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=== ロックバンド ===
=== ロックバンド ===
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1970年代のテレビの[[音楽番組|歌番組]]は基本的に[[生放送]]・[[演奏|生演奏]]で<ref name="熱き想い41">「バックバンドを持つと嫌われるなんておカド違いだ」[[#熱き想い]]、41-44頁。</ref><ref name="nikkei2008927">{{Cite news2|author=松本和佳|title=プラスワン 西城秀樹さんーヒデキ感激お茶漬けの味(食の履歴書)|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社|date=2008-09-27|page=7}}</ref><!--- <ref name="hotexpress1">[http://www.hotexpress.co.jp/interview/111018_shinjiharada/ 原田真二 アルバム『OUR SONG』 インタビュー PAGE1/音楽情報サイト: hotexpress ]</ref>--->、出演歌手は番組専属の[[オーケストラ]] ([[ビッグバンド|フルバンド]])のバック演奏で歌っていたが<!---<ref name="hotexpress1"/>--->、当時はよりロック色の強い路線だったこともあり、レコードよりもっとハードな音を出したいと、自身の音に対するこだわりをフルバンドの人たちに100%伝えるのは無理があると感じていたため<ref name="熱き想い41"/>、早く自分のバンドを作りたいという希望があった<ref name="週刊セブンティーン1975422" /><ref name="熱き想い41"/>。1974年2月に[[日本武道館]]で挙行された[[フェイセズ]]の来日公演を鑑賞に行った際、その前座で[[ジョー山中]]らとセッション・バンドで演奏していた[[芳野藤丸]]に声を掛け、自身の[[バックバンド|サポートバンド]]を要請<ref name="kayo024" /><ref name="tokyo-spo-ym">[https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/913765/ ダイアモンド・ユカイが語る“新御三家”郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎]</ref><ref name="okmusic20181003">{{Cite web2|author=帆苅智之|date=2018-10-03|url=https://okmusic.jp/news/295977|title=SHOGUNの『ROTATION』は、70年代の邦楽シーンを支えた名うてのスタジオミュージシャンたちが作り上げた濃厚な作品|website=[[OKWAVE#OKMusic|OKMusic]]|publisher=JAPAN MUSIC NETWORK|accessdate=2018-10-13|archiveurl=https://archive.is/hmbOb|archivedate=2018-10-06}}</ref>。「藤丸BAND」を結成し以降、芳野が「[[SHŌGUN]]」での活動が忙しくなった1979年まで『[[夜のヒットスタジオ]]』などのテレビの[[音楽番組|歌番組]]や西城のライブでバックバンドを務めた<ref name="kayo024" /><ref>[http://music-book.jp/music/news/news/199339 芳野藤丸が西城秀樹らとの秘話を語る「SHOGUNだって秀樹がいなければ生まれていなかった」]</ref>。「藤丸BAND」という名称は(仮)の名前だった<ref name="週刊セブンティーン1975422" />。


西城はアマチュア時代と同様、最初から[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]をバックに歌うことが希望であったが<ref name="熱き想い41"/>、駆け出しの身分では自分のバンドを持ちたいとは言えず、実績もある程度のレベルにきてようやく実現できた<ref name="熱き想い41"/>。「自身のサウンドを創るため、バンドの若い仲間と[[ディスカッション]]したい」という希望がようやく叶った<ref name="週刊セブンティーン1975422" />。歌番組のフルバンドは全てのジャンルの曲をやらないといけないため、どの曲も[[テンポ]]、[[リズム#音楽におけるリズム|リズム感]]が同じで自分なりの匂いを出すことができず、イメージする音と違っていた<ref name="熱き想い41"/>。しかし当時のテレビ局のスタッフやフルバンドの人たちから「こんなバンド作られちゃ、[[リハーサル#音楽におけるリハーサル|準備にも音合わせ]]にも時間がかかって迷惑だ」などと何度も嫌みを言われた<ref name="熱き想い41"/>。逆に自身が実績を積み上げるとフルバンドの方がいい音を出してくれたこともあったが、新人の頃は舐められ、演奏中に居眠りする人もいたという<ref name="熱き想い41"/>。
西城はアマチュア時代と同様、最初から[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]をバックに歌うことが希望であったが<ref name="熱き想い41"/>、駆け出しの身分では自分のバンドを持ちたいとは言えず、実績もある程度のレベルにきてようやく実現できた<ref name="熱き想い41"/>。「自身のサウンドを創るため、バンドの若い仲間と[[ディスカッション]]したい」という希望がようやく叶った<ref name="週刊セブンティーン1975422" />。歌番組のフルバンドは全てのジャンルの曲をやらないといけないため、どの曲も[[テンポ]]、[[リズム#音楽におけるリズム|リズム感]]が同じで自分なりの匂いを出すことができず、イメージする音と違っていた<ref name="熱き想い41"/>。しかし当時のテレビ局のスタッフやフルバンドの人たちから「こんなバンド作られちゃ、[[リハーサル#音楽におけるリハーサル|準備にも音合わせ]]にも時間がかかって迷惑だ」などと何度も嫌みを言われた<ref name="熱き想い41"/>。逆に自身が実績を積み上げるとフルバンドの方がいい音を出してくれたこともあったが、新人の頃は舐められ、演奏中に居眠りする人もいたという<ref name="熱き想い41"/>。

2021年7月11日 (日) 01:13時点における版

西城 秀樹
Hideki Saijo
出生名 木本 龍雄(きもと たつお)
生誕 (1955-04-13) 1955年4月13日
日本の旗 日本広島県広島市
(現:東区)東蟹屋町
死没 (2018-05-16) 2018年5月16日(63歳没)
日本の旗 日本神奈川県横浜市
学歴 明治大学付属中野高等学校定時制 卒業
ジャンル 歌謡曲
職業 歌手
俳優
活動期間 1972年 - 2018年
レーベル 1972年 - 1975年:
ビクター音楽産業
1975年 - 1987年:
RVC
1987年 - 1999年:
「BMGビクター」
1999年:
キングレコード
1999年 - 2001年:
ユニバーサル ポリドール
2002年 - 2013年:
ユニバーサルJ
2015年 - 2018年:
Battle Cry Sound
事務所 芸映→アースコーポレーション
公式サイト 西城秀樹オフィシャルサイト (日本語)

西城 秀樹(さいじょう ひでき、1955年昭和30年〉4月13日 - 2018年平成30年〉5月16日[1] )は、日本男性歌手俳優新御三家の1人。 本名は木本 龍雄(きもと たつお)。広島県広島市出身[2][3][4]。アースコーポレーション所属。身長181cm。血液型はAB型。既婚。

来歴

生い立ち

広島県広島市東蟹屋町に生まれる[5]。父親は事業家で家は裕福だった[6]ジャズギターが趣味だった父親の影響で幼少期から洋楽に馴染み、ジャズスクールに通って、最初はエレキギター、その後ベース、次いでドラムを勉強した[7]。小学4年生の時に[8]、兄とエレキバンド「ベガーズ(beggars)」を結成[9][10]。尾長小学校在学中から小学生ドラマーとして活動し[11]GS全盛期の1968年、兄が中3、自身が中1のとき、広島市立二葉中学校文化祭でステージ演奏をした[12]ザ・ベンチャーズローリング・ストーンズジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンシカゴなどの洋楽に影響を受けた[13]。中学以降もバンド活動を続け、ビアガーデン等でバンド演奏のアルバイトをした[14]。こうした洋楽通ぶりがプロデビュー後、他のアイドルとは一線を画す個性となった[15]

兄らが卒業したため中学2年のとき「ベガーズ」からメンバーを入れ替え「ジプシー」を結成[16]。このバンドでリードボーカルとなる[8]。「ジプシー」でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第一回、第二回に出場し[16]、中国大会で優勝した[17]山陽高等学校一年の1971年R&B喫茶「パンチ」から声がかかり[8]、店のレギュラーバンドになり[8]、店で歌唱していたところをスカウトされる[17][18]。本来、歌手には興味がなかったが、当時尾崎紀世彦の「また逢う日まで」がヒットして、歌謡曲が変わり始めた時期と感じスカウトを承諾した。父親が頑固で厳格な人であったため芸能界入りを猛反対[19]。その反対を押し切り、高校一年の二学期途中の1971年10月3日、家出同然で広島から夜行列車で上京[8]10月4日朝、東京駅[8]芸能事務所芸映」に所属[20]明大中野高等学校定時制へ転校する[21]。広島では12畳の部屋に一人で住んでいたが、3畳もない納戸(三角部屋)にマネージャーと二人で住んだ[8][22]

デビュー後

1972年3月25日、日本ビクター(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のRCAレーベルよりシングル「恋する季節」で歌手デビュー。芸名は『女学生の友』の一般公募[23]。。片仮名の「ヒデキ」が愛称となる[15]

1972年11月25日に発売された「チャンスは一度」で、一躍トップアイドルの仲間入りを果たし、郷ひろみ野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれるようになった[24]

1973年6月25日、5枚目のシングル「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入り[15]、以降「ちぎれた愛」、「愛の十字架」が連続してオリコン週間チャートの第1位を獲得。『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞する。

激しい恋」がオリコン年間チャートの第8位を獲得。「傷だらけのローラ」が、『第16回日本レコード大賞』で歌唱賞を受賞。これによりポップス歌手としては史上初となる2年連続受賞を樹立する。『第25回NHK紅白歌合戦』にも初出場し、その後も着実にヒットを飛ばす。ホームドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演、松竹映画『愛と誠』で映画初主演と、俳優としても活動する。

1976年の「ジャガー」、1978年の「」で、『東京音楽祭』国内大会でゴールデン・カナリー賞を受賞し、世界大会にも出場。1979年、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」で「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現するパフォーマンスを披露した。

ロック系のポピュラー音楽を中心にしたコンサート活動も精力的に行い、1974年から1983年まで10年連続で、大阪スタヂアム(大阪球場)でのスタジアム・コンサートを(1978年からは後楽園球場でも)開催する。1975年秋には、日本人のソロ歌手として史上初となる日本武道館でのリサイタルを公演し[25]、その後11年連続(通算12回)開催する。

1981年4月6日、「リトルガール」でシングル30曲ベストテン入り(オリコン史上初)[注 1]。続く「セクシーガール」で、発売シングルレコードの総売上枚数が1,000万枚を突破する(史上5組目)[15][注 2][注 3]

1983年1月21日、スタッフと共に芸映を退社し独立、有限会社(現・株式会社)「アースコーポレーション」を設立する。

NHK紅白歌合戦』は1974年から1984年の「抱きしめてジルバ」まで11年連続出場(その後1994年に10年ぶりに出場後、1995年、1997年から2001年までの計7回出場した。)。『日本レコード大賞』では1976年の「若き獅子たち」が歌唱賞を受賞。金賞は1978年の「ブルースカイブルー」から1983年の「ギャランドゥ」まで6年連続受賞する。ヒット曲をランキング形式で紹介する音楽番組『ザ・ベストテン』には放送が開始した1978年の「ブーツをぬいで朝食を」から1985年の「腕の中へ」まで22曲ランクインした。

長らく独身であったが、2001年6月30日に大阪府在住の会社員の一般女性と結婚[注 4]。2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男、2005年1月7日に二男が誕生している。

脳梗塞発症

2001年秋に脳梗塞を発症(この時は「二次性多血症」と発表)[26]

2003年6月21日、公演先の韓国で2度目の脳梗塞を発症する。軽度の言語障害の後遺症は残ったが、闘病の末復帰し、2006年9月27日、3年ぶりに「めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -」が両A面で発売された。

だが8年後の2011年12月20日に、脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度入院する。右半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態などが改善していた[27][28]

晩年 闘病 死去

2018年4月14日、栃木県足利市で開催された『同窓会コンサート2018 in足利』に出演。結果的にこのコンサートが西城にとって最後の歌唱となった。それから5日後の4月19日、東京都練馬区練馬文化センターで『第23回 紅白歌合戦』(日本歌手協会主催)の開催時、最後方の席で西城が座っている所に総合司会の歌手協会理事・合田道人から紹介された際、西城は自ら立ち上がって観客にアピールをしたが、これが最後の公の姿となった[29]

この日から6日後の2018年4月25日、自宅の家族団欒の席で突然倒れて救急搬送で緊急入院。意識不明の状態が続く中懸命の治療が行われたが[30]、同年5月16日23時53分、急性心不全のために神奈川県横浜市内の病院で亡くなった[30][31]。63歳だった。法名は「修音院釋秀樹しゅうおんいんしゃくひでき[32]

西城の訃報を受け、「新御三家」としてライバルでもあり戦友でもあった郷ひろみと野口五郎を始め[33]、数多くの著名人が追悼コメントを発した。

死去から9日後の5月25日に青山葬儀所で通夜が営まれ、新御三家の二人を始めとする歌手仲間・芸能関係者・多数のファン達が参列[34]。翌日の告別式では野口と郷が終始涙ぐみながら弔辞を読み[35]、出棺の際には代表曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」「ブルースカイブルー」等が流され、約1万人のファンから「ヒデキ!」コールを浴びながら斎場を後にした[36]。その後、遺体は品川区桐ヶ谷斎場にて荼毘に付された。

逝去後

没後の11月、妻が『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』を上梓。この中で、2回とされていた脳梗塞が、実際には結婚直後の2001年に発症していたほか、「隠れ脳梗塞」を含めると計8回発症していたことを公表した[26]

年表

1972年 - 1975年

1972年3月25日発売のシングル「恋する季節」で歌手デビュー。 8月8日、東京・郵便貯金ホールにてファースト・コンサート『ワイルドな17歳』を開催。同年11月に発売された1thアルバム『ワイルドな17歳/西城秀樹』のB面3曲目「母と子の絆」は、この年ポール・サイモンが世界的に大ヒットさせたシングルを西城が訳詞したもの[37]、。12月4日、『夜のヒットスタジオ』に初出演。日本レコード大賞第14回最優秀新人賞候補は11月26日の部門賞で5組を選出した。結果、森昌子(37票)、三善英史(36票)、麻丘めぐみ(27票)、郷ひろみ(20票)、青い三角定規(20票)に、僅か1票差の19票に終わり惨敗、選に漏れた[37]

