備中国
備中国 | |
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■-備中国 ■-山陽道 | |
別称 | 備州(びしゅう)[注釈 1] |
所属 | 山陽道 |
相当領域 | 岡山県の西部 |
諸元 | |
国力 | 上国 |
距離 | 中国 |
郡・郷数 | 9郡72郷 |
国内主要施設 | |
備中国府 | 岡山県総社市 |
備中国分寺 | 岡山県総社市(備中国分寺跡) |
備中国分尼寺 | 岡山県総社市(備中国分尼寺跡) |
一宮 | 吉備津神社(岡山県岡山市) |
備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。
「備中」の名称
[編集]飛鳥池遺跡木簡に「吉備道中国」、飛鳥藤原宮の木簡に「吉備中国」と表記されている。
領域
[編集]明治維新の直前の領域は、岡山県井原市、総社市、高梁市、新見市、浅口市、都窪郡(早島町)、浅口郡(里庄町)、小田郡(矢掛町)の全域および岡山市の一部(北区のうち概ね納所、川入、東花尻、西花尻、平野、延友より南西[注釈 2]および真星、上高田、山上、石妻、杉谷、日近、足守、下足守、高松稲荷、平山、立田、加茂より南西[注釈 3]、南区大福・古新田・妹尾崎・山田・妹尾・箕島)、倉敷市の大部分(水島福崎町、水島東千鳥町、水島東常盤町、水島東栄町、水島東弥生町、水島東寿町、水島相生町、福田町浦田、浦田、黒石、粒浦、有城、藤戸町天城、藤戸町藤戸より南東を除く)、笠岡市の大部分(用之江の一部を除く)、真庭市の一部(阿口、五名、山田、宮地以南[注釈 4])、加賀郡吉備中央町の一部(豊野、田土、湯山、吉川、上野、竹部以西)にあたる。
沿革
[編集]7世紀後半に、吉備国を備前国、備中国、備後国に三分して設けられた。はじめのうち、吉備道に属する一国とされたらしく、吉備道中国(きびのみちのなかつくに)と書いた木簡が見つかっている。また平安時代の『和名類聚抄』でも、備中国の和訓を「きびのみちのなかつくに」としている。
古代から開発が進んだ先進地帯で、鉄産地でもあった。造山古墳と作山古墳があることなどから、吉備の最有力豪族の拠点だったと推定される。その後も瀬戸内海に面した交通の要を占め、天智天皇の時代に鬼ノ城が築かれた。律令制では上国とされた。 管下に都宇、窪屋、浅口、小田、後月、下道、賀夜、英賀、哲多の9郡がおかれた。後に鎌倉時代のころ、賀陽郡の一部を割いて上房郡、下道郡の一部を割いて川上郡が置かれ11郡となった。
備中国には山陽道の駅家は、津峴(つさか)、河辺(かわのべ)、小田、後月(しつき)の4駅が置かれた(『延喜式』兵部)。
平安時代末には、妹尾兼康という武士が出、十二か郷用水を開いて村々を潤した。兼康は中央の政治では平家に忠実な家人として活躍し、最後は備中国板倉で源義仲に敗れて死んだ。
室町時代、備中国は細川氏が代々守護であったが、その影響力は早くから絶対的とは言い難く、守護代、庄氏・石川氏・上野氏や三村氏を初めとする有力地頭など国人衆の独立性が強かった。戦国時代中期には、尼子氏・大内氏の係争地となっていたが、1560年頃には毛利氏と同盟した三村氏(備中松山城を本拠とした)が備中国の支配をほぼ手中にした。しかし、その三村氏も1575年に織田信長の誘いを受けて毛利氏と対立するに至り、毛利氏によって滅ぼされた(備中兵乱)。さらに羽柴秀吉を先鋒に織田信長が進出してくると、備中国高松城が織田・毛利両軍の対峙の場になった。織田信長の死による講和で、毛利輝元は備中の三郡を譲り、残りを保持することになった。
江戸時代の備中国は、数多い知行地に分割領有された。元和3年(1617年)まで、幕府は備中国奉行を派遣して広域統治にあたらせた。その後の江戸時代初期には隣接の備後福山藩水野氏の領として現在の笠岡市や井原市の大半が領地であったりし、他の備中国の小藩には、備中松山藩(池田氏、水谷氏を経て板倉氏)、成羽藩(山崎氏)、岡田藩(伊東氏)、足守藩(木下氏)、庭瀬藩(戸川氏、後に板倉氏)、浅尾藩(蒔田氏)があった。以上は断絶や転封で様々に変遷した。現在の高梁市にある松山城が備中国唯一の城で、残りは陣屋を構えた。松山城下は江戸時代はじめに備中国で最大の人口規模を抱えた。
倉敷は、城下町ではなかったが、徳川氏政権の直轄地として代官所が置かれ、幕府によって備前国から讃岐国に移管された小豆島なども統治した。江戸時代を通じて発展を続けた倉敷は、松山と肩を並べ、やがてこれを凌駕して備中最大の都市となって現在に至る。現在の倉敷市西部にあたる玉島は、瀬戸内海の流通と結びついた備中松山藩の海港として栄えた。備中では綿作が広まり、江戸時代後期になるとその加工も盛んになった。また、製鉄もなお重要であり続けた。
