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「女系天皇」の版間の差分

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=== 寬仁親王 ===
=== 寬仁親王 ===
[[仁親王]]は、自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」の会報で、「プライヴェート」な形式と断った上で「歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と女系天皇への反対姿勢を表明した<ref>自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」の会報『ざ・とど』[[2005年]](平成17年)9月30日号の「とどのおしゃべり」というコラム。同誌は会員向けの非売品であるが、『[[WiLL (雑誌)|WiLL]]』2006年1月号がこのエッセイの全文を転載している。</ref>。
[[仁親王]]は、自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」の会報で、「プライヴェート」な形式と断った上で「歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と女系天皇への反対姿勢を表明した<ref>自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」の会報『ざ・とど』[[2005年]](平成17年)9月30日号の「とどのおしゃべり」というコラム。同誌は会員向けの非売品であるが、『[[WiLL (雑誌)|WiLL]]』2006年1月号がこのエッセイの全文を転載している。</ref>。


寬仁親王は「[[万世一系]]、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・[[神武天皇]]から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と主張し、「陛下や皇太子様は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりません」「国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇』はいらないという議論にまで発展するでしょう」と結んで、女系天皇容認の動きにこれまでの歴史と伝統を尊重しないとする強い懸念を表明した。また、男系継承を維持するための方法として、歴史上実際に取られたことのある以下の4つを挙げている<ref>同年[[11月3日]][[読売新聞|讀賣新聞]]</ref>。
寬仁親王は「[[万世一系]]、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・[[神武天皇]]から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と主張し、「陛下や皇太子様は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりません」「国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇』はいらないという議論にまで発展するでしょう」と結んで、女系天皇容認の動きにこれまでの歴史と伝統を尊重しないとする強い懸念を表明した。また、男系継承を維持するための方法として、歴史上実際に取られたことのある以下の4つを挙げている<ref>同年[[11月3日]][[読売新聞|讀賣新聞]]</ref>。

2021年4月27日 (火) 14:43時点における版

女系天皇(じょけいてんのう)とは、男系男子の伝統文化と相反する天皇の皇位継承を想定して指す言葉[1]。父親が皇室外の血筋、母親のみが皇室の血を引いている天皇を想定して使用される。父親が皇室の血を引いている女性の天皇(女性天皇)とは全く異なる。日本では神武天皇の即位以来、男系による皇位継承が保持され[1]、第126代の今上天皇(徳仁)に至るまで、男系(父方)で辿ると必ず神武天皇(初代天皇)に辿り着くとされている[1]。対して「女系天皇」というものは2021年現在における想定上の架空の概念であり、もしそれが容認されると「神武天皇からの男系」とは異なる系統となる[1]。このため、女系天皇が容認されれば、万世一系(=神武天皇からの男系)である皇統の交代でとなり、2020年現在において仮定するならば、眞子内親王の婚約者の男性の男系血統を持つ子供が天皇となるということである[1]

「女系天皇」反対派の主張としては、こうした万世一系に意義を見出す考え方がみられ、『古事記』『日本書紀』の記載を重んじる傾向がある[1]。それら『古事記』『日本書紀』によれば、紀元前660年2月11日(新暦に換算)に神武天皇が即位し日本を建国したとされるため、現代でもその日が「建国記念の日」として制定されており、日本の皇統は神武天皇から男系(父系)で続いてきた万世一系だと呼ばれている[1]。その意味で、世界で一つの一族による君主在位の最長記録を更新し続けているという見方も可能となっている[1][注釈 1]

今上天皇の父系直系祖先

  • 代数は皇統譜による。
  • 北朝は歴代に算入していない。
1 神武天皇 2 綏靖天皇 3 安寧天皇 4 懿徳天皇 5 孝昭天皇 6 孝安天皇 7 孝靈天皇 8 孝元天皇 9 開化天皇 10 崇神天皇
11 垂仁天皇 12 景行天皇 日本武尊 14 仲哀天皇 15 応神天皇 稚野毛二派皇子 意富富杼王 乎非王 彦主人王 26 継体天皇
29 欽明天皇 30 敏達天皇 押坂彦人
大兄皇子
34 舒明天皇 38 天智天皇 志貴皇子 49 光仁天皇 50 桓武天皇 52 嵯峨天皇 54 仁明天皇
58 光孝天皇 59 宇多天皇 60 醍醐天皇 62 村上天皇 64 円融天皇 66 一条天皇 69 後朱雀天皇 71 後三条天皇 72 白河天皇 73 堀河天皇
74 鳥羽天皇 77 後白河天皇 80 高倉天皇 82 後鳥羽天皇 83 土御門天皇 88 後嵯峨天皇 89 後深草天皇 92 伏見天皇 93 後伏見天皇 北1 光厳天皇
北3 崇光天皇 栄仁親王(伏見宮) 貞成親王(伏見宮) 102 後花園天皇 103 後土御門天皇 104 後柏原天皇 105 後奈良天皇 106 正親町天皇 誠仁親王 107 後陽成天皇
108 後水尾天皇 112 霊元天皇 113 東山天皇 直仁親王(閑院宮) 典仁親王(閑院宮) 119 光格天皇 120 仁孝天皇 121 孝明天皇 122 明治天皇 123 大正天皇
124 昭和天皇 125 上皇 126 今上天皇

