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海部 俊樹 かいふ としき | |
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生年月日 | 1931年1月2日(93歳) |
出生地 | 日本 愛知県名古屋市 |
出身校 |
早稲田大学法学部 早稲田大学大学院法学研究科修士課程中途退学 |
前職 | 政治家秘書 |
現職 |
日本ソフトテニス連盟会長 大正琴協会理事長 日本ティーボール協会会長 |
所属政党 |
(自由民主党→) (高志会→) (自由改革連合→) (新進党→) (無所属の会→) (自由党→) (保守党→) (保守新党→) 自由民主党 |
称号 |
桐花大綬章 名誉愛知県民章 法学士(早稲田大学・昭和29年) |
サイン | |
公式サイト | 海部俊樹オフィシャルホームページ |
第76-77代 内閣総理大臣 | |
内閣 |
第1次海部内閣 第2次海部内閣 第2次海部改造内閣 |
在任期間 | 1989年(平成元年)8月10日 - 1991年(平成3年)11月5日 |
天皇 | 今上天皇(明仁) |
第95代 大蔵大臣 | |
内閣 | 第2次海部改造内閣 |
在任期間 | 1991年(平成3年)10月14日 - 1991年(平成3年)11月5日 |
第107代 文部大臣 | |
内閣 | 第2次中曾根第2次改造内閣 |
在任期間 | 1985年(昭和60年)12月28日 - 1986年(昭和61年)7月22日 |
内閣 | 福田赳夫内閣 |
在任期間 | 1976年(昭和51年)12月24日 - 1977年(昭和52年)11月28日 |
選挙区 |
(旧愛知県第3区→) 愛知県第9区 |
当選回数 | 16回 |
在任期間 | 1960年(昭和35年)11月20日 - 2009年(平成21年)7月21日 |
海部 俊樹(かいふ としき、1931年(昭和6年)1月2日 - )は、日本の政治家。勲等は桐花大綬章。
衆議院議員(16期)、自由民主党国会対策委員長(第21代)、文部大臣(第98・107代)、自由民主党総裁(第14代)、内閣総理大臣(第76・77代)、大蔵大臣(第95代)、新進党党首(初代)などを歴任した。
概要
[編集]河野金昇の秘書を経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙にて全国最年少で当選、以降連続当選16期。「クリーン三木」の秘蔵っ子として、官房副長官や文部大臣などを歴任する。ネオ・ニューリーダーとして注目を浴びるも、保守傍流の三木派・河本派に所属するため、総理には遠いと見られていたが、宇野宗佑の退陣後、クリーンなイメージを買った竹下登ら経世会の支持を得て1989年に第76代内閣総理大臣に就任した。昭和生まれの初の総理である。
在任中は湾岸戦争や冷戦の終結などの国際情勢の変化に対処した。政治改革三法の成立に尽力するも、自民党内の猛反対に合い退陣。村山内閣の成立に反対して自民党を離党、新進党を結成し党首に就任した。その後、自由党や保守新党などを経て自民党に復党するも、2009年の第45回衆議院議員総選挙で政界を引退する。
来歴・人物
[編集]政界入りまで
[編集]生い立ち
[編集]1931年(昭和6年)1月2日、名古屋市東区東桜一、旧七曲町にあった実家にて、「中村写真館」を経営する愛知県写真師協会会長の海部誠也と母富さの間に6人兄弟の長男として生まれる[1][2]。
1943年に名古屋市立南久屋国民学校を卒業後[3]、旧制東海中学(現・東海中学校・高等学校)に入学する。旧制愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)に落ちて挫折を味わった。学校では学徒動員で名古屋市東区大幸にあった三菱重工で飛行機エンジンの部品作りに携わる。1945年の春には空襲で自宅に焼夷弾が直撃して家が焼けたため、母親の知り合いを頼って平和村に疎開したが、西枇杷島町にあった三菱重工へ通い、再び飛行機エンジンの部品の製造に携わった[4]。少年航空隊に応募するも、入隊予定の1945年10月を前に終戦となる[5]。
旧東海中学では弁論に魅せられて県内の弁論大会・全国大会でも優勝し、校内に弁論部をつくった。後輩には後に建築家となる黒川紀章がいた[4]。叔父に札幌地方裁判所の所長になった海部安昌がいたことや、政治家を志望したことから、法科への進学を志す[6]。
大学時代
[編集]1948年には旧制中央大学専門部法科に入学し[7]、在学中の1950年に全国高専弁論大会で優勝した。
旧制中央大学専門部法科卒業後は法学部に進む。このころ中央大学辞達学会に所属し弁論に磨きをかけていたが、全学連が公安条例を巡って東京都庁になだれ込んだことを受けて海部も一緒になだれ込んだ。海部は都庁へなだれ込んだことに対する経過報告の際に、ドッジ批判や公安条例を批難したことでGHQに一週間捕らえられた[8]。
中央大学法学部にから、新制早稲田大学法学部法律学科に編入学する。在学時は渡部恒三や藤波孝生らと早稲田大学雄弁会に所属し、衆議院議員河野金昇に誘われて河野の秘書と学生をかけ持つ[9]。1956年には早稲田大学大学院法学研究科修士課程中退して、学生時代から務めた河野金昇の秘書に専念する[10]。
1957年には河野金昇が背椎腫瘍で急死したことで、媒酌人の河野金昇に代わり三木武夫夫妻が務め、11月17日に幸世と結婚する。三木の提案によって河野金昇の妻の河野孝子が後を継ぎ、1958年の第28回衆議院議員総選挙で旧愛知県第3区で前回の河野金昇より得票数を伸ばし次点で当選する。海部は河野孝子の秘書を務め政治に素人の河野孝子を支えることになった[11]。
政界入り
[編集]衆議院議員
[編集]河野夫妻を支援していた地元の毛織工業協同組合が後援会になり[12]、河野孝子の後を継ぎ1960年11月20日の第29回衆議院議員総選挙で旧愛知県第3区から全国最年少で当選、以降連続当選16期を数えた。
自民党青年局部長、1965年には自民党青年局長となり、青年海外協力隊の創設に力を注いだことで[13]、青年海外協力隊の生みの親の一人として知られている。竹下登や宇野宗佑らと共に各方面に説得に回り、藤本孝雄と外務省の官僚を引き連れアフリカへ視察に行き、ケネディ大統領が提唱した平和部隊構想を参考に青年海外協力隊を創設した[14]。
