コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「榎本武揚」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
KasparBot (会話 | 投稿記録)
Normdaten moved to wikidata
lk
(7人の利用者による、間の18版が非表示)
16行目: 16行目:
|称号・勲章 = [[ファイル:OF-7_-_Kaigun_Chujo_(collar).gif|30px]] [[海軍中将]]<br />[[正二位]]<br />[[勲一等旭日桐花大綬章]]<br />[[子爵]]
|称号・勲章 = [[ファイル:OF-7_-_Kaigun_Chujo_(collar).gif|30px]] [[海軍中将]]<br />[[正二位]]<br />[[勲一等旭日桐花大綬章]]<br />[[子爵]]
|親族(政治家) =
|親族(政治家) =
|配偶者 = 榎本たつ
|配偶者 = 榎本たつ(多津)
|サイン =
|サイン =
|国旗 = JPN
|国旗 = JPN
45行目: 45行目:
|退任日5 = 1897年3月22日
|退任日5 = 1897年3月22日
|国旗6 =
|国旗6 =
|その他職歴1 = [[蝦夷共和国]]総裁
|その他職歴1 = [[蝦夷共和国|蝦夷島総裁]]
|就任日6 = 1868
|就任日6 = 18691月27日(明治元年12月15日)
|退任日6 = 1869年
|退任日6 = 1869年6月27日(明治2年5月18日)
|国旗7 = JPN
|国旗7 = JPN
|その他職歴2 = 第3代 [[海軍省|海軍卿]]
|その他職歴2 = 第3代 [[海軍省|海軍卿]]
54行目: 54行目:
<!-- ↑省略可↑ -->
<!-- ↑省略可↑ -->
}}
}}
'''榎本 武揚'''(えのもと たけあき、[[天保]]7年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]([[1836年]][[10月5日]]) - [[明治]]41年([[1908年]])[[10月26日]])は、[[日本]]の[[武士]]([[幕臣]])、[[外交官]]、[[政治家]]。[[大日本帝国海軍|海軍]][[中将]]、[[正二位]][[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]][[子爵]]。[[仮名 (通称)|通称]]は釜次郎、[[雅号|号]]は梁川。名は「ぶよう」と[[有職読み|故実読み]]されることある
'''榎本 武揚'''(えのもと たけあき、[[1836年]][[10月5日]]([[天保]]7年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]) - [[1908年]]([[明治]]41年)[[10月26日]])は、[[日本]]の[[武士]]([[幕臣]])、[[化学者]]、[[外交官]]、[[政治家]]。[[大日本帝国海軍|海軍]][[中将]]、[[正二位]][[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]][[子爵]]。[[仮名 (通称)|通称]]は'''釜次郎'''{{refnest|group="注"|兄・鍋太郎([[榎本武与]])とともに、鍋と釜があれば食うには困らないという意味で名づけられた{{Sfn|合田一道|2014|p=13}}。}}、[[雅号|号]]は'''梁川'''(りょうせん){{refnest|group="注"|出生地である「柳川横町(近所に[[柳川藩]]邸があった)」にちなむ但し柳川では[[柳川鍋]]に通ずるため、梁川としたとされる{{sfn|加茂儀一|1988|p=35}}。}}。榎、釜を分解した「'''夏木金八'''(郎)」という変も用いていた{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=210}}{{sfn|合田一道|2014|pp=136-137}}。なお、武揚は「ぶよう」と[[有職読み|故実読み]]呼ばれた

[[伊能忠敬]]の元弟子であった幕臣・[[榎本武規]](箱田良助)の次男として生まれる。[[昌平坂学問所]]、[[長崎海軍伝習所]]で学んだ後、幕府の[[開陽丸]]発注に伴い[[オランダ]]へ留学した。帰国後、[[幕府海軍]]の指揮官となり、[[戊辰戦争]]では旧幕府軍を率いて[[蝦夷地]]を占領、いわゆる「[[蝦夷共和国]]」の総裁となった。[[箱館戦争]]で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。

敵将・[[黒田清隆]]の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。[[開拓使]]で[[北海道]]の資源調査を行い、駐露特命全権公使として[[樺太千島交換条約]]を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、[[内閣 (日本)|内閣]]制度開始後は、[[逓信大臣]]・[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]・[[外務大臣]]・[[農商務大臣]]などを歴任、子爵となった。

また、[[メキシコ]]に殖民団を送ったほか、[[東京農業大学]]の前身である徳川育英会育英黌農業科や、[[東京地学協会]]や[[電気学会]]など数多くの団体を創設した。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[File:Takeaki Enomoto 3.jpg|thumb|150px|left|和装の榎本武揚]]
[[File:Takeaki Enomoto 3.jpg|thumb|150px|left|和装の榎本武揚]]
武揚は[[天保]]7年([[1836年]])、[[江戸]]下谷御徒町(現[[東京都]][[台東区]][[御徒町]])[[旗本]]・榎本武規の次男として生まれた<ref group="注">ただし兄の武与と武揚の兄弟は武規の後妻の子であるため、榎本家の先祖との血縁はない。</ref>
[[1836年]]([[天保]]7年)、[[江戸]]下谷御徒町柳川横町(現在の[[東京都]][[台東区]][[浅草橋]]付近、通称・三味線堀の組屋敷で西丸御[[徒目付]]・榎本武規の次男として生まれる{{sfn|加茂儀一|1988|p=22}}


近所に住んでいた[[田辺石庵]]{{refnest|group="注"|本名・村瀬誨輔。幕臣、儒者<ref>{{cite web|url=https://kotobank.jp/word/田辺石庵-1090266|title=田辺石庵|publisher=コトバンク|accessdate=2015-08-13}}</ref>。外交官・[[田辺太一]]の父。}}に入門し儒学を学んだ{{sfn|加茂儀一|1988|p=34}}後、[[1851年]]([[嘉永]]4年)、[[昌平坂学問所]]に入学。[[1853年]](嘉永6年)に修了するが、修了時の成績は最低の「丙」であった<ref name="kindainihon-141">[[#近代日本の万能人・榎本武揚|近代日本の万能人・榎本武揚]], pp. 141-143</ref>{{refnest|group="注"|「甲」「乙」は名前が公表されるが、榎本の名前が無かったことから、「丙」とみられている<ref name="kindainihon-141" />。}}。[[1854年]]([[安政]]元年)、[[遠国奉行|箱館奉行]]・[[堀利煕]]の従者として[[蝦夷地]]箱館(現在の[[北海道]][[函館市]])に赴き、蝦夷地・[[樺太]]巡視に随行{{sfn|井黒弥太郎|1968|pp=1-4}}。[[1855年]](安政2年)、昌平坂学問所に再入学する(翌年7月退学)<ref name="kindainihon-141" />が、同年[[長崎海軍伝習所]]の聴講生となった後、[[1857年]](安政4年)に第2期生として入学{{refnest|group="注"|榎本は入学願を出したが却下され、昌平黌の学友・[[伊沢勤吾]]の父である大目付・[[伊沢政義]]に頼み込み、伝習所頭取となった勤吾の同行者として入学を許された{{sfn|加茂儀一|1988|p=63}}。なお赤松則良は、榎本は矢田堀景蔵の従者扱いで員外の者として講義を受けていた、と記している<ref>[[#赤松則良半生記|赤松則良半生記]], p. 25</ref>。}}。海軍伝習所では、[[ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ|カッテンディーケ]]や[[ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト|ポンペ]]らから機関学、[[化学]]などを学んだ{{sfn|加茂儀一|1988|p=65}}。カッテンディーケは伝習所時代の榎本を高く評価していた{{refnest|group="注"|カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』「榎本釜次郎氏のごとき、その先祖は江戸において重い役割を演じていたような家柄の人が、二年来一介の火夫、鍛冶工および機関部員として働いているというがごときは、まさに当人の勝れたる品性と、絶大なる熱心を物語る証左である。これは何よりも、この純真にして、快活なる青年を一見すれば、すぐに判る。彼が企画的な人物であることは、彼が北緯59度の地点まで北の旅行をした時に実証した。」<ref>{{Cite book|和書|author=カッテンディーケ|others= 水田信利・訳|year=1964|title=長崎海軍伝習所の日々|publisher=平凡社|series=東洋文庫 26|page=85|isbn=4-582-80026-2}}</ref>}}。
武規(円兵衛)は、もとは箱田良助といい、[[備後国]][[安那郡]]箱田村(現[[広島県]][[福山市]][[神辺町]]箱田)の庄屋・細川園右衛門の次男であった。[[菅茶山]]の廉塾に学び、数学を得意としていた。文化6年(1809)11月、17歳の時、測量の旅の途上で同地を訪れ菅茶山を訪ねた[[伊能忠敬]]の弟子になり、伊能の二度の九州測量などにも同行している。内弟子筆頭として測量の指揮も任されるようになった。伊能の死後、文政5年(1822年)に幕臣(御家人)の榎本武由(武兵衛)の娘みつと持参金持ち込みの結婚をして、婿養子として武士の身分を得た。翌年から幕府天文方に出仕。弘化元年(1844年)には幕府御勘定万となって身分は旗本になった。


翌[[1858年]](安政5年)海軍伝習所を修了し、江戸の[[軍艦操練所|築地軍艦操練所]]教授となる{{sfn|加茂儀一|1988|p=75}}。また、この頃、[[ジョン万次郎]]の私塾で[[英語]]を学び、後に[[箱館戦争]]をともに戦う[[大鳥圭介]]と出会う<ref name="kindainihon-141" />。
武揚は幼少の頃から[[昌平坂学問所]]で[[儒学]]と[[漢学]]を、[[ジョン万次郎]]の私塾で[[英語]]を学ぶ。万次郎の私塾では後に[[箱館戦争]]を共に戦い抜く[[大鳥圭介]]と出会っている。19歳の時、[[遠国奉行|箱館奉行]]・[[堀利煕]]の従者として[[蝦夷地]]箱館(現[[北海道]][[函館市]])に赴き、[[樺太]]探検に参加する。[[安政]]3年([[1856年]])には幕府が新設した[[長崎海軍伝習所]]に入所、国際情勢や[[蘭学]]と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学んだ。


=== オランダ留学 ===
=== オランダ留学 ===
[[文久]]2年([[1862年]])9月、[[内田正雄|内田恒次郎]]・[[赤松則良]]・[[澤太郎左衛門]]・[[西周 (啓蒙家)|西周助]]らと共に[[長崎港|長崎]]を出航して[[オランダ]]留学へ向かう。文久3年([[1863年]])4月、オランダ・[[ロッテルダム]]に到着。当地では長崎海軍伝習所で教官を務めていた[[ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ|カッテンディーケ]]海軍大佐と[[ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト|メーデルフォールト]]軍医の世話になった。[[元治]]元年([[1864年]])2月、赤松則良とともに[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]を[[観戦武官]]として経験する{{Sfn|臼井隆一郎|2005|p=68}}。戦争を見聞した後、[[エッセン]]の[[クルップ]]本社を訪れ、[[アルフレート・クルップ]]と面会する{{Sfn|臼井隆一郎|2005|p=71}}。幕府が発注し、当時オランダで建造中の軍艦「[[開陽丸]]」に搭載する大砲を注文し、最終的に開陽には18門のクルップ施条砲が搭載された{{Sfn|臼井隆一郎|2005|p=73}}。オランダでは国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学んだ。慶応3年([[1867年]])3月、「開陽丸」と共に帰国する。

{{See also|開陽丸#発注}}
{{See also|開陽丸#発注}}
[[File:Kaiyomaru.jpg|thumb|200px|開陽丸(1867年頃)]]
[[1861年]]([[文久]]元年)11月、幕府は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に蒸気軍艦3隻を発注するとともに、榎本・[[内田正雄]]・[[澤太郎左衛門]]・[[赤松則良]]・[[田口俊平]]・[[津田真道]]・[[西周 (啓蒙家)|西周]]をアメリカへ留学させることとした。しかし、[[南北戦争]]の拡大によりアメリカ側が断ったため、翌[[1862年]](文久2年)3月にオランダに蒸気軍艦1隻(開陽丸)を発注することとし、留学先もオランダへ変更となった{{Sfn|加茂儀一|1988|pp=91,94}}。

同年6月18日、留学生一行は[[咸臨丸]]で品川沖から出発。途中、榎本・沢・赤松・内田が[[麻疹]]に感染したため[[下田]]で療養し、8月23日長崎に到着{{Sfn|加茂儀一|1988|p=95}}。9月11日、オランダ船カリップス号で長崎を出航、[[バタビア]]へ向かう。[[ジャワ島]]北方沖で暴風雨に遭い、船が座礁し無人島へ漂着するが、救出されてバタビアで客船テルナーテ号に乗り換える{{Sfn|加茂儀一|1988|pp=95-100}}。[[セントヘレナ島]]で[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の寓居跡などを訪ねた後、[[1863年]](文久3年)4月18日、オランダ・[[ロッテルダム]]に到着した{{Sfn|加茂儀一|1988|pp=118-120}}。オランダでは当時海軍大臣となっていたカッテンディーケやポンペの世話になった。榎本は[[ハーグ]]で下宿し、船舶運用術、[[砲術]]、[[蒸気機関]]学、化学、[[国際法]]を学んだ{{Sfn|加茂儀一|1988|pp=123-124}}。

[[1864年]]([[元治]]元年)2月から3月にかけ、赤松則良とともに[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]を[[観戦武官]]として見学した{{refnest|group="注"|同行のオランダ軍士官から洋服ではインド人と間違われる可能性があると指摘され、打裂(ぶっさき)羽織・裁付(たっつけ)袴に二刀差しの姿で観戦した<ref>{{Cite book |和書 |editor=[[赤松範一]]編 |year=1977 |title=赤松則良半生記 |publisher=平凡社 |series =東洋文庫 317|pages=177|ref=赤松則良半生記}}</ref>。}}。[[プロイセン王国|プロイセン]]・[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]軍の戦線を見学した後、[[デンマーク]]に渡り、同軍の戦線を見学した<ref>[[#赤松則良半生記|赤松則良半生記]], pp. 176-184</ref>。その後、[[エッセン]]の[[クルップ]]本社を訪れ、[[アルフレート・クルップ]]と面会した{{Sfn|臼井隆一郎|2005|p=71}}。また、[[フランス]]が幕府に軍艦建造・購入を提案したことを受け、内田と[[パリ]]へ赴き、フランス海軍と交渉した{{Sfn|加茂儀一|1988|p=125}}ほか、赤松と[[イギリス]]を旅行、造船所や機械工場、鉱山などを視察した<ref>[[#赤松則良半生記|赤松則良半生記]], p. 189</ref>。

[[1866年]]([[慶応]]2年)7月17日に開陽丸が竣工し、同年10月25日、榎本ら留学生は開陽丸とともにオランダ・[[フリシンゲン]]港を出発、[[リオデジャネイロ]]・[[アンボイナ]]を経由して、[[1867年]](慶応3年)3月26日、[[横浜港]]に帰着した{{Sfn|加茂儀一|1988|pp=128-131}}。


5月10日に幕府に召し出され<ref>{{Cite|和書|editor=[[小川恭一]]|title=寛政譜以降旗本家百科事典|date=1997|volume=第1|publisher=[[東洋書林]]|isbn=4-88721-303-4|ref=harv}}</ref>、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられる{{Sfn|合田一道|2014|p=60}}。7月8日に軍艦頭並<ref>{{Cite book|和書|editor=[[成島司直]]等編|year=1907|title=続徳川実紀 第5篇|publisher=経済雑誌社 |pages=1294|id={{NDLJP |1917904}}|ref=続徳川実紀 第5篇}}</ref>となり、[[布衣]]を許される{{Sfn|小川恭一|1997}}。9月19日に軍艦頭となり、和泉守{{refnest|group="注"|当時、榎本は[[神田和泉町]]に屋敷があったことから、和泉守としたといわれる{{Sfn|加茂儀一|1988|p=132}}。}}を名乗る{{Sfn|合田一道|2014|p=60}}。同年、オランダ留学生仲間の[[林研海]]の妹(奥医師・[[林洞海]]の長女)・たつと結婚した<ref>[[#近代日本の万能人・榎本武揚|近代日本の万能人・榎本武揚]], p. 320</ref>。
帰国後、[[幕府海軍]]軍艦頭並に任命される。


=== 戊辰戦争 ===
=== 戊辰戦争 ===
==== 阿波沖海戦・大坂撤退 ====
慶応3年([[1867年]])[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]、[[徳川慶喜]]が[[大政奉還]]を行うと、榎本の率いる幕府艦隊は[[神戸港|兵庫]]沖に結集し、同じく兵庫沖に停泊していた薩摩藩ら他藩海軍に圧力をかけていた{{Sfn|臼井隆一郎|2005|p=83}}。
{{see also|阿波沖海戦}}
翌慶応4年([[1868年]])[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]、[[鳥羽・伏見の戦い]]が起こり[[戊辰戦争]]が始まった。幕府艦隊は大阪湾に停泊、[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]には[[阿波沖海戦]]で薩摩藩海軍に勝利した。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、榎本は[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]午後、[[幕府陸軍]]と連絡を取るため[[大坂城]]へ入城した。この途中で榎本は[[プロイセン]]公使[[マックス・フォン・ブラント]]に会い、鳥羽・伏見の戦いで負傷した兵士達の治療を依頼している。しかし慶喜はその夜、大坂城を脱出し、[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]朝、榎本不在の旗艦「開陽丸」に座乗、[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]朝に江戸へ引き揚げた。置き去りにされた形になった榎本は後年、慶喜と同じ写真に写ることを忌避したといわれる{{Sfn|臼井隆一郎|2005|p=84}}。
1867年末には幕府艦隊を率いて[[大阪湾|大坂湾]]へ移動しており、[[京都]]での軍議にも参加していた{{sfn|加茂儀一|1988|pp=173-176}}。翌[[1868年]](慶応4年)1月2日、大坂湾から[[鹿児島]]へ向かっていた[[薩摩藩]]の平運丸を攻撃した。薩摩藩の抗議に対し榎本は、[[江戸薩摩藩邸の焼討事件|薩摩藩邸焼き討ち]]以来、薩摩藩とは戦争状態にあり港湾封鎖は問題ないと主張<ref>{{Cite|和書|editor=[[保谷徹]]|title=戊辰戦争|date=2007|publisher=吉川弘文社|series=戦争の日本史 18|isbn=978-4-642-06328-9|pages=75-76}}</ref>。更に1月4日には、兵庫港から出港した薩摩藩の[[春日丸]]ほかを追撃、[[阿波沖海戦]]で勝利した{{sfn|保谷徹|2007|pp=76-77}}。[[鳥羽・伏見の戦い]]での旧幕府軍敗北を受けて、榎本は軍艦奉行・[[矢田堀鴻|矢田堀景蔵]]ともに[[幕府陸軍]]と連絡を取った後、1月7日に[[大坂城]]へ入城した<ref>{{Cite|和書|author=石井勉|title=徳川艦隊北走記|date=1977|publisher=學藝書林|pages=17|ref=harv}}</ref>{{refnest|group="注"|榎本は大坂城への登城途中に、負傷兵を保護していた[[プロイセン]]公使[[マックス・フォン・ブラント]]から、負傷兵の面倒を見ることを要請されている<ref>{{Cite|和書|author=マックス・フォン・ブラント|translator=[[原潔]]、[[永岡敦]]|title=ドイツ公使の見た明治維新 |date=1987|publisher=新人物往来社|isbn=4-404-01409-0|pages=131-132}}</ref>。}}。しかし[[徳川慶喜]]は既に6日夜に大坂城を脱出しており、7日朝、榎本不在の開陽丸に座乗した後、8日夜に江戸へ引き揚げていた<ref>{{Cite|和書|editor=[[菊池明]]・[[伊東成郎]]|title=戊辰戦争全史|volume=上|date=1998|publisher=新人物往来社|isbn=4-404-02572-6 |pages=42}}</ref>。


榎本は大坂城に残された什器や刀剣などを運び出し、城内にあった18万両{{refnest|group="注"|うち3万両は榎本に下賜され、オランダに残った留学生([[伊東玄伯]]、林研海、赤松則良)の滞在費に充てられた{{sfn|加茂儀一|1988|p=194}}。}}を[[富士山 (スループ)|富士山丸]]に積み、[[新撰組]]や旧幕府軍の負傷兵らとともに、12日に大阪湾を出発、15日、江戸に到着した{{sfn|加茂儀一|1988|p=195}}。1月23日、海軍副総裁に任ぜられる<ref>[[#続徳川実紀 第5篇|続徳川実紀 第5篇]], p. 1621</ref>。榎本は徹底抗戦を主張したが、恭順姿勢の慶喜は採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従い、榎本派が旧幕府艦隊を支配した{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=22}}。
後に残された榎本は[[矢田堀鴻|矢田堀景蔵]]と共に、大坂城で後始末をして、榎本は大坂城内にあった18万両という大金を富士丸に積み、残された旧幕府軍側の兵士達と共に[[江戸]]品川沖へ撤退した。江戸へ撤退後、徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられ、和泉守を名乗る。これにより実質的に幕府海軍のトップとなった。このとき総裁であった矢田堀は、新政府側への恭順を示していた慶喜の意向を受けて軽挙を慎んだが、結局新政府への徹底抗戦を主張する榎本派が幕府海軍を抑えた。榎本は[[小栗忠順]]などと共に主戦論を主張したが、慶喜の容れるところとならなかった。


