「秋山幸二」の版間の差分
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西武入団当時の[[野球の背番号|背番号]]は'''71'''で、入団と同時に三塁手に転向。1年目は消化試合で初の一軍昇格を果たし、初ヒットを放っている。2年目の[[1982年]]は背番号が'''24'''になり、一軍出場はなかったが、[[イースタン・リーグ]]の本塁打王(19本)を獲得。 |
西武入団当時の[[野球の背番号|背番号]]は'''71'''で、入団と同時に三塁手に転向。1年目は消化試合で初の一軍昇格を果たし、初ヒットを放っている。2年目の[[1982年]]は背番号が'''24'''になり、一軍出場はなかったが、[[イースタン・リーグ]]の本塁打王(19本)を獲得。 |
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1982年から3度野球留学で[[アメリカ合衆国]]に渡り、1Aチームの[[サンノゼ・ジャイアンツ|サンノゼ・ビーズ]]/1983年5月28日 - 8月28日と[[アリゾナ・アストロズ]]でプレーして高く評価される。このような経緯や日米野球で対戦したメジャーリーガーや関係者に高く評価されたことから、「'''[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]に一番近い男'''」と呼ばれていた。共にクリーンアップを担っていたチームメイトの[[清原和博]]は「自分は日本専門の選手だけど、秋山さんならメジャーでも通用する」と語り、[[オレステス・デストラーデ]]も「秋山ならすべてのメジャー球団で主力選手として活躍できる」と語っている<ref>[[ベースボールマガジン]] 2011年9月号 P28</ref>(他方で、精神的な準備面から「実際にメジャーリーグに行っていたら、成功するのは難しかったと思う」とも述べている<ref>[https://web.archive.org/web/20150731235657/http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2015/07/29/post_590/index.php デストラーデ「野茂は人間だけど、イチローはエイリアンだね」](2015年7月31日時点の[[インターネット |
1982年から3度野球留学で[[アメリカ合衆国]]に渡り、1Aチームの[[サンノゼ・ジャイアンツ|サンノゼ・ビーズ]]/1983年5月28日 - 8月28日と[[アリゾナ・アストロズ]]でプレーして高く評価される。このような経緯や日米野球で対戦したメジャーリーガーや関係者に高く評価されたことから、「'''[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]に一番近い男'''」と呼ばれていた。共にクリーンアップを担っていたチームメイトの[[清原和博]]は「自分は日本専門の選手だけど、秋山さんならメジャーでも通用する」と語り、[[オレステス・デストラーデ]]も「秋山ならすべてのメジャー球団で主力選手として活躍できる」と語っている<ref>[[ベースボールマガジン]] 2011年9月号 P28</ref>(他方で、精神的な準備面から「実際にメジャーリーグに行っていたら、成功するのは難しかったと思う」とも述べている<ref>[https://web.archive.org/web/20150731235657/http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2015/07/29/post_590/index.php デストラーデ「野茂は人間だけど、イチローはエイリアンだね」](2015年7月31日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - スポルティーバ 2015年7月29日</ref>)。[[ラルフ・ブライアント]]も「日本で一番すごいと思った打者は秋山」だと語っている<ref>近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P75</ref>。 |
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{{by|1984年}}、春季キャンプから一軍入りし、7番・[[三塁手|サード]]で開幕[[スターティングメンバー|スタメン]]の座を獲得。4月14日にプロ初本塁打。しかし怪我をしたこともあり、54試合出場にとどまる。 |
{{by|1984年}}、春季キャンプから一軍入りし、7番・[[三塁手|サード]]で開幕[[スターティングメンバー|スタメン]]の座を獲得。4月14日にプロ初本塁打。しかし怪我をしたこともあり、54試合出場にとどまる。 |
2017年9月4日 (月) 14:19時点における版
福岡ソフトバンクホークス監督時 | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 熊本県八代郡氷川町 |
生年月日 | 1962年4月6日(62歳) |
身長 体重 |
185 cm 89 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、三塁手 |
プロ入り | 1980年 ドラフト外 |
初出場 | 1981年9月29日 |
最終出場 | 2002年10月6日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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野球殿堂(日本) | |
選出年 | 2014年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
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秋山 幸二(あきやま こうじ、1962年4月6日[1] - )は、熊本県八代郡宮原町(現:氷川町)出身[1]の元プロ野球選手、監督。選手時代は西武ライオンズと福岡ダイエーホークスに所属。ポジションは三塁手、のち外野手。
