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| 氏名 = 徳川家康/松平元康
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2017年1月25日 (水) 03:49時点における版

 
徳川家康/松平元康
徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文11年12月26日1543年1月31日
死没 元和2年4月17日1616年6月1日)74歳没
改名 松平竹千代(幼名)→ 元信(初名) → 元康 → 家康 → 徳川家康
別名 輩行名:次郎三郎
尊称:大御所 (将軍引退後)、神君(死後)[1]
神号 東照大権現
戒名 東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽(誉)道和大居士
墓所 久能山東照宮
日光東照宮
大樹寺
高野山
官位 蔵人佐無位)、従五位下三河守左京大夫、従五位上、侍従正五位下従四位下右近衛権少将、従四位上、正四位下、左近衛権中将、従三位参議権中納言正三位従二位権大納言左近衛大将左馬寮御監正二位内大臣従一位右大臣征夷大将軍太政大臣正一位
幕府 江戸幕府 初代征夷大将軍
(在任1603年 - 1605年
主君 今川義元氏真足利義昭織田信長豊臣秀吉
氏族 松平氏徳川氏
父母 父:松平広忠、母:於大の方
兄弟 徳川家康松平家元?、内藤信成?、樵臆恵最?、市場姫
異父弟:松平康元松平康俊松平定勝
正室築山殿
継室朝日姫
側室養珠院西郷局茶阿局英勝院雲光院相応院ほか
松平信康亀姫結城秀康督姫徳川秀忠松平忠吉振姫武田信吉松平忠輝徳川義直徳川頼宣徳川頼房ほか
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徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体德川家康)、または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名[1]江戸幕府の初代征夷大将軍[1]三英傑の一人で「海道一の弓取り」の異名を持つ。

家系三河国国人土豪松平氏。幼名は竹千代[1]。通称は次郎三郎、のちに蔵人佐。諱は今川義元より偏諱を受けて元信(もとのぶ)、次いで元康を名乗るが、今川氏からの独立後、家康と改めた。

永禄9年12月29日(1567年2月18日)に勅許を得て、徳川氏に改めた。本姓は私的には源氏を称していたが、徳川氏改姓と従五位の叙任に当たって藤原氏を名乗り、少なくとも天正16年(1588年)以降にはふたたび源氏を称している[2]

概要

幼少期を織田氏、ついで今川氏の下で人質として過ごす[1]永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでの今川義元の戦死を期に今川氏から独立し、織田信長と同盟を結び[1]三河国遠江国に版図を広げる。

天正10年(1582年)、本能寺の変において信長が倒れると、天正壬午の乱を制して甲斐国信濃国を手中に収める[1]

信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉小牧・長久手の戦いで対峙するが[1]、後に秀吉に臣従し、小田原征伐後は後北条氏の旧領関東へ移封され、豊臣政権下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老に列せられ、その筆頭となる[1]

秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて対抗勢力に勝利し、慶長8年(1603年)には、征夷大将軍に任命され、武蔵国江戸幕府を開き、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代安土桃山時代)に終止符を打った。

家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、264年間続く江戸時代を画した[1]

死後は日光東照宮に祀られ薬師如来本地とする東照大権現(とうしょうだいごんげん)として神格化され、「神君」、「東照宮」、「権現様」(ごんげんさま)とも呼ばれて、信仰の対象となった[1]。また、江戸幕府の祖として「神祖」[3]、「烈祖」[4]などとも称された。

生涯

岡崎城天守
竹千代時代を過ごした臨済寺 (静岡市)(2016年8月14日撮影)

※ 日付は、太陰暦による和暦西暦の暦法は便宜上、ユリウス暦とする。

幼少期から初陣

三河国土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として、天文11年(1542年12月26日寅の刻(午前4時頃)、岡崎城 で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。

3歳のころ、水野忠政没後の水野氏当主・水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したため、織田氏と敵対する今川氏の庇護を受けていた広忠は於大を離縁した。そのため竹千代は幼くして母と生き別れになった。

6歳のころ、広忠は織田氏に対抗するため駿河国今川氏に従属し、竹千代は人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国織田氏へ送られた。しかし広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として尾張国に留め置かれた。このときに織田信長と知り合ったと言われるが、どの程度の仲だったのかは不明。

2年後に広忠は家臣の謀反によって殺害された。今川義元織田信秀庶長子織田信広[注釈 1]との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府[注釈 2]に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代朝比奈泰能山田景隆など)により支配された[注釈 3] [注釈 4] [注釈 5]。 墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。

天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶った。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。永禄元年(1558年)2月5日には今川氏から織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻めた、これが初陣であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた。この戦功により、義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付し、腰刀を贈った[6]

清洲同盟から三河国平定

徳川家の家紋"丸に三つ葉葵(徳川葵)"

永禄3年(1560年5月桶狭間の戦いで先鋒を任され、大高城鵜殿長照が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。しかし織田軍は大高城を包囲しており、兵糧を運び込むには包囲を突破する必要があった。そこで5月18日、鷲津砦丸根砦の間を突破して、小荷駄を城中に送り込み、全軍無事に引上げた。翌19日、丸根の砦を攻め落とし、朝比奈泰能は鷲津の砦を攻め落とした[7]。義元が織田信長に討たれた際、大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。松平家の菩提寺である大樹寺に入り、自害しようとしたが住職の登誉天室に諭されて考えを改める。その後、今川軍が放棄した岡崎城に入ると独自の軍事行動をとり、早い段階で今川からの独立を果たそうとする[8]。また桶狭間の戦いの直後から、元康は今川・織田両氏に対して軍事行動を行う両面作戦を行ったとする説もある[9]

永禄4年(1561年)2月、元康は将軍・足利義輝に嵐鹿毛とよばれる駿馬を献上して室町幕府との直接的な関係を築くことで、独立した領主として幕府に認めて貰おうとしている[10]。4月、元康は東三河における今川方の拠点であった牛久保城を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にした[注釈 6]。 折しも今川氏の盟友であった武田信玄北条氏康は、関東管領上杉憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵(小田原城の戦い)への対応に追われており、武田・北条からの援軍は来ないという判断があったとされる[要出典]。この事態は義元の後を継いだ今川氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている[11]。 その後も元康は藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略する。

永禄5年(1562年)には、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ伯父・水野信元の仲介もあって、今川氏と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。一方、将軍・足利義輝や北条氏康は松平・今川両氏の和睦を図るが実現しなかった。

翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた[注釈 7]

永禄7年(1564年)、三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏西郷氏といった土豪を抱き込みながら、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。この際に家康は、西三河衆(旗頭:石川家成(後に石川数正))・東三河衆(旗頭:酒井忠次)・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本には旗本先手役を新たに置いた。

「徳川」への改姓

永禄9年(1566年)、朝廷から従五位下三河守の叙任を受け、同時に「徳川」に改姓した。

これを朝廷に要求する際には多少の工夫を要した。松平家は少なくとも清康の時代から「新田氏支流世良田氏系統の清和源氏」であると自称していたが、正親町天皇より「清和源氏の世良田氏が三河守を叙任した前例はない」と拒否された。そこで家康は近衛前久に相談した。前久は松平氏の祖とされる世良田義季が得川氏を名乗った文献があること、また新田系得川氏が藤原姓を名乗ったことがあることなどを主張し、「家康個人のみが「徳川」に「復姓」する」という奇策を考案した。この特例ともいえる措置を得て、家康は従五位下三河守に叙任された。このため、この改姓に伴い家康は「」を「藤原氏」としたが、これは家康個人のみのものであった。

遠江今川領への侵攻

永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。

同年12月6日、甲斐国の武田信玄が駿河今川領への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、家康は酒井忠次を取次役に遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結び、13日、遠江国の今川領へ侵攻し曳馬城を攻め落とし、軍を退かずに遠江国で越年する。

武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされる(『三河物語』)。しかし永禄12年(1569年)1月8日、信濃国から武田家臣・秋山虎繁(信友)による遠江国への侵攻を受け、武田氏とは手切となった[注釈 8]

5月に駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置く(遠江侵攻)。氏真と和睦すると家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けた。以来、東海地方における織田・徳川・武田の関係は、織田と他2者は同盟関係にあるが徳川と武田は敵対関係で推移する。

元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした。今川氏真も浜松城に迎え庇護する。また、朝倉義景浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。

永禄11年に家康は左京大夫に任命されている(『歴名土代』)が、左京大夫は歴代管領の盟友的存在の有力守護大名に授けられた官職であり[注釈 9]、足利義昭が信長を管領に任命する人事に連動した武家執奏であったとみられる。だが、信長は管領就任を辞退したことから、家康も依然として従来の「三河守」を用い続けた[12]。だが、一方で義昭が家康の徳川改姓を認めていなかったとする説もある。元亀元年(1570年)9月に三好三人衆討伐のために義昭から家康に充てられたとみられる御内書[13]の宛名が徳川改姓・三河守叙任以前の「松平蔵人」になっているためである。これは、松平改姓が将軍不在時に行われ、かつ義昭の従兄弟でありながら不仲だった近衛前久の推挙であったことに、義昭が不満を抱いていたとみられている[14][注釈 10]

武田氏との戦い

家康は北条氏と協調して武田領を攻撃していたが、武田氏は元亀2年(1571年)末に北条氏との甲相同盟を回復すると駿河今川領を確保する。信長と反目した将軍・足利義昭が武田信玄、朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を糾合して信長包囲網を企てた際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持した。

元亀3年(1572年)10月には武田氏が徳川領である遠江国・三河国への侵攻(西上作戦)を開始した[注釈 11]。 これにより武田氏と織田氏は手切となった。家康は信長に援軍を要請するが、信長も包囲網への対応に苦慮しており、武田軍に美濃国岩村城を攻撃されたことから十分な援軍は送られず、徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなる。

徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)。

徳川軍は遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附磐田市)にまで進出。浜松の北方を固める要衝・二俣城を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月、二俣城は落城した(二俣城の戦い)。

ようやく信長から佐久間信盛平手汎秀率いる援軍が送られてきたころ、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づきつつあった。対応を迫られる徳川軍であったが、武田軍は浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように転進した。これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。しかしその結果、鳥居忠広成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした中根正照青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川・織田連合軍は惨敗した。家康は夏目吉信に代表されるように、身代わりとなった家臣に助けられて命からがら浜松城に逃げ帰ったという。武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してからの家康は冷静さを取り戻し「空城計」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされている。(三方ヶ原の戦い

浜名湖北岸で越年した後、三河国への進軍を再開した武田軍によって三河国設楽郡野田城を2月には落とされ、城主・菅沼定盈が拘束された。ところがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵した。

武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしている。そして、これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能貞昌親子を調略し、再属させた。奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせた。

武田氏の西上作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還し、駿河国の武田領まで脅かした。これに対して信玄の後継者である武田勝頼も攻勢に出て、天正2年(1574年)には東美濃の明智城、遠江高天神城を攻略し、家康と武田氏は攻防を繰り返した。また家臣の大賀弥四郎らが、武田に内通していたとして捕え、鋸挽きで処刑した。信長の家康への支援は後手に回ったが、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは主力を持って武田氏と戦い、武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくさせた。一方家康は戦勝に乗じて光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊に諏訪原城を奪取したことで高天神城の大井川沿いの補給路を封じ、武田氏への優位を築いた。