概要

現在の皇室典範では、皇位皇統に属する男系の男子のみ(第1条)に定めており、天皇の嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の子孫を皇族としている(第6条)。また、養子ができず(第9条)、天皇及び皇族以外の者と婚姻した皇族女子は皇族の身分を離れる規定(第12条)であるため、女系の子女(母のみ皇族)は皇族の身分になることができない。

さらに皇族以外の者及びその子孫は、女子が皇后となる場合及び皇族男子と婚姻する場合を除いては、皇族となることがない(第15条)。

第126代天皇第一皇女子の敬宮愛子内親王や、秋篠宮家の眞子内親王佳子内親王などは、いずれも父方のみを辿って初代神武天皇に行き着く男系女子の皇族である。しかし、彼女らが将来、旧皇族皇別摂家源氏平氏など天皇家から分かれた皇別家系からの男系子孫以外の一般国民の男子と結婚して子を産んだ場合、その子は性別が男であれ女であれ、父方のみを辿って天皇に行き着かないため女系となる(下掲系図を参照)。

★は天皇(括弧内数字は代)および現行皇室典範における皇位継承資格者。◆は仮想。男系継承の解説を中心としているため、第125代天皇から直系の皇族のみを記載した。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第125代天皇 明仁
上皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第126代天皇 徳仁
今上天皇
 
秋篠宮文仁親王
(皇嗣)★
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
愛子内親王
 
眞子内親王
 
佳子内親王
 
悠仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

女系男子◆

女系女子◆
 

女系男子◆

女系女子◆
 

女系男子◆

女系女子◆
 

男系男子★◆

男系女子◆
 


2020年(令和2年)1月1日現在、天皇の血筋を受け継ぐ内親王・女王は6名。すでに臣籍降嫁皇室典範第12条)した元皇族(同日現在、7名。)を皇籍復帰させることを考えなければ、この内親王と女王の出産する子女が女系天皇候補となる。(内親王と女王は男系皇族であり、天皇に即位したとしても女系天皇ではない)

2023年(令和5年)1月1日現在
日本の皇室における内親王女王[4][5]
読み 御称号 生年月日 現年齢 続柄[6] 世数[7] 摂政就任順序
1 愛子内親王 あいこ 敬宮としのみや 2001年(平成13年)12月1日 22歳 皇女
今上天皇第一皇女子
一世 1
2 佳子内親王 かこ 1994年(平成6年)12月29日 29歳 皇姪
上皇の皇孫
文仁親王第二女子
二世 2
3 彬子女王 あきこ 1981年(昭和56年)12月20日 42歳 皇再従妹
大正天皇皇曾孫
寬仁親王第一女子
三世 3
4 瑶子女王 ようこ 1983年(昭和58年)10月25日 40歳 皇再従妹
大正天皇の皇曾孫
寛仁親王第二女子
三世 4
5 承子女王 つぐこ 1986年(昭和61年)3月8日 38歳 皇再従妹
大正天皇の皇曾孫
憲仁親王第一女子
三世 5

※順序は、摂政の就任順。(成年に達した場合の順序。皇位継承の順序に準ずる。)

2020年(令和2年)1月1日現在
日本における元皇族の女性(皇室典範第12条[8]による臣籍降嫁をした内親王及び女王)[9][10][11]
姓名 読み 御称号 皇族としての
身位
生年月日 現年齢 天皇から見た続柄 / 皇統
1 黒田清子1 くろだ さやこ 紀宮(のりのみや) 内親王 1969年(昭和44年)4月18日 55歳 皇妹 / 第125代天皇上皇第一皇女子
2 池田厚子2 いけだ あつこ 順宮(よりのみや) 内親王 1931年(昭和6年)3月7日 93歳 皇伯母 / 昭和天皇第四皇女子
3 島津貴子3 しまづ たかこ 清宮(すがのみや) 内親王 1939年(昭和14年)3月2日 85歳 皇叔母 / 昭和天皇第五皇女子
4 近衞甯子4 このえ やすこ 内親王 1944年(昭和19年)4月26日 80歳 大正天皇の皇孫/ 三笠宮崇仁親王第一女子
5 千容子5 せん まさこ 内親王 1951年(昭和26年)10月23日 72歳 大正天皇の皇孫/ 三笠宮崇仁親王第二女子
6 千家典子6 せんげ のりこ 女王 1988年(昭和63年)7月22日 35歳 皇再従妹 / 大正天皇の皇曾孫/
高円宮憲仁親王第二女子
7 守谷絢子7 もりや あやこ 女王 1990年(平成2年)9月15日 33歳 皇再従妹 / 大正天皇の皇曾孫/
高円宮憲仁親王第三女子

「女系」天皇と「女性」天皇

語句の類似から、単に女子の天皇を指す女性天皇と混同されることも多いが、皇統についての「女系天皇」と、天皇個人の性別についての「女性天皇」とは異なる概念である。日本では男系天皇が続いてきたので父系で系図をたどると必ず神武天皇にたどり着く。また神話時代も含めて男系であると伝えられているので必ず伊奘諾尊と天照大御神にたどり着く。また女系推進派には天皇自身が男か女かという別とは関係がなく、概念上は女系男性天皇と女系女性天皇の両方が存在しうると主張するものもいる。また逆に、男系についても、男系男性天皇と男系女性天皇が存在しうる。