2005年には福岡ソフトバンクホークス二軍監督に就任。2007年は総合コーチ、2008年はチーフコーチを務め、2009年シーズンから2014年シーズンは同チームの一軍監督を務めていた。 2012年に東日本大震災復興支援ベースボールマッチ で日本代表監督として指揮をとった
経歴
父はハイジャンプ・母は砲丸投げの元選手という、スポーツ万能の両親から生まれた。彼が生まれる前に7歳で夭折した兄がおり、母から、その兄の分まで人の二倍幸せになってほしいという意味で「幸二」と名付けられた。幸二本人も4歳の時に自家中毒にかかって生死の境をさまよったことがある。彼が中学生の時に姉を17歳で白血病で亡くしている。小学3年生時に母の勧めで地元に設立されたばかりの少年野球チームに入る。小学生時代からバック転をするなどスポーツ万能であったが野球は得意ではなかったという。中学時代はサードやセンターを守っていた。
文武両道とうたわれた熊本県立八代高等学校に進学後ほどなくして野球部に入部し、監督の「お前は背が高いからピッチャーだ」の一言で投手にコンバートされる。3年生時の1980年春の九州大会で準優勝。最後の夏の甲子園熊本県予選では、決勝で大津一洋と伊東勤がバッテリーを務めていた熊本工高に4-6で敗れた[2]。当時から12球団のスカウトに注目されていた[3]ものの、大学への進学意思が強く[3]ドラフトでは指名されなかった。しかし、ドラフト終了後にプロ入りを表明し、巨人、阪急、広島との争奪戦の上[4]、西武の執拗な説得と「君を打者として育てたい」という言葉が決め手になって[3]1981年1月にドラフト外で西武ライオンズに入団した[2]。秋山は熊本工業の大津一洋、柳川の中島輝士、都城の井上祐二と共に九州四天王と呼ばれていたが、自分の実力がプロで通用するとは思わなかったという[5]。当時の西武のスカウト浦田直治から「君には四年後西武ライオンズのサードを守り、そしてクリーンナップを打ってもらいたい」と言われたという[6]。入団当時の監督である根本陸夫は、183cm、80kgの体躯の秋山を一目見ると、「野球をやっていなかったら、オリンピックの十種競技の選手になれた」と惚れ込んでいる[7]。当時西武のコーチだった伊原春樹も著書の中で「運動神経が抜群で脚力50メートル5秒台、遠投120メートル、鉄棒やマット運動をやらせても、体操選手だったのかと思うほど、簡単にこなします。ご存知のように、バック宙もお手のもの。あの体の大きさで、これだけの身体能力を持った選手は、後にも先にも見たことありません」と記している[8]。
西武時代
西武入団当時の背番号は71で、入団と同時に三塁手に転向。1年目は消化試合で初の一軍昇格を果たし、初ヒットを放っている。2年目の1982年は背番号が24になり、一軍出場はなかったが、イースタン・リーグの本塁打王(19本)を獲得。
1982年から3度野球留学でアメリカ合衆国に渡り、1Aチームのサンノゼ・ビーズ/1983年5月28日 - 8月28日とアリゾナ・アストロズでプレーして高く評価される。このような経緯や日米野球で対戦したメジャーリーガーや関係者に高く評価されたことから、「メジャーに一番近い男」と呼ばれていた。共にクリーンアップを担っていたチームメイトの清原和博は「自分は日本専門の選手だけど、秋山さんならメジャーでも通用する」と語り、オレステス・デストラーデも「秋山ならすべてのメジャー球団で主力選手として活躍できる」と語っている[9](他方で、精神的な準備面から「実際にメジャーリーグに行っていたら、成功するのは難しかったと思う」とも述べている[10])。ラルフ・ブライアントも「日本で一番すごいと思った打者は秋山」だと語っている[11]。
1984年、春季キャンプから一軍入りし、7番・サードで開幕スタメンの座を獲得。4月14日にプロ初本塁打。しかし怪我をしたこともあり、54試合出場にとどまる。
1985年、主に6番・サードとしてレギュラーに定着。王貞治と並ぶ史上最年少(23歳)での本塁打40本を記録。同年から2002年までオールスターゲームに出場し続けた[2]。
1986年、監督が広岡達朗から森祇晶に交代。開幕を5番で迎えるが、ジョージ・ブコビッチの不振により4番の座を任される。この年も本塁打を40本以上放ち、初のベストナインに外野手として選出される。日本シリーズでは史上唯一の第8戦で有名な「バック宙ホームイン」を披露する。シーズン終盤、高卒新人の清原と4番を交替し3番に座ったことが好結果を生んだことでAK砲の原型を完成した。オフに背番号を1に変更、結婚もした(後に離婚→現夫人と再婚)。
- いわゆる「バック宙ホームイン」は、当時の地味なイメージを払拭するために「何か派手なパフォーマンスを」と考え出されたもの。文化放送ライオンズナイターの名物リポーター中川充四郎のアイデアであり、中川が番組内で秋山に約束させた(元々は「サヨナラホームランを打ったらバック宙をする」という約束だった)。過去にパ・リーグ公式戦で2度(1987年6月28日・日ハム戦、1991年5月2日・ロッテ戦いずれもサヨナラ本塁打の時)、日本シリーズで3度披露した。初披露は1986年の日本シリーズ「第8戦」(広島市民球場)の6回に放った同点本塁打のホームイン時で、三塁を回りながら、三塁コーチの近藤昭仁に「やっていいですか?」と許可を得てから行ったが、この時は当時の広島方面から相当の顰蹙を買った。またこのバック宙の際、最後の両足の着地と同時にその足がホームベースを踏んでいるというつもりであったが、少し手前で着地してしまったため、後ずさりするような形でホームを踏んだ。その他、1987年にサヨナラホームランを打った時は着地点がホームベースを通り越していたため、前かがみで右手でホームにタッチした。1990年の対巨人戦、1991年の対広島戦でも披露。最後となった対広島戦では、着地後尻もちをつき、以後封印することとなった。1991年のシリーズで披露したホームインはアメリカのスポーツ専門ケーブル局であるESPNのスポーツセンターでプレイ・オブ・ザ・デーで紹介されたこともある[12]。
