利用者:Kensalt/sandbox
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | カリフォルニア州サンディエゴ |
生年月日 | 1918年8月30日 |
没年月日 | 2002年7月5日(83歳没) |
身長 体重 |
6' 3" =約190.5 cm 205 lb =約93 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 左翼手 |
プロ入り | 1936年 |
初出場 | 1939年4月20日 |
最終出場 | 1960年9月28日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選出年 | 1966年 |
得票率 | 93.38% |
選出方法 | BBWAA選出 |
この表について
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セオドア・サミュエル・ウィリアムズ(Theodore Samuel Williams,1918年8月30日 - 2002年7月5日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ出身のプロ野球選手(左翼手)・監督。ニックネームは「The Kid」,「Teddy Ballgame」,「Splendid Splinter」,「Thumper」。
MLB史上最高の左翼手とも称され[1][2][3]、ロジャース・ホーンスビーと並んで二度の三冠王を獲得した。デビューから引退までをボストン・レッドソックス一筋で過ごしたフランチャイズプレーヤーで、2021年時点で最後の4割打者である。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]カリフォルニア州サンディエゴにて、写真家の父サミュエルとメキシコ出身の母メイとの間に長男として誕生。名前は第26代大統領セオドア・ルーズヴェルトに因む[4][5]。
8際の時に母方の叔父に野球を教わる。ハーバート・フーバー高校では投手兼外野手としてプレイ[6]し、既にセントルイス・カーディナルスやニューヨーク・ヤンキースからのオファーを受けていた。しかし地元を離れるにはまだ若すぎると母親が反対したため、1936年にMiLBパシフィックコーストリーグ所属のサンディエゴ・パドレスと在学中に契約した[4][7]。
マイナーリーグ時代
[編集]1937年はリーグ優勝を果たしたチームで打率.291・23本塁打・96打点を記録[5]。レッドソックスのGMエディ・コリンズがこれに目を付け[4]、12月7日に2選手プラス金銭,後日発表の1選手との交換トレードで移籍した[8]。
1938年はアメリカン・アソシエーション所属のミネアポリス・ミラーズでプレイし、いずれもリーグトップの打率.366・43本塁打・142打点・出塁率.481・長打率.701・114四球・130得点を記録した[5]。
レッドソックス時代
[編集]1939年4月20日のヤンキースとの開幕戦に「6番・右翼」で先発出場しメジャーデビュー[9]。ルーキーながら打率.327・31本塁打、共にリーグトップの145打点・344塁打、いずれもリーグ2位の44二塁打・107四球・131得点を記録し、最多打点のタイトルを獲得。打点は2021年現在もルーキーの最多記録である[10]。
1940年からは左翼で出場[11]し、自身初のオールスターゲームに選出される。本塁打と打点は前年よりもやや数字を下げたが、共にリーグトップの出塁率.442・134得点、キャリアハイの14三塁打を記録した。8月24日のデトロイト・タイガースとのダブルヘッダー第1試合では大量リードを許した8回から投手として登板し、2イニングを投げた[12]。マウンドに上がったのはこれが最初で最後だった。
1941年はスプリングトレーニング中に負った故障の影響で開幕から数試合は代打での出場[13]だったが、その後は好調で前半戦を打率.405・16本塁打・出塁率.520で折り返す[14]。2年連続のオールスターゲームに選出され、「4番・左翼」で先発出場。1点ビハインドの9回裏2死1・3塁の場面で打席に立ち、逆転サヨナラ3点本塁打を放った[15]。後半戦もコンスタントに4割を維持したが最終盤にやや数字を下げ、シーズン最終戦のフィラデルフィア・アスレティックスとのダブルヘッダーを前に打率.3995と辛うじて4割を維持していた。そのため欠場を勧められたがこれを断り[5]、2試合共に出場。最初の打席で球審のビル・マゴワンがホームプレートを掃きながら、「4割を達成したいなら、力を抜くんだぞ」と言ったという[16]。結局2試合で8打数6安打を記録して4割が確定。この時23歳1ヶ月で、1911年に24歳2ヶ月で.408を記録したジョー・ジャクソンの最年少記録を更新した。
最終成績はいずれもリーグトップの打率.406・37本塁打・出塁率.553・長打率.735・OPS1.287・147四球・135得点で、首位打者と本塁打王のタイトルを獲得。120打点はライバルのジョー・ディマジオと5打点差で三冠は逃した。出塁率は2002年にバリー・ボンズが更新するまでメジャー記録で、2021年現在でもリーグ記録である[17]。MVPの投票では56試合連続安打の大記録を達成したディマジオに及ばず2位[18]に終わったが、スポーティングニュース誌が選出するプレイヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞した[19]。
1942年はアスレティックスとの開幕戦で5打点、5月29日の同カードで7打点を記録[20]。いずれもリーグトップの打率.356・36本塁打・137打点・145四球・出塁率.499・長打率.648・OPS1.147・338塁打・141得点を記録し、前年に逃した三冠を達成。にも関わらず、MVPの投票ではヤンキースのジョー・ゴードンに敗れてまたも2位に終わり[21]受賞を逃すが、前年に続いてスポーティングニュース・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーに選出された[19]。
1943年から1945年までの3年間は第二次世界大戦に従軍し、海兵隊でパイロットを務めた[5]。当初は母親の世話をするため兵役猶予になっていたが、地元ボストンのメディアに「兵役逃れ」を非難され、ファンからも嫌がらせを受けたために猶予を自ら返上。戦地に赴くことはなかった[22]。
終戦後の1946年に復帰。6月9日のタイガース戦で本拠地フェンウェイ・パーク史上最長502フィート(約153.0メートル)の本塁打を放った[23][24]。前半戦で打率.347・23本塁打・92四球の好成績[25]を挙げる。地元ボストンで初開催されたオールスターゲームに選出され、2本塁打を含む4安打5打点[26]と大暴れした。7月14日のクリーブランド・インディアンズとのダブルヘッダー第1試合で、3回に満塁本塁打、5回にソロ、8回に逆転3点本塁打を放ち、キャリア初の1試合3本塁打(全て右方向)で8打点を記録[27][28]。第2試合、インディアンズの遊撃手兼監督ルー・ブードローは、典型的なプルヒッターであるウィリアムズを打席に迎えた際、自身を二塁の定位置に、二塁手は一塁と右翼の間、三塁手を二塁よりやや一塁寄りに配置する[29]「ブードローシフト(ウィリアムズシフトとも)」と呼ばれることになる奇策に出た。それでも自分のバッティングスタイルを崩すことはなかったが、9月13日の試合ではシフト破りの流し打ちを行い、打球が無人の左中間を転々とする間にホームまで生還。キャリア唯一のランニング本塁打だった[6]。7月21日のセントルイス・ブラウンズとのダブルヘッダー第2試合では自身初のサイクルヒットを達成した[30]。
最終成績はいずれもリーグ2位の打率.342・38本塁打・123打点、リーグトップの出塁率.497・長打率.667・OPS1.164・156四球・142得点・343塁打を記録し、チームの1918年以来28年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。カージナルスとのワールドシリーズでは打率.200・0本塁打・1打点[31]と不振。3勝3敗で迎えた第7戦は本塁打性の打球を2本キャッチされ、8回表にドム・ディマジオの二塁打で同点に追い付いた直後の打席では二塁への平凡なフライに倒れた[32]。その裏に決勝点を失い、3勝4敗で敗退。そして結果的にこれが自身最初で最後のワールドシリーズ出場となった。オフにMVPを初受賞。
1947年は7月18日のブラウンズ戦で5打数5安打5打点を記録[33]。後半戦で打率.370[34]と調子を上げ、いずれもリーグトップの打率.343・32本塁打・114打点・出塁率.499・長打率.634・OPS1.113・162四球・125得点・335塁打の成績で5年ぶり2度目の三冠を達成。しかしMVPの投票では再びディマジオに敗れて2位に終わる。成績では明らかに上だったが、ディマジオ202ポイントに対しウィリアムズは201と僅か1ポイント差[35]で涙を呑んだ。これは折り合いの悪い地元ボストンの担当記者の1人が、10名連記の投票用紙にウィリアムズの名前を書き入れなかったためである[36]。それでも5年ぶりにスポーティングニュース・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞した[19]。
1948年は前半戦で打率.388・16本塁打を記録するが、後半戦は9本塁打[37]とやや失速。それでも打率.369で2年連続の首位打者を獲得した。チームは最終戦を終えてインディアンズと96勝58敗で並んだが、ワンゲームプレイオフで敗れて2年ぶりのリーグ優勝を逃した。
1949年は7月1日のアスレチックス戦から9月27日のワシントン・セネターズ戦まで、メジャー記録の84試合連続出塁を記録[5][38]。シーズン終盤まで打撃3部門でトップを維持し、3度目の三冠をほぼ手中に収めていたが、シーズン最終戦で3安打を放ったタイガースのジョージ・ケルが打率.3429でウィリアムズの.3427を逆転し、僅か2毛差で首位打者を逃した[36]。それでも自身初の全試合出場を果たし、いずれもリーグトップの43本塁打・159打点(バーン・スティーブンスと同数)・出塁率.490・長打率.650・OPS1.141・39二塁打・162四球・150得点・368塁打を記録し、最多本塁打・最多打点の二冠を獲得。3年ぶり2度目のMVPも受賞した。チームは終盤に11連勝してヤンキースを逆転、敵地ヤンキー・スタジアムでの直接対決2連戦で1勝すれば優勝だったが、連敗[39]を喫して逃した。
1950年は前半戦で25本塁打・83打点[40]と過去最高のペースで打ちまくるが、コミスキー・パークで行われたオールスターゲームでラルフ・カイナーが放った打球を追った際、スコアボードに激突して左肘を骨折[41]し、7月13日に骨片除去手術を受けた[42]。後半戦の殆どを棒に振り、89試合の出場に留まった。この骨折については後に「打者として完全に回復することは決してなかった」と語っている[4]。
1951年は前年の怪我の影響がありながら打率.318、共にリーグ2位の30本塁打・126打点、出塁率・長打率・OPS・四球・塁打はリーグトップを記録した。
1952年は開幕から6試合に出場した後、朝鮮戦争に従軍。後の宇宙飛行士・上院議員ジョン・ハーシェル・グレンと共に戦闘機のパイロットを務めた[5]。休戦4日前の1953年7月23日、耳の感染症によって除隊となり[43]8月にレッドソックスに復帰。37試合の出場ながら打率.407・13本塁打を記録した。
1954年はスプリングトレーニングで鎖骨を骨折[4]し出遅れる。5月16日のタイガースとのダブルヘッダーでは2試合で9打数8安打7打点を記録[44]するが、チームは2試合共敗れた。6月には肺炎で3週間戦線離脱[42]するなど117試合の出場に留まるが、出塁率・長打率は2位に1割の大差を付け、本塁打はラリー・ドビーに次ぐリーグ2位の29本を記録。打率.345・136四球もリーグトップだったが、当時首位打者の規定は400打数以上だったため四球の多さが影響して386打数で届かず、インディアンズのボビー・アビーラが.341でタイトルを獲得した。しかし選球眼が優秀であるが故に打数が足りず、首位打者でないのは不公平だという議論が起こり、1957年から「規定打席」を導入することが決定した[45]。
1955年は離婚問題によってシーズン初出場が5月28日になり、98試合の出場ながら3本の満塁本塁打を記録[23]するなどリーグ3位の28本塁打。打率.356・出塁率.496・長打率.703・OPS1.200の好成績を挙げた。
1956年8月7日のヤンキース戦で、11回表にミッキー・マントルが放った打球を捕球できなかったことでファンからブーイングを浴びる。イニング終了後ダッグアウトに戻る際にも激しいブーイングを浴び、これに対して2度唾を吐いた。その裏満塁から四球を選んでサヨナラ勝ちし、一塁へ向かう際にバットを40フィートの高さに放り投げた。これに対し球団は5,000ドルの罰金を科したが、当の本人は「自分は悪くない。同じ事をされたらまた唾を吐く」と悪びれる様子は無かった[46][47]。
1957年は5月8日のシカゴ・ホワイトソックス戦でキャリア2度目の1試合3本塁打、6月13日のインディアンズ戦でも3本塁打を記録[23]。後半戦で打率.453・出塁率.594・長打率.855[48]と打ちまくり、いずれもリーグトップの打率.388・出塁率.526・長打率.731・OPS1.257・33敬遠、リーグ2位の38本塁打を記録し、自身5度目の首位打者を獲得。敬遠は1993年のジョン・オルルドと並び、2021年現在もリーグ記録である[49]。MVPの投票ではマントルに次ぐ2位にランクインし[50]、8年ぶりにスポーティングニュース・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーに選出された[19]。
1958年7月24日、ファンに向かって再び唾を吐いたことで250ドルの罰金が科せられた[42]。7月29日のタイガース戦でジム・バニングから通算17本目の満塁本塁打を記録[23]してベーブ・ルースを抜き、ジミー・フォックスと並んでルー・ゲーリッグに次ぐ2位(当時)となった[42][51]。いずれもリーグトップの打率.328・出塁率.458・OPS1.042を記録し、2年連続の首位打者を獲得。40歳での首位打者は2004年のボンズと並ぶ最年長記録である。
1959年はスプリングトレーニング中に深刻な肩癖を発症[4]し、前半戦で打率.217・5本塁打[52]と不振に陥る。後半戦でやや持ち直したものの打率.254・10本塁打と不本意な成績に終わり、引退も囁かれた[4]。
1960年4月18日、セネタースとの開幕戦で本塁打を放ち、4つのデケイド(1930,40,50,60年代)で本塁打を記録した史上初の選手となった[53]。6月17日のインディアンズ戦で通算500本塁打を達成[23]。41歳292日での達成は最年長記録である。同年限りでの引退を表明し[5]、引退試合となった9月28日のボルチモア・オリオールズ戦では8回の最終打席で本塁打を放った。打率.316・29本塁打・出塁率.451・長打率.645・OPS1.096を記録し、本塁打は1986年にデーブ・キングマンが更新するまで最終シーズンの最多記録だった[5]。
通算打率.344、521本塁打はレッドソックスの球団記録である。"Untouchable"と言われる出塁率5割を3度も達成し、通算出塁率.482はメジャー歴代1位。また、通算OPS1.116はルースに次ぐ歴代2位である。また引退当時、通算本塁打はルース、フォックスに次ぐ歴代3位の記録だった。
引退後
[編集]1966年1月20日、有効投票数302のうち282票を獲得して資格取得1年目でアメリカ野球殿堂入りを果たした[42]。
1969年2月21日に5年契約でワシントン・セネターズの監督に就任[42]。就任1年目は地区4位ながら86勝76敗と球団史上初の勝率5割以上を記録するが、以後は年を追うごとに成績が下降。3年目の1971年は同年加入した3年前の30勝投手デニー・マクレインとの確執[54]、テキサス州アーリントンへの本拠地移転が決定し、セネタースとして最後の試合となった9月30日のヤンキース戦(RFKスタジアム)では、9回2死まで7-5とリードしながらファンの乱入によって没収試合[55]となるなどトラブルが続いた。
移転に伴って「テキサス・レンジャーズ」に改称し、西地区へ移動した1972年は54勝100敗で地区最下位に沈み、契約を1年残して同年限りで退任した。監督としての通算成績は273勝364敗[56]。
1984年5月29日、背番号『9』がジョー・クローニンの『4』と共に球団初の永久欠番に指定され、1991年には当時の大統領ジョージ・H・W・ブッシュから大統領自由勲章を授与された[57]。
1994年2月9日、フロリダ州ヘルナンドに「テッド・ウィリアムズ博物館」が開館[42]。その後タンパベイ・レイズの本拠地トロピカーナ・フィールド内に移設された。
1999年7月13日、フェンウェイ・パークで行われたオールスターゲームにゲストとして登場し、トニー・グウィンに体を支えられながら始球式を行った。また同年スポーティングニュース誌が発表した「Baseball's 100 Greatest Players」において9位にランクインした。
晩年は心臓病を患い、2000年にはペースメーカーをつけるなどで一進一退の病状だったという。2002年7月5日にフロリダ州インヴァネスにて、心不全により83歳で逝去。
死の4日後に行われたオールスターゲームで、彼の栄誉を讃えてオールスターゲームMVPが『テッド・ウィリアムズ賞(Ted Williams All-Star Game Most Valuable Player Award)』に改称されることが発表された[58]。7月22日にフェンウェイ・パークで行われた追悼試合では、グリーンモンスターに在りし日の写真が飾られ、故人を偲んだ。
2004年4月16日、フェンウェイ・パークのBゲート付近に銅像が設置され[59]、その後2010年6月9日にはかつてのチームメイトで友人でもあったドム・ディマジオ,ボビー・ドーア,ジョニー・ペスキーの3人と共に並んだ「Teammates」と題した銅像も設置された[60]。
エピソード
[編集]人物
[編集]釣りが趣味で、引退後にフロリダ州イスラモラダとカナダ・ニューブランズウィック州のミラミチ川沿いに家を購入し、6月から10月にかけてはカナダでタイセイヨウサケ(アトランティックサーモン)を、それ以外の時期はフロリダでイセゴイとボーンフィッシュを釣った。この3種の魚を「triple crown of fishing」と呼び、少なくとも1,000匹以上捕らえている。またキャッチアンドリリースを最初に実践した1人でもあった。2000年には国際ゲームフィッシュ協会(IGFA)の殿堂入りを果たしている[57][61]。
頑固な性格であった。堅苦しいことを嫌い、服装においてもネクタイの着用を拒否し続けた。ファンやメディアとの関係も友好的とは言えず、その圧倒的な実力を認められながらディマジオのような大衆の人気を得ることはなかった。ルーキーの頃は快くサインに応じていたが、狭いフェンウェイ・パークの外野の野次などがファンやメディアとの関係を悪くしたと云われている。
引退試合においても通常通りプレーし、試合終了後にもセレモニーどころか帽子を取って観客に応える仕草ひとつ見せず、グラウンドを去った。ファンやメディアからは当然不満の声が上がったが、『ザ・ニューヨーカー』誌記者で、後に作家となるジョン・アップダイクはこの一件について「神々はいちいち、手紙の返事など書かないものだ」と記している。しかし、最後の打率4割到達から50年後の1991年5月、フェンウェイ・パークにおける記念式典に招かれた際には、「新聞記者達は、ウィリアムズは偏屈で帽子を取ってあいさつもしないと書き続けたが、2度とそんなことは書けないだろう」とスピーチした後、レッドソックスの帽子を振って客席に向かってあいさつした。
