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2020年8月11日 (火) 09:45時点における版
二十四史 |
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二十四史 |
司馬遷『史記』 |
班固『漢書』 |
范曄『後漢書』 |
陳寿『三国志』 |
房玄齢等『晋書』 |
沈約『宋書』 |
蕭子顕『南斉書』 |
姚思廉『梁書』 |
姚思廉『陳書』 |
魏収『魏書』 |
李百薬『北斉書』 |
令狐徳棻等『周書』 |
魏徴・長孫無忌等『隋書』 |
李延寿『南史』 |
李延寿『北史』 |
劉昫等『旧唐書』 |
欧陽脩・宋祁『新唐書』 |
薛居正等『旧五代史』 |
欧陽脩『新五代史』 |
脱脱等『宋史』 |
脱脱等『遼史』 |
脱脱等『金史』 |
宋濂等『元史』 |
張廷玉等『明史』 |
二十六史 |
柯劭忞等『新元史』 |
趙爾巽等『清史稿』 |
その他 |
班固・劉珍・蔡邕等『東観漢記』 |
中華民國版『清史』 |
中華民國版『新清史』(未完) |
中華人民共和国版『清史』 |
『元史』(げんし)は、元(大元ウルス)について書かれた歴史書(正史)。
清の乾隆帝が定めた二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。 成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はチンギス・カンがイェケ・モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した1206年から、順帝トゴン・テムルが大都を放棄した1367年まで。
拙速な編纂により誤謬・重複・脱漏が多いことが早くより知られており、考証学者の銭大昕が「古今、史成るの速やかなる、未だ元史に如く者あらず。而して文の陋劣もまた、元史に如く者なし」と評するなど、清代には既に正史二十四史の中で最も完成度が低いとの評価が定まっていた。そのため多くの歴史家によって『元史』改訂の試みがなされており、その集大成が20世紀に編纂された『新元史』であった。
概要
編纂過程
前年に皇帝に即位後、大元ウルスを華北から追い落とした洪武帝は洪武2年2月1日に詔を出すと、宋濂を主幹として『元史』の編纂を始めた[1][2]。半年後の8月に一旦に最初の編纂が終わったが、元朝最後の皇帝順帝の本紀がないといった問題点が指摘され、翌洪武3年2月に編纂が再開し[3]、8月に完成を見た[4]。編纂に携わった宋濂・高啓らはいずれも当代一流の文人であったが、『元史』には多くの問題点があった。その原因として第一に、明が成立して即座に編纂が行われたことが挙げられる。普通、正史の編纂には恣意的なものが混じらないように、100年程度の間隔をおいてから行うのが良いとされる。第二に、開始から1年半というごく短時間にて完成したことが挙げられる。その次の正史である『明史』が94年という、歴代でも最長の時間をかけたのとは好対照である。
洪武帝がここまで編纂を急いだのは、漢族王朝を復興したという立場から、夷狄の王朝である元を一刻も早く過去の存在となすと、自らの正当性を誇示したかったゆえと推察される。
原史料
本紀(『元朝実録』他)
『進元史表』には「上は太祖(チンギス・カン)より下は寧宗(リンチェンパル・カーン)まで、十三朝実録の文に拠り百巻余りの粗完の史を成す」とあり、『元史』の雛形が「十三朝実録」即ち太祖・太宗・定宗・憲宗・世祖・成宗・武宗・仁宗・英宗・泰定帝・明宗・文宗・寧宗ら元朝の歴代実録を原史料に編纂されたものであったとわかる。