1987年、俊足と強肩を生かすため外野手に転向[13]。西武打撃陣が軒並み打撃成績を落とす中、3番・センターの「定位置」へ定着したこともあってか、秋山1人が成績を維持。5月21日に日本人最速で通算100本塁打を達成し、最終的に43本塁打で3年連続40本塁打以上を記録する。前年オフに落合が中日に移籍したこともあり、初の本塁打王のタイトルを獲得。史上初の40本塁打・40盗塁も期待されたが、38盗塁で惜しくも達成ならず。
1988年、自身最多の151安打を放ち、中日ドラゴンズとの日本シリーズ第4戦では杉本正から本塁打を放ち、リーグ4連覇、3年連続日本一に貢献した。
1989年、初の3割を記録。打率.301、31本塁打、31盗塁で日本プロ野球史上5人目のトリプルスリーを達成。
1990年、盗塁王を獲得。35本塁打、51盗塁を記録し、プロ野球史上初の30本塁打・50盗塁を達成[2]。また、史上初の本塁打王受賞経験者による盗塁王となった[2][14]。2年連続300刺殺(フライアウト)を達成し、外野手としての評価も確立する。当時の西武の日本人選手の中では、秋山が年俸1億円に最も近いと言われていた(1990年の秋山の推定年俸は8,400万円)。しかしこの年のオフの契約更改で、清原を名実ともにチームの顔にしたいと考えた球団の意向により、秋山は推定9,800万円の掲示を受ける。秋山はこれを不服として闘ったが、最終的に判を押す。契約更改において一発でサインしなかったのはこの年だけである。この時に球団から「1億円プレーヤーとなるには君には華が足りない」と言われたのが、翌年の躍進の引き金となった[15]。
1991年、2度のサヨナラ本塁打を含むサヨナラ打3度でチームを引っ張る1年となる。オールスターゲーム第2戦12回表に右目に自打球を当て負傷退場、右目の視力は0.7から0.2にまで低下した。4本塁打を放ちMVPを受賞している。これらの活躍が評価され、正力松太郎賞も受賞。推定年俸は1億4,000万円と大幅アップした。
1992年、前年に引き続き安定した成績を挙げ、チームも3年連続パ・リーグ優勝を達成。日本シリーズでは2度の決勝打を放つなど3年連続日本一に貢献、優秀選手賞を受賞した。
1993年は、30本塁打を放つ(=9年連続30本塁打以上は現在もパ・リーグ記録)も低調なシーズンとなり、日本シリーズでは6番で出場した試合がある。8月21日・8月22日の日本ハムファイターズ戦では2日連続で満塁本塁打を放っている。シーズンオフに渡辺智男、内山智之とともにダイエーの佐々木誠、村田勝喜、橋本武広との大型トレードが発表される[16]。
ダイエー時代
黄金時代の西武ライオンズから弱小球団だった福岡ダイエーホークスに移籍してきた秋山は、移籍当初ダイエーの選手たちに「勝ちたい」という意識が薄いことに愕然としたという。当時のダイエーの選手たちは怠惰であり、常勝西武の控え室を知っている秋山にとって、彼らの態度は信じ難いものだったという。西武からダイエーに移籍した工藤公康の著書によると、森が監督だった時代の西武の控室は他の選手には近寄り難い緊張感があったと言われている。著書の中でも当時のダイエーについて「ロッカーでも野球と全く関係のない話を平気でしていたし、言葉で言い表すのは難しいが、何かがバラバラでなあなあだった。みんな好き勝手プレーしているように見えた」と著書に記している[17]。
秋山の背中を見て小久保裕紀が育ち、さらに後を追うように松中信彦、城島健司、斉藤和巳、井口資仁、川崎宗則など後の強豪ホークスを支える選手たちが育ち、現在の若手選手は彼らを手本として練習に励む(NHKプロ野球70周年の特番で水島新司が秋山本人の前で証言)[18][19]。小久保は王と秋山について「尊敬する野球人」と述べ、秋山に対する印象を質問されて「常にプロ意識を持っていた。『できないのは選手が悪い、プロならできて当たり前』という考え方。決して『人間ならそのくらいにミスはあるさ』といった姿勢がみられない。言い訳をしない。その姿勢と意識の高さを学んできた。」[20]、松中も「秋山さんはプレーで示してくださる方でした。秋山さんのプレーからは、チームを引っ張るには、ああいうプレーが必要なんだと、感じるものがありました」と語っている[21]。川崎は「何も語らない人だった。その代わりに、いつも球場にいた。何歳になっても誰よりも長くグラウンドにいるのが秋山先輩だった。一番最初に打って、若い選手と一緒に最後までいる、その姿に教えられることは多かった」と著書に記している[22]
1994年9月17日の対ロッテ戦から10月7日の対西武戦まで11試合連続で長打を放ち、プロ野球史上最長記録となった。オフに婚姻(再婚)。FA権を取得した。一度はFA権を行使して他球団へ移籍することをほぼ決意していたが、当時監督だった根本に説得される形(実際には秋山の母親からの願いを受けて)でFA権を凍結。秋山が引退までホークスに骨を埋める決意を固めたのはこの時だと言われている[要出典]。以後、秋山は獲得したFA権を行使せずに引退した。秋山がダイエー残留した後に聞いた話によると非公式で巨人、古巣の西武、サンフランシスコ・ジャイアンツがオファーを検討していたという[23]。特に西武では堤義明オーナーの厳命でいったん退団したデストラーデを呼び戻して、秋山と清原で再びクリーンナップを組ませる構想があったようで[23]、西武のフロントにも「お前さえその気だったら間違いなく手を挙げていた」と言われたと言う[23]。
1999年からダイエーの初代主将に就任。シーズン終盤からは1番・ライトで出場し、文字通りチームを牽引した。西武との優勝争いの最中であった9月8日の対西武戦で松坂大輔から顔面に死球を受け頬骨を骨折するが、その後の試合ですぐにベンチに復帰。フェイスガード付きの特製ヘルメットを作ってスタメン復帰も果たし、9月25日の優勝決定試合で先制点となる先頭打者本塁打を放つなど、ダイエー初の優勝に大きく貢献する。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、第1戦で野口茂樹から先制本塁打、第2戦で川上憲伸から先頭打者本塁打、第3戦では守備で右翼フェンスを駆け上がり飛球をキャッチしその後一塁ランナーも刺すというファインプレーを披露するなどの活躍を見せ再びMVPに輝き、20世紀のプロ野球史上で最年長(2011年に小久保裕紀が40歳で記録更新)および史上初の2球団での日本シリーズMVP受賞を達成した。