1973年3月26日、大阪毎日ホールでデビュー1周年記念コンサート『ヒデキ・オン・ステージ』を開催。9月24日、「ちぎれた愛」が「新御三家」の中では初めてとなるオリコン1位(47.5万枚)を獲得[15][38]。これは70年代デビューの男性アイドルでも初のオリコン1位であった[38]。11月、「ヒデキ、感激!!」でお馴染み「ハウス バーモントカレー」のテレビ広告が放送開始。12月31日、『第15回日本レコード大賞』歌唱賞を獲得するも、初出場が確実視された『第24回NHK紅白歌合戦』は落選[39]

1974年1月16日 - 10月9日、ホームドラマとして人気を博したTBS系列テレビドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演。

1974年8月3日、日本で初めてとなるスタジアムでのワンマン・コンサートを、大阪球場で (以降10年連続、後楽園球場では1978年から4年連続で) 開催。10月6日、広島郵便貯金ホールにて凱旋コンサート『バック・ホーム・アゲイン・ヒロシマ』を開催[40]。 12月31日、「傷だらけのローラ」で2年連続となる『第16回日本レコード大賞』歌唱賞を受賞。『第25回NHK紅白歌合戦』初出場。

1975年1月30日、第12回『ゴールデン・アロー賞』でグラフ賞を受賞。2月15日、西城の初の海外進出作品として「傷だらけのローラ」のフランス語バージョン「LOLA」が、フランススイスベルギーで発売され、3月31日に発売されたカナダでは[41][42]、ヒットチャート第2位にランクされた[43][注 5]。5月、3月31日より放送開始の『寺内貫太郎一家2』で、番組名物小林亜星との乱闘シーンの撮影中、腕を骨折。6月6日 - 9月26日、TBS系列のテレビドラマ『あこがれ共同隊』で、郷ひろみ、桜田淳子らと共演。6月13日公開の松竹映画『おれの行く道』に主演。6月29日、『第4回東京音楽祭』国内大会に出場。「LOLA」を熱唱し、ゴールデン・スター賞を受賞。

1975年7月20日、富士山麓緑の休暇村の特設ステージにて日本歌謡史上初の大規模野外コンサートを開催。これを皮切りに、『全国縦断コンサートツアー』をスタートさせる。8月24日、大阪スタヂアム(大阪球場)にてエンディング・フェスティバル。1975年10月10日、このツアーを追って撮影されたドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ(BLOW UP!HIDEKI)』が公開上映される[44]。11月3日、日本人ソロ歌手としては初めての日本武道館公演を行う[45](以降1985年まで11年連続で開催。)

1976年 - 1979年

1976年2月25日、この年から作詞者に阿久悠を起用 10月19日、赤坂ナイトクラブニューラテンクォーターにて初のディナーショーを開催。11月3日、第2回日本武道館コンサート『ヒデキ・イン・武道館』を開催。1977年3月30日、デビュー5周年記念の第3回日本武道館コンサートを開催。7月5日 - 7月28日、ミュージカルに初挑戦。阿久悠台本・作詩、三木たかし作曲、浅利慶太演出による劇団四季わが青春の北壁』(日生劇場)に主演、ポスター担当はイラストレーターの横尾忠則(雑誌では8ページの内6ページが横尾忠則のイラストという記事もあった)[46][47]。8月27日、第4回大阪球場コンサートを開催。11月3日、この年2度目となる第4回日本武道館コンサートを開催。11月20日、NHKビッグショー』に出演(タイトルは『若さを誇らしく思う時に』)。

1978年2月9日、元旦発売の「ブーツをぬいで朝食を」が『ザ・ベストテン』で第1位を獲得。

1978年7月22日、従来の大阪球場に加え、東京の後楽園球場でも第1回コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。8月26日、第5回大阪球場コンサート『BIG GAME'78 HIDEKI』を開催。同年12月19日発売の『ブルースカイブルー』は、『ザ・ベストテン』で14週ベストテン入りし、年間ベストテン第9位を獲得し、(『FNS歌謡祭'78』)では、初の最優秀歌唱賞を受賞。

1979年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。 同年2月21日発売の、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、80.8万枚のセールスを記録し、西城自身最大のヒット曲である。 年末の賞レースでは、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを獲得。

1980年 - 1984年

1980年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。6月13日、フジテレビ「日生ファミリースペシャル」枠のアニメ坊っちゃん』で、坊っちゃん役で声優初挑戦。7月18日、第3回後楽園球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。8月23日、第7回大阪球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。11月3日、第7回日本武道館コンサートを開催。11月23日、東芝日曜劇場『遠くはなれて子守唄』(「日本民間放送連盟賞」受賞作品)に出演。

1981年4月、とんねるずが初めてレギュラー出演した西城司会の情報番組『モーニングサラダ』(日本テレビ)放送開始。8月16日、第4回後楽園球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。8月22日、第8回大阪球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。11月3日、第8回日本武道館コンサート『HIDEKI MY LOVE Hideki Saijo IN BUDOKAN』を開催。

1981年8月、第8回広島平和音楽祭が開催された。その際、広島県出身の西城はリトルガールを熱唱。またこの日の為に作られた楽曲「天と地の架け橋」も披露した。

1982年1月4日 - 1月5日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月13日、『ありがとう青春3650日』と銘打ったデビュー10周年誕生日パーティーを赤坂プリンスホテルで開く。同時に記念作品として「南十字星」が3月25日に発売され、東宝創立50周年記念の日豪合作映画「南十字星」の主題歌となった。8月21日、第9回大阪球場コンサート『BIG GAME '82 HIDEKI』を開催。11月21日、第9回日本武道館コンサート『HIDEKI RECITAL - 秋ドラマチック』を開催。 1983年1月21日、芸映を円満独立して「アースコーポレーション」設立。独立第1弾のシングルは「ギャランドゥ」。8月6日、ツアーラストを大阪球場コンサート『BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT』で閉め、10年続いたスタジアムコンサートに幕を下ろした。11月20日、第10回日本武道館コンサートを開催。 1984年2月4日 - 3月25日、「低髄液圧症候群」という病名で東京女子医大病院に入院。

1984年4月1日、「Do You Know」で『第13回東京音楽祭』世界大会に出場、初の銀賞を受賞。収録曲「Winter Blue」の作曲者は西城本人である。「5月4日 - 5月28日、7年ぶりとなる日生劇場での主演ミュージカル『デュエット』。8月7日、第11回日本武道館コンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。8月14日、大阪城ホールコンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。

1984年8月12日、アニメーション映画黒い雨にうたれて』公開、主演声優を務める[48]

1984年秋に横浜の自宅スタジオから半径500mで聴取可能なFMミニ放送を行う[49]、深夜「こちらモモタロー」のコール・サインで始まり、「お待たせしました。今夜も横浜に住む女性だけに向けて、キャピキャピ放送をお聞かせしましょう。お相手は桃太郎です」と続き、即興風の音楽演奏や自身作曲の歌を歌ったり、物まねなどを流した。最初は毎日放送したが、家の周りに車が何十台も集まって近所迷惑になったため、西城が寝付かれない日、友人が集まって騒ぐ日など、放送日は西城の気まぐれで10日に一回程度になった[49]

1985年 - 1994年

1985年(昭和60年)1月19日、シングル盤50曲発売記念・第12回日本武道館コンサート『'85 HIDEKI Special in Budokan - for 50 songs -』を開催。今までのシングル50曲を全部歌った。2月、『つくば万博』開会式で、そのテーマ曲「一万光年の愛」を当時の皇太子明仁親王(現:明仁上皇)と礼宮文仁親王(現:秋篠宮文仁親王)の臨席上でNHK交響楽団をバックに歌唱する[50]

1986年(昭和61年)5月17日、主演映画『傷だらけの勲章』が全国公開。

1987年(昭和62年)5月21日発売の「New York Girl」は、プロデューサーにジョージ・デュークを迎えたブラックテイストの楽曲で、ジョージから「ヒデキの声は世界で1人しかいない」と絶賛された[51]。同年10月4日に昭和記念公園で開催された「Japan Aid 2nd」(ロックフェス)にジョージ・デュークのゲストとして出演し「New York Girl」を披露。

1988年(昭和63年)、ソウルオリンピック前夜祭に趙容弼(チョー・ヨンピル)(韓国)、陳百強(ダニー・チャン)(香港)、胡寅寅(フーインイン)(中国)と共に出演、日本人として初めて韓国の公式の場において、日本語で 「傷だらけのローラ」を熱唱。またこの模様はKBSをキーステーションに衛星中継で各国に放映された[52]

1989年(平成元年)6月、主演ミュージカル『坂本龍馬』の公演。大阪・新歌舞伎座で座長公演を開始(以降3年連続)。

1990年(平成2年)、クイーン・エリザベス2世号(香港から日本へのクルージング)で船上ディナーショー。 1991年4月、フジテレビ系のアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「走れ正直者」を担当。5月11日、東京・厚生年金会館でデビュー20周年記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD』を開催。初の学園祭ライブを早稲田大学で行う。 1992年(平成4年)4月14日 - 9月29日、『徳川無頼帳』で時代劇ドラマ初主演。

1993年(平成5年)3月、『STOP AIDS CONCERT』(横浜文化体育館)出演・プロデュース。西城の呼び掛けでもんたよしのり寺田恵子沢田知可子男闘呼組、海外からディオンヌ・ワーウィックなど多数のアーチストが参加。

1994年(平成6年)、主演ミュージカル『ラヴ』の公演。12月31日、10年ぶりに『第45回NHK紅白歌合戦』に出場し、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌う。

1995年 - 1999年

1995年1月17日に発生した、阪神大震災の被災者のために数度神戸に足を運び、チャリティー募金も行なう。これが縁で神戸市民から「元気づけられたので是非」という要望があり、2年続けて『第46回NHK紅白歌合戦』で「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌うことになった。

1995年3月9日、東京・渋谷公会堂にて39(Thank you)歳記念コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 39』を開催。8月5日・6日、後述の通り桑田佳祐からの電話でのオファーを受け[53]サザンオールスターズコンサートスーパー・ライブ・イン・横浜 ホタル・カリフォルニア』にゲスト出演。オープニングで2日間観客数16万人と「Y・M・C・A」を決行[54]

1996年7月3日 - 7月14日、ロックミュージカルの『D・LIVE Rock To The Future』に出演。シングル「round'n'round」で音楽番組出演時には、D・LIVEで結成されたMillennium Eve(Back-vo.杏子、gt.中山加奈子、Key.中村美紀、bs.仙波さとみ、ds.MITSUKO)をバックに歌った。 1997年1月21日、25周年を記念して、デビューから現在までのヒストリー・ビデオ『HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES』を発売。

1997年8月6日、 X JAPANYOSHIKIのプロデュースによる「moment」を発売。

1998年4月から、NHK総合青春のポップス』のレギュラー司会を務め(~2002年3月)、歌手としても幅広いジャンルの楽曲を歌唱した[55]

1999年2月7日、舞台『寺内貫太郎一家』に出演(新橋演舞場)。5月、人気ロボットアニメ機動戦士ガンダムシリーズ∀ガンダム』のテレビ主題歌「ターンAターン」を担当。11月17日、レコード会社をポリドールに移籍。第1弾シングルは「Bailamos〜Tonight we dance〜」(エンリケ・イグレシアスのカバー曲)。同年の第50回NHK紅白歌合戦 では、宝塚歌劇団月組をバックに同曲を歌う[56]

2000年 - 2009年

2000年(平成12年)3月31日、東京・厚生年金会館にて80曲記念コンサート『Bailamos 2000』を開催。4月26日リリースの『Love Torture』、ジャケットと共にプロモーションビデオは、西城秀樹自身のプロデュースとなる作品である。シドニーオリンピックサッカー日本代表壮行試合にて「君が代」を斉唱。10月17日発売の「時のきざはし」は、RKこと河村隆一がプロデュースを担当。河村は幼少期に西城に憧れていたこともあり実現。プライベートでも付き合いがある。11月28日、第12回(2001年度)日本ジュエリーベストドレッサー賞を男性部門で受賞。同年中国で行われた『同一首歌 流行経典大型演唱会 (上)』(音楽の大きな祭典)のDVDが中国で発売されている。西城はその祭典で「羅拉」(ローラ・日本語)と「瞬間」(moment・北京語)を歌っている。尚、出演者の中、ソロ歌手で2曲歌ったのは西城だけである[57]

2001年(平成13年)3月、45歳のとき、芸能生活30周年を記念した独身最後の写真集 『H45』を発売[58][59]。"ギャランドゥ"全開ショットやヌードを含むセクシーでワイルドな秘蔵写真が満載[58][60]。6月30日、大阪府在住の一般女性と電撃的に結婚を発表し、静岡県の神社で挙式。7月、ディズニー映画ラマになった王様』の主題歌「ラッキー☆ムーチョ」を「ムーチョ☆ヒデキ」として歌唱。10月、デビュー30周年記念コンサートツアーを開催。

2002年(平成14年)4月28日 - 5月13日、新宿コマ劇場梅田コマ劇場にて『新・演歌の花道』に出演。「サンヨーオールスターゲーム」のオープニングイベントにて「君が代」、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱。

2003年(平成15年)6月21日、ディナーショーのため訪れていた韓国で脳梗塞を発症。9月1日 - 9月13日、中日劇場・新宿コマ劇場・梅田コマ劇場『Forever '70s 〜青春〜 伝説のステージ』出演。