初当選以来、河野金昇が幹部を務めていた三木派に所属し、三木武夫の秘蔵っ子として知られていた。また海部自身もクリーンな政治家として三木を尊敬し、「わかりやすく、きれいな政治」を信条としている。「理想の政治家は?」との問いに対しては、常に「三木武夫」と回答していたほどである。三木が総裁選で田中角栄に敗れた時には人目をはばからず号泣したという逸話もある。ただし、引退後の回想録『政治とカネ』で「三木もそれなりに買収工作をやっていた、金を貰った議員がみんな三木に入れていれば結果は変わっていた」と海部自ら暴露している。
三木派が河本派に移行してからは、1994年に離党するまでの間、名実共にナンバー2として河本敏夫を支えたが、三光汽船のオーナーであった河本とは対照的に資金的な貢献が少なかったため、「財布閉じ器」と渾名された。ニューリーダーの次を狙う政治家として橋本龍太郎、藤波孝生らと共に「ネオ・ニューリーダー」と呼ばれた。早稲田大学雄弁会の先輩である竹下登ら早大出身者との親交が深かったため、「現住所河本派・本籍竹下派」ともいわれた。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるのでは」と囁かれたこともある。
1966年に労働政務次官、1972年に衆議院議院運営委員長、1973年に自民党人事局長、1974年に自民党副幹事長などの要職を歴任する[13]。
官房副長官
[編集]1974年には、三木武夫内閣の官房副長官に就任する。官房長官の井出一太郎の代わりにランブイエサミットの調整や数々の外交交渉に携わる。
1975年5月には官房副長官としては異例の、大英帝国勲章ナイトコマンダー章の名誉叙勲を受けナイトに列せられた[15]。同年12月のいわゆるスト権スト問題の時には、政府の窓口として労政交渉や野党対応、マスコミ討論を担当した[16]。国鉄労働組合書記長や日本労働組合総評議会事務局長の富塚三夫を相手に堂々と論陣を張ったことで、「自由民主党に海部あり」と海部はお茶の間で話題になった。なお、この8日間のスト権スト問題の際に、自宅に帰宅することが困難であったので、水玉模様のネクタイを使い回していたことから、水玉模様のネクタイが海部のトレードマークになった[17]。
また、「クリーン三木」の「秘蔵っ子」として政治資金規正法と公職選挙法の改正に尽力し、「三木内閣が将来歴史家の審判を受けるとき、この二つについては必ずいい点がいただけると確信しています。」と海部は述べている[18]。
文部大臣
[編集]典型的な文教族であり、45歳で福田赳夫内閣の文部大臣に初入閣する[19]。共通一次試験の導入を行った。毒蝮三太夫の番組で日教組委員長の槙枝元文と討論し「四ト追放」(アルバイト・プレゼント・リベート・ストの追放)を要請した[20]企業へは指定校制度の廃止を要請し、経済四団体は指定校制度の廃止を通知した。
第2次中曾根第2次改造内閣で再び文部大臣に入閣する。「心の通い路のある教育」を目標に掲げる[21]。
自由民主党総裁
[編集]宇野宗佑が第15回参議院議員通常選挙の大敗北により辞任することになったが、宇野を指名したのが竹下派であったため、竹下派からは宇野の後任の総裁選への出馬を見送ることになった。リクルート事件で有力政治家が謹慎している中で、極端な世代交代を避けたかった竹下が、「時計の針を進めず、戻さず」として年齢の割に当選回数があり、かつ同じ稲門会(早稲田大学)として近い関係にあった海部を首相にする構想を打ち出したことから、思いがけず総理総裁の座が転がり込んできた(派閥の長である河本敏夫も総裁候補の一人だったが、高齢であることや三光汽船の倒産などを理由に見送られ、河本は海部を支える姿勢を明確にした)。河野洋平元科学技術庁長官や橋本龍太郎自由民主党幹事長も後継総裁の候補に挙がるも両者とも「女性問題」を理由に辞退した、また、河野は新自由クラブからの復党後に、選挙の洗礼を受けていないことも理由にあげた。前任の宇野宗佑が女性問題を理由に支持を失ったことを受けて、両者とも女性問題には慎重にならざるを得なかったが、橋本龍太郎は後に女性問題でスキャンダルとなった。女性問題もない海部は竹下登や安倍晋太郎の猛烈な後押しを得て宇野の後継として総裁選挙に出馬することを決意した。
自由民主党総裁選挙では海部の他に宮澤派の林義郎と亀井静香や青嵐会の系譜に連なる議員に支持された石原慎太郎も出馬したが、竹下派と安倍派の支持を得た海部が両者をおさえて過半数の票を獲得し、1988年8月8日に第14代自由民主党総裁に選ばれた掲げる[22][23]。
内閣総理大臣
[編集]就任
[編集]参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、ねじれ国会に突入した。1988年8月10日の首班指名選挙では、自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部、野党が過半数を確保した参議院は日本社会党委員長の土井たか子を指名した。日本国憲法第67条第2項の規定に基づき両院協議会で協議されたが、両院の意見は一致せず、衆議院で指名された海部が内閣総理大臣に就任した(衆議院の優越)。海部は初の昭和生まれの首相でもある。
組閣
[編集]海部が首相に就任した頃は、いわゆるリクルート事件などによって国民の間に政治不信が強まっていた。それだけに、清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。組閣においてはリクルート事件にかかわったとされる政治家に代わり(リクルート・パージ)、リクルートと関係の薄い政治家を優先的に登用した。このため党内の不満が高まり、後の政治改革法案が廃案になる遠因にもなった。
党内基盤が脆弱であった海部は、自民党にとってはその場しのぎの「看板」でしかなかった。中小派閥である河本派の幹部である海部が総裁選に勝利したこと自体、元首相の竹下が自派の頭数をもって海部を押し上げたに過ぎなかった。例えば第1次海部内閣の発足時にあたっては、首班指名の1時間後にまず党三役が決定、即座に小沢一郎新幹事長らが党本部の幹事長室で各派と連絡を取りながら海部抜きで組閣を進め、隣の応接室で待たされる海部は一切関わることはなかった。そのあと首相官邸に海部と三役が移動して正式の組閣を小沢らの人選そのままに進み、首班指名からわずか5時間で新閣僚名簿が発表された[24]。
一方、海部は回顧録にて、小派閥出身のため有力派閥の要請に応えざる得なかったが、リクルート事件に関係した人の入閣を断り、ホテルに篭り、環境庁長官に森山真弓や経済企画庁長官に経済評論家の高原須美子に直接入閣を要請した。女性閣僚はそれまで通算三人しかいなかったが、「家庭の大蔵大臣」を掲げて海部の内閣で二人同時に入閣した。また作家の曽野綾子に文部大臣を依頼したが、夫の三浦朱門を通じて断られたという[25][26]。
