コンテンツにスキップ

「西城秀樹」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
タグ: サイズの大幅な増減
1行目: 1行目:
{{Otheruseslist|西城秀樹の歴史・業績・エピソードなど|作品(シングル・アルバム等)・映像作品(VHS・DVD等)・出演・書籍|西城秀樹の作品・出演一覧}}
{{Notice|text=この項目の'''ページサイズが大きくなっております(400KB以上)。'''|date=2019年8月}}
{{分割提案|西城秀樹の作品・出演一覧|date=2019年8月}}
{{RADIOLISTEN}}{{TVWATCH}}
{{RADIOLISTEN}}{{TVWATCH}}
{{Infobox Musician
{{Infobox Musician
425行目: 424行目:
[[2018年]]4月25日、自宅で家族と団らん中に倒れ、神奈川・横浜市の病院に救急搬送された。その後、3週間ほど入院していたが、その間意識が戻ることはなかった。また、通夜・葬儀の司会を務めた[[徳光和夫]]は自身のラジオ番組で、家族から聞いた話として、治療に当たった医師と家族との間で延命治療についての話があったことを明かしており、その時の容態について「仮に延命治療をしても意識が戻るわけではなく、そのまま生涯を終える」状態であったと話している。最終的に西城の子供達の意見を受けて、延命治療はしない事となった<ref>{{Cite news2|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/05/26/kiji/20180526s00041000153000c.html|date=2018-05-26|title=西城秀樹さんの最期「パパを休ませてあげよう」…遺族の決断を徳光アナ明かす|newspaper=スポーツニッポン|agency=スポーツニッポン|accessdate=2018-06-11}}</ref>。そして、[[2018年]]5月16日、午後11時53分、家族にみとられながら息を引き取った。
[[2018年]]4月25日、自宅で家族と団らん中に倒れ、神奈川・横浜市の病院に救急搬送された。その後、3週間ほど入院していたが、その間意識が戻ることはなかった。また、通夜・葬儀の司会を務めた[[徳光和夫]]は自身のラジオ番組で、家族から聞いた話として、治療に当たった医師と家族との間で延命治療についての話があったことを明かしており、その時の容態について「仮に延命治療をしても意識が戻るわけではなく、そのまま生涯を終える」状態であったと話している。最終的に西城の子供達の意見を受けて、延命治療はしない事となった<ref>{{Cite news2|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/05/26/kiji/20180526s00041000153000c.html|date=2018-05-26|title=西城秀樹さんの最期「パパを休ませてあげよう」…遺族の決断を徳光アナ明かす|newspaper=スポーツニッポン|agency=スポーツニッポン|accessdate=2018-06-11}}</ref>。そして、[[2018年]]5月16日、午後11時53分、家族にみとられながら息を引き取った。


== 音楽 ==
=== シングル ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 作詞 !! 作曲 !! 編曲 !! オリコン<br/>最高位
|-
!colspan="7" | 1970年代
|-
| 1 || [[1972年]]<br/>3月25日 || '''[[恋する季節 (西城秀樹の曲)|恋する季節]]''' || [[たかたかし|麻生たかし]] || [[筒美京平]] || [[高田弘]] || 42位
|-
| 2 || 1972年<br/>7月25日 || '''[[恋の約束]]''' || [[たかたかし]] || [[鈴木邦彦]] || [[ハニー・ナイツ|葵まさひこ]] || 18位
|-
| 3 || 1972年<br/>11月25日 || '''[[チャンスは一度]]''' || たかたかし || 鈴木邦彦 || [[馬飼野康二]] || 20位
|-
| 4 || [[1973年]]<br/>2月25日 || '''[[青春に賭けよう]]''' || たかたかし || 鈴木邦彦 || 馬飼野康二 || 16位
|-
| 5 || 1973年<br/>5月25日 || '''[[情熱の嵐]]''' || たかたかし || 鈴木邦彦 || 馬飼野康二 || 6位
|-
| 6 || 1973年<br/>9月5日 || '''[[ちぎれた愛]]''' || [[安井かずみ]]
|colspan="2" | 馬飼野康二 || 1位<br/>(4週連続)
|-
| 7 || 1973年<br/>12月5日 || '''[[愛の十字架]]''' || たかたかし || 鈴木邦彦 || 馬飼野康二 || 1位
|-
| 8 || [[1974年]]<br/>2月25日 || '''[[薔薇の鎖]]''' || たかたかし || 鈴木邦彦 || 馬飼野康二 || 3位
|-
| 9 || 1974年<br/>5月25日 || '''[[激しい恋]]''' || 安井かずみ
|colspan="2" | 馬飼野康二 || 2位
|-
| 10 || 1974年<br/>8月25日 || '''[[傷だらけのローラ]]''' || [[さいとう大三]]
|colspan="2" | 馬飼野康二 || 2位
|-
| 11 || 1974年<br/>11月25日 || '''[[涙と友情]]''' || たかたかし || 鈴木邦彦 || [[あかのたちお]] || 4位
|-
| 12 || [[1975年]]<br/>2月25日 || '''[[この愛のときめき]]''' || 安井かずみ
|colspan="2" | あかのたちお || 3位
|-
| 13 || 1975年<br/>5月25日 || '''[[恋の暴走]]''' || 安井かずみ
|colspan="2" | 馬飼野康二 || 3位
|-
| 14 || 1975年<br/>8月25日 || '''[[至上の愛 (西城秀樹の曲)|至上の愛]]''' || 安井かずみ
|colspan="2" | 馬飼野康二 || 6位
|-
| 15 || 1975年<br/>10月25日 || '''[[白い教会]]''' || たかたかし || 鈴木邦彦 || あかのたちお || 4位
|-
| 16 || [[1976年]]<br/>2月25日 || '''[[君よ抱かれて熱くなれ]]''' || [[阿久悠]]
|colspan="2" | [[三木たかし]] || 3位
|-
| 17 || 1976年<br/>6月5日 || '''[[ジャガー (西城秀樹の曲)|ジャガー]]''' || 阿久悠
|colspan="2" | 三木たかし || 3位
|-
| 18 || 1976年<br/>9月5日 || '''[[若き獅子たち (西城秀樹の曲)|若き獅子たち]]''' || 阿久悠
|colspan="2" | 三木たかし || 4位
|-
| 19 || 1976年<br/>12月20日 || '''[[ラストシーン (西城秀樹の曲)|ラストシーン]]''' || 阿久悠
|colspan="2" | 三木たかし || 8位
|-
| 20 || [[1977年]]<br/>3月15日 || '''[[ブーメランストリート]]''' || 阿久悠 || 三木たかし || [[萩田光雄]] || 6位
|-
| 21 || 1977年<br/>6月5日 || '''[[セクシーロックンローラー]]''' || 阿久悠 || 三木たかし || 萩田光雄 || 7位
|-
| 22 || 1977年<br/>9月5日 || '''[[ボタンを外せ]]''' || 阿久悠
|colspan="2" | 三木たかし || 12位
|-
| 23 || [[1978年]]<br/>1月1日 || '''[[ブーツをぬいで朝食を]]''' || 阿久悠 || [[大野克夫]] || 萩田光雄 || 7位
|-
| 24 || 1978年<br/>3月5日 || '''[[あなたと愛のために]]''' || [[東海林良]] || 大野克夫 || [[水谷公生]] || 6位
|-
| 25 || 1978年<br/>5月25日 || '''[[炎 (西城秀樹の曲)|炎]]''' || 阿久悠
|colspan="2" | 馬飼野康二 || 5位
|-
| 26 || 1978年<br/>8月25日 || '''[[ブルースカイブルー]]''' || 阿久悠
|colspan="2" | 馬飼野康二 || 3位
|-
| 27 || 1978年<br/>11月25日 || '''[[遙かなる恋人へ]]''' || [[竜真知子]]
|colspan="2" | 馬飼野康二 || 8位
|-
| 28 || [[1979年]]<br/>2月21日 || '''[[YOUNG MAN (Y.M.C.A.)|YOUNG MAN<br/>(Y.M.C.A.)]]''' || H.Belolo<br/>V.Wills<br/>[[あまがいりゅうじ]] || J.Morali || [[大谷和夫]] || 1位<br/>(5週連続)
|-
| 29 || 1979年<br/>5月21日 || '''[[ホップ・ステップ・ジャンプ (西城秀樹の曲)|ホップ・ステップ・ジャンプ]]''' || [[山崎光 (作詞家)|山崎光]] || 水谷公生 || 水谷公生<br/>[[佐藤準]] || 2位
|-
| 30 || 1979年<br/>9月5日 || '''[[勇気があれば]]''' || [[山川啓介]] || 筒美京平 || 萩田光雄 || 3位
|-
!colspan="7" | 1980年代
|-
| 31 || [[1980年]]<br/>1月5日 || '''[[悲しき友情]]''' || 山川啓介 || 筒美京平 || 水谷公生 || 6位
|-
| 32 || 1980年<br/>3月21日 || '''[[愛の園 (AI NO SONO)|愛の園<br/>(AI NO SONO)]]''' || [[スティーヴィー・ワンダー|S.Wonder]]<br/>山川啓介 || S.Wonder || [[坂本龍一]] || 7位
|-
| 33 || 1980年<br/>6月5日 || '''[[俺たちの時代 (西城秀樹の曲)|俺たちの時代]]''' || たかたかし || 水谷公生 || 佐藤準 || 6位
|-
| 34 || 1980年<br/>7月21日 || '''[[エンドレス・サマー (西城秀樹の曲)|エンドレス・サマー]]''' || [[岡田冨美子]] || 水谷公生 || [[船山基紀]] || 12位
|-
| 35 || 1980年<br/>10月5日 || '''[[サンタマリアの祈り]]''' || [[なかにし礼]] || [[川口真]] || [[服部克久]] || 13位
|-
| 36 || 1980年<br/>12月16日 || '''[[眠れぬ夜#西城秀樹のカヴァー・シングル|眠れぬ夜]]'''
|colspan="2" | [[小田和正]] || 船山基紀 || 10位
|-
| 37 || [[1981年]]<br/>3月21日 || '''[[リトルガール (西城秀樹の曲)|リトルガール]]''' || 竜真知子
|colspan="2" | 水谷公生 || 9位
|-
| 38 || 1981年<br/>6月21日 || '''[[セクシーガール]]'''
|colspan="2" | [[横浜銀蝿]] || [[若草恵]] || 10位
|-
| 39 || 1981年<br/>9月5日 || '''[[センチメンタルガール]]''' || あまがいりゅうじ || [[鈴木キサブロー]] || 若草恵 || 17位
|-
| 40 || 1981年<br/>12月20日 || '''[[ジプシー (西城秀樹の曲)|ジプシー]]''' || [[森雪之丞]] || 鈴木キサブロー || 船山基紀 || 15位
|-
| 41 || [[1982年]]<br/>3月25日 || '''[[南十字星 (西城秀樹の曲)|南十字星]]''' || 竜真知子 || 水谷公生 || 佐藤準 || 6位
|-
| 42 || 1982年<br/>6月21日 || '''[[聖・少女]]''' || [[松本隆]] || [[吉田拓郎]] || [[瀬尾一三]] || 9位
|-
| 43 || 1982年<br/>9月30日 || '''[[漂流者たち]]'''
|colspan="2" | [[石坂まさを]] || 瀬尾一三 || 15位
|-
| 44 || [[1983年]]<br/>2月1日 || '''[[ギャランドゥ]]'''
|colspan="2" | [[もんたよしのり]] || 大谷和夫 || 14位
|-
| 45 || 1983年<br/>6月1日 || '''[[ナイトゲーム (西城秀樹の曲)|ナイトゲーム]]''' || [[山本伊織]] || E.Hamilton || [[前田憲男]] || 19位
|-
| 46 || 1983年<br/>9月15日 || '''[[哀しみのStill]]''' || [[森田由美]]
|colspan="2" | [[後藤次利]] || 29位
|-
| 47 || [[1984年]]<br/>1月25日 || '''[[Do You Know#西城秀樹版「Do You Know」|Do You Know]]''' || [[湯川れい子]] || [[小田啓義]] || 大谷和夫 || 30位
|-
| 48 || 1984年<br/>7月5日 || '''[[背中からI Love You]]''' || [[売野雅勇]]
|colspan="2" | 後藤次利 || 30位
|-
| 49 || 1984年<br/>10月15日 || '''[[抱きしめてジルバ]]''' || 森田由美 || [[ジョージ・マイケル|G.Michael]]<br/>[[アンドリュー・リッジリー|A.Ridgeley]] || [[丸山恵市]] || 18位
|-
| 50 || [[1985年]]<br/>2月5日 || '''[[一万光年の愛]]''' || [[大津あきら]]
|colspan="2" | [[井上大輔]] || 12位
|-
| 51 || 1985年<br/>5月9日 || '''[[ミスティー・ブルー]]''' || 森田由美 || [[岡本朗]] || 萩田光雄 || 27位
|-
| 52 || 1985年<br/>9月5日 || '''[[BEAT STREET]]''' || [[吉田美奈子]]
|colspan="2" | [[角松敏生]] || 51位
|-
| 53 || 1985年<br/>11月21日 || '''[[腕の中へ]]''' || 吉田美奈子 || [[バリー・マニロウ|B.Manilow]]<br/>H.Rice || 船山基紀 || 10位
|-
| - || 1986年<br/>2月21日 || '''[[腕の中へ#『腕の中へ - In Search of Love -』12インチ・シングル盤|腕の中へ<br/>-In Search of Love-]]''' || 吉田美奈子 || B.Manilow<br/>H.Rice || 船山基紀 || -
|-
| 54 || [[1986年]]<br/>4月10日 || '''[[追憶の瞳]]''' || 大津あきら || [[関口敏行]] || 船山基紀 || 26位
|-
| 55 || 1986年<br/>9月5日 || '''[[Rain of Dream 夢の罪]]''' || [[松本一起]] || [[沢村拓二]] || [[難波弘之]] || 44位
|-
| 56 || 1986年<br/>12月5日 || '''[[約束の旅]]''' || 森田由美
|colspan="2" | 後藤次利 || 41位
|-
| 57 || [[1987年]]<br/>5月21日 || '''[[New York Girl]]''' || [[秋元康]] || H.Hewett<br/>[[ジョージ・デューク|G.Duke]] || G.Duke || 50位
|-
| 58 || 1987年<br/>11月21日 || '''[[心で聞いたバラード]]''' || [[上杉伸之助]] || [[濱田金吾]] || 大谷和夫 || 73位
|-
| 59 || [[1988年]]<br/>4月1日 || '''[[Blue Sky (西城秀樹の曲)|Blue Sky]]''' || なかにし礼 || 井上大輔 || [[村松邦男]] || 60位
|-
| 60 || 1988年<br/>7月6日 || '''[[夏の誘惑]]''' || なかにし礼 || 井上大輔 || 船山基紀 || 94位
|-
| 61 || 1988年<br/>8月31日 || '''[[ONE 〜愛する人のために〜|ONE<br/>〜愛する人のために〜]]''' || 山川啓介
|colspan="2" | [[松下誠]] || -
|-
| 62 || 1988年<br/>11月1日 || '''[[33才 (西城秀樹の曲)|33才]]''' || なかにし礼 || [[フリオ・イグレシアス|J.Iglesias]] || 萩田光雄 || 49位
|-
| 63 || [[1989年]]<br/>7月21日 || '''[[リバーサイドで逢いましょう]]''' || [[小林和子]] || 濱田金吾 || 船山基紀 || -
|-
!colspan="7" | 1990年代
|-
| 64 || [[1990年]]<br/>7月21日 || '''[[SHAKE MY DAY]]''' || 松本一起 || S.Portaluri<br/>F.Zafret<br/>D.Sion || [[鷺巣詩郎]] || -
|-
| 65 || [[1991年]]<br/>3月25日 || '''[[Rock Your Fire]]''' || [[サエキけんぞう]]
|colspan="2" | [[織田哲郎]] || 91位
|-
| 66 || 1991年<br/>4月21日 || '''[[走れ正直者]]''' || [[さくらももこ]]
|colspan="2" | 織田哲郎 || 17位
|-
| 67 || 1991年<br/>11月21日 || '''[[もいちど]]''' || [[沢ちひろ]] || [[栗林誠一郎]] || [[池田大介 (編曲家)|池田大介]] || -
|-
| 68 || [[1992年]]<br/>11月21日 || '''[[ブーメランストレート]]''' || 阿久悠<br/>[[T's Party]] || 三木たかし<br/>[[多々納好夫]] || 池田大介 || -
|-
| 69 || [[1993年]]<br/>11月21日 || '''[[いくつもの星が流れ]]'''
|colspan="2" | [[文田博資]] || [[芳野藤丸]] || -
|-
| 70 || [[1994年]]<br/>2月23日 || '''[[SAYYEA',JAN-GO]]''' || [[坂田和子]] || 井上大輔 || [[杉山卓夫]] || -
|-
| 71 || [[1995年]]<br/>1月21日 || '''[[黄昏よ、そばにいて]]''' || [[荒木とよひさ]] || [[浜圭介]] || [[今泉敏郎]] || 69位
|-
| 72 || 1995年<br/>6月7日 || '''[[愛が止まらない 〜Turn it into love〜#西城秀樹のカバー|愛が止まらない]]''' || [[及川眠子]] || [[ストック・エイトキン・ウォーターマン|M.Stock<br/>M.Aitken<br/>P.Waterman]] || 芳野藤丸 || 83位
|-
| 73 || 1995年<br/>11月22日 || '''[[心の扉 (西城秀樹の曲)|心の扉]]''' || 荒木とよひさ || 浜圭介 || 芳野藤丸 || -
|-
| 74 || [[1996年]]<br/>6月5日 || '''[[round'n'round]]'''
|colspan="2" | [[シライシ紗トリ|白石紗澄李]] || 白石紗澄李<br/>[[鈴木雅也 (作曲家)|鈴木雅也]] || 70位
|-
| 75 || 1996年<br/>12月18日 || '''[[パラサイト・ラヴ]]''' || [[サンプラザ中野くん|サンプラザ中野]] || 白石紗澄李 || 白石紗澄李<br/>鈴木雅也 || 77位
|-
| 76 || [[1997年]]<br/>8月6日 || '''[[moment (西城秀樹の曲)|moment]]''' || [[松井五郎]]
|colspan="2" | [[YOSHIKI]] || 29位
|-
| 77 || [[1998年]]<br/>5月21日 || '''[[2Rから始めよう]]'''
|colspan="2" | [[松任谷由実]] || [[川口講一]]<br/>[[松任谷正隆]] || -
|-
| 78 || [[1999年]]<br/>4月13日 || '''[[最後の愛]]''' || [[安部純]] || [[平義隆]] || [[武藤星児]] || 80位
|-
| 79 || 1999年<br/>5月26日 || '''[[ターンAターン]]''' || [[富野由悠季|井荻麟]] || [[小林亜星]] || [[矢田部正]] || 27位
|-
| 80 || 1999年<br/>11月17日 || '''[[Bailamos (西城秀樹の曲)|Bailamos]]''' || [[根津洋子]] || P.Barry<br/>M.Taylor || [[門倉聡]] || 30位
|-
!colspan="7" | 2000年代
|-
| 81 || [[2000年]]<br/>4月26日 || '''[[Love Torture]]''' || [[m.c.A・T]]
|colspan="2" | [[m.c.A・T|AKIO TOGASHI]] || 79位
|-
| 82 || 2000年<br/>10月17日 || '''[[時のきざはし]]'''
|colspan="2" | [[河村隆一|Я・K]] || [[大島ミチル]] || 46位
|-
| 83 || [[2001年]]<br/>5月23日 || '''[[Jasmine (西城秀樹の曲)|Jasmine]]''' || [[M.Yoshida]] || Я・K || [[石川鉄男]] || 77位
|-
| 84 || [[2002年]]<br/>6月26日 || '''[[Everybody Dance]]''' || [[有森聡美]]
|colspan="2" | [[長谷川智樹]] || 72位
|-
| 85 || [[2003年]]<br/>7月23日 || '''[[粗大ゴミじゃねぇ]]'''
|colspan="2" | [[つんく♂|つんく]] || [[高橋諭一]] || 33位
|-
| 86 || [[2006年]]<br/>9月27日 || '''[[めぐり逢い (西城秀樹の曲)|めぐり逢い]]''' || 有森聡美 || [[アンドレ・ギャニオン|A.Gagnon]] || [[塩入俊哉]] || 36位
|-
| 87 || [[2009年]]<br/>8月19日<ref>配信限定シングル。</ref> || '''ベジタブル・ワンダフル''' || 有森聡美
|colspan="2" | [[宅見将典]] || -
|-
|}


=== オリジナル・アルバム ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 備考
|-
!colspan="4" | 1970年代
|-
| rowspan="2" | 1 || [[1972年]]<br/>11月5日 || rowspan="2" | '''[[ワイルドな17歳/西城秀樹]]''' ||
|-
| [[1999年]]<br/>7月23日 || CD再発
|-
| 2 || [[1973年]]<br/>3月25日 || '''[[青春に賭けよう/西城秀樹]]''' ||
|-
| rowspan="2" | 3 || 1973年<br/>10月5日 || rowspan="2" | '''[[エキサイティング秀樹 - ちぎれた愛/情熱の嵐]]''' ||
|-
| 1999年<br/>7月23日 || CD再発
|-
| rowspan="2" | 4 || [[1974年]]<br/>9月15日 || rowspan="2" | '''[[傷だらけのローラ/西城秀樹]]''' ||
|-
| 1999年<br/>7月23日 || CD再発
|-
| rowspan="2" | 5 || [[1975年]]<br/>6月25日 || rowspan="2" | '''[[エキサイティング秀樹 Vol.5 - 恋の暴走/この愛のときめき]]''' ||
|-
| 1999年<br/>7月23日 || CD再発
|-
| 6 || [[1976年]]<br/>6月25日 || '''[[愛と情熱の青春/西城秀樹]]''' ||
|-
| 7 || [[1976年]]<br/>11月25日 || '''[[若き獅子たち/西城秀樹]]''' ||
|-
| 8 || [[1978年]]<br/>8月25日 || '''[[ブーツをぬいで朝食を/西城秀樹]]''' ||
|-
| 9 || 1978年<br/>12月20日 || '''[[ファースト・フライト/西城秀樹]]''' ||
|-
| 10 || [[1979年]]<br/>7月21日 || '''[[Feeling Free/西城秀樹]]''' ||
|-
!colspan="4" | 1980年代
|-
| 11 || [[1980年]]<br/>2月16日 || '''[[SONGS/西城秀樹]]''' ||
|-
| 12 || 1980年<br/>8月21日 || '''[[BIG SUNSHINE/西城秀樹]]''' ||
|-
| 13 || [[1981年]]<br/>7月5日 || '''[[ポップンガール・ヒデキ]]''' ||
|-
| 13 || [[1982年]]<br/>7月21日 || '''[[CRYSTAL LOVE/西城秀樹]]''' ||
|-
| rowspan="2" | 14 || [[1983年]]<br/>7月21日 || rowspan="2" | '''[[It's You/西城秀樹]]''' ||
|-
| [[2013年]]<br/>10月30日 || 初CD化
|-
| rowspan="2" | 15 || [[1984年]]<br/>3月5日 || rowspan="2" | '''[[GENTLE・A MAN/西城秀樹]]''' ||
|-
| 2013年<br/>10月30日 || 初CD化
|-
| rowspan="2" | 16 || [[1985年]]<br/>7月21日 || rowspan="2" | '''[[TWILIGHT MADE …HIDEKI]]''' ||
|-
| 2013年<br/>10月30日 || 初CD化
|-
| rowspan="2" |17 || [[1986年]]<br/>6月5日 || rowspan="2" | '''[[FROM TOKYO]]''' ||
|-
| 2013年<br/>10月30日 || 初CD化
|-
| 18 || [[1987年]]<br/>2月21日 || '''[[PRIVATE LOVERS]]''' ||
|-
| rowspan="2" | 19 || [[1988年]]<br/>4月21日 || rowspan="2" | '''[[33才/西城秀樹]]''' ||
|-
| 2013年<br/>10月30日 || CD再発
|-
| 20 || [[1989年]]<br/>7月21日 || '''[[Golden Earrings]]''' ||
|-
!colspan="4" | 1990年代
|-
| 21 || [[1991年]]<br/>4月21日 || '''[[MAD DOG]]''' ||
|}

=== カバー・アルバム ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 備考
|-
!colspan="4" | 1970年代
|-
| 1 || [[1974年]]<br/>4月25日 || '''[[秀樹!エキサイティング・ポップス]]''' ||
|-
| 2 || 1974年<br/>10月10日 || '''[[西城秀樹ロックの世界]]''' ||
|-
| 3 || [[1976年]]<br/>8月25日 || '''[[ヒデキ・ロック・オン・ステージ]]''' ||
|-
| 4 || [[1977年]]<br/>11月25日 || '''[[ロックンロール・ミュージック/ヒデキ]]''' ||
|-
!colspan="4" | 1980年代
|-
| 5 || [[1981年]]<br/>3月5日 || '''[[HIDEKI SONG BOOK]]''' ||
|-
| 6 || [[1986年]]<br/>11月21日 || '''[[Strangers in the Night]]''' ||
|-
!colspan="4" | 1990年代
|-
| 7 || [[1996年]]<br/>7月24日 || '''[[LIFE WORK]]''' || リメイク・アルバム
|-
!colspan="4" | 2000年代
|-
| rowspan="2" | 8 || [[2000年]]<br/>3月29日 || rowspan="2" | '''[[Bailamos 2000]]''' || 過去のヒット曲をリミックスしたミニアルバム
|-
| 2013年<br/>3月6日 || CD再発
|-
| rowspan="2" | 9 || [[2001年]]<br/>6月27日 || rowspan="2" | '''[[PLANETS - 30th Anniversary 12 Songs -]]''' || リメイク盤
|-
| 2013年<br/>3月6日 || CD再発
|-
!colspan="4" | 2010年代
|-
| 10 || [[2015年]]<br/>4月13日 || '''[[心響 -KODOU-]]''' || リメイク・アルバム
|}

=== ベスト・アルバム ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 備考
|-
!colspan="4" | 1970年代
|-
| 1 || [[1973年]]<br/>10月25日 || '''[[西城秀樹オリジナル・ゴールデン・ヒット曲集]]''' ||
|-
| 2 || 1973年<br/>11月25日 || '''[[西城秀樹ベスト・24デラックス]]''' ||
|-
| 3 || [[1974年]]<br/>6月25日 || '''[[西城秀樹ゴールド30]]''' ||
|-
| 4 || 1974年<br/>11月25日 || '''[[西城秀樹ゴールデン・ヒット・デラックス]]''' ||
|-
| 5 || [[1975年]]<br/>10月25日 || '''[[西城秀樹ビッグ・ヒット20]]''' ||
|-
| 6 || 1975年<br/>11月25日 || '''[[西城秀樹ゴールデン・ヒット・デラックス16]]''' ||
|-
| 7 || [[1976年]]<br/>11月5日 || '''[[西城秀樹ゴールデン・ヒット・デラックス16#1976年盤・収録曲|西城秀樹ゴールデン・ヒット・デラックス16]]''' ||
|-
| 8 || [[1977年]]<br/>4月25日 || '''[[5年の歩み/西城秀樹]]''' ||
|-
| 9 || 1977年<br/>11月5日 || '''[[西城秀樹スペシャル]]''' ||
|-
| 10 || [[1978年]]<br/>4月25日 || '''[[ベリー・ベスト・シリーズ/西城秀樹]]''' ||
|-
| 11 || 1978年<br/>12月5日 || '''[[スター・マイ・セレクション・シリーズ/西城秀樹]]''' ||
|-
| rowspan="2" | 12 || [[1979年]]<br/>4月5日 || rowspan="2" | '''[[YOUNG MAN/HIDEKI FLYING UP]]''' ||
|-
| [[1995年]]<br/>7月21日 || CD再発
|-
!colspan="4" | 1980年代
|-
| 13 || [[1980年]]<br/>12月1日 || '''[[ベスト・ヒット/西城秀樹]]''' ||
|-
| 14 || 1980年<br/>12月6日 || '''[[スーパー・ツイン/西城秀樹]]''' ||
|-
| 15 || [[1981年]]<br/>4月13日 || '''[[HIDEKI PRESENTS 30 SONGS from Best Hit Chart]]''' || シングル30曲ベストテン入り記念ベスト・アルバム
|-
| 16 || 1981年<br/>11月1日 || '''[[西城秀樹ベスト28]]''' ||
|-
| 17 || 1981年<br/>12月1日 || '''[[西城秀樹ベスト・ヒット集]]''' ||
|-
| 18 || [[1982年]]<br/>11月21日 || '''[[青春3650/西城秀樹]]''' || デビュー10周年記念ベスト・アルバム
|-
| 19 || 1982年<br/>12月16日 || '''[[THE BEST 西城秀樹]]''' ||
|-
| 20 || [[1983年]]<br/>12月1日 || '''[[BEST 16 西城秀樹]]''' ||
|-
| 21 || [[1984年]]<br/>8月5日 || '''[[背中からI Love You/西城秀樹]]''' ||
|-
| 22 || 1984年<br/>12月24日 || '''[[Myself/西城秀樹]]''' ||
|-
| 23 || [[1985年]]<br/>12月26日 || '''[[HIDEKI SAIJO]]''' ||
|-
| 24 || [[1986年]]<br/>11月15日 || '''[[BEST PACK/西城秀樹]]''' ||
|-
| 25 || [[1987年]]<br/>12月25日 || '''[[BEST PACK/西城秀樹#1987年盤・収録曲|BEST PACK/西城秀樹]]''' ||
|-
!colspan="4" | 1990年代
|-
| 26 || rowspan="2" | [[1991年]]<br/>12月16日 || '''[[ヒデキハウス]]''' ||
|-
| 27 || '''[[HIDEKI DANCE3]]''' ||
|-
| 28 || [[1993年]]<br/>9月22日 || '''[[History of Hideki Saijo vol.1,vol.2]]''' ||
|-
| 29 || [[1999年]]<br/>6月23日 || '''[[西城秀樹シングル・コレクション-77の軌跡]]''' ||
|-
| 30 || rowspan="4" | 1999年<br/>12月16日 || '''[[HIDEKI 70's]]''' ||
|-
| 31 || '''[[HIDEKI 80's]]''' ||
|-
| 32 || '''[[HIDEKI 90's]]''' ||
|-
| 33 || '''[[HIDEKI B-side story]]''' || シングルB面集
|-
!colspan="4" | 2000年代
|-
| 34 || [[2001年]]<br/>6月20日 || '''[[Essential HIDEKI 30th Anniversary Best Collection (1972-1999)]]''' ||
|-
| 35 || [[2002年]]<br/>9月10日 || '''[[西城秀樹 ベスト第1集]]''' ||
|-
| 36 || [[2004年]]<br/>12月22日 || '''[[GOLDEN☆BEST 西城秀樹]]''' ||
|-
| 37 || [[2005年]]<br/>12月11日 || '''[[西城秀樹 スーパーベスト]]''' ||
|-
| 38 || [[2006年]]<br/>9月1日 || '''[[西城秀樹 Best★BEST]]''' ||
|-
| rowspan="2" | 39 || [[2007年]]<br/>6月20日 || rowspan="2" | '''[[Future Songbook 1999-2007]]''' || 未発表曲収録
|-
| 2013年<br/>3月6日 || CD再発
|-
| 40 || [[2009年]]<br/>9月15日 || '''[[西城秀樹 スーパーベスト#2009年ソニー・ミュージックダイレクト盤・収録曲|西城秀樹 スーパーベスト]]''' ||
|-
!colspan="4" | 2010年代
|-
| 41 || [[2010年]]<br/>4月28日 || '''[[GOLDEN☆BEST deluxe 西城秀樹]]''' ||
|-
| 42 || [[2012年]]<br/>7月18日 || '''[[GOLDEN☆BEST 西城秀樹 シングルコレクション]]''' ||
|-
| 43 || [[2013年]]<br/>6月26日 || '''[[秀樹カンゲキ!!MIX!!西城秀樹ノンストップヒッツ!!]]''' ||
|}

=== ライブ・アルバム ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 備考
|-
!colspan="4" | 1970年代
|-
| 1 || [[1973年]]<br/>6月15日 || '''[[西城秀樹オン・ステージ]]''' || 大阪・[[毎日大阪会館|毎日ホール]]でのコンサートを収録
|-
| 2 || [[1974年]]<br/>2月10日 || '''[[西城秀樹リサイタル/ヒデキ・愛・絶叫!]]''' || 東京・[[メルパルク東京|郵便貯金ホール]]での第2回コンサートを収録
|-
| 3 || [[1975年]]<br/>2月5日 || '''[[西城秀樹リサイタル/新しい愛への出発]]''' || 東京・郵便貯金ホールでの第3回コンサートを収録
|-
| 4 || 1975年<br/>9月25日 || '''[[ヒデキ・オン・ツアー]]''' || 初の全国ツアーコンサートを収録
|-
| 5 || [[1976年]]<br/>1月25日 || '''[[MEMORY - 西城秀樹20歳の日記]]''' || 後半は、[[日本武道館]]での第1回コンサートを収録
|-
| 6 || [[1977年]]<br/>1月25日 || '''[[HIDEKI LIVE'76]]''' || 日本武道館での第2回コンサートを収録
|-
| 7 || 1977年<br/>12月20日 || '''[[わが青春の北壁/西城秀樹]]''' || [[日生劇場]]での初の[[ミュージカル]]を収録
|-
| 8 || [[1978年]]<br/>6月25日 || '''[[バレンタインコンサート・スペシャル/西城秀樹 愛を歌う]]''' || [[日比谷公会堂]]でのコンサートを収録
|-
| 9 || 1978年<br/>9月25日 || '''[[BIG GAME'78 HIDEKI]]''' || [[後楽園球場]]での第1回コンサートを収録
|-
| 10 || [[1979年]]<br/>2月25日 || '''[[永遠の愛7章/西城秀樹]]''' || 日本武道館での第5回コンサートを収録
|-
| rowspan="2" | 11 || 1979年<br/>10月9日 || rowspan="2" | '''[[BIG GAME'79 HIDEKI]]''' || 後楽園球場での第2回コンサートを収録
|-
| 1999年<br/>7月23日 || 初CD化
|-
!colspan="4" | 1980年代
|-
| 12 || [[1980年]]<br/>6月5日 || '''[[限りない明日を見つめて/西城秀樹]]''' || 日生劇場でのコンサートを収録
|-
| 13 || 1980年<br/>9月5日 || '''[[BIG GAME'80 HIDEKI]]''' || 後楽園球場での第3回コンサートを収録
|-
| 14 || [[1981年]]<br/>10月5日 || '''[[BIG GAME'81 HIDEKI]]''' || 後楽園球場での第4回コンサートを収録
|-
| 15 || [[1983年]]<br/>2月5日 || '''[[HIDEKI RECITAL - 秋ドラマチック]]''' || 日本武道館での第9回コンサートを収録
|-
| 16 || 1983年<br/>9月15日 || '''[[BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT]]''' || [[大阪球場]]での第10回ファイナルコンサートを収録
|-
| 17 || [[1984年]]<br/>9月15日 || '''[[JUST RUN'84 HIDEKI]]''' || 日本武道館での第11回コンサートを収録
|-
| 18 || [[1985年]]<br/>3月15日 || '''[['85 HIDEKI Special in Budokan - for 50 songs -]]''' || 日本武道館での第12回コンサート(シングル50曲記念)を収録
|-
!colspan="4" | 1990年代
|-
| 19 || [[1996年]]<br/>6月21日 || '''[[Rock To The Future|Rock To The Future (D・LIVE ORIGINAL COMPILATION)]]''' || [[赤坂BLITZ]]でのロック・ミュージカルを収録
|}

