利用者:桂鷺淵/寛政譜/a02
『寛政重修諸家譜』巻26~58
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) 巻1~巻200を収録
- 国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082717/2
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巻26:大草松平[編集]
巻第二十六[編集]
§26-1[編集]
松平大草 ―― |
松平信光の五男・松平紀伊守光重を祖とする。 松平弾正左衛門昌安は岡崎・山中城主であったが、松平清康と戦って敗れ、清康を婿に迎えたという。 松平七郎は三河一向一揆の際、吉良義昭に与して家康に反抗して逐電したという。 松平善兵衛正親は松平家に仕え(清康以来三代に仕えたと主張)、永禄3年(1560年)に討死。 松平石見守康安は家康に仕え転戦、6000石。秀忠の御伽衆となる。 松平正朝・重成の兄弟はともに徳川忠長に附属され、忠長改易後はともに水戸頼房に附属されて家老となるが、両家ともに無嗣絶家。 |
旧刊本 77 |
巻27-28:五井松平[編集]
巻第二十七[編集]
§27-1[編集]
松平五井 図書頭 忠命 |
松平信光の七男・松平大炊助忠景を祖とする。 五井・深溝両家の系譜は、寛永・貞享の呈譜では以下のようになっていた。
『寛政譜』編者の問い合わせに対し、寛永の呈譜は誤りであり、深溝家の古い系図や『松平家忠日記』などをもとに改訂したと回答、 |
旧刊本 79 |
巻第二十八[編集]
§28-1[編集]
松平五井 与次右衛門 忠洪 |
松平与左衛門忠尚は松平外記忠実の二男 | 旧刊本 82 |
§28-2[編集]
松平五井 弥九郎 忠順 |
松平外記伊昌の二男・松平源左衛門宗治は徳川忠長に仕える。 松平作左衛門忠勝は忠長改易に伴い浪人、館林徳川家に仕え番頭。徳松に従い幕臣、御書院番550石。 松平主膳正忠重は舘林家で小姓、幕臣となり御小姓・御書院番士750石。 松平駿河守忠陸は盗賊改・佐渡奉行・勘定奉行を歴任。采地を廩米に改める。
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旧刊本 83 |
巻29-32:深溝松平[編集]
巻第二十九[編集]
§29-1[編集]
松平深溝 主殿頭 忠馮 |
松平大炊助忠景の二男・大炊助忠定を祖とする。
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旧刊本 84 |
巻第三十[編集]
§30-1[編集]
松平深溝 惣兵衛 忠朋 |
松平家忠の二男・松平惣兵衛忠貞は御書院番・1000石。
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旧刊本 89 |
§30-2[編集]
松平深溝 善兵衛 忠寿 |
松平惣兵衛忠貞の二男・彦兵衛忠治は600俵+500石。 采地800石
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旧刊本 90 |
巻第三十一[編集]
§31-1[編集]
松平深溝 庄九郎 忠勧 |
松平家忠の三男・松平庄九郎忠一は大坂の陣で戦死。秀忠の命により弟の兵庫頭忠隆が兄の家を継ぐ。
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旧刊本 91 |
§31-2[編集]
松平深溝 式部 忠寧 |
松平忠隆の二男・隼人正忠冬は町奉行・勘定奉行を歴任。5000石。『家忠日記』の補遺を行う。
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旧刊本 92 |
§31-3[編集]
松平深溝 作五郎 忠之 |
松平忠冬の二男・友之助忠頼が父の遺領から500石を分知される。
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旧刊本 93 |
巻第三十二[編集]
§32-1[編集]
松平深溝 孫大夫 勘満 |
松平忠定の子・十郎右衛門定政は永禄4年に戦死。忠政は采地900石。
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旧刊本 94 |
§32-2[編集]
松平深溝 要人 政周 |
松平忠政の二男・孫右衛門忠勝は、家康の関東転封後、父から三河額田郡の所領160石を譲られる。のち徳川家康に仕える。
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旧刊本 95 |
巻33-38:能見松平[編集]
巻第三十三[編集]
§33-1[編集]
松平能見 次郎右衛門 光福 |
