「吉野 (鹿児島市)」の版間の差分
m →近代の吉野 |
編集の要約なし |
||
168行目: | 168行目: | ||
慶応3年頃は吉野村には実方、帯迫、菖蒲谷、中町、中別府、雀ヶ宮、七社の七つの方限があった。江戸時代初期頃より竜ヶ水地区は[[大隅国]]帖佐郷([[外城制|外城]])脇元村(現在の[[姶良市]]脇元)の[[飛地]]であった。脇元村自体は大隅国に属していたが、飛地であった竜ヶ水地区は[[薩摩国]]に属していた<ref>[[#角川地名辞典|角川日本地名大辞典]] p.667</ref>。竜ヶ水地区は明治までに吉野村に編入されている<ref name="timei"/>。 |
慶応3年頃は吉野村には実方、帯迫、菖蒲谷、中町、中別府、雀ヶ宮、七社の七つの方限があった。江戸時代初期頃より竜ヶ水地区は[[大隅国]]帖佐郷([[外城制|外城]])脇元村(現在の[[姶良市]]脇元)の[[飛地]]であった。脇元村自体は大隅国に属していたが、飛地であった竜ヶ水地区は[[薩摩国]]に属していた<ref>[[#角川地名辞典|角川日本地名大辞典]] p.667</ref>。竜ヶ水地区は明治までに吉野村に編入されている<ref name="timei"/>。 |
||
安永8年には吉野薬園と呼ばれる薩摩藩が運営する[[薬園]]が現在の吉野小学校の場所に設置され、70種類の薬草を生産していたが、後に行われた[[廃藩置県]]によって薩摩藩が廃止されたことにより薬園は廃止され、跡地は[[私学校]]の分校となった。しかし、[[西南戦争]]後に私学校は廃止され、その跡地に小学校が設置された<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/database/category/shiseki/area_yoshino/yoshino/_34797.html 吉野薬園跡] - 鹿児島市 2011年11月27日閲覧。</ref>。 |
安永8年には吉野薬園と呼ばれる薩摩藩が運営する[[薬園]]が現在の吉野小学校の場所に設置され、70種類の薬草を生産していたが、後に行われた[[廃藩置県]]によって薩摩藩が廃止されたことにより薬園は廃止され、跡地は[[私学校]]の分校となった。しかし、[[西南戦争]]後に私学校は廃止され、その跡地に小学校が設置された<ref>[http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/database/category/shiseki/area_yoshino/yoshino/_34797.html 吉野薬園跡] - 鹿児島市 2011年11月27日閲覧。</ref>。その小学校はのちの[[鹿児島市立吉野小学校]]の前身にあたる。 |
||
[[明治]]4年には[[廃藩置県]]が行われ、吉野村は[[薩摩藩]]から[[鹿児島県]]管下となった。また廃藩置県により失業した[[士族]]の士族授産のために[[西郷隆盛]]が吉野村を開墾すべく吉野開墾社を作り開墾が行われた<ref>[[#kagoshima-1|鹿児島市史 I]] p.654(第5編 明治前期の鹿児島)</ref>。 |
[[明治]]4年には[[廃藩置県]]が行われ、吉野村は[[薩摩藩]]から[[鹿児島県]]管下となった。また廃藩置県により失業した[[士族]]の士族授産のために[[西郷隆盛]]が帰郷浪士150名を率いて吉野村を開墾すべく吉野開墾社を作り開墾が行われた<ref>[[#kagoshima-1|鹿児島市史 I]] p.654(第5編 明治前期の鹿児島)</ref>。 |
||
翌年明治5年には[[天皇]]の鹿児島県巡幸において磯の機械局を視察するため、行幸道路として田ノ浦(現在の[[八坂神社 (鹿児島市)|八坂神社]]附近)から磯までの海岸線の道路(磯街道)が整備された。また、それまで鹿児島から重富に至る道路としては吉野台地・[[白銀坂]]経由のルートのみであったが、翌年6月5日には磯から重富までの海岸線沿いの道路(現在の[[国道10号]]のルート、約10 km)の建設に着手し、同年9月15日に竣工した<ref>[[#kagoshima-city-1|鹿児島市史 第1巻]] pp.704-705</ref>。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
=== 近代の吉野 === |
=== 近代の吉野 === |
2018年1月7日 (日) 15:40時点における版
吉野 | |
---|---|
北緯31度38分20.6秒 東経130度33分36.7秒 / 北緯31.639056度 東経130.560194度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 鹿児島県 |
市町村 | 鹿児島市 |
地域 |
吉野地域[* 1] 中央地域[* 2] |
地区 | 上町地区(中央地域)[* 2] |
面積 | |
• 合計 | 33.1 km2 |
人口 (2015年(平成27年)3月末現在) | |
• 合計 | 34,342人 |
• 密度 | 1,000人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
892-0871(吉野町) 892-0877(吉野1・2丁目) |
市外局番 | 099 |
ナンバープレート | 鹿児島 |
吉野(よしの Yoshino)は鹿児島県鹿児島市の町名。旧薩摩国鹿児島郡鹿児島近在吉野村及び大隅国始羅郡帖佐郷脇元村の一部[* 3]、鹿児島郡吉野村大字吉野の一部[* 4]。
吉野一丁目、吉野二丁目及び吉野町があり、吉野一丁目及び吉野二丁目の全域で住居表示を実施している[1]。郵便番号は吉野町の区域は892-0871、吉野一丁目及び吉野二丁目の区域は892-0877である。2015年3月末現在の人口は34,342人、世帯数は13,267世帯[2]。2014年現在で吉野町単独の人口が3万人を超えており、群を抜いて最も鹿児島市で人口が多い町丁である[* 5][3]。2012年1月現在の町域の面積は約3,310ha[* 6]である[4]。
