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2020年3月17日 (火) 09:22時点における版
エイドリアン・ニューウェイ Adrian Newey | |
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日産自動車グローバル本社にて(2011年10月) | |
生誕 |
1958年12月16日(66歳) イングランド ウォリックシャー州ストラトフォード=アポン=エイヴォン |
国籍 | イギリス |
教育 | サウサンプトン大学 |
配偶者 | マリーゴールド・ニューウェイ |
子供 | ハリソン・ニューウェイ |
業績 | |
専門分野 |
エアロダイナミクス 自動車エンジニア レーシングカーデザイナー フォーミュラカーデザイナー F1テクニカルディレクター |
勤務先 | レッドブル・アドバンスド・テクノロジー(2014 - ) |
雇用者 |
フィッティパルディ(1980- 1981) マーチ(1981- 1986, 1987- 1990) ハース・ローラ(1986) ウィリアムズ(1990 - 1996) マクラーレン(1997 - 2005) レッドブル(2006 - ) |
プロジェクト |
Wシリーズ(2019 - ) ベローチェ・レーシング(2019 - ) |
設計 |
マーチ・881 ウィリアムズ・FW15C マクラーレン・MP4-14 レッドブル・RB6 アストンマーティン・ヴァルキリー ほか多数 |
成果 | エアロダイナミクス、Vノーズ など |
受賞歴 | 大英帝国勲章(OBE) |
エイドリアン・ニューウェイ(Adrian Newey, OBE 1958年12月26日 - )は、イングランド出身の自動車技術者。
F1やCARTにおいてカーデザイナー、エアロダイナミシスト(空気力学の専門家)、レースエンジニアおよびテクニカルディレクターとして活躍。F1チームの役職を歴任し、数多くのタイトル獲得に貢献した(コンストラクターズタイトルや各ドライバーズタイトルなど)。美しいデザインと高い空力性能を兼ね備えたシャシーを開発し、「空力の鬼才」の異名を持つ。
2006年以降はF1コンストラクター「レッドブル・レーシング」に籍を置いている。2012年には大英帝国勲章のオフィサー(OBE)を叙勲した[1]。
(※日本のメディアにおいては「アドリアン・ニューエイ」「ニューウィー」「ニューイ」などの表記をする場合あり)
経歴
F1に関わるまで
ニューウェイはイングランド中部のストラトフォード・アポン・エイヴォンで生まれ、1980年にサウサンプトン大学の航空工学で一級優等学位 (First Class honours degree) を取得。卒業後、F1のフィッティパルディチームに加入し、新人エンジニアながら空力チーフとしてハーベイ・ポスルスウェイトの下で働いた。
マーチ(レイトンハウス)時代
1981年にはマーチへと移籍し、ヨーロッパF2選手権でジョニー・チェコットのレースエンジニアとして働いた後、レーシングカーのデザインを始めた。最初のプロジェクトとなるマーチGTPスポーツカーは大成功し、IMSAタイトルを2年連続で獲得した。同時期、マーチ代表のロビン・ハードと共に横浜ゴム (ASPEC) のTVCMに出演している。
1983年にはマーチのCARTプロジェクトに異動し、1984年型の車両開発を開始した。彼のデザインは高い競争力を示し、1984年のインディ500を含む7勝を記録した。翌1985年、ニューウェイの85Cシャシーはアル・アンサーの手によりCARTタイトルを獲得し、1986年にはボビー・レイホールが同タイトルを奪取することに貢献した。
自身のデザインした車両がCARTレースで常勝するようになったことから、ニューウェイはマーチを退職する道を選んだ。欧州へ戻ってF1のハース・ローラに加入したが、活躍する間もなく1986年シーズンを最後に解散してしまい、ニューウェイはまたマーチに復帰した。今度はF1においてチーフデザイナーとして働くためであった。F1処女作となる881は自然給気エンジン搭載車ながらターボエンジンに負けない速さをみせ、1988年日本GPではイヴァン・カペリがマクラーレンのアラン・プロストを抜き、一時トップを走った。
1989年、マーチがレイトンハウスに改名すると、ニューウェイはテクニカルディレクターに昇進した。日本のレイトンハウスの資金をバックに完成した自社風洞でより先鋭的な空力デザインを研究したが、CG891は車体の姿勢変化によってダウンフォース量が急激に変化するという扱いにくいマシンになってしまった。