=== BOXセット ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 備考
|-
!colspan="7" | 1970年代
|-
| 1 || [[1976年]]<br/>9月25日 || '''西城秀樹 第1-7集''' || 復刻盤(LPレコード、全7枚)<br/>・ワイルドな17歳/西城秀樹<br/>・青春に賭けよう/西城秀樹<br/>・エキサイティング秀樹 - ちぎれた愛/情熱の嵐<br/>・傷だらけのローラ/西城秀樹<br/>・[[秀樹!エキサイティング・ポップス|ヒデキ・ロック&ロック]]<br/>・エキサイティング秀樹 Vol.5 - 恋の暴走/この愛のときめき<br/>・愛と情熱の青春/西城秀樹
|-
!colspan="7" | 1980年代
|-
| 2 || [[1988年]]<br/>9月21日 || '''[[HIDEKI CD BOX - Beloved 120 Songs -]]''' || シングル60曲記念ベスト・アルバム
|-
!colspan="7" | 1990年代
|-
| 3 || [[1994年]]<br/>12月16日 || '''HIDEKI SAIJO EXCITING AGE '72-'79''' || ・ワイルドな17歳/西城秀樹<br/>・青春に賭けよう/西城秀樹<br/>・エキサイティング秀樹 - ちぎれた愛/情熱の嵐<br/>・傷だらけのローラ/西城秀樹<br/>・エキサイティング秀樹 Vol.5 - 恋の暴走/この愛のときめき<br/>・愛と情熱の青春/西城秀樹<br/>・若き獅子たち/西城秀樹<br/>・ブーツをぬいで朝食を/西城秀樹<br/>・ファースト・フライト/西城秀樹<br/>・YOUNG MAN/HIDEKI FLYING UP<br/>・Feeling Free/西城秀樹
|-
| 4 || [[1999年]]<br/>12月16日 || '''HIDEKI SUPER LIVE BOX''' || 復刻ライブ・アルバム(6CD)<br/>・西城秀樹オン・ステージ(DISC 1に一部の楽曲が収録)<br/>・西城秀樹リサイタル/ヒデキ・愛・絶叫!<br/>・西城秀樹リサイタル/新しい愛への出発(DISC 1に一部の楽曲が収録)<br/>・バレンタインコンサート・スペシャル/西城秀樹 愛を歌う(DISC 2に一部の楽曲が収録)<br/>・永遠の愛7章/西城秀樹(DISC 2に一部の楽曲が収録)<br/>・BIG GAME'78 HIDEKI(DISC 3に一部の楽曲が収録)<br/>・BIG GAME'80 HIDEKI(DISC 3に一部の楽曲が収録)<br/>・BIG GAME'81 HIDEKI(DISC 3に一部の楽曲が収録)<br/>・限りない明日を見つめて/西城秀樹(DISC 4に収録)<br/>・'85 HIDEKI Special in Budokan -for 50 songs-(DISC 5、DISC 6に収録)
|-
!colspan="7" | 2000年代
|-
| 5 || [[2003年]]<br/>12月17日 || '''THE STAGES OF LEGEND -栄光の軌跡-''' || 復刻ライブ(DVD)<br/>・BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT<br/>・'85 HIDEKI Special in Budokan -for 50 songs-<br/>・Caravan From Tokyo -HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '86-<br/>・HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD<br/>・HIDEKI SAIJO CONCERT 3-09-Thank you-<br/>・HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES<br/>・特典映像スペシャルDISC
|-
| 6 || [[2007年]]<br/>12月19日 || '''[[The 35th Anniversary Memorial Box HIDEKI Complete Singles 1972-1999]]''' || デビュー35周年記念ベスト・アルバム(9CD+DVD)。特典DVDにはNHK『ビッグショー・若さを誇らしく思う時に』(1977年11月20日放送)を収録。
|-
!colspan="7" | 2010年代
|-
| 7 || [[2012年]]<br/>8月20日 || '''[[絶叫・情熱・感激/西城秀樹]]''' || ベスト(2CD)+カヴァー(CD)+ライブ(CD+DVD)
|-
| 8 || [[2015年]]<br/>7月15日 || '''THE STAGES OF LEGEND -栄光の軌跡- HIDEKI SAIJO AND MORE''' || DISC1からDISC7までは2003年12月17日発売のライブDVD『THE STAGES OF LEGEND -栄光の軌跡-』と同一で、DISC8とDISC9は初DVD化されたもの<ref>[http://www.earth-corp.co.jp/HIDEKI/new/information_article_400.shtml 西城秀樹オフィシャルサイトの「THE STAGES OF LEGEND -栄光の軌跡- HIDEKI SAIJO AND MORE」の紹介]</ref><br/>・BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT<br/>・'85 HIDEKI Special in Budokan -for 50 songs-<br/>・Caravan From Tokyo -HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '86-<br/>・HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD<br/>・HIDEKI SAIJO CONCERT 3-09-Thank you-<br/>・HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES<br/>・特典映像スペシャルDISC<br/>・ブロウアップ ヒデキ<br/>・HIDEKI MY LOVE Hideki Saijo IN BUDOKAN
|}

=== トリビュート・アルバム ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 備考
|-
!colspan="7" | 1990年代
|-
| 1 || [[1997年]]<br/>7月24日 || '''[[西城秀樹ROCKトリビュート|西城秀樹ROCKトリビュート KIDS’WANNA ROCK!]]''' || 西城の曲を聞いて育った次世代のロック・アーティスト達による[[トリビュート・アルバム]]
|}

=== 映像作品 ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル!! フォーマット !! 備考
|-
!colspan="5" | 1980年代
|-
| 1 || [[1982年]]<br/>2月10日 || '''[[HIDEKI MY LOVE Hideki Saijo IN BUDOKAN]]''' || [[VHD]] || 日本武道館での第8回コンサートのライブ・ビデオ
|-
| 2 || [[1984年]]<br/>3月5日 || '''[[BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT]]''' || [[VHS]] || 大阪球場での第10回ファイナルコンサートのライブ・ビデオ
|-
| rowspan="2" | 3 || [[1985年]]<br/>3月21日 || rowspan="2" | '''[[ブロウアップ ヒデキ]]''' || VHS || 1975年に開催された『西城秀樹・全国縦断サマーフェスティバル』を追って撮影されたドキュメンタリー映画(同年に全国公開上映)のビデオ
|-
| [[2015年]]<br/>7月15日 || [[DVD]] || 復刻DVD <ref>[http://www.earth-corp.co.jp/HIDEKI/new/information_article_399.shtml 西城秀樹オフィシャルサイトの「ブロウアップ ヒデキ」の紹介]</ref>
|-
| rowspan="2" | 4 || rowspan="2" | 1985年<br/>4月21日 || rowspan="2" | '''[['85 HIDEKI Special in Budokan - for 50 songs -]]''' || VHS || rowspan="2" | シングル50曲記念となる日本武道館での第12回コンサートのライブ・ビデオ
|-
| [[レーザーディスク|LD]]
|-
| 5 || [[1987年]]<br/>2月15日 || '''Caravan From Tokyo -HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '86-''' || VHS || 海外コンサートツアーのライブ・ビデオ
|-
!colspan="5" | 1990年代
|-
| 6 || [[1991年]]<br/>10月2日 || '''[[HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD]]''' || VHS || 東京・厚生年金会館での20周年記念コンサートのライブ・ビデオ
|-
| 7 || [[1995年]]<br/>7月5日 || '''HIDEKI SAIJO CONCERT 3-09-Thank you-''' || rowspan="2" | VHS || ライブ・ビデオ
|-
| 8 || [[1997年]]<br/>1月22日 || '''[[HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES]]''' || ヒストリー・ビデオ
|-
!colspan="5" | 2000年代
|-
| rowspan="2" | 9 || rowspan="2" | [[2000年]]<br/>11月22日 || rowspan="2" | '''[[Bailamos 2000]]''' || VHS || rowspan="2" | 東京・厚生年金会館でのコンサートを収録
|-
| DVD
|}

== 出演 ==
=== テレビドラマ ===
* [[決めろ!フィニッシュ]] 第12話「勝利への足あと」第13話「心にトロフィーを持て」(1972年、TBS) - 牧田 役
* [[刑事くん]](第2シリーズ) 第25話「ちぎれた愛」(TBS、1973年10月1日) - 西垣基樹 役
* [[水曜劇場 (TBS)|水曜劇場]] [[寺内貫太郎一家]](TBS、1974年) - 寺内周平 役 ※レギュラー
* 水曜劇場 寺内貫太郎一家2(TBS、1975年) - 寺内周平 役 ※レギュラー
* [[あこがれ共同隊]](TBS、1975年) - 畠山竜也 役 ※第1話~第7話レギュラー
* 水曜劇場 [[花吹雪はしご一家]](TBS、1975年) - 銀二 役 ※レギュラー
* [[事件ファイル110 甘ったれるな]] 第2話「十八歳・自殺の謎」(TBS、1976年)- 賀川和彦 役
* [[気になる季節]] 第1話「泥まみれの青春」第4話「その恋待った!!」(テレビ朝日、1977年)
* [[欽ちゃんドラマ・Oh!階段家族!!]] 第17話「ホップステップ階段跳び」(日本テレビ、1979年8月3日)- 西川 役
* 愛ってなんですか 第8回「勇気があれば」(フジテレビ、1979年8月25日) ※この回の主役
* 東芝日曜劇場「翔べイカロスの翼」(TBS、1979年10月7日) - 主役 カメラマンの史郎 役
* 東芝日曜劇場「遠くはなれて子守唄」(TBS、1980年11月23日) - 主役 ※1981年日本民間放送連盟賞優秀賞受賞作品
* [[木曜ゴールデンドラマ]] 青年 さらば愛しき日々よ!(日本テレビ、1981年4月30日) - 主役 透 役 
* [[ホームスイートホーム]](日本テレビ、1982年) - 北田勇一 役 ※レギュラー
* [[明石貫平35才]](日本テレビ、1983年) - 並河勇 役 ※レギュラー
* [[恋に恋して恋きぶん]](TBS、1987年) - 矢島直人 役 ※レギュラー
* [[キャッツ・アイ#テレビドラマ|CAT'S EYE]](日本テレビ、1988年7月23日) - 内海俊夫 役
* [[妻たちの鹿鳴館]](TBS、1988年10月8日) - 源八 役 
* [[男と女のミステリー]]「くねり坂」(フジテレビ、1988年10月14日) - 幸治 役
* 直木賞作家サスペンス「持ち逃げ 私の愛・連れてって」(関西テレビ、1989年3月6日)- 主役 吾郎 役
* SERIES DRAMA 10 第2作「夜の長い叫び」(NHK、1989年)
* [[水曜グランドロマン]]「風に吹かれて」(日本テレビ、1989年6月14日)
* [[さよなら李香蘭]](フジテレビ、1989年12月21日と12月22日) - [[松岡謙一郎]] 役
* 日曜劇場「話してよ、いつものように」(TBS、1990年7月1日)
* 大型時代劇スペシャル 三姉妹 (TBS、1990年10月6日)
* [[徳川無頼帳]]([[テレビ東京]]、1992年) - [[柳生三厳|柳生十兵衛]] 役 ※レギュラー
* [[火曜サスペンス劇場]]「季節はずれの宿泊客」(日本テレビ、1993年1月12日)
* [[系列 (テレビドラマ)|系列]](NHK、1993年5月29日) - 浜岡恒男 役
* [[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]][[水戸黄門 (第22-28部)#第22部|第22部]] 第15話「牢屋に入った黄門様 -広島-」(TBS、1993年8月23日) - 夜烏の千太郎 役
* [[系列 (テレビドラマ)|系列II]] 前編「自動車メーカー、系列切り離しへ動く」、後編「自動車業界の新しい企業家精神」(NHK、1994年) - 浜岡恒男 役
* 向田邦子ドラマスペシャル [[寺内貫太郎一家#テレビドラマ#寺内貫太郎一家98秋スペシャル|寺内貫太郎一家'98秋]](TBS、1998年9月24日) - 寺内周平 役
* 向田邦子ドラマスペシャル [[寺内貫太郎一家#テレビドラマ#寺内貫太郎一家2000スペシャル|寺内貫太郎一家2000]](TBS、2000年9月22日) - 寺内周平 役
* [[バブル (テレビドラマ)|バブル]](NHK、2001年)- 菊井嘉則 役 ※レギュラー
* ミュージック in ドラマ「ホシに願いを」(NHK、2004年3月6日)
* 夏のラブ&サスペンスシリーズ「芸能界風雲録 ~一寸先は闇~」(日本テレビ、2006年8月1日)
* [[水曜ミステリー9]] 忘却の調べ~オブリビオン~(テレビ東京、2007年5月27日) - 岸田信彦 役 ※横溝正史ミステリ大賞 テレビ東京賞受賞作品
* [[連続テレビ小説]] [[つばさ (2009年のテレビドラマ)|つばさ]](NHK、2009年) - 斎藤浩徳 役 ※レギュラー
* [[時々迷々]](2011年度放送分)第5回「ヒデキに会いたい! 」(NHK、2011年6月10日) - 本人 役

=== 映画 ===
* [[としごろ]](1973年)
* ひとつぶの涙(1973年)
** [[森田健作]]、[[吉沢京子]]、[[水谷豊]]、桜田淳子、[[森次晃嗣]]、[[田島令子]]、[[高岡健二]]、[[津島恵子]]、[[大村崑]]
* 恋は放課後(1973年)
** [[松坂慶子]]、[[沖雅也]]、[[石田信之]]、[[秋谷陽子]]、[[川崎あかね]]
* [[しあわせの一番星]](1974年)
* [[愛と誠#愛と誠(1974年映画)|愛と誠]](1974年) ※主演映画
* あヽ決戦航空隊(1974年)
** [[鶴田浩二]]、[[北大路欣也]]、[[松方弘樹]]、[[渡瀬恒彦]]、[[小林旭]]、[[中村玉緒]]、[[檀ふみ]]、[[黒沢年男]]、[[安藤昇]]、[[梅宮辰夫]]、[[池部良]]、[[菅原文太]]
* [[ブロウアップ ヒデキ]](1975年) ※ドキュメンタリー映画
** 初の全国縦断コンサートの模様が[[演奏会|ライブ]]映像で記録。
* おれの行く道(1975年)
** [[田中絹代]]、[[池上季実子]]、[[河原崎長一郎]]、[[夏純子]]、片桐夕子
* [[傷だらけの勲章]](1986年) ※主演映画
* [[天使行動]](1987年) ※主演、[[香港映画]]
* [[ザ・ヒットマン 血はバラの匂い]]([[東映Vシネマ]]、1991年) ※主演映画
* [[現代仁侠伝]](1997年)

=== 舞台 ===
* 花小袖清次(1989年、大阪新歌舞伎座) ※主演
* [[仕立屋銀次]](1990年、大阪新歌舞伎座) ※主演
* 元禄・暴れん坊(1991年、大阪新歌舞伎座) ※主演
* 寺内貫太郎一家(1999年、新橋演舞場)

=== ミュージカル ===
* わが青春の北壁([[劇団四季]]、1977年、日生劇場) ※主演
** [[滝田栄]]、[[久野綾希子]]、菅本烈子、三田和代
* デュエット(東宝、1984年・1986年、日生劇場) ※主演
** [[鳳蘭]]、石丸貴志、小野恵子、[[内田直哉]]、関武雄、奈木隆、本間仁、松沢重雄、大川令於、千葉美香、菅恵理子、藤原満美子
* 坂本龍馬(1989年・1991年、[[新神戸オリエンタル劇場]]・[[日本青年館]]) ※主演
** [[雪村いづみ]]、[[羽賀研二]]、[[井上純一 (俳優)|井上純一]]
* ラヴ(コメディ、1993年・1996年、[[東京]]・[[大阪]]・[[名古屋]]・[[札幌市|札幌]]) ※主演
** [[市村正親]]、鳳蘭
* Rock To The Future(Panasonic D・LIVE、1996年・1997年、赤坂BLITS) ※主演
** [[橋本さとし]]、[[美香]]、[[芳本美代子]]、[[黒田勇樹]]、オナペッツ、DIAMOND YUKAI、杏子、中山加奈子、SHIMA-CHANG、MITSUKO、中山美紀、白石紗澄李
* 新・演歌の花道(2002年、新宿コマ劇場・[[梅田コマ劇場]])
** [[錦野旦]]、[[川島なお美]]、[[山口智充]]、[[平畠啓史]]、[[鈴木史朗]]、[[藤田憲子]]、[[鶴田さやか]]、音楽プロデュース・[[つんく♂]]
* 伝説のステージ FOREVER'70s-青春- (2003年、中日劇場・新宿コマ劇場・梅田コマ劇場)
** 錦野旦、[[桑名正博]]、[[宮川花子]]、[[麻乃佳世]]、[[山崎裕太]]、[[平みち]]、[[朝香じゅん]]
* マルグリット(2011年3月17日 - 28日、[[赤坂ACTシアター]]・4月6日 - 10日、梅田芸術劇場メインホール)
** 藤原紀香、[[田代万里生]]、[[松原剛志]]、[[飯野めぐみ]]、山崎裕太、[[横内正]]

=== テレビアニメ ===
* [[坊っちゃん#アニメ|坊っちゃん]](日生ファミリースペシャル、フジテレビ、1980年) - 主役 坊っちゃん 役
* [[姿三四郎#テレビアニメ|姿三四郎]](日生ファミリースペシャル、フジテレビ、1981年) - 主役 姿三四郎 役
* [[ベイベーばあちゃん]]([[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]『[[天才てれびくん|天才てれびくんワイド]]』2002年) - HIDEKI 役 第33話「授業参観で大騒ぎ!」、第36話「一次審査合格!?」、第46話「2次オーディションなのだ!!」

=== 劇場アニメ ===
* [[黒い雨にうたれて]](劇場公開(全国配給委員会)、1984年) - 主役 滝村順二 役

=== 海外アニメ ===
* [[ラマになった王様]](ブエナ・ビスタ・ピクチャーズ、2001年) - テーマソング・ガイ 役

=== ラジオ ===
* ヒデキとこず恵の楽しいデート([[文化放送]]、1973年 - 1978年) [[斎藤こず恵]]
* HIDEKIとHIROMIのサンデーワイワイ広場(文化放送、1979年)
* ヒデキとケン坊の「鬼さんこちら!!」女の子なんかこわくない(文化放送、1980年)
* ラズベリークラブ(文化放送、1984年 - 1986年)
* 青春のリターンマッチ([[TBSラジオ]]、1986年)
* 毎日が新鮮!西城秀樹です。(TBSラジオ、1991年)

=== バラエティ ===
* ロック イン ヒデキ(フジテレビ、1978年)
* [[モーニングサラダ]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、1981年)
* [[スターご勝手対談|金鳥おもしろ倶楽部 スターご勝手対談]](フジテレビ、1988年)
* [[TVクルーズ となりのパパイヤ]](フジテレビ、1994年)
* [[青春のポップス (NHK総合)|青春のポップス]](NHK、1998年 - 2002)
* [[同一首歌]]([[中国中央電視台]]、2000年)
* [[日高晤郎の語り芸・江戸人情噺「紺屋高尾」]]([[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]、2004年12月28日)
* 趣味の園芸 やさいの時間([[NHK教育テレビジョン]]、2009年)
** 主題歌「ベジタブル・ワンダフル」(作詞:有森聡美/作曲:[[宅見将典]])を歌う。同曲は[[iTunes Store]]などにおいて[[デジタル・ダウンロード|デジタル・シングル]]として発売されている。
* [[ぐるっと食の旅 キッチンがゆく]](NHK BSプレミアム、2013年 - 2014年)
* ヒデキの感激!NEXTハウス(BSジャパン、2014年4月 - 9月) - MC

===広告===
* ハウス食品(1973年から2002年まで)
** 「バーモントカレー」 [[河合奈保子]]
** 「ポテトチップス」 [[斉藤こず恵]]、[[高田純次]]
** 「グラノラバー」
** 「ジャワカレー」
** 「[[六甲のおいしい水]]」
** 「咖喱屋カレーラーメン/カレーうどん」 [[桑名正博]]
** 「天然効果」(サプリメント食品)
* [[ホクレン農業協同組合連合会]] 牛乳(1986年)
* [[パナソニック|ナショナル]] IHジャー炊飯器(1993年)
* [[佐藤食品工業 (新潟県)|サトウ食品]]
** 「サトウの鏡餅」
* [[ヤマヒサ]]
** 「[[PETIO|ペティオ]]」
* [[ECC総合教育機関|ECC]]
* [[シチズン時計]]
* [[本田技研工業|HONDA]]
** 「LEAD SS」
* [[西友]]
* [[バイオテック]]
* [[テレビ新広島]]([[フジネットワーク|FNS]]系列のテレビ局)
** 「情熱電波 TSS」
* [[パワードコム|東京通信ネットワーク]](TTNet)
** 「東京電話」
** 「東京電話インターネット」
** 「[[アステル東京|東京電話アステル]]」
* [[Yahoo!モバゲー]]

=== 広告曲 ===
* ミスティー・ブルー([[コーセー]][[化粧品]]「夏女・ソニア」、1985年)
* 愛の翼(Wing、1985年「腕の中へ」のカップリング曲)
* Blue Sky([[アサヒビール]]、1988年)
* Try Today([[原ヘルス工業]]「バブルスター」、1988年「33才」のカップリング曲)
* もいちど(ハウス食品「うまいっしょ」、1991年)
* 愛が止まらない([[ノエビア]]化粧品、1995年)
* [[バンジョーとカズーイの大冒険]]([[任天堂]]、1998年)

=== NHK紅白歌合戦出場歴 ===
トップバッター(一番手)として初出場を果たした第25回NHK紅白歌合戦の西城のステージでは、自身の考案により[[ドライアイス]]による演出が、紅白史上初めて行われた。
{|class="wikitable"
|-
!年度/放送回!!回!!曲目!!出演順!!対戦相手!!備考
|-
|1974年/[[第25回NHK紅白歌合戦|第25回]]||初||傷だらけのローラ||1/25||山口百恵||紅白初出場・トップバッター(1)
|-
|1975年/[[第26回NHK紅白歌合戦|第26回]]||2||白い教会||7/24||桜田淳子||
|-
|1976年/[[第27回NHK紅白歌合戦|第27回]]||3||若き獅子たち||7/24||和田アキ子||
|-
|1977年/[[第28回NHK紅白歌合戦|第28回]]||4||ボタンを外せ||7/24||[[キャンディーズ]]||
|-
|1978年/[[第29回NHK紅白歌合戦|第29回]]||5||ブルースカイブルー||6/24||桜田淳子||
|-
|1979年/[[第30回NHK紅白歌合戦|第30回]]||6||YOUNG MAN (Y.M.C.A.)||10/23||[[ジュディ・オング]]||
|-
|1980年/[[第31回NHK紅白歌合戦|第31回]]||7||サンタマリアの祈り||5/23||[[岩崎良美 (歌手)|岩崎良美]]||
|-
|1981年/[[第32回NHK紅白歌合戦|第32回]]||8||ジプシー||7/22||[[川中美幸]]||
|-
|1982年/[[第33回NHK紅白歌合戦|第33回]]||9||聖・少女||4/22||[[高田みづえ]]||
|-
|1983年/[[第34回NHK紅白歌合戦|第34回]]||10||ギャランドゥ||1/21||岩崎宏美||トップバッター(2)
|-
|1984年/[[第35回NHK紅白歌合戦|第35回]]||11||抱きしめてジルバ||4/20||河合奈保子||
|-
|1994年/[[第45回NHK紅白歌合戦|第45回]]||12||YOUNG MAN (Y.M.C.A.)(2回目)||14/25||[[森高千里]]||10年ぶりの復帰出場
|-
|1995年/[[第46回NHK紅白歌合戦|第46回]]||13||YOUNG MAN (Y.M.C.A.)(3回目)||15/25||[[中村美律子]]||
|-
|1997年/[[第48回NHK紅白歌合戦|第48回]]||14||moment||14/25||[[DREAMS COME TRUE]]||2年ぶりの復帰出場
|-
|1998年/[[第49回NHK紅白歌合戦|第49回]]||15||傷だらけのローラ(2回目)||7/25||[[Every Little Thing]]||
|-
|1999年/[[第50回NHK紅白歌合戦|第50回]]||16||Bailamos||8/27||中村美律子||
|-
|2000年/[[第51回NHK紅白歌合戦|第51回]]||17||ブルースカイブルー(2回目)||10/28||Every Little Thing||
|-
|2001年/[[第52回NHK紅白歌合戦|第52回]]||18||Jasmine||11/27||[[長山洋子]]||生涯最後の紅白出場
|-
|}

=== 日本レコード大賞・本選出場歴 ===
{|class="wikitable"
|-
!年度/開催回!!回!!受賞曲/候補曲!!賞
|-
|1973年/[[第15回日本レコード大賞|第15回]]||1||ちぎれた愛||歌唱賞
|-
|1974年/[[第16回日本レコード大賞|第16回]]||2||傷だらけのローラ||歌唱賞
|-
|1975年/[[第17回日本レコード大賞|第17回]]||3||この愛のときめき||大賞候補
|-
|1976年/[[第18回日本レコード大賞|第18回]]||4||若き獅子たち||歌唱賞
|-
|1977年/[[第19回日本レコード大賞|第19回]]||5||ボタンを外せ||大賞候補
|-
|1978年/[[第20回日本レコード大賞|第20回]]||6||ブルースカイブルー||金賞
|-
|1979年/[[第21回日本レコード大賞|第21回]]||7||勇気があれば||金賞
|-
|1980年/[[第22回日本レコード大賞|第22回]]||8||サンタマリアの祈り||金賞
|-
|1981年/[[第23回日本レコード大賞|第23回]]||9||センチメンタルガール||金賞
|-
|1982年/[[第24回日本レコード大賞|第24回]]||10||聖・少女||金賞
|-
|1983年/[[第25回日本レコード大賞|第25回]]||11||ギャランドゥ||金賞
|-
|}

=== ザ・ベストテン登場歴 ===
{|class="wikitable"
|-
!放送回!!週数!!登場曲!!最高位!!備考
|-
|第1回 - 第9回||9週||ブーツをぬいで朝食を||第1位||2週連続1位
|-
|第11回 - 第18回||8週||あなたと愛のために||第2位||
|-
|第21回 - 第31回||11週||炎||第4位||
|-
|第34回 - 第47回||14週||ブルースカイブルー||第3位||年間総合第9位
|-
|第48回 - 第55回||8週||遙かなる恋人へ||第5位||
|-
|第59回 - 第72回||14週||YOUNG MAN (Y.M.C.A.)||第1位||9週連続1位(最高点獲得・2週)
|-
|第72回 - 第82回||11週||ホップ・ステップ・ジャンプ||第2位||
|-
|第87回 - 第98回||12週||勇気があれば||第1位||2週連続1位
|-
|第103回 - 第111回||9週||悲しき友情||第4位||
|-
|第115回 - 第123回||9週||愛の園 (AI NO SONO)||第3位||
|-
|第126回 - 第131回||6週||俺たちの時代||第3位||
|-
|第133回 - 第135回||3週||エンドレス・サマー||第4位||
|-
|第144回 - 第147回||3週||サンタマリアの祈り||第9位||
|-
|第154回 - 第161回||8週||眠れぬ夜||第3位||
|-
|第166回 - 第172回||7週||リトルガール||第5位||
|-
|第181回 - 第183回||3週||セクシーガール||第7位||
|-
|第209回||1週||ジプシー||第10位||
|-
|第218回 - 第224回||7週||南十字星||第4位||
|-
|第231回 - 第235回||5週||聖・少女||第6位||
|-
|第263回 - 第265回||3週||ギャランドゥ||第8位||
|-
|第359回 - 第361回||3週||抱きしめてジルバ||第9位||
|-
|第410回||1週||腕の中へ||第9位||
|-
|}

== 出版 ==
=== 著書 ===
* 誰も知らなかった西城秀樹(ペップ出版、1975年)
* 君におくろう僕の愛を(ペップ出版、1976年)
* ふたりぼっちの日曜日・ヒデキとこず恵の楽しいデート([[徳間書店]]、1976年) - [[斎藤こず恵]]共著
* {{Cite book|author=|year=1979|title=いま、光の中で {{small|ー悩むな、つきすすめ、青春。}}|publisher=[[集英社]]|series=明星デュエット・ブックスー03|isbn=|ref=いま、光の中で}}
* {{Cite book|author=|year=1992|title=熱き想いいつまでも|publisher=[[日本文芸社]]|isbn=4–537–02293–0|ref=熱き想い}}
* バリスタイルの家 西城秀樹の快適アジアン生活のすすめ(イースト・プレス、2002年)
* あきらめない 脳梗塞からの挑戦(リベロ、2004年)
* ありのままに「三度目の人生」を生きる([[廣済堂出版]]、2012年)
; 関連書籍
* 蒼い空へ - 夫・西城秀樹との18年 - 木本美紀・著([[小学館]]、2018年11月 ISBN 978-409-3886437)

=== 写真集 ===
* 西城秀樹 Young idol now『写真集』([[勁文社]]、[[1974年]])
* 西城秀樹写真集([[さうんどぱわあ]]、[[1974年]])
* 季刊ポッポ 75'WINTER 全特集・西城秀樹([[新興楽譜出版]]、[[1975年]])
* The Young Lion 西城秀樹『写真集』([[レオ企画]]、[[1976年]])
* HIDEKI(Wani Books、[[1980年]])
* Hideki Saijo(株式会社シンコーミュージック、[[1981年]])
* MY SELF PORTRAIT([[近代映画社]]、[[1984年]])
* BODY(Wani Books、[[1986年]])
* H45・西城秀樹「独身最後の衝撃」写真集([[主婦と生活社]]、[[2001年]])


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2019年9月3日 (火) 19:09時点における版

西城 秀樹
Hideki Saijo
ファイル:HIDEKI SAIJO.jpg
image 19years old
基本情報
出生名 木本 龍雄(きもと たつお)
生誕 (1955-04-13) 1955年4月13日
日本の旗 日本広島県広島市
(現:東区)東蟹屋町
死没 (2018-05-16) 2018年5月16日(63歳没)
日本の旗 日本神奈川県横浜市
学歴 明治大学付属中野高等学校定時制 卒業
ジャンル J-POP
職業 歌手
俳優
活動期間 1972年 - 2018年
レーベル 1972年 - 1975年:
ビクター音楽産業
1975年 - 1987年:
RVC
1987年 - 1999年:
「BMGビクター」
1999年:
キングレコード
1999年 - 2001年:
ユニバーサル ポリドール
2002年 - 2013年:
ユニバーサルJ
2015年 - 2018年:
Battle Cry Sound
事務所 芸映⇒アースコーポレーション
公式サイト 西城秀樹オフィシャルサイト (日本語)

西城 秀樹(さいじょう ひでき、1955年昭和30年〉4月13日 - 2018年平成30年〉5月16日[1] )は、日本男性歌手俳優新御三家の1人。 本名は木本 龍雄きもと たつお)広島県広島市出身[2][3][4]。アースコーポレーション所属。身長181cm。血液型はAB型。既婚。

来歴

生い立ち

広島県広島市広島駅近くの東蟹屋町(現:東区東蟹屋町)に生まれる[5][6][7]。最初の家は三宅一生の実家の斜め前にあった[8][9]。父親は事業家で家は裕福だった[10][11]ジャズギターが趣味だった父親の影響で幼少期から洋楽に馴染み[12][13][14][15][16]ジャズスクールに通って、最初はエレキギター、その後ベース、次いでドラムを勉強した[17][18][19]。当時、ロックをやりたければ、楽器を置いてあるのはジャズスクールしかなかった[17]。小学3年の時、最初にファンになったのはジェフ・ベック[20][21]、「おませなガキ」でもあり、同世代には洋楽を聴く者は誰もおらず、音楽の話は兄たちとした[13][20]。小学4年生の時に[22]、その兄とエレキバンド「ベガーズ(beggars)」を結成[23][24]。『月刊平凡』1974年2月号の自叙伝で「小学校に入ったばかりの頃、もうぼくはミュージシャンになりたいと思っていた。歌手ではない、ミュージシャンだ」と話している[22]。結構なワルで小さな頃は喧嘩ざんまい[25][26]。中学では縄張り争いを繰り広げ「売られた喧嘩で負けたことはいっぺんもない」と豪語した[27]。自宅前の荒神陸橋によじ登ったり[11][28][注 1]無免単車を乗り回しお巡りさんに何度も油を搾られた[11][28]。一緒に単車を転がした友人は、西城がデビューした翌年単車事故で死んだ[11]。高一のときには、のトイレで他校生15人からリンチを受け、兄貴と仲間で仕返ししたこともある[11]広島市立尾長小学校在学中から小学生ドラマーとして活動し[29]GS全盛期の1968年、兄が中3、自身が中1のとき、広島市立二葉中学校文化祭でステージ演奏をし、学内の女生徒から大人気となる[22][30][31]ボーカルに魅力を感じるようになったのはその頃から[22]。西城は世代的にすでに既成概念としてロックを認識していただけでなく、ビートルズは勿論、ビートルズ以降に生まれた多様なジャンルのロックを現在進行形で自然に吸収した[13][32]歌謡曲は聴いていなかった[29]ザ・ベンチャーズローリング・ストーンズジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンシカゴなどの洋楽に影響を受け[4][20][29][33][34]、上京直前の1971年9月27日に行われたレッド・ツェッペリン広島公演もバンド仲間と観戦[20][21][33]。ツェッペリンのメンバーはライブ後の打ち上げで、西城が歌のアルバイトをやっていた広島市内のナイトクラブ「インペリアル」[注 2]に飲みに来て突然演奏した[36]。西城はそれを見て涙を流し「絶対、ワシも(ツェッペリンみたいに)なるで!」と言っていたという[36]。中学以降もバンド活動を続け、米軍岩国基地佐世保基地ライブハウスなどにも出演し[17][20]1969年の『ウッドストック・フェスティバル』は、そこでテープを録ってもらった物を観た[20]。強い感銘を受け、それが後のスタジアムライヴにつながったと話している[29][37][38][39]。岩国基地が近辺にあったため、最新の洋楽の情報は東京より迅速であったと述べている[8][22][40][41]。こうした洋楽通ぶりがプロデビュー後、他のアイドルとは一線を画す個性となった[38][42][43][44]

兄らが卒業したため中学2年のとき「ベガーズ」からメンバーを入れ替え「ジプシー」を結成[11][30][45]。このバンドでリードボーカルとなる[22]。「ジプシー」でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第一回、第二回に出場し[45]、中国大会で優勝した[11][24][46]山陽高等学校一年の1971年[26]R&B喫茶「パンチ」から声がかかり[22]、店のレギュラーバンドになり[5][22]、店で歌唱していたところをスカウトされる[13][18][30][38][46][47]。誘い文句は「歌手にならないか」ではなく「バンドボーイから修行しないか」であった[48]。「パンチ」は旧天満屋八丁堀店(現・ヤマダ電機LABI広島)裏のえびす通り商店街にあり[5]吉田拓郎が練習拠点にし[49]就職が内定していたカワイ楽器広島店[49][注 3]の二軒隣り、パーラー高木屋の地下にあった[5][注 4]。年は大分違うが吉田のバンドと活動時期も重なっており[13][49][53][54]、吉田も西城を覚えていて『月刊明星』1975年11月号のインタビューで西城の話をしている[55][注 5]。これを切っ掛けとして後に楽曲提供を受けたのが1982年のシングル『聖・少女[13][39][53]。本来、歌手には興味がなかったが[13]、当時、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」がヒットして、歌謡曲が変わり始めた時期と感じ、スカウトを承諾した[18]。父親が頑固で厳格な人であったため芸能界入りを猛反対[57]。その反対を押し切り、高校一年の二学期途中の1971年10月3日、家出同然で広島から夜行列車で上京[19][22]10月4日朝、東京駅着。芸能事務所芸映」に所属[58]明大中野高等学校定時制へ転校する[59]。広島では12畳の部屋に一人で住んでいたが、3畳もない三角部屋にマネージャーと二人で住んだ[22][60][61]

デビュー後

1972年3月25日、日本ビクター(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のRCAレーベルよりシングル「恋する季節」で歌手デビュー。キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」[62]。片仮名の「ヒデキ」が愛称となる[44]

1972年11月25日に発売された「チャンスは一度」で[63]、一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれるようになった[44][63][64][65]

1973年6月25日、5枚目のシングル「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入り[44]。以降、オリコンベストテンに11年連続、計33曲を送り込む[41]。「ちぎれた愛」、「愛の十字架」が連続してオリコン週間チャートの第1位を獲得。絶唱型と言われる歌唱法を披露。『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞する。

ファイル:HIDEKI 2.png
傷だらけのローラ期

1974年、「薔薇の鎖」でマイクスタンド・アクションを披露[66]。「激しい恋」がオリコン年間チャートの第8位を獲得。「傷だらけのローラ」が、『第16回日本レコード大賞』で歌唱賞を受賞。これによりポップス歌手としては史上初となる2年連続受賞を樹立する。『第25回NHK紅白歌合戦』にも初出場し、その後も着実にヒットを飛ばす。ホームドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演、松竹映画『愛と誠』で映画初主演と、俳優としても活動する。