江戸時代末期には薩摩藩藩主島津斉彬によって磯地区にアジア地域初となる近代化洋式工場群として製鉄、紡績、造船等の近代洋式工場群が建設された。薩英戦争後に建設された集成館事業の中核を担った旧集成館(旧集成館反射炉跡、旧集成館機械工場、旧鹿児島紡績所技師館)及び、集成館事業で使用する木炭を生産していた寺山地区にある寺山炭窯跡が、下田町にある関吉の疎水溝とともに、2015年7月の第39回世界遺産委員会において、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている[5]。
1989年10月21日に発見された小惑星の『吉野』(5640 Yoshino)は、発見者の一人である向井優が鹿児島市吉野町出身であることから、1999年2月2日付の小惑星回報 (MPC 33787)に命名理由として"Named for the hometown of the first discoverer. Part of Kagoshima City"(発見者の出身地の鹿児島市吉野より命名)と掲載され、命名された[6][7][8]。
地理
鹿児島市の北東部、稲荷川上流域に位置している。町域の北方には鹿児島市川上町、鹿児島市宮之浦町、姶良市脇元、南方には鹿児島市清水町、祇園之洲町、大明丘、東坂元、西方には鹿児島市坂元町、下田町がそれぞれ隣接しており、東方から南方にかけては鹿児島湾に面している。町域の北端にある牟礼ヶ岡、関屋谷は姶良市及び牟礼岡との境界に位置する[9]。
町域の東部にあたる海岸部を国道10号がほぼ南北に通っており、それに沿って日豊本線が通っている。町域内には竜ヶ水駅が所在している。また、町域の中央部の台地上を鹿児島県道16号鹿児島吉田線が縦貫しており[10]、吉野支所入口交差点から鹿児島県道215号吉野公園線が寺山公園までを結んでおり、寺山公園付近から川上町までを鹿児島県道220号寺山公園線が結んでいる。
教育施設は中央部に鹿児島市立吉野小学校、鹿児島市立吉野中学校、東部に鹿児島市立吉野東小学校、鹿児島市立吉野東中学校、吉野一丁目に鹿児島県立鹿児島養護学校が設置されている。北東部には鹿児島市立少年自然の家がある。また、1970年までは磯から平松までの国道10号沿線区間及び上ノ原集落を通学区域とする鹿児島市立龍水小学校が竜ヶ水駅付近に所在していたが、清水小学校及び吉野小学校にそれぞれ統合された[11][12]。
また、江戸時代には鹿児島城下と大隅・日向を結ぶ薩摩街道の大隅路があり、現在の国道10号のルートの一部となる海岸ルートが完成するまでは姶良より白銀坂、吉田、吉野を通り坂元から皷川へ抜けるルートが使用されていた[13]。
行政施設としては、鹿児島市役所吉野支所があり、旧吉野村の区域のうち吉野町の磯、花倉、三船、竜ヶ水及び平松地区を除く区域を管轄区域としている[14]。
- 山:牟礼ヶ岡(標高:552m)、寺山(標高:423m)、磯山(標高:169m)
- 川:稲荷川、磯川、花倉川
- 谷:関屋谷
土地の利用状況
吉野台地
吉野町の大部分を占める吉野台地は、標高約150mから350mにあるシラス台地となっている[16]。吉野町では古くから鹿児島市街地への野菜や花木などの供給地となっており、町域の中央部から北部にかけて広がる吉野台地上の耕地の多くは畑地が占めている[17]。
農業の形態としては都市型農業が営まれており、軟弱野菜を中心に鉢物の栽培のほか、造園業も盛んである[18]。春期と秋季に甲突川沿岸で開催されている木市は、仙巌園の庭園整備を行っていた吉野村の職人が街角で植木を販売したのが起源と言われている[19]。
また、鹿児島市郊外の住宅地としてかつて吉野町の一部であった隣接する大明丘団地をはじめとして多くの住宅団地が建設されている[16]。
平松・竜ヶ水・三船・花倉地区
この節では吉野町のうち、錦江湾沿岸部、国道10号及び日豊本線沿線にある平松・竜ヶ水・三船・花倉(けくら)の各地区について述べる。
東部の吉野台地の崖下にあたる区域には海岸に沿って国道10号及び日豊本線が並行して通り、その沿線に平松地区、竜ヶ水地区、花倉(けくら)地区、三船地区の集落が点在している。
平成5年8月豪雨(8・6豪雨)で土石流被害にあった竜ヶ水地区周辺は古くより水害に多く見舞われており、竜ヶ水の地名は「竜が水を吹くように水害が多い」ということに由来している[20]。8・6豪雨後には住民の多くが他の地域へ移転し、竜ヶ水駅の利用者も激減しており[21]、2015年度の年間乗降客数は約1,000人となっている[22]。
当該地区で発生した災害については「#災害」節を参照のこと。
磯地区
吉野町の南部、磯地区には島津氏の別邸であった国の名勝である仙巌園や尚古集成館があり、観光地として賑わいを見せている。また、仙巌園附近には世界文化遺産である「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一部を構成する集成館事業に関係する史跡が多く集積している。
南部には海水浴場として磯海水浴場があり[10]、磯ビーチハウスは7月上旬から8月末まで営業を行っている[23]。
行政の管轄区域
吉野町の行政の管轄区域は、鹿児島市役所本庁が海岸部の磯、花倉、三船、竜ヶ水及び平松地区を管轄し、その他の吉野町の区域は吉野町にある鹿児島市役所吉野支所の管轄区域となる[14]。
また、鹿児島市が策定した「第五次総合計画」における地域区分でも同様に鹿児島市役所本庁の管轄区域となっている吉野町の磯、花倉、三船、竜ヶ水、平松の各地区は「中央地域上町地区」、その他の区域の吉野町は「吉野地域」となっている[24]。
土地区画整理事業
吉野町の北西部では1992年(平成4年)から2022年にかけて吉野町の北部と隣接する川上町の一部及び西部と隣接する下田町の一部を含む114.1haの区域にて吉野地区土地区画整理事業が行われており[25]、道路の拡幅及び区画整理が実施されている[26][4]。この区域には鹿児島市役所吉野支所や教育施設などが所在している。2015年(平成27年)2月2日に事業区域の一部で換地処分が行われ、同時に吉野一丁目、吉野二丁目が設置されている[27]。
また、吉野地区土地区画整理事業に続いて、吉野第二地区土地区画整理事業の都市計画決定が2014年(平成26年)2月25日に告示され[28]、吉野中学校以南の県道16号沿線の土地区画整理事業に着手する予定である[29]。
地区名 | 面積 | 期間 | 事業費 |
---|---|---|---|
