬場にて引退式が行われた[111]

種牡馬時代

競走馬引退後は、種牡馬となり、北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで繋養された[92]。初年度から81頭、2年目からは三桁、3年目こそ89頭に戻ったが、4年目以降は、三桁の繁殖牝馬を集め、ピークは150頭を超えることもあった[113]。12年目の2009年の100頭を最後に、右肩下がりとなり、15年目の2012年には半減して50頭、そして2014年には4頭まで減少した[113]。翌2015年3月11日付で、用途変更[114]。種牡馬を引退した後は、優駿スタリオンステーションに居残り、功労馬として過ごした。2019年11月3日、老衰のために27歳で死亡する[115]

17年の種牡馬生活では、日本国内において、1116頭の産駒が血統登録された[113]。2001年から2021年まで出走し、そのうち15頭が重賞優勝を成し遂げている[113]。中には、複数の重賞を優勝した産駒も多く輩出し、プリサイスマシーン(母父:サンデーサイレンス)は、2003年から2004年にかけて中日新聞杯を連覇した他にスワンステークス阪急杯も制して重賞4勝[116]メイショウトウコン(母父:ジェイドロバリー)は、平安ステークス東海ステークスエルムステークスを制した他に、地方競馬名古屋大賞典ブリーダーズゴールドカップも優勝した[117]。さらに重賞2勝のチャクラ(母父:カーリアン)、トップガンジョー(母父:ゴールデンフェザント)などがいる[118][119]

また産駒の牝馬も多数繁殖牝馬となり、ブルードメアサイアーとしての産駒の重賞優勝も多数存在する。中でもキャッスルトップ(父:バンブーエール)は、2021年ジャパンダートダービー(JpnI)を優勝し、GI級競走優勝を果たしている[120]

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[121]並びにJBISサーチ[122]、『優駿[92]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離
(馬場)



オッズ
(人気)
着順 タイム
(上り3F)
着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬
(2着馬)
馬体重
[kg]
1995. 01. 08 京都 4歳新馬 ダ1200m(良) 16 7 13 01.7(1人) 05着 01:14.9 (38.9) -1.1 武豊 55 ワンダーパヒューム 446
02. 19 京都 4歳未勝利 ダ1200m(良) 14 2 2 07.6(4人) 03着 01:14.2 (37.6) -0.4 田原成貴 55 スタースワロー 438
03. 11 京都 4歳未勝利 ダ1200m(稍) 8 1 1 01.8(1人) 03着 01:14.2 (36.6) -0.7 武豊 55 ポリシュアドミラル 444
03. 25 京都 4歳未勝利 ダ1200m(良) 14 2 2 02.0(2人) 01着 01:13.0 (37.2) -0.2 武豊 55 ランドゼノビア 440
04. 15 京都 4歳500万下 ダ1200m(重) 14 4 6 06.8(3人) 03着 01:12.6 (37.1) -0.3 武豊 55 フサイチビクトリー 434
05. 07 京都 4歳500万下 ダ1200m(良) 11 4 4 05.2(4人) 03着 01:12.1 (36.1) -0.6 田原成貴 55 ワカサアイネス 430
05. 28 中京 4歳500万下 ダ1700m(良) 11 7 8 08.2(4人) 01着 01:46.8 (38.2) -1.2 田原成貴 55 (キタサンシルバー) 442
06. 18 中京 ロイヤル香港JCT 9下 芝2000m(良) 13 8 13 15.3(5人) 03着 02:01.3 (36.6) -0.1 田原成貴 55 フェアダンス 440
07. 09 中京 やまゆりS 9下 芝1800m(良) 13 6 2 05.2(2人) 01着 01:49.8 (36.0) -1.2 田原成貴 54 (スリリングアワー) 442
09. 17 京都 神戸新聞杯 GII 芝2000m(良) 14 8 14 13.5(5人) 02着 01:59.8 (36.2) -0.0 田原成貴 56 タニノクリエイト 452
10. 15 京都 京都新聞杯 GII 芝2200m(良) 15 6 11 04.4(2人) 02着 02:11.5 (34.5) -0.1 田原成貴 56 ナリタキングオー 452
11. 05 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 18 5 10 06.5(3人) 01着 R3:04.4 (35.9) -0.2 田原成貴 57 (トウカイパレス) 454
12. 24 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 12 7 10 13.0(6人) 01着 02:33.6 (35.3) -0.3 田原成貴 55 タイキブリザード 458
1996. 03. 09 阪神 阪神大賞典 GII 芝3000m(良) 10 8 10 02.0(1人) 02着 03:04.9 (34.5) -0.0 田原成貴 58 ナリタブライアン 460
04. 21 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 16 4 7 02.8(2人) 05着 03:18.8 (36.1) -1.0 田原成貴 58 サクラローレル 456
07. 07 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 13 6 9 02.0(1人) 01着 02:12.0 (34.6) -0.2 田原成貴 58 (サンデーブランチ) 454
09. 15 中山 オールカマー GII 芝2200m(重) 9 6 6 01.8(1人) 04着 02:17.6 (37.6) -0.9 田原成貴 59 サクラローレル 456
10. 27 東京 天皇賞(秋) GI 芝2000m(良) 17 4 8 08.1(4人) 02着 01:59.1 (35.1) -0.5 田原成貴 58 バブルガムフェロー 456
12. 22 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 14 3 3 05.9(2人) 07着 02:35.3 (38.3) -1.5 田原成貴 57 サクラローレル 472
1997. 03. 16 阪神 阪神大賞典 GII 芝3000m(稍) 8 8 9 01.9(1人) 01着 03:07.2 (37.1) -0.6 田原成貴 59 (ビッグシンボル) 464
04. 27 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 16 2 4 03.7(2人) 01着 R3:14.4 (34.2) -0.2 田原成貴 58 (サクラローレル) 458
  • Rは、レコード勝ちを示す。