==== 旧幕府艦隊の脱走 ====
同年4月11日、新政府軍は[[江戸開城|江戸城を無血開城]]すると、幕府海軍艦隊を引渡すことを要求するが、榎本は拒否し、悪天候を理由に7隻を連れて品川沖から[[安房国]][[館山]]に退去する。[[勝海舟]]の説得により4隻([[富士山 (スループ)|富士山]]・[[朝陽丸]]・[[翔鶴丸]]・[[観光丸]])だけを新政府軍に引渡したが、開陽丸等の主力艦の温存に成功した。5月、徳川家は駿河・遠江70万石に減封になり、艦隊は徳川家臣団の駿府移封の作業に従事する。徳川家が約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた榎本は、[[蝦夷地]]に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策し、朝廷に対して「蝦夷地殖民認可の嘆願書」を提出した。
[[画像:EnomotoFleet.jpg|thumb|200px|品川沖の旧幕府艦隊]]
[[画像:Republic of Ezo members.jpg|thumb|200px|後列左から[[小杉雅之進]]、[[榎本道章]]、[[林董|林董三郎]]、[[松岡磐吉]]、前列左から[[荒井郁之助]]、榎本武揚]]
同年4月11日、新政府軍は[[江戸開城]]に伴い降伏条件の一つ{{refnest|group="注"|「軍艦・銃砲を引渡し、追ってふさわしく(相当)差し返すこと」と定められていた{{sfn|保谷徹|2007|p=162}}。}}である旧幕府艦隊の引渡を要求するが、榎本は拒否し、[[人見勝太郎]]や[[伊庭八郎]]が率いる[[遊撃隊 (幕府軍)|遊撃隊]]を乗せ、悪天候を口実に艦隊8隻で品川沖から[[安房国]][[館山]]に脱走した<ref>[[#続徳川実紀 第5篇|続徳川実紀 第5篇]], pp. 1749-1750</ref>。[[勝海舟]]の説得により4月17日に品川沖へ戻り<ref>[[#続徳川実紀 第5篇|続徳川実紀 第5篇]], pp. 1752-1753</ref>、4隻(富士山丸・[[朝陽丸]]・[[翔鶴丸]]・[[観光丸]])を新政府軍に引渡したが、開陽等の主力艦の温存に成功した{{sfn|加茂儀一|1988|pp=218-219}}{{refnest|group="注"|新政府は榎本の脱走を忠義によるものと賞して、開陽ほかを榎本に預けたままとした{{sfn|加茂儀一|1988|pp=218-219}}。}}。榎本はなおも抵抗姿勢を示し、閏4月23日には勝に艦隊の箱館行きを相談するが反対される{{sfn|加茂儀一|1988|p=231}}。5月24日に[[徳川将軍家|徳川宗家]]の駿河・遠江70万石への減封が決定<ref name="hakodate_shishi227">{{Cite web|url=http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-01/shishi_04-01-02-01-03.htm|title=函館市史通説編第2巻|pages=227-229|publisher=[[函館市中央図書館]]|accessdate=2015-08-14}}</ref>。榎本は移封完了を見届けるとしつつも、配下の軍艦で、遊撃隊や[[請西藩]]主・[[林忠崇]]に協力して[[館山藩]]の陣屋を砲撃した上、[[小田原]]方面へ向かう彼らを館山から[[真鶴町|真鶴]]へ輸送したほか、[[北白川宮能久親王|輪王寺宮]]や脱走兵を東北地方へ運ぶなど旧幕府側勢力を支援した{{sfn|加茂儀一|1988|pp=232-233}}。7月には[[奥羽越列藩同盟]]の密使(仙台藩・[[横尾東作]]、[[会津藩]]・[[雑賀孫六郎]]、[[米沢藩]]・[[佐藤市之允]])と会い、7月21日、列藩同盟の参謀を務めていた[[板倉勝静]]・[[小笠原長行]]宛に支援に向かう旨の書状を出した<ref>{{Cite book|和書|author=[[武内収太]]|title=箱館戦争|date=1983|publisher=五稜郭タワー|pages=68|ref=harv}}</ref>。


8月に入ると密かに脱走準備を進め{{sfn|加茂儀一|1988|p=239}}、8月4日、勝に軽挙妄動を慎むよう申しわたされる{{sfn|加茂儀一|1988|p=236}}が、8月15日に[[徳川家達]]が[[駿府]]に移り移封が完了する<ref name="hakodate_shishi227" />と、榎本は8月19日、抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、[[回天丸]]、[[蟠竜丸]]、[[千代田形]]、[[神速丸]]、[[美賀保丸]]、[[咸臨丸]]、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、奥羽越列藩同盟の支援に向かった<ref name="hakodate_shishi229">{{Cite web|url=http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-01/shishi_04-01-02-02-01.htm|title=函館市史通説編第2巻|pages=229-231|publisher=函館市中央図書館|accessdate=2015-08-14}}</ref>。この艦隊には、元[[若年寄]]・[[永井尚志]]、陸軍奉行並・[[松平太郎]]、[[彰義隊]]や遊撃隊の生き残り、そして、[[フランス軍事顧問団 (1867-1868)|フランス軍事顧問団]]の一員だった[[ジュール・ブリュネ]]と[[アンドレ・カズヌーヴ]]など、総勢2,000余名が乗船していた<ref name="hakodate_shishi229" />。江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告文」という趣意書を勝海舟に託している{{sfn|加茂儀一|1988|pp=246-252}}。
[[画像:EnomotoFleet.jpg|thumb|200px|品川沖を脱走する旧幕府艦隊<br/>左から美賀保丸、長鯨丸、咸臨丸、開陽丸、回天丸]]
{{Quotation|檄文<br>王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は然らず。王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名を以てす。其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は頓に官有と為し、遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。又甚しからずや。これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して情実通ぜず。故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんとす。それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行せしめん事、唯此一挙に在り。<br>之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心に志ある者は、此言を聞け。{{sfn|加茂儀一|1988|p=246}}}}
しかし、蝦夷地殖民は拒否され、徳川家臣団の駿府移封が完了すると、再び幕府艦隊の引渡しを要求されたため、榎本は[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]、抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、[[回天丸]]、[[蟠竜丸]]、[[千代田形]]、[[神速丸]]、[[美賀保丸]]、[[咸臨丸]]、[[長鯨丸]]の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、東征軍に抵抗する[[奥羽越列藩同盟]]の支援に向かった。この榎本艦隊には、若年寄・[[永井尚志]]、陸軍奉行並・[[松平太郎]]などの重役の他、[[大塚霍之丞]]や[[丸毛利恒]]など[[彰義隊]]の生き残りと[[人見勝太郎]]や[[伊庭八郎]]などの[[遊撃隊]]、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だった[[ジュール・ブリュネ]]と[[アンドレ・カズヌーヴ]]らフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。江戸脱出にあたって榎本は「徳川家臣大挙告文」という趣意書を発表している。


房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、咸臨丸・美賀保丸の2隻を失うが、8月下旬頃から順次仙台に到着した<ref name="hakodate_shishi229" />。9月2日、榎本、ブリュネ、カズヌーブは[[仙台城]]で[[伊達慶邦]]に謁見する<ref>{{Cite book|和書|author=[[藤田相之助]]|title=仙台戊辰史|date=1911|publisher=荒井活版製造所|pages=742 |id={{NDLJP |773429}}|ref=harv}}</ref>。翌日以降、[[仙台藩]]の軍議に参加する{{sfn|藤田相之助|1911|pp=743-745}}が、その頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、9月12日に仙台藩も降伏を決定した{{sfn|藤田相之助|1911|pp=757-762}}。これを知った榎本と[[土方歳三]]は登城し、執政・[[大條孫三郎]]と[[遠藤允信|遠藤文七郎]]に面会し、翻意させようとするが果たせず、出港準備を始めた{{sfn|藤田相之助|1911|pp=775-779}}。旧幕府艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、[[鳳凰丸]]を艦隊に加え、桑名藩主・[[松平定敬]]、大鳥圭介、土方歳三らと旧幕臣の[[伝習隊]]、[[衝鋒隊]]、仙台藩を脱藩した[[額兵隊]]など、計約3,000名を収容。新政府軍の仙台入城を受けて、10月9日に仙台を出航し石巻へ移動した。このとき、新政府軍・[[平潟]]口総督[[四条隆謌]]宛てに旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出している{{sfn|武内収太|1983|p=79}}。10月11日には横浜在住のアメリカ人で[[ハワイ王国]]総領事であった[[ユージン・ヴァン・リード]]から、ハワイへの亡命を勧められるが断っている{{sfn|松田藤四郎|2012|pp=117-118}}。
出港翌日から暴風に見舞われ艦隊は離散、清水沖に流された咸臨丸は新政府軍に発見され猛攻を受け拿捕された。結局、咸臨丸・美賀保丸の2隻を失いながらも9月中頃までに仙台[[東名浜]]沖に集結した。直ちに艦の修繕と補給が行われるとともに、榎本は[[庄内藩]]支援のために千代田形と陸兵約100名を乗せた運送船2隻([[長崎丸]]・[[太江丸]])を派遣した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、米沢藩、仙台藩、会津藩と主だった藩が相次いで降伏。庄内藩も援軍が到着する前に降伏し、これにより東北戦線は終結した。


その後、幕府が仙台藩に貸与したが無頼の徒に奪われ海賊行為を行っていた[[千秋丸]]を[[気仙沼]]で拿捕し、[[宮古湾]]で補給の後、蝦夷地へ向かった{{sfn|石井勉|1977|pages=106}}。
[[画像:Republic of Ezo members.jpg|thumb|後列左から小杉雅之進、榎本対馬、[[林董|林董三郎]]、松岡磐吉、前列左から荒井郁之助、榎本武揚]]


==== 箱館戦争 ====
榎本は、幕府が仙台藩に貸与していた運送船・太江丸、[[鳳凰丸]]と、桑名藩主・[[松平定敬]]、歩兵奉行・大鳥圭介、旧新選組副長・[[土方歳三]]らと旧幕臣からなる[[伝習隊]]、[[衝鋒隊]]、仙台藩を脱藩した[[額兵隊]]などの兵、約2,500名を吸収して、[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]に仙台を出航。途中、幕府が仙台藩に貸与して海賊に奪われていた[[千秋丸]]を拿捕し、さらに[[宮古湾]]に寄港して旧幕臣の保護を旨とする嘆願書を新政府に提出して、蝦夷地を目指した。[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]、蝦夷地[[函館市|箱館]]北方の[[鷲ノ木]]に上陸。[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]に箱館の[[五稜郭]]を占領し、[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]、榎本は五稜郭に入城した。12月、[[北海道|蝦夷全島]]平定が宣言され、「[[蝦夷共和国]]」を樹立する。12月15日、入札([[選挙]])の実施により総裁となった。しかし、蝦夷地の江差攻略作戦に「開陽丸」を投入したところ、座礁事故により喪失する打撃を被った。
{{see also|箱館戦争|蝦夷共和国}}
[[File:Land And Naval Battle of Hakodate.JPG|thumb|300px|「箱館大戦争之図」[[歌川芳虎|永嶌孟斎]]画。一番左の白馬に乗り槍を持った人物が榎本。]]
[[File:Hakodate_Goryokaku_Panorama_1.JPG|thumb|250px|五稜郭]]
蝦夷地に着いた旧幕府軍は、10月20日に箱館の北、[[内浦湾]]に面する鷲ノ木(現在の[[森町 (北海道)|森町]])に上陸した<ref>{{Cite web|url=http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-01/shishi_04-01-02-02-03.htm |title=函館市史通説編第2巻|pages=233-236|publisher=函館市中央図書館|accessdate=2015-07-25 }}</ref>。二手に分かれて箱館へ進撃、各地で新政府軍を撃破し、10月26日に[[五稜郭]]を占領、榎本は11月1日に五稜郭に入城した{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=33}}。その後、[[松前藩]]を攻撃するが、開陽丸を[[江差]]攻略に投入した際、座礁により喪失する<ref>{{Cite web|url=http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-01/shishi_04-01-02-02-05.htm|title=函館市史通説編第2巻|pages=237-238|publisher=函館市中央図書館|accessdate=2015-07-25}}</ref>。12月15日、蝦夷地平定を宣言し、士官以上の[[選挙]]により総裁となった<ref>{{Cite web|url= http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-01/shishi_04-01-02-03-02.htm|title=函館市史通説編第2巻|pages=241-243|publisher=函館市中央図書館|accessdate=2015-07-25}}</ref>。


この間、イギリスとフランスは状況把握と自国民保護のため軍艦を箱館に派遣、榎本は11月8日に両国の艦長および在箱館領事と会談した<ref name="hakodate_shishi238">{{Cite web|url=http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-01/shishi_04-01-02-03-01.htm|title=函館市史通説編第2巻|pages=238-241|publisher=函館市中央図書館|accessdate=2015-07-25}}</ref>。イギリス公使[[ハリー・パークス]]とフランス公使[[ウトレー]](Maxime Outrey)は、旧幕府軍を「[[交戦団体]]」として認めず、日本の内戦には「中立」ではなく「不干渉」とするという訓示を出していた。しかし艦長らは口頭で英仏両国の意思を伝えたものの、榎本らから文書にして欲しいと求められ、翌日、「厳正中立を遵守する、旧幕府軍については英仏国民の生命・財産・貿易保護のためにのみ限定して『'''事実上の政権(''Authorities de facto'')'''』として承認する」という、先の訓示とは異なる内容の覚書を手渡した<ref>{{Cite |和書 |author=[[石井孝]]|title=戊辰戦争論|date=1969|publisher=吉川弘文館|isbn=4-642-07196-2|pages=285-291|ref=harv}}</ref>。それを知ったパークスらは、この覚書を否認する文書を作成し11月30日に旧幕府軍へ渡したが、榎本らは事実上の政権として認められたと「喧伝」した{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=40}}。
翌明治2年([[1869年]])2月、折りしも局外中立を宣言し新政府・旧幕いずれにも加担せずとの姿勢をとっていた米国は、新政府の巧みな切り崩しにより新政府支持を表明。幕府が買い付けたものの局外中立により引渡未了だった当時最新鋭の[[装甲艦]]「[[東艦|ストーン・ウォール]]」(以下、甲鉄艦)は新政府の手中に収まった。当時最新最強と謳われた「開陽丸」でさえ木造艦で、砲数やトン数では勝るものの防御力の劣勢は否めず、ましてその「開陽丸」もすでに喪失していたため、海上の戦力バランスは一挙に新政府有利に傾いた。これを大いに憂慮した榎本は甲鉄艦を[[移乗攻撃]](アボルダージュ)で奪取する奇策を実行に移す。奇襲を実現するため、至近距離まで第三国の国旗を掲げて接近し至近距離で自国の旗に切り替える騙し打ちを計画したが、これは当時の[[戦時国際法]]で許される奇計だった。榎本はこの作戦を「回天丸」「幡竜丸」「[[第二回天]]」の3艦を以て当たらしめ、その長として「回天丸」艦長の[[甲賀源吾]]を任じた。同艦には土方歳三も座乗した。しかしまたもや暴風に見舞われ、「幡竜丸」は離脱、「第二回天」も機関が故障し、やむを得ず「回天丸」1艦のみでの突入となった。接舷には成功したものの我彼の舷高に大いに開きがあり、突入を躊躇した幕府海軍は[[ガトリング砲]]の砲火を浴び、占拠に失敗、甲賀艦長も戦死するという大打撃を受け敗走した([[宮古湾海戦]])。「開陽丸」を失い、新政府軍が甲鉄艦を手中に収めるにいたり、最大最強を誇った旧幕府海軍の劣勢は決定的となり、事実上制海権を失った。


また、榎本は12月1日に新政府宛の嘆願書を英仏の艦長に託すが、12月14日、新政府に拒絶される<ref>{{Cite|和書|editor=菊池明・伊東成郎|title=戊辰戦争全史|volume=下|date=1998|publisher=新人物往来社|isbn=4-404-02573-4|pages=237-239|ref=戊辰戦争全史・下}}</ref>。
同年5月17日、戦費の枯渇、相次ぐ自軍兵士の逃亡、新政府軍工作員による弁天台場の火砲破壊、[[箱館湾海戦]]による全艦喪失と、蝦夷方の劣勢は決定的となり、榎本は降伏した。降伏を決意した榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた[[ジョセフ・ルイス・エルザー・オルトラン|オルトラン]]著『万国海律全書』(自らが書写し数多くの脚注等を挿入)を戦災から回避しようと蝦夷征討軍海陸軍総参謀・[[黒田清隆|黒田了介]]に送った。黒田は榎本の非凡な才に感服し、皇国無二の才として断然助命しようと各方面に説諭、その熱心な助命嘆願活動により一命をとりとめ、東京丸の内辰の口の牢に投獄された。また、榎本には批判的だった[[福澤諭吉]]も助命に尽力したひとりでもある。福澤は黒田から前記『海律全書』の翻訳を依頼されたが、一瞥した福澤は、その任に当たるについては榎本の他にその資格なしとして辞退したと伝えられている。


12月18日、局外中立を宣言していたアメリカが政府支持を表明。幕府が買い付けたものの戊辰戦争の勃発に伴い引渡未了だった[[装甲艦]]・[[東艦|甲鉄]]が、翌[[1869年]](明治2年)1月、新政府に引き渡された<ref>[[#戊辰戦争全史・下|戊辰戦争全史・下]], p. 247</ref>。旧幕府軍は状況を打破すべく、3月25日早朝、宮古湾に停泊中の甲鉄を奇襲し、[[移乗攻撃]](アボルダージュ)で奪取する作戦を実行するが失敗に終わる([[宮古湾海戦]])<ref>{{Cite web|url= http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-01/shishi_04-01-02-04-02.htm|title=函館市史通説編第2巻|pages=250-251|publisher=函館市中央図書館|accessdate=2015-07-25}}</ref>。
{{See also|箱館戦争}}


4月9日、新政府軍は蝦夷地・[[乙部町|乙部]]に上陸し、旧幕府軍は5月初めには箱館周辺に追い詰められた。5月8日早朝、榎本自ら全軍を率いて大川(現在の[[七飯町]])の新政府軍本陣を攻撃するが撃退される<ref>[[#戊辰戦争全史・下|戊辰戦争全史・下]], p. 285</ref>。
=== 明治時代 ===
新政府軍は5月11日の総攻撃で箱館市街を制圧した後、箱館病院長・[[高松凌雲]]の仲介で五稜郭の旧幕府軍に降伏勧告の使者を送る{{sfn|加茂儀一|1988|p=302}}が、5月14日、榎本らは拒否。榎本は拒否の回答状とともに、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた『[[#海律全書|'''海律全書''']]』が戦火で失われるのを避けるため新政府軍海軍参謀に贈った{{refnest|group="注"|回答状の追伸にある『海律全書』の贈答に関する部分は以下の通り。「別本二冊、釜次郎和蘭留学中、苦学致候海律、皇国無二の書に候へば、兵火に付し、烏有と相成候段痛惜致候間、「ドクトル(注:高松凌雲のこと)」より海軍「アドミラル」へ御贈可被下候」{{sfn|加茂儀一|1988|p=304}}。なお、陸海軍参謀の[[山田顕義]]や海軍参謀の[[増田虎之助]]ではなく、交渉相手であった陸軍参謀・黒田清隆が本を受け取った。}}<ref>[[#戊辰戦争全史・下|戊辰戦争全史・下]], p. 298</ref>。これに対して新政府軍は海軍参謀名で感謝の意といずれ翻訳して世に出すという内容の書状{{sfn|加茂儀一|1988|p=315}}と酒と肴を送っている<ref>[[#戊辰戦争全史・下|戊辰戦争全史・下]], p. 303</ref>。
明治5年([[1872年]])1月6日、榎本は特赦出獄、その才能を買われて新政府に登用された。同年3月8日、黒田清隆(了介)が次官を務める[[開拓使]]に四等出仕として仕官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。


5月15日に[[弁天台場]]が降伏し、16日に[[千代ヶ岱陣屋]]が陥落すると、同日夜、榎本は責任を取り自刃しようとするが、近習の[[大塚霍之丞]]に制止された<ref>[[#戊辰戦争全史・下|戊辰戦争全史・下]], p. 304</ref>。17日、榎本ら旧幕府軍幹部は[[亀田八幡宮]]近くの民家で[[黒田清隆]]らと会見し降伏約定を取り決め、18日朝、亀田の屯所に出頭し降伏した<ref>[[#戊辰戦争全史・下|戊辰戦争全史・下]], p. 305</ref>。
[[澤宣嘉]]の急死により、明治7年([[1874年]])1月、駐[[ロシア帝国|露]][[特命全権公使]]となり、同年6月、[[サンクトペテルブルク]]に着任。翌明治8年([[1875年]])8月、[[樺太・千島交換条約]]を締結した。[[マリア・ルス号事件]]で[[ペルー]]政府が国際法廷に対し日本を提訴した件で、ロシア皇帝[[アレクサンドル2世]]が調停に乗り出したことから、同年6月、サンクトペテルブルクでの裁判に臨んで勝訴を得た。駐露公使就任にあたって、榎本は[[海軍中将]]に任官{{refnest|group="注"|[[1905年]]10月19日に[[退役]]<ref>『官報』第6694号、明治38年10月20日。</ref>。}}されたが、これは当時の外交慣例で[[武官]]公使の方が交渉上有利と判断されたためで、[[伊藤博文]]らの建言で実現したものである。旧幕時代の経歴と直接の関係はない。駐露大使時代はサンクトペテルブルク地学協会に加盟していた。明治11年([[1878年]])、[[シベリア]]経由で帰国。榎本はシベリアに対し無限の興味を持って非常に精細な科学的な視察を行い、「西伯利亜日記」を記す。


=== 投獄 ===
帰国後は[[外務省]]二等出仕、外務大輔、[[議定官]]、海軍卿、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務副総裁、駐[[清]]特命全権公使、[[条約改正]]取調御用掛等を歴任した。明治18年([[1885年]])の[[内閣]]制度の成立後は能力を買われ6つの内閣で[[逓信省|逓信大臣]]、[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、[[農商務省 (日本)|農商務大臣]]を歴任した(文相・外相の前後に[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]就任)。<!--閣僚交代が頻繁であった当時、--><!--頻繁になるのは戦後-->特に[[日清戦争]]只中の戦時内閣時の農相在任は3年余に及び、歴代農相の中で最長を記録していることからも薩長[[藩閥]]にあってその緩衝として重用された榎本の才が窺い知れる。
[[File:Kuroda Kiyotaka Teihatu.jpg|thumb|right|180px|榎本武揚助命のため剃髪した黒田清隆(左)]]
榎本ら旧幕府軍幹部は、[[熊本藩]]兵の護衛の下、5月21日に箱館を出発し、東京へ護送された{{sfn|加茂儀一|1988|p=319}}。6月30日に到着し、辰ノ口(現在の[[千代田区]][[丸の内]]1丁目)にあった[[兵部省]][[軍務局]]糾問所の牢獄{{refnest|group="注"|糾問所の建物は幕府の大手前歩兵屯所として使用されていたものであり、牢獄は大鳥圭介が歩兵頭のときに歩兵取締のため建てられた<ref>大鳥圭介「南柯紀行」。{{Cite book|和書|author=大鳥圭介|coauthors=今井伸郎 |year=1998|title=南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記|publisher=新人物往来社|pages=100-101|isbn= 4-404-02627-7}}</ref>。}}に収監{{sfn|加茂儀一|1988|pp=320,322}}。榎本らは一般の罪人と同じ牢獄に一人ずつ入れられ、それぞれ牢名主となった{{sfn|加茂儀一|1988|p=323}}。