1990年はCART時代の知り合いであるイルモアにレイトンハウスが資金提供し、翌年に向けてF1用エンジンを開発するという話がまとまる。しかし、チームの成績は低迷し続け、成績不振の責任を取らされフランスGP直前にニューウェイは解雇された[2]。皮肉にも、ニューウェイ離脱直後のフランスGPでカペリが殊勲の2位を獲得した。
ウィリアムズ時代
前年の1989年からニューウェイの引き抜きを画策していたウィリアムズは、ニューウェイが解雇されたと聞くやすぐに契約を結びチーフデザイナーとして招聘[2]。テクニカル・ディレクターのパトリック・ヘッドが駆動系やサスペンションを担当し、ニューウェイがシャシーや空力を担当するという共同開発体制がスタートした。ニューウェイはベテランデザイナーの元で多くを学び、両者の個性が上手く噛み合うことで、ウィリアムズのマシンは戦闘力を高めた。
1991年、FW14で新たに投入したセミオートマチックトランスミッションにトラブルが多発し、シーズン序盤はマクラーレンMP4/6のアイルトン・セナが4連勝を上げるなど劣勢であった。中盤から信頼性・戦闘力が共に向上したことによりナイジェル・マンセルが追い上げ、終盤までタイトル争いはもつれたが、序盤の出遅れが響く形になった。
1992年に投入したFW14Bは、FW14にアクティブサスペンション(商標登録上「リアクティブ・サスペンション」と呼ばれた)とトラクションコントロールシステムを搭載した、マイナーチェンジのマシンであったが、車高を任意の状態で維持することが可能となった。全16戦中10勝、ポールポジションを15回獲得し、マンセルは初のワールドチャンピオンを獲得し、ウィリアムズは1987年以来のコンストラクターズタイトルを手にした。ニューウェイが手掛けたマシンがタイトルを獲得したのもこの年が初である。1993年にはFW15Cを駆るアラン・プロストとデイモン・ヒルによって2度目の両タイトルを得た。
1994年、FW16は前年まで最大の武器であったアクティブサスなどハイテク装備がレギュレーションで禁止された上に、リアサスペンションの設計が裏目に出て、再び空力的な不安定さを抱えるようになった。この頃、ドライバーのアイルトン・セナは、友人のゲルハルト・ベルガーに「ゲルハルト、マシンをドライブするなんてことはできないよ。マシンには空力的にドライブが難しい部分があったようだ。パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていない。」と語っている[3]。セナは第3戦サンマリノGPで事故死し、事故を知ったニューウェイはピットで号泣した。ウィリアムズは3年連続のコンストラクターズタイトルを獲得したが、ドライバーズタイトルはベネトンのミハエル・シューマッハにさらわれた。1995年のFW17では、これまで真似してこなかったベネトン風のハイノーズを初めて採用したが、レース中のピット戦略の拙さもあり、ベネトンにダブルタイトルを奪われた。
1996年はヒルのレースエンジニアも担当し、ヒルのチャンピオン獲得をサポートした。しかし、来期のFW19の設計を終えたあと、シーズン終了後の11月8日、ニューウェイは「ウィリアムズは契約不履行している」と主張し、出社を止めた[4]。これに対して、ウィリアムズは高等法院に申し立て、裁判闘争になる。この頃、すでにマクラーレンと契約を結んだという話もあるが、ともあれニューウェイがいつからマクラーレンで働くことが出来るか、この時点では不明だった。ヘッドは「裁判へと向かっているものの、その前に我々とマクラーレンとの間で、何らかの話し合いが行なわれる可能性がある」と語っている。
離脱の理由については、「年俸$2,000,000の提示とテクニカル・ディレクターとして仕事ができること[4]」という報道もあったが、後年のインタビュー[5]では、チーム首脳のフランク・ウィリアムズとパトリック・ヘッドがドライバー人事に関する約束を守らなかったことを挙げている。1992年にチャンピオンを獲得したマンセルがチームを去り、プロストが加入した件で彼らと口論し、以降はドライバーの選択に関して自分の意見を取り入れることを条件に契約を延長していた。しかし、1996年のドライバー選択でも、テスト走行の結果で見切るはずだったジャック・ヴィルヌーヴを起用し[6]、さらに、個人的に親しかったヒルを放出して1997年はハインツ=ハラルド・フレンツェンを獲得すると事後報告されたため、フランクとヘッドの個人商店的なチームにはもう留まらないことを選択した。そんな時期にメルセデスエンジンの開発を担当するイルモアの代表者マリオ・イリエン(マーチ時代の友人)から、メルセデスエンジンを搭載するマクラーレンへの加入を誘われた、と語っている[7]