種牡馬成績

年度別成績一覧

以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく[113]

種付年度 生産年度 種付頭数 生産頭数 血統登録頭数 出走頭数 勝馬頭数 重賞勝馬頭数 AEI CPI
1998 1999 81 63 63 59 40 3 1.73
1999 2000 109 85 85 75 49 1 1.16
2000 2001 89 75 74 69 45 0 1.12
2001 2002 110 89 87 78 57 5 1.65
2002 2003 101 75 72 61 45 1 1.00
2003 2004 151 117 112 103 63 0 1.04
2004 2005 137 105 99 91 63 1 0.84
2005 2006 117 87 83 77 49 0 0.60
2006 2007 113 78 78 72 46 0 0.47
2007 2008 143 91 91 87 50 2 0.77
2008 2009 144 85 85 75 52 0 0.49
2009 2010 100 65 65 55 33 2 0.40
2010 2011 86 54 53 47 27 0 0.54
2011 2012 72 39 39 32 22 0 0.23
2012 2013 50 27 27 22 14 0 0.32
2013 2014 12 3 3 3 1 0.42
2014 2015 4 0 0 0
合計 1116 1006 656 15 0.85 1.06

重賞優勝産駒

産駒一覧

地方競馬独自の格付けによる重賞は、競走名の前にアスタリスクを充てる。

バンブーユベントス

バンブーユベントス(欧字名:Bamboo Juventus) 血統 
[135] マヤノトップガン
1992 栗毛
*ブライアンズタイム Roberto
毛色 栗毛[135] Kelley's Day
生年 1999年[135] アルプミープリーズ Blushing Groom
生産地 日本の旗 日本北海道荻伏村[135] Swiss
生産者 バンブー牧場[135] スプリングバンブー
1990 栗毛
*ワッスルタッチ Northern Dancer
馬主 有限会社バンブー牧場[135] Queen Sucree
調教師 田島良保栗東[135] サワーバンブー *Gentilhombre
成績等 11戦3勝[135]
2003年日経新春杯(GII)優勝[135]
2002年青葉賞(GII)2着[135]
2002年中日新聞杯(GIII)2着[135]
オレンジニンバス