私生活では3度結婚している。最初の妻ドリス・ソウルとは従軍中の1944年に結婚し、娘のバーバラ・ジョイス(ボビー・ジョー)を儲けたが1955年に離婚。1961年から1966年までリー・ハワードと、1968年から1974年まではドロレス・ウェタックと結婚し、ドロレスとの間にはジョン・ヘンリー,クローディアという2人の子供がいた。その後はルイーズ・カウフマンという女性と1993年に彼女が亡くなるまで暮らした。また1954年には女優のジュリー・アダムスとも関係があった[4][62]。
人種問題について、進歩的思想の持ち主であった。球団初のアフリカ系アメリカ人選手となったパンプシー・グリーンを試合前のキャッチボール相手に指名したり[4]、ウィリー・メイズが通算本塁打記録でウィリアムズを追い越しかけた頃、メイズに対し「レッツゴー、ウィリー」と激励したという。野球殿堂入りを果たした際の式典でのスピーチにおいて、サチェル・ペイジやジョシュ・ギブソンなどニグロリーグで活躍した名選手たちの殿堂入りを訴えた。また故郷のサンディエゴつながりで、トニー・グウィンと親交が深かったことでも知られ、グウィンを釣りに誘ったこともある。
野球
[編集]前述したフェンウェイ・パーク史上最長本塁打の落下地点とされる右翼後方の座席は赤く塗られており、「ザ・ローン・レッド・シート」と呼ばれて球場の名物の1つとなっている[63]。
1947年、レッドソックスのトム・ヨーキーオーナーとヤンキースのダン・トッピング副会長が食事を共にした際、ウィリアムズとディマジオの交換トレードが持ち上がった。右打者のディマジオには左翼までの距離が短いフェンウェイ・パークが、左打者のウィリアムズには右翼までの距離が短いヤンキー・スタジアムが互いに有利に働くだろうというのが理由だったが、ディマジオの方が4歳年長だったためにレッドソックスがデビューしたばかりのヨギ・ベラも交換要員として要求したため破談になった[64]。
並外れた動体視力を持ち、78回転のレコードのラベルを読むことができた。さらに空軍時代は、その目を生かして敵機を多数撃墜していたという。また、動体視力に加えて記憶力にも優れており、その日の試合で自分に投じられたボールのコース・球種をすべて記憶し、ノートに記録していたとされる。著書『バッティングの科学』は、この日々の記録を元に著された。
野球人生において3つの悔いがあり、1つ目はワールドシリーズに出場したのが一度きりで、カージナルスに敗れてチャンピオンリングを手にできなかったこと、2つ目は二度の徴兵でキャリアを5年近く中断されたこと、そして3つ目は「俊足」に恵まれなかったことである。1957年に打率.388で首位打者を獲得したが、「もし自分にもう少しスピードがあって、あと5本のヒットを内野安打で稼いでいたら、2度目の打率4割を記録できていた」と終生悔しがっていた[6]。
試合前の打撃練習にて「たまらないなあ、何で俺はこんなに凄いんだろう?」「面白すぎて一日やっても飽きないな」「練習するたびに、どんどん打撃がうまくなるな」など、自画自賛していた。一方で、周囲が夜遊びに街に出る中、夜10時には就寝してタバコも吸わずにいるなど、徹底した自己管理をしていたという。
ブードローシフトについてはタイ・カッブから「シフトの逆を突いて左方向に打てば毎年4割が打てる」というアドバイスの手紙が送られてきたが、それをロッカールームで破り捨てている[6]。
引退後にウィリアムズは、「特にファーストストライクを狙う事が強打者になる第一の秘訣。と言うのはストライクを逃せば、それだけ打者に不利なカウントになる。そうすると投手も思い切ってドンドン投げてくる。こんな簡単な事が分からない打者が今の野球には多過ぎるんじゃないかな。ファーストストライクを打つ打者が沢山いるチームは必ず好成績をおさめる。また、それこそがプロ野球だ」と述べている(ただし、ウィリアムズ自身は四球が多い打者だった)[65]。
野村克也は現役時代、打撃不振に陥った頃にウィリアムズの著書と出会い、その中で「ピッチャーは投げる際に既に球種を決めており、球種によって体の動きに微妙な変化が出る」という旨の記述を読み、これをきっかけにピッチャーの癖を研究するようになったという。
1993年、故郷サンディエゴを走る州道56号線に「テッドウィリアムズフリーウェイ」、1995年12月19日ボストンに開通したトンネルに「テッドウィリアムズトンネル」とそれぞれ命名された。
遺体を巡る裁判騒動
[編集]死の直前、自分の死体を冷凍保存する旨の遺言を残したなどで物議を醸した。
長男のジョン・ヘンリー・ウィリアムズ[66]は冷凍保存を望み、長女のボビー・ジョー・フェレル(Bobbie Jo Ferrell)[67]は火葬して遺灰を海にまくことを望んだ。一審では長男の勝訴となったが、長女の要求した再審の結果、双方の意見を尊重し、遺体の頭部を冷凍保存、胴体以下を火葬とする判決が出された[68]。現在は実際に頭部のみアルコー延命財団で冷凍保存されている。また、長男はその数か月後に急性白血病により亡くなっており、本人の希望により同財団に冷凍保存された(英語版「en:Ted Williams」より一部翻訳。詳細は英語版を参照のこと)。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1939 | BOS | 149 | 675 | 565 | 131 | 185 | 44 | 11 | 31 | 344 | 145 | 2 | 1 | 3 | - | 107 | - | 2 | 64 | 10 | .327 | .436 | .609 | 1.045 |
1940 | 144 | 661 | 561 | 134 | 193 | 43 | 14 | 23 | 333 | 113 | 4 | 4 | 1 | - | 96 | - | 3 | 54 | 13 | .344 | .442 | .594 | 1.036 | |
1941 | 143 | 606 | 456 | 135 | 185 | 33 | 3 | 37 | 335 | 120 | 2 | 4 | 0 | - | 147 | - | 3 | 27 | 10 | .406 | .553 | .735 | 1.287 | |
1942 | 150 | 671 | 522 | 141 | 186 | 34 | 5 | 36 | 338 | 137 | 3 | 2 | 0 | - | 145 | - | 4 | 51 | 12 | .356 | .499 | .648 | 1.147 | |
1946 | 150 | 672 | 514 | 142 | 176 | 37 | 8 | 38 | 343 | 123 | 0 | 0 | 0 | - | 156 | - | 2 | 44 | 12 | .342 | .497 | .667 | 1.164 | |
1947 | 156 | 692 | 528 | 125 | 181 | 40 | 9 | 32 | 335 | 114 | 0 | 1 | 1 | - | 162 | - | 2 | 47 | 10 | .343 | .499 | .634 | 1.133 | |
1948 | 137 | 638 | 509 | 124 | 188 | 44 | 3 | 25 | 313 | 127 | 4 | 0 | 0 | - | 126 | - | 3 | 41 | 10 | .369 | .497 | .615 | 1.112 | |
1949 | 155 | 730 | 566 | 150 | 194 | 39 | 3 | 43 | 368 | 159 | 1 | 1 | 0 | - | 162 | - | 2 | 48 | 22 | .343 | .490 | .650 | 1.141 | |
1950 | 89 | 416 | 334 | 82 | 106 | 24 | 1 | 28 | 216 | 97 | 3 | 0 | 0 | - | 82 | - | 0 | 21 | 12 | .317 | .452 | .647 | 1.099 | |
1951 | 148 | 675 | 531 | 109 | 169 | 28 | 4 | 30 | 295 | 126 | 1 | 1 | 0 | - | 144 | - | 0 | 45 | 10 | .318 | .464 | .556 | 1.019 | |
1952 | 6 | 12 | 10 | 2 | 4 | 0 | 1 | 1 | 9 | 3 | 0 | 0 | 0 | - | 2 | - | 0 | 2 | 0 | .400 | .500 | .900 | 1.400 | |
1953 | 37 | 110 | 91 | 17 | 37 | 6 | 0 | 13 | 82 | 34 | 0 | 1 | 0 | - | 19 | - | 0 | 10 | 1 | .407 | .509 | .901 | 1.410 | |
1954 | 117 | 526 | 386 | 93 | 133 | 23 | 1 | 29 | 245 | 89 | 0 | 0 | 0 | 3 | 136 | - | 1 | 32 | 10 | .345 | .513 | .635 | 1.148 | |
1955 | 98 | 416 | 320 | 77 | 114 | 21 | 3 | 28 | 225 | 83 | 2 | 0 | 0 | 4 | 91 | 17 | 2 | 24 | 8 | .356 | .496 | .703 | 1.200 | |
1956 | 136 | 503 | 400 | 71 | 138 | 28 | 2 | 24 | 242 | 82 | 0 | 0 | 0 | 0 | 102 | 11 | 1 | 39 | 13 | .345 | .479 | .605 | 1.084 | |
1957 | 132 | 547 | 420 | 96 | 163 | 28 | 1 | 38 | 307 | 87 | 0 | 1 | 0 | 2 | 119 | 33 | 5 | 43 | 11 | .388 | .526 | .731 | 1.257 | |
1958 | 129 | 517 | 411 | 81 | 135 | 23 | 2 | 26 | 240 | 85 | 1 | 0 | 0 | 4 | 98 | 12 | 4 | 49 | 19 | .328 | .458 | .584 | 1.042 | |
1959 | 103 | 331 | 272 | 32 | 69 | 15 | 0 | 10 | 114 | 43 | 0 | 0 | 0 | 5 | 52 | 6 | 2 | 27 | 7 | .254 | .372 | .419 | .791 | |
1960 | 113 | 390 | 310 | 56 | 98 | 15 | 0 | 29 | 200 | 72 | 1 | 1 | 0 | 2 | 75 | 7 | 3 | 41 | 7 | .316 | .451 | .645 | 1.096 | |
通算:19年 | 2292 | 9788 | 7706 | 1798 | 2654 | 525 | 71 | 521 | 4884 | 1839 | 24 | 17 | 5 | *20 | 2021 | *86 | 39 | 709 | 197 | .344 | .482 | .634 | 1.116 |
- 「-」は記録なし。
- 通算成績の「*数字」は、不明年度があることを示す。
- 太字はリーグ1位、赤太字はMLB歴代1位。
- 1943年 - 1945年は試合出場なし。
- 1954年は規定打席未達だが、残りの全打席を凡退と仮定しても、規定打席到達者の出塁率、長打率、OPSを上回るため、リーグ1位として扱われる。
年度別監督成績
[編集]年度 | チーム | 地区 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | ゲーム差 | 順位/チーム数 | 年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1969 | WAS TEX |
AL 東 | 162 | 86 | 76 | .531 | 23.0 | 4 / 6 | 50 |
1970 | 162 | 70 | 92 | .432 | 38.0 | 6 / 6 | 51 | ||
1971 | 159 | 63 | 96 | .396 | 38.5 | 5 / 6 | 52 | ||
1972 | AL 西 | 154 | 54 | 100 | .351 | 38.5 | 6 / 6 | 53 | |
通算:4年 | 637 | 273 | 364 | .429 |
タイトル
[編集]- 首位打者:6回(1941年,1942年,1947年,1948年,1957年,1958年)
- 最多本塁打:4回(1941年,1942年,1947年,1949年)
- 最多打点:4回(1939年,1942年,1947年,1949年)
表彰
[編集]- MVP:2回(1946年,1949年)
- 三冠王:2回(1942年,1947年)
- MLBオールスターゲーム選出:17回(1940年 - 1942年,1946年 - 1951年,1953年 - 1960年)
- DHLホームタウン・ヒーローズ選出(2006年)
- フランチャイズ・フォー選出(2015年)
- 殿堂入り(1966年)
記録
[編集]- 通算出塁率:.482(MLB歴代1位)
- 通算打率:.344(歴代8位)
- 通算長打率:.634(歴代2位)
- 通算OPS:1.116(歴代2位)
- 通算四球:2021(歴代4位)
- シーズン最多連続試合出塁:84(1949年)
- 連続打席出塁:16(1957年)
レッドソックス球団記録
[編集]- 歴代1位(通算打率・出塁率・長打率・OPS・本塁打・四球)
- 歴代2位(通算得点・安打・塁打数・二塁打・打点)
- 歴代3位(通算試合・打席)
背番号
[編集]- 9(1939年 - 1960年)
著書
[編集]- (ジョン・アンダーウッドとの共著)池田郁雄 (訳)『テッド・ウィリアムズのバッティングの科学』(1978年、ベースボール・マガジン社)※原著:1971年刊
脚注
[編集]- ^ “All-Time #MLBRank: The 10 greatest left fielders” (英語). ESPN.com (2016年7月14日). 2017年8月26日閲覧。
- ^ “Best left fielders of all time” (英語). Fox Sports (2016年10月20日). 2017年8月26日閲覧。
- ^ “Top Left Fielders in Major League Baseball (MLB) History” (英語). ThoughtCo. (2017年3月26日). 2017年8月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “Ted Williams” (英語). SABR Baseball Biography Project. 2021年8月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “Ted Williams” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年8月14日閲覧。
- ^ a b c d “共通?それとも対照的?「最後の4割打者」とイチロー MLB名人物ファイル第4回 テッド・ウィリアムズ”. Sportsnavi. 2021年9月6日閲覧。
- ^ “Famous Veteran: Ted Williams” (英語). Military.com. 2021年8月21日閲覧。
- ^ “Transactions” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年8月14日閲覧。
- ^ “1939 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年8月14日閲覧。
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- ^ “1940 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年8月14日閲覧。
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- ^ パット・サマーオール『ヒーロー・インタヴューズ』加賀山卓朗(訳)、朝日新聞社、1998年、328頁。ISBN 402257237X。
- ^ “Single-Season Leaders & Records for On-Base%” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年8月16日閲覧。
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- ^ “Cleveland Indians at Boston Red Sox Box Score, July 14, 1946” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年8月16日閲覧。
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- ^ “なぜそこにいる!? 気になるメジャーの守備シフト”. BASEBALLKING. 2021年8月16日閲覧。
- ^ “St. Louis Browns at Boston Red Sox Box Score, July 21, 1946” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月24日閲覧。
- ^ “Postseason Batting” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年8月16日閲覧。
- ^ 千葉功「スーパースターとワールドシリーズ 歴史に残る名選手編」『メジャーリーグ「ワールドシリーズ伝説」』、ベースボールマガジン社、2001年、雑誌67672-91、66頁
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- ^ a b 千葉功「三冠王」列伝 - テッド・ウィリアムズ『メジャーリーグ100年「記録」の達人。』ベースボールマガジン社、2002年、雑誌67673-04、34頁
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- ^ “All-Star Game Moments” (英語). CBSSports.com. 2021年8月18日閲覧。
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- ^ “1954 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年9月6日閲覧。
- ^ “レギュラーの証「規定打席」基準となる「試合数×3.1」はどのように決まったのか?”. Full-Count. 2021年8月22日閲覧。
- ^ “Williams: "I was right and I'd spit again"” (英語). ESPN.com. 2021年9月7日閲覧。
- ^ “Ted Williams once spat at fans and defiantly declared, ‘I’d spit again’” (英語). BOSTON.com. 2021年9月7日閲覧。
- ^ “First or Second Half” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年8月22日閲覧。