2000年、シーズン開幕戦で先頭打者本塁打を放つ。8月18日、対ロッテ戦で出場2000試合目で2000本安打達成(史上28人目、ドラフト制度確立後のドラフト外入団選手では史上初)[24]。6月1日に通算1588三振を記録し、歴代1位に(2004年に清原和博が記録更新)。
2001年、キャンプ中に右肩を痛め、二軍で開幕を迎えた。
2002年、「(同年の)優勝が現実的に遠のき、気持ち的にもやっていくことがなくなった」と語り、8月26日に現役引退を表明。引退試合は10月5日(西武ドーム)と10月6日(福岡ドーム)双方で行われ、それぞれ超満員の観客が秋山の現役最後の雄姿を見届けた。西武ドームでは秋山が打席に入るとダイエーの応援団からはダイエー時代の応援歌が、西武の応援団からは西武時代の応援歌がそれぞれ交互に演奏された。そして、西武ドームでの試合後には西武の選手たちから、10月6日の福岡ドームでの引退試合ではダイエーの選手たちから胴上げされ、大観衆の涙を誘った。さらに福岡ドームの引退試合では、相手チームであったロッテの選手・観客も、試合終了後も残って秋山の引退を見送り、秋山が球界の宝であったことを実感させる引退試合となった。現役最終打席はライトライナー。
背番号1は福岡ダイエーホークスの永久欠番となる予定であったが、柴原洋が1番を希望し、秋山も了承したため永久欠番とはならなかった。
現役引退後
2003年から2004年までRKB毎日放送・TBSテレビ・TBSラジオ野球解説者、西日本スポーツ野球評論家として活動。また、文化放送にゲスト解説として出演することもあった。
2005年、ダイエーの後身であるソフトバンクの二軍監督に就任。二軍監督時代松田宣浩、本多雄一を育てた[25]。2007年からは一軍の野手総合コーチを歴任した。体調不良で出場辞退した王貞治に代わり、コーチとして初めてオールスターゲームへ出場した。
2008年9月23日にシーズン終了を以っての退任を表明した王の後任として、10月2日にホークス新監督に就任し、2011年までの3年契約と発表された。
就任2年目の2010年9月26日、チームを7年ぶりのリーグ優勝へと導いた。しかしクライマックスシリーズではロッテに敗れ日本シリーズ出場はならなかった。
2011年10月1日、全球団勝ち越し・2位以下17.5ゲーム差という圧倒的な強さでチームを2年連続リーグ優勝に導く。11月5日のクライマックスシリーズファイナルステージで、埼玉西武ライオンズに対し、ストレートの3連勝で8年ぶり14度目(南海時代含む)の日本シリーズ出場を決めた。日本シリーズでは、クライマックスシリーズ・セの覇者となった中日ドラゴンズを4勝3敗で破り、福岡ソフトバンクホークスとして初、そして監督就任後初の日本一を達成した。
2014年、1月17日に野球殿堂博物館より佐々木主浩、野茂英雄の元メジャーリーガー2人と共に競技者表彰により野球殿堂入りしたことが発表された[26][27]。チームはシーズン最終戦にリーグ優勝を決めたが、進出を決めていたクライマックスシリーズファイナルステージ直前の10月14日に今季限りでの監督退任が発表された[28]。CSでは日本ハムに4勝3敗で勝利し、日本シリーズに進出[29]。阪神との日本シリーズでは4勝1敗で3年ぶりの日本一となった[30]。監督時代は長谷川勇也、柳田悠岐を育てた[31]。日本一になったのに勇退するため苦笑いしながら「こんなの初めて」とも語った。
2015年より、再びRKB毎日放送の解説者、TBSテレビゲスト(侍ジャパン中継)解説者、西日本スポーツの評論家(2016年は随時担当)を務める。
選手としての特徴・人物
西武時代は走攻守の三拍子揃った選手として黄金時代を支えていた[2]。打撃では三振が多く変化球で崩されることも多かったが[32]、長嶋茂雄は秋山を「本当のホームランバッター」と評している[32]。
花粉症持ちであり[33]、花粉症の悩みが解消される5月に活躍する為、選手時代は「ミスターメイ」と呼ばれていた[34][35][36]。秋山は月間MVPを3回獲得しているが、うち2度は5月である。
夫人との間に一男一女がいるが、長男は生後、間もなく亡くなっている。夫人は2014年の日本シリーズ終了後に亡くなった[37]。長女は元ゴルフ選手の秋山真凜[37]。 なお、離婚した前夫人との間には二男がいる。
フリーアナウンサーの片平夏貴(東国原英夫の元妻)は義妹(夫人の実妹)にあたる。また作家の豊福きこうとは八代高校時代の同級生である。
「あなたにとってサムライとは?」と聞かれ、「千葉真一の柳生十兵衛[注釈 1]と渡辺謙の『独眼竜政宗』は、生きるか死ぬか究極の真剣勝負というイメージがいい」と答えている[38]。
現役時代にテレビ番組『最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦』に出演し、THE GALLON THROWでは当時のスポーツマン記録である5m70cmを大きく上回る6m20cmを記録。筋肉番付の番組プロデューサーである樋口潮は著書で秋山を超人と評している[39]。同大会で行われた50メートル走では6秒53を記録している[40]。
2003年11月21日、福岡県築上郡椎田町(現:築上町)の椎田中学校体育館落成式の記念講演に、数学者の秋山仁を招待し講演会を行う予定であった。しかし依頼側の手違いで(フルネームで言わなかったことにもよる)、秋山仁では無く同姓の秋山幸二に講演のオファーを行ってしまうという珍事が起こる。校長や町長らが秋山に対し謝罪する一方、「是非講演をお願いしたい」と頼み込むと、秋山は講演を引き受けた[41]。なお、この珍事から12年越しの2015年4月5日に同町の文化会館コマーレにて講演会が開催され、自ら当時の講演までの成り行きやエピソードを語った。[42][43]。