1976年の「君よ抱かれて熱くなれ」から1977年の「ボタンを外せ」までは、阿久悠の作詞、三木たかしの作曲のコンビによるヒット作品が続く。1976年の「ジャガー」、1978年の「」で、『東京音楽祭』国内大会でゴールデン・カナリー賞を受賞し、世界大会にも出場。1979年、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」で「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露した。

ロック系のポピュラー音楽を中心にしたコンサート活動も精力的に行い、1974年から1983年まで10年連続で、大阪スタヂアム(大阪球場)でのスタジアム・コンサートを(1978年からは後楽園球場でも)開催する。1975年秋には、日本人のソロ歌手として史上初となる日本武道館でのリサイタルを公演し[19][67]、その後11年連続(通算12回)開催する。「秋(静)の日本武道館」と「夏(動)のスタジアム・コンサート」は恒例となる。

1981年4月6日、「リトルガール」でシングル30曲ベストテン入り(オリコン史上初)[注 6]。続く「セクシーガール」で、発売シングルレコードの総売上枚数が1,000万枚を突破する(史上5組目)[44][注 7][注 8]。同年、香港で初のコンサートを開催し、その後もアジア各国でコンサートを行う[68]

1983年1月21日、スタッフと共に芸映を円満退社し独立[69]有限会社(現・株式会社)「アースコーポレーション」を設立する。第1弾シングルは「ギャランドゥ」。以降、グラハム・ボネットの「Night Games」、ワム!の「Careless Whisper」、バリー・マニロウの「In Search of Love」、「It's All Behind Us Now」をカヴァーする等、それまでの歌謡曲の枠に囚われることなくロック系、バラード系の曲にも意欲的に取り組むようになる[64]

NHK紅白歌合戦』は1974年から1984年の「抱きしめてジルバ」まで11年連続出場(その後1994年に10年ぶりに出場後、1995年、1997年から2001年までの計7回出場した。総出場回数は通算18回)。『日本レコード大賞』では1976年の「若き獅子たち」が歌唱賞を受賞(通算3度目)。金賞は1978年の「ブルースカイブルー」から1983年の「ギャランドゥ」まで6年連続受賞する。ヒット曲をランキング形式で紹介する音楽番組『ザ・ベストテン』には放送が開始した1978年の「ブーツをぬいで朝食を」から1985年の「腕の中へ」まで22曲ランクインした。『ザ・ベストテン』の放送開始はデビューから6年後だったが、通算ランクイン155回は番組史上6位、1970年代以前デビューの歌手では1位。放送開始時から数えた場合、8年連続ランクインは最多の連続年数出演である。[41]

2000年、「最後の愛」を最後にビクター音楽産業系(RCA⇒RVC⇒BMGビクター)から、ポリドールへ移籍し「Bailamos」をリリースする。以降はユニバーサルミュージック系(ユニバーサルJ・ナユタウェイブレコーズ)から楽曲をリリースする。2015年4月13日の還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』からBattle Cry Soundレーベルのリリースとなる。

長らく独身であったが、2001年6月30日に大阪府在住の会社員の一般女性と結婚[注 9]。2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男、2005年1月7日に二男が誕生している。

脳梗塞発症、新御三家還暦祝い

2001年秋に脳梗塞を発症(この時は「二次性多血症」と発表)[70]

2003年6月21日につんく♂がプロデュースした85枚目のシングル「粗大ゴミじゃねぇ」を発表した直後、公演先の韓国で2度目の脳梗塞を発症する。軽度の言語障害の後遺症は残ったが、闘病の末復帰し、2006年9月27日、3年ぶりに「めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -」が両A面で発売された。

だが8年後の2011年12月20日に、脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度入院する。右半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態などが改善していた[71][72]

2015年4月13日、満60歳の誕生日を迎える。翌2016年2月には、「新御三家」が3人揃っての還暦祝いを機に、「還暦鼎談」を開催した[73]

文藝春秋・2016年12月号において、「3度目の人生」を題目に「2度の脳梗塞には感謝している」等とのメッセージを寄せている[74]

63歳で死去

2018年4月14日、栃木県足利市で開催された『同窓会コンサート2018 in足利』に出演。前日に63歳の誕生日を迎えた事から、ステージ上で出演者からケーキで祝福された[75]。しかし、結果的にこのコンサートが西城にとって最後の歌唱となった。それから5日後の4月19日、東京都練馬区練馬文化センターで『第23回 紅白歌合戦』(日本歌手協会主催)の開催時、最後方の席で西城が座っている所に総合司会の歌手協会理事・合田道人から紹介された際、西城は自ら立ち上がって観客にアピールをしたが、これが最後の公の姿となった[76]

この日から僅か6日後の2018年4月25日、自宅の家族団欒の席で突然倒れて救急搬送で緊急入院。意識不明の状態が続く中懸命の治療が行われたが[77]、同年5月16日23時53分、急性心不全のため神奈川県横浜市内の病院で亡くなった。[77][78][79]63歳だった。法名は「修音院釋秀樹(しゅうおんいんしゃくひでき)」[80]。翌17日には、民放各局がニュース速報テロップを流し西城の訃報を伝えた。

西城の訃報を受け、「新御三家」としてライバルでもあり戦友でもあった郷ひろみと野口五郎を始め[81]、数多くの著名人が追悼コメントを発した。

死去から9日後の5月25日に青山葬儀所で通夜が営まれ、新御三家の二人を始めとする歌手仲間・芸能関係者・多数のファン達が参列[82]。翌日の告別式では野口と郷が終始涙ぐみながら弔辞を読み[83]、出棺の際には代表曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」「ブルースカイブルー」等が流され、約1万人のファンから「ヒデキ!」コールを浴びながら斎場を後にした[84]

没後の11月、妻が『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』を上梓。この中で、2回とされていた脳梗塞が、実際には結婚直後の2001年に発症していたほか、「隠れ脳梗塞」を含めると計8回発症していたことを公表した[85]

年表

1972年 - 1975年

1972年3月25日発売のシングル「恋する季節」で歌手デビュー。オリコン42位。順風満帆なスタートとはいかなかった[44][86]。最初の頃のキャンペーンジャンプスーツでリンゴ箱に乗り、パラパラのお客相手に歌った[87]。2枚目のシングル「恋の約束」は18位、徐々にファンを拡大。続く「チャンスは一度」で振付けが付く。アクション・ブームの始まり。8月8日、東京・郵便貯金ホールにてファースト・コンサート『ワイルドな17歳』を開催。デビューから4ヵ月強での初のワンマンライブは、アイドルとしては異例のスピードで[88][89]、ほとんどが外国曲(洋楽カバー)を20曲も歌えたのは勿論、アマチュア時代からのレパートリーを持っていたため[90][91]。12月4日、『夜のヒットスタジオ』に初出演。12月31日、郷ひろみは新人賞受賞で『第14回日本レコード大賞』の本選に出場し、野口五郎は『第23回NHK紅白歌合戦』に白組最年少で初出場したが、西城は大晦日の高視聴率番組には出演できず、同じ「新御三家」でも知名度で差をつけられることになった。

ファイル:HIDEKI 3.png
リサイタルでの西城秀樹

1973年3月26日、大阪毎日ホールでデビュー1周年記念コンサート『ヒデキ・オン・ステージ』を開催。5月27日、ユネスコ村での「情熱の嵐」新曲発表会「燃えるヒデキ! ファンとの集い」で[92]、空からヘリコプターでド派手に登場[86][92][93][94]。ヘリコプターから縄ばしごを伝ってはしごの下まで降り、片手で手を振った後、ステージに着地するというスタントマン紛いの演出を行い話題をさらう[86][93][95]。「このときのキャンペーンは、ぼくにとっても命がけだった」と話しており[95]、今では許可はままず下りない[86]。ファン3万人の「ヒデキ、ヒデキ」の絶叫で、ヘリの爆音が消されたといわれる[93]。ヘリコプターによる演出は、同じ年の4月7日に同所で天地真理の「若葉のささやき」新曲発表会があり、天地が汽車ポッポで会場入りしたことに対抗するもの[93][注 10]。この曲で初めてベストテン入り(オリコン6位)。アクションもエスカレート。「(♪君が望むなら)ヒ・デ・キー!!」とファンの掛け声が入った[86]。1972年から1999年まで毎年8月に静岡県静岡市の駿府公園(現・駿府城公園)で行われた『フェスタしずおか』に1973年第二回から出演し、最終回まで最多出演。毎年歌謡ショーのクライマックスに登場し「ミスター・フェスタ」と呼ばれた[96]。8月26日、日劇ウエスタンカーニバル初ワンマンショー[97]

新曲を発表するごとに人気が高まり[98]、1973年9月24日、「ちぎれた愛」が「新御三家」の中では初めてとなるオリコン1位(47.5万枚)を獲得[38][44][99]。これは70年代デビューの男性アイドルでも初のオリコン1位であった[99]。急激な人気の上昇でレコードプレスが間に合わず、発売後10日間で50万枚をプレス[95][100]、レコード売上げの短期間最高記録といわれた[101]。11月、「ヒデキ、感激!!」でお馴染み「ハウス バーモントカレー」のテレビ広告が放送開始。11月7日、東京・郵便貯金ホールにて第2回コンサート『西城秀樹リサイタル/ヒデキ・愛・絶叫!』を開催。12月8日 - 12月9日、愛知名古屋名鉄ホールにてコンサート『ヒデキ/世紀の絶唱』を開催。12月24日、「愛の十字架」も連続1位。12月31日、『第15回日本レコード大賞』歌唱賞を獲得するも、初出場が確実視された『第24回NHK紅白歌合戦』は落選[62][102]。西城のように激しく動きまわりながら歌う歌手はそれまで存在せず[24][38][103]、西城自身もエスカレートするアクションに気を取られ、最初は歌が上手く歌えなかった[24]。日本にはもともと「歌はじっくり聞かせるものだ」といった考えが長い間支配していたため[24][103][104]、西城の絶叫型の歌唱スタイルには、「歌が上手いのか未知数」などと評され[105]、激しいボディアクションに対しては「歌詞もろくに分からない」とか、大胆なステージ衣装には「奇抜すぎ」といった批判を浴び[24]、評価が定まらず[105]、「聞かせる歌手ではなく見せる歌手だ」と言われ続けた[24]。西城のような体全体を使って歌い挙げるタイプの歌手は、なかなか馴染めず抵抗感があった[103]。日本の歌謡界には西城のような歌手を受け入れ、育て上げてゆく伝統や土壌が乏しかった[24]。絶唱タイプと分類できるダイナミックなボーカルと、そこで生かされる絶妙なビブラートやシャウト、そして持ち前のリズム感覚は、当時のNHKで放送するにはあまりにも規格外だったという見方もある[38][44]

1974年1月16日 - 10月9日、ホームドラマとして人気を博したTBS系列テレビドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演。2月25日発売の「薔薇の鎖」でのスタンド・マイクを使ったアクションが話題になる。5月25日発売の「激しい恋」は売り上げ58.4万枚の大ヒット(年間シングルチャート第8位)。6月18日、TBS火曜歌謡ビッグマッチ』で「新御三家」が初共演。衣裳、歌う順番など各マネージャー立合いの下で決められた[106]。7月13日、初主演の松竹映画『愛と誠』公開。原作者である梶原一騎に西城自身が直談判して出演が決まった。

1974年8月3日、日本で初めてとなるスタジアムでのワンマン・コンサートを、大阪球場で (以降10年連続、後楽園球場では1978年から4年連続で) 開催。8月24日、福岡県飯塚市芝居小屋嘉穂劇場で単独リサイタル[107]。これを切っ掛けに以降多くのアイドルが当劇場のステージに立った。「絶対にスターになるまで広島には戻らない」と誓って、家出同然で東京に出て4年、10月6日、広島郵便貯金ホールにて凱旋コンサート『バック・ホーム・アゲイン・ヒロシマ』を開催[108]。親戚から小中学校の先生、同級生ら大挙押しかける[108]。10月19日 - 10月20日、東京・郵便貯金ホールにて第3回コンサート『We Love Hideki'74/新しい愛への出発』を開催。12月31日、「傷だらけのローラ」で2年連続となる『第16回日本レコード大賞』歌唱賞を受賞。『第25回NHK紅白歌合戦』も今度は文句なくトップバッターとして初出場。

1975年1月30日、第12回『ゴールデン・アロー賞』で「写欲をそそる」という理由で[100]、グラフ賞を受賞[100]。2月15日、西城の初の海外進出作品として「傷だらけのローラ」のフランス語バージョン「LOLA」が、フランススイスベルギーで発売され、3月31日に発売されたカナダでは[109][110]、ヒットチャート第2位にランクされた[111][注 11]。5月、3月31日より放送開始の『寺内貫太郎一家2』で、番組名物小林亜星との乱闘シーンの撮影中、腕を骨折。6月6日 - 9月26日、TBS系列のテレビドラマ『あこがれ共同隊』で、郷ひろみ、桜田淳子らと共演。6月13日公開の松竹映画『おれの行く道』に主演。6月29日、『第4回東京音楽祭』国内大会に出場。「LOLA」を熱唱し、ゴールデン・スター賞を受賞。タバコを吸う写真をジャケットに起用した8月25日発売の『至上の愛』から、 西城自身は「アダルト志向開始」と話している[100]

1975年10月10日、この年の7月20日 - 8月24日に開催された『全国縦断コンサートツアー』を追って撮影されたドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ(BLOW UP!HIDEKI)』が公開上映される[112]。11月3日、日本人ソロ歌手としては初めての日本武道館公演を行う[19][94][113](以降1985年まで11年連続で開催)。この偉業は当時のマスメディアにはあまり取り上げられなかった[114]。「プロマイド」の年間総売上実績1位。以降1976年、1978年、1979年も男性歌手部門1位。歴代通算第1位獲得月数で新記録樹立。

1976年 - 1979年

1976年2月25日、この年から作詞者に阿久悠を起用。この年発売した3曲「君よ抱かれて熱くなれ」、「ジャガー」、「若き獅子たち」は「青年(成年、盛年)の3部作」と呼んでいた。TBS『日曜スペシャル』で企画されたスタジオ・ライブ番組『セブンスターショー』(2月15日~3月28日)、2月29日放映回に出演し、24%を超える視聴率を獲得[115]ハワイ日本人日系人向け日本語AMラジオ局KZOO」で「至上の愛」がリクエストNO.1になったことから[116]、ハワイの音楽関係者に熱心に招聘され[116]、3月19日 - 3月28日、ハワイで、初の海外コンサートを開催(ハワイ・ホノルル インターナショナルシアター)[116]

ファイル:HIDEKI 4.png
球場コンサート

1976年6月5日発売の「ジャガー」で着用した臀部の割れ目が見えそうなセクシーな衣装と、「抱いてやるー!」と絶叫するセリフが話題となる[44][100]。この衣装はアンルイスがアイデアを出したもの。この曲で6月27日に開催された『第5回東京音楽祭』世界大会に出場。8月14日、第3回大阪球場コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム'76 "情熱のファンキー・カーニバル"』を開催。10月19日、赤坂ナイトクラブニューラテンクォーターにて初のディナーショーを開催[100]。11月3日、第2回日本武道館コンサート『ヒデキ・イン・武道館』を開催。

1977年3月30日、デビュー5周年記念の第3回日本武道館コンサートを開催。7月5日 - 7月28日、ミュージカルに初挑戦。阿久悠台本・作詩、三木たかし作曲、浅利慶太演出による劇団四季わが青春の北壁』(日生劇場)に主演[117][118][119]。8月27日、第4回大阪球場コンサートを開催。11月3日、この年2度目となる第4回日本武道館コンサートを開催。11月20日、NHKビッグショー』に出演(タイトルは『若さを誇らしく思う時に』)。

1978年2月9日、元旦発売の「ブーツをぬいで朝食を」が『ザ・ベストテン』で第1位を獲得。この曲の反響でライター・ボヤ事件起こる(後述)。2月14日、『バレンタインコンサート』で新日本フィルハーモニーと共演。6月18日、「炎」で『第7回東京音楽祭』世界大会に出場、外国審査員団賞受賞。

1978年7月22日、従来の大阪球場に加え、東京の後楽園球場でも第1回コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。8月26日、第5回大阪球場コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。以降1984年までツアー名が「BIG GAME」で統一される。11月3日、第5回日本武道館コンサート『永遠の愛7章』を開催。12月19日、『ザ・ベストテン』で14週ベストテン入りし、年間ベストテン第9位を獲得した「ブルースカイブルー」で初の最優秀歌唱賞を受賞(『FNS歌謡祭'78』)。阿久悠と組んだ最後の曲。12月20日、収録の半分の6曲の作曲を手掛けたアルバム『ファースト・フライト/西城秀樹』発売[39][100]。12月31日、ピンク・レディー沢田研二山口百恵と並び『第20回日本レコード大賞』の最有力候補に挙げられるも逃す。

1979年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を唄い、「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露。2月21日に発売され売り上げ80.8万枚の大ヒット(年間シングルチャート第7位)。8月18日、第6回大阪球場コンサート『BIG GAME'79 HIDEKI』を開催。8月24日、第2回後楽園球場コンサート『BIG GAME'79 HIDEKI』を開催。11月4日、第6回日本武道館コンサートを開催。第8回『ベストドレッサー賞』受賞。年末の賞レースは『第21回日本レコード大賞』、第12回『日本有線大賞』を除き、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを獲得。『第21回日本レコード大賞』は、邦楽が審査対象とされたため、この年、社会現象までなった「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は外国人作曲のカバー曲という理由で審査対象から外れ「勇気があれば」でエントリー[120][121]ジュディ・オング魅せられて」との激しい大賞争いとなったが敗れた[103][120][121][122]

1980年 - 1984年

1980年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月12日 - 4月28日、日生劇場での特別ロングラン・リサイタル『限りない明日を見つめて』を開催。6月13日、フジテレビ「日生ファミリースペシャル」枠のアニメ坊っちゃん』で、坊っちゃん役で声優初挑戦。7月18日、第3回後楽園球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。8月23日、第7回大阪球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。11月3日、第7回日本武道館コンサートを開催。11月23日、東芝日曜劇場『遠くはなれて子守唄』(「日本民間放送連盟賞」受賞作品)に出演。1980年時、後援会会員数、野口五郎6万人、郷ひろみ10万人、西城秀樹13万人[123]。 山本寛斎のモデルとしても歌手として登場しコンサート衣装も採用している 1981年1月4日 - 1月5日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月6日、「リトルガール」で30作目のベストテン入り(オリコン史上初)[124]。続く「セクシーガール」でシングルレコードのトータルセールスが1,000万枚を突破[124](オリコンの集計では1982年の「南十字星」により同記録を達成、ピンク・レディー(1979年)、森進一(1979年)、山口百恵(1980年)、沢田研二(1980年)に続く史上5人目)。「セクシーガール」の発売キャンペーンも兼ね『BIG SUNSHINE '81』と題した沖縄ムーンビーチでのコンサートを開催。海から水上オートバイにて登場。

1981年4月、とんねるずが初めてレギュラー出演した西城司会の情報番組『モーニングサラダ』(日本テレビ)放送開始。とんねるずは度々西城の家に泊まりに来ていたという[125]。とんねるずの『オールナイトフジ』(フジテレビ)抜擢は、『モーニングサラダ』に出ていたとんねるずを見た秋元康が『オールナイトフジ』のディレクターだった港浩一に推薦したもの[126]。8月16日、第4回後楽園球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。8月22日、第8回大阪球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。11月3日、第8回日本武道館コンサート『HIDEKI MY LOVE Hideki Saijo IN BUDOKAN』を開催。

1982年1月4日 - 1月5日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月13日、『ありがとう青春3650日』と銘打ったデビュー10周年誕生日パーティーを赤坂プリンスホテルで開く。同時に記念作品として「南十字星」が3月25日に発売され、東宝創立50周年記念の日豪合作映画「南十字星」の主題歌となった。8月21日、第9回大阪球場コンサート『BIG GAME '82 HIDEKI』を開催。11月21日、第9回日本武道館コンサート『HIDEKI RECITAL - 秋ドラマチック』を開催。

1983年1月21日、芸映を円満独立して「アースコーポレーション」設立。独立第1弾のシングルは「ギャランドゥ」。8月6日、ツアーラストを大阪球場コンサート『BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT』で閉め、10年続いたスタジアムコンサートに幕を下ろした。11月20日、第10回日本武道館コンサートを開催。

1984年2月4日 - 3月25日、「低髄液圧症候群」という病名で東京女子医大病院に入院。松田聖子も見舞いに訪れたこともある[127]。4月1日、「Do You Know」で『第13回東京音楽祭』世界大会に出場、初の銀賞を受賞。

1984年5月4日 - 5月28日、7年ぶりとなる日生劇場での主演ミュージカル『デュエット』。共演は鳳蘭。8月7日、第11回日本武道館コンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。20歳代最後のコンサートツアー『JUST RUN』は、コンピューターサウンドにレーザー光線、ターボサウンドスピーカーと当時のハイテクを駆使したステージ。8月14日、大阪城ホールコンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。

1984年秋に横浜の自宅スタジオから半径500mで聴取可能なFMミニ放送を行う[128]、深夜「こちらモモタロー」のコール・サインで始まり、「お待たせしました。今夜も横浜に住む女性だけに向けて、キャピキャピ放送をお聞かせしましょう。お相手は桃太郎です」と続き、即興風の音楽演奏や自身作曲の歌を歌ったり、物まねなどを流した。最初は毎日放送したが、家の周りに車が何十台も集まって近所迷惑になったため、西城が寝付かれない日、友人が集まって騒ぐ日など、放送日は西城の気まぐれで10日に一回程度になった[128]

1985年 - 1994年

1985年1月19日、シングル盤50曲発売記念・第12回日本武道館コンサート『'85 HIDEKI Special in Budokan - for 50 songs -』を開催。今までのシングル50曲を全部歌った。2月、『つくば万博』開会式で、そのテーマ曲「一万光年の愛」を当時の皇太子明仁親王(現:明仁上皇)と礼宮文仁親王(現:秋篠宮文仁親王)の臨席上でNHK交響楽団をバックに歌唱する[129]

1985年9月7日 - 9月11日、SFX特殊メイクや西城と同一の顔のマスクを着用したダンサーが登場する『MISTY TOUR』を開き、香港・シンガポール公演でも話題になった。このツアーのメインアルバム『TWILIGHT MADE …』は角松敏生がプロデュースを担当。ジャケ写に西城の姿を使わず、アーティスト色を出した。11月21日、「腕の中へ〜In Search of Love〜」でバリー・マニロウとのデュエットが実現(アーティスト名は「Hideki Saijo & Barry Manilow」)。

1986年5月17日、主演映画『傷だらけの勲章』が全国公開。

1988年、NHKみんなのうた「陽光の中の僕たち」歌唱。

1989年6月、主演ミュージカル『坂本龍馬』の公演。大阪・新歌舞伎座で座長公演を開始(以降3年連続)。

1990年、クイーン・エリザベス2世号(香港から日本へのクルージング)で船上ディナーショー。 1990年には地方興行のギャラが日本のポップス歌手で最高額になった[注 12]

1991年4月、フジテレビ系のアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「走れ正直者」を担当。この曲は日本のスカ/レゲエ、初めてのヒット曲といわれる[131]。5月11日、東京・厚生年金会館でデビュー20周年記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD』を開催。初の学園祭ライブを早稲田大学で行う。この頃からロック・ミュージシャン達が挙って西城のコンサートを観賞に訪れ、「ロック・アーティストの憧れのスターNo.1」と言われるようになる[注 13]。 1992年4月14日 - 9月29日、『徳川無頼帳』で時代劇ドラマ初主演。

1993年3月、『STOP AIDS CONCERT』(横浜文化体育館)出演・プロデュース。西城の呼び掛けでもんたよしのり寺田恵子沢田知可子男闘呼組、海外からディオンヌ・ワーウィックなど多数のアーチストが参加。

1994年、主演ミュージカル『ラヴ』の公演。12月31日、10年ぶりに『第45回NHK紅白歌合戦』に出場し、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌う。

1995年 - 1999年

1995年1月17日に発生した、阪神大震災の被災者のために数度神戸に足を運び、チャリティー募金も行なう。これが縁で神戸市民から「元気づけられたので是非」という要望があり、2年続けて『第46回NHK紅白歌合戦』で「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌うことになった。

1995年3月9日、東京・渋谷公会堂にて39(Thank you)歳記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 39』を開催。8月5日・6日、後述の通り桑田佳祐からの電話でのオファーを受け[132]サザンオールスターズコンサートスーパー・ライブ・イン・横浜 ホタル・カリフォルニア』にゲスト出演。オープニングで2日間観客数16万人と「Y・M・C・A」を決行[133]

1996年7月3日 - 7月14日、ロックミュージカルの『D・LIVE Rock To The Future』に出演。シングル「round'n'round」で音楽番組出演時には、D・LIVEで結成されたMillennium Eve(Back-vo.杏子、gt.中山加奈子、Key.中村美紀、bs.仙波さとみ、ds.MITSUKO)をバックに歌った。

1997年1月21日、25周年を記念して、デビューから現在までのヒストリー・ビデオ『HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES』を発売。7月24日、子供の頃、ヒデキを見て育ったヒデキ大好きロックミュージシャンが結集して製作した『西城秀樹ROCKトリビュート KIDS’WANNA ROCK!』が発売される(参加ミュージシャンは、THE HIGH-LOWSGackt橘高文彦松岡充真矢ROLLY、MILLENNIUM EVE、サンプラザ中野ダイアモンド☆ユカイ森重樹一など)[44]

1997年8月6日、元X JAPANYOSHIKIのプロデュースによる「moment」を発売。プライベートな飲み会の席でプロデュースを依頼したところ快く引き受けてくれたという。ロサンゼルスのYOSHIKI所有スタジオでレコーディング

1998年4月、NHK総合青春のポップス』(レギュラー司会)が始まる。

1999年2月7日、舞台『寺内貫太郎一家』に出演(新橋演舞場)。5月、人気ロボットアニメ機動戦士ガンダムシリーズ∀ガンダム』のテレビ主題歌「ターンAターン」を担当。11月17日、レコード会社をポリドールに移籍。第1弾シングルは「Bailamos〜Tonight we dance〜」(エンリケ・イグレシアスのカバー曲)。同年の第50回NHK紅白歌合戦 では、宝塚歌劇団月組をバックに同曲を歌う[134]

2000年 - 2009年

2000年3月31日、東京・厚生年金会館にて80曲記念コンサート『Bailamos 2000』を開催。シドニーオリンピックサッカー日本代表壮行試合にて「君が代」を斉唱。10月17日発売の「時のきざはし」は、RKこと河村隆一がプロデュースを担当。河村は幼少期に西城に憧れていたこともあり実現。プライベートでも付き合いがある。11月28日、第12回(2001年度)日本ジュエリーベストドレッサー賞を男性部門で受賞。

2001年3月、45歳のとき、芸能生活30周年を記念した独身最後の写真集 『H45』を発売[135][136]。"ギャランドゥ"全開ショットやヌードを含むセクシーでワイルドな秘蔵写真が満載[135][137]。6月30日、大阪府在住の一般女性と電撃的に結婚を発表し、静岡県の神社で挙式。7月、ディズニー映画ラマになった王様』の主題歌「ラッキー☆ムーチョ」を「ムーチョ☆ヒデキ」として歌唱。10月、デビュー30周年記念コンサートツアーを開催。

2002年4月28日 - 5月13日、新宿コマ劇場梅田コマ劇場にて『新・演歌の花道』に出演。「サンヨーオールスターゲーム」のオープニングイベントにて「君が代」、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱。

2003年6月21日、ディナーショーのため訪れていた韓国で脳梗塞を発症。9月1日 - 9月13日、中日劇場・新宿コマ劇場・梅田コマ劇場『Forever '70s 〜青春〜 伝説のステージ』出演。

2004年3月6日、NHKミュージック・イン・ドラマ『ホシに願いを』に出演[138]。7月2日、当時西城が在住していた川崎市の市制80周年記念マッチとして開催された日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)2部(当時)の川崎フロンターレ - 横浜FC戦(川崎市等々力陸上競技場で開催)においてハーフタイムショーに出演し「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱[139]。以後、2007年[注 14]を除き2013年まで毎年フロンターレ主催の川崎市制記念試合に出演[140]。10月、著書『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』(リベロ)を発売。

2005年7月1日、パチスロメーカー「オリンピア」からタイアップ・パチスロ『ヒデキに夢中!!』がリリース。

2006年9月、東京スポーツで『西城秀樹歌手生活35周年、奇跡の復活 ヒデキカンゲキ!』が連載される。9月27日、脳梗塞発症以来、3年ぶりのシングル「めぐり逢い/Same old story 〜男の生き様〜」を発売。

2008年5月30日、NHK総合『青春のポップス』で共演した森口博子早見優等と共に、東京・中野サンプラザホールにてコンサート『思い出の青春ポップス』を開催。9月17日、アンダーグラフの「ジャパニーズ ロック ファイター」のプロモーション・ビデオに出演。

2009年3月30日 - 9月26日、NHK朝の連続テレビ小説つばさ』に出演。4月5日 - 、『趣味の園芸 やさいの時間』にレギュラー出演。番組の主題歌「ベジタブル・ワンダフル」を歌う。9月15日、89回目で最後となる大阪・厚生年金ホールでのコンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 2009』を開催。

2010年 - 2018年

2011年3月17日 - 3月28日、藤原紀香主演のミュージカル『マルグリット』に初の悪役として出演。6月10日、NHK Eテレ時々迷々』「ヒデキに会いたい!」が放送される[141]。9月30日、デビュー40周年記念コンサートを渋谷C.C.Lemonホールで開催。12月20日 - 12月30日、脳梗塞が再発していることが判明し、東京都内の病院で入院治療する。右半身麻痺の後遺症が残るが、リハビリの結果つえをついて歩けるまで回復。

2012年1月28日、静岡で行われたチャリティーコンサートに出演。6月28日、水泳の発展と普及に寄与する人材をたたえる日本スイミングクラブ協会主催の「ベストスイマー2012」を受賞。10月26日、著書『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』(廣済堂出版)を発売。

2013年4月17日 - 12月4日、NHK BSプレミアムの料理・紀行番組『ぐるっと食の旅 キッチンがゆく』に、月1回のレギュラー出演。

2014年4月5日 - 9月27日、BSジャパンの情報番組『ヒデキの感激!NEXTハウス』にレギュラー出演。8月9日、NHKで生放送された第46回『思い出のメロディー』(同局の音楽番組に4年ぶり)に出演する。

2015年4月11日、東京ビッグサイト東京国際展示場・東6ホール)にて開催の、東日本大震災復興イベント『フラワードリーム in 東京ビッグサイト 2015』において、60歳以上の著名人にバラを贈る『第8回 Happy Rose アワード』を受賞[142]

2015年4月13日、60歳の誕生日に還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』を発売。同日、東京都港区赤坂BLITZにて自ら「ヒデキ還暦!」と題した記念ライブを開催。「新御三家」の盟友、野口五郎がゲストとして登場。バースデーケーキを運びながらステージに現れ、西城の誕生日を祝い抱擁を交わした[143]。同日、埼玉県入間市に西城がプロデュースした体験型市民農園『西城秀樹体験型市民農園 「百果百菜」』開園[144]

2016年2月13日、西城が監修したソフトバンクY!mobile」の広告が放送開始[145]。「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」のメロディーにのせた歌とダンスをプロデュース。川崎フロンターレの川崎市記念試合応援ハーフタイムショーは死去前年の2017年まで続けられており、亡くなった2018年は本人不在の等身大パネル及び過去の歌唱音源、映像での参加ながらもサポーターから熱く迎えられた。

業績

西城は「新御三家」の一人として、今日に繋がる男性アイドルの原型を作り上げ[14][16][19][41][68][146][147][148][149][150][151][152][153][154]、「歌謡曲の時代」を築いた人物の一人で[4][34][38][44][103][155][156][157][158][159][160][161]、日本のエンターテイメントを切り拓いたパイオニアである[12][29][162][163][164][165][166][167][168][169][170][171][注 15]。また、日本のロックヴォーカリストの先駆者でもある[21][33][44][157][166][173][174][175][176][177][178][179][180][181]ヘヴィメタル誌『ヘドバン』は「ヒデキの絶唱を聴いてロックに目覚めた人、ヒデキの数々のカバーで洋楽に興味を持った人、グラハム・ボネットの「Night Games」のカバー「ナイトゲーム」を聴いてメタルに目覚めた人もいる。メタルがまだ世間という見えない敵と戦っていた時代に、僕らをメタルという重く閉ざされた門の前まで連れていってくれた“メタル歌謡”の生みの親」と評している[20][165][182][183]。 西城の功績として、日本の音楽史に於いてエンターテイメントの世界に、洋楽的、ロック的な方向性を取り入れたことがある[14][15][41][172][178][177][184][185][186][187]。西城自身、「それまでの人が演歌ムード歌謡だったから、今でいうJ-POPの原型を作ったという自負はある」と述べている[188]

日本の男性アイドルの「新御三家」として売り出された際、郷ひろみは「可愛い美少年」、野口五郎は「歌が上手い」とされ、西城は大きいだけであまり特長がないと見なされた[41][29]。そこでスタッフは、彼らと差別化を図り、西城の個性を活かすため、「情熱的でセクシーな、男性的魅力」をコンセプトとして打ち出していこうと決めた。そのコンセプトに沿って、楽曲やダンスの振り付け、衣装が創作されていった[12][14][29][38][189]。プロデューサーも西城の音楽的バックボーンを理解し、海外のサウンドと日本のメロディをドッキングさせるロック/ポップス寄りの楽曲作りが行われた[14][18][64][157][165][190]。意図的に激しいロック調の曲を作り、女性ファンがより興奮しやすくなるようなストレートなフレーズを歌詞に散りばめた[62][191]。派手でセクシーなアクションと長身かつ、長い脚が映えるビラビラコスチュームがそのイメージを決定づけた[24][29][105][192][193]。初期にはエルヴィス・プレスリーを意識した衣装など、アメリカナイズした雰囲気を衣装に取り入れた[29]

オフィシャルサイト「Music」のファッション解説の充実でも分かるように[106]、西城は男性ファッションの於いても先駆者だった[146][153][177][194][195][196][197]。西城の母親は洋服卸の店を経営していて[48]、子どもの頃から手伝いをさせられたため、服の生地などにも詳しく服が好きだった[48]。このためステージ衣装にも自身の意見を反映させることが出来た[24][194][198]。「自分のことを西城秀樹の一番熱心なプロデューサーだなって思うときがある」と話していた[195]。専属のスタイリストデザイナーと西城で衣装を考えるが、西城の注文は難しくデザイナー泣かせだったといわれる[195]ファッション雑誌から自分の気に入ったデザインや色合いの服を選んで[198]、それをさらに自分のオリジナル風に作り変えるスタイルで[195]、1973年の『情熱の嵐』の衣装は、エルメススカーフブラウスを作らせ[199]、間奏で服を破く演出を自ら考案[87][199]、テレビで数回披露しインパクトは強かったものの[87]経費がかかり過ぎると事務所に怒られ、本当に破るのではなくホック留めにして剥がす男っぽさを強調するアクションに変更した[87]。当時エルメスは女性ブランドのイメージで男性で愛用する人はほとんどいなかった[199]。このエルメスのブラウスを作った人は後にピンク・レディーの衣装を担当したデザイナーであった[199]韓国サムスングループ創業者・李秉喆の孫でCJグループの副会長・李美敬(イ・ミギョン)[200]は、1970年代に録画してもらって観た『レッツゴーヤング』の西城のマフラー姿[153]に「これがアイドルか」と感動したと話している[201]。当時の韓国では10代が"同世代"と感じられる芸能人はいなかったという[201]。李美敬は2006年のインタビューで「日本の40代女性がヨン様にのめり込む理由は、アイドルを追いかけた少女期の感動体験が残っているから。私も実感したから分かるの」と述べている[201]。西城は1979年のベストドレッサー賞を受賞しており、プライベートでもよく一人で服を買いに行った[195]。1970年代半ばによく着用したMEN's BA-TSUは[106][195]、西城が原宿を散歩中に店の服を気に入り、自身でステージ衣装を発注したものであった[195]。「ボクがデビューして5、6年は、ファッション界個性派デザイナーが出始めたころだったから、刺激があって衣装選びも楽しかった」「アルマーニはボクが着てから芸能界に広まった」などと話している[195]。『BIG GAME'80 HIDEKI』のジャケット写真[202]に映るシルバージャンプスーツは、クイーン御用達のショップにオーダーしたもので、勿論フレディ・マーキュリーを意識したもの[12][203]