一般に女性天皇は過去に8人10代存在するとされ、その内の6人8代は6世紀末から8世紀後半に集中するが、いずれも父系に天皇を持つ男系天皇である。また、女性天皇は未婚(生涯独身)か天皇・皇太子の元配偶者(未亡人、再婚せず)であったとされている。

皇族女子は非皇族男子と結婚した場合、その間に生まれた子が皇族となることはなかった。[注釈 2][注釈 3]現在の皇室典範でも皇族女子自身が皇族の身分を離れることが規定されている(第12条)。第38代天智天皇、第40代天武天皇、第42代文武天皇など女性天皇の子が即位した例もあるが、その子の父親すなわち女性天皇の夫もまた天皇・皇太子である。[注釈 4][注釈 5]

要するに、「天皇になることができるのは 『父親→その父親→その父親→・・・・・・・』と遡れば、神武天皇に辿り着く人のみ」ということである。[要説明]

*凡例 濃い赤色は女性天皇、金色は天皇、線(┃)は実子、点線 (----)は夫婦。(過去の女性天皇の解説を中心としているため、一部省略した箇所がある。)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘇我堅塩媛
 
29欽明天皇
 
石姫皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
33推古天皇
 
30敏達天皇
 
広姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大俣女王
 
押坂彦人
大兄皇子
 
糠手姫皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉備姫王
 
茅渟王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
35皇極天皇
37斉明天皇
 
 
 
34舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘇我遠智娘
 
38天智天皇
 
蘇我姪娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
40天武天皇
 
 
41持統天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
49代以降
 
 
草壁皇子
 
 
 
 
43元明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
44元正天皇
 
藤原宮子
 
42文武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光明皇后
 
45聖武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
46孝謙天皇
48称徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
108後水尾天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
109明正天皇
 
110後光明天皇
 
111後西天皇
 
112霊元天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
115桜町天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
117後桜町天皇
 
116桃園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
118後桃園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 


ただし、英国王室のように長子制を導入すれば、天皇の系譜をたどることで最初の天皇にたどりつき、系譜から見た天皇になりうる皇位を一意に判断でき血統も強くなる。例えば南北朝時代皇族の断絶によりほぼ他人ともいえる7親等が皇位を継承してしまったが、長子制で有れば不妊ということに陥らない限り天皇から1親等以内、不妊の場合でも2親等以内で繋ぐなど血統の希釈化を抑えることができる。このようなことから長子制を推す声もある。[1]

男系男子から皇族女子への「婿入り」

過去において、見ようによっては「婿入り」と見られる事例が少なくとも3例ある。しかいずれも皇統の男系子孫である

第26代継体天皇
第25代武烈天皇には男子がおらず兄弟もいなかったため近江国から来て即位し、武烈天皇の姉である手白香皇女と婚姻した。[12]継体天皇は応神天皇の男系の5世孫(曾孫の孫)とされている。
第49代光仁天皇
第38代天智天皇の男系の孫である。壬申の乱の後、天皇の皇統は天武天皇系統に移った。その後第45代聖武天皇の皇女井上内親王と結婚。しかし度重なる粛清によって天武天皇の嫡流(男系)にあたる皇族がいなくなっていたため即位。
第119代光格天皇
第113代東山天皇の男系の曾孫。第118代後桃園天皇が崩御したときに皇子がおらず近親にも有力候補がいなかったため、世襲親王家閑院宮家から選ばれ即位。後桃園天皇のただ一人の皇女欣子内親王と結婚。

女系天皇に擬せられるもの

第44代元正天皇は母親である第43代元明天皇から皇位を譲られており、母親のみが天皇である。父親・草壁皇子皇太子であったが即位しておらず、天皇である母親から皇位を継承している事から、元正天皇は女系天皇であるという説である。また元正天皇は男系を辿れば天武天皇の孫に当たる3世皇族であるが、即位前から母親の元明天皇の血筋により内親王とされていた。

しかし、そもそも「(血統上)女系であること」と「(皇位が)女系で継承されたこと」とは全く異なる。

元正天皇の父は草壁皇子であり、草壁皇子の父は天武天皇である。

「男系天皇」というのは「血統上、父親をたどっていけば天皇に行き着く」という意味であり、元正天皇はまぎれもない「男系天皇」なのである。

「父親が天皇でない」から「男系ではない」という考え方もありうるが、「父親が天皇でない天皇」はこれ以前にも以後にも何人も存在するのであって、そうすると歴史上何人もの天皇が「男系ではなかった」ことになってしまう。

さらに言えば、「男系天皇である(=父親をたどれば天皇に行き着く)こと」と「女系天皇である(=母親をたどれば天皇に行き着く)こと」とは、互いに矛盾しない。

元正天皇の母は元明天皇なので、元正天皇は「男系天皇」かつ「女系天皇」であるといえる。

これらを踏まえると、「元明→元正で女系継承が行われた」という論説は、「それがどうした」という程度の取るに足らない話である。

元明天皇(父は天智天皇)も元正天皇も男系天皇であった以上、「男系でない天皇が即位した」などということは一度も起きていない。

もし、「奈良時代に女系継承が行われたのだから、現代においても女系天皇を容認すべきだ」という議論があるのであれば、それは上記の通り血統と継承を都合よく混同した、事実誤認の甚だしいものである。