なお、家康は長篠城主の奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)の戦功に対する褒美として、名刀・大般若長光を授けて賞した。そのうえ、翌年には長女・亀姫を正室とさせている。

天正6年(1578年)、越後上杉氏御館の乱が発生し、武田勝頼は北信濃に出兵し乱に介入する。勝頼と結んだ上杉景勝が乱を制したことにより武田・北条間の甲相同盟が破綻した。翌天正7年(1579年)9月に北条氏は家康と同盟を結ぶ。この間に家康は横須賀城などを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化した。

また同じころ、信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられたとされる。家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達され、家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。だが、この通説には疑問点も多く、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は、家康・信康父子の対立が原因とする説も出されている[16][17][18]松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。

長篠の戦い以降に織田氏と武田氏は大規模な抗争をせず、勝頼は織田氏との和睦(甲江和与)を模索している。しかし、信長はこれを黙殺し、天正9年(1581年)、降伏・開城を封じた上での総攻撃によって家康は高天神城を奪回する(高天神城の戦い)。高天神城落城、しかも後詰を送らず見殺しにしたことは武田家の威信を致命的に失墜させ、国人衆は大きく動揺した[注釈 12]木曾義昌の調略成功をきっかけに、天正10年(1582年)2月に信長は家康と共同で武田領へ本格的侵攻を開始した。織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、武田軍の蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらに甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保した。勝頼一行は同年3月に自害して武田氏は滅亡し、家康は3月10日に信君とともに甲府へ着陣しており、信長は甲斐の仕置を行うと中道往還を通過して帰還している(甲州征伐)。

家康はこの戦功により駿河国を与えられ、駿府において信長を接待している。家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。信長はこの接待をことのほか喜んだ。

また遅くともこの頃には、三河一向一揆の折に出奔した本多正信が、徳川家に正式に帰参している。

本能寺の変と天正壬午の乱

天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城・安土城を訪れた。

6月2日、を遊覧中に本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。

その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張国鳴海まで進軍したが、このとき中国地方から帰還した羽柴秀吉によって光秀がすでに討たれたことを知った。

一方、織田氏の領国となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の一揆が起こった。さらに、越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。旧武田領国のうち上野一国と信濃小県郡・佐久郡の支配を担っていた滝川一益は、旧武田領を治めてまだ3ヶ月ほどしか経っておらず、軍の編成が済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、滝川配下であった信濃国の森長可毛利秀頼は領地を捨て畿内へ敗走した。また、甲斐一国と信濃諏訪郡支配を担った河尻秀隆は一揆勢に敗れ戦死するなど緊迫した状況にあった。追い打ちをかけるように、織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、北条氏直率いる6万の軍が武蔵・上野国境に襲来した。滝川一益は北条氏直を迎撃、緒戦に勝利するも敗北、尾張国まで敗走した。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱)。

一方、甲斐・信濃・上野が空白地帯となったのを見た北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻した。北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に和睦し、南へ進軍した。家康は甲府の尊躰寺一条信龍屋敷に本陣を置いていたが、新府城(韮崎市中田町中條)に本陣を移すと七里岩台上の城砦群に布陣し、若神子城(北杜市須玉町若神子)に本陣を置く北条勢と対峙した。

ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、依田信蕃の調略を受けて滝川配下から北条に転身していた真田昌幸が徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名へとのし上がった。

小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従

豊臣秀吉

信長死後の織田政権においては織田家臣の羽柴秀吉が台頭し、秀吉は信長次男・織田信雄と手を結び、天正11年(1583年)には織田家筆頭家老であった柴田勝家賤ヶ岳の戦いで破り、さらに影響力を強めた。

信雄は天正壬午の乱において家康と北条氏の間を仲裁しており、賤ヶ岳の戦い後の織田政権においては信忠嫡男・三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立し、信雄は家康に接近して秀吉に対抗した(『岩田氏覚書』)。

天正12年(1584年)3月、信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は3月13日に尾張国へ出兵し信雄と合流する。当初、両勢は北伊勢方面に出兵していたが、17日には徳川家臣・酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、家康は28日に尾張国小牧(小牧山)に着陣した。

秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城を陥落させると楽田に布陣し、4月初めには森長可・池田恒興らが三河国に出兵した。4月9日には長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退した(小牧・長久手の戦い)。

小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏や土佐国長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対して越後国の上杉氏や安芸国毛利氏常陸国佐竹氏ら徳川氏と対抗する諸勢力に呼びかけ、外交戦の様相を呈していった。秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子とした。

戦後の和議は秀吉優位であったとされる。越中国佐々成政が自ら、厳冬の飛騨山脈を越えて浜松の家康を訪ね、秀吉との戦いの継続を訴えたが、家康は承諾しなかった。天正13年(1585年)に入ると、紀伊国雑賀衆や土佐国の長宗我部元親、越中国の佐々成政ら、小牧・長久手の戦いにおいて家康が迎合した諸勢力は秀吉に服属している。さらに秀吉は7月11日に関白に叙任され、豊臣政権を確立する。

これに対して家康は東国において武田遺領の甲斐・信濃を含めた5ヶ国を領有し相模国の北条氏とも同盟関係を築いていたが、北条氏との同盟条件である上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲に対して、沼田を領有していた信濃国上田城主・真田昌幸が上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗した。家康は大久保忠世・鳥居元忠平岩親吉らの軍勢を派兵して上田を攻めるが、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵している(第一次上田合戦)。また同年には、家康は背中の腫れ物の病で苦しみ、重篤に陥るも、最終的には治った。

徳川氏の勢力圏拡大の一方で、徳川氏の領国では天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて地震や大雨に見舞われ、特に5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」[19]に見舞われた。その状況下で北条氏や豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、三河国田原にある龍門寺の歴代住持が記したとされる『龍門寺拠実記』には、天正12年に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記している。徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られることになる[20]

家康の豊臣政権への臣従までの経緯は『家忠日記』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対して更なる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせていたという。同年11月13日には石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという(『駿河土産』)。

天正14年(1586年)に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み(『当代記』)、4月23日には臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる。さらに10月18日には秀吉が生母・大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、24日に家康は浜松を出立し上洛している。

家康は10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。この謁見の際に家康は、秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓った(徳川実紀)。

豊臣家臣時代

天正14年(1586年)11月1日、京に赴き、11月5日に正三位に叙任される。このとき、多くの家康家臣も叙任された[21][22]。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返している。12月4日、本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の駿府城へ移した。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。

天正15年(1587年)8月、再び上洛し、秀吉の推挙により朝廷から8月8日に従二位権大納言に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴の名字を下賜された[21][22]

同年12月3日に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出され、家康に関東・奥両国(陸奥国出羽国)の監視が託された。12月28日秀吉の推挙によりさらに朝廷から左近衛大将および左馬寮御監に任ぜられる[注釈 13]。 このことにより、このころの家康は駿府左大将と呼ばれた。

家康は北条氏と縁戚関係にある経緯から、北条氏政・氏直父子宛ての5月21日付起請文[23]で、以下の内容で北条氏に秀吉への恭順を促した。

  1. 家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の分国(領国)を一切望まない
  2. 今月中に兄弟衆を京都に派遣する
  3. 豊臣家への出仕を拒否する場合娘(氏直に嫁いだ督姫)を離別させる

家康の仲介は、氏政の弟であり家康の旧友でもある北条氏規を上洛させるなどある程度の成果を挙げたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉は北条氏討伐を開始。家康も諦め豊臣軍の一軍として参戦した(小田原征伐)。

なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この直後に秀吉によって関東へ領地を移封されてしまい、成果を生かすことはできなかったが、ここで得たノウハウと経験は新領地の関東統治に生かされた。

天正18年(1590)7月5日北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国伊豆国・相模国・上野国・上総国下総国下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。家康の関東移封の噂は戦前からあり[注釈 14]、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心はないことを弁明していたが[23]、結局北条氏の旧領国に移されることになった。

この移封によって150万石から250万石(家康240万石および結城秀康10万石の合計)への類を見ない大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高ほどには実収入を見込めない状況であった。こういった事情から、この移封は秀吉の家康に対する優遇策か冷遇策かという議論が古くからある[注釈 15]。 この命令に従って関東に移り、北条氏が本城とした小田原城ではなく、江戸城を居城とした(江戸入府、8月1日)。

関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置する[注釈 16]とともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに、関東における四公六民という北条氏の定めた低税率は、徳川吉宗享保の改革で引き上げられるまで継承された。

家康によって配された有力家臣たちは以下の通りである。

国名 領地名 石高 家臣名 備考
上野国 箕輪(後に高崎 12万石 井伊直政
館林 10万石 榊原康政
厩橋 3.3万石 平岩親吉
白井 3.3万石 本多康重 ただし、1.3万石は父広孝分とされる。
宮崎小幡 3万石 奥平信昌
藤岡 3万石 松平康貞
大胡 2万石 牧野康成
吉井 2万石 菅沼定利
総社 1.2万石 諏訪頼水 頼忠説もある。
那波 1万石 松平家乗
沼田 2.7万石 真田信幸
下野国 皆川 1万石 皆川広照
下総国 結城常陸国内土浦 10.1万石 結城秀康
矢作 4万石 鳥居元忠
臼井 3万石 酒井家次
古河 3万石 小笠原秀政
関宿 2万石 松平康元
山崎 1.2万石 岡部長盛 康綱説もある。
蘆戸(阿知戸) 1万石 木曾義昌
守谷 1万石 菅沼定政
多古 1万石 保科正光
佐倉 1万石 三浦義次 久能宗能説もある。
岩富 1万石 北条氏勝
武蔵国 岩付(岩槻) 2万石 高力清長
騎西(寄西) 2万石 松平康重
河越 1万石 酒井重忠
小室 1万石 伊奈忠次
松山 1万石 松平家広
1万石 松平家忠
羽生 1万石 大久保忠隣 2万石とも。
深谷 1万石 松平康忠
東方 1万石 戸田康長
本庄 1万石 小笠原信嶺
阿保 1万石 菅沼定盈
八幡山 1万石 松平清宗
上総国 大多喜 10万石 本多忠勝 当初は万喜とも。
久留里 3万石 大須賀忠政
佐貫 2万石 内藤家長
鳴戸(成東) 2万石 石川康通
相模国 小田原 4.5万石 大久保忠世
甘縄 1万石 本多正信
伊豆国 韮山 1万石 内藤信成

天正19年(1591年6月20日、秀吉は奥州での一揆鎮圧のため号令をかけて豊臣秀次を総大将とした奥州再仕置軍を編成した。家康も秀次の軍に加わり、葛西大崎一揆和賀・稗貫一揆仙北一揆藤島一揆九戸政実の乱などの鎮圧に貢献した。

文禄元年(1592年)から秀吉の命令により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけであった[注釈 17]

文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が起きた。豊臣政権を揺るがすこの大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。家康も秀吉の命令で上洛した。これ以降、開発途上の居城・江戸城よりも伏見城に滞在する期間が長くなっている。豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより中央政権の政治システムを直接学ぶことになった[28]

慶長元年5月8日(1596年)、秀吉の推挙により内大臣に任ぜられる。これ以後は江戸の内府と呼ばれる。

慶長2年(1597年)、再び朝鮮出兵が開始された。日本軍は前回の反省を踏まえ、初期の攻勢以降は前進せず、朝鮮半島の沿岸部で地盤固めに注力した。このときも家康は渡海しなかった。

慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者である豊臣秀頼を補佐するための五大老五奉行の制度を7月に定め、五大老の一人に家康を任命した。8月に秀吉が死ぬと五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、日本軍は撤退した。結果的に家康は兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができた[28]。しかし渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くと東国大名名護屋残留であった。

秀吉死後

豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位でトップになり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。また生前の秀吉により文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、大名家同士の婚姻を行う。その内容は次の通りである(婚約した娘は、全て家康の養女とした)。

このころより家康は、細川忠興島津義弘増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。こうした政権運営をめぐって、大老前田利家や五奉行の石田三成らより「専横」との反感を買い、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は向島へ退去することでこの一件は和解となった。

3月3日の利家病死直後、福島正則加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きた。三成は佐竹義宣の協力で大坂を脱出して伏見城内に逃れたが、家康の仲裁により三成は奉行の退陰を承諾して佐和山城蟄居することになり、退去の際には護衛役として家康の次男・結城秀康があたった。結果として三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正当性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価され[29]、同時に三成を生存させることによって豊臣家家臣同士の対立が継続することになる。

9月7日、「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽節句における祝意を述べた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。

9月9日に登城した際、前田利長浅野長政大野治長土方雄久の4名が家康の暗殺を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして、10月2日に長政を隠居の上、徳川領の武蔵府中で蟄居させ、治長は下総国の結城秀康のもとに、雄久は常陸国水戸の佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を企図するが、利長が生母・芳春院江戸に人質として差し出し[30]、出兵は取りやめとなる。しかし、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされることになる。

またこのころ、秀頼の名のもと諸大名への加増を行っている。

慶長5年(1600年3月豊後国南蛮船(オランダ船)のリーフデ号が漂着した。家康はリーフデ号を大阪へ移し、航海長のウィリアム・アダムス(後の三浦安針)や船員のヤン・ヨーステンは家康に厚遇され、外交上の諮問にこたえるようになる。特にウィリアム・アダムスは航海や水先案内の技術だけでなく、数学と天文学も得意としていたことから家康にヨーロッパの科学知識や技術を伝えたり、西洋船を作ったりして、家康から寵愛された[31]

関ヶ原の戦い

関ヶ原古戦場

慶長5年(1600年)3月、越後国の堀秀治出羽国最上義光らから、会津の上杉景勝に軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。上杉氏の家臣で津川城城代を務め、家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠の元へ「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起きた。

これに対して家康は伊奈昭綱を正使として景勝の元へ問罪使を派遣した。ところが、景勝の重臣・直江兼続が『直江状』(真贋諸説有り。詳細は直江状#真贋論争参照。)と呼ばれる書簡を返書として送ったことから家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして会津征伐を宣言した。これに際して後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は「豊臣氏の忠臣である家康が謀反人の景勝を討つ」という大義名分を得た形となった。

6月16日、家康は大坂城・京橋口から軍勢を率いて上杉氏征伐に出征し、同日の夕刻には伏見城に入った。ところが、6月23日に浜松、6月24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢、7月2日に江戸という、遅々たる進軍を行っている。

この出兵には、家康に反感をもつ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際、7月に三成は大谷吉継とともに挙兵すると、家康によって占領されていた大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに、五大老の一人・毛利輝元を総大将として擁立し、『内府ちかひ(違い)の条々』という13ヶ条に及ぶ家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城した(伏見城の戦い)。

さらに三成らは伊勢国美濃国方面に侵攻した。家康は下野国小山の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康は重臣たちと協議した後、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、こうして家康を総大将とした東軍が結成されていった(小山評定)。

東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。そのうち一隊は、徳川秀忠を大将とし榊原康政大久保忠隣、本多正信らを付けて宇都宮城から中山道を進軍させ、結城秀康には上杉景勝、佐竹義宣に対する抑えとして関東の防衛を託し、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かった。それでも家康は、動向が不明な佐竹義宣に対する危険から江戸城に1ヶ月ほど留まり、その間160通近い書状を諸大名に回送している。

正則ら東軍は、清洲城に入ると、西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し、織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている。

9月、家康は江戸城から出陣し、11日に清洲、14日には赤坂に着陣した。前哨戦として三成の家臣・島左近宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲、それに対して東軍の中村一栄有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色助義が戦死している(杭瀬川の戦い[注釈 18]

家康は自らの軍師臨済宗の禅僧である閑室元佶(関ヶ原の戦いに従軍していた)に易による占筮を行わせ、大吉を得た。

9月15日午前8時頃、美濃国関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、正午頃かねてより懐柔策をとっていた西軍の小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転する。さらに脇坂安治朽木元綱赤座直保小川祐忠らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が、家康の本陣目前にまで突撃してくるという非常に危険な局面もあったが、東軍の完勝に終わった(関ヶ原の戦い)。

9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛。10月1日には小西行長安国寺恵瓊らと共に六条河原で処刑した。その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑改易減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国河内国和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。

征夷大将軍

慶長5年(1600年)12月19日、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が解任されて以来、空位となっていた関白に九条兼孝が家康の奏上により任じられた。このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止め旧来の五摂家に関白職が戻る[注釈 19]

『洛中洛外図』の徳川時代の伏見城
『洛中洛外図』の徳川時代の伏見城
二条城の唐門
二条城の唐門

関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執り、征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏の系図改姓を行った[注釈 20]

慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いの戦後処理で唯一処分が決まってなかった常陸国・水戸の佐竹義宣を出羽国久保田に減転封。代わりに佐竹氏と同じく源義光の流れをくむ武田氏を継承した五男・武田信吉を水戸に入れた。

慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議勧修寺光豊勅使として伏見城に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当右大臣に任命した。

同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗応した。これにより征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した[注釈 21]

大御所政治

慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、秀頼はこれを拒絶。結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まった。なお、このとき次世代の家臣である井伊直孝板倉重昌も叙任された[32]

慶長12年(1607年)には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに勤めた(大御所政治)。

同年、朝鮮通信使と謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復した。

慶長14年(1609年)、オランダ使節と会見。オランダ総督(使節は国王を自称)マウリッツからの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸オランダ東インド会社商館の開設を許可した。

慶長16年(1611年)3月20日に九男・徳川義利(義直)、十男・頼将(頼宣)、十一男・鶴松(頼房)を叙任させた。「御三家」体制への布石といえよう[33]。3月22日には、自らの祖先と称する新田義重に鎮守府将軍を、実父・松平広忠には権大納言を贈官した[34]

同年3月28日、二条城にて秀頼と会見した。当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいたが、家康は織田有楽斎を仲介として上洛を要請し、淀殿の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする見解があり[35]、4月12日に西国大名らに対し三カ条の法令を示し、誓紙を取ったことで、徳川公儀による天下支配が概ね成ったともいわれる[36]

同年、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)副王ルイス・デ・ベラスコの使者セバスティアン・ビスカイノと会見し、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取る。両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康をして禁教に踏み切らせた真因である。この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない[37]

慶長18年(1613年)、イギリス東インド会社ジョン・セーリスと会見。イングランド国王ジェームズ1世からの親書と献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸にイギリス商館の開設を許可した。

大坂の陣

最晩年を迎えていた家康にとって豊臣氏は最大の脅威であり続けた[注釈 22]。 一大名の位置に転落したとはいえ、なお特別の地位を保持しており、実質的には徳川氏の支配下には編入されておらず、西国に配置した東軍の大名は殆ど豊臣恩顧の大名であった。また、家康の将軍宣下時には、秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られており、秀忠の将軍宣下時には秀忠の内大臣であったが、秀頼は家康の引退で空いた右大臣を譲られている。

さらに徳川氏は内部に問題を抱えていた。将軍・秀忠とその弟・松平忠輝の仲は険悪であり、忠輝の義父でもある伊達政宗は未だ天下取りの野望を捨ててはおらず、忠輝を擁立して反旗を翻すことも懸念された。また将軍家でも、秀忠の子である徳川家光徳川忠長のいずれが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタンの動向も無視できない存在であった。もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば、幕府にとっては大きな脅威となる危険性があった。

家康は当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているような動きもあり、諸寺仏閣の統制を豊臣氏に任せようとしていた兆候もある。また、秀吉の遺言を受け、孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる。しかし、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣氏は、徳川氏との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れていたが、それが天下に乱をもたらす準備であるとして一層幕府の警戒を強めた[38][39]

そのような中、慶長12年(1607年)には結城秀康、慶長16年(1611年)に加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていった。

また、慶長17年(1612年)には佐々成政の外孫である鷹司信尚を関白に推挙している。

そして、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけに、豊臣氏の処遇を決するべく、動き始める。

方広寺鐘銘事件

現在も残る方広寺の鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽」の文字

豊臣氏は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、8月3日に大仏殿の開眼供養を行うことにした。ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めた。問題とされたのは「国家安康」で、大御所家康の諱を避けなかったことが不敬であるとするものであった[37][38][39]。「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したとする説もあるが(「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である)、これは後世の俗説である[38][39]

さらに8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた結果、五山の僧侶たちは「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。

これに対して豊臣氏は、家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し弁明を試みた。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。そして、豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告したのである。

この事件は、豊臣氏攻撃の口実とするために家康が以心崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般に知られているが、当時の諱の常識からすれば不敬と考えられるものであり、豊臣側の軽率、あるいは挑発や呪詛と受け取られても無理からぬことで、また近年研究では問題化に崇伝の関与はなかったとされている[38][39][注釈 23]

その後も鐘は太平洋戦争中の金属供出を免れ、鋳潰されることもなく方広寺境内に残されている(重要文化財)。

大坂冬の陣

慶長19年(1614年)11月15日、家康は二条城を発して大坂城攻めの途についた。そして20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲したが、力攻めはせずに大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うに留めた。徳川軍は木津川口今福鴫野博労淵などの局地戦で勝利を重ねたが、真田丸の戦いでは大敗を喫した。とはいえ戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく、徳川軍は新たな作戦を始動した。午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝ち鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲石火矢大筒和製大砲)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとした。この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。強固な城郭を武力で落とすことに固執せず、淀殿や女官を心理的に疲弊させる策略を用いることで「本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める」という徳川に有利な条件での和睦にもち込んだ。

和睦の締結後、徳川方は和睦の条件に反して内堀までも埋め立てたため、結果、慶長20年(1615年)1月中旬までに大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。

従来の説では、豊臣方は二の丸、三の丸の破壊を形式的なもので済ませ、時間稼ぎを狙っていたが、徳川方が惣構を全ての廓と曲解することで強引に工事に参加して、豊臣側が行うとされた二の丸の破却作業も勝手に始め、さらに和議の条件に反して内堀までも埋め立てたため、豊臣側は抗議したが、最初から和議を守るつもりの無い家康はこれを黙殺したとされていた。

ただし当時の記録には和議の条件は大坂城の「惣構と内堀を含む二の丸、三の丸の破壊」であることが記されており、二の丸・内堀の破壊を行わないという記述は後世の書でのみ確認できる。また惣構を徳川方が、二の丸・三の丸を豊臣方が破壊する予定だったが、後者の作業も徳川方が行ったことは当時の記録にも記されている。しかし、これに対して豊臣方が抗議を行ったこと、時間稼ぎが目的だったこと、家康が騙すことを目的としたこと等も、後世の書でしか確認はできない。