歌手が楽曲に合わせた振り付けで歌唱をするようになったのは1970年代に入ってからで[204]、ステージやテレビの歌番組で歌手や楽曲の印象を強める必須条件となっていくが、そのパイオニアが、女性歌手では山本リンダ、男性歌手では西城であった[24][150][157][169][204]。山本がティーン歌手から大胆な変身を成功させた「どうにもとまらない」、西城に激しい振り付けが導入された「チャンスは一度」は、いずれも1972年[44][204]。この年はNHKカラーテレビ契約数が、白黒テレビの契約数を上まわった年で、派手な色彩の衣装で歌い踊るアクション系の歌手が、カラー時代のテレビ番組を盛り上げる要素として必要とされた[204]松永伍一は1976年に「不動の姿勢でうたっていた"東海林太郎型"が消えて、アクロバット的におどりまくる"西城秀樹型"までが『見世物』ゆえに要求されるサービス過剰の競争時代に入ったのが、今日の歌謡界の現状。これらは大衆が何を求めているかを、歌そのものを判断していくのではなく、歌手のスター的特徴に照らして割り出していくというプロダクションの算盤が、歌謡界を動かすようになってきたことを示す」などと論じている[205]塩沢実信は西城を「ダイナミックなアクションと絶叫型の唱法で、昭和四十年代から五十年代にかけて、著しい活動を見せた歌手」と評している[206]西郷輝彦は、西城が間奏でいきなり上着を脱ぎ、ステージから客席に飛び降りた演出にマネージャーから「上着を脱いだらくるくる回して客席投げて、それから飛び降りろ」と怒られているのを見て、西城に専門の振付師がいて演出をしていることに大きなショックを受けた、自身のシングル「情熱」の後、秀樹の新曲が「情熱の嵐」で「ああ時代が変わるんだな」と思った瞬間だった、などと話している[207]。西城は音楽を「聴かせる」から「見せる」にシフトさせた歌手であった[163]。1972年、3枚目のシングル「チャンスは一度」で初めて振付けが付き[95]1973年、初のベストテン入りを果たした「情熱の嵐」ではさらに振付けがエスカレート、ダイレクトに肉体の性の激しさを表現した[208]。また指さすアクションもたちまち大流行した[95]。西城の場合はその激しさ故「振付け」ではなく「アクション」「アクション歌謡」などと呼ばれた[103][208]1974年、「薔薇の鎖」でスタンドマイクを使ったアクションをいち早く取り入れる[14][33][38][66]。テレビの歌番組で西城のパフォーマンスを観て、子供たちがホウキを使ってこのアクションをよく真似した[29][146][165][209][210]。小っちゃい子までが振りをまねしたがるので、おもちゃのマイク・スタンドが売り出されたほど[211]。ヒントにしたのはロッド・スチュワートジェームス・ブラウン[20][66]。特にロッド・スチュワートがコンサートでアルミマイクスタンドを使っていると知り、すぐに10本を特注[20][153]。この軽量スタンドマイクにより西城型の「スタンドマイク・アクション」が誕生し、以後コンサートでの定番となった。その後すぐに軽量スタンドはブームとなり[66]、翌年にはヤマハが生産するようになった[20]。軽量なアルミ製スタンドによるマイクパフォーマンスは、その後多くのロックアーティストが取り入れた[29][66][111][168]。最初はアルミ製スタンドにテレビ局のマイクをテープでぐるぐる巻いてスタンドに固定した[171]。このため、当時の生放送の歌番組で出番が近づいた歌手が、テープを剥がしているうちに、自分の歌の時間が来たり[171]、西城が生放送でマイク・アクション中、棒を折ったこともあった[171]

一の宮はじめは『チャンスは一度』から振付を担当し[212]、「薔薇の鎖」までのアクションは一の宮の考案だったが[211]、次作品の「激しい恋」から、一の宮と西城に、西城のマネージャーを加えた三人でアクションをディスカッションするようになった[211][213]。「薔薇の鎖」が大受けした後だけに「いい加減なものは通用しない」、また「新しいものを作りださなくては!この曲を10代の記念碑にしたい」と西城の意気込みが凄まじく、自身でハンドマイクを使った激しいアクションを提案した[211][注 16]。「激しい恋」のアクションも話題となり、アクション・ブームを巻き起こした[162]。以後、新曲が出るたびに歌唱だけでなく、アクションや奇抜な衣装にも注目された[162][171]。脱ぎ捨てた上着カメラにドパッと掛かり、生放送の画面がしばらく暗黒になったこともあった[171]。1973年12月に発売した『愛の十字架』あたりからテレビの音楽番組ディレクターから、「いままでの日本のポップスになかったものを売ってきている。すごい企画力、アイデアだ」[171]「デビューの頃から比べて、ぐっと良くなった。日本の歌手は、表現力が乏しいからアクションはあった方がいい」などと評価を上げた[171]。西城は派手な衣装や振り付けで視聴者を楽しませた「テレビで見せる音楽」の時代を象徴した歌手であった[150][170][192]。「魅せる歌手」が急増したのは"西城以降"である[24][104][169]。西城のブレイク直後にデビューした弾ともや(生沢佑一)は、最初から「西城秀樹を目指す」と標榜した[214]

1974年の第25回NHK紅白歌合戦初出場では、白組の先頭打者として怪傑ゾロの衣装で上半身一部シースルー[151]、アイドルなのに顔を隠して登場するという前代未聞の演出を行い『傷だらけのローラ』を熱唱[106][163][166][215][216]。ステージ上で、日本のテレビ音楽番組として初めて『CO2ボンベでドライアイス・スモークを噴出させる』演出を行った[37][163][215][216]。これも西城自身のアイデアで[166]、アメリカのTVショウでティナ・ターナーがこの演出をやっているのを観て、急遽紅白に間に合うようにボンベをアメリカから取り寄せた。それまでのドライアイス演出は、雲海のように下に這わせて幻想的な画を作ることを目的としていた[217][218]。至近距離からドライアイスを噴射させる演出はこれが初めて[218]。翌、1975年11月3日に日本人ソロ歌手として初めて行った日本武道館公演で同じ演出を行い[113]、煙にまかれて窒息寸前となった[100]

1978年1月1日に発売された「ブーツをぬいで朝食を」は、同年1月19日にスタートした『ザ・ベストテン』でピンク・レディーの「UFO」に続き、同年2月9日に1位を獲得した楽曲で、曲のイントロで西城がライターに火を点け、右頬にかざし、背徳の愛を表現するアクションが人気を呼んだが、3月に子供がそれを真似して火災事故を起こしたと伝えられたことから[188]3月9日の『ザ・ベストテン』生放送で西城が涙を滲ませながら「僕はもうライターを使うにはやめました。皆さんも、どうか真似をするのはやめて下さい」と訴え、ライターアクションの封印を宣言し、以降、このアクションが披露されることはなかった[188][106][219]。これに続き1978年3月5日にリリースした「あなたと愛のために」でも間奏部分で手鏡を持ち、視聴者に光を反射させるアクションを準備していたが、このミラーアクションも中止になった[188][219]

この時代のアイドルに最初からダンスアクションが上手かったものはいなかったが[220]、しかし売れた人はみんな根性センスを持っていた[220]。西城もはじめは不器用で踊りもヘタだった。しかし人一倍根性があり、出来るまでやめようとせず、振り付けの一の宮はじめが「ヒデキもうやめよう」と泣きを入れるほど熱心だった[220]。1970年代後半には一の宮がおおまかな動きを考え、あとは西城が自身の創造力で振り付けを作った[220]。1977年に初めて主演したミュージカルわが青春の北壁』では[118]、プロでも2年かかるといわれた二回転してその場でストップする動きを1ヵ月でマスターした[220]。当時の売れっ子振付師からも絶賛され、土居甫からは「ぼくはヒデキの振り付けをやってないけど、素晴らしいセンス。歌謡界じゃ、いまナンバーワン」、牛丸謙からは「ヒデキはほんとうに素晴らしい。まだ一度もヒデキの振り付けをやったことはないんだけど、ぜひ一度、ヒデキのステージを作ってみたい」などと評価された[220]

歌唱

絶唱型

1973年、初めてオリコンの1位となった「ちぎれた愛」は、喉の奥底からハスキーな歌声をしぼり出すように歌い上げた初めての楽曲である[24][38]。180cmを超える長身から発する歌声は圧倒的で[19][206]、後にその歌唱法は「絶唱型」と呼ばれた[4][33][34]。理由については「単に恥ずかしく思い切って歌ったことと、やはりロッド・スチュワートやジョー・コッカーの影響はあると思う」と話している[20]。長身をくねらせ、長い髪を振り乱して、全身全霊を込めた喉が張り裂ける様な歌唱法は、次作品の「愛の十字架」、1974年の「傷だらけのローラ」、1975年の「至上の愛」へと受け継がれて徐々にエスカレートしていき、女性ファンを熱狂させた[19][38][111][162][221]。「傷だらけのローラ」では、新人賞も紅白も出場できなかった前年の悔しさが募り、「早く自分のスタイルを確立したい」と焦り、アメリカで流行っていたシャウト唱法を加えたい」と意見した[87]

西城秀樹ショーでは、西城が歌い始めると女性ファンは、その迫力に圧倒され、泣き叫び、興奮のあまり失神し、舞台に上がり西城に触ろうとして警備員に体当たりされたり、極度の興奮と緊張で過換気症候群に陥って失禁して、30分ほど経つとアンモニア臭が会場内に漂ったといわれる[222]。西城は行儀がよかった日本のアイドルシーンにあって、初めて「ワイルド」という概念を持ち込んだ先駆者だった[18][19][38][149][177][223][224][225]。根源的なビート感覚を携えてロックヴォーカルと歌謡曲の融合をごく自然に達成したのが西城だった[32]広音域だが、音圧を充分に伴う実声で、高音でもシャウトでき、踊っても叫んでもリズム音程髪型も乱すことなく、8ビートを体現した新たなタイプのシンガーであった[15][32][149][191]

大活躍だった1974年の暮れに『週刊TVガイド』は西城の特集を組み、「新ご三家と騒がれた野口五郎、郷ひろみに、二歩も三歩もリードし、華麗なるアクション入り絶唱歌謡は、茶の間のチビッコからお年寄りまでのハートをキャッチ、歌謡界の大型台風になった」と評した[226]。「絶唱型」の楽曲には決まってセリフが入り、感情を込めて何かを絶叫するというものが多いため、「絶叫型」とも呼ばれた[227]。セリフ入りの楽曲には「ちぎれた愛」、「傷だらけのローラ」の他に1975年の「白い教会」、1976年の「ジャガー」などがある。1980年の「サンタマリアの祈り」が完成形であったと、2000年に開催した80曲記念コンサート『Bailamos 2000』で語っている。

歌唱力の評価

西城の歌唱力は今日評価が高く[16][153][156][184][192][227][228]所属事務所の後輩でもあった岩崎宏美は西城の特徴的な歌声について「誰にもまねできないでしょうね」と評した[229]松任谷由実は「西城秀樹っていう人は圧倒的にスターだったと思う」と述べ、スター性の根源には「声の素晴らしさがある」と話し「歌手は声がその運命を100%以上決める」と持論を述べ、「斜のかかった強い少年声というのか..大好きな声です」と話している[230]ミッツ・マングローブは「ヒデキは私にとって最初の"ヒーロー"でした。自分の本質とは真逆の、快活で社交的な男子性の塊みたいなヒデキに対し、それでも無抵抗に心躍ることができたのは、やはりその歌声と健やかな大衆性が圧倒的だったからに他なりません」と述べている[150]三原じゅん子は西城を「アイドルを超えた歌唱力の持ち主」[149]黒柳徹子は「『ザ・ベストテン』の出演者のなかで、ダントツに歌がうまかった」[231]鴨下信一は「歌唱力は同時代の誰よりもあった」と評している[232]。鴨下は「ヒデキのひとつ前の御三家の一人・舟木一夫は歌についてはなかなかの理論派だが、ヒデキについてこう語っている。"秀樹の強みは唄い方の構成力が優れているからだ。『YOUNG MAN』の成功はアクションだけではない。でなければ、あんな単純で、そのくせ全部唄うとひどく長い歌はモタないよ"。また、阿久悠に当時の歌番組が歌を短くしようとばかりすると指摘されグウの音も出ず。負け惜しみに『どうやってもカット出来ないような歌を作ればいいじゃない。『魔王』みたいな、ずーっと曲が展開し続けて切れないような。ああいうの書いたら』と言ったら阿久が『よし!たかし(三木たかし)に電話しよう。秀樹の新曲は『魔王』の形式でゆこう!』と長大複雑な『ジャガー』が出来た。皆が秀樹の歌唱力、特に歌の理解力と唄い方の組み立て、つまり構成力は天賦のものと理解していたことがよく分かる。この理解力と構成力こそ、彼がドラマに進出した時の武器でもあった」などと論じている[232]

西城秀樹のハスキーな声でシャウトする歌唱が、後続の多くのミュージシャンに影響を与えた理由について[64][175][233]、宝泉薫は「ヒデキの声がロックのテイストにほどよく合っていた。一般にロックは"不良の音楽"などと言われるが、あまり"ドス"が効いていてはいけない。求められるのはあくまで少年ぽいワイルドさ。また毎日のようにテレビに出て歌いまくり、派手なアクションに独特のしゃがれ声でシャウトする姿が当時のテレビっ子たちに多大なインパクトを与えたのだろう。ヒデキ後に売れたロックヴォーカリストは、みんなヒデキ的資質の持ち主なのである」などと論じている[180][234][235]内田樹は「西城の歌唱法は、ポール・アンカ平尾昌晃的解釈による平尾の直接の後継者。以降は西城が原点。西城のあとはあの歌唱法がすごく多い、皆同じ」などと持論を述べている[236]。とりわけロック色が強い西城の豊かな声量と歌のうまさ、迫力は際立ち、ぐっと海外のポップスに近づけ、J-POPに繋がる流れを作ったとも評される[170]。 

ファン参加型ライブ

コールアンドレスポンス

ブラス・ロック要素を取り入れた5枚目のシングル「情熱の嵐」では、にしきのあきらの「空に太陽がある限り」での掛け合いをヒントに、作曲の時点で、わざと隙間を作り「ヒデキー」コールを想定した[23][29][44][86]。これは西城自身が「ファンの子がキャーキャー騒ぐだけで歌を聴いてくれない。どうにかならないか」と作曲鈴木邦彦に相談して取り入れられた[187]。予想通り「君が望むなら」「ヒ・デ・キー!!」とファンの掛け声が入り、舞台と客席が一体化する感触を自身でも感じ取った。女性ファンの圧倒的なパワーに曲のアレンジが変更を余儀なくされるケースもあり[160]、こうした歌手とファンによるコール&レスポンスのスタイルを本格的に歌謡曲に持ち込んだのも西城が最初[14][29][44][102][152][157][237]。コールアンドレスポンスは近代アイドルのライブにおけるミックスの原型とも言え、男性アイドルへの女性ファンの熱狂に、ひとつのスタイルを作り上げた[44][29]

人文字振り付け

1979年YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、ヴィレッジ・ピープルの曲をカバーしたもので、同曲は西城自身が探し出した[29][38][153]。レコーディングに訪れたロスでカーラジオから流れる「Y.M.C.A.」に、「これはいい曲だぞ」と心を奪われた[225][238][239]。すごくノリがいいし、ステージでやってみたいと帰国後、試しにコンサートで「Y.M.C.A.」を原曲の英語で歌うと観客の反応も良かった[189]。しかしヴィレッジ・ピープルは同性愛(GAY)を象徴するバンドとして有名で、「Y.M.C.A.」はゲイの応援歌として認識されていた[240][241][242]。ヴィレッジ・ピープルが人気グループになったことでアメリカでもゲイが市民権を持つに至ったといわれた[241]。西城は「この曲をカバーして、シングルを出したい」と、レコード会社に直訴するが「アイドルがこんな歌を歌えるわけ無いだろう!」と、担当者は全く取り合ってくれなかった[注 17]。当時の日本では同性愛への偏見が大きかった時代背景もあり、70年代の歌謡界には「洋楽の日本語カバーはあたらない」というジンクスがあった[38]。レコード会社や所属事務所の力が圧倒的に強い時代で、売れっ子歌手がローテーションシングルとしてリリースするのはオリジナル曲に限られ[38]、歌手本人の希望が通ることは少なかった。西城は絶対に諦めず、英語が堪能だった当時のマネージャー・あまがいりゅうじ(天下井隆二)に“若者に向けた応援歌(青春讃歌)”に歌詞を変えて[38]、アレンジも自身が歌いやすいように変更し[239]、"Y.M.C.A."の4文字を全身で表現するという人文字振り付けも西城自身が考案[29]。題名も「ヤングマン」として西城自ら何度もレコード会社に足を運び、その念願が叶って「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」として発売された[238][242]。リリース直後からたちまち火が付き大ヒットし、周りの態度も一変した[239]

1977年に公開された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の世界的な大ヒットで、海外のトレンドになったディスコミュージックにいち早く目を付け[38][146][162][168][244]、日本の音楽文化に取り入れた西城独自のエンターテイメントに徹した観客参加型のパフォーマンスは社会現象にもなった[111][164][169][208][244][245][246]。自身最大のレコード・セールスを記録しただけでなく、『ザ・ベストテン』で番組史上唯一の9999満点を2週にわたり獲得する[44][41][238]。それは初期から西城とそのスタッフが目指した"舞台と客席を一体化させる"参加型のライブが、究極の完成を見た瞬間であった[29][104][188][247]青木はるみは「秀樹は大観衆がみんなで『ヤングマン』を歌って手を振り、初めて人間の手がこんなにもきれいなものだと知った、と言っていた。『ヤングマン』は新しい型の若者の曲であるとともに新しい喝采の方法を創り上げたのだと思う。手は単に拍手という消極的な意思表示にとどまらず、もっとアクチュアリティのある参加の表現となった。あの曲を完成させるのは動く手のマックスなのである」などと述べている[248]ピンクレディー海援隊渋谷哲平[241]布施明[241]麻生よう子[241]などフォロワー作品も登場し[38][38][249]、ディスコカバーブームも巻き起こした[29][241]金子修介は1993年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をモチーフにした映画『卒業旅行 ニホンから来ました』を撮った[208]

YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」がヒットして以降は西城のいろいろな提案が通るようになり、自身も好きなことをやっていきたいと思うようになった契機にもなった。同じく観客参加型の応援歌・第2弾として発売された「ホップ・ステップ・ジャンプ」、バラード曲の「勇気があれば」も30万枚を超えるヒットを記録し、『第21回日本レコード大賞』は「外国人の作曲作品は審査対象外」となるルールもあって逃したが、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを受賞。さらに1980年には観客参加型の応援歌・第3弾として「俺たちの時代」を発売している。「みんなで何かをする、ファン参加型ライブの素晴らしさを実感した。」と、多くの場所(1979年の『ミュージックフェア』等)で語っていたように、西城自身の強い意思で行われ、それまでの歌謡界の固定観念を覆す先駆けとなった。

スタジアム・コンサート

21世紀突入後では一般的になった、スタジアムコンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催したのも西城が最初であった[12][29][146][162][250][251]1974年夏、日本で初めて野球場でのワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”』を大阪球場で開く(グループでの日本初は1968年ザ・タイガース)。「ウッドストック・フェスティバル」の影響を受け、「野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」と西城自身が企画し、このコンサートが実現した[18][33][38]。観客2万5000人[114]。コンサートは設営から解体までに3日かかり、その間の弁当代だけで300万円[252]。1回にかかる費用は当時の金額で6000万円[252]。満員になっても儲けが出ることは無かった[252]。西城の球場コンサートは、ただ歌と演奏をするだけにとどまらず、現在では許可されない巨大クレーンにより宙づりになった「ゴンドラ」の中での歌唱や[29][164][250][253]、ヘリコプターを使った派手で危険な演出も自身のアイデアで実行し[33][162]、日本での初導入とされるレーザー光線[34][36][111]、衣装に電飾を仕込む[36]演出効果など、球場の大きな空間を利用しての派手な仕掛け[注 18]、演出が売りであり、毎年赤字覚悟でエスカレートしていった[34][252]。時代的にどれも人が操作したり手動で動かす手作りライブであった。クレーンの使用は西城自身が工事現場のクレーンを見て「何か使い道ないかな」と閃いたのが切っ掛け[255]豪雨のカーテンに包まれ、雷鳴が響きわたる中、稲妻に照らし出されて[100][122][256]キング・クリムゾンの「エピタフ」を熱唱した1979年の後楽園球場では[102][111][122][257][258]マイクからビリビリ感電しながら歌唱を続行、「本当に死んでもかまわないと思いながらやってた」[12]、「俺たちの時代の人ってのはみんな命を賭けてた」と述べている[259]。『月刊明星』は「両腕をかざしステージに立つ秀樹に"超人"を見た」と評した[100]

大阪球場は1974年より1983年まで10年連続と長きにわたり継続。派手な仕掛けに加え、「雨男」と言われるぐらい雨中でのライブも多かった。「ペンライト」は西城のコンサートが発祥[19][41][146][164][252][260][261]サイモンとガーファンクルの海外のライブでファンがライターを灯す姿にヒントを得て[168]、1974年の球場ライブで「(火は危ないから)なにか光るものを用意してきて!」と観客に呼びかけると、それ以降「ペンライト」というものを、観客が用意するようになった[146][250][168]。3回目の大阪球場ライブを伝える1976年11月の『月刊平凡』の記事に「ヒデキの登場に、赤、黄、グリーンのペンライトを持ったファンが応える」という記述が[254]、1976年11月の武道館リサイタルをレポートした『mimi』1977年1月号の記事に「全方向から見られるように、八角形にしつらえたステージ。秀樹のステージでおなじみとなったペンライトのゆれる中で..」という記述が見られる[262]

1975年に西城のマネージャーが阿久悠に「ヒデキを少年から青年にして下さい」と依頼したことから[187][102][161][263][264]、1976年に阿久悠作詞による3部作を含め、以降カバーも含めてシティ・ポップ/AOR風の楽曲にも取り組むが[44][53][100][172][202][179][265]、阿久は依頼に応えるため、1975年の大阪球場ライブを観戦した[264]。「グラウンドでは発煙筒が焚かれ、パイプで組立てられたステージにはイルミネーションが走りまわっていた。彼は何十メートルかのクレーンに吊るされて、サーカス花形か、スーパーマンのように歌っていた。ぼくはそれを、脱新御三家の壮大な儀式だと思った。時代はまさに、華やかさのためにはあらゆる無駄を惜しまない傾向になっていて、一人の若い歌手の一夜のショーのために、市街戦ほどのエネルギーが費やされているのであった。それはバブルの花火であったかも知れない。興奮したぼくは、西城のマネージャーに、ナチス・ドイツの人心掌握術を広告技法の観点で書いた本を渡した。そしてテレビサイズからの脱出の意欲に燃えて、格闘家体操選手のように応える西城秀樹に可能性を覚えたのである」などと感想を述べている[264]

大阪球場跡地に建設されたなんばパークスの屋上に在るパークスガーデンには、大阪球場を本拠地にした南海ホークスの元選手たちの手形モニュメントが設置されているが、その中に難波及び大阪球場にゆかりのある人物のひとりとして西城秀樹の手形とサインが入ったモニュメントも設置されている[266][267][268]

後楽園球場での初ライブ『BIG GAME'78 HIDEKI』は1978年7月22日[269]。ソロシンガーとしての初の開催で、以降、1981年まで毎年コンサートを行い計4回。後楽園球場の最多公演アーティストとなる(後楽園球場#コンサートを開催したミュージシャン)。マイケル・ジャクソンが1987年9月から初のワールドツアー(バッド・ワールド・ツアー)を日本から行う際、マイケルのスタッフが後楽園球場の演出に「西城のスタッフを借りたい」と申し出たといわれる[163]。1978年夏の全国縦断ツアーでは、5回目の大阪球場の他、三重県合歓の郷(7月9日)、千葉県九十九里浜特設ステージ(7月26日)で野外ライブを行った[269]

惜しまれるのは1977年夏に"全国球場ツアー"の計画があったこと[119][254]。大阪球場は勿論、北は札幌から南は沖縄まで、6つの都市の球場を使ってコンサートをする予定だった[119][254]。当時の文献にも「全国6大都市の野球場でコンサート予定」と書かれている[119]。しかし越路吹雪日生劇場でのリサイタルを観て感激したこともあり[119]、1977年夏は初めてのミュージカルわが青春の北壁』を選んだ[117][118][119]浅利慶太から「演出家としての目で西城を見れば、歌がうまいこと、そして身体全体で感情を表現できること、これは今の歌い手の中では抜群です」と評価されたが [270]、これが7月のほぼ丸一ヶ月の公演で、当然リハーサル期間もあり、準備面でも"全国球場ツアー"は断念したものと見られ、この年の球場コンサートは大阪球場だけに留まった。翌1978年からは東京の後楽園球場が加わり、大阪球場と合わせ東西での球場コンサートになったが、全国の球場ツアーはその後も実施されることはなかった。「舞台の発声法を会得し、すっかりノドが強くなった」と話しており[100]、ミュージカルで得たものも大きかったと思われるが、音楽史的には"全国球場ツアー"をやった方が良かったかもしれない[注 19]

西城はこの時代のアイドルとしては珍しく毎年のようにライブ・アルバムを発売している[44]

野外ライヴ

1975年7月20日、富士山麓での野外ライヴは、広大な空き地に一からステージ設営し、バスで全国から観客を運ぶといった大イベントも成功させた[33][102][112][274][275][276]。観客3万人[277]。当時の週刊誌で「史上初、空前絶後の大イベント」と書かれており[275]、元祖夏フェスともいわれる[278]吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋』より二週間早く、ソロでの観客数万人規模の野外ライヴとしては、最も早い事例と見られる。本コンサートを皮切りに同年8月30日まで続いた『全国縦断サマー・フェスティバル』の模様とステージを離れた西城のプライベートタイムを細大もらさずフィルムに収めようと松竹日本テレビの二つの撮影クルーが社を挙げて追いかけた[277][279][注 20]。この松竹版がドキュメンタリー映画ブロウアップ ヒデキ』で[112]1960年代GSのバンドなどを主役とする歌謡映画がよく作られたが、このようなアイドルのひと夏のツアーを追ったドキュメンタリー映画が全国ロードショーされるのは珍しく[281]、『エルビス・オン・ステージ』をヒントに製作されたと評された[281]。日本テレビは1975年9月25日の『木曜スペシャル』枠で『西城秀樹日本縦断20歳の絶唱!』「35メートルの秀樹宙吊りの熱唱▽完全取材!北海道から沖縄まで秀樹魅力の全て▽告白!母が語る秀樹生い立ちの秘密▽秀樹オンステージ」というタイトルで放送した[279]

鹿児島県最南端の島・与論島海開きに合わせ、1979年3月31日に当地の海水浴場特設ステージでコンサート[282][283][284]。島外からのファン700人を含めた観客3000人[282]。発売間もない「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、ステージを降り、砂浜でファン全員で西城の周りを囲み一緒に歌った[282]。「ホップ・ステップ・ジャンプ」のジャケット写真はこの時撮影されたもの[106]

ロックバンド

1970年代のテレビの歌番組は基本的に生放送生演奏[285][286]、出演歌手は番組専属のオーケストラ (フルバンド)のバック演奏で歌っていたが、当時はよりロック色の強い路線だったこともあり、レコードよりもっとハードな音を出したいと[18]、自身の音に対するこだわりをフルバンドの人たちに100%伝えるのは無理があると感じていたため[285]、早く自分のバンドを作りたいという希望があった[40][109][285]。1974年2月に日本武道館で挙行されたフェイセズの来日公演を鑑賞に行った際、その前座でジョー山中らとセッション・バンドで演奏していた芳野藤丸に声を掛け[40][186]、自身のサポートバンドを要請[40][166][223][257][287]。「藤丸BAND」を結成し以降、芳野が「SHOGUN」での活動が忙しくなった1979年まで『夜のヒットスタジオ』などのテレビの歌番組や西城のライブでバックバンドを務めた[39][40][177][186][223][288]。「藤丸BAND」という名称は(仮)の名前だった[109]

西城はアマチュア時代と同様、最初からロックバンドをバックに歌うことが希望であったが[285]、駆け出しの身分では自分のバンドを持ちたいとは言えず、実績もある程度のレベルにきてようやく実現できた[285]。「自身のサウンドを創るため、バンドの若い仲間とディスカッションしたい」という希望がようやく叶った[109]。歌番組のフルバンドは全てのジャンルの曲をやらないといけないため、どの曲もテンポリズム感が同じで自分なりの匂いを出すことができず、イメージする音と違っていた[285]。しかし当時のテレビ局のスタッフやフルバンドの人たちから「こんなバンド作られちゃ、準備にも音合わせにも時間がかかって迷惑だ」などと何度も嫌みを言われた[285]。逆に自身が実績を積み上げるとフルバンドの方がいい音を出してくれたこともあったが、新人の頃は舐められ、演奏中に居眠りする人もいたという[285]

1970年代前半にロックバンドが全国ネットのテレビ番組に出演することはないに等しい状況であったため[147][287]、「後の世良公則&ツイストもんた&ブラザーズなど、ロックバンド確立の切っ掛けは、藤丸BANDや沢田研二さんの井上堯之バンドが作ったと思う」[285]「音作りなんかもボクや沢田さんが歌謡界を開拓したんじゃないかと思う」と語っている[285]ダイアモンド☆ユカイは「西城さんは時代が違えば、ZIGGYレッズみたいなバンドをやってたとおもうよ」、森重樹一は「ロックバンドという選択肢がない時代、プロとして歌うなら歌謡曲の歌手になるしかなかった。それで大きな成功をおさめたんだからね。今、そのすごさがわかるね」などと述べている[257]

ロックヴォーカリスト先駆者

新御三家の活躍は、男性歌手による歌謡曲のあり方を大きく変えた[233]。長髪で、ロックと距離感の近い楽曲を激しいアクションで歌う彼らの佇まいは、それまで歌番組のメインだったスーツ姿で直立不動の歌手たちとは全く違う様相をしていた。彼らの存在は後の日本のロックにも多大な影響をもたらした[111][157][233]。ことに80年代以降の日本のロックヴォーカリストたちは、新御三家や沢田研二にテレビで触れたことを"音楽のめざめ"とする者が多く、そこから洋楽を含めたロックへと嗜好を広げていったケースが少なくない[174][175][177][233][289]メインストリームに於ける国産ロックヴォーカリストたちはスタイルは、新御三家と沢田研二の4人の要素を様々なバランスで成立させているのである。ことに幼少期から目や耳にしていた彼らの歌唱やステージングのスタイルが、自然に刷り込まれている。中でも西城のヴォーカルスタイルは、大音量で演奏するバンドサウンドに埋もれずに絶叫することを強いられる立場にある後続バンド世代にとっては、ロバート・プラントイアン・ギランよりもずっと身近な手本であった。「薔薇の鎖」に代表されるマイクスタンドを駆使した派手なアクションに魅了された少年たちは、後にその向こう側にロッド・スチュワートやスティーヴン・タイラーの姿を見つけたのである[233]。週に60本あったといわれる[65]歌番組華やかなりし70年代から80年代前半にかけて、毎日のようにテレビに出て歌いまくった西城は[44]、"不良の音楽"だったロックを"青春歌謡"として定着させた[38][44][157][180]。自ら創始したマイクアクションに、独特のハスキーボイスでシャウトする姿は、当時のテレビっ子たちに多大なインパクトを与えた[38][53][44][102][175][178][177][180][192][197][221][290][291][292]。女性ファンは勿論、チビッ子たちもヒデキを通じて“ロック”を無意識のうちに体感した[44]さくらももこが『ちびまる子ちゃん』の中で西城を盛んに取り上げ、それが再評価にも繋がった[176][180]。90年代初頭にヒデキの再ブームがあり[17][172][260]、ヒデキを聴いて育った世代のロック・ミュージシャンが台頭してヒデキへのリスペクトを公表したり[44][260][293]、テレビ業界内にもヒデキを聴いて育った世代の混入率が高くなり[17]、またものまねの恰好のネタだったことから[260]植木等美川憲一山本リンダと共に"復活四天王"とも呼ばれ"トレンドスター"になった[260]。現在のような"歌謡ロック"的評価はまだ浸透していなかったため『Asahi journal』では「僕がやってることは歌謡曲でもロックでもなく"西城秀樹"というジャンルなんだよ」と話し[260]、どんな曲でも絶叫型のヒデキ節にしてしまう自己完結的な高飛車な姿勢も、当時の「タカビー」という若者言葉に乗って大ウケした[260]。また『フライデー』のインタビューでは「俺には演歌が主流だった時代にいちばん新しいことをやったという誇りがある。一貫して"西城秀樹"をやり続けて、いまでも全然変わってない。もし今回のブームがなくてジリ貧になったとしても俺はずっと俺のロックをやり続けていたろうね」と話した[94]

宝泉薫は「はっぴいえんどからYMOへという流れを重視したい人も、内田裕也とかキャロル矢沢永吉横浜銀蝿こそ"本物"だ等、色々な主張はあるにせよ、現実には、西城から影響を受けたアーティストたちが"Jロック"のメインで大量に活躍中であり、西城こそ日本のロックのパブリックイメージなのではないか」と論じている[180]。西城の曲を聞いて育った次世代のロック・アーティスト達による1997年の『西城秀樹ROCKトリビュート KIDS' WANNA ROCK!』は[44][111][174][294]トリビュート・アルバムのハシリであったが[295]、企画を聞かされた西城は、プロデューサーの大島暁美に「何でオレ?」と聞いたら、「日本のロックの元祖だから」と言われたという[291][294]。参加したサンプラザ中野くんは「ロック感覚あふれるシャウトを日本に持ち込んだ初のシンガーだと思う」と評している[296]ダイアモンド☆ユカイは「"西城秀樹"というジャンルには根本にロックが流れていると思います。BOØWYが出てきたとき、氷室京介さんのボーカルを、みんな最初は"ヒデキさんみたいだ"と思ったはず。ロックを日本語で表現しようと試行錯誤してきたのはキャロルサザンオールスターズMr.Childrenといった流れがあるけど、ヒデキさんが原点だったんじゃないでしょうか」などと述べている[180][210]怒髪天の増子直純は「日本人にとって同じように血の中にあるのは演歌・歌謡曲でしょう。みんな初めて買ったレコードは西城秀樹やピンク・レディーだったはず」と話している[297]いとうせいこうは西城のファンであることを隠しているといわれる[17]徳光和夫は「歌謡界にR&Bを持ってきたのがアッコちゃん(和田アキ子)なら、ロックを持ってきたのは西城秀樹ではないか」と評した[227]。1973年に西城が「ちぎれた愛」で新御三家で初のオリコン週間チャート1位を獲得し、『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞したにも関わらず、『NHK紅白歌合戦』出場が翌年まで持ち越されたのは、NHKから西城のロック色の強い部分が警戒されたといわれた[208]

洋楽カバー

"洋楽カバーの第一者"とも評され[33]、所属事務所の支社がロサンゼルスに早くからあり[20]、ロスにも頻繁に足を運び、日本でまだ発売されて無いアーティストのテープなどの提供を受けたり、スティーヴィー・ワンダーバリー・マニロウらと交流し、デビュー当時から積極的に洋楽カバーを行った[12][18][19][20][44][111][162][178][298]。カバーを本格的にやろうと決めた切っ掛けは、アメリカでロッド・スチュワートのライブを観た時、ロッドが「キープ・ミー・ハンギン・オン」を自分のものにして歌っているのを観て、「カバーするならあれくらいにならないとダメ」同時に「日本ではどうしてあんな素敵な遊びをしないんだろうな」と思ったことだという[18]小林亜星は「西城さんはロックミュージシャンとしても最高の知識と腕を持っていた」[184]、「海外の歌ぐらいじゃないと満足ができない、表現がしきれない歌手」と評している。