元朝の実録は世祖クビライの治世に編纂が始まったがクビライの存命中には完成せず、成宗テムルの治世に始めて『世祖実録』並びに『太祖実録』・『太宗実録』・『定宗実録』・『睿宗実録』・『憲宗実録』が完成した[5][6]。以後、元朝の歴代皇帝は前代の皇帝の実録を編纂するのが慣例となり、明朝の時代には「十三朝実録」が残されるに至った。
この『元朝実録』は散逸して現存していないが、『元史』各本紀が各『実録』の性格をそのまま引き継いでいるであろうことは多くの研究者が指摘している。すなわち、各朝『実録』は今上帝が先帝の事蹟を纏めて編纂させるものであるため、基本的に「現政権にとって都合の悪い事実は記されない」という共通点を有しており、『元史』の各本紀もこの特徴を継承している。1例を挙げると、英宗政権によって編纂された『仁宗実録』を元とする「仁宗本紀」は、「仁宗が息子の英宗を即位させるため、武宗の諸子(後の明宗・文宗)を冷遇・排除した」事実を徹底的に排除して編纂されているが、逆に文宗政権によって編纂された英宗〜明宗の『実録』を元にする本紀はその間の経緯を包み隠さず記している[7]。
また、当然のことながら最後の皇帝ウカート・カーン(順帝トゴン・テムル)には『実録』が存在せず、そのため第一次編纂の後に編纂官が各地で採録・収集した資料を元に編纂されている。このような編纂経緯のため「順帝本紀」は他の本紀に比べて記述に一貫性がなく、他の書物と比較検討なしに記事間の脈絡を見出すことはほとんど不可能と評されている[8]。
志/表(『経世大典』他)
『元史』巻97志47食貨志5には「(元史の)『食貨』の前誌は『経世大典』に拠って19の項目の項目を載せており、天暦以前については記載が詳細である……」とあるように[9]、『元史』の志類の大部分は天暦2年のジャヤート・カーン(文宗トク・テムル)即位記念に出版された『経世大典』を主要な史料源として編纂されている。
『経世大典』も『元朝実録』と同様に散逸して現存していないが、その一部が『永楽大典』中に「站赤」や「漕運」といった項目で記録されている。『永楽大典』所収の「站赤」 と『元史』巻101兵志4「站赤」を比較すると、後者は前者の文章を一部の語句を代えるのみでそのまま引用しているが、その分量は前者の30分の1程度に過ぎない。そのため、『元史』の志とは、『経世大典』の記載を数十分の一程度に抄録したものであると考えられている。
評価
17世紀以降、清朝統治下の中国では考証学が盛んとなり、『元史』に対しても顧炎武、趙翼、銭大昕、邵遠平、魏源ら名だたる考証学者が批評を行った。
評価点
列伝の配置
清初の考証学者銭大昕が最初に指摘した点であり、『元史』の列伝が蒙古人・色目人・漢人の順に編纂されていることを評価するもの。モンゴル帝国及び大元ウルスは前代に類を見ない世界帝国であり、非常に多種多様な地域出身の人物が臣下として仕えていた。その点を踏まえ、『元史』の列伝では第5巻から第32巻までが蒙古人・色目人、第33巻から第73巻までを漢人・南人にあてている。なお、列伝が「后妃列伝-睿宗・裕宗・顕宗・順宗伝」から始まる構成であることを評価する意見も存在する[10]。
直訳体漢文の採録
清代の考証学者たちからは批判点として認識されていたが、近年のモンゴル史研究者からはむしろ評価点として見られるようになったもの。13世紀から14世紀にかけてモンゴル帝国では「モンゴル語を世界共通語とする」という目標の下、征服した諸民族の言語の翻訳環境を整備していた。その過程で中国方面に導入されたのが「モンゴル語直訳体漢文」で、特にクビライの治世以後に文章の定型化が進められたものを「大元ウルス書式」とも呼称する。