吉野 | 114.1ha | 1987年 - (昭和62年度 - ) |
約601億円 |
吉野第二 | 66.5ha | 2014年 - (平成27年度 - ) |
計画中 |
風致地区
都市計画法の規定による風致地区は以下の地区が指定されている[31]。
- 寺山風致地区(1963年3月7日指定)
- 吉野町の東部の区域にあたり、寺山公園、吉野公園、鹿児島市立少年自然の家、平松地区から磯地区にかけての海岸線沿いの全域が区域に含まれる。
地価
2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、下記の吉野町の住宅地における地価は次の通りである[32]。
- 国土交通省
-
- 吉野町731-2(鹿児島-7) : 4万1300円/m2
- 吉野町3037-10外(鹿児島-52) : 6万2400円/m2
- 鹿児島県
-
- 吉野町8640-27(鹿児島-1) : 3万3200円/m2
- 吉野町3355-226外(鹿児島-2) : 4万7000円/m2
歴史
吉野町の区域で発生した災害の内容については「#災害」節を参照のこと。
先史時代
現在の吉野町の区域では縄文時代のものと見られる遺跡が見つかっており、上ノ原の石郷遺跡は1915年(大正4年)に発掘されたもので、縄文早期から中期、後期のものと見られ、発掘された土器は市来式、石坂式、阿高式、岩崎上層式、指宿式、鐘崎式、草野式がある。また住居跡も発見されている。
七社の七社遺跡では黒川式が発掘され、前平の前平遺跡ではここで発掘された土器が標式となり前平式土器と名付けられた[33]。
弥生時代のものとしては、石郷の縄文時代の石郷遺跡に隣接して石郷遺跡があり、弥生時代後期のものと見られる遺物が発見されている。また、雀ケ宮遺跡でも弥生時代後期のものと見られる遺物が散布している[34]。
吉野の成立
吉野という地名は戦国時代より見え、薩摩国のうちであった。吉野という地名は「山本氏日記」の弘治元年8月27日の項目にある記述が初見であると考えられ、その他にも「上井覚兼日記」に記述が多く見える[35]。
近世の吉野村
江戸時代には薩摩国鹿児島郡鹿児島近在のうちであり、鹿児島近在の区分では遠村に含まれた。なお、鹿児島近在は天明4年までは近村と呼ばれていた[36]。村高(石高)は寛文4年の「郡村高辻帳」では854石余、「三州御治世要覧」では963石余[37]、「天保郷帳」には854石余、「旧高旧領取調帳」には1,360石余であったと記載されている[35]。
万治年間に島津光久が大磯に鹿児島城の別館を設け、その別館を仙巌園と名づけた。吉田・重富・帖佐にかかる付近には吉野馬牧があり、約400馬が放牧されていた[35]。吉野馬牧では慶長頃より原で藩庁主催の吉野の馬追いが行われていた。吉野の原に放牧されていた馬の群れを役員など百名が横隊となり鶴翼を作り、中に包み下方のオロと呼ばれるものに追い込むものであった[38]。
1851年に島津斉彬が薩摩藩当主に就任すると磯地区にアジア地域初となる製鉄、紡績、造船等の近代洋式工場群が建設された。1858年に島津斉彬が死去し、その後一時は規模を縮小するが、1863年に勃発した薩英戦争後に集成館機械工場や、日本初の紡績所である鹿児島紡績所が建造された[39]。
慶応3年頃は吉野村には実方、帯迫、菖蒲谷、中町、中別府、雀ヶ宮、七社の七つの方限があった。江戸時代初期頃より竜ヶ水地区は大隅国帖佐郷(外城)脇元村(現在の姶良市脇元)の飛地であった。脇元村自体は大隅国に属していたが、飛地であった竜ヶ水地区は薩摩国に属していた[40]。竜ヶ水地区は明治までに吉野村に編入されている[37]。
安永8年には吉野薬園と呼ばれる薩摩藩が運営する薬園が現在の吉野小学校の場所に設置され、70種類の薬草を生産していたが、後に行われた廃藩置県によって薩摩藩が廃止されたことにより薬園は廃止され、跡地は私学校の分校となった。しかし、西南戦争後に私学校は廃止され、その跡地に小学校が設置された[41]。その小学校はのちの鹿児島市立吉野小学校の前身にあたる。
明治4年には廃藩置県が行われ、吉野村は薩摩藩から鹿児島県管下となった。また廃藩置県により失業した士族の士族授産のために西郷隆盛が帰郷浪士150名を率いて吉野村を開墾すべく吉野開墾社を作り開墾が行われた[42]。
翌年明治5年には天皇の鹿児島県巡幸において磯の機械局を視察するため、行幸道路として田ノ浦(現在の八坂神社附近)から磯までの海岸線の道路(磯街道)が整備された。また、それまで鹿児島から重富に至る道路としては吉野台地・白銀坂経由のルートのみであったが、翌年6月5日には磯から重富までの海岸線沿いの道路(現在の国道10号のルート、約10 km)の建設に着手し、同年9月15日に竣工した[43]。
1878年(明治11年)の郡区町村編制法の施行から1889年(明治22年)に町村制が施行されるまでの間、吉野村内には町村制施行まで戸長役場が置かれ、町村制施行後は戸長役場は吉野村役場となった[35]。
近代の吉野
1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、鹿児島近在のうち5村(吉野村、坂元村、下田村、川上村、岡之原村)より吉野村が成立し、それまでの吉野村は吉野村の大字「吉野」となった[35]。
1901年(明治34年)6月10日に鹿児島本線(現在の日豊本線)の国分駅(現在の隼人駅)から鹿児島駅までが開通し、大字吉野の区域には駅が設置されなかったが、線路が海岸線沿いを通ることとなった[44]。1915年(大正4年)8月7日に、竜ヶ水地区に竜ヶ水駅が設置された[45]。
1934年(昭和9年)8月1日には吉野村が鹿児島市へ編入され[46]、「 鹿兒島市内大字名廢止町名改稱竝ニ區域變更」(昭和9年鹿児島県告示第334号)により大字吉野を廃し、その区域を以て鹿児島市の町名「吉野町」が新たに設置された[47]。
なお、坂元町を吉野村時代に大字吉野に含めていたかについては、『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』では、町村制施行と同時に大字吉野に坂元村を大字吉野に編入し、鹿児島市編入時にかつての坂元村の区域が分割され坂元町が設置されたと記載されているが[35]、昭和9年鹿児島県告示第334号では大字坂元が存在していることとなっており、大字坂元を廃し、坂元町を設置する旨の告示がなされている。