後年、フランク・ウィリアムズは離脱の原因として、ニューウェイがチームの株式保有を望んだことについて意見の不一致があったと語り、結果的には自分のミスだったと認めている[8]。ヘッドはニューウェイがロン・デニスと交渉していることを示唆する書類を偶然目にし、その交渉内容はチームが応じられない内容であることが判明。それで半ば諦めたと語っている[9]。
ウイリアムズ時代にニューウェイが手掛けたマシンは通算51勝を挙げた。
マクラーレン時代
1997年に入り、ニューウェイは実質的に休暇の身であった。やがてウィリアムズとマクラーレンとで示談が成立し、ニューウェイは8月からマクラーレンの現場で働き始めた。合流後はニール・オートレイによってデザインされたMP4-12の改良を行いながら、1998年に投入するMP4-13の開発にも関わった。もっともニューウェイ曰く「MP4-13の設計は進んでいたため、細かい箇所に自分のアイデアを入れた。自分で一から設計したのはMP4-14以降のマシンである」と語っている。
その後、ミカ・ハッキネンが1998年と1999年に2年連続のワールドチャンピオンとなり、マクラーレンも1998年のコンストラクターズタイトルを獲得した。2000年はハッキネンがミハエル・シューマッハとドライバーズタイトルを争い、惜しくも3年連続タイトルは逃した。コンストラクターズタイトルも信頼性の低さに泣かされ1999年、2000年と2年連続でフェラーリから奪還できなかった。
2001年、MP4-16は開幕当初からメカニカルトラブルが頻発。その改善に集中しなくてはいけない時期の5月に、ニューウェイがジャガーへ移籍するという話がでてきた。ジャガーのマネージャーであるボビー・レイホールに対し、ニューウェイは一旦契約にサインしたものの、ロン・デニス代表の説得で移籍を止めた。この問題が解決するまでシーズン中のマシン開発が止まることとなり、結果的にフェラーリへ両タイトルを取られてしまい、4勝に留まった。
デニスがどのようにニューウェイを説得したのかという詳細はその後も明らかにはされなかったが、ニューウェイにヨットをデザインすることを認めるという取引をしたのではないかという報道があった。かねてより「F1からリタイアしたらアメリカスカップ用のヨットをデザインしたい」と希望しているという話が知られていたが、その後(マクラーレン在籍中に)ニューウェイがヨットをデザインしたという記録は残っていない。ニューウェイの心変わりは、ジャガーのオーナーであったフォードに対するレイホールの面目を事実上潰してしまい、数ヵ月後にレイホールはジャガーから解雇された。
2003年は、MP4-18がテスト時に周回を重ねられず、クラッシュテストにも合格できなかったので、投入を断念した。結局、前シーズンのMP4-17を改良したMP4-17Dを使い続けた。同マシンの信頼性は高かった為、キミ・ライコネンがタイトルを争いに加わったが、最終戦で惜しくもフェラーリに両タイトルを奪われた。
ニューウェイは残留しているものの、マクラーレンから離れたがっているという噂は依然として残り、2004年終盤には彼がウィリアムズに戻る、あるいは完全にF1の仕事から手を引くのではないかという噂が流れていた。デニスが繰り返し否定したものの、2004 - 2005年のオフシーズンにはニューウェイが近々離脱するという話が広まることとなった。
2005年、それまでフェラーリ一辺倒であったシーズンの流れを、マクラーレンはルノーとともに主導権を奪い返すことに成功し、終盤戦までタイトル争いを繰広げた。こうした中、2005年4月には彼の契約が6ヶ月延長されて2005年12月31日までとなったことが発表された。
マクラーレン時代にニューウェイが手掛けたマシンは通算43勝を挙げた。
レッドブル時代
マクラーレンから離れたニューウェイは、長期休暇をとるか、または完全にF1のデザイン業務から引退すると予想されていた。2005年11月9日、それまでの大方の予想を覆し、レッドブルチームのスポーティングディレクターのクリスチャン・ホーナーから、ニューウェイがマクラーレンとの契約終了後の2006年2月に同チームに移籍するということが発表された。ポジションは最高技術責任者(CTO)で、マシン開発を行う「レッドブル・テクノロジー」からレッドブル・レーシングへ派遣される形となる。2009年までは、姉妹チームのトロ・ロッソにもレッドブル・テクノロジーからマシンが供給された。