2004年(平成16年)3月6日、NHKミュージック・イン・ドラマ『ホシに願いを』に出演[61]。7月2日、当時西城が在住していた川崎市の市制80周年記念マッチとして開催された日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)2部(当時)の川崎フロンターレ - 横浜FC戦(川崎市等々力陸上競技場で開催)においてハーフタイムショーに出演し「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱[62]。以後、2007年[注 6]を除き2013年まで毎年フロンターレ主催の川崎市制記念試合に出演[63]。10月、著書『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』(リベロ)を発売。

2005年(平成17年)7月1日、パチスロメーカー「オリンピア」からタイアップ・パチスロ『ヒデキに夢中!!』がリリース。

2006年(平成18年)9月、東京スポーツで『西城秀樹歌手生活35周年、奇跡の復活 ヒデキカンゲキ!』が連載される。9月27日、脳梗塞発症以来、3年ぶりのシングル「めぐり逢い/Same old story 〜男の生き様〜」を発売。

2008年(平成20年)5月30日、NHK総合『青春のポップス』で共演した森口博子早見優等と共に、東京・中野サンプラザホールにてコンサート『思い出の青春ポップス』を開催。9月17日、アンダーグラフの「ジャパニーズ ロック ファイター」のプロモーション・ビデオに出演。

2009年(平成21年)3月30日 - 9月26日、NHK朝の連続テレビ小説つばさ』に出演。4月5日 - 、『趣味の園芸 やさいの時間』にレギュラー出演。番組の主題歌「ベジタブル・ワンダフル」を歌う。9月15日、89回目で最後となる大阪・厚生年金ホールでのコンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 2009』を開催。

2010年 - 2018年

2011年3月17日 - 3月28日、藤原紀香主演のミュージカル『マルグリット』に初の悪役として出演。6月10日、NHK Eテレ時々迷々』「ヒデキに会いたい!」が放送される[64]。9月30日、デビュー40周年記念コンサートを渋谷C.C.Lemonホールで開催。12月20日 - 12月30日、脳梗塞が再発していることが判明し、東京都内の病院で入院治療する。右半身麻痺の後遺症が残るが、リハビリの結果つえをついて歩けるまで回復。

2012年1月28日、静岡で行われたチャリティーコンサートに出演。6月28日、水泳の発展と普及に寄与する人材をたたえる日本スイミングクラブ協会主催の「ベストスイマー2012」を受賞。10月26日、著書『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』(廣済堂出版)を発売。

2013年4月17日 - 12月4日、NHK BSプレミアムの料理・紀行番組『ぐるっと食の旅 キッチンがゆく』に、月1回のレギュラー出演。

2014年4月5日 - 9月27日、BSジャパンの情報番組『ヒデキの感激!NEXTハウス』にレギュラー出演。8月9日、NHKで生放送された第46回『思い出のメロディー』(同局の音楽番組に4年ぶり)に出演する。

2015年4月11日、東京ビッグサイト東京国際展示場・東6ホール)にて開催の、東日本大震災復興イベント『フラワードリーム in 東京ビッグサイト 2015』において、60歳以上の著名人にバラを贈る『第8回 Happy Rose アワード』を受賞[65]。 2015年4月13日、60歳の誕生日に還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』を発売。同日、東京都港区赤坂BLITZにて自ら「ヒデキ還暦!」と題した記念ライブを開催。「新御三家」の盟友、野口五郎がゲストとして登場。バースデーケーキを運びながらステージに現れ、西城の誕生日を祝い抱擁を交わした[66]。同日、埼玉県入間市に西城がプロデュースした体験型市民農園『西城秀樹体験型市民農園 「百果百菜」』開園[67]。 同年7月15日「1975年劇場公開の映画『ブロウアップ・ヒデキ』」(松竹映画)が初DVD化[68]

2016年2月13日、西城が監修したソフトバンクY!mobile」の広告が放送開始[69]。「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」のメロディーにのせた歌とダンスをプロデュース。川崎フロンターレの川崎市記念試合応援ハーフタイムショーは死去前年の2017年まで続けられており、亡くなった2018年は本人不在の等身大パネル及び過去の歌唱音源、映像での参加ながらもサポーターから熱く迎えられた。

作品

業績

西城は「新御三家」の一人として、今日に繋がる男性アイドルの原型を作り上げ[70]、「歌謡曲の新時代」を築いた人物の一人で、日本のエンターテイメントを切り拓いたパイオニアである。 日本の男性アイドルの「新御三家」として売り出された際、郷ひろみは「可愛い美少年」、野口五郎は「歌が上手い」とされ、西城は大きいだけであまり特長がないと見なされた[11]。そこでスタッフは、彼らと差別化を図り、西城の個性を活かすため、「情熱的でセクシーな、男性的魅力」をコンセプトとして打ち出していこうと決めた。そのコンセプトに沿って、楽曲やダンスの振り付け、衣装が創作されていった[11][71]。プロデューサーも西城の音楽的バックボーンを理解し、海外のサウンドと日本のメロディをドッキングさせるロック/ポップス寄りの楽曲作りが行われた[72]。意図的に激しいロック調の曲を作り、女性ファンがより興奮しやすくなるようなストレートなフレーズを歌詞に散りばめた [73]。派手でセクシーなアクションと長身かつ、長い脚が映えるビラビラコスチュームがそのイメージを決定づけた[10][11][37][74]。初期にはエルヴィス・プレスリーを意識した衣装など、アメリカナイズした雰囲気を衣装に取り入れた[11]

オフィシャルサイト「Music」のファッション解説の充実でも分かるように、西城は男性ファッションの於いても先駆者だった[75][76][77][78][79]。西城の母親は洋服卸の店を経営していて[80]、子どもの頃から手伝いをさせられたため、服の生地などにも詳しく服が好きだった[80]。このためステージ衣装にも自身の意見を反映させることが出来た[10][75][81]。「自分のことを西城秀樹の一番熱心なプロデューサーだなって思うときがある」と話していた[76]ファッション雑誌から自分の気に入ったデザインや色合いの服を選んで[81]、それをさらに自分のオリジナル風に作り変えるスタイルで[76]、1973年の『情熱の嵐』の衣装は、エルメススカーフブラウスを作らせ[82]、間奏で服を破く演出を自ら考案[82]、テレビで数回披露しインパクトは強かったものの、経費がかかり過ぎると事務所に怒られ、本当に破るのではなくホック留めにして剥がす男っぽさを強調するアクションに変更した。当時エルメスは女性ブランドのイメージで男性で愛用する人はほとんどいなかった[82]。このエルメスのブラウスを作った人は後にピンク・レディーの衣装を担当したデザイナーであった[82]藤井フミヤは芸能界に憧れたのは、西城がつぎはぎのジーンズを履いているのを見て「かっこいいなあ、オレもやりたいなあと思ったのが最初」と述べている[83]。また韓国サムスングループ創業者・李秉喆の孫でCJグループの副会長・李美敬(イ・ミギョン)[84] は、1970年代に録画してもらって観た『レッツゴーヤング』の西城のマフラー姿に「これがアイドルか」と感動したと話している[85]。当時の韓国では10代が"同世代"と感じられる芸能人はいなかったという[85]。李美敬は2006年のインタビューで「日本の40代女性がヨン様にのめり込む理由は、アイドルを追いかけた少女期の感動体験が残っているから。私も実感したから分かるの」と述べている[85]。西城は1979年のベストドレッサー賞を受賞しており、プライベートでもよく一人で服を買いに行った[76]。1970年代半ばによく着用したMEN's BA-TSUは[76]、西城が原宿を散歩中に店の服を気に入り、自身でステージ衣装を発注したものであった[76]。またセーラーズ[86]アルマーニを最初に着用した日本の芸能人[76]、「ボクがデビューして5、6年は、ファッション界個性派デザイナーが出始めたころだったから、刺激があって衣装選びも楽しかった」「アルマーニはボクが着てから芸能界に広まった」などと話している[76]。『BIG GAME'80 HIDEKI』のジャケット写真[87] に映るシルバージャンプスーツは、クイーン御用達のショップにオーダーしたもので、勿論フレディ・マーキュリーを意識したもの[88]

歌手が楽曲に合わせた振り付けで歌唱をするようになったのは1970年代に入ってからで[89]、ステージやテレビの歌番組で歌手や楽曲の印象を強める必須条件となっていくが、そのパイオニアが、女性歌手では山本リンダ、男性歌手では西城であった[10][90][91][89]。山本がティーン歌手から大胆な変身を成功させた「どうにもとまらない」、西城に激しい振り付けが導入された「チャンスは一度」は、いずれも1972年[15][89]。この年はNHKカラーテレビ契約数が、白黒テレビの契約数を上まわった年で、派手な色彩の衣装で歌い踊るアクション系の歌手が、カラー時代のテレビ番組を盛り上げる要素として必要とされた[89]松永伍一は1976年に「不動の姿勢でうたっていた"東海林太郎型"が消えて、アクロバット的におどりまくる"西城秀樹型"までが『見世物』ゆえに要求されるサービス過剰の競争時代に入ったのが、今日の歌謡界の現状。これらは大衆が何を求めているかを、歌そのものを判断していくのではなく、歌手のスター的特徴に照らして割り出していくというプロダクションの算盤が、歌謡界を動かすようになってきたことを示す」などと論じている[92]塩沢実信は西城を「ダイナミックなアクションと絶叫型の唱法で、昭和四十年代から五十年代にかけて、著しい活動を見せた歌手」と評している[93]西郷輝彦は、西城が間奏でいきなり上着を脱ぎ、ステージから客席に飛び降りた演出にマネージャーから「上着を脱いだらくるくる回して客席投げて、それから飛び降りろ」と怒られているのを見て、西城に専門の振付師がいて演出をしていることに大きなショックを受けた、自身のシングル「情熱」の後、秀樹の新曲が「情熱の嵐」で「ああ時代が変わるんだな」と思った瞬間だった、などと話している[94]。西城は音楽を「聴かせる」から「見せる」にシフトさせた歌手であった。1972年、3枚目のシングル「チャンスは一度」で初めて振付けが付き[95]1973年、初のベストテン入りを果たした「情熱の嵐」ではさらに振付けがエスカレート、ダイレクトに肉体の性の激しさを表現した[96]。また指さすアクションもたちまち大流行した。西城の場合はその激しさ故「振付け」ではなく「アクション」「アクション歌謡」などと呼ばれた[96]スタンドマイクを使ったアクションをいち早く取り入れた1974年の「薔薇の鎖」は、当時の振付けの定型から大きく逸脱するものだった。スタンドマイクを蹴ったり、振り回したりするため、音響さん雑音を取るのに苦労した。テレビの歌番組で西城のパフォーマンスを観て、子供たちがホウキを使ってこのアクションをよく真似した[11][97][98]。小っちゃい子までが振りをまねしたがるので、おもちゃのマイク・スタンドが売り出されたほど[99]。新御三家は女性から圧倒的な人気を得たが、西城だけは小学生の男子のファンも多かった。ヒントにしたのはロッド・スチュワートジェームス・ブラウン。特にロッド・スチュワートがコンサートでアルミマイクスタンドを使っていると知り、すぐに10本を特注。この軽量スタンドマイクにより西城型の「スタンドマイク・アクション」が誕生し、以後コンサートでの定番となった。その後すぐに軽量スタンドはブームとなり、翌年にはヤマハが生産するようになった。軽量なアルミ製スタンドによるマイクパフォーマンスは、その後多くのロックアーティストが取り入れた[11][43]。最初はアルミ製スタンドにテレビ局のマイクをテープでぐるぐる巻いてスタンドに固定した。このため、当時の生放送の歌番組で出番が近づいた歌手が、テープを剥がしているうちに、自分の歌の時間が来たり、西城が生放送でマイク・アクション中、棒を折ったこともあった。

一の宮はじめは『チャンスは一度』から振付を担当し[100]、「薔薇の鎖」までのアクションは一の宮の考案だったが[99]、次作品の「激しい恋」から、一の宮と西城に、西城のマネージャーを加えた三人でアクションをディスカッションするようになった[99][101]。「薔薇の鎖」が大受けした後だけに「いい加減なものは通用しない」、また「新しいものを作りださなくては!この曲を10代の記念碑にしたい」と西城の意気込みが凄まじく、自身でハンドマイクを使った激しいアクションを提案した[99][注 7]。「激しい恋」のアクションも話題となり、アクション・ブームを巻き起こした。以後、新曲が出るたびに歌唱だけでなく、アクションや奇抜な衣装にも注目された。

1974年の第25回NHK紅白歌合戦初出場では、白組の先頭打者として怪傑ゾロの衣装で上半身一部シースルー、アイドルなのに顔を隠して登場するという前代未聞の演出を行い『傷だらけのローラ』を熱唱[102][103]。ステージ上で、日本のテレビ音楽番組として初めて『CO2ボンベでドライアイス・スモークを噴出させる』演出を行った[102][103]。これも西城自身のアイデアで、アメリカのTVショウでティナ・ターナーがこの演出をやっているのを観て、急遽紅白に間に合うようにボンベをアメリカから取り寄せた。それまでのドライアイス演出は、雲海のように下に這わせて幻想的な画を作ることを目的としていた[104][105]。至近距離からドライアイスを噴射させる演出はこれが初めて[105]

1978年1月1日に発売された「ブーツをぬいで朝食を」は、同年1月19日にスタートした『ザ・ベストテン』でピンク・レディーの「UFO」に続き、同年2月9日に1位を獲得した楽曲。曲のイントロで西城自身が考案した[106]ライターに火を点け、右頬にかざし、背徳の愛を表現するアクションが人気を呼んだが[107][106][108]、3月4日に大阪の幼い子供の兄弟がそれを真似して、近所6軒を全・半焼させる火災事故を起こし[106][107][109]、翌日の大手新聞、スポーツ新聞も大きく報道した[106][107][109][108]。子どもが真似をして危険だから、テレビでライターを使うアクションはやめて欲しいと当初から批判が上がっており[106]、当時、沢田研二が『サムライ』で短刀を振り回すアクションを取り入れたりし[108][106]、ランキング番組が出来たことで、より競争が激しくなり、振付けがエスカレートした上での不幸な事件で[108][106]、死傷者は出なかったものの[109]、西城は自責の念に駆られ[109]3月9日の『ザ・ベストテン』生放送で涙を滲ませながら「僕はもうライターを使うにはやめました。皆さんも、どうか真似をするのはやめて下さい」と訴え、ライターアクションの封印を宣言し、以降、このアクションが披露されることはなかった[107][108]