松平信光の八男・松平次郎右衛門光親が祖とされる。 松平庄左衛門(重利)は永禄3年(1560年)尾張で戦死 |
旧刊本 96 |
§33-2[編集]
松平能見 十左衛門 昌戩 |
松平昌吉(33-1)の三男・十左衛門昌忠が徳川家光に召し出され、500石
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旧刊本 98 |
§33-3[編集]
松平能見 千次郎 光信 |
松平昌吉(33-1)の四男・勝左衛門照昌が別家を立て、廩米300俵。
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旧刊本 98 |
巻第三十四[編集]
§34-1[編集]
松平能見 千橘 義栄 |
松平昌利(33-1)の二男・長右衛門昌舎は徳川忠長に附属されたのち幕臣となり、大坂御蔵奉行などを務める。
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旧刊本 99 |
§34-2[編集]
松平能見 新八郎 正名 |
松平昌利(33-1)の三男・伝六郎昌信は徳川忠長に附属されたのち幕臣。 松平右近大夫利正は徳川家綱の側近(御小納戸)を務め昇進・加増。1650石。 |
旧刊本 100 |
§34-3[編集]
松平能見 藤五郎 昌広 |
松平昌信(34-2)の二男・彦左衛門昌定が別家。
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旧刊本 100 |
巻第三十五[編集]
§35-1[編集]
小沢 ―― |
松平十平は松平重吉(33-1)の三男。瀬兵衛忠重のとき小沢に改める。知行1500石。 小沢瀬兵衛忠重は目付在任中?の「僻事」が発覚し、山岡景長とともに改易されるが、のち赦免。 忠重死後、忠秋・重長兄弟の間で家督と分知をめぐる争論が勃発、 重長に非ありとして伊豆大島に流罪とされ、のち赦免され江戸にもどる。 瀬兵衛定員は家族ともども不品行が咎められ追放。 |
旧刊本 101 |
§35-2[編集]
小沢能見松平支流 百之助 重光 |
小沢忠重(35-1)の長男・半右衛門忠秋が出仕、700石を知行
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旧刊本 102 |
§35-3[編集]
小沢能見松平支流 新十郎 忠安 |
小沢忠重(35-1)の三男・勘兵衛幸秋が別家、館林徳川家(綱吉)に仕え小姓頭。
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旧刊本 102 |
巻第三十六[編集]
§36-1[編集]
松平能見 駿河守 親賢 |
杵築藩主家。松平大隅守重勝は松平重吉(33-1)の四男。
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旧刊本 103 |
§36-2[編集]
松平能見 図書 勝政 |
松平図書重長は丹後守重直(33-1)の二男 | 旧刊本 105 |
§36-3[編集]
松平能見 ―― |
松平重直(33-1)の三男・松平兵庫頭直政は御小姓となり、父の遺領から2000石分知。 松平民部武郷は駿府城番を務めていた際の落ち度と日頃の行状が罪とされ預け処分、絶家。 |
旧刊本 105 |
§36-4[編集]
松平能見 八郎右衛門 正融 |
松平重直(33-1)の四男・松平五郎左衛門正方は御小姓にはじまって御先鉄砲頭などを務め、知行1100石。 | 旧刊本 106 |
巻第三十七[編集]
§37-1[編集]
松平能見 ―― |
松平大隅守重則は松平重勝(36-1)の三男、大番頭・御留守居を歴任、皆川藩主1万500石。 松平伝次郎重利が7歳で没し無嗣絶家。 |
旧刊本 106 |
§37-2[編集]
松平能見 伝三郎 勝興 |
松平出雲守勝隆は松平重勝(36-1)の五男。外祖父・鳥居元忠のもとで成長。佐貫藩1万5000石。 松平重治は奏者番・寺社奉行を歴任するが、みだりに身分の低いものに交わったとして所領没収・保科正容に永預となる。 松平団之助勝秀は罪を赦され500石で出仕。 |
旧刊本 106 |
巻第三十八[編集]
§38-1[編集]
松平能見 大隅守 勝武 |
松平重治(37-2)の養弟・忠左衛門勝制が養兄から新田500石を分知される
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旧刊本 108 |
§38-2[編集]
鈴木 ―― |
能見支流。松平図書助親友は松平光親(33-1)の二男。権兵衛重弘のとき、松平をはばかり、母方の鈴木に改める。鈴木権右衛門のとき無嗣絶家。 複数の家がこの家との縁故を主張しているが、按文では絶家や陪臣化にともなう系譜の混乱を指摘し退けている。