政府内では榎本らの処置に関して対立があり、[[木戸孝允]]ら長州閥が厳罰を求めた一方、榎本の才能を評価していた黒田清隆らが助命を主張{{sfn|井黒弥太郎|1968|pp=109-125}}{{refnest|group="注"|黒田は箱館総攻撃直前の時点で既に、知人宛の手紙で「榎本は得難き非常の人物で驚かない者はなく、彼と生死を共にすべしと一同が奮発している」と記し、増田虎之助、[[曽我祐準]]とともに敵が降伏してきたら助命しようと約していた<ref>{{Cite|和書 |author=井黒弥太郎|title=黒田清隆|date=1977|publisher=吉川弘文館|pages=33-34|isbn=4-642-05099-x|series=人物叢書|ref=harv}}</ref>。}}。糾問正・[[黒川通軌]]らによりフランス軍人の参加と[[ガルトネル開墾条約事件]]に関する尋問が行われた{{sfn|井黒弥太郎|1968|pp=110-112}}以外、何も動きがないまま拘禁が続いた。
農商務大臣時代には、懸案の[[足尾鉱毒事件]]について初めて予防工事命令を出し、私的ながら大臣自ら初めて現地視察を行った。また、企業と地元民の間の私的な事件とみなしてきたそれまでの政府の見解を覆し、国が対応すべき公害であるとの立場を明確にして帰京後、[[大隈重信]]らにその重要性を説諭、鉱毒調査委員会を設置し、後の抜本的な対策に向けて先鞭をつけ、自身は「知らずにいたことに責任をとって<ref>[[三宅雪嶺]]『同時代史』</ref>」引責辞任した。


後年榎本を批判する[[福澤諭吉]]も助命活動を行っている。榎本の母と福澤の妻は遠縁ながら本人同士はさほど面識がなかったが、榎本の妹婿であり福澤の元上司であった元[[外国奉行]]・[[江連堯則]]から榎本の状況把握を依頼された福澤は糾問所に掛け合っている。そして、静岡にいた榎本の母と姉を江戸に呼び寄せ、榎本の母のために面会請願文を代筆した<ref name="fukuzawa">{{Cite|和書|author=福沢諭吉|title=新訂 福翁自伝|date=1978|editor=富田正文・校訂|pages=241-243|publisher=岩波書店|isbn=4-00-331022-5|series=岩波文庫102-2}}</ref>。なお福澤から化学の本を借りているが、日本一の化学者だと自負していた榎本は家族への手紙に、福澤の本は幼稚なもので、大勢の弟子を抱える福澤も大したことが無いと書き残している{{sfn|加茂儀一|1988|pp=356-359}}。
明治23年([[1890年]])には[[子爵]]に叙される。また[[大日本帝国憲法]]発布式では儀典掛長を務めた。


獄中では、洋書などの差し入れを受け読書に勤しみ、執筆や牢内の少年に漢学や洋学を教えたりしていた{{sfn|加茂儀一|1988|pp=329-333}}。また、兄の家計を助けるため、[[孵卵器]]や[[石鹸]]、[[蝋燭]]など様々な物の製造法を手紙で詳細に教えている{{sfn|加茂儀一|1988|pp=335-336}}。
その一方で、旧幕臣子弟への英才教育を目的に、様々な援助活動を展開した。北海道開拓に関与した経験から、[[農業]]の重要性を痛感、明治24年(1891年)に徳川育英会育英黌農業科(現在の[[東京農業大学]])を創設し自ら黌長となった。また、明治12年([[1879年]])、[[渡辺洪基]]らと共に「[[東京地学協会]]」を設立し、副会長に就任した。明治21年(1888年)から同41年(1908年)まで[[電気学会]]初代会長を務めている。


=== 開拓使 ===
黒田清隆が死去したときには並み居る薩摩出身の高官をさしおいて葬儀委員長を務めている。これは明治32年(1899年)4月、黒田の娘と榎本の長男が結婚し、両者が縁戚となった為でもあるが、一説には黒田が晩年、薩閥の中にあって疎外されていて引き受ける者がいなかったためともいわれる。
[[1872年]](明治5年)1月6日、特赦により出獄、親類宅で謹慎する{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=139}}。3月6日に放免となり、同月8日、黒田が次官を務めていた[[開拓使]]に四等出仕として任官、北海道鉱山検査巡回を命じられた{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=140,144}}{{refnest|group="注"|このとき榎本は薩長が支配する政府に仕えることに難色を示したが、大鳥圭介らが薩長ではなく朝廷に仕えるのだといって榎本に仕官を促した<ref>{{Cite book|和書|year=1983|title=明治ニュース事典|volume=8|publisher= 毎日コミュニケーションズ|page=54|isbn=4-89563-105-2|ref=明治ニュース事典 8}}</ref>。}}。


5月末、[[北垣国道]]らとともに海路北海道に向かう{{sfn|加茂儀一|1988|pp=384-388}}。翌月から函館周辺を手始めに日高、十勝、釧路方面の資源調査を行い帰京。石炭隗を開拓使に持ち込んだ札幌在住の[[早川長十郎]]の情報を元に[[石狩炭田]]に関心を示す{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=194}}。
明治41年(1908年)に死去、享年73。墓所は東京都[[文京区]]の[[吉祥寺 (文京区)|吉祥寺]]。


[[1873年]](明治6年)1月、中判官に昇進{{sfn|加茂儀一|1988|p=400}}。同年1月から3月にかけ、東京の[[札幌農学校|開拓使仮学校]]で黒田・榎本・ケプロンは地質調査方針策定のために三者会談を行う{{sfn|井黒弥太郎|1968|pp=199-207}}。榎本は調査を進めるため、黒田がアメリカから招聘した[[ホーレス・ケプロン]]とともに来道したものの、ケプロンに更迭されていた[[トーマス・アンチセル]]を再登用しようとしたが、[[ベンジャミン・スミス・ライマン]]に地質調査を行わせていたケプロンに反対される{{Sfn|合田一道|2014|p=170-172}}。同年夏、榎本は再度北海道に行き、熊石(現在の[[八雲町]])の石炭山を調査した後、[[石狩山地]]に入り[[空知炭田]]を発見、良質な炭層であると分析結果を出した{{sfn|加茂儀一|1988|pp=402-416}}。しかしケプロンは、榎本の調査結果を認めず、「未熟の輩」と誹謗した{{Sfn|合田一道|2014|p=179-180}}。
== 経歴 ==

=== 年譜 ===
[[北海道土地売貸規則]]が制定されると、1873年、早川長十郎に案内された[[石狩川]]沿いの対雁(ついしかり。現在の[[江別市]])の土地10万坪、それと小樽(現在の[[小樽駅]]周辺)の土地20万坪を北垣国道とともに払い下げを受けた。対雁には「榎本農場」を開き{{refnest|group="注"|開墾の際、樹木に火薬を付けて爆破する「爆破開墾」を行っている。なお、榎本農場は[[1918年]](大正7年)、長男・[[榎本武憲]]により小作人に解放された{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=240}}。}}、小樽は「北辰社」{{refnest|group="注"|北辰社は土地管理のほか、東京・飯田橋から九段にかけての土地で牧場を経営していた<ref>[[#近代日本の万能人・榎本武揚|近代日本の万能人・榎本武揚]] p.150</ref>。}}を設立し土地を管理した{{Sfn|合田一道|2014|p=181-183}}。
*[[天保]]7年([[1836年]])[[8月25日]] - 江戸で誕生。幼名・釜次郎。

*[[安政]]元年([[1854年]]) - [[堀利煕]]とともに[[蝦夷地]]、[[北蝦夷地]]へ向かう。
=== 駐露特命全権公使 ===
*[[安政]]3年([[1856年]]) - [[長崎海軍伝習所]]に入学。
{{see also|樺太・千島交換条約}}
*安政5年([[1858年]]) - [[築地軍艦操練所]]の教授に就任。
[[ロシア帝国]]との樺太の国境画定交渉と、[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世]]が[[仲裁]]することとなった[[マリア・ルス号事件]]に対処するため、駐露[[特命全権公使]]に決まった[[澤宣嘉]]が[[1873年]]10月に病死<ref>{{Cite book|和書 |author = [[秋月俊幸]] |year = 1994 |title = 日露関係とサハリン島 |publisher = 筑摩書房 |isbn = 4-480-85668-4 |pages = 230|ref=harv}}</ref>。榎本が代役として[[1874年]](明治7年)1月10日の閣議で領土交渉使節に決定し、18日、駐露特命全権公使に任命された。併せて1月14日、日本最初の[[海軍中将]]に任命された{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=266-267}}{{refnest|group="注"|当時の外交慣例で[[武官]]公使の方が交渉上有利と判断されたためで、[[伊藤博文]]の建言によるものといわれる{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=266-267}}。}}。同年3月10日に横浜を出発、パリ・オランダ・ベルリンを経て、6月[[サンクトペテルブルク]]に着任{{sfn|加茂儀一|1988|pp=444-445}}。6月18日、アレクサンドル2世に謁見し、20日には[[クロンシュタット]]軍港を視察した{{sfn|加茂儀一|1988|p=445}}。領土交渉については、交際の広いポンペを日本公使館付属医師の名目で顧問に招きロシアの内部情報を探り{{sfn|井黒弥太郎|1968|pp=280-281}}{{sfn|秋月俊幸|1994|p=235}}、ロシア外務省アジア局長[[ストレモウホフ]]との交渉の末、[[1875年]](明治8年)5月7日、外務大臣[[アレクサンドル・ゴルチャコフ]]と[[樺太・千島交換条約]]を締結した{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=288}}。また、マリア・ルス号事件は同年6月13日、アレクサンドル2世の裁定が下り、日本が勝訴した{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=289}}。
*文久2年([[1862年]])[[9月11日]] - オランダに向けて[[長崎港|長崎]]出港。

*文久3年([[1863年]])[[6月4日]](西暦) - オランダ到着。デン・ハーグで勉学に励む。
その後、同年8月から9月にかけて西欧を視察。ドイツでクルップの工場と鉱山を見学した後、パリ、ロンドンを訪問した{{sfn|加茂儀一|1988|pp=473-474}}。またロシア滞在中、幕末の遣日使節であった[[エフィム・プチャーチン]]らと親睦を深めた{{Sfn|合田一道|2014|p=199-200}}。
*[[元治]]元年([[1864年]])2月 - [[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]を観戦。[[ドイツ]][[エッセン]]の[[クルップ]]本社を訪問。

*慶応2年([[1866年]])[[10月25日]] - 軍艦「開陽」に乗り、帰国に向け、オランダ・フレッシング港を出港。
==== シベリア横断 ====
*慶応3年([[1867年]])[[3月26日]] - 「開陽」、[[横浜港|横浜]]着。
[[1878年]](明治11年)7月26日、サンクトペテルブルクを出発し帰国の途に向かう{{sfn|加茂儀一|1988|p=501}}。榎本は当時日本に広まっていた「恐露病」を克服するため、ロシアの実情を知ることを目的に[[シベリア]]を横断した{{sfn|加茂儀一|1988|pp=498-500}}。[[モスクワ]]を経て[[ニジニ・ノヴゴロド]]まで鉄道で行った後、船と馬車を乗り継ぎ、9月29日に[[ウラジオストック]]に到着{{sfn|加茂儀一|1988|pp=502-504}}。そこで黒田清隆が手配していた汽船・函館丸に乗船し、10月4日小樽に帰着。札幌滞在の後、10月21日に帰京した{{sfn|加茂儀一|1988|pp=504-505}}。このとき、[[山内堤雲]]とともに小樽の手宮洞窟にある[[北海道異体文字|古代文字]]を調査し報告している{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=378-379}}。
*慶応4年/明治元年([[1868年]])

**[[1月4日]] - [[阿波沖海戦]]で薩摩藩海軍に勝利。
=== 帰国後 ===
**[[8月19日]] - 榎本艦隊、品川沖を出帆。
[[1879年]](明治12年)2月12日、条約改正御取調御用掛を命じられ、同年9月10日に外務省二等出仕、11月6日に外務大輔となる。さらに11月18日、[[議定官]]を兼任した{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=382}}。
**[[10月26日]] - [[箱館]]占領。

**[[12月15日]] - 蝦夷島総裁に選出される。
[[1880年]](明治13年)2月28日、海軍卿に就任{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=382}}。海上法規である[[日本海令草案]]を作成する{{sfn|加茂儀一|1988|p=547}}<ref>{{cite book|和書|year=1880|title=日本海令草案|publisher=海軍省|id={{NDLJP|797988}}}} </ref>が、海軍人事に介入したため薩摩出身者の怒りを買い{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=383}}、[[1881年]](明治14年)4月7日、海軍卿を免ぜられ<ref name="enomotobuyou325">[[#近代日本の万能人・榎本武揚|近代日本の万能人・榎本武揚]], p. 325</ref>、同年予備役へ退いた{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=382}}。
*明治2年([[1869年]])

**[[3月25日]] - [[宮古湾海戦]]。
当時、政府は[[明治宮殿]]の建設を計画しており、榎本は公使時代のロシア宮廷での経験を買われ{{sfn|加茂儀一|1988|p=550}} 、1881年5月7日に皇居造営御用掛、翌[[1882年]](明治15年)5月27日、皇居造営事務副総裁{{refnest|group="注"|総裁は[[三条実美]]{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=385}}。}}に就任<ref name="enomotobuyou325" />。このときから、皇室との関係が他の顕官に比べてより深いものとなった{{sfn|加茂儀一|1988|p=550}}。
**[[5月18日]] - 新政府軍に降伏。五稜郭を明け渡す。

**[[6月30日]] - [[東京市|東京]][[丸の内]]辰の口牢に投獄される。
同年8月12日、駐[[清]]特命全権公使となり、妻子を連れて[[北京]]へ赴任{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=386}}。[[1883年]](明治16年)末に[[李鴻章]]と[[大沽]]で会談、親交を深める{{Sfn|合田一道|2014|pp=250-251}}。[[1884年]](明治17年)に[[李氏朝鮮|朝鮮]]で[[甲申事変]]が発生すると、日本側全権の[[伊藤博文]]を支え李鴻章と度々会談し、[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]締結に貢献した{{Sfn|合田一道|2014|pp=254-255}}。[[1885年]](明治18年)10月、清国駐在を免ぜられ帰国した{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=559}}。
*明治5年([[1872年]])

**[[1月6日]] - 出獄。謹慎。
=== 大臣を歴任 ===
**[[3月6日]] - 放免される。
==== 逓信大臣 ====
**[[3月8日]] - [[開拓使]]4等出仕。
1885年12月22日、内閣制度が発足。[[第1次伊藤内閣]]の逓信大臣に就任する<ref>『官報』第744号、「叙任」 1885年12月22日号外。{{NDLJP|2943953}}</ref>。[[1887年]](明治20年)5月24日、勲功をもって[[子爵]]に叙される<ref>『官報』第1169号、「授爵及辞令」 1887年5月25日。{{NDLJP|2944403}}</ref>。[[1888年]](明治21年)4月30日に[[黒田内閣]]が誕生すると、逓信大臣に留任するとともに、それまで黒田が務めていた農商務大臣を[[井上馨]]が後任となる7月25日まで臨時兼任した<ref>『官報』第1522号、「叙任及辞令」 1885年7月26日。{{NDLJP|2944760}}</ref>。同年、[[電気学会]]を設立、初代会長となる<ref>{{Cite web|url=http://www.iee.jp/wp-content/uploads/2013/10/ieej-panf.pdf|title=電気学会パンフレット|publisher=電気学会|format=pdf|accessdate=2015-08-14}}</ref>。
*明治7年([[1874年]])

**[[1月14日]] - [[海軍中将]]を拝命。
==== 文部大臣 ====
**[[1月18日]] - [[ロシア帝国]]との領土問題処理のため[[特命全権公使]]を命ぜられる。
[[1889年]](明治22年)2月11日の[[大日本帝国憲法]]発布式では儀典掛長を務めた。同日暗殺された文部大臣・[[森有礼]]の後任として、3月22日、逓信大臣から文部大臣へ横滑りする<ref>『官報』第1716号、「授爵及辞令」 1889年3月23日。{{NDLJP|2944961}}</ref>。[[第1次山縣内閣]]で留任し、[[明治天皇]]の希望であった[[教育ニ関スル勅語|道徳教育の基準]]策定を命じられる。大臣親任式で天皇から特に希望されたにもかかわらず、積極的に取り組まなかった。そのため[[1890年]](明治23年)2月の地方官会議で知事たちから突き上げられ、5月17日に更迭{{refnest|group="注"|このとき、榎本は山縣に「自分を罷免するのは、職務不十分なためか、それとも閣内人事の事情からか」と質したのに対し、山縣は後者だと言い放ち、榎本が憤慨している{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=393}}。}}、[[枢密顧問官]]となった{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=393}}<ref>『官報』第2063号、「授爵及辞令」 1890年5月19日。{{NDLJP|2945315}}</ref>。また、同年開催された[[内国勧業博覧会]]の副総裁を務めた{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=568}}。
**[[3月10日]] - 横浜を出帆。

**[[6月10日]] - [[サンクトペテルブルク]]着任。
==== 育英黌農業科の開校 ====
*明治8年([[1875年]])[[5月7日]] - [[樺太千島交換条約]]調印。
[[File:TokyoUniversityOfAgriculture20111009.jpg|thumb|180px|東京農業大学開校の地(東京都飯田橋)]]
*明治11年([[1878年]]) - [[シベリア]]経由で帰国。
1885年、榎本と[[伊庭想太郎]]らが中心となり、旧幕臣の子弟に対する[[奨学金]]支給のため徳川育英会を設立{{sfn|松田藤四郎|2012|p=31}}。この徳川育英会を母体に、[[1891年]](明治24年)3月6日、東京・[[飯田橋]]に「育英黌」を設立し管理長に就任した(校長は[[永持明徳]]){{sfn|松田藤四郎|2012|p=33}}。育英黌は、農業科(現在の東京農業大学)、商業科、普通科の3科があった{{sfn|松田藤四郎|2012|p=33}}が、[[甲武鉄道]]の飯田橋延伸に伴う敷地の買収話が持ち上がり、農業科は翌1892年10月23日、[[小石川区]]大塚窪町(現在の[[文京区]]大塚三丁目)に移転し、育英黌分黌農業科と改称した(校長は伊庭想太郎){{sfn|松田藤四郎|2012|pp=41-42}}。更に1893年、私立東京農学校と改称し、榎本は校主となった(校長は伊庭){{sfn|松田藤四郎|2012|p=45}}。1894年に徳川育英会から独立した{{sfn|松田藤四郎|2012|p=47}}が、毎年の入学者が50人を超えず{{sfn|松田藤四郎|2012|p=19}}生徒が集まらない状況に榎本は廃校を決意。しかし農学校の評議員であった[[横井時敬]]が反対し運営を引き継ぐ。榎本は手を引き、[[1897年]](明治30年)、農学校は[[大日本農会]]に移管された{{sfn|松田藤四郎|2012|p=60}}。
*明治12年([[1879年]]) - [[渡辺洪基]]らと共に[[東京地学協会]]設立。副会長に就任。

*明治13年([[1880年]])[[2月28日]] - [[海軍卿]]に任ぜられる。
==== 外務大臣 ====
*明治14年([[1881年]])[[4月7日]] - 海軍卿を免ぜられる。
1891年5月11日に[[大津事件]]が発生すると、榎本は、5月15日、ロシアへの謝罪使節・[[有栖川宮威仁親王]]の随行員を命じられた<ref>『官報』第2361号、「宮廷録事」 1891年5月16日。{{NDLJP|2945621}}</ref>が、17日にロシア公使が使節派遣は不要と表明したことから中止となる{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=395}}。但し外務大臣・[[青木周蔵]]が引責辞任すると、5月29日、榎本が後任に任命され{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=395}}<ref>『官報』第2373号、「叙任及辞令」 1891年5月30日。{{NDLJP|2945634}}</ref>、義弟の[[林董]]を次官とした<ref>{{cite book|和書|author=林董|title=後は昔の記 他|date=1970|publisher=平凡社|isbn=|series=東洋文庫 173|pages=66|ref=harv }}</ref>。青木が取り組んでいた[[条約改正]]交渉を継続し、[[1892年]](明治25年)4月12日、条約改正案調査委員会を立ち上げ<ref>{{cite book|和書|author=[[伊藤之雄]]|title=伊藤博文|date=2015|publisher=講談社|isbn=978-4-06-292286-9|series=講談社学術文庫 2286|pages=335|ref=harv }}</ref>、同年、[[ポルトガル]]が経費削減のため総領事を廃止したのを機に同国の[[領事裁判権]]を撤廃した{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=576}}{{sfn|林董|1970|p=67}}。また、以前から私的に取り組んでいた海外殖民を政策として進めた([[#メキシコ殖民|メキシコ殖民]]の項を参照)。
*明治15年([[1882年]]) - [[皇居]]造影事務副総裁に就任。

**[[8月12日]] - 駐清[[特命全権公使]]を拝命。
1892年8月8日、[[第1次松方内閣]]総辞職に伴い外務大臣を辞任、枢密顧問官となる<ref>『官報』第2735号、「叙任及辞令」 1892年8月9日。{{NDLJP|2946000}}</ref>。
*明治18年([[1885年]])

**[[10月11日]] - 帰京。
==== 農商務大臣 ====
**[[12月22日]] - [[内閣制度]]発足。[[第1次伊藤内閣]]の[[逓信大臣]]に就任。
[[1894年]](明治27年)1月22日、[[第2次伊藤内閣]]の農商務大臣に就任する<ref>『官報』第3168号、「叙任及辞令」 1894年1月23日。{{NDLJP|2946432}}</ref>。
*明治20年([[1887年]])