現役引退から時間が経ったソフトバンク監督時代(当時47 - 52歳)においても、選手の打撃練習に加わってホームランを放つ[44]、ブルペンで100球以上投げ込み球速は130キロ以上を記録する[45]など高い身体能力を維持しており、エイプリルフールのネタとして秋山の現役復帰が発表されたこともあった[46]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981 | 西武 | 3 | 6 | 5 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | .200 | .333 | .600 | .933 |
1984 | 54 | 154 | 140 | 16 | 33 | 5 | 2 | 4 | 54 | 14 | 6 | 1 | 1 | 0 | 10 | 0 | 3 | 32 | 4 | .236 | .301 | .386 | .686 | |
1985 | 130 | 542 | 468 | 93 | 118 | 16 | 0 | 40 | 254 | 93 | 17 | 9 | 1 | 3 | 66 | 0 | 4 | 115 | 13 | .252 | .348 | .543 | .890 | |
1986 | 130 | 562 | 492 | 88 | 132 | 19 | 3 | 41 | 280 | 115 | 21 | 8 | 0 | 7 | 58 | 5 | 5 | 94 | 10 | .268 | .347 | .569 | .916 | |
1987 | 130 | 550 | 496 | 82 | 130 | 13 | 2 | 43 | 276 | 94 | 38 | 12 | 0 | 3 | 48 | 5 | 3 | 102 | 8 | .262 | .329 | .556 | .886 | |
1988 | 130 | 577 | 517 | 93 | 151 | 23 | 2 | 38 | 292 | 103 | 20 | 12 | 0 | 2 | 50 | 5 | 8 | 132 | 11 | .292 | .362 | .565 | .927 | |
1989 | 130 | 555 | 478 | 92 | 144 | 24 | 4 | 31 | 269 | 99 | 31 | 14 | 0 | 4 | 68 | 4 | 5 | 93 | 10 | .301 | .391 | .563 | .954 | |
1990 | 130 | 559 | 476 | 84 | 122 | 16 | 0 | 35 | 243 | 91 | 51 | 9 | 1 | 9 | 68 | 0 | 5 | 120 | 11 | .256 | .349 | .511 | .860 | |
1991 | 116 | 515 | 455 | 97 | 135 | 23 | 3 | 35 | 269 | 88 | 21 | 5 | 0 | 5 | 53 | 3 | 2 | 96 | 8 | .297 | .369 | .591 | .960 | |
1992 | 130 | 566 | 480 | 92 | 142 | 26 | 2 | 31 | 265 | 89 | 13 | 4 | 1 | 2 | 77 | 1 | 6 | 114 | 6 | .296 | .398 | .552 | .950 | |
1993 | 127 | 536 | 470 | 67 | 116 | 23 | 4 | 30 | 237 | 72 | 9 | 8 | 0 | 1 | 61 | 2 | 4 | 136 | 11 | .247 | .338 | .504 | .842 | |
1994 | ダイエー | 129 | 567 | 473 | 93 | 120 | 26 | 5 | 24 | 228 | 73 | 26 | 6 | 0 | 4 | 83 | 6 | 7 | 125 | 9 | .254 | .370 | .482 | .852 |
1995 | 122 | 529 | 476 | 61 | 127 | 25 | 1 | 21 | 217 | 66 | 13 | 4 | 0 | 5 | 46 | 5 | 2 | 101 | 17 | .264 | .331 | .456 | .787 | |
1996 | 121 | 512 | 466 | 53 | 140 | 27 | 0 | 9 | 194 | 66 | 13 | 4 | 0 | 5 | 35 | 1 | 6 | 78 | 12 | .300 | .354 | .416 | .770 | |
1997 | 97 | 421 | 371 | 46 | 91 | 20 | 2 | 12 | 151 | 52 | 11 | 5 | 2 | 1 | 43 | 0 | 4 | 62 | 9 | .245 | .329 | .407 | .736 | |
1998 | 115 | 473 | 423 | 43 | 110 | 32 | 4 | 10 | 180 | 49 | 7 | 7 | 1 | 3 | 42 | 2 | 4 | 76 | 11 | .260 | .331 | .426 | .756 | |
1999 | 113 | 420 | 386 | 41 | 99 | 16 | 2 | 12 | 155 | 44 | 3 | 2 | 3 | 1 | 26 | 2 | 4 | 83 | 12 | .256 | .309 | .402 | .711 | |
2000 | 124 | 488 | 427 | 44 | 112 | 23 | 1 | 5 | 152 | 48 | 2 | 4 | 6 | 4 | 49 | 2 | 2 | 63 | 13 | .262 | .338 | .356 | .694 | |
2001 | 82 | 287 | 269 | 31 | 77 | 13 | 3 | 11 | 129 | 32 | 1 | 0 | 0 | 0 | 17 | 0 | 1 | 43 | 6 | .286 | .331 | .480 | .811 | |
2002 | 76 | 244 | 229 | 14 | 57 | 7 | 0 | 5 | 79 | 24 | 0 | 2 | 4 | 2 | 9 | 0 | 0 | 45 | 10 | .249 | .275 | .345 | .620 | |