第二次世界大戦前には伊敷村に本部が置かれた大日本帝国陸軍歩兵第四十五連隊の演習場が吉野と花棚の境界上付近に展開されており、第二次世界大戦中には上花棚の区域まで拡大された[48]。
現代の吉野
1986年(昭和61年)2月9日に吉野町のうち大明ヶ丘団地として造成された区域に住居表示が実施されるのに伴い町名整理が行われ、吉野町の一部より分割され大明丘一丁目から大明丘三丁目が設置された[49][50]。翌年の1987年(昭和62年)には吉野町北部を区域とする吉野地区土地区画整理事業の都市計画決定が告示され、1992年(平成4年)に事業に着手した。吉野地区については2022年までの事業完了を予定している[26]。
吉野地域の人口増加に伴い、それまでの鹿児島市役所吉野出張所は1997年(平成9年)度より出張所から支所へ格上げされ[51]、1998年(平成10年)1月から旧鹿児島無線送信所跡地に建設された新庁舎での業務を開始している[52]。また、吉野支所は2004年(平成16年)の5町編入と同時に市民局市民部の課相当組織から、部相当組織へ格上げされた[53]。
2015年(平成27年)2月2日に吉野第一地区区画整理事業の事業区域の一部で住居表示が実施されるのに伴い、吉野町、川上町及び下田町の各一部の区域で町名整理が行われ、吉野一丁目及び、吉野二丁目が新たに設置された[27]。
同年7月には磯地区にある国の指定重要文化財及び国の史跡である「旧集成館」(旧集成館反射炉跡、旧集成館機械工場、旧鹿児島紡績所技師館)及び、寺山地区にある国の史跡「寺山炭窯跡」が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録された[5]。
沿革
- 弘治元年8月27日 - 「山本氏日記」に吉野という地名が見える。
- 安永8年 - 薩摩藩が吉野薬園を設置。
- 江戸時代から明治時代 - 竜ヶ水地区を大隅国帖佐郷脇元村から編入。
- 明治4年 - 廃藩置県により吉野村は鹿児島県に属す。
- 1889年(明治22年) - 町村制施行により、吉野村が成立。同時に旧吉野村と坂元村を合併し、吉野村大字吉野となる。
- 1934年(昭和9年) - 吉野村が鹿児島市に編入され、鹿児島市吉野町となる。同時に旧坂元村を分離(坂元町となる)。
- 1986年(昭和61年) - 吉野町の一部より大明丘一丁目から大明丘三丁目が分離する。
- 2015年(平成27年) - 吉野町、川上町、下田町の一部より吉野一丁目及び吉野二丁目が設置される。
町域の変遷
実施後 | 実施年 | 実施前 |
---|---|---|
吉野村大字吉野 | 1889年(明治22年) | 鹿児島郡吉野村(藩政村) |
鹿児島郡坂元村(藩政村) | ||
鹿児島市吉野町 | 1934年(昭和9年) | 吉野村大字吉野 |
鹿児島市坂元町 | ||
大明丘一丁目から大明丘三丁目 | 1986年(昭和61年) | 吉野町の一部 |
吉野一丁目及び吉野二丁目 | 2015年(平成27年) | 川上町、下田町及び吉野町の各一部 |
災害
竜ヶ水地区をはじめとする鹿児島湾に面する地区では土石流などの災害が頻発しているが、これらの地区は姶良カルデラの壁となっている区域にある[54]。シラス台地である吉野台地での降雨水は急崖とは異なる方向に流下する構造となっているが、急崖の中腹にある透水層において強雨時に地下水位が上昇。湧水が発生し、これが崩壊や土石流の誘因となっているとみられる[55]。
平成5年8月豪雨発生後、竜ヶ水地区を中心に砂防施設が建設されているほか[56]、国道10号は竜ヶ水地区を含む姶良市重富から磯地区までの区間において連続雨量が200mmに達した場合通行止めとなる異常気象時通行規制区間となっている[57]。
吉野町の区域内において発生した主な災害は以下のとおりである[58]。
- 1966年(昭和41年)7月9日 - 三船地区にてがけ崩れ(1名死亡)
- 1969年(昭和44年)7月5日 - 平松地区物言谷にて土石流(2名死亡、重傷者1名)、国鉄日豊本線及び国道10号が埋没。
- 1971年(昭和46年)6月20日 - 平松地区にてがけ崩れ、国鉄日豊本線埋没。
- 1977年(昭和52年)6月24日 - 竜ヶ水災害(9名死亡)、国鉄日豊本線埋没。
- 1993年(平成5年)8月6日 - 平成5年8月豪雨(18名死亡)、JR日豊本線及び国道10号、花倉病院埋没。
竜ヶ水災害
1977年(昭和52年)6月24日に発生した災害であり、竜ヶ水駅付近のシラス崖が連日の雨により高さ300mに渡り崩壊。崩壊した崖の直下の住民9名が死亡した[59]。建物の被害は13棟が全壊、1棟が一部破損であった[58]。
また、国鉄日豊本線(当時)の線路が土石に埋まり、復旧に1か月以上を要した[59]。
平成5年8月豪雨
1993年(平成5年)8月6日に発生した平成5年8月豪雨(8.6豪雨)では吉野町の錦江湾沿岸部にある磯地区、花倉地区、竜ヶ水地区を通る国道10号及び日豊本線沿線で29か所の崖崩れが発生したことにより甚大な被害を受けた[60][61]。
竜ヶ水駅付近では周囲の地域における土石流などにより鉄道、道路共に完全に孤立し、国道10号を通行中であった自動車約800台に乗車していた者と竜ヶ水駅に停車中であった列車の乗客の合わせて約2,500名が取り残された。また、姶良郡溝辺町(現在の霧島市溝辺地域)にある鹿児島空港から鹿児島市内の鹿児島県庁に向かっていた当時の鹿児島県知事である土屋佳照も竜ヶ水で孤立した自動車に乗車しており、災害対策本部に対して船による救助を車載電話で指示している[62]。
16時53分ごろ、竜ヶ水駅の北方向にある斜面が崩壊、これによって発生した土石流が竜ヶ水駅に直撃したことにより停車中の列車3両が大破し(日豊本線竜ヶ水駅土石流事故)、竜ヶ水駅の南方向にある国道10号付近に居合わせた警察官及び竜ヶ水駅で孤立した列車の乗務員の指示により、国道10号の路上へ避難していた約2,500名の一部に土石流が直撃し、海に投げ出されたが取り残された者と共に、鹿児島港と桜島港を結ぶ桜島町営(現在は鹿児島市船舶部)の桜島フェリーや漁船などの救援活動により順次鹿児島港へ搬送された[63][64][65]。なお、竜ヶ水駅に停車中の列車内に留まっていた乗客3名が列車に前述の土石流が直撃したことにより死亡している。