幕府調査による人口は、文政5年(1822年)が33万7155人であった。明治政府の明治5年(1872年)の調査による人口は、39万6880人であった。
近世以降の沿革
[編集]- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(584村・384,279石)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。特記以外の幕府領は倉敷代官所が管轄。
- 都宇郡(52村・35,935石余) - 幕府領、旗本領、岡山新田藩(生坂)、庭瀬藩
- 窪屋郡(60村・44,857石余) - 幕府領、旗本領、岡山新田藩(生坂)、岡山新田藩(鴨方)、浅尾藩、備前岡山藩
- 小田郡(78村・37,687石余) - 幕府領、旗本領、一橋徳川家領、庭瀬藩、新見藩、岡山新田藩(鴨方)、摂津麻田藩
- 阿賀郡(48村・33,232石余) - 幕府領、旗本領、新見藩、松山藩、伊勢亀山藩
- 後月郡(39村・18,432石余) - 幕府領(一部は大森代官所が管轄)、旗本領、一橋徳川家領、摂津麻田藩
- 浅口郡(63村・58,447石余) - 幕府領、旗本領、岡山新田藩(鴨方)、浅尾藩、新見藩、松山藩、丹波亀山藩、摂津麻田藩、備前岡山藩
- 賀陽郡(82村・50,551石余) - 幕府領、旗本領、足守藩、庭瀬藩、浅尾藩、松山藩、備前岡山藩
- 下道郡(29村・26,253石余) - 岡田藩、松山藩、備前岡山藩
- 上房郡(32村・24,735石余) - 一橋徳川家領、松山藩、伊勢亀山藩
- 哲多郡(34村・22,949石余) - 幕府領、松山藩、新見藩
- 川上郡(67村・31,196石余) - 幕府領(一部は大森代官所が管轄)、旗本領、松山藩、備後福山藩
- 慶応4年
- 明治元年12月7日(1869年1月19日) - 松山藩が戊辰戦争後の処分により減封。浅口郡・哲多郡・阿賀郡の全領地、賀陽郡・上房郡・川上郡の一部の領地が倉敷県の管轄となる。
- 明治2年
- 明治3年
- 明治4年
- 明治5年6月5日(1872年7月10日) - 小田県の管轄となる。
- 明治8年(1875年)12月20日 - 第2次府県統合により岡山県の管轄となる。
国内の施設
[編集]国府
[編集]備中国府は、文献によると賀夜郡の所在と見える。総社市金井戸付近に国府・北国府・南国府・国府西などの字名が残ることから同地に推定されるが、具体的な所在地は不詳[1]。伝承地は「伝備中国府跡」として総社市指定史跡に指定されている(北緯34度40分58.49秒 東経133度46分29.98秒 / 北緯34.6829139度 東経133.7749944度)。
国分寺・国分尼寺
[編集]- 備中国分寺跡(総社市上林、北緯34度39分59.08秒 東経133度46分55.77秒 / 北緯34.6664111度 東経133.7821583度)
- 備中国分尼寺跡(総社市上林字皇塚、北緯34度40分2.15秒 東経133度47分18.1秒 / 北緯34.6672639度 東経133.788361度)
- 国の史跡。僧寺の東方に位置する。寺域は東西108メートル・南北216メートルで、金堂・講堂・中門・南門といった主要伽藍の遺構が見つかっている。僧寺より早く廃絶したと見られる。
神社
[編集]- 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[1]。
- 総社:備中国総社宮(総社市総社2丁目、北緯34度40分34.2秒 東経133度45分16.3秒 / 北緯34.676167度 東経133.754528度)
- 一宮:吉備津神社(岡山市北区吉備津、北緯34度40分14.4秒 東経133度51分02.2秒 / 北緯34.670667度 東経133.850611度)
二宮以下はなし[1]。ただし、皷神社(岡山市上高田)の社伝では同社を二宮とする[2]。
地域
[編集]郡
[編集]江戸時代の藩
[編集]- 新見藩、関家(1.8万石)
- 備中松山藩、池田家(6.5万石)→水谷家(5万石)→安藤家(6.5万石)→石川家(6万石)→板倉家(5万石→2万石)
- 成羽藩、山崎家(3万石)→水谷家(5万石)→旗本山崎家(5千石)
- 浅尾藩、蒔田家(1万石→8,310石→7,700石→1万石)
- 足守藩、木下家(2.5万石)→浅野家(2.4万石)→木下家(2.5万石)
- 岡田藩、伊東家(10,343石)