第1次海部内閣発足直後、内閣官房長官山下徳夫の女性スキャンダルが発覚する。海部は任命から15日で山下を更迭し、環境庁長官森山真弓を横滑りさせて女性初の官房長官を誕生させた(後任の環境庁長官は志賀節)。
政権運営
[編集]各種行事に夫婦同伴で出席するなどして女性層の支持拡大を目指した。1989年9月末に開会した第116回国会の所信表明演説では「対話と改革の政治」を掲げて「公正で心豊かな社会」を目指すとした演説を行い、竹下内閣の国際協力構想の継承を表明した。1989年10月、岩上二郎参議院議員の死去に伴った補欠選挙が海部内閣初の国政選挙となり、野村五男を擁立して勝利した。時事通信によると海部内閣の支持率は発足当初は歴代で宇野内閣に次いで低い27.5%だったが、1989年10月には36.0%まで浮上する[27]。海部が前任の宇野宗佑の任期を引き継いで総裁就任していたことから、10月6日に総裁選挙を告示し、海部以外の誰も出馬を表明しなかったため無投票当選した。10月31日の第51回臨時党大会で海部の再任が決まった[22]。海部は立候補に先立ち、政治倫理の確立・対話と改革の党風・選挙区制度の改定・本当の地方自治の四つの政治改革の指針示した[28]。
1990年、第117回国会の冒頭で衆議院を解散した[22]。選挙戦では野党やマスコミが消費税を争点として扱っていたのに対して、海部や自民党は、1989年6月の天安門事件、11月のベルリンの壁崩壊、12月のマルタ会談による冷戦の終結を受けて「資本主義と社会主義の体制の選択」を争点にして戦い[29]、第39回衆議院議員総選挙で自民党を大勝に導く[注釈 1]。2月28日には第78代内閣総理大臣に就任し、第2次海部内閣が発足した[30]。1991年の統一地方選挙では圧勝して過去最高の議席数を獲得するも、東京都知事選挙が自民党分裂で行われて、自民党本部が擁立した磯村尚徳が現職の鈴木俊一に敗れた。海部は慰留するも、小沢一郎は責任を取り自民党幹事長を辞任した[31]。選挙後には中曽根康弘の復党が海部の知らない間に決まってしまう[32]。
内閣総辞職
[編集]自民党総務会で公職選挙法・政治資金規正法の改正、政党助成法の成立である「政治改革関連三法」が党議決定されると宮澤派・三塚派・渡辺派が党議決定やり直しを求めて署名活動を開始し、竹下派の切り崩しにかかった。若手でも小選挙区導入反対で特に強硬な小泉純一郎ら「YKK」などによる党内からの猛烈な反対運動を受けた。一方で若手で政治改革を支援し、ブレなかったのは羽田孜・小渕恵三・西岡武夫・野田毅などわずかな人々だけであったと海部は言う[33]。
海部は「政治改革国民対話集会」を開き国民の声を聞くように努めた。新選挙区区割案は学者やジャーナリストからなる「選挙制度審議会」に委ね政治家では、大島理森と石原信雄両官房副長官しか知らず、海部自身も公正を期すため知らなかった。政治改革関連三法案は1991年7月に閣議決定されて、8月5日から開会した第121回国会に提出された。しかし、守旧派の反発は強く、宮澤喜一・三塚博・渡辺美智雄が次の自民党総裁選に出馬の意向を示して海部おろしの風が吹き荒れた[34]。
政策の目玉として取り組んだ政治改革関連法案を継続審議に持ち込み、「衆議院議長のもと与野党協議機関を設立する」方針であった。衆議院改革特別委員会で野党は反対し、自民党も半数が反対していた。9月30日、自民党国会対策委員長であった梶山静六は先頭を切って廃案に動き、首相である海部に連絡なく小此木彦三郎委員長が独断で審議未了廃案とした[35][36]。廃案を受けて党四役を集めた緊急会議の場で海部は「重大な決心で臨む」「重大な気持ちでやっていく」と発言したものを「重大な決意で臨む」と置き換えられて報道された。これが衆議院の解散を意味する発言であると受け取られた。「伝家の宝刀」の異名を持つ解散権は、首相の専権事項である。翌日の国会で「重大な決意」の真意を問われた海部は「今後とも政治改革の火を消さないで進めていきたい、という強い決意の表れ」と答弁した。
与野党国対委員長会談で「継続審議と、衆議院議長のもと与野党協議機関を設立すること」が拒否されたことを受けた海部はついに衆議院解散を決意した。天皇が東南アジアに歴訪中であったため、皇太子が国事行為を代行することなどを宮内庁の話し合い事務準備を進めていた。10月4日、海部おろしを打開しようと解散に踏み切るための閣議の当日になって、海部をバックアップするはずだった金丸信や小沢一郎など竹下派でさえ明確に解散不支持を表明したため、海部は結局解散に踏み切ることができなかった。これにより、海部を支持するのは自身の派閥である小派閥の河本派だけとなり、総裁選に再選できる道は閉ざされる。10月14日には、8月に発覚していた橋本龍太郎大蔵大臣の秘書が富士銀行の不正融資問題に関係していた問題と6月の証券会社が大口顧客の株取引による損失を補填していた不祥事を受けて、海部が橋本に辞任を促し、海部が大蔵大臣を兼任した[37][38]。第2次海部改造内閣は自由民主党総裁の任期満了をもって内閣総辞職になった[39]。
在任中は竹下派に手足を縛られ、思い通りの政権運営はままならなかったが、決定的な失政があったわけでもなく、本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持を得続けた。在任中の内閣支持率は高い時で64%、退任直前でさえも50%を超えており[40]、煮え切らない不完全燃焼の中での退陣となった[41]。
首相在任日数818日間は、日本国憲法下において衆議院で内閣不信任決議が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録である。
総理退任後
[編集]再び総理大臣候補に
[編集]1993年6月18日に内閣不信任決議案が野党と自民党の羽田派によって可決されると宮澤喜一総理大臣は衆議院を解散した。(嘘つき解散) 同年7月8日には、田名部匡省農林水産大臣によって、「次の総理総裁候補として海部の再登板がありうる」という見解が出始めた[42]。その後、6月25日には羽田孜らによって新生党が結成され、自民党は分裂の様相を呈した。