また、竜ヶ水駅での乗員乗客脱出劇は、NHKの『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』(絶体絶命 650人決死の脱出劇~土石流と闘った8時間~)をはじめとして、フジテレビの『奇跡体験!アンビリバボー』、日本テレビの『奇跡の生還! 九死に一生スペシャル』など、さまざまなドキュメンタリー番組で取り上げられている。
また、花倉(けくら)地区では集落を土石流が直撃し花倉病院に入院していた患者9名と花倉地区の住民6名の合わせて15名が死亡した[66][67]。これらの被害を受けた竜ヶ水地区や花倉地区など付近の海岸沿いを通る国道10号や日豊本線は土石流により壊滅的な被害を受けた[68]。
災害後、住民は鹿児島市内の学校に避難した後、花倉地区に戻らず、市営住宅に入居した住民も多く、花倉地区の人口は水害発生以前は約200人であったのに対して水害後は60人程度に減少した[67]。
人口
吉野町は2014年10月1日時点で32,691人の人口を擁しており、町丁単位では最も鹿児島市で人口が多い町丁となっている(※当時、吉野一丁目及び吉野二丁目は未設置である)[3]。
区域別人口
以下の表は2015年3月末現在の吉野の各区域の人口一覧である[2]。
町名 | 人口 | 世帯数 |
---|---|---|
吉野町 | 32,071 | 12,280 |
吉野一丁目 | 1,115 | 482 |
吉野二丁目 | 2,280 | 505 |
計 | 34,342 | 13,267 |
人口の変遷
年 | 人口 | 世帯数 | 出典 |
---|---|---|---|
明治初期(15~17年) | 4,396 | 1,244 | [35] |
1960年(昭和35年) | 10,503 | 不明 | [17] |
1965年(昭和40年) | 11,054 | 不明 | [17] |
1970年(昭和45年) | 17,331 | 不明 | [17] |
1979年(昭和54年) | 27,733 | 不明 | [17] |
1990年(平成2年) | 24,974 | 7,833 | [69] |
1995年(平成7年) | 27,850 | 9,162 | [69] |
2000年(平成12年) | 30,355 | 11,511 | [70] |
2005年(平成17年) | 31,628 | 12,692 | [71] |
2010年(平成22年) | 32,214 | 13,510 | [72] |
2015年(平成27年) | 34,342 | 13,267 | [2] |
史跡
吉野に所在する史跡は薩摩藩主島津氏の別邸(仙巌園)があった磯地区に特に多く、国の史跡名勝天然記念物に指定されている仙巌園や、国の重要文化財に指定されている集成館事業により建設された旧集成館や旧鹿児島紡績所技師館など日本の近代化において大きな影響を与えた建造物が多く所在している。
ユネスコの世界文化遺産に2015年7月に行われた第39回世界遺産委員会において登録された[73]、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産には吉野町にある旧集成館反射炉跡、旧集成館機械工場、旧鹿児島紡績所技師館、寺山炭窯跡が含まれている他に、隣接する下田町にある関吉の疎水溝も構成資産に含まれている[74][5]。
世界文化遺産
- 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業 エリア2 鹿児島
- 登録年:2015年(第39回世界遺産委員会)
- 旧集成館
-
旧集成館機械工場
-
旧鹿児島紡績所技師館
-
旧集成館反射炉跡
-
寺山炭窯跡
国指定文化財
この節では上記の世界文化遺産で記載された国指定文化財は割愛する。
- 名勝
- 史跡
- 建造物関係
-
- 磯珈琲館(旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所)
- 磯工芸館(旧島津家吉野殖林所)
- 仙巌園内濾過池
- キイレツチトリモチ産地
- 歴史資料関係
- 工芸品関係
-
- 太刀 銘 備前國住運次 一口
- 赤糸威鎧 兜・大袖・杏葉付 一領
市指定文化財
- 心岳寺跡 - 市指定記念物(史跡)
その他の史跡
- 西郷隆盛蘇生の家
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[108]。該当地区の詳細の街区・番地は鹿児島市公式サイトの小・中学校の校区表を参照のこと。
町丁 | 地区 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
吉野町 | 天神山団地、実方、早馬バス停以南 | 鹿児島市立大明丘小学校 | 鹿児島市立吉野中学校 |
中別府、中ノ町、よしの台、七社、上之原、東菖蒲谷、西菖蒲谷 | 鹿児島市立吉野東小学校 | 鹿児島市立吉野東中学校 | |
鳥越トンネル上、磯、花倉、三船、竜ヶ水、平松 | 鹿児島市立清水小学校 | 鹿児島市立清水中学校 | |
上記地域以外 | 鹿児島市立吉野小学校 | 鹿児島市立吉野中学校 | |
吉野一丁目 | 1番 - 42番の全域、43番・45番の一部 | ||
44番の全域、43番・45番の一部 | 鹿児島市立川上小学校 | ||
吉野二丁目 | 全域 |
交通
道路
- 国道
-
- 国道10号
- 錦江湾の海岸沿いを日豊本線と並走して通っている。鹿児島市と姶良市等を結ぶ幹線道路であることから渋滞が深刻である[109]。鹿児島市境から花倉までは片側2車線の4車線道路となっているが、その他の区間は道幅が狭小となっている区間があり、吉野町花倉から小川町までの区間を結ぶ鹿児島北バイパスが事業化されているが[110]、世界文化遺産に登録されている「集成館」、国の名勝に指定されている「仙巌園」などが建設予定地の沿線に存在することから、世界文化遺産登録時に国が国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)へ提出した推薦書においても景観に配慮したルートの検討を求められていると記載された[111]。景観上の問題と共に津波対策の必要性から山岳ルートの採用が決定した[112]。また、吉野町上ノ村から姶良市脇元までの区間の4車線化拡幅工事が白浜拡幅として事業化されている[113]