この時代のアイドルに最初からダンスアクションが上手かったものはいなかったが[110]、しかし売れた人はみんな根性センスを持っていた[110]。西城もはじめは不器用で踊りもヘタだった。しかし人一倍根性があり、出来るまでやめようとせず、振り付けの一の宮はじめが「ヒデキもうやめよう」と泣きを入れるほど熱心だった[110]。1970年代後半には一の宮がおおまかな動きを考え、あとは西城が自身の創造力で振り付けを作った[110]。1977年に初めて主演したミュージカルわが青春の北壁』では[47]、プロでも2年かかるといわれた二回転してその場でストップする動きを1ヵ月でマスターした[110]。当時の売れっ子振付師からも絶賛され、土居甫からは「ぼくはヒデキの振り付けをやってないけど、素晴らしいセンス。歌謡界じゃ、いまナンバーワン」、牛丸謙からは「ヒデキはほんとうに素晴らしい。まだ一度もヒデキの振り付けをやったことはないんだけど、ぜひ一度、ヒデキのステージを作ってみたい」などと評価された[110]

歌唱

絶唱型

1973年9月にリリースされた6枚目のシングル「ちぎれた愛」は、曲中「僕の気持ちを信じて、君をはなすもんか、好きだ、好きだよ、好きなんだよー!」とインパクト絶大なセリフが挿入された最初の作品で[95]、喉の奥底からハスキーな歌声をしぼり出すように歌い上げ、初めてオリコン1位を獲得[10]。180cmを超える長身から発する歌声は圧倒的で[93]、その歌唱法は「絶唱型」[13]、のちに「絶叫型」といわれた[111]。長身をくねらせ、長い髪を振り乱して、全身全霊を込めた喉が張り裂ける様な歌唱法は、激しいアクションとともに、それまでのアイドルに見られなかったもので[111]、次作品の「愛の十字架」、1974年の「傷だらけのローラ」、1975年の「至上の愛」へと受け継がれて徐々にエスカレートしていき、女性ファンを熱狂させた[43][112]。「傷だらけのローラ」では、新人賞も紅白も出場できなかった前年の悔しさが募り、「早く自分のスタイルを確立したい」と焦り、アメリカで流行っていたシャウト唱法を加えたい」と意見した。

西城秀樹ショーでは、西城が歌い始めると女性ファンは、その迫力に圧倒され、泣き叫び、興奮のあまり失神し、舞台に上がり西城に触ろうとして警備員に体当たりされたり、極度の興奮と緊張で過換気症候群に陥って失禁して、30分ほど経つとアンモニア臭が会場内に漂ったといわれる[113]。西城は行儀がよかった日本のアイドルシーンにあって、初めて「ワイルド」という概念を持ち込んだ先駆者だった[111][114][115][116]。根源的なビート感覚を携えてロックヴォーカルと歌謡曲の融合をごく自然に達成したのが西城だった。広音域だが、音圧を充分に伴う実声で、高音でもシャウトでき、踊っても叫んでもリズム音程髪型も乱すことなく、8ビートを体現した新たなタイプのシンガー[73]、セクシー&ワイルド系アイドルであった[111]。初期の作曲家鈴木邦彦は「初めて会ったときからぼくは第六感で"これは大物になれる新人"だと思ったね。歌を聞いたらダイナミックな迫力があるし、詩のニュアンスの伝え方が上手い。あれは先天的な才能だと思う。作曲家には"相性のいい歌手"がいるものだが、ぼくにとってはそれが秀樹で、自分の思い通りに曲がかけるのがうれしい」などと評し。編曲家馬飼野康二は「西城くんの第一印象は難しい「Que je t'aime」なんかを歌いこなしちゃって、久々に上手い歌手に会えたという感じだった」などと評した。RCAレコード(現・ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)で、1975年から1988年まで長く西城のレコーディングディレクターを務めた岡村右は、自身が西城を担当する前から「アイドルを超えた存在になる」と直感し、実際に自身が担当になってヒデキの声を聞き、「何と言っても声が素晴らしい。倍音[注 8]の響きを持った声。ちょっとかすれたハスキーボイスで、コーラス的にハモると響きが倍増する。それが最大の特徴でした。また勉強熱心で吸収力も抜群でした。ドラムをやっていたから音楽的センスもあって、ダンスも含めた表現力を身に着けていきました」などと評している[37]。同じくRCAで長く西城の宣伝を担当した早野寛は「彼の没後、曲を聴いて『ここまでうまい歌手だったのか』と今さらながらに声の美しさ、やさしさ、繊細な歌い方に感動しています。ヒデキのそばにいて特に印象的だったのは彼の仕事に対する姿勢です。常に新しいことに挑戦する一方、歌番組が終わった後はビデオのチェックを欠かさなかった。スタッフの意見を聞いて、少しでも成長しようという研究心がありました。取材への対応も完璧で、相手がたとえ小さな媒体でも全国メディアの時と同じように誠実に答えていた。だからあれほどのスターになれたのだと思っています」などと話している[37]

大活躍だった1974年の暮れに『週刊TVガイド』は西城の特集を組み、「新ご三家と騒がれた野口五郎、郷ひろみに、二歩も三歩もリードし、華麗なるアクション入り絶唱歌謡は、茶の間のチビッコからお年寄りまでのハートをキャッチ、歌謡界の大型台風になった」と評した[117]。『週刊セブンティーン』は、1973年暮れにこの年ロック色の強い楽曲を展開させた西城について「秀樹がロックをどんどん追求していって、おとなの歌手の世界に行ってしまうんじゃないかと心配だ。秀樹にはもっと成長してもらいたい。でも『セブンティーン』のアイドルでいてもらいたいというのがぼくたちの気持ちだ」などと評した[118]。「絶唱型」の楽曲には決まってセリフが入り、感情を込めて何かを絶叫するというものが多いため、「絶叫型」とも呼ばれた[119][120]。セリフ入りの楽曲には「ちぎれた愛」、「傷だらけのローラ」の他に1975年の「白い教会」、1976年の「ジャガー」などがある。1980年の「サンタマリアの祈り」が完成形であったと、2000年に開催した80曲記念コンサート『Bailamos 2000』で語っている。

歌唱力の評価

西城の歌唱力は今日評価が高く[119][121]所属事務所の後輩でもあった岩崎宏美は西城の特徴的な歌声について「誰にもまねできないでしょうね」と評した[122]松任谷由実は「西城秀樹っていう人は圧倒的にスターだったと思う」と述べ、スター性の根源には「声の素晴らしさがある」と話し「歌手は声がその運命を100%以上決める」と持論を述べ、「斜のかかった強い少年声というのか..大好きな声です」と話している[123]ミッツ・マングローブは「ヒデキは私にとって最初の"ヒーロー"でした。自分の本質とは真逆の、快活で社交的な男子性の塊みたいなヒデキに対し、それでも無抵抗に心躍ることができたのは、やはりその歌声と健やかな大衆性が圧倒的だったからに他なりません」と述べている。三原じゅん子は西城を「アイドルを超えた歌唱力の持ち主」、黒柳徹子は「『ザ・ベストテン』の出演者のなかで、ダントツに歌がうまかった」[124]鴨下信一は「歌唱力は同時代の誰よりもあった」と評している[125]。鴨下は「ヒデキのひとつ前の御三家の一人・舟木一夫は歌についてはなかなかの理論派だが、ヒデキについてこう語っている。"秀樹の強みは唄い方の構成力が優れているからだ。『YOUNG MAN』の成功はアクションだけではない。でなければ、あんな単純で、そのくせ全部唄うとひどく長い歌はモタないよ"。また、阿久悠に当時の歌番組が歌を短くしようとばかりすると指摘されグウの音も出ず。負け惜しみに『どうやってもカット出来ないような歌を作ればいいじゃない。『魔王』みたいな、ずーっと曲が展開し続けて切れないような。ああいうの書いたら』と言ったら阿久が『よし!たかし(三木たかし)に電話しよう。秀樹の新曲は『魔王』の形式でゆこう!』と長大複雑な『ジャガー』が出来た。皆が秀樹の歌唱力、特に歌の理解力と唄い方の組み立て、つまり構成力は天賦のものと理解していたことがよく分かる。この理解力と構成力こそ、彼がドラマに進出した時の武器でもあった」などと論じている[125]クリス松村「圧倒的な声量と独特の声質、抜群のスタイルとセクシーさを強調する衣装、時には危険を感じるような激しいパフォーマンス、飛び散る汗…。世界に二人といないスターの輝きを持ったエンターテイナー、それが西城秀樹なのです」[126]浅利慶太の学生時代からの友人安倍寧は西城の追悼記事で『ミュージカルわが青春の北壁』について「たったひとりで劇団四季のなかに飛び込むという勇気あふれる挑戦だった」「改めてアルバムを聴いてみて西城のナンバーの力強さに心打たれた。声に伸びと艶がある。歌いぶりに媚へつらいがなくて清々しい」とオリジナル コンフィデンスコラムBIRD’S EYEに寄稿している[127]。 西城秀樹のハスキーな声でシャウトする歌唱が、後続の多くのミュージシャンに影響を与えた理由について[128]、宝泉薫は「ヒデキの声がロックのテイストにほどよく合っていた。一般にロックは"不良の音楽"などと言われるが、あまり"ドス"が効いていてはいけない。求められるのはあくまで少年ぽいワイルドさ。また毎日のようにテレビに出て歌いまくり、派手なアクションに独特のしゃがれ声でシャウトする姿が当時のテレビっ子たちに多大なインパクトを与えたのだろう。ヒデキ後に売れたロックヴォーカリストは、みんなヒデキ的資質の持ち主なのである」などと論じている[129][130]。大滝詠一を師と仰ぐ内田樹は「ポール・アンカの平尾昌晃的解釈の歌唱法の直接の後継者は西城秀樹で、西城の後はあの歌唱法がすごく多い」と述べている。[131]。とりわけロック色が強い西城の豊かな声量と歌のうまさ、迫力は際立ち、ぐっと海外のポップスに近づけ、J-POPに繋がる流れを作ったとも評される。馬飼野元宏(洋泉社の月刊誌『映画秘宝』編集部で日本映画を担当、著書も多い。現在は雑誌のコラムも担当している)は西城の事を「絶唱型と呼ばれる日本人離れしたスケールの大きなボーカルスタイル、歌いながらの激しいアクション、さらには日本にスタジアムライブを定着させたのも彼だった。西城秀樹こそが、日本のエンターテイメントを次々と革新していったパイオニアだったのだ」と語っている[132]

ファン参加型ライブ

コールアンドレスポンス

ブラス・ロック要素を取り入れた5枚目のシングル「情熱の嵐」では、にしきのあきらの「空に太陽がある限り」での掛け合いをヒントに、作曲の時点で、わざと隙間を作り「ヒデキー」コールを想定した[9][11][15][95]。これは西城自身が「ファンの子がキャーキャー騒ぐだけで歌を聴いてくれない。どうにかならないか」と作曲の鈴木邦彦に相談して取り入れられた。予想通り「君が望むなら」「ヒ・デ・キー!!」とファンの掛け声が入り、舞台と客席が一体化する感触を自身でも感じ取った。女性ファンの圧倒的なパワーに曲のアレンジが変更を余儀なくされるケースもあり[133]、こうした歌手とファンによるコール&レスポンスのスタイルを本格的に歌謡曲に持ち込んだのも西城が最初[11][15][70][90][134]。コールアンドレスポンスは近代アイドルのライブにおけるミックスの原型とも言え、男性アイドルへの女性ファンの熱狂に、ひとつのスタイルを作り上げた[11][15]

人文字振り付け

1979年YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、ヴィレッジ・ピープルの曲をカバーしたもので、同曲は西城自身が探し出した[11]。レコーディングに訪れたロスでカーラジオから流れる「Y.M.C.A.」に、「これはいい曲だぞ」と心を奪われた[116][135]。すごくノリがいいし、ステージでやってみたいと帰国後、試しにコンサートで「Y.M.C.A.」を原曲の英語で歌うと観客の反応も良かった[71][136]。しかしヴィレッジ・ピープルは同性愛(GAY)を象徴するバンドとして有名で、「Y.M.C.A.」はゲイの応援歌として認識されていた[136][137][138][139][140]。ヴィレッジ・ピープルが人気グループになったことでアメリカでもゲイが市民権を持つに至ったといわれた[139]。西城は「この曲をカバーして、シングルを出したい」と、レコード会社に直訴するが「アイドルがこんな歌を歌えるわけ無いだろう!」と、担当者は全く取り合ってくれなかった[141][注 9]。同性愛への偏見が大きかった時代背景もあり、70年代の歌謡界には「洋楽の日本語カバーはあたらない」というジンクスもあり、売れっ子歌手がローテーションシングルとしてリリースするのはオリジナル曲に限られ、洋楽カバーをシングルリリースするなど有り得ない時代。レコード会社や所属事務所の力が圧倒的に強い時代でもあり、歌手本人の希望が通ることは少なかった。西城は絶対に諦めず、ゲイの歌と批判的な意見を「良い曲だから大丈夫。一生懸命歌えば、みんなわかってくれる」と周囲の反対を押し切り、英語が堪能だった当時のマネージャー・あまがいりゅうじ(天下井隆二)に“若者に向けた応援歌(青春讃歌)”に歌詞を変えて[136]、アレンジも自身が歌いやすいように変更[135]。原曲のヴィレッジ・ピープルは振り付けがなかったが、"Y.M.C.A."の4文字を全身で表現するという人文字振り付けも西城自身が考案[11][137]。題名も「ヤングマン」として西城自ら何度もレコード会社に足を運び、その念願が叶って「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」として発売された[140]。リリース直後からたちまち火が付き大ヒットし、周りの態度も一変した[135]