- ^ “Single-Season Leaders & Records for Intentional Bases on Balls” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年9月7日閲覧。
- ^ “AL MVP Voting” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年8月22日閲覧。
- ^ “Grand Slams All Time Leaders” (英語). BASEBALL ALMANAC. 2021年9月8日閲覧。
- ^ “First or Second Half” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年9月7日閲覧。
- ^ “【4月18日のMLB】「人種の壁」を破る前に「世紀の握手」があった/4ディケイドで本塁打は史上初”. Yahoo!ニュース. 2021年9月7日閲覧。
- ^ “Ted Williams' marketing deal with Sears may have landed him Washington Senators job” (英語). washingtontimes.com. 2021年9月14日閲覧。
- ^ “New York Yankees at Washington Senators Box Score, September 30, 1971” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年9月14日閲覧。
- ^ “Managerial Stats” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年9月14日閲覧。
- ^ a b “Ted Williams: Hall of Fame Fly Fisherman” (英語). THE SPORTS HISTORIAN. 2021年10月8日閲覧。
- ^ “Ted Williams Award” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年9月21日閲覧。
- ^ “Ted Williams” (英語). The Sporting Statues Project. 2021年9月17日閲覧。
- ^ “Teammates” (英語). The Sporting Statues Project. 2021年9月17日閲覧。
- ^ “Ted Williams centennial: Love of hitting was rivaled only by love of fishing” (英語). The San Diego Union-Tribune. 2021年10月8日閲覧。
- ^ “Ted Williams” (英語). whosdatedwho.com. 2021年9月26日閲覧。
- ^ “大谷翔平、打撃練習で“野球の神様”の偉大さを再確認 最長153M弾に「分からないです…」”. Full-Count. 2021年9月17日閲覧。
- ^ 千葉功「20世紀の記憶 1947」『月刊メジャー・リーグ 11月号』ベースボールマガジン社、2007年、雑誌08625-11、89頁
- ^ 伊東一雄『メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事』産経新聞ニュースサービス、74-76頁。ISBN 4-594-04117-5。
- ^ 3回目の結婚の時の妻との子供。
- ^ 1回目の結婚の時の妻との子供。
- ^ 頭部は長男、胴体以下は長女に引き渡された。
関連項目
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ミシガン大学時代 | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | オハイオ州マンチェスター |
生年月日 | 1893年3月24日 |
没年月日 | 1973年3月26日(80歳没) |
身長 体重 |
5' 11" =約180.3 cm 170 lb =約77.1 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 一塁手 |
プロ入り | 1915年 |
初出場 | 1915年6月28日 |
最終出場 | 1930年9月22日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督歴 | |
| |
選出年 | 1939年 |
得票率 | 85.77% |
選出方法 | BBWAA選出 |
この表について
|
ジョージ・ハロルド・シスラー(George Harold Sisler,1893年3月24日 - 1973年3月26日)は、アメリカ合衆国オハイオ州マンチェスター出身のプロ野球選手(一塁手)・監督。ニックネームは「Gorgeous George」,「Gentleman George」,「Sizzler」。
セントルイス・ブラウンズの歴史上最も偉大な選手と評される[1][2]。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]オハイオ州マンチェスターにて、父カシアスと母メアリーの間に末子として誕生。高校時代には速球とカーブが武器のサウスポーとして活躍する傍ら、アメリカンフットボールやバスケットボールもプレイ。この頃地元紙が「ゴージャス・ジョージ」のニックネームで呼ぶようになった。後の人生に大きな影響を与えることになるブランチ・リッキーがコーチとして在籍していたミシガン大学に進学し、投打に渡って活躍する一方機械工学の学位も取得している[1][2]。
セントルイス・ブラウンズ時代
[編集]高校時代にピッツバーグ・パイレーツと契約していたが後に無効とされ[1]、1915年6月にリッキーが監督を務めていたブラウンズと契約金5,000ドルで契約する[3][1]。6月28日のシカゴ・ホワイトソックス戦で代打として出場しメジャーデビュー。初打席で安打を放ち、その後そのまま投手として登板し3イニングを無失点に抑えた[4][5]。8月29日のワシントン・セネターズ戦では1失点完投勝利を挙げ、大投手ウォルター・ジョンソンに投げ勝った[6]。登板日以外は一塁手や外野手として出場し[7]、投手成績は4勝4敗・防御率2.83・6完投、打撃成績は打率.285・3本塁打・10盗塁だった。
1916年からは主に一塁手として出場し、打率.305・34盗塁の好成績。投手としては3試合の登板全て完投、9月17日のセネターズ戦でキャリア唯一の完封勝利を挙げて再びジョンソンに投げ勝つ[8]など、1勝2敗ながら防御率1.00を記録した。
1917年は共にタイ・カッブに次ぐリーグ2位の打率.353・190安打を記録。登板は一度も無かった。
第一次世界大戦の影響でシーズンが短縮された1918年は8月3日のニューヨーク・ヤンキース戦で5打数5安打[9]。打率.341・出塁率.400・45盗塁で最多盗塁のタイトルを獲得した。オフに徴兵され、カッブやクリスティ・マシューソンと共にフランスのショーモンに拠点を置くアメリカ合衆国陸軍化学作戦部隊に所属した[10]。
1919年に復帰し、打率.352、いずれもリーグ2位の10本塁打・15三塁打・28盗塁(カッブと同数)・96得点を記録した。
「ライブボール時代」の幕開けとなった1920年は、8月8日のセネターズとのダブルヘッダー第2試合で自身初のサイクルヒットを達成[11]。全試合フルイニング出場し、最終成績はいずれもリーグトップの打率.407・257安打・399塁打、いずれもリーグ2位の19本塁打・122打点・49二塁打・18三塁打・137得点・長打率.632・OPS1.082で、自身初の打率4割を記録して首位打者を獲得。安打数は1911年にカッブが記録した248のMLB記録を更新し、2004年にイチローが262安打を記録するまで84年間破られることはなかった。またマルチヒットは74試合を数え、3安打以上を41試合、4安打を12試合記録した[12]。本人はこの1920年を「生涯最良の年」と呼んで憚らなかった。
1921年は8月13日のデトロイト・タイガース戦で自身2度目のサイクルヒット[13]を達成し、8月30日のホワイトソックス戦と共に5打数5安打を記録[14]。打率.371・216安打、共にリーグトップの18三塁打・35盗塁の成績で3年ぶりの最多盗塁を獲得した。
1922年は7月以外の全ての月で打率.400以上を記録[15]。2年前を上回るペースで安打を積み重ねたが、12試合を欠場したため再度の記録更新はならなかった。いずれもリーグトップの打率.420・246安打・18三塁打・51盗塁・134得点を記録して2年ぶりの首位打者、2年連続の最多盗塁を獲得し、初のMVPを受賞した。低迷が続いていたチームは終盤までヤンキースと熾烈な優勝争いを繰り広げたが、1ゲーム差の2位に終わった。また7月27日のヤンキース戦から9月17日の同カードまで41試合連続安打を記録し[16]、1911年にカッブが記録した40試合を更新。1941年にジョー・ディマジオが56試合を記録するまでMLB記録(1901年以降)だった。
選手としてのピークを迎えていたが、翌1923年は重度の副鼻腔炎により視神経を損ない、それにより慢性的な頭痛と複視に悩まされたため1年間の欠場を余儀なくされた[2]。
1924年に選手兼任監督として復帰したが、以前のようなパフォーマンスを取り戻すことはできなかった。それでも打率.305・194安打を記録した。1925年は開幕から34試合連続安打を記録[17]するなど復調し、打率.345・224安打・105打点の好成績を挙げた。
1926年は打率.290に終わり、デビュー年以来の3割未満と不本意な成績だった。チームも7位と不振で同年限りで監督を退任した。1927年は打率.327・201安打・27盗塁で5年ぶりに最多盗塁を獲得。12月14日に25,000ドルの金銭でセネターズが獲得し移籍[3]。
ワシントン・セネターズ時代
[編集]セネターズには正一塁手にジョー・ジャッジがいたため代打での出場が多く[18]、成績も振るわなかった。1928年5月27日に7,500ドルの金銭でボストン・ブレーブスが獲得し移籍[3]。
ボストン・ブレーブス時代
[編集]移籍後は一塁のレギュラーとして全試合フルイニング出場[18]。シーズン通算で打率.331を記録した。1929年も全試合出場[19]を果たし、打率.326・205安打の好成績を挙げた。
1930年は打率.309を記録。メジャーでの出場は同年が最後となった。12月13日にセントルイス・カージナルスへ移籍[3]。
マイナーリーグ時代
[編集]1931年はカージナルス傘下インターナショナルリーグのロチェスター・レッドウイングスに所属し、自身初のマイナーリーグでのプレイとなった。159試合の出場で打率.303を記録。
1932年はテキサスリーグのシュリーブポート・スポーツで選手兼任監督としてプレイし、同年限りで引退した。
引退後
[編集]1939年に有効投票数274のうち235票を獲得し、アメリカ野球殿堂入りを果たした。
1942年からはリッキーに請われてブルックリン・ドジャースのスカウトに就任。この時見出したのが、近代メジャーリーグ初のアフリカ系アメリカ人選手となるジャッキー・ロビンソンであった。シスラーは当時のドジャース会長リッキーから「メジャーリーグでも通用する力を持ち、たとえ周囲から苛めに遭っても耐えられる強い意志を持った黒人選手をスカウトしてほしい」という命を受けた。ニグロリーグからスカウトするにあたり、ロビンソンの身辺調査を徹底的に行い、その上でシスラーは自信を持ってリッキー会長にロビンソンを推薦した。
1950年限りでリッキーと共にドジャースを退団しパイレーツへ移り、ビル・マゼロスキーの獲得に尽力。打撃コーチとしてロベルト・クレメンテやウィリー・スタージェルら未来の殿堂入りプレイヤーに指導を行った[2]。
80歳の誕生日を迎えた2日後の1973年3月26日、ミズーリ州リッチモンドハイツにて死去した[2]。
1999年、スポーティングニュース誌が発表した「Baseball's 100 Greatest Players」において33位にランクインした。
2001年6月17日、カージナルスの本拠地ブッシュ・メモリアル・スタジアムに銅像が設置され[1]、その後球場移転に伴って新ブッシュ・スタジアムに移設された。
2004年10月1日、長女フランシスらの親族がシアトルのセーフコ・フィールドに招待され、イチローがシーズン最多安打記録を達成した試合を観戦。達成時にはイチローがスタンドに駆け寄り、フランシスと言葉を交わした。
人物・エピソード
[編集]20世紀最初の偉大な一塁手と言われ、カッブは「最も完璧に近い野球選手(the nearest thing to a perfect ballplayer)」、フランキー・フリッシュは「見ていてとても素晴らしい、完璧な選手だった(He was poetry in motion, the perfect player)」と評した[1][2]。
ルーキーシーズンに憧れでもあったジョンソンに投げ勝った試合を「野球人生において最大のスリルだった」と終生語っていた[2]。
「マウンドに立った時はどうすれば打者を欺くことができるのだろうと考えていた」「そのことで投手の心理を容易に理解できるようになった」と語り、投手経験がバッティングに大いに役立ったと語っている。
1916年に結婚した妻キャスリーンとの間には息子が3人おり[2]、長男のジョージ・ジュニアはメジャーでプレイすることは無かったが、父も所属したレッドウィングスでGMを務めるなどした[1]。次男のディック・シスラーはカージナルスやフィラデルフィア・フィリーズに所属して殿堂入り選手の息子としては最多の799試合に出場し、1950年のMLBオールスターゲームで安打を放った。三男デーブ・シスラーは投手で通算38勝を挙げた。
孫にあたるウィリアム・ドロシェルマンによると「(シスラーは)自慢話が好きじゃなかったから、孫にも自分がメジャーリーグのスタープレイヤーだったという話をしなかった」という。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1915 | SLB | 81 | 295 | 274 | 28 | 78 | 10 | 2 | 3 | 101 | 29 | 10 | 9 | 12 | -- | 7 | -- | 2 | 27 | -- | .285 | .307 | .369 | .676 |
1916 | 151 | 644 | 580 | 83 | 177 | 21 | 11 | 4 | 232 | 76 | 34 | 26 | 19 | -- | 40 | -- | 5 | 37 | -- | .305 | .355 | .400 | .755 | |
1917 | 135 | 587 | 539 | 60 | 190 | 30 | 9 | 2 | 244 | 52 | 37 | -- | 15 | -- | 30 | -- | 3 | 19 | -- | .353 | .390 | .453 | .843 | |
1918 | 114 | 506 | 452 | 69 | 154 | 21 | 9 | 2 | 199 | 41 | 45 | -- | 9 | -- | 40 | -- | 5 | 17 | -- | .341 | .400 | .440 | .841 | |
1919 | 132 | 561 | 511 | 96 | 180 | 31 | 15 | 10 | 271 | 83 | 28 | -- | 18 | -- | 27 | -- | 5 | 20 | -- | .352 | .390 | .530 | .921 | |
1920 | 154 | 692 | 631 | 137 | 257 | 49 | 18 | 19 | 399 | 122 | 42 | 17 | 13 | -- | 46 | -- | 2 | 19 | -- | .407 | .449 | .632 | 1.081 | |
1921 | 138 | 635 | 582 | 125 | 216 | 38 | 18 | 12 | 326 | 104 | 35 | 11 | 14 | -- | 34 | -- | 5 | 27 | -- | .371 | .411 | .560 | .971 | |
1922 | 142 | 654 | 586 | 134 | 246 | 42 | 18 | 8 | 348 | 105 | 51 | 19 | 16 | -- | 49 | -- | 3 | 14 | -- | .420 | .467 | .594 | 1.061 | |
1924 | 151 | 684 | 636 | 94 | 194 | 27 | 10 | 9 | 268 | 74 | 19 | 17 | 14 | -- | 31 | -- | 3 | 29 | -- | .305 | .340 | .421 | .761 | |
1925 | 150 | 688 | 649 | 100 | 224 | 21 | 15 | 12 | 311 | 105 | 11 | 12 | 12 | -- | 27 | -- | 0 | 24 | -- | .345 | .371 | .479 | .850 | |
1926 | 150 | 662 | 613 | 78 | 178 | 21 | 12 | 7 | 244 | 71 | 12 | 8 | 16 | -- | 30 | -- | 3 | 30 | -- | .290 | .327 | .398 | .725 | |
1927 | 149 | 661 | 614 | 87 | 201 | 32 | 8 | 5 | 264 | 97 | 27 | 7 | 19 | -- | 24 | -- | 4 | 15 | -- | .327 | .357 | .430 | .787 | |
1928 | WHS2 | 20 | 51 | 49 | 1 | 12 | 1 | 0 | 0 | 13 | 2 | 0 | 1 | 1 | -- | 1 | -- | 0 | 2 | -- | .245 | .260 | .265 | .525 |
BSN | 118 | 537 | 491 | 71 | 167 | 26 | 4 | 4 | 213 | 68 | 11 | -- | 14 | -- | 30 | -- | 2 | 15 | -- | .340 | .380 | .434 | .814 | |
'28計 | 138 | 588 | 540 | 72 | 179 | 27 | 4 | 4 | 226 | 70 | 11 | 1 | 15 | -- | 31 | -- | 2 | 17 | -- | .331 | .370 | .419 | .789 | |
1929 | 154 | 686 | 629 | 67 | 205 | 40 | 8 | 2 | 267 | 79 | 6 | -- | 20 | -- | 33 | -- | 4 | 17 | -- | .326 | .363 | .424 | .787 | |
1930 | 116 | 470 | 431 | 54 | 133 | 15 | 7 | 3 | 171 | 67 | 7 | -- | 14 | -- | 23 | -- | 2 | 15 | -- | .309 | .346 | .397 | .743 | |
通算:15年 | 2055 | 9013 | 8267 | 1284 | 2812 | 425 | 164 | 102 | 3871 | 1175 | 375 | 127 | 226 | -- | 472 | -- | 48 | 327 | -- | .340 | .379 | .468 | .847 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1915 | SLB | 15 | 8 | 6 | 0 | -- | 4 | 4 | 0 | -- | .500 | 293 | 70.0 | 62 | 0 | 38 | -- | 4 | 41 | 1 | 1 | 26 | 22 | 2.83 | 1.43 |