- 国道10号
- 県道
-
- 鹿児島県道16号鹿児島吉田線
- 鹿児島県道209号帯迫下田線
- 県道16号の吉野町帯迫中央交差点を起点とし隣接する下田町の県道25号までを結ぶ一般県道。
- 鹿児島県道215号吉野公園線
- 鹿児島市稲荷町を起点(県道16号と重複)とし、県道16号の吉野支所入口交差点から吉野公園付近を通り、東部の寺山公園付近までを結ぶ一般県道。
- 鹿児島県道220号寺山公園線
- 吉野町東部の寺山公園を起点とし、吉野町の北部を通り、隣接する川上町の川上町上花棚交差点を経て、鹿児島市宮之浦町(県道16号と重複)までを結ぶ一般県道。
鉄道
施設
この節では上記の史跡及び交通の節で記載された施設は割愛する。
公共施設
- 鹿児島市役所吉野支所
- 北部保健センター(2007年10月1日開所[115])
- 鹿児島大学教育学部寺山自然教育研究施設
- 地方卸売市場鹿児島花市場
- 鹿児島市立少年自然の家
- 鹿児島中央警察署吉野交番
- 鹿児島中央警察署春日交番磯連絡所
- 鹿児島県立吉野公園
- 寺山公園
- 寺山ふれあい公園(2000年3月開園[116])
- 御召覧公園
- 磯山公園(仙巌園敷地)
- 磯海水浴場
郵便局
- 鹿児島吉野郵便局
- 鹿児島菖蒲谷郵便局
- 鹿児島七社簡易郵便局
-
鹿児島吉野郵便局
-
鹿児島菖蒲谷郵便局
-
鹿児島七社簡易郵便局
宗教施設
仏閣
神社
- 原五社神社
- 七社神社
- 享保2年に七社集落の鎮護の神として勧請され、大己貴神を祀る[121]。
- 鶴嶺神社
- 仙巌園の中に鎮座する神社であり、島津氏の先祖や家臣等を祀る為に明治2年(1869年)に創建された神社である[122]。
- 菅原神社(別名:磯天神)
- 平松神社
- 白山姫神社
- 実方神社
- 照日神社
- 日輪照大神神社
- 三船神社
教育施設
- 小学校
- 特別支援学校
-
鹿児島県立鹿児島養護学校
- 幼稚園等
-
- 吉野幼稚園
- 錦ヶ丘幼稚園
- 吉野保育園
- ほぴあこども保育園
- 滝の神保育園
- 錦ヶ丘保育園
- 教恵保育園
出身人物
- 近世
-
桐野利秋
-
別府晋介
-
川上操六
-
島津忠重
- 近現代
吉野に関連した作品
物語
- 大石兵六夢物語(毛利正直作、1784年) - 作中には帯迫、菖蒲谷など吉野の地名が多数登場する。
ドキュメンタリー
- NHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』(絶体絶命 650人決死の脱出劇~土石流と闘った8時間~、2001年)
- 日本テレビ『奇跡の生還! 九死に一生スペシャル』(2007年)
- フジテレビ『奇跡体験!アンビリバボー』(集中豪雨による土石流災害 650人決死の脱出劇全記録、2010年)
- テレビ朝日『トリハダ(秘)スクープ映像100科ジテン』(絶体絶命 孤立した650名 奇跡の脱出劇、2016年)
脚注
注釈
出典
- ^ 80 住居表示実施 平成27年2月2日 川上町、下田町、吉野町→吉野1,2丁目 - 鹿児島市、2015年2月2日閲覧。
- ^ a b c 推計人口(平成27年3月1日現在) - 鹿児島市、2015年4月11日閲覧。
- ^ a b 鹿児島市史第5巻 p.899
- ^ a b 『南日本新聞』 2012年1月24日付 15面(373ワイドタウン 吉野新聞)
- ^ a b c 2015年7月6日付『南日本新聞』 1面(集成館 世界遺産)
- ^ JPL Small-Body Database Browser 5640 Yoshino - アメリカ航空宇宙局 2011年11月20日閲覧。
- ^ ニュース(2009年6月) - 薩摩川内市せんだい宇宙館 2011年11月27日閲覧。
- ^ MPC 33787(1999年2月2日)
- ^ 角川日本地名大辞典 p.694
- ^ a b 角川日本地名大辞典 p.694
- ^ 学校の沿革 - 鹿児島市立清水小学校 2011年9月15日閲覧。
- ^ 学校沿革 - 鹿児島市立吉野小学校 2011年9月15日閲覧。
- ^ 古地図にみるかごしまの町 p.162
- ^ a b 鹿児島市役所支所設置条例 - 鹿児島市例規集 2012年7月14日閲覧。
- ^ 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
- ^ a b 角川日本地名大辞典 p.656
- ^ a b c d e 鹿児島大百科 p.1022
- ^ 鹿児島市史第5巻 p.272
- ^ 鹿児島市史第5巻 p.281
- ^ 地名に現れる災害 土石流が列車を襲った例も - 乗りものニュース、2014年8月27日配信。
- ^ JR日豊線 竜ヶ水駅/九州の駅ゆったり紀行/旅・観光 - 西日本新聞 2012年7月14日閲覧。
- ^ 平成27年度鹿児島市統計書 / 運輸通信 - 鹿児島市、2017年1月9日閲覧。
- ^ 磯海水浴場(鹿児島市) - 鹿児島県、2017年11月2日閲覧。
- ^ 第五次総合計画「地域別計画」 (PDF) - 鹿児島市、2017年10月19日閲覧。
- ^ 鹿児島都市計画事業吉野地区土地区画整理事業施行条例 - 鹿児島市、2013年9月22日閲覧。
- ^ a b 吉野地区の土地区画整理事業について - 鹿児島市 2011年9月15日閲覧。
- ^ a b かごしま市民のひろば(平成27年1月号) 6面(2月2日(月曜日)~ 吉野一丁目、吉野二丁目を新設します) - 鹿児島市、2015年1月10日閲覧。
- ^ 都市計画決定等の告示(土地区画整理事業及び関連する都市施設) - 鹿児島市、2015年4月24日閲覧。
- ^ 吉野第二地区土地区画整理事業のことについて教えてください。 - 鹿児島市、2015年4月24日閲覧。
- ^ 土地区画整理事業一覧 (PDF) - 鹿児島市、2017年10月28日閲覧。
- ^ 鹿児島市の風致地区 - 鹿児島市、2017年11月9日閲覧。
- ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
- ^ 鹿児島市史 I pp.39-40(第2編 原始古代編)