1977年に公開された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の世界的な大ヒットで、海外のトレンドになったディスコミュージックにいち早く目を付け[143]、日本の音楽文化に取り入れた西城独自のエンターテイメントに徹した観客参加型のパフォーマンスは社会現象にもなった[43][91][96][143][144][145]。自身最大のレコード・セールスを記録しただけでなく、『ザ・ベストテン』で番組史上唯一の9999満点を2週にわたり獲得する[15]。それは初期から西城とそのスタッフが目指した"舞台と客席を一体化させる"参加型のライブが、究極の完成を見た瞬間であった[11][107]。客席とアーティストが一緒に踊って盛り上がる観客参加型のライブパフォーマンスは『ヤングマン』に端を発する。青木はるみは「秀樹は大観衆がみんなで『ヤングマン』を歌って手を振り、初めて人間の手がこんなにもきれいなものだと知った、と言っていた。『ヤングマン』は新しい型の若者の曲であるとともに新しい喝采の方法を創り上げたのだと思う。手は単に拍手という消極的な意思表示にとどまらず、もっとアクチュアリティのある参加の表現となった。あの曲を完成させるのは動く手のマックスなのである」などと述べている[146]ピンクレディー海援隊渋谷哲平[139]布施明[139]麻生よう子[139] などフォロワー作品も登場し[147]、ディスコカバーブーム[11][139]、及び、60年代前半以来久々の洋楽カバーブームの火付け役になった[148]金子修介は1993年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をモチーフにした映画『卒業旅行 ニホンから来ました』を撮った[96]昭和を代表するダンス・ミュージックとして[149]平成令和を通じて歌い継がれる国民的楽曲となった[136][137][141][143][150]

YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」がヒットして以降は西城のいろいろな提案が通るようになり、自身も好きなことをやっていきたいと思うようになった契機にもなった。同じく観客参加型の応援歌・第2弾として発売された「ホップ・ステップ・ジャンプ」、バラード曲の「勇気があれば」も30万枚を超えるヒットを記録し、『第21回日本レコード大賞』は「外国人の作曲作品は審査対象外」となるルールもあって逃したが、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを受賞。さらに1980年には観客参加型の応援歌・第3弾として「俺たちの時代」を発売している。「みんなで何かをする、ファン参加型ライブの素晴らしさを実感した。」と、多くの場所(1979年の『ミュージックフェア』等)で語っていたように、西城自身の強い意思で行われ、それまでの歌謡界の固定観念を覆す先駆けとなった。

スタジアム・コンサート

21世紀突入後では一般的になった、スタジアムコンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催したのも西城が最初であった[11][151][152]1974年夏、日本で初めて野球場でのワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”』を大阪球場で開く(グループでの日本初は1968年ザ・タイガース)。「ウッドストック・フェスティバル」の影響を受け、「野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」と西城自身が企画し、このコンサートが実現した。観客2万5000人。コンサートは設営から解体までに3日かかり、その間の弁当代だけで300万円[153]。1回にかかる費用は当時の金額で6000万円[153]。満員になっても儲けが出ることは無かった[153]。西城の球場コンサートは、ただ歌と演奏をするだけにとどまらず、現在では許可されない巨大クレーンにより宙づりになった「ゴンドラ」の中での歌唱や[11][151][154]、ヘリコプターを使った派手で危険な演出も自身のアイデアで実行し、日本での初導入とされるレーザー光線[43]、衣装に電飾を仕込む演出効果など、球場の大きな空間を利用しての派手な仕掛け[注 10]、演出が売りであり、毎年赤字覚悟でエスカレートしていった[153]。時代的にどれも人が操作したり手動で動かす手作りライブであった。クレーンの使用は西城自身が工事現場のクレーンを見て「何か使い道ないかな」と閃いたのが切っ掛け[156]豪雨のカーテンに包まれ、雷鳴が響きわたる中、稲妻に照らし出されて[157]キング・クリムゾンの「エピタフ」を熱唱した1979年の後楽園球場では[43][158][159]マイクからビリビリ感電しながら歌唱を続行、「本当に死んでもかまわないと思いながらやってた」、「俺たちの時代の人ってのはみんな命を賭けてた」と述べている[160]

大阪球場は1974年より1983年まで10年連続と長きにわたり継続。派手な仕掛けに加え、「雨男」と言われるぐらい雨中でのライブも多かった。「ペンライト」は西城のコンサートが発祥[153][161][162]サイモンとガーファンクルの海外のライブでファンがライターを灯す姿にヒントを得て、1974年の球場ライブで「(火は危ないから)なにか光るものを用意してきて!」と観客に呼びかけると、それ以降「ペンライト」というものを、観客が用意するようになった[151][163]。3回目の大阪球場ライブを伝える1976年11月の『月刊平凡』の記事に「ヒデキの登場に、赤、黄、グリーンのペンライトを持ったファンが応える」という記述が[155]、1976年11月の武道館リサイタルをレポートした『mimi』1977年1月号の記事に「全方向から見られるように、八角形にしつらえたステージ。秀樹のステージでおなじみとなったペンライトのゆれる中で..」という記述が見られる[164]

1975年に西城のマネージャーが阿久悠に「ヒデキを少年から青年にして下さい」と依頼したことから[37][165][166]、1976年に阿久悠作詞による3部作を含め、以降カバーも含めてシティ・ポップ/AOR風の楽曲にも取り組むが[15][87][167]、阿久は依頼に応えるため、1975年の大阪球場ライブを鑑賞した[166]。「グラウンドでは発煙筒が焚かれ、パイプで組立てられたステージにはイルミネーションが走りまわっていた。彼は何十メートルかのクレーンに吊るされて、サーカス花形か、スーパーマンのように歌っていた。ぼくはそれを、脱新御三家の壮大な儀式だと思った。時代はまさに、華やかさのためにはあらゆる無駄を惜しまない傾向になっていて、一人の若い歌手の一夜のショーのために、市街戦ほどのエネルギーが費やされているのであった。それはバブルの花火であったかも知れない。興奮したぼくは、西城のマネージャーに、ナチス・ドイツの人心掌握術を広告技法の観点で書いた本を渡した。そしてテレビサイズからの脱出の意欲に燃えて、格闘家体操選手のように応える西城秀樹に可能性を覚えたのである」などと感想を述べている[166]

大阪球場跡地に建設されたなんばパークスの屋上に在るパークスガーデンには、大阪球場を本拠地にした南海ホークスの元選手たちの手形モニュメントが設置されているが、その中に難波及び大阪球場にゆかりのある人物のひとりとして西城秀樹の手形とサインが入ったモニュメントも設置されている[168][169][170]

後楽園球場での初ライブ『BIG GAME'78 HIDEKI』は1978年7月22日[171]。ソロシンガーとしての初の開催で、以降、1981年まで毎年コンサートを行い計4回。後楽園球場の最多公演アーティストとなる(後楽園球場#コンサートを開催したミュージシャン)。マイケル・ジャクソンが1987年9月から初のワールドツアー(バッド・ワールド・ツアー)を日本から行う際、マイケルのスタッフが後楽園球場の演出に「西城のスタッフを借りたい」と申し出たといわれる。1978年夏の全国縦断ツアーでは、5回目の大阪球場の他、三重県合歓の郷(7月9日)、千葉県九十九里浜特設ステージ(7月26日)で野外ライブを行った[171]

惜しまれるのは1977年夏に"全国球場ツアー"の計画があったこと[155]。大阪球場は勿論、北は札幌から南は沖縄まで、6つの都市の球場を使ってコンサートをする予定だった[155]。当時の文献にも「全国6大都市の野球場でコンサート予定」と書かれている。しかし越路吹雪日生劇場でのリサイタルを観て感激したこともあり、1977年夏は初めてのミュージカルわが青春の北壁』を選んだ[46][47]浅利慶太から「演出家としての目で西城を見れば、歌がうまいこと、そして身体全体で感情を表現できること、これは今の歌い手の中では抜群です」と評価されたが [172]、これが7月のほぼ丸一ヶ月の公演で、当然リハーサル期間もあり、準備面でも"全国球場ツアー"は断念したものと見られ、この年の球場コンサートは大阪球場だけに留まった。翌1978年からは東京の後楽園球場が加わり、大阪球場と合わせ東西での球場コンサートになったが、全国の球場ツアーはその後も実施されることはなかった。

西城はこの時代のアイドルとしては珍しく毎年のようにライブ・アルバムを発売している[15]

2020年シミズオクトの会長・清水卓治、湯川れい子ダイアモンド☆ユカイ、江夏亜祐(エナツの祟り)、錚々たるメンバーが対談を行った。議題は「日本のスタジアムライブの変遷を語る」。その中で司会のシミズオクト取締役副社長の清水佳代子はこう切り出している。「70年代に活躍した日本人アーティストたちが現在の大型コンサートの礎を作ったとも言われています。その代表と言えるのが、1974年、ソロ歌手として初のスタジアムライブを大阪球場で行った西城秀樹さん。大阪球場で10年連続、後楽園球場でも1978年以降4年連続でライブを行いました」、その後も西城に詳しい湯川れい子やダイアモンド☆ユカイの話は続く(1974年の紅白初出場の際にスモークやクレーンで釣ったゴンドラ等のエピソード)[173]

野外ライヴ

1975年7月20日、富士山麓での野外ライヴは、広大な空き地に一からステージ設営し、バスで全国から観客を運ぶといった大イベントも成功させた[44][174][175][176]。観客3万人[177]。当時の週刊誌で「史上初、空前絶後の大イベント」と書かれており[175]、元祖夏フェスともいわれる[178]吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋』より二週間早く、ソロでの観客数万人規模の野外ライヴとしては、最も早い事例と見られる。本コンサートを皮切りに同年8月30日まで続いた『全国縦断サマー・フェスティバル』の模様とステージを離れた西城のプライベートタイムを細大もらさずフィルムに収めようと松竹日本テレビの二つの撮影クルーが社を挙げて追いかけた[177][179][注 11]。この松竹版がドキュメンタリー映画ブロウアップ ヒデキ』で[44]1960年代GSのバンドなどを主役とする歌謡映画がよく作られたが、このようなアイドルのひと夏のツアーを追ったドキュメンタリー映画が全国ロードショーされるのは珍しく[181]、『エルビス・オン・ステージ』をヒントに製作されたと評された[181]。日本テレビは1975年9月25日の『木曜スペシャル』枠で『西城秀樹日本縦断20歳の絶唱!』「35メートルの秀樹宙吊りの熱唱▽完全取材!北海道から沖縄まで秀樹魅力の全て▽告白!母が語る秀樹生い立ちの秘密▽秀樹オンステージ」というタイトルで放送した[179]

鹿児島県最南端の島・与論島海開きに合わせ、1979年3月31日に当地の海水浴場特設ステージでコンサート[182][183][184]。島外からのファン700人を含めた観客3000人[182]。発売間もない「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、ステージを降り、砂浜でファン全員で西城の周りを囲み一緒に歌った[182]。「ホップ・ステップ・ジャンプ」のジャケット写真はこの時撮影されたもの。

ロックバンド

1970年代のテレビの歌番組は基本的に生放送生演奏[185][186]、出演歌手は番組専属のオーケストラ (フルバンド)のバック演奏で歌っていたが、当時はよりロック色の強い路線だったこともあり、レコードよりもっとハードな音を出したいと、自身の音に対するこだわりをフルバンドの人たちに100%伝えるのは無理があると感じていたため[185]、早く自分のバンドを作りたいという希望があった[41][185]。1974年2月に日本武道館で挙行されたフェイセズの来日公演を鑑賞に行った際、その前座でジョー山中らとセッション・バンドで演奏していた芳野藤丸に声を掛け、自身のサポートバンドを要請[114][158][187]。「藤丸BAND」を結成し以降、芳野が「SHŌGUN」での活動が忙しくなった1979年まで『夜のヒットスタジオ』などのテレビの歌番組や西城のライブでバックバンドを務めた[114][188]。「藤丸BAND」という名称は(仮)の名前だった[41]

西城はアマチュア時代と同様、最初からロックバンドをバックに歌うことが希望であったが[185]、駆け出しの身分では自分のバンドを持ちたいとは言えず、実績もある程度のレベルにきてようやく実現できた[185]。「自身のサウンドを創るため、バンドの若い仲間とディスカッションしたい」という希望がようやく叶った[41]。歌番組のフルバンドは全てのジャンルの曲をやらないといけないため、どの曲もテンポリズム感が同じで自分なりの匂いを出すことができず、イメージする音と違っていた[185]。しかし当時のテレビ局のスタッフやフルバンドの人たちから「こんなバンド作られちゃ、準備にも音合わせにも時間がかかって迷惑だ」などと何度も嫌みを言われた[185]。逆に自身が実績を積み上げるとフルバンドの方がいい音を出してくれたこともあったが、新人の頃は舐められ、演奏中に居眠りする人もいたという[185]

1970年代前半にロックバンドが全国ネットのテレビ番組に出演することはないに等しい状況であったため[187]、「後の世良公則&ツイストもんた&ブラザーズなど、ロックバンド確立の切っ掛けは、藤丸BANDや沢田研二さんの井上堯之バンドが作ったと思う」[185]「音作りなんかもボクや沢田さんが歌謡界を開拓したんじゃないかと思う」と語っている[185]ダイアモンド☆ユカイは「西城さんは時代が違えば、ZIGGYレッズみたいなバンドをやってたとおもうよ」、森重樹一は「ロックバンドという選択肢がない時代、プロとして歌うなら歌謡曲の歌手になるしかなかった。それで大きな成功をおさめたんだからね。今、そのすごさがわかるね」などと述べている[158]