1916 | 3 | 3 | 3 | 1 | -- | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 98 | 27.0 | 18 | 0 | 6 | -- | 1 | 12 | 0 | 0 | 4 | 3 | 1.00 | 0.89 | |
1918 | 2 | 1 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 1 | -- | -- | 41 | 8.0 | 10 | 0 | 4 | -- | 1 | 4 | 1 | 0 | 6 | 4 | 4.50 | 1.75 | |
1920 | 1 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 1 | -- | -- | 4 | 1.0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.00 | |
1925 | 1 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 0 | -- | -- | 7 | 2.0 | 1 | 0 | 1 | -- | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.00 | |
1926 | 1 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 1 | -- | -- | 7 | 2.0 | 0 | 0 | 2 | -- | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.00 | |
1928 | BSN | 1 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 0 | -- | -- | 4 | 1.0 | 0 | 0 | 1 | -- | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.00 |
通算:7年 | 24 | 12 | 9 | 1 | -- | 5 | 6 | 3 | -- | .455 | 453 | 111.0 | 91 | 0 | 52 | -- | 6 | 63 | 2 | 1 | 36 | 29 | 2.35 | 1.29 |
年度別監督成績
[編集]年度 | チーム | リーグ | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 順位/チーム数 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1924 | SLB | AL | 153 | 74 | 78 | 1 | .487 | 17.0 | 4 / 8 | 選手兼任 |
1925 | 154 | 82 | 71 | 1 | .546 | 21.5 | 3 / 8 | |||
1926 | 155 | 62 | 92 | 1 | .464 | 29.0 | 7 / 8 | |||
通算:3年 | 462 | 218 | 241 | 3 | .475 |
タイトル
[編集]- 首位打者:2回(1920年,1922年)
- 最多盗塁:4回(1918年,1921年,1922年,1927年)
表彰
[編集]- MVP:1回(1922年)
- アメリカ野球殿堂入り(1939年)
- メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チームにノミネート(1999年)
記録
[編集]- 連続試合安打:41(1922年)
- サイクル安打:2回(1920年8月8日,1921年8月13日)
- 通算1500安打到達時の試合数:1048試合(1900年以降2位。1位はアル・シモンズの1040試合)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g “George Sisler” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “George Sisler” (英語). SABR Baseball Biography Project. 2021年10月9日閲覧。
- ^ a b c d “Transactions” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月9日閲覧。
- ^ “St. Louis Browns at Chicago White Sox Box Score, June 28, 1915” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月9日閲覧。
- ^ “Chicago White Sox 4, St. Louis Browns 2” (英語). RETOROSHEET. 2021年10月9日閲覧。
- ^ “Washington Senators at St. Louis Browns Box Score, August 29, 1915” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月9日閲覧。
- ^ “1915 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月9日閲覧。
- ^ “Washington Senators at St. Louis Browns Box Score, September 17, 1916” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月9日閲覧。
- ^ “1918 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月9日閲覧。
- ^ It Starts With Bulkeley http://articles.courant.com/
- ^ “Washington Senators at St. Louis Browns Box Score, August 8, 1920” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ “1920 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ “St. Louis Browns at Detroit Tigers Box Score, August 13, 1921” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ “1921 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ “Months” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ “1922 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ “1925 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ a b “1928 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月11日閲覧。
- ^ “1929 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月11日閲覧。
関連項目
[編集]
セントルイス・ブラウンズ時代(1953年) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ペンシルベニア州ヨーク |
生年月日 | 1925年2月9日 |
没年月日 | 1983年7月7日(58歳没) |
身長 体重 |
6' 0" =約182.9 cm 186 lb =約84.4 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 右翼手・一塁手 |
プロ入り | 1942年 |
初出場 | 1947年4月15日 |
最終出場 | 1963年9月19日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
ヴィクター・ウッドロウ・ワーツ(Victor Woodrow Wertz,1925年2月9日 - 1983年7月7日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ヨーク出身のプロ野球選手(右翼手・一塁手)。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]ペンシルベニア州ヨークにて、父ポールと母マネルヴァの間に末子として誕生。11歳の時に同州レディングに移り、野球を始める。レディング高校時代には州選手権で優勝し、1941年にデトロイト・タイガースからオファーを受ける。他チームからのオファーもあったが、1935年のワールドシリーズ以来のタイガースファンであったため1942年7月1日に契約した[1]。
マイナーリーグ時代
[編集]同年MiLBピードモント・リーグのウィンストン・セーラム・ツインズで63試合に出場するが、当時はまだ非力で打率.239・本塁打0に終わる。翌1943年にインターナショナルリーグのバッファロー・バイソンズで18試合に出場した後、18歳でアメリカ陸軍に徴兵される。イーノス・スローター,ジョー・ゴードンがいたサービスチームでプレイし、スローターを参考にスイングを改造[1]。3年間の兵役を終えて1946年にバイソンズで復帰し、打率.301・19本塁打・91打点を記録した。
デトロイト・タイガース時代
[編集]1947年4月15日、セントルイス・ブラウンズとの開幕戦に「4番・左翼で先発出場しメジャーデビュー。初打席で安打を放ち、その後そのまま投手として登板し3イニングを無失点に抑えた[2][3]。8月29日のワシントン・セネターズ戦では1失点完投勝利を挙げ、大投手ウォルター・ジョンソンに投げ勝った[4]。登板日以外は一塁手や外野手として出場し[5]、投手成績は4勝4敗・防御率2.83・6完投、打撃成績は打率.285・3本塁打・10盗塁だった。
1916年からは主に一塁手として出場し、打率.305・34盗塁の好成績。投手としては3試合の登板全て完投、9月17日のセネターズ戦でキャリア唯一の完封勝利を挙げて再びジョンソンに投げ勝つ[6]など、1勝2敗ながら防御率1.00を記録した。
1917年は共にタイ・カッブに次ぐリーグ2位の打率.353・190安打を記録。登板は一度も無かった。
第一次世界大戦の影響でシーズンが短縮された1918年は8月3日のニューヨーク・ヤンキース戦で5打数5安打[7]。打率.341・出塁率.400・45盗塁で最多盗塁のタイトルを獲得した。オフに徴兵され、カッブやクリスティ・マシューソンと共にフランスのショーモンに拠点を置くアメリカ合衆国陸軍化学作戦部隊に所属した[8]。
1919年に復帰し、打率.352、いずれもリーグ2位の10本塁打・15三塁打・28盗塁(カッブと同数)・96得点を記録した。
「ライブボール時代」の幕開けとなった1920年は、8月8日のセネターズとのダブルヘッダー第2試合で自身初のサイクルヒットを達成[9]。全試合フルイニング出場し、最終成績はいずれもリーグトップの打率.407・257安打・399塁打、いずれもリーグ2位の19本塁打・122打点・49二塁打・18三塁打・137得点・長打率.632・OPS1.082で、自身初の打率4割を記録して首位打者を獲得。安打数は1911年にカッブが記録した248のMLB記録を更新し、2004年にイチローが262安打を記録するまで84年間破られることはなかった。またマルチヒットは74試合を数え、3安打以上を41試合、4安打を12試合記録した[10]。本人はこの1920年を「生涯最良の年」と呼んで憚らなかった。
1921年は8月13日のデトロイト・タイガース戦で自身2度目のサイクルヒット[11]を達成し、8月30日のホワイトソックス戦と共に5打数5安打を記録[12]。打率.371・216安打、共にリーグトップの18三塁打・35盗塁の成績で3年ぶりの最多盗塁を獲得した。
1922年は7月以外の全ての月で打率.400以上を記録[13]。2年前を上回るペースで安打を積み重ねたが、12試合を欠場したため再度の記録更新はならなかった。いずれもリーグトップの打率.420・246安打・18三塁打・51盗塁・134得点を記録して2年ぶりの首位打者、2年連続の最多盗塁を獲得し、初のMVPを受賞した。低迷が続いていたチームは終盤までヤンキースと熾烈な優勝争いを繰り広げたが、1ゲーム差の2位に終わった。また7月27日のヤンキース戦から9月17日の同カードまで41試合連続安打を記録し[14]、1911年にカッブが記録した40試合を更新。1941年にジョー・ディマジオが56試合を記録するまでMLB記録(1901年以降)だった。
選手としてのピークを迎えていたが、翌1923年は重度の副鼻腔炎により視神経を損ない、それにより慢性的な頭痛と複視に悩まされたため1年間の欠場を余儀なくされた[15]。
1924年に選手兼任監督として復帰したが、以前のようなパフォーマンスを取り戻すことはできなかった。それでも打率.305・194安打を記録した。1925年は開幕から34試合連続安打を記録[16]するなど復調し、打率.345・224安打・105打点の好成績を挙げた。
1926年は打率.290に終わり、デビュー年以来の3割未満と不本意な成績だった。チームも7位と不振で同年限りで監督を退任した。1927年は打率.327・201安打・27盗塁で5年ぶりに最多盗塁を獲得。12月14日に25,000ドルの金銭でセネターズが獲得し移籍[17]。
ワシントン・セネターズ時代
[編集]セネターズには正一塁手にジョー・ジャッジがいたため代打での出場が多く[18]、成績も振るわなかった。1928年5月27日に7,500ドルの金銭でボストン・ブレーブスが獲得し移籍[17]。
ボストン・ブレーブス時代
[編集]移籍後は一塁のレギュラーとして全試合フルイニング出場[18]。シーズン通算で打率.331を記録した。1929年も全試合出場[19]を果たし、打率.326・205安打の好成績を挙げた。
1930年は打率.309を記録。メジャーでの出場は同年が最後となった。12月13日にセントルイス・カージナルスへ移籍[17]。
マイナーリーグ時代
[編集]1931年はカージナルス傘下インターナショナルリーグのロチェスター・レッドウイングスに所属し、自身初のマイナーリーグでのプレイとなった。159試合の出場で打率.303を記録。
1932年はテキサスリーグのシュリーブポート・スポーツで選手兼任監督としてプレイし、同年限りで引退した。
引退後
[編集]1939年に有効投票数274のうち235票を獲得し、アメリカ野球殿堂入りを果たした。
1942年からはリッキーに請われてブルックリン・ドジャースのスカウトに就任。この時見出したのが、近代メジャーリーグ初のアフリカ系アメリカ人選手となるジャッキー・ロビンソンであった。シスラーは当時のドジャース会長リッキーから「メジャーリーグでも通用する力を持ち、たとえ周囲から苛めに遭っても耐えられる強い意志を持った黒人選手をスカウトしてほしい」という命を受けた。ニグロリーグからスカウトするにあたり、ロビンソンの身辺調査を徹底的に行い、その上でシスラーは自信を持ってリッキー会長にロビンソンを推薦した。
1950年限りでリッキーと共にドジャースを退団しパイレーツへ移り、ビル・マゼロスキーの獲得に尽力。打撃コーチとしてロベルト・クレメンテやウィリー・スタージェルら未来の殿堂入りプレイヤーに指導を行った[15]。
80歳の誕生日を迎えた2日後の1973年3月26日、ミズーリ州リッチモンドハイツにて死去した[15]。
1999年、スポーティングニュース誌が発表した「Baseball's 100 Greatest Players」において33位にランクインした。
2001年6月17日、カージナルスの本拠地ブッシュ・メモリアル・スタジアムに銅像が設置され[1]、その後球場移転に伴って新ブッシュ・スタジアムに移設された。
2004年10月1日、長女フランシスらの親族がシアトルのセーフコ・フィールドに招待され、イチローがシーズン最多安打記録を達成した試合を観戦。達成時にはイチローがスタンドに駆け寄り、フランシスと言葉を交わした。
人物・エピソード
[編集]20世紀最初の偉大な一塁手と言われ、カッブは「最も完璧に近い野球選手(the nearest thing to a perfect ballplayer)」、フランキー・フリッシュは「見ていてとても素晴らしい、完璧な選手だった(He was poetry in motion, the perfect player)」と評した[1][15]。
ルーキーシーズンに憧れでもあったジョンソンに投げ勝った試合を「野球人生において最大のスリルだった」と終生語っていた[15]。
「マウンドに立った時はどうすれば打者を欺くことができるのだろうと考えていた」「そのことで投手の心理を容易に理解できるようになった」と語り、投手経験が良い打者になるために役立ったと語っている。
1916年に結婚した妻キャスリーンとの間には息子が3人おり[15]、長男のジョージ・ジュニアはメジャーでプレイすることは無かったが、父も所属したレッドウィングスでGMを務めるなどした[1]。次男のディック・シスラーはカージナルスやフィラデルフィア・フィリーズに所属して殿堂入り選手の息子としては最多の799試合に出場し、1950年のMLBオールスターゲームで安打を放った。三男デーブ・シスラーは投手で通算38勝を挙げた。
孫にあたるウィリアム・ドロシェルマンによると「(シスラーは)自慢話が好きじゃなかったから、孫にも自分がメジャーリーグのスタープレイヤーだったという話をしなかった」という。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1915 | SLB | 81 | 295 | 274 | 28 | 78 | 10 | 2 | 3 | 101 | 29 | 10 | 9 | 12 | -- | 7 | -- | 2 | 27 | -- | .285 | .307 | .369 | .676 |
1916 | 151 | 644 | 580 | 83 | 177 | 21 | 11 | 4 | 232 | 76 | 34 | 26 | 19 | -- | 40 | -- | 5 | 37 | -- | .305 | .355 | .400 | .755 | |
1917 | 135 | 587 | 539 | 60 | 190 | 30 | 9 | 2 | 244 | 52 | 37 | -- | 15 | -- | 30 | -- | 3 | 19 | -- | .353 | .390 | .453 | .843 | |
1918 | 114 | 506 | 452 | 69 | 154 | 21 | 9 | 2 | 199 | 41 | 45 | -- | 9 | -- | 40 | -- | 5 | 17 | -- | .341 | .400 | .440 | .841 | |
1919 | 132 | 561 | 511 | 96 | 180 | 31 | 15 | 10 | 271 | 83 | 28 | -- | 18 | -- | 27 | -- | 5 | 20 | -- | .352 | .390 | .530 | .921 | |