鈴木鍋三郎政利の呈譜にある、家祖政勝の子「鈴木善左衛門」は松平清右衛門親次と没日・法名が同一であるが、按文では退ける。
梶正易(564-1)およびその本家に当たる梶勝与《本多忠顕家臣》の家伝では、忠綱までは同じであるが、忠綱を慶長7年没として異なる系譜を伝え、松平勝忠=梶正道が家を継いだという。按文によれば、梶家は『寛永譜』では平氏とされており、能見松平家と結び付けるのは不審とする。このほか松平光福の譜でも図書親友を梶の祖とし、忠澄の二男・勝忠が忠綱を継いだとあるが、按文は系譜の錯乱として退けている。
「或本」は以下のような系譜を掲げる(別の系譜では、親次・忠倫・重弘を兄弟とする)。松平忠倫は三河国佐々木を領し(佐々木松平家)、宇利針崎の砦に籠って松平広忠に反旗を翻したため、天文16年に広忠の命を受けた筧重忠が砦に忍び込んで忠倫を殺害。これにより当家は没落した。忠就は一向一揆に与して大草の砦に拠り、のちに西国に逃れて加藤清正に仕え、天正14年に天草で戦死したという。貞享の五井松平家の呈譜に三左衛門・三蔵・権兵衛が兄弟であったと記す系譜があるが、寛政譜編者では没年が離れすぎ兄弟であるかは疑わしいとしつつ考証を記している。
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旧刊本 108 |
巻39:松平郷松平[編集]
巻第三十九[編集]
§39-1[編集]
松平 太郎左衛門 信言 |
「松平郷松平家」。 | 旧刊本 110 |
§39-2[編集]
松平 次郎左衛門 信民 |
松平隼人佑信吉の三男(今の呈譜に信吉の子:隼人佑親長の三男とする)松平民部重正が別家。 松平次郎左衛門信貞が家康に仕え400石。
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旧刊本 111 |
巻40-41:長沢松平[編集]
巻第四十[編集]
清和源氏(義家流 松平支流) |
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§40-1[編集]
松平長沢 ―― |
呈譜によれば家祖・松平源七郎親則は松平信光の子とされるが、『寛永譜』では松平支流の一つとされ出所は不明。 松平上野介康忠は清康の娘・矢田姫を娶り(家康の母方叔父)、家康に仕えた。康直以前は系譜に諸説がある。 松平源七郎康直は深谷1万石に封じられたが父に先立つ。 康直の死後、直信が養子として家督を継いだが、多病によって出仕がかなわず、三河国に閑居した。 また『寛永譜』によれば康直は故あって家督を継ぐことができず、家康の子の松平松千代・松平忠輝が家督を継承されたとされるが、 本文には採用されず、末尾に考証が付されている。
松平直信の項目には、三河国で子孫が続いていることを記す。
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旧刊本 112 |
§40-2[編集]
松平長沢 ―― |
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旧刊本 113 |
§40-3[編集]
松平長沢 与一右衛門 親悦 |
旧刊本 114 |
巻第四十一[編集]
§41-1[編集]
松平長沢 銕三郎 親善 |
旧刊本 115 |
§41-2[編集]
松平長沢 市三郎 正意 |
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旧刊本 116 |
§41-3[編集]
松平長沢 大蔵少輔 信強 |
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旧刊本 116 |
巻42:松平(忠政系ほか)[編集]
巻第四十二[編集]
§42-1[編集]
松平 彦大夫 忠元 |
家康の異母兄・松平忠政の子孫と称する家。長文の考証あり。 呈譜によれば、大給松平乗正の娘(妙琳)が、松平広忠との間に2男を儲けた。 『寛政譜』は、長沢松平氏の呈譜に孫三郎某(信重)-右京長次とある長次を「長清」と同一と考証。
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旧刊本 117 |
§42-2[編集]
松平 万之助 政備 |
松平彦大夫政勝の二男・次郎右衛門政房が徳川家綱に仕え御小姓。
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旧刊本 119 |
§42-3[編集]
松平 平十郎 政親 |
松平彦大夫政勝の四男・彦十郎政真が徳川家綱に仕え御小姓組に列する。
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旧刊本 119 |
§42-4[編集]