バンブーユベントスは、北海道荻伏村のバンブー牧場で生産された初年度産駒である。母スプリングバンブーは、1995年の小倉記念(GIII)優勝馬だった[136]。この年の牧場は、命名規則を、冠名「バンブー」にイタリアのサッカーリーグセリアAのクラブチーム名を組み合わせたものにしており、この馬には、2001/02年シーズンを優勝した「ユベントス」が割り当てられていた[137]。栗東の田島良保調教師に託された。2歳夏に厩舎には入厩したが、初めは骨の成長が遅く、あちこちを頻繁に痛め、3歳のうちにデビューできなかった[136][137]。それでも2002年、若手の村田一誠を起用して、3歳1月の新馬戦、3月のさわらび賞(500万円以下)を連勝した[137]

重賞初挑戦の毎日杯(GIII)6着を挟んで、臨んだ東京優駿(日本ダービー)のトライアル競走である青葉賞(GII)にて、後方追走から大外に持ち出して追い込み、抜け出したシンボリクリスエスに2馬身半差の2着を確保、優先出走権を獲得した[138][139]。そしてクラシック第二弾の東京優駿(GI)でも、村田が続投し、勝利すればダービー最年少優勝記録更新だったが[137]、12着で叶わなかった[140]。秋からは幸英明が騎乗し、セントライト記念と菊花賞に臨むも12着、7着[140]。続く12月の中日新聞杯(GIII)では、古馬相手に3番人気で臨み、後方から追い込んだが、同じ3歳の2番人気マイソールサウンドにクビ差届かず2着だった[141][142]

年をまたいで2004年1月、古馬初戦となる日経新春杯(GII)に参戦。四位洋文に乗り替わり、コイントスファストタテヤマエアエミネムに次ぐ4番人気の支持だった[136]。最後方の内側追走から、直線にて馬場の最も内をついて進出[143]。1番人気コイントスが好位追走から抜け出していたが、それを差し切り、半馬身差をつけて優勝した[143]。重賞初優勝、マヤノトップガン産駒初の重賞勝利を成し遂げている[136]。この後は、天皇賞(春)で父仔優勝を目指す予定だったが[136]、右前浅屈腱炎が判明して長期休養[144][140]。1年半経過した2004年8月に復帰するも、2連敗して競走馬を引退した[144]。通算成績11戦3勝、重賞1勝だった。競走馬引退後は、小倉競馬場で誘導馬を務め、2009年に引退し南九州市森林馬事公苑で乗馬となった[140]

ブルードメアサイアーとしての産駒

GI級競走は、競走名を太字強調にて示す。地方競馬独自の格付けによる重賞は、競走名の前にアスタリスクを充てる。

エピソード

阪神・淡路大震災

マヤノトップガンが4歳の頃の1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生し、関西地方に大きな被害を与えている。滋賀県の栗東トレーニングセンターにいるマヤノトップガン自体は無事だったが、調教師の坂口正大は、田所自身が営む兵庫県神戸市灘区の田所病院で被災していた[150]。坂口は、前日の1月16日に西日本馬主協会主催の新年会に出席していたが、田所からそのついでに病院も訪問し、翌17日早朝に届く予定だった検査結果を受け取るべきと田所に諭され、病院の特別室で一泊[150]。その朝に被災している。坂口は、揺れで身体を床に打ち、腰を負傷した他、田所の車で17日の夜を過ごしていた[150]