「モンゴル語直訳体」はモンゴル語文章をモンゴル語特有の語句と語順を保ったたまま漢文に翻訳した特殊な文章で、モンゴル語と漢語の双方に通じている者ならば元となるモンゴル語文章をある程度復元可能という特徴を持つ。反面、一般的な漢文の知識では全く読めない文章となっており、伝統的な漢文教養を有する考証学者たちはこのような文章を「文は鄙俚を極む」と蔑んだ。逆に、近年のモンゴル史学者にとって直訳体は当時のモンゴル語原文を類推可能な貴重な資料であり、研究対象として注目されている。
『元史』に記載される直訳体で最も著名な例は巻29泰定帝本紀の「即位の詔」であり、実際に杉山正明はこの文章を考察し、大部分のモンゴル語原文を明らかにしている。これ以外にも、各本紀が実録の性格を引き継いでいる点など、原史料を文体を統一せずにそのまま引き写している点がかえって史料価値の高さを生んでいるとされる点がしばしばある[11]。
批判点
列伝の重複
同一人物(主にモンゴル人)について誤って2つの列伝を立ててしまうことで、『元史』に対する批判の中でも最もよく知られるもの。このような誤りが生じるのは、非漢民族の人名を漢字転写する際に多数の表記方法があるのに対し、編纂官がこれを同一人物と認識できず別人として扱ってしまったためと考えられる。また、同様の理由で『元史』は本紀と列伝で人名表記の統一が全くなされていないため、今なお対応する人名が不明な人物も多い。
一般的には以下の3例が列伝の重複として知られている。
- 『元史』巻121列伝8の「速不台」と巻122列伝9の「雪不台」(四狗の一人・スブタイのこと)
- 『元史』巻131列伝18の「完者都」と巻133列伝20の「完者都抜都」(キプチャク人のオルジェイトゥ・バートルのこと)
- 『元史』巻150列伝37の「石抹也先」と巻152列伝39の「石抹阿辛」(キタイ人石抹姓のエセンのこと)
また、以下の2例は同一人物の列伝でこそないものの、親族どうしであるためにほとんど内容が重複していると指摘されている。
- 『元史』巻121列伝10直脱児伝と巻133列伝20忽剌出伝(忽剌出は直脱児の従子にあたる)
- 『元史』巻132列伝19杭忽思伝と巻135列伝22阿答赤伝(阿答赤は杭忽思の息子にあたる)
宗室世系表の不備
清代の考証学ではあまり指摘されてこなかったが、『集史』や『五族譜』といったペルシア語史料との比較検討が可能となった20世紀後半以後に指摘されるようになったもの。『五族譜』などの系譜史料と比較したとき、「宗室世系表」にはあまりにも問題点が多いため、杉山正明は「これに基づいて、大元ウルス治下の諸王統を正確に把握することなど、ほとんど不可能事に近い」とさえ称している[13]。
- 根拠のない系譜の創作
ジョチ家、チャガタイ家、フレグ家といった、所謂「西方3ハン国」の系図にみられるもので、事実に基づかない系図が創作されている。甚だしいのはジョチ家の系図(「朮赤太子位 )でバトゥ(抜都)、サルタク(撒里答)、モンケ・テムル(忙哥帖木児)、トダ・モンケ(脱脱蒙哥)、トクタ(脱脱)、ウズベク(月即別)らジョチ・ウルス歴代当主を全て兄弟関係にあるとしている。詰まるところ、これらの系図は本紀や列伝(ジョチ家の場合は巻107朮赤伝)に散見する人名を何の根拠もなく、恣意的につなぎあわせたものに過ぎないと言える。
- 同一人名の取り違え