洋楽カバー

"洋楽カバーの第一者"とも評され、アマチュア時代からプロデビュー以降、晩年に至るまで一貫して洋楽カバーをやってきた。所属事務所の支社がロサンゼルスに早くからあり、ロスにも頻繁に足を運び、日本でまだ発売されて無いアーティストのテープなどの提供を受けたり、スティーヴィー・ワンダーバリー・マニロウらと交流し、積極的に洋楽カバーを行った[15][43][87]。カバーを本格的にやろうと決めた切っ掛けは、アメリカでロッド・スチュワートのライブを観た時、ロッドが「キープ・ミー・ハンギン・オン」を自分のものにして歌っているのを観て、「カバーするならあれくらいにならないとダメ」同時に「日本ではどうしてあんな素敵な遊びをしないんだろうな」と思ったことだという。小林亜星は「西城さんはロックミュージシャンとしても最高の知識と腕を持っていた」、「海外の歌ぐらいじゃないと満足ができない、表現がしきれない歌手」と評している。

1970年から1980年代にかけて日本の音楽界はまだ事務所やレコード会社の力が強い時代であったが、デビュー二年目の1974年には年間二枚も洋楽カバー・アルバムを発売。西城が当時、自身が好きなように構成を組むことが出来たライブでは、頭から10曲洋楽カバーを演ることも珍しくなく[189]、1973年~1974年の最初期のコンサート(リサイタル)では、持ち歌がまだ少ないこともあって前半が洋楽カバー、後半が持ち歌メドレーという構成で、洋楽カバーは「Try a Little Tenderness」「Dio, come ti amo」「Funky Stuff」「If You Go Away」「Just Like a Woman」「Roll Over Beethoven」「Spinning Wheel」「I Believe in Music」「Your Mama Don't Dance」「Love」「Jumpin' Jack Flash」など、ベース仕込みの選曲か、女性ファンは勿論、当時の洋楽ファンでも馴染みの薄いロックンロールソウルR&Bファンクフォークシャンソンなどを歌い[40][74][189]、後半の持ち歌メドレーでは『愛の十字架』の後、エンディングの「Que je t'aime」を歌い終えると古代ローマ遺跡のセットが崩れ、スモークの中、十字架にされた西城がに昇っていくという『ジーザス・クライスト・スーパースター』からヒントを得たと思われるロックコンサートの定番演出を行った[189][190]。西城は大好きなロックを歌いたいから歌う、だけには留まらない。西城は音楽知識も豊富で、カバー曲のアレンジにも介入した。西城の最初の洋楽カバー・アルバムは1974年4月発売の『秀樹!エキサイティング・ポップス』であるが、編曲家馬飼野康二は「いま(1973年)12月にロックのLP(『秀樹!エキサイティング・ポップス』と見られる)を出す準備中だが、彼の方から"アレンジスキャットブラスの追っかけで"というようなアイデアをどんどん出してくる」などと証言している。

1978年にバリー・マニロウの「コパカバーナ」を現地で聴いて「いいな」と思い自身でバリー・マニロウのコラボ(「腕の中へ」)を頼むなど、全曲自身でカバー曲の選定も行った。また「歌詞が英語のように聴こえるように」といった原曲に合う訳詞にして欲しいといった指示も出した。オリジナル曲の方が儲けが出るためレコード会社はたいてい反対し、それを説き伏せるのが大変だったという。「当時は僕がカバーして、そのアーティストを知るリスナーが多かったんじゃないかな?」と話している。「誰のカバーであっても真似をせずに、自身のスタイルですること」を最も重要視した。「日本語をロックにのっけるっていうのは、当時やったヤツがいなかった。あれで若い子たちが『あ、日本語でロックをやってもいいんだな!』と思ったんじゃないかな。プロでも音楽理論を知ったかぶりするような評論家的なヤツらがいたんだけど、そういうヤツに限って、例えばロック系ならポップスを全然聴いてなかったりしてね。本質を知らないんだよ。僕はポップスもロックも一緒だと思ってる。歌謡ロックや歌謡ポップス、歌謡ヘビーメタルがあったっていいじゃない」、「当時のロックって言ってたのはロックじゃない。全部歌謡ロックだろ」[160] などと話し、歌謡曲やロックの歴史を別々に論じたがる日本の音楽ジャーナリズムに苦言を呈している。
1979年のBIG GAME'79に収められているキング・クリムゾンの「エピタフ」、西城没後、一般人にも知られるようになった。その日の天候は最悪で激しい雨、雷鳴が轟く中で決行。だがシンプルで武骨とさえいえる「エピタフ」は、歌と演奏が完全に一体化して、この日にしか表現できない領域にまで達していた。この貴重なライブ音源からしか伝わってこない魅力は、本物の音楽による素晴らしい瞬間が、幸運にもマルチテープに記録されていたから、後世に残されたのである[191][192]

アジア進出

1981年5月、亜細亜テレビの香港音楽祭にスペシャルゲストとして出演[193]。20分のゲスト出演だったが[194]番組視聴率は90%を超えた[195][196]。西城についての問い合わせが殺到し、香港のマスメディアに大きく取り上げられた[196]。当時の香港にもかつての日本の歌謡界と同様、歌う時に体を動かす人があまりおらず、現地の新聞に"ボディアクション""ボディランゲージ"とやたら書かれた[194]。西城からの影響で現地の歌手がそれをみんな真似し始めた[194]9月12日 - 9月14日、香港で初めてのコンサートをクイーンエリザベス・スタジアムで開催[15][193]。現地のプロモーターから「香港の人は評価がストレートだから一回目でブーイングが来たら二度と香港では出来ないよ」と言われ、大変なプレッシャーの中で歌い切り[196]、翌日の新聞の見出しはそれまでの「赤旗星(スーパースター)」から「天皇巨星(超スーパースター)」と表記され、「最もセクシーな歌手」と絶賛された[197]。香港のゴールドディスクを四年連続、プラチナディスクも計6回受賞[198]。アジアでの日本人歌手進出の先がけとなる[3][160][161][199][200][201][202][203]。当時の香港はアイドル歌手の存在はなく、歌唱力など実力のある人でないと人気は出ない土地柄だった[204]

1982年9月22日 - 9月24日の3日間[205]、香港にて2回目のコンサートを開催(クイーンエリザベス・スタジアム)[200][205]。当時の香港は教科書問題で揺れ[205][206]、同時期コンサートを予定していたさだまさし三原順子は中止を余儀なくされたが[195]、西城だけは特別扱い[195]。「僕は広島で生まれ、原爆ドームを見ながら育った。平和を思う気持ちは人一倍です。僕は平和を求める歌手として香港に来ました。歌に国境はない。あってはいけない」という西城のコメントが香港の新聞に大きく掲載された[205]。香港メディアも「歌と政治は切り離すべき」という論調を載せ、平和の使者としての西城を歓迎した[195][205]

日本のファンも熱狂的だが、香港の人たちの西城の愛し方は尋常ではなく[195]、コンサートが開催される半年も前から書店には西城の特集を組んだ芸能誌『好時代』がうず高く積まれ、『愛と誠』が上映され、それまでの西城のコンサートの模様を再編集し、ゴールデンタイムに流すハシャギようで、香港の街はヒデキ一色[195]。コンサートで客席に人指し指を向けようものなら、それまで踊り狂っていた子がワーッと泣き出しそれも男の子たちで、西城も「はじめは信じられない世界を見ているようだった」と話した[195]。アジアでは圧倒的に男性客が多かった[7]。香港で西城がダントツ人気を得た理由を香港観光協会は「香港の人間はメンタリティーの部分で、欧米人よりも日本人によく似ています。ジャズよりも当然、日本のポピュラーソングの方がなじみやすいし、リズムとかイントネーションもこっちにマッチしています。香港のショービジネスはアメリカ型というか、下積みから叩き上げていく、いわば本格志向なんです。逆にいうとアイドルの存在が香港にはないんですね。西城はジェネラルだし新鮮さがある。おまけに声量はあるし、歌がうまい。歌プラスショーとでもいうか、仕掛けのあるステージも香港の若い人たちを熱狂させるに充分でした」などと解説した[195]アニタ・ムイは西城の追っかけからファンクラブ副会長を務めた後、スカウトされ大スターになった[204][207][208]。1985年に香港の新聞に「西城秀樹聞梅艶芳暗恋」と書かれ、西城の恋人と騒がれたこともあった[204]。アニタは「日本で西城秀樹さんと共演したことが生涯最高の思い出」と話していた[209][注 12]ジャッキー・チェンサミュエル・ホイジョイ・ウォンなど、早くから西城のステージを観に訪れた[196][198][200]。ジャッキーは西城の追っかけのように客席の一番前で三脚まで置いて写真をバチバチ撮り、ステージの上からだとはっきり見えないので、現地のマスコミだと思っていたら、コンサートの終了後に控室に挨拶に来た[194]。ジャッキーはもう香港でも大スターで、西城も『酔拳』とか観ていたから驚き、すぐに食事に誘われ、ジャッキーはどんどん大スターになっていったが、以降もコンサートの時には必ず来てくれた[194]。彼らとは商売抜きで音楽だけで繋がっている関係[7]。彼らが来日した時は、自宅に招待したりし酒を酌み交わした[7][194]。それはアマチュア時代に年上のバンド仲間と純粋に音楽のことだけで付き合っていた頃の記憶と重なった[7]。ジャッキーとは映画での共演は無かったが、1987年8月1日琵琶湖であった「第5回びわ湖水の祭典ASIA POPS'87」で最後のアンコールでジャッキーが飛び入りで入り「ギャランドゥ」などを一緒に歌った[194]。香港での成功でアジア各国のどこでもコンサートが開けるようになった[198]。自ら構築したステージ狭しと駆け回り、派手な身振り手振りで楽曲の世界観を表現する、「日本のアイドル歌手」というスタイルをいち早くアジア各国へ輸出した。『ミス・インターナショナル・クイーン』でタイ王国のテレビに出演したはるな愛は、タイ王国の司会者が「スシ!テンプラ!西城秀樹!」と連呼するので驚いたと話している[210]。西城は「アジアの人たちにはアイドルだどうのこうのという先入観がないため、自分が今ここで出す音しか信用してもらえない。音だけの世界で人気を積み重ねた結果で、自分でも自信になった」と話している[7]

1985年9月7日 - 9月11日、香港のほかシンガポールでもコンサートを開催。1986年シチズンのCMで、海外(アジア各国)CMに初出演[211]。CMソングは「City Dreams From Tokyo」。10月14日 - 10月19日、香港、シンガポールにてコンサート『Caravan From Tokyo - HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '8-06-』を開催。10月14日に香港コロシアムで行われたコンサートの入場料は180香港ドル(約3600円)[211]。香港の当時のOLの平均月収は約6万円だったため、気軽にコンサートを楽しむというレベルではなくファンの見る目も厳しかった[211]。この日のコンサートの模様は、ビージーズでもロッド・スチュワートでもやらなかった前例のないTV完全中継が行われた[212]。毎年の日本武道館公演に香港からファンが数百人単位で鑑賞に訪れるので[195]、負担も大きいと考え、1980年代後半は香港を中心にアジアでの活動を増やした[195]。香港でも歌が売れ、ベストテン上位をキープ[193][213]。1986年に香港でも発売したカバー・アルバムStrangers in the Night』は、香港のアルバムチャートで前代未聞の47週トップを独走した[214]。香港での人気は、フランク・シナトラは別格にしても、ロッド・スチュワートを凌ぐとも称された[211]。1980年代後半は、日本より香港の人気の方が高いぐらいであった。また現地の歌手を活かすため、ステージや番組の演出にも関わり、日本と同様、香港のエンターテインメントの制作にも革命を起こした[194]

1987年3月5日 - 3月8日中国本土で初のコンサートを首都北京首都体育館及び廣州・中山記念堂で開催[202][215][216]。中国人民対外友好協会の二年越しのラブコールに応える形で行われ[216]、廣州のコンサートは児童福祉会館のエレベーター建設のためのチャリティー・コンサートで、そのエレベーターは「西城号」と命名された[215]。香港の流行は中国にも伝わった[194]。廣州は香港から120kmしか離れておらず、香港での知名度が高い西城は、廣州でも大スターで、ホテルを一歩出るとあっという間に人垣ができた[216]。当時の中国の労働者の平均月収は約120(約5000円)で、チケットは40元だったが飛ぶように売れた[216]。コンサートは5000人収容の中山記念堂で2回行われたが、収容しきれず、リハーサルを公開すると3000人集まった[216]。廣州に初めてレーザー光線を運び込み[216]、待ち望んだヒデキの肉声に、感情をあまり表面に出さないと言われた人たちが、手拍子を打ち、立ち上がり、踊り出した[216]。香港でも大ヒットした「年青人(ヤングマン)」では、会場中の人が「Y.M.C.A.」の大合唱。ヒデキが「再見!」とステージから去ると「安歌(アンコール)!」の声が響き渡った[216]。西城は「8年前、初めて香港でコンサートをやって以来、ボクはずっとアジアを見つめていた。フィリピン、シンガポールと段階を経て、やっと中国にたどりついた。これはボクの8年間の夢だったんです」と話した[216]3月10日 - 5月5日、香港で初の主演映画『天使行動(Angel)』撮影(1989年、日本でも上映)[200]。撮影の3か月間、ジャッキー・チェンレスリー・チャンジョイ・ウォンなどと友好を深める。

1988年9月16日ソウルオリンピック前夜祭に趙容弼(チョー・ヨンピル韓国)、陳百強(ダニー・チャン・香港)、胡寅寅(フーインイン・中国)と共に出演。「傷だらけのローラ」を歌う。日本人として初めて韓国の公式の場において、日本語の歌が電波にのった瞬間であった[200][217][218][注 13]。この模様は衛星中継で世界137か国に放映された。1989年2月、香港、バンコク、3月にブラジルサンパウロ(イヴィラポエラ体育館)でコンサートを開催。"K-POPブームの仕掛人"といわれるSMエンターテインメント創業者・李秀満(イ・スマン)も西城の影響を受けたといわれる。