大坂夏の陣

このころ、豊臣氏は主戦派と穏健派で対立。主戦派は和議の条件であった総堀の埋め立てを不服とし、内堀を掘り返す仕儀に出た。そのため幕府は「豊臣氏が戦準備を進めている」と詰問、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求。さらに、徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、近畿方面に大軍を送り込んだ。そして、豊臣氏に要求が拒否されると、再度侵攻を開始した。

これに対して豊臣氏は大坂城からの出撃策をとったが、兵力で圧倒的に不利であり、塙直之後藤基次木村重成薄田兼相らが戦死する。しかし、天王寺・岡山の戦いにおいて徳川軍は大軍ゆえの連携の拙さなどから、豊臣軍の真田信繁隊に本陣にまで突入され、毛利勝永隊4,000には、これに当たった6万もの幕府軍が、あっという間に敗退・四散した。一時は本陣の馬印が倒れ、家康自身も自決を覚悟するほどの危機にも見舞われたが、やがて態勢を立て直した徳川軍により信繁は戦死、勝永は秀頼を守るために軍をまとめてなんとか大坂城に退却したが、攻め寄せる15万の幕府軍を支えきれず、ついに大坂城は落城した。5月8日、秀頼と淀殿、その側近らは勝永の介錯により自害、勝永自身も自害した。ここに豊臣宗家は滅亡した。

「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏したという」という説もあり[要出典]山岡荘八の小説『徳川家康』ではこの説をとっている。

その後、大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられた豊国大明神神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟は閉鎖・放置されている。明治維新の後に豊国大明神号は復活し、東照宮にも信長や秀吉が祀られるようになっている。

最晩年

慶長20年(1615年)6月28日、後陽成天皇の第八皇子である八宮良純親王を猶子とする。元和元年(1615年)9月9日、禁中並公家諸法度を制定して、朝幕関係を規定した。また、諸大名統制のために武家諸法度一国一城令が制定された。こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下の礎を築いた。

同年、自らの本格的な隠居の城として駿河沼津の柿田川の湧水にある古城泉頭城の縄張り・再整備を命じたが、翌年の病に倒れる直前に中止し、竹腰正信屋敷の改築に方針転換したが、何れも死去により立ち消えになっている。

元和2年(1616年)1月、鷹狩に出た先で倒れた。3月21日に朝廷から太政大臣に任ぜられたが、これは、武家出身者としては、平清盛、源義満(足利義満)、豊臣秀吉に次いで史上4人目であった。4月17日巳の刻午前10時頃)に駿府城において死亡した。享年75。家康は当時としては長寿の部類で、徳川歴代将軍の中でも15代・慶喜に次いで長命であった。東照宮御実記』が伝えるところでは、以下の2首を辞世として詠んでいる。

  • 「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
  • 「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」死因については、をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた天ぷらによる食中毒説が長く一般化されてきた。しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、1月21日の夕食で[注釈 24]、死去したのは4月17日と日数がかかり過ぎていることから、食中毒を死因とするには無理があった。替わって主流となっているのは胃癌説である。『徳川実紀』が家康の病状を「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と書き留めていること、および、係る症状が胃癌患者に多く見受けられるものである事実が、その論拠となっている[40][41]

後代、江戸城内にては天ぷらを料理することが禁止されており、これは家康の死因が天ぷらによる食中毒であるために生まれた禁忌であるという説明がなされることもあるが、実際には、大奥侍女の一人が天ぷらを料理していて火事を出しかけたために禁止されたものである[注釈 25]

墓所・霊廟・神社

日光東照宮 奥社 墓所

『本光国師日記』によると、家康は遺言として「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」としている。この遺言に従い、葬儀は増上寺で行われ「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士(院殿号)(蓮社号)(誉号)(戒名)(位号)」という浄土宗の戒名がつけられた。

遺体は始め駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光東照社に改葬される。遺言では「小き堂(=小さなお堂)をたて」とされていたが、江戸幕府は威信をかけ藤堂高虎作事奉行とし元和3年4月(1617年4月)に社殿を完成させ、さらに徳川家光治世下の寛永13年(1636年)からは家康21年神忌に合わせ藤堂や秋元泰朝を中心として寛永の大造替が行なわれ、今日見られる荘厳な社殿へと改築された。

神号は側近の天海崇伝神龍院梵舜の間で、権現明神のいずれとするかが争われたが、秀吉が「豊国大明神」だったために明神は不吉とされ、山王一実神道に則って薬師如来を本地とする権現とされた。この後、小槻孝亮が二条関白邸で「日本大権現」「東光大権現」の二つを示し[43]、また一説によると菊亭晴季も「威霊大権現」「東照大権現」の二案を勧進した[43]日本大権現が有力候補であったが、遺言にある「八州の鎮守」という趣旨からか元和3年(1617年)2月21日に東照大権現の神号、3月9日に神階正一位が贈られる。

また、東照社は今川直房酒井忠勝の尽力により正保2年(1645年)11月3日に宮号宣下があり、東照宮となり[注釈 26]、さらに東照宮に正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として東照神君権現様とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝された。徳川家中においては明治維新後も権現様として崇拝され続けた。

現在も日光東照宮の奥社を墓所とし、他の霊廟としては松平氏菩提寺である愛知県岡崎市大樹寺高野山にある徳川氏霊台の安国院殿霊廟、また各地の東照宮に祀られている。また、臨済宗の寺院としては、東福寺の塔頭である南明院が徳川家牌所である。なお、徳川将軍15人中寛永寺増上寺のどちらにも墓所がないのは家康以外には徳川家光徳川慶喜がいる。

なお、徳川慶喜の墓地がある「谷中墓地」と称される区域は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、寛永寺墓地に属する。

年表

和暦 西暦[注釈 27] 月日[注釈 27] 数え年 内容
天文11年 1542年 12月26日 1歳 誕生
永禄3年 1560年 5月19日 19歳 桶狭間の戦い
永禄5年 1562年 1月15日 21歳 清洲城を訪問し織田信長と同盟を結ぶ。
永禄9年 1566年 12月29日 25歳 藤原姓徳川氏に改姓。従五位下三河守叙爵
永禄11年 1568年 1月11日 27歳 左京大夫
元亀元年 1570年 6月28日 29歳 姉川の戦い
元亀2年 1571年 1月5日 30歳 従五位上
1月11日 侍従
元亀3年 1572年 10月16日 31歳 二俣城の戦い
12月22日 三方ヶ原の戦い
天正2年 1574年 1月5日 33歳 正五位下
天正3年 1575年 5月 34歳 長篠の戦い
天正5年 1577年 12月10日 36歳 従四位下
12月29日 右近衛権少将
天正8年 1580年 1月5日 39歳 従四位上
天正10年 1582年 6月2日 41歳 本能寺の変神君伊賀越え
天正11年 1583年 10月5日 42歳 正四位下(遡及)[注釈 28]
10月7日 左近衛権中将(遡及)
天正12年 1584年 2月27日 43歳 従三位参議(遡及)
3〜4月 小牧・長久手の戦い
天正14年 1586年 10月4日 45歳 権中納言
10月27日 大坂城にて豊臣秀吉に臣従
11月5日 正三位
天正15年 1587年 8月8日 46歳 従二位権大納言。羽柴氏を下賜される(豊臣姓もか?)
12月28日 左近衛大将左馬寮御監両官職兼任
天正16年 1588年 1月13日までに 47歳 左近衛大将・左馬寮御監両官職兼帯辞す。
天正18年 1590年 8月 49歳 関東移封。八月朔日、江戸城に入る。
天正20年 1592年 9月16日 51歳 豊臣秀吉の執奏により清華家の家格勅許。
慶長元年 1596年 5月8日 55歳 正二位内大臣
慶長5年 1600年 9月15日 59歳 関ヶ原の戦い
慶長7年 1602年 1月6日 61歳 従一位
慶長8年 1603年 2月12日 62歳 右大臣征夷大将軍宣下・源氏長者宣下
10月16日 右大臣辞任
慶長10年 1605年 4月16日 64歳 征夷大将軍辞職・源氏長者は留任
慶長19年 1614年 3月8日 73歳 朝廷よりの太政大臣または准三后の内旨を辞退す。
11月〜12月 大坂冬の陣
慶長20年/元和元年 1615年 5月 74歳 大坂夏の陣
7月7日 武家諸法度制定
7月17日 禁中並公家諸法度制定
元和2年 1616年 3月17日 75歳 太政大臣
4月17日 死去
元和3年 1617年 3月9日 贈正一位

※天正15年(1587年)8月8日付の「従二位権大納言昇叙転任」の宣旨では豊臣家康の名義でなされた可能性がある。同日付で息子・徳川秀忠も侍従任官しているが、これは豊臣秀忠名義となっている(「秀忠公任官位記宣旨宣命下書留」(宮内庁書陵部蔵本))。同様に、同年12月28日付の「左近衛大将左馬寮御監官職兼帯」の宣旨、慶長元年(1595年)5月8日付の正二位内大臣の昇叙転任の宣旨についても豊臣家康の名義であったと考えられる。現存の日光東照宮所蔵の徳川家康の任官叙位の宣旨は、元の宣旨が遺失したため(徳川実紀正保2年5月8日条)、正保2年(1645年)に将軍・徳川家光の要請により朝廷が再発行した文書として伝わっており、この再発行手続きの段階で豊臣からに変更した可能性がある。

※天正15年(1587年)12月某日、従一位行左大臣近衛信輔、左近衛大将兼帯を辞す(公卿補任)。同月28日、従二位行権大納言徳川家康、左近衛大将・左馬寮御監を兼帯(日光東照宮文書)。天正16年(1588年)正月13日、従二位行権大納言鷹司信房、左近衛大将兼帯(公卿補任)。これにより、同日までに徳川家康、左近衛大将及び左馬寮御監の兼帯を辞すと想定出来る。なお、文禄5年(1596年)5月8日付、家康に対する内大臣宣旨(日光東照宮文書)においては、家康の官位は、正二位行権大納言兼左近衛大将源朝臣家康となっているが、公卿補任では、家康の左近衛大将の兼任記事は無く、権大納言鷹司信房が左近衛大将を兼任している記事となっている。

※文禄3年(1594年)9月21日付、「文禄三年徳川家康宛豊臣秀吉知行方目録」(三重県関町の関地蔵院文書:四日市市史第8巻史料編近世Ⅰ 四日市市編・発行所収)によれば、宛名(家康)は、「羽柴江戸大納言殿」となっており、この時点では、羽柴の苗字を賜わっていたと考えられる[46]

さらに、その前年、文禄2年(1593年)5月20日に羽柴姓を使用している。東京国立博物館所蔵文書[46]

人物・逸話

久能山東照宮にある、徳川家康の手形
徳川家康像(芝東照宮蔵)

