ジャック・ラフィット
ジャック・ラフィット Jacques Laffite | |
---|---|
ジャック・ラフィット (2015年) | |
基本情報 | |
フルネーム |
ジャック=アンリ・マリー・サバン・ラフィット Jacques-Henri Marie Sabin Laffite |
国籍 | フランス |
出身地 | 同・パリ |
生年月日 | 1943年11月21日(80歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1974-1986 |
所属チーム |
'74-'75,'83-'84 ウィリアムズ '76-'82,'85-'86 リジェ |
出走回数 | 180 (176スタート) |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 6 |
表彰台(3位以内)回数 | 32 |
通算獲得ポイント | 228 |
ポールポジション | 7 |
ファステストラップ | 7 |
初戦 | 1974年ドイツGP |
初勝利 | 1977年スウェーデンGP |
最終勝利 | 1981年カナダGP |
最終戦 | 1986年イギリスGP |
F1関連記事 |
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関連リスト |
ジャック=アンリ・マリー・サバン・ラフィット(Jacques-Henri Marie Sabin Laffite, 1943年11月21日 - )は、フランス出身の元レーシングドライバー。「ジャック・ラフィー」と呼ばれることもあり、これはフランス語に近い表記とされることもあるが実際にはフランス語でもLaffiteは「ラフィット」に近い発音である[1]。
プロフィール
[編集]パリ出身。父は弁護士で[2]、少年時代から常に一緒に行動するような友人に、のちにルノー・ワークスなどで活躍したF1ドライバージャン=ピエール・ジャブイーユがおり、ジャブイーユ家とラフィット家はフランス中部にあるリゾート地に別荘を共同所有しているような強い絆がある関係だった。ラフィットとジャブイーユは成長後、義兄弟(お互いの妻が姉妹。ジャブイーユの妻の名前はジェヌヴィエーブ、ラフィットの妻はベルナデット。)となった[2]。
ラフィットのレーシングドライバーとしてのスタートは極めて遅く、モータースポーツに関わり始めたのが23歳、レースデビューが26歳という遅咲きである。1973年に30歳でフランスF3チャンピオンを獲得。翌年に30歳を超えてからのF1デビューであった。1975年のヨーロッパF2シリーズで6勝を挙げチャンピオン獲得、1974年・1975年とF1に参戦初期の弱小チームだったウィリアムズから参戦。同年の11月には来日し、JAFグランプリF2000クラス(のちの全日本F2)にスポット出場している[3]。
1976年、F1に1カー体制で新規参入したフランスチーム・リジェのエースドライバーに就任。1977年スウェーデングランプリで自身にとってもリジェにとっても初となるF1勝利を挙げる。同年第3戦南アフリカグランプリでは、コースマーシャルと衝突した弾みで飛んできた消化器により即死状態だったトム・プライスの車が自車と接触して止まる事になった。同年11月には前年に続いて来日し、全日本F2000選手権最終戦・鈴鹿を独走で制している[4]。なお。この優勝は日本のトップフォーミュラにおける初の外国籍選手の優勝であった[5]。
1979年からリジェは2カーエントリーに拡大され、ティレルで勝利を挙げていたパトリック・デパイユが加入し、ラフィットと優勝経験を持つフランス人コンビを組んだ。ニューマシン、リジェ・JS11の戦闘力は高く、ラフィットは開幕から2連勝を挙げてチャンピオン争いに絡んだ。年間ドライバーズランキングは4位、リジェのコンストラクターズランキングは3位と躍進のシーズンとなった。
1980年、移籍したデパイユに変わりディディエ・ピローニが加入しチームメイトとなる。改良型のJS11/15をドライブしドイツGPで優勝、年間ランキング4位を獲得。コンストラクターズ選手権では2位とリジェの最高順位となる結果を残した。