1990年、広島・アジア音楽祭『Asian Harmony』を初プロデュースし、出演する。チョー・ヨンピルなど各国からトップ・アーティストを招聘した。1993年にも同種のアジア音楽祭をプロデュースし、出演する。1991年バングラデシュ救援コンサート『俺らだけのヒットパレード』(以降3年連続)に出演。

1996年5月28日、『アジア音楽祭イン福岡』(TXN九州主催)出演と蓮舫とともに司会を務める[219]。中国、韓国、香港、タイ、マレーシアのトップシンガーが出演し、テレビ東京系で全国中継(19:00-20:54)。アジアのポップス音楽祭が民放ゴールデンタイム生中継されるのは初めてといわれた[219]。同年、中国・大連市で行なわれた『国際ファッションショー前夜祭』に日本からのゲストとして出演。大連体育場約4万人の前で歌唱。中国全土及びアジア各国にテレビ放映された。

1997年10月開校した上海新偶像芸術学校(シャンハイ・ニューアイドル・アート・スクール)名誉教授[220]

1998年、「日中友好条約締結20周年」のイベントとして、中国世界文化遺産万里の長城において外国人歌手初の野外コンサートを開催する[112]。アジア・ツアーの一環として広州市珠海市でもコンサートを開催。中国唱片廣州公司(CHINA RECORD)より「moment北京語ヴァージョンを含むベストアルバム『瞬間』発売。中国でも西城の知名度は高いといわれる[199]

1999年9月、日本からペルー共和国への移民100周年記念年としてペルーリマで開催されたNHKNHKのど自慢』に八代亜紀と共にゲスト出演[221]

2007年3月22日、香港のレコード協会にあたるIFPI香港の設立40周年記念のイベント『IFPI Top Sales Music Award』に、約35年間の広東ポップに大きな影響を与えた海外アーティストとして表彰された[200][222][223]9月24日には、「日中国交正常化35周年」と「中韓国交開始30年」の節目として中国・南通市スポーツ・スタジアムで開催された『第9回アジア国際芸術祭』に松田聖子と共に招待され、「傷だらけのローラ」と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を観客約8万人に披露[224][225]。この模様は10月13日、中国全土に放映された。

2012年9月16日ブラジルサンパウロ(ビア・フンシャル劇場)で23年振りにコンサートを開催。

サザンオールスターズとの共演

1995年春、西城の事務所に大阪球場での公演をビデオで見た一人であった桑田佳祐から夏に横浜・みなとみらいで行われるサザンオールスターズのライブ(『スーパーライブ in 横浜 ホタル・カリフォルニア』。西城はイーグルスの楽曲「ホテル・カリフォルニア」をもじったこのライブのタイトルを、「さすが、桑田さん」と評している[54])への出演と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」の歌唱を依頼する内容の電話がかかった。当時は戦後50年を迎える年であり、数々の番組やイベントから同曲を歌唱する依頼があり、当の西城は「全て引き受けたら両脇が「Y」の字に固まってしまう」と心配していた[53]

サザンのマネージャーから桑田の意向を聞くよう促され、同年7月21日には桑田を始めとしたサザンのメンバーと初めてミーティングをし、オープニングでサザンのメンバーに扮して「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱するといった内容と、星条旗の衣装を着て、グレート・ムタのように覆面をかぶって登場する事を指示される。西城は桑田に「このコンサートでぼくの役目は何なの?」と尋ねたところ、「お客さんの度肝を抜き、徹底的に楽しませてほしいんです!!」と返答され、この発言を受け出演を決意している。また、後に桑田から前述の電話の経緯を聞かされ、当初はサザンのみで「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をやろうという話だったが[注 14]、酒を飲むにつれて、本人が出てくれないかと盛り上がり、ダメもとでこのような形でのオファーになった事が語られている[53]

リハーサルの段階でサザンのメンバーの演奏を聴き「完璧」と感じ、嬉しくなった旨を語っている。また、前述した衣装と覆面を見た際は曰く「十秒くらい後悔した」が、着用してみると「妙に似合う」と感じたといい、「こ、ここまで計算していたのか、桑田さんは!!」と思った旨を語っている[53]。なお、衣装に関しては西城曰く「衣装がピッチリ出来過ぎていて、暑さで呼吸困難状態」になるほどだったといい、本番では「金魚のように口をパクパクさせながら」歌い切ったという[54]

8月5日・6日、『スーパーライブ in 横浜 ホタル・カリフォルニア』に出演。西城はこのライブでサザンのファンから「帰れコール」やブーイングが飛ぶ事を危惧していたが、サザンの所属事務所アミューズの会長の大里洋吉が「サザンのファンは暖かいから、ヒデキさんは絶対、大歓迎されますよ」と説得している。西城の不安は杞憂に終わり、実際のライブでも2日間で合計16万人が座っている客席は大盛り上がりで、遠くのスタンド席やアリーナ席に座っている観客も「Y.M.C.A.」の振りをやっていた[54]

出番の後、西城はこのライブを客席で楽しんでおり、「桑田さんも、メンバーも、ファンも本当にステキだった」と語っている。特に桑田がライブで客席に向かって発した「ありがとよ」という言葉に関しては「決してサービスコメントではない」「デビュー以来一七年間、心から応援してくれたファンへの心からの『ありがとう』だと思った」と評している。また、終盤では『ホタル・カリフォルニア』のロゴマークがあしらわれた浴衣を着用して再びステージに登場しており、西城が桑田を肩車する一幕もあった[54]。桑田はエンディングで西城を「素晴らしいエンターテイナー、ロッカー」と称え、「西城秀樹とそのグループでしたぁ! サザンだぁ!!」と西城をメインに出して名前を叫び、花火が打ち上がる中、出演者全員で繋いだ手を高く上げてステージを退場した[229]

西城の訃報が報じられたことを受け、桑田は2018年5月20日放送の自身のラジオ番組桑田佳祐のやさしい夜遊び』(TOKYO FM)で、西城を追悼するコメントを述べ、ライブでのエピソードや西城の人柄を語ったうえで、生歌のコーナーで「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱した[230]

2018年5月26日に行われた西城の告別式では「ご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。ご遺族の方のお気持ちを思いますと、心が本当に痛みます。その旅立ちが安らかなものでありますよう、心よりお祈り申し上げます」という弔電がサザンオールスターズ名義で届けられた[231]

映画・テレビ・CM 他

夜のヒットスタジオ

フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』への初出演は1972年12月4日(第214回)。3枚目のシングル「チャンスは一度」での出演であった。1974年以降、ヒットスタジオとの関係が薄い芸映所属ながら人気・実力を評価されて準レギュラー格としてほぼ1月に1、2回のハイペースで出演を重ね、五木ひろし森進一に次いで歴代3位の190回にわたり同番組に登場。「ミスター夜ヒット」の代表格の一人として様々なエピソード[注 15]、見せ場を提供した。

1984年11月19日放送では、ワム!の「Careless Whisper」のカバーで、「抱きしめてジルバ」と競作となった郷ひろみの「ケアレス・ウィスパー」と対決した。西城より1か月遅れでリリースした郷の発売時(11月10日発売)の宣伝企画に乗せられる形で、フジテレビ番組スタッフに「同一曲のカバーでの対決」を持ちかけられた際、西城は「全く同じセット、同じ演出で唄う」という条件で了承し、この前代未聞ともいえる企画が実現した。ただし、歌う順番は西城が先行、歌唱時間は郷が長めに設定された。

8時だョ!全員集合

8時だョ!全員集合』は、1972年10月2日放送回に初出演し[232]、以降番組の常連となり[233][234]ゲスト出演小柳ルミ子に次いで73回で2位[234][235]。歌手がコントをやり始めたのはこの番組といわれており[234]、西城も「単にゲストとしてという意識ではなく、レギュラーのような気持ちで出演させてもらった」と述べている[234]。小柳の1位は、同番組の企画が小柳の所属していた渡辺プロダクションだった関係があると見られるが、西城の2位は、鴨下信一によれば、西城の所属した芸映が最初はTBSのまだ大きくなかった社屋の狭い道を挟んだ向かいのビルの二階の一室に事務所を構えていて、当時は世の中も牧歌的。お向かいのプロダクションに素晴らしい新人が広島から入ったと、TBSの演出部員はその日のうちに知っていて「ぼくらにとってヒデキはお向かいの家の坊や」だったと述べており、TBSの関係者に早くから可愛がられたことが原因かも知れない[125]。男性最多ゲストの西城は、同番組"二大事件"とも[236]"三大事件"ともいわれる(8時だョ!全員集合の歴史#トラブル史)、「火災」と「停電」放送回のゲストでもあった[234][237][238]。1977年5月14日の「火災事件」は「探検隊コント」の途中、小道具のヘビにピストルの火花が着火し炎上したものであったが、西城もこのコントに参加し、ヘビに向けて発泡したのは西城であった[236][238]。「停電事件」があった1984年6月16日の放送回では、停電で場内真暗闇で混乱する中、タイムキーパー用の懐中電灯を渡され、いかりや長介の顔に最初に光を当て番組の進行に貢献した[236]

バーモントカレーのCM

1973年から12年間、ハウス食品の「バーモントカレー」のCMに出演し"ヒデキ、感激!!"、"ヒデキ、ご機嫌!!"、"ヒデキ、満足!!"など数々のキャッチコピーがお茶の間の人気を呼び、大人から子供まで幅広い世代の支持を得る[43][160][239][240]。 ハウスは西城と独占契約し、西城は13年間、ほかのCMには一切出演せずバーモントカレーの顔であり続けた[239]。材料にリンゴ蜂蜜を使っているという商品の特徴は、西城の歌うCMソングを通じて広く浸透し[239]、同製品の知名度を一気に高め[40]カレーライス国民食押し上げに貢献した[3][241]。"ヒデキ、感激!!"の右手で頬を2回たたくアクションは、撮影見学に訪れていた小さな子どもが西城を見て喜んだ時の仕草を取り入れ、西城自ら考案したもの[242][243]。季節に応じて3か月周期でCMの撮影が行われ、その中で西城が発するフレーズもさまざまだったが、特に"ヒデキ、感激!!"という初期の頃のフレーズは、いまだにマスメディアで西城の記事が掲載される際によく見出しとして登場する。

2001年に結婚した際には、夫人とのツーショット写真と「超甘口」「Happy Wedding」の文字を配した特製パッケージのバーモントカレー甘口が披露宴の引き出物として配られ、2015年に行われた還暦記念ライブでは、「ヒデキ、カンレキィ〜!」の文字を配した還暦お祝いパッケージのバーモントカレーが来場者に記念品として配られた。なお、西城本人は甘めのカレーがあまり好きではなく、収録のテイクの度に何度も食べるのがつらかった、と後に語っている。1986年にバーモントカレーを「卒業」し、辛さを前面に押し出した「ジャワカレー」のテレビ広告に起用されたことを喜んでいた。

2018年に西城が逝去した際には、ハウス食品グループ本社から「(西城出演の)バーモントカレーのCMで、カレーが国民食となり愛されることとなった」など感謝を込めた追悼メッセージが発せられた[239][244]。また、西城の通夜では参列者に会葬御礼としてバーモントカレーが用意され、関係者によって配られた[245]

他に酒井法子が流行らせた「のりピー語」の一つ「いただきマンモス」は[246]、「ヒデキ、感激!!」ほど流行らなかったが、1983年に西城がバーモントカレーCMで使用したセリフである[247]

寺内貫太郎一家

西城のお茶の間人気を高めたのは、バーモントカレーのCMで見せる庶民的で人懐っこいキャラクターに加え、昭和を代表する国民的ホームドラマともいわれた[160][248]寺内貫太郎一家』(1974年、TBS)への俳優としての出演が大きかった[11][249]久世光彦プロデューサーは、西城抜擢の経緯について「秀樹がテレビやステージでみせる、あの炎のような激しいアクション、力感、エネルギー。だがその影には、きっと涙があるに違いない。バンカラではなく、少年のようにセンサイで、悲しいものを持っている。それが本当の"男"の魅力です。今度のドラマで追求したいのは"日本人の男らしさ"―それを表現する素材として、秀樹以外に考えられなかったからです。秀樹は将来、役者としても大物の素材であることは間違いない。日本のアラン・ドロンは沢田研二だが、ぼくは秀樹には日本のジェームズ・ディーンになってもらいたいんです。ドラマは秀樹の弟と姉の将来をタテの線に、人間の傷つけあい、かばいあいをヨコの線に進めていきます」などと話した[250]。当時の人気タレントはドラマの収録に充てる日にちはせいぜい一週間に2日だったが[250]、西城は一週間に4日も空けて、久世からのラブコールに応えた[250]。毎週、お約束のように登場するのが貫太郎こと小林亜星と長男周平役の西城との親子げんかで、西城が小林に投げ飛ばされ腕を骨折し入院したエピソードはよく知られる[43][95][251][252][253]。当時を振り返って西城は「やってる方は愛情もクソもない。亜星さんを本気で張り倒すつもりでやっていた」と話している[160]。小林も「ボクもヒデキも本気だった。リアルな芝居を求める久世光彦さんが収録現場でどんどんNGを出す。ボクもヒデキもお互いに『このヤロー!』となり最後には本気になって喧嘩してしまう」「当時のヒデキはスーパーアイドル。スケジュールは真っ黒で、本来なら長時間拘束されるドラマに出演している余裕などなかったはずだ。それでもヒデキは文句ひとつ言わずに熱心にリハーサルを行う。出演者は収録後、しょっちゅう飲みに行ったが、多忙を極めていたヒデキは自分の出番が終わると次の現場に急行だ。時にはワガママを言うのが普通のアイドルだろうけど、ヒデキのそんな姿は見たことがない。今、あんなことが収録現場で起こったら大事件とみなされ、すぐに番組は打ち切られるだろう。当時だって事情はそんなに変わらなかったと思う。打ち切りにならなかった最大の理由は、ヒデキが騒がなかったことにある」などと話し、番組の継続は俳優の仕事にも理解を示していた西城のお陰であると述べている[252]