- ^ 鹿児島市史 I pp.58-59(第2編 原始古代編)
- ^ a b c d e f g 角川日本地名大辞典 pp.654-655
- ^ 鹿児島市史 I p.403(第4編 近世編)
- ^ a b 鹿児島県の地名 p.180-181
- ^ 鹿児島市史 I pp.587-589(第4編 近世編)
- ^ 日本最初の洋式紡績工場 鹿児島紡績所跡と異人館 - 鹿児島市 2012年7月14日閲覧。
- ^ 角川日本地名大辞典 p.667
- ^ 吉野薬園跡 - 鹿児島市 2011年11月27日閲覧。
- ^ 鹿児島市史 I p.654(第5編 明治前期の鹿児島)
- ^ 鹿児島市史 第1巻 pp.704-705
- ^ 鹿兒島線國分鹿兒島間運輸營業開始(明治34年逓信省告示第238号、 原文)
- ^ 九州鹿兒島本線龍ケ水停車場設置一般運輸營業開始(大正4年鉄道院告示第68号、 原文)
- ^ 中郡宇村西武田村及吉野村ヲ廢シ鹿兒島市ヘ編入(昭和9年鹿児島県告示第327号、 原文)
- ^ 鹿兒島市内大字名廢止町名改稱竝ニ區域變更(昭和9年鹿児島県告示第334号、 原文)
- ^ 古地図に見るかごしまの町 p.166
- ^ 1987年 (昭和62年2月号) 第237号 (PDF) p.3 - 鹿児島市広報デジタルアーカイブ 2012年4月22日閲覧。
- ^ 昭和62年鹿児島県告示第244号(町の区域の設定、昭和62年2月6日付鹿児島県公報第8497号所収)
- ^ 鹿児島市史第5巻 p.17
- ^ 鹿児島市史第5巻 p.31
- ^ 鹿児島市史第5巻 p.35
- ^ (佐伯和人、武田大典、下川悦郎 2008)
- ^ (横田修一郎、岩松暉 1997)
- ^ 鹿児島市史第5巻 p.872
- ^ 事前通行規制区間とは - 国土交通省九州地方整備局鹿児島国道事務所、2017年11月2日閲覧。
- ^ a b (春山元寿、下川悦郎 1978)
- ^ a b 鹿児島市史第4巻 pp.799-800
- ^ 鹿児島市竜ヶ水駅でおきた土石流による列車切断について - 高谷精二(南九州大学) 砂防学会 2013年1月13日閲覧。
- ^ 風水害 - 鹿児島市 2011年11月27日閲覧。
- ^ <55>「自分の身は自分で」意識大事 - 読売新聞(2013年5月29日付)
- ^ (廣井脩 1996)
- ^ 『南日本新聞』 2013年1月3日付 25面(前を向いて かごしま 8・6水害20年)
- ^ 主な災害の概要:鹿児島水害 - 国土交通省 2011年11月27日閲覧。
- ^ 8・6水害18年 冥福祈り防災誓う/鹿児島市花倉 - 南日本新聞社(373news) 2011年11月27日閲覧。
- ^ a b 『南日本新聞』 2013年1月1日付 35面(前を向いて かごしま 8・6水害20年)
- ^ 第4章 県の地域特性及び災害特性 - 鹿児島県 2011年11月27日閲覧。
- ^ a b 町・丁別推計人口-統計書-(平成2~22年度) - 鹿児島市 2012年4月23日閲覧。
- ^ 年齢(5歳階級)別・町丁別住民基本台帳人口(平成6~23年:各年3月末現在)<5歳階級別町丁別住基人口(H12~H14:3月末)> - 鹿児島市 2012年4月23日閲覧。
- ^ 年齢(5歳階級)別・町丁別住民基本台帳人口(平成6~23年:各年3月末現在)<5歳階級別町丁別住基人口(H15~H17:3月末)> - 鹿児島市 2012年6月10日閲覧。
- ^ 年齢(5歳階級)別・町丁別住民基本台帳人口(平成6~23年:各年3月末現在)<5歳階級別町丁別住基人口(H21~H22:3月末)> - 鹿児島市 2012年6月10日閲覧。
- ^ 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」世界遺産登録に当たっての総理メッセージ - 日本国政府首相官邸、2015年7月6日閲覧。
- ^ 「明治日本の産業革命遺産九州・山口と関連地域」の概要について - 「九州・山口の近代化産業遺産群」世界遺産登録推進協議会、2015年3月18日閲覧。
- ^ 旧集成館 - 尚古集成館(島津興業) 2011年11月19日閲覧。
- ^ a b c 「「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の世界遺産への推薦について (閣議了解)」、首相官邸、2014年1月17日、2015年5月5日閲覧
- ^ a b 「旧集成館(反射炉跡)」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧
- ^ a b 「旧集成館(機械工場)」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧
- ^ 「旧集成館(旧鹿児島紡績所技師館)」登録推進協議会、2015年5月31日閲覧
- ^ 旧集成館 - 国指定文化財等データベース 2011年11月19日閲覧。
- ^ Multiple Locations - Sites of Japan’s Meiji Industrial Revolution: Iron and Steel, Shipbuilding and Coal Mining(世界遺産センター)(2015年7月12日閲覧)
- ^ 機械工場 - 尚古集成館(島津興業) 2011年11月19日閲覧。
- ^ 旧集成館機械工場 - 国指定文化財等データベース 2011年11月19日閲覧。
- ^ 異人館(旧鹿児島紡績所技師館) - 鹿児島県総合観光サイ:ゆっくり・悠・遊 観光かごしま(鹿児島県サイト内) 2011年11月19日閲覧。
- ^ 日本最初の洋式紡績工場 鹿児島紡績所と異人館 - 鹿児島市 2011年11月19日閲覧。
- ^ 鹿児島紡績所技師館(異人館) - 国指定文化財等データベース 2011年11月19日閲覧。
- ^ 「寺山炭窯跡」を紹介します。 - 鹿児島県、2015年4月24日閲覧。
- ^ 仙巌園とは1 Archived 2012年2月13日, at the Wayback Machine. - 仙巌園ウェブサイト 2011年11月19日閲覧。
- ^ 仙巌園附:花倉御仮屋庭園 - 国指定文化財等データベース 2011年11月19日閲覧。
- ^ 鹿児島市史1 p.399