また、この元明天皇元正天皇の前例に則り、仮に女性皇族が即位しても夫が皇統に属する男系男子の旧皇族旧宮家)であれば男系が維持されるという意見もある。

天皇以外の女性君主

明治以前は、天皇が在位していない期間に天皇として役割を果たした神功皇后を天皇とみなしていたこともあるが神功皇后の男系祖先は開化天皇である。ほかにも、飯豊皇女春日山田皇女なども政治を司ったという意味で天皇ではなかったかという考え方もあるが両皇女も同様に男系で皇統に属する皇女である。[注釈 6]

欧州王室との相違

他の君主国の例を挙げると、イギリスの場合では、女系男性王の誕生、あるいは王家の血を引く貴族や他国の君主を招くことなどで、連合王国時代の君主で6回、前身の一つのイングランド君主も含めると何度も王朝交代がなされている[注釈 7][13]。なお、こうしたイギリスとの比較は日本の国体における皇室を考える上では異質なものであるという意見もあり、西尾幹二は『国民の歴史』の中で、「天皇とは血筋と神話がすべて」であると断言し、神武天皇から受け継がれているとされる男系の血筋やその神話が日本の皇室の存立にとっての最重要点であるとしている[14]

その他のヨーロッパの王室も日本の皇室とは歴史的背景等が異なるので同列には並べられないが、ここに相違点を以下に挙げる。

継承は男子のみ
かつてヨーロッパの主要な国(ドイツ・フランスなど)では、王位を男系男子のみに継承させていた(男系女子を排除する点で日本と異なる)。これは、サリカ法典やその影響を受けた部族法などにおける男子のみ土地を相続するという規定が、後世に王位継承法として援用されたためである。ただし、ブリテン島、イベリア半島や東欧などで女系に依る相続や女王は男系男子がいない場合には許容されていた。欧州ではキリスト教が排斥対象から国教として普及したことで王室にもキリスト教の一夫一妻制が適応されるようになった後は、どの国でも歴史上、男系男子の断絶により女系の王族が即位し、新たに王朝を開くということがしばしばあった。そのため、少なく見積もってもほぼ1500年は確実に系譜を辿り得る日本の皇室のような王朝は、約800年にもわたってフランスを統治し、現在もスペインを統治しているカペー朝の男系一族を例外として存在しない。
側室
キリスト教の影響で側室を認められていなかった。さらに王の妾の子供は私生児であるため王位継承権は存在しない。このため男系男子のみに継承させる制度自体がキリスト教国においては不可能に近い。日本においては側室が認められていたので叔父や甥まで含めると男系男子が多数存在しその維持に問題が存在しなかった。
結婚相手
ヨーロッパでは男系であれ女系であれ、代々王族同士(他国の王族ないしこれに準ずる有力貴族を含む)の間に生まれた嫡子のみに王位を継承させていた。王族の国際結婚が盛んで、父が他国の王族であっても血縁は繋がっていることが多かったため、女系による王朝交代が円滑に行なわれたのだとする説もある。しかし古来日本の皇室では、皇位を継承するためには父のみ皇族であればよく、臣民女子との間に生まれた子が即位した例はきわめて多い。このような例は貴賎結婚に極めて厳格だったヨーロッパの王室ではあまり見られないことである。
女系継承者
20世紀後半に入ってから、ヨーロッパの君主国のほとんどが男系女子や女系(父は臣民でもよい)にも王位継承資格を与えるようになったが、このような改革の多くは「男女平等」をその理由とし、必ずしも男系男子の不足とは関係がない[要検証]。また、嫡子が姉―弟の場合は弟の継承権が先のままの所もある。

現代の皇室と女系天皇の議論

皇室には1965年の秋篠宮文仁親王誕生から2006年の悠仁親王誕生までの41年間、皇室から男系男子が生まれなかったため、将来において皇統が断絶するのではと危惧されており、継承原理を改変して女系継承を容認すべきとする意見もある。悠仁親王誕生によって時間的猶予ができたが、男系論者、女系論者ともに皇位継承問題皇族についての議論を続けていくことで認識は一致している。

現在、配偶者が存命の皇族の后妃は上皇后美智子(89)・皇后雅子(60)・皇嗣妃紀子(57)・正仁親王妃華子(83)の4名のみ。このため現在の皇室典範で天皇を存続させるには悠仁親王(17)が将来男子を授かるのを望むしかない状況である。

また旧皇族を皇籍復帰させるという意見もある。これは5世孫の原則といった、継体天皇の先例にも則っており、歴史的観点から問題が生じることはない。

日本国憲法第3条第4条には「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」とあり、天皇の政治発言は認められていない。皇族(皇族とは皇室に属する天皇以外の人を指す)が発言することについて規定している法律はないが、憲法第4条の規定は皇族にも及ぶとの解釈が一般であり、皇族自身も戦後は政治へ介入することを極力避けてきた。そのため、天皇や皇族が皇位継承問題についてどのような意見を持っているかは、なかなか明らかになっていない。

(以下、発言当時の身位等によるまとめ)

明仁(上皇)

2005年(平成17年)12月19日、上皇明仁:当時の身位は天皇)は、自身の誕生日に際して記者会見を行なった。そこでは記者から「これまで皇室の中で女性が果たしてきた役割を含め、皇室の伝統とその将来」について事前質問があり、上皇は「皇室の中で女性が果たしてきた役割については私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思います」と述べたが、「皇室典範との関係で皇室の伝統とその将来」については回答を控えた[15]