- 庭瀬藩、戸川家(2.9万石→2.25万石→2.1万石→2万石)→久世家(5万石)→藤井松平家(3万石)→板倉家(2万石)
- 生坂藩(岡山藩支藩、1.5万石)
- 鴨方藩(岡山藩支藩、2.5万石)
- 西江原藩、森家(2万石)→赤穂藩へ転封
人物
[編集]国司
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備中守
[編集]- 市原王
- 藤原魚名:天平宝字2年(758年)任官
- 藤原縄麻呂:天平宝字3年(759年)任官
- 道守王:天平宝字7年(763年)任官
- 日置道形:780年頃任官
- 藤原園人:天応元年(781年)任官
- 紀深江:835年頃
- 春澄善縄:承和15年(848年)任官
- 源多:仁寿3年(853年)頃任官
- 源融:斉衡4年(857年)任官
- 源舒:貞観6年(864年)任官(権守)
- 藤原保則:貞観8年(866年)任官(権守)、後に守
- 源直:貞観19年正月15日(877年2月1日)任官
- 藤原有実:昌泰2年(899年)任官
- 在原友子:延喜元年(901年)任官
- 三善清行:延喜6年(906年)任官
- 藤原在衡:天慶5年(942年)任官
- 藤原朝忠:天徳2年(958年)任官
- 小野好古:天徳4年(960年)任官
- 源重信:応和元年(961年)任官
- 藤原伊尹:応和3年(963年)任官
- 藤原陳政:正暦3年(992年)任官
- 源経房:長徳3年(997年)任官
- 源成信:長保3年(1001年)任官
- 藤原忠輔:長保4年(1002年)任官
- 藤原兼隆:寛弘6年(1009年)任官
- 橘儀懐:寛弘8年(1011年)任官
- 藤原頼宗:長和3年(1014年)任官
- 藤原知光:長和4年(1015年)任官
- 藤原済家:治安元年(1021年)任官
- 源行任:治安3年(1023年)任官
- 藤原邦恒:万寿4年(1027年)任官
- 源資綱:長元7年(1034年)任官
- 藤原兼房:長元8年(1035年)任官
- 藤原師成:寛徳2年(1045年)任官
- 藤原憲輔:康平2年(1059年)任官
- 藤原実政:延久元年(1069年)任官
- 藤原仲実:永保元年(1081年)任官
- 藤原重通:永久2年(1114年)任官
- 藤原親信:1150年頃
- 平師盛:治承3年(1179年)任官
- 陶山清直 : 正慶2年 任官[注釈 5]
- 秋庭氏 : 観応3年(1352年)頃[注釈 6]
- 多治部師景 : 貞治3年(1364年)~永和元年(1374年)頃[注釈 7]
- 陶山氏 : 嘉慶元年(1387~88)頃[3]
- 楢崎氏 : 文明11年(1479年)頃[注釈 8]
- 新見氏 : 明応2年(1493年)、大永7年(1527年)
備中介
[編集]備中掾
[編集]守護
[編集]鎌倉幕府
[編集]- 1184年~? - 土肥実平
- 1276年~1279年 - 北条氏
室町幕府
[編集]- 1343年~1351年 - 南宗継
- 1352年~1355年 - 秋庭氏
- 1356年~1362年 - 細川頼之
- 1362年~? - 高師秀
- 1364年~1365年 - 宮兼信(備後国吉備津神社社家)
- 1365年~1375年 - 渋川義行
- 1375年~1393年 - 渋川満頼
- ?~1381年 - 石堂氏
- 1390年~1392年 - 細川頼之
- 1392年~1405年 - 細川満之
- 1405年~1430年 - 細川頼重
- 1430年~1460年 - 細川氏久
- 1460年~1493年 - 細川勝久
- 1511年~1512年 - 細川之持
- 1515年~1518年 - 細川政春
- 1552年~1561年 - 尼子晴久
- 1562年~1563年 - 毛利隆元
国人
[編集]- 英賀郡
- 哲多郡
- 上房郡
- 秋庭氏 - 有漢郷。守護・備中守を務め、細川京兆家内衆へ。
- 川上郡
- 賀夜郡
- 野山氏 - 本姓伊達氏。
- 小田郡
- 都宇郡
- 後月郡
- 下道郡
- 浅口郡
戦国大名
[編集]- 三村氏 - 家親が備中を制覇し、備前・美作にも進出したが暗殺され、子元親は織田政権と結んで毛利氏に反し、滅ぼされた。
- 宇喜多氏 - 三村氏と抗争しつつ備前から進出。
- 尼子氏 - 庄氏と結び備中を支配下においたが、三村氏に追われた。
- 毛利氏 - 備中兵乱で三村氏を滅ぼし直接支配下に置いた。
織豊大名
[編集]- 毛利輝元 - 中国国分により、高梁川以西を領知。
- 宇喜多秀家 - 中国国分により、高梁川以東を領知。