7月18日の第40回衆議院議員総選挙で自民党が過半数を獲得ができなかった。自民党は日本新党や新党さきがけとの連立交渉が始まり、宮澤の後継に注目が集まった。後継には渡辺美智雄前副総理兼外相や三塚博政調会長が意欲を示したが、自民党内の改革派からは「政治改革推進議連」会長の海部を推す動きがあったことから、反対する勢力が海部再登板を阻止するために、河本派会長の河本敏夫を衆議院議長にする推す声が出始めた[43]。しかし、政治改革に積極的な海部が総裁にならなければ、自民党と野党(日本新党・新党さきがけ)の連立交渉や、自民党改革派の離党の動きを止めることは難しいとの考えが根強かった。
時事通信社の次期首相候補に関する世論調査でも、次期首相に望ましい人として海部が「19.0%」の支持を集めて、2位の羽田孜の「12.7%」や細川護煕日本新党代表「4.9%」、河野洋平官房長官「2.5%」を上回っていた。一方で実際に首相になるの思う人でも海部が「16.8%」、羽田が「16.3」橋本龍太郎が「6.0%」の順で海部がトップで、世論では海部に対する期待が高まっており、海部が首相になると思われていた[44]。7月23日には渡辺美智雄が総裁選に出馬表明し、加藤派は政治改革を実現できる人物として、海部の擁立の方針を決めるが、海部自身が出馬に身長な姿勢を見せ[45]。結局のところ7月29日には非自民・非共産連立政権の細川内閣を成立させる方針が野党で決められ、海部は8月30日の自民党総裁選挙には出馬せずに河野洋平が第16代自由民主党総裁に就任し、首相には細川護煕が就任したため、海部が首相に再登板することはなくなった。
自民党離党
[編集]1994年6月29日、自民党総裁の河野洋平が、党の政権復帰のため日本社会党、新党さきがけと自社さ連立政権構想で合意し、首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、海部は離党を決意した。海部の首相時代にも何かにつけて反対する村山の政治姿勢を批判した。離党の噂を聞いた総裁の河野洋平や幹事長の森喜朗が海部の事務所に訪ねて残留を要請したが海部の意思は変わらなかった[46]。
海部と同じく造反した津島雄二の説得により、旧連立与党である新生党や日本新党から首班指名の統一候補として担がれるも、第1回投票では村山富市が241票、海部俊樹が220票で決戦投票となり、村山が261票、海部が214票で決選投票で敗れることになる[47]。その数日後、離党届提出の際には小渕派の会長の小渕恵三に羽交い締めされ留意を促されたが、結局正式に離党する[46]。
自由改革連合を結成して代表に就任。初の国政選挙は1994年9月に行った参議院愛知選挙区の再選挙で、都築譲を旧連立与党と擁立して勝利する。この勝利を弾みに非自民党でまとまる機運が高まり、新進党を結党して初代党首となる。党首就任後、北海道・岩手県・三重県の知事選挙で勝利する。第17回参議院議員通常選挙では改選前に比べて議席を二倍に増やし、比例代表でも自民党を上回る票を集めた。政権を獲得する勢いではあったが、1995年12月小沢一郎に党首を譲る[47]。
新進党分党後は1年1ヶ月の間は無所属で過ごし(院内会派「無所属の会」)を経て、自民党との連立政権に加わった自由党に入党。2000年の同党分裂の際には、自民連立継続派の保守党に所属する。
保守新党に改組して臨んだ2003年に第43回衆議院議員総選挙では、民主党の新人岡本充功に比例復活を許したが、小選挙区勝利で連続当選記録を伸ばし、選挙直後に吸収合併される形で自民党に復党した。
自民党復党
[編集]復党後は古巣河本派の後継である高村派には戻らず、二階俊博ら一緒に復党した旧保守新党議員らと二階グループを結成した。自民党復党の折には自民党幹事長安倍晋三から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の肖像画も再び掲額された。
政界引退
[編集]2009年の第45回衆議院議員総選挙にて、小選挙区で岡本充功に敗れた[48]。信念から重複立候補をしなかったため落選し[49][注釈 2]、同日、政界引退を表明。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑んだが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えたことも落選の一因とされる。首相経験者が落選したのは、1963年の第30回衆議院議員総選挙の石橋湛山、片山哲以来46年振り[50]、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目である。解散時点で海部の連続当選回数は16回、勤続年数48年9ヶ月と衆議院議員としては現職トップだった。このとき当選していれば、尾崎行雄や師匠である三木などに続いて衆議院議員在職五十年に到達するところであった。
政界引退後
[編集]政界引退後は、世界連邦運動協会会長、日本ソフトテニス連盟会長、大正琴協会理事長、日本ティーボール協会会長などを務める。また、三木睦子が理事を務める中央政策研究所では最高顧問を務める。2010年には回想録『政治とカネ』を新潮新書から出版した。
2011年、桐花大綬章、名誉愛知県民章を受章。2012年3月、中華民国の国立中央大学より名誉博士称号を授与される[51]。同年9月、自民党総裁選に立候補した町村信孝の表敬訪問を受け、激励した。2014年からは中日新聞県内版(愛知県向け紙面)に『海部俊樹回想録』を連載している。
政権・政策
[編集]皇室
[編集]1990年には秋篠宮文仁親王結婚の儀、天皇即位の礼・大嘗祭など重要な皇室行事が続いた。海部は毎月の内奏の際に天皇と1時間近く昼食を一緒に取るなど、年齢が近いことから歴代首相の中でも特に親密な仲であった[注釈 3][52]。
昭和天皇の即位の礼は大日本帝国憲法下であり、京都御所の紫宸殿で行われ、首相の田中義一が天皇を仰ぎ見る形で行われた。日本国憲法下初の挙行であったことから、国民主権であることを意識して、現代風に行うことを考える[53]。即位の礼の装束については宮内庁の要請を退け、衣冠束帯ではなく燕尾服で出席した[54]。また、一段低い中庭から殿上を仰ぎ見ていたのを、最初から殿上にいることにこだわることで、国民主権を顕にした[52]。
1993年3月には細川内閣の羽田孜外務大臣の要請を受け、天皇の欧州訪問の首席随員としてイタリア・ベルギー・ドイツを訪問した[55][56]。
外交