なお、その後に記者からの関連質問が予定されていたが、宮内庁は「時間の都合」を理由に会見を打ち切った。これに対して記者会は22日に抗議文を提出し、宮内庁は「思い違い」で会見を打ち切ってしまったことを謝罪する一幕があった。

このように、上皇と上皇后は皇位継承問題について一切態度を明らかにしていない。これまでに橋本明をはじめとする、上皇のいわゆる「ご学友」たちが、週刊誌上やワイドショーに登場し、「学生時代から開明だった陛下は女性・女系天皇にも賛成しているだろう」などのコメントをしているが、いずれもあくまで部外者による推測の域を出ない。

  • 武部勤(当時自由民主党幹事長)は、2006年(平成18年)1月17日全国都道府県議会議長会自由民主党三役との懇親会で、皇室典範改正法案に関して、「(皇室典範改正は天皇)陛下のご意思だ」「こんなことを国会で議論すること自体、不敬な話なんだ」と発言した。
  • 宮内庁総務課報道室は「天皇陛下におかれては、記者会見で、『皇位継承制度は法律に基づく制度の問題で、国会で議論されることであり、発言を控えたい』とお答えになっています」と発表している。
  • 記者の質問に対し上皇は「国会の議論に委ねることになる」のあとに、必ず逆接的表現で、「意見を聞いてもらいたい」と付け加えられている。

美智子(上皇后)

2006年(平成18年)10月20日上皇后(当時の身位は皇后)は、72歳の誕生日を迎えた。これに先立って、宮内記者会は「次々代を担う女性皇族にどのような役割や位置付けを期待するか」という質問を寄せたが、上皇后は文書による回答で「皇室典範をめぐり、様々に論議が行われている時であり、この問に答えることは、むずかしいことです」と述べ、回答を控えた[16]

徳仁(今上天皇)

2006年(平成18年)2月21日、今上天皇(徳仁:当時の身位は皇太子)は、46歳の誕生日に際しての記者会見にて、記者からの「皇室典範に関する有識者会議が最終報告書を提出し、女性・女系天皇を容認する方針が示されました。今後の皇室のあるべき姿に関する考えや敬宮愛子様の将来について、父親としてのお気持ちをお聞かせください」という質問に対して、「皇室典範に関する有識者会議が最終報告書を提出したこと、そしてその内容については、私も承知しています。親としていろいろと考えることもありますが、それ以上の発言は控えたいと思います」と述べた。

寬仁親王

寬仁親王は、自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」の会報で、「プライヴェート」な形式と断った上で「歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と女系天皇への反対姿勢を表明した[17]

寬仁親王は「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と主張し、「陛下や皇太子様は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりません」「国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇』はいらないという議論にまで発展するでしょう」と結んで、女系天皇容認の動きにこれまでの歴史と伝統を尊重しないとする強い懸念を表明した。また、男系継承を維持するための方法として、歴史上実際に取られたことのある以下の4つを挙げている[18]

  1. 皇籍離脱した旧皇族を皇籍に復帰させる。
  2. 皇族女子(内親王および女王)に旧皇族の男系男子から養子を取れるようにし、その方に皇位継承資格を与える。
  3. 廃絶になった秩父宮高松宮の祭祀を、伏見宮家の子孫である旧皇族の男系男子が継承し、宮家を再興する。これは、明治時代に現皇室の祖先である光格天皇の実家である閑院宮家が絶えた際、伏見宮家から養子を迎え継承した先例があり、何も問題がなく、最も順当な方法である。
  4. 昔のように「側室」を置く。自分(寬仁親王)としては大賛成だが、国内外共に今の世相からは少々難しいかと思う。

また、寬仁親王は皇位継承問題につい三笠宮一族は、同じ考え方であるといえる」と、父・三笠宮崇仁親王と母の百合子妃も歴史と伝統に反する皇室典範改正に反対していることを初めて明らかにした[19]。また、寬仁親王は、崇仁親王が2005年10月、宮内庁風岡典之次長を呼んで、皇室典範改正に向けた拙速な動きに強く抗議したことを紹介した[19]。また、皇室典範改正は「郵政民営化や財政改革などといった政治問題をはるかに超えた重要な問題だ」と指摘するとともに、自身の発言に対して宮内庁の羽毛田信吾長官らが「正直、困ったな」「皇族の立場を改めて説明する」などと重ねて憂慮を表明していることに関しては、「私がこういうインタビューに応じたり、かなり積極的に発言しているのは国家の未曾有の大事件と思うので、あえて火中の栗を拾いに行っているような嫌いがあります」と述べ、女系天皇容認の動きに対抗する意思を明確にした。

高松宮妃喜久子

高松宮宣仁親王妃喜久子敬宮愛子内親王誕生のおり、女性天皇の即位を「不自然な事ではない」と容認する意見を雑誌『婦人公論』に寄稿した。しかし、女系天皇については明言しなかった。

彬子女王

寬仁親王の長女、彬子女王2010年(平成22年)10月25日発売の季刊誌『皇室 Our Imperial Family』第48号(平成22年秋号)インタビューにおいて、「男系継承の伝統を大事にしていかねばならない」という意見を表した。

皇室系図(神代から現代まで)

  • 各人の囲み上部の数字は生年と没年、下部の数字は即位年と退位年、「前」は紀元前、「?」は不詳を示す。
  • 太字は漢風諡号、生没年に併記されているのは諱、斜体字は別名。
  • 赤色の囲みは女性を示す。
  • カッコ付きの太数字は天皇の代数。