1981年、リジェにルノー・ワークスからジャブイーユが移籍してきたため、「義兄弟コンビ」となった。ラフィットはリジェ・JS17で2勝を挙げ、最終戦で優勝すればワールドチャンピオンを獲得できるポジションに付けていたが、ランキング4位で終了。3年連続でドライバーズランキング4位につけるなど安定した年間成績を残した。同年のスペインGPでは、予選終了時刻前に自身のタイムアタックを終えると最終結果を確認せずに切り上げてゴルフに出かけてしまった。結果はポールポジションを獲得し、決勝ではわずか0.211秒差及ばず2位となっている(このレースの優勝者はフェラーリのジル・ヴィルヌーヴであるが、1位から5位までがわずか1.231秒の差でフィニッシュする接戦であった。3位はジョン・ワトソン、4位はカルロス・ロイテマン、5位はエリオ・デ・アンジェリス)[6]。1982年オフに7年過ごしたリジェからウィリアムズへの復帰が決定。この1981年がラフィットのキャリア・ピークであり、すでに38才となっていた。
1983年はケケ・ロズベルグと共にウィリアムズ・FW08Cを駆り、最終戦南アフリカGPでは同年にF1復帰したホンダがV6ターボエンジンをウィリアムズに供給開始時のドライバーとなった。
1985年、リジェに復帰。チームメイトはアンドレア・デ・チェザリス。ラフィットは3度表彰台に登壇するなど速さを取り戻し、ランキング9位を得る。
1986年もリジェに残留。ルネ・アルヌーとフランス人コンビを組み、ルノー・ターボエンジンを搭載するリジェ・JS27をドライブとオーナーのギ・リジェが望んだオール・フレンチ体制となった。開幕戦ブラジルGPで3位表彰台、デトロイトGPで2位表彰台に立つなど、42才にして衰えの知らない元気な姿を見せていた。第9戦イギリスGPでは、当時のF1最多出走記録であったグラハム・ヒルの出走数176に並んだ。しかし、決勝レースがスタートしタイ記録が達成された直後、多重事故によりラフィットはコース右側のグリーンに押し出され、ガードレールに正面から突っ込んでしまい両足の複雑骨折を負った[7]。以後F1への復帰を目指しリハビリテーションに励み、「松葉杖も要らなくなったし、あと2年はグランプリで走る自信がある」とF1復帰を望んでいた[8]。その後リジェとは1989年までテスト・リザーブドライバーとして契約しており[9]、1987年のJS29、1988年のJS31についてはマシンの出来が不調でシーズン中に大きなモデファイを必要としたため、その改良具合を確認するテスト走行をラフィットが担当するまでに回復していたが、実戦に復帰することはなかったため、この86年イギリスGPが最後のF1GP出走となった。
30歳以上でF1デビューしたドライバーの中でもっとも決勝出走回数が多いドライバーで、前述のG.ヒルの記録に並んだ時には既に42歳になっていた。F1決勝出走176GPのレコードは、1989年にリカルド・パトレーゼが更新するまで(ヒルと並んで)F1最多出走記録であった。
1987年、ディジョンで開催されたWTC第3戦でレース復帰。アレッサンドロ・ナニーニとのコンビでアルファロメオ・A75ターボの第2ワークスカーを駆って予選14位・決勝9位でレースを終えた[10]。
以後、フランステレビ局のF1レース中継解説者としてサーキットを訪れている。
エピソード
[編集]ラフィットのヘルメットデザインは、黒地の無地ヘルメットに、出身のウィンフィールドレーシングスクールのステッカーだけが貼られたシンプルなものがトレードマークとなっていた。
ゴルフ好きで知られ、アラン・プロストと共同出資でディジョン郊外のゴルフコースを購入しオーナーとなっている[11]。同じくゴルフ好きだったナイジェル・マンセルとも親交がある。
1984年アメリカグランプリの際にはサーキットにパジャマ姿で現れるというエピソードを残した。これはアメリカとヨーロッパの時差により、ヨーロッパでのテレビ中継の放映時間調整のために決勝レースが通常より3時間早い午前11時スタートと設定され、ウォームアップランは午前7時開始となったことに対する皮肉を込めたラフィットのジョークであった。その姿を見たチーム関係者たちは皆爆笑したという。元F1メカニックの津川哲夫は著書「F1グランプリボーイズ」の中でラフィットを「サーキットのコメディアン」と称している。
ラフィットが在籍していたウィリアムズはホンダエンジンを搭載しており、日本でもある程度の知名度がある。
カーナンバー (フォーミュラ1)
[編集]- 21 (1974年第11戦 - 1975年第3戦.5.6.8-14戦)
- 26 (1976年-1982年第3戦.5-16戦.1985年-1986年第9戦)
- 2 (1983年)
- 5 (1984年)
レース戦績
[編集]略歴
[編集]年 | シリーズ | チーム | レース | 勝利 | PP | FL | 表彰台 | ポイント | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1972 | ル・マン24時間レース | オートモビルズ・リジェ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF |
1973 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DSQ | ||
1974 | ヨーロピアン・フォーミュラ2(英語版) | BP・レーシング・フランス | 10 | 1 | 1 | 1 | 5 | 31 | 3位 |
フォーミュラ1 | フランク・ウィリアムズ・レーシング・カーズ | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC | |
ル・マン24時間レース | オートモビルズ・リジェ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 8位 | |
1975 | ヨーロピアン・フォーミュラ2 | オートモビルズ・マティーニ(英語版) | 14 | 6 | 5 | 4 | 7 | 60 | 1位 |
フォーミュラ1 | フランク・ウィリアムズ・レーシング・カーズ | 10 | 0 | 0 | 0 | 1 | 6 | 12位 | |
世界スポーツカー選手権 | ウィリ・カウセン・レーシング・チーム(英語版) | 3 | 3 | 0 | 0 | 3 | 60 | NC | |
1976 | フォーミュラ1 | リジェ・ジタン | 16 | 0 | 1 | 1 | 3 | 20 | 7位 |
世界スポーツカー選手権 | エキップ・ルノー・エルフ | 4 | 0 | 3 | 0 | 1 | 15 | NC | |
ヨーロピアン・フォーミュラ2 | フレッド・オパート・レーシング(英語版) | 2 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | NC‡ | |
ウィリ・カウセン・レーシング・チーム | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||
1977 | フォーミュラ1 | リジェ・ジタン | 17 | 1 | 0 | 1 | 2 | 18 | 10位 |
ヨーロピアン・フォーミュラ2 | フレッド・オパート・レーシング | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC | |
ル・マン24時間レース | ルノー・スポール | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | |
1978 | フォーミュラ1 | リジェ・ジタン | 16 | 0 | 0 | 0 | 2 | 19 | 8位 |
ヨーロピアン・フォーミュラ2 | モーブラン・レーシング・サーヴィセス | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC | |
ル・マン24時間レース | グランド・ツーリング・カーズ Inc. | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 10位 | |
1979 | フォーミュラ1 | リジェ・ジタン | 15 | 2 | 4 | 2 | 6 | 36 | 4位 |
BMW・M1・プロカー・チャンピオンシップ(英語版) | BMW・モータースポーツ(英語版) | 4 | 1 | 1 | 0 | 2 | 35 | 7位 | |
1980 | フォーミュラ1 | エキップ・リジェ・ジタン | 14 | 1 | 1 | 1 | 5 | 34 | 4位 |
BMW・M1・プロカー・チャンピオンシップ | BMW・モータースポーツ | 6 | 0 | 1 | 0 | 1 | 37 | 9位 | |
1981 | フォーミュラ1 | エキップ・タルボ・ジタン | 15 | 2 | 1 | 1 | 7 | 44 | 4位 |
1982 | 15 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 17位 | ||
1983 | TAG・ウィリアムズ・チーム | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 11位 | |
1984 | ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 14位 | |
1985 | エキップ・タルボ・ジタン | 15 | 0 | 0 | 1 | 3 | 16 | 9位 | |