松平 ―― |
松平右京長次の養子・松平十左衛門長正が家を立てる。 松平七郎左衛門の時、妻の兄弟・小笠原兵蔵とトラブルを起こし、改易される
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旧刊本 120 |
§42-5[編集]
松平 ―― |
初代松平藤三郎は広忠に仕えたという。重俊が富士見番。 藤太郎(富士見御宝蔵番)のときより「呈譜の列にあらず」、又次郎のとき「罪ありて家たゆ」。
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旧刊本 120 |
巻43:鵜殿松平[編集]
巻第四十三[編集]
§43-1[編集]
松平 源蔵 義崇 |
松平康孝の庶子・松平越後清長(寛永譜では越後守清吉)の子孫と称する家。考証あり。
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旧刊本 120 |
§43-2[編集]
松平 与右衛門 清達 |
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旧刊本 121 |
§43-3[編集]
松平 六右衛門 政員 |
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旧刊本 122 |
巻44:西福釜松平・岩津松平[編集]
巻第四十四[編集]
§44-1[編集]
松平 ―― |
西福釜松平家(Category:西福釜松平氏)。松平親忠の四男・松平親光を祖とする。家伝によれば以下。
本文では行隆からを採用。行隆は家康に仕え、島原の乱での軍令違反を理由とする追放を経て復帰し、最終的に1300石。 |
旧刊本 123 |
§44-2[編集]
松平 田宮 栄隆 |
松平隆欽(44-1)の二男・田宮幸隆が500石を分知される。 恒隆は佐野政言による田沼意知襲撃の際現場に居合わせ、一時出仕停止。 栄隆は寛政8年、将軍が琉球人の音楽を聴いた際に指揮を誤り、一時拝謁停止。
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旧刊本 124 |
§44-3[編集]
松平 甚三郎 義久 |
松平行隆(44-1)の二男・六左衛門隆春が300石を分知される。 養子の隆任は行隆(44-1)の外孫。義堯の時、弟の義良の不祥事に連座し小普請入り・逼塞処分
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旧刊本 125 |
§44-4[編集]
松平 九郎左衛門 親以 |
岩津松平家(Category:岩津松平氏)。「松平信光の長男」松平親長を祖と称する家。家伝では下図の通り。 松平宮内左衛門勝次は家康に仕え、奥平信昌に属して長篠城で戦死。三子(勝成・宗正・知勝)が残されて親族に養われ、皆奥平家に仕えた。 宗正は奥平忠政に仕えたが、同家断絶後出家したという。知勝の子で宗正の家を継いだ親雄の二男が尹親とされる。
考証では岩津松平家の松平親長(松平親忠の子とされる)の記載との齟齬を指摘し、尹親以後を採用している。
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旧刊本 125 |
巻45-47:三河小栗[編集]
巻第四十五[編集]
§45-1[編集]
小栗 又一 信顕 |
三河小栗氏(Category:三河小栗氏)。松平氏の庶家とされる。 『寛永譜』では松平市郎から始まり、その子の仁右衛門が外家の氏である「小栗」に改めたという。 「今の呈譜」では松平郷松平家に発祥し、岩津城主となった信吉が松平親長(のちの岩津家祖)に家督を譲ったものの、 その後に小栗正重(514-1)の妹との間に一郎(のち二右衛門)忠吉を生んだという。 考証では疑わしさを指摘し、松平市郎からの系譜としている。 又一忠政は知行2550石。政信は2000石を継ぎ、その後の加増により2500石。 |
旧刊本 126 |
巻第四十六[編集]
§46-1[編集]
小栗 仁右衛門 信崇 |
小栗忠政(45-1)の子の二男・仁右衛門信由、父の遺領より550石を分知され、その後加増を受け750石。
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旧刊本 128 |
§46-2[編集]
小栗 安五郎 信安 |
小栗忠由(46-1)の二男・又左衛門信則は徳川綱吉に仕える。信忠が幕臣となり廩米200俵。
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旧刊本 129 |
§46-3[編集]
小栗 又蔵 信陽 |
小栗忠政(45-1)の三男・又兵衛信友が知行を与えられ、最終的に530石+200俵。市右衛門信親は530石を継ぐ。