人物

身長
松平家菩提寺大樹寺に残された歴代将軍の位牌は、それぞれの将軍の死去時の身長と同じ大きさに作られているという説がある。それによると身長159cmであるとされ、当時においては平均身長に相当する。
家康公遺訓
家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり」という言葉が広く知られているが、これは偽作である。明治時代に元500石取りの幕臣・池田松之介が、徳川光圀の遺訓と言われる『人のいましめ』を元に、家康63歳の自筆花押文書に似せて偽造したものである。これを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めた[47]
また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍・徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。江戸時代は禁書であった。一説には偽書とされている。
武術の達人
剣術砲術弓術馬術水術等の武術について一流の域に達していた。
  • 剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱新陰流の流れをくむ神影流[注釈 29] 剣術開祖で家来でもある奥平久賀(号の一に急賀斎)に元亀元年(1570年)から7年間師事。文禄2年(1593年)に小野忠明を200石(一刀流剣術の伊東一刀斎の推薦)で秀忠の指南として、文禄3年(1594年)に新陰流の柳生宗矩[注釈 30] を召抱える。塚原卜伝の弟子筋の松岡則方より一つの太刀の伝授を受けるなど、生涯かけて学んでいた。ただし、家康本人は「家臣が周囲にいる貴人には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を切る剣術は不要である」と発言したと『三河物語』にあり、息子にも「大将は戦場で直接闘うものではない」と言っていたといわれる。
  • 馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とする大坪流を学んでいる。小田原征伐の際に橋を渡るとき、周囲は家康の馬術に注目したが、家康本人は馬から降りて家臣に負ぶさって渡った。豊臣軍の諸将は要らぬ危険を避けるのが馬術の極意かと感心したという(『武将感状記』)。
  • 弓術については三方ヶ原の戦いにおいて退却途中に、前方を塞いだ武田の兵を騎射で何人も射ち倒して突破している(『信長公記』)。
  • 鉄砲も名手だったと云われ、浜松居城期に5.60間(約100メートル)先の櫓上の鶴を長筒で射止めたという。また鳶を立て続けに撃ち落としたり、近臣が当たらなかった的の中央に当てたという(『徳川実紀』)。
好学の士
家康の愛読書は、『論語』『中庸』『史記』『漢書』『六韜』『三略』『貞観政要』『延喜式』『吾妻鑑』などの書物だと伝えられている。家康はこれらの書物を関ヶ原以前より木版伏見版)で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。また『源氏物語』の教授を受けたり、三浦按針から幾何学数学を学ぶなど、その興味は幅広かった。反面、漢詩和歌連歌などの文学は苦手だった。家康は古典籍の蒐集に努め、駿府城に「駿河文庫」を作り、約一万点の蔵書があったという。これらは御三家に譲られ、「駿河御譲本」と呼ばれ伝わっている。
多趣味
鷹狩りと薬づくりが家康の趣味として特に有名であるが、非常に多くの趣味があった。
  • 鷹狩は、府中御殿に滞在しながら[注釈 31] お鷹の道で行われたとの記録が残っている。家康の鷹狩に対する見方は独自で、鷹狩を慰め(気分転換)のための遊芸にとどめずに、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する摂生(養生)と考えていた(『中泉古老諸談』)[49]
  • づくりは、八味地黄丸など生薬調合を行い、この薬が、俗に「八の字」とよばれていたことから、頭文字の八になぞらえ、八段目の引き出しに保管していた[49]。「薬喰い」とも言われる獣肉を食すなど記録が多い。
  • 猿楽(現在の名称は)は、若いころから世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、故実にも通じていた。このためもあってか、能は江戸幕府の式楽とされた。特に幸若舞を好んだという。
  • 囲碁本因坊算砂に師事、特に浅野長政とはよい碁敵だった。自身で嗜んだのみならず家元を保護し、確立した功績から、家康は囲碁殿堂に顕彰されている。
  • 将棋は一世名人・大橋宗桂に慶長17年(1612年)に、扶持を与える。この功績により、平成24年(2012年)の名人制度400年を記念して、将棋十段の推戴状が贈呈される[50]
  • 香道を好み薫物(香道)の用材として、東南アジア各国へ宛てた国書の中で特に極上とされた伽羅を所望する記述があり、遺品にも高品質の香木が多数遺されている[51]。なお有名な蘭奢待については使者を遣わし現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった。
新しいもの好き
南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった。
  • 日光東照宮には関ヶ原の戦いに行くまでの道中で着用したとされる南蛮胴具足が、紀州東照宮には防弾性能を試したらしい弾痕跡が数箇所ある南蛮胴具足があり、渡辺守綱榊原康政には南蛮胴を下賜し伝世している[注釈 32]
  • 晩年の家康は、日時計、唐の時計、砂時計などを蒐集しており[52]、時計が好きだったようだ。
  • また、けひきばし(コンパス)、鉛筆眼鏡、ビードロ薬壺などの舶来品が現存し、家康が理系的資質を持っていたことが窺える[53]
芸事は好まない
  • 今川家での人質時代に今川義元に舞を所望されたが、猿楽にして欲しいと請い、見かねた家臣が代わりに舞っている。当時は中世文化が非常に盛んだった駿府で育ちながら、京文化への関心は元々少なかったようである。
  • 家康は幼少期より茶の湯の世界が身近にあったが、信長や秀吉と異なり茶の湯社交に対する積極性は見られない[54]。家康の遺産である『駿府御文物』には足利将軍家以来の唐物の名物・大名物が目白押し[55]だが、久能山東照宮にある家康が日常に用いた手沢品はそれらに比べ質素な品が多い。
  • ただし茶を飲むこと自体は好んでおり、天正12年(1584年)に松平親宅上林政重に製茶支配を命じ、毎年茶葉を献上させている。なお、親宅は家康へ初花を献上し、政重は後に宇治の茶畑の支配を任せられ、伏見城の戦いで戦死している。
家康が尊敬していた人物
家康は、中国の人物として劉邦唐の太宗魏徴張良韓信太公望文王武王周公を尊敬している。着目すべきはすべて時代の人物で前王朝の暴君を倒して長期政権を樹立した王(皇帝)とその功臣の名が挙げられている。日本の人物では源頼朝を尊敬していた(『慶長記』)。
師は武田信玄
武田信玄に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。軍令に関しては重臣石川数正の出奔により以前のものから改める必要に駆られたという事情もある。天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保すると、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ水戸藩を治めさせている。
容貌
祖父・松平清康は美男子だったという記録があり、母系も美人揃いとされるため若いころの家康も美男子であった可能性が高い。家康に謁見したルソン総督ロドリゴ・デ・ビベロは、著作の『ドン・ロドリゴ日本見聞録』で、家康の外貌について「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち、太子(秀忠)のように、色黒くなく、肥っていた」と記している。
書画
翁草』(神沢貞幹)や『永茗夜話』(渡辺幸庵)には「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」とある。しかし、少年から青年期の自ら発給した文書類には、規矩に忠実で作法通りの崩し方を見せ、よく手習いした跡が察せられる。特に岡崎時代の初期の書風には力強い覇気が溢れ、気力充実した様子が窺える。こうした文書類には、普通右筆が書くべき公文書が含まれており、初期には専属の右筆が置かれていなかったようだ。天正年間になると、家臣や領土も増えて発給する文書も増加し、大半は奉行や右筆のに委ねられていく。しかし、近臣に宛てた書状や子女に宛てた消息、自らの誠意を披露する誓書は自身で筆を執っている。家康は筆豆で、数値から小録の代官に宛てたとみられる金銭請取書や年貢皆済状が天正期から晩年まで確認でき、家臣や金銀に関する実務的な内容なものから、薬種や香合わせなどの趣味的な覚書、更に駿府城時代の鷹狩の日程を記した道中宿付なども残っている。文芸として家康の書を眺めると、家康は定家流を好み、藤原定家筆の小倉色紙を臨模し、手紙でも定家流の影響をうけたやや癖の強い筆跡が窺えようになるが、一方で連綿とした流麗な書風を見せる和歌短冊も残っており、家康が実学ばかりでなく古典や名筆にも学んだ教養人でもあった一面を表している[56]。絵も簡略な筆致の墨画が10点余り伝わっているが、確実に家康の遺品と言われるものはなく、伝承の域を出ない。しかし、『寛政重修諸家譜』に家康が描いた絵を拝領した記録があり、余技として絵を描いていたことが窺える。
健康指向
家康は健康に関する指向が強く、当時としては長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。これは少しでも長く生きることで天下取りの機会を得ようとした物と言われ、実際に関ヶ原の合戦は家康59歳、豊臣家滅亡は74歳のときであり、長寿ゆえに手にした天下であった。
その食事は質素で、戦国武将として戦場にいたころの食生活を崩さなかった。麦飯と魚を好み、野菜の煮付けや納豆もよく食べていた。決して過食することのないようにも留意していたといわれる。酒は強かったようだが、これも飲みすぎないようにしていた。
生薬にも精通し、その知識は専門家も驚くほどであった。海外の薬学書である本草綱目和剤局方を読破し、慶長12年(1607年)から、本格的な本草研究に踏みだした[51]。調合の際に用いたという小刀や、青磁鉢と乳棒も現存する。腎臓や膵臓によいとされている八味地黄丸を特に好んで処方して日常服用していたという。松前慶広から精力剤になる海狗腎(オットセイ)を慶長15年(1610年)と慶長17年(1612年)の2回にわたり献上されており、家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている(『当代記』)[49][51]。欧州の薬剤にも関心を示しており、関ヶ原の戦いでは、怪我をした家来に石鹸を使用させ、感染症を予防させたりもしている。東照大権現の本地仏薬師如来となった所以は家康のこの健康指向に由来している。
致命的な病を得た際にも自己治療を優先し、異を唱えた侍医の与安を追放するほど、見立に自信を持っていたが、自惚れではなく、専門的な知識に裏付けられたものである。本草研究も、後の幕府の薬園開設につながることから、医療史上に一定の役割を果たしたといえる[49]。家康の侍医の一人、呂一官が創業した柳屋本店は今も現存する。
寡黙な苦労人
幼少のころから、十数年もの人質生活をおくり、譜代家臣の裏切りにより祖父と父を殺されており、そもそも織田家の人質になったのも家臣の裏切りによってともいわれている。家督相続後は三河一向一揆において後の腹心・本多正信らにも裏切られている。また、小牧・長久手の戦い後には重臣・石川数正にも裏切られている。働き者で律儀者・忠義者が多く、結束が固い強兵と賞賛される三河国人だが反面、頑固で融通が利かず内向的で自負心が高い。結束も縁故関係による所が大きい。こうした家臣たちを統御していくには日ごろからかなり慎重な態度が求められたようで、自然言葉数が少なくなったものと推察され、家臣たちの家康評には「なにを考えているかわからない」、「言葉数が非常に少ない」といった表現が多い。
吝嗇
家康の吝嗇(けち・りんしょく)にまつわる逸話は多い。
  • ふんどし薄黄色のものを使用した。しかしこれは薄黄色だと汚れが目立たないため洗濯の回数が減るという理由からである。家来にもこれを強いたが、武骨な三河武士は下帯は白を好み、この下知にだけは従わなかったとされる。
  • 手洗いから出て懐紙で手を拭こうとしたところ、懐紙が風に飛ばされたので庭まで追っていって取り返した。それを見て思わず笑ってしまった小姓に対し、「わしはこれで天下を取ったのだ」と言い返している(『葉隠覚書』)。
  • 新しい服をあまり買わず、洗濯して使っていたため、洗濯させられる侍女から新しい服を着てほしいと苦情が出たとき、天下のため倹約するのだと逆に説教した。また、侍女から料理の漬物がしょっぱいという苦情が出たので料理人に問いただしたところ、今でも侍女たちはたくさんおかわりしているのに、おいしい漬物を出したら何杯おかわりするかわからないと答えられ、笑ってそのままにした。
  • 侍が座敷で相撲をしているときに畳を裏返すように言った(『駿河土産』)。
  • 駿府の銭鋳所跡地を掘り返して、3年で運上金千両分の銅を回収した(『渡辺幸庵対話』)。
  • 商人より献上された蒔絵装飾を施した御虎子(便器)の不必要な豪華さに激怒し、直ちに壊させた(『膾餘雑録』)。
  • 代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた(『翁草』)。
  • 三河にいたとき、夏に家康は麦飯を食べていた。ある時部下が米飯の上に麦をのせ出した所、戦国の時代において百姓にばかり苦労させて(夏は最も食料がなくなる時期)自分だけ飽食できるかと言った(『正武将感状記』)。
  • 厩が壊れても、そちらのほうが頑強な馬が育つと言い、そのままにした(『明良洪範』)。
  • 家臣が華美な屋敷を作らないよう与える敷地は小さくし、自身の屋敷も質素であった(『前橋旧聞覚書』『見聞集』)。
  • 蒲生氏郷は秀吉の後に天下を取れる人物として前田利家をあげ、家康については人に知行を多く与えないので人心を得られず、天下人にはなれないだろうといった(『老人雑話』)。
この結果、家康は莫大な財を次代に残している。『落穂集追加』では家康のは吝嗇でなく倹約と評している。普段は質素な生活に努めたが、必要な際には必要な出費を惜しむことはなかった。例えば『信長公記』に記された織田信長の接待においては京から長谷川秀一を招いて巨費を投じ、趣向を凝らした接待を行っている。大井川の舟橋などは信長を感動させるものだったと記されている。