トクト、テムルといったモンゴル人の間ではありふれた人名でよく見られるもので、同じ名前だが実際には異なる人物を取り違えてしまうもの。以下のような事例が指摘されている。 (1)ジョチ家系図(朮赤太子位)の寧肅王トクト(脱脱)、肅王コンチェク(寛徹)父子:ジョチ家のトクタとチャガタイ系チュベイ王家の人物を取り違えている (2)トゥルイ系ソゲドゥ家系図(歳哥都大王位)の荊王トク・テムル(脱脱木児)、荊王イェス・エブゲン(也速不堅)父子:ソゲドゥ家のトク・テムルとオゴデイ系コデン家のトク・テムルを取り違えている
- 全く関係のない系図の挿入
ある家系図に全く関係のない別の家系図がいり混ざってしまうもの。例えばチンギス・カンの庶子コルゲンの家系図の第5、第6世代は全く関係のない家系図が混ざりこんだものであると考えられている。また、前述した同一人名の別人を取り違えた箇所から別の家系図が挿入されるという事例もある。
内容
本紀
志
巻目 | 巻題 | 節目 |
---|---|---|
巻48 | 志第1 | 天文1 - 簡儀・仰儀・大明殿燈漏・正方案・圭表・景符・窺幾・西域儀象・四海測験・日薄食暈珥及日変・月五星凌犯及星変上 |
巻49 | 志第2 | 天文2 - 月五星凌犯及星変下 |
巻50 | 志第3上 | 五行1 |
巻51 | 志第3下 | 五行2 |
巻52 | 志第4 | 暦1 - 授時暦議上 |
巻53 | 志第5 | 暦2 - 授時暦議下 |
巻54 | 志第6 | 暦3 - 授時暦経上 |
巻55 | 志第7 | 暦4 - 授時暦経下 |
巻56 | 志第8 | 暦5 - 庚午元暦上 |
巻57 | 志第9 | 暦6 - 庚午元暦下 |
巻58 | 志第10 | 地理1 - 中書省(腹裏)・嶺北等処行中書省 |
巻59 | 志第11 | 地理2 - 遼陽等処行中書省・河南江北等処行中書省 |
巻60 | 志第12 | 地理3 - 陝西等処行中書省・四川等処行中書省・甘粛等処行中書省 |
巻61 | 志第13 | 地理4 - 雲南等処行中書省 |
巻62 | 志第14 | 地理5 - 江浙等処行中書省・江西等処行中書省 |
巻63 | 志第15 | 地理6 - 湖広等処行中書省・征東等処行中書省 |
巻64 | 志第16 | 河渠1 - 通恵河・壩河・金水河・隆福宮前河・海子岸・双塔河・盧溝河・白浮甕山・渾河・白河・御河・灤河・河間河・冶河・滹沱河・会通河・兗州閘 |
巻65 | 志第17上 | 河渠2 - 黄河・済州河・滏河・広済渠・三白渠・洪口渠・揚州運河・練湖・呉松江・澱山湖・塩官州海塘・龍山河道 |
巻66 | 志第17下 | 河渠3 - 黄河・蜀堰・涇渠・金口河 |
巻67 | 志第18 | 礼楽1 - 制朝儀始末・元正受朝儀・天寿聖節受朝儀・郊廟礼成受賀儀・皇帝即位受朝儀・群臣上皇帝尊号礼成受朝賀儀・冊立皇后儀・冊立皇太子儀・太皇太后上尊号進冊宝儀・皇太后上尊号進冊宝儀・太皇太后加上尊号進冊宝儀・進發冊宝導従・冊宝攝官・攝行告廟儀・国史院進先朝実録儀 |
巻68 | 志第19 | 礼楽2 - 制楽始末・登歌楽器・宮県楽器・節楽之器・文舞器・武舞器・舞表 |
巻69 | 志第20 | 礼楽3 - 郊祀楽章・宗廟楽章・社稷楽章・先農楽章・宣聖楽章 |
巻70 | 志第21 | 礼楽4 - 郊祀楽舞・宗廟楽舞・泰定十室楽舞 |
巻71 | 志第22 | 礼楽5 - 楽服・大楽職掌・宴楽之器・楽隊 |
巻72 | 志第23 | 祭祀1 - 郊祀上 |
巻73 | 志第24 | 祭祀2 - 郊祀下 |
巻74 | 志第25 | 祭祀3 - 宗廟上 |