**[[4月17日]] - [[静岡県]][[興津]][[清見寺]]に[[咸臨丸]]殉難碑を[[清水次郎長]]らと共に建立。
当時、日本は鉄鋼需要の大半を輸入に依存しており<ref>[[#日本の百年3|日本の百年3]], p. 390</ref>、政府は新たに製鉄所(後の[[八幡製鐵所]])の建設を計画していた。製鉄所は民営とすることで1893年に閣議決定していたが、榎本は大臣に就任すると官営を主張し先の閣議決定を覆した{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=398}}。[[1896年]](明治29年)、製鉄所建設の予算が成立し、3月29日に製鉄所官制が公布。榎本は製鉄所初代長官に腹心の山内堤雲を就けた{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=398}}。なお、[[荒井郁之助]]による[[浦賀船渠]]の設立([[1897年]](明治30年))を後援している<ref>{{Cite web
**5月 - [[子爵]]授爵。
|url=http://cocoyoko.net/spot/uragadock.html|title=浦賀ドック|publisher=横須賀市|accessdate=2015-08-15}}</ref>。
*明治21年([[1888年]]) - [[黒田内閣]]の逓信・[[農商務大臣]]を兼任。

**5月 - [[電気学会]]初代会長に就任。
===== 足尾鉱毒事件 =====
*明治22年([[1889年]])[[2月12日]] - [[森有礼]]暗殺。武揚、森の後任として黒田内閣の[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]に就任。のち[[第1次山縣内閣]]でも留任。
{{see also|足尾鉱毒事件}}
*明治23年([[1890年]])
かねてより[[足尾銅山]]の鉱毒被害は問題となっており、[[1895年]](明治28年)には、[[栃木県]]知事・[[佐藤暢 (栃木県知事) |佐藤暢]]と[[群馬県]]知事・[[中村元雄]]は連名で政府に足尾銅山に関する要望書を提出するが、榎本はこれを放置<ref>{{Cite book |和書 |author=[[東海林吉郎]]・[[菅井益郎]] |year=1984 |title=通史・足尾鉱毒事件 |publisher=[[新曜社]]|ref=harv }}</ref>。1896年9月の大洪水で鉱毒被害が拡大・激化。翌1897年2月、[[田中正造]]が国会で鉱業停止を命じない理由の回答を求める質問書を提出し、政府の取り組みを非難する演説を行った{{sfn|東海林吉郎・菅井益郎|1984|p=59}}。これに勢いづいた被害農民は1千名を超える陳情団(第1回大挙東京押出し)を上京させ、榎本は3月5日、被害農民と面談した{{sfn|東海林吉郎・菅井益郎|1984|p=64}}。3月18日、先の田中の質問に対して、政府は榎本と内務大臣・[[樺山資紀]]の連名で、「示談契約は古河鉱業と被害農民の民事上の問題であり政府は関与しない。鉱業停止も鉱業条例に適合するか断言できない。但し政府は黙視していたわけではない」という回答書を出した{{sfn|東海林吉郎・菅井益郎|1984|p=64}}が、この回答は被害農民の反発を招き、第2回大挙東京押出しを引き起こす{{sfn|東海林吉郎・菅井益郎|1984|p=65}}。3月23日、榎本は[[谷干城]]や[[津田仙]]の助言を受け入れ、津田の案内で現地を視察。同日夜、[[大隈重信]]に相談し、24日に鉱毒調査委員会を設置した{{sfn|東海林吉郎・菅井益郎|1984|p=65}}。27日に再度陳情団と面談{{sfn|東海林吉郎・菅井益郎|1984|p=68}}の後、29日に大臣を引責辞任、[[親任官#前官礼遇|前官礼遇]]を受ける<ref>『官報』第4119号、「叙任及辞令」 1897年3月30日。{{NDLJP|2947406}}</ref>。なお辞表では「脳症に罹り激務に耐えがたい」ことを辞任理由としている<ref>{{アジア歴史資料センター|A03023352000|依願免本官 農商務大臣 子爵榎本武揚}}</ref>。
**[[5月17日]] - 文部大臣を辞任。

**5月 - [[枢密院顧問官]]に就任。
=== メキシコ殖民 ===
*明治24年([[1891年]])
{{Location map | Mexico
**[[3月6日]] - [[東京農業大学|徳川育英会育英黌農業科]]を設立。武揚は管理長に就任。
| label = エスクイントラ |label_size=80 | caption =エスクイントラの位置
**[[5月21日]] - [[第1次松方内閣]]の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に就任。
| lat_deg = 15 | lat_min = 20 | lat_sec = | lat_dir = N
*明治25年([[1892年]]) - [[ポルトガル]]との間で[[領事裁判権]]撤廃にこぎつける。
| lon_deg = 92 | lon_min = 38 | lon_sec = | lon_dir = W
**[[8月8日]] - 松方内閣総辞職に伴い外務大臣を辞任。条約改正調査委員会委員長に就任。
| width = 250 | float = right}}
*明治26年([[1893年]])[[3月11日]] - [[殖民協会]]発足。会長に就任。
榎本は長年、海外殖民への関心を抱き、駐露特命全権公使時代には、[[岩倉具視]]に日本領が確定したばかりの[[小笠原諸島]]へ罪人を移住させたり、スペイン領の[[マリアナ諸島|ラドローネン諸島(マリアナ諸島)]]と[[ペリリュー島]]を購入し、更に[[ニューギニア島]]の一部と[[ソロモン諸島]]などを日本領として、それらを拠点に貿易事業を推進することを建言していた{{sfn|加茂儀一|1988|pp=493-494}}。
*明治27年([[1894年]])[[1月22日]] - 農商務大臣に就任。

*明治30年([[1897年]])
1879年、[[渡辺洪基]]らと[[東京地学協会]]を立ち上げ、[[ボルネオ島]]とニューギニア島を買収し、日本人を移住させることを発案する{{sfn|秋岡信彦|2003|p=24}}。1891年、外務大臣に就任すると「移民課」を新設し{{refnest|group="注"|移民課長(兼通商局長)は[[安藤太郎 (外交官)|安藤太郎]]<ref>[[#近代日本の万能人・榎本武揚|近代日本の万能人・榎本武揚]], p. 149</ref>。移民課は榎本の大臣退任後の1893年、通商局長・[[原敬]]の主張により廃止された<ref>{{Cite book |和書 |editor=[[松本三之助]]・編著|year=2007|origyear=1978|title= 強国をめざして|series=ちくま学芸文庫 日本の百年3|publisher=筑摩書房|page=174|isbn=978-4-480-09073-7|ref=日本の百年3}}</ref>。}}{{sfn|秋岡信彦|2003|p=72}}<ref>{{Cite web |url=http://www.ndl.go.jp/brasil/text/t008.html|title=榎本武揚の殖民論|publisher=[[国立国会図書館]]|accessdate=2015-06-06}}</ref>、ニューギニア島や[[マレー半島]]などに外務省職員や移住専門家を派遣し、植民地建設の可能性を調査させた{{sfn|上野久|1994|pp=24-25}}。そこへ在[[サンフランシスコ]]領事館からメキシコ政府が開発のため外資と移民を歓迎している話が入り、在米特命全権公使の[[建野郷三]]にメキシコ殖民の可能性を調査させた。建野がメキシコの地代は安く日本の農民を送って事業を興せば莫大な利益が得られるとの報告を上げると、榎本はメキシコ殖民に傾き、早速、メキシコに中南米初の領事館を開設した{{sfn|上野久|1994|p=25}}。
**[[3月24日]] - メキシコ殖民出発。

**[[3月29日]] - [[足尾鉱毒事件]]の責任を負い農商務大臣を辞任。
外務大臣辞任後の[[1893年]](明治26年)、榎本が会長となり[[殖民協会]]を設立{{sfn|上野久|1994|p=28}}。[[根本正]]をメキシコに派遣し、[[コーヒー]]生産が期待できるという報告を受けた{{sfn|上野久|1994|p=30}}。続いて[[1894年]]、アメリカ留学帰りの[[橋口文蔵]]をメキシコ南部の[[チアパス州]]へ派遣し、{{仮リンク|エスクイントラ(チアパス州)|label=エスクイントラ|en|Escuintla, Chiapas}}が入植に最適との報告を受けた{{sfn|上野久|1994|p=32}}。殖民団の資金集めのため、[[1895年]]の墨国移住組合設立に続き、[[1896年]]12月、榎本が社長となり日墨拓殖株式会社を設立したが、1株50円で4,000株、20万円の資本金を集める計画に対し、1,919株しか売れなかった{{sfn|上野久|1994|p=38}}。榎本は資金調達が不調であるにもかかわらず、1897年1月、メキシコ政府とエスクイントラ官有地払下げ契約を締結{{sfn|上野久|1994|p=38}}。3月24日、36名の殖民団が横浜を出発した{{sfn|上野久|1994|pp=48-50}}。殖民団は5月19日にエスクイントラに到着する{{sfn|上野久|1994|p=55}}が、[[マラリア]]が蔓延したことに加えて、[[雨季]]に入っていたため[[熱帯雨林|ジャングル]]の伐採が進まず、入手したコーヒー苗も現地の環境に合わないものであったことなどで資金が尽き、逃亡者が発生して僅か3ヶ月で殖民地は崩壊した{{sfn|上野久|1994|pp=56-64}}。榎本は[[1900年]](明治33年)、事業を殖民協会会員で代議士の[[藤野辰次郎]]に譲渡し手を引いた{{sfn|上野久|1994|p=108}}。
*明治41年([[1908年]])[[10月26日]] - 死去。享年72。

=== 晩年 ===
[[File:LaterEnomoto.jpg|thumb|180px|晩年の榎本武揚]]
[[File:Tomb of Enomoto Takeaki in Kichijoji.jpg|thumb|right|180px|榎本武揚の墓(吉祥寺)]]
[[1898年]](明治31年)、富山県で発見された隕石から製作させた[[日本刀]]・「[[流星刀]]」を[[大正天皇|皇太子]]に献上。流星刀の製造技術を論文『流星刀記事』として発表した<ref>{{Cite journal|和書|author=榎本武揚|year=1902|title=流星刀記事|journal=地学雑誌|volume=14|publisher=東京地学協会|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/14/1/14_1_33/_pdf|format=pdf|accessdate =2015-05-30}}</ref>。また同年、[[日本化学会|工業化学会]]の初代会長となる<ref>{{cite web|url=http://www.csj.jp/kaimu/history/enkaku3.html |title=工業化学会の設立 |publisher=日本化学会|accessdate=2015-06-13}}</ref>。[[1900年]]、盟友・黒田清隆が死去した際、葬儀委員長を務めた{{sfn|合田一道|2014|p=296}}。

[[1905年]](明治38年)10月19日、海軍中将を退役となる<ref>『官報』第6694号、「彙報」 1905年10月20日。{{NDLJP|2950027}}</ref>。1908年(明治41年)7月から病気となり、10月26日{{refnest|group="注"|官報では10月27日薨去<ref>『官報』第7603号、「彙報」 1908年10月28日。{{NDLJP|2950950}}</ref>。}}、腎臓病で死去<ref>[[#明治ニュース事典 8|明治ニュース事典 8]], p. 53</ref>。享年73。同月30日、海軍葬が行われた{{sfn|合田一道|2014|pp=307-309}}。墓所は東京都[[文京区]]の[[吉祥寺 (文京区)|吉祥寺]]にある。


=== 栄典 ===
=== 栄典 ===
* [[1886年]](明治19年)[[3月11日]] - [[勲一等旭日大綬章]]
* [[1886年]](明治19年)3月11日 - [[勲一等旭日大綬章]]<ref>『官報』第805号、「叙任」 1886年3月12日。{{NDLJP|2944018}}</ref>
* [[1887年]](明治20年)[[5月24日]] - [[子爵]]
* 1887年(明治20年)5月24日 - 子爵
* [[1905年]](明治38年)[[1月20日]] - [[賞杯|御紋付御杯]]<ref>『官報』第6466号、「宮廷録事 - 恩賜」1905年01月21日。</ref>
* [[1905年]](明治38年)1月20日 - [[賞杯|御紋付御杯]]<ref>『官報』第6466号、「宮廷録事 - 恩賜」 1905年01月21日。{{NDLJP|2949795}}</ref>
* [[1908年]](明治41年)[[10月26日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章]]
* 1908年(明治41年)10月26日 - [[勲一等旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』第7602号、「叙任及辞令」 1908年10月27日。{{NDLJP|2950949}}</ref>


;外国勲章等
;外国勲章等
* 1878年(明治11年)11月24日 - ロシア帝国聖スタニスラフ第一等勲章([[:en:Order of Saint Stanislaus (Imperial House of Romanov)|en]]){{sfn|井黒弥太郎|1968|p=382}}
* [[1887年]](明治20年)[[10月3日]] - [[ポルトガル王国]]サンベノァダウィ勲章コマンデール<ref>『官報』第1283号、「叙任及辞令」1887年10月06日。</ref>
* [[1893]](明治26)[[621]] - [[安南|安南帝国]]竜星第一等勲章<ref>『官報』第2995号、「叙任及辞令」18930624日。</ref>
* 1887年(明治20)103日 - [[ポルトガル王国]]サンベノァダウィ勲章コマンデール<ref>『官報』第1283号、「叙任及辞令」18871006日。{{NDLJP|2944517}}</ref>
* 1888年(明治21年)1月28日 - ロシア帝国聖アンナ第一等勲章([[:en:Order of St. Anna|en]])<ref>『官報』第1373号、「辞令」 1888年1月31日。{{NDLJP|2944609}}</ref>
* 1892年(明治25年)6月29日 - ロシア帝国白鷲大綬章([[:en:Order of the White Eagle (Russian Empire)|en]])<ref>『官報』第2705号、「叙任及辞令」 1892年7月5日。{{NDLJP|2945970}}</ref>
* [[1893年]](明治26年)6月21日 - [[安南|安南帝国]]龍星第一等勲章<ref>『官報』第2995号、「叙任及辞令」1893年06月24日。{{NDLJP|2946259}}</ref>


== 人物・逸話 ==
== 人物 ==
[[File:Enomoto takeaki mukoujima.JPG|thumb|180px|榎本武揚像(墨田区梅若公園)]]
=== 人物 ===
[[鳥谷部春汀]]に「[[江戸っ子]]の代表的人物」と評された{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=411}}ように、執着心に乏しく野暮が嫌いで、正直で義理堅く、涙もろい人間であった。親交のあった[[新門辰五郎]]の孫を引き取り学校に通わせたり、困っている人がいれば気軽に金を貸していた{{sfn|加茂儀一|1988|p=609-610}}が、林董は「一度人を信用すれば何でも信じてしまうため、友達としては最高だが、仕事仲間としては困る人だ」と評している{{sfn|林董|1970|pp=66-67}}。
[[Image: LaterEnomoto.jpg|thumb|200px|晩年の榎本武揚]]
* 思想は開明、外国語にも通じた。[[蝦夷共和国|蝦夷島政府]]樹立の際には、[[国際法]]の知識を駆使して自分たちのことを「事実上の政権(オーソリティー・デ・ファクト)」であると記した覚書を現地にいた列強の関係者から入手する。
* 明治政府官僚となってからも、その知識と探求心を遺憾なく発揮し、民衆から「明治最良の官僚」と謳われたほどだったが、[[藩閥]]政治の明治政府内においては肩身の狭い思いをすることもしばしばあった。
* 義理・人情に厚く、涙もろいという典型的な江戸っ子で[[明治天皇]]のお気に入りだった。また海外通でありながら極端な洋化政策には批判的で、[[園遊会]]ではあえて和装で参内している。
* [[福澤諭吉]]が評して言うには、「江戸城が無血開城された後も降参せず、必敗決死の忠勇で函館に篭もり最後まで戦った天晴れの振る舞いは大和魂の手本とすべきであり、新政府側も罪を憎んでこの人を憎まず、死罪を免じたことは一美談である。勝敗は兵家の常で先述のことから元より咎めるべきではないが、ただ一つ榎本に事故的瑕疵があるとすれば、ただただ榎本を慕って戦い榎本のために死んでいった武士たちの人情に照らせば、その榎本が生き残って敵に仕官したとなれば、もし死者たちに霊があれば必ず地下に大不平を鳴らすだろう」と「[[瘠我慢の説]]」にて述べている。
* [[山田風太郎]]は「もし彼が五稜郭で死んでいたら、[[源義経]]や[[楠木正成]]と並んで日本史上の一大ヒーローとして末長く語り伝えられたであろう。しかし本人は『幕臣上がりにしてはよくやった』と案外満足して死んだのかもしれない」と書いている。(『人間臨終図巻』)
* 五稜郭で敗れて、獄中にいる時、兄の家計を助けようとして手紙で、[[孵卵器]]や[[石鹸]]などの作り方や、新式の養蚕法・藍の採り方等詳細に知らせている。また舎密学(化学)については日本国中で自分に及ぶものはいないと自信を持っていたフシがある。
* 晩年は、[[向島 (墨田区)|向島]]に居を移し毎日のように[[向島百花園]]を訪れ四季の草花を眺めていたという。植物、特に外国の花については非常に博識で、百花園の主人に教えていたこともあるという<ref>濱本高明『東京風俗三十帖』p74演劇出版社出版事業部</ref>。また自宅の2階座敷に力士を呼んで相撲観戦をよく行なっていた<ref>[[鳥谷部春汀]]「旧幕の遺臣」</ref>。
*引退後も、江戸っ子気風とユーモア溢れる人柄で愛された。その人柄を表す逸話に、次のようなものがある。向島百花園に其角堂永機が遊び、「闇の夜や誰れをあるじの隅田川」と風流な一句を表したところ、榎本は一目見て「何だこんな句」と言い放ち、改作して「朧夜や誰れを主(あるじ)と言問はむ鍋焼きうどんおでん燗酒」と詠み直したという(燗酒の歌){{Sfn|秋岡伸彦|2003|p=96}}。


投獄されていた際、市井無頼の徒と交流したこともあり、気軽で無頓着、[[清元節]]や[[都々逸]]など粋な趣味を持った{{sfn|加茂儀一|1988|p=324}}。晩年も力士を座敷に招いて相撲を取らしたり、[[新内節|門付の新内語り]]を玄関先に呼び入れたりしていた{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=411}}。
=== エピソード ===

* 初代逓信大臣を務めたとき、[[逓信省]]の「徽章」を決めることになった。明治20年([[1887年]])[[2月8日]]、「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示したものの、これが万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と紛らわしいことが判明した。そこで榎本は「Tに棒を一本加えて「[[郵便記号|〒]]」にしたらどうだ」と提案し、[[2月19日]]の官報で「実は〒の誤りだった」ということにして変更したといわれている。これは、あくまでも[[郵便記号]](〒)誕生に関する諸説のうちのひとつだが、「テイシンショウ」の「テ」にぴたりと合致しており、彼の聡明さを象徴するようなエピソードでもある。
酒豪で日本酒を「米の水」と呼んでいた<ref>[[#明治ニュース事典 8|明治ニュース事典 8]], p. 54</ref>。洒落っ気があり、戊辰戦争のときの心境について明治になってから聞かれた際、「今ならあんな幼稚なことはしないが、帰国したばかりで良く判らなかったし、長州人といっても当時はどこの馬の骨だか判らないので抵抗してみた」ととぼけている{{sfn|一戸隆次郎|1909|p=78}}。また投獄中、重罪人であるにも関わらず、当時の政府を批判する「ないない節」という戯れ歌を作っていた<ref>{{Cite web|url=http://www.ryozen-museum.or.jp/docs/ABOUT-04_ippin_15.html|title=榎本武揚 ないない節 |publisher=[[霊山歴史館]]|accessdate=2015-05-31}}</ref>。
* 明治24年([[1891年]])[[7月14日]]、[[横浜港]]に投錨した[[清国]][[北洋艦隊]][[旗艦]]「[[定遠 (戦艦)|定遠]]」の艦上で在朝在野の貴紳、新聞記者、各国の公使領事等を招待した懇親会が開かれた。当時[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]だった榎本は[[軍服 (大日本帝国海軍)|海軍中将の軍服]]で姿を現した。国民新聞は「榎本外務大臣、此日海軍中将の軍服を着けて来る、低帽短剣一箇俊敏の武人、却つて是れ子の本色」と評した<ref>国民新聞1891年7月16日2面「海軍中将としての榎本子」。</ref>。
{{Quotation|堂上たちには腹がない [[鍋島直正|鍋島さま]]にはしまりがない [[参議]]の者にはいくぢがない そこでなんにもしまらない 今度のご処置はたわいない 官軍朝敵差別ない 死んだ者には口がない 攘夷々々ととめどない 開港してもしまりない 大蔵省には金がない 弾正無茶には仕様がない することなすことわけがない 所々の恋女はつまらない 盗人年中たえがない 世上安堵の暇がない そこで万民命がない とんと日本もおさまらない ないない節 一くだり 榎本武揚酔墨}}

[[向島 (墨田区)|向島]]に屋敷を構えていた榎本は[[向島百花園]]を気に入り、晩年、朝夕の散歩がてら訪れては四季の草花を眺めていた{{sfn|一戸隆次郎|1909|pp=127-131}}。植物、特に外国の花については非常に博識で、百花園の主人に教えていたこともあるという<ref>濱本高明『東京風俗三十帖』p74演劇出版社出版事業部</ref>。また、将軍家のために造られた御成座敷で酒を飲むのを好んでいた{{sfn|一戸隆次郎|1909|pp=127-131}}。園内には俳人・[[其角堂永機]]の「闇の夜や誰れをあるじの隅田川」という句碑があるが、榎本はこれを見て、拙い句だとして「朧夜や誰れを主(あるじ)と言問はむ鍋焼きうどんおでん燗酒」と詠み直している(燗酒の歌){{sfn|一戸隆次郎|1909|pp=81-82}}。

政治家としては、実務的大臣を歴任し「明治最良の官僚」と評され{{sfn|加茂儀一|1988|p=566}}、明治天皇からも信頼を得て、大津事件の謝罪使節派遣に際しては一旦辞退したものの、天皇・皇后から役目を受けるよう御諚を賜っている{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=395}}。しかし一方で、幕臣ながら薩長の政府に仕えた「帰化族の親玉」{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=384}}や、藩閥政治の中で名ばかりの「伴食大臣」という批判も受けた。