1970年から1980年代にかけて日本の音楽界はまだ事務所やレコード会社の力が強い時代であったが、デビュー二年目の1974年には年間二枚も洋楽カバー・アルバムを発売。西城が当時、自身が好きなように構成を組むことが出来たライブでは[12]、頭から10曲洋楽カバーを演ることも珍しくなく[20][299]、1973年~1974年の最初期のコンサート(リサイタル)では、持ち歌がまだ少ないこともあって前半が洋楽カバー、後半が持ち歌メドレーという構成で、洋楽カバーは「Try a Little Tenderness」「Dio, come ti amo」「Funky Stuff」「If You Go Away」「Just Like a Woman」「Roll Over Beethoven」「Spinning Wheel」「I Believe in Music」「Your Mama Don't Dance」「Love」「Jumpin' Jack Flash」など、ベース仕込みの選曲か、女性ファンは勿論、当時の洋楽ファンでも馴染みの薄いロックンロールソウルR&Bファンクフォークシャンソンなどを歌い[108][299][193]、後半の持ち歌メドレーでは『愛の十字架』の後、エンディングの「Que je t'aime」を歌い終えると古代ローマ遺跡のセットが崩れ、スモークの中、十字架にされた西城がに昇っていくという『ジーザス・クライスト・スーパースター』からヒントを得たと思われるロックコンサートの定番演出を行った[114][299][300]

1978年にバリー・マニロウの「コパカバーナ」を現地で聴いて「いいな」と思い自身でバリー・マニロウのコラボ(「腕の中へ」)を頼むなど[20][21][158]、全曲自身でカバー曲の選定も行った[20]。また「歌詞が英語のように聴こえるように」といった原曲に合う訳詞にして欲しいといった指示も出した[20]。オリジナル曲の方が儲けが出るためレコード会社はたいてい反対し、それを説き伏せるのが大変だったという[20]。「当時は僕がカバーして、そのアーティストを知るリスナーが多かったんじゃないかな?」と話している[20]。「誰のカバーであっても真似をせずに、自身のスタイルですること」を最も重要視した[20]。「日本語をロックにのっけるっていうのは、当時やったヤツがいなかった。あれで若い子たちが『あ、日本語でロックをやってもいいんだな!』と思ったんじゃないかな。プロでも音楽理論を知ったかぶりするような評論家的なヤツらがいたんだけど、そういうヤツに限って、例えばロック系ならポップスを全然聴いてなかったりしてね。本質を知らないんだよ。僕はポップスもロックも一緒だと思ってる。歌謡ロックや歌謡ポップス、歌謡ヘビーメタルがあったっていいじゃない」[20]、「当時のロックって言ってたのはロックじゃない。全部歌謡ロックだろ」[259]などと話し、歌謡曲やロックの歴史を別々に論じたがる日本の音楽ジャーナリズムに苦言を呈している[20][165]

アジア進出

1981年5月、亜細亜テレビの香港音楽祭にスペシャルゲストとして出演[301]。20分のゲスト出演だったが[302]番組視聴率は90%を超えた[55][303][304]。西城についての問い合わせが殺到し、香港のマスメディアに大きく取り上げられた[304]。当時の香港にもかつての日本の歌謡界と同様、歌う時に体を動かす人があまりおらず、現地の新聞に"ボディアクション""ボディランゲージ"とやたら書かれた[302]。西城からの影響で現地の歌手がそれをみんな真似し始めた[302]9月12日 - 9月14日、香港で初めてのコンサートをクイーンエリザベス・スタジアムで開催[44][123][301]。現地のプロモーターから「香港の人は評価がストレートだから一回目でブーイングが来たら二度と香港では出来ないよ」と言われ、大変なプレッシャーの中で歌い切り[304]、翌日の新聞の見出しはそれまでの「赤旗星(スーパースター)」から「天皇巨星(超スーパースター)」と表記され、「最もセクシーな歌手」と絶賛された[305]。香港のゴールドディスクを四年連続、プラチナディスクも計6回受賞[306]。アジアでの日本人歌手進出の先がけとなる[3][33][37][147][154][68][179][259][260][307][308][309][310][311]。当時の香港はアイドル歌手の存在はなく、歌唱力など実力のある人でないと人気は出ない土地柄だった[312]

1982年9月22日 - 9月24日の3日間[313]、香港にて2回目のコンサートを開催(クイーンエリザベス・スタジアム)[308][313]。当時の香港は教科書問題で揺れ[313][314]、同時期コンサートを予定していたさだまさし三原順子は中止を余儀なくされたが[303]、西城だけは特別扱い[303]。「僕は広島で生まれ、原爆ドームを見ながら育った。平和を思う気持ちは人一倍です。僕は平和を求める歌手として香港に来ました。歌に国境はない。あってはいけない」という西城のコメントが香港の新聞に大きく掲載された[313]。香港メディアも「歌と政治は切り離すべき」という論調を載せ、平和の使者としての西城を歓迎した[313][303]

日本のファンも熱狂的だが、香港の人たちの西城の愛し方は尋常ではなく[303]、コンサートが開催される半年も前から書店には西城の特集を組んだ芸能誌『好時代』がうず高く積まれ、『愛と誠』が上映され、それまでの西城のコンサートの模様を再編集し、ゴールデンタイムに流すハシャギようで、香港の街はヒデキ一色[303]。コンサートで客席に人指し指を向けようものなら、それまで踊り狂っていた子がワーッと泣き出しそれも男の子たちで、西城も「はじめは信じられない世界を見ているようだった」と話した[303]。アジアでは圧倒的に男性客が多かった[17]。香港で西城がダントツ人気を得た理由を香港観光協会は「香港の人間はメンタリティーの部分で、欧米人よりも日本人によく似ています。ジャズよりも当然、日本のポピュラーソングの方がなじみやすいし、リズムとかイントネーションもこっちにマッチしています。香港のショービジネスはアメリカ型というか、下積みから叩き上げていく、いわば本格志向なんです。逆にいうとアイドルの存在が香港にはないんですね。西城はジェネラルだし新鮮さがある。おまけに声量はあるし、歌がうまい。歌プラスショーとでもいうか、仕掛けのあるステージも香港の若い人たちを熱狂させるに充分でした」などと解説した[303]アニタ・ムイは西城の追っかけからファンクラブ副会長を務めた後、スカウトされ大スターになった[55][312][315][316]。1985年に香港の新聞に「西城秀樹聞梅艶芳暗恋」と書かれ、西城の恋人と騒がれたこともあった[312]。アニタは「日本で西城秀樹さんと共演したことが生涯最高の思い出」と話していた[317][注 21]ジャッキー・チェンサミュエル・ホイジョイ・ウォンなど、早くから西城のステージを観に訪れた[304][306][308]。ジャッキーは西城の追っかけのように客席の一番前で三脚まで置いて写真をバチバチ撮り、ステージの上からだとはっきり見えないので、現地のマスコミだと思っていたら、コンサートの終了後に控室に挨拶に来た[302]。ジャッキーはもう香港でも大スターで、西城も『酔拳』とか観ていたから驚き、すぐに食事に誘われ、ジャッキーはどんどん大スターになっていったが、以降もコンサートの時には必ず来てくれた[302]。彼らとは商売抜きで音楽だけで繋がっている関係[17]。彼らが来日した時は、自宅に招待したりし酒を酌み交わした[17][302]。それはアマチュア時代に年上のバンド仲間と純粋に音楽のことだけで付き合っていた頃の記憶と重なった[17]。ジャッキーとは映画での共演は無かったが、1987年8月1日琵琶湖であった「第5回びわ湖水の祭典ASIA POPS'87」で最後のアンコールでジャッキーが飛び入りで入り「ギャランドゥ」などを一緒に歌った[302]。香港での成功でアジア各国のどこでもコンサートが開けるようになった[306]。『ミス・インターナショナル・クイーン』でタイ王国のテレビに出演したはるな愛は、タイ王国の司会者が「スシ!テンプラ!西城秀樹!」と連呼するので驚いたと話している[318]。西城は「アジアの人たちにはアイドルだどうのこうのという先入観がないため、自分が今ここで出す音しか信用してもらえない。音だけの世界で人気を積み重ねた結果で、自分でも自信になった」と話している[17]

1985年9月7日 - 9月11日、香港のほかシンガポールでもコンサートを開催。1986年シチズンのCMで、海外(アジア各国)CMに初出演[319]。CMソングは「City Dreams From Tokyo」。10月14日 - 10月19日、香港、シンガポールにてコンサート『Caravan From Tokyo - HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '8-06-』を開催。10月14日に香港コロシアムで行われたコンサートの入場料は180香港ドル(約3600円)[319]。香港の当時のOLの平均月収は約6万円だったため、気軽にコンサートを楽しむというレベルではなくファンの見る目も厳しかった[319]。この日のコンサートの模様は、ビージーズでもロッド・スチュワートでもやらなかった前例のないTV完全中継が行われた[320]。毎年の日本武道館公演に香港からファンが数百人単位で観戦に訪れるので[303]、負担も大きいと考え、1980年代後半は香港を中心にアジアでの活動を増やした[55][303]。香港でも歌が売れ、ベストテン上位をキープ[301][321]。1986年に香港でも発売したカバー・アルバムStrangers in the Night』は、香港のアルバムチャートで前代未聞の47週トップを独走した[322]。香港での人気は、フランク・シナトラは別格にしても、ロッド・スチュワートを凌ぐとも称された[319]。1980年代後半は、日本より香港の人気の方が高いぐらいであった[123]。また現地の歌手を活かすため、ステージや番組の演出にも関わり、日本と同様、香港のエンターテインメントの制作にも革命を起こした[302]。 

1987年3月5日 - 3月8日中国本土で初のコンサートを首都北京首都体育館及び廣州・中山記念堂で開催[19][310][323][324]。中国人民対外友好協会の二年越しのラブコールに応える形で行われ[324]、廣州のコンサートは児童福祉会館のエレベーター建設のためのチャリティー・コンサートで、そのエレベーターは「西城号」と命名された[55][323]。香港の流行は中国にも伝わった[302]。廣州は香港から120kmしか離れておらず、香港での知名度が高い西城は、廣州でも大スターで、ホテルを一歩出るとあっという間に人垣ができた[19][324]。当時の中国の労働者の平均月収は約120(約5000円)で、チケットは40元だったが飛ぶように売れた[324]。コンサートは5000人収容の中山記念堂で2回行われたが、収容しきれず、リハーサルを公開すると3000人集まった[324]。廣州に初めてレーザー光線を運び込み[324]、待ち望んだヒデキの肉声に、感情をあまり表面に出さないと言われた人たちが、手拍子を打ち、立ち上がり、踊り出した[324]。香港でも大ヒットした「年青人(ヤングマン)」では、会場中の人が「Y.M.C.A.」の大合唱。ヒデキが「再見!」とステージから去ると「安歌(アンコール)!」の声が響き渡った[324]。西城は「8年前、初めて香港でコンサートをやって以来、ボクはずっとアジアを見つめていた。フィリピン、シンガポールと段階を経て、やっと中国にたどりついた。これはボクの8年間の夢だったんです」と話した[324]3月10日 - 5月5日、香港で初の主演映画『天使行動(Angel)』撮影(1989年、日本でも上映)[308]。撮影の3か月間、ジャッキー・チェンレスリー・チャンジョイ・ウォンなどと友好を深める。

1988年9月16日ソウルオリンピック前夜祭に趙容弼(チョー・ヨンピル韓国)、陳百強(ダニー・チャン・香港)、胡寅寅(フーインイン・中国)と共に出演。「傷だらけのローラ」を歌う[19]。日本人として初めて韓国の公式の場において、日本語の歌が電波にのった瞬間であった[19][154][308][325][注 22]。この模様は衛星中継で世界137か国に放映された[158][55]1989年2月、香港、バンコク、3月にブラジルサンパウロ(イヴィラポエラ体育館)でコンサートを開催。"K-POPブームの仕掛人"といわれるSMエンターテインメント創業者・李秀満(イ・スマン)も西城の影響を受けたといわれる[154]

1990年、広島・アジア音楽祭『Asian Harmony』を初プロデュースし、出演する。チョー・ヨンピルなど各国からトップ・アーティストを招聘した。1993年にも同種のアジア音楽祭をプロデュースし、出演する。1991年バングラデシュ救援コンサート『俺らだけのヒットパレード』(以降3年連続)に出演。

1996年5月28日、『アジア音楽祭イン福岡』(TXN九州主催)出演と蓮舫とともに司会を務める[326]。中国、韓国、香港、タイ、マレーシアのトップシンガーが出演し、テレビ東京系で全国中継(19:00-20:54)。アジアのポップス音楽祭が民放ゴールデンタイム生中継されるのは初めてといわれた[326]。同年、中国・大連市で行なわれた『国際ファッションショー前夜祭』に日本からのゲストとして出演。大連体育場約4万人の前で歌唱。中国全土及びアジア各国にテレビ放映された。

1997年10月開校した上海新偶像芸術学校(シャンハイ・ニューアイドル・アート・スクール)名誉教授[327]

1998年、「日中友好条約締結20周年」のイベントとして、中国世界文化遺産万里の長城において外国人歌手初の野外コンサートを開催する[19][68][221]。アジア・ツアーの一環として広州市珠海市でもコンサートを開催。中国唱片廣州公司(CHINA RECORD)より「moment北京語ヴァージョンを含むベストアルバム『瞬間』発売。中国でも西城の知名度は高いといわれる[307]

1999年9月、日本からペルー共和国への移民100周年記念年としてペルーリマで開催されたNHKNHKのど自慢』に八代亜紀と共にゲスト出演[328]

2007年3月22日、香港のレコード協会にあたるIFPI香港の設立40周年記念のイベント『IFPI Top Sales Music Award』に、約35年間の広東ポップに大きな影響を与えた海外アーティストとして表彰された[308][329][330]9月24日には、「日中国交正常化35周年」と「中韓国交開始30年」の節目として中国・南通市スポーツ・スタジアムで開催された『第9回アジア国際芸術祭』に松田聖子と共に招待され、「傷だらけのローラ」と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を観客約8万人に披露[331][332]。この模様は10月13日、中国全土に放映された。

2012年9月16日ブラジルサンパウロ(ビア・フンシャル劇場)で23年振りにコンサートを開催。

サザンオールスターズとの共演

1995年春、西城の事務所に大阪球場での公演をビデオで見た一人であった桑田佳祐から夏に横浜・みなとみらいで行われるサザンオールスターズのライブ(『スーパーライブ in 横浜 ホタル・カリフォルニア』。西城はイーグルスの楽曲「ホテル・カリフォルニア」をもじったこのライブのタイトルを、「さすが、桑田さん」と評している[133])への出演と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」の歌唱を依頼する内容の電話がかかった。当時は戦後50年を迎える年であり、数々の番組やイベントから同曲を歌唱する依頼があり、当の西城は「全て引き受けたら両脇が「Y」の字に固まってしまう」と心配していた[132]

サザンのマネージャーから桑田の意向を聞くよう促され、同年7月21日には桑田を始めとしたサザンのメンバーと初めてミーティングをし、オープニングでサザンのメンバーに扮して「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱するといった内容と、星条旗の衣装を着て、グレート・ムタのように覆面をかぶって登場する事を指示される。西城は桑田に「このコンサートでぼくの役目は何なの?」と尋ねたところ、「お客さんの度肝を抜き、徹底的に楽しませてほしいんです!!」と返答され、この発言を受け出演を決意している。また、後に桑田から前述の電話の経緯を聞かされ、当初はサザンのみで「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をやろうという話だったが[注 23]、酒を飲むにつれて、本人が出てくれないかと盛り上がり、ダメもとでこのような形でのオファーになった事が語られている[132]

リハーサルの段階でサザンのメンバーの演奏を聴き「完璧」と感じ、嬉しくなった旨を語っている。また、前述した衣装と覆面を見た際は曰く「十秒くらい後悔した」が、着用してみると「妙に似合う」と感じたといい、「こ、ここまで計算していたのか、桑田さんは!!」と思った旨を語っている[132]。なお、衣装に関しては西城曰く「衣装がピッチリ出来過ぎていて、暑さで呼吸困難状態」になるほどだったといい、本番では「金魚のように口をパクパクさせながら」歌い切ったという[133]

8月5日・6日、『スーパーライブ in 横浜 ホタル・カリフォルニア』に出演。西城はこのライブでサザンのファンから「帰れコール」やブーイングが飛ぶ事を危惧していたが、サザンの所属事務所アミューズの会長の大里洋吉が「サザンのファンは暖かいから、ヒデキさんは絶対、大歓迎されますよ」と説得している。西城の不安は杞憂に終わり、実際のライブでも2日間で合計16万人が座っている客席は大盛り上がりで、遠くのスタンド席やアリーナ席に座っている観客も「Y.M.C.A.」の振りをやっていた[133]

出番の後、西城はこのライブを客席で楽しんでおり、「桑田さんも、メンバーも、ファンも本当にステキだった」と語っている。特に桑田がライブで客席に向かって発した「ありがとよ」という言葉に関しては「決してサービスコメントではない」「デビュー以来一七年間、心から応援してくれたファンへの心からの『ありがとう』だと思った」と評している。また、終盤では『ホタル・カリフォルニア』のロゴマークがあしらわれた浴衣を着用して再びステージに登場しており、西城が桑田を肩車する一幕もあった[133]。桑田はエンディングで西城を「素晴らしいエンターテイナー、ロッカー」と称え、「西城秀樹とそのグループでしたぁ! サザンだぁ!!」と西城をメインに出して名前を叫び、花火が打ち上がる中、出演者全員で繋いだ手を高く上げてステージを退場した[336]

西城の訃報が報じられたことを受け、桑田は2018年5月20日放送の自身のラジオ番組桑田佳祐のやさしい夜遊び』(TOKYO FM)で、西城を追悼するコメントを述べ、ライブでのエピソードや西城の人柄を語ったうえで、生歌のコーナーで「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱した[337]

2018年5月26日に行われた西城の告別式では「ご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。ご遺族の方のお気持ちを思いますと、心が本当に痛みます。その旅立ちが安らかなものでありますよう、心よりお祈り申し上げます」という弔電がサザンオールスターズ名義で届けられた[338]

映画・TV・CM 他

夜のヒットスタジオ

フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』への初出演は1972年12月4日(第214回)。3枚目のシングル「チャンスは一度」での出演であった。1974年以降、ヒットスタジオとの関係が薄い芸映所属ながら人気・実力を評価されて準レギュラー格としてほぼ1月に1、2回のハイペースで出演を重ね、五木ひろし森進一に次いで歴代3位の190回にわたり同番組に登場。「ミスター夜ヒット」の代表格の一人として様々なエピソード[注 24]、見せ場を提供した。

1984年11月19日放送では、ワム!の「Careless Whisper」のカバーで、「抱きしめてジルバ」と競作となった郷ひろみの「ケアレス・ウィスパー」と対決した。西城より1か月遅れでリリースした郷の発売時(11月10日発売)の宣伝企画に乗せられる形で、フジテレビ番組スタッフに「同一曲のカバーでの対決」を持ちかけられた際、西城は「全く同じセット、同じ演出で唄う」という条件で了承し、この前代未聞ともいえる企画が実現した。ただし、歌う順番は西城が先行、歌唱時間は郷が長めに設定された。

8時だョ!全員集合

8時だョ!全員集合』は、1972年10月2日放送回に初出演し[339]、以降番組の常連となり[340][341]ゲスト出演小柳ルミ子に次いで73回で2位[341][342]。歌手がコントをやり始めたのはこの番組といわれており[341]、西城も「単にゲストとしてという意識ではなく、レギュラーのような気持ちで出演させてもらった」と述べている[341]。小柳の1位は、同番組の企画が小柳の所属していた渡辺プロダクションだった関係があると見られるが、西城の2位は、鴨下信一によれば、西城の所属した芸映が最初はTBSのまだ大きくなかった社屋の狭い道を挟んだ向かいのビルの二階の一室に事務所を構えていて、当時は世の中も牧歌的。お向かいのプロダクションに素晴らしい新人が広島から入ったと、TBSの演出部員はその日のうちに知っていて「ぼくらにとってヒデキはお向かいの家の坊や」だったと述べており、TBSの関係者に早くから可愛がられたことが原因かも知れない[232]。男性最多ゲストの西城は、同番組"二大事件"とも[343]"三大事件"ともいわれる(8時だョ!全員集合の歴史#トラブル史)、「火災」と「停電」放送回のゲストでもあった[341][344][345]。1977年5月14日の「火災事件」は「探検隊コント」の途中、小道具のヘビにピストルの火花が着火し炎上したものであったが、西城もこのコントに参加し、ヘビに向けて発泡したのは西城であった[343][345]。「停電事件」があった1984年6月16日の放送回では、停電で場内真暗闇で混乱する中、タイムキーパー用の懐中電灯を渡され、いかりや長介の顔に最初に光を当て番組の進行に貢献した[343]

バーモントカレーのCM

1973年から12年間、ハウス食品の「バーモントカレー」のCMに出演し"ヒデキ、感激!!"、"ヒデキ、ご機嫌!!"、"ヒデキ、満足!!"など数々のキャッチコピーがお茶の間の人気を呼び、大人から子供まで幅広い世代の支持を得る[111][259][346]。同製品の知名度を一気に高め[108]カレーライス国民食押し上げに貢献した[3][158][347]。"ヒデキ、感激!!"の右手で頬を2回たたくアクションは、撮影見学に訪れていた小さな子どもが西城を見て喜んだ時の仕草を取り入れ、西城自ら考案したもの[348][349]。季節に応じて3か月周期でCMの撮影が行われ、その中で西城が発するフレーズもさまざまだったが、特に"ヒデキ、感激!!"という初期の頃のフレーズは、いまだにマスメディアで西城の記事が掲載される際によく見出しとして登場する[41]

2001年に結婚した際には、夫人とのツーショット写真と「超甘口」「Happy Wedding」の文字を配した特製パッケージのバーモントカレー甘口が披露宴の引き出物として配られ、2015年に行われた還暦記念ライブでは、「ヒデキ、カンレキィ〜!」の文字を配した還暦お祝いパッケージのバーモンドカレーが来場者に記念品として配られた。なお、西城本人は甘めのカレーがあまり好きではなく、収録のテイクの度に何度も食べるのがつらかった、と後に語っている。1986年にバーモントカレーを「卒業」し、辛さを前面に押し出した「ジャワカレー」のテレビ広告に起用されたことを喜んでいた。

2018年に西城が逝去した際には、ハウス食品グループ本社から「(西城出演の)バーモントカレーのCMで、カレーが国民食となり愛されることとなった」など感謝を込めた追悼メッセージが発せられた[350]。また、西城の通夜では参列者に会葬御礼としてバーモントカレーが用意され、関係者によって配られた[351]

他に酒井法子が流行らせた「のりピー語」の一つ「いただきマンモス」は[352]、「ヒデキ、感激!!」ほど流行らなかったが、1983年に西城がバーモントカレーCMで使用したセリフである[353]

寺内貫太郎一家

西城のお茶の間人気を高めたのは、バーモントカレーのCMで見せる庶民的で人懐っこいキャラクターに加え、昭和を代表する国民的ホームドラマともいわれた[259][354]寺内貫太郎一家』(1974年、TBS)への俳優としての出演が大きかった[29][355]。毎週、お約束のように登場するのが貫太郎こと小林亜星と長男周平役の西城との親子げんかで、西城が小林に投げ飛ばされ腕を骨折し入院したエピソードはよく知られる[111][356][357]。当時を振り返って西城は「やってる方は愛情もクソもない。亜星さんを本気で張り倒すつもりでやっていた」と話している[259]。小林も「ボクもヒデキも本気だった。リアルな芝居を求める久世光彦さんが収録現場でどんどんNGを出す。ボクもヒデキもお互いに『このヤロー!』となり最後には本気になって喧嘩してしまう」「当時のヒデキはスーパーアイドル。スケジュールは真っ黒で、本来なら長時間拘束されるドラマに出演している余裕などなかったはずだ。それでもヒデキは文句ひとつ言わずに熱心にリハーサルを行う。出演者は収録後、しょっちゅう飲みに行ったが、多忙を極めていたヒデキは自分の出番が終わると次の現場に急行だ。時にはワガママを言うのが普通のアイドルだろうけど、ヒデキのそんな姿は見たことがない。今、あんなことが収録現場で起こったら大事件とみなされ、すぐに番組は打ち切られるだろう。当時だって事情はそんなに変わらなかったと思う。打ち切りにならなかった最大の理由は、ヒデキが騒がなかったことにある」などと話し、番組の継続は俳優の仕事にも理解を示していた西城のお陰であると述べている[357]

∀ガンダム

後に小林がアニメ『∀ガンダム』(フジテレビ)の前期オープニングテーマターンAターン』を担当した際、歌手として西城を指名し、作曲者と歌手という形ながら、久々にコンビの復活となった[165][358]。西城はガンダムを知らず、「おれ、ガッチャマンの曲歌うんだろ?」と勘違いしていたといい、周囲が「絶対に断っちゃダメ」と後押してオファーを受けた[41]。「走れ正直者」と合わせ、西城のようなエンターテイナーアニソンに十分フィットすることが実証された[44]。『ガンダムシリーズ』は中国でも絶大な人気があり「80后」で「ターンAターン」を歌った西城を知らない者はいないという[307]。 

愛と誠

"ヤンキー漫画"の先駆けともいわれる[359]愛と誠』の1974年松竹映画化『愛と誠』製作にあたり[360]、『少年マガジン』連載中から漫画を読んでいた西城が映画化されると聞いて原作の梶原一騎に直談判し、主役の"太賀誠"役を勝ち取った[29][111][361]。人気絶頂の西城の相手役募集には4万人応募があり[362]、西城の推薦により[363][364]、役名をそのまま芸名にした早乙女愛が選ばれた[365][366]

あこがれ共同隊

1975年6月から9月まで放送されたTBSのテレビドラマ『あこがれ共同隊』で、郷ひろみ、桜田淳子と共演[367][368][369]。第1話のゲストに山口百恵友情出演[367]、不完全ながら「新御三家」と「高2トリオ(当時)」の合体が実現した[367][369]。テレビの歌番組では毎日のように顔を合わせていたが、テレビドラマ・映画では唯一の共演作となった[369]。西城と桜田は恋人という設定で[367][368]、キスシーンがあると告知され、桜田も「秀樹クンのファンってコワイ」と怖気づいた[368]。ドラマは原宿表参道竹下通りは出ない)が舞台で、当時の原宿は新たな流行の発信地として注目されていた[369][370]。また、吉田拓郎が「ペニーレインでバーボン」を唄ったことで一躍有名になった原宿のバー「ペニーレイン」が登場し[367][371][注 25]、劇中でも主題歌風の街」を歌った山田パンダレギュラー出演した他、吉田拓郎や南こうせつかまやつひろしらが店の客としてゲスト出演した[367]

幻のNHK大河ドラマ主演

西城は1987年度のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の主演(伊達政宗役)のオファーをNHKから受けていたという。西城本人も乗り気であったとのことだが、西城のマネージャーを務めた天下井隆二によれば「(芸映プロダクションから)独立して新事務所(アース・コーポレーション)を立ち上げたばかりであったため、新会社の経営状況を考慮してこれを断った」という[373]。天下井は西城が逝去した際に「借金をしてでもこのオファーを受けた方が良かったかな」と心残りであったことを語っている[373]

ブロマイド

かつて「マルベル堂でブロマイドを撮影し出版すること」がスターへの登竜門で「月間ブロマイド売り上げランキングに載る」ことが人気のバロメーターだった時代があり[65][374]、西城は月間売上第1位獲得最多記録で歴代1位の46回[374]、年間では1975年、1976年と二年連続で1位を獲得した[41][375]。また大量に撮影したためポーズがワンパターンになり、唯一目を閉じたブロマイド販売したが、これが売れに売れた[374][376]

オールスター運動会・水泳大会

中学3年の時、広島県の中学水泳大会で優勝したこともあり[24][377]、1970年代から1980年代に頻繁に民放テレビで放映された「オールスター運動会水泳大会」では、スポーツ万能を活かして競泳走高跳などで活躍した(走高跳では芸能人記録を樹立)[19][149][377][378]。フジテレビの「紅白スター対抗水泳大会」が番組最高視聴率28.9%を獲ったのは1978年2月7日放送回であったが[379]、このときも白組キャプテンを務めた(紅組キャプテン・郷ひろみ)[379]。プールサイドで「キャーキャー」いっていた女性陣は心から西城を応援していたといわれる[149]。郷との対決は番組のハイライトだったが[38]、西城は水泳大会では、花形の自由形ではなく平泳ぎに出場。自由形での泳ぎは最後のリレーでしか見ることができなかった。また西城の幅の狭いブーメランパンツから覗く剛毛は"ギャランドゥ"と呼ばれた[23][38][44][137][194][159][230][380][381]岩井志麻子は「ヒデキの出現が自身の性のめざめの時期と重なった。"ギャランドゥ"は、いつしか胸毛から下まで体毛がつながっている男性を指す隠語となって定着した。曲名が一般俗語となって広く知られた――。すごい」などと述べている[292]。陸上をやっていたつんく♂は、芸能人運動会で西城秀樹を第3コーナーで抜くことが子どもの頃の夢で[382]、中学二年で走り高跳びで165cmくらい跳んでたとき、西城がレコード会社対抗運動会で、走り高跳びで150cm跳んで優勝したのをテレビで観て「この運動会出たら、オレ1位になれる」と思ったことが将来の目標を"芸能人"と決めた切っ掛けと言う[383]

ザ・ベストテン

ザ・ベストテン』では第1回から常連として出演し[247]、斬新な衣装や振付けで番組を盛り上げ、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が、番組史上一例の満点(9999点)を2週連続で獲得するなど番組の立ち上げと隆盛に貢献した[34][239][247][384]オリコンとともに歌謡界をデッドヒート化させた当番組に於いては、毎回真剣勝負で挑んだ[247]。「僕らは人よりいかに目立つかを考えていた。先物はだいたい僕か沢田研二さんがやっていた」などと話し[247]、「後の世代の人たちは違うかもしれないけど僕らはそう」「人が歌ってるときはステージをじっと見ていてお喋りどころじゃなかった。"あの衣装の生地はいいな"とマネージャーに言ったりして、カメラが振られると談笑しているポーズを取った」などと話している[247]

ウォークマン

1979年7月1日に発売されたソニーの初代「ウォークマン」は、当初はあまり売れなかったが、西城が上半身裸、短パンでウォークマンを聴きながらローラースケートをしている写真が『月刊明星』1979年9月号(発売は7月末)の見開きページに掲載されたのを機に[385]、各雑誌で取り上げられ、8月に入り各店舗で品切れが続出し、その後の大ヒットに繋がったといわれる[386][387]。 

西城とちびまる子ちゃん

さくらももこの漫画、ちびまる子ちゃんでは、主人公まる子の姉さきこが大の西城ファンという設定があり、漫画・アニメ問わずしばしば西城に因んだ話が登場している。また、作者のさくら自身も西城のファンであった事から、さくら側が西城に依頼する形で、同作のテレビアニメ第1期後半のエンディングテーマ「走れ正直者」の歌唱を担当した[388]。その後、2007年から2008年に放送された同作のテレビドラマ版まるまるちびまる子ちゃんでは、第20回の2時間スペシャルに西城が魚屋の主人「魚辰の辰」役で出演。劇中ではまる子の為に、辰が西城のモノマネで「傷だらけのローラ」を歌うという設定で『西城秀樹がドラマの中で演じたキャラクターで西城秀樹のモノマネをする』という難しいシチュエーションを熱演した。西城の訃報が報じられた際には、さくらはブログで追悼のコメントを記した[389]が、その僅か3ヶ月後に、さくら自身も乳がんの為この世を去った。

がきデカ/マカロニほうれん荘

漫画/アニメの西城といえば、取り分け『ちびまる子ちゃん』が有名であるが[390]、1970年後半に『週刊少年チャンピオン』に連載され、一世を風靡した山上たつひこの漫画『がきデカ』の主人公・こまわり君のほぼ相方格だった西城ヨシオこと「西城くん」のモデルは西城である[391]。ほぼ常識人の「西城くん」がこまわり君のボケツッコミを入れる担当であった[391]。『がきデカ』は他に常識人扱いで、それぞれ名前をもじった山口百恵がモデルの木の内モモ子こと「モモちゃん」、あべ静江がモデルのあべ美智子こと「あべ先生」と、天然少女・風吹ジュンがモデルの木の内ジュンこと「ジュンちゃん」が登場する[391]。西城くんのガールフレンドは「モモちゃん」であった。また同じ『少年チャンピオン』の連載・鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』で最も有名なギャグで[392][393]、主人公の一人・膝方歳三の決めゼリフ「トシちゃんかんげきーっ!!」は、西城の「ヒデキ、感激!!」をもじったものであった[393]

後進タレントの発掘

芸映在籍中は看板スターとして活動すると共に、デビュー間もない1972年夏、事務所関係者と共に浅田美代子を街頭でスカウト[179]、無名の新人アイドルだった相本久美子の芸映への移籍を推薦したほか[394]、自らの名前を冠した新人コンテスト「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」からは河合奈保子石川秀美がデビューした[147][395]。河合も石川もオーディションの1位ではなく、他の人が選ばれそうなところを西城の強い推しで逆転1位になった[188]。また西城のコンサートで、熱狂の余り突然ステージ上に乱入した、ファンの岸本加世子を「自分の事務所に入らないか。」とスカウトした[396]


人物・逸話

スポーツマン・夏男

スポーツマンで、小学校の時は柔道を習い、学生時代の部活動は水泳部でマリンスポーツが得意。先述した「水泳大会」や「運動会」の他、『新春かくし芸大会』や[397]、『8時だョ!全員集合』の体操コーナーなどでも活躍。趣味スキューバダイビング(1983年頃より・指導員資格所有)やゴルフサーフィンもやっていた。

「情熱の嵐」以降、夏をイメージさせるヒット曲が多いこと。その激しく歌い踊る姿や真夏のスタジアムコンサートの熱い印象。『芸能人水泳大会』での活躍、長髪で日焼けした精悍なイメージから「夏男」との異名をとった。また夏に野外で派手に新曲発表会を行うことが多かった[注 26]

デビュー当時

デビュー当時、才能を認められ、先輩の歌手として兄のように慕っていたのは布施明だった[20]。布施は初期の西城のコンサートのプロデュースに加わっていたこともあった。

西城をスカウトした上条英男との関係から、芸映に所属する前に暫くの間、上条の事務所「ジュエム・カンパニー」に所属した[54][60][172]。西城秀樹という芸名もその時付けられ、西城のサインは同じ事務所にいた五十嵐淳子が考えた[54]。 

デビューして半年後の1972年9月22日に『週刊セブンティーン』の企画で[398][399]東京北区滝野川の女子高の前でヒデキグッズ(サイン入りノート)1500冊を配った[398][399][400]。同誌で告知もしたため、他校の生徒まで押しかけ女子高の門前でヒデキグッズの奪い合いが始まり大騒ぎになってパトカーが出動する事態になった[398]。10月17日に今度は市ヶ谷から飯田橋付近の公園に出現すると告知し、再びノートを配った[89][399]

若い頃はケンカっ早く、和田アキ子と取っ組み合い(寸前)のケンカをしたことがあると和田の著書に記述されている[401]。この一件で仲良くなり、以降は姉弟のように付き合った[402][403]

西城のファン

女性ファンのみならず、山口百恵や岩崎宏美など同世代の女性アイドルにもファンが多く、『第18回日本レコード大賞』で西城が歌唱賞を受賞した際に、彼女らは同じ壇上にいて自分のことのように号泣した[404]。この時代のエピソードとして、元テレビ・ディレクターのテリー伊藤が西城秀樹の死後に明かした秘話(還暦となった西城秀樹から直接打ち明けられたとされる昔の思い出話)によれば、西城秀樹は人気絶頂の若い頃、山口百恵からラブレターをもらったことがあるという[405][406]。山口からもらった手紙の話は西城の著書にも書かれている他[407]、山口が西城のファンだったことは、山口の新人時代の『月刊明星』や『月刊平凡』に書かれている[408][409][410][411]

岩崎宏美は「17歳のとき、秀樹さんの前座で歌って、そのあと照明の横からステージの秀樹さんを観ていました。生は初めてでしたが、とても輝いていました。そのときからずっと印象は変わりません。本当にカッコいい歌手でした」と述べた[36]