通算:20年 | 2189 | 9063 | 7997 | 1231 | 2157 | 377 | 41 | 437 | 3927 | 1312 | 303 | 116 | 20 | 61 | 910 | 43 | 75 | 1712 | 191 | .270 | .347 | .491 | .839 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
- リーグ公式戦
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2009年 | ソフトバンク | 3位 | 144 | 74 | 65 | 5 | .532 | 6.5 | 129 | .263 | 3.69 | 47歳 |
2010年 | 1位 | 144 | 76 | 63 | 5 | .547 | - | 134 | .267 | 3.89 | 48歳 | |
2011年 | 1位 | 144 | 88 | 46 | 10 | .657 | - | 90 | .267 | 2.32 | 49歳 | |
2012年 | 3位 | 144 | 67 | 65 | 12 | .508 | 6.5 | 70 | .252 | 2.56 | 50歳 | |
2013年 | 4位 | 144 | 73 | 69 | 2 | .514 | 9.5 | 125 | .274 | 3.56 | 51歳 | |
2014年 | 1位 | 144 | 78 | 60 | 6 | .565 | 0.0 | 95 | .280 | 3.25 | 52歳 | |
通算:6年 | 865 | 456 | 369 | 40 | .553 | Aクラス5回、Bクラス1回 |
- 通算成績には2008年8月14日の監督代行1試合(敗戦)を含む
- 太字は日本一
- ポストシーズン
年度 | 球団 | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
---|---|---|---|---|
2009 | ソフトバンク | パ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
東北楽天ゴールデンイーグルス (パ・リーグ2位) |
0勝2敗=敗退 |
2010 | パ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ |
千葉ロッテマリーンズ (パ・リーグ3位) |
3勝4敗=敗退(※1) | |
2011 | パ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ |
埼玉西武ライオンズ (パ・リーグ3位) |
4勝0敗=日本シリーズ進出 (※1) | |
日本シリーズ | 中日ドラゴンズ (セ・リーグ1位) |
4勝3敗=日本一 | ||
2012 | パ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
埼玉西武ライオンズ (パ・リーグ2位) |
2勝1敗=ファイナルステージ進出 | |
パ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ |
北海道日本ハムファイターズ (パ・リーグ1位) |
0勝4敗=敗退(※2) | ||
2014 | パ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ |
北海道日本ハムファイターズ (パ・リーグ3位) |
4勝3敗=日本シリーズ進出 (※1) | |
日本シリーズ | 阪神タイガース (セ・リーグ2位) |
4勝1敗=日本一 |
- 勝敗の太字は勝利したシリーズ
- ※1 リーグ優勝したチームに与えられるアドバンテージの1勝を含む。
- ※2 4敗の中に相手チームのアドバンテージの1勝を含む。
タイトル
表彰
- ベストナイン:8回 (外野手部門:1986年 - 1993年)
- ゴールデングラブ賞:11回 (外野手部門:1987年 - 1996年、1999年) ※福本豊の12回に次ぐ、歴代2位タイ・外野手部門歴代2位(2016年度発表時点)。
- 月間MVP:3回 (1985年5月 野手部門:1990年9月、1991年5月)
- 正力松太郎賞:3回 (1991年、2011年、2014年) ※選手と監督と、両方での受賞は王貞治以来2人目。
- 日本シリーズMVP:2回 (1991年、1999年) ※2球団でシリーズMVP獲得は史上唯一。
- 日本シリーズ優秀選手賞:2回 (1987年、1992年)
- オールスターゲームMVP:1回 (1994年 第1戦)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:2回 (1991年、1992年)
- パ・リーグ優勝監督賞:2回 (2010年、2011年)
- パ・リーグ最優秀監督賞:1回 (2014年)
- 報知プロスポーツ大賞:1回 (1991年)
記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1981年9月29日、対近鉄バファローズ後期13回戦(日生球場)、7番・三塁手で先発出場、3打数1安打
- 初安打:同上、4回表に谷崎浩二から左中間三塁打
- 初盗塁:1984年4月2日、対南海ホークス3回戦(西武ライオンズ球場)、2回裏に二盗(投手:藤田学、捕手:香川伸行)
- 初打点:1984年4月4日、対ロッテオリオンズ2回戦(西武ライオンズ球場)、2回裏に深沢恵雄から押し出し四球
- 初本塁打:1984年4月14日、対阪急ブレーブス2回戦(西武ライオンズ球場)、2回裏に森浩二から左越ソロ
- 節目の記録
- 100本塁打:1987年5月26日、対日本ハムファイターズ7回戦(西武ライオンズ球場)、6回裏に佐藤誠一から中越ソロ ※史上149人目
- 150本塁打:1988年7月31日、対阪急ブレーブス19回戦(阪急西宮球場)、9回表に佐藤義則から左中間へソロ ※史上87人目