=== 瘦我慢の説 ===
榎本を大々的に批判した人物に、福沢諭吉がいる。1887年、榎本は[[清水次郎長]]らとともに清水・[[清見寺]]に咸臨丸の慰霊碑を建て、[[史記]][[韓信|淮陰侯]]列伝の一節「食人之食者死人之事(人から恩を受けた者は、その人のために死ぬ)」を碑に記した。1890年、清見寺を訪れた際に碑を見て憤慨した福澤は、翌年、「幕府の高官でありながら新政府に仕え[[華族]]となった榎本と勝海舟は、本来徳川家に殉じて隠棲すべきであった」と批判する『[[瘠我慢の説|'''瘠我慢の説''']]』を書いた。福澤は榎本と勝に本書を送り意見を求めたが、当時、外務大臣であった榎本は、「多忙につき、そのうち返答する」という返事を出した。瘠我慢の説は[[1899年]](明治33年)12月、世間に公表されたが、翌年2月に福澤が死去し、榎本は返答しないまま終わった<ref>[[#近代日本の万能人・榎本武揚|近代日本の万能人・榎本武揚]], pp. 78-81</ref>。

=== 逸話 ===
<!-- できるだけ時系列に -->
* オランダ留学中に[[モールス符号|電信術]]を学び、帰国時にフランス製のディニエ電信機を持ち帰った。箱館戦争で倉庫に預けたまま失われていたが、明治に入り、[[沖牙太郎]]が古道具屋で購入した。榎本が電気学会会長であった1888年に電気学会講演会の場で紹介され、偶然にも再会することとなった。この電信機は現在、[[郵政博物館 (日本)|郵政博物館]]に収蔵されている<ref>{{Cite web|url=http://www.postalmuseum.jp/column/collection/post_21.html|title=ディニエ印字電信機と榎本武揚 |publisher=郵政博物館|accessdate=2015-08-14}}</ref>。

* 逓信大臣のとき、[[逓信省]]の「徽章([[郵便記号]])」を決定。1887年2月8日、「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示した<ref>『官報』第1080号、「告示」 1887年2月8日。{{NDLJP|2944314}}</ref>が、2月19日の官報で「実は〒の誤りだった」<ref>『官報』第1089号、「正誤」 1887年2月19日。{{NDLJP|2944323}}</ref>と変更した。その事情として、徽章が万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と紛らわしいことが判明したため、榎本が「Tに棒を一本加えて「[[郵便記号|〒]]」にしたらどうだ」と提案し、変更したという説がある{{sfn|望月武司|2013|p=303}}。郵便記号誕生に関する諸説のうちのひとつ。

* 徳川慶喜が[[公爵]]となったとき(1902年)、旧幕臣が集まり祝宴を開いた。その際、慶喜一家とともに榎本も加わって写真を撮ることになったが、榎本は主君と一緒の写真など失礼なことはできないとして遠慮している{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=412}}。


=== 系譜・親族 ===
=== 系譜・親族 ===
* 父は幕臣・榎本武規(円兵衛)。妻・たつ[[林洞海]]とつる([[佐藤泰然]]の娘)の長女で、[[林研海]]の妹。[[家紋]]は丸に梅鉢。
榎本家の先祖は[[相模国]]から武蔵国へ移り住んだ[[郷士]]であり江戸時代は代々御徒士として仕えた家柄であった{{sfn|加茂儀一|1988|p=22}}。[[家紋]]は丸に梅鉢。

* 娘が外交官の[[二橋謙]]に嫁いだ。
* 父:[[榎本武規|武規]]([[1790年]]([[寛政]]2年) - 1860年(万延元年)8月6日<ref name="kindainihon-331">[[#近代日本の万能人・榎本武揚|近代日本の万能人・榎本武揚]], p. 331</ref>)
* 曾孫に、作家で[[東京農業大学]]客員教授の[[榎本隆充]]がいる。
:旧名は'''箱田真与'''(しんよ)、通称・'''良助'''、源三郎。榎本家に入婿した後の通称は円兵衛、左太夫{{sfn|加茂儀一|1988|p=30}}。[[備後国]][[安那郡]]箱田村(現[[広島県]][[福山市]][[神辺町]]箱田)の庄屋・[[細川直知 (江戸時代後期)|細川(箱田)園右衛門直知]]の次男{{sfn|加茂儀一|1988|p=23}}。[[菅茶山]]の廉塾に学び、数学を得意としていた。17歳の時、江戸に上り、兄・右忠太(うちゅうた)とともに[[伊能忠敬]]の弟子になる<ref>{{Cite|和書 |author=渡辺一郎・編著|title=伊能忠敬測量隊|date=2003|publisher=小学館|pages=241|isbn=4-09-626205-6|ref=harv}}</ref>。1809年(文化6年)の第1回九州測量以降、実測に随伴し、[[大日本沿海輿地全図]]の作成に貢献した{{sfn|加茂儀一|1988|p=28}}。伊能の死後、[[1818年]]([[文政]]元年){{refnest|group="注"|榎本家に入婿したのは1822年(文政5年)との説もある{{sfn|加茂儀一|1988|p=28}}。}}に御家人の榎本家の株を買い、[[榎本武由|榎本武兵衛武由]]の娘みつと結婚して婿養子となり、武規と名乗る{{sfn|加茂儀一|1988|pp=28-29}}。[[1826年]](文政6年)12月1日、[[天文方]]に出仕{{sfn|加茂儀一|1988|p=30}}。[[1833年]](天保4年)7月23日に西丸御徒目付、[[1840年]](天保11年)5月17日に右大将御付、同年8月8日に本丸勤務、[[1844年]]([[弘化]]元年)に勘定となり、[[1846年]](弘化3年)に小普請入りとなった{{sfn|加茂儀一|1988|pp=31-32}}。
* 武揚の兄・榎本武与は、武揚が釜次郎であるのに対して、鍋太郎である。

* 母:琴(? - 1871年(明治4年)8月26日<ref name="kindainihon-331" />)
: 武規の後妻。一橋家馬預・[[林正利|林代次郎正利]]の娘{{sfn|加茂儀一|1988|p=31}}。

* 妻:たつ(多津、1852年(嘉永5年)6月1日 - 1892年(明治25年)8月2日<ref name="kindainihon-331" /><ref>{{Cite book |和書 |editor=霞会館華族家系大成編輯委員会編 |year=1996 |title=平成新修旧華族家系大成 上巻 |publisher=吉川弘文館 |pages=263|isbn=978-4642036702|ref=平成新修旧華族家系大成}}</ref>)
: [[林洞海]]とつる([[佐藤泰然]]の長女)の長女で、[[林研海]]の妹。妹に赤松則良の妻となった貞、弟に[[西周]]の養子となった[[西紳六郎]]、母方の叔父に[[松本良順]]、および林洞海の養子となり弟となった林董、叔母に[[山内作左衛門]](山内提雲の兄)の妻となったふさがいる。

* 長男:[[榎本武憲|武憲]](1873年(明治6年)1月1日 - 1924年(大正13年)11月6日{{Sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会編|1996|p=263}})
: 幼名・金八。黒田清隆の長女・梅子(1882年(明治15年)1月24日 - 1934年(昭和9年)2月26日{{Sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会編|1996|p=263}})と結婚。2人の娘・千代子(1905年(明治38年)1月5日 - 1969年(昭和44年)11月7日{{Sfn|霞会館華族家系大成編輯委員会編|1996|p=570}})は、黒田清隆の養子・[[黒田常清|常清]]に嫁いでいる{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=382}}。1908年(明治41年)11月10日に子爵位を継承、貴族院議員。[[東京農業大学]]客員教授の[[榎本隆充]]は武憲の孫。

* 長女:きぬ - 幼少時に死亡<ref name="kindainihon-331" />。

* 次男:[[榎本春之助|春之助]](1880年(明治13年)1月20日 - 1908年(明治41年)6月21日<ref name="kindainihon-331" />)

* 三男:[[榎本尚方|尚方]](1883年(明治16年)11月8日 - 1954年(昭和29年)11月25日<ref name="kindainihon-331" />)

* 次女:不二子 - [[石川章雄]]に嫁ぐ<ref name="kindainihon-331" />。

* 三女:多賀子 - 幼少時に死亡<ref name="kindainihon-331" />。

* 長姉:端清 - 母は武規の最初の妻・みつ。御徒・[[安香民堯|安香助次郎民堯]]に嫁ぐ{{sfn|加茂儀一|1988|p=30}}。

* 次姉:らく(観月院) - 鷹匠・[[鈴木経正|鈴木金之丞経正]]に嫁ぐが若くして未亡人となる。武揚が慕っていた{{sfn|加茂儀一|1988|p=31}}。

* 兄:[[榎本武与|武与]](與)(たけとも、1832年(天保3年) - 1900年(明治33年)7月13日<ref name="kindainihon-331" />)
: 幼名・鍋太郎。通称・勇之丞。大番格歩兵指図役を務めた{{Sfn|小川恭一|1997}}。

* 妹:歌 - 目付、外国奉行等を歴任した[[江連堯則]]に嫁ぐ{{sfn|加茂儀一|1988|p=32}}。


== 著作 ==
== 著作 ==
*『渡蘭日記』
*『渡蘭日記』
: オランダ留学時のバタビアからセントヘレナ島までの日記。同島で榎本が破棄しようとしたものを澤太郎左衛門が貰い受けた<ref>[[#榎本武揚シベリア日記(講談社)|榎本武揚シベリア日記(講談社)]], p.228</ref>。
*『獄中詩』
*『獄中詩』
: 投獄中の日記。
*『開成雑爼』
*『開成雑爼』
: 投獄中に執筆した、油、石鹸、蝋燭などの製造法を記した書{{sfn|加茂儀一|1988|pp=334-335}}。
*『北海道巡回日記』
*『北海道巡回日記』
: 開拓使で北海道の資源調査を行った際の記録。
*『西比利亜日記』
*『西比利亜日記』
: シベリア横断時の日記。大小の冊子2冊に記された。長らく存在は知られていなかったが、[[関東大震災]]で倒壊した榎本の屋敷を整理していた同家の執事・[[近松虎蔵]]([[新門辰五郎]]の孫)が1935年(昭和10年)、武揚の次男・[[榎本春之助]]に見せ、世間に明らかになった<ref>[[#榎本武揚シベリア日記(講談社)|榎本武揚シベリア日記(講談社)]], p.330</ref>。[[1939年]](昭和14年)、[[南満州鉄道]]により出版された<ref>{{Cite book|和書|author=榎本武揚|year=1934|title=シベリヤ日記|publisher=南満洲鉄道総裁室弘報課|id={{NDLJP |1874789}}}}</ref>。
*『朝鮮事情』
*『[[流星刀]]記事』
*『[[流星刀]]記事』

; 翻訳
*『朝鮮事情』
:フランス人[[宣教師]][[シャルル・ダレ]]著『朝鮮教会史』のうち国内事情を記した序論を、駐露特命全権公使時代にポンペとともに翻訳{{sfn|加茂儀一|1988|pp=491-492}}。
*『千島誌』
:ロシア人・[[ポロンスキー]](A.S.Polonsky)の著作を駐露特命全権公使時代に[[市川文吉]]・[[花房義質]]らと翻訳{{sfn|井黒弥太郎|1968|pp=322-324}}。

== 海律全書 ==
フランス人の[[ジャン・フェリーチェ・テオドール・オルトラン]](Jean Felieché Théodore Ortolan){{refnest|group="注"|海軍大佐。フランスの法学者[[ジョセフ・ルイス・エルザー・オルトラン]]の弟{{sfn|加茂儀一|1988|pp=305-306}}。}}著の海洋法に関する本。原題は"Régles Internationales et diplomatie de la Mer"(「海の国際法と外交」)。榎本が[[高松凌雲]]に宛てた手紙で"Régles Internationales"に「海律」という日本語を当てたことから、『'''海律全書'''』または『'''万国海律全書'''』と呼ばれるようになった。1845年に初版が発行され、榎本留学中の1864年に第4版が出版されている。上下2冊で構成され、第1冊は総論、序論と平時法規、第2冊は戦争状態を扱っている{{sfn|加茂儀一|1988|pp=305-307}}。日本では、1899年(明治22年)に海軍参謀本部により『海上国際条規』として和訳された<ref>{{Cite book|和書|author=俄爾社蘭 (ヲルトラン) |year=1899|title=海上国際条規|publisher=海軍参謀本部|id={{NDLJP |798115}}}}</ref>。

榎本が所持していた「本」は、化学の師であるハーグ大学[[フレデリクス]]教授が蘭訳し自筆筆写したもので、オランダ語で"Diplomatie der Zee"(「海の外交」)という題名が付けられていた{{sfn|加茂儀一|1988|p=309}}。なおオルトランの原書の完全訳ではなく、榎本用に内容を取捨かつ判りやすくしたものであり、後に榎本により原書と対比した書き込みがなされている{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=84-85,87}}。

箱館戦争の際に榎本から受け取った黒田清隆は、維新後、本書を海軍省に納めたが、榎本は海軍卿時代に本書を海軍省の書庫で発見し、再び自分の蔵書とした{{sfn|加茂儀一|1988|p=311}}。その後、孫・武英が[[1916年]](大正5年)に[[宮内省]]に献上、現在は[[宮内庁書陵部]]に保管されている{{sfn|井黒弥太郎|1968|p=83}}。

なお、榎本の投獄中に福沢諭吉が本書の翻訳を依頼されている。福澤は本書の序文4-5頁だけ翻訳して、これは貴重な本だが講義録であるから講義を聞いた本人でなければ判らないとして、暗に榎本の助命を求めていた<ref name="fukuzawa" />。


== 榎本武揚を題材とする作品 ==
== 榎本武揚を題材とする作品 ==
;文学作品
;文学作品
*『[[榎本武揚 (小説)|榎本武揚]]』(1964年、[[安部公房]]作。長編小説と戯曲がある。舞台では[[高橋昌也 (俳優)|高橋昌也]]、[[永島敏行]]らが演じた)
* [[安部公房]]『[[榎本武揚 (小説)|榎本武揚]]』(1964年。長編小説と戯曲がある。舞台では[[高橋昌也 (俳優)|高橋昌也]]、[[永島敏行]]らが演じた)
* [[門井慶喜]]『かまさん』
*『武揚伝』([[佐々木譲]])
* [[佐々木譲]]『武揚伝』
*『かまさん』([[門井慶喜]])
* [[子母澤寛]]『生きゆきて峠あり』
*『榎本武揚シベリア外伝』([[中薗英助]] 文藝春秋 2000年5月30日 第一刷)
* [[綱淵謙錠]]『航-榎本武揚と軍艦開陽丸の生涯』
* [[童門冬二]]『小説 榎本武揚』
* [[中薗英助]]『榎本武揚シベリア外伝』
;テレビドラマ
;テレビドラマ
*[[五稜郭 (テレビドラマ)|五稜郭]](1988年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[年末時代劇スペシャル]]、演:[[里見浩太朗]])
*[[五稜郭 (テレビドラマ)|五稜郭]](1988年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[年末時代劇スペシャル]]、演:[[里見浩太朗]])


== 登場作品 ==
== ゆかりの地 ==
* 榎本公園(北海道江別市工栄町)
; テレビドラマ
: 1873年(明治6年)に10万坪の払下げを受けて造った「榎本農場」の跡地に整備された。[[佐藤忠良]]作の銅像がある<ref>{{Cite web |date=2011-06|url=https://www.lib.city.ebetsu.hokkaido.jp/tdayori/edayoripdf/T201106.pdf |title=情報図書館だより255号 |format=PDF|publisher=江別市情報図書館 |accessdate=2015-05-18}}</ref>。
* 『[[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]』(2008年、NHK大河ドラマ、演:[[鈴木綜馬]])
* [[龍宮神社 (小樽市)|龍宮神社]](北海道小樽市稲穂3丁目)
: 榎本が北垣国道と共同で払下げを受けた地所の一角に建立された。榎本の銅像がある。
* 梁川公園(北海道函館市梁川町)
: 榎本の銅像がある。なお、函館市には榎本町、梁川町と由来する町名が2つある。
* 梅若公園(東京都墨田区堤通2丁目)
: [[防災団地]]である都営白鬚東アパートの一角にある。元は榎本がよく散策していた[[木母寺]]があった場所であり、[[1913年]](大正2年)に建てられた榎本の銅像がある。
<gallery>
File:Enomoto Takeaki statue.JPG|榎本武揚像(函館市梁川公園)
</gallery>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
230行目: 330行目:


=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
{{Reflist|group="注"|2}}


=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{Reflist|3}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
===著作・資料===
===著作・資料===
*榎本武揚 シベリア日記』、[[講談社学術文庫]]、2008年、ISBN 9784061598775
*{{Cite |和書 |editor = 講談社 |title = 榎本武揚 シベリア日記 |date = 2008 |publisher = 講談社 |isbn = 978-4-06-159877-5 |series = 講談社学術文庫 1877 |ref = 榎本武揚シベリア日記(講談社) }}
:「シベリア日記」、「渡蘭日記」、書簡4通を収録。
*『現代語訳 榎本武揚 シベリア日記』 諏訪部揚子・[[中村喜和]]編訳、[[平凡社ライブラリー]]、2010年、ISBN 9784010705599  
*『現代語訳 榎本武揚 シベリア日記』 諏訪部揚子・[[中村喜和]]編訳、[[平凡社ライブラリー]]、2010年、ISBN 9784010705599  
*『榎本武揚未公開書簡集』 榎本隆充編、[[新人物往来社]]、2003年、ISBN 9784582766974、書簡126通を収録
*『榎本武揚未公開書簡集』 榎本隆充編、[[新人物往来社]]、2003年、ISBN 9784582766974、書簡126通を収録
243行目: 344行目:


===伝記研究===
===伝記研究===
*{{Cite book|和書|title=榎本武揚|editor=榎本隆充・高成田亨編|publisher=[[藤原書店]]|year=2008|isbn=9784894346239|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=ドキュメント榎本武揚-明治の「読売」記事で検証-|author=秋岡伸彦|publisher=東京農業大学出版会|series=実学の森|year=2003|month=8|isbn=978-4886940377|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=榎本武揚伝|author=井黒弥太郎|publisher=[[ゆまに書房]]|year=1968|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=榎本武揚|author=井黒弥太郎|publisher=[[新人物往来社]]|year=1975|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=榎本武揚から世界史が見える|author=[[臼井隆一郎]]|publisher=[[PHP研究所]]|series=PHP新書|year=2005|month=2|isbn=9784569638515|url= http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=4-569-63851-1 |ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=榎本武揚から世界史が見える|author=[[臼井隆一郎]]|publisher=[[PHP研究所]]|series=PHP新書|year=2005|month=2|isbn=9784569638515|url= http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=4-569-63851-1 |ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=メキシコ榎本殖民-榎本武揚の理想と現実-|author=上野久|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|series=[[中公新書]]|year=1994|isbn=9784121011800|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=メキシコ榎本殖民-榎本武揚の理想と現実-|author=上野久|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|series=[[中公新書]]|year=1994|isbn=4-12-101180-5|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=行きゆきて峠あり 上|author=[[子母澤寛]]|publisher=[[講談]]|series=大衆文学館文庫シリーズ|year=1995|isbn=9784062620116}}
*{{Cite book|和書|title=榎本武揚|author=[[加茂儀一]]|publisher=中央公論社|series=[[中公文庫]]|year=1988|origdate= 1960 |isbn=4-12-201509-x|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=生きゆきて峠あり 下|author=子母澤寛|publisher=講談社|series=大衆文学館文庫シリーズ|year=1995|isbn=9784062620123}}
*{{Cite book|和書|title=古文書にみる榎本武揚|author=合田一道|publisher=藤原書店|year=2014|isbn=978-4-89434-9896
|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=榎本武揚|author=[[加茂儀一]]|publisher=中央公論社|series=[[中公文庫]]|year=1988|month=4|isbn=9784122015098}}
*{{Cite book|和書|title=榎本武揚と東京農大|author=松田藤四郎|publisher=東京農大出版会|year=2012|isbn=978-4-88694-030-8
|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=敗軍の将、輝く|author=望月武司|publisher=中西出版|year=2013|isbn=978-4-89115-285-7
|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|title=近代日本の万能人・榎本武揚:1836-1908|editor=榎本隆充・[[高成田亨]]編|publisher=[[藤原書店]]|year=2008|isbn=978-4-89434-623-9|ref=近代日本の万能人・榎本武揚}}
*{{Cite book|和書|title=榎本武揚-現代視点 戦国・幕末の群像-|editor=[[旺文社]]編|publisher=旺文社|year=1983|month=9|isbn=978-4010705599}}
*{{Cite book|和書|title=榎本武揚-現代視点 戦国・幕末の群像-|editor=[[旺文社]]編|publisher=旺文社|year=1983|month=9|isbn=978-4010705599}}
*{{Cite book|和書|title=東京農業大学百年史|editor=東京農業大学創立百周年記念事業実行委員会第二部会編|publisher=東京農業大学出版会|year=1993|month=5|url= http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I001136607-00 }}
*{{Cite book|和書|title=東京農業大学百年史|editor=東京農業大学創立百周年記念事業実行委員会第二部会編|publisher=東京農業大学出版会|year=1993|month=5|url= http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I001136607-00 }}
*{{Cite book|和書|title=東京農業大学百年史 資料編|editor=東京農業大学創立百周年記念事業実行委員会第二部会編|publisher=東京農業大学出版会|year=1994|month=12|url= http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I001136601-00 }}
*{{Cite book|和書|title=東京農業大学百年史 資料編|editor=東京農業大学創立百周年記念事業実行委員会第二部会編|publisher=東京農業大学出版会|year=1994|month=12|url= http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I001136601-00 }}
*{{Cite book|和書|title=榎本武揚と[[横井時敬]]-東京農大二人の学祖-|editor=東京農大榎本・横井研究会編|publisher=東京農業大学出版会|year=2008|isbn=9784886942012}}
*{{Cite book|和書|title=榎本武揚と[[横井時敬]]-東京農大二人の学祖-|editor=東京農大榎本・横井研究会編|publisher=東京農業大学出版会|year=2008|isbn=9784886942012}}
*{{Cite book|和書|title=寺島宗則自叙伝/榎本武揚子|series=日本外交史人物叢書第11巻|editor=吉村道男監修|publisher=[[ゆまに書房]]|year=2002|isbn=9784843306772|url= http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843306772 }}
*{{Cite book|和書|title=[[寺島宗則]]自叙伝/榎本武揚子|series=日本外交史人物叢書第11巻|editor=[[吉村道男]]監修|publisher=[[ゆまに書房]]|year=2002|isbn=9784843306772|url= http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843306772 }}
*{{Cite book|和書|title=ドキュメント榎本武揚-明治の「読売」記事で検証-|author=秋岡伸彦|publisher=東京農業大学出版会|series=実学の森|year=2003|month=8|isbn=978-4886940377|ref=harv}}
:{{Cite book |和書 |author=一戸隆次郎 |year=1909 |title=榎本武揚|publisher=嵩山堂 |id={{NDLJP |781107}} |ref=harv }}を収録。
*木立順一 『日本偉人伝』メディアポート 2014年。 ISBN 978-4865580150。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
263行目: 372行目:
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons|Enomoto Takeaki}}
{{Commons|Enomoto Takeaki}}
* [http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/enomototakeaki.html 国立国会図書館 憲政資料室 榎本武揚関係文書]
* [http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/enomototakeaki.php 国立国会図書館 憲政資料室 榎本武揚関係文書]
* {{青空文庫著作者|1264}}
* {{青空文庫著作者|1264}}