1986 | エキップ・リジェ | 9 | 0 | 0 | 0 | 2 | 14 | 8位 | |
1987 | 世界ツーリングカー選手権 | アルファ・コルセ(英語版) | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 86 | 17位 |
1990 | ドイツツーリングカー選手権 | ビガッツィ・M・チーム | 21 | 1 | 0 | 3 | 3 | 107 | 7位 |
ル・マン24時間レース | ヨースト・ポルシェ・レーシング | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 14位 | |
1991 | ドイツツーリングカー選手権 | スノベック・S.A. | 21 | 0 | 2 | 1 | 3 | 81 | 11位 |
1992 | MS・レーシング | 23 | 0 | 0 | 1 | 0 | 43 | 13位 | |
1993 | ル・マン24時間レース | ジャカディ・レーシング | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF |
1994 | ラルブル・コンペティション | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | |
1996 | ル・マン24時間レース | チーム・ビガッツィ・SRL | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 11位 |
2007 | FIA GT3・ヨーロピアン・チャンピオンシップ(英語版) | オートGT・レーシング | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 22位 |
2008 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 29位 |
- ‡ : グレーデッド・ドライバーの対象になるためポイントは加算されない。
ル・マン24時間レース
[編集]年 | チーム | コ・ドライバー | 車両 | クラス | 周回数 | 総合 順位 |
クラス 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1972年 | オートモビルズ・リジェ | ピエール・モブラン | リジェ・JS2-マセラティ | S3.0 | 195 | DNF | DNF |
1973年 | ギ・リジェ | 24 | DSQ | DSQ | |||
1974年 | アラン・セルパギ | 310 | 8位 | 5位 | |||
1977年 | ルノー・スポール | パトリック・デパイユ | ルノー・アルピーヌ A442 | S+2.0 | 289 | DNF | DNF |
1978年 | グランド・ツーリング・カーズ Inc. | ヴァーン・シュパン サム・ポージー |
ミラージュ・M9-ルノー | 293 | 10位 | 5位 | |
1990年 | ヨースト・ポルシェ・レーシング | アンリ・ペスカロロ ジャン=ルイ・リッチ |
ポルシェ・962C | C1 | 328 | 14位 | 14位 |
1993年 | ジャカディ・レーシング | ミシェル・メゾンヌーヴ クリストフ・デシャヴァンヌ |
ヴェンチュリ・500LM-ルノー | GT | 210 | DNF | DNF |
1994年 | ラルブル・コンペティション | ジャック・アルメラス ジャン=マリー・アルメラス |
ポルシェ・911 Carrera RSR | GT2 | 94 | DNF | DNF |
1996年 | チーム・ビガッツィ・SRL | スティーブ・ソパー マルク・デュエツ |
マクラーレン・F1 GTR-BMW | GT1 | 318 | 11位 | 9位 |
ヨーロピアン・フォーミュラ2選手権
[編集]年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1974年 | BPレーシング・フランス | マーチ・742 | BMW M12 | BAR Ret |
HOC 10 |
PAU 2 |
SAL 1 |
HOC 2 |
MUG Ret |
KAR 3 |
PER 7 |
HOC 18 |
VAL 3 |
3位 | 31 | ||||
1975年 | オートモビルズ・マルティニ | マルティニ・Mk16 | EST 1 |
THR 1 |