- ^ “旧鹿児島紡績所技師館(建造物) 鹿児島紡績所跡(史跡)”. 鹿児島県. 2017年8月6日閲覧。
- ^ 磯珈琲館(旧芹ケ野島津家興業事業所) - 文化遺産オンライン(文化庁) 2011年11月20日閲覧。
- ^ 磯珈琲館(旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所) - 国指定文化財等データベース 2011年11月20日閲覧。
- ^ 磯工芸館(旧島津家吉野殖林所) - 文化遺産オンライン(文化庁) 2011年11月20日閲覧。
- ^ 磯工芸館(旧島津家吉野殖林所) - 国指定文化財等データベース 2011年11月20日閲覧。
- ^ 仙巌園内濾過池 - 文化遺産オンライン(文化庁) 2011年11月20日閲覧。
- ^ 仙巌園内濾過池 - 国指定文化財等データベース 2011年11月20日閲覧。
- ^ キイレツチトリモチ - 鹿児島県 2011年11月20日閲覧。
- ^ キイレツチトリモチ - 文化遺産オンライン(文化庁) 2011年11月20日閲覧。
- ^ キイレツチトリモチ - 国指定文化財等データベース 2011年11月20日閲覧。
- ^ 文禄三年島津氏分国太閤検地尺〈石田三成署判/〉 - 文化遺産オンライン(文化庁) 2012年3月24日閲覧。
- ^ 文禄三年島津氏分国太閤検地尺〈石田三成署判/〉 - 国指定文化財等データベース 2012年3月24日閲覧。
- ^ 木村嘉平関係資料 - 文化遺産オンライン(文化庁) 2012年3月24日閲覧。
- ^ 木村嘉平関係資料 - 国指定文化財等データベース 2012年3月24日閲覧。
- ^ 平松神社 - 鹿児島県神社庁 2012年3月24日閲覧。
- ^ 「心岳寺詣り」(平成23年11月23日開催)を紹介します! - 鹿児島県 2012年3月24日閲覧。
- ^ 西郷隆盛蘇生の家 - 鹿児島市 2011年11月27日閲覧。
- ^ “小・中学校の校区表”. 鹿児島市役所. 2015年4月11日閲覧。
- ^ 第1回鹿児島北バイパス磯の道づくりPI委員会 - 国土交通省鹿児島国道事務所 2011年11月30日閲覧。
- ^ 平成23年度 第5回九州地方整備局 事業評価監視委員会 国道10号鹿児島北バイパス (PDF) - 国土交通省九州地方整備局、2015年4月27日閲覧。
- ^ 国道10号鹿児島北バイパスの道路計画について (PDF) - 国土交通省九州地方整備局、2017年10月18日閲覧。
- ^ 国道10号交通混雑緩和などで「鹿児島北バイパス」・「白浜拡幅」事業 鹿児島北BP山岳ルートに変更し、約2.8kmのトンネル等約475億円 (PDF) - 九州建設情報社、2017年10月18日閲覧。
- ^ 国道10号 白浜拡幅 (PDF) - 国土交通省九州地方整備局、2017年10月16日閲覧。
- ^ 『日本鉄道旅行地図帳 12号 九州・沖縄』 p.59 新潮社
- ^ 鹿児島市史第5巻 p.733
- ^ 鹿児島市史第5巻 p.814
- ^ 本門佛立宗不輕寺鹿児島別院 - 本門佛立宗 2011年12月4日閲覧。
- ^ 祥徳寺 TOP of 慈明山 祥徳寺 - 慈明山祥徳寺 2011年12月4日閲覧。
- ^ 鎮守神社 - 鹿児島県神社庁 2011年12月4日閲覧。
- ^ 原五社神社 - 鹿児島県神社庁 2012年11月20日閲覧。
- ^ 七社神社 - 鹿児島県神社庁 2011年12月4日閲覧。
- ^ 鶴嶺神社 - 鹿児島県神社庁 2011年12月4日閲覧。
- ^ 菅原神社 - 鹿児島県神社庁 2011年12月4日閲覧。
- ^ 菅原神社 - 鹿児島市 2011年12月4日閲覧。
- ^ 白山姫神社 - 鹿児島県神社庁 2011年12月4日閲覧。
- ^ a b 本校の歴史 - 鹿児島市立吉野東中学校 2011年12月4日閲覧。
- ^ a b 学校沿革 - 鹿児島市立吉野小学校 2011年12月4日閲覧。
- ^ 学校紹介 - 鹿児島市立吉野東小学校 2011年12月4日閲覧。
- ^ かごしま市民のひろば(鹿児島市広報デジタルアーカイブ) 1970年 (昭和45年4月号) 第35号 (PDF) - 鹿児島市、2017年5月8日閲覧。
- ^ 沿革 - 鹿児島県立鹿児島養護学校 2011年12月4日閲覧。
- ^ H25新校舎移転に向けて - 鹿児島県立鹿児島養護学校 2013年3月25日閲覧。
- ^ 桐野利秋 - 鹿児島市 2013年6月29日閲覧。
- ^ 別府晋介 - 鹿児島市 2013年6月29日閲覧。
- ^ 川上操六 - 鹿児島市 2012年12月13日閲覧。
- ^ Minor Planet Discoverers (Alphabetically)(英語) - 小惑星センター 2013年3月21日閲覧
- ^ J2ジュビロ磐田にオリビエ入団 - 鹿児島テレビ(KTS) 2014年10月22日付。2015年2月7日閲覧。
参考文献
- 鹿児島市史編さん委員会『鹿児島市史I』鹿児島市、1969年 。
- 南日本新聞『鹿児島市史 第四巻』鹿児島市長 赤崎義則、1990年。
- 南日本新聞『鹿児島市史 第五巻』鹿児島市長 森博幸、2015年。
- 南日本新聞社鹿児島大百科事典編纂室『鹿児島大百科事典』南日本新聞社、1981年。
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』角川書店、1983年。ISBN 978-4040014609。
- 豊増哲雄『古地図に見る かごしまの町』春苑堂出版、1996年。ISBN 4-915-09337-9。
- 『日本歴史地名体系 47 鹿児島県の地名』平凡社、1998年。ISBN 4-582-49047-6。
- 春山元寿、下川悦郎 (1978), 鹿児島市吉野町竜ヶ水地区の山地崩壊・土石流災害について
- 廣井脩 (1996), 1993年鹿児島水害における災害情報の伝達と住民の対応
- 横田修一郎、岩松暉 (1997), ボーリング調査に基づく鹿児島湾竜ヶ水急崖の地質構造
- 佐伯和人、武田大典、下川悦郎 (2008), 鹿児島県竜ヶ水地区における土砂災害に関する観測調査について
関連項目
座標: 北緯31度38分20.6秒 東経130度33分36.7秒 / 北緯31.639056度 東経130.560194度