308行目: 417行目:
}}
}}
{{Succession box
{{Succession box
| title = [[蝦夷共和国|蝦夷共和国総裁]]
| title = [[蝦夷共和国|蝦夷総裁]]
| years = 初代:1868年 - 1869年
| years = 初代:1869年 - 1869年
| before = 創設
| before = 創設
| after = 消滅
| after = 消滅
321行目: 430行目:
{{在ロシア連邦日本大使||ロシア帝国公使}}
{{在ロシア連邦日本大使||ロシア帝国公使}}
{{在中国日本大使||清公使}}
{{在中国日本大使||清公使}}

{{Normdaten}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:えのもと たけあき}}
{{DEFAULTSORT:えのもと たけあき}}
330行目: 438行目:
[[Category:戊辰戦争の人物]]
[[Category:戊辰戦争の人物]]
[[Category:箱館戦争の人物]]
[[Category:箱館戦争の人物]]
[[Category:開拓使の人物]]
[[Category:在清国日本公使]]
[[Category:在清国日本公使]]
[[Category:大日本帝国海軍将官]]
[[Category:大日本帝国海軍将官]]
344行目: 453行目:
[[Category:東邦協会の人物]]<!-- 東邦協会報告12会員姓名 -->
[[Category:東邦協会の人物]]<!-- 東邦協会報告12会員姓名 -->
[[Category:殖民協会の人物]]
[[Category:殖民協会の人物]]
[[Category:南進論の人物]]
[[Category:日露関係史]]
[[Category:日墨関係]]
[[Category:日墨関係]]
[[Category:帝国軍人後援会の幹部]]
[[Category:帝国軍人後援会の幹部]]

2015年9月24日 (木) 03:26時点における版

榎本 武揚
幕末の榎本
生年月日 1836年10月5日
出生地 日本の旗 武蔵国江戸下谷御徒町
没年月日 (1908-10-26) 1908年10月26日(72歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府
出身校 長崎海軍伝習所
前職 幕臣
称号 海軍中将
正二位
勲一等旭日桐花大綬章
子爵
配偶者 榎本たつ(多津)

日本の旗 初代 逓信大臣
内閣 第1次伊藤内閣
黒田内閣
在任期間 1885年12月22日 - 1889年3月22日

日本の旗 農商務大臣(臨時兼任)
内閣 黒田内閣
在任期間 1888年4月30日 - 同7月25日

日本の旗 第2代 文部大臣
内閣 黒田内閣
第1次山縣内閣
在任期間 1889年3月22日 - 1890年5月17日

日本の旗 第7代 外務大臣
内閣 第1次松方内閣
在任期間 1891年5月29日 - 1892年8月8日

日本の旗 第10代 農商務大臣
内閣 第2次伊藤内閣
第2次松方内閣
在任期間 1894年1月22日 - 1897年3月22日

その他の職歴
蝦夷島総裁
(1869年1月27日(明治元年12月15日) - 1869年6月27日(明治2年5月18日))
日本の旗 第3代 海軍卿
(1880年2月28日 - 1881年4月7日)
テンプレートを表示

榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日天保7年8月25日) - 1908年明治41年)10月26日)は、日本武士幕臣)、化学者外交官政治家海軍中将正二位勲一等子爵通称釜次郎[注 1]梁川(りょうせん)[注 2]。榎、釜を分解した「夏木金八(郎)」という変名も用いていた[3][4]。なお、武揚は「ぶよう」と故実読みでも呼ばれた。

伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。

敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣文部大臣外務大臣農商務大臣などを歴任、子爵となった。

また、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会電気学会など数多くの団体を創設した。

生涯

生い立ち

和装の榎本武揚

1836年天保7年)、江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)、通称・三味線堀の組屋敷で西丸御徒目付・榎本武規の次男として生まれる[5]

近所に住んでいた田辺石庵[注 3]に入門し儒学を学んだ[7]後、1851年嘉永4年)、昌平坂学問所に入学。1853年(嘉永6年)に修了するが、修了時の成績は最低の「丙」であった[8][注 4]1854年安政元年)、箱館奉行堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現在の北海道函館市)に赴き、蝦夷地・樺太巡視に随行[9]1855年(安政2年)、昌平坂学問所に再入学する(翌年7月退学)[8]が、同年長崎海軍伝習所の聴講生となった後、1857年(安政4年)に第2期生として入学[注 5]。海軍伝習所では、カッテンディーケポンペらから機関学、化学などを学んだ[12]。カッテンディーケは伝習所時代の榎本を高く評価していた[注 6]

1858年(安政5年)海軍伝習所を修了し、江戸の築地軍艦操練所教授となる[14]。また、この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、後に箱館戦争をともに戦う大鳥圭介と出会う[8]

オランダ留学

開陽丸(1867年頃)

1861年文久元年)11月、幕府はアメリカに蒸気軍艦3隻を発注するとともに、榎本・内田正雄澤太郎左衛門赤松則良田口俊平津田真道西周をアメリカへ留学させることとした。しかし、南北戦争の拡大によりアメリカ側が断ったため、翌1862年(文久2年)3月にオランダに蒸気軍艦1隻(開陽丸)を発注することとし、留学先もオランダへ変更となった[15]

同年6月18日、留学生一行は咸臨丸で品川沖から出発。途中、榎本・沢・赤松・内田が麻疹に感染したため下田で療養し、8月23日長崎に到着[16]。9月11日、オランダ船カリップス号で長崎を出航、バタビアへ向かう。ジャワ島北方沖で暴風雨に遭い、船が座礁し無人島へ漂着するが、救出されてバタビアで客船テルナーテ号に乗り換える[17]セントヘレナ島ナポレオンの寓居跡などを訪ねた後、1863年(文久3年)4月18日、オランダ・ロッテルダムに到着した[18]。オランダでは当時海軍大臣となっていたカッテンディーケやポンペの世話になった。榎本はハーグで下宿し、船舶運用術、砲術蒸気機関学、化学、国際法を学んだ[19]

1864年元治元年)2月から3月にかけ、赤松則良とともにシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争観戦武官として見学した[注 7]プロイセンオーストリア軍の戦線を見学した後、デンマークに渡り、同軍の戦線を見学した[21]。その後、エッセンクルップ本社を訪れ、アルフレート・クルップと面会した[22]。また、フランスが幕府に軍艦建造・購入を提案したことを受け、内田とパリへ赴き、フランス海軍と交渉した[23]ほか、赤松とイギリスを旅行、造船所や機械工場、鉱山などを視察した[24]

1866年慶応2年)7月17日に開陽丸が竣工し、同年10月25日、榎本ら留学生は開陽丸とともにオランダ・フリシンゲン港を出発、リオデジャネイロアンボイナを経由して、1867年(慶応3年)3月26日、横浜港に帰着した[25]

5月10日に幕府に召し出され[26]、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられる[27]。7月8日に軍艦頭並[28]となり、布衣を許される[29]。9月19日に軍艦頭となり、和泉守[注 8]を名乗る[27]。同年、オランダ留学生仲間の林研海の妹(奥医師・林洞海の長女)・たつと結婚した[31]

戊辰戦争

阿波沖海戦・大坂撤退

1867年末には幕府艦隊を率いて大坂湾へ移動しており、京都での軍議にも参加していた[32]。翌1868年(慶応4年)1月2日、大坂湾から鹿児島へ向かっていた薩摩藩の平運丸を攻撃した。薩摩藩の抗議に対し榎本は、薩摩藩邸焼き討ち以来、薩摩藩とは戦争状態にあり港湾封鎖は問題ないと主張[33]。更に1月4日には、兵庫港から出港した薩摩藩の春日丸ほかを追撃、阿波沖海戦で勝利した[34]鳥羽・伏見の戦いでの旧幕府軍敗北を受けて、榎本は軍艦奉行・矢田堀景蔵ともに幕府陸軍と連絡を取った後、1月7日に大坂城へ入城した[35][注 9]。しかし徳川慶喜は既に6日夜に大坂城を脱出しており、7日朝、榎本不在の開陽丸に座乗した後、8日夜に江戸へ引き揚げていた[37]

榎本は大坂城に残された什器や刀剣などを運び出し、城内にあった18万両[注 10]富士山丸に積み、新撰組や旧幕府軍の負傷兵らとともに、12日に大阪湾を出発、15日、江戸に到着した[39]。1月23日、海軍副総裁に任ぜられる[40]。榎本は徹底抗戦を主張したが、恭順姿勢の慶喜は採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従い、榎本派が旧幕府艦隊を支配した[41]

旧幕府艦隊の脱走

品川沖の旧幕府艦隊
後列左から小杉雅之進榎本道章林董三郎松岡磐吉、前列左から荒井郁之助、榎本武揚

同年4月11日、新政府軍は江戸開城に伴い降伏条件の一つ[注 11]である旧幕府艦隊の引渡を要求するが、榎本は拒否し、人見勝太郎伊庭八郎が率いる遊撃隊を乗せ、悪天候を口実に艦隊8隻で品川沖から安房国館山に脱走した[43]勝海舟の説得により4月17日に品川沖へ戻り[44]、4隻(富士山丸・朝陽丸翔鶴丸観光丸)を新政府軍に引渡したが、開陽等の主力艦の温存に成功した[45][注 12]。榎本はなおも抵抗姿勢を示し、閏4月23日には勝に艦隊の箱館行きを相談するが反対される[46]。5月24日に徳川宗家の駿河・遠江70万石への減封が決定[47]。榎本は移封完了を見届けるとしつつも、配下の軍艦で、遊撃隊や請西藩主・林忠崇に協力して館山藩の陣屋を砲撃した上、小田原方面へ向かう彼らを館山から真鶴へ輸送したほか、輪王寺宮や脱走兵を東北地方へ運ぶなど旧幕府側勢力を支援した[48]。7月には奥羽越列藩同盟の密使(仙台藩・横尾東作会津藩雑賀孫六郎米沢藩佐藤市之允)と会い、7月21日、列藩同盟の参謀を務めていた板倉勝静小笠原長行宛に支援に向かう旨の書状を出した[49]

8月に入ると密かに脱走準備を進め[50]、8月4日、勝に軽挙妄動を慎むよう申しわたされる[51]が、8月15日に徳川家達駿府に移り移封が完了する[47]と、榎本は8月19日、抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、回天丸蟠竜丸千代田形神速丸美賀保丸咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、奥羽越列藩同盟の支援に向かった[52]。この艦隊には、元若年寄永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎彰義隊や遊撃隊の生き残り、そして、フランス軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネアンドレ・カズヌーヴなど、総勢2,000余名が乗船していた[52]。江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告文」という趣意書を勝海舟に託している[53]

檄文
王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は然らず。王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名を以てす。其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は頓に官有と為し、遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。又甚しからずや。これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して情実通ぜず。故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんとす。それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行せしめん事、唯此一挙に在り。
之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心に志ある者は、此言を聞け。[54]

房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、咸臨丸・美賀保丸の2隻を失うが、8月下旬頃から順次仙台に到着した[52]。9月2日、榎本、ブリュネ、カズヌーブは仙台城伊達慶邦に謁見する[55]。翌日以降、仙台藩の軍議に参加する[56]が、その頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、9月12日に仙台藩も降伏を決定した[57]。これを知った榎本と土方歳三は登城し、執政・大條孫三郎遠藤文七郎に面会し、翻意させようとするが果たせず、出港準備を始めた[58]。旧幕府艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、鳳凰丸を艦隊に加え、桑名藩主・松平定敬、大鳥圭介、土方歳三らと旧幕臣の伝習隊衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊など、計約3,000名を収容。新政府軍の仙台入城を受けて、10月9日に仙台を出航し石巻へ移動した。このとき、新政府軍・平潟口総督四条隆謌宛てに旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出している[59]。10月11日には横浜在住のアメリカ人でハワイ王国総領事であったユージン・ヴァン・リードから、ハワイへの亡命を勧められるが断っている[60]

その後、幕府が仙台藩に貸与したが無頼の徒に奪われ海賊行為を行っていた千秋丸気仙沼で拿捕し、宮古湾で補給の後、蝦夷地へ向かった[61]

箱館戦争

「箱館大戦争之図」永嶌孟斎画。一番左の白馬に乗り槍を持った人物が榎本。
五稜郭

蝦夷地に着いた旧幕府軍は、10月20日に箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木(現在の森町)に上陸した[62]。二手に分かれて箱館へ進撃、各地で新政府軍を撃破し、10月26日に五稜郭を占領、榎本は11月1日に五稜郭に入城した[63]。その後、松前藩を攻撃するが、開陽丸を江差攻略に投入した際、座礁により喪失する[64]。12月15日、蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙により総裁となった[65]

この間、イギリスとフランスは状況把握と自国民保護のため軍艦を箱館に派遣、榎本は11月8日に両国の艦長および在箱館領事と会談した[66]。イギリス公使ハリー・パークスとフランス公使ウトレー(Maxime Outrey)は、旧幕府軍を「交戦団体」として認めず、日本の内戦には「中立」ではなく「不干渉」とするという訓示を出していた。しかし艦長らは口頭で英仏両国の意思を伝えたものの、榎本らから文書にして欲しいと求められ、翌日、「厳正中立を遵守する、旧幕府軍については英仏国民の生命・財産・貿易保護のためにのみ限定して『事実上の政権(Authorities de facto』として承認する」という、先の訓示とは異なる内容の覚書を手渡した[67]。それを知ったパークスらは、この覚書を否認する文書を作成し11月30日に旧幕府軍へ渡したが、榎本らは事実上の政権として認められたと「喧伝」した[68]

また、榎本は12月1日に新政府宛の嘆願書を英仏の艦長に託すが、12月14日、新政府に拒絶される[69]

12月18日、局外中立を宣言していたアメリカが政府支持を表明。幕府が買い付けたものの戊辰戦争の勃発に伴い引渡未了だった装甲艦甲鉄が、翌1869年(明治2年)1月、新政府に引き渡された[70]。旧幕府軍は状況を打破すべく、3月25日早朝、宮古湾に停泊中の甲鉄を奇襲し、移乗攻撃(アボルダージュ)で奪取する作戦を実行するが失敗に終わる(宮古湾海戦[71]

4月9日、新政府軍は蝦夷地・乙部に上陸し、旧幕府軍は5月初めには箱館周辺に追い詰められた。5月8日早朝、榎本自ら全軍を率いて大川(現在の七飯町)の新政府軍本陣を攻撃するが撃退される[72]。 新政府軍は5月11日の総攻撃で箱館市街を制圧した後、箱館病院長・高松凌雲の仲介で五稜郭の旧幕府軍に降伏勧告の使者を送る[73]が、5月14日、榎本らは拒否。榎本は拒否の回答状とともに、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた『海律全書』が戦火で失われるのを避けるため新政府軍海軍参謀に贈った[注 13][75]。これに対して新政府軍は海軍参謀名で感謝の意といずれ翻訳して世に出すという内容の書状[76]と酒と肴を送っている[77]

5月15日に弁天台場が降伏し、16日に千代ヶ岱陣屋が陥落すると、同日夜、榎本は責任を取り自刃しようとするが、近習の大塚霍之丞に制止された[78]。17日、榎本ら旧幕府軍幹部は亀田八幡宮近くの民家で黒田清隆らと会見し降伏約定を取り決め、18日朝、亀田の屯所に出頭し降伏した[79]

投獄

榎本武揚助命のため剃髪した黒田清隆(左)

榎本ら旧幕府軍幹部は、熊本藩兵の護衛の下、5月21日に箱館を出発し、東京へ護送された[80]。6月30日に到着し、辰ノ口(現在の千代田区丸の内1丁目)にあった兵部省軍務局糾問所の牢獄[注 14]に収監[82]。榎本らは一般の罪人と同じ牢獄に一人ずつ入れられ、それぞれ牢名主となった[83]

政府内では榎本らの処置に関して対立があり、木戸孝允ら長州閥が厳罰を求めた一方、榎本の才能を評価していた黒田清隆らが助命を主張[84][注 15]。糾問正・黒川通軌らによりフランス軍人の参加とガルトネル開墾条約事件に関する尋問が行われた[86]以外、何も動きがないまま拘禁が続いた。

後年榎本を批判する福澤諭吉も助命活動を行っている。榎本の母と福澤の妻は遠縁ながら本人同士はさほど面識がなかったが、榎本の妹婿であり福澤の元上司であった元外国奉行江連堯則から榎本の状況把握を依頼された福澤は糾問所に掛け合っている。そして、静岡にいた榎本の母と姉を江戸に呼び寄せ、榎本の母のために面会請願文を代筆した[87]。なお福澤から化学の本を借りているが、日本一の化学者だと自負していた榎本は家族への手紙に、福澤の本は幼稚なもので、大勢の弟子を抱える福澤も大したことが無いと書き残している[88]

獄中では、洋書などの差し入れを受け読書に勤しみ、執筆や牢内の少年に漢学や洋学を教えたりしていた[89]。また、兄の家計を助けるため、孵卵器石鹸蝋燭など様々な物の製造法を手紙で詳細に教えている[90]

開拓使

1872年(明治5年)1月6日、特赦により出獄、親類宅で謹慎する[91]。3月6日に放免となり、同月8日、黒田が次官を務めていた開拓使に四等出仕として任官、北海道鉱山検査巡回を命じられた[92][注 16]

5月末、北垣国道らとともに海路北海道に向かう[94]。翌月から函館周辺を手始めに日高、十勝、釧路方面の資源調査を行い帰京。石炭隗を開拓使に持ち込んだ札幌在住の早川長十郎の情報を元に石狩炭田に関心を示す[95]

1873年(明治6年)1月、中判官に昇進[96]。同年1月から3月にかけ、東京の開拓使仮学校で黒田・榎本・ケプロンは地質調査方針策定のために三者会談を行う[97]。榎本は調査を進めるため、黒田がアメリカから招聘したホーレス・ケプロンとともに来道したものの、ケプロンに更迭されていたトーマス・アンチセルを再登用しようとしたが、ベンジャミン・スミス・ライマンに地質調査を行わせていたケプロンに反対される[98]。同年夏、榎本は再度北海道に行き、熊石(現在の八雲町)の石炭山を調査した後、石狩山地に入り空知炭田を発見、良質な炭層であると分析結果を出した[99]。しかしケプロンは、榎本の調査結果を認めず、「未熟の輩」と誹謗した[100]

北海道土地売貸規則が制定されると、1873年、早川長十郎に案内された石狩川沿いの対雁(ついしかり。現在の江別市)の土地10万坪、それと小樽(現在の小樽駅周辺)の土地20万坪を北垣国道とともに払い下げを受けた。対雁には「榎本農場」を開き[注 17]、小樽は「北辰社」[注 18]を設立し土地を管理した[103]

駐露特命全権公使

ロシア帝国との樺太の国境画定交渉と、ロシア皇帝アレクサンドル2世仲裁することとなったマリア・ルス号事件に対処するため、駐露特命全権公使に決まった澤宣嘉1873年10月に病死[104]。榎本が代役として1874年(明治7年)1月10日の閣議で領土交渉使節に決定し、18日、駐露特命全権公使に任命された。併せて1月14日、日本最初の海軍中将に任命された[105][注 19]。同年3月10日に横浜を出発、パリ・オランダ・ベルリンを経て、6月サンクトペテルブルクに着任[106]。6月18日、アレクサンドル2世に謁見し、20日にはクロンシュタット軍港を視察した[107]。領土交渉については、交際の広いポンペを日本公使館付属医師の名目で顧問に招きロシアの内部情報を探り[108][109]、ロシア外務省アジア局長ストレモウホフとの交渉の末、1875年(明治8年)5月7日、外務大臣アレクサンドル・ゴルチャコフ樺太・千島交換条約を締結した[110]。また、マリア・ルス号事件は同年6月13日、アレクサンドル2世の裁定が下り、日本が勝訴した[111]

その後、同年8月から9月にかけて西欧を視察。ドイツでクルップの工場と鉱山を見学した後、パリ、ロンドンを訪問した[112]。またロシア滞在中、幕末の遣日使節であったエフィム・プチャーチンらと親睦を深めた[113]

シベリア横断

1878年(明治11年)7月26日、サンクトペテルブルクを出発し帰国の途に向かう[114]。榎本は当時日本に広まっていた「恐露病」を克服するため、ロシアの実情を知ることを目的にシベリアを横断した[115]モスクワを経てニジニ・ノヴゴロドまで鉄道で行った後、船と馬車を乗り継ぎ、9月29日にウラジオストックに到着[116]。そこで黒田清隆が手配していた汽船・函館丸に乗船し、10月4日小樽に帰着。札幌滞在の後、10月21日に帰京した[117]。このとき、山内堤雲とともに小樽の手宮洞窟にある古代文字を調査し報告している[118]

帰国後

1879年(明治12年)2月12日、条約改正御取調御用掛を命じられ、同年9月10日に外務省二等出仕、11月6日に外務大輔となる。さらに11月18日、議定官を兼任した[119]