その他

居城
家康の生誕地は、三河国・岡崎だが、生涯を通じて現在の静岡県(浜松・駿府)を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、岡崎にいたのは、尾張国の織田氏のもとで人質として過ごした2年を含め、幼少期及び桶狭間の戦い後10年と短い。
幼少から持っていた洞察力
10歳のころ、竹千代(家康)は駿河の安倍川の河原で子供達の石合戦を見物した。150人組と300人組の二組の対決で、付添いの家臣は人数の多い300人組が勝つと予想した。だが竹千代は「人数が少ない方が却ってお互いの力を合わせられるから(150人組が)勝つだろう」と言った。家臣は「何をおかしなことを言われるのですか」と取り合わなかったが、竹千代の予想通り、150人組が勝ったので、竹千代は家臣の頭を叩き、「それ見たことか」と笑ったという。
肖像画
平成24年(2012年)、徳川記念財団が所蔵している歴代将軍の肖像画紙形(下絵)が公開された[57]。家康の紙形は「東照大権現像」(白描淡彩本)とされており、よく知られている肖像画とは違った趣で描かれている。
信長の兄弟
フロイス日本史』では、「信長の姉妹を娶り」とあり[58]、家康は一貫して「信長の義弟」と書かれている。しかし現在のところ、この女性の存在を裏付ける史料は見つかっていない。
神君伊賀越え
本能寺の変直後の神君伊賀越えでは伊賀甲賀忍者の力添えを受けて三河国まで逃走した。その道中、甲賀忍者の多羅尾氏の居館に着いたとき、家康は警戒して城に入ろうとしなかったが、城主・多羅尾光俊赤飯を与えたところ、信用して城で一泊した。その後は伊賀の豪族百地氏服部氏稲守氏柘植氏柘植清広等の護衛で白子まで辿り着き、この功で多羅尾氏は近江国で8,000石を領する代官に、柘植氏は江戸城勤めの旗本となった。他の伊賀・甲賀忍者らは「伊賀同心」として召し抱えられ後に江戸へ移った。また、このときの礼として百地氏には仏像を与え、これは現在も一族の辻家が所有している。
妖刀村正伝説
祖父の清康と父の広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でも凶器は村正の作刀であった。また、嫡男の信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったという。さらに関ヶ原の戦いのおり、東軍の武将・織田長孝戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。その槍を家康が見ているときに家臣が取り落とし家康は指を傷付けた。聞くと、この槍も村正であったため家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったという。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになり、民間に残った村正は隠されときには銘をすりつぶして隠滅したという伝説がある。
影武者説
大坂夏の陣の際に家康は真田信繁に討ち取られ、混乱を避け幕府の安定作業を円滑に進めるために影武者が病死するまで家康の身代わりをしていたとされる説。一説に異母弟の樵臆恵最もしくは小笠原秀政ではないかといわれる。大阪府堺市の南宗寺には家康の墓とされるものがある。徳川家康の影武者説も参照。
「徳川氏」について
戦国時代から江戸時代の大名の佐竹氏の家中には、実際の得川氏の末裔がおり、親藩ですら限られた家系しか徳川氏の名乗りが許されない中、単なる大名の家臣の立場で徳川氏を堂々と名乗っていた[59]

源氏への復姓時期について

先述の通り、家康は永禄9年(1566年)に藤原氏に改姓しているが、源氏に復姓した時期については、はっきりしない。

天正14年(1586年)、安房国里見義康(新田一族)に送った同年3月27日付の起請文では、徳川氏と里見氏は新田一族の同族関係にあることを主張している。ただし、これ以降も「藤原家康」名義の書状が現存しており[60]、この起請文は偽文書の可能性が指摘されている[61]。天正18年(1590年)に関東へ移封された前後には、関東の豪族で新田一族に繋がる岩松氏の末裔を召し出して、新田氏の系譜を尋ねている記録がある[要出典]

近年の研究(笠谷和比古煎本増夫ら)によると、家康が本姓源氏だと称したのは天正16年(1588年)であるという。後陽成天皇聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである[62]。他に天正19年(1591年)、家康が相模国寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり[63]、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許されていた」と述べている[64]

江戸幕府の支配に関して

徳川家康の名で発行されたオランダとの通商許可証(慶長)14年7月25日1609年8月24日)付

家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は完成度の高いものである。江戸幕府は大坂など全国の幕府直轄主要都市(天領)を含め約400万石、旗本知行地を含めれば全国の総石高の1/3に相当する約700万石を独占管理(親藩譜代大名領を加えればさらに増加する)し、さらには佐渡金山など重要鉱山貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社朝廷、そして皇室までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が改易(取り潰し)の憂き目にあっており[注釈 33]、これには譜代、親藩大名も含まれる。これは朝廷や皇室でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった。

幕府に従順な大名に対しても参勤交代などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を蓄えることを許さず、また、特に近世初期は多くの転封をおこない「鉢植え」にした。些細な問題でも大名を改易、減封に処し、神経質に公儀の威光に従わせるように仕向けた。大名への叙位任官、松平氏下賜(授与)で、このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させた[21]。全国の諸大名・朝廷・皇室を「生かさず殺さず。逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが江戸幕府であった。

このように徳川将軍家のみを絶対とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」との見方もできる一方、強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上に及ぶ長期安定政権となったことは否定できない事実である。

後の鎖国政策につながるような限定的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたという評価もあるが、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたものである。またが海禁策をとるなど、当時の世界的な趨勢であるとも言える。

家康は朝廷を幕府の支配下におこうとした。慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに大名の官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に排除している。大坂冬の陣の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。さらに関ヶ原の戦いの後、家康が親豊臣的であった後陽成天皇譲位を要求した。そして天皇がこれに応じて弟の八条宮智仁親王に皇位を譲ろうとすると、家康はかつて親王が秀吉の猶子になったことがあるとして反対し、慶長16年(1611年)には後陽成天皇を廃して、皇位を政仁親王(後水尾天皇)に譲らせている。さらに家康はこの自らの主導による天皇即位をきっかけに、秀忠の五女・和子を入内させ、外祖父として皇室まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。和子の入内が元和6年(1620年)まで長引いたのは、家康と後陽成天皇が死去したためである)。家康の死後、幕府は紫衣事件などを経て、天皇および朝廷をほぼ完全に支配することに成功した。この力関係は幕末の尊王運動が起こるまで続いた。

一族・譜代の取り扱いに関して

息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だったとされることが多いが、情に流されず息子や一族に対しても一律に公平であったと見る向きもある。

長男・信康の切腹に関しては、信長の要求によるものではなく、家康自らの粛清説も近年唱えられている。また、生母の身分が低い次男・結城秀康、六男・忠輝を、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で常に遠ざけていたとされるが、これには異論もある。

関ヶ原の戦いにおいて江戸留守居役を命じられた秀康は、戦功を挙げるために秀忠に代わり西上したいと申し出たが容れられなかった。かねてから秀康には石田三成との交流があり、豊臣方に内通する恐れがあったとも考えられる一方で、武将として実績のある秀康に三成と友誼が深く西軍に呼応する恐れが強い佐竹義宣を監視させ、東北戦線で上杉氏と戦う伊達政宗・最上義光らの後詰め役として待機させたとされる。秀康は後の論功行賞において破格の50万石を加増、官位も権中納言まで昇進しており、最終的に67万石もの大封を与えられ、江戸への参勤免除、幕府からの使役の免除、関所を大砲で破壊しても黙認されるなど、別格の扱いを受けている。将軍継嗣がならなかったのは、豊臣秀吉の養子で、後に結城家に養子に入り名跡を継いでいることなどが理由とされる。また秀康の子・松平忠直には、秀忠の娘・勝姫を嫁がせている。

忠輝についても嫌われ、冷遇されたといわれたが、それを示す史料はなく、改易前には御三家並の所領(越後国・高田55万石)が与えられていた。

しかし秀康はともかく、嫡子・忠直や忠輝は家康よりもむしろ秀忠と不仲であったとされる。松平忠直は大坂の役で真田信繁(通称、幸村)らを討ち取る功績を挙げたが、論功行賞に不満を言い立てた。家康の死後は幕政批判や乱行が目立ったために秀忠によって隠居させられ、越前福井藩を継いだのは忠直の弟・忠昌であった。忠輝も秀忠により数々の不行状を追及されて改易させられた。

徳川四天王である本多忠勝榊原康政を関ヶ原の戦い後に中枢から外し、この2人に次ぐ大久保忠隣を改易・失脚させている。しかし、榊原康政は老臣が要職を争うことを嫌い自ら老中職を辞退していることに加え、康政の跡を継いだ榊原康勝が大坂の陣で没した後に起こった騒動を家老の処分にとどめ、本多忠勝に対しては、その子・本多忠政と孫・本多忠刻に自分の孫・熊姫(松平信康の娘)と千姫を嫁がせるなど、譜代大名に相応の配慮は示しており、その例は例外も多いが鳥居家、石川家など枚挙に暇がない。大久保氏も忠隣の孫・忠職は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代・大久保忠朝は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている。ただし、忠職が家康の曾孫であるから、という見方もできるのも否めない。しかし、忠隣自身が家康死後に家康の誤りを示すとして秀忠からの赦免要請を拒否していることから、大久保氏を避けていたわけではないと思われる。