1920 | 154 | 692 | 631 | 137 | 257 | 49 | 18 | 19 | 399 | 122 | 42 | 17 | 13 | -- | 46 | -- | 2 | 19 | -- | .407 | .449 | .632 | 1.081 | |
1921 | 138 | 635 | 582 | 125 | 216 | 38 | 18 | 12 | 326 | 104 | 35 | 11 | 14 | -- | 34 | -- | 5 | 27 | -- | .371 | .411 | .560 | .971 | |
1922 | 142 | 654 | 586 | 134 | 246 | 42 | 18 | 8 | 348 | 105 | 51 | 19 | 16 | -- | 49 | -- | 3 | 14 | -- | .420 | .467 | .594 | 1.061 | |
1924 | 151 | 684 | 636 | 94 | 194 | 27 | 10 | 9 | 268 | 74 | 19 | 17 | 14 | -- | 31 | -- | 3 | 29 | -- | .305 | .340 | .421 | .761 | |
1925 | 150 | 688 | 649 | 100 | 224 | 21 | 15 | 12 | 311 | 105 | 11 | 12 | 12 | -- | 27 | -- | 0 | 24 | -- | .345 | .371 | .479 | .850 | |
1926 | 150 | 662 | 613 | 78 | 178 | 21 | 12 | 7 | 244 | 71 | 12 | 8 | 16 | -- | 30 | -- | 3 | 30 | -- | .290 | .327 | .398 | .725 | |
1927 | 149 | 661 | 614 | 87 | 201 | 32 | 8 | 5 | 264 | 97 | 27 | 7 | 19 | -- | 24 | -- | 4 | 15 | -- | .327 | .357 | .430 | .787 | |
1928 | WHS2 | 20 | 51 | 49 | 1 | 12 | 1 | 0 | 0 | 13 | 2 | 0 | 1 | 1 | -- | 1 | -- | 0 | 2 | -- | .245 | .260 | .265 | .525 |
BSN | 118 | 537 | 491 | 71 | 167 | 26 | 4 | 4 | 213 | 68 | 11 | -- | 14 | -- | 30 | -- | 2 | 15 | -- | .340 | .380 | .434 | .814 | |
'28計 | 138 | 588 | 540 | 72 | 179 | 27 | 4 | 4 | 226 | 70 | 11 | 1 | 15 | -- | 31 | -- | 2 | 17 | -- | .331 | .370 | .419 | .789 | |
1929 | 154 | 686 | 629 | 67 | 205 | 40 | 8 | 2 | 267 | 79 | 6 | -- | 20 | -- | 33 | -- | 4 | 17 | -- | .326 | .363 | .424 | .787 | |
1930 | 116 | 470 | 431 | 54 | 133 | 15 | 7 | 3 | 171 | 67 | 7 | -- | 14 | -- | 23 | -- | 2 | 15 | -- | .309 | .346 | .397 | .743 | |
通算:15年 | 2055 | 9013 | 8267 | 1284 | 2812 | 425 | 164 | 102 | 3871 | 1175 | 375 | 127 | 226 | -- | 472 | -- | 48 | 327 | -- | .340 | .379 | .468 | .847 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1915 | SLB | 15 | 8 | 6 | 0 | -- | 4 | 4 | 0 | -- | .500 | 293 | 70.0 | 62 | 0 | 38 | -- | 4 | 41 | 1 | 1 | 26 | 22 | 2.83 | 1.43 |
1916 | 3 | 3 | 3 | 1 | -- | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 98 | 27.0 | 18 | 0 | 6 | -- | 1 | 12 | 0 | 0 | 4 | 3 | 1.00 | 0.89 | |
1918 | 2 | 1 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 1 | -- | -- | 41 | 8.0 | 10 | 0 | 4 | -- | 1 | 4 | 1 | 0 | 6 | 4 | 4.50 | 1.75 | |
1920 | 1 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 1 | -- | -- | 4 | 1.0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.00 | |
1925 | 1 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 0 | -- | -- | 7 | 2.0 | 1 | 0 | 1 | -- | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.00 | |
1926 | 1 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 1 | -- | -- | 7 | 2.0 | 0 | 0 | 2 | -- | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.00 | |
1928 | BSN | 1 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 0 | -- | -- | 4 | 1.0 | 0 | 0 | 1 | -- | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.00 |
通算:7年 | 24 | 12 | 9 | 1 | -- | 5 | 6 | 3 | -- | .455 | 453 | 111.0 | 91 | 0 | 52 | -- | 6 | 63 | 2 | 1 | 36 | 29 | 2.35 | 1.29 |
年度別監督成績
[編集]年度 | チーム | リーグ | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 順位/チーム数 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1924 | SLB | AL | 153 | 74 | 78 | 1 | .487 | 17.0 | 4 / 8 | 選手兼任 |
1925 | 154 | 82 | 71 | 1 | .546 | 21.5 | 3 / 8 | |||
1926 | 155 | 62 | 92 | 1 | .464 | 29.0 | 7 / 8 | |||
通算:3年 | 462 | 218 | 241 | 3 | .475 |
タイトル
[編集]- 首位打者:2回(1920年,1922年)
- 最多盗塁:4回(1918年,1921年,1922年,1927年)
表彰
[編集]- MVP:1回(1922年)
- アメリカ野球殿堂入り(1939年)
- メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チームにノミネート(1999年)
記録
[編集]- 連続試合安打:41(1922年)
- サイクル安打:2回(1920年8月8日,1921年8月13日)
- 通算1500安打到達時の試合数:1048試合(1900年以降2位。1位はアル・シモンズの1040試合)
脚注
[編集]- ^ a b c d e “Vic Wertz” (英語). SABR Baseball Biography Project. 2021年10月24日閲覧。
- ^ “St. Louis Browns at Chicago White Sox Box Score, June 28, 1915” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月9日閲覧。
- ^ “Chicago White Sox 4, St. Louis Browns 2” (英語). RETOROSHEET. 2021年10月9日閲覧。
- ^ “Washington Senators at St. Louis Browns Box Score, August 29, 1915” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月9日閲覧。
- ^ “1915 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月9日閲覧。
- ^ “Washington Senators at St. Louis Browns Box Score, September 17, 1916” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月9日閲覧。
- ^ “1918 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月9日閲覧。
- ^ It Starts With Bulkeley http://articles.courant.com/
- ^ “Washington Senators at St. Louis Browns Box Score, August 8, 1920” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ “1920 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ “St. Louis Browns at Detroit Tigers Box Score, August 13, 1921” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ “1921 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ “Months” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ “1922 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ a b c d e f 引用エラー: 無効な
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」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ “1925 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月10日閲覧。
- ^ a b c 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。「:2
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ a b “1928 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月11日閲覧。
- ^ “1929 Batting Game Log” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年10月11日閲覧。
関連項目
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ボストン・レッドソックス Boston Red Sox | |||||||||
1901年創設 | |||||||||
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所属リーグ | |||||||||
チーム名 | |||||||||
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本拠地 | |||||||||
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永久欠番 | |||||||||
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獲得タイトル(獲得年) | |||||||||
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球団組織 | |||||||||
オーナー | ジョン・ヘンリー | ||||||||
GM | ブライアン・オハロラン (野球) | ||||||||
監督 | アレックス・コーラ |
ボストン・レッドソックス(英語: Boston Red Sox、略称:BOS)は、メジャーリーグベースボール(以下MLB)アメリカンリーグ東地区所属のプロ野球チーム。本拠地はマサチューセッツ州ボストンのフェンウェイ・パーク。
概要
[編集]アメリカンリーグ創設時から存在する古豪球団。本拠地移転は一度もなく、リーグ優勝14回・ワールドシリーズ優勝9回の実績を誇る。伝統的に長打力を重視するビッグボール派のチームとして知られている。
愛称は1901年の球団創立当初はアメリカンズ、1902年 - 1903年がサマーセッツ(当時のオーナーであるチャールズ・サマーズに因む)、1904年 - 1906年がピルグリムスと変わったとされ、他にもピューリタンズやプリモスロックスなどがあったとされるが、実際には1901年からの7シーズンは単にホームタウンのボストン、もしくはナショナルリーグのボストン・ビーンイーターズ(現アトランタ・ブレーブス)に対し「アメリカンリーグのボストン」を示すボストン・アメリカンズで通っており、その他は当時の新聞記者が自由につけていた。1908年シーズンから「レッドソックス」が正式名称となった。
1903年に初のリーグ優勝。同年初開催されたワールドシリーズも制し、以降1918年までにリーグ優勝6回、シリーズ優勝5回とMLB屈指の強豪となるが、その後は台頭したライバルのニューヨーク・ヤンキースの後塵を拝して4回のリーグ優勝のみにとどまり、ワールドシリーズではいずれの年も第7戦で敗れるなど長くシリーズ制覇から遠ざかった。しかし21世紀以降は4度のリーグ優勝・シリーズ制覇を果たすなど、宿敵ヤンキースを凌ぐ実績を挙げている。
ユニフォームカラーは紺・赤で、ロゴデザインは赤い靴下1足である。本拠地フェンウェイ・パークは現在メジャーリーグ球団の本拠地球場では最も古い歴史を持つ。市街地の中心に建設されたため球場自体はそれほど広くなく観客席も少ない。そのためレッドソックスの人気と相まってチケットは入手困難な状況が続いており、特に対ヤンキース戦といった人気カードではプラチナチケットと化す。
2003年5月15日から2013年4月10日まで、フェンウェイ・パークでは820試合連続チケット完売を記録した。
球団の歴史
[編集]1901年 - 1910年代
[編集]1901年、リーグ加盟と同時にセントルイス・カージナルスからサイ・ヤングを獲得。1903年にヤングや選手兼任監督のジミー・コリンズが中心となり、91勝47敗で初のリーグ優勝。第1回ワールドシリーズでもナショナルリーグ覇者のピッツバーグ・パイレーツを5勝3敗で下し、初代チャンピオンの栄冠を手にした。翌1904年年もリーグ優勝を果たすが、ナショナルリーグ優勝のニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)が対戦を拒否し、シリーズは開催されなかった。
1912年にはフェンウェイ・パークが開場。スライディングキャッチを得意としたハリー・フーパー、抜群の打球の読みで極端な前進守備を敷き、いくつもの「センターゴロ」を捌いたというトリス・スピーカー、当時レフト後方にあった10フィート(約3メートル)の高さの土手(ダフィーズ・クリフ)を自由に上り下りしたというダフィー・ルイスの3人からなる『100万ドルの外野陣』の活躍で8年ぶりのリーグ優勝。ジャイアンツとのワールドシリーズでは、3勝を挙げたスモーキー・ジョー・ウッドの活躍もあり4勝3敗1分という僅差でこれを下し、2度目のワールドチャンピオンに輝く。
1914年にベーブ・ルースを獲得。ルースは1915年に投手として18勝、打っては打率.314・4本塁打という活躍でチームのワールドシリーズ制覇に貢献。1916年も変わらぬ活躍で23勝・防御率1.75で最優秀防御率を獲得し、チームも2年連続でワールドシリーズ制覇を成し遂げる。1917年はシカゴ・ホワイトソックスにリーグ優勝を奪われるが、1918年に5度目のワールドシリーズ制覇を果たす。ルースもこの頃から打者としての出場が増え、同年は11本塁打、翌1919年にはそれまでの本塁打記録を大幅に更新する29本塁打を放ち、最多本塁打を獲得した。
1920年代
[編集]1920年1月3日、オーナーのハリー・フレイジーはブロードウェイのショービジネス失敗で膨れ上がった負債解消のため、125,000ドルの金銭とフェンウェイ・パーク建設にかかった費用の一部30万ドルの肩代わりを条件に、ルースをヤンキースにトレードで放出してしまう。フレイジーは「彼の放出はギャンブルだとは思わない。むしろレッドソックスは強くなるだろう」との声明を発表した。他にもカール・メイズ、ハーブ・ペノック、ウェイト・ホイトらを次々とヤンキースに放出した。
当時のヤンキースは弱小球団だったが、ルース獲得を機に大きく成績を伸ばし、1920年代から1930年代にかけて11回のリーグ優勝、8回のシリーズ優勝を成し遂げた。それに反比例するかのようにレッドソックスの成績は下降の一途を辿り、1925年から6年連続最下位を記録するなど、優勝から大きく遠のいたシーズンが続いた。1921年から1927年までにヤンキースがワールドシリーズで挙げた18勝のうち15勝は元レッドソックスの投手が勝利投手で、1920年代のヤンキースの黄金時代は『元レッドソックス選手の黄金時代』であったと言われる。
名門の絵に描いたような衰退は、ルースに呪いをかけられたようだとして、いつしかルースの愛称「バンビーノ」から「バンビーノの呪い」と呼ばれるようになった。
1930年代 - 1950年代
[編集]1933年にトム・ヨーキーが球団を買収しオーナーに就任するとチームの再建に着手。ヨーキーは球団が利益本位のものであることを批判し、人々に敬愛されるチームを作ることを目指して、かつての名内野手で当時フィラデルフィア・アスレティックスの名監督コニー・マックの下で監督補佐をしていたエディ・コリンズをゼネラルマネージャーとして招聘し、再建を託した。潤沢な資金提供を受けたコリンズは、アスレティックスから後の300勝投手レフティ・グローブ、1932年に58本塁打(1998年にマーク・マグワイアとサミー・ソーサが更新するまで右打者の最多本塁打)、1933年には三冠を達成したMVP2度の強打者ジミー・フォックス、セントルイス・ブラウンズから名捕手リック・フェレル、ワシントン・セネタースからは選手兼任監督を務めたジョー・クローニンらの有力選手を獲得。若手の発掘にも努め、パシフィックコーストリーグからは後に主将を務めてアメリカ野球殿堂入りも果たしたボビー・ドーア、そして後に打撃の神様と呼ばれたテッド・ウィリアムズが台頭するなど、チームは徐々に力をつけていく。特にウィリアムズは2度の三冠を達成するなど通算打率.344・521本塁打、1941年には打率.406を記録し、以後達成者がいないことから「最後の4割打者」と呼ばれている。