レッドブルではすぐには結果が出なかったが、デザインに関する裁量権を与えられ、自身を中心とするエンジニアリングチームの構築を行った。2008年イタリアGPで、レッドブルよりも先にトロ・ロッソが初勝利を獲得した。
2009年、空力規定の大幅な改訂にあわせてRB5を開発。レッドブルは中国GPで初優勝し、優勝を争うトップチームのひとつに躍進した。同年のブラジルGPでマーク・ウェバーが優勝し、自身の手掛けたマシンが通算100勝目を達成した。
2010年以降はRB5をベースに進化型のマシンを投入。プルロッドの採用やブロウンディフューザーの開発など、車体のリアエンドの空力設計において独創性を発揮した。同年にはRB6を擁してレッドブルがダブルタイトルを制覇し、ニューウェイがデザインしたマシンでのコンストラクターズチャンピオン獲得は1998年のマクラーレン時代以来となった。2011年もRB7が年間19戦中18ポールポジションを獲得し、ダブルタイトルを連覇した。
2014年6月、翌2015年用のマシンであるRB11を最後にF1の現場を離れ、チームのアドバイザーとして関与は続けるものの一線を退く方針を明らかにした[10]。
同年にレッドブルが新たに設立した「レッドブル・アドバンスド・テクノロジー(RBAT)」の責任者に就任。RBATでは最初のプロジェクトとして、第35回アメリカスカップ(2017年)に参加するベン・エインズリー・レーシング(ランドローバーとパートナーシップを結び、ランドローバーBARとして参加[11])と共同で、同レース用のヨットを開発することを明らかにした[12]。2016年、レッドブルとアストンマーティンで共同開発したハイパーカー「アストンマーティン・ヴァルキリー」(コードネーム「AM-RB001」)をデザインした[13][14]。
ただ一方で、レッドブル・レーシング代表のクリスチャン・ホーナーが2017年を目処にニューウェイのF1復帰を画策していることを明らかにした[15]。実際に2016年のRB12には20%しか関与していないが、2017年のRB13はニューウェイが50%関与することになるとホーナーが述べている[16]。
ホンダとのパートナーシップを開始する2019年からF1の業務に本格復帰することになった[17]。一方で、同年から開始する女性限定のフォーミュラカーレース「Wシリーズ」を、デビッド・クルサードらと共同で立ち上げ[18]。同秋には、2021年開催予定の電動SUVによる新シリーズ「エクストリームE」(Extreme E)参戦に向けて、新チーム「ベローチェ・レーシング」をジャン=エリック・ベルニュらと共同で設立した[19]。
人物・エピソード
- コンピュータ上での設計 (CAD) が常識となってからも、製図板を使い、鉛筆と定規で図面を描く方法を貫いている[20]。
- 空力的な追求において妥協を好まず、マーチ時代にはリアウィングの裏面にスポンサーのステッカーを貼ることを嫌った。また、レーシングスーツの肩に付いている緊急救助用のストラップも気になるほどだった。イヴァン・カペリが「コクピットが狭すぎてシフト操作ができない」と不平を漏らすと、シフトレバーを曲げて対処した。コクピットの狭さについて、カペリは「レースが終わると青あざだらけだった」「自分より大柄なマウリシオ・グージェルミンは気の毒だった」と語っている[21]。
- また、レイトンハウス時代にはエンジンカウルをタイトにデザインするためジャッドにオーダーを出し、バンク角を75度に狭めたEVエンジンを開発してもらった[22]。
- レース開始前にはダミーグリッド上を歩き回り、他チームのマシンをつぶさに観察する。これを嫌って、視界を遮ろうとするチームもある[23]。
- デザインだけでなく、自ら本格的なレースにも出場する。2007年にはル・マン24時間レースでフェラーリ・F430GTをドライブし、総合22位(クラス4位)の成績を収めた。2010年にはジネッタ・G50カップでクラッシュし、ケガはなかったものの病院に搬送された[24]。レッドブル代表のクリスチャン・ホーナーは「エイドリアンは独特な男だし、自由を必要としている。マクラーレンではそれはなかった」と述べ、ニューウェイのレース活動を禁止しないと語った[25]。2019年には日本のスーパー耐久へのスポット参戦が発表されたこともあるが[26]、スケジュールの都合で参戦が延期となった上[27]、参戦母体となる予定だった「TAIROKU Racing」がシーズン途中で活動休止を発表したため[28]、参戦は事実上中止となった。