巻75 | 志第26 | 祭祀4 - 宗廟下・神御殿 |
巻76 | 志第27上 | 祭祀5 - 太社太稷・先農・宣聖・嶽鎮海瀆・郡県社稷・郡県宣聖廟・郡県三皇廟・嶽鎮海瀆常祀・風雨雷師・武成王・古帝王廟・周公廟・名山大川忠臣義士之祠・功臣祠・大臣家廟 |
巻77 | 志第27下 | 祭祀6 - 至正親祀南郊・至正親祀太廟・三皇廟祭祀礼楽・顔子考妣封諡・宋五賢従祀・朱熹加封斉国父追諡献靖・国俗旧礼 |
巻78 | 志第28 | 輿服1 - 冕服・輿輅 |
巻79 | 志第29 | 輿服2 - 儀仗・崇天鹵簿・外仗 |
巻80 | 志第30 | 輿服3 - 儀衛 |
巻81 | 志第31 | 選挙1 - 科目・学校 |
巻82 | 志第32 | 選挙2 - 銓法上 |
巻83 | 志第33 | 選挙3 - 銓法中・銓法下 |
巻84 | 志第34 | 選挙4 - 考課 |
巻85 | 志第35 | 百官1 - 三公・中書令・右丞相・左丞相・平章政事・右丞・左丞・参政・参議中書省事・左司・右司・中書省掾属・吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部 |
巻86 | 志第36 | 百官2 - 枢密院・行枢密院・西川行枢密院・江南行枢密院・甘粛行枢密院・河南行枢密院・嶺北行枢密院・大都督府・御史台・江南諸道行御史台・陝西諸道行御史台・粛政廉訪司 |
巻87 | 志第37 | 百官3 - 大宗正府・大司農司・翰林兼国史院・蒙古翰林院・集賢院・宣政院・宣徽院・太禧宗禋院 |
巻88 | 志第38 | 百官4 - 太常礼儀院・典瑞院・太史院・太医院・奎章閣学士院・芸文監・侍正府・給事中・将作院・通政院・中政院 |
巻89 | 志第39 | 百官5 - 儲政院・内史府・諸王傅官・都護府・崇福司 |
巻90 | 志第40 | 百官6 - 大都留守司・武備寺・太僕寺・尚乗寺・太府監・度支監・利用監・中尚監・章佩監・経正監・都水監・秘書監・司天監・回回司天監・上都留守司兼本路都総管府・尚供総管府・雲需総管府・大都路都総管府・管領諸路打捕鷹房総管府 |
巻91 | 志第41上 | 百官7 - 行中書省・宣慰使司・宣慰使司都元帥府・宣慰使兼管軍万戸府・都元帥府・元帥府・宣撫司・安撫司・招討司・諸路万戸府・儒学提挙司・蒙古提挙学校官・官医提挙司・都転運塩使司・市舶提挙司・海道運糧万戸府・諸路総管府・散府・諸州・諸県・諸軍・諸蛮夷長官司 |
巻92 | 志第41下 | 百官8・選挙附録 |
巻93 | 志第42 | 食貨1 |
巻94 | 志第43 | 食貨2 |
巻95 | 志第44 | 食貨3 |
巻96 | 志第45上 | 食貨4 |
巻97 | 志第45下 | 食貨5 |
巻98 | 志第46 | 兵1 |
巻99 | 志第47 | 兵2 |
巻100 | 志第48 | 兵3 |
巻101 | 志第49 | 兵4 |
巻102 | 志第50 | 刑法1 |
巻103 | 志第51 | 刑法2 |
巻104 | 志第52 | 刑法3 |
巻105 | 志第53 | 刑法4 |
表
巻目 | 巻題 | 節目 |
---|---|---|
巻106 | 表第1 | 后妃表 - 太祖妃・太宗妃・定宗妃・憲宗妃・世祖妃・成宗妃・武宗妃・仁宗妃・英宗妃・泰定妃・明宗妃・文宗妃・烈祖妃・睿宗妃・裕宗妃・顕宗妃・順宗妃 |