- 伊東長実 - 小田原征伐の功により天正19年(1591年)に川辺1万300石を与えられる。子孫は同地にて岡田藩主として続く。
武家官位としての備中守
[編集]江戸時代以前
[編集]- 熊谷直国:鎌倉幕府御家人。平家物語で有名な熊谷直実の孫
- 佐々木頼綱(六角頼綱):鎌倉幕府御家人、近江守護
- 六角満高:南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。近江守護
- 陶山氏 : 任官の後、世襲官途。陶山備中入道(『文安年中御番帳』)など。
- 多治部氏 : 南朝による任官の後、世襲官途
- 楢崎氏 : 任官の後、世襲官途。任官直前まで備前守を世襲官途としていた[6]。
- 石川通経 : 享禄3年(1530年)
- 庄為資 : 天文2年(1533年)
- 庄高資 : 元亀元年(1570年)
- 三村家親 : 元亀2年(1571年)
- 伊勢氏 : 惣領家と備中伊勢氏双方。貞國が初例。盛貞・貞藤・貞達・貞陸など。世襲官途[注釈 9]。
- 伊勢盛定:室町幕府将軍申次。北条早雲の父
- 太田資清:相模守護代、太田道灌の父
- 太田道灌:扇谷上杉家の家宰。江戸城を築城
- 小山田虎満(小山田備中守):甲斐武田家の家臣
- 塙直政:天正3年(1575年)任官。織田氏の家臣
- 片倉景綱(片倉小十郎):伊達政宗の軍師
- 安芸毛利氏当主
江戸時代
[編集]- 阿部家宗家
- 遠江掛川藩太田家
- 上総一宮藩加納家
- 近江小室藩小堀家
- 伊勢菰野藩土方家
- 上総大多喜藩大河内松平家本家
- 和泉伯太藩渡辺家
- その他
- 井伊直禔:近江彦根藩第10代藩主
- 池田長吉:因幡鳥取藩初代藩主
- 池田長幸:鳥取藩第2代藩主、備中松山藩初代藩主
- 板倉勝行:陸奥福島藩第6代藩主
- 京極高富:丹後峰山藩第11代藩主
- 京極高陳:峰山藩第12代藩主
- 酒井忠解:出羽大山藩初代藩主
- 佐久間勝豊:信濃長沼藩3代藩主
- 堀田正俊:正俊系堀田家初代。上野安中藩、下総古河藩初代藩主・老中・大老
- 堀田正睦:正俊系堀田家9代。下総佐倉藩第5代藩主・老中首座
- 牧野貞長:成貞系牧野家5代。常陸笠間藩第2代藩主・老中
- 牧野貞喜:成貞系牧野家6代。笠間藩第3代藩主
- 増山正同:伊勢長島藩第8代藩主
- 松平定静:伊予松山藩8代藩主
- 松平直堅:越後糸魚川藩祖
- 松平康員:石見浜田藩第3代藩主
- 三宅康和:三河田原藩第9代藩主
備中国の合戦
[編集]- 1183年:水島の戦い、源義仲軍(源義清) x 平家軍(平重衡・平通盛)
- 1574年 - 1575年:備中兵乱、毛利・宇喜多軍(小早川隆景、宇喜多直家) x 三村元親
- 1582年:備中高松城の戦い、織田軍(羽柴秀吉) x 毛利軍(清水宗治)
産物
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 別称「備州」は備前国・備中国・備後国の総称としての呼称。
- ^ 吉備地域。住居表示実施地区の境界については未詳。
- ^ 足守地域・高松地域。
- ^ 旧・上房郡北房町。
- ^ 反幕府の赤松勢を撃破した戦功。光厳天皇による臨時宣下で河野九郎通治が対馬守に任ぜられたのと同時任官。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年
- ^ 重明か。守護・国司兼帯。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年
- ^ 南朝による任官と推定されている。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年
- ^ 室町幕府御教書。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年
- ^ 「其はじめ一たび此國に任ぜられしより、遂に空名ながら代々の通称」として世襲した。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年
出典
[編集]参考文献
[編集]- 藤井学・狩野久・竹林榮一・倉知克直・前田昌義『岡山県の歴史』、(県史33)山川出版社、2000年。
- 田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』法制史研究 (39), p61-89 1989年
- 『国税調査以前日本人口統計集成』第1巻および別巻1、内務省編纂、速水融復刻解題、東洋書林、1992年
- 角川日本地名大辞典 34 広島県
- 旧高旧領取調帳データベース