これらのメンバーが揃ってついに1946年に2位タイガースに12ゲーム差をつけて28年ぶりにリーグ優勝を飾った。しかしカージナルスと対戦した1946年のワールドシリーズでは第7戦で、3対3の同点で迎えた8回裏にカージナルスの1塁走者イーノス・スローターの暴走気味の本塁突入を遊撃手ジョニー・ペスキーの一瞬の迷いで生還を許して敗れ、ワールドシリーズ制覇は成らなかった。1948年は最終戦を終えてクリーブランド・インディアンズと96勝58敗で並んだが、ワンゲームプレイオフで敗れた。翌1949年は終盤に11連勝してヤンキースを逆転、敵地ヤンキー・スタジアムでの直接対決2連戦で1勝すれば優勝だったが、連敗を喫して逃した。
1959年に球団初のアフリカ系アメリカ人選手パンプシー・グリーンがメジャーデビューを果たした。これは、MLB球団の中で最も遅かった。1945年4月16日にニグロリーグからジャッキー・ロビンソン、マービン・ウィリアムズ、サム・ジェスローなどが入団テストを受けたが、球団には契約の意思はなかった。1949年はウィリー・メイズ獲得の機会があったが、これをみすみす逃している[1]。このように黒人選手の登用が遅れたことが長期低迷の原因の一つとされている。
1960年代 - 1970年代
[編集]1960年限りでウィリアムズが引退するが、入れ替わるようにカール・ヤストレムスキーが1961年にデビューし、左翼のレギュラーに定着する。
1967年はヤストレムスキーが打率.326・44本塁打・121打点の成績でウィリアムズ以来の三冠を達成してMVPを獲得、エースのジム・ロンボーグが22勝・246奪三振で最多勝利と最多奪三振を獲得し、チーム史上初のサイ・ヤング賞を受賞する活躍。デトロイト・タイガースやミネソタ・ツインズとのデッドヒートを制し、前年の9位から躍進して21年ぶりのリーグ優勝。前回同様カージナルスとの対戦となったワールドシリーズでは1勝3敗と王手をかけられるが、その後連勝し最終戦にもつれ込む。第7戦はエース対決となり、レッドソックスは中2日でロンボーグ、カージナルスは中3日でボブ・ギブソンが先発。試合はロンボーグがギブソンに本塁打を浴びるなどで2-7と敗れ、またも涙を呑んだ。
1969年に東西2地区制が導入され、東地区所属となる。1972年は開幕直後のストライキと、タイガースとの最終直接対決に敗れたことが響いて0.5ゲーム差で地区優勝を逃した。
1975年は「Gold Dust Twins」と呼ばれた2人のルーキー、フレッド・リンとジム・ライスが躍動。リンは打率.331・21本塁打・105打点の好成績で、史上初のルーキー・オブ・ザ・イヤーとMVPの同時受賞を果たし(後に2001年のイチローが2人目となる)、ゴールドグラブ賞も獲得した。ライスも打率.309・22本塁打・102打点を記録し、初の地区優勝の原動力となる。リーグチャンピオンシップシリーズではワールドシリーズ3連覇中のアスレティックスを3連勝で下し8年ぶりのリーグ優勝。ピート・ローズ、ジョニー・ベンチ、ケン・グリフィー、ジョー・モーガン、ジョージ・フォスターなどの強打者を揃え「ビッグレッドマシン」と呼ばれたシンシナティ・レッズとのワールドシリーズは前評判では不利が予想されたが、7戦のうち5試合が1点差ゲームで6試合が逆転勝利という稀に見る接戦となり、後に「史上最高のシリーズ」とも呼ばれた。王手をかけられて迎えた第6戦、延長12回裏に4番カールトン・フィスクがレフトポールを直撃する劇的なサヨナラ本塁打を放ち、3勝3敗のタイに持ち込むが第7戦で逆転負けを喫し、またしても敗退した。
1978年は一時ヤンキースに14ゲームもの大差をつけたが、故障者続出等で9月の直接対決4連戦に全敗したことも響いてシーズン最終日に追いつかれ、ワンゲームプレイオフに敗れて地区優勝を逃した。
1980年代
[編集]1982年にウェイド・ボッグスがデビューし、高いバッティング技術と抜群の選球眼で安打と四球を量産した。1984年にはロジャー・クレメンスがデビューし、1986年4月29日のシアトル・マリナーズ戦でメジャー記録を更新する1試合20奪三振を達成するなど24勝・防御率2.48・238奪三振を記録し、サイ・ヤング賞とMVPをダブル受賞する。同年はボッグスが打率.357で首位打者を獲得、ライスが200安打・110打点、ビル・バックナーが102打点を挙げ、11年ぶりの地区優勝。カリフォルニア・エンゼルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは1勝3敗と追い込まれ、迎えた第5戦も8回を終わって2-5と3点のリードを許し敗色濃厚だったが、9回表に2本の2ラン本塁打で逆転。その裏に追い付かれるものの延長戦を制して踏み止まり、続く第6・7戦に連勝してリーグ優勝を決めた。
ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズでは、3勝2敗と王手をかけて迎えた第6戦は延長戦となり、10回表にデーブ・ヘンダーソンの本塁打などで2点をリード。その裏クローザーのカルビン・シラルディが2人を打ち取り68年ぶりのシリーズ制覇まで後1人までこぎ着けるが、ゲイリー・カーター、代打ケビン・ミッチェル(後にNPB福岡ダイエーホークスでプレイ)、レイ・ナイトに3連打を浴びて1点差に詰め寄られる。ここで投手をボブ・スタンリーに交代し、ムーキー・ウィルソンを2ストライクと追い込むがファウルで粘られ、7球目が暴投となってミッチェルの生還を許し同点に追い付かれる。10球目にウィルソンがフェアゾーンへ打ち返した打球は平凡な一塁ゴロだったが、一塁手バックナーがこれを後逸。打球が外野へ転がる間にナイトが生還し、悪夢の逆転サヨナラ負け。続く第7戦も敗れ、またしても3勝4敗での敗退となった。
1988年は後にNPB阪神タイガースでもプレイするマイク・グリーンウェル、エリス・バークスの台頭もあって2年ぶりに地区優勝するが、リーグチャンピオンシップシリーズでは当時最強を誇ったアスレチックスに4連敗で敗退した。
1990年代
[編集]1990年にも地区優勝を果たすが、リーグチャンピオンシップシリーズで再びアスレチックスに4連敗で敗退。1991年にはモー・ヴォーンがデビュー。1994年から東・中・西の3地区制に変更され、引き続き東地区所属となった。同年はストライキでシーズンが打ち切られたが、テキサス・レンジャーズからホゼ・カンセコをトレードで獲得。1995年はヴォーンが39本塁打・126打点の活躍でMVPを受賞、開幕直前にパイレーツから獲得したナックルボーラーのティム・ウェイクフィールドが16勝を挙げるなど5年ぶりの地区優勝。インディアンズとのディビジョンシリーズでは3連敗と一蹴された。
1996年はオフにクレメンスが退団するがノマー・ガルシアパーラがデビューし、翌1997年に打率.306・30本塁打・98打点・209安打・11三塁打とブレイクして球団としては1975年のリン以来22年ぶりにルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞。同年シーズン中にマリナーズから後の正捕手とクローザーであるジェイソン・ヴァリテックとデレク・ロウを、オフにモントリオール・エクスポズからペドロ・マルティネスをいずれもトレードで獲得し、徐々に戦力を整えていく。
1998年はマルティネスが19勝・251奪三振、ヴォーン,ガルシアパーラが共に打率.320・35本塁打・110打点を突破する活躍で、独走したヤンキースに22ゲーム差をつけられたものの地区2位となり、チーム史上初のワイルドカードを獲得。再びインディアンズとの対戦となったディビジョンシリーズでは初戦で大勝したが、その後3連敗して敗退。オフにヴォーンがフリーエージェントでエンゼルスへ移籍した。
1999年は1961年以来38年ぶりにボストンでオールスターゲームが開催され、先発投手を務めたマルティネスが2イニングで5奪三振を記録してオールスターMVPを受賞。レギュラーシーズンでも23勝・防御率2.07・313奪三振と圧倒的な成績で投手三冠を達成してサイ・ヤング賞を受賞、ガルシアパーラが自身初の首位打者を獲得するなど、前年に続きワイルドカードでポストシーズン進出。3度目の対戦となったインディアンズとのディビジョンシリーズは2連敗後の3連勝で突破するが、リーグチャンピオンシップシリーズでヤンキースに1勝4敗で屈し、リーグ優勝を阻まれた。尚同年は大家友和がチーム初の日本人メジャーリーガーとしてデビューしている。
2000年 - 2003年
[編集]2000年はマルティネスが防御率1.74・284奪三振で2年連続のサイ・ヤング賞、ガルシアパーラが打率.372で2年連続首位打者と活躍を見せるが、ヤンキースと2.5ゲーム差の地区2位に終わりポストシーズン進出を逃す。オフに野茂英雄、インディアンズからマニー・ラミレスを8年総額1億6000万ドルという大型契約で獲得した。
2001年は野茂が移籍後初登板のオリオールズ戦でノーヒッター、ラミレスが4月にプレイヤー・オブ・ザ・マンスを受賞するなど前半戦は首位争いを繰り広げるが、ガルシアパーラ,マルティネス,ヴァリテックらの主力選手が故障で長期離脱したこともあって後半戦で大きく失速し、地区2位は確保したもののヤンキースと13.5ゲーム差に終わった。オフにアスレチックスからジョニー・デイモンが移籍。
2002年はラミレスが途中骨折での離脱がありながらキャリア唯一の首位打者を獲得し、前年を故障で棒に振ったガルシアパーラも復活する。投手陣は先発に転向したロウとマルティネスが共に20勝をクリアするなど前年より11勝上積みするも、またもヤンキースの後塵を拝して2位に終わった。オフにGM補佐を務めていたセオ・エプスタインが史上最年少となる28歳でGMに昇格し、ツインズから放出されたデビッド・オルティーズ、ジャイアンツからビル・ミラー、NPB中日ドラゴンズとの保有権争い(ケビン・ミラー問題)の末にケビン・ミラーを獲得する。
2003年はオルティーズが31本塁打・101打点、ビル・ミラーが打率.326でラミレスを1厘差で抑えて首位打者を獲得するなど、球団新記録(当時)のチーム本塁打238、メジャー記録を更新するチーム長打率.491を記録。またもヤンキースには及ばなかったものの、ワイルドカードで4年ぶりにポストシーズン進出を果たす。ディビジョンシリーズでは2連敗の後3連勝でアスレチックスを下し、リーグチャンピオンシップシリーズではヤンキースと対戦。3勝3敗のタイで迎えた最終第7戦は8回表まで5-2とリードするが、その裏にマルティネスが連打を浴びて追い付かれ、延長11回裏にウェイクフィールドがアーロン・ブーンにサヨナラ本塁打を打たれて敗退した。結果的にマルティネスを交代させなかったことが敗因となり、その責任を問われた監督のグレイディ・リトルが解任され、後任にはフィラデルフィア・フィリーズの元監督テリー・フランコーナが就任。ヤンキースとの争奪戦の末アリゾナ・ダイヤモンドバックスからトレードでカート・シリングを、クローザーを固定できなかったチーム事情からキース・フォークを獲得するなど補強を進めた。また主砲ラミレスをウェイバーにかけたが獲得球団は現れず、その後レンジャーズのアレックス・ロドリゲスとのトレードを画策するが、選手会の反発を受けたため頓挫した。しかしその後ヤンキースがアルフォンソ・ソリアーノらとのトレードでロドリゲスを獲得し、両者の因縁は更に深まった。
2004年:呪いが解けた年
[編集]2004年は4月のヤンキース戦を6勝1敗と圧倒するなどスタートダッシュに成功する。しかし6月に11勝14敗と負け越すなど停滞し、首位を走るヤンキースに最大で10.5ゲーム差を付けられる。7月31日に守備の立て直しのため、生え抜きのスター選手だったガルシアパーラを四角トレードでシカゴ・カブスに放出し、エクスポズからオーランド・カブレラ、ツインズからダグ・ミントケイビッチを獲得。他にもマイナー選手との交換でドジャースからデイヴ・ロバーツが加入した。ガルシアパーラ放出には異論もあったが、守備が改善されたことでチーム状況は好転し、8月は21勝7敗、9・10月も21勝11敗を記録。ラミレス,オルティーズの主砲2人が共に3割・40本塁打・130打点をクリアし、ラミレスは球団史上20年ぶりに最多本塁打のタイトルを獲得。マルティネスが防御率3.90、ロウが5.42と不本意な成績に終わるが、シリングは21勝を挙げて最多勝利を獲得し、フォークも32セーブと期待に応えた。結局7年連続で地区2位に終わったが、前年に続いてワイルドカードでポストシーズン進出を決めた。
ディビジョンシリーズでエンゼルスを3連勝で下し、リーグチャンピオンシップシリーズで前年に続いてヤンキースと対戦。敵地での第1戦はシリングが先発するが、ディビジョンシリーズで負った右足首の腱剥離が悪化し6失点を喫して3回で降板。打線もマイク・ムシーナに7回1死までパーフェクトに抑え込まれ、その後反撃するも7-10で敗れる。第2戦も打線が沈黙して1-3で落とし、本拠地に戻った第3戦は8-19と大敗して3連敗と後がなくなる。第4戦も3-4と1点ビハインドで9回を迎えてスウィープで敗退かと思われたが、無死一塁から代走ロバーツの盗塁の後ビル・ミラーがマリアノ・リベラから安打を放って追い付き、延長12回にオルティーズがサヨナラ本塁打。第5戦も8回裏にヴァリテックの犠牲フライで同点に追いついて連夜の延長戦となり、14回にオルティーズが連日のサヨナラ打を放ってポストシーズン史上最長となる5時間49分の激闘を制した。第6戦は右足首の皮膚を縫い合わせて剥離した腱を固定する応急処置を施したシリングが先発。糸が切れた部分から血が滲んで靴下を赤く染めながらも7回1失点の好投で勝利投手となり、ついに3勝3敗のタイに戻す。最終第7戦は不振だったデイモンが満塁本塁打を含む2本塁打6打点と爆発して10-3で大勝。MLBポストシーズン史上初となる3連敗後からの4連勝という奇跡的大逆転で18年ぶりのリーグ優勝[2]を果たし、シリーズMVPはオルティーズが受賞した。
過去2度対戦しいずれも3勝4敗で敗れているカージナルスとの対決となったワールドシリーズでは第1戦を乱打戦の末に制し、第2戦以降はシリング、マルティネス、ロウがいずれも好投を見せ、4連勝で1918年以来のワールドシリーズ優勝を達成し、86年もの長きに及んだ「バンビーノの呪い」を遂に打ち破った。ポストシーズン8連勝はMLB史上初、4連勝でのシリーズ制覇は球団史上初であった。
オフにマルティネスとロウがFAとなってチームを去り、デービッド・ウェルズ,マット・クレメントらが新たに加入した。
2005年 - 2006年
[編集]2005年はオルティーズが最多打点のタイトルを獲得したが、シリングが前年の故障の影響で不振に陥った。6月から首位を維持したが終盤ヤンキースに追い付かれ、最終的に95勝67敗と同率で並んだものの直接対決で9勝10敗と負け越したため、またも地区優勝を逃した。それでも3年連続でワイルドカードを獲得したが、ディビジョンシリーズでホワイトソックスに3連敗を喫して敗退した。オフにデイモンがFAとなって宿敵ヤンキースに移籍、ハンリー・ラミレス,アニバル・サンチェス他2選手との交換トレードで、フロリダ・マーリンズからジョシュ・ベケット,マイク・ローウェルらを獲得した。
2006年はオルティーズが最多本塁打・最多打点の二冠を獲得し、ケヴィン・ユーキリスがレギュラーに定着。前年デビューしたジョナサン・パペルボンがクローザーに定着して35セーブ・防御率0.92を記録し、ベケットが防御率5.01と今ひとつながら16勝、シリングも復活して15勝を挙げた。またジョン・レスターはデビューから5連勝を記録したが、血液癌の一種である悪性リンパ腫と診断され離脱した。6月に12連勝を記録するなど前半戦を首位で折り返したが、8月上旬にヤンキースに首位を奪われると同月18日からの本拠地での直接対決5連戦に全敗するなど後半戦に失速。終盤にはトロント・ブルージェイズにも抜かれて地区3位に終わり、4年ぶりにポストシーズン進出を逃した。オフにポスティングシステムを行使した松坂大輔に対し5,111万1,111ドル11セント(往年の大投手サイ・ヤングの通算勝利数に因む)で入札して独占交渉権を獲得。代理人スコット・ボラスとの交渉は難航したが期限直前に合意し、12月14日に6年総額5200万ドルで契約。またFAで岡島秀樹、J.D.ドルーを獲得した。
2007年:3年ぶりのワールドチャンピオン
[編集]2007年はオルティーズが打率.332・35本塁打、ローウェルが打率.324・120打点、前年デビューのダスティン・ペドロイアが二塁のレギュラーに定着して打率.317を記録し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞。ベケットが20勝、松坂が15勝を挙げ、パペルボンが37セーブ、岡島も66試合の登板で防御率2.22と安定感を発揮。またレスターが悪性リンパ腫を克服して復帰し、クレイ・バックホルツがデビュー2戦目でノーヒッターを達成するなど投手陣が整備された。4月中旬に首位に立って以降は独走し、一時は2位に最大11.5ゲーム差を付けた。その後ヤンキースが驚異的な追い上げを見せて1.5ゲーム差まで詰め寄られるが、結局4月以降一度も首位を明け渡すことはなく、96勝66敗(インディアンズと並ぶリーグ最高勝率)で12年ぶりの地区優勝を果たし、ヤンキースの地区10連覇を阻止した。ディビジョンシリーズではエンゼルスに3連勝。インディアンズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは1勝3敗と追い詰められるが、そこから3連勝し逆転で3年ぶりのリーグ優勝。ワールドシリーズではワンゲーム・プレイオフでワイルドカードを獲得し、その後のポストシーズンを全勝で勝ち上がったコロラド・ロッキーズを圧倒し、前回と同じく4連勝で3年ぶりのシリーズ制覇を果たした。また第3戦で松坂が日本人初の勝利投手となっている。
2008年 - 2009年
[編集]2008年はアスレチックスとの開幕戦を日本で行い、松坂が開幕投手を務めた。レスターが5月19日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でノーヒッターを達成するなど16勝を挙げ、松坂も18勝。7月末にラミレスを三角トレードでロサンゼルス・ドジャースに放出し、パイレーツからジェイソン・ベイを獲得。ユーキリスが29本塁打・115打点、ペドロイアが打率.326・213安打でジョー・マウアーと首位打者争いを繰り広げた。ジャコビー・エルズベリーは50盗塁を記録し、1973年のトミー・ハーパー以来の最多盗塁を獲得するが、ベケットや主砲オルティーズら主力の故障が相次ぎ、大躍進したタンパベイ・レイズに2ゲーム差で地区優勝を攫われるも3年ぶりのワイルドカードを獲得。前年に続きエンゼルスとの対戦となったディビジョンシリーズを3勝1敗で突破するが、リーグチャンピオンシップシリーズでレイズに3勝4敗で敗退した。12月4日にNPB入りを拒否した田澤純一と3年総額400万ドルでメジャー契約し、NPB在籍経験が無い日本人選手でマイナー契約を経ずにメジャー契約を結んだ初のケースとなる。またドジャースからFAとなった斎藤隆を獲得し、4人の日本人選手が在籍することとなった。