西城は大人の女性からもよくモテて[381]十朱幸代と付き合いがあったことは双方認めている[41][179][412]。特に外国人女性は感情をストレートに表現するため、1978年の第7回東京音楽祭に出演したエモーションズにモテモテで大変困惑し[413]、同年7月22日、ソロシンガーとして初めて後楽園球場で行ったコンサートで共演した黒人ダンサーに「ワタシハアナタガスキデス」とたどたどしい日本語で告白された[413]ダイアナ・ロスにホテルの部屋に誘われたともいわれ[414]、1984年4月、共に来日していたシルヴィー・バルタンアリ・マッグローには追いかけ回された[415]。アリは1984年の第13回東京音楽祭にゲスト審査員に招かれた際に、歌唱した西城を「これまであんなセクシーな若い男の子見たことない」と一目惚れし、スティーブ・マックイーンの前の夫であるロバート・エヴァンスとの間にできた息子を連れての来日だったが[415]、そんなのお構いなしで、女性週刊誌から当時交際していると噂された作曲家との仲を聞かれると、「もうターゲットは日本人に変えたわ」と答えるほど西城に熱を入れ上げた[415]。西城の海外進出の切っ掛けも外国人女性が関係している。1980年代に香港を皮切りにアジア公演をプロデュースしたのは「オールプロデュース」という企画会社だったが、この会社の社長の娘が当時、アメリカンスクールに通っていて、その娘から「ヒデキはアメリカ人のスクール生からウケがいい」と聞かされた「オールプロデュース」の六車暢志が「そういわれればヒデキは上背もあるし、熱唱型。ひょっとしたらいけるかもしれない。まず、手近な国際都市・香港で試してみよう」と思いついたのを始まりとしている[303]

オウム真理教の元代表・教祖である故麻原彰晃は西城の大ファンで[416]、『情熱の嵐』がとりわけ好きで[417]、盲学校時代に寄宿生らを集め、西城のレパートリーを歌う「松本智津夫ショー」を何度も開催し盲学校生を困らせた[416]

広島出身

広島東洋カープのファン[418]。また広島のお好み焼きは、学校帰りや部活、バンド練習の帰りなど、何かと仲間とつるんで食べた青春の味、ソウルフード[35][286][419]。「最後の晩餐」にもお好み焼きを選んだほど[286]。広島の実家では4、5軒隣りがお好み焼き屋だったが[5]、1970~80年代の東京都内では広島のお好み焼き店は数軒、10数軒だったため[286]、都内を探しまわり渋谷の「マコ」や千駄ヶ谷の「お多福」などでよく食べた(両店舗とも現在は閉店)[106][420]。年350回通ったこともあり[420]、海外から帰国すると家にも帰らず直行した[283]。お好み焼き好きが高じて1980年代前半に原宿レナウンから店を借りて友人に譲り、お好み焼き店をオープンしたこともある[54]。その店で働いていた人が渋谷宮益坂を昇りきった左側の青山セブンハイツ1階に1984年「MAO」という広島のお好み焼き店を始めたため、この店の常連でもあった(現在は閉店)[54][286]。知名度が今よりずっと低かった時代から、テレビ番組等でよく広島のお好み焼きを紹介し、やはり1980年代に都内で広島のお好み焼き店を6店舗経営していた島田洋七とともに広島のお好み焼き普及者の一人であった[54][286]

「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」のエピソード

西城は1979年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をシングルとして発売するが、この曲は当初シングル化する予定がなくファンからの要望で急遽発売することになったため、神奈川県内のビクターレコード工場では生産が追いつかない状況となった。それを知った西城自らが工場へ出向き、従業員を前に「残業させてしまいますが、お願い申し上げます」と呼びかけて自ら激励の意志を込めて「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をミカン箱の上から歌唱して工場を激励したという[373][421]

脳梗塞からの復帰

2001年秋、仕事から帰宅した際、妻に「ふらつく」「しゃべり辛い」と不調を訴える。病院で検査をすると脳梗塞が確認され緊急入院。この時は一週間ほどで退院した。疾患は軽度で再発はないと思い、また、周囲に過度な心配をかけぬために対外的に「二次性多血症で入院」と発表した[70]

2003年ディナーショーのため訪れていた韓国で2度目の脳梗塞を発症。朝に症状がありながら、その夜のディナーショーをやり通して、さらに空路帰国して入院。懸命のリハビリにより1か月で復帰会見に臨んだが、実は一部声帯の神経が損傷しており、歌手にとっては致命的ともいえる歌どころか言葉自体を正確に発することができない構音障害を発症しており、引退を発表するつもりだったという。しかし「すぐに結論を出さずゆっくり治していけば」という夫人の言葉で、芸能活動を継続しながら回復に励む道を選ぶ。その年『Forever '70s 〜青春〜 伝説のステージ』に出演するも、「ボロボロだった。」と振り返っている。 2004年、著書『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』(リベロ)発売。自分の闘病体験が同じ病気を患った人たちへの役に立てればと、医療関係のシンポジウムなどでの講演も積極的に行う。無くした声帯の神経の周辺の神経を刺激し鍛えるボイストレーニング法に取り組み、2006年、脳梗塞発症以来3年ぶりのシングル「めぐり逢い/Same old story 〜男の生き様〜」発売。その後も徐々に回復傾向に向かい、年々コンサート本数も増えていた。 しかし、2011年脳梗塞が再発していることが判明、東京都内の病院で入院した。右半身麻痺の後遺症が残ったが、リハビリに水中運動を取り入れ、筋力をつけることで立つことには支障が無くなり、再びステージに立つまでに回復した。ステージ復帰後、最晩年まで週に4回ほどのペースでリハビリを続け、自宅で意識不明となる2018年4月25日の日中もリハビリを受けていた事が死去後明らかにされている[422]

なお、2003年の発症時、及び2011年の再発時も、2001年の脳梗塞発症の事実は伏せられたままだった為、西城が生前脳梗塞を発症したのは、対外的には公表した2回とされていた。更に、西城の死後出版された妻の著書では、公表した2回と伏せられていた最初の発症以外にも複数回脳梗塞を発症しており、軽度のものを含め実際の発症回数は8回に及んだ事、西城が度々発症した脳梗塞が『ラクナ梗塞』と呼ばれる隠れ脳梗塞だった事が明かされている[423]。 同書ではこの他にも、西城が脳梗塞の他に小脳の機能に障害を及ぼす多系統萎縮症を発症していると診断されていた事も記述されており、一度は回復しつつあった歩行状態や発声が、晩年にかけ再び悪化していったことが、この病気によって引き起こされた自律神経障害に起因するものだったことが明かされている[424]

2018年4月25日、自宅で家族と団らん中に倒れ、神奈川・横浜市の病院に救急搬送された。その後、3週間ほど入院していたが、その間意識が戻ることはなかった。また、通夜・葬儀の司会を務めた徳光和夫は自身のラジオ番組で、家族から聞いた話として、治療に当たった医師と家族との間で延命治療についての話があったことを明かしており、その時の容態について「仮に延命治療をしても意識が戻るわけではなく、そのまま生涯を終える」状態であったと話している。最終的に西城の子供達の意見を受けて、延命治療はしない事となった[425]。そして、2018年5月16日、午後11時53分、家族にみとられながら息を引き取った。


脚注

注釈

  1. ^ 上京直前まで住んだ荒神陸橋袂の家は、持ち主は代わったが2018年も建物はそのまま現存している。
  2. ^ 楽器代を稼ぐためアルバイトをさせてもらっていた西城の親戚が支配人を務める店[11][30][35]
  3. ^ 2015年紙屋町に移転[50]。これ以前は長く堀川町えびす通り商店街にあった[51]。この旧店舗の西側中央通りを挟んだビルの地下に2018年現在も営業を続ける「朝日珈琲サロン」があり、広島フォーク村はこの店で結成された[52]。同店は半世紀を経た現在も当時とあまり変わらない。
  4. ^ ビルは建て替えられており、現在は堀川町タカタアレービル。
  5. ^ 「西城秀樹、アレいいよ。このごろ。昔は大キライだったけどここんとこ上手くなったし、何でも歌えるようになったしな。あの暴力的な感じ出せるヤツ、珍しいよ。アイツ、年をサバよんでんじゃないかな。あの年であれだけの色気とフィーリング持ってるってちょっとスゴイと思うんだ。若手のチャラチャラしてる連中の中では最高よ。広島のころから木本ってあいつの本名知ってたよ。『ベガーズ』ってグループを作ってて、兄貴といっしょにやってた。ドラムを叩いてたな。前にオレの『たどりついたらいつも雨ふり』の盗作っぽい曲を自分のLPに入れてたりしたから、いい気分じゃなかったけどな。西城の曲なら作ってみたい気もするな。ここんとこ、やたら曲の依頼が多くって、うんざりだよ。みんな断ってるんだ。自分の仕事が出来なくなっちゃうし」[56]
  6. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「37.リトルガール」の項を参照。
  7. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「38.セクシーガール」の項を参照。
  8. ^ オリコンの集計では1982年の「南十字星」」により同記録を達成する。
  9. ^ 同じく新御三家の野口も同年2月に三井ゆりと結婚している。
  10. ^ 一部の文献に天地の観客動員を10万人とするものがあるが、天地と西城の観客動員は同じ3万人と当時の文献に書かれている[93]
  11. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1970〜1979」⇒「10.傷だらけのローラ」の項を参照。
  12. ^ ダントツ1位は五木ひろし1500万円。2位、森進一北島三郎チョー・ヨンピル760万円、3位、石川さゆり750万円、4位、小林旭小林幸子660万円、5位、細川たかしパティ・キム650万円、6位、西城秀樹、八代亜紀和田アキ子小柳ルミ子桂銀淑川中美幸ジュディ・オング島倉千代子大月みやこ500万円[130]。いづれも日建て料金で、昼の部と夜の部の二回公演[130]。入場料金一人平均1万円として、昼の部で1000人、夜の部で1500人集まれば、2500万円の興収となり、あご足代(旅費、食費)、会場費、宣伝費を払っても400~500万円の利益が出る[130]ディナーショーの場合は200人程度しか集められないため、高額料金を設定しても興収は上がらず、ギャラは公演の三分の一以下になる[130]。ギャラは公定でないため、ヒット曲がなかったり、テレビ出演が減ると相場もすぐに変動するが、事務所がいくら強くても買い手がつかなければ地方興行主から呼ばれないため、歌手の真の人気と実力を表すデータともいえる[130]ニューミュージック系は興行師が仕切らないためこのデータに入らない[130]
  13. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1990〜1999」⇒「67.もいちど」の項を参照
  14. ^ 同年は川崎麻世が出演し「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱。
  15. ^ 西城の先駆者としての業績は、大阪球場、後楽園球場での野外コンサートはその草分けとして有名だが、ゴンドラや軽量スタンドマイク、ペンライト、白煙噴出などのステージパフォーマンスを最初に導入するなど多岐に渡り[17][163][37]、現在のライブシーンに欠かせないアイテムの多くは西城が先駆けたものである[17][163][172]。さらに特筆すべき大きな業績としてアジア市場への進出がある。1981年の香港でのコンサートを皮切りにアジア各地で活動を続け絶大な人気を博した[44]。当時は現在とは違い日本人のアジア市場への関心度は0であると言っても過言ではない時代で、日本のマスコミも賞賛する論調がほとんど無かったが、長年続ける事によって後進に道を切り開いた[37]
  16. ^ 「激しい恋」の「♪やめろと言われても」の直後に両手を上げるアクションは、親しいおばさん同士がスーパーなどでたまたま会った時に見かける、両手を上げるような親しみやすい身振り手振りからヒントを得て一の宮が考えたという『日めくりタイムトラベル』の昭和49年の特集(2008年10月11日放送分)にて紹介。
  17. ^ 当時は"カバー"という言葉はまだ使われず[243]、西城は当時のインタビューで「日本だとみんなオリジナルでレコードを出すけど、外国じゃ、いろんな人が一つの歌に挑戦することはよくあるよね」と述べている[243]
  18. ^ この他、「オートバイ」、「CAR」、トラック野郎の「デコトラ」、11tトラックを改造した「光の箱」、ステージの一部が15mまでせり上がる「リフト」、前に飛び出す「ムービングステージ」、「炎のじゅうたん」、「空中からのダイブ」、おなじみ「スペースイーグル」、「バルーン」、「空中ブランコ」、「E.T.自転車」、「レーザー光線」、「煙幕」、「火薬」、「花火」など[37][254]
  19. ^ 球場ツアーの歴史の詳細は分からないが『週刊現代』1979年5月10日号に「この夏は、人気歌手の"野球場ジャック"が大流行。まず、ニッポン放送が開局15周年記念「'80ジャンボ」で7月22日、松山千春原田真二サザンオールスターズ円広志ニューミュージックの人気者を一堂に集め、新装オープンの西武球場を乗っ取る計画を発表すれば、ピンク・レディーは「ピンク・レディー、ビッグファイト'79」で、7月28日西武球場、8月12日ナゴヤ球場、8月24日西宮球場とプロ野球顔負けの大転戦。矢沢永吉が8月7日ナゴヤ球場、沢田研二が8月10日やはりナゴヤ球場を占拠すれば、西城秀樹は8月18日大阪球場、8月24日後楽園球場と二球場に。球場ジャックは人気歌手の証明らしいが、ま、野球に負けずガンバッテください」という記事が載る[271]。ピンク・レディーの三ヶ所の球場コンサートは実際に行われた。『週刊セブンティーン』1979年6月12日号には、「矢沢永吉が札幌円山球場、大阪球場、ナゴヤ球場、福岡・平和台球場と、日本縦断球場コンサートを予定している」と書かれているが[272]、許可が降りなかったものと見られ、1979年はナゴヤ球場のみで球場コンサートが行われた[273]
  20. ^ 松竹はスタッフ40人、劇場用カメラ5台、レンズ40本、ヘリコプター1機、バス2台、ワゴン車2台と松竹大船撮影所の機材を7割方運び込み[277]、おりからスタジオで撮影中だった『男はつらいよ 葛飾立志篇』の撮影に支障をきたした[277]。これに対抗して日本テレビは東京からビデオカーを繰り出し、21歳の西城の内面をキメ細かく追ったが、松竹と日本テレビの撮影クルーが現場でしばしばぶつかった[279]。松竹が1975年9月20日から全国公開すると発表すると日本テレビが激怒[279]、日本テレビは1975年9月25日の『木曜スペシャル』枠で放送することを決めていたため「放送前に先に松竹に公開されては番組の商品価値が半減する。番組を作るときの契約ではテレビが優先だった」と西城の所属する芸映を突き上げ、「ご無理、ごもっとも」と芸映、松竹とも日本テレビに平伏[277][280]。『ブロウアップ ヒデキ』は同年10月10日に公開延期を余儀なくされた[279]。この醜態に城戸四郎松竹会長が「テレビや芸能プロに振り回されるとは何事か!」と激怒し、三嶋与四治企画本部長のクビが飛び、81歳の城戸会長が再び映画製作本部長として現場に復帰、第一線で指揮を執ることになった[279][280]
  21. ^ 1984年『ヤングアジア歌謡祭』[312]
  22. ^ これより一ヶ月前の1988年8月18日、少女隊が韓国側の放送局の了解なしに日本語で歌う[325]
  23. ^ 後に桑田は2012年のソロライブ「I LOVE YOU -now & forever-」や[333]、2014年のイベント「桑田佳祐のやさしい夜遊び~夏にサザンないの!? いいかげんに1000回!! ファンやめたるわ!! 生歌ライブ〜[334]、2018年のアクト・アゲインスト・エイズイベント『平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦[335]で「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をカバーしている。
  24. ^ 1982年の放送で、「漂流者たち」を涙を浮かべながら歌っているのを見て心配したファンから投書や電話が殺到。西城によれば、故郷広島から不安と期待を胸に抱え、家出同然で上京した旅立ちの日とオーバーラップしたとのこと。
  25. ^ ペニーレインは表参道キデイランド原宿店の裏にあり、フォークニューミュージック系のミュージシャンやアイドル、音楽・ファッション関係者など、業界人の溜まり場となって、修学旅行生の観光コースにもなっていた[371][372]
  26. ^ 1973年、「情熱の嵐」の発売時のユネスコ村にファンを集めての新曲キャンペーンライブは、空からアクション・スターのようにヘリコプターにつかまりド派手に登場して話題をさらった[86][93]。1976年、「ジャガー」のユネスコ村・新曲発表会では、アンコールで興奮してギターを叩き割るパフォーマンス。このギターは芳野藤丸からの貰い物であったため、のちのちまで後悔することになった。1980年、「エンドレス・サマー」の時は、完成したばかりの新宿アルタのベランダで行われ、アルタ前の歩道や広場が1万人(新宿警察発表)以上の人で埋めつくされた。1981年、「セクシーガール」発売キャンペーンもかねた『BIG SUNSHINE '81』と釘打った沖縄ムーンビーチでのコンサートでは、海から水上オートバイで現れ、特設ステージに登場した。