天照大御神
 
 
 

天忍穂耳尊
 
 
 

瓊瓊杵尊
 
 
 

彦火火出見尊
 
 
 

彦波瀲武盧茲草葺不合尊
 
 
 
前711-前585
神武天皇
前660–前585(1)
 
 
 
前632-前549
綏靖天皇
前581–前549(2)
 
 
 
前577-前510
安寧天皇
前549–前510(3)
 
 
 
前553-前476
懿徳天皇
前510–前476(4)
 
 
 
前506-前393
孝昭天皇
前475–前393(5)
 
 
 
前427-前291
孝安天皇
前392–前291(6)
 
 
 
前342-前215
孝靈天皇
前290–前215(7)
 
 
 
前273-前158
孝元天皇
前214–前158(8)
 
 
 
前208-前98
開化天皇
前157–前98(9)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前148-前29
崇神天皇
前97–前29(10)
 
 
 
 
彦坐王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前68–紀元後70
垂仁天皇
前29–70(11)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前13–130
景行天皇
71–130(12)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
82?–113?
日本武尊
 
84–191
成務天皇
131–191(13)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 148? –200
仲哀天皇
192–200(14)
 
 
 
 
170-269
神功皇后
摂政 201–269
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
200-310
應神天皇
270–310(15)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
257–399
仁徳天皇
313–399(16)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛二派皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 336? –405
履中天皇
400–405(17)
 
 336? –410
反正天皇
406–410(18)
 
 376? –453
允恭天皇
413–453(19)
 
忍坂大中姫
 
意富富杼王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐皇子
 
 
 
 
 
401-456
安康天皇
454–456(20)
 
418-479
雄略天皇
456–479(21)
 
乎非王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
440-484
飯豊青皇女
臨朝秉政 484
 
大脚 449-498
仁賢天皇
488–498(24)
 
450-487
顯宗天皇
484–487(23)
 
444-484
清寧天皇
480–484(22)
 
彦主人王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
489-507
武烈天皇
498–507(25)
 
手白香皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
450-531
繼體天皇
507–531(26)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
509-571
欽明天皇
540–571(29)
 
465-536
安閑天皇
531–536(27)
 
高田 467-539
宣化天皇
536–539(28)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
538-585
敏達天皇
572–585(30)
 
額田部 554-628
推古天皇
593–628(33)
 
 540? -587
用明天皇
585–587(31)
 
泊瀬部  553? –592
崇峻天皇
587–592(32)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
押坂彦人大兄皇子
 
 
 
 
 
574-622
厩戸皇子
聖徳太子
摂政 593-622
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茅渟王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
軽 596-654
孝徳天皇
645–654(36)
 
宝 594-661
皇極天皇
642–645(35)
斉明天皇
654–661(37)
 
 
 
田村 593-641
舒明天皇
629–641(34)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葛城 626-672
天智天皇
661–672(38)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大友 648-672
弘文天皇
672(39)
 
 
 
 
鸕野讚良 645-701
持統天皇
690–697(41)
 
 
 
大海人 631?-686
天武天皇
672-686(40)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
668?–716
志貴皇子
(春日宮天皇)
 
 
 
阿閇 661-721
元明天皇
707-715(43)
 
662–689
草壁皇子
(岡宮天皇)
 
 
676–735
舎人親王
(崇道尽敬皇帝)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
氷高 680-748
元正天皇
715–724(44)
 
珂瑠 683-707
文武天皇
697–707(42)
 
 
大炊 733-765
淳仁天皇
758–764(47)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
首 701-756
聖武天皇
724-749(45)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
? -790
高野新笠
 
白壁 709-782
光仁天皇
770–781(49)
 
717–775
井上内親王
 
阿倍 718-770
孝謙天皇
749–758(46)
称徳天皇
764–770(48)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山部 737-806
桓武天皇
(柏原帝)
781–806(50)
 
750?–785
早良親王
(崇道天皇)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
安殿 774-824
平城天皇
(奈良帝)
806–809(51)
 
神野 786-842
嵯峨天皇
809–823(52)
 
大伴 786-840
淳和天皇
(西院帝)
823–833(53)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正良 810-850
仁明天皇
(深草帝)
833–850(54)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道康 827-858
文徳天皇
(田邑帝)
850–858(55)
 
時康 830-887
光孝天皇
(小松帝)
884–887(58)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟仁 850-880
清和天皇
(水尾帝)
858–876(56)
 
定省 867-931
宇多天皇
887–897(59)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞明 869-949
陽成天皇
876–884(57)
 
敦仁 885-930
醍醐天皇
897–930(60)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛明 923-952
朱雀天皇
930–946(61)
 
成明 926-967
村上天皇
946–967(62)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
憲平 950-1011
冷泉天皇
967–969(63)
 
 
 
 
 
守平 959-991
圓融天皇
969–984(64)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
師貞 968-1008
花山天皇
984–986(65)
 
居貞 976-1017
三條天皇
1011–1016(67)
 
 
 
懐仁 980-1011
一條天皇
986–1011(66)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1013-1094
禎子内親王
 
敦良 1009-1045
後朱雀天皇
1036–1045(69)
 
敦成 1008-1036
後一條天皇
1016–1036(68)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尊仁 1034-1073
後三條天皇
1068–1073(71)
 