巻107 | 表第2 | 宗室世系表 - 海都位・答里真位・搠只哈撒児王位・哈赤温大王位・鉄木哥斡赤斤国王位・別里古台大王位・朮赤太子位・察合台太子位・闊列堅太子位・闊端太子位・闊出太子位・哈剌察児王位・合失大王位・合丹大王位・滅里大王位・忽察大王位・脳忽太子位・禾忽大王位・忽覩都大王位・旭烈兀大王位・阿里不哥大王位・撥綽大王位・末哥大王位・歳哥都大王位・班禿大王位・阿速歹大王位・玉龍答失大王位・河平王昔里吉位・朶児只王位・安西王忙哥剌位・雲南王忽哥赤位・愛牙赤大王位・西平王奥魯赤位・寧王闊闊出位・鎮南王脱歓位・忽都魯帖木児王位・梁王松山位・湘寧王迭里哥児不花位・魏王阿木哥位 |
巻108 | 表第3 | 諸王表 - 金印獣紐・金印螭紐・金印駝紐・金鍍銀印駝紐・金鍍銀印亀鈕・銀印亀紐 |
巻109 | 表第4 | 諸公主表 - 昌国公主位・趙国公主位・魯国公主位・鄆国公主位・高昌公主位・高麗公主位・阿昔倫公主位・帯魯罕公主位・延安公主位・□□公主位・□□公主住・各公主位 |
巻110 | 表第5上 | 三公表1 - 太師・太傅・太保(丙寅/1206年ー至順3年/1332年) |
巻111 | 表第5下 | 三公表2 - 太師・太傅・太保(元統元年/1333年ー至正28年/1368年) |
巻112 | 表第6上 | 宰相年表1 - 中書令・右丞相・左丞相・平章政事・右丞・左丞・参知政事(丙寅/1206年ー至順3年/1332年) |
巻113 | 表第6下 | 宰相年表2 - 中書令・右丞相・左丞相・平章政事・右丞・左丞・参知政事(元統元年/1333年ー至正28年/1368年) |
列伝
脚注
- ^ 『明太宗実録』洪武二年二月丙寅朔「詔修元史」
- ^ 『明太宗実録』洪武二年七月乙未「詔遣儒士欧陽佑等十二人往北平等処、采訪故元元統及至正三十六年事蹟、増脩元史。時諸儒脩元史将成詔先成者上進闕者俟續采補之」
- ^ 『明太宗実録』洪武三年二月乙丑「詔続脩元史。時儒士欧陽佑等采摭故元元統以後事実還朝。仍命翰林学士宋濂、待制王禕為総裁、儒士趙壎・朱右・貝瓊・朱濂・王彝・張孟兼・高遜志・李懋・李汶・張宣・張簡・杜寅・殷弼・寅同十四人、同纂脩」
- ^ 『明太宗実録』洪武三年秋七月丁亥朔「続修元史成。計五十有三巻、紀十・志五・表二・列傳三十六。凡前書未備者、悉補完之、通二百一十二巻。翰林院学士宋濂率諸儒以進。詔刊行之人、賜白金二十両・文綺帛各二、授儒士張宣等官。惟趙壎・朱右・朱廉乞還田里、従之」
- ^ 『元史』巻18成宗本紀1「[元貞元年五月]甲寅、翰林承旨董文用等進『世祖実録』」
- ^ 『元史』巻21成宗本紀4「[大徳7年冬十月]庚戌、翰林国史院進太祖・太宗・定宗・睿宗・憲宗五朝『実録』」
- ^ 杉山1995,124頁
- ^ 宮2018,395-397頁
- ^ 『元史』巻97志47下食貨志5「食貨前誌、拠『経世大典』為之目、凡十有九、自天暦以前、載之詳矣」
- ^ 小林1972,13-22頁
- ^ 小林1972,18-20頁
- ^ 小林1972,13頁
- ^ 杉山2004,243頁
参考文献
- 内藤湖南著『支那史学史』
- 箭内亙『蒙古史研究』刀江書院、1930年
- 小林高四郎『元史』明徳出版社、1972年
- 杉山正明「大元ウルスの三大王国:カイシャンの奪権とその前後 (上)」『京都大學文學部研究紀要』34号、1995年
- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
- 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
外部リンク
- 国学ネット — 原典宝庫『元史』(1巻/本紀1 - 210巻/列伝97・編集後記)