[編集]1989年に米国の対日貿易赤字は膨れ上がり、490億ドルに達した。「ミスター外圧」こと駐日アメリカ合衆国大使のマイケル・アマコストは日本の省庁を周って米国製品を買うことを求めていた。自民党の政権基盤が弱かったことから日本社会党の土井たか子と会談し政権構想を尋ねるなど、野党にも保険をかけていた。アマコストは大規模小売店舗法の撤廃を求めてきた。これまで大規模小売店舗法では地元商店主らと平均3年の出店調整をしていたが、中小の商店主の多くが自民党支援者であったことから交渉は難航した。結局、消費者の利益を理由に大規模小売店舗法を改正して、出店調整を1年以内とした。また、アメリカのゼネコンが日本の公共事業に参入できるように、公共事業の規模を拡大することで合意した[57]。
1991年、湾岸戦争開戦後、ブッシュ大統領と頻繁に電話会談を重ね、多国籍軍に対する日本の協力を要請された。ブッシュは日本の憲法をよく理解していて、武力の要求はしないかわりにアメリカが一番困っている資金面の援助を依頼された。湾岸戦争を機にブッシュと海部はジョージ、トシキと呼び合う仲になっていた。湾岸戦争の戦費として多国籍軍に110億米ドル、紛争周辺国用20億ドル、合計130億ドルの資金を拠出する[58]。当初、戦後クウェートの新聞に載せられた感謝広告に日本の国旗が掲示されなかったが、その後改められた。この施策に関し、保守層からは「金だけだして人出さない」「似非国際貢献」「一国平和主義」などと罵られ、左派からも「アメリカの言いなりになり無駄金を拠出した」と強く批判されるなど、左右の知識人から強い批判を浴びた。
自民党主流派は自衛隊派遣推進の考えで、中曽根康弘元首相や小沢一郎幹事長、橋本龍太郎蔵相、加藤六月政調会長らが急先鋒だった。中山太郎外相、河野洋平外交調査会長、後藤田正晴元官房長官、井出一太郎元官房長官や野党らが反対したが停戦後[59]、自衛隊創設以来初の海外実任務となる海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣する。
六四天安門事件後、ヒューストンの第16回先進国首脳会議で円借款再開を表明し、世界から孤立しかかった中国に天安門事件後の西側先進国首脳では初めて訪問して円借款を再開させた[60]。ヒューストン・サミットを前に海部は対中制裁反対派の中曽根康弘・鈴木善幸・竹下登元首相に制裁解除を迫られていた[61]。海部自身は、「中国に対して原則を貫いた」と語り、天安門事件の犠牲者の冥福を祈るため、訪中時に天安門広場で献花を行ったという[62]。当時の同盟国アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は事件後も議会と対立してまで中国への最恵国待遇を更新するばかりかボーイング[63]や人工衛星の輸出を許可[64]するなど制裁全面化に消極的でかつて米中連絡事務所所長も務めた親中派であり、ブレント・スコウクロフト補佐官を北京に派遣して秘密交渉を行っていたこともあってサミットで海部に同調した[65]。
1991年1月、海部は韓国を訪問し盧泰愚大統領と会談した。未来志向の方針を提案され、「未来志向的な日韓協力関係」の方向性を示す「日韓新時代三原則」を作り、両国民に宣言した。韓国から帰国後、指紋押捺制度を廃止した[66]。
ゴルバチョフ大統領がソ連首脳として初めて来日した。最大のテーマは北方領土問題で、「南クリル諸島」の表現を「歯舞諸島、色丹島、択捉島、国後島」と明記することを海部は主張した。ゴルバチョフは北方領土問題を公式に初めて認めてビザなし交流を提案し、ソ連首脳として初めて四島を明記した上で「領土問題の解決と平和条約の締結を目指す」という内容の日ソ共同声明を自らの手で書いた[67][68]。
サッチャー首相とは日英首脳会談やヒューストンサミットで会談をして、信頼を得ることができた。サッチャーは回顧録に「(海部首相は)正直な人間であり、私が会ったいく人かの日本の政治家のように口数少なく、内向的な型ではまったくなかった」と記している[69]。
金竹小との関係
[編集]海部は総裁選の際には竹下登に票集めを任せ、総理就任時後も金丸信や竹下登に頻繁に連絡をとり、小沢一郎がその仲介役を果たした[70][71]。海部おろしの風が吹き荒れたころに衆議院を解散しようとした際には金丸信と竹下登に解散の是非を尋ねて、金丸から解散を止められ、小沢一郎からもダメ押しで解散を否定したこともあって解散を取りやめた[39]。
石原信雄の回顧録には「海部さんは重大な法案などを決める時には金丸、竹下両氏の判断を仰いでいた」と記され、自民党幹事長の小沢一郎からも「海部は本当に馬鹿だな。宇野の方がよっぽどましだ」と酷評され[注釈 4]、金竹小が海部以上に強い影響力を持っていた。
主な役職
[編集]- 世界連邦運動協会会長
- 日本ソフトテニス連盟会長
- 日本ティーボール協会会長
- 大正琴協会理事長
- EU・ジャパンフェスト日本委員会最高顧問
- 地球環境行動会議 (GEA) 最高顧問
- 中央政策研究所最高顧問
- 教育美術振興会会長
- 公益財団法人中部日本書道会名誉会長
エピソード
[編集]ネクタイ
[編集]水玉模様のネクタイがトレードマークである。これは、三木内閣の官房副長官時代、スト権スト問題でテレビの討論番組に出演した際、帰宅もままならぬことから、連日連夜同じ水玉柄のネクタイをしていたことを視聴者に指摘され、それを自らのトレードマークにしたものである(討論番組そのものでは当時公共企業体等労働組合協議会事務局長であった富塚三夫に対して一歩も引かぬ弁舌を披露し、「自民党に海部あり」と言わしめ、その後出世街道を歩む端緒となった)。首相時代には水玉模様のネクタイばかり600本以上も持っていたと語っており、広島と長崎の平和記念式典にも黒地に黒の水玉模様のネクタイをして出席していたほどの徹底ぶりであった(表向きは喪服用の黒いネクタイだが、明るい場所で見ると仄かに水玉模様が見える)。また、昭和天皇の大喪の礼でも同じく黒地に黒の水玉模様のネクタイをして注目を浴びた。
弁論
[編集]旧制東海中学時代には自ら弁論部を創設し地区大会で優勝するなど早くから弁論で頭角を現し、旧制中央大学専門部法科入学と共に中央大学辞達学会(弁論部)に所属し、数々の弁論大会で活躍。同大学卒業後、一旦は法務省に事務官として入省するも退職し、同郷の代議士河野金昇の書生(議員秘書)を務め、河野の母校でもある早稲田大学第二法学部法律学科へ編入学し、早稲田大学雄弁会に所属。早大在学中は雄弁会で弁論術の研鑚及び人脈作りに勤しんだ。学生弁論大会で優勝した折には、審査委員の一人だった早稲田大学総長の時子山常三郎から「海部君(の演説)に勝る者はいない。海部の前に海部なし、海部のあとに海部なしだ」と評されている。同年代の雄弁会仲間には渡部恒三などがおり、この時代に培った人脈が政界入り後に大きな力となって、小派閥の番頭格でありながら首相のポストを得る原動力となった。当時は単独講和反対を主張する等左翼的な自説を主張していたという[72]。