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旧刊本 129 |
§46-4[編集]
小栗 五郎左衛門 信穣 |
小栗信友(46-3)の三男・半蔵信常が廩米300俵を与えられる。
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旧刊本 130 |
巻第四十七[編集]
§47-1[編集]
小栗 又左衛門 信久 |
小栗信友(46-3)の四男・備中守信盛、父の廩米200俵を継ぎ、御書院番・御使番頭・御目付を歴任、最終的に1000石。 信定はうち600石を継ぐ。
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旧刊本 130 |
§47-2[編集]
小栗 鍔五郎 信近 |
小栗信盛(47-1)の二男・十郎左衛門が父の遺跡のうち廩米400俵を相続、のち甲府勤番。
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旧刊本 130 |
§47-3[編集]
小栗 小十郎 忠挙 |
小栗忠政(45-1)の四男・半右衛門忠次が知行400石を与えられる。又大夫忠珍は御先弓頭を務め、100石加増され500石。 | 旧刊本 131 |
§47-4[編集]
小栗 ―― |
甚丞吉次は小栗仁右衛門吉忠(45-1)の二男。甚之丞吉忠のとき知行500石。その子にあたる甚丞は、息子とともに博奕をおこない遠流。
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旧刊本 132 |
巻48:松平庶流(本目・桜井)[編集]
巻第四十八[編集]
§48-1[編集]
銀蔵 正光 |
家祖の隼人義長は「大給の末子」といい、松平を称す。義正は若いころに松平康親に属したが、のちに伊豆に浪居。 小田原攻めの際に石川家成によって召し出され、箱根の道案内や伏兵の発見に功績があり、家康の命により家名を「本目」に改める。
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旧刊本 132 |
§48-2[編集]
本目 久之丞 正広 |
本目讃岐守正房は、本目正直(48-1)の五男。甲府松平家に仕え、家宣に従い西の丸小姓、ついで本丸の勤務となり750石。
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旧刊本 133 |
§48-3[編集]
桜井 徳蔵 定芳 |
幕府茶道頭を務めた桜井宗伝・桜井宗恩の家。 桜井松平家の松平清定(5-1)の子孫と称するが、桜井松平家側では該当人物は確認できないとする。 『寛永譜』では清定の子・宗林を祖、二代目を宗念とする。今の呈譜では清定の二男・次郎太郎信高を祖とし、二代目を宗念とする。 宗林の子・小太郎正信は桜井を改めて堀を称したというが、呈譜では信高の弟とする。 正善のとき、正信の家を継ぐとしてはじめ堀を称したが、のち桜井に改めたといい、桜井宗伝として御茶道頭を務めた。 子の桜井宗恩も御茶道頭を務める。 |
旧刊本 133 |
巻49:会津松平[編集]
巻第四十九[編集]
清和源氏(義家流) |
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§49-1[編集]
松平 若狭守 容住 |
会津松平家(Category:会津松平家) | 旧刊本 134 |
巻50:越智松平[編集]
巻第五十[編集]
§50-1[編集]
松平 右近将監 武厚 |
越智松平家(Category:越智松平家)。徳川綱重の二男(徳川家宣の弟)清武を祖とする。 | 旧刊本 139 |
巻51:奥平松平[編集]
巻第五十一[編集]
§51-1[編集]
松平 下総守 忠和 |
奥平松平家(Category:奥平松平家)。 奥平信昌の四男で、家康の外孫であった忠明が、家康の養子となり松平の称号を与えられる。 |
旧刊本 142 |
§51-2[編集]
松平 玄蕃頭 忠福 |
旧刊本 144 |
巻52:久松松平(康元系)[編集]
巻第五十二[編集]
§52-1[編集]
松平 因幡守 康盛 |
久松俊勝の二男・因幡守康元が、家康の異父弟であることをもって松平の称号を与えられる(Category:久松松平家康元系)。 松平因幡守忠憲が無嗣により封地収公。弟の佐渡守康尚が「譜第の御好みをおぼしめされ」名跡を嗣ぐ。 佐渡守忠充は重臣3人を切腹させる等の所行が「狂気」のためとされ城地没収。 「家柄をおぼしめされ」子の又四郎康顕・造酒之丞尚慶(のち中務少輔康郷)に知行地が与えられ寄合に列する。 康郷はのち兄の跡を継ぎ要職を歴任、97歳で没。