2009年はベイが36本塁打・119打点を記録するが、オルティーズが打率.238と不振で正捕手ヴァリテックにも衰えが見られ、松坂も股関節の故障の影響で12試合の登板に終わった。4月に11連勝、対ヤンキース戦で開幕から8戦全勝するなど前半戦を首位で折り返すが、後半戦はヤンキースに1勝9敗と大きく負け越して首位を奪われ、7月末にトレードでインディアンズからヴィクター・マルティネスを獲得するが、結局8ゲーム差の地区2位に終わった。前年に続きワイルドカードを獲得したが、3年連続の対戦となったエンゼルスとのディビジョンシリーズは3連敗で敗退した。オフにエンゼルスからジョン・ラッキー、マリナーズからエイドリアン・ベルトレイを獲得した。
2010年代
[編集]2010年はベルトレイが打率.321・28本塁打・102打点を記録するが、ユーキリス,ペドロイア,エルズベリー等故障者が続出。レスターが19勝、バックホルツが17勝、ラッキーが14勝を挙げたが、ベケットが防御率5.78と不安定で、優勝争いには殆ど絡むことはなく地区3位に終わった。同年限りでローウェルが現役を引退したが、アンソニー・リゾ他3選手とのトレードでサンディエゴ・パドレスからエイドリアン・ゴンザレスを、レイズからFAとなったカール・クロフォードを7年総額1億4200万ドルで獲得した。
2011年はゴンザレスが打率.338・213安打・117打点、エルズベリーが打率.321・32本塁打・105打点・212安打・39盗塁で30-30を達成するが、クロフォードは期待を大きく裏切り、ラッキーが12勝ながら防御率6.41と不振だった。開幕6連敗を喫するなど出足でつまづくがその後復調し、8月を終えて貯金31で地区首位に立っていた。しかし9月に7勝20敗と大失速し、最終戦で逆転サヨナラ負けを喫してレイズにワイルドカードを攫われた。9月30日にフランコーナ監督、10月にはエプスタインGMの辞任が発表され、後任にはそれぞれボビー・ヴァレンタインとベン・チェリントンが就任した。長くチームを支えたウェイクフィールドとヴァリテックが引退し、パペルボンがFAで移籍。ジョシュ・レディック他2選手とのトレードでアスレチックスからアンドルー・ベイリーを、ジェド・ラウリーとのトレードでヒューストン・アストロズからマーク・マランソンを後任のクローザー候補として獲得した。
2012年は本拠地フェンウェイ・パーク開場100周年という記念の年だったが、ヴァレンタインと主力選手の確執が表面化するなどチームは空中分解。6月24日にユーキリスをホワイトソックスへ、8月25日にはベケット,ゴンザレス,クロフォード,ニック・プントがドジャースへトレードで放出された。松坂は防御率8.28と打ち込まれ、田澤は防御率1.43と好投したがベイリーは殆ど戦力にならず、放出したレディックが移籍先で32本塁打を記録した。それでも7月末までは何とか勝率5割を維持したが8月以降は16勝42敗と大崩れし、69勝93敗で20年ぶりの地区最下位に沈んだ。ヴァレンタインは契約を1年残して解任され、契約最終年だった松坂も同年限りで退団した。
10月21日にブルージェイズで監督を務めていたジョン・ファレルがトレードで移籍し、新監督に就任。レンジャーズからマイク・ナポリ,ライアン・デンプスター、上原浩治、ドジャースからシェーン・ヴィクトリーノ、アスレチックスからスティーヴン・ドルー,ジョニー・ゴームス、マリナーズからマイク・カープ、マランソンとのトレードでパイレーツからジョエル・ハンラハンを獲得するなど補強を推し進めた。
2013年:6年ぶりのワールドチャンピオンとBoston Strong
[編集]2013年は4月10日のオリオールズ戦でチケットが完売にならず、連続完売記録が794試合(ポストシーズンを含めれば820試合)で途切れた。4月15日、ボストンマラソン爆弾テロ事件が起き、ボストンに暗い影を落とした。しかしながら、チームは「Boston Strong」を掲げ、上述の新加入組に加え、オルティーズ、外野手エルズベリーおよびダニエル・ナバ、二塁手ペドロイア、捕手ジャロッド・サルタラマッキアらの連綿と続く打線の爆発、投手陣もバックホルツ、レスターに加え、前年に手術でシーズンを棒に振ったラッキーも再生し、開幕前の最下位予想を覆して、東地区1位を快走した。
5月から6月にかけては、無敗のバックホルツおよびクローザーのハンラハン、ベイリーが相次いで怪我により長期離脱、投手陣が崩壊の危機に晒されたが、ブルペンの田澤、5月にチームに合流した左腕クレイグ・ブレスロウ、そして6月27日以降クローザーとして圧倒的な成績(防御率1.09、WHIP0.565、連続アウト37人、連続27試合無失点)を残した上原らの活躍により危機を脱出、更に7月30日、絶好調であった新人遊撃手ホセ・イグレシアスを三角トレードで放出、ホワイトソックスのエース、ジェイク・ピービーを獲得し投手陣を整えた。また、後半戦は投手フェリックス・ドゥブロン、三塁手ウィル・ミドルブルックス、遊撃手ザンダー・ボガーツらの若手も活躍。7月末・8月末と、何度も首位に迫ったレイズを9月には9.5ゲーム差まで突き放し、6年ぶりの東地区優勝をリーグ最多勝利(97勝65敗)で飾った。
ポストシーズンも粘り強い打線と強力なリリーフ陣で相手チームを圧倒、ワンゲームプレイオフとワイルドカードゲームを勝ち抜いたレイズを3勝1敗、中地区王者タイガースを4勝2敗で破りアメリカンリーグ優勝、そしてア・リーグとナ・リーグの最高勝率同士の戦いとなったカージナルスとのワールドシリーズを第6戦で制し、95年ぶりに本拠地フェンウェイ・パークでのワールドシリーズ優勝を果たした(2004年、2007年は敵地で世界一)。前年地区最下位からのワールドシリーズ制覇は1991年ミネソタ・ツインズ以来、22年ぶり2チーム目であった。3度目の戴冠となったオルティーズは、2013年のチームについて「2004年・2007年ほどの爆発力や才能を持つチームでは無かったけれど、ハートの強いやつらばかりだった。自分が出場した中で最も特別なワールドシリーズだったかもしれない。」と述べた[3]。
2014年 - 2017年
[編集]連覇を目指した2014年は、サルタラマッキアがマーリンズへ、エルズベリーがヤンキースへそれぞれ移籍。ワールドチャンピオンを支えた主力の移籍や既存の戦力(ナポリやペドロイア)の怪我や不振で、リーグ最多の145通りのバッティングオーダーを組まなければならない程、得点力が低下しリーグ最下位の2割3分2厘にまで低下し5月の16日から26日にかけて1994年以来の10連敗も経験した。シーズン途中にトレードなどでレスター、ゴームズ、ピービー、ラッキー、ドルー、ドゥブロン、カープを放出した。ここ3年間で2度目の地区最下位に終わった。
2015年も低迷し、シーズン途中にトレードなどでエドワード・ムヒカ、ダニエル・ナバ、ビクトリーノ、ナポリを放出した。
2016年は前回世界一の2013年以来、3年ぶりの東地区優勝を飾ったものの、ディビジョンシリーズで2004年から2011年まで率いたフランコーナ率いるインディアンスに3連敗を喫して敗退した。特に第1戦の5回に登場したミラーが好投し、第3戦に値千金のホームランを放ったクリスプという元チームメイトの選手に竹箆返しを喰らい、長年主砲として活躍したオルティーズが引退し、背番号34が2017年より永久欠番となることが発表されたが、皮肉にもそのオルティーズがポストシーズンで9打数1安打と絶不調だった。[4][5]
2017年も2年連続の東地区優勝を果たしたが、ディビジョンシリーズでアストロズに1勝3敗で敗退となり、10月11日にはファレル監督の解任が発表された[6]。10月22日に2018年シーズンよりアレックス・コーラが監督に就任することが発表された[7]。
2018年:5年ぶりのワールドチャンピオン
[編集]2018年6月28日にサンティアゴ・エスピナルとのトレードで、トロント・ブルージェイズからスティーブ・ピアースを獲得した[8]。7月25日にジャレン・ビークスとのトレードで、レイズからネイサン・イオバルディを獲得した[9]。7月31日にウィリアムズ・ヘレス、タイ・バトリーとのトレードで、エンゼルスからイアン・キンズラーを獲得した[10]。両リーグを通じて最高勝率を記録していたレッドソックスは、9月20日に今季のレギュラーシーズン9試合を残して、ヤンキースに勝利し、104勝49敗という圧倒的な強さでア・リーグ東地区の3連覇を達成した。また、10月8日のヤンキース戦(地区シリーズ)では、ブロック・ホルトがポストシーズン史上初のサイクル安打を記録した[11]。前年チャンピオンのアストロズとの対戦となったリーグチャンピオンシップシリーズでは、初戦黒星の後4連勝、4勝1敗で5年ぶりのリーグ優勝、ワールドシリーズ進出を決めた[12]。リーグチャンピオンシップシリーズのMVPにはジャッキー・ブラッドリー・ジュニアが選ばれた[13]。ワールドシリーズでは、1916年にドジャースの前身であるブルックリン・ロビンスが対戦して以来のロサンゼルス・ドジャースとの102年ぶり2度目の対戦となった。レッドソックスのコーラ監督とドジャースのロバーツ監督はいずれも現役時代にこの両チームに所属しており、両監督が両チームでプレー経験のある球団同士のワールドシリーズ対戦も史上初となった[14]。第1戦、第2戦とホームで連勝し、敵地へ移動した第3戦では、ワールドシリーズ史上最長となる延長18回、7時間20分の激闘となったが、サヨナラ負けとなった[15]。しかし、第4戦では4点差を返す驚異の逆転劇を演じ、9-6で勝利[16]。優勝へ王手をかけた第5戦で5-1でドジャースを下し、4勝1敗で2013年以来5年ぶり9度目のワールドシリーズ優勝を果たした[17]。レッドソックスはレギュラーシーズン108勝とポストシーズンを合わせ119勝を記録。1998年ヤンキース(125勝)、2001年マリナーズ(120勝)に次ぐ歴代3位。コーラ監督の就任1年目での世界一達成は2001年ダイヤモンドバックスのボブ・ブレンリー監督以来史上5人目。プエルトリコ出身監督では史上初の世界一。ワールドシリーズMVPに輝いたピアースは、2009年ワールドシリーズのMVP松井秀喜以来となる35歳以上でポストシーズン8打点を記録。途中加入の選手がMVPに選出されたのは49年ぶり2人目となった[18]。
2019年:上位のチームに大きく負け越し
[編集]2019年は1915年~1916年以来の連覇を目指したが、開幕直後の10試合で2勝8敗と大きく出遅れた。7月27日の時点で59勝47敗と立て直し、順位も2位まで押し上げたが、翌日から今季ワーストの8連敗。宿敵ヤンキースの独走を許し、9月20日のレイズ戦に敗れてポストシーズン進出の可能性が消滅。すでにア・リーグ東地区4連覇を逃していたチームは、ワールドシリーズ連覇の夢も逃し、レイズの後塵を拝した[19]。
2020年代
[編集]サイン盗み問題
[編集]2020年1月7日、スポーツ専門サイト「ジ・アスレチック」がワールドシリーズを制した2018年のレギュラーシーズンで映像機器を使ってサイン盗みをしていたと伝えた[20]。1月14日に2017年にアストロズのコーチを務め、サイン盗みに主導的役割を担っていた疑惑が持ち上がったコーラ監督を解任したことを発表[21]。球団は17年にもヤンキースに対してサインを盗むため電子機器を使っていたとして罰金を科せられ、MLBに再発防止を確約したにも関わらず疑惑が浮上したため、事実なら厳罰が与えられると考えられていた[22]。しかしながら、MLBは4月22日に15ページに及ぶ調査結果を報告し、サイン盗みを事実と断定したが、処分はビデオ判定システム担当者・ワトキンスの今季の業務停止と来季の同職禁止、20年のドラフト2巡目指名権剥奪のみに終わった。今年のドラフトは規模が縮小される可能性が高く、コミッショナーのロブ・マンフレッド(英語版)は指名権を1つ剥奪するだけでも十分な効果があるとしている。MLBの声明発表直後に、球団社長名義で謝罪声明を出した[23]。また、前監督のアレックス・コーラにも1年間の職務停止処分が科されたが、これは2017年のアストロズの不正なサイン盗みにベンチコーチとして関わっていたことに対する処分である[24]。同日にサイン盗みに関する処分が発表されるまで暫定監督となっていたロン・レニキーが正式に第48代監督に就任したことを発表した[25]。
再建の始まり
[編集]2月10日にムーキー・ベッツとデビッド・プライスを放出し、アレックス・ベルドゥーゴ、ジーター・ダウンズ、コナー・ウォンを獲得する大型トレードが行われた[26]。3月24日、マイナー選手のCOVID-19感染が発覚し、フロリダ州フォートマイヤーズにあるキャンプ地の球団施設が2週間封鎖された[27]。
シーズンはCOVID-19の影響で例年より少ない60試合での開催となったが24勝36敗と低迷し2015年以来のア・リーグ東地区最下位だった[28]。また、レギュラーシーズン最終戦を前にロン・レニキーとは2021年シーズン契約をしないことが発表された[29]。11月6日にサイン盗み問題で解任されていたコーラが監督に復帰することを発表した[30]。
2021年は4月1日に予定されていたオリオールズとの開幕戦が雨天により翌日に延期となった[31]。シーズンでは開幕こそ不調だったが、連勝するなどし、5月7日にアスレチックスと共にMLB最速でシーズン20勝を記録した[32]。9月2日にチームからボビー・ダルベックが8月のルーキー・オブ・ザ・マンスを受賞した[33]。
ヤンキースとレッドソックス
[編集]レッドソックスとヤンキースは長年のライバル関係にあり、数々の名勝負が繰り広げられてきた。このカードは伝統の一戦と呼ばれる事もある。
- 1904年、アメリカンズ(当時のレッドソックスの名称)とハイランダーズ(当時のヤンキースの名称)によるシーズン最終戦で、ハイランダーズのジャック・チェスブロ投手がサヨナラ暴投し、アメリカンズがリーグ連覇を成し遂げた。
- 1949年のシーズン最終戦でヤンキースと同率首位決戦を行った末、ヤンキースに敗退しリーグ優勝を奪われた。ヤンキースはその後ドジャースを下し、ワールドチャンピオンに輝いている。
- 1978年、レッドソックスが首位を独走していたが、2位ヤンキースが終盤に猛追。最終的に同率首位となり、1ゲームプレーオフを実施。試合はバッキー・デントの本塁打によってヤンキースが逆転勝利し、ヤンキースが優勝。最大14ゲーム差をひっくり返されることとなった。
- 2003年、地区優勝争いでヤンキースに敗れたが、ワイルドカードでプレーオフに進出した。しかし、アメリカンリーグ優勝決定戦で、またしてもヤンキースに激戦の末敗退した。
- 2004年も、前年同様に地区優勝争いでヤンキースに敗れ、ワイルドカードでプレーオフに進出した。リーグ優勝決定戦で、ヤンキースに3連敗しながら4連勝する大激戦を演じてリーグ優勝を決めた。その後、ワールドシリーズでもセントルイス・カージナルスに圧倒的な勢いで4連勝し、1918年以来86年ぶりのワールドシリーズ優勝を果たした。
- 2005年シーズン開幕戦、ヤンキースタジアムで「バンビーノの呪いは解けたのではなく、86年に一度しか優勝できなくなるものだ」と皮肉り、ヤンキースファンによって“2004+86=2090”(次の優勝は2090年以後だ)と書かれたプラカードが見受けられた。しかし3年後の2007年に4連勝でワールドシリーズを制覇したことから、「バンビーノの呪い」が完全にとかれた事を証明する形となった。対するボストンはヤンキースが球界最高年俸のアレックス・ロドリゲスを擁してワールドシリーズを全く制覇できないことから「Aロッドの呪い」として揶揄したが2009年にヤンキースがワールドチャンピオンになり、ロドリゲス自身も大活躍した。
どちらのチームもMLB屈指の人気を誇り、贅潤な資金で数々のスター選手を揃える。2007年シーズンのヤンキースとレッドソックスの年俸総額はそれぞれ2億770万ドルと1億6310万ドルで、MLB1位と2位である。コミッショナーに収めるぜいたく税(課徴金)はヤンキースが2388万ドル、レッドソックスが606万ドルにのぼる[34]。
日本ではヤンキースが最も人気のあるチームと報道されることが多い。確かに観客動員数ではヤンキースが上回っているが、それはヤンキースの本拠地ヤンキー・スタジアムの収容人数57,545人に対して、レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パークは38,805人しか収容できないためである(客席を増やすための改築が現在進行中)。フェンウェイ・パークは入場券の平均価格が2006年春現在、46.46ドル(約5,500円)と9年連続30球団最高であるにもかかわらず456試合連続満員札止め状態(2008年9月8日時点、2003年5月15日から完売が続いている)[35][36]が続き、またビジターゲームでの観客動員はレッドソックスが1位である。そのため、アメリカではMLBで最も人気のある球団はレッドソックスだといわれている。ファンは全米一熱狂的といわれ、2004年のワールドシリーズでは、女子学生が死亡するという事態にまで発展した。
ベーブ・ルースの移籍以来、両チーム間の選手の移籍は禁忌とされ、特にレッドソックスからヤンキースへの移籍はファンから激しい非難を受ける。近年ではデイモンがヤンキースに移籍した際に、フェンウェイ・パークで激しいブーイングを浴びた(他にはボッグス、ブルージェイズを経由したクレメンス、エルズベリーなど)。また、両チームとも資金豊富なことから、選手の争奪戦も激しいものがある。「悪の帝国」発言の発端となったホセ・コントレラスや松坂のように、毎年選手の争奪戦が繰り広げられる。
レッドソックスからヤンキースに移籍した主な選手
[編集]- カール・メイズ
- ベーブ・ルース
- ウェイド・ボッグス
- ラミロ・メンドーサ
- アラン・エンブリー
- マーク・ベルホーン
- ジョニー・デイモン
- ケビン・キャッシュ
- グスタボ・モリーナ
- ジャスティン・トーマス
- アルフレド・アセベス
- ダーネル・マクドナルド
- ジャコビー・エルズベリー
- マット・ソーントン
- スティーブン・ドリュー
- トミー・レイン
- ルイス・ティアント
- ボブ・ワトソン
- ウェイト・ホイト
- ハーブ・ペノック
- レッド・ラフィング
- スパーキー・ライル
選手名鑑
[編集]現役選手・監督・コーチ
[編集]
アメリカ野球殿堂表彰者
[編集]選手
[編集]- ルイス・アパリシオ (Luis Aparicio)
- ウェイド・ボッグス (Wade Boggs)
- ルー・ブードロー (Lou Boudreau)
- ジェシー・バーケット (Jesse Burkett)
- オーランド・セペダ (Orlando Cepeda)
- ジャック・チェスブロ (Jack Chesbro)
- ジミー・コリンズ (Jimmy Collins)
- ジョー・クローニン (Joe Cronin)
- アンドレ・ドーソン (Andre Dawson)
- ボビー・ドーア (Bobby Doerr)
- デニス・エカーズリー (Dennis Eckersley)
- リック・フェレル (Rick Ferrell)
- カールトン・フィスク (Carlton Fisk)
- ジミー・フォックス (Jimmie Foxx)
- レフティ・グローブ (Lefty Grove)
- ハリー・フーパー (Harry Hooper)
- ウェイト・ホイト (Waite Hoyt)
- ファーガソン・ジェンキンス (Ferguson Jenkins)
- ジョージ・ケル (George Kell)
- ヘイニー・マナシュ (Heinie Manush)
- フアン・マリシャル (Juan Marichal)
- ペドロ・マルティネス (Pedro Martinez)
- ハーブ・ペノック (Herb Pennock)
- トニー・ペレス (Tony Perez)
- ジム・ライス (Jim Rice)
- レッド・ラフィング (Red Ruffing)
- ベーブ・ルース (Babe Ruth)
- トム・シーバー (Tom Seaver)
- アル・シモンズ (Al Simmons)
- リー・スミス (Lee Smith)
- ジョン・スモルツ (John Smoltz)
- トリス・スピーカー (Tris Speaker)
- テッド・ウィリアムズ (Ted Williams)
- カール・ヤストレムスキー (Carl Yastrzemski)