出典

  1. ^ "歌手・西城秀樹さん死去 63歳 傷だらけのローラ、ヤングマンなど大ヒット". スポニチ. 17 May 2018. 2018年5月17日閲覧
  2. ^ "広島の芸能関係者も西城さんの死を悼む". 中国新聞. 中国新聞社. 18 May 2018. 2018年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月20日閲覧宮崎園子・北村浩貴 (18 May 2018). "西城さん、原爆への思い 絶頂期に出演したアニメ映画". 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月18日閲覧
  3. ^ a b c "西城秀樹さん死去 惜しむ声". NHK NEWS WEB. NHK. 17 May 2018. 2018年5月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月18日閲覧
  4. ^ a b c d "絶唱型、異彩放ったヒデキ…晩年は脳梗塞で闘病". 読売新聞. 読売新聞社. 17 May 2018. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月18日閲覧
  5. ^ a b c d e 「スターふるさとマップ《広島県広島市》 西城秀樹・よしだたくろう・城みちる 『山と川そしてコイの町』」『月刊明星』1974年11月号、集英社、100-103頁。 
  6. ^ 「西城秀樹の総点検」『月刊平凡』1973年4月号・臨時増刊 ヤングスター・ビッグ・スリー特集 野口五郎・西城秀樹・郷ひろみ、平凡出版、116頁。 
  7. ^ "広島駅ちかくで生まれた西城秀樹さん、急性心不全で死去". 鉄道チャンネルニュース. エキスプレス. 17 May 2018. 2018年5月23日閲覧お元気ですか?神足裕司です < 健康コラム 西城秀樹さん
  8. ^ a b 西城秀樹 (18 April 2008). "秀樹とHヒデキ ワシら、みんな広島じゃけん". 週刊朝日. 朝日新聞出版. p. 43.
  9. ^ "地域が見える ふるさとへの手紙 西城秀樹さん". 朝日新聞. 朝日新聞社. 15 June 2008. p. 33.
  10. ^ 「幼稚園から音楽だらけだった英才教育の影響」#熱き想い、172-174頁。
  11. ^ a b c d e f g h 「まんが履歴書・西城秀樹兄弟愛ストーリー」『月刊明星』1973年7月号、集英社、129-153頁。 「故郷の同級生12人が語る西城秀樹の意外な素顔」『月刊明星』1973年8月号、集英社、76-79頁。 
  12. ^ a b c d e f g h 武田篤典 (21 September 2006). "『1人でも多くの人に喜ばれたい』西城秀樹ロングインタビュー". R25. リクルートホールディングス. 2016年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月31日閲覧"日曜日のヒーロー・西城秀樹". 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞社. 3 May 2009. 2018年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月3日閲覧歌手 西城秀樹さんインタビュー(2018年2月25日掲載)西城秀樹 (17 May 2018). "脳梗塞乗り越え「感謝の歴史」西城秀樹さん「ヒデキ! カンレキ!!」(2015年10月~16年9月)連載復刻版". 東京新聞. 東京新聞. 2018年6月28日閲覧
  13. ^ a b c d e f g 音楽のルーツはジャズ…西城秀樹さん(2)”. 読売新聞 (2011年9月8日). 2013年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月1日閲覧。
  14. ^ a b c d e f g 川崎浩 (17 May 2018). "西城秀樹さん死去 評伝 ポップス歌謡の先駆者". 毎日新聞. 毎日新聞社. 2018年5月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月30日閲覧富澤一誠 (21 May 2018). "歌謡ロック開拓、一大市場に 西城秀樹さんを悼む". 毎日新聞. 毎日新聞社. 2018年5月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月30日閲覧
  15. ^ a b c 吉田俊宏 (23 May 2018). "追悼西城秀樹さん 輝く歌謡ロックの遺産". 日本経済新聞. 日本経済新聞社. 2018年5月30日閲覧
  16. ^ a b c "西城秀樹『ギャランドゥ』な人生考". iRONNA. 産経デジタル. 2018年5月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月31日閲覧
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m まついなつき「《Young Bloods 気になる奴らの青春時代をプレイバックする彼らの若き日々》 ポップス重鎮 西城秀樹」『宝島』1991年5月24日号、宝島社、183-185頁。 
  18. ^ a b c d e f g h i 影田裕二「インタビュー 西城秀樹」#歌謡pc、136-139頁
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p "西城秀樹さん、広島から家出同然で上京…歌にドラマ"新アイドル"作った". スポーツ報知. 報知新聞社. 18 May 2018. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月18日閲覧""新御三家"野口五郎、秀樹さん悼む…病と闘い歌う「本当のアーティスト」". スポーツ報知. 報知新聞社. 18 May 2018. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月18日閲覧
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 「メタル歌謡レジェンド 西城秀樹インタビュー」#ヘドバン3、77-87頁
  21. ^ a b c d 小川泰加 (19 May 2018). "西城秀樹さんのロック愛 音楽評論家・湯川れい子氏が述懐". 日刊ゲンダイデジタル. 2018年5月31日閲覧西城秀樹さん、残念です。西城さんの最初のアイドルはギターのジェフ・ベック。西城秀樹 (@yukawareiko) - X(旧Twitter) –2018年5月16日。
  22. ^ a b c d e f g h i j 「情熱の男 西城秀樹自叙伝(前編) 『夜行列車は期待と不安でいっぱいだった 歌がおれの青春だ ヒデキはたった一人広島をたった』」『月刊平凡』1974年2月号、平凡出版、70-72頁。 「情熱の男 西城秀樹自叙伝(後編)」『月刊平凡』1974年3月号、平凡出版、56頁。 
  23. ^ a b c くにまるワイド ごぜんさま~: 2月2日~2月6日の邦流は、西城秀樹さん - 文化放送
  24. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「常識を打ち破ったヒデキ どんなに疲れていてもベストをつくさなくっちゃ...!」『近代映画』1973年12月号、近代映画社、70 - 73頁。 
  25. ^ 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】 (9)洋楽にはまる 小5で兄とバンド組む
  26. ^ a b 「特別よみもの 西城秀樹まんが履歴書」『月刊平凡』1973年2月号、平凡出版、102-103頁。 
  27. ^ 「特別企画/アイドル花物語 心を赤くそめたあの一輪の花 西城秀樹」『週刊セブンティーン』1974年3月12日号、集英社、132-133頁。 
  28. ^ a b 「ヒデキスペシャル報告 西城秀樹初公開の友情秘話」『近代映画』1975年5月号、近代映画社、73 - 77頁。 
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 「日本のエンターテイメントを切り拓いた西城秀樹」#40年男、47-51頁(【間もなく発売! 昭和40年男 2016年12月号】岩崎宏美と西城秀樹にインタビュー!バックナンバー 昭和40年男Vol.40 【特集】俺たちの歌謡曲。70's)
  30. ^ a b c d 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】 (10)「プロ歌手に」と勧誘 16歳の夏休みに東京へ
  31. ^ 山田憲一「ベスト3特別インタビュー西城秀樹クンの告白」『月刊平凡』1974年5月号臨時増刊、平凡出版、74-75頁。 
  32. ^ a b c 「アイドルポップスの誕生 ちぎれた愛」#高護、136-139頁
  33. ^ a b c d e f g h i j "西城秀樹 vs 伊藤政則、異色テレビ対談". BARKS. 30 May 2015. 2016年12月6日閲覧"ヒデキカンゲキ!西城秀樹VS伊藤政則、特番再放送". BARKS. 9 July 2015. 2016年12月6日閲覧『沢田研二さんがミック・ジャガーに入れ込んでいたから僕はロッド・スチュアートを目指した』と... 2018年5月17日 -ワードレコーズTwitter
  34. ^ a b c d e f 西城秀樹 超破天荒から千利休の領域へ 今は「シンプルイズベター」 スポーツニッポン、2015年6月23日、西城さん 絶唱、激しいアクションで歌謡曲変えた 後進に多大な影響、2018年5月18日、西城秀樹さんに別れ、野口五郎 涙の弔辞「ラブソング極めて」、2018年5月27日
  35. ^ a b 「好きなんだ! !お好み焼きとドラムと長い髪『ホープ君 !西城秀樹に73の質問』」『月刊明星』1973年2月号、集英社、94-97頁。 
  36. ^ a b c d e 「西城秀樹『永遠のヤングマン伝説』」『週刊文春』2018年5月31号、文藝春秋、28-30頁。 
  37. ^ a b c d e f 「西城秀樹歌手生活35周年 奇跡の復活 ヒデキカンゲキ!」 東京スポーツ/2006年9月連載。
  38. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 8月25日は西城秀樹「傷だらけのローラ」発売日知ってる?新御三家デビュー時のキャッチフレーズ! | ニッポン放送1969年の今日、歌番組の源流となる日本テレビ『紅白歌のベストテン』が放送開始強烈だった西城秀樹のロック魂全開の3連発 | ニッポン放送 永遠のロックボーカリスト西城秀樹さんが情熱を注いだ野外ライブとは?1979年の本日、西城秀樹「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」がオリコンチャートの1位を獲得1973年9月27日、西城秀樹「ちぎれた愛」が初のオリコン1位~ヒデキの“絶唱型スタイル”誕生
  39. ^ a b c d 追悼・西城秀樹 ヒデキのロックなハートに火をつけた名ギタリスト
  40. ^ a b c d e #MM0712、20-23頁
  41. ^ a b c d e f g h i j k l 西城秀樹さん 『ザ・ベストテン』の記録に残る偉大な功績 NEWSポストセブン西城秀樹がスターになるまでの道、そしてとんねるずへの配慮西城秀樹さんの凄さ 1970年代を席巻した『新御三家』の人気西城秀樹 脳梗塞から復活ライブで「ジャワカレー好き」発言西城秀樹さん追悼『ベストテン』再放送 DVD化待望論もV6井ノ原も憧れる田原俊彦、本邦初公開の大記録とは
  42. ^ 岡田敏一 (20 May 2018). "【追悼】西城秀樹さん異彩を放った『歌謡ロック』". 産経新聞大阪版. 産経新聞大阪本社. p. 11.
  43. ^ 「本日の1枚」西城秀樹 / エキサイティング秀樹-ちぎれた愛/情熱の嵐
  44. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 久保田泰平・木下拓海. "音楽偉人伝 第1回西城秀樹(前編) - 音楽ナタリー". 2018年8月16日閲覧"第2回西城秀樹(後編)". 2018年8月16日閲覧
  45. ^ a b 「乞食たちのバンド」#いま、光の中で、125-130頁。
  46. ^ a b 「がんばれ!春のフレッシュ・ヤング!」『月刊平凡』1972年5月号、平凡出版、81頁。 
  47. ^ 「ありがとう、姐さん」#いま、光の中で、130-135頁。
  48. ^ a b c 「《おしゃべりジャーナル》 西城秀樹 『兄の恋人に横恋慕したあのとき...』 ききて・木元教子」『週刊平凡』1973年5月24日号、平凡出版、64-67頁。 
  49. ^ a b c 田家秀樹 『小説吉田拓郎 いつも見ていた広島 ダウンタウンズ物語』小学館- TBSトークパレット木曜日「スタンバイ・ブックナビ」 森本毅郎 - TBSラジオ田家秀樹「KEY WORDS」『吉田拓郎ヒストリー 1970-1993』ぴあ〈ぴあ music collection 4〉、1994年、154頁。 田家秀樹「MEMORIES OF TAKURO YOSHIDA 西城秀樹 『アマチュア時代から人気者でしたね 拓郎節に広島弁の哀愁を感じます』」『吉田拓郎ヒストリー 1970-1993』ぴあ〈ぴあ music collection 4〉、1994年、21頁。 ワールドスポーツMLB。: 田家秀樹ブログ・新・猫の散歩 2018-05-18
  50. ^ 中国四国エリアの新しい音楽文化発信の拠点として準旗艦店「カワイ広島」を移転リニューアルオープン
  51. ^ カワイミュージックショップ広島
  52. ^ 新事実、広島フォーク村。 : 田家秀樹ブログ・新・猫の散歩朝日コーヒーショップ|広島市のコーヒー専門店
  53. ^ a b c d 西城秀樹と吉田拓郎を結ぶ知られざる絆 | ニッポン放送
  54. ^ a b c d e f 「なぎら健壱の続2 味勝負十二番 ゲスト・西城秀樹」『小説CLUB』1999年11月号、桃園書房、11-13頁。 
  55. ^ a b c d e f 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」
  56. ^ 「〈WHO ARE YOU? 吉田拓郎〉」『月刊明星』1975年11月号、集英社、142-143頁。 
  57. ^ <西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (11)父の猛反対(Internet Archive)
  58. ^ 89歳で死去 西城秀樹“育ての親”芸映・青木伸樹会長の功績 | 日刊ゲンダイ
  59. ^ <西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (13)デビューの日まで
  60. ^ a b 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】(12)三角部屋 希望に燃え、寒さも平気(13)デビューの日まで 忘れられない味
  61. ^ 「血を吐くまで猛特訓したデビュー秘話 新御三家は最初、野口五郎と郷ひろみではなかった内部事情#熱き想い、16-20頁。
  62. ^ a b c "【1973年6月】情熱の嵐/西城秀樹 伝説の「ヒデキ!!」コールはここから始まった!". スポニチ Sponichi Annex 芸能 365日 あの頃ヒット曲ランキング. スポーツニッポン新聞社. 21 June 2011. 2016年12月20日閲覧
  63. ^ a b 「ヒデキ・メモリー(1)/上京したころのころ 『フランスパンを見るといまでも胸が熱くなる』」『月刊平凡』1975年5月号、平凡出版、58–60頁。 
  64. ^ a b c d 「西城秀樹 ロック歌手にも影響を与えた永遠のポップ・アイドル」#CD検定、132頁
  65. ^ a b c 「新御三家」はお互いの存在をどうみていたのか?〈還暦鼎談「郷ひろみ×西城秀樹×野口五郎」(2)〉(Internet Archive)
  66. ^ a b c d e <西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (16)デビュー3年目(Internet Archive)
  67. ^ 音楽ライブの歴史【ホームメイト・リサーチ-エンタメール】 - 劇場・ホール
  68. ^ a b c d "歌手・西城秀樹さん死去". 報道ステーション. テレビ朝日. 17 May 2018. 2018年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月3日閲覧"《関連》アジアのメディアも速報で". tv asahi 芸能&ニュース. テレビ朝日. 17 May 2018. 2018年6月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月2日閲覧
  69. ^ 西城秀樹さん事務所独立時の裏話 正真正銘の円満退社だった忘れられない人 西城秀樹さん(七)
  70. ^ a b "西城秀樹さんの妻が明かした出会いと別れと「最初の脳梗塞」". NEWポストセブン. 16 November 2018. 2018年11月16日閲覧
  71. ^ Jcastニュース「西城秀樹が脳梗塞再発 年内の仕事はキャンセル」(2011年12月21日 12:35配信)(2013年1月28日閲覧)
  72. ^ スポニチAnnex「西城秀樹 脳梗塞で2週間の入院予定」(2011年12月22日6:00配信) (2013年1月28日閲覧)
  73. ^ 週刊新潮 2016年2月25日号掲載「追悼『西城秀樹』さん 『郷ひろみ』『野口五郎』と語った貴重な“還暦鼎談”」(2018年5月19日配信・5月26日閲覧)
  74. ^ 文春オンライン 西城秀樹が遺したメッセージ「2度の脳梗塞には感謝している」追悼・西城秀樹 生前語った「3度目の人生」(2018年5月17日配信)
  75. ^ あべ静江. "西城 秀樹さん~♪". あべ静江オフィシャルブログ「みずいろの手紙」. アメーバブログ. 2018年6月2日閲覧
  76. ^ "西城秀樹「63歳突然死」までの傷だらけの「15年闘病」(1)心肺停止状態で救急搬送". Asasgei+plus. 26 May 2018. 2018年6月26日閲覧
  77. ^ a b "西城秀樹さん死去 家族の前で倒れ意識戻らず…". デイリースポーツ. 神戸新聞社. 17 May 2018. 2018年5月17日閲覧
  78. ^ "歌手の西城秀樹さん死去 63歳、ヤングマンなどヒット". 朝日新聞デジタル. 17 May 2018. 2018年5月17日閲覧
  79. ^ "歌手・西城秀樹さん死去 63歳 傷だらけのローラ、ヤングマンなど大ヒット". Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 17 May 2018. 2018年5月17日閲覧
  80. ^ 参照
  81. ^ "新御三家 ヒデキと突然の別れ…野口五郎「言葉見つからない」郷ひろみ「寂しい」". Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. 18 May 2018. 2018年5月18日閲覧
  82. ^ "西城秀樹さん通夜に4000人 戒名にも「秀樹」". Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. 25 May 2018. 2018年5月25日閲覧
  83. ^ "西城秀樹さん告別式 郷ひろみ、野口五郎が弔辞". ORICON NEWS. 26 May 2018. 2018年5月26日閲覧
  84. ^ "西城秀樹さん出棺、1万人が「ヒデキ!」コール". Nikkansports. 日刊スポーツ新聞社. 26 May 2018. 2018年5月26日閲覧
  85. ^ 西城秀樹さんの妻が明かした出会いと別れと「最初の脳梗塞」
  86. ^ a b c d e f g 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】 (15)実は高所恐怖症
  87. ^ a b c d e 湯浅明 (26 June 2001). "西城秀樹デビュー30周年 記念アルバム『PLANETS』/七夕披露宴". 産経新聞夕刊. 産経新聞.
  88. ^ 「西城秀樹がこの夏に賭けるファンへの3つのスーパー・プレゼント! 暑い夏、ボクは熱く燃える!」『週刊セブンティーン』1973年8月7日号、集英社、35頁。 
  89. ^ a b 「STニュース特集 ぜったいソンはしないヒデキのLPです」『週刊セブンティーン』1972年11月14日号、集英社、58頁。 
  90. ^ 「17歳のすべてを見てください!! ひできのワン・マン・ショーだよ」『週刊セブンティーン』1972年8月15日号、集英社、61頁。 
  91. ^ 「STニュース特集ふたりの友情ははたして実るか!? TVでヒデキが五郎のものまねを」『週刊セブンティーン』1972年12月19日号、集英社、174頁。 
  92. ^ a b 「西城秀樹が"情熱の嵐"の発表会を5月27日にユネスコ村に全員集合」『週刊セブンティーン』1973年6月5日号、集英社、60頁。 
  93. ^ a b c d e f "カッコよく? 空から登場 『燃えるヒデキ』のPR演出". 週刊読売. 読売新聞社. 18 April 2008. p. 36.
  94. ^ a b c 貴重なカットを一挙公開 フライデーが目撃してきた素顔の西城秀樹1972 ~2018
  95. ^ a b c d e 「STスペシャル ーデビュー曲『恋する季節』から最新曲『激しい恋』までー 西城秀樹の曲とともに歩んだ青春を追う 歌って燃えてホップ、ステップ、ジャンプ!」『週刊セブンティーン』1974年6月18日号、集英社、38–43頁。 
  96. ^ 18年ぶり復活『フェスタしずおか』 “ミスターフェスタ”西城秀樹の参戦決定西城秀樹さん。ありがとうございました...西城秀樹さんの企画展、1月4日からゆかりの静岡で
  97. ^ 「西城秀樹/「ちぎれた愛」に賭けた新たな飛躍への決意… 燃える愛の叫びを聞いてほしい!」『週刊セブンティーン』1973年9月11日号、集英社、32–35頁。 「日劇ウエスタン・カーニバル "西城秀樹ワンマンショー"追跡ルポ ミュージカルへの大声援にヒデキが涙をみせた!」『週刊セブンティーン』1973年9月11日号、集英社、40–43頁。 
  98. ^ “〔ワイド特集 日本人と歌〕 『これが"アイドル歌手"のすべて』 麻丘めぐみ アグネス・チャン 野口五郎 浅田美代子 桜田淳子 西城秀樹 山口百恵 郷ひろみ”. 週刊読売 (読売新聞社): pp. 72-73. (1973年10月6日) 
  99. ^ a b 「オリコンデータで見るヒットチャートの殿堂攻防史『走れコータロー』から『スニーカーぶる〜す』まで、首位曲の変遷」#sv、56-57頁
  100. ^ a b c d e f g h i j k l 「西城秀樹・汗と勇気のディスコグラフィー 音のシャワーを浴びろ!」『月刊明星』1979年11月号、集英社、74-77頁。 
  101. ^ 「STニュース特集 発売日10日間でついに50万枚突破! 記録破りのヒデキの"ちぎれた愛"」『週刊セブンティーン』1973年10月9日号、集英社、58頁。 
  102. ^ a b c d e f > 歌謡ラジオ「午前0時の歌謡祭」> 第32回放送「西城秀樹 リクエスト特集 前篇」「西城秀樹 リクエスト特集 後篇」
  103. ^ a b c d e f 新歩道橋1019回 - 新歩道橋 - 歌謡曲だよ人生は「酔々独歩」~小西良太郎オフィシャルサイト~
  104. ^ a b c 西城秀樹さん死去「人を励まし続けた存在だった」 音楽ジャーナリスト湯浅明さん
  105. ^ a b c 飛世正次(『NHK紅白歌合戦チーフ・プロデューサー)・結解博(『NHK』番組広報部)・田中友正(『NTV』歌番組プロデューサー)・中村良男(NTVドラマプロデューサー)・尾崎晌・下田文子(TBS番組宣伝部)・三ッ井康(フジテレビ広報部)・岩永惠(NET広報部)「'73アイドル総決算 歌番組はヤング・アイドルで満員!? TVマンが語るおもてばなし、うらばなし」『月刊セブンティーン』1974年1月号、集英社、94頁。 
  106. ^ a b c d e f g 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1970〜1979」
  107. ^ "西城さん死去に筑豊でも悼む声 デビュー2年目、嘉穂劇場で公演 「出待ちファンで熱気」 〔福岡県〕". 西日本新聞社. 19 May 2018. 2018年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月4日閲覧
  108. ^ a b c d 「西城秀樹74年の総決算 『大阪球場 広島リサイタル オレは燃えた』」『月刊平凡』1975年1月号、平凡出版、50-51頁。 
  109. ^ a b c d 「西城秀樹 誕生日にヒデキがキミとする3つの約束 4月13日に20歳をむかえる西城秀樹のある計画 約束1 専属のロックバンドを作る! 約束2 世界の舞台で『西城秀樹ショー』」『週刊セブンティーン』1975年4月22日号、集英社、54–57頁。 
  110. ^ 「ST芸能記者座談会 4人のアイドル10大ニュース' 75年総決算! アイドル(秘)全行動をご報告しま~す」『週刊セブンティーン』1975年12月23日号、集英社、32-37頁。 
  111. ^ a b c d e f g h i j k l 鈴木英之「洋楽はアイドルが教えてくれた──70年代アイドルのライヴ・アルバムを聴く」(通算第13回) 西城秀樹-アルテス電子版、アルテスパブリッシング
  112. ^ a b c "西城秀樹の記録映画『ブロウアップ ヒデキ』、東名阪Zeppで大音量上映!". OKMusic. OKWAVE. 13 June 2018. 2018年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月29日閲覧
  113. ^ a b 「HIDEKI 1975 RECITAL 11月3日・東京・日本武道館」『週刊セブンティーン』1975年12月2日号、集英社、99-103頁。 
  114. ^ a b c 「スターシリーズ MEMORY(2) フランスパンとバターとコショーの味が、オレの5年間をささえてきた。 西城秀樹」『月刊明星』1977年5月号、集英社、156-159頁。 
  115. ^ "追悼 西城秀樹(2018年7月)". TBSチャンネル. 27 June 2018. 2018年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月29日閲覧
  116. ^ a b c 「新春ニュース特集 '76年は海外へ大飛躍の年 手はじめにハワイへ上陸 西城秀樹」『週刊セブンティーン』1976年1月6日号、集英社、38-39頁。 
  117. ^ a b 阿久悠オフィシャル・ウェブサイト あんでぱんだん
  118. ^ a b c 朝丘雪路さんと西城秀樹さん、ともに舞台でも活躍
  119. ^ a b c d e f 「おふくろの目はいつもやさしい。そのやさしさに包まれて...」『月刊明星』1977年2月号、集英社、76頁。 
  120. ^ a b "ジュディ・オング 人生懸けた覚悟と秀樹さんとの友情…79年レコ大秘話告白". デイリースポーツ. 神戸新聞社. 27 December 2018. 2019年1月11日閲覧
  121. ^ a b "西城秀樹へオマージュ『U. S. A. 』より乃木坂46が2連覇した本当の理由【平成最後のレコ大】". AERA dot. 朝日新聞出版. 31 December 2018. 2019年1月11日閲覧『レコード大賞』DA PUMPが全員で『YMCA』を踊った理由 「涙が出てくる…」DA PUMPの『U.S.A』がレコード大賞を逃した。外国曲のカバーだから...
  122. ^ a b c 西城秀樹さん安らかに…忘れられない“伝説”豪雨の後楽園球場コンサート
  123. ^ a b c 永井晶子『イエスタディ '60'S~'80'S ―音楽記者の取材ノートから―』CBS・ソニー出版、1989年、149頁。ISBN 4-7897-0447-5 
  124. ^ a b 「ふりかえればいつもアハハ! 西城秀樹 ヒデキ元年総決算 おもしろリポート」『月刊明星』1982年8月1月号、集英社、48-49頁。 
  125. ^ 「ボクの家へ遊びに来てはネタにしていたとんねるず」#熱き想い、63-67頁。
  126. ^ 『みなさん』初代演出・港浩一氏、30年続いた理由はとんねるずの"愛情"今夜最終回「みなさんのおかげでした」とんねるずはお笑いの歴史に何を残したのか…改めて考えてみた「とんねるず」に年内解散説 石橋貴明と木梨憲武が立場逆転①
  127. ^ 実はヘビースモーカー、20年前からインシュリン注射…西城秀樹さん」が抱えていた不摂生のリスクデイリー新潮2018.5.31(2018.6.2アクセス)
  128. ^ a b 「横浜の怪放送の主は寝つかれぬ西城秀樹」『週刊文春』1984年10月4日号、文藝春秋、43頁。 
  129. ^ 科学博テーマ曲熱唱 つくば、西城さん悼む声
  130. ^ a b c d e f いのけんじ「いまどきの芸能ビジネス 中学生でCMデビュー~」『エコノミスト』1997年4月22日号、毎日新聞出版、4、72–75頁。 
  131. ^ 織田哲郎ロングインタビュー 第13回 | 織田哲郎Project2007
  132. ^ a b c d 産経新聞1995年9月2日分。
  133. ^ a b c d e 産経新聞1995年9月9日分。
  134. ^ 西城秀樹さんの突然の訃報 | 大和悠河オフィシャルブログ「Yugaism」Powered by Ameba
  135. ^ a b ""若かりし西城秀樹" 未公開カット集めた追悼写真集". プライムニュース イブニング. フジテレビ/FNN. 25 July 2018. 2018年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月26日閲覧
  136. ^ 西城秀樹さんの番記者が見た「独身時代のヒデキ」と「家庭を持った秀樹さん」【エンタがビタミン♪】西城秀樹“45歳”の写真集 綾小路翔が感慨「ワイルドでセクシーでダイナミックなロックンローラー」
  137. ^ a b "西城秀樹さんの番記者が見た「独身時代のヒデキ」と「家庭を持った秀樹さん」". 週刊女性PRIME. 主婦と生活社. 18 May 2018. 2018年7月25日閲覧"西城秀樹さん 45歳の"ギャランドゥ"、よみがえる独身最後の写真集". スポニチ. 24 July 2018. 2018年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月25日閲覧
  138. ^ 大杉漣さん 西城秀樹さんを しのんで ミュージックinドラマ「ホシに願いを」 - NHK
  139. ^ 川崎フロンターレ公式サイト 2004年5月22日付お知らせ、「「川崎市制80周年記念マッチ」7月2日(金)vs横浜FC イベント開催のお知らせ多くの芸能事務所から「冗談でしょ?」って言われるような費用しか用意できなかったのに...
  140. ^ 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】 (20)ヤングマン 競技場で精いっぱい歌う
  141. ^ ヒデキに会いたい! | 時々迷々 | NHK for School
  142. ^ フラワードリーム in 東京ビッグサイト2015 公式サイト
  143. ^ デイリースポーツ 4月14日(火)配信
  144. ^ 西城秀樹プロデュース 体験型市民農園「百果百菜」
  145. ^ 2月13日より西城秀樹監修「Y!mobile」CMが放送スタート!
  146. ^ a b c d e f g ""ヒデキコール"など数々の社会現象を巻き起こした大スター西城秀樹さん(63)の軌跡". 直撃LIVE グッディ!. フジテレビ. 17 May 2018. 2018年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月4日閲覧"ヒデキStyleで大スターへ "永遠のヤングマン"西城秀樹さんが遺去". 直撃LIVE グッディ!. フジテレビ. 18 May 2018. 2018年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月4日閲覧“3年前は前だけを見ていた”グッディ!の西城秀樹さん 直撃LIVE グッディ! 「せーの!グッディ!」 - 公式ブログ
  147. ^ a b c d 西城秀樹は現代アイドルの“当たり前”を築いたーー中森明夫が功績を振り返る西城秀樹「63歳突然死」までの傷だらけの「15年闘病」(1)心肺停止状態で救急搬送
  148. ^ "マルチアイドルの先駆け!西城さん水泳大会で「ギャランドゥ」話題に". 産経ニュース. 産業経済新聞社. 18 May 2018. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月4日閲覧"リズム感・演技力で郷と、歌で五郎と競った西城さん". 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞社. 18 May 2018. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月18日閲覧【浪速風】 手を抜かず全力疾走したアイドル・西城さん「寺内貫太郎一家」“傷だらけ”秘話このあとは◆西城秀樹の名曲が急上昇.. - TBS-CDTV (@TBSCDTV) - X(旧Twitter)野口五郎と西城秀樹が育んだ厚い友情 ライバル関係から唯一無二の親友へサイリウムを広めた西城秀樹さんが死去「オタクは感謝するしかない」追悼・西城秀樹さん ジャニーズにも多大な影響を与えた本物の「スター」|平本淳也時代の象徴のひとり“西城秀樹” - リポビタンD TREND EYES"「SMAPの大先輩だわ」ネットでも納得の声続出。あのトップアイドルがライブ会場に持ち込んだ功績とは". イータレントバンク. イータレントバンク. 21 May 2017. 2018年5月30日閲覧西城秀樹さんと40年前のツーショット芸能界入りのきっかけは西城秀樹さんのモノマネだった近藤真彦「最後まで格好良かった」西城さんを追悼“妹”秀美さんもハワイから最後のお別れ|テレビ朝日諸星和己、お世話になった西城秀樹さんを追悼「頑張りましたねと言いたい」「今の時期にメンバーって言うな」諸星和己、ハマスタでぶっちゃけトーク炸裂TOKIO国分とNEWS加藤、「アイドルの鏡」と西城秀樹さん偲ぶ「わが青春のアイドルは誰だ?」ランキング決定! 西城秀樹と山口百恵が王座に「わが青春のアイドルは誰だ?」ランキング決定! 西城秀樹と山口百恵が王座にR40女性好きなイケメン 小学校で西城秀樹、中高で近藤真彦いちばん好きな'70〜'90年代アイドルランキング、ダントツ1位はあの人!イケメンまつり ::おがっちのレトロ本舗 - エフエム山陰
  149. ^ a b c d e f 安積明子 (21 May 2018). "秀樹さん芸能界の後輩、三原じゅん子議員談話 「水泳大会では心から応援してました」". zakzak. 2018年5月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月4日閲覧"三原じゅん子氏「明星」「水泳大会」西城さん悼む". 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞社. 18 May 2018. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月24日閲覧
  150. ^ a b c d ミッツ・マングローブ (30 May 2018). "連載「アイドルを性せ!」「ヒデキと踊ったカラーの時代」". AERA dot. (Interview). 朝日新聞出版. 2018年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月19日閲覧
  151. ^ a b "西城秀樹さん追悼番組がNHKで放送!野口五郎とのデュエット映像も". テレビドガッチ. 29 June 2018. 2018年7月4日閲覧"あの日 あのとき あの番組▽西城秀樹歌声は熱く 野口五郎が語る人生のデュエット". もっとドキュメンタリー. NHK. 28 June 2018. 2018年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月29日閲覧
  152. ^ a b "西城秀樹さん先駆けのパフォーマンスの数々 築いてきた"アイドルの基礎"". AbemaTV. 18 May 2018. 2018年5月18日閲覧
  153. ^ a b c d e f "西城秀樹語る新御三家時代「YMCAの振付は僕のアイデア」". 女性自身. 光文社. 18 July 2014. 2018年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月29日閲覧西城秀樹さん亡き後も歌い継がれる偉大な名曲『YOUNG MAN』西城秀樹さん 再ランクイン続出に讃える声「やっぱ天才だよ」
  154. ^ a b c d "テイクオフ:歌手の西城秀樹さんが亡くなった". 共同通信アジア経済ニュース. 1 June 2018. 2018年6月2日閲覧
  155. ^ "ヒデキ、歌謡曲が輝いた時代の象徴 史上最高9999点". 朝日新聞デジタル. 18 May 2018. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月18日閲覧"「秀樹」芸名から法名に 郷さん「同じ世代駆け抜けた」". 朝日新聞デジタル. 26 May 2018. 2018年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月3日閲覧"西城秀樹さん死去 63歳 最期まで「生涯歌手」". 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞社. 17 May 2018. 2018年5月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月8日閲覧"「あまりにも早い」「時代を築いた」 ファンら西城さんの死しのぶ". サンケイスポーツ. 産業経済新聞社. 17 May 2018. 2018年5月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月16日閲覧"【西城秀樹さん死去】菅義偉官房長官「昭和飾るスター、早すぎる逝去」". サンケイスポーツ. 産業経済新聞社. 17 May 2018. 2018年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月1日閲覧"立民・枝野氏『田中角栄か西城秀樹になりたかった』". 産経新聞. 産業経済新聞社. 19 May 2018. p. 5. 2018年6月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月24日閲覧熊谷泰 (18 May 2018). "西城秀樹さん死去 私たちの青春に色添えてくれた 小池知事/東京". 毎日新聞. 毎日新聞社. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月23日閲覧楠木新 (9 September 2018). "【定年後の居場所】西城秀樹さんの歌う姿に自分の人生を重ね… 誰もが何もなく順調に過ごせるわけではない (1/2ページ)". ZAKZAK. 産業経済新聞社. 2018年10月13日閲覧""ラストコンサート"に4000人 西城秀樹さん通夜". 東京新聞(TOKYO Web). 中日新聞東京本社. 26 May 2018. 2018年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月2日閲覧追悼・西城秀樹さん 貫いたスーパースターの矜持と美学西城秀樹 ディナーショー開催の韓国済州島で脳梗塞を発症|日刊ゲンダイ "70~80年代を代表する歌謡スター・西城秀樹のベストアルバムがチャート再上昇". esエンタメステーション. ソニー・ミュージックエンタテインメント. 22 May 2018. 2018年7月4日閲覧"『西城秀樹 追悼特別番組』のお知らせ". USEN. 17 May 2018. 2018年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月30日閲覧"西城秀樹さん 2019年カレンダー 発売決定!". 山野楽器. 2018. 2018年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月16日閲覧"西城秀樹さん急死、「ローラ」また歌うため倒れる直前までリハビリも". サンケイスポーツ. 産業経済新聞社. 18 May 2018. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月20日閲覧島村洋子・白崎博史・橋場茂文「西城秀樹というスターは「新しい昭和」の象徴だった!?」『BEST T!MES』、ベストセラーズ、2018年5月25日、2018年7月4日閲覧 レッツゴーヤング | 音楽 | アーカイブス ブログ:NHK70年代の歌手達の背景・・・小林亜星さん「特別な凄味を持ったトップアーティスト」織田哲郎ロングインタビュー 第13回 | 織田哲郎Project2007還暦~ありのままに~若き獅子たち・・・
  156. ^ a b "東京新聞 筆洗". 東京新聞:筆洗:社説・コラム(TOKYO Web). 中日新聞東京本社. 18 May 2018. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月30日閲覧
  157. ^ a b c d e f g 【時代のサカイ目】昭和歌謡界の革命児 西城秀樹と桑田佳祐
  158. ^ a b c d DJGB (23 May 2018). "さらば永遠のヤングマン、西城秀樹がバブル時代に残した功績をふりかえる". gooいまトピ. NTTレゾナント. 2018年7月7日閲覧
  159. ^ a b "西城秀樹が死去。「ギャランドゥ」という憧れスタイル」". まいじつ. 日本ジャーナル出版. 18 May 2018. 2018年7月6日閲覧
  160. ^ a b 三田格「検証・黄金期8つのイメージ プロテストなき世代に裸でぶつかった愛の説教師 西城秀樹」#sv、30頁
  161. ^ a b 北辻利寿 (28 May 2018). "西城秀樹とその時代~昭和歌謡を疾走した若き獅子". CBC論説THEコラム. CBCテレビ. 2018年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月13日閲覧
  162. ^ a b c d e f g h TALKING MUSIC, LOVE MUSIC, - フジテレビZOO 今日誕生日のミュージシャン4月13日 - 西城秀樹 -フジテレビ公式サイト(Internet Archive)
  163. ^ a b c d e f g 笹森文彦 (18 May 2018). "日本エンタメは太陽を失った/西城さん担当記者悼む". 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞社. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月8日閲覧
  164. ^ a b c d "【西城秀樹さん死去】 音楽ジャーナリスト・湯浅明さん「人を励まし続けた存在だった」". サンケイスポーツ. 産業経済新聞社. 17 May 2018. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月1日閲覧
  165. ^ a b c d e f 山野車輪 (19 May 2018). "西城秀樹は洋楽ロックもメタルもアニソンも歌った! 日本歌謡界の地平を開いた功績をたどる". 日刊SPA!. 扶桑社. 2018年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月20日閲覧
  166. ^ a b c d e “J-POPの土台”を作った男・西城秀樹 二度の大病にも負けず、ステージに立ち続けるスターの美学
  167. ^ "和田アキ子、西城秀樹さん遺影に「お前、すごいヤツだったな」". SANSPO COM. 産業経済新聞社. 26 May 2018. 2018年5月26日閲覧"桑田佳祐「サザン参加快諾」同い年西城さんが大好き". 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞. 19 May 2018. 2018年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月20日閲覧懐かしい思い出と共に… | 荻野目洋子オフィシャルブログ powered by Ameba 2018-05-18、西城秀樹さんのお通夜に参列してきました… 2018年5月25日、"西城秀樹さんをしのびつつ…神野美伽はデビュー35周年に円熟味増す/芸能記者ショナイ業務話". SANSPO COM. 産業経済新聞社. 9 September 2018. 2018年10月13日閲覧A-Studio草刈民代オフィシャルブログ - Ameba Blog
  168. ^ a b c d e 西城秀樹ネタで東京新聞に掲載されました! 2018年5月16日 -吉沢dynamite.jp BLOG -東京新聞朝刊、2018年5月19日(文・片山夏子)
  169. ^ a b c d 脳梗塞リハビリ中の西城秀樹の姿に感動 中居正広『いろいろな葛藤があったと思います』中居正広、西城秀樹と野口五郎の友情に感銘 - Real Sound|リアルサウンド
  170. ^ a b c 桜井学 (18 May 2018). "評伝 「YMCA」 時代を象徴". 読売新聞. 読売新聞社. 2018年6月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月22日閲覧URLヤマハオフィシャルサイトの記事。
  171. ^ a b c d e f g h 吉岡正敏(『紅白歌のベストテンディレクター)・山田修爾(『火曜歌謡ビッグマッチ』ディレクター)・増田晴男(『ゴールデン歌謡速報』ディレクター)・川田万寿(『ベスト30歌謡曲』ディレクター)「歌番組のディレクターがアイドルの(秘)エピソードを大公開 あっ画面がマックロ!!秀樹の上着がカメラにドパッ!」『月刊セブンティーン』1974年8月号、集英社、79–82頁。 
  172. ^ a b c d e 近藤正高 (4 July 2018). "西城秀樹——ステージ以外でも貫いた「ロックな生き方」". cakes. 株式会社ピースオブケイク. 2018年8月16日閲覧
  173. ^ "本日の賢人・西城秀樹". ソロモンの王宮. テレビ東京. 2007年8月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月3日閲覧
  174. ^ a b c 渋谷恭太郎 (17 May 2018). "西城秀樹さんが音楽業界に影響を与えた「文化」と「歌唱テクニック」". 週刊女性PRIME. 主婦と生活社. 2018年5月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月31日閲覧
  175. ^ a b c d "あの年この歌〜時代が刻んだ名曲たち〜". BSジャパン. 7 August 2015. 2018年5月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月31日閲覧 {{cite web}}: 不明な引数|credits=は無視されます。 (説明)(『あの年この歌〜時代が刻んだ名曲たち〜BSジャパン、2015年8月7日放送)、【追悼】希代のエンターテイナー・西城秀樹さんを偲ぶ | PlusParavi大友康平、「薔薇の鎖」で西城さんと“マイクアクション対決”「天国でもブンブン振り回して」西城さん悼む声続々 前川清「胸痛む」布袋寅泰「毎日見てた」ダイアモンド・ユカイが語る“新御三家”郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎西城秀樹「63歳突然死」までの傷だらけの「15年闘病」(3)「YMCA」を老若男女の歌に西城秀樹さんGACKT OFFICIAL INSTAGRAM – MAG 18 2018GACKT、西城秀樹さんとの出会いを振り返る「背中の大きい兄貴でした」河村隆一 兄のように慕い、憧れた西城秀樹さん悼む「安らかな眠りについてほしい」R25ロングインタビュー 〜つきぬけた瞬間 清春(Internet Archive)、【LOVE LOVE あいしてる:トーク】 HomePageだけの特別編集版 T.M.Revolution編 –フジテレビ公式サイト、SOPHIA;松岡充 - 堂本兄弟 –フジテレビ公式サイト、西城秀樹さんが亡くなったというニュースを聞いて..西城秀樹さん、。明るくて格好よくてSMAP、小泉今日子へ曲提供…作曲屋・横山剣が語る「理想のアイドル」千聖、ソロ20周年記念イベントで森重樹一とのZIGGY曲セッションが決定ヒデキ、還暦! | ZIGGY 森重樹一 オフィシャルブログ 「11P.M.」 Powered by Ameba西城秀樹さん【プレミアムセッション】西城秀樹さんとドラマで共演したことがあるROLLYさん。音楽ルーツは西城秀樹!? シンガーソングライター・馬場俊英の“過去と今”に同世代グッチーが迫る『音ドキッ!』Interview - MC-CLUBMeu ídolo nos anos 70’ canta hj no céu🎶.西城秀樹がアンダーグラフの音楽ビデオで、華麗なマイクさばきを披露1975年(昭和50年)2月16日「ロックシンガー相川七瀬が生まれた日」(Internet Archive)、【怒髪天 ボーカル・増子直純】顔はロック、心は演歌 既成概念なんて全部ぶっこわす!!【エンタがビタミン♪】西城秀樹“45歳”の写真集 綾小路翔が感慨「ワイルドでセクシーでダイナミックなロックンローラー」【エンタがビタミン♪】金爆のCD“特典なし販売”を考えた鬼龍院。「やらせてくれないなら全部やめる」と訴えていた。“Born in'66 The roots of Music 吉井和哉インタビュー”. 別冊カドカワ 総力特集 斉藤和義. カドカワムック277. 角川書店. (2012). p. 96. ISBN 978-4-906700-25-7 #114 吉井和哉 of SPECIAL INTERVIEW - SHY GLANCE, INC. WEBSITE一志治夫 (2009). “桜井秀俊インタビュー”. 40歳問題 年をとるのも悪くない. 朝日新聞出版. p. 145. ISBN 978-4-02-250649-8 “ギターウルフセイジインタビュー”. ロックンロールが降ってきた日. スペースシャワーネットワーク. (2012). p. 92. ISBN 978-4-906700-25-7 『Missing Link』に見るV系シーンをけん引した才気! 結成25周年を迎えた生真面目なバンド、PENICILLINヒデキと私と:ロマン優光連載109追悼:西城秀樹 — たて髪を振るい歌え!若き獅子たちよ | 1976年"氷川きよし、15年前にデュエットした西城秀樹さんを追悼「すごく影響を受けた」". スポーツ報知. 報知新聞社. 28 May 2018. 2018年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月30日閲覧第14回 鹿野 淳 氏 | Musicman-NETマキタスポーツとスージー鈴木『カセットテープ少年時代』インタビュー “理系的”音楽分析のススメ5月16日 〜西城秀樹さんR.I.P〜 | 大島暁美のロックンロールサイトHR/HMと「西城秀樹」さんの意外な関係フジロック、西城秀樹が棺桶でYMCAの追悼アート不謹慎すぎると炎上