親仁 1025-1068
後冷泉天皇
1045–1068(70)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞仁 1053-1129
白河天皇
1073–1087(72)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
善仁 1079-1107
堀河天皇
1087–1107(73)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗仁 1103-1156
鳥羽天皇
1107–1123(74)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕仁 1119-1164
崇徳天皇
1123–1142(75)
 
 
 
雅仁 1127-1192
後白河天皇
1155–1158(77)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
憲仁 1161-1181
高倉天皇
1168–1180(80)
 
 
 
 
 
守仁 1143-1165
二條天皇
1158–1165(78)
 
1140-1202
藤原多子
 
体仁 1139-1155
近衞天皇
1142–1155(76)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1179-1223
守貞親王
(後高倉院)
 
言仁 1178-1185
安徳天皇
1180–1185(81)
 
尊成 1180-1239
後鳥羽天皇
1185–1198(82)
 
順仁 1164-1176
六條天皇
1165–1168(79)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茂仁 1212-1234
後堀河天皇
1221–1232(86)
 
 
 
為仁 1196-1231
土御門天皇
1198–1210(83)
 
守成 1197-1242
順徳天皇
1210–1221(84)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秀仁 1231-1242
四條天皇
1232–1242(87)
 
 
 
邦仁 1220-1272
後嵯峨天皇
1242–1246(88)
 
懐成 1218-1234
仲恭天皇
1221(85)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1242-1274
宗尊親王
1252-1266(鎌倉将軍6)
 
 
 
 
久仁 1243-1304
後深草天皇
1246–1260(89)
 
 
 
 
 
 
恒仁 1249-1305
龜山天皇
1260–1274(90)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1264-1326
惟康親王
1266-1289(鎌倉将軍7)
 
熈仁 1265-1317
伏見天皇
1287–1298(92)
 
 
 
1279-1308
久明親王
1289-1308(鎌倉将軍8)
 
 
 
世仁 1267-1324
後宇多天皇
1274–1287(91)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
胤仁 1288-1336
後伏見天皇
1298–1301(93)
 
富仁 1297-1348
花園天皇
1308–1318(95)
 
1301-1333
守邦親王
1308-1333(鎌倉将軍9)
 
邦治 1285-1308
後二條天皇
1301–1308(94)
 
尊治 1288-1339
後醍醐天皇
1318–1339(96)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
量仁 1313-1348
光厳天皇
1332–1334(北朝1)
 
豊仁 1322-1380
光明天皇
1336–1348(北朝2)
 
 
 
義良 1328-1368
後村上天皇
1339-1368(97)
 
1308-1335
護良親王
征夷大将軍 1333-1334
 
1326-1338/1344
成良親王
征夷大将軍 1334-1338
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
興仁 1334-1398
崇光天皇
1348–1351(北朝3)
 
弥仁 1336-1374
後光嚴天皇
1352–1371(北朝4)
 
寛成 1343-1394
長慶天皇
1368–1383(98)
 
熙成 1350?-1424
後龜山天皇
1383-1392(99)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1351-1416
伏見宮栄仁親王
 
緒仁 1339-1393
後圓融天皇
1371–1382(北朝5)
 
参照:
南朝北朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1372-1456
伏見宮貞成親王
(後崇光院)
 
幹仁 1377-1433
後小松天皇
1382-1392(北朝6)
1392–1412(100)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦仁 1419-1471
後花園天皇
1428–1464(102)
 
躬仁 1401-1428
称光天皇
1412–1428(101)
 
 
 
 
 
 
 
成仁 1442-1500
後土御門天皇
1464–1500(103)
 
 
 
 
 
 
 
勝仁 1464-1526
後柏原天皇
1500–1526(104)
 
 
 
 
 
 
 
知仁 1497-1557
後奈良天皇
1526–1557(105)
 
 
 
 
 
 
 
方仁 1517-1593
正親町天皇
1557–1586(106)
 
 
 
 
 
 
 
1552-1586
誠仁親王
(陽光院)
 
 
 
 
 
 
 
和仁 1572-1617
後陽成天皇
1586–1611(107)
 
 
 
 
 
 
 
政仁 1596-1680
後水尾天皇
1611–1629(108)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
興子 1624-1696
明正天皇
1629-1643(109)
 
紹仁 1633-1654
後光明天皇
1643–1654(110)
 
良仁 1638-1685
後西天皇
1655–1663(111)
 
識仁 1654-1732
靈元天皇
1663–1687(112)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝仁 1675-1710
東山天皇
1687–1709(113)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1704-1753
閑院宮直仁親王
 
慶仁 1702-1737
中御門天皇
1709–1735(114)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭仁 1720-1750
櫻町天皇
1735–1747(115)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1733-1794
閑院宮典仁親王
(慶光天皇)
 
遐仁 1741-1762
桃園天皇
1747–1762(116)
 
智子 1740-1813
後櫻町天皇
1762–1771(117)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
英仁 1758-1779
後桃園天皇
1771–1779(118)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1780-1843
勧修寺婧子
 
師仁 1771-1840
光格天皇
1780–1817(119)
 
1779-1846
欣子内親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
恵仁 1800-1846
仁孝天皇
1817–1846(120)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
統仁 1831-1867
孝明天皇
1846–1867(121)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
睦仁 1852-1912
明治天皇
1867–1912(122)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
嘉仁 1879-1926
大正天皇
1912–1926(123)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
裕仁 1901-1989
昭和天皇
摂政 1921-1926
1926–1989(124)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明仁 1933-
上皇
1989–2019(125)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
徳仁 1960-
今上天皇
2019-(126)
 