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旧刊本 146 |
§52-2[編集]
松平 主膳 忠幸 |
松平忠良(55-1)の長男・松平采女忠利は庶子のため家を継がず、父の遺領から5000石を分けられて別家を立てる | 旧刊本 148 |
巻53:久松松平(勝俊系)[編集]
巻第五十三[編集]
§53-1[編集]
松平元久松 中務少輔 勝升 |
久松俊勝の三男・源三郎勝俊が、家康の異父弟であることをもって松平の称号を与えられる(Category:多古松平家)。 勝俊は今川家に人質として送られたあと武田家に抑留され、その後の脱出時に凍傷で両足の指を失う。 松平大蔵少輔勝以のときに大名に列する。
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旧刊本 149 |
§53-2[編集]
松平 佐左衛門 勝秀 |
松平勝義(53-1)の四男・松平織部勝光が御小姓組に出仕、のち父の遺領から500石を分知される。
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旧刊本 151 |
§53-3[編集]
松平 源六郎 勝方 |
松平勝義(53-1)の六男・松平半十郎勝郷が御小姓組に出仕、のち父の遺領から500石を分知される。 | 旧刊本 151 |
§53-4[編集]
松平 ―― |
松平勝義(53-1)の七男・松平宇右衛門勝秀が御書院番となり300俵。 松平権七郎勝尹は宗家を継ぎ廩米収公。
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旧刊本 152 |
巻54-58:久松松平(定勝系)[編集]
巻第五十四[編集]
§54-1[編集]
松平元久松 隠岐守 定国 |
久松俊勝の四男・隠岐守定勝が、家康の異父弟であることをもって松平の称号を与えられる(Category:松平隠岐守家)。
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旧刊本 152 |
§54-2[編集]
松平 ―― |
旧刊本 156 |
巻第五十五[編集]
§55-1[編集]
松平 越中守 定信 |
松平定勝(54-1)の三男・松平越中守定綱を家祖とする。 | 旧刊本 156 |
巻第五十六[編集]
§56-1[編集]
松平 定太郎 定朝 |
松平定勝(54-1)の四男・松平信濃守定実は7000石を知行。大坂の陣で奮戦するも軍令違反で勘気を蒙り、兄定行の所領・掛川に蟄居。 父の遺領から7000石を継ぐよう台命があったものの、多病を理由として辞退。 織部定之が赦免を受けて召し出され2000石。主馬定相は母方従弟浅野長矩に連座し一時出仕停止。 |
旧刊本 160 |
§56-2[編集]
久松 左仲 定敞 |
松平定之(56-1)の八男・小次郎玄仲は角倉玄方の養子。その妻は堀川弘之(一条家家臣)の娘で、天英院に仕え「佐川」と称した。 玄仲は離縁となり実家に帰ったが、佐川の子・左仲定代が召し出された際に、父の氏・称号から「久松」と称した。
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旧刊本 161 |
§56-3[編集]
松平 源大夫 定堅 |
松平定実(56-1)の三男・助大夫定寛が赦免を受け出仕。 | 旧刊本 161 |
巻第五十七[編集]
§57-1[編集]
松平 壱岐守 定剛 |
松平定勝(54-1)の五男・定房が家を立て、伊予今治で大名となる。
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旧刊本 162 |
§57-2[編集]
松平 侶之丞 定能 |
松平定時(57-1)の三男・定昌が父の遺領より5000石を分知される。 | 旧刊本 163 |
巻第五十八[編集]
§58-1[編集]
松平 親之助 定節 |
松平定勝(54-1)の六男・定政が徳川家光に仕え大名に列するが、家光死後にわかに出家し幕閣に「諷誡の書」を提出するなどしたため、これが「狂気」として所領が没収されて松平定行に預けられる。のち家綱の「御尋」を受けて2000俵が与えられる。定知・定清兄弟は家綱に召し出され、各1500俵・500俵を与えられて寄合に列する。 | 旧刊本 164 |
§58-2[編集]
松平 筑後守 定胤 |
松平定政(58-1)の二男・定澄が松平定直から1500俵を分け与えられ寄合に列し、御小姓組頭などを務めて新恩として500石を与えられる。定胤は松平定国から1000俵を分与。
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旧刊本 165 |
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