- 200本塁打:1990年4月19日、対ロッテオリオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に小宮山悟から左越2ラン ※史上59人目
- 250本塁打:1991年6月26日、対日本ハムファイターズ12回戦(西武ライオンズ球場)、1回裏に酒井光次郎から左越ソロ ※史上31人目
- 1000本安打:1992年5月14日、対千葉ロッテマリーンズ8回戦(西武ライオンズ球場)、5回裏に小宮山悟から ※史上165人目
- 1000試合出場:1992年6月10日、対オリックス・ブルーウェーブ9回戦(グリーンスタジアム神戸)、4番・中堅手で先発出場 ※史上301人目
- 300本塁打:1993年4月11日、対福岡ダイエーホークス2回戦(西武ライオンズ球場)、1回裏に若田部健一から左越先制2ラン ※史上22人目
- 1000三振:1993年8月24日、対オリックス・ブルーウェーブ16回戦(グリーンスタジアム神戸)、3回表に星野伸之から ※史上17人目
- 350本塁打:1994年10月1日、対日本ハムファイターズ27回戦(福岡ドーム)、8回裏にキップ・グロスから右中間へ決勝2ラン ※史上16人目
- 1000打点:1996年4月7日、対西武ライオンズ2回戦(福岡ドーム)、3回裏に西口文也から左犠飛 ※史上23人目
- 1500本安打:1996年5月3日、対オリックス・ブルーウェーブ6回戦(福岡ドーム)、6回裏に鈴木平から一塁内野安打 ※史上70人目
- 1500試合出場:1996年5月22日、対西武ライオンズ9回戦(西武ライオンズ球場)、3番・中堅手で先発出場 ※史上115人目
- 3000塁打:1996年7月3日、対西武ライオンズ15回戦(西武ライオンズ球場)、1回表に潮崎哲也から右越先制決勝ソロ ※史上33人目
- 1000得点:1996年8月15日、対日本ハムファイターズ21回戦(東京ドーム)、4回表に吉永幸一郎の内野ゴロで生還 ※史上28人目
- 300二塁打:1998年5月27日、対オリックス・ブルーウェーブ9回戦(福岡ドーム) 、9回裏にマーク・ミムズから中越適時二塁打 ※史上34人目
- 400本塁打:1998年6月16日、対オリックス・ブルーウェーブ11回戦(グリーンスタジアム神戸)、7回表に木田優夫から左越決勝2ラン ※史上12人目
- 1500三振:1999年5月5日、対オリックス・ブルーウェーブ5回戦(福岡ドーム) 、1回裏に金田政彦から ※史上3人目
- 1521三振:1999年6月13日、対オリックス・ブルーウェーブ14回戦(グリーンスタジアム神戸)、5回表に小倉恒から ※バ・リーグ新記録
- 3500塁打:1999年6月24日、対日本ハムファイターズ15回戦(東京ドーム) 、2回表に沼田浩から左越2ラン ※史上19人目
- 300盗塁:1999年7月22日、対オリックス・ブルーウェーブ19回戦(グリーンスタジアム神戸)、2回表に二盗(投手:小倉恒、捕手:日高剛) ※史上23人目
- 1588三振:2000年6月1日、対日本ハムファイターズ12回戦(東京ドーム)、7回表に生駒雅紀から ※当時新記録(後に清原和博が更新)
- 350二塁打:2000年7月28日、対オリックス・ブルーウェーブ14回戦(グリーンスタジアム神戸) 、6回表に戎信行から中越二塁打 ※史上21人目
- 2000試合出場:2000年8月18日、対千葉ロッテマリーンズ19回戦(北九州市民球場) 、5番・右翼手で先発出場 ※史上32人目
- 2000本安打:同上、5回裏に黒木知宏から左前安打 ※史上28人目
- その他の記録
- トリプルスリー:1回 (1989年)
- 30本塁打30盗塁:3回 (1987年、1989年、1990年)
- サイクルヒット:1989年7月13日、対近鉄バファローズ13回戦(藤井寺球場) ※史上40人目
- 9年連続シーズン30本塁打以上(1985年 - 1993年) ※王貞治の19年連続に次いで歴代2位[2]。
- 5試合連続本塁打(1985年5月19日 - 5月26日、1991年5月4日 - 5月9日)
- 9試合連続打点(1985年5月17日 - 5月30日)
- 5試合連続勝利打点(1987年5月16日 - 5月22日) ※日本プロ野球記録
- 2試合連続満塁本塁打(1993年8月21日 - 8月22日) ※史上3人目
- 11試合連続長打(1994年9月17日 - 10月7日) ※日本プロ野球記録
- シーズン30本塁打以上・50盗塁以上(1990年) ※史上初
- 通算400本塁打・300盗塁達成(1999年) ※史上2人目(過去の達成者は張本勲)
- 外野手レンジファクター(RF/G)1位:7回 (1987年、1988年、1992年 - 1996年)[47]
- 通算833試合連続出場(1985年4月6日~1991年6月16日) ※歴代12位
- オールスターゲーム出場:18回 (1985年 - 2002年) ※18年連続出場は史上最長であり、すべてファン投票選出。
背番号
- 71 (1981年、2006年)
- 24 (1982年 - 1986年)
- 1 (1987年 - 2002年)
- 79 (2005年)
- 80 (2007年 - 2008年)
- 81 (2009年 - 2014年)
- 81 (2012年)、東日本大震災復興支援ベースボールマッチ 日本代表監督
関連情報
著書
- 『卒業』(2003/7 西日本新聞社 ISBN 4-8167-0576-7)
出演CM
出演番組
- 侍プロ野球 HAWKS Live(西暦)
- RKBエキサイトホークス
- TBSラジオ エキサイトベースボール
- 文化放送ライオンズナイター - ゲスト解説
- 第42回NHK紅白歌合戦 - 1991年、審査員
- サンデーウォッチ(RKBテレビ)
脚注
- 注釈
- ^ 『柳生一族の陰謀』、『魔界転生』、『柳生あばれ旅シリーズ』などがある。
- 出典
- ^ a b 秋山幸二著、卒業、西日本新聞社、2003年、P50
- ^ a b c d e f g “プロフィール”. KOJI AKIYAMA OFIICIAL WEBSITE 秋山幸二公式サイト Akiyama Style. 2014年4月29日閲覧。