家康は吏僚の造反行為には厳しく、三河時代に武田勝頼と内通した寵臣・大賀弥四郎鋸引きという極刑で処刑している。大久保長安についても、幕府中枢にある者の汚職・不正蓄財と扱い殊更に厳しくすることで、綱紀粛正を促したとする見方もできる。更には、人材の環流は組織の活性化に必須であり、一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈することもできる。また、松平信康を含め、秀康・忠輝に共通するのは武将としての評価が高かったことにあり、武将としては凡庸とされ失敗もあり兄を差し置いて将軍となった秀忠の手前彼らを高く評価することは憚られたことが背景にある。

また、家康はかつて敵対していた今川氏・武田氏・北条氏の家臣も多く登用し、彼らの戦法や政策も数多く取り入れている。『故老諸談』には家康が本多康重に語った言葉として「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。勇功を顕したり」と記されている。

家康と同時代の人々

家康は、自分に屈辱的な大敗を経験させた武田信玄を素直に尊敬し、武田氏の遺臣から信玄の戦術や思想を積極的に学んだ[注釈 34]。また源頼朝も尊敬し、頼朝の言動が記録された『吾妻鏡』を愛読していた[注釈 35]。その反面、信長のように身分や序列を無視した徹底的な能力主義をとることはなく、秀吉のように自らのカリスマ性や金、領地を餌に釣って家臣を増やす事もなかった[注釈 36]。 家康の重臣のほとんどは三河以来の代々仕えてきた家臣たちであった。

そのためか、彼らに天下を統一され遅れをとったが、代わりに自身は信頼できる部下だけで周囲を固め、豊臣政権の不備もあって天下人となった。とはいえ、その部下の中には今川氏・武田氏・北条氏等の自身が直接(主導)的には滅ぼしてはいない大名の家臣も含まれているため一種の漁夫の利(統一の際の汚れ役を信長・秀吉が被ってくれた)ともいえる。一方で偉大な先人から学びとり、それを取捨選択しその時流や自分の状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値するという見方もできる。

その戦振りに関しては、秀吉から「海道一の弓取り」と賞賛されたと伝わる[65][66][67]。 家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが短気で神経質な一面も持ち、関ヶ原の戦いでは開戦間際において一面に垂れ込める霧の中で使番が方向感覚を失い陣幕に馬を乗り入れた際に苛立ち、門奈長三郎という小姓に侵入者が何者か尋ねるが、門奈は侵入者が誰だか知っていたが当人に責任が掛からないように配慮し答えなかった。家康は門奈のこの態度に腹を立て、門奈の指物の竿を一刀のもとに切り捨てたという。さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。その一方怒りに任せ家臣や領民を手打ちにするようなことは生涯ほとんどなかった。幼少期に今川家の人質だったころ自分に辛く当たった今川方の孕石元泰を後年探しだし切腹させた(『三河物語』)のは例外的処置である。

情を排する冷徹な現実主義者との評価がある一方、法よりも人情を優先させた事例もある。例えば三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死した夏目吉信の子が規律違反を犯しても超法規的に赦し、関ヶ原の合戦後に真田信之本多忠勝らの決死の嘆願で真田昌幸を助命している。特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係は厚く、三方ヶ原の戦いで三河武士が背を向けず死んで行ったという俗説をはじめ、夏目吉信・鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から「犬のように忠実」と言われたこと(『葉隠覚書』)から、少なくとも地元である三河武士が持つ家康への人望は非常に厚かったようだが、一向一揆を起こされたことも考慮する必要がある。無論、有能な人材も重視し、安祥・岡崎譜代だけでなく今川氏・武田氏・北条氏の旧臣を多く召抱え、大御所時代には武士のみならず僧・商人・学者、更には英国人ウィリアム・アダムス(外国人に武士として知行を与えたのは家康のみ)と実力も考慮して登用し、江戸幕府の基礎を作り上げていった。

家康と宗教

戦国時代最大の武装宗教勢力であった一向宗は第11世門主・顕如の死後、顕如の長男・教如と三男・准如が対立し、教如が独立する形で東本願寺真宗大谷派)を設立、後にこれに対して准如が西本願寺浄土真宗本願寺派)を設立し、東西本願寺に分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。一説によると、若き日に三河一向一揆に苦しめられたことのある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を唆して本願寺を分裂させたと言われているが、明確にその意図が記された史料がないため断定はできない。しかし、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の土地を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。

現在の真宗大谷派は、このときの経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している[68]

東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命のころから始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった西本願寺興正寺が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させた可能性も否定出来ない。

ちなみに、三河一向一揆が起こった際、敵方の一向宗側には本多正信や夏目吉信など、家康の家来だった者もいた。だが家康は彼らを怨まず、逆に再び召抱えている。彼らは家康に恩を感じ、本多正信は家康の晩年までブレーンとして活躍し、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって戦死した。

また、同様に町衆に対し強い影響力を有する日蓮宗に対しても、秀吉が命じた方広寺大仏殿の千僧供養時に他宗の布施を受けることを容認した受布施派と、禁じた宗義に従った不受不施派の内、後者を家康は公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強いことも合わせて危険視した。そのため、後の家康の出仕命令に従わぬ不受不施派の日奥対馬国に配流したり、他宗への攻撃が激しい日経らを耳・鼻削ぎの上で追放した。家康死後も不受不施派は江戸幕府の布施供養を受けぬことを理由として、江戸時代を通じて弾圧され続けた。

これら新興の宗教以外の古い天台宗真言宗法相宗にも独占した門跡を通じ朝廷との深い繋がりを懸念し、新たに浄土宗知恩院を門跡に加え、更に天台宗の関東における最高権威として輪王寺に門跡を設けた。これら知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持った。

一方でキリスト教に対しては秀吉の死後、南蛮貿易による収益などの観点から当初は容認しており、実際に江戸時代初期にキリスト教は東北地方への布教を行っている。しかしマードレ・デ・デウス号事件岡本大八事件を経て、慶長18年(1613年)にバテレン追放令を公布する。

家康の死後、幕府は寺請制度等により、寺社勢力を完全に公儀の下に置くことに成功している。また、家康自身が東照神君として信仰対象になった。

徳川家康のスペイン外交と浦賀

鈴木かほるの研究によれば、秀吉の没後、家康が五大老の筆頭として表舞台に立ったとき、どの国よりもいち早く対外交渉をもったのは、当時、世界最強国と称されたスペインであったという。その眼目はスペイン領メキシコで行われている画期的な金銀製錬法アマルガム法の導入であり、そのスペイン人を招致するため浦賀湊を国際貿易港として開港し[69]、西洋事情に詳しいウイリアム・アダムスを外交顧問としたという。家康はフィリピン(スペイン領)近海における私貿易船を絶滅させるため、慶長6年(1601年)正月フィリピン総督に宛て公貿易船の証として日本からフィリピンへ渡海する朱印状を交付することを伝えた。日本では古来から難破船の漂着は龍神の祟りとして積荷を没収し、その売り上げをもってその土地の寺社の修復に充てる習わしであったが、家康はこの仕来りを破り、慶長7年(1602年)8月に漂着船の積荷を保証することを伝え、安心して浦賀湊に商船を派遣するようフィリピン総督に通告した[70]。つまり家康の朱印船制度創設は浦賀ースペイン外交にあったのである。浦賀にはウイリアム・アダムスの尽力により慶長9年にスペイン商船が初めて入港し、以後、毎年入港している。

メキシコ側の思慮によりアマルガム法の導入の実現には至らなかったが、慶長6年秋に上総大多喜浦に漂着した司令官ジュアン・エスケラや[71]、慶長14年(1610年)9月に上総国岩和田沖に漂着したフィリピン総督ドン・ロドリコ・デ・ビベロをアダムスが建造した船で帰国させたが、その返礼大使としてセバスチャン・ビスカイノが浦賀湊に入港している。このときのビスカイノは日本の東西の港の測量および金銀島探検の使命を帯びて来航したのであるが、金銀島の発見には至らず、そのうえ船は破船してしまう。ビスカイノは帰国のための船の建造を家康に請うたが断られた[72]。そこでビスカイノは奥州の港の測量の際、伊達政宗がメキシコとの貿易を希望していたことを想い起こし、宣教師ルイス・ソテロを介して伊達政宗に帰国の大型帆船の建造を依頼し、これが実現してサン・ファン・バウティスタ号の遣欧に至るのである。このとき将軍・秀忠は向井忠勝に政宗遣欧船の随行船として船を造船させている。この船は江戸内海の口で座礁してしまったが[73]、このように秀忠が遣欧船を造船していた事実や、向井忠勝が公儀大工を伊達政宗のもとに派遣している事実、また幕府は禁教令によりビスカイノ一行を本国に帰国させなければならなかったことを考えれば、政宗遣欧船は幕府の知るところであったことは疑う余地もない。

元和元年(1615年)6月、サン・ファン・バウティスタ号がビスカイノの返礼大使ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナを乗せ浦賀湊に帰帆した。この船には政宗の家臣・横沢将監吉久や日本商人らが同船していた。しかし、家康が死去するとカタリーナに国外退去令が出され、彼らは元和2(1616年)年8月に浦賀を発航した。これがメキシコへ向かう最後の貿易船となった。こうして国際貿易港としての生命は絶たれ、スペイン人鉱夫の招聘は実現することなく訣別を迎えたのである[74]

近現代における評価

江戸期を通じて神格化され[75][76]、否定的評価は禁じられており、明治維新後に家康の自由な評価が解禁された。山岡荘八の小説『徳川家康』では、幼いころから我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、泰平の世を願う求道者として描かれている。この小説をきっかけに家康への再評価が始まっている。

司馬遼太郎は家康について記した小説『覇王の家』あとがきで、家康が築いた江戸時代については「功罪半ばする」とし、「(日本人の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」といった論やその支配の閉鎖ないし保守性については極めて批判的である。但し、司馬は家康本人に対しては、必ずしも否定的では無い。初陣を15歳で経験し、大坂夏の陣では73歳でありながら総大将として指揮を採り、その生涯では三方ヶ原の戦いなど大敗も経験したが、晩年まで幾多もの戦争を経験し、指揮も執り、戦死しなかったことを、「歴史上、古今東西見渡しても滅多に類を見ない」とし、「戦が強くはなかったが、戦上手であった」と評している。

天下を平定したとはいえ、信長・秀吉に比べて守旧的な組織しか作らなかったとして、家康を名君・奸君とするのは過大評価であるとする説もある。家康は、独断で物事を決するよりは、専ら評定を開いては家臣だけで議論をさせ、家臣たちが結論を出したところで決断をするところから、あくまでその議論のまとめ役や政策実行の代表者に過ぎない(部下の使い方がうまいという見方もある)、たまたま長生きしたために天下を取ることができた凡人に過ぎないとする意見もある。武光誠の『凡将家康天下取りの謎』がこの説を採っており、池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』もこの観点より書かれている。

一方コラムニストで有るマイケル・アームストロングは、家康とその時代を世界的視野で眺めても家康に比肩する人物は居ないと評している[77]

一族縁者

家康は2代将軍・徳川秀忠の父、3代将軍・徳川家光の祖父、4代将軍・徳川家綱徳川綱重(6代将軍・徳川家宣の父)、5代将軍・徳川綱吉、8代将軍・徳川吉宗の曽祖父に当たる。