- サイ・ヤング (Cy Young)
球団経営者他
[編集]- トム・ヨーキー (Tom Yawkey)
永久欠番
[編集]レッドソックスには永久欠番に関する規定が存在する。
- レッドソックスに10年以上在籍
以前は、「レッドソックスでキャリアを終結した」および「アメリカ野球殿堂入り」という条件も存在していたが、2000年、シカゴ・ホワイトソックスでキャリアを終え、同年殿堂入りを果たしたカールトン・フィスクの背番号『27』が永久欠番に指定され、キャリア終結条件が廃止された[37]。また、2008年、殿堂入りしていないジョニー・ペスキーの背番号『6』が永久欠番に指定されたことにより、殿堂入り条件も廃止された。
番号 | 選手 | ポジション | 備考 |
---|---|---|---|
1 | ボビー・ドーア (Bobby Doerr) | 二塁手 | 1988年指定 |
4 | ジョー・クローニン (Joe Cronin) | 遊撃手 | 1984年指定[38] |
6 | ジョニー・ペスキー (Johnny Pesky) | 内野手 | 2008年指定 |
8 | カール・ヤストレムスキー (Carl Yastrzemski) | 外野手 | 1989年指定 |
9 | テッド・ウィリアムズ (Ted Williams) | 外野手 | 1984年指定[39] |
14 | ジム・ライス (Jim Rice) | 外野手・指名打者 | 2009年指定 |
26 | ウェイド・ボッグス (Wade Boggs) | 三塁手 | 2016年指定 |
27 | カールトン・フィスク (Carlton Fisk) | 捕手 | 2000年指定 |
34 | デビッド・オルティーズ (David Ortiz) | 指名打者・一塁手 | 2017年指定 |
42 | ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson) | 二塁手 | 全球団共通の永久欠番[40] |
45 | ペドロ・マルティネス (Pedro Martinez) | 投手 | 2015年指定 |
キャプテン
[編集]- ジミー・コリンズ (1901-1905)
- チック・スタル (1906)
- ボブ・アングローブ (1907)
- ディーコン・マグワイア (1908)
- ドク・ゲスラー (1909)
- ロード・ハリー (1910)
- ヘイニー・ワグナー (1911,1913-1914)
- ジェイク・スタール (1912)
- ジャック・バリー (1915-1917)
- ディック・ホビットゼル (1918)
- ハリー・フーパー (1919-1920)
- エベレット・スコット (1921)
- デル・プラット (1922)
- ジョージ・バーンズ (1923)
- マイク・メノスキー (1923)
- ジミー・フォックス (1940-1942)
- カール・ヤストレムスキー (1966,1969-1983)
- ジム・ライス (1985-1989)
- ジェイソン・バリテック (2005-2011)
歴代所属日本人選手
[編集]- 53・18 大家友和(1999 - 2001)
- 11 野茂英雄(2001)
- 37 岡島秀樹(2007 - 2011)
- 18 松坂大輔(2007 - 2012)
- 24 斎藤隆(2009)
- 63・36 田澤純一(2009、2011 - 2016)
- 19 上原浩治(2013 - 2016)
- 19 澤村拓一(2021 - )
ボストン・レッドソックス殿堂
[編集]ボストン・レッドソックス殿堂 (Boston Red Sox Hall of Fame) は少なくとも3シーズンをレッドソックスで過ごし、引退してから3年以上が経過している選手が対象となる[41]。ユニフォームを着用しない球団職員経験者に関しては満場一致が殿堂入りの条件となる[41]。
殿堂入り表彰者
[編集]ボストン・レッドソックス殿堂は1995年に設立され、2019年度の選考が終わった時点で96人が選出されている。1995年の選出メンバーのうち16人は殿堂が出来る前にアメリカ野球殿堂で表彰を受けており、自動的に殿堂入りが認められた[41]。太字はアメリカ野球殿堂入りも果たした人物。
- エディ・コリンズ(1995年)
- ジミー・コリンズ(1995年)
- ジョー・クローニン(1995年)
- ボビー・ドーア(1995年)
- ジミー・フォックス(1995年)
- レフティ・グローブ(1995年)
- ハリー・フーパー(1995年)
- リック・フェレル(1995年)
- ハーブ・ペノック(1995年)
- レッド・ラフィング(1995年)
- ベーブ・ルース(1995年)
- トリス・スピーカー(1995年)
- テッド・ウィリアムズ(1995年)
- カール・ヤストレムスキー(1995年)
- トム・ヨーキー(1995年)
- サイ・ヤング(1995年)
- トニー・コニグリアロ(1995年)
- ドム・ディマジオ(1995年)
- フランク・マルゾーン(1995年)
- ジョニー・ペスキー(1995年)
- ジム・ライス(1995年)
- スモーキー・ジョー・ウッド(1995年)
- ジーン・R・ヨーキー(1995年)
- カールトン・フィスク(1997年)
- ディック・オコンネル(1997年)
- メル・パーネル(1997年)
- リコ・ペトロセリ(1997年)
- ディック・ラディッツ(1997年)
- ルイス・ティアント(1997年)
- カート・ガウディ(2000年)
- ケン·コールマン(2000年)
- ドワイト・エバンス(2000年)
- ラリー・ガードナー(2000年)
- ジャッキー・ジェンセン(2000年)
- ネッド・マーティン(2000年)
- ビル・マンボウクエッター(2000年)
- レジー・スミス(2000年)
- ボブ・スタンリー(2000年)
- リック・バールソン(2002年)
- デーブ・フェリス(2002年)
- ルー・ゴーマン(2002年)
- ジョン・ハリントン(2002年)
- テックス・ヒューソン(2002年)
- ダフィー・ルイス(2002年)
- ジム・ロンボーグ(2002年)
- フレッド・リン(2002年)
- ウェイド・ボッグス(2004年)
- ビル・カーリガン(2004年)
- デニス・エカーズリー(2004年)
- ビリー・グッドマン(2004年)
- ブルース・ハースト(2004年)
- ベン・モンダー(2004年)
- ピート・ラネルズ(2004年)
- ヘイウッド・サリバン(2004年)
- ディック・ブレッシアーニ(2006年)
- エリス・カインダー(2006年)
- ジョー・モーガン(2006年)
- ジェリー・レミー(2006年)
- ジョージ・スコット(2006年)
- バーン・スティーブンス(2006年)
- ディック・ウィリアムズ(2006年)
- ジョージ・J・ディグビー(2008年)
- ウェス・フェレル(2008年)
- マイク・グリーンウェル(2008年)
- エドワード・F・ケニー・シニア(2008年)
- ビル・リー(2008年)
- エベレット・スコット(2008年)
- フランク・サリバン(2008年)
- モー・ボーン(2008年)
- ジョン・バレンティン(2010年)
- ドン・ジマー(2010年)
- トミー・ハーパー(2010年)
- エディ・カスコ(2010年)
- ジミー・ピアソール(2010年)
- マーティー・バレット(2012年)
- エリス・バークス(2012年)
- ジョー・ドブソン(2012年)
- ダッチ・レナード(2012年)
- ジョン・ムーニー(2012年)
- カート・シリング(2012年)
- ジョン・I・テイラー(2012年)
- ロジャー・クレメンス(2014年)
- ペドロ・マルティネス(2014年)
- ノマー・ガルシアパーラ(2014年)
- アイラ・フラッグステッド(2016年)
- ラリー・ルキーノ(2016年)
- ジェイソン・バリテック(2016年)
- ティム・ウェイクフィールド(2016年)
- バック・フリーマン(2018年)
- パンプシー・グリーン(2018年)
- デレク・ロウ(2018年)
- マイク・ローウェル(2018年)
- ケビン・ユーキリス(2018年)
- ビル・ディニーン(2019年)
- ダン・デュケット(2019年)
- リッチ・ゲドマン(2019年)
- デビッド・オルティーズ(2019年)
- マニー・ラミレス(2019年)
傘下マイナーチーム
[編集]- ポートランド・シードッグス のホーム球場であるハドロック・フィールドは、レッドソックスのホーム球場であるフェンウェイ・パークと造りが似ている。レフトには、フェンウェイ・パークの「グリーンモンスター」と全く同じ高さの約11.3メートルの「メーンモンスター」がある。
公式応援歌
[編集]ドロップキック・マーフィーズが歌う「Tessie」がチームの公式応援歌となっている。この曲自体は1902年初演のブロードウェーミュージカル「銀のスリッパ(The Silver Slipper)」の劇中歌だった。1903年にアメリカンズが初めてワールドシリーズを制覇した時にチームの私設ファンクラブ「ロイヤル・ルーターズ」がこの曲を歌ったこと(この経緯はドロップキック・マーフィーズ版の冒頭でも触れられている)が「Tessie」とレッドソックスの関係の始まりである。
ドロップキック・マーフィーズはボストンを拠点に活動しており、メンバー全員がレッドソックスのファンだが、この曲自体はレッドソックスに依頼されて歌ったものではない。そもそもは、2004年6月に先述の経緯で「Tessie」が歌われ始めてから100周年を記念したトリビュートソング(カバーではないのでテンポや後述の様に歌詞の一部が異なる)として発表したものだった。
ところがこの年、レッドソックスが86年振りにワールドチャンピオンになり、初めて歌った「ロイヤル・ルーターズ」が再び「Tessie」を歌ったことで一気にこの曲に注目が集まった。そしてこの曲とレッドソックスとの歴史的な背景もあってドロップキック・マーフィーズ版が公式の応援歌に制定された。
尚、ドロップキック・マーフィーズ版は原曲と歌詞が変わっている。以下がその例である
- "Don't blame us if we ever doubt you.
You know we couldn't live without you.
Red Sox, you are the only only only"
- (どんなにお前を疑おうとも、非難しないでおくれ。
知ってるだろ、俺たちがお前なしでは生きれないことを。
俺たちには、レッドソックスしかないのだから…)
これはサビの一部である。「レッドソックス」の部分は原曲では「Tessie」となっている。
また、サビで何度も登場する"Nuf Ced"は1903年当時のロイヤル・ルーターズのリーダーで「Tessie」を歌い始めたマイケル・T・マグリーヴィーの愛称である。
現在ではホームでレッドソックスが勝つと試合後に本曲が流れる。
チームマスコットのウォーリー・ザ・グリーンモンスターの妹分の名前が「Tessie」であるのは本曲のタイトルが由来である[42]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 「歴史が動いた日-1947年7月5日 ア・リーグ初の黒人選手、ドビーがメジャーデビュー」『月刊スラッガー』2008年1月号、日本スポーツ企画出版社、2007年、雑誌15509-1、92-94頁。
- ^ 北米の他のプロスポーツでも1942年のトロント・メイプルリーフス、1975年のニューヨーク・アイランダーズ、2010年のフィラデルフィア・フライヤーズ(いずれもNHL)の3例のみ。
- ^ “WORLD SERIES MVP DAVID ORTIZ” (英語). iHigh.com. 2013年10月31日閲覧。
- ^ “Red Sox to retire Papi's No. 34 next year” (英語). 2016年10月13日閲覧。
- ^ “Tribute to David Ortiz includes plan to retire his number” (英語). bostonglobe.com. Boston Globe Media Partners, LLC. 13 October 2016閲覧。
- ^ Ian, Browne. “Red Sox release manager John Farrell after five seasons”. MLB.com. October 13, 2017閲覧。
- ^ “Alex Cora Hired as Red Sox’ Manager” (英語) 2018年10月30日閲覧。
- ^ “Red Sox acquire Steve Pearce from Blue Jays” (英語). MLB.com. 2018年10月30日閲覧。
- ^ “Red Sox trade for Nathan Eovaldi” (英語). MLB.com. 2018年10月30日閲覧。
- ^ “Ian Kinsler traded to Red Sox” (英語). MLB.com. 2018年10月30日閲覧。
- ^ “レッドソックス圧勝、ホルトが歴史的サイクル達成 - MLB : 日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com 2018年10月30日閲覧。
- ^ “レッドソックス5年ぶりV アストロズ連覇の夢消滅 - MLB : 日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com 2018年10月30日閲覧。
- ^ “リーグ優勝決定シリーズMVPは3戦連発ブラッドリーJr.「言葉にならないよ」” (日本語). Full-count | フルカウント ―野球・MLBの総合コラムサイト― 2018年10月30日閲覧。
- ^ “ドジャース対レッドソックス、102年ぶり対決 - MLB : 日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com 2018年10月30日閲覧。
- ^ “ドジャース18回サヨナラ!/Wシリーズ第3戦詳細 - MLB : 日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com 2018年10月30日閲覧。
- ^ “【MLB】レッドソックスが驚異の逆転劇で世界一に王手 ドジャース前田健太は4点を献上|ニフティニュース” (日本語). ニフティニュース 2018年10月30日閲覧。
- ^ “【ワールドシリーズ】レッドソックスが5-1でドジャースを下し5年ぶり9度目の世界一|ニフティニュース” (日本語). ニフティニュース 2018年10月30日閲覧。
- ^ “レッドソックス世界一 コーラ監督際立つ柔軟性 - MLB : 日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com 2018年10月30日閲覧。
- ^ “連覇を逃し、失意のレッドソックス指揮官「出遅れが響いた」”. ベースボールチャンネル(BaseBall Channel). 2019年9月23日閲覧。
- ^ “レッドソックスにサイン盗み疑惑発覚”. スポーツ報知. 2020年1月8日閲覧。
- ^ “Red Sox part ways with manager Alex Cora” (英語). MLB.com. 2020年5月7日閲覧。
- ^ “レッドソックスが18年WSで“裏切り”のサイン盗み 17年に再犯しない覚書も…当時の選手3人が証言”. Yahoo!ニュース. 2020年4月23日閲覧。
- ^ “選手は誰1人処分を受けず! サイン盗み行為は誰のために行われていたものなのか?”. Yahoo!ニュース 個人. 2020年4月23日閲覧。
- ^ “【MLB】サイン盗み疑惑 Rソックスにドラフト指名権剥奪などの処分(MLB.jp)”. Yahoo!ニュース. 2020年5月7日閲覧。
- ^ “レッドソックス、レネキー氏が正式に監督就任 - MLB : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2020年5月7日閲覧。
- ^ Cotillo, Chris (February 17, 2020). “Boston Red Sox say Mookie Betts trade not a salary dump: ‘You don’t trade Mookie Betts to get under the CBT’” February 23, 2020閲覧。
- ^ “Sox Minor Leaguer tests positive for COVID-19”. MLB.com (2020年3月24日). 2020年3月26日閲覧。
- ^ “2020 Boston Red Sox Statistics”. Baseball-Reference.com. September 28, 2020閲覧。
- ^ “Ron Roenicke let go as Boston Red Sox manager; team will begin search immediately”. Masslive.com (September 27, 2020). September 27, 2020閲覧。
- ^ “サイン盗みで処分のコーラ氏がレッドソックス監督に復帰へ”. スポーツ報知 (2020年11月7日). 2020年11月7日閲覧。
- ^ Ian Browne (April 1, 2021). “Sox-O's postponed to Friday due to rain” (英語). MLB.com. April 9, 2021閲覧。
- ^ Ian Browne (May 7, 2021). “Red Sox first to 20 wins as Dalbec breaks out” (英語). MLB.com. May 8, 2021閲覧。
- ^ Andrew Simon (September 2, 2021). “Dalbec, Schwindel top rookies for August” (英語). MLB.com. September 3, 2021閲覧。
- ^ スポーツビジネス from NY 『ヤンキースとレッドソックスに“ぜいたく税”』 鈴木友也
- ^ レッドソックス本拠地、455試合連続完売 メジャー記録に並ぶ 米大リーグ
- ^ レッドソックス主催試合が連続完売 足掛け6年、メジャー記録を更新
- ^ レッドソックス公式ページ
- ^ レッドソックス初の永久欠番
- ^ レッドソックス初の永久欠番
- ^ 1997年指定
- ^ a b c “Red Sox Hall of Fame” (英語). The Official Site of the Boston Red Sox. MLB.com. 2014年2月18日閲覧。
- ^ “Wally The Green Monster's Sister Tessie Is Coming To Boston”. boston.cbslocal.com. CBS Boston (January 5, 2016). March 30, 2017閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 公式ウェブサイト
- レッドソックス野球殿堂サイト
- 歴代チームキャプテン
- チームの通算成績と情報 MLB, or ESPN, or Baseball-Reference , or The Baseball Cube
- Boston Red Sox (RedSox) - Facebook
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