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オーレル・ハーシュハイザー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オーレル・ハーシュハイザー
Orel Hershiser
2004年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州バッファロー
生年月日 (1958-09-16) 1958年9月16日(66歳)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
192 lb =約87.1 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1979年 ドラフト17巡目
初出場 1983年9月1日
最終出場 2000年6月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

オーレル・レナード・ハーシュハイザー4世Orel Leonard Hershiser IV, 1958年9月16日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州バッファロー出身の元プロ野球選手投手)。愛称は"ブルドッグ"("Bulldog")。

経歴

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プロ入りとドジャース時代

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1979年MLBドラフト17巡目でロサンゼルス・ドジャースから指名を受け入団。

1983年9月1日のモントリオール・エクスポズ戦でメジャーデビュー。

1984年は序盤リリーフとしての起用だったが、7月4日ピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャー初完封を達成すると7月は月間4完封を記録、ピッチャー・オブ・ザ・マンスを受賞するなど先発に定着。11勝8敗・防御率2.66・リーグ最多タイの4完封の成績で、ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では3位に入った。

1985年は後半戦で負けなしの11連勝・防御率1.34と絶好調で、19勝3敗・リーグ3位の防御率2.03を記録し、サイ・ヤング賞の投票では3位に入った。

1986年は14勝14敗・防御率3.85と成績を落とす。

1987年は前半戦で10勝を挙げて自身初のオールスターゲームに選出される。最終的に16勝16敗・防御率3.06、リーグ最多の264.2イニングの成績だった。

1988年開幕投手を務めた左腕エースのフェルナンド・バレンズエラが故障で5勝に終わるのに対し開幕から6連勝を記録し、6・7月にも6連勝。前半戦で13勝を記録し、2年連続でオールスターゲームに選出される。8月30日のエクスポズ戦で5回に2失点を喫するが、6回以降の4イニングを無失点に抑えた後、5試合連続で完封勝利。シーズン最後の登板となったサンディエゴ・パドレス戦でも10回を0点に抑え、ドジャースの大先輩ドン・ドライスデール1968年に打ち立てた58回2/3イニング連続無失点のメジャー記録を更新する59イニング連続無失点を記録した。23勝8敗・防御率2.26、いずれもリーグ最多の267.0イニング・15完投・8完封の成績でダニー・ジャクソンと並んで最多勝のタイトルを獲得し、チームの地区優勝に大きく貢献した。ポストシーズンに入っても勢いは止まらず、ニューヨーク・メッツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、第7戦で5安打完封勝利を挙げてリーグ優勝をもたらし、シリーズMVPを獲得。下馬評では不利とされていたオークランド・アスレティックスとのワールドシリーズでは第2戦で3安打完封勝利を挙げた上に、打ってもシリーズ史上64年ぶりの「投手の1試合3安打」を記録。第5戦でも2失点完投勝利を挙げ、4勝1敗でアスレティックスを下して7年ぶりのワールドチャンピオンとなり、ワールドシリーズMVPを受賞。サイ・ヤング賞、ゴールドグラブ賞も獲得した。直後に開催された日米野球でも訪日した。第1戦は日本ハム田村藤夫に、第3戦は南海佐々木誠に本塁打を打たれた。

1989年は初登板のシンシナティ・レッズ戦で初回二死後に失点し、連続無失点記録が途切れた。15勝・防御率2.31、リーグトップの256.2イニングながら、後半戦で7連敗を喫するなど援護に恵まれず、リーグワーストタイの15敗と「元の姿」に戻ってしまった。

1990年は故障のため僅か4試合の登板に終わる。

1991年は5月下旬に復帰し7勝。

1992年はリーグワーストタイの15敗を喫する。

ロサンゼルス・ドジャース時代 (1993年)

1993年は5月21日のコロラド・ロッキーズ戦で4年ぶりの完封勝利を挙げるが、12勝14敗。打率.356を記録してシルバースラッガー賞を受賞した。

1994年ストライキの影響で6勝に終割った。オフにフリーエージェントとなった。

インディアンス時代

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1995年4月8日にクリーブランド・インディアンスと契約。後半戦で11勝を記録するなど16勝を挙げて復活する。チームは2位に30ゲーム差を付けて独走で地区優勝。シアトル・マリナーズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは2勝・防御率1.29を記録してMVPに選出され、両リーグでリーグチャンピオンシップシリーズMVPを獲得した初めての選手となった。アトランタ・ブレーブスとのワールドシリーズでは第1戦と第5戦に先発していずれもグレッグ・マダックスと投げ合い1勝1敗だったが、チームは2勝4敗で敗退。

1996年は15勝を挙げて2年連続の地区優勝に貢献するが、ディビジョンシリーズボルチモア・オリオールズに敗退。

1997年は14勝を挙げてチームは地区3連覇を果たす。オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し、勝利こそ付かなかったが7回無失点と好投、2年ぶりのリーグ優勝に貢献した。史上初めてワイルドカードから勝ち上がったフロリダ・マーリンズとのワールドシリーズでは第1戦と第5戦に先発したが、計13失点と振るわず2敗を喫し、3勝4敗で敗退した。オフにフリーエージェントとなった。