- F1ドライバーの中では、デビッド・クルサードとは一緒にF1マシンをドライブすることもあるなど、最も関係が深い[29]。クルサードが1994年にウィリアムズに加入した以降、クルサードが1996年にマクラーレンへ移籍した翌年の1997年にニューウェイもマクラーレンへ移籍、また、クルサードが2005年にレッドブルへ移籍した翌年の2006年にニューウェイもレッドブルへ移籍と、奇遇にもクルサードが移籍した翌年にニューウェイがクルサードを追っかけて同じチームへ移籍する形となっている。クルサードが2010年にレッドブルのリザーブドライバーを務め終えるまで、ニューウェイとクルサードのF1での同一チーム在籍は、ウィリアムズで約2年、マクラーレンで約8年、レッドブルで約5年と、延べ15年にも及ぶ。また、2018年には、ニューウェイとクルサードは新たに女性限定のフォーミュラカーレース「Wシリーズ」を立ち上げ、共に運営責任者に就任するなど、F1界でも最も仕事面での関係の深い2人として認識されている。
- 息子のハリソン・ニューウェイはレーシングドライバーの道に進んでおり、2015年にはBRDC F4でシリーズランキング2位に入り[30]、2019年からはスーパーフォーミュラに参戦する。2018年12月にはハリソンがスーパーフォーミュラのテストに参加したのに合わせて来日し、息子そっちのけでB-MAXのマシンのスケッチに励む・息子がホテルに先に帰ったのにB-MAXのチームスタッフとミーティングを重ねるといった行動を取り話題となった[31]。その後ハリソンが同チームからの参戦が正式に決まり[32]、開幕戦の鈴鹿[33]、F1ロシアGPと日程が重なっている中、第6戦岡山にも姿を見せた。岡山ではハリソンの3位表彰台獲得を見届け、親子そろってのツーショット写真も公開された[34]。
- フェラーリからは3度オファーを受けた事がある。最初はマーチ時代のCARTプロジェクトに関与していた頃で、2度目は子供がまだ小さかった事からイギリスに残りたかった意向により断り、3度目は2014年にレッドブルチームが不振の時期に、当時フェラーリ会長だったルカ・ディ・モンテゼーモロ直々に巨額のオファーを受けたが、クリスチャン・ホーナーとの二人三脚で築き上げたチームを「不振だからと言って去りたくはない、だが同じくらい、エンジン部門に片手を縛られているような状況にもいたくなかった」と悩んだ末[35]、辞退した[36]。
- また、メルセデス非常勤会長のニキ・ラウダからもロス・ブラウンの後任としてオファーを受けた。しかしブラウンの手柄を横取りする「トロフィーハンター」だと感じたことで辞退した[36]。
脚注
- ^ “エイドリアン・ニューウェイとナイジェル・マンセル、大英帝国勲章を受勲”. F1-Gate.com. (2011年12月31日) 2012年4月10日閲覧。
- ^ a b 『F1PRIX』 93年開幕直前号 『レイトンハウス 夢の終わりに』最終回 (双葉社)
- ^ 独占インタビュー! ベルガーが語るセナ
- ^ a b 『AS+F-'97年オーストラリアGP号』 三栄書房、30頁、1997年。
- ^ 『GP CAR STORY Vol. 29 Williams FW18』(サンエイムック) 、22-27頁、2019年。
- ^ CART王者ヴィルヌーヴのF1参戦については、バーニー・エクレストンからフランクに働きかけがあったといわれる。
- ^ 『GPX』 Australian GP issue/210、山海堂、15頁、1998年。
- ^ “ニューイ離脱を悔やむウィリアムズ代表”. ESPN F1. (2012年2月27日) 2012年2月28日閲覧。
- ^ 『GP CAR STORY Vol. 29 Williams FW18』(サンエイムック) 、42頁、2019年。
- ^ レッドブル RB11はエイドリアン・ニューウェイが設計を主導 - F1-gate.com・2014年6月10日
- ^ “ランドローバーとBAR、最速ヨット開発で協力…アメリカズカップ参戦”. Response (2016年2月29日). 2017年7月22日閲覧。
- ^ Ben Ainslie Racing (BAR) join forces with Red Bull Advanced Technologies - Ben Ainslie Racing・2014年12月4日