HOC Ret |
NÜR 1 |
PAU 1 |
HOC 1 |
SAL NC |
ROU Ret |
MUG Ret |
PER 1 |
SIL Ret |
ZOL Ret |
NOG Ret |
VAL 2 |
1位 | 60 | |
1976年 | フレッド・オパート・レーシング | シェブロン・B35 | BMW | HOC | THR | VAL | SAL | PAU 2 |
HOC | ROU | MUG | PER | EST | NOG 2 |
NC | 0‡ | |||
ウィリ・カウセン・レーシング・チーム | マーチ・762 | ハート | HOC Ret |
||||||||||||||||
1977年 | フレッド・オパート・レーシング | シェブロン・B40 | ハート | SIL | THR | HOC 7 |
NÜR | VAL | PAU 10 |
MUG | ROU | NOG Ret |
PER | MIS | EST | DON | NC | 0 | |
1978年 | モーブラン・レーシング・サーヴィセス | マーチ・782 | BMW | THR | HOC | NÜR | PAU 11 |
MUG | VAL | ROU | DON | NOG Ret |
PER | MIS | HOC | NC | 0 |
- 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)
- ‡ : グレーデッド・ドライバーの対象になるためポイントは加算されない。
全日本フォーミュラ2000選手権
[編集]年 | エントラント | シャシー | エンジン | タイヤ | 車番 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1975年 | Marlboroアストロン VICIC | マーチ・742 | 三菱・R39 B2 | B | 81 | FSW | SUZ | FSW | SUZ | SUZ 7 |
-[12] | -[12] |
1976年 | CLUB MEDITERRANEE VICIC | シェブロン・B35 | BMW M12/7 | B | 16 | FSW | SUZ | FSW | SUZ | SUZ 1 |
-[12] | -[12] |
フォーミュラ1
[編集]経歴
[編集]- 1974年 ウィリアムズからF1初参戦。
- 1975年 シーズンランキング12位。
- 1976年 リジェに移籍、シーズンランキング8位。初ポールポジション。
- 1977年 シーズンランキング10位。初優勝。
- 1978年 シーズンランキング8位。
- 1979年 シーズンランキング4位。2勝。
- 1980年 シーズンランキング4位。1勝。
- 1981年 シーズンランキング4位。2勝。
- 1982年 シーズンランキング18位。
- 1983年 ウィリアムズに移籍、シーズンランキング11位。
- 1984年 シーズンランキング14位。
- 1985年 リジェに移籍、シーズンランキング9位。
- 1986年 イギリスグランプリで事故により負傷し、以後F1を欠場。シーズンランキング8位。
年度別成績
[編集]BMW・M1・プロカー・チャンピオンシップ
[編集]年 | チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1979年 | BMW・モータースポーツ | ZOL Ret |
MCO | DIJ | SIL | HOC Ret |
ÖST 1 |
ZAN 2 |
MNZ | 6位 | 35 | |
1980年 | DON | AVU 4 |
MCO | NOR 7 |
BRH 4 |
HOC 10 |
ÖST Ret |
ZAN 3 |
IMO | 8位 | 37 |
世界ツーリングカー選手権
[編集]年 | チーム | 車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | DC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987年 | アルファ・コルセ | アルファロメオ・75 | MNZ | JAR Ret |
DIJ ovr:9 cls:5 |
NÜR ovr:9 cls:7 |
SPA ovr:12 cls:9 |
BNO ovr:10 cls:8 |
SIL ovr:10 cls:8 |
BAT | CAL | WEL | FUJ | 17位 | 86 |
ドイツツーリングカー選手権