1965-
秋篠宮文仁親王
 
1969-
黒田清子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2001-
愛子内親王
 
1991-
眞子内親王
 
1994-
佳子内親王
 
2006-
悠仁親王

脚注

注釈

  1. ^ 歴史的にも太宗は日本の「万世一系」を羨ましがり、江戸初期に訪日したロドリゴ・デ・ビベロは『ドン・ロドリゴ日本見聞録』で、長きにわたる日本の万世一系について特記している[2][3]
  2. ^ ただし、当時女性皇族を母に持つ人間は「宮腹」と呼ばれ、普通の貴族より高貴な存在と目されていた。
  3. ^ また、欽明から推古、斉明にかけての系譜にも少なからず改ざん・造作が行われたとの説もあり、系譜自体も慎重な検討が必要であるとする説もある。それ以前の皇統については、折口信夫の主張する中天皇論等を考慮すれば、女系天皇(純然たる女系あるいは男系でなく双系という意見もある)であった可能性も少なくないとの説もある。
  4. ^ また、歴史学界[誰?]からは相手にされない説であるが、鎌倉時代の『一代要記』、南北朝時代の『本朝皇胤紹運録』に記載の天武の年齢に基づくと、天武は天智より4歳年長であると解釈できることから、一部の研究家により第40代天武天皇の父親は第34代舒明天皇でないとする仮説(佐々克明小林恵子大和岩雄ら)が提唱されており、その場合、父系祖先が天皇でない場合に限り、母親が第37代斉明天皇であったことが皇位継承の条件であったことになるとの主張もあるが、これは仮説であり正式なものとはされていないうえ、[誰によって?]父系祖先が天皇でなかったことが証明できないので成り立たない。しかしこの説によるならば、その系譜から第38代天智天皇らも、男系ではなく女系の天皇と見なしうる。
  5. ^ 古事記』、『日本書紀』にはさまざまな造作が加えられているとされるが、その問題の1つには天皇が男系で継承されてきたように記した点である。古代、氏族としての帰属は父系を原則としていたのは事実としても、生活習慣は基本的に母系制であり、家の継承が常に父系的に行われていたとは考えられないのではないだろうか、ということである(その後の時代も婿養子という制度は残されている)。 現在の日本においては、結婚した夫婦は民法上どちらかの姓を名乗り、その子もその姓を名乗ることとなっているが、現状でそのほとんどが男子(父)の姓を名乗っている。姓をもって家の継承と見なすならば国民においても男系継承が一般的であるといえるが、婿養子あるいは娘の子が跡を継ぐことも少ないながら存在し、かつての女系継承の残滓ともいえるものも見受けられる。
  6. ^ さらに徹底して、折口信夫中天皇あるいは民俗学者[誰?]がいうヒメ・ヒコ制で歴史を整理すれば、『古事記』・『日本書紀』の矛盾の多くが解決し、巨大古墳の被葬者の治定も容易に定まることになるとする意見もある(が、このことは特に皇位継承が女系足り得たかどうかとは関係しない)。
  7. ^ 現在のイギリス王室であるウィンザー朝1917年に始まったドイツ系イギリス人の王族によるもの。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 水間 2019
  2. ^ なぜ「万世一系」が可能だった 『世界が憧れる天皇のいる日本』黄文雄著(産経ニュース、2014年)
  3. ^ ロドリゴ・デ・ビベロドン・ロドリゴ日本見聞録
  4. ^ 2021年(令和3年)10月26日眞子内親王皇籍離脱以降から現在の内親王女王一覧
  5. ^ 皇室の構成図 - 宮内庁”. 宮内庁. 2021年12月24日閲覧。
  6. ^ 天皇及び親王からの続柄
  7. ^ 直系尊属天皇から数えた数
  8. ^ 皇室典範(昭和二十二年法律第三号)「第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」
  9. ^ 2018年(平成30年)10月29日の絢子女王(守谷絢子皇籍離脱以降から現在の元内親王・元女王一覧
  10. ^ 皇室の構成図 - 宮内庁
  11. ^ ご結婚により,皇族の身分を離れられた内親王及び女王 – 宮内庁
  12. ^ 記紀による
  13. ^ イギリス王室1000年の歴史 レッカ社  カンゼン ASIN: B014219DUK
  14. ^ 水間 2019, pp. 63–64
  15. ^ 天皇陛下お誕生日に際し(平成17年)”. 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。
  16. ^ 皇后陛下お誕生日に際し(平成18年)”. 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。
  17. ^ 自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」の会報『ざ・とど』2005年(平成17年)9月30日号の「とどのおしゃべり」というコラム。同誌は会員向けの非売品であるが、『WiLL』2006年1月号がこのエッセイの全文を転載している。
  18. ^ 同年11月3日讀賣新聞
  19. ^ a b 日本会議」(会長・三好達元最高裁長官)の機関誌『日本の息吹』2006年2月号に掲載された「皇室典範問題は歴史の一大事である―女系天皇導入を憂慮する私の真意」と題するインタビュー

参考文献

  • 水間政憲『ひと目でわかる皇室の危機 ~天皇家を救う秘中の秘』ビジネス社、2019年9月。ISBN 978-4828421285 

関連項目