偏諱を与えた人物

功績のあった臣や元服する者に自分の名の一字(太字)を与えた。

関連史料

関連作品

小説

映画

テレビドラマ

ゲーム

  • 戦国BASARA』シリーズ (CAPCOM、声:大川透)
    • 関ヶ原の戦いをモチーフとした「3」と、そのアニメ映像化作品『劇場版 戦国BASARA -The Last Party-』で主人公の一人として描かれている。

脚注

注釈

  1. ^ 前年の天文18年(1549年)、安祥城太原雪斎に攻められ生け捕りにされていた。
  2. ^ 『東照宮御実紀』では少将宮町、『武徳編年集成』では宮カ崎とされている。
  3. ^ 松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説である。しかし近年、むしろ今川義元の厚意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説もある[5]
  4. ^ 『武徳編年集成』によると今川家の家臣の中でも岡部家は息子(岡部正綱)が同年齢の家康と仲良くなったことから、家康に極めて好意的かつ協力的であったようである。後に岡部正綱は家康の家臣となり、甲州制圧作戦でその外交手腕を発揮することになる。
  5. ^ なお、この駿府人質時代に北条氏規も駿府で人質となっていたため、このころから二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また『駿国雑誌』(19世紀前期の駿河国の地誌、阿部正信著)では、住居が隣同士だったとも伝えている。後に後北条氏と同盟を結んだ際に氏規はその交わりの窓口となった。氏規の系統は、狭山藩として小藩ながらも明治時代まで存続した。
  6. ^ 永禄10年(1567年)に今川氏真が鈴木重勝近藤康用に所領を宛行した判物(『愛知県史』資料編11・566号)の中で氏真が「酉年四月十二日岡崎逆心之刻」における両者の戦功を評価する文言があり、氏真が酉年にあたる永禄4年(1561年)4月に岡崎城の松平元康が(今川氏視点から見て)反逆を起こしたと認識していたことが分かる。
  7. ^ 家康の名は、源義家に由来するとも、伊東法師という人物が書経の中の句「家用平康」(家を用って平らかに康し)から命名したともいわれる。
  8. ^ なお、武田氏は友好的関係にある織田信長を通じて信長の同盟相手である家康に武田との協調再考を持ちかけているが家康はこれを退けており、家康は信長からも独立した立場であったと考えられている。
  9. ^ 細川氏嫡流の当主は管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから「京兆家」と称されていた。これに対して管領を支える盟友的存在の守護大名が左京大夫に任じられており、足利義澄細川政元期の赤松政則足利義稙細川高国期の大内義興足利義晴細川晴元期の六角義賢がこれに該当する。
  10. ^ 後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深めると義昭の家康に対する呼称も「徳川三河守」と変わっている。
  11. ^ これを遡る元亀2年4月には武田氏による三河・遠江への大規模な侵攻があったとされているが、近年は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは天正3年(1575年)の出来事であったことが指摘されている[15]
  12. ^ 小説家の伊東潤は、「御館の乱での立ち回りによる甲相同盟の破綻と、高天神城に後詰を送らなかったことが武田氏滅亡の最大の原因であり、長篠の戦いでの敗北はそれに比べれば小さなものである」と主張している[要出典]
  13. ^ この官職は武家の名誉職で、一般の大名が帯びるられるものではなく、将軍の嫡子および実弟などのみに許されていたものである。
  14. ^ ルイス・フロイスによると、オルガンティーノ1588年5月6日付の書簡で、「坂東の戦は、7月にはすでに(挙行される)と言い触らされており、坂東の北条殿(の領地)が家康の領国に(加えられることに)なっていますから、それも暴君(秀吉)にとっては喜ばしいことではありません(原文:e o Fonjodano do Bandou vai entrando pelos reynos de Yyeyasu, couza de que o tirano se nâo pode alegrar.)」と書いている[24]。ただし、1588年には結局出兵は無く、2年後に持ち越しとなった。またこの訳文は松田毅一川崎桃太によるが、原文は家康の関東移封ではなく、北条の侵攻を意味するという異論もある[25]
  15. ^ 阿部能久は、鎌倉幕府の成立以来西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方の断絶とともに機能停止していた室町幕府の鎌倉府と同様の役割を東国に通じた家康によって担わせようとしたと推測している[26]。 なお、阿部は笠谷和比古の天正16年(1588年)に家康が源氏姓を公称した説に関連して、同年は足利義昭が正式に征夷大将軍を辞任した年であり、家康が将来の「徳川将軍体制」を見越して源氏改姓をしたのを秀吉は認識しつつそれを逆手に取って関東地方を治めさせたと捉え、更に清和源氏の正統な末裔である足利氏の生き残りと言える喜連川家に古河公方を再興させることで、家康と喜連川家+佐竹氏など関東諸大名との間に一定の緊張関係をもたらすことで家康の野心を封じ込めようとしたと推測する。
  16. ^ 井伊直政・本多忠勝・榊原康政の知行割に関しては川田貞夫が豊臣政権によって配置・石高を指定されたとする説を唱えて、以後通説となっている。ただし、川田が主張した鳥居元忠・大久保忠世にも適用されたとする考えには、通説を支持する学者の間でもこれは認めないとする市村高男らの反論(井伊・本多・榊原家のみとする)がある。なお、こうした豊臣政権の大名家内部の知行割に対する関与自体は、上杉家における直江兼続の事例などがあり徳川家に限ったことではなかった[27]
  17. ^ 常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードが書かれている。
  18. ^ なお出典の定かでない話ではあるが、これに先立ち、伊尾川(現・揖斐川)で家康自身が銃撃されたという伝承もあるという。詳しくは神戸町の項を参照のこと。
  19. ^ 豊臣家は摂家の一つにすぎないとされただけで、将来の豊臣秀頼の関白職就任が完全に否定されたということではない。
  20. ^ 家康の源氏復姓の時期については諸説がある(後述)。 清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がなく、過去には摂家将軍皇族将軍の例もあり、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた俗説である。
  21. ^
    徳川家康征夷大将軍補任の宣旨

    内大臣源朝臣 左中辨藤原朝臣光廣傳宣、權大納言藤原朝臣兼勝宣、 奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者 慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉

    (訓読文)
    内大臣源朝臣(徳川家康、正二位) 左中弁藤原朝臣光広(烏丸光広、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣兼勝(広橋兼勝、正二位)宣(の)る、 勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり) 慶長8年(1603年)2月12日 中務大輔右大史算博士小槻宿禰孝亮(壬生孝亮、従五位下)奉(うけたまは)る

    — 日光東照宮文書、壬生家四巻之日記

    ※同日、右大臣に転任し、源氏長者、牛車乗車宮中出入許可、兵仗随身、淳和奨学両院別当の宣旨も賜う。

  22. ^ 家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問しているともいわれるが[38]、この時期の林羅山は家康に対して、そのような大きな発言権はないとする近年研究もある[39]
  23. ^ 『摂戦実録』によれば、撰文をした文英清韓は「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明し、家康のを「かくし題」とした意識的な撰文であると認め、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視したという[38]。ただし『摂戦実録』の成立年代は江戸時代・1752年である[1]
  24. ^ で評判になっている目新しい料理として茶屋四郎次郎清次が紹介し、田中城(現・静岡県藤枝市)にて供したもので、家康はいたく気に入り、日ごろの節制を忘れて大喰らいに到り、大鯛2枚・甘鯛3枚を平らげたと伝えられる。なお、「天ぷら」とは呼ばれているが、衣は無く、実際はから揚げに近い。cf. 天ぷら#逸話
  25. ^ 江戸城内に限った話ではなく、温度計による油温管理ができなかった時代、食用油は容易に引火し、かつ消火は困難であった。それゆえにそれ以外の建物内においても、天ぷらは火災予防のため忌避され、専ら屋台で調理人により料理される時代が太平洋戦争まで続いた[42]
  26. ^ 野村玄によれば、当時国内では寛永飢饉、国外では交替と鎖国令に伴うポルトガルの報復の可能性によって江戸幕府は緊迫した状況にあり、将軍であった徳川家光は単なる家康への崇敬のみならず、元寇のときの風宮改号の故事を先例として東照社を東照宮と改号して「敵国降伏」を祈願したとする[44]
  27. ^ a b 1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。
  28. ^ 天正14年の段階で遡及的に叙位されたと考えられる。以下同じ。[45]
  29. ^ 『奥平家譜』、直心影流伝書による。なお『急賀斎由緒書』では奥山流。
  30. ^ 柳生宗厳と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退。
  31. ^ 家康は、将軍即位後も鷹狩や鮎漁の際に、頻繁に府中御殿に滞在[48]
  32. ^ 前者は個人蔵(画像)。後者は東京国立博物館蔵(e国宝に画像と解説あり
  33. ^ 中には福島家のような取り潰され方をした大名もあり、徳川政権の安定を優先させていたと思われる。
  34. ^ 天正13年(1585年)の石川数正の寝返りにより、様々な制度を改めざるを得なくなったという事情もある。
  35. ^ 自分と境遇の似た頼朝に親近感を抱き、尊敬していたとも推測されている[要出典]
  36. ^ とはいえ、秀吉・家康の天下人となった二人とも信長の元にいたことから、その影響を排除して考えることはできない。信長の姪達である浅井三姉妹から秀吉は自身の側室に長女の茶々を、家康は後継者である秀忠の正室に三女のを迎えており、信長の血縁が重みをもっていたことが窺える。
  37. ^ 『柳営婦女伝系』(『徳川諸家系譜』第1巻 続群書類従完成会)の長勝院(小督局)の項に結城秀康が双子であったことが記載されており、また、高野山にある小督局の墓には永見貞愛の名も刻まれている[78]
  38. ^ 徳川実紀』に落胤説があったとの記述がある。
  39. ^ 『後藤庄三郎由緒書』、寛政10年(1798年)ころの史料なので信憑性には疑問がある。

出典

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参考文献

参考論文

  • 富士川遊「徳川家康の身體に就いて」(『史学雑誌』18編12号、1907年)
  • 宮本義己「徳川家康公の再評価」(『大日光』64号、1992年)
  • 宮本義己「徳川家康公と医学」(『大日光』66号、1995年)
  • 宮本義己「「松平元康<徳川家康>の器量と存在感」(『大日光』71号、2001年)
  • 宮本義己「松平元康<徳川家康>の早道馬献納―学説とその典拠の批判を通して―」(『大日光』73号、2003年)
  • 宮本義己「徳川家康と本草学」(笠谷和比古編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016年)
  • 平野明夫「戦国期徳川氏の政治的立場―織田氏との係わりを通して―」(『国史学』158号、1995年)
  • 滝川恒昭「里見氏にあてた家康の起請文」(『季刊ぐんしょ』58号、2002年)、後に滝川恒昭編『房総里見氏』〈中世関東武士の研究13〉戎光祥出版、2014年10月、ISBN 978-4-86403-138-7に収む。
  • 柴裕之「永禄期における今川・松平両氏の戦争と室町幕府―将軍足利義輝の駿・三停戦令の考察を通じて―」(『地方史研究』315号、2005年)後に改題して「今川・松平両氏の戦争と室町幕府将軍」(『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年)に収む。
  • 赤坂恒明「元亀二年の『堂上次第』について ─特に左京大夫家康(三川 徳川)に関する記載を中心に ─」(『十六世紀史論叢』創刊号、 2013年3月、 58〜78頁) [2]
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関連項目

外部リンク