愛と誠

西城の相手役募集には4万人応募があり[254]、西城の推薦により[255][256]、役名をそのまま芸名にした早乙女愛が選ばれた[257][258]

あこがれ共同隊

1975年6月から9月まで放送されたTBSのテレビドラマ『あこがれ共同隊』で、郷ひろみ、桜田淳子と共演[259][260][261]。第1話のゲストに山口百恵友情出演[259]、不完全ながら「新御三家」と「高2トリオ(当時)」の合体が実現した[259][261]。テレビの歌番組では毎日のように顔を合わせていたが、テレビドラマ・映画では唯一の共演作となった[261]。西城と桜田は恋人という設定で[259][260]、キスシーンがあると告知され、桜田も「秀樹クンのファンってコワイ」と怖気づいた[260]。ドラマは原宿表参道竹下通りは出ない)が舞台で、当時の原宿は新たな流行の発信地として注目されていた[261][262]。また、吉田拓郎が「ペニーレインでバーボン」を唄ったことで一躍有名になった原宿のバー「ペニーレイン」が登場し[259][263][注 16]、劇中でも主題歌風の街」を歌った山田パンダレギュラー出演した他、吉田拓郎や南こうせつかまやつひろしらが店の客としてゲスト出演した[259]

幻のNHK大河ドラマ主演

西城は1987年度のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の主演(伊達政宗役)のオファーをNHKから受けていたという。西城本人も乗り気であったとのことだが、西城のマネージャーを務めた天下井隆二によれば「(芸映プロダクションから)独立して新事務所(アース・コーポレーション)を立ち上げたばかりであったため、新会社の経営状況を考慮してこれを断った」という(実際の主演は渡辺謙が務めた)[265]。天下井は西城が逝去した際に「借金をしてでもこのオファーを受けた方が良かったかな」と心残りであったことを語っている[265]

なお、新御三家の郷ひろみはデビュー作『新・平家物語』(1972年)を始め、大河ドラマ4作品に出演しており、野口五郎もこの後『八代将軍吉宗』(1995年、脚本は奇しくも『独眼竜政宗』と同じジェームス三木)と『功名が辻』(2006年)に出演したが、西城は生前大河ドラマに出演することは一度もなかった。

ブロマイド

かつて「マルベル堂でブロマイドを撮影し出版すること」がスターへの登竜門で「月間ブロマイド売り上げランキングに載る」ことが人気のバロメーターだった時代があり[24][266]、西城は月間売上第1位獲得最多記録で歴代1位の46回[266]、年間では1975年、1976年と二年連続で1位を獲得した[267]

ものまね

今日のようにものまねを専門とするものまねタレントが、テレビのものまね番組の主役になる以前の1970年代には『象印スターものまね大合戦』などのテレビのものまね番組では、人気歌手が同じ人気歌手・タレントのものまねを行っていた[268]。西城はエルビスプレスリー、森進一、沢田研二、加藤茶のものまねを得意とし、『週刊セブンティーン』1973年8月14日号に「『象印スターものまね大合戦』の司会を務める玉置宏は若手人気歌手のものまね名人は、野口五郎、西城秀樹、三田明がビッグ3」と話している[268]。この記事には「郷ひろみはものまね番組に出ない」と書かれている[268]

オールスター運動会・水泳大会

中学3年の時、広島県の中学水泳大会で優勝したこともあり[10][269]、1970年代から1980年代に頻繁に民放テレビで放映された「オールスター運動会水泳大会」では、スポーツ万能を活かして競泳走高跳などで活躍した(走高跳では芸能人記録を樹立)[269][270]。フジテレビの「紅白スター対抗水泳大会」が番組最高視聴率28.9%を獲ったのは1978年2月7日放送回であったが[271]、このときも白組キャプテンを務めた(紅組キャプテン・郷ひろみ)[271]。プールサイドで「キャーキャー」といっていた女性陣は心から西城を応援していたといわれる。郷との対決は番組のハイライトだったが、西城は水泳大会では、花形の自由形ではなく平泳ぎに出場。自由形での泳ぎは最後のリレーでしか見ることができなかった。また西城の幅の狭いブーメランパンツから覗く剛毛は"ギャランドゥ"と呼ばれた[9][15][60][75][123][272][273]岩井志麻子は「ヒデキの出現が自身の性のめざめの時期と重なった。"ギャランドゥ"は、いつしか胸毛から下まで体毛がつながっている男性を指す隠語となって定着した。曲名が一般俗語となって広く知られた――。すごい」などと述べている。陸上をやっていたつんく♂は、芸能人運動会で西城秀樹を第3コーナーで抜くことが子どもの頃の夢で[274]、中学二年で走り高跳びで165cmくらい跳んでたとき、西城がレコード会社対抗運動会で、走り高跳びで150cm跳んで優勝したのをテレビで観て「この運動会出たら、オレ1位になれる」と思ったことが将来の目標を"芸能人"と決めた切っ掛けと言う[275]

ザ・ベストテン

ザ・ベストテン』では第1回から常連として出演し、斬新な衣装や振付けで番組を盛り上げ、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が、番組史上一例の満点(9999点)を2週連続で獲得するなど番組の立ち上げと隆盛に貢献した[135]オリコンとともに歌謡界をデッドヒート化させた当番組に於いては、毎回真剣勝負で挑んだ。「僕らは人よりいかに目立つかを考えていた。先物はだいたい僕か沢田研二さんがやっていた」などと話し、「後の世代の人たちは違うかもしれないけど僕らはそう」「人が歌ってるときはステージをじっと見ていてお喋りどころじゃなかった。"あの衣装の生地はいいな"とマネージャーに言ったりして、カメラが振られると談笑しているポーズを取った」などと話している。笑い話としては、1982年5月13日の放送回で[276]黒柳徹子から『最近どんなジャンルの本を読まれていますか?』と聞かれて[276][277]、『SMが好きです』と答えたことがある[276][277]。黒柳が(当時の文献では久米宏[276]すかさず『SFのことね』って必死にフォローしてくれたが[276][277]、出演者も大爆笑だったが、イモ欽トリオ長江健次だけは意味が分からず戸惑っていたといわれる[276]。放送を生で観ていた坂本ちゃんは生々しくてドキドキんちょで[277]、それ以来、ヒデキの"ギャランドゥ"に心を奪われたと話している[277]

ウォークマン

1979年7月1日に発売されたソニーの初代「ウォークマン」は、当初はあまり売れなかったが、西城が上半身裸、短パンでウォークマンを聴きながらローラースケートをしている写真が『月刊明星』1979年9月号(発売は7月末)の見開きページに掲載されたのを機に[278]、各雑誌で取り上げられ、8月に入り各店舗で品切れが続出し、その後の大ヒットに繋がったといわれる[279][280]

西城とちびまる子ちゃん

さくらももこの漫画、ちびまる子ちゃんでは、主人公まる子の姉さきこが大の西城ファンという設定があり、漫画・アニメ問わずしばしば西城に因んだ話が登場している。また、作者のさくら自身も西城のファンであった事から、さくら側が西城に依頼する形で、同作のテレビアニメ第1期後半のエンディングテーマ「走れ正直者」の歌唱を担当した[281]。その後、2007年から2008年に放送された同作のテレビドラマ版まるまるちびまる子ちゃんでは、第20回の2時間スペシャルに西城が魚屋の主人「魚辰の辰」役で出演。劇中ではまる子の為に、辰が西城のモノマネで「傷だらけのローラ」を歌うという設定で『西城秀樹がドラマの中で演じたキャラクターで西城秀樹のモノマネをする』という難しいシチュエーションを熱演した。西城の訃報が報じられた際には、さくらはブログで追悼のコメントを記した[282] が、その僅か3ヶ月後に、さくら自身も乳がんの為この世を去った。

がきデカ/マカロニほうれん荘

漫画/アニメの西城といえば、取り分け『ちびまる子ちゃん』が有名であるが[283]、1970年後半に『週刊少年チャンピオン』に連載され、一世を風靡した山上たつひこの漫画『がきデカ』の主人公・こまわり君のほぼ相方格だった西城ヨシオこと「西城くん」のモデルは西城である[284]。ほぼ常識人の「西城くん」がこまわり君のボケツッコミを入れる担当であった[284]。『がきデカ』は他に常識人扱いで、それぞれ名前をもじった山口百恵がモデルの木の内モモ子こと「モモちゃん」、あべ静江がモデルのあべ美智子こと「あべ先生」と、天然少女・風吹ジュンがモデルの木の内ジュンこと「ジュンちゃん」が登場する[284]。西城くんのガールフレンドは「モモちゃん」であった。また同じ『少年チャンピオン』の連載・鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』で最も有名なギャグで[285][286]、主人公の一人・膝方歳三の決めゼリフ「トシちゃんかんげきーっ!!」は、西城の「ヒデキ、感激!!」をもじったものであった[286]

後進タレントの発掘

芸映在籍中は看板スターとして活動すると共に、デビュー間もない1972年夏、事務所関係者と共に浅田美代子を街頭でスカウト、無名の新人アイドルだった相本久美子の芸映への移籍を推薦したほか[287]、自らの名前を冠した新人コンテスト「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」からは河合奈保子石川秀美がデビューした[288]。河合も石川もオーディションの1位ではなく、他の人が選ばれそうなところを西城の強い推しで逆転1位になった[107]。また西城のコンサートで、熱狂の余り突然ステージ上に乱入した、ファンの岸本加世子を「自分の事務所に入らないか。」とスカウトした[289]

脚注

注釈

  1. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「37.リトルガール」の項を参照。
  2. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「38.セクシーガール」の項を参照。
  3. ^ オリコンの集計では1982年の「南十字星」により同記録を達成する。
  4. ^ 同じく新御三家の野口も同年2月に三井ゆりと結婚している。
  5. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1970〜1979」⇒「10.傷だらけのローラ」の項を参照。
  6. ^ 同年は川崎麻世が出演し「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱。
  7. ^ 「激しい恋」の「♪やめろと言われても」の直後に両手を上げるアクションは、親しいおばさん同士がスーパーなどでたまたま会った時に見かける、両手を上げるような親しみやすい身振り手振りからヒントを得て一の宮が考えたという『日めくりタイムトラベル』の昭和49年の特集(2008年10月11日放送分)にて紹介。
  8. ^ ある音に振動数に対し、整数倍の振動数を持つ音[37]
  9. ^ 当時は"カバー"という言葉はまだ使われず[142]、西城は当時のインタビューで「日本だとみんなオリジナルでレコードを出すけど、外国じゃ、いろんな人が一つの歌に挑戦することはよくあるよね」と述べている[142]
  10. ^ この他、「オートバイ」、「CAR」、トラック野郎の「デコトラ」、11tトラックを改造した「光の箱」、ステージの一部が15mまでせり上がる「リフト」、前に飛び出す「ムービングステージ」、「炎のじゅうたん」、「空中からのダイブ」、おなじみ「スペースイーグル」、「バルーン」、「空中ブランコ」、「E.T.自転車」、「レーザー光線」、「煙幕」、「火薬」、「花火」など[155]
  11. ^ 松竹はスタッフ40人、劇場用カメラ5台、レンズ40本、ヘリコプター1機、バス2台、ワゴン車2台と松竹大船撮影所の機材を7割方運び込み[177]、おりからスタジオで撮影中だった『男はつらいよ 葛飾立志篇』の撮影に支障をきたした[177]。これに対抗して日本テレビは東京からビデオカーを繰り出し、21歳の西城の内面をキメ細かく追ったが、松竹と日本テレビの撮影クルーが現場でしばしばぶつかった[179]。松竹が1975年9月20日から全国公開すると発表すると日本テレビが激怒[179]、日本テレビは1975年9月25日の『木曜スペシャル』枠で放送することを決めていたため「放送前に先に松竹に公開されては番組の商品価値が半減する。番組を作るときの契約ではテレビが優先だった」と西城の所属する芸映を突き上げ、「ご無理、ごもっとも」と芸映、松竹とも日本テレビに平伏[177][180]。『ブロウアップ ヒデキ』は同年10月10日に公開延期を余儀なくされた[179]。この醜態に城戸四郎松竹会長が「テレビや芸能プロに振り回されるとは何事か!」と激怒し、三嶋与四治企画本部長のクビが飛び、81歳の城戸会長が再び映画製作本部長として現場に復帰、第一線で指揮を執ることになった[179][180]
  12. ^ 1984年『ヤングアジア歌謡祭』[204]
  13. ^ これより一ヶ月前の1988年8月18日、少女隊が韓国側の放送局の了解なしに日本語で歌う[217]
  14. ^ 後に桑田は2012年のソロライブ「I LOVE YOU -now & forever-」や[226]、2014年のイベント「桑田佳祐のやさしい夜遊び~夏にサザンないの!? いいかげんに1000回!! ファンやめたるわ!! 生歌ライブ〜[227]、2018年のアクト・アゲインスト・エイズイベント『平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦[228] で「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」をカバーしている。
  15. ^ 1982年の放送で、「漂流者たち」を涙を浮かべながら歌っているのを見て心配したファンから投書や電話が殺到。西城によれば、故郷広島から不安と期待を胸に抱え、家出同然で上京した旅立ちの日とオーバーラップしたとのこと。
  16. ^ ペニーレインは表参道キデイランド原宿店の裏にあり、フォークニューミュージック系のミュージシャンやアイドル、音楽・ファッション関係者など、業界人の溜まり場となって、修学旅行生の観光コースにもなっていた[263][264]

出典

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参考文献

関連項目

外部リンク