1880年(明治13年)2月28日、海軍卿に就任[119]。海上法規である日本海令草案を作成する[120][121]が、海軍人事に介入したため薩摩出身者の怒りを買い[122]1881年(明治14年)4月7日、海軍卿を免ぜられ[123]、同年予備役へ退いた[119]

当時、政府は明治宮殿の建設を計画しており、榎本は公使時代のロシア宮廷での経験を買われ[124] 、1881年5月7日に皇居造営御用掛、翌1882年(明治15年)5月27日、皇居造営事務副総裁[注 20]に就任[123]。このときから、皇室との関係が他の顕官に比べてより深いものとなった[124]

同年8月12日、駐特命全権公使となり、妻子を連れて北京へ赴任[126]1883年(明治16年)末に李鴻章大沽で会談、親交を深める[127]1884年(明治17年)に朝鮮甲申事変が発生すると、日本側全権の伊藤博文を支え李鴻章と度々会談し、天津条約締結に貢献した[128]1885年(明治18年)10月、清国駐在を免ぜられ帰国した[129]

大臣を歴任

逓信大臣

1885年12月22日、内閣制度が発足。第1次伊藤内閣の逓信大臣に就任する[130]1887年(明治20年)5月24日、勲功をもって子爵に叙される[131]1888年(明治21年)4月30日に黒田内閣が誕生すると、逓信大臣に留任するとともに、それまで黒田が務めていた農商務大臣を井上馨が後任となる7月25日まで臨時兼任した[132]。同年、電気学会を設立、初代会長となる[133]

文部大臣

1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法発布式では儀典掛長を務めた。同日暗殺された文部大臣・森有礼の後任として、3月22日、逓信大臣から文部大臣へ横滑りする[134]第1次山縣内閣で留任し、明治天皇の希望であった道徳教育の基準策定を命じられる。大臣親任式で天皇から特に希望されたにもかかわらず、積極的に取り組まなかった。そのため1890年(明治23年)2月の地方官会議で知事たちから突き上げられ、5月17日に更迭[注 21]枢密顧問官となった[135][136]。また、同年開催された内国勧業博覧会の副総裁を務めた[137]

育英黌農業科の開校

東京農業大学開校の地(東京都飯田橋)

1885年、榎本と伊庭想太郎らが中心となり、旧幕臣の子弟に対する奨学金支給のため徳川育英会を設立[138]。この徳川育英会を母体に、1891年(明治24年)3月6日、東京・飯田橋に「育英黌」を設立し管理長に就任した(校長は永持明徳[139]。育英黌は、農業科(現在の東京農業大学)、商業科、普通科の3科があった[139]が、甲武鉄道の飯田橋延伸に伴う敷地の買収話が持ち上がり、農業科は翌1892年10月23日、小石川区大塚窪町(現在の文京区大塚三丁目)に移転し、育英黌分黌農業科と改称した(校長は伊庭想太郎)[140]。更に1893年、私立東京農学校と改称し、榎本は校主となった(校長は伊庭)[141]。1894年に徳川育英会から独立した[142]が、毎年の入学者が50人を超えず[143]生徒が集まらない状況に榎本は廃校を決意。しかし農学校の評議員であった横井時敬が反対し運営を引き継ぐ。榎本は手を引き、1897年(明治30年)、農学校は大日本農会に移管された[144]

外務大臣

1891年5月11日に大津事件が発生すると、榎本は、5月15日、ロシアへの謝罪使節・有栖川宮威仁親王の随行員を命じられた[145]が、17日にロシア公使が使節派遣は不要と表明したことから中止となる[146]。但し外務大臣・青木周蔵が引責辞任すると、5月29日、榎本が後任に任命され[146][147]、義弟の林董を次官とした[148]。青木が取り組んでいた条約改正交渉を継続し、1892年(明治25年)4月12日、条約改正案調査委員会を立ち上げ[149]、同年、ポルトガルが経費削減のため総領事を廃止したのを機に同国の領事裁判権を撤廃した[150][151]。また、以前から私的に取り組んでいた海外殖民を政策として進めた(メキシコ殖民の項を参照)。

1892年8月8日、第1次松方内閣総辞職に伴い外務大臣を辞任、枢密顧問官となる[152]

農商務大臣

1894年(明治27年)1月22日、第2次伊藤内閣の農商務大臣に就任する[153]

当時、日本は鉄鋼需要の大半を輸入に依存しており[154]、政府は新たに製鉄所(後の八幡製鐵所)の建設を計画していた。製鉄所は民営とすることで1893年に閣議決定していたが、榎本は大臣に就任すると官営を主張し先の閣議決定を覆した[155]1896年(明治29年)、製鉄所建設の予算が成立し、3月29日に製鉄所官制が公布。榎本は製鉄所初代長官に腹心の山内堤雲を就けた[155]。なお、荒井郁之助による浦賀船渠の設立(1897年(明治30年))を後援している[156]

足尾鉱毒事件

かねてより足尾銅山の鉱毒被害は問題となっており、1895年(明治28年)には、栃木県知事・佐藤暢群馬県知事・中村元雄は連名で政府に足尾銅山に関する要望書を提出するが、榎本はこれを放置[157]。1896年9月の大洪水で鉱毒被害が拡大・激化。翌1897年2月、田中正造が国会で鉱業停止を命じない理由の回答を求める質問書を提出し、政府の取り組みを非難する演説を行った[158]。これに勢いづいた被害農民は1千名を超える陳情団(第1回大挙東京押出し)を上京させ、榎本は3月5日、被害農民と面談した[159]。3月18日、先の田中の質問に対して、政府は榎本と内務大臣・樺山資紀の連名で、「示談契約は古河鉱業と被害農民の民事上の問題であり政府は関与しない。鉱業停止も鉱業条例に適合するか断言できない。但し政府は黙視していたわけではない」という回答書を出した[159]が、この回答は被害農民の反発を招き、第2回大挙東京押出しを引き起こす[160]。3月23日、榎本は谷干城津田仙の助言を受け入れ、津田の案内で現地を視察。同日夜、大隈重信に相談し、24日に鉱毒調査委員会を設置した[160]。27日に再度陳情団と面談[161]の後、29日に大臣を引責辞任、前官礼遇を受ける[162]。なお辞表では「脳症に罹り激務に耐えがたい」ことを辞任理由としている[163]

メキシコ殖民

エスクイントラの位置(メキシコ内)
エスクイントラ
エスクイントラ
エスクイントラの位置

榎本は長年、海外殖民への関心を抱き、駐露特命全権公使時代には、岩倉具視に日本領が確定したばかりの小笠原諸島へ罪人を移住させたり、スペイン領のラドローネン諸島(マリアナ諸島)ペリリュー島を購入し、更にニューギニア島の一部とソロモン諸島などを日本領として、それらを拠点に貿易事業を推進することを建言していた[164]

1879年、渡辺洪基らと東京地学協会を立ち上げ、ボルネオ島とニューギニア島を買収し、日本人を移住させることを発案する[165]。1891年、外務大臣に就任すると「移民課」を新設し[注 22][168][169]、ニューギニア島やマレー半島などに外務省職員や移住専門家を派遣し、植民地建設の可能性を調査させた[170]。そこへ在サンフランシスコ領事館からメキシコ政府が開発のため外資と移民を歓迎している話が入り、在米特命全権公使の建野郷三にメキシコ殖民の可能性を調査させた。建野がメキシコの地代は安く日本の農民を送って事業を興せば莫大な利益が得られるとの報告を上げると、榎本はメキシコ殖民に傾き、早速、メキシコに中南米初の領事館を開設した[171]

外務大臣辞任後の1893年(明治26年)、榎本が会長となり殖民協会を設立[172]根本正をメキシコに派遣し、コーヒー生産が期待できるという報告を受けた[173]。続いて1894年、アメリカ留学帰りの橋口文蔵をメキシコ南部のチアパス州へ派遣し、エスクイントラ英語版が入植に最適との報告を受けた[174]。殖民団の資金集めのため、1895年の墨国移住組合設立に続き、1896年12月、榎本が社長となり日墨拓殖株式会社を設立したが、1株50円で4,000株、20万円の資本金を集める計画に対し、1,919株しか売れなかった[175]。榎本は資金調達が不調であるにもかかわらず、1897年1月、メキシコ政府とエスクイントラ官有地払下げ契約を締結[175]。3月24日、36名の殖民団が横浜を出発した[176]。殖民団は5月19日にエスクイントラに到着する[177]が、マラリアが蔓延したことに加えて、雨季に入っていたためジャングルの伐採が進まず、入手したコーヒー苗も現地の環境に合わないものであったことなどで資金が尽き、逃亡者が発生して僅か3ヶ月で殖民地は崩壊した[178]。榎本は1900年(明治33年)、事業を殖民協会会員で代議士の藤野辰次郎に譲渡し手を引いた[179]

晩年

晩年の榎本武揚
榎本武揚の墓(吉祥寺)

1898年(明治31年)、富山県で発見された隕石から製作させた日本刀・「流星刀」を皇太子に献上。流星刀の製造技術を論文『流星刀記事』として発表した[180]。また同年、工業化学会の初代会長となる[181]1900年、盟友・黒田清隆が死去した際、葬儀委員長を務めた[182]

1905年(明治38年)10月19日、海軍中将を退役となる[183]。1908年(明治41年)7月から病気となり、10月26日[注 23]、腎臓病で死去[185]。享年73。同月30日、海軍葬が行われた[186]。墓所は東京都文京区吉祥寺にある。

栄典

外国勲章等
  • 1878年(明治11年)11月24日 - ロシア帝国聖スタニスラフ第一等勲章(en[119]
  • 1887年(明治20年)10月3日 - ポルトガル王国サンベノァダウィ勲章コマンデール[190]
  • 1888年(明治21年)1月28日 - ロシア帝国聖アンナ第一等勲章(en[191]
  • 1892年(明治25年)6月29日 - ロシア帝国白鷲大綬章(en[192]
  • 1893年(明治26年)6月21日 - 安南帝国龍星第一等勲章[193]

人物

榎本武揚像(墨田区梅若公園)

鳥谷部春汀に「江戸っ子の代表的人物」と評された[194]ように、執着心に乏しく野暮が嫌いで、正直で義理堅く、涙もろい人間であった。親交のあった新門辰五郎の孫を引き取り学校に通わせたり、困っている人がいれば気軽に金を貸していた[195]が、林董は「一度人を信用すれば何でも信じてしまうため、友達としては最高だが、仕事仲間としては困る人だ」と評している[196]

投獄されていた際、市井無頼の徒と交流したこともあり、気軽で無頓着、清元節都々逸など粋な趣味を持った[197]。晩年も力士を座敷に招いて相撲を取らしたり、門付の新内語りを玄関先に呼び入れたりしていた[194]

酒豪で日本酒を「米の水」と呼んでいた[198]。洒落っ気があり、戊辰戦争のときの心境について明治になってから聞かれた際、「今ならあんな幼稚なことはしないが、帰国したばかりで良く判らなかったし、長州人といっても当時はどこの馬の骨だか判らないので抵抗してみた」ととぼけている[199]。また投獄中、重罪人であるにも関わらず、当時の政府を批判する「ないない節」という戯れ歌を作っていた[200]

堂上たちには腹がない 鍋島さまにはしまりがない 参議の者にはいくぢがない そこでなんにもしまらない 今度のご処置はたわいない 官軍朝敵差別ない 死んだ者には口がない 攘夷々々ととめどない 開港してもしまりない 大蔵省には金がない 弾正無茶には仕様がない することなすことわけがない 所々の恋女はつまらない 盗人年中たえがない 世上安堵の暇がない そこで万民命がない とんと日本もおさまらない ないない節 一くだり 榎本武揚酔墨

向島に屋敷を構えていた榎本は向島百花園を気に入り、晩年、朝夕の散歩がてら訪れては四季の草花を眺めていた[201]。植物、特に外国の花については非常に博識で、百花園の主人に教えていたこともあるという[202]。また、将軍家のために造られた御成座敷で酒を飲むのを好んでいた[201]。園内には俳人・其角堂永機の「闇の夜や誰れをあるじの隅田川」という句碑があるが、榎本はこれを見て、拙い句だとして「朧夜や誰れを主(あるじ)と言問はむ鍋焼きうどんおでん燗酒」と詠み直している(燗酒の歌)[203]

政治家としては、実務的大臣を歴任し「明治最良の官僚」と評され[204]、明治天皇からも信頼を得て、大津事件の謝罪使節派遣に際しては一旦辞退したものの、天皇・皇后から役目を受けるよう御諚を賜っている[146]。しかし一方で、幕臣ながら薩長の政府に仕えた「帰化族の親玉」[205]や、藩閥政治の中で名ばかりの「伴食大臣」という批判も受けた。

瘦我慢の説

榎本を大々的に批判した人物に、福沢諭吉がいる。1887年、榎本は清水次郎長らとともに清水・清見寺に咸臨丸の慰霊碑を建て、史記淮陰侯列伝の一節「食人之食者死人之事(人から恩を受けた者は、その人のために死ぬ)」を碑に記した。1890年、清見寺を訪れた際に碑を見て憤慨した福澤は、翌年、「幕府の高官でありながら新政府に仕え華族となった榎本と勝海舟は、本来徳川家に殉じて隠棲すべきであった」と批判する『瘠我慢の説』を書いた。福澤は榎本と勝に本書を送り意見を求めたが、当時、外務大臣であった榎本は、「多忙につき、そのうち返答する」という返事を出した。瘠我慢の説は1899年(明治33年)12月、世間に公表されたが、翌年2月に福澤が死去し、榎本は返答しないまま終わった[206]

逸話

  • オランダ留学中に電信術を学び、帰国時にフランス製のディニエ電信機を持ち帰った。箱館戦争で倉庫に預けたまま失われていたが、明治に入り、沖牙太郎が古道具屋で購入した。榎本が電気学会会長であった1888年に電気学会講演会の場で紹介され、偶然にも再会することとなった。この電信機は現在、郵政博物館に収蔵されている[207]
  • 逓信大臣のとき、逓信省の「徽章(郵便記号)」を決定。1887年2月8日、「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示した[208]が、2月19日の官報で「実は〒の誤りだった」[209]と変更した。その事情として、徽章が万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と紛らわしいことが判明したため、榎本が「Tに棒を一本加えて「」にしたらどうだ」と提案し、変更したという説がある[210]。郵便記号誕生に関する諸説のうちのひとつ。
  • 徳川慶喜が公爵となったとき(1902年)、旧幕臣が集まり祝宴を開いた。その際、慶喜一家とともに榎本も加わって写真を撮ることになったが、榎本は主君と一緒の写真など失礼なことはできないとして遠慮している[211]

系譜・親族

榎本家の先祖は相模国から武蔵国へ移り住んだ郷士であり、江戸時代は代々御徒士として仕えた家柄であった[5]家紋は丸に梅鉢。

旧名は箱田真与(しんよ)、通称・良助、源三郎。榎本家に入婿した後の通称は円兵衛、左太夫[213]備後国安那郡箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)の庄屋・細川(箱田)園右衛門直知の次男[214]菅茶山の廉塾に学び、数学を得意としていた。17歳の時、江戸に上り、兄・右忠太(うちゅうた)とともに伊能忠敬の弟子になる[215]。1809年(文化6年)の第1回九州測量以降、実測に随伴し、大日本沿海輿地全図の作成に貢献した[216]。伊能の死後、1818年文政元年)[注 24]に御家人の榎本家の株を買い、榎本武兵衛武由の娘みつと結婚して婿養子となり、武規と名乗る[217]1826年(文政6年)12月1日、天文方に出仕[213]1833年(天保4年)7月23日に西丸御徒目付、1840年(天保11年)5月17日に右大将御付、同年8月8日に本丸勤務、1844年弘化元年)に勘定となり、1846年(弘化3年)に小普請入りとなった[218]
  • 母:琴(? - 1871年(明治4年)8月26日[212]
武規の後妻。一橋家馬預・林代次郎正利の娘[219]
  • 妻:たつ(多津、1852年(嘉永5年)6月1日 - 1892年(明治25年)8月2日[212][220]
林洞海とつる(佐藤泰然の長女)の長女で、林研海の妹。妹に赤松則良の妻となった貞、弟に西周の養子となった西紳六郎、母方の叔父に松本良順、および林洞海の養子となり弟となった林董、叔母に山内作左衛門(山内提雲の兄)の妻となったふさがいる。
  • 長男:武憲(1873年(明治6年)1月1日 - 1924年(大正13年)11月6日[221]
幼名・金八。黒田清隆の長女・梅子(1882年(明治15年)1月24日 - 1934年(昭和9年)2月26日[221])と結婚。2人の娘・千代子(1905年(明治38年)1月5日 - 1969年(昭和44年)11月7日[222])は、黒田清隆の養子・常清に嫁いでいる[119]。1908年(明治41年)11月10日に子爵位を継承、貴族院議員。東京農業大学客員教授の榎本隆充は武憲の孫。
  • 長女:きぬ - 幼少時に死亡[212]
  • 次男:春之助(1880年(明治13年)1月20日 - 1908年(明治41年)6月21日[212]
  • 三男:尚方(1883年(明治16年)11月8日 - 1954年(昭和29年)11月25日[212]
  • 三女:多賀子 - 幼少時に死亡[212]
  • 次姉:らく(観月院) - 鷹匠・鈴木金之丞経正に嫁ぐが若くして未亡人となる。武揚が慕っていた[219]
  • 兄:武与(與)(たけとも、1832年(天保3年) - 1900年(明治33年)7月13日[212]
幼名・鍋太郎。通称・勇之丞。大番格歩兵指図役を務めた[29]

著作

  • 『渡蘭日記』
オランダ留学時のバタビアからセントヘレナ島までの日記。同島で榎本が破棄しようとしたものを澤太郎左衛門が貰い受けた[224]
  • 『獄中詩』
投獄中の日記。
  • 『開成雑爼』
投獄中に執筆した、油、石鹸、蝋燭などの製造法を記した書[225]
  • 『北海道巡回日記』
開拓使で北海道の資源調査を行った際の記録。
  • 『西比利亜日記』
シベリア横断時の日記。大小の冊子2冊に記された。長らく存在は知られていなかったが、関東大震災で倒壊した榎本の屋敷を整理していた同家の執事・近松虎蔵新門辰五郎の孫)が1935年(昭和10年)、武揚の次男・榎本春之助に見せ、世間に明らかになった[226]1939年(昭和14年)、南満州鉄道により出版された[227]
翻訳
  • 『朝鮮事情』
フランス人宣教師シャルル・ダレ著『朝鮮教会史』のうち国内事情を記した序論を、駐露特命全権公使時代にポンペとともに翻訳[228]
  • 『千島誌』
ロシア人・ポロンスキー(A.S.Polonsky)の著作を駐露特命全権公使時代に市川文吉花房義質らと翻訳[229]

海律全書

フランス人のジャン・フェリーチェ・テオドール・オルトラン(Jean Felieché Théodore Ortolan)[注 25]著の海洋法に関する本。原題は"Régles Internationales et diplomatie de la Mer"(「海の国際法と外交」)。榎本が高松凌雲に宛てた手紙で"Régles Internationales"に「海律」という日本語を当てたことから、『海律全書』または『万国海律全書』と呼ばれるようになった。1845年に初版が発行され、榎本留学中の1864年に第4版が出版されている。上下2冊で構成され、第1冊は総論、序論と平時法規、第2冊は戦争状態を扱っている[231]。日本では、1899年(明治22年)に海軍参謀本部により『海上国際条規』として和訳された[232]

榎本が所持していた「本」は、化学の師であるハーグ大学フレデリクス教授が蘭訳し自筆筆写したもので、オランダ語で"Diplomatie der Zee"(「海の外交」)という題名が付けられていた[233]。なおオルトランの原書の完全訳ではなく、榎本用に内容を取捨かつ判りやすくしたものであり、後に榎本により原書と対比した書き込みがなされている[234]

箱館戦争の際に榎本から受け取った黒田清隆は、維新後、本書を海軍省に納めたが、榎本は海軍卿時代に本書を海軍省の書庫で発見し、再び自分の蔵書とした[235]。その後、孫・武英が1916年(大正5年)に宮内省に献上、現在は宮内庁書陵部に保管されている[236]

なお、榎本の投獄中に福沢諭吉が本書の翻訳を依頼されている。福澤は本書の序文4-5頁だけ翻訳して、これは貴重な本だが講義録であるから講義を聞いた本人でなければ判らないとして、暗に榎本の助命を求めていた[87]

榎本武揚を題材とする作品

文学作品
テレビドラマ

ゆかりの地

  • 榎本公園(北海道江別市工栄町)
1873年(明治6年)に10万坪の払下げを受けて造った「榎本農場」の跡地に整備された。佐藤忠良作の銅像がある[237]
榎本が北垣国道と共同で払下げを受けた地所の一角に建立された。榎本の銅像がある。
  • 梁川公園(北海道函館市梁川町)
榎本の銅像がある。なお、函館市には榎本町、梁川町と由来する町名が2つある。
  • 梅若公園(東京都墨田区堤通2丁目)
防災団地である都営白鬚東アパートの一角にある。元は榎本がよく散策していた木母寺があった場所であり、1913年(大正2年)に建てられた榎本の銅像がある。