ジャイアンツ時代

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1997年12月9日にサンフランシスコ・ジャイアンツと契約。

1998年は11勝を挙げるが、チームはワイルドカード決定戦でシカゴ・カブスに敗れポストシーズン進出を逃した。

メッツ時代

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1999年2月20日にインディアンスと契約。3月25日にFAとなるが、同日ニューヨーク・メッツと契約[1]。13勝を挙げてチームのワイルドカード獲得に貢献する。ポストシーズンではリリーフでの登板のみだった。

ドジャース復帰

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1999年11月17日に古巣ドジャースと契約。

2000年は年齢もあって衰えを隠せず、1勝5敗・防御率13.14に終わり、6月27日にFAとなり、現役引退。

引退後

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2002年途中から2005年までテキサス・レンジャーズの投手コーチを務めた。

2008年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ始球式を務めるハーシュハイザー

2013年までESPNBaseball Tonight』で解説者を務めた。

2014年からはスポーツネットLA英語版でドジャースの専属解説者を務めている[2]

人物

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弟のゴードン・ハーシュハイザーも投手で、メジャーに昇格することはできなかったが、1987年から4シーズン、兄と同じドジャースのマイナーに所属していた。

ニューヨーク州バッファローの上流階級の家庭に生まれる。ハーシュハイザー家では長男が必ずオーレルの名を受け継ぐ事になっており、彼は4世である。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1983 LAD 8 0 0 0 0 0 0 1 -- ---- 37 8.0 7 1 6 0 0 5 1 0 6 3 3.38 1.63
1984 45 20 8 4 2 11 8 2 -- .579 771 189.2 160 9 50 8 4 150 8 1 65 56 2.66 1.11
1985 36 34 9 5 0 19 3 0 -- .864 953 239.2 179 8 68 5 6 157 5 0 72 54 2.03 1.03
1986 35 35 8 1 1 14 14 0 -- .500 988 231.1 213 13 86 11 5 153 12 3 112 99 3.85 1.29
1987 37 35 10 1 0 16 16 1 -- .500 1093 264.2 247 17 74 5 9 190 11 2 105 90 3.06 1.21
1988 35 34 15 8 3 23 8 1 -- .742 1068 267.0 208 18 73 10 4 178 6 5 73 67 2.26 1.05
1989 35 33 8 4 2 15 15 0 -- .500 1047 256.2 226 9 77 14 3 178 8 4 75 66 2.31 1.18
1990 4 4 0 0 0 1 1 0 -- .500 106 25.1 26 1 4 0 1 16 0 1 12 12 4.26 1.18
1991 21 21 0 0 0 7 2 0 -- .778 473 112.0 112 3 32 6 5 73 2 4 43 43 3.46 1.29
1992 33 33 1 0 1 10 15 0 -- .400 910 210.2 209 15 69 13 8 130 10 0 101 86 3.67 1.32
1993 33 33 5 1 3 12 14 0 -- .462 913 215.2 201 17 72 13 7 141 7 0 106 86 3.59 1.27
1994 21 21 1 0 0 6 6 0 -- .500 575 135.1 146 15 42 6 2 72 6 2 67 57 3.79 1.39
1995 CLE 26 26 1 1 1 16 6 0 -- .727 683 167.1 151 21 51 1 5 111 3 0 76 72 3.87 1.21
1996 33 33 1 0 0 15 9 0 -- .625 908 206.0 238 21 58 4 12 125 11 1 115 97 4.24 1.44
1997 32 32 1 0 0 14 6 0 -- .700 826 195.1 199 26 69 2 11 107 11 0 105 97 4.47 1.37
1998 SF 34 34 0 0 0 11 10 0 -- .524 887 202.0 200 22 85 7 13 126 12 0 105 99 4.41 1.41
1999 NYM 32 32 0 0 0 13 12 0 0 .542 776 179.0 175 14 77 2 11 89 6 0 92 91 4.58 1.41
2000 LAD 10 6 0 0 0 1 5 0 1 .167 136 24.2 42 5 14 1 11 13 2 0 36 36 13.14 2.27
通算:18年 510 466 68 25 13 204 150 5 1 .576 13150 3130.1 2939 235 1007 108 117 2014 121 23 1366 1211 3.48 1.26
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル 

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  • 最多勝利 1回:1988年

表彰

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  • サイ・ヤング賞 1回:1988年
  • シルバースラッガー賞 1回:1993年
  • ゴールドグラブ賞 1回:1988年
  • リーグチャンピオンシップシリーズMVP 2回:1988年, 1995年
  • ワールドシリーズMVP 1回:1988年
  • ベーブ・ルース賞 1回:1988年

記録

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脚注

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  1. ^ スプリング・トレーニングで野茂英雄と先発ローテーションを争い、敗れた野茂は解雇され、シカゴ・カブスのマイナーを経てミルウォーキー・ブルワーズに移籍。
  2. ^ Dodgers Broadcasters”. MLB.com. 2021年4月22日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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