29
[編集]- 1960年に行われた第29回衆議院議員総選挙に、河野金昇の死後、後継として出馬して一期務めた未亡人河野孝子の後継者として出馬。応援演説に来た井出一太郎が放った「サイフは落としてもカイフは落とすな」というキャッチフレーズで人気が沸騰し当選した。この時29歳で早稲田大学を昭和29年に卒業し、議員会館の部屋が629、恩師河野金昇の命日が3月29日と29と関わりのある出来事が多かったため「29回総選挙に29歳で初当選したから、29年後には総理大臣になる」と公言していた。自民党内では傍流である三木派に属していたためこの言葉は半ば冗談のように受け取られ、また本人も講演会などの挨拶におけるネタにした。ジョン・F・ケネディが29歳で下院議員になったことから「東海のケネディ」「ニッポンケネディ」の肩書きをつけた[73]。ところが、初当選から29年後の1989年、諸々の条件が重なり、偶然ではあるものの、海部は公言通り総理大臣に就任した。総理就任から一ヶ月後、大相撲で通算勝ち星記録を更新した横綱・千代の富士貢に国民栄誉賞を授与したが、この直前、大相撲九月場所で千代の富士は29回目の優勝を達成しており、かつ授与式が行われたのも9月29日であった。
ヒューストン・サミット
[編集]1990年、アメリカ・ヒューストンで開催された第16回先進国首脳会議における首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、アメリカ合衆国大統領ブッシュ、イギリス首相サッチャー、カナダ首相マルルーニーが爆笑している場面の写真が全世界に配信された。
このことについて海部俊樹は二通りに語っている。
「 | とにかく、暑くてね。屋外で記念写真を撮影した時ですが、カナダのマルルーニー首相(当時、以下同)が、「アメリカは田舎だから、暑くてたまらない。カナダはこんなに暑くない」なんて、言っておるんですよ。冗談の好きな男でね。撮影のために並んだら、「暑い、暑い。俺はぶっ倒れる」なんて言うんだ。私はちょうど、マルルーニーの左隣にいましてね。あっち側(マルルーニー首相の右隣)はサッチャー英首相だった。だから「カナダが倒れたら、日本は支えきれないぞ。あっち側に倒れろ、鉄の女になんとかしてもらえ」と言ったんですね。これが、ブッシュ米大統領、サッチャー英首相、マルルーニー加首相の爆笑を誘った[74]。 | 」 |
「 | 「テキサスには、サボテンと駅場所しかないと思っていたが、空港に車が迎えに来たので安心したよ」と、軽い冗談を言ったのだと思う。[75] | 」 |
千代の富士
[編集]総理として国民栄誉賞を授与した千代の富士との因縁もあってか、1990年5月26日には大相撲夏場所14日目を国技館の貴賓席で観戦した[注釈 5]。また海部は2009年の総選挙で現職議員ながら落選しているが、千代の富士も引退後、年寄・九重として現職理事を務めていた2014年に日本相撲協会理事選挙で落選するという共通点を持つ。2016年7月31日に千代の富士が逝去した際には弔電を送っている[76]。
小渕恵三
[編集]「現住所:河本派・本籍:竹下派」と言われた海部は竹下派の議員であり、早稲田大学雄弁会の後輩であった小渕恵三とは親しかった。演説が得意でない小渕は海部の元にテープを持ってきて、自分の小渕自身になったつもりで演説をテープに吹き込むように頼んだ。
「 | 「皆さん、この群馬はかかあ天下と空っ風と言われるとかであります。しかし、最近はちょっと上を見ると、かかあ天下や空っ風よりもっと怖い、二人の先輩(福田赳夫元首相と中曽根康弘元首相)がおります。私は、いわばビルの谷間のラーメン屋のようなものであります。」 | 」 |
この時の「ビルの谷間のラーメン屋」を小渕は多様し、後に小渕を表す言葉になった[77]。
海部が村山内閣の成立に反対して自民党を離党する際には、合気道有段者であった小渕が「行っちゃいかぁん」と言い海部を羽交い締めにして離党を押しとどめたことがあった[46]。
小渕が首相となり脳梗塞で倒れた際には、小渕の入院先を訪れた海部は手を握り、小渕から握り返されたという[78]。
家族・親族
[編集]海部家
土佐日記、南海治乱記、司馬遼太郎の夏草の賦にも海部家の名が出てくる。 名古屋城の普請で尾張に来て、尾張徳川家に仕えることになった。数代して鉄砲組頭になり、九代目海部太郎の代になって家老に取り立てられた。[79]
- 曽祖父 - 海部昂蔵は尾張徳川家の家令、御相談人
- 曽祖父の弟 - 海部壮平・海部正秀(旧尾張藩士・名古屋コーチンの元となる海部種を開発)
- 祖父 - 海部幸之進(こうのしん、名古屋で初の写真館、「中村写真館」を1889年に現在の松坂屋の北側につくり後進の指導にあたり海友会が作られる)[2]
- 祖母 - 海部あぐり(熱田神宮の宮司の家に生まれる)
- 叔父 - 海部安昌(札幌地方裁判所所長)
- 父 - 海部誠也(愛知県写真師協会会長・勲五等叙勲)
- 母 - 海部富さ[79]
- 妻 - 海部幸世(さちよ、1933年生)[79]
- 長男 - 海部正樹(テレビプロデューサー、アニメプロデューサー)
- 娘 - 睦(むつみ、1963年生)[80][81]
- 弟 - 海部尚樹(東海財務局勤務後、1970年から海部俊樹の秘書[82])
- 甥 - 海部篤(外交官)[83]
- 従兄弟 - 小林誠(ノーベル物理学賞受賞)[84]
- 従兄弟 - 海部宣男(天文学者・海部安昌の息子)[85]
略歴
[編集]- 1931年1月2日 - 名古屋市で生まれる。
- 1935年 - 愛知県松若幼稚園入園
- 1943年 - 名古屋市立南久屋国民学校卒業
- 1947年 - 全日本中学校弁論大会優勝
- 1948年 - 旧制東海中学(現・東海中学校・高等学校)卒業。
- 1950年 - 全国高専弁論大会優勝
- 1951年 - 旧制中央大学専門部法科卒業、法務省に事務官として入省。衆議院議員河野金昇の秘書になる。
- 1952年 - 河野金昇代議士の秘書をしながら新制早稲田大学法学部法律学科3年次に編入学、在学時は雄弁会に所属する(副幹事長に就任)全国学生雄弁大会優勝。
- 1954年 - 早稲田大学第二法学部法律学科卒業、法学士号取得。
- 1956年 - 早稲田大学大学院法学研究科修士課程中途退学。
- 1957年 - 幸世夫人と結婚
- 1960年11月20日 - 第29回衆議院議員総選挙に全国最年少で当選、以降連続当選16期を数えた。