  176. ^ a b "脳梗塞2度、歌い続け ヒデキ63歳死去". 東京新聞(TOKYO Web). 中日新聞東京本社. 18 May 2018. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月18日閲覧
  177. ^ a b c d e f g 偉大なる西城秀樹さんに捧ぐ月刊歌の手帖 編集部ブログ
  178. ^ a b c d 今泉圭姫子 (16 November 2018). "必聴!フレディ・マーキュリーが歌う名曲ベスト10 全盛期のクイーンを追った音楽評論家、今泉圭姫子氏がセレクト". JBpress. 日本ビジネスプレス. 2018年11月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月12日閲覧ラジオDJ今泉圭姫子アーカイヴ(archive)|Radio DJ Keiko Imaizumi
  179. ^ a b c d e "西城秀樹「63歳突然死」までの傷だらけの「15年闘病」(3)「YMCA」を老若男女の歌に". Asagei+plus. 徳間書店. 27 May 2018. 2018年7月4日閲覧
  180. ^ a b c d e f g 宝泉薫「ルーツ論#1 西城秀樹 オレたちゃ秀樹ズ・チルドレン! ヒムロックを経てTERUに継承されるヒデキの遺伝子」『別冊宝島653 音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』宝島社、2002年6月7日、70-71頁。ISBN 9784796627245 
  181. ^ 「ボクの"ロック魂"に共鳴したあのスターたち山口美江、松原千明、千堂あきほ、ユニコーン、Xとの親密交際#熱き想い、91-96頁。
  182. ^ 今から4年前の2014年2月。ヘドバンVol.3でインタビューさせていただいたときの.. - 『ヘドバン』編集部 (@savage_headbang) - X(旧Twitter) 2018年5月16日
  183. ^ "【イベントレポート】メタルにまつわる混沌を説く<ヘドバントークショーVol.2>". BARKS. 7 March 2014. 2016年12月7日閲覧
  184. ^ a b c 【西城秀樹さん死去】小林亜星さん「特別な凄味を持ったトップアーティスト」天才テリー伊藤対談「小林亜星」(1)西城秀樹はロックミュージシャンだ
  185. ^ 【静岡新聞 コラム】 プレスリーと西城秀樹(Internet Archive)
  186. ^ a b c 西城秀樹さん追悼 盟友・ギタリスト、芳野藤丸が明かす秘話と秘蔵写真「ヘタなロックよりロック。ロック以上だった」 (1/2ページ)
  187. ^ a b c 「情熱の嵐」で西城秀樹にコール&レスポンスを定着させた作曲家・鈴木邦彦、3部作で少年から青年に成長させた作詞家・阿久悠
  188. ^ a b c d e f 「復活大ブーム あの素晴らしい『70年代歌謡曲』をもう一度! インタビュー西城秀樹」『アサヒ芸能徳間書店、2010年7月5日号、65-66頁
  189. ^ a b 【エンタがビタミン♪】「ゲイの応援歌なんか、絶対に歌わせない!」猛反対を押し切った、西城秀樹。
  190. ^ たかたかし氏回想 西城さんと初対面からオーラ まるで米ミュージカルスター「常に全力だった」 元作詞家・宇佐美さん西城秀樹さん語る【帯広】若き獅子〜西城秀樹さんへ捧ぐ若き獅子〜西城秀樹さんへ捧ぐ〜2
  191. ^ a b 忘年会のカラオケシーズンに備え 西城秀樹の名曲を歌い愛を叫べ!|田中稲の勝手に再ブーム
  192. ^ a b c d "7月8日・14日/追悼~永遠のヤングマン 西城秀樹". THE 青春歌謡【Premium】 スター名曲選. ミュージックバード. 2018年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月15日閲覧
  193. ^ a b 西城秀樹君との思い出 1973年〜
  194. ^ a b c 西城秀樹さん側近らが語るプライベート「サウナに入りすぎだったのかも」
  195. ^ a b c d e f g h 「振りも衣装も女・西城秀樹だったピンク・レディー」#熱き想い、52-54頁。
  196. ^ 走っていた時代の象徴だった 西城秀樹さんを悼む 青柳脩さんR25ロングインタビュー 〜つきぬけた瞬間 清春(Internet Archive)
  197. ^ a b 第14回 鹿野淳氏 Musicman-NET
  198. ^ a b 「アイドル(第二回)・西城秀樹」『装苑』1975年2月号、文化出版局、155頁。 
  199. ^ a b c d "夕刊特集 【イブニングマガジン】 エルメス(上) 西城秀樹さん ステージ衣装が出合い". 産経新聞夕刊. 産経新聞. 12 February 1998.
  200. ^ 李美敬CJグループ副会長「世界女性賞」受賞、アジア初めて
  201. ^ a b c 堀山明子(毎日新聞ソウル支局)「大人の悠遊 この街で働く ソウル 忠武路」『エコノミスト』2006年11月28号、毎日新聞出版、109頁。 
  202. ^ a b 追悼・西城秀樹さん~いまも色あせないシティポップなヒデキを聴いてみよう(高橋芳朗の洋楽コラム)
  203. ^ 「クイーン&MUSIC LIFE展」、来日時の衣装も展示
  204. ^ a b c d 「振り付けが歌謡曲を変えた"アクション歌謡の登場"」#40年男、52-55頁(【ついに発売! 昭和40年男 2016年12月号】振り付けのおもしろさ。
  205. ^ 松永伍一「流行歌を無視して大衆は語れないー"よくない時代の""よい流行歌"の歴史」#昭和流行歌史、292-294頁
  206. ^ a b #塩沢、262-263頁。
  207. ^ "客席へ飛び降りた姿に衝撃 西郷輝彦さんに聞く西城秀樹さんの思い出". withnews. 朝日新聞社. 14 August 2018. 2018年8月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月16日閲覧
  208. ^ a b c d e 「バトル・オブ・新御三家の70年代」#金子、165-176頁
  209. ^ 2015年10月28日 | すっぴん!ブログ:NHK - NHKオンライン
  210. ^ a b 岸善樹 (15 June 2018). "全力で走り続けたヤングマン ダイアモンド☆ユカイさん". 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2018年6月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月23日閲覧西城秀樹さん
  211. ^ a b c d 「特別取材 ぼくの10代の記念碑(メモリアル)にしたい! はじめてのリズム 新曲『激しい恋』を発表!」『週刊セブンティーン』1974年5月14日号、集英社、30-33頁。 
  212. ^ 「スター(秘)証言シリーズ 西城秀樹を育てた男たち どこから生まれた?ヒデキのファイトと根性!」『月刊平凡』1973年10月号、平凡出版、112-115頁。 
  213. ^ 訃報!西城秀樹さん、フジテレビ6スタ
  214. ^ 「とびだせ!! Fresh Idol 弾ともや」『月刊セブンティーン』1974年10月号、集英社、58頁。 この日本の音楽界に歌手として多大なる影響を残された唯一無二な西城秀樹さんの... 2018年5月16日 -生沢佑一 (@AIKikuzawa) | Twitter
  215. ^ a b "西城秀樹の歴史的お宝作品が発売! NHK紅白では怪傑ゾロの衣装でハプニングも/芸能ショナイ業務話". サンケイスポーツ. 産業経済新聞社. 16 September 2017. 2018年5月17日閲覧
  216. ^ a b 安川達也 (2017). "ベテランプロデューサー・尾形靖博 『HIDEKI NHK Collection 西城秀樹~若さと情熱と感激と~』を語る". otonano. ソニー・ミュージックダイレクト. 2018年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月31日閲覧
  217. ^ 青井曽良・二階堂ちはる『昭和のテレビあるある』TOブックス、2016年3月。ISBN 978-4-86472-469-2 
  218. ^ a b HIDEKI NHK Collection 西城秀樹 ~若さと情熱と感激と~Sony Music Shop
  219. ^ a b 吉村智樹「ライターアクションが火災を誘発!? 鉤十字の腕章に、抗議殺到! アクション歌謡'78 過度な衣裳&振り付けが招いた"大衆の反感"」『流行り歌に隠されたタブー事件史』宝島社別冊宝島1499〉、2008年、10-11頁。ISBN 978-4-7966-6178-2 
  220. ^ a b c d e f 土居甫一の宮はじめ西条満・牛丸謙「ふりつけ師が明かすアイドルうら話 『ヒロミもヒデキもはじめはダメオくんだった!?』」『週刊セブンティーン』1978年7月25日号、集英社、36–41頁。 
  221. ^ a b c "新生面/コラム/5月18日付". 熊本日日新聞. 熊本日日新聞社. 18 May 2018. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月4日閲覧
  222. ^ 「あの熱狂よもう一度 昭和を駆け抜けたアイドルたち 西城秀樹 会場内に漂う変なニオイの正体は...」、日刊ゲンダイ、2010年10月7日16面
  223. ^ a b c SHOGUN 時代を超えて響く“俺たちの”メロディー|歌謡曲リミテッド
  224. ^ ヒデキと私と:ロマン優光連載109
  225. ^ a b 「これ、やろうよ」 ヤングマン誕生、西城さんの一言で【アーカイブ】(うたの旅人)西城秀樹「ヤングマン」 ヒデキ感激、突っ走る 大阪市
  226. ^ 「カバーストーリー ヒデキ自身が選んだ西城秀樹の74年10大ニュース 『最高に嬉しい"紅白"初出場!!』」『週刊TVガイド』1974年12/20号(1974.12/14-12/20)、東京ニュース通信社、15-21頁。 
  227. ^ a b c 【エンタがビタミン♪】西城秀樹“45歳”の写真集 綾小路翔が感慨「ワイルドでセクシーでダイナミックなロックンローラー」
  228. ^ 北川純子 (15 June 2018). "ヒデキ完璧! 励まし・切望…ローラ12通りの歌い分け". 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2018年6月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月18日閲覧西城秀樹との追憶の日々…フォーリーブス江木俊夫が語る追悼・西城秀樹さん ジャニーズにも多大な影響を与えた本物の「スター」|平本淳也西城秀樹を偲ぶ脳内コンサート開催! 「愛は激しく空は永遠に青い」秀樹さんを送ってきました西城秀樹さんとの思い出
  229. ^ 岩崎宏美、西城さん死去で報道陣にお願い 不自由な姿でなく「元気な西城秀樹を」 宏美「ヒデキは心の中で」 (テレビ朝日) - LINEアカウントメディア
  230. ^ a b 松任谷由実、西城秀樹さんとの共演を振り返る「切ないです」
  231. ^ "【西城秀樹さん死去】黒柳徹子さん「ダントツに歌がうまかった」". 産経スポーツ. 産業経済新聞社. 17 May 2018. 2018年5月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月31日閲覧
  232. ^ a b c 鴨下信一西城秀樹さんがいた時代と風景 最後まで「常識人」であろうとした「スター」」『サンデー毎日』2018年7月8日号、毎日新聞出版、138-139頁、 オリジナルの2018年6月30日時点におけるアーカイブ、2018年7月4日閲覧 
  233. ^ a b c d e 「ヒデキスタイル伝承者列伝」#ヘドバン3、88-89頁
  234. ^ 布袋寅泰「ロックを感じる人」西城秀樹さん逝去を悼む
  235. ^ ピエール中野×小室哲哉 対談 / Best of Tornado / 凛として時雨
  236. ^ 特集番外編2 2010年11月号”. ダ・ヴィンチ ニュース. KADOKAWA (2010年10月5日). 2018年7月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月15日閲覧。
  237. ^ 本日8/9は伝説の女子プロレス・タッグ”ビューティ・ペア”ジャッキー佐藤の命日【大人のMusic Calendar】
  238. ^ a b c 「SMが好きです」と言ってしまい…伝説を作った歌手が明かす「ザ・ベストテン」裏話
  239. ^ a b c d 東京新聞:<西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (21)続・ヤングマン (Internet Archive)
  240. ^ 神﨑清一 (18 May 2018). "西城秀樹「YOUNG MAN」に寄せて". 公益財団法人 日本YMCA同盟.
  241. ^ a b c d e f 中村謙「あちらのホモ賛歌"YMCA"が日本で青春賛歌の大ヒットになる不思議」『週刊朝日』、朝日新聞社、1979年5月25日、162-163頁。 
  242. ^ a b 星野源「恋」だけじゃない!宇多田ヒカル、KinKi Kids、いきものがかりetc.「春のセンバツ」入場行進曲【まとめ】
  243. ^ a b 「Y.M.C.A.対談 西城秀樹vs.トライアングル」『月刊明星』1979年5月号、集英社、141、146。 
  244. ^ a b GENERATIONS from EXILE TRIBEと世界音楽シーンの接点。5年間の軌跡と音楽的魅力!
  245. ^ 西城秀樹の名曲に海外スポーツファンやビジネスマンが感謝していた!
  246. ^ #ベストテン、58頁
  247. ^ a b c d e f 「Special interview 西城秀樹」#ベストテン、30–31頁
  248. ^ 「特集・現代流行歌考 『新御三家・花づくし』 文・青木はるみ」『現代の眼』1980年5月号、現代評論社、86頁。 
  249. ^ 「HopのHはHeartのHideki StepのSはSweatのSaijoJumpのJはJustNow!」『週刊セブンティーン』1979年6月5日号、集英社、31頁。 
  250. ^ a b c 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】 (17)球場コンサート 空中芸に父カンカン(23)ペンライト 始まりは74年の懐中電灯
  251. ^ 【MUSIC】西城秀樹『ブルースカイブルー』あの頃、大阪ミナミの青空が照らした天然芝。/CULTURAL REVIEW about Baseball
  252. ^ a b c d e 「ただいまギネスブック申請考慮中 大阪球場コンサート連続10年 西城秀樹」『週刊平凡』1983年7月28日号、平凡出版、30-31頁。 
  253. ^ "たまのスタジオ日記 第30回 西城秀樹さん". みゅーじん. テレビ東京. 6 May 2006. 2018年6月24日閲覧
  254. ^ a b c d 「BIG3 HOT NEWS / 西城秀樹 郷ひろみ 野口五郎 第3回 "西城秀樹・情熱のファンキー・カーニバル"(8月14日大阪球場)完全ルポ」『月刊平凡』1976年11月号、平凡出版、86-87頁。 
  255. ^ 「コンサートで工事現場の3Kの現実を実現 野外コンサートで日本初の試みをチャレンジするまでの発想法#熱き想い、45-49頁。
  256. ^ 「ヤング・エネルギー大噴射で日本列島大パニック!!」『月刊平凡』1979年11月号、平凡出版、90頁。 
  257. ^ a b c ダイアモンド・ユカイが語る“新御三家”郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎
  258. ^ 世界への悲観を描いた「エピタフ」と、それに共鳴した日本の歌い手たち西城秀樹さんの『傷だらけのローラ』は、大好きなイギリスロックが原点だったシンセ今と昔 : 音を記録するメディア - Red Bull Music Academy Japan
  259. ^ a b c d e f 「西城秀樹」#みうら、175-186頁
  260. ^ a b c d e f g h 太田覚・生駒奈保美「《元祖 タコのキン肉本舗》 西城秀樹&山本リンダ"活火山化"の秘密」『Asahi journal』1991年6月21号、朝日新聞社、55-57頁。 
  261. ^ 西城秀樹 (2016年8月24日). “<西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (23)ペンライト”. 東京新聞. <西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!>. 東京新聞. 2016年8月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月18日閲覧。
  262. ^ 「〔mimi NEWS CENTER〕BIG3のビッグイベント 武道館リサイタル 西城秀樹」『mimi』1977年1月号、講談社、90頁。 
  263. ^ 阿久悠「若き獅子たち ヒデキを少年から青年に」『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社、2007年、104 - 105頁。ISBN 978-4-10-133451-6 
  264. ^ a b c 阿久悠「大歌謡曲時代(14) 西城秀樹」『文藝春秋』1999年2月号、文藝春秋、245-257頁。 
  265. ^ 昭和の大スターが、角松敏生を起用しアーティストを目指したサウンド 西城秀樹の歌声は、シティ・ポップとして現代に響く西城秀樹さんがファンクやAORにも精通していて後輩との付き合いも密であり... 2018年5月18日 -西城秀樹 (@s_hakase) - X(旧Twitter)
  266. ^ なんばパークスの屋上、空中庭園内には西城秀樹さんの手形モニュメントがあります。 – なんばパークス&なんばCITY公式ツイッター
  267. ^ "「なんばパークス」が全館グランドオープンします" (PDF) (Press release). 南海都市創造株式会社. 12 April 2007. 2018年5月22日閲覧
  268. ^ "西城秀樹さん死去 大阪でも悲しみの声「大阪球場コンサート行った」". The Page OSAKA. Wordleaf Corporation. 17 May 2018. 2018年5月22日閲覧
  269. ^ a b 「ビッグ・ゲームへの挑戦!! BIG GAME '78 HIDEKI 西城秀樹」『月刊平凡』1978年7月号、平凡出版、81-83頁。 
  270. ^ 「THE BIG STAR HIDEKI INTRVIEW 私・と・西・城・秀・樹」『週刊平凡』1980年5月8日号、平凡出版、114頁。 
  271. ^ 「今夏は、球場を歌手達が占領する大イベント続きです」『週刊現代』1979年5月10日号、講談社、50頁。 
  272. ^ 「特集!サマー・コンサート全ガイド」『週刊セブンティーン』1979年6月12日号、集英社、28頁。 
  273. ^ The One Night Show 1979 CONCERT TOUR
  274. ^ ブロウアップ ヒデキ 松竹DVD倶楽部
  275. ^ a b 「西城秀樹 富士山での7月20日コンサート これが興奮の現場だ!」『週刊セブンティーン』1975年7月8日号、集英社、36-39頁。 
  276. ^ 社史 第3章 第2節 | HIBINO ヒビノ株式会社 設立50周年記念
  277. ^ a b c d e 「内幕ニュース 西城秀樹をめぐり血みどろの強奪合戦 テレビ局vs.映画会社」『週刊平凡』1975年8月21日号、平凡出版、178-179頁。 
  278. ^ 拓郎&かぐや姫の“元祖日本の夏フェス”映像がDVD化! - Barks
  279. ^ a b c d e f 「サンデートピックス ヒデキでテレビに負けた」『サンデー毎日』1975年9月21日号、毎日新聞社、42頁。 
  280. ^ a b 「現場に復帰した81歳の城戸会長」『週刊文春』1975年9月25日号、文藝春秋、27頁。 
  281. ^ a b 由原木七郎「日本映画評 映画の本質について考えてみませんか」『近代映画』、近代映画社、1979年5月13日号、164-165頁。 
  282. ^ a b c 「西城秀樹の与論島ジャック『島始まって以来の24時間大熱狂!』」『週刊明星』1979年4月15日号、集英社、12–14頁。 
  283. ^ a b 「本誌独占!海外特集(1) 西城秀樹もっとも熱い13日間ワールド大追跡 まあるい地球をひとっ飛び」『月刊明星』1979年6月号、集英社、12–17頁。 
  284. ^ 「ユネスコ村に爆発したヒデキの青春!新曲発表に2万人のファンがフィバー!」『近代映画』1979年7月号、近代映画社、135頁。 
  285. ^ a b c d e f g h i j 「バックバンドを持つと嫌われるなんておカド違いだ」#熱き想い、41-44頁。
  286. ^ a b c d e f 松本和佳 (27 September 2008). "プラスワン 西城秀樹さんーヒデキ感激お茶漬けの味(食の履歴書)". 日本経済新聞. 日本経済新聞社. p. 7.
  287. ^ a b 帆苅智之 (3 October 2018). "SHOGUNの『ROTATION』は、70年代の邦楽シーンを支えた名うてのスタジオミュージシャンたちが作り上げた濃厚な作品". OKMusic. JAPAN MUSIC NETWORK. 2018年10月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月13日閲覧
  288. ^ 芳野藤丸が西城秀樹らとの秘話を語る「SHOGUNだって秀樹がいなければ生まれていなかった」
  289. ^ 西城秀樹さんのこと
  290. ^ 西城秀樹さんが活躍した「アイドルの時代」の輝き【追悼】関根勤、秀樹さんの大ファンでした宮根キャスター「男には、その人なりの『西城秀樹』がいる」喪失感を吐露高木美保 close to you - 文化放送西城秀樹逝くコロッケ、西城秀樹さんの「人としての生き方をまねさせていただきます」サザン、ユーミン、久石譲、西城秀樹らの魅力を堪能、NHK-FMで『三昧フェス2018』「僕はゼロからイチにする人」パパイヤ鈴木さんが語る振り付け - TOKYO FM#好きすぎて一緒に写真撮れなかった中瀬ゆかりさん、西城秀樹さんは「フェロモン系を子供心に教えてくれた人」ニッポンの“CMシンデレラ”50年の名場面(6)「中島はるみ・キリンレモン(1979年)」秀樹ぃー。西城秀樹さん。15周年のZ旗祭、秀樹追悼コーナーも爆笑問題の検索ちゃん 2006年3月24日放送 -テレビ朝日公式サイト、ブルースカイ ブルー長嶋一茂、亡くなった西城秀樹さんに「まさしくボクの青春時代」私…西城秀樹さん 永遠に大ファンです。西城秀樹、死去‼️ショック.."中山秀征、2年連続ライブ開催 故・西城秀樹さんの「YOUNG MAN」を熱唱". スポーツ報知. 報知新聞社. 9 September 2018. 2018年9月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月13日閲覧吉田栄作インタビュー(第1回)麻雀ドラマ「天」を語る「全人生を賭けて“男が惚れる男”に」(ネタバレ)西城秀樹さん。西城秀樹さん ご冥福をお祈りします音楽の魅力と不変の楽しさ ~素人目線 松浦勝人の生き様~ | GOETHE(みをつくし語りつくし)森脇健児さん:1土田晃之、西城秀樹さんは「憧れ、アイドルな存在だった」若き獅子〜西城秀樹さんへ捧ぐ生涯スーパースター〜西城秀樹 | おしゃれ手帖 〜好きなモノに囲まれて~ - 斉藤芳恵
  291. ^ a b 5月16日 〜西城秀樹さんR.I.P〜 | 大島暁美のロックンロールサイト西城秀樹さん - 横山ルリカ公式ブログ
  292. ^ a b ギャランドゥな大人の扉、みせたヒデキ 岩井志麻子さん
  293. ^ 西城秀樹オフィシャルサイト「Music」⇒「1990〜1999」
  294. ^ a b "秀樹!今もヤングマン デビュー25年、42歳 新曲はヨシキ作のバラード". 読売新聞夕刊. 読売新聞社. 20 August 1997.
  295. ^ 島 (16 August 1997). "トリビュート・アルバムー古い音源への興味高まる(ヒット直送便)". 日本経済新聞. 日本経済新聞社. p. 31.
  296. ^ "(ロックに3rd LOVE) 白雪姫にぞっこん サンプラザ中野". 朝日新聞夕刊be. 朝日新聞社. 19 September 2007. p. 4.
  297. ^ 【怒髪天 ボーカル・増子直純】顔はロック、心は演歌 既成概念なんて全部ぶっこわす!!
  298. ^ 追悼・西城秀樹さん~いまも色あせないシティポップなヒデキを聴いてみよう(高橋芳朗の洋楽コラム)
  299. ^ a b c 「西城秀樹がはじめて故郷・広島で感動のリサイタル 母さん、父さん、先生の…みんなの顔がにじんで見えた!」『週刊セブンティーン』1974年10月29日号、集英社、36-39頁。 
  300. ^ 「森田健作と西城秀樹の友情コンサートを誌上実況中継 23歳と18歳… 燃えるふたりがスパーク!!」『週刊セブンティーン』1973年8月21日号、集英社、36–41頁。 
  301. ^ a b c 「炎のごとく赤旗星 西城秀樹香港コンサートが大成功!」『近代映画』1981年12月号、近代映画社、92 - 94頁。 
  302. ^ a b c d e f g h i 山口敏弘「INTERVIEW 西城秀樹」『ジャッキー・チェン 成龍讃歌』2017年7月20日、辰巳出版、3-06- 39頁、ISBN 978-4-7778-1754-2 
  303. ^ a b c d e f g h i j k 「《TVアングル》 ヒデキ、香港で大モテ! 12月公演を目指して広東語を特訓中ー」『週刊平凡』1983年6月30日、7月7日号、平凡出版、112-113頁。 
  304. ^ a b c d 「アジアのショー・ビジネスは日本よりレベルが高い」#熱き想い、142-146頁。
  305. ^ 『歌謡曲見えたっ』(平岡正明著)、ミュージック・マガジン、1982年、18頁
  306. ^ a b c 「テレサ・テンと激戦した『ゴールド・ディスク大賞』」#熱き想い、146-151頁。
  307. ^ a b c 遠藤誉 (18 May 2018). "中国、人民網までが西城秀樹さんを悼む". ニューズウィーク日本版. CCCメディアハウス. 2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月4日閲覧 {{cite news}}: 不明な引数|1=が空白で指定されています。 (説明)
  308. ^ a b c d e f "【A1要聞】港人第一代東瀛偶像 西城秀樹病逝". 蘋果新聞. 18 May 2018. 2018年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月4日閲覧
  309. ^ 川崎浩 (5 December 1994). "〔登場〕 西城秀樹 同世代へ共感伝える". 毎日新聞. 毎日新聞社. p. 21.ザ・スター リバイバル 第2回ゲスト 西城秀樹ザ・スター リバイバル』(BSフジ、第2回、2013年10月26日放送)、西城秀樹さん 香港でも大スター アグネス悼む「日本語ができなかった私にも…」残念無念 西城秀樹さんの訃報 2018-05-17–アグネス・チャン 公式ブログ アグネスちゃんこ鍋西城秀樹さんの偉大さを知る 2018年6月1日 –大桃美代子オフィシャルブログ「桃の種」 - Ameba Blog
  310. ^ a b "【甘口辛口】 西城秀樹さん、脳梗塞発症後15年も病魔と闘い続けたのは壮絶の一語に尽きる". SANSPO COM. 産業経済新聞社. 22 May 2018. 2018年5月20日閲覧
  311. ^ "「秀樹、感激~♪」を封印し、意外性を打ち出している西城秀樹の現在". サイゾーウーマン. サイゾー. 7 March 2011. 2018年6月13日閲覧
  312. ^ a b c d 「独占スクープ! 西城秀樹に香港の恋人がいた! "香港の百恵"アニタ・ムイの熱烈歓迎の陰に秘められたるものは?」『週刊明星』、集英社、1985年11月2日号、34-35頁。 
  313. ^ a b c d e 「〔やじウマ〕 平和の使者は"歌に国境はない" 西城秀樹」『月刊明星』1982年12月号、集英社、72–73頁。 
  314. ^ 日本の歴史教科書問題の由来 - 人民日報
  315. ^ 「人気女優のアニタ・ムイはボクのファンクラブの副会長だった」#熱き想い、164-170頁。
  316. ^ 香港スターまで魅了した西城秀樹さん、「“妹”の元に旅立った」驚きと悲しみの声―香港西城秀樹の死去 香港中が深い悲しみに包まれる
  317. ^ 渡部圭 (8 January 2004). "世界の町から 香港 天国に輝く友好の星". 東京新聞夕刊. 中日新聞東京本社. p. 6.
  318. ^ 「あげるよねえ~はるなの愛」、日刊スポーツ、2010年11月8日
  319. ^ a b c d "西城秀樹、海外で活躍 香港で成功、米進出狙う". 読売新聞. 読売新聞社. 25 November 1986.
  320. ^ 「いちどウワサになってみたいね!? 西城秀樹・藤谷美和子 『ホームスイートホーム』(NTV)」『月刊平凡』1982年12月号、平凡出版、72–73頁。 
  321. ^ 「日本の有名スター死去」香港台湾でも西城さん報道
  322. ^ 川崎浩 (30 November 1993). "〔創造最前線〕 かつてのヒット曲を再び歌う、西城秀樹". 毎日新聞夕刊. 毎日新聞社. p. 11.
  323. ^ a b "西城秀樹さん 中国のファンからも惜しむ声". NHK NEWS WEB. NHK. 17 May 2018. 2018年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月3日閲覧
  324. ^ a b c d e f g h i 「熱いコールに多謝(どおちえ) きっといつか再見(つあいちえん) 西城秀樹」『週刊明星』、集英社、1987年2月2日号、188-191頁。 
  325. ^ a b 鈴置高史ソウル特派員 (17 September 1988). "前夜祭で西城秀樹、日本語のまま韓国で歌う。". 日本経済新聞. 日本経済新聞社. p. 31.
  326. ^ a b "『アジア音楽祭イン福岡』 司会は西城秀樹と蓮舫 テレビ東京・あす生中継". 毎日新聞. 毎日新聞社. 27 May 1996. p. 17.
  327. ^ 白石徹 (24 August 1998). "芸は上海にあり 目指すは世界デビュー 『芸術学校』若者に人気 日本の安室やSPEED夢見て猛特訓". 東京新聞夕刊. 中日新聞東京本社. p. 10.
  328. ^ 「〔エッセイ〕 ふるさと 望郷の歌 西城秀樹」『海外移住KAIGAIIJU』、国際協力機構、2000年1月号 NO.591、1頁。 
  329. ^ "西城秀樹、逝去". BARKS. 17 May 2018. 2018年5月18日閲覧
  330. ^ 香港「IFPI Top Sales Music Award」表彰式に出席(サンケイスポーツ/2007年3月23日
  331. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Biography」⇒「2000〜2009」
  332. ^ NEWS|丸井グループ 丸井織物株式会社
  333. ^ 『I LOVE YOU -now & forever- 完全本』ビクターエンタテインメント、2013年
  334. ^ 【ライブレポート】桑田佳祐、番組リスナーを前に熱唱。サザンからクラプトンまでBARKS
  335. ^ 桑田佳祐、最後の「ひとり紅白」で55変化!サザンメンバーも登場SANSPO.COM 2018年12月3日
  336. ^ 1995年のライブビデオ『ホタル・カリフォルニア』より。
  337. ^ 桑田佳祐「YOUNG MAN」歌った…同い年の西城秀樹さんを追悼2018年5月20日6時0分 スポーツ報知
  338. ^ サザンオールスターズから弔電…西城秀樹さん告別式 2018年5月26日16時42分 スポーツ報知
  339. ^ 山田満郎『8時だョ!全員集合の作り方』双葉社、2001年、257-270頁。ISBN 4-575-29204-4 
  340. ^ 「9月で終了! 『8時だョ!全員集合』思い出グラフィティ」『週刊明星』1985年8月15日号、集英社、171頁。 77歳 仲本工事が語る“ドリフ秘話”「加藤は天才、志村は秀才」の理由 ドリフターズ 仲本工事インタビュー#2志村けん「ファミリーヒストリー」に西城秀樹の姿
  341. ^ a b c d e 「さよなら『8時だョ!全員集合』大特集!」『週刊平凡』1985年8月23日号、平凡出版、110-114頁。 
  342. ^ "昭和のテレビ 第28回 8時だョ!全員集合(TBS) ランキング データで見る「8時だョ!全員集合」の歴史". サンデー毎日. 毎日新聞. 14 April 2016. 2016年4月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月4日閲覧
  343. ^ a b c 居作昌果『8時だョ!全員集合伝説』双葉社、1999年、199-208頁。ISBN 4-575-29016-5 
  344. ^ 山田満郎『8時だョ!全員集合の作り方』双葉社、2001年、139頁。ISBN 4-575-29204-4 
  345. ^ a b 「火事もありましたね」これぞ高木ブー伝説高木ブーがセレクトする「俺の5チャンネル」:スカパー!セレクト5Presents(第94回)【都市伝説】ドリフ放送事故にヒデキの影あり?「停電」「火事」に全て出演!
  346. ^ <西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (18)テレビコマーシャル (Internet Archive)、「ブランド列伝」バーモントカレー(ハウス食品)2010年6月29日13頁(Internet Archive)、大阪広告協会賞受賞企業インタビュー | 第8回 ハウス食品グループ本社あのカレーのパッケージが秀樹還暦仕様/芸能/デイリースポーツ onlineバーモントカレー690億皿「Hey!Say!」起用 - スポニチ Sponichi Annexカレー進化論。 | 雑誌・昭和40年男
  347. ^ バーモントカレー | ハウスのカレー物語 | カレーハウス | ハウス食品魅惑のカレー | Trace 「トレース」- NTTグループカード中国でひそかに進む「カレー人民食化」計画:日経ビジネスオンライン【追悼】「ハウス食品」西城秀樹さんに感謝
  348. ^ 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】 (18)テレビコマーシャル 「ピース」の陰に“演出家”
  349. ^ なかじましんや 土曜の穴 - 文化放送 第163回 2018年5月26日放送
  350. ^ "「大変お世話になりました」ハウス食品グループ本社 カレー「ヒデキ、感激」で国民食に". 産経ニュース. 産業経済新聞社. 17 May 2018. 2018年5月19日閲覧
  351. ^ "西城秀樹さん通夜、会葬御礼は「バーモントカレー」". 日刊スポーツ. 日刊スポーツ. 25 May 2018. 2018年5月26日閲覧
  352. ^ 酒井法子の描いた子マンモスがのりピーちゃんに出会う物語
  353. ^ 20代女子から“おっさん認定”される死語ワースト10 「ケー番教えて」はもう古い!流行語「いただきマンモス」の始祖も西城秀樹さんだった。てっきりマンモスうれ(ピー)の人かと
  354. ^ 伝説の昭和の家庭が甦る!「寺内貫太郎一家」DVD-BOX発売へ
  355. ^ 西城秀樹さんの“伝説”と元フライデー記者もお手上げだった優しい素顔
  356. ^ <西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (19)寺内貫太郎一家(Internet Archive)
  357. ^ a b 小林亜星「アセイのあなろぐ語録」(37) 東京スポーツ、2008年6月11日
  358. ^ 西城秀樹さんの死にアニメファンから偲ぶ声続々 「ターンエーターン」ガンダム主題歌もトレンド入り【ターンAターン】西城秀樹の力強さに胸が奮える…今、歌詞の意味と共に偲ぶ『∀ガンダム』OP曲富野監督が西城秀樹さんに「もう少し人の事を信じなさいよ」って言われたエピソードがもう完全にガンダム
  359. ^ 絶滅危機のヤンキー作品、カッコ悪い“コメディー化”で再び優良コンテンツに?
  360. ^ 新文芸坐 on Twitter: "【追悼・西城秀樹】【6/29(金)限定上映】ヒデキ、ありがとう!
  361. ^ 「西城秀樹と秦野マネージャーとの関係」『近代映画』1974年7月号、近代映画社、144 - 145頁。 
  362. ^ 愛と誠(DVD) | 松竹DVD倶楽部
  363. ^ 「元祖・美少女ブームをつくったボクのアイドル審美眼 審査員の反対を押して決めた河合奈保子、石川秀美、早乙女愛#熱き想い、96-99頁。
  364. ^ 週刊現代講談社、2010年12月18日号、1頁
  365. ^ 早乙女愛さん急死…息子と前夫にみとられ日刊スポーツ、2010-07-27
  366. ^ インド映画も真っ青!『愛と誠』がミュージカル仕立てで甦る - 日経トレンディ
  367. ^ a b c d e f 「TV特集 スタジオでは火花 楽屋ではノンビリ雑談 スタジオルポ1 『あこがれ共同体』 ひろみ、秀樹、淳子の激突」『月刊平凡』1975年8月号、平凡出版、129-131頁。 
  368. ^ a b c 「HIDEKI SAIJO JUNKO SAKURADA あやとり」『月刊明星』1975年7月号、集英社、75-77頁。 
  369. ^ a b c d "〈百恵と淳子〉の交差線 連載 第4回百恵は"哀愁"、淳子は"意外性"". アサヒ芸能. 徳間書店. 22 January 2013. pp. 60–62. 2018年5月31日閲覧
  370. ^ 70年代 原宿の原風景リレーエッセイ TOP - 70's 原風景 原宿 『リレーエッセイ 思い出のあの店、あの場所』【インタビュー】原宿を"ファッションの街"にした巨匠、菊池武夫が語る現在の表参道・原宿
  371. ^ a b 田家秀樹「KEY WORDS」『吉田拓郎ヒストリー 1970-1993』ぴあ〈ぴあ music collection 4〉、1994年、158頁。 
  372. ^ 「全ガイド スターに会えるあの店この店」『月刊平凡』1974年9月号、平凡出版、81頁。 『Vol.14 フォークソング+朗読劇 レコード会社の新しい試み』若者が憧れた 重松清「あの頃僕らはペニーレインで」 朝日新聞(Internet Archive)、70年代原宿の象徴 「ペニー・レイン」が復活 - 原宿新聞十年フォーク 2017年6月15日 発売! - OTONANO記憶のエアポケット 風の街、原宿ペニーレーンが思い出せない
  373. ^ a b c "「ヤングマン」製造工場のミカン箱で歌った 秘話". ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. 18 May 2018. 2018年5月19日閲覧
  374. ^ a b c 「ゲンバism あの浅草マルベル堂に潜入 これぞブロマイド撮影の極意 マルベル堂トリビア10」、東京スポーツ、2010年9月28日
  375. ^ 輝くヒデキ、442のポーズ 浅草のブロマイド店で追悼コーナー設置西城秀樹さんの凄さはなんといってもプロマイドのランキング。
  376. ^ 秀樹さん。今どんな夢を見てますか。
  377. ^ a b 【復刻】スポーツ万能「金メダル」の西城秀樹さん
  378. ^ 海育ちの山川豊、西城秀樹さんをしのぶ「水泳大会ではかなわなかった」キャシー中島明かす 西城さんのプロ魂「ファンのために歌うから、女の子とは…」
  379. ^ a b 竹島勇 (16 August 2001). "フジ名物番組『オールスターー~』 "芸能人水泳大会"どこへ 『水着はイヤ!』派増えて幕...アイドル像とともに浮沈". 東京新聞夕刊. 中日新聞東京本社. p. 16.
  380. ^ 【帰ってきたアイドル親衛隊】人気絶頂の頃は近づくことすらできなかった西城秀樹…やっと撮れる日が来たのだが西城秀樹が死去。「ギャランドゥ」という憧れスタイル女性にもいる!へそ周り毛・ギャランドゥがある人たちの苦悩きゃりーぱみゅぱみゅと間寛平の意外な関係 無意味な文字の羅列「♪ギャランドゥ」が意味を持ったNEWS手越祐也「ぴかぴかボディ」の秘密ATAMI DOUBLES 「売春捜査官〜ギャランドゥ」「熱海殺人事件」竹内涼真「ギャランドゥ写真展」の気になる中身ギャランドゥな新体操 鹿児島実、コミカルな演技で魅了
  381. ^ a b 追悼! 西城秀樹 語り継がれる“巨根ギャランドゥ”武勇伝
  382. ^ 【新堂本兄弟】 ゲスト:つんく♂ – フジテレビ公式サイト
  383. ^ "【話の肖像画】 音楽プロデューサー つんく♂さん". 産経新聞. 産業経済新聞. 13 May 2003.
  384. ^ 久米宏が仕掛けた「ほかの歌番組がやらないこと」とは? 「ザ・ベストテン」の舞台裏往年のスター続々『ザ・ベストテン』西城さん追悼再放送が凄い
  385. ^ 「俺の毎日フル・スロットル 西城秀樹・行動野郎の生物研究」『月刊明星』1979年9月号、集英社、16-17頁。 
  386. ^ "【ほくりく昭和モノがたり】 ウォークマン(昭54年発売)". 北陸中日新聞. 中日新聞北陸本社. 28 November 2015. 2015年1月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月20日閲覧
  387. ^ 森健二 (11 April 2016). "言葉までイノベートした盛田"マジック" 連載 通算第48回". ダイヤモンドオンライン. 2016年12月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月20日閲覧黒木靖夫 (26 September 2007). "【最期の教え】黒木靖夫氏・ウォークマン流ブランド構築術". 日経テクノロジーオンライン. 2016年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月20日閲覧三品貴志 (27 May 2018). "【日本発 アイデアの文化史】携帯音楽プレーヤー(上)". 産経新聞. 産業経済新聞社. 2018年6月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月24日閲覧『あのころangle 街と地図の大特集1979 新宿・池袋・吉祥寺・中央線沿線編』主婦と生活社、2018年、50頁。ISBN 978-4391151015 
  388. ^ 西城秀樹「走れ正直者」の誕生秘話
  389. ^ さくらももこ公式ブログ ご冥福を御祈りします。
  390. ^ 西城秀樹さんの死にアニメファンから偲ぶ声続々 「ターンエーターン」ガンダム主題歌もトレンド入り
  391. ^ a b c 竹内オサム (28 November 2009). "マンガの国の『衣食住』:『がきデカ』の破壊的ギャグ". 毎日新聞. 毎日新聞社. p. 22.
  392. ^ トシちゃんかんげきーっ!!「マカロニほうれん荘展」会場限定グッズ、ネットで再販
  393. ^ a b 表智之(京都国際マンガミュージアム) (26 June 2007). "(熱血!マンガ学) マカロニほうれん荘 オキテ破り、ギャグ漫画の金字塔 【大阪】". 朝日新聞夕刊. 朝日新聞社. p. 3.
  394. ^ 天才テリー伊藤対談「相本久美子」芸能界デビューはサイン会見学から
  395. ^ 増殖中“妹分アイドル”のメリットとデメリット
  396. ^ 「堤清二のこの女(ひと)に会いたい 第2回ゲスト 岸本加世子」『サンデー毎日』、毎日新聞社、1984年6月24日、42-46頁。 
  397. ^ 芳村真理が語る「スターかくし芸大会」西城秀樹が見せた神業
  398. ^ a b c 「STニュース特集 パトカー出動、でもヒデキはしあわせ!!」『週刊セブンティーン』1972年10月17日号、集英社、51頁。 
  399. ^ a b c 「STニュース特集 サア、こんどヒデキはどこに出現する!?」『週刊セブンティーン』1972年10月31日号、集英社、57頁。 
  400. ^ AIによる公式インタヴュー その3 砂原良徳 | Sweet Robots Against The Machine
  401. ^ 『和田アキ子だ 文句あっか!』 和田アキ子著、日本文芸社、1983年、19-22頁
  402. ^ 週刊プレイボーイ集英社、2009年10月12日号、158頁
  403. ^ 和田アキ子が身近な「弟」西城秀樹さんに献杯した夜
  404. ^ 1977年1月3日付『毎日新聞』掲載
  405. ^ 山口百恵さんが西城秀樹さんへラブレターを送っていた…テリー伊藤が秘話明かす(サンスポ.com、2018年5月20日)
  406. ^ テリー伊藤対談「西城秀樹」(4)人気絶頂の時にはどんなデートを?
  407. ^ 「山口百恵ちゃんは、デビュー前からずっとボクのファンだった」#熱き想い、26頁。
  408. ^ 「"青い果実"山口百恵クンの実家ルポ 淋しいんです!2K妹ひとり母ひとり」『月刊明星』1973年12月号、集英社、69頁“〈寝室の壁に西城秀樹のピンナップ〉 ところで、百恵クンの実家の間取りは...2段ベッドは上段が百恵クン用だが、その枕元の壁には西城秀樹のピンナップが5、6枚貼ってある。歌手になるなんて夢にも思っていなかった昨年まで、百恵クンは西城秀樹の熱烈なファンだった。 
  409. ^ 「スターと電話でデート(第6回) 山口百恵と電話で話そう」『月刊平凡』1974年3月号、平凡出版、160頁“ファン(以下、F)「私、西城秀樹さんの大ファンなんです。百恵ちゃんも秀樹のファンなんでしょ」 山口百恵(以下、M)「なんかでも、そういうお話すると西城さんのファンの人にうらまれちゃうんじゃないかと心配しているんですけどねェ」 F「でも私たち百恵ちゃんも秀樹の大ファンだって知ってるワ。だから私達、百恵ちゃんも秀樹ファンの一人として認めてるの」 M「ほんと、どうもありがとう。よかった」 
  410. ^ 「芸能界イラスト全調査 ヤングタレントの意外な関係」『月刊平凡』1974年7月号、平凡出版、65-66頁。 
  411. ^ 「スターシリーズ MEMORY(4) 誰にも話さなかった初めての"あの日" 山口百恵」『月刊明星』1977年7月号、集英社、160頁“百恵は以前から西城秀樹の大ファンで、彼にあこがれて歌手になったと言ってもいい。1973年3月7日、福島県郡山での『スタ誕公録で、秀樹とはじめていっしょになった。「そのとき、新人コーナーで『としごろ』を歌ったんだけど、自分の歌より、秀樹さんのことばっかり気になって...」。"百恵ちゃんヘ"と添え書きをしたそのときの秀樹のサインを、彼女はいまでも大切に持っている。 
  412. ^ 「あの女優(ひと)との恋、少し話そうか」#熱き想い、110-113頁。"女優 十朱幸代 初自叙伝で告白 "28年前の破局"元恋人に初言及(スポニチ)". 毎日新聞. 毎日新聞社. 29 October 2018. 2018年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月12日閲覧石田英明 (8 November 2018). "自叙伝で暴露!十朱幸代、西城秀樹と「婚約発表1週前」に別れた驚きの理由". アサジョ. 徳間書店. 2018年12月12日閲覧
  413. ^ a b 木藤隆雄(オールナイトニッポン)「アイドルスター(秘)ウラばなし カキマクリマン」『月刊平凡』1979年1月号、平凡出版、82頁。 
  414. ^ 中島知子と鈴木おさむエンタな日曜日 ニッポン放送
  415. ^ a b c 「Who's Who すくらんぶる 西城秀樹」『週刊文春』1984年4月19号、文藝春秋、57頁。 
  416. ^ a b "青年時代から上昇志向 『政治家になる』公言 麻原代表 教師に、へ理屈". 中日新聞. 中日新聞社. 16 May 1995. p. 26.
  417. ^ 井原圭子・高田圭子・三ツ松千佐子「麻原教祖の虚実と実像 オウム真理教を開いた男 サリンとオウム」『AERA』1995年4月10日、朝日新聞社、13頁。 
  418. ^ 「《ことしは広島同士でV独占対談》 西城秀樹&山本浩二 『燃えてる男はいい顔してる』」『月刊明星』1979年12月号、集英社、53–55頁。 
  419. ^ 「うれしかったあの日の愛!」『月刊明星』1979年8月号、集英社、154-155頁。 
  420. ^ a b 「アイドル・スターの極秘情報その意外な私生活!」『月刊平凡』1974年1月号・臨時増刊 '74IDOLSTARFESTIVAL、平凡出版、59頁。 
  421. ^ "「西城秀樹さん 訳詞・天下井隆二さんが明かす「ヤングマン」誕生秘話". 産経ニュース. 産業経済新聞社. 17 May 2018. p. 1-2. 2018年5月19日閲覧
  422. ^ 西城秀樹さん「2度の脳梗塞」から復帰した激痛リハビリ
  423. ^ "西城秀樹さん 妻が手記で明かした隠れ脳梗塞の恐怖". NEWSポストセブン. 小学館. 2018年11月20日閲覧
  424. ^ "西城秀樹さんの妻「ようやくアルバムを眺められるように」". NEWSポストセブン. 小学館. 2018年12月13日閲覧
  425. ^ "西城秀樹さんの最期「パパを休ませてあげよう」…遺族の決断を徳光アナ明かす". スポーツニッポン. スポーツニッポン. 26 May 2018. 2018年6月11日閲覧

参考文献

関連項目

外部リンク