- ^ a b c 朝日新聞1985年6月15日朝刊
- ^ http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_august/KFullNormal20070801152.html
- ^ 卒業、P78
- ^ 卒業、P80
- ^ 秋山前監督エピソード 若手時代、重い背番号で発奮「絶対、若い番号を」Sponichi Annex 2015年1月30日閲覧。
- ^ 伊原春樹著、二流選手から一流指導者へ―三塁コーチの視点-誰も書かなかった「勝利の方程式」、ベースボール・マガジン社、2011年、P120-121
- ^ ベースボールマガジン 2011年9月号 P28
- ^ デストラーデ「野茂は人間だけど、イチローはエイリアンだね」(2015年7月31日時点のアーカイブ) - スポルティーバ 2015年7月29日
- ^ 近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P75
- ^ 1991年10月30日午後版スポーツセンター参照。
- ^ 稼頭央 40歳来季は外野一本!“年下”陽岱鋼に弟子入りへSponichi Annex 2014年12月5日閲覧。
- ^ ちなみに山田哲人が2015年に本塁打王・盗塁王の同時獲得をしている。
- ^ ツーシームみたいに 秋山幸二『週刊ベースボール』2011年12月19日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-12/19, 105頁。
- ^ “【11月16日】1993年(平5) “特殊潜航艇”根本、久々の大型トレードで秋山ゲット”. スポーツニッポン (2007年11月16日). 2013年9月21日閲覧。
- ^ 卒業、P143
- ^ プロ野球最期の言葉、村瀬秀信著、イースト・プレス、2010年、P214
- ^ ベースボールマガジン 2007年春季号 伝説の名チーム名鑑復刻版⑫ 1999福岡ダイエーホークス P99
- ^ ベースボールマガジン 2012年7月号 P54
- ^ HAWKS the 70th―ホークス栄光の軌跡、ベースボールマガジン社、2008年、P40
- ^ 川崎宗則著、逆境を笑え 野球小僧の壁に立ち向かう方法、文藝春秋、P153
- ^ a b c 卒業、西日本新聞社、P152
- ^ “【8月18日】2000年(平12) 秋山幸二、2000試合で2000本安打達成”. スポーツニッポン (2007年8月18日). 2012年6月2日閲覧。
- ^ 男泣き日本一!秋山監督、亡き母にV報告、サンケイスポーツ2011年11月21日
- ^ 平成26年 野球殿堂入り決定!! 野球殿堂博物館 殿堂ニュース 2014年1月17日付
- ^ 野茂氏が野球殿堂入り!即表彰は20年ぶり 佐々木、秋山両氏も選出 スポーツニッポン 2014年1月17日閲覧
- ^ 秋山監督が退任会見「日本一まで、やり遂げたい」ソフトバンク球団公式サイト2014年10月14日配信
- ^ ソフトB 3年ぶり日本S進出!25日から甲子園で阪神と激突スポーツニッポン2014年10月20日配信
- ^ MVPは内川!目は真っ赤「本当に大事なのはマッチが打ってくれた」スポーツニッポン2014年10月30日配信
- ^ ““昨季の敵将”秋山氏 オリ中島を熱血指導「言わせてもらった」”. Sponichi Annex. (2015年2月17日) 2015年2月17日閲覧。
- ^ a b “落合、張本…球史に残る好打者たち その技術に迫る”. 週刊ベースボールONLINE. 2015年2月2日閲覧。
- ^ 週刊ベースボール2012年4月23日号 P36
- ^ “秋山監督 ポール直撃弾でうさ晴らし「アドレナリン出た」”. スポーツニッポン. 2015年4月2日閲覧。
- ^ “「ミスターメイ」と呼ばれた秋山幸二”. スポーツニッポン. 2015年4月2日閲覧。
- ^ “杉内投手、ハーラーダービー独走の7勝目を挙げる”. 福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト. 2015年4月2日閲覧。
- ^ a b “ソフトB秋山前監督夫人・千晶さん死去 11年オフから闘病 55歳”. スポーツニッポン. 2014年12月10日閲覧。
- ^ “「千葉真一の柳生十兵衛だな」/秋山監督” (紙面). 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2013年2月16日) 2013年2月16日閲覧。
- ^ 『跳び箱神話part2』、レゾナンス出版、215-217頁。ISBN 4-947735-07-4。
- ^ 『跳び箱神話part2』、レゾナンス出版、203-204頁。ISBN 4-947735-07-4。
- ^ “数学者のはずが元野球選手 「秋山違い」講演生徒喜ぶ”. 47NEWS. 2015年2月2日閲覧。
- ^ “秋山幸二さん:「今は自分探し」 福岡でトークショー”. 毎日新聞. (2015年4月6日) 2015年4月7日閲覧。
- ^ “「秋山幸二トークショー」開催のお知らせ”. 築上町 2015年4月7日閲覧。
- ^ “52歳もパワー健在!秋山監督、飛び入り参加のフリー打撃で一発”. Sponichi Annex. (2014年4月24日) 2016年11月13日閲覧。
- ^ “ソフトB秋山監督130キロ以上100球”. 日刊スポーツ. (2013年11月11日) 2016年11月13日閲覧。
- ^ “【ソフトB】4・1 秋山監督現役復帰?!”. 日刊スポーツ. (2012年4月1日) 2016年11月13日閲覧。
- ^ 過去20年で最高の外野手は誰だ?~記録で見る真実の「守備力」~プロ野球 - Number Web - ナンバー、2016年3月17日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 秋山幸二 公式サイト |Akiyama Style|
- 秋山幸二 - 野球殿堂