- 1966年8月1日 - 労働政務次官(第1次佐藤内閣第3次改造内閣)。
- 1970年 - 自民党国会対策副委員長、税制調査会委員
- 1971年 - 自民党青年対策特別委員
- 1972年 - 衆議院議員運営委員長、憲政記念館運営委員会委員長
- 1973年 - 自民党人事局長。
- 1974年11月15日 - 自民党副幹事長
- 1974年12月9日 - 内閣官房副長官(三木内閣)。
- 1974年12月13日 - 国防会議幹事
- 1976年9月15日 - 自民党国会対策委員長
- 1976年12月24日 - 文部大臣(福田赳夫内閣)。
- 1978年 - 自民党副幹事長
- 1979年 - 自民党広報委員長。
- 1981年 - 行財政改革特別委員会筆頭理事、自民党国民運動本部長、参院制度改革特別委員長[86]。
- 1985年12月28日 - 文部大臣(第2次中曽根内閣第2次改造内閣)。
- 1989年8月10日 - 第76代内閣総理大臣。
- 1990年
- 2月28日 - 第77代内閣総理大臣。
- 12月29日 - 第2次海部改造内閣発足。
- 1991年
- 1994年
- 1998年1月 - 新進党分党に伴い無所属(院内会派「無所属の会」)。
- 1999年1月 - 自由党に入党し、党最高顧問に就任。
- 2000年4月 - 保守党最高顧問。
- 2002年12月 - 保守新党最高顧問。
- 2003年11月 - 保守新党解党に伴い自民党復党。二階派最高顧問に就任。
- 2009年8月30日 - 第45回衆議院議員総選挙に17回目の当選を目指して出馬するも、民主党の岡本充功に敗れ落選。同日政界引退を表明。
- 2011年 - 桐花大綬章を受章[87]。名誉愛知県民章を受章。
栄典
[編集]- 大英帝国勲章ナイト・コマンダー章(1975年)
- 桐花大綬章(2011年)
- 名誉愛知県民章(2011年)
著書
[編集]- 『志ある国家 日本の構想』東洋経済新報社、1995年7月。ISBN 978-4492210697。
- 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』新潮社〈新潮新書〉、2010年11月。ISBN 978-4106103940。
演じた俳優
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 自民党は単独で275議席を獲得し、さらに保守系無所属の11議席を足して286議席となり、過半数を上回った。
- ^ ただし、当時78歳の海部は自民党の定年制により特例として定年制を適用除外されない限り重複立候補出来ない。首相経験者が特例として定年制適用除外になったのは2000年の中曽根康弘・宮澤喜一が最後で、二人とも比例単独候補であった。
- ^ 海部俊樹は1933年1月2日生まれ、天皇は1933年12月23日生まれ
- ^ 田崎史郎「小沢一郎との訣別」『文藝春秋』1994年10月号より。小沢の数々のオフレコ発言を明かした同記事で「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」という小沢の発言が初めて明るみになったが、これは、1982年の自民党総裁選挙で田中派が中曽根康弘を支持した時の小沢のコメントであり、海部を指したものではない。だが、海部を指した発言と誤って伝えられることがあり(田原総一朗『テレビと権力』〈講談社、2006年、p.267〉、淺川博忠『「新党」盛衰史 新自由クラブから国民新党まで』(講談社文庫・2005年、p.229)など)、海部自身も後年の回想録で自分を指した発言と勘違いしたことを書いている(海部俊樹『政治とカネ 海部俊樹回顧録』新潮新書、2010年、po.101-102)。
- ^ 現職総理の国技館での観戦は岸信介以来であり、その後も小泉純一郎が貴賓席で観戦している。
出典
[編集]- ^ 『海部俊樹・全人像』豊田行二(1983)p.3
- ^ a b 海部俊樹回想録 第2章総理への道(1)志を抱いて 中日新聞 2014年7月9日 朝刊 県内版 14頁
- ^ 海部俊樹オフィシャルホームページ2018年1月20日閲覧
- ^ a b 海部俊樹回想録 第2章志を抱いて(2)14歳の戦争体験 中日新聞 2014年7月10日 朝刊 県内版 16頁
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.34-p.35
- ^ 『海部俊樹・全人像』豊田行二(1983)p.20
- ^ 海部俊樹回想録 第2章志を抱いて(4)親の思い 中日新聞 2014年7月12日 朝刊 県内版 20頁
- ^ 『海部俊樹・全人像』豊田行二(1983)p.21-22
- ^ 『海部俊樹・全人像』豊田行二(1983)p.27-p.28
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.37-p.38
- ^ 『海部俊樹・全人像』豊田行二(1983)p.43-p.46
- ^ 海部俊樹回想録 第2章志を抱いて(6)昭和生まれ初の代議士 中日新聞 2014年7月16日 朝刊 県内版 16頁
- ^ a b 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.42
- ^ 海部俊樹回想録 第2章 志を抱いて(8)青年海外協力隊創設 中日新聞 2014年7月18日 朝刊 県内版 18頁
- ^ 『海部俊樹・全人像』豊田行二(1983)p.86
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.47
- ^ 『海部俊樹・全人像』豊田行二(1983)p.87-p.88
- ^ 『海部俊樹・全人像』豊田行二(1983)p.84
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.68
- ^ 。『海部俊樹・全人像』豊田行二(1983)p.111-p.116
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.80
- ^ a b c 自民党について 党のあゆみ 歴代総裁 第14代海部俊樹自民党-2018年1月22日閲覧
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.26-p.27
- ^ 奥島, pp. 234–235.