- ^ “レッドブル、アストンマーティンとのパートナー契約を延長”. F1-Gate.com (2016年12月6日). 2017年1月2日閲覧。
- ^ “アストンマーチンとレッドブルのコラボマシン、名称はAM-RB001改め『バルキリー』に”. AUTOSPORTweb (2017年3月10日). 2017年7月22日閲覧。
- ^ レッドブル、F1規約改革でエイドリアン・ニューウェイの復帰に期待 - F1-gate.com・2015年2月12日
- ^ “レッドブル、2017年F1マシンにはエイドリアン・ニューウェイが大きく関与”. F1-Gate.com (2016年8月10日). 2017年1月2日閲覧。
- ^ “エイドリアン・ニューウェイ、レッドブル・ホンダのF1マシンで本格復帰”. F1-Gate.com (2018年9月17日). 2018年9月17日閲覧。
- ^ “女性限定『Wシリーズ』、55人のドライバー候補発表。トライアルで18人へ”. motorsport.com (2018年11月28日). 2018年12月28日閲覧。
- ^ “鬼才エイドリアン・ニューウェイ、ベルニュと共に電動SUV「エクストリームE」に参戦”. FORMULA1-DATA.com (2019年9月19日). 2019年9月25日閲覧。
- ^ “Adrian has designs on more glory” (英語). The Sun. (2011年7月1日) 2011年12月3日閲覧。
- ^ 『F1速報PLUS vol.24 特集 2012空力研究』 イデア、2012年。
- ^ あさのまさひこ、川端圭一『ロータス107&107Bフォード クローズアップ&ヒストリー』大日本絵画、1994年、98頁。
- ^ 尾張正博 "今季F1を制するのは師匠か弟子か?マクラーレン出身エンジニアの戦い。". Number Web.(2013年2月21日)2013年5月20日閲覧。
- ^ “エイドリアン・ニューウェイ、レースでクラッシュして病院へ”. F1-Gate.com. (2010年8月9日) 2011年12月3日閲覧。
- ^ “レッドブル、エイドリアン・ニューウェイのレース活動を許可”. F1-Gate.com. (2010年9月8日) 2011年12月3日閲覧。
- ^ エイドリアン・ニューウェイ、スーパー耐久第4戦にニッサンGT-Rで参戦へ。ハリソンとの親子対決も!? - オートスポーツ・2019年7月3日
- ^ スーパー耐久:TAIROKU Racingが第4戦オートポリスを欠場。F1の鬼才、エイドリアン・ニューウェイ参戦は延期 - オートスポーツ・2019年7月12日
- ^ TAIROKU Racing、鈴鹿10Hの参戦辞退&今季の活動も中止へ - motorsport.com 2019年8月5日
- ^ https://www.youtube.com/watch?v=akrPl59qa0U
- ^ 全日本F3王者がピケ&ニューエイと欧州F3をテスト - オートスポーツ・2015年10月23日
- ^ 天才すぎるニューウェイ、自由な行動でB-Maxに介入。気になるF1新車開発には「ホンダとの関係に自信があるよ」 - オートスポーツ・2018年12月7日
- ^ “スーパーフォーミュラ|ルーキーのハリソン・ニューウェイ、日本に腰を据え自身のレベルアップに集中「常にベストな仕事をすることを心がける」|motorsport.com 日本版”. jp.motorsport.com. 2019年10月9日閲覧。
- ^ “開幕戦取材でわかった! スーパーフォーミュラに"F1候補生たち"が集まるワケ - スポーツ - ニュース”. 週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト] (2019年4月25日). 2019年10月8日閲覧。
- ^ “【スーパーフォーミュラ第6戦岡山】ハリソン・ニューウェイ、父の見守る前で初表彰台「とても嬉しそうだった」”. jp.motorsport.com. 2019年10月8日閲覧。
- ^ ニューウェイ、“あり得ないほど巨額のオファー”を提示したフェラーリF1よりレッドブルを選ぶ auto sport web 2018年1月12日、同6月15日閲覧。
- ^ a b 天才デザイナーのニューウェイ、跳ね馬から提示された巨額年俸の移籍オファーと裏話語る formula1-data 2018年1月9日、同11月12日閲覧。