脚注

注釈

  1. ^ 兄・鍋太郎(榎本武与)とともに、鍋と釜があれば食うには困らないという意味で名づけられた[1]
  2. ^ 出生地である「柳川横町(近所に柳川藩邸があった)」にちなむ。但し柳川では柳川鍋に通ずるため、梁川としたとされる[2]
  3. ^ 本名・村瀬誨輔。幕臣、儒者[6]。外交官・田辺太一の父。
  4. ^ 「甲」「乙」は名前が公表されるが、榎本の名前が無かったことから、「丙」とみられている[8]
  5. ^ 榎本は入学願を出したが却下され、昌平黌の学友・伊沢勤吾の父である大目付・伊沢政義に頼み込み、伝習所頭取となった勤吾の同行者として入学を許された[10]。なお赤松則良は、榎本は矢田堀景蔵の従者扱いで員外の者として講義を受けていた、と記している[11]
  6. ^ カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』「榎本釜次郎氏のごとき、その先祖は江戸において重い役割を演じていたような家柄の人が、二年来一介の火夫、鍛冶工および機関部員として働いているというがごときは、まさに当人の勝れたる品性と、絶大なる熱心を物語る証左である。これは何よりも、この純真にして、快活なる青年を一見すれば、すぐに判る。彼が企画的な人物であることは、彼が北緯59度の地点まで北の旅行をした時に実証した。」[13]
  7. ^ 同行のオランダ軍士官から洋服ではインド人と間違われる可能性があると指摘され、打裂(ぶっさき)羽織・裁付(たっつけ)袴に二刀差しの姿で観戦した[20]
  8. ^ 当時、榎本は神田和泉町に屋敷があったことから、和泉守としたといわれる[30]
  9. ^ 榎本は大坂城への登城途中に、負傷兵を保護していたプロイセン公使マックス・フォン・ブラントから、負傷兵の面倒を見ることを要請されている[36]
  10. ^ うち3万両は榎本に下賜され、オランダに残った留学生(伊東玄伯、林研海、赤松則良)の滞在費に充てられた[38]
  11. ^ 「軍艦・銃砲を引渡し、追ってふさわしく(相当)差し返すこと」と定められていた[42]
  12. ^ 新政府は榎本の脱走を忠義によるものと賞して、開陽ほかを榎本に預けたままとした[45]
  13. ^ 回答状の追伸にある『海律全書』の贈答に関する部分は以下の通り。「別本二冊、釜次郎和蘭留学中、苦学致候海律、皇国無二の書に候へば、兵火に付し、烏有と相成候段痛惜致候間、「ドクトル(注:高松凌雲のこと)」より海軍「アドミラル」へ御贈可被下候」[74]。なお、陸海軍参謀の山田顕義や海軍参謀の増田虎之助ではなく、交渉相手であった陸軍参謀・黒田清隆が本を受け取った。
  14. ^ 糾問所の建物は幕府の大手前歩兵屯所として使用されていたものであり、牢獄は大鳥圭介が歩兵頭のときに歩兵取締のため建てられた[81]
  15. ^ 黒田は箱館総攻撃直前の時点で既に、知人宛の手紙で「榎本は得難き非常の人物で驚かない者はなく、彼と生死を共にすべしと一同が奮発している」と記し、増田虎之助、曽我祐準とともに敵が降伏してきたら助命しようと約していた[85]
  16. ^ このとき榎本は薩長が支配する政府に仕えることに難色を示したが、大鳥圭介らが薩長ではなく朝廷に仕えるのだといって榎本に仕官を促した[93]
  17. ^ 開墾の際、樹木に火薬を付けて爆破する「爆破開墾」を行っている。なお、榎本農場は1918年(大正7年)、長男・榎本武憲により小作人に解放された[101]
  18. ^ 北辰社は土地管理のほか、東京・飯田橋から九段にかけての土地で牧場を経営していた[102]
  19. ^ 当時の外交慣例で武官公使の方が交渉上有利と判断されたためで、伊藤博文の建言によるものといわれる[105]
  20. ^ 総裁は三条実美[125]
  21. ^ このとき、榎本は山縣に「自分を罷免するのは、職務不十分なためか、それとも閣内人事の事情からか」と質したのに対し、山縣は後者だと言い放ち、榎本が憤慨している[135]
  22. ^ 移民課長(兼通商局長)は安藤太郎[166]。移民課は榎本の大臣退任後の1893年、通商局長・原敬の主張により廃止された[167]
  23. ^ 官報では10月27日薨去[184]
  24. ^ 榎本家に入婿したのは1822年(文政5年)との説もある[216]
  25. ^ 海軍大佐。フランスの法学者ジョセフ・ルイス・エルザー・オルトランの弟[230]

出典

  1. ^ 合田一道 2014, p. 13.
  2. ^ 加茂儀一 1988, p. 35.
  3. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 210.
  4. ^ 合田一道 2014, pp. 136–137.
  5. ^ a b 加茂儀一 1988, p. 22.
  6. ^ 田辺石庵”. コトバンク. 2015年8月13日閲覧。
  7. ^ 加茂儀一 1988, p. 34.
  8. ^ a b c d 近代日本の万能人・榎本武揚, pp. 141-143
  9. ^ 井黒弥太郎 1968, pp. 1–4.
  10. ^ 加茂儀一 1988, p. 63.
  11. ^ 赤松則良半生記, p. 25
  12. ^ 加茂儀一 1988, p. 65.
  13. ^ カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』水田信利・訳、平凡社〈東洋文庫 26〉、1964年、85頁。ISBN 4-582-80026-2 
  14. ^ 加茂儀一 1988, p. 75.
  15. ^ 加茂儀一 1988, pp. 91, 94.
  16. ^ 加茂儀一 1988, p. 95.
  17. ^ 加茂儀一 1988, pp. 95–100.
  18. ^ 加茂儀一 1988, pp. 118–120.
  19. ^ 加茂儀一 1988, pp. 123–124.
  20. ^ 赤松範一編 編『赤松則良半生記』平凡社〈東洋文庫 317〉、1977年、177頁。 
  21. ^ 赤松則良半生記, pp. 176-184
  22. ^ 臼井隆一郎 2005, p. 71.
  23. ^ 加茂儀一 1988, p. 125.
  24. ^ 赤松則良半生記, p. 189
  25. ^ 加茂儀一 1988, pp. 128–131.
  26. ^ 小川恭一 編『寛政譜以降旗本家百科事典』 第1、東洋書林、1997年。ISBN 4-88721-303-4 
  27. ^ a b 合田一道 2014, p. 60.
  28. ^ 成島司直等編 編『続徳川実紀 第5篇』経済雑誌社、1907年、1294頁。NDLJP:1917904 
  29. ^ a b 小川恭一 1997.
  30. ^ 加茂儀一 1988, p. 132.
  31. ^ 近代日本の万能人・榎本武揚, p. 320
  32. ^ 加茂儀一 1988, pp. 173–176.
  33. ^ 保谷徹 編『戊辰戦争』吉川弘文社〈戦争の日本史 18〉、2007年、75-76頁。ISBN 978-4-642-06328-9 
  34. ^ 保谷徹 2007, pp. 76–77.
  35. ^ 石井勉『徳川艦隊北走記』學藝書林、1977年、17頁。 
  36. ^ マックス・フォン・ブラント 著、原潔永岡敦 訳『ドイツ公使の見た明治維新』新人物往来社、1987年、131-132頁。ISBN 4-404-01409-0 
  37. ^ 菊池明伊東成郎 編『戊辰戦争全史』 上、新人物往来社、1998年、42頁。ISBN 4-404-02572-6 
  38. ^ 加茂儀一 1988, p. 194.
  39. ^ 加茂儀一 1988, p. 195.
  40. ^ 続徳川実紀 第5篇, p. 1621
  41. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 22.
  42. ^ 保谷徹 2007, p. 162.
  43. ^ 続徳川実紀 第5篇, pp. 1749-1750
  44. ^ 続徳川実紀 第5篇, pp. 1752-1753
  45. ^ a b 加茂儀一 1988, pp. 218–219.
  46. ^ 加茂儀一 1988, p. 231.
  47. ^ a b 函館市史通説編第2巻”. 函館市中央図書館. pp. 227-229. 2015年8月14日閲覧。
  48. ^ 加茂儀一 1988, pp. 232–233.
  49. ^ 武内収太『箱館戦争』五稜郭タワー、1983年、68頁。 
  50. ^ 加茂儀一 1988, p. 239.
  51. ^ 加茂儀一 1988, p. 236.
  52. ^ a b c 函館市史通説編第2巻”. 函館市中央図書館. pp. 229-231. 2015年8月14日閲覧。
  53. ^ 加茂儀一 1988, pp. 246–252.
  54. ^ 加茂儀一 1988, p. 246.
  55. ^ 藤田相之助『仙台戊辰史』荒井活版製造所、1911年、742頁。NDLJP:773429 
  56. ^ 藤田相之助 1911, pp. 743–745.
  57. ^ 藤田相之助 1911, pp. 757–762.
  58. ^ 藤田相之助 1911, pp. 775–779.
  59. ^ 武内収太 1983, p. 79.
  60. ^ 松田藤四郎 2012, pp. 117–118.
  61. ^ 石井勉 1977, pp. 106.
  62. ^ 函館市史通説編第2巻”. 函館市中央図書館. pp. 233-236. 2015年7月25日閲覧。
  63. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 33.
  64. ^ 函館市史通説編第2巻”. 函館市中央図書館. pp. 237-238. 2015年7月25日閲覧。
  65. ^ 函館市史通説編第2巻”. 函館市中央図書館. pp. 241-243. 2015年7月25日閲覧。
  66. ^ 函館市史通説編第2巻”. 函館市中央図書館. pp. 238-241. 2015年7月25日閲覧。
  67. ^ 石井孝『戊辰戦争論』吉川弘文館、1969年、285-291頁。ISBN 4-642-07196-2 
  68. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 40.
  69. ^ 菊池明・伊東成郎 編『戊辰戦争全史』 下、新人物往来社、1998年、237-239頁。ISBN 4-404-02573-4 
  70. ^ 戊辰戦争全史・下, p. 247
  71. ^ 函館市史通説編第2巻”. 函館市中央図書館. pp. 250-251. 2015年7月25日閲覧。
  72. ^ 戊辰戦争全史・下, p. 285
  73. ^ 加茂儀一 1988, p. 302.
  74. ^ 加茂儀一 1988, p. 304.
  75. ^ 戊辰戦争全史・下, p. 298
  76. ^ 加茂儀一 1988, p. 315.
  77. ^ 戊辰戦争全史・下, p. 303
  78. ^ 戊辰戦争全史・下, p. 304
  79. ^ 戊辰戦争全史・下, p. 305
  80. ^ 加茂儀一 1988, p. 319.
  81. ^ 大鳥圭介「南柯紀行」。大鳥圭介、今井伸郎『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』新人物往来社、1998年、100-101頁。ISBN 4-404-02627-7 
  82. ^ 加茂儀一 1988, pp. 320, 322.
  83. ^ 加茂儀一 1988, p. 323.
  84. ^ 井黒弥太郎 1968, pp. 109–125.
  85. ^ 井黒弥太郎『黒田清隆』吉川弘文館〈人物叢書〉、1977年、33-34頁。ISBN 4-642-05099-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  86. ^ 井黒弥太郎 1968, pp. 110–112.
  87. ^ a b 福沢諭吉 著、富田正文・校訂 編『新訂 福翁自伝』岩波書店〈岩波文庫102-2〉、1978年、241-243頁。ISBN 4-00-331022-5 
  88. ^ 加茂儀一 1988, pp. 356–359.
  89. ^ 加茂儀一 1988, pp. 329–333.
  90. ^ 加茂儀一 1988, pp. 335–336.
  91. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 139.
  92. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 140,144.
  93. ^ 『明治ニュース事典』 8巻、毎日コミュニケーションズ、1983年、54頁。ISBN 4-89563-105-2 
  94. ^ 加茂儀一 1988, pp. 384–388.
  95. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 194.
  96. ^ 加茂儀一 1988, p. 400.
  97. ^ 井黒弥太郎 1968, pp. 199–207.
  98. ^ 合田一道 2014, p. 170-172.
  99. ^ 加茂儀一 1988, pp. 402–416.
  100. ^ 合田一道 2014, p. 179-180.
  101. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 240.
  102. ^ 近代日本の万能人・榎本武揚 p.150
  103. ^ 合田一道 2014, p. 181-183.
  104. ^ 秋月俊幸『日露関係とサハリン島』筑摩書房、1994年、230頁。ISBN 4-480-85668-4 
  105. ^ a b 井黒弥太郎 1968, p. 266-267.
  106. ^ 加茂儀一 1988, pp. 444–445.
  107. ^ 加茂儀一 1988, p. 445.
  108. ^ 井黒弥太郎 1968, pp. 280–281.
  109. ^ 秋月俊幸 1994, p. 235.
  110. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 288.
  111. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 289.
  112. ^ 加茂儀一 1988, pp. 473–474.
  113. ^ 合田一道 2014, p. 199-200.
  114. ^ 加茂儀一 1988, p. 501.
  115. ^ 加茂儀一 1988, pp. 498–500.
  116. ^ 加茂儀一 1988, pp. 502–504.
  117. ^ 加茂儀一 1988, pp. 504–505.
  118. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 378-379.
  119. ^ a b c d e 井黒弥太郎 1968, p. 382.
  120. ^ 加茂儀一 1988, p. 547.
  121. ^ 『日本海令草案』海軍省、1880年。NDLJP:797988 
  122. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 383.
  123. ^ a b 近代日本の万能人・榎本武揚, p. 325
  124. ^ a b 加茂儀一 1988, p. 550.
  125. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 385.
  126. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 386.
  127. ^ 合田一道 2014, pp. 250–251.
  128. ^ 合田一道 2014, pp. 254–255.
  129. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 559.
  130. ^ 『官報』第744号、「叙任」 1885年12月22日号外。NDLJP:2943953
  131. ^ 『官報』第1169号、「授爵及辞令」 1887年5月25日。NDLJP:2944403
  132. ^ 『官報』第1522号、「叙任及辞令」 1885年7月26日。NDLJP:2944760
  133. ^ 電気学会パンフレット” (pdf). 電気学会. 2015年8月14日閲覧。
  134. ^ 『官報』第1716号、「授爵及辞令」 1889年3月23日。NDLJP:2944961
  135. ^ a b 井黒弥太郎 1968, p. 393.
  136. ^ 『官報』第2063号、「授爵及辞令」 1890年5月19日。NDLJP:2945315
  137. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 568.
  138. ^ 松田藤四郎 2012, p. 31.
  139. ^ a b 松田藤四郎 2012, p. 33.
  140. ^ 松田藤四郎 2012, pp. 41–42.
  141. ^ 松田藤四郎 2012, p. 45.
  142. ^ 松田藤四郎 2012, p. 47.
  143. ^ 松田藤四郎 2012, p. 19.
  144. ^ 松田藤四郎 2012, p. 60.
  145. ^ 『官報』第2361号、「宮廷録事」 1891年5月16日。NDLJP:2945621
  146. ^ a b c 井黒弥太郎 1968, p. 395.
  147. ^ 『官報』第2373号、「叙任及辞令」 1891年5月30日。NDLJP:2945634
  148. ^ 林董『後は昔の記 他』平凡社〈東洋文庫 173〉、1970年、66頁。 
  149. ^ 伊藤之雄『伊藤博文』講談社〈講談社学術文庫 2286〉、2015年、335頁。ISBN 978-4-06-292286-9 
  150. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 576.
  151. ^ 林董 1970, p. 67.
  152. ^ 『官報』第2735号、「叙任及辞令」 1892年8月9日。NDLJP:2946000
  153. ^ 『官報』第3168号、「叙任及辞令」 1894年1月23日。NDLJP:2946432
  154. ^ 日本の百年3, p. 390
  155. ^ a b 井黒弥太郎 1968, p. 398.
  156. ^ 浦賀ドック”. 横須賀市. 2015年8月15日閲覧。
  157. ^ 東海林吉郎菅井益郎『通史・足尾鉱毒事件』新曜社、1984年。 
  158. ^ 東海林吉郎・菅井益郎 1984, p. 59.
  159. ^ a b 東海林吉郎・菅井益郎 1984, p. 64.
  160. ^ a b 東海林吉郎・菅井益郎 1984, p. 65.
  161. ^ 東海林吉郎・菅井益郎 1984, p. 68.
  162. ^ 『官報』第4119号、「叙任及辞令」 1897年3月30日。NDLJP:2947406
  163. ^ 依願免本官 農商務大臣 子爵榎本武揚」 アジア歴史資料センター Ref.A03023352000 
  164. ^ 加茂儀一 1988, pp. 493–494.
  165. ^ 秋岡信彦 2003, p. 24.
  166. ^ 近代日本の万能人・榎本武揚, p. 149
  167. ^ 松本三之助・編著 編『強国をめざして』筑摩書房〈ちくま学芸文庫 日本の百年3〉、2007年(原著1978年)、174頁。ISBN 978-4-480-09073-7 
  168. ^ 秋岡信彦 2003, p. 72.
  169. ^ 榎本武揚の殖民論”. 国立国会図書館. 2015年6月6日閲覧。
  170. ^ 上野久 1994, pp. 24–25.
  171. ^ 上野久 1994, p. 25.
  172. ^ 上野久 1994, p. 28.
  173. ^ 上野久 1994, p. 30.
  174. ^ 上野久 1994, p. 32.
  175. ^ a b 上野久 1994, p. 38.
  176. ^ 上野久 1994, pp. 48–50.
  177. ^ 上野久 1994, p. 55.
  178. ^ 上野久 1994, pp. 56–64.
  179. ^ 上野久 1994, p. 108.
  180. ^ 榎本武揚「流星刀記事」(pdf)『地学雑誌』第14巻、東京地学協会、1902年、2015年5月30日閲覧 
  181. ^ 工業化学会の設立”. 日本化学会. 2015年6月13日閲覧。
  182. ^ 合田一道 2014, p. 296.
  183. ^ 『官報』第6694号、「彙報」 1905年10月20日。NDLJP:2950027
  184. ^ 『官報』第7603号、「彙報」 1908年10月28日。NDLJP:2950950
  185. ^ 明治ニュース事典 8, p. 53
  186. ^ 合田一道 2014, pp. 307–309.
  187. ^ 『官報』第805号、「叙任」 1886年3月12日。NDLJP:2944018
  188. ^ 『官報』第6466号、「宮廷録事 - 恩賜」 1905年01月21日。NDLJP:2949795
  189. ^ 『官報』第7602号、「叙任及辞令」 1908年10月27日。NDLJP:2950949
  190. ^ 『官報』第1283号、「叙任及辞令」1887年10月06日。NDLJP:2944517
  191. ^ 『官報』第1373号、「辞令」 1888年1月31日。NDLJP:2944609
  192. ^ 『官報』第2705号、「叙任及辞令」 1892年7月5日。NDLJP:2945970
  193. ^ 『官報』第2995号、「叙任及辞令」1893年06月24日。NDLJP:2946259
  194. ^ a b 井黒弥太郎 1968, p. 411.
  195. ^ 加茂儀一 1988, p. 609-610.
  196. ^ 林董 1970, pp. 66–67.
  197. ^ 加茂儀一 1988, p. 324.
  198. ^ 明治ニュース事典 8, p. 54
  199. ^ 一戸隆次郎 1909, p. 78.
  200. ^ 榎本武揚 ないない節”. 霊山歴史館. 2015年5月31日閲覧。
  201. ^ a b 一戸隆次郎 1909, pp. 127–131.
  202. ^ 濱本高明『東京風俗三十帖』p74演劇出版社出版事業部
  203. ^ 一戸隆次郎 1909, pp. 81–82.
  204. ^ 加茂儀一 1988, p. 566.
  205. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 384.
  206. ^ 近代日本の万能人・榎本武揚, pp. 78-81
  207. ^ ディニエ印字電信機と榎本武揚”. 郵政博物館. 2015年8月14日閲覧。
  208. ^ 『官報』第1080号、「告示」 1887年2月8日。NDLJP:2944314
  209. ^ 『官報』第1089号、「正誤」 1887年2月19日。NDLJP:2944323
  210. ^ 望月武司 2013, p. 303.
  211. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 412.
  212. ^ a b c d e f g h i 近代日本の万能人・榎本武揚, p. 331
  213. ^ a b c 加茂儀一 1988, p. 30.
  214. ^ 加茂儀一 1988, p. 23.
  215. ^ 渡辺一郎・編著『伊能忠敬測量隊』小学館、2003年、241頁。ISBN 4-09-626205-6 
  216. ^ a b 加茂儀一 1988, p. 28.
  217. ^ 加茂儀一 1988, pp. 28–29.
  218. ^ 加茂儀一 1988, pp. 31–32.
  219. ^ a b 加茂儀一 1988, p. 31.
  220. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会編 編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年、263頁。ISBN 978-4642036702 
  221. ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会編 1996, p. 263.
  222. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会編 1996, p. 570.
  223. ^ 加茂儀一 1988, p. 32.
  224. ^ 榎本武揚シベリア日記(講談社), p.228
  225. ^ 加茂儀一 1988, pp. 334–335.
  226. ^ 榎本武揚シベリア日記(講談社), p.330
  227. ^ 榎本武揚『シベリヤ日記』南満洲鉄道総裁室弘報課、1934年。NDLJP:1874789 
  228. ^ 加茂儀一 1988, pp. 491–492.
  229. ^ 井黒弥太郎 1968, pp. 322–324.
  230. ^ 加茂儀一 1988, pp. 305–306.
  231. ^ 加茂儀一 1988, pp. 305–307.
  232. ^ 俄爾社蘭 (ヲルトラン)『海上国際条規』海軍参謀本部、1899年。NDLJP:798115 
  233. ^ 加茂儀一 1988, p. 309.
  234. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 84-85,87.
  235. ^ 加茂儀一 1988, p. 311.
  236. ^ 井黒弥太郎 1968, p. 83.
  237. ^ 情報図書館だより255号” (PDF). 江別市情報図書館 (2011年6月). 2015年5月18日閲覧。

参考文献

著作・資料

  • 講談社 編『榎本武揚 シベリア日記』講談社〈講談社学術文庫 1877〉、2008年。ISBN 978-4-06-159877-5 
「シベリア日記」、「渡蘭日記」、書簡4通を収録。

伝記研究

一戸隆次郎『榎本武揚子』嵩山堂、1909年。NDLJP:781107 を収録。

関連項目

外部リンク


公職
先代
黒田清隆
後藤象二郎
日本の旗 農商務大臣
1888年(臨時兼任)
第10代:1894年 - 1897年
次代
井上馨
大隈重信
先代
青木周蔵
日本の旗 外務大臣
第7代:1891年 - 1892年
次代
陸奥宗光
先代
大山巌(臨時兼任)
日本の旗 文部大臣
第2代:1889年 - 1890年
次代
芳川顕正
先代
創設
日本の旗 逓信大臣
初代:1885年 - 1889年
次代
後藤象二郎
先代
川村純義
日本の旗 海軍卿
第3代:1880年 - 1881年
次代
川村純義
その他の役職
先代
創設
電気学会会長
初代:1888年 - 1909年
次代
林董
先代
創設
蝦夷島総裁
初代:1869年 - 1869年
次代
消滅