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.98
- ^ 海部俊樹回想録 第1章 総理への道 (6) 2人の女性閣僚 苦労した党内説得 2014年6月29日 中日新聞 朝刊 朝刊県内版 14頁
- ^ 海部俊樹回想録 第1章 総理への道 (8) 参院茨城補選 「もっと真剣に」喝 2014年7月1日 中日新聞 朝刊 朝刊県内版 16頁
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.135
- ^ 海部俊樹回想録 第4章総理への道(3)駆けた1万4500キロ 中日新聞 2014年8月28日 朝刊 県内版 20頁
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.139
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.140-p.141
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.142
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.143-p.144
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.145-p.146
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.147-p.148
- ^ 海部俊樹回想録 第8章 海部おろし (4) 寝耳に水の廃案 頭をよぎった解散 2015年2月28日 中日新聞 朝刊 朝刊県内版 26頁
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.146
- ^ 海部俊樹回想録 第8章 海部おろし (3) 痛手 蔵相秘書絡む醜聞 2015年2月27日 中日新聞 朝刊 朝刊県内版 22頁
- ^ a b 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.150-p.155
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- ^ 八幡和郎『歴代総理の通信簿』 PHP新書
- ^ 首相に海部氏の再登板ありうる 田名部農相が見解 中日新聞 1993年7月9日 朝刊 2頁
- ^ スコープ 93政局 渡辺 、三塚氏一転 改革訴え 海部氏再登板阻止に狙い?「改革ムリ」党内外冷ややか中日新聞 1993年7月22日 朝刊 2面2頁
- ^ 「海部首相望む」19% 時事世論調査 中日新聞 1993年7月9日 朝刊 2頁
- ^ 自民総裁選 渡辺氏、事実上の出馬表明 加藤グループ 海部氏擁立固める中日新聞 1993年7月24日 朝刊 2面2頁
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- ^ サーチナ2010年5月21日配信のインタビュー記事
- ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』海部俊樹(2010)p.132
- ^ 巨人前監督・原氏、千代の富士さん告別式で思い出語った「我々の世代では大ヒーロー」スポーツ報知(2016年8月8日6時0分)[リンク切れ]
- ^ 海部俊樹回想録 第3章 出世の階段 (1) 頼まれどこへでも 2014年8月5日 中日新聞 朝刊 朝刊県内版 16頁
- ^ 海部俊樹回想録 第9章 漂流、そして引退 (5) 復党 10年ぶり、自民歓迎 2015年3月24日 中日新聞 朝刊 朝刊県内版 22頁
- ^ a b c 『海部俊樹・全人像』豊田行二(1983)p.3-p.6
- ^ 海部俊樹回想録 第1章総理への道(2)家族と八ヶ岳へ 中日新聞 2014年6月25日 朝刊 県内版 18頁
- ^ 『海部俊樹・全人像』豊田行二(1983)p.43
- ^ まじめな私生活、強い正義感 実弟(尚樹氏)が語る海部と俊彦像 雄弁、中学校時代から水玉好きは三木さん譲り-中日新聞1989年8月8日 朝刊 県内版 16頁
- ^ 新生外交官26人びたく 62年度の合格発表 紅一点東京の関さん 海部代議士のオイ一橋生の篤さんも-中日新聞 1987年9月14日 夕刊 夕刊二社面 8頁
- ^ 英語、大嫌い 授賞式が初の海外 ノーベル賞益川氏2008年10月7日朝日新聞-2018年1月21日閲覧
- ^ 『昭和人物スケッチ』芳賀綏(2004)p.54-p.57
- ^ 『海部俊樹・全人像』豊田行二(1983)p.234-p.260
- ^ 大綬章受章者
参考文献
[編集]- 奥島貞雄『自民党幹事長室の30年』中公文庫、2005年9月25日。ISBN 978-4122045934。
- 海部俊樹『政治とカネ 海部俊樹回顧録』新潮社、2010年12月。ISBN 978-4106103940。
- 豊田行二『海部俊樹・全人像』行政問題研究所、1983年11月。ISBN 978-4905786276。
関連項目
[編集]- ネオ・ニューリーダー
- 中道新党構想
- 日米構造協議
- PKO国会
- 選挙管理内閣
- 海部おろし - 海部内閣の倒閣運動
- 長坂康正 - 海部俊樹の秘書を務めた。
- 熊田裕通 - 海部俊樹の秘書を務めた。
- 金石清禅 - 内閣総理大臣秘書官(政務担当)を務めた。
- 堀川和洋 - 内閣総理大臣秘書官
外部リンク
[編集]- 海部俊樹オフィシャルホームページ(公式サイト)
- 海部俊樹オフィシャルブログ(公式ブログ)
公職 | ||
---|---|---|
先代 宇野宗佑 |
内閣総理大臣 第76・77代:1989年 - 1991年 |
次代 宮澤喜一 |
先代 永井道雄 松永光 |
文部大臣 第96代:1976年 - 1977年 第106代:1985年 - 1986年 |
次代 砂田重民 藤尾正行 |
先代 橋本龍太郎 |
大蔵大臣 第95代:1991年(兼任) |
次代 羽田孜 |
先代 梶山静六 |
内閣官房副長官(政務担当) 1974年 - 1976年 |
次代 鯨岡兵輔 |
議会 | ||
先代 田沢吉郎 |
衆議院議院運営委員長 第31代:1972年 - 1973年 |
次代 佐々木秀世 |
党職 | ||
先代 結成 |
新進党党首 初代:1994年 - 1995年 |
次代 小沢一郎 |
先代 結成 |
自由改革連合代表 1994年 |
次代 新進党へ |
先代 結成 |
高志会代表 1994年 |
次代 新進党へ |
先代 宇野宗佑 |
自由民主党総裁 第14代:1989年 - 1991年 |
次代 宮澤喜一 |
先代 宇野宗佑 |
自由民主党国会対策委員長 第21代:1976年 |
次代 安倍晋太郎 |
先代 宇野宗佑 内藤誉三郎 |
自由民主党青年局長 第6代:1966年 第8代:1968年 - 1972年 |
次代 内藤誉三郎 西岡武夫 |
名誉職 | ||
先代 谷川和穂 |
最年少衆議院議員 1960年 - 1963年 |
次代 橋本龍太郎 |