[編集]年 | チーム | 車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990年 | ビガッツィ・M・チーム | BMW・M3 Sport Evo | ZOL 1 6 |
ZOL 2 4 |
HOC 1 Ret |
HOC 2 DNS |
NÜR 1 3 |
NÜR 2 Ret |
AVU 1 4 |
AVU 2 Ret |
MFA 1 7 |
MFA 2 Ret |
WUN 1 14 |
WUN 2 Ret |
NÜR 1 1 |
NÜR 2 8 |
NOR 1 8 |
NOR 2 Ret |
DIE 1 18 |
DIE 2 4 |
NÜR 1 2 |
NÜR 2 6 |
HOC 1 14 |
HOC 2 5 |
7位 | 107 | ||
1991年 | スノベック・S.A. | メルセデス・190E 2.5-16 Evo2 | ZOL 1 21 |
ZOL 2 Ret |
HOC 1 5 |
HOC 2 9 |
NÜR 1 5 |
NÜR 2 6 |
AVU 1 15 |
AVU 2 21 |
WUN 1 4 |
WUN 2 5 |
NOR 1 13 |
NOR 2 8 |
DIE 1 3 |
DIE 2 Ret |
NÜR 1 3 |
NÜR 2 3 |
ALE 1 DNS |
ALE 2 DNS |
HOC 1 12 |
HOC 2 12 |
BRN 1 13 |
BRN 2 Ret |
DON 1 5 |
DON 2 7 |
11位 | 81 |
1992年 | MS・レーシング | ZOL 1 9 |
ZOL 2 14 |
NÜR 1 18 |
NÜR 2 10 |
WUN 1 8 |
WUN 2 6 |
AVU 1 9 |
AVU 2 4 |
HOC 1 7 |
HOC 2 6 |
NÜR 1 11 |
NÜR 2 9 |
NOR 1 11 |
NOR 2 11 |
BRN 1 Ret |
BRN 2 13 |
DIE 1 18 |
DIE 2 8 |
ALE 1 10 |
ALE 2 8 |
NÜR 1 Ret |
NÜR 2 Ret |
HOC 1 Ret |
HOC 2 DNS |
13位 | 43 |
グランプリ・マスターズ
[編集]年 | チーム | シャシー | エンジン | 1 |
---|---|---|---|---|
2005年 | チーム・GMF | デルタ・モータースポーツ・GPM | ニコルソン・マクラーレン 3.5 V8 | RSA Ret |
脚注
[編集]- ^ Forvoチーム. “Jacques Laffite の発音: Jacques Laffite の フランス語 の発音”. Forvo.com. 2022年12月8日閲覧。
- ^ a b 無冠の帝王③ターボ革命に捧げたレース人生 ジャン-ピエール・ジャボイーユ グランプリ・エクスプレス フランスGP号 14-15頁 山海堂 1989年7月29日発行
- ^ JAFグランプリF-2000/リザルト JAF日本自動車連盟モータースポーツ
- ^ 1976日本グランプリ自動車レースF2000チャンピオン・リザルト JAF日本自動車連盟モータースポーツ
- ^ "JAFグランプリとは?"21回を数えるJAFグランプリの歴史 鈴鹿サーキット 2022年9月16日
- ^ スポーツ・グラフィック「ナンバー」編 文藝春秋文春文庫ビジュアル版『激走!F1』 54-71頁。
- ^ さらば愛しきブランズハッチ 金子博 Racing On No.010 44頁 武集書房 1987年2月1日発行
- ^ 復帰を目指しリハビリを開始したラフィット 元気に自転車トレーニング Racing On No.010 1987年2月号 38頁
- ^ 続出No.3ドライバーたち GPX '89ブラジルGP号 37頁 山海堂 1989年4月15日発行
- ^ ラフィーがレースに復帰 ディジョンWTC第3戦 オートスポーツ No.475 1987年7月1日号 140頁 三栄書房
- ^ スペシャルインタビュー アラン・プロスト グランプリ・エクスプレス モナコGP号 12-13頁 1989年5月27日発行
- ^ a b c d JAF(日本自動車連盟)ライセンスではない外国ライセンスドライバーはポイント対象外。
関連項目
[編集]タイトル | ||
---|---|---|
先代 ミシェル・ルクレール |
フランスF3 チャンピオン 1973 |
次代 開催休止 |
先代 パトリック・デパイユ |
ヨーロッパF2 チャンピオン 1975 |
次代 ジャン=ピエール・ジャブイーユ |