田所は、震災で弟夫婦を亡くしたうえに、病院が業務できないほどに破壊されていた[22]。そのため、復旧、治療に追われて忙しかっていたが、唯一の息抜きが所有愛馬の応援だった[151]。そして愛馬について「活躍してくれるんは、そら嬉しい。けど、それ以上に馬の頑張ってる姿が、ぼく自身の精神的支えになってた。勇気づけられる(中略)まさか馬が生きる励みになろうとは[151]」と回顧している。そんな中、震災から約10か月後の11月、マヤノトップガンは菊花賞を戴冠。さらに暮れ、有馬記念も戴冠する。この活躍について田所は「死んだ弟が、あの世から後押してくれたんや[21]」と感じたという。またこの年の日本プロ野球パシフィック・リーグでは、神戸を本拠地とするオリックス・ブルーウェーブ1995年のオリックス・ブルーウェーブ)が優勝しており、菊花賞を優勝した際には、杉本清は「今年は神戸だ!マヤノトップガン!![25]」と実況している。

震災は、兵庫県宝塚市にある日本中央競馬会の競馬場・阪神競馬場も破壊し、使用不能に追い込んでいる。阪神を欠いたことで、開催を他場に代替。例えば2着だった1995年の神戸新聞杯は、京都競馬場で代替、29年ぶりとなる京都開催となっていた[35]。同年末には再開し、翌1996年には、マヤノトップガンが阪神大賞典で阪神に舞い戻り、ナリタブライアンと小差の2着となっている。そして夏、震災から1年半後に行われた「震災復興支援競走」宝塚記念を、マヤノトップガンが制していた[72]。田所は「菊花賞も有馬記念も地元と違いましたやろ。ホンマ、よう阪神でGIを勝ってくれましたわ。これで神戸の皆さんが、ちょっとでも元気を出してくれたら…。そやけど馬って、不思議な生き物ですなあ[152]」と述べている。

血統

マヤノトップガン血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ロベルト系
[§ 2]

*ブライアンズタイム
Brian's Time
1985 黒鹿毛
父の父
Roberto
1969 鹿毛
Hail to Reason Turn-to
Nothirdchance
Bramalea Nashua
Rarelea
父の母
Kelley's Day
1977 鹿毛
Graustark Ribot
Flower Bowl
Golden Trail Hasty Road
Sunny Vale

*アルプミープリーズ
Alp Me Please
1981 栗毛
Blushing Groom
1974 栗毛
Red God Nasrullah
Spring Run
Runaway Bride Wild Risk
Aimee
母の母
Swiss
1974 栗毛
Vaguely Noble *ヴィエナ
Noble Lassie
Gala Host My Host
Huspah F-No.14-a
母系(F-No.) 14号族(FN:14-a) [§ 3]
5代内の近親交配 Nasrullah4×5、Alibhai5×5、Nearco5×5 [§ 4]
出典
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  4. ^ JBISサーチ マヤノトップガン 5代血統表 2017年8月26日閲覧。


脚注

注釈

  1. ^ 山本徹美によれば外側[21]、井口民樹によれば内側[19]
  2. ^ マックスビューティは、伊藤雄二厩舎に預けられた。田所が、伊藤厩舎に預ける際は「マヤノ」ではなく、「マックス」の冠名を用いていた。
  3. ^ 後に出世し、1996年の府中牝馬ステークス(GIII)にて、サクラキャンドルに次ぐ2着。同年のエリザベス女王杯(GI)にて、ダンスパートナーに次ぐ2着。そのほかオープン競走を3勝するなど、通算成績29戦6勝[32]
  4. ^ 160票に続いたのは、ヒシアマゾン7票、ライブリマウント3票、サクラチトセオー2票、バブルガムフェロー1票、該当馬なし4票[58]
  5. ^ 173票に続いたのは、ジェニュイン3票、タヤスツヨシ1票[58]
  6. ^ JRA賞では、いずれにも票が入らなかった。共にサクラローレルに過半数の票が、特に年度代表馬選考は、満票選出だった[87]

出典

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      • 「【第37回宝塚記念】新しい王者の風格。有馬記念に続きグランプリを連覇 マヤノトップガン」
    • 1996年9月号
      • 小牧隆之(サンケイスポーツ)「【RACING DATA BASE】第37回宝塚記念〈震災復興支援競走〉(GI)マヤノトップガン」
      • 「【今月の記録室】マヤノトップガンが両グランプリを制覇」
    • 1996年10月号
      • 石田敏徳「【第114回天皇賞(秋)】天皇賞(秋)有力馬の近況」
    • 1996年11月号
      • 白石俊「【RACING DATA BASE】第42回産経賞オールカマー(GII)サクラローレル」
    • 1996年12月号
      • 石田敏徳「【第114回天皇賞(秋)】有力馬騎乗騎手が語る 天皇賞の明と暗」
      • 秋谷哲(サンケイスポーツ)「【RACING DATA BASE】第114回天皇賞(秋)(GI)バブルガムフェロー」
    • 1997年2月号
      • 「【優駿ヘッドライン】年度代表馬にサクラローレル――96年度JRA賞決定。最多勝利新人騎手は福永祐一」
      • 「【第41回有馬記念】'96フィナーレの証明 最強馬はサクラローレル」
      • 石田敏徳「【RACING DATA BASE】第41回有馬記念〈グランプリ〉(GI)サクラローレル」
    • 1997年5月号
      • 「【Play-Back the Grade Races】第45回阪神大賞典(GII)マヤノトップガン」
      • 「【重賞データファイル】第45回阪神大賞典(GII)マヤノトップガン」
    • 1997年6月号
      • 「【優駿ヘッドライン】奪い返した最強馬の座――天皇賞(春)を快勝したマヤノトップガン」
      • 「【第115回天皇賞(春)】壮絶な"三強"の戦いも、凱歌はマヤノトップガンの末脚に」
      • 優駿編集部「【優駿ロングインタビュー】坂口正大調教師 マヤノトップガンを語る」
      • 「【重賞データファイル】第115回天皇賞(春)(GI)マヤノトップガン」
      • 「【今月の記録室】三強対決の天皇賞(春)勝者はマヤノトップガン」
    • 1997年9月号
      • 辻谷秋人「【杉本清の競馬談義 149】川上悦夫氏」
      • 鶴木遵「【競作ノンフィクション・シリーズ】1997、天皇賞(春)田原成貴とマヤノトップガン 一瞬のステージ(上)」
    • 1997年10月号
      • 鶴木遵「【競作ノンフィクション・シリーズ】1997、天皇賞(春)田原成貴とマヤノトップガン 一瞬のステージ(下)」
    • 1997年11月号
      • 「【優駿ヘッドライン】ついえた夢。――サクラローレル、マヤノトップガン、相次いで引退」
    • 1998年1月号
      • 「【優駿ヘッドライン】走って輝く。――マヤノトップガン引退式」
    • 2001年11月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち 8】マヤノトップガン 変幻自在の長距離ランナー」
    • 2002年6月号
      • 石田敏徳「【第69回日本ダービー】広い東京コースで持ち味発揮 バンブーユベントス」
      • 「【Play-Back the Grade Races】2年連続で外国産馬がダービーへ 第9回青葉賞(GII)シンボリクリスエス」
      • 「【重賞データファイル】第9回テレビ東京杯青葉賞〈ダービートライアル〉(GII)シンボリクリスエス」
    • 2002年8月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち 15】タイキブリザード アメリカ最高峰に刻んだ蹄跡」
    • 2002年10月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒロイン列伝 20世紀を駆けた名馬たち 17】ダンスパートナー SS牝馬の飽くなき挑戦」
    • 2003年2月号
      • 「【Play-Back the Grade Races】第38回中日新聞杯(GIII)マイソールサウンド」
      • 「【重賞データファイル】第38回中日新聞杯(GIII)マイソールサウンド」
    • 2003年3月号
      • 「【Play-Back the Grade Races】第50回日経新春杯(GII)バンブーユベントス」
      • 「【重賞データファイル】第50回日経新春杯(GII)バンブーユベントス」
    • 2004年7月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち 37】マーベラスサンデー 耐え抜いた果てに」
    • 2006年1月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 56】サクラローレル 遅咲きの